我々は一瞬のDNAの運搬車に過ぎないのか?=ノンフィクション作家S氏と新宿・思い出横丁で歓談

 昨晩は、久しぶりにノンフィクション作家のS氏と、新宿・思い出横丁の「五十鈴」で歓談しました。

 コロナの影響で、S氏と直にお会いするのは半年ぶりぐらいでした。今回は、かなりS氏の私的な話を伺ってしまい、プライバシーの侵害になってはいけないので、「S氏」ということで留めておきます(笑)。

 S氏は今月6月で何と、満81歳を迎えました。何処も病気らしいものはなく、矍鑠して元気そのものです。今でも、週に何本か(の締め切り)原稿を抱えているというので、これまた驚くばかりです。「何でそんなにバイタリティーがあるんですか」と毎回お会いする度にお尋ねするのですが、いつも「好奇心ですよ。人間に興味があるんですよ」と答えます。

 私なんか、最近色々あって、人間なんて大嫌いになっていたところでしたので、お話は大いに刺激を受けました。

新宿・思い出横丁「五十鈴」

 新宿は久しぶりでした。紀伊國屋書店などがある東口なら、1~2年前に新宿三丁目の呑み屋さんから歩いて来てフラフラしましたが、西口ともなると5~6年、いや7~8年ぶりぐらいです。いやあ、実に変わりました。特に地下街が変わり、どこから地上に出ていったらいいのかさっぱり分からず、迷子、いや迷い人になりそうでした。S氏が指定された彼の行きつけの焼鳥店「五十鈴」がある「思い出横丁」も、昔は「しょんべん横丁」と即物的に言ったものでした。戦後間もない闇市の面影が残っていて、昔はバラック建ての簡素な店が多かったでしたが、今は、少しあか抜けしておりました。

 思い出横丁には、630坪という狭い土地に、屋台のような間口の狭い呑み屋が60軒も連なっているので、行き慣れていないと訳が分かりません。「五十鈴」は、看板が目立たず、ギブアップしてしまいました。S氏に電話をかけ、迎えに来てもらい、(とは言ってもほんの数メートルの距離)やっと辿り着くことができました。S氏は開口一番、「この店はもう60年ぐらい通い詰めてますよ。主人は三代目かな」。へー、そんな長く!とは言っても、給仕をしてくれたのは中国人の若い女性でしたが。

 さて、乾杯して呑み始めたところ、S氏のスマホに電話がかかってきました。ノンフィクション作家の沖藤典子氏からだ、と後から教えてもらいました。さすが、顔が広いS氏でした。(沖藤氏もこんなところで名前を出されて御迷惑でしょうが)

 以前、S氏にお会いした時、主にS氏の御先祖さまのことを伺いました。大正生まれの御尊父は、陸軍大学卒のエリート軍人で南京駐在武官、明治生まれの祖父は、海軍兵学校卒の海軍大佐、江戸幕末生まれの曽祖父は、六百石扶持の馬廻役の直参旗本という血筋の良さでした。

 今回は御子息のことを伺いました。長女の方は、米国の名門スタンフォード大学に留学し、そのまま米国に住んでいるようですが、「(職業は)今何をしているのか知らない」としらばっくれておりました。長男さんの方は、東工大を出て、今は、結婚した奥さんの実家である薩摩の島津系の建設会社の社長さんを任されているとか。

 御先祖さまが優秀なら、子孫も優秀だということです。リチャード・ドーキンスが言うように、我々は、生物の連環の中で、ほんの一瞬のDNAの運搬車に過ぎないのかもしれません。

 これ以外で、本当は、二人でもっと重大な密談をしたのですが、密談なので茲には書けません。悪しからず(笑)。

43年ぶりに憧れのマドンナと再会できました

 人は半世紀近い年月を隔てても、再会して話が通じ合うようなことができるのかーといった哲学的命題を解明したいがばっかりに、大学を卒業して一度も会ったことがなかった女性と43年ぶりぐらいに東京・恵比寿のイタリア料理店で、感動の再会を果たしました。私の大嫌いで、もうあまりやっていないFacebookで御縁が繋がり、私がブログに神谷町のことを書いたことがきっかけで、再会することになりました。1時間半ばかし、積もるよもやま話をして参りました。

 御本人から、最初、「ブログには書かないで」と言われましたが、「いや、ブログは私の正業なので、遠回しに書かさせて頂きます」と無理やり、宣言してしまいました(笑)。ので、お名前は匿名で楸さんということにしておきましょう。楸さん?まず読めないでしょう?(笑) 「ひさぎ」さんと読みます。

 何しろ、この奇跡的な再会については、名古屋に住む旧友のK君や静岡県在住の山上君らに吹聴してしまい、彼らもその後どうなったのか、気になることでしょうから、彼らのためにも、御報告する義務がありました(笑)。

 結果は、good,better,best ? まあ、the bestでした。私一人だけが、昼間っからワインやハイボールを呑んで酔っ払って、言いたい放題、聴きたい放題でしたが、楸さんも、水で酔ったふりをして我慢して付き合ってくれました。何しろ、22歳だった若者が、浦島太郎さんのように、アッと言う間に、白髪のお爺さんですからねえ。後輩の楸さんも私とそれほど年齢は変わりませんが、半世紀近く会っていなかったので、お互いに、人生の「激動期」の情報が抜けています。結婚や出産(私はしてませんが)や、仕事や転勤、子どもや孫の話、病気の話、それに二人が共通に知っている友人知人の結婚、離婚、再婚、近況の話などを問わず語りしているうちに、これまたあっという間に時間が経ってしまいました。

 楸さんには、「遠回しに書く」と約束してしまったので、具体的な内容は茲では書けませんが、私が大学時代にお付き合いしていた椿さん(これも仮名)の近況ーとはいっても、楸さんが椿さんと直接会ったのは、10年近く前らしいのですが、ーを初めて教えてもらい、少し安心しました。「へー、そうだったのかあー」といった感慨です。これまた、楸さんとのお約束で具体的なことはブログに書けませんが…(笑)。

 楸さんは、頭が良く、性格も良く、しかも美人さんと三拍子揃っていましたから、男どものアイドル的存在で、友人のK君も狙っていました。私は当時、椿さんと熱烈な恋愛関係にあったため、楸さんにはアタックせず(笑)、遠くから見ていた感じでしたが、まさか、半世紀近く経って再会するとは夢にも思いませんでした。(だから、記憶違いばかりでした。)

 年も年ですから、お互いに同じことを聞いて、「あれっ?それ、さっき応えたのでは?」となり、古民家の縁側の日向ぼっこで、お爺さんとお婆さんが、昆布茶を飲みながら、会話しているような長閑な雰囲気になり、顔を見合わせて大笑いしてしまいました。

 何でもない会話でしたが、お互いに、紆余曲折の末、挫折やら苦悩やら病気やら人生の荒波を乗り越えて、生き延びて奇跡的な再会を果たすことができました。

 少し陳腐な表現ではありますが、やはり、「人生は捨てたもんじゃない。素晴らしい」と思いましたよ。

Facebookは怖い、国際ロマンス事件はもっと怖い

 昨日の私のFacebookに見知らぬ外国籍の若い女性から「いいね!」を頂きましたが、常軌を逸している感じで、無暗やたらに10連発の「いいね!」です。写真を見ると、スタイル抜群で大変魅力的な女性です。でも、どうも私のブログを読んでいるとは思えず、一体、何が目的なんでしょうかねえ、と思ってしまい、半ば、ゾッとして来ました。Facebookは怖い!もうFacebookはこれを最後にしたい。

 というのも、新聞で、「国際ロマンス事件」の話を読んだばかりだったからでした。噂では聞いたことがありますが、実際に引っかかる人がいるとは信じられませんでした。被害者は著名な(とはいえ私は知りませんでしたが)女流漫画家で、犯人は、ハリウッド俳優を名乗るマーク某。女流漫画家は彼に何と7500万円も送金してしまい、後で詐欺だったと分かっても後悔先に立たず。最初、750万円かと思ったら、7500万円もですよ!山口県阿武町で起きた4630万円の誤送金事件より遥かに大きい。(んな、話か?!!)

