頑張れニッポン=サッカーW杯、ドイツに次ぎスペインまで連破

 いやはや、信じられないことが起きましたね。まさに、歴史的瞬間に立ち合った気分になりました。カタールで開催中のサッカーW杯のことです。

 日本時間12月2日早朝4時から開始された日本対スペイン戦。格下のコスタリカ(FIFAランキング世界31位)に負けた日本(世界24位)に対して、W杯優勝経験もある世界第7位のスペイン。私は、90%の確率で日本は負けると判断し、仕事もあるので生中継は見ないで就寝したのですが、朝5時半に起きてテレビをつけたら、日本が2-1でリードしているので吃驚。その後、スペインの猛攻で日本は防戦一方でタジタジの状態でしたが、コスタリカ戦のように、中途半端なバックパスはせず、ゴール前の日本DFは思い切って、誰もいなくてもハーフラインまで蹴り返していたので、スペインもなかなか攻め切れません。

 耐えに耐え抜いた日本は、辛うじて勝利をもぎ取った感じでした。

 得点シーンは見ていなかったので、後でYouTubeで確認したら、特に日本の2点目は、非常に微妙でした。主審によるVAR判定で田中碧選手のゴールは認められましたが、三苫選手による折り返しは、ゴールラインを割っているようなまさに紙一重の差でした。運も味方についたのでしょう。

 一夜は明けてましたが、試合後の日本列島は、一億総サッカー評論家状態です。こんな私でさえ、普段は取り上げないサッカーをブログに取り上げたのは、実は私は年季が入っているからです(笑)。もう40年も昔の話ですが、1980年から84年の約4年間、小生はサッカー記者として取材に明け暮れていたのでした。会社の仕事だけでなく、専門誌「サッカーダイジェスト」にも記事を書いたものです。当時は、国内にプロはなく、日本リーグという企業スポーツしかなく、人気はなく、競技場に行っても観客の数を数えられるほどでした。後に伝説の名選手とした名を残したマラドーナの所属するボカ・ジュニアーズや欧州と南米一位チーム同士で対決して世界一を決めるトヨタ・カップなど海外から強豪チームが来日すると国立競技場は満杯になったりしましたが、日本のサッカーは通好みの域を超えていませんでした。

 ですから、ワールドカップなんて夢のまた夢。日本は当時、欧州や南米からは50年は遅れている、と言われていましたから、そのギャップを埋めるのは半永久的に無理だと思っていました。

 それでも、サッカー記事を書くことで、相当鍛えられました。締め切り時間の関係で試合が終われば、20分以内で原稿を書きあげて送稿しなければならなかったので、要領良くポイントをまとめて書くスピードが付きました。

 でも40年も昔の話ですから、私が取材していた頃は、伝説のエースストライカー釜本邦茂選手の引退試合があった年でもあり、後に日本代表監督も務めた岡ちゃんこと岡田武史選手(古河電工)が現役で全日本のキャプテンだった時代でした。何しろ、現在、J1名古屋グランパスの長谷川健太監督(57)がまだ高校生(清水東高)でしたからね。高校サッカーの優秀選手が選ばれて欧州遠征した際は、同行記者として選ばれ、長谷川君のほか、大榎克己や堀池巧選手らと親しくなったものです。

 ポジションもボランチなんて聞いたことも使ったこともなく、今は死語になったフルバックとかハーフバックとかギリギリ使っていた時代でした。(最近、途中でメンバーを大幅に入れ替える「ターンオーバー」という言葉も初めて知りました)

 老人の繰り言ばかり並べてしまいましたが、40年前と比べて、日本は、選手個々人の技術が格段に上がったことが確かですが、何と言ってもメンタル面が強くなったと思います(五輪選手も含めて)。特に今大会では、ドイツ戦に続き、スペイン戦でも同点ゴールを決めた堂安選手の「有言実行」ぶりには感服しました。彼は、ビッグマウス(大口たたき)と批判されたりしますが、自分自身を追い込んでちゃんと結果を出す辺りは、相当なメンタルの強さを感じさせます。

