法然の偉大さ、阿弥陀仏とは何か=柳宗悦著「南無阿弥陀仏」

 今日もあり おほけなくも

 仏法に「諸法無我」という教えがあります。「あらゆるものは我一人のものではない」という意味です。こうして私たちが今日も生きていけるのは、色々な因縁が組み合わさっているものであって、決して自己一人の力によるものではない。多くの人の力によって支えられているお蔭です。他力思想ですね。 「おほけなくも」というのは「かたじけなくも」「勿体なくも」という意味です。 今日、生きていけるということは、無量の恩に浴しているということで、このことに気が付けば、人の一生は謝恩の連続であろうという教えです。

 以上は、今から64年前に出版された柳宗悦著「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)からの引用ですが、この後、現在、諸々の病苦や苦悩、苦難に苛まれて逆境にいる人たちに対して、柳宗悦は「ある人は自らの存在を呪うであろうが、有為転変の習わし、そんなものは一つとして固定しておらぬ。そう分かれば、何所に執着する苦があり、楽があろう。こうして生きているそのことが勿体ないのである。だから今日生きることは、報恩の行として生かすべきである。かくして生きることの意味を教わる」と読者を励ましてくれます。

 こうした意味を理解した上でもう一度「今日もあり おほけなくも」と呟いてみるだけでも、「今日も辛いことがあっても頑張って生きていこう」と勇気が湧いてきます。

◇法然のどこが偉大なのか?

柳宗悦著「南無阿弥陀仏」 を読むと、目から鱗が落ちる話ばかり出てきます。特筆すべきことは、何故、浄土宗の開祖法然房源空が、日本思想史上稀にみる革命的な思想家であり、宗教家だったのかということを明快に示してくれたことです。

 それは、法然が著しい二つの価値顚倒(てんとう)を行ったことだと、柳宗悦は断じています。

 一つは称名の優位、もう一つは他力の優位です。

 念仏を唱える際、二つの段階があります。一つは心に仏を観ずること(観仏)、もう一つは口で仏を称えること(称名)です。それまでは、法然の師叡空をはじめ、観想念仏こそが全てで、称名念仏は言ってみれば二の次でした。それを法然は、師の教えに逆らってまでして、称名の方が優位だと引っ繰り返してしまったのです。厳しい修行をして時間をかけてやっと観仏できるようになるよりも、ただ「南無阿弥陀仏」の六文字を称えるだけで、阿弥陀仏は救いの手を差し伸べてくれるということです。そこには身分貴賤や貧富や男女など差別はないのです。煩悩の多い凡夫でも悪人でも救われるという思想です。

 となると、同時に自力でなければ解脱できない聖道門よりも、阿弥陀如来が救ってくれる他力による浄土門の道を優位に置くことになります。これまで自力の思想が優位だったのに、法然は、他力の方が優位だと引っ繰り返してしまったのです。まさに、コペルニクス的転換です。

 これらの思想がいかに過激であったか、については、南都北嶺の旧仏教から絶えざる迫害を受け、温厚な法然上人も流罪の晩年を送り、法然の主要著作物の「選択本願念仏集」の版木が燃やされたり、彼の門弟が死刑に処せられたりした歴史が証明しています。

◇阿弥陀様とは誰のことか?

 僧侶や門徒や仏教学者にとって、私が今まで書いてきたことも、これから書くことも、あまりにも自明なことかもしれませんが、私自身はこの本からは本当に多くのことを学びました。何しろ、基本的な「南無阿弥陀仏」の阿弥陀仏が何かさえ知らなかったのですから。

 阿弥陀如来は、もともと普通の人だったというのです。在俗の者を「居士」と言いますが、もしかしたら煩悩の多い凡夫だったのかもしれません。それが、真理を求め、求道に身命を捧げる「菩提心」を起こして修行し、法蔵菩薩になります。法に身を捧げる沙門となり、その沙門がついに正覚を得て(悟りを開いて)、仏になったというのです。ですから、阿弥陀仏とは西洋的な「神」とは違うのです。

 そして、浄土門で最も重要視されるのが、「無量寿経」の中にある四十八の大願で、その中でも特に「念仏の往生」と呼ばれる第十八願が重視されます。それらは法蔵菩薩が建てた願で、こう書かれています。

 「設(たとえ)、我、仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽(しんぎょう)して、我が国に生まれんと欲して、乃至(ないし)十念せんに、もし生まれずんば、正覚を取らじ」(たとえ私〈=法蔵菩薩〉が仏〈=阿弥陀如来〉と成り得るとしても、もし、もろもろの人々が心から信心を起こして浄土に往きたいと願い、わずか十声でも名号を称える場合、それらの人々がもし浄土に生まれ得ないのなら、私は仏になろうとは思わぬ)

 激烈なお言葉ですね。

 これで思い出したのが、クリスチャンの友人のことです。彼は、若い頃に葬式仏教に堕した現代仏教に絶望して洗礼を受けたのですが、晩年になって急にキリスト教徒になろうとするインテリらを批判して、「天国どろぼう」という言葉があることを教えてくれました。晩年になって死の恐怖から逃れたいがために、急に洗礼を受けて天国に行こうとする人を指すらしいのです。

 私は、キリスト教を批判するつもりは毛頭ありませんが、随分と心が狭い思想に思えます。むしろ、この「もし生まれずんば、正覚を取らじ」( 信心を起こしたもろもろの人々が浄土に生まれないのなら、自分は仏にならぬ)という誓いとも言える「第十八願」の方が大いに惹かれます。

