騎西城と古河城に行くのが楽しみ

 4月27日(土)からの10連休はどう過ごそうか、楽しみながら予定を練っております。人混みが嫌いなので、あまり出掛けたくないのですが、色んな事情がありますから、そうもいきませんね(笑)。

 まず、大型連休を「ゴールデンウイーク(GW )」と命名した映画業界に敬意を表して映画は1本ぐらいは観るつもりです。有力候補は、先週金曜日の日経夕刊の映画評で、五つ星に輝いていたイタリア映画「幸福なラザロ」です。

 次は、自分の部屋の片付け。生前整理のつもりで、断捨離をやってみようかと思ってます。

 あとは、「城歩き」を予定しています。「城歩き同好会」の皆さんと一緒に5月4日、赤羽村長に関係が深い埼玉県加須市にある騎西城跡に行くことは決定しています。騎西城は、康正元年(1455年)、古河公方の足利成氏(しげうじ)が、関東管領の上杉勢を攻略した地として最初に文献に登場し、江戸初期の寛永9年(1632年)に廃城され、姿を消します。

関宿城

 4月7日に千葉県野田市にある関宿(せきやど)城跡を訪れ、このブログにも書きましたが、関宿城を開城したのは梁田氏で、古河公方からの命令でしたね。

 そこで、どうしても、古河公方~古河城は外せないということで、10連休の中のどこかで、一人で古河に行ってみようかと思っています。

 古河市は茨城県です。40年近く前、運動部記者だった頃に、取材で古河サッカー場を訪れたことがあります。当時は古河第一高校が、全国制覇するなど強豪校として名を馳せていたのです。でも、当時は今のようにお城にそれほど興味がなかったので、古河城跡は訪れませんでした。

 この古河市の歴史を調べてみると驚くほど面白いですね。まず、古河公方とは何かと言いますと、京都に室町幕府を開いた足利尊氏が、関東勢力の「目付け」として「鎌倉府」を置きます。そのトップの鎌倉公方に任命 (1349年) されたのが尊氏の四男基氏(もとうじ)でした。しかし、足利基氏はまだこの時、9歳でしたので、政務の補佐役として関東管領が実務を行いました。当初は、斯波氏、上杉氏、畠山氏、宇都宮氏が関東管領でしたが、次第に上杉氏の勢力が強大となり、他氏を排除して独占します。

 やがて、鎌倉公方の足利氏と関東管領の上杉氏は対立し、1439年に永享の乱が起こり、関東管領の上杉憲実(のりざね)が第4代鎌倉公方の足利持氏(あしかが・もちうじ)を自害に追い込み、鎌倉府を滅ぼします。(この上杉憲実は、「日本最古の総合大学」と言われる足利学校を再興した人物として歴史に名を残しています)

 その後、30年に及ぶ享徳の乱の末、持氏の遺児足利成氏(しげうじ=第5代鎌倉公方)が、鎌倉府を逃れて、古河御所に本拠を置いたため、初代の古河公方と呼ばれるようになったわけです。


渡辺崋山筆 「鷹見泉石像」(国宝) 所蔵する東京国立博物館のHPから

  話は飛んで江戸時代。渡辺崋山描く「鷹見泉石像」は、国宝ですし、美術の教科書にも掲載されているので、御存知のことでしょう。でも、この鷹見泉石なる人物が何者なのか、案外知られていない。

 控えい。この方は、蘭学者ですが、古河藩の家老を務めた人でした。また、藩主土井利位(どい・としつら)が大坂城代を務めていた時に、大塩平八郎の乱が起き、鷹見自身も乱の鎮圧に当たったというのです。(土井家は代々、幕府の要である老中も務める名門大名)えーー、知らなかったですね。どうも、日本史の教科書では、乱を起こした人は取り上げますが、鎮圧した人は教えてくれません。例えば、島原の乱天草四郎時貞は誰でも知っていても、鎮圧した松平伊豆守信綱(老中、川越藩主、埼玉県新座市の平林寺に墓所あり)となると、知らないでしょうねえ。

 古河城は、日光街道の要所にあり、将軍が日光東照宮に参社する際、滞在する重要な拠点でもありました。江戸城を出たお殿様は、岩槻城、古河城、宇都宮城の順で宿泊しました。

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