 次の決勝トーナメントは12月6日で相手は、前回ロシア大会(2018年)準優勝のクロアチア(世界12位)です。過去のW杯での対戦成績は日本の1分け1敗。甘くないので楽勝できる相手ではありませんが、せめて、PK戦に持ち込んでもいいから、日本は勝利を勝ち取ってベスト8に進んでほしい、と期待しています。

 そんなささやかな希望を持ったっていいじゃないですか。プーチンさんも戦争なんかしないで、自国が出なくても、サッカーでも観戦していたらいいのです。

「ドミノ理論」は間違っていた?=家族制度から人類史を読み解く

 うーん、人の名前が出て来ない。10月に新しく英国の首相になった人、インド系で、奥さんともども大金持ちで、英王室よりも資産があるという…。韓国の大統領の名前も出て来ない。テレビで顔はよく見るのだけど…。目下、カタールで開催中のサッカーW杯。フランス代表のスーパースターは、バムエパだったか?エムベパだったか…(答えは、リシ・スナク英首相、尹錫悦ユン・ソギョル韓国大統領、エムバペ)。

 物忘れ、置き忘れ、が激しくなってきた今日このごろです。昨日なんか、ネット通販のパスワードも忘れて、一瞬、焦りました。

 でも、英国の首相や韓国の大統領の名前を会社の若い後輩に聞いてみたら、出て来ません(笑)。やったー、です(爆笑)。情報が氾濫しているせいなのかもしれません。現代人は、スマホがあれば、すぐ検索できますから、無理に覚えようとしないせいなのかもしれません。というより、今の世の中、「いらない情報」が多過ぎるのかもしれません。SNSで一般ピープルが好き勝手に発言する。それをマスコミが面白おかしく取り上げる…。

 勿論、このブログもまさしく「いらない情報」です。「それを言っちゃあ、おしめいよ」ですけど、私はすぐ読者の反応を期待してしまいますから、そんな自分のあざとさが嫌になって Facebook もやめてしまいました(笑)。

 さて、相変わらず、エマニュエル・トッド著、堀茂樹訳「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」(文藝春秋)を読んでいます。四国の城巡りにも持参しましたが、ほとんど読めませんでした。昔なら、ラジオを聴きながら勉強するとか、一度に違うことが同時に出来たのに、年を取ると、マルチタスクが出来なくなりました。音楽を聴きながらの読書さえ出来なくなりました。どちらか一つに集中しなければ何も頭に入らなくなったのです。

 ですから、四国旅行の際は、お城のことで頭がいっぱいで、ほとんど本が読めなかったのでした。特にこの本は、気軽に読めるような本ではありません。はっきり言って、難解な学術書です。未分化親族網、絶対核家族、不完全直系家族、共同体家族…といった耳慣れない専門用語が頻出するので、何度も立ち止まってしまいます。うーん、もう少し分かりやすく書いてくだされば、ハラリさんの「サピエンス全史」のように世界的な大ベストセラーになったのに。

 でも、言い訳ばかり書いてもしょうがないので、「如是我聞」ではなく、「如是我読」でいきます。如是我読とは、私の造語で、「このように私は読んだ」という意味です。誤読かもしれませんが、致し方ありません。

◇人口と家族が人類史の謎の鍵

 トッド著「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」のまだ上巻ですが、私はここまで読んできて、以下のように理解しています。まず、20万年前に出現した現生人類ホモ・サピエンスは、核家族だった。それが、1万年前に、彷徨する狩猟採集生活から、定住する農耕生活が始まったお蔭で、土地や資産などの相続の問題が発生してきた。富が分散しないようにたった一人の長子に分け与えたのが直系家族で、それ以外にも色んなパターンがあって、それが、先述した未分化親族網、絶対核家族、不完全直系家族、共同体家族がそれに当たります。王侯貴族ともなると、絶大な権力と広大な土地を確保するので、土地が分割されたり、女子にも分け与えられたり、さまざまな形態が生じていきます。