 好むと好まざるに関わらず、仏教、それに浄土思想は、文学、美術、建築、彫刻、音楽、芸能など日本文化に多大な影響を与え、何と言っても、我々の先祖である日本人のDNAに染み込んだもので、逃れられないような宿命にさえ感じます。

 どんな凡夫でも阿弥陀如来は最後まで衆生を見捨てずに救ってくれるという思想は、我々の心を穏やかにしてくれ、勇気づけてくれさえします。「天国どろぼう」だの「信者以外お断り」といった思想ではないのですから。

 私は他宗を排撃したり、布施を強要したり、信徒にならなければ地獄に堕ちると恐喝のように折伏する一部の宗教や宗派に与するつもりは全くありません。ですから、これをお読みになった皆さんにも、日本仏教の浄土思想を見直してもらうよう強制するつもりは全くありません。

 ただ、自分自身が共鳴、共感し、もう少し勉強したいと思っただけなのです。もし、これを読んで皆さんも共感されたのでしたら、この本を手に取ってみたら如何でしょうか。

  柳宗悦著「南無阿弥陀仏」 では、浄土真宗の開祖親鸞よりも時宗の開祖一遍上人について、かなりの紙幅を費やしておりましたから、またいつか、一遍について書くと思いますが、取り敢えず、茲でひとまず擱筆します。

近代三大茶人と「佐竹本三十六歌仙絵」

 京洛先生です。

 ああたねえ、お城なんかに行って喜んでおられるようですけど、日本人の究極の趣味は、歴史的に見ても、茶ですよ、茶。そんじょそこらの100円ショップで買ってきた安物茶碗で飲む出涸らしの茶のことではなくて、茶道の茶のことです。

 道具も超々一流のものを揃えなければなりません。そもそも、茶碗は、ああたが好きな城一つが、かるーく買える曜変天目でなければいけませんなあ。茶は、せめて宇治抹茶の「天の原」。お供は上菓子屋「松寿軒」の薯蕷饅頭(笑)。お香は、中村宗匠も嗜まれる志野流。志野焼茶碗じゃありませんよ(笑)。生け花は「表」から調達してもらい、掛け軸は「佐竹本三十六歌仙絵」に決まってます。

 えっ?何?「佐竹本」を知らないとな? 旧秋田藩主佐竹侯爵家に代々伝わってきた鎌倉時代の三十六歌仙の肖像画です。えっ? 三十六歌仙も知らない? 藤原公任(きんとう)が、飛鳥時代から平安時代にかけて活躍した歌人たちの中から選んだ柿本人麻呂、小野小町、在原業平ら三十六人の歌詠みのことです。

 今、京都国立博物館で「佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」が開催されていることを知らないでしょう(11月24日まで)。近代三大茶人の一人、益田鈍翁(どんおう)が大正8年(1919年)12月、東京・品川の自邸「応挙館」に当代一流の茶人と財界人と古物商らを集めて、絵巻を切断してバラバラにして、籤引きで、買い手を差配したのでした。

 佐竹本は大正6年にある実業家に売却されましたが、その実業家も経営に失敗して、再び売却せざるを得なくなり、海外流出を恐れた数寄者(すきしゃ)たちが、まとめて買うには高額過ぎるため、分割購入することにしたという背景があります。

 主催者鈍翁こと益田孝は、三井物産初代社長、物産の社内誌だった「中外物価新報」が今の日本経済新聞になったことは知る人ぞ知る話。その趣味、茶の腕前は「千利休以来の大茶人」と言われるほどですよ。

 近代三茶人とは、他に、「電力の鬼」松永耳庵と横浜の生糸商、原三渓でしたね。

 著作権の関係で「佐竹本」などの写真を渓流斎ブログに掲載できないのが残念です。せめても、ということで、京都国立博物館のサイト 「佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」のリンクを貼っておきます。

そうそう、今、思い出しました。三十六歌仙の一人に平安時代後期に活躍した坂上是則(さかのうえのこれのり)がおります。あの坂上田村麻呂の子孫とも言われてます。

 この坂上是則を題材にして、江戸時代の浮世絵師鈴木春信が「坂上是則 障子切張」を描いているんですよね。これも知る人ぞ知る話。

 そして残念ながら、これも著作権の関係で、渓流斎ブログに写真を掲載できませんので、貼ってあるリンクをご覧ください。

中村京蔵独演会「舞踊の夕べ」=「現在道成寺」と「京鹿子娘道成寺」を鑑賞してきました

 昨晩は久しぶりに舞台を鑑賞してきました。

 歌舞伎役者では今や唯一の友人とも言える中村京蔵丈の独演会「舞踊の夕べ」です。かつて、演劇記者の頃は月に数回は訪れていた東京・半蔵門の国立劇場(小劇場)にも久しぶりに足を運びました。

 半蔵門駅からこの国立劇場に行く途中に、2メートルは超す高い塀に囲まれた広大な敷地の超豪邸がありましたが、どなたのお住まいなのでしょうか?今まで気にも留めていませんでした(笑)。近くに警察官が常時待機する駐屯所があるので、民間人ではないような、ある程度想像はつきますが…。