 その女流漫画家は古希を過ぎておられますが、結婚した相手から大変なDV被害を受けた上、浮気されて他に子供まで作られ、漫画で稼いだお金はほとんど使われ、やっと離婚はできましたが、散々な目に遭った経験があったようです。(今年1月に「週刊女性」誌で初めて公表)

 女流漫画家さんは、人生の酸いも甘いも知り、分別もあるはずなのですが、人の弱みや良心に付け込まれるとコロッと騙されてしまうんですね。いやあ、国際的に活動する詐欺師の手口は、凄まじい。マインドコントロールしてしまうのですから。

 私も最近、詐欺師からではありませんが、信頼していた人から間接的に金銭を要求されたことがありました。(銀行口座振り込みや現金書留ではなく、茶封筒にそのまま現金を入れるように具体的な指示まで)考えてしまいますよね? 相談の当事者は私自身ではなく、病を患っている私の友人だったので、その友人にこの話をしたところ、金銭は支払わず、相談は断念することに決めました。

 このことを、その信頼していた人に折り返し伝えると、それまで毎日のようにLINEやメールで連絡があったというのに、こちからメールしても、一切、無視か黙殺されるようになりました。何かあったのでしょうか?不思議ですねえ。

東京・銀座「ムンバイ」ダブルカレー1100円

 英語で詐欺師のことを、con man とか con artist とか言ったりします。 conとは、 confidence(信用)の略です。つまり、人の信用や信頼を利用して騙す「信用ビジネス」ということなのでしょう。そう言えば、ホームレスなどに生活保護を受けさせて搾取する「生活保護ビジネス」もあれば、人の不幸に付け込んで、高額な壺やお守りを買わさせたりする「不幸ビジネス」もあります。

 人の悩みは尽きません。国際ロマンス事件で騙された女流漫画家も孤独や不安に付け込まれたということなのでしょうか。

 しかし、孤独や不安でもいいじゃないですか。孤独や不安解消のために、アルゴリズムやAIや占い師や霊媒師や透視家や預言者や宗教家や国際ロマンサーに付け込まれて、莫大な金銭を詐取されるよりマシです。

 信頼する人から「君は程度が低い!とても付き合えないと言って、次々と貴兄の傍から去っていくのがよく分かります。」と蔑まされようが、大いに七転八倒して、孤独や不安は耐えるしかないのです。

 一番良いのは、努力して、悟りを開いて悩まないことです。苦しまないことです。心配しないことです。「サピエンス全史」のハラリ氏に言わせれば、人生には目的も意義も生き甲斐すらありませんが、そんな世迷言は捨てて、「人生とは幸せになることだ」という目標を心に決めて、せっかくこの世に生を受けたからには、自分の人生を大いに楽しむことです。

 それしかない。

 人間、悩んで迷うのは当たり前。それを他人やAIに丸投げしてしまっては、自分の人生ではなくなってしまいます。

 

熱田神宮と「自宅高級料亭化」計画=名古屋珍道中(下)

(昨日のつづき)

 5月15日(日)~16日(月)の名古屋珍道中の続きです。二日目、16日のお話です。ホテルでは一応よく眠れたのですが、疲れが全く取れていません。それにまだ風邪が治りきっていないので、元気もありません。チェックアウトの11時まで、そのまま寝ていようかなあ、と思ったぐらいです。

 でも意を決して出掛けました。朝のバイキング、ちょっと欲に駆られて食べ過ぎて、少し腹ごなししなければいかんかなあ、と思ったからでした。目指すは、熱田神宮です。昨晩は、旧友のK君から、乗るべき名鉄線の在り処などを丁寧に教わっていたのですが、それでも、名古屋は複雑で、右往左往状態でした。駅員さんに聞いたのですが、「4番線や」というだけで、何行きに乗ったらいいのか、さっぱり分かりません。それに、特急やら準急やらあって、止まるかどうか分からないので、各駅の普通列車が来るまで暫く待ちました。

名鉄・神宮前駅 「チカンやめますか」「仕事やめますか」…そんなにいるのかなあ

 スマホで「名古屋~熱田神宮」と検索したら、何と東京から熱田神宮へのルートが出てきました。何で? しかも、降りる駅名は「神宮前」です。熱田神宮の「あ」の字も出てきません。もう破れかぶれになって、電車に乗り込み、その「神宮前」で降り、案内看板に「熱田神宮」と初めて「熱田」を見つけたので、その方向に降りて、ようやく辿り着きました。

 案外広い神宮でした。「日本の三大神宮」かと思ったら、日本書記によると、三大神宮とは「伊勢神宮」「出雲大神宮」「石上神宮」(奈良県天理市)を指すようですね。三種の神器の一つ「草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)」を所蔵するこの熱田神宮は三大神宮の中に入っていません。延喜式神名帳には記された日本三大神宮でも、「伊勢神宮」「鹿島神宮」「香取神宮」となり、熱田神宮は入っていません。ただ、「伊勢神宮」「熱田神宮」「明治神宮」を日本三大神宮とする説もあるようです。

熱田神宮 本宮

 とにかく、本宮にお参りし、本宮横の売店、なんて言っちゃ怒られますね。調べたら、「本宮授与所」というらしいのですが、そこで「お守り」を購入致しました。これでも私は、強欲な人間ですから、買うものは決まってます。お金も地位も名誉も、そんなもんは吹けば飛ぶような将棋の駒みたいなもんです。何と言っても、この世で一番欲しいものは…?そう、私は「健康長寿」のお守りを迷わず購入しました(笑)。一千円也。

熱田神宮 樹齢1000年以上の大楠(空海上人、御手植えと伝わる御神木(直径7.7メートル、高さ20メートル)

 帰りの途中に、「剣の宝庫 草薙館」と「宝物館」(共通券800円)にも立ち寄りました。でも、そこの入口の受付の女性とはちょっとした言い合いになりました。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、壇ノ浦の戦いで、「三種の神器」は安徳天皇とともに海中に沈んでしまった、とやっていたので、「こちらの草薙神剣は本物ですか? 本物は壇ノ浦に沈んでしまったのではないですか?」と受付の人に聞いたら、「いえ、あちらは形代(複製?)でしたから、本物の神剣は非公開ですけど、ちゃんとこちらで所蔵しております。何なら、神職を呼びますかあぁぁーー!?」と反駁されてしまいました。

 別に口論しに来たわけではないので、「じゃあ、NHKは間違ってたんですね。別に神職さんをお呼びしなくて結構ですよ」と言ってそそくさと退散しました。女性は、実に怖い形相でしたからあー。

名古屋「御器所亭」 八海酒造のライディーンビール「ピルスナー」と串焼き・名古屋コーチンのキモとハツ

  ちょっとお参りしただけで、もう(少し)フラフラでしたので、そのまま旧友K君が住む1Kの「大豪邸」に行くことにしました。学生時代は、ちょくちょく酔っ払ったまま、彼の下宿(上板橋、千石、田園調布、雪が谷大塚)に泊まらせてもらったものでしたが、今回の彼の塒(ねぐら)では、狭くてとてもお爺さん二人で泊まれないということで、ホテルを取ったわけです。

 彼の「豪邸」は、名古屋から市営地下鉄桜通線の「御器所」駅から歩いたところにありました。「御器所」と書いて、「ごきそ」と読みます。まず、読めませんね(他にこの路線には高岳=たかおか=とか徳重=とくしげ=とか難読駅があります)。でも、ここは熱田神宮に奉納する器をつくっていた工房があった所だったことから付けられた由緒ある地名でした。今回、熱田神宮とは御縁がありました。

名古屋「御器所亭」 伊賀の銘酒「瀧自慢」 こりゃうめえ

 K君からは、「遅くても13時まで来てください」という話でしたが、もうクタクタで、織田信秀が北野天満宮から菅原道真像か何かを勧進した「桜天神社」にお参りすることも薦められましたが、気力がないので、早めに着いてしまいました。時計を見ると午前11時前でした。何しろ初めて行く所です。今は、Googleマップという便利なものがあるので、住所とスマホを頼りにやっと、彼のアジトを発見することができました。が、表札がない! しかも、彼はスマホを紛失しているので、連絡の取りようがない! 恐る恐るピンポンすると、反応がない! どないなっとるんねん???

