法華経とは何か?=田村芳朗著「日蓮 殉教の如来使」

 「ヤクルト1000」が売り切れ続出というニュースを思い出した昼休み、新橋演舞場近くで、ヤクルトおばさんを発見したので、注文してみました。ヤクルト1000が結構、ずらっと例の乳母車のようなボックスカーに並んでいたからです。

 そしたら、おばちゃん、「あら、すみませんね。ここにあるの全部、この辺の予約なんで、売り切れなんです。会社も早くもっと量産してくれたらいいんですけどねえ」と平謝りでした。

 実売価格1本140円(宅配向け)ということですが、ネットで500円以上で転売しているらしく、日本人のマナーが世界に知られてしまっております。

 さて、田村芳朗(1921~89年)著「日蓮 殉教の如来使」(NHKブックス・1975年10月1日初版)をやっと読了しました。日蓮聖人の遺文(著作や書簡など)が直接文語体のまま引用される箇所が多く出てきて、法華経というお釈迦様が最後に唱えた集大成と言われる大変奥深い教えの話ですが、難解で、何度も何度も同じ個所を読み返したりしておりました。

 驚いたことに、この本は1975年が初版だというのに、鎌倉幕府の成立を我々が学生時代に習った1192年ではなく、さり気なく1185年としているところでした。凄い先見の明があります。また、戦後30年という時期に出版されたわけですから、まだ戦中世代が40歳代以上の現役です。日蓮(1222~82年)が戦時中に国家主義(田中智学の国柱会など)として利用されたことなどに関してはツボを押さえて批判しています。

 管見によれば、鎌倉新仏教の中で、来世の浄土世界での幸福よりも、現世での利益(幸福)追求を強調したのは法然でも栄西でも親鸞でも道元でも一遍でもなく日蓮であって、その純粋さと過激さゆえ迫害されます。しかし、後世は、その時代その時代で都合良く解釈されて、利用されやすかったのではないかと思われます。新興宗教は神道系が多いのですが、仏教系では断然、日蓮宗系が多いのがその証拠なのではないでしょうか。

 しかし、またまた管見ながら、日蓮の思想哲学は、特定の団体や組織のものではなく、万人が自由に学んでも構わないと思っております。むしろ、特定の団体や組織だけのものに独占させるべきではないと思っております。

 国学者の平田篤胤に至っては、日蓮宗と浄土真宗が神社参拝を禁じたことから、日蓮と親鸞をかなり痛烈に批判しています。

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 何と言っても、釈迦牟尼仏が涅槃に入る前に説いたと言われる法華経を信奉したのは日蓮が最初でもなく、唯一でもありません。(サンスクリット語のナム・サダルマ・プンダリーカ・スートラを南無妙法蓮華経と漢訳したのは鳩摩羅什だと言われています。)

 聖徳太子の著作「三経義疏」の中に法華経を註釈した「法華義疏」がありますし、法然も栄西も親鸞も道元も日蓮も学んだ総合仏教大学とも言うべき比叡山では、法華経は必須課目で、天台本覚思想の根幹とでも言うべきものでした。日蓮より23歳年長の道元が主著「正法眼蔵」の中で最も引用した経は、法華経でした。

 何も日蓮は、釈迦の説く法華経を拡大解釈したり、曲解したりしたわけでありません。素直に解釈した結果、法華経に書かれている「他国侵逼」(しんぴつ=他国侵入)と「自界叛逆」(自国内乱)が近いうちに起きることを「予言」してしまっただけでした。実際、この天災と戦乱の時代、日本は国難に襲われます。国難とは二月騒動(名越の乱と北条時輔の乱)といった内乱と二度にわたる蒙古襲来(元寇)という他国侵入のことです。

 時の権力者は日蓮の説法に一切耳を傾けることなく、逆に日蓮は、何度も法難(受難、迫害、弾圧)に遭います。中でも、1264年に地頭の東条景信に小松原(現千葉県鴨川市)で襲撃され、頭に傷を負った「小松原の法難」(この時、日蓮の信者だった天津=現鴨川市=の領主工藤吉隆が討死)や1271年、佐渡流罪が決定した後、相模依智(現神奈川県厚木市)にある佐渡の守護代だった本間重連の館に送られる途中、龍口(たつのくち)で斬首に遭いそうなった「龍口法難」が有名です。

 こうした国難と法難、それに天変地異と疫病流行等による病死や餓死者などに多く接した日蓮は、殉教者として、宗教者としての意志を堅固にしたと思われますが、残念ながら寒さの厳しい身延山(信者になった甲州の波木井氏が土地と住居を提供)で病を得て、常陸に湯治に行く途中の武蔵国池上で志半ばで亡くなります。行年60歳。しかし、志半ばだったことが逆に弟子たち(日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持の6長老)に艱難辛苦を克服して布教に邁進する原動力になったのではないでしょうか。

 同書では何故なのか理由は書かれていませんが、鎌倉時代に日蓮宗はあれほど迫害されたというのに、室町時代になると京都町衆のほとんどが日蓮、ないし法華信徒になったといいます。(そう言えば、織田信長の本能寺も日蓮宗でした)琳派の祖と言われる本阿弥光悦も、徳川家康を支援した豪商茶四郎二郎も、それに狩野永徳や長谷川等伯まで日蓮信者だったといいます。江戸期に入っても、浄瑠璃作家の近松門左衛門や浮世絵の菱川師宣、葛飾北斎までも熱心な信奉者だったと言われます。北斎は「日蓮上人一代図会」を残しています。

 日蓮自身は、次々と押し寄せる人生の荒波と苦難のせいか、大著を残しておらず、その代わりに短編が無数に存在しているといいます。古来、どの書を基準とするか論議された結果、「立正安国論」(39歳)と「開目鈔」(51歳)、「勧心本尊抄」(52歳)を三大部、これに「撰時抄」(54歳)と「報恩抄」(55歳)を加えたものを五大部と呼ぶようです。私はまだ一冊も読んだことがありませんので、いつか読んでみたいと思っております。

 最後に、法華経とは何か? 妙法蓮華経のことで、妙法とは宇宙の絶対的真理、蓮華とは、五濁乱漫の現世でも白蓮を咲かせよという教えで、特別な修行をした出家者だけでなく、老若男女隔てなく、全ての人間が平等に救済されるという思想です。

【追記】

 最近の文献学によると、法華経は、釈迦最晩年の作ではなく、釈迦入滅後、数百世紀を後の紀元40~220年頃に成立したというのが有力のようです。

 第1の序品から第22の嘱累品(ぞくるいほん)までが原型で、第23の薬王菩薩本事品から第30の馬明菩薩品までは後世に追加されたと言われています。しかも、追加部分は、オカルト、呪術的思想や男女差別思想などがあり、後世の創作だと言われています。

 日蓮聖人は、1222年生まれということですから、今年はちょうど生誕800年の記念の年でした。