おっと、中村京蔵丈の舞台の話でした。演目は「現在道成寺」と「京鹿子娘道成寺」の道成寺もの二題。解説によると、「現在道成寺」は、寛延2年(1749年) 正月、江戸・中村座で中村粂太郎が長唄曲として初演されたそうです。後に、長唄から派生した荻江に移されたということで、今回も唄は、荻江。私の拙い記憶では初めてでしたが、長唄との違いが分りませんでした。

 おっと、主役は傾城清瀧役の京蔵さんでした。花道に近い私の席のすぐ近くで「京屋!」と大向こうさんが叫ぶので、一瞬びくっとしました。舞踊の振り付け、所作について知ったかぶりをしたくないのですが、一瞬、江戸時代に戻ったような風合いを感じました。

 25分間の休憩をはさんで始まったのが、歌舞伎の演目ではしばしば取り上げられる有名な「京鹿子娘道成寺」。またまた解説によると、宝暦3年(1753年)3月、江戸・中村座で初世中村富十郎が初演したといいます。「女形舞踊の最高峰」ということで、まずは、歴代幹部の血統しか主役は張れません。

 それを、師中村雀右衛門を崇拝する京蔵さんは「道行」から烏帽子を付けた「白拍子の舞」、赤の衣裳から浅葱の衣裳に代わる「町娘の踊り」、三つの笠を使った「花娘」など、最後は「鐘入り」まで、67分間、見事に白拍子花子を演じ切りました。特に、最後は、鐘の上に登って、見えを切る美しさにはぞくっときました。京蔵さんの実年齢は知ってますが、若い20歳代に見えましたよ。

 六代目(と言えば分かりますね)の曾孫の尾上右近が能力(のうりき=寺男)白雲を演じる豪華さ。観客席は満員でした。舞台が成功裡に終わって、京蔵丈も一安心でしょう。私も久しぶりに舞台を堪能しました。

浄土教の系譜=法然ー親鸞ー一遍は三者で一人格

 前々回に日本浄土思想に魅せられた話を書きましたが、今回はその続きです。

 書店で偶然、柳宗悦著「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)を見つけて、長年抱いていた浄土教に関する疑問が氷解したことまで書きました。その前に、美術評論家である柳宗悦が何故、宗教書を書いたのか、ということでした。

 時宗の開祖である「一遍上人絵伝」(歓喜光寺蔵)の一枚の絵を見て感銘し、一遍上人のことをもっと知りたいと思ったことがきっかけの一つだったようです。美術から宗教に分け入ったということになります。私も若き頃、キリスト教徒でもないのに、「聖書」を熟読しましたが、「救いを求めて」以外では、その理由として、西洋美術では多くの題材が聖書からの引用で、「聖マタイの召命」にせよ、「ペテロの改悛」にしろ、鑑賞する際に聖書を読んでいないと描かれた深い意味が分からなかったからでした。

  柳宗悦の場合、 この本を読むと、美術史家というより、専門の宗教評論家と言っていいくらい、あらゆる経典に目を通していることが分かります。驚嘆します。

 著書「南無阿弥陀仏」は、昭和26年から29年にかけて「大法輪」(昭和9年から毎月発行されている仏教総合誌)に連載されたものを加筆して昭和30年に単行本として出版されたものです。何といっても、若い人向けに書かれているので、文章が分かりやすいのです。柳は「例えば、『依正(えしょう)二報』とか『化土に二種あり、一には疑城胎宮(ぎじょうたいぐ)、二には懈慢辺地(けまんへんじ)』などと書いても、一般の若い読者には何のことか全く通ぜぬであろう。たとえ辞書や解説に頼ったとて、何故こんな表現を用いずば真理を伝え得ないのか、むしろ反感さえ起こさせるであろう」とまで書いてます。

 この本の画期的なことは、執筆当時、文献もほとんどなく、信徒以外はほとんど顧みられていなかった一遍上人にスポットライトを当てたことです。語弊がある大雑把な言い方ですが、浄土宗を開いた法然→それを止揚(アウフヘーベン)して浄土真宗を確立した親鸞→さらにこの二つの宗教を統合して時宗として浄土教を完結させた一遍、という捉え方です。これは優劣ではなく、誰一人欠けても日本の浄土思想は完成しなかったという考え方です。まるで、正ー反ー合の弁証法的思考みたいですが、3人の違いについてはこの本に沿って、 追々明らかにしていくつもりです。

 柳宗悦は、法然、親鸞、一遍の三者を一者の内面的発展として捉え、「3人ではあるが、一人格の表現として考えたい」と論考を進めます。ですから「今までは浄土宗の人は、とかく真宗のことをよく言わぬ。恐らく嫉妬の業であろうか。また、真宗の人は、自分の方が浄土宗より進んだものだという風な態度に出る場合が多い。恐らく高慢の業によるものだろう。しかし、法然なくして親鸞なく、親鸞なくして法然の道は発展せぬ。それで二者はむしろこれを一人格の表現と見る方がよい。宗派に囚われると、どうもそういう見方が封じられてくる」とまで主張しています。