名古屋「御器所亭」 愛知県設楽町の関谷醸造「一念不動」 これは格別、こんな旨い酒が世の中にあったとは!

 彼の自宅に押し掛けたのは、彼はちょっとしたセミプロの板前さんで、「自宅高級料亭化」計画を実施してくれたからです。何しろ懐石料理なんて大得意。そんじょそこらの料亭が吃驚するぐらいの料理を出してくれるのです。もしかして、今頃、食材の買い出しに出掛けたんだろうなあ、と予測が付きました。そこで、近くに喫茶店でもあれば時間を潰せるので、探したのですが、見つかりません。再び、彼のアジトに戻って、敷石の上に座って休んでいたら、15分ほどで、やはり、大きな荷物を下げて彼は戻って来てくれました。

 最初は「何か、手伝ってくれ」という話でしたが、すぐに「邪魔だからあっちに行ってくれ」ということになり、私も目の前に用意してくれたお酒を手酌で昼間からグイグイいくことにしました。

名古屋「御器所亭」 関谷醸造「一念不動」と活き車海老刺身 その前に伊勢湾産の栄螺壺焼き 実に合う!

 そのお酒は、何日も前から事前に用意していてくれたらしく、「八海山」で有名な八海酒造のライディーンビール「ピルスナー」、伊賀の銘酒「瀧自慢」、そして、愛知県設楽町の関谷醸造「一念不動」と生まれて初めて呑む酒ばかりでした。東京の田舎なんかじゃとても呑めない最高級のお酒ばかりでした。癖がなく「浄水」のようにグイグイ呑めてしまうのです。

名古屋「御器所亭」 伊賀の銘酒「瀧自慢」と、本場中の本場、その手は桑名のハマグリのしゃぶしゃぶ

 料理も、最高級、名古屋コーチンのキモとハツの串焼き、まだピョンピョン生きていた車海老の刺身、その手は桑名のハマグリのしゃぶしゃぶ、鰹とカンパチの刺身とその握り寿司、そして、締めは蚕豆、車海老入り卵雑炊と至れり尽くせり。ただ、病身の彼もついに力尽きて、予定していた自家製イチゴ添えアイスクリームと天麩羅はお預けとなりました。

 K君とは14年ぶりの再会で、積もる話がたくさんあったはずでした。でも、いったん、顔を合わせると、心で語ることが多く、また「美味い、旨い」と、呑んだり食べたりすることが忙しくなり、そんな煩わしい話をするのも馬鹿らしくなりました。

名古屋「御器所亭」 鰹とカンパチ刺身 キュウリの塩麹浅漬け。鰹とカンパチは後で握り寿司の御提供

 昔、名探偵ホームズの英語の副読本の中で、ホームズと友人のワトソンが顔を合せた時、お互いほとんどしゃべることがなく、確か、Old friends do not talk.(旧友というものは、お互いあまり喋らないものだ。)といった言葉が出てきたと思います。まあ、それに近いです。

 そのため、二人の共通の友人で、昨年亡くなったY君の思い出話とか、それに纏わる酷い不条理な話とか、野暮な話はやめることにしました。

 その代わり、萬古焼とか川喜田半泥子とか北大路魯山人の話をしました。萬古焼は、今の三重県四日市市と菰野町に窯元があるそうです。半泥子は、百五銀行の頭取も務めた実業家ながら、50歳過ぎて陶芸を始め、「東の魯山人、西の半泥子」と呼ばれた人です。半泥子は、今の三重県立津高校出身で、K君の同郷の先輩に当たりますが、「魯山人となんか比べものにならん」と一刀両断でした。

 確かに、魯山人は陶芸家、料理家、書家、美食家として超一流というか、怪物でしたからね。人間的にお付き合いはしたくないですが、一度、彼の作った陶器(約百万円)で酒を呑んだり、食事したりしたいもんです。

名古屋「御器所亭」 ハマグリの出し汁に北海道産高級米と車海老と蚕豆と卵入り雑炊 

 実は、K君は4月に倒れて救急車で運ばれ、1週間入院し、5月も救急車を呼ぶなど健康問題を抱えていました。「俺はいつも人と会うとき、これが最期ですね、と言って会ってる」というので、私も「変なこと言うんじゃないよ。俺はまだ、オヌシの天麩羅とアイスクリームを喰ってないんだからな。次は絶対、天麩羅とアイスクリームを喰わせてくれよ。大枚払うから。もうここの場所も覚えたから大丈夫」と檄を飛ばしておきました。

 これは勿論、冗談ではなく、本心でした。

【追記】2022年5月19日

 K君のスマホ、やはり、中村公園で見つかったそうです。よかった、よかった。届けてくださった名古屋市民の皆様、有難う御座いました。

 

旧友を訪ねて 43年ぶり再会も=名古屋珍道中(上)

 5月15日(日)~16日(月)、一泊二日で、名古屋に住む大学時代の旧友K君のお見舞いも兼ねて、小旅行を敢行しました。1日目だけは、大学時代の後輩で、今や有名私立大学の教授にあらせらる山上君もお住まいの浜松から飛び入り参加してくださり、実に充実した日々を過ごすことができました。

 とはいえ、最初からかなりのトラブル続きで、まるで我々の人生を象徴しているかのようでした(苦笑)。何しろ、山上君とは大学卒業以来一度も会ったことがなく、42年か43年ぶりの再会。K君とも、彼は記憶力抜群で、最後に二人で会ったのが、東京・銀座で、2008年12月31日以来だといいいますから、14年ぶりぐらいです。

 三人の共通点は、同じ大学の音楽倶楽部仲間ということです。それでも、43年ぶりともなると、昔の面影も何もなく、浦島太郎さんが玉手箱を開けて、「あっと言う間に、お爺さん~」ですから、果たしてうまく再会できるのやら…。

 待ち合わせ場所は、新幹線出口(太閤通口)を降りた「銀の時計」前ということでしたが、「いない!」。K君に電話しても出ない。それじゃあということで、山上君に電話しても出ない!どないなっとるんねん???もしかして、反対側の出口(桜通口)かな?と思って、右往左往して銀の時計に戻ったら、いたいた。「あれっ?電話したのに」と二人を責めると、「あれ?え?」と悪びれた様子もない。お爺さんは耳が遠いので電話が鳴っても気が付かないことが判明しました。これがトラブルの第一弾、先が思いやられます。

名古屋・豊国神社

 この後、私の宿泊するホテルに荷物を預けて、タクシーで向かったところは中村公園です。ここは天下の豊臣秀吉の生誕地であり、豊国神社が建立されていました。

名古屋・豊臣秀吉生誕地

 豊臣秀吉は、名古屋生まれだったのです。看板にある通り、「秀吉は1536年、木下弥右衛門の子として生まれた」とあります。この木下弥右衛門がどんな人物だったのか、諸説ありますが、単なるドン百姓(差別用語)ではなく、中村の長(おさ)だったという説があります。つまり、村長さん、恐らく大地主か庄屋クラスでしょう。秀吉は、最底辺のどん底から這いあがって立身出世した歴史上最大の人物とされますが、もともとある程度裕福な特権階級だったんじゃないかと思います。哀しいかな、無産階級では教育も受けられませんし、ゼロだと何も生まれませんから。