 この本は、人口問題を主軸に置いた歴史人類学書です。この本には書かれていませんが、中東で農業が始まった紀元前8000年頃の世界の人口はわずか500万人でした(日本は縄文時代)。この農業革命の影響で人口は増え続け、現在2022年の世界人口は、何と80億人です。世界人口が10億人になったのが1800年ごろ、500万人の時代から約1万年掛かりましたが、それから130年後の1930年代に20億人。それからわずか80年余の2011年に70億人。そこから約10年で、また10億人も増加。ただし、国連の推計では、2080年代に約104億人でピークとなり、その後、横ばいになるといいます。

 いずれにせよ、人口増加には様々な促進要因や、その逆に阻害要因があります。ここからがソ連邦崩壊を予言したトッド先生の面目躍如です。宗教(特にキリスト教のプロテスタンティズム)、識字率、出生率、イデオロギー(特に共産主義)、家族制度との相関関係を人口をキーワードに見事に解き明かしてくれます。

 その相関関係を大雑把に見てみると、欧州では15世紀にグーテンベルクによる活版印刷の発明により、聖書が大量に出版されるようになり、識字率が高まる。特に、ドイツでは16世紀になってルターによる宗教改革で「聖書に帰れ」と主張されると、識字率がさらに高まる。同時に、キリスト教は禁欲主義と罪の意識を唱えるので、聖職者は独身を貫き、一般民衆の中には原罪意識から自殺も増え、出生率にも影響を与えるようになる。と、明確に著者は断定はしておりませんが、これが私の如是我読です。

◇日本とドイツは直系家族

 家族制度については、同書284ページで、トッド氏は具体的に国別に紹介してくれております。

 英国=絶対核家族、仏(中央部)=平等主義核家族、ドイツ=直系家族、ロシア=外婚制共同体家族、日本=直系家族、中国=外婚制共同体家族、カンボジア=未分化核家族、イラン=弱い内婚制共同体家族、アラブ世界=強い内婚制共同体家族、インド南部=父方居住で交叉イトコ婚の核家族、ルワンダ=一夫多妻制の直系家族…。日本は長子相続の伝統が残っている直系家族ですから、その通りで、これで、家族制度のイメージが湧きます。

 そこにイデオロギーが登場します。トッド氏は、共産主義社会というのは、権威主義的で平等主義的ドクトリンなので、共同体家族の権威主義的で平等主義的な価値観に支配されている地域でのみ実現する可能性があるというのです。上の各国のデータを見てみると、外婚制共同体家族制度を取っている中国とロシアが、ちょうどそれに当てはまるわけです。他に、ベトナムも社会主義体制ですが、やはり、家族は権威主義的で平等主義的共同体の国なのです。

 その一方、同じ東南アジアのタイは、権威主義的でも平等主義的でもない、つかみどころがない未分化の家族組織なので、共産主義は全く適応できない。「ドミノ理論」(一国が共産主義社会となると、隣国もドミノ倒しのように共産主義化する)でベトナム戦争に深く介入した米国のロストウ理論の破綻は、このように家族制度を見極めれば、知的・政治的説明がつく、とトッド氏は胸を張って主張しております。

 同書には書かれてはいませんが、さしずめ、トッド理論によれば、日本は直系家族制度ですから、共産主義は適応しない、ということになるのでしょう。しかし、同じ直系家族のドイツは、東独が共産主義化されました。これは、ソ連による占領ということで説明がつくかもしれません。また、ベトナムの隣国カンボジアは、ドミノのように共産主義化されましたが、共同体家族ではなく、未分化核家族です。詳しい説明はありませんが、未分化核家族には共産主義を受け入れる土壌があるのかもしれません。(それとも、単なる強圧的な独裁政権なのか?)