◇西山義の哲学的深さ

 法然の入滅後、浄土宗は大きく五派に分流します。長西の「諸行本願義」と幸西の「一念義」は、祖師の意に悖るものとして排せられ、隆寛の「多念義」は途絶え、今日残るのは聖光坊弁長の鎮西派と 善慧房証空の西山派の二流です。「中でも鎮西が本流を相承し、今日浄土宗といえば(知恩院総本山の)鎮西派を意味するこに至った。これは恐らく、鎮西の流れに有能な中興の祖が輩出したのによるのと、徳川家の菩提宗(増上寺など)となって繁栄を来したがためであろう。しかしこの派において説く『二類往生』の考え(念仏に非ざる行にも往生を認めるという立場)は如何なものだろうか。純教義の上から見ると、鎮西よりもむしろ西山義の『一類往生』(念仏の義のみ往生を認める)の方が、一段と祖師の原意を発揚したものと思われてならぬ。その西山の教学には一層の哲学的深さがあるといえるであろう」(58ページ)と、柳宗悦は語っています(小生が一部、寺院名を挿入)。

 この箇所は、西山浄土宗安養寺の村上住職も大喜びするのではないか、と読みながら思ってしまいました。

 ちなみに、時宗の開祖一遍は、浄土宗西山派の祖、証空の弟子の聖達(しょうたつ)の弟子に当たります。証空の孫弟子です。ということは、時宗は、浄土宗の中でも西山義の影響が強いと言えます。

 浄土真宗について、柳宗悦は「人も知る親鸞上人を開祖とする。彼自らは一宗を起こす意向はなかったであろう。偏えに師法然の教えを守ろうとしたのである」とはっきりと書いています。その一方で「この真宗は一時衰えを見せたが、足利時代に蓮如上人が出づるに及んで、宗勢とみに栄え、ついに念仏門中比類なき檀徒の数を得、寺院の数を増し、巨大な一宗となって今日に及んでいる。…この派に妙好人が引き続き現れる事実は看過することができぬ。この意味で、祖師法然の志を最も正しく継いだものといえよう。浄土真宗たる所以である」とまで分析しています。

 この後、本書では、法然が選択した「三部経」とは何か。その中の「第十八願」が何故、最も重要で大切なのか。そもそも南無阿弥陀仏とはどういう意味なのか。念仏とは何か。何故、法然は仏教を超えて日本思想上も最も偉大な革新的な思想家といわれるのか。…などと具体的に核心の部分に入っていきます。

(つづく)

宇都宮探訪は満点でした=大谷観音、大谷石地下採掘場、二荒山神社、松が峰教会、宇都宮城址

10月26日(土)に、宇都宮大旅行を挙行致しましたので、今日はそのお話です。

皆様ご案内の通り、小生の趣味は、全国、いや全世界の城巡りと、寺社仏閣参りでしたね。

 どういうわけか、遠いようで近い宇都宮は一度も行ったことがなく、ということは親藩の宇都宮城址にも行ったことはありませんでした。同じ栃木県でも、那須や日光は仕事や遊びで何十回も行ったことがあったのに、宇都宮は御縁がありませんでした。

 そんな話を宇都宮出身の栗原氏に話したところ、今回、案内役を快諾してくれたのです。それがこの夏のことで、さすがに、真夏の猛暑はとても大変なので、9月に延期したら、雨やら台風やら伸び伸びとなり、10月26日にやっと実現したわけです。

平和観音 昭和23年から29年にかけて彫刻され、昭和31年に開眼供養が行われました

 ということで、城址見物ということでしたが、「どうせ宇都宮まで足を運ばれるのでしたら、お任せください。名所観光地巡りもしませう」ということで、栗原氏のお薦めで、まず宇都宮駅に着いて買ったのが、「大谷(おおや)観光一日(バス)乗車券」、1750円でした。バス代金(往復900円)と大谷観音の拝観料(400円)と大谷資料館の入場券(800円)付きで、途中下車もできますから「350円以上もお得」という触れ込み付きです。

 確かに、これは便利で安い。皆様にもお薦めです。

 宇都宮駅からバスで30分ほどで、大谷観音前に着き、まずは平和観音を参拝。高さ 27メートル。東京芸大の飛田朝次郎教授の下で、昭和23年から29年にかけて6年間、地元の大谷石(おおやいし)で彫られ、昭和31年に、日光輪王寺門跡・菅原大僧正により開眼供養が行われたという有難い観音様です。

 栗原氏は小学校の頃に遠足で来たことがあり、それ以来行ってないので、「半世紀以上ぶりだなあ」と一人で感慨に耽っておりました。

大谷観音(大谷寺)

この平和観音からほど近いところにあるのが、大谷観音(大谷寺)です。平安時代の810年ごろに空海が開基したと伝えられ、院内の石壁に彫られた千手観音像は、日本最古の石仏と言われ、空海の手によるものと言い伝えられています。

大谷観音 この驚くべき自然の彫刻

 寺院内は写真撮影禁止でしたが、このほか、釈迦三尊、薬師三尊、阿弥陀三尊の石仏も彫られています(重文)。大分県の臼杵麿崖仏と並び、「東の麿崖仏」と言われるそうです。これは一見の価値、いやご参拝する価値がありました。