太閤秀吉功路 最終地点の碑除幕式(名古屋・中村公園)

 たまたま、公園内で、「太閤秀吉功路 最終地点の碑」の除幕式を地元の名士を集めてやっておりました。

 何の碑かと思ったら、秀吉の馬印「せんなり瓢箪」でした。

名古屋・秀吉清正公園

 中村公園内に他に何かあるか探してみました。

名古屋・中村公園内「初代中村勘三郎(1598~1658年)生誕地記念碑」

 ありました、ありました。「初代中村勘三郎(1598~1658年)生誕地記念碑」です。えっ?歌舞伎役者で、中村座の座頭だった勘三郎はここで生まれたんですか。

 看板などの情報によると、中村勘三郎は、豊臣秀吉の三大老中の一人、中村一氏の末弟・中村右近の孫だと言われてます。兄の狂言師・中村勘次郎らと大蔵流狂言を学び、舞踊「猿若」を創作したといいます。 元和8年(1622年)江戸に行き、寛永元年(1624年)、猿若勘三郎を名乗り、同年江戸の中橋南地(現東京・京橋)に「猿若座」(のちの「中村座」)を建てて、その座元(支配人)となった人です。

 秀吉と勘三郎が同郷人だったとは。

 公園内には「秀吉清正記念館」もあったのでちょっと覗いてきました(無料)。清正とは、後に肥後52万石の大大名になる加藤清正のことで、清正もここ中村生まれです(1562年)。父親は、刀鍛冶・加藤清忠だったようです。

 尾張出身の戦国武将は、ほかに、織田信長、森蘭丸、前田利家、柴田勝家、池田輝政、福島正則、蜂須賀小六、山内一豊…と錚々たる武将を輩出してます。

 名古屋の人は、今回の小旅行で、あまり親切な人がいませんでしたが、著名な戦国武将が生まれるくらい生存競争が激しい土地柄なのかしら?

 ただし、地元の人の話では、中村公園がある中村区は土地が低く、名古屋駅の西側は、亀島や津島といった地名があるように古代中世は陸続きではなかったようです。

 逆に名古屋駅の東側の東山などは、地名の通り、「山の手」で現代も高級住宅街が多いということでした。

名古屋城

 次に向かったのが、名古屋城です。中村公園から「メ―グル」と呼ばれる「なごや観光ルートバス」に乗りました。

名古屋城

 メ―グルは1乗車210円ですが、一日乗車券(500円)を買うととても便利です。名古屋城に入城するには普通は一般500円ですが、メ―グルカードを見せると、割引で400円。この後、入った徳川美術館と庭園徳川園も通常は一般1550円ですが、やはり、メ―グルを提示すると1350円で済みました。メ―グルは2回(420円分)しか乗りませんでしたが、入場券で300円分割引を受けたので、十分に元が取れたのです(笑)。

 タクシーの運転手さんは「名古屋には観光するところがない」とぼやいてましたが、名古屋観光するなら、メ―グルはお勧めです。ただし、本数が少ないのでご注意。

名古屋城 石垣ファンにはたまらない
名古屋城 石垣フェチにはたまらない

 名古屋城の天守は現在、工事中で中に入れないことは知っていたので、お目当ては「本丸御殿」でした。3期にわたる工事で、2018年から全面的に公開されるようになりました。

名古屋城 本丸御殿
名古屋城 本丸御殿
名古屋城 本丸御殿

  期待通り、見応え十分でした。バチカンのシスティーナ礼拝堂に匹敵するぐらいです。日本美術の粋が集まっています。

 本当に圧倒されました。

名古屋城 本丸御殿
名古屋城 本丸御殿・上洛殿(三代将軍家光をお迎えするために増築)
名古屋城 本丸御殿
名古屋城 本丸御殿

 残念ながら、「本物」は、昭和20年の米軍による空襲で焼失してしまいました。名古屋城は、昭和11年に指定された「国宝第1号」ですからね。米軍は、それを知って、爆撃したに違いありません。米国人は野蛮な文化破壊者ですよ。ロシア人を批判する資格があるのかしら?と、つい興奮してしまいます。

 本丸御殿は、復元ですが、世界に誇れます。感嘆感服致しました。今回、これを見るだけで名古屋に来た甲斐がありました。

元祖てんむす千寿と愛知の地酒「関谷酒造」の「蓬莱泉」ワンカップ こりゃうめえ

 あ、その前にランチは、K君が3人分用意してくれました。天むすの元祖「千寿」と愛知の地酒「関谷酒造」の「蓬莱泉」ワンカップです。これが旨いの何の…。これまた、名古屋に足を運んだ甲斐がありました(笑)。

名古屋・徳川美術館と庭園「徳川園」

 次に向かったのが徳川美術館と庭園「徳川園」です。大変、大変失礼ながら、口から泡を吹いて驚くような見たことがないようなお宝は展示されていませんでした。(尾張)徳川家代々の本当の秘宝は、蔵にあるんでしょうね(笑)。

名古屋・庭園「徳川園」大曽根の瀧

  徳川美術館では、どういうわけか、春季特別展が開催されていて、安藤広重の「東海道五十三次」と「木曽海道六拾九次」の全作品が展示されていました。山上君は静岡県出身で、「東海道五十三次」で描かれた蒲原(本当は雪は降らない)や三島や見附や舞浜などは馴染みの深い地元の名所なので、食い入るように見つめておりました。

名古屋のシンボル・テレビ塔

 次に向かったのが、現代の一番、名古屋らしい所ということで、久屋大通り公園にあるテレビ塔です。

 久屋大通り公園は、何となく、札幌の大通公園に似たイメージがありましたが、すっかり変わってしまい、公園の両脇は、超高級ブティックやレストランが並び、随分、敷居が高くなりました。

名古屋「御園座」懐かしい!

 そうそう大変なことが起きました。今回起きたトラブルの究極の極致です。K君が、スマホを無くしたことに気が付いたのです。恐らく、午前中に出掛けた秀吉生誕地の中村公園内で置き忘れたのではないか、ということで、公園事務所や近くの交番に電話しましたが、まだ届け出はありませんでした(いまだ探索中)。

 普通だったら、パニックになるのに、K君は肚が座っているというか、あまり動揺しません。仏教的諦念に近いんです。でも、早く見つかることを願っています。

 今回一緒に合流してくれた山上君は、夕方の新幹線で帰るというので、地下鉄の「栄」駅で別れました。一緒にお酒でも飲もうと思っていたのに本当に残念でした。

名古屋の居酒屋「大甚本店」閉まってたあ

 今回の小旅行は「トラブル続き」だった、と書いた通り、最悪だったのは、本日のハイライトだった「夜のお楽しみ」が日曜日だったせいなのか、予定していたお店が全て閉まっていたことでした。まず、K君が学生時代から通っていた、名古屋一の老舗居酒屋「大甚本店」(創業明治40年、伏見)が閉まっていました。そして、御園座近くの「大甚中店」も閉まっていました。

名古屋・伏見 バー「バーンズ」

 しかも、K君が1カ月も前から考え抜いてくれていた「二次会」用の老舗著名バー「バーンズ」までこの日は「貸し切り」で中に入れませんでした。

 どないなっとるんねん??? 