 「難解」などと難癖をつけてしまいましたが、色々と我流に読むと俄然面白くなってきました。

 

湯築城、宇和島城、大洲城=四国9名城巡り最終3日目(下)

宇和島城(現存12天守)

11月26日付「高知城、松山城、今治城」編に続く「四国9名城巡り」3日目の最終編です。いくら事前に少し「予習」したとはいえ、九つも城を廻ると、何が何だか分からなくなり、頭が混乱してしまいます。

 でも、ツアーの地元バスガイドのKさんはベテランで、流石に手馴れているというか、熟練の技を発揮され、それぞれのお城の築城者や歴史だけでなく、地元の特産品や、この他の四国の名勝名跡まで、しっかり頭に入っていてメモなしで話をしていたので感心してしまいました。「実は、わたしは、松山市郊外の愛媛みかんの農家の娘なんです」と打ち明けておられましたが、非常に頭脳明晰で、大変勉強熱心な方だということはすぐ分かりました。こちらも色々と教えてもらい、松山の名産「六時屋タルト」は、松山藩の久松松平家が長崎奉行を務めていた際に、ポルトガル人から製法を秘伝され、今では皇室御用達になっているとか、このブログに書いていることは、ほとんどガイドさんからの受けおりみたいなものです(笑)。

 前日に泊まった今治市では、タオルの生産が日本一で約8割も占め、市内には150社ほどもありますが、厳選な資格審査、しかもアポなしで製品審査を強行して、それに通った会社しか「今治タオル」のブランドを名乗ってはいけないことも教えてもらいました。ですから、数千円から3万円もするタオルがあるそうです。また、安倍晋三政権時代に大きな問題になった加計学園が今治市にあり、バスで近くを通ると、「ここからは見えませんが、あの小さい丘の向こうにあるんですよ」と、しっかり忖度なしに教えて頂きました(笑)。

湯築城(100名城)

 最終日の最初、初日から数えれば7番目に訪れた城は、愛媛県松山市にある湯築城(国指定史跡)でした。今治市からバスで南下して1時間ちょっとです。松山城の近くなので、当初は2日目に松山城と一緒に廻る予定でしたが、湯築城は、月曜日が休館だったため、この日に変更されたのでした。

 正直、湯築城に関しては、ほとんど知らず、事前にそれほど興味がある城ではありませんでした。そしたら、この資料館で「ある事実」を知り、椅子から転げ落ちるほど驚いてしまいました。

 その前に、前日の今治城では、地元のボランティアガイドさんの話を無視して聞かずに、自分勝手に廻っていたツアーの同行グループの人たちのことを、このブログで「私がこれまで参加したツアーの中でも最低のメンバーだ」と酷評しましたが、この日は打って変わって、地元ボランティアガイドさんについて熱心に話を聞いているのです。まるで優等生です。これが同じメンバーだと思うと、信じられないほどです。他人の評価は当てにならないものです。思わず、勝海舟の「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張」という言葉を思い出してしまいました。

湯築城

 一言で言って、湯築城は中世の城です。自然の岩山は除き、石垣はなく土塁です。中世の伊予の国の守護だった河野氏が、南北朝時代から戦国時代まで約250年間居城としていました。

 河野氏は風早郡河野郷(松山市北条地区)を本拠とし、源平合戦では河野通信(みちのぶ)が源氏方として功績を挙げ、鎌倉幕府の有力御家人となり、伊予国の統率権を得ます。しかし、通信は、承久の乱で京都方について負け、奥州平泉に流されてその地で没し、河野氏は没落します。それでも、元寇の際は、通信の曾孫に当たる通有が大活躍し、一族が復活し、それ以降代々、この湯築城を拠点にするわけです。

湯築城 子の通り、本丸から松山城が見えます。目と鼻の先でしょ?