大谷寺の弁財天

大谷寺は空海の開基ということでしたら、当然、真言宗なのですが、現在は天台宗の寺院ということになっていました。栗原氏も「知らなかった…」と頭をかいておりました。

大谷石採掘跡

大谷寺から歩いて、5~6分で、大谷石の採掘現場です。

NHKの「ブラタモリ」でもやっていましたが、そのドデカサは現地に行かなくては分かりませんね。テレビでは分かりません。その巨大さに圧倒されました。

大谷石は凝灰岩で、主に全国の家屋の「石垣」として使われましたが、確かにいくら採掘してもなくならない感じでした。

大谷資料館にある地下採掘場

 大谷資料館の地下採掘場に潜りました。

地下採掘場は、戦時中、戦闘機「疾風」が組み立てられていたとは

戦争中は、軍需工場としても利用されたようです。

地下採掘場は高さ60メートルだとか。まるで「地下神殿」でした

 とにかく、その規模の大きさには唖然としました。薄暗い地下採掘場は、この日の気温10度。まるで「地下神殿」のようでした。雨水が溜まった池みたいな所(立ち入り禁止)もありましたが、深さは30メートルといいますから、驚きです。日本じゃなくて異国にいる気分でした。

 ここは、十分、「世界遺産」にしてもいいと思います。

 これだけ、広くて神秘的だと、映画やテレビやプロモーションビデオなどのロケ撮影として使われているようです。このほか、コンサートや結婚式まで挙行されています。

 私の世代ですと、映画は薬師丸ひろ子主演の「セーラー服と機関銃」がここで撮影されたんだとか。私は見てませんけど(笑)。

二荒山神社では「菊水祭」が行われていました

バスで市内中心部(馬場町)にまで戻り、二荒山(ふたらさん)神社に参拝しました。この二荒(ふたら)を音読みすると「にっこう」、つまり日光になるわけですね。

この日は、神社の菊水祭が始まったばかりでした。このお祭りの写真を撮って安心してしまい、家に帰ったら、二荒山神社の本殿を撮影することを忘れていました(笑)。しっかり、お参りしたんですけど。

 駄目ですね。でも、この全国的に有名な神社も、足を運んでみると、意外に敷地が狭いような感じを受けました。

 そうそう、ここには、与謝蕪村の句碑もありました。蕪村は大坂生まれで京都を拠点に活動したので、わざわざ、京都から宇都宮在住の知人の俳人を訪ねに来たみたいでした。

二荒山神社近くのビル地下にある餃子専門店が並ぶ「来らっせ」

 時計の針はもう2時を過ぎており、お腹ペコペコです。

 栗原氏は、宇都宮名物の餃子を食べさせてくれました。

 ビルの地下1階にある「来らっせ」には、常設店舗と日替わり店舗と合わせて10軒ぐらいの餃子店がありました。

これが噂の名物「宇都宮餃子」

 何となく、屋台の雰囲気で、色んな店舗の餃子を楽しむことができるのです。

 中に柚子が入った餃子もあり、どれを食べても美味かったです。入場前は短い行列を並び、テーブル席が満員で、カウンター席でした。観光客も多い感じでした。

 宇都宮餃子は評判通りの味でした。

1932年竣工。「全身」大谷石の松が峰教会

 腹ごしらえもできたので、店舗から15分ほど市役所の方向に歩くと宇都宮城址があるということで、「いざ出陣」。

 その前に、その途中にある松が峰カトリック教会を訪れました。地元の大谷石を使って1932年に竣工されたということで、中にはパイプオルガンもあり、音響効果も抜群だという話です。

 宇都宮市は昭和20年7月に米軍による空爆を受けて、市の半分以上が焼失したそうです。この教会も戦災に遭い、戦後復興されました。

 米軍による空爆で、市民の620人以上が亡くなり、1128人以上が負傷したという記録が残っています。

ついに来ました。宇都宮城!

 教会から歩いて10分ほどで、やっと宇都宮城址に到着しました。

 打ち震える感動です。大袈裟ですが、(復元された)櫓を見ただけで感激しました。

櫓=清明台

この宇都宮城にこうして櫓が復元されたのは、平成元年から本丸城跡発掘調査が行われた以降のことで、栗原氏も「子どもの頃は、なーにもなかったので、宇都宮が城下町だったとあまり意識しなかった」と仰るではありませんか。

 現に宇都宮市観光交流課が企画するパンフレットには、「宇都宮城址」の「城」のかけらも案内していないんですからね。

 小生のような城巡りファンとしては、「勘弁してくれよ」と言いたくなりました。

幕末の慶應年間の宇都宮城、この後、戊辰戦争で、土方歳三軍などによって大半が焼失

 それでいて、宇都宮城址公園には立派な資料館もあり、宇都宮城の立派なパンフレットは、宇都宮市教育委員会文化課が製作発行していました。教育委員会文化課と観光交流課は、同じ市役所でも接点がないのかもしれませんけど、もっと連携しなければいけませんよね。

 宇都宮城は、平安時代後期の11世紀に築かれたといいますから、歴史があります。

 鎌倉時代から宇都宮氏の居城になりましたが、同氏の名前を取って、地名になったということでしょうか。宇都宮は、一宮(いちのみや)=二荒山神社がなまったという説もあるので、鶏が先か、卵が先か、みたいな話ですね。

宇都宮城本丸跡の城址公園で、翌日行われる流鏑馬の予行演習をやってました

宇都宮が城下町として大きく発展したのは、元和5年(1619年)、本多正純が城主になってからですが、正純は謀反の嫌疑をかけられて改易され、出羽に流罪となります。これが「釣天井事件」などと呼ばれて講談にもなりました。正純は幕府の老中にまで出世し、権勢をふるい、家康亡き後、二代将軍秀忠や側近の土井利勝(佐倉藩主~初代古河藩主、老中・大老)らの怒りや反感を買ったと言われます。