名古屋・串カツ屋

 仕方がないので、伏見駅の近くにあった串カツ屋さん「串かつでんがな」に飛び込みで入り、この後、名古屋駅にタクシーで向かいました。

名古屋ミッドランドスクエア42階「スカイプロムナード」800円のはずが

 K君が「どうしても見てもらいたい」ということで、駅前に聳え立つ超高層ビル「ミッドランドスクエア」の42階「スカイプロムナード」に連れて行ってくれました。(名古屋には超高層ビルは、駅前にある3棟ぐらいしかありません)

名古屋ミッドランドスクエア「スカイプロムナード」360度の視界で、名古屋城も見えます

  ここは入場料が800円ですが、K君の「身体障害者手帳」を提示すると、その付き添いまでロハで入場できたのです。

 周囲は若いカップルばかりで、お爺さんの二人連れは、何となく異様な雰囲気でした。

 でも、今回、山上君と再会したのは43年ぶりのこと。ということは、43年前は彼ら若いカップルはまだこの世に生まれてもいなかったに違いありません。感慨深いものがあります。

 2日目の16日(月)の話は次回に続きます。

「NHKスペシャル 見えた 何が 永遠が~立花隆 最後の旅~」は隔靴搔痒でした

 「やっちまったなあ」ーGWの後半は、風邪で丸々3日間、寝込んでしまいました。熱は1日で下がり、味覚や臭覚や聴覚や第六感や嗅覚まであり、今はかなり回復に向かっていますから、例の、あの、そのお、世界中で知れ渡っている流行り病ではないと思います。が、罹った5月3日はフラフラで、朝起きて、軽くパンとサラダを食べた後、直ぐに就寝。なかなか起き上がられず、13時半になってやっと、ズルズルと布団から這いだし、ヤクルト1本飲んでまた就寝。夕方は17時過ぎに起きて、御素麺を頂いてから、もう18時にはおやすみなさいでした。こんなことは数年ぶりだと思います。

 考えられる原因は、GW前半に、自分が老人だということを忘れて、連日のように1万5000歩近く歩き回って疲れが溜まり、免疫抵抗力が落ちてしまったこと。それでもまだGW後半が残っていて、何かあっても誰にも気兼ねなく休めるので、身体が油断していたことが挙げられます。

 結局、本も1ページも読むことが出来ず、本当に何もできませんでしたが、良い休養が取れたと思い込めば、貴重な時間を有効に使えたことになります。モノは考えようです。この間、酒も煙草ものまず、髭も剃らず、博打もせず、誠に品行方正でした。

東京・新富町「448 リベルマン」ポークジンジャー1500円 「448」は「洋食屋」と読むらしい。それなら、渓流斎は「4871」と書いて、「心配ない」と呼んでもらいます。登録商標申請中(笑)。

 さて、寝込んでしまったお蔭で、先週の話になってしまいます。4月30日に放送された「NHKスペシャル 見えた 何が 永遠が~立花隆 最後の旅~」は大いに期待したのですが、どなたかの意向が反映したのか?、一番肝心なことが分からず、隔靴掻痒の感のままで終わってしまいました。

 私が口癖のように言っている「何が報道されたのかというよりも、何が報道されなかったのかの方が重要」ということの典型でした。

 昨年4月30日に80歳で亡くなったジャーナリストの立花隆さんは、死の間近になって、秘書を務めていた実妹菊入直代さんに対して、「墓も戒名もいらない。遺体はごみとして捨ててほしい。集めた膨大な書籍は一冊残らず古本屋で売ってほしい」と言い残していたそうです。

 この番組では、「立花隆番」として17年間、一緒に教養番組をつくって来たNHKの某ディレクターが、立花氏と出会ってから亡くなるまでを回想する形で進行します。「猫ビル」の愛称があった東京都文京区にある立花氏の書斎兼書庫には5万冊を超える膨大な書籍が棚に埋まっていたのに、最新映像となると、その棚には一冊の本もなく、棚だけが寂しそうにしていました。

 その映像を見てショックにならなかったのは、その2週間以上前に新聞で、立花氏が「自身の名前を冠した文庫や記念館などの設立は絶対にしてほしくない」「立花隆が持っていた本ということではなく、本の内容に興味を持った人の手に渡ってほしい」などと言い残していたという記事を読んでいたからです。さすが、ですね。母校に自分の名前を冠した記念文庫を設立した人気作家さんとは違うなあと思ってしまいました。

 ただ、古本屋さんが何処なのか、その記事には書かれていなかったので、NHKに期待したのですが、番組でも明かされませんでした。恐らく、「古本屋が特定されれば、殺到されて困る」と、誰かの意向が働いたのでしょう。私だって、正直、立花隆の蔵書なら欲しいぐらいですから(笑)。でも、多分、神保町の古本屋に違いないでしょう。彼は毎週のように通っていたといますから。…暇を見つけていつかまた「神保町巡り」をしたいと思ってます。

 もう一つ、この番組でフラストレーションになったのは、彼の墓所が明かされなかったことでした。結局、「樹木葬」となったようで、その場所も特定されて、映像として映し出されましたが、最後まで場所までは明かされませんでした。私は掃苔趣味があるので、場所が分かれば一度はお参りしたいと思っていたのに…。

 あと一つだけ。この番組のタイトルに使われている「見えた 何が 永遠が」は、私も何度かこのブログで取り上げたことがあるフランスの象徴派詩人アルチュール・ランボーの作のはずなのに、ランボーの「ラ」の字を出て来ないのはどうしてだったのかな?

 まあ、テレビという超マスメディアの影響力は大きいので、個人情報保護に細心の注意を払うことを最優先したのでしょう。

「448 リベルマン」から歩いて5,6分にある「新富座跡」の看板=現京橋税務署

 番組内では、色々な「立花隆語録」が出てきましたが、印象に残ったものだけ引用させて頂きます。(ただし、換骨奪胎です)

 ・霊魂はない。人間死んだら無に帰る。

 ・人間は死すべき動物である。どこかで死を受け入れるスイッチを切り替えるしかない。(以上は立花隆の死生観です。でも、死後、天国に行くか煉獄に行くか、西方の極楽浄土か東方の浄瑠璃世界に行くか、それとも地獄に行くのか、といったことを信じている人はその信仰を続けていいと私は思っています。)

 ・知的営みは地下で繋がっている。人間の知識の体系も繋がっている。しかし、知識が細分化し過ぎて、専門家は断片化した知識しか知らない。専門家は総合的なことを知らない。(メディアに頻繁に出演されるコメンテーターと呼ばれる専門家の皆さんにも当てはまるかもしれません。)

 ・記録された歴史などというのは、記録されなかった現実の総体と比べたら、宇宙の総体と比較した針先ほどに微小なものだろう。宇宙の大部分が虚無の中に吞み込まれてあるように、歴史の大部分もまた虚無の中に呑み込まれてある。(「エーゲ 永遠回帰の海」)

・「すべてを進化の相の下に見よ」

六本木で葛飾北斎展を見て、神谷町で想い出に浸る

 連休の合間、5月2日は月曜日で、本来ならお仕事なのですが、有休を取得して東京・六本木のサントリー美術館まで足を運び、「大英博物館 北斎 ―国内の肉筆画の名品とともに―」展(1700円也)を観に行って来ました。

東京ミッドタウン(六本木)ガレリア

 平日だから空いているんだろう、という考えは甘かった。結構、暇人が多く、入るのだけでも長い行列で15分ぐらい待たされ、会場では展示物をそんなに間近に観たいのか、これまた、整然と一列になっての大行列です。私は公称180センチと背が高いし、後ろからでも十分観られるので、そんな律儀な日本人の列の後ろから、自分のペースで気に入ったものだけゆっくり眺めることにしたので、少しだけストレスが緩和されました。

東京ミッドタウン(六本木)

 当初は、出掛けるつもりは全くなかったのですが、テレビの歴史番組で葛飾北斎(1760~1849年)特集を見たら、急に、目下開催中の展覧会に行きたくなってしまったのです。

 番組では、勝川春朗をはじめ、北斎、宗理、為一(いいつ)、画狂老人、卍など30数回も画号を変え(弟子に売ったり、タダであげたりしたとか)、90年の生涯で何と93回も引っ越しした、といった逸話をやってました。引っ越しが多かったのは、掃除が嫌いで、今で言う「ゴミ屋敷」状態になってしまったので逃げるように引っ越ししたようです。