 私が先に、「椅子から転げ落ちるほど驚いた」と書いたのは、この城の資料館でビデオを拝見していたら、承久の乱で敗れた河野通信の孫が、時宗の開祖一遍上人だったことを知ったからでした。あ、そう言えば、河野氏と言えば、何処かで聞いたことがあると思いました。一遍上人の本名は河野智真で、河野通信の子通広の子息です。まだ河野氏が復活する前の没落した時期だったので、仏門に入らざるを得なかったのでしょう。

 ということは、河野通信が承久の乱で鎌倉方についていれば、そのまま河野氏の栄華は続き、一遍上人という時宗の開祖は生まれなかったかもしれません。私は仏教史にはとても関心があるので、湯築城がいっぺんに身近に感じてしまいました。

 湯築城は「日本100名城」に選ばれているので(今回廻った四国9城全てが100名城)、資料館で100名城スタンプを押したところ、その場に持っていた個人の資料ファイルを置き忘れる失態を演じてしまいました。後で、「これ、忘れた人、どなたですか?」と添乗員のKさんが届けてくれましたが、注意力散漫症は茲でも健在でした。

宇和島城

 湯築城の後、バスは南進して宇和島城に向かいました。宇和島市は愛媛県の南端に近く、高知県の傍です。途中で、真珠店を兼ねたハイウエーレストラン宇和島で、名物「鯛めし」の昼食でした。観光バスツアーといえば、大抵、旅行会社とお土産店が結託して、行きたくもないお土産店に何度も何度も連れて行かれますが、最近のツアーはほとんど減りました。今回のツアーも茲だけでした。それに、殆どの人は買い物をしてませんでした(笑)。

 私自身も全く知りませんでしたが、真珠といえばミキモトで、三重県の英虞湾で養殖されて日本一の生産地だと思っていましたが、実は日本一は愛媛県で国内生産の80%も占めるんだそうです。真珠は神戸にある取引所で競りにかけられ、現在、1玉1万円から1万6000円が相場だそうです。ネックレスをつくるのには40玉必要なので、ひとつ40万円となるわけです。バスガイドのKさんは「段々、真珠は取れなくなるので、将来上がるので今のうち勝っておいた方がいいかもしれませんよ」などとセールストークをしていました(笑)。

宇和島城

 さて宇和島城です。現存12天守の重要文化財で、縄張りしたのが「築城の名人」藤堂高虎でしたから、大いに期待しました。もともとは海城だったらしいのですが、堀はほとんど埋められ、現在はその面影はありません。

 現存天守は藤堂高虎というより、伊達家のお城です。幕末の四賢侯の一人、伊達宗城(むねなり)が最も有名ですが、不勉強だった昔は、宇和島に何で伊達なんだろう?と思っていました。勿論、仙台の伊達政宗の末裔です。慶長20年(1615年)、政宗の長男秀宗が宇和島に入城し、明治を迎えるまで伊達9代の居城でした。秀宗は長男だったとはいえ、庶子で、正室に嫡男が生まれたため、宇和島を拝領したわけです。

宇和島城 現存12天守(伊達家)珍しく玄関口がある

 宇和島城は、二代藩主宗利が寛文6年(1666年)頃に建築したもので、既に平和な幕藩体制が確立した後だったので、全国の城でも珍しく「玄関」があるお城なのです。

 明治になって、新政府に接取され、大阪鎮台の所管となりますが、明治22年、伊達家が買い戻します。地元ボランティアガイドさんの説明によると、四賢侯の伊達宗城が明治になって、大蔵卿となり、部下の渋沢栄一と知り合い、渋沢に財産の運用を託したところ、かなり資産が膨れ上がって裕福になったから出来たそうです。この逸話はあまり書かれていない、現地でしか聞けない話でした。(昭和24年に宇和島市に寄付)

 宇和島城ではまたまたバスの駐車場が分からなくなり、迷子になりそうでした(苦笑)。

大洲城

 さて、宇和島城から松山方面にUターンして向かったのが、このツアー最後の9番目の城、大洲(おおず)城6万石でした。これも100名城に選ばれていますが、ほとんど知らず、全く期待していませんでしたが、もしかしたら、一番印象に残るお城でした。