 とにかく、宇都宮城は、徳川将軍が江戸から、家康・東照大権現を祀った日光に参拝する際の最後の宿泊地で、本丸は将軍の居住地となり、宇都宮城主は二の丸で居住していたという話ですね。

 そんな親藩の宇都宮藩も幕末の戊辰戦争では、寝返って新政府側に立ったため、幕臣の大鳥圭介や新撰組の土方歳三ら率いる軍が攻め込み、この戦で城内の建築物は焼失したといいます。つまり、明治以降から平成までなーんにもなかったことになりますね。

最後の締めは、宇都宮アーケード「オリオン商店街」にある「かんちゃん」で

宇都宮探訪の最大の目的だった城巡りも終わって、夕方から、市内の古いアーケード商店街にある「かんちゃん」で反省会。

 栗原氏は、実は、宇都宮出身ながら、生活したのは高校卒業までで、この後、東京の難関大学に進学して就職したため、「地元の友人とはバラバラになってしまった」と言います。それでも「宇都宮の人口は30万人、北関東一の都市ですよ」「雪はあまり降りませんが、女性の肌が白くて綺麗です」と郷土愛を忘れていませんでした。

 宇都宮出身の有名人として、ジャズの渡辺貞夫、歌手の森昌子、女優の山口智子(栃木市でした)、作家の落合恵子、漫談家の東京ぼん太、政治家で作新学院の創立者の船田一族、(元巨人投手の江川卓は、作新学院出ですが、出身は福島県いわき市のようでした)陸軍大将だった小磯国昭らがいますね。

 実は、栗原氏は、歩き過ぎたのか、途中でアキレス腱を痛めて、歩きづらくなってしまいました。途中で少し休んでもらいましたが、事前準備と合わせて、最後までガイド役として最善を尽くして頂きました。責任感の強い方です。栗原氏とは不思議な御縁で、こうしてお世話になってしまいましたが、「ここは私の地元ですから、私に花をもたせて戴く喜びを味わわせてください」と変な日本語を使われて、結局、すっかり御馳走になってしまいました。

 栗原氏のおかげで、宇都宮探訪はもちろん、百点満点でした。本当に有難う御座いました。

日本浄土思想に魅せられて

 やはり、「ご縁」とは不思議なもので、このブログを通して面識を得ました京都市左京区にある浄土宗青龍山安養寺の村上純一住職とは、何かの縁(えにし)でつながり、御指導、御鞭撻を賜っております。

 もし、村上住職と知り合わなかったら、これほどまでに日本浄土思想に興味を持たずに生涯を終えたと思います。

 特に、浄土宗に関しては、根本的に誤解しておりました。自らの不勉強を晒して告白しますと、浄土宗とは、只管「南無阿弥陀仏」を唱えて、極楽浄土に往生することを願う宗教とばかり思っておりました。成仏することが目的の宗教です。柄の悪い言い方をすれば、俗世間や現実の生活よりもあの世の方が大切ではないかと誤解しておりました。

 私が一時期、仏教思想から離れたのは、仏教は現実世界を苦界(穢土)とみなし、四苦八苦と煩悩にあふれ、これを克服するには、苦行と修行を経て、悟りの境地に達しなければならないし、解脱もできないという思想でした。

 私は弱い人間ですし、お酒も飲み、肉食します。千日回峰行など苦しい修行に耐えることはできません。日々の生活の中で、腹を立てることが多く、悟りを開くことなど無理です。それに、凡夫である在家の人間としては、仙人のように霞を喰って生きていくわけにはいかず、仕事をしなければなりません。あの世よりも生きている間の現実の生活の方が大切です。

 人生が苦であるのなら、そのまま抱えて、極楽浄土に行けなくても結構です、という生意気な態度でした。そもそも、「人生とは苦なり」と断言する仏教は、いかにもしんどい。

 そのような疑問を抱えて、今夏、村上住職にお会いしたところ、「浄土宗にも現世利益がありますよ」とポツリと仰るではありませんか。その時、意味が分かりませんでしたが、後に、村上住職から「どうか法然上人の『選択本願念仏集』をお読みください。いきなり原文にぶち当たると大変かと存じますから、解説付きの現代語訳からお始めになるよう衷心からお勧め申し上げます。…どうかご精進ください」というメールを頂き、これに刺激を受けて、ここ1カ月間近く、少しずつ関連書籍も読んでいくうちに、ほんの少しだけ理解できるようになったのです。

 まず、現世利益(げんぜりやく)は、「げんせいのりえき」と読むと、何かお金儲けのことばかりに思えますが、仏教の場合は、何よりも、魂の救済と心の穏やかさを得るということが分かりました。勿論、「商売繁盛」やら「出世願望」やら「子宝に恵まれますように」といった現世利益もありますが、宗教ですから、お金では買えない「心の平安」が一番の現世利益になります。(と、私は得心しました)「安心立命(あんじんりゅうみょう)」です。

 浄土宗の場合、その上で(つまり、現世利益を肯定した上で)、心から「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えて、浄土への往生を願うという宗教でした。たった6文字ですから、千日回峰行のような「難行」ではなく、「易行」です。それでも、阿弥陀如来は、どんな凡夫・悪人でも最後まで見捨てずにお救い(済度)してくださるというのです。

 宣化天皇3年(538年)、日本に仏教が伝来してから600年以上は、仏教は皇室と貴族のためのものでした。それが平安末期になって、庶民にまで開放したのが法然坊源空上人でした。まさに、身分格差と男女の枠を乗り越えた革命的でコペルニクス的展開でした。

 では、なぜ、法然(1133~1212年)が、仏教を超えて日本思想史上最も偉大な思想家・哲学者といわれるのか。浄土教は、何も法然が考案したわけではなく、法然が選択した三部経( 「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経 」 )などの経典として我が国に伝わり、空也を始め、「往生要集」を著した恵心僧都源信や融通念仏宗の開祖良忍らの先達がいました。なぜ、 天台宗の比叡山で修行をしていた法然が自ら宗派として独立せざるを得なかったのか?