為朝図 葛飾北斎 一幅 江戸時代 文化8年(1811) 大英博物館 1881,1210,0.1747 © The Trustees of the British Museum(撮影:渓流斎)

 絵手本を3900点以上掲載した「北斎漫画」を出版したのは55歳の時。代表作の「冨嶽三十六景」のシリーズを書き始めたのが72歳というのですから驚きです。(数え年)

 晩年は、信州・小布施の豪商高井鴻山の招きで、江戸から240キロの道程を4度も通い、「男浪図」「女浪図」や「八方睨み鳳凰図」(岩松院蔵)などを完成しています。1849年、浅草の遍照院の仮住まいで、数えで90歳で亡くなりますが(墓所は元浅草の誓教寺)、直前に「あと5年長生き出来たら本物の画工になれただろう」と叫んだという、飽くことがない探求心は有名です。

 番組ではやっていませんでしたが、これだけの大天才なのに北斎の出自ははっきりしていません。江戸・本所割下水で川村某(職業不詳)の子として生まれたと言われ、幼名を時太郎、後年鉄蔵と改め。4、5歳の頃、一時、幕府御用鏡師中島伊勢の養子となったといわれます。詳細は不明ですが、本名は中島鉄蔵さんということでしょうか。天賦の才能があったとはいえ、かなりの稀に見る努力家だったのでしょう。

 実は、これでも、私自身は、「太田浮世絵美術館」や「すみだ北斎美術館」の常設展をはじめ、各地で開催された「北斎展」にはかなり足を運び、北斎の作品はかなり観ている方だと思っていました。今回のサントリー美術館での北斎展は大英博物館所蔵品ということでしたので、それほど期待していなかったのですが、開けてみたら吃驚ですよ。日本国内所蔵の作品より、量質とも遥かに充実していて、海外が日本を凌駕しているのです。これは、北斎作品の膨大なコレクターだった外科医ウィリアム・アンダーソン(William Anderson、1842~1900年)や小説家アーサー・モリソン(Arthur Morrison、1863~1945年)らとジャポニスムの流行のお蔭です。

冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏 葛飾北斎 横大判錦絵 江戸時代 天保元~4年(1830~33)頃 大英博物館 2008,3008.1.JA © The Trustees of the British Museum 肉眼で見えるはずがない5000分の1秒の速さでシャッターを切った時に見える画像だそうです。やはり、北斎は天才だ!(撮影:渓流斎)

 さすが、ゴッホやマネ、モネらフランスの印象派の画家たちに多大な影響を与えたジャポニスムを代表する「世界の北斎」だけあります。少し大袈裟かもしれませんが、北斎は、ダビンチやミケランジェロらと肩を並べるのではないでしょうか。

 この北斎展は、確かに一見の価値があります。特に、北斎は風景画で有名ですが、「花鳥」作品には目を見張るものがありました。何故なら、花と鳥に限って、北斎は、伊藤若冲のように「細密画」のように描いているからです。

 人物画となると、役者絵ではなくて風景画の中に登場する人物は、細密画ではなく、目と鼻と口だけで省略したようにあっさり描いています。「どうしてなのかなあ?」と思いながら私は観察していました。この花鳥画と人物画の違いー。人物はいい加減に描くのに、花鳥は綿密に描くのは何故か?ーもしかしたら、これは、北斎の研究家でさえ今まで気が付かなかった私の新説かもしれない、とニヤニヤしながら観ておりました(笑)。

東京・六本木 brassrie “Va-tout”  魚ランチ1200円

 さて、広い東京ミッドタウン内のサントリー美術館(そう言えば、初訪問かな?赤坂のサントリー美術館は何度も行きましたが)を出て、目指すはランチです。既に、六本木駅近くの「シシリア」に決めておりました。あの森まゆみ著「昭和・東京・食べある記」(朝日新書)に出ていた「四角いピザ」と「きゅうりのグリーンサラダ」を食べるためです。

 そしたら、アッジャパー、本日は青天なりではなく、本日は閉店なりでした。

 仕方がないので、当てもなく、東京タワーが前方に見える道(319号線)を真っすぐ10分近く歩いたら、ブラッスリーが見つかり、そこでランチすることにしました。仕方ない、なんて言っちゃ駄目でしたね。白身魚のソテーでしたが、写真の通り、銀座並みの価格で、量が少なくて参りました(苦笑)。店員さんは凄く感じ良かったですけど。

今最も日本で注目されている東京・狸穴の在日ロシア大使館

 店を出て、そのまま、真っ直ぐ、東京タワー方面を歩いて行ったら、警察官の数が多くなり、何事かと思ったら、今現在、日本では最も注目されている狸穴の在日ロシア大使館がありました。ここに出たんですね。

在日ロシア大使館前は、数人のデモと物々しい警戒

 ロシア大使館や、その向かいの外務省外交史料館には何度か取材で来たことがあるので、場所は知ってました。六本木駅からだと20分ぐらいでしょうか。私は、この辺りまでは、いつも神谷町駅から歩いてきたので、飯坂交差点を左折して神谷町に向かいました。

 そう、神谷町は私にとって、とても感慨深い場所なのです。もう半世紀近い昔、学生時代に付き合っていた彼女が住んでいたので、よく遊びに行き、お金がないので、この近くの東京タワーの芝公園でよくデートしたものでした。

 神谷町は、彼女の祖母の家で、千葉県に両親ら家族と住んでいた彼女は、都内の大学に通うため、おばあちゃんの家に下宿していたのでした。おばあちゃんの趣味は詩吟でよくうなっていました。

実に懐かしい東京・日比谷線「神谷町駅」

 もう時効の話なので、神谷町に来たついでに、その彼女のおばあちゃんの家を探してみました。この辺りはもう昔の面影はなく、すっかり変わってしまいました。再開発されて高層マンションやビルが立ち並ぶようになりました。駅から5、6分だったので忘れるわけないのですが、いくら探しても見当たりませんでした。恐らく、現在、高層ビルを建築中のあの辺りがそうだったかもしれません。

 半世紀近く年月が経てば仕方ないでしょう。淡い青春時代の思い出が蘇ってきました。でも、あまり後ろ向きだと駄目ですね。北斎先生を見習って、もう少し頑張りますか。何しろ、「富嶽三十六景」は、70歳代初めの傑作なんですから!

亡き親友のお墓参りに行って参りました=1周忌

 ゴールデンウイークの真っ最中、特に遠出する予定はなかったのですが、高校時代の親友の神林康君のお墓参りだけは予定に入れておきました。

 亡くなったのは昨年の4月27日でしたから、丁度一周忌が過ぎて喪が開けた感じです。彼は一人っ子で独身だったことなど色々と事情があって、墓所が決まったのは今年1月でした。と、後からご遺族の親戚の方からお伺いしました。

北総鉄道・印西牧の原駅

 墓所は、千葉県印西市と、ちょっと都心から離れた真言宗豊山派大生寺境内にある霊園でした。

 最寄り駅は「印西牧の原」という駅で、私は生まれて初めて、北総鉄道という電車に乗りました。この電車は、南は京急鉄道と繋がっていて羽田空港まで行くことができ、北東は、京成電鉄の成田スカイアクセスと繋がって成田空港まで行けるようです。全線乗ったことがないので、あまりいい加減なことは書けませんけど、成田と羽田を結ぶ路線じゃないかと勝手に想像しています。

北総鉄道・印西牧の原駅前のビッグホップ

 ついでに、またまた勝手に想像すると、北総鉄道の中心は千葉ニュータウン中央駅ではないかと思っています。車窓から見ても、いかにもニューファミリー向けの新都市といった感じで、東京のようにゴミゴミしておらず、広大な土地を利用して、大型ショッピングセンターが何棟も連なっていました。東京まで1時間程というベッドタウンです。