 何しろ、平成16年(2004年)に、企画段階も含めて約20年かけて四層四階の木造天守を復元したのです。天守は明治21年に姿を消しましたが、図面や雛型や写真が残っていたお蔭です。富山県から優秀な宮大工も招聘し、鉄くぎなしで、吹き抜けは安土城の影響と言われています。総工費の13億円は、市民から1万円以上の寄付を募ったそうです。中には、地元不動産業の女性社長さんが、ポンと1億1000万円も寄付されてます。郷土愛は宇和島の人より、強い感じでした。

 面白いことに、商魂たくましく、天守をホテルとして貸し出し、1泊4人まで100万円で泊まれるそうです(1人増えると10万円プラス)。年に何組からか予約があるようです。当日は、篝火がたかれてお殿様お姫様のようなお出迎え。天守内に畳が敷かれ、城内の露天風呂にも入れ、料理人を呼んでその場で調理してもらえるという話です。

大洲城(12億円かけて木造復元された)

 大洲城は、あの築城の名人、藤堂高虎も関わったりしていますが、江戸になって賤ヶ岳の7本槍の一人、脇坂安治が立藩し、元和3年(1617年)、脇坂家が信濃飯田藩に転封となった後、米子から加藤貞泰が移封され、加藤家が明治まで続きます。

 幕末の大洲藩は勤皇の気風が強く、鳥羽伏見の戦いでは官軍側で参戦しています。また、坂本龍馬の海援隊が運用し、沈没事件でも有名になった蒸気船「いろは丸」はこの大洲藩が貸し出したものでした。

大洲城

 大洲城は、事前にそれほど予備知識もなく、あまり期待していなかったのですが、行ってみたら、こじんまりとした城下町で、地元愛が強い町で木造天守が復活し、なかなか良かったでした。

 以上、3日間で、四国の九つの名城を巡ってきた漫遊記でした。ここまで随分長いお話を読んでくださった皆様には感謝申し上げます。読むのは大変でしたでしょうけど、書く方はもっと大変でした(笑)。この記事の初回を読んでくださった会社の後輩のW君は「僕も冷蔵庫を開けて、何を取ろうか一瞬忘れてしまったり、自宅で立ち上がってから、あれっ?自分は何をしようとしたか分からなくなることがありますよ」と励ましてくれました。

 W君は私より一回り以上若いのに、大丈夫なのかなあ、と逆に心配になりました(笑)。

高知城、松山城、今治城=四国9名城巡り2日目(中)

松山城(現存12天守、重要文化財)広い、本当に広い

 11月24日付の「徳島城、高松城、丸亀城」編に続いて、四国9名城巡りの2日目です。執筆者の体力と知力の都合で、かつてとは違い、なかなか更新できておりませんが、単なる漫遊記なので、お気軽にお読みください。

高知城(現存12天守)

 城巡り第4弾の高知城(現存12天守、重要文化財)は、泊まった高知のホテルからバスでわずか3分でした。

高知城(現存12天守)

 前日は徳島城で「迷い人」になってしまいましたが、この日はホテルで朝食を取った後、部屋に戻ろうとするとカギがない!室内に置き忘れたことが分かり、慌ててフロントに降りて、係りの人にお手数を煩わせてしまいました。綾小路きみまろの世界は続きます(笑)。

高知城(現存12天守)山内一豊像

 高知城(現存12天守)は、既に南北朝時代に大高坂山城として築城され、戦国時代は長宗我部元親が拠点にしたという説もあります。が、やはり、何と言っても、山内一豊でしょう。信長、秀吉の家臣ながら、関ケ原の戦いでは徳川方について手柄を立て、一豊は遠江5万5000石の掛川城から、土佐一国9万8000石(後に24万2000石)を与えられ、築城します。

 山内一豊と言えば、困窮時代に糟糠の妻千代さんが、そっとヘソクリを出して、「これで馬をお買いになって出陣してください」と援助したお蔭で出世していったという逸話はあまりにも有名で、小説(司馬遼太郎「功名が辻」)やドラマ、映画などになっております。

高知城(現存12天守)算木積石垣

 高知城=土佐藩は、幕末に「薩長土肥」の一角として、多くの偉人を輩出しました。坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太(瑞山)…そして最後の藩主山内容堂。彼は幕末の四賢侯の一人で、徳川慶喜に大政奉還を勧めた人でした。大酒飲みで「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と、陰で揶揄されましたが、最近では再評価されているようです。

高知城(現存12天守)板垣退助像

 城内には板垣退助像もありました。明治の自由民権運動の旗手として有名で、銅像もその演説姿のようですが、実は土佐藩の家老クラスとも言える馬廻組(300石)の上士です。もともと板垣家は、武田信玄の重臣板垣信方を祖とする家柄で、武田家滅亡後、掛川時代の山内一豊の家臣になったわけです。土佐藩だけでなく、江戸時代は身分社会でしたから、武士の中でも階級があり、坂本龍馬らは郷士と呼ばれる下士で、板垣や後藤象二郎のような上士とは住む場所も違っていました。

 100円札にもなった板垣退助は、明治の言論人、政治家のイメージが強いですが、もともと上級武士ですから、幕末の戊辰戦争の際は、新政府側の迅衝隊(じんしょうたい)を率いて、近藤勇らの新選組とも戦っています(甲州勝沼の戦い)。

松山城(現存12天守)本丸6000坪

 次に向かったのは松山城(現存12天守)=第5弾=です。四国の南の高知からまた北上して愛媛県ですから、2時間ちょっと掛かりました。(高知高速道を通り、途中、石鎚山SAで休憩)

 松山と言えば、夏目漱石の「坊ちゃん」の舞台であり、漱石の親友正岡子規の故郷で、今でも俳句が盛んです。また、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の主人公の秋山好古・真之兄弟の故郷でもあります。道後温泉と蜜柑の産地としても有名で、私も何度か松山を訪れたことがありますが、若い頃はあまりお城に興味がなかったので、松山城も、そして今回廻った四国9城全て、生まれて初めて訪れました。

松山城(現存天守12)20メートルの石垣 7階建物

 (この石垣は、「坂の上の雲」の秋山真之が、若き頃、スルスルとよじ登ったという逸話が残っているそうです。)

 松山城の高さは海抜132メートルで勝山の山頂にあります。。実はここまで来るのにロープウェイ(帰りはリフトでしたが)を使って来たのです。勿論、歩いて登って来る方もいますが、ツアー参加者には往復切符(ロープウェイとリフトの両方使える)が手渡されました。

松山城(現存12天守)

 松山城の創設者は、秀吉の家臣で、賤ヶ岳の合戦で七本槍の一人として活躍した加藤嘉明です。昔は、「かとう・よしあきら」という振り仮名だったのでそう覚えていたのですが、最近は「かとう・よしあき」が多いですね。

 そう言えば、高知城の山内一豊も、昔は「やまのうち・かずとよ」と呼ばれていましたが、最近は「やまうち・かつとよ」と読む説が有力なんだそうです。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場する三代将軍源実朝を暗殺した公暁は、昔は「くぎょう」と習ったのに、ドラマでは最新学説を取っているらしく、「こうぎょう」になっています。何という日本語の曖昧さ! どないなっとるねん!? でも、この曖昧さが、長い歴史を持つ日本人の心因性を形作っているような気がします。テキトー(適当)というか、清濁併せ吞む、というか、自分の名前さえどう呼ばれようと気にしないという大らかさと言うべきか、それとも逆に、大胆不敵と言うべきか…。

松山城(現存12天守)

 加藤嘉明も、1600年の関ヶ原の戦いでは、山内一豊と同じように、徳川家康方についてその戦功を認められ、伊予20万石の大名となります。道後平野の中枢部にある勝山に城郭を築く許可を得ますが、着工から25年の寛永4年(1627年)、松山城完成を目前にして義明は、会津へ転封となってしまいます。(もっとも、42万石に加増されたので栄転ではありますが)

松山城(現存12天守)安土城の影響か、天守と御殿が一体

 その後、あの蒲生氏郷の孫・忠知が出羽国(山形県)上山城から入国し、二之丸の築造を完成しましたが、寛永11年(1634年)8月、参勤交代の途中の京都で病没し、嗣子がいないので断絶します。

松山城(現存12天守)天守

 蒲生家断絶の翌年の寛永12年(1635年)7月、伊勢国桑名城主松平(久松)定行が松山藩主15万石に封じられ、それ以来14代世襲して明治維新に至りました。久松家(菅原道真を祖とする)の戦国武将俊勝が、徳川家康の生母於大の方(伝通院、水野忠政の娘)の再婚相手となったことから、代々、久松家は松平姓を名乗ることを許されたのでした。

 松山藩は親藩ですから幕末は当然のことながら、幕府方についたため、朝敵として追討され、財政難の中、15万両も朝廷に献上し、藩主、重臣の蟄居、更迭などで赦免されました。

 それにしても、これだけの立派で広大な曲輪を持つ城が、一部復元再建されたにせよ、21世紀までよく残ったものです。大袈裟ですが、世界に誇っていいお城です。(松山城ばかり贔屓にしてはいけませんが)

松山市「鯛めしスタンド」天然鯛めし定食1850円。養殖ものは1300円でしたが、やはり、せっかくですから天然鯛を選びました。

 松山城も昼食時間を含めて2時間半ぐらい自由時間があったので、ゆっくり見物できました。と思ったら、リフトで麓に降りて、近くのロープウェイ街にあった「鯛めしスタンド」でランチしていたら、そこに無料のマップが置いてありました。

 それを見たら、近くに「坂の上の雲ミュージアム」や「秋山兄弟生誕地」があるので行ってみることにしました。

松山市 秋山兄弟生誕地

 そしたら、「秋山兄弟生誕地」は月曜日で休館日。「坂の上の雲ミュージアム」もやっと見つけましたが、中に入って見学していたら、とてもバスの集合時間には間に合わないことが分かり、泣く泣く退散しました

今治城(海城)と藤堂高虎像

 松山城を北上して、2日目最後の目的地、今治城=第6弾=にはバスで1時間ほどで到着しました。松山も今治も同じ愛媛県で、現在は松山市(人口約52万人)が県庁の所在地として栄えていますが、今治市(人口約16万人)は古代の伊予国の国府が置かれた所だったといいます。つまり、古代は今治の方が栄えていたのでしょう。

 高松城と同じ海城である今治城を、6年の歳月をかけて慶長13年(1608年)に築城したのが、関ヶ原で戦功をたて、伊予半国20万石を領した藤堂高虎です。彼の銅像も建っています。

今治城(海城)の天守

 藤堂高虎は、「築城の名人」と言われ、今治城の前の文禄4年(1595年)に、同じ伊予(愛媛県)に、大洲城と宇和島城(現存12天守)をつくり、今治城の後の慶長13年(1608年)には、伊勢22万石に移封され、伊賀上野城、そして(安濃)津城を大改修しています。

 藤堂高虎は190センチを超える大男だったと言われますが、主君を8回とも10回とも言われるぐらい(仕方なく)変えて、足軽クラスの身分から大大名にまで出世した逸話は事欠かないのですが、茲では省略しておきます。

今治城(海城)天守から見えるしまなみ海道、手前右下に藤堂高虎像が見えます。

 天守からは、今治市と広島県尾道市を結ぶ全長60キロのしまなみ海道が見えました。バスガイドさんの説明では、瀬戸