 法然とその弟子最長老の信空没後、浄土宗は色々な分派に分かれたが、なぜ、弁長の鎮西派と証空の西山派が現在も残る二大宗派になったのか?

 法然の忠実な弟子だった親鸞は、自ら浄土真宗という新教団をつくる意志があったのかどうか?

 時宗の開祖一遍上人は、浄土宗の流れを汲む。となると、鎮西派と西山派と時宗の違いは何か?

 そもそも、南無阿弥陀仏とは何か、どういう意味なのか?

 ーそんな愚問に取りつかれていたところ、先日、偶然にも、本屋さんで、それらの疑問にほとんど全て答えてくれる本に出合ったのです。昭和30年(1955年)に発行された柳宗悦著「南無阿弥陀仏」という本(岩波文庫)です。

 柳宗悦といえば、民藝運動を推進した美術史研究家、美術評論家じゃありませんか。何で、美術専門家の彼が宗教書を?

(つづく)

「宅配便」詐欺メールには十分にご注意を

 あちゃー、ついに引っかかってしまいました。

 詐欺メールです。

 随分、気を付けていたつもりなんですが、つい、クリックしてしまいました。

 詐欺は、普通のメールに、ではなく、「メッセージ」といって、電話番号で送り付けることができる「ショートメール」でした。

先日、そのスマホの「メッセージ」に「お客様宛にお荷物をお届けにあがりましたが、不在のため持ち帰りました。下記よりご確認ください」という丁寧な文面のショートメッセージがあり、「宅配便かな」と思い、その「確認のサイト」を反射神経で、間違えてクリックしてしまったのです。

 しかし、すぐにサイトには繋がらず、その趣旨の画面が出てきたので、ここで初めて詐欺メールだったことが分かったのです。

 ヤバイ!

 もしかしたら、このままだとクレジットカードの番号やら個人情報が盗まれるのではないかと心配です。

 送り主は、電話番号「090-2755-1952」でした。これが宅配便のドライバーさんだったら、安心ですが、掛け直してみたら「現在、使われておりません」のメッセージが流れるだけでした。

 やはり、騙された!

 皆さんも、同じようなショートメッセージが来たらご注意ください。

 その後、どうなったか、もし、変化があればまた皆様に御報告致します。スマホの「ウイルスバスター」をスキャンしたら、悪意のあるウイルスに感染していないようでしたので、半分だけ安心しているのですが、どうなることやら…。

 それにしても、世の中には、悪い人がいるもんですね。そんな悪人でさえ救われるのでしょうか?

 悪人こそが救われる「悪人正機説」の場合、この悪人とは、「煩悩にとらわれた凡夫」のことを指すはずです。殺人者、泥棒、詐欺師、犯罪者らを含んでいいものか?高僧に御高説を賜りたい。

京都・泉涌寺で「練り供養」

Copyright par Kyoraque-sensei

こんにちは、京洛先生です。

ラグビーが終わったと思ったら、即位の礼。国民皆が、テレビの画面に集中するさまは異常です。マスコミは煽るのが商売ですが、それに煽られている方はもっと冷静に考えて、「バカバカしい」と思えないのですかね。

台風の被災者を考えてパレードを延期したのは天皇陛下の御意向と安倍首相の判断で賢明な選択だと思いますが、ラグビーにせよ、即位の礼にせよ、テレビの報道の仕方は異様でした。

 本来はラグビーなんかで浮かれていないで、「台風の被害で苦労している人のために、被災者にもっと援助をしないといけない」と情報発信する責務がありますが、思慮分別の無い軽薄メディアには無理でしょうね(笑)。

 ワタシのような天邪鬼はいつの時代でも少数派ですが、「ダイバースティ!多様な時代、多様な時代!」と言われているというのに、実態は「画一化の時代」ですよ。

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 これでは安物の造花の花を振り回して、喜んでいる北朝鮮と同じですよ(笑)。あちらは「演技でやらされている」と自覚して、反発して人もいるようですが、日本は「本気」ですから、もっと怖いですね。ラグビーなんかは「優勝」もしていないのに、記者会見をセットして、それを報じるとは「恥を知れ」ですよ。

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ところで、10月20日(日)は、「練り供養」、正式には「聖衆來迎練供養会式」が、東山のふもと“天皇の御寺(みてら)“である「泉涌寺」の塔頭の一つ「即成院」でありました。

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 「練り供養」は、奈良の「当麻寺(たいまでら)」で、中将姫の命日である旧暦3月14日(新暦4月14日)に行われたのが始まり。それに習って、全国各地のお寺で、春に行われるのが一般的です。この「即成院」は毎年秋の10月の第三日曜日に行われています。

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阿弥陀如来が25菩薩を引き連れ、金色の仮面を被って金襴の豪華な装束を着て、境内に作られた仮設の50メートルの「来迎橋」の舞台の上を練り歩きます。

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  仮面をつけているので、付き添いの人がつかないとスムーズに前に進めません。文楽人形の人形と遣い手に似た雰囲気もありますね。

 お練りのバックには、笙や竜笛の音色が響き渡り、平安期の来迎思想の一端を今の世に伝え、醸し出していると言えます。

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 午後1時から始まりましたが、意外にも観光客が少なく、落ち着いて、ゆっくり2時間ほどの極楽浄土絵巻を拝まさせて頂きました。

 そうそう、東京では、来年5月5日、貴人も御存知の世田谷区奥沢の浄土宗「九品仏浄真寺」で、江戸時代から続く「練り供養」が行われます。

 正式には「二十五菩薩来迎会(おめんかぶり)」といい、3年に1度しか行われませんので、またとない機会ですよ。

 以上

?「ジョーカー」は☆

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua 

週末の休日。「『バットマン』の最強悪役の誕生秘話」「ヴェネツィア国際映画祭最高賞(金獅子賞)受賞)」という理由だけで、何の予備知識なく、予告篇も見ないで、今話題の映画「ジョーカー」(トッド・フィリップス監督作品)を観て来ましたが、いただけませんでしたね。

 一人で観に来ていた一つ隣の席に座っていた若い女性も、後半でしたが、途中で抜け出して、戻って来ませんでした。122分も長過ぎました。私も、何度も退席したくなる誘惑に駆られました。

 コミックのフィクションの世界で、脚本は書き下ろしとはいえ、ジョーカーこと道化師アーサー・フレック(ホアンキン・フェニックス)は、地下鉄で3人を射殺し、病院で1人を殺害し、自宅アパートで1人殺して、テレビ局で1人射殺します。誰を、どんなシチュエーションで、どういう理由で?ということに関しては内容に触れるので、茲では書きませんけど、それにしても常軌を逸してます。

 製作者(プロデューサーやディレクター)と、この作品を金獅子賞に選んだヴェネツィア映画祭の審査員の気が知れませんし、この作品を観て拍手喝采を送る観客にも空恐ろしさを感じます。

 虐げられた人間に対する同情と、人の命を軽々しく扱う非道さに対するアンチテーゼがあるのかもしれませんけど、心ある人には薦められませんね。見終わっても、しばらくの間ずっと後味が悪く、「注目度ナンバーワン」とコマーシャリズムで煽る業界には暗澹たる思いで一杯になりました。

 ま、映画ですから、ここまで目くじら立てる必要はないのかもしれませんけど…。

「荘子」の凄さを痛感しました

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 中国の思想「荘子」(岸陽子訳、徳間書店)を先日、読了しましたが、もうちょっと凄い本かと思っていたので、ほんの少しだけ期待外れでした。

 同じ老荘思想でも、「老子」は、いささか形式的な道徳臭があり、「荘子」は少し皮肉が効き過ぎ。むしろ、「列子」が教訓的な逸話が多くて、読み応えがあり、一番面白かったでした。

 中国の古典には、現代でも使われる色々な言葉の「語源」になっていますが、「包丁」が、この「荘子」の出典だったとは、初めて知りました。「包」とは料理人のことで、「丁」は人名。「荘子」の「養生主(ようせいしゅ)」の中に出てきますが、本来は、「名コックの丁さん」という意味。刃物使いの名人ということから、いつしか日本では刃物の代名詞ホウチョウになったといいます。

 「荘子」では、「無用の有用」や「胡蝶の夢」、「無心の境地」、「無知の知」などひと捻りもふた捻りもある有名な思想が展開されますが、意外にも孔子に対する批判に溢れています。

 孔丘、つまり孔子について、「博識ぶって聖人を気どり、尊大な身振りで世の人々を幻惑し、やたらに悲壮がって名を売り歩く手合いだ。道というのはそんなさかしらを捨て、外形を忘れてしまわなければ体得できるものではない。天下国家を論じる暇に、少しは我が身を振り返ってみたらどうだ」(「外篇」)と、野良で働く老人に語らせ、「雑篇」では、盗賊の頭、盗せきに「あの魯の国の偽君子か。…奇妙な言葉をあやつって、文王、武王を担ぎまわる。飾り立てた冠と、牛革の帯という勿体ぶった服装で、有害な無益な饒舌をもてあそぶ。働きもせず飲み食いする。自分勝手な規準で是非善悪を論じたてて、諸国の君主をたぶらかし、学者たちを脇道に引っ張り込む。孝行などと下らんことを唱導する。それもこれも、あわよくば自分が王侯貴族になりすまそうという魂胆だからだ」と語らせています。

 「論語」を人生の指針にした渋沢栄一が聞いたら、さぞかし怒りまくるでしょうね。

とはいえ、これが中国思想の懐の深さかもしれません。許容の深さというか、「権威」をあざ笑う庶民の蟷螂の斧のようなささやかな抵抗といえるかもしれません。

 荘子を書いたとされる荘周は、仕官を断り続けて、襤褸を着て、食事にも困る極貧生活を送っていたとされますから、特にそう感じます。

 やはり、最初に書いたことを訂正して「凄い本」だと言わざるを得ませんね。