 千葉ニュータウン中央の隣りにある印西牧の原も似たようなベッドタウンで、高層マンションの他に、100坪以上の敷地はありそうな高級住宅街や広い公園もありました。

 そんな話よりも、神林君の霊園のことでした。あらかじめ、地図をコピーして来ましたが、ダダ広くて、さっぱり分からず、駅員さんに方角だけは教えて頂きました。

真言宗豊山派 草深山 大生寺

 それでも、よく分からず、迷ったりグーグルマップで確かめたりして歩き、結局40分ぐらい掛かってしまいました。案内地図では、駅から徒歩約20分でしたから、相当遠回りしてしまったようでした。駅でタクシーも客待ちしておらず、道を聞こうにも、あまり人が歩いていませんでしたからね(苦笑)。

 お目当ての千葉ニュータウン霊園は、「真言宗豊山派 草深山 大生寺」の境内にあり、神林君の墓所はその中の永代供養塔にある、とお伺いしていたのですが、境内の何処にあるのか場所が分かりません。

真言宗豊山派 草深山 大生寺

 そこで、大生寺の寺務所のような所があったので、入って、住職らしき40代ぐらいの男性に、永代供養塔は何処にあるのか聞いてみました。すると、住職は、私の顔を見て嬉しそうにニコニコして「御案内します」とわざわざ立ち上がって出てきたのです。しかも、手にはパンフレットまで持って!

真言宗豊山派 草深山 大生寺 千葉ニュータウン霊園 永代供養塔

 永代供養塔は寺務所のすぐ近くの隣りにありました。何十人かのプレートの中には新しく神林君の名前もあったので、「あった、あった。友達のお参りに来たのです」と言うと、住職さんは、急に力が抜けたようなガッカリした表情になり、「そ、そうでしたか、ごゆっくり」と言って寺務所に戻って行きました。手にはパンフレットを持ったまんま。

 すっかり年老いた私の顔に「死相」でも出ていたんでしょうかねえ? とにかく、住職さんにしては、またとない「上客」が来たと思ったのにアテが外れてしまったということなのでしょうか。あまりにも気の毒だったので、私も一緒に寺務所に戻って、そこで「お線香」(百円也)を購入しました。 

 墓前では、親友に無沙汰をお詫びし、茲は真言宗の寺院なので「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」と唱え、そして真言密教の「ノウマク サンマンダ ボダナン バク」「ボウジ ソワカ」(※)と締めておきました。※サンスクリットで「釈迦牟尼仏に帰依します」「悟りよ、栄えあれ」(般若心経)といった意味。

 帰りは、駅までどうにか20分ぐらいで辿りつけたようです。途中で自転車に乗っていた小学校5、6年生らしき少年を捕まえて、駅までの道順を聞いたので、今度はもう大丈夫です。「有難き幸せ。大変、失礼仕りました」と少年に最敬礼したら、少年は目を白黒させて、「いえいえ、こちらこそで御座りまする」と、お互い武士のような会話をしました。

 ちょうど昼時でしたので、駅近くのビッグホップという大型ショッピングセンターに入りましたが、閉店している店舗も多く、敷地だけは広大なので、何となく、ゴーストタウンに見えてしまいました。でも、奥のフードコートは人がいっぱい並んでいてとても並ぶ気にはなれず、また、駅の方に戻って、居酒屋風の店に入り、半炒飯と餃子に昼間からビールで、亡き親友の霊を一人で追悼しました。

 千葉県印西市なんて生まれて初めて訪れました。これで、御縁が出来ましたので、今度はしっかり印西市の城跡や寺社仏閣等を調べて、再訪したいと思います。印旛沼も近いのかしら?勿論、親友の墓参りのついでにですが。

大発見!!長三洲 真筆の極秘文書か?=宮さんお手柄ー「なんでも鑑定団」出演のお薦め

 皆さん御存知の宮さんから私に無理難題を押し付けて来られました(笑)。御尊父の遺品である厚手の和紙に書かれた文書を読み解いてほしい、と仰るのです。

 「読めない字も多く、歴史に弱い私では何も分かりません。渓流斎さんならどんな内容が書かれているか読み解いてくれるのではないかと、勝手ながらお問い合わせすることにしました。取り敢えず、文字を読み解いて文書内容を教えていただければありがたいです。古文書鑑定家になったつもりでご対応してください。(他の人に相談も可)忙しいのに変なお願いでご迷惑かと思います、無視していただいても構いません。」

 確かに私は歴史好きではありますが、残念ながら漢籍の素養はありません。「古文書鑑定家になったつもり」と言われても、荷が重過ぎますよお(苦笑)。

 でも、見てみると、上の写真の通り、大変達筆で、読みやすい。意味も全く分からないことでもない。最初の「明治十年之役」とは、西南戦争のことでしょう。続いて警視兵の中から選抜して「抜刀隊」と称する百人の部隊を編成して、西郷隆盛軍と戦ったのか? 一段落目の最後と末尾に出てくる「靖国祠」とは「靖国神社」のことでしょう。恐らく、抜刀隊の戦死者を靖国神社にお祀りした、という内容ではないか?(秀才の友人に目下、解読を依頼しております)

 それにしても、明治末か大正生まれの宮さんの御尊父が明治10年の西南戦争で戦っていたことはあり得ず、少なくともご祖父か、曽祖父が書かれた文書なのでしょう。それで、プライバシーながら、宮さんの御尊父のことやこの文書の入手経路などを伺ってみました。

 そしたら、この文書は、大分県出身のご祖父が生前、大分の古物商で手に入れたものを息子である宮さんの御尊父ら兄弟に形見分けされていたものの一対だった、ということが分かりました。

 となると、この作者は一体誰なのでしょう?

 よく見ると、最後に「三洲長炗」と署名が書かれています。えっ!?もしかして、もしかして、長三洲(1833~1895)のこと? 長三洲といえば、高野長英大村益次郎と並ぶ広瀬淡窓(1782~1856年)の愛弟子です。

 そこで調べて見たら吃驚。長三洲の本名は長炗(ちょう・ひかる)、三洲と号していたのです。天保4年(1833年)、豊後国(大分県)日田郡馬原村の儒家、長梅外の第三子として生まれたということですから、彼の書が大分県内の古物商に流れ、宮さんのご祖父が購入したということは辻褄が合います。

 これは本物ではないか??

 長三洲は幕末、尊王攘夷の志士となり、戊辰戦争では参謀として戦い、長州の桂小五郎の知遇を得て、維新後、木戸孝允となった桂小五郎の引きで、新政府に出仕しています。

 広瀬淡窓の門下ですから漢詩人としての名声は高く、明治になって、「漢学の長三洲、洋学の福沢諭吉」と言われたのです。

 しかも、長三洲の門下生には伊藤博文、山縣有朋ら元勲をはじめ、信じられないくらい多くの逸才を輩出しているのです。

 これは凄いお宝じゃ、あーりませんか!「無理難題を押し付られた」なんて言ってすみませんでした。大変なお宝が宮さんのお蔵に眠っていたのですね。

作者不明 どなたか分かりますか?

 もう一つ、宮さんの御尊父の遺品の中に、別にご祖父から受け継がれた作者不明の水墨画もありました。うーん、この作者は誰なんでしょう?

 そこで、「テレビの『なんでも鑑定団』に出演されたら如何ですか?長三洲なら高額が出るかもしれませんし、恥をかくことはありませんよ」と薦めてみました。すると、御返事は「そ、そ、そ、そこまでやるつもりはありません。」とのこと。

 いやいや、駄目ですよ、宮さん。しっかり,、真贋を鑑定してもらい、内容も解読してもらい、その価値を確かめる手段はそれしかありませんよ!

和紙裏面文字

 もしかして、テレビ東京か、制作プロダクションのネクサスの関係者がこの記事をお読みくださって、宮さんにアプローチするかもしれません。

  「漢学の長三洲、洋学の福沢諭吉」なんて、まさにテレビ向きのキャッチフレーズで、「絵」になるじゃありませんか(笑)。

 宮さん、勇気を出して! 私も大いに期待しております。

【追記】

 ネット情報ですが、長三洲は、「明治書家の第一人者で、水墨画や篆刻の腕前も一流」だったとありました。もしかしたら、例の作者不明の水墨画も長三洲作の可能性がありますね。

「仏友会」で講師を務めました=役得もいっぱいありました

 24日(日)は、東京・大手町のサンケイプラザで開催された大学の同窓会「仏友会」総会での講師に呼ばれまして、90分間ほど講演をしてきました。

 仏友会とは、仏教を愛する同好会ではなく、東京外国語大学でフランス語を専攻した卒業生・中退生の親睦団体で、昭和初期からある伝統のある団体です。同じ外語大でも他の言語にはないようですが、フランス語は結束が固く、立派なHPもあります。かつての出身者に無政府主義者の大杉栄、作家の石川淳、詩人の中原中也、菱山修三らがおります。

 フランス語以外では、外語大出身者には、作家の二葉亭四迷(露語)や永井荷風(清語)、童話作家の新実南吉(英語)らもおりますが、おっと忘れるところでした、島田雅彦先生(ロシア語)もいらっしゃいますが、学生時代に、東京大学出身の某教授が「外語出身者にはロクな奴がいない。皆、二流ばっかじゃないか」と暴言を吐いておりました。余計なお世話ですよねえ(笑)。大杉栄、永井荷風、中原中也といえば、皆、反骨精神の持ち主で、超一流の歴史に残る人物です。体制べったりで、のうのうと暮らす輩とは違いますよ。

香川・愛媛郷土料理・新橋「かおりひめ」の「あられ丼とミニうどん」ランチ1100円⇒月曜日は1000円

 てなことで、そんな反骨精神が買われたのか、今回、私が講師に選ばれてしまいました。最初、「大変優秀な先輩諸氏がいらしゃるというのに、何であたしが?」と思いましたが、振り返ってみれば、マスコミの記者として、普通の人ではとても会えない有名人に数多お会いして、インタビューしております。松本清張、司馬遼太郎、東山魁夷といった大御所を始め、吉永小百合や三田佳子ら大女優にもお会いしています。それに、レコード大賞の審査員を経験したお蔭で、芸能界と裏社会との濃密な関係など大衆の夢を壊してしまうような話を沢山、見聞してきました。そこで、「仕方なく始まった僕のジャーナリスト生活=通信社記者42年」という演題で、講演を引き受けることにしたのです。

 依頼があったのは昨年末か今年初めで、講演のレジュメ(要旨)をつくっていったら、次々と色んなことを思い出し、最初、A4判で1枚だったレジュメが10回ぐらい書き直したり捕捉したりして、7枚に膨れ上がってしまいました。

 当然ながら、90分という時間制限の中、全部話し切れず、半分ぐらいで尻切れトンボになってしまったのは、返す返すも残念でした。

厚労省医政局経済課の厳選なる抽選で、アベノマスク(100枚)が当選しました。税金無駄遣い防止に貢献致しました

 講演内容の詳細はここでは書けません。何しろ、レジュメの頭記に「※取扱注意! 無断転載禁、門外不出でお願いします」」と書いたぐらいですから、世界中に愛読者がいて衆人監視されている有名な?渓流斎ブログに書けるわけがありません(爆笑)。

 しかし、「情報」というものについてはいつもいつも考えさせられます。ナチス・ドイツの宣伝相だった・ゲッベルスの有名な「嘘も百回言えば真実となる」という言葉がありますが、(ゲッベルスではなく、ヒトラー説など諸説有り)、フェイクニュースも真実になってしまうのが、今のウクライナに侵攻したロシアのプーチン大統領やラブロフ外相らの言説に、まさに現れています。言論統制、マスコミ統制が功を制して、あれだけウクライナ市民を大虐殺したというのに、プーチン大統領の支持率が83%という信じらない数字が出ています。

 今の日本がロシアを批判するのは簡単ですが、日本も戦時中は、ロシアと同じように言論統制して、撃墜してもいない戦闘機や軍艦を撃墜したと主張する大本営発表を国民(当時は臣民)に信じ込ませていたではありませんか。

チューリップ

 今の資本主義が蔓延る日本の場合は、広告主の天下です。歌手や俳優やお笑いのタレントをとにかくマスコミで露出させて、その露出によって有名にし、その有名タレントを使ってCMに出演させ、「人気こそが信頼だ」と大衆をだまくらかして、欲しくもない商品を売りまくって経済を回しているという構図をもっと喋りたかったのですが、時間切れでそこまで話せませんでした。

 それより、講師をやったお蔭で、講演会が終わった懇親会で、色んな情報が入って来たことは役得でした。

 例えば、同盟通信社の初代社長の岩永裕吉の父親が大村藩出身の衛生医師長与専斎で、岩永の次兄の長与又郎は、夏目漱石の解剖に従事し、東京帝大の総長まで務めた人、実弟の長与善郎は白樺派の作家…といった話をしたところ、懇親会で「実は、私、長与善郎の縁戚に当たる者です」と仰る方が現れたので驚いてしまいました。

 悪口を言わなくてよかった…(笑)。講演会では「皆、良い人です」と言っておけば間違いありませんね。

 もう一人おりました。講演で、朝日新聞の芸能担当記者が、あまりにも生意気だったので業界から総スカンを食らい、あの美空ひばり(1937~89年、行年52歳)の訃報を特オチした(各紙が一面で報道しているというのに、朝日新聞だけがニュースを知らされず落としてしまった)伝説の事件の話をしたところ、懇親会で、田中先輩が近寄って来て、「あの特オチ記者、篠崎だろ?俺の高校の同級生だよ」と仰るので魂げてしまいました。

 「高校は県立千葉高校だけど、あいつはなあ、高校の時から、将来、東大に行って、朝日新聞に入る、と宣言していたんだよ」というのでこれまた吃驚です。講師をやらなければ、分からなかった情報でした。

 「特オチ記者」の汚名を背負った篠崎弘氏とは、私自身面識はありませんが、「伝説の記者」として業界では超有名人でした。その後、朝日新聞を退社せざるを得なくなり、現在は音楽評論家をされています。

 ただ、篠崎氏の肩を持つとしたら、恐らく、彼は「業界の掟」を破ったのではないかと思われます。業界の掟とは「ギブアンドテイク」の世界です。業界が売り出したい無名のタレントを取り上げて書いてもらう、その代わりに、大物俳優が結婚、離婚したり、亡くなったりしたら、その情報をいち早くお伝えします、という「暗黙の了解」事項です。(今はネット社会なので、過去の話ですが)

 恐らく、篠崎氏は、つまらないタレントや興味のないアーチストらのインタビューを断り続けていたのでしょう。それが、「あいつは生意気だ」ということになり、業界が結束して干したというのが真相ではないかと思われます。勿論、彼も天下の朝日新聞という大看板で踏ん反りかえっていたかもしれませんが。

吉田林檎氏の句集「スカラ座」(ふらんす堂)

 コロナ禍にも関わらず、今年米寿を迎えた最高齢の渡辺先輩をはじめ、会場にまでわざわざ足を運んでくださる奇特な方が沢山いらして、本当に有難い、と感謝の気持ちでいっぱいになりました。

 最後の写真ですが、仏友会の幹事を務める吉田さんが出版された句集「スカラ座」で、献本として頂いてしまいました。これも、今回講師を務めたからこそです。御一人お一人の名前は書けませんが、事前準備から当日、会場での椅子の移動まで手掛けて頂いた幹事の皆様方には御礼申し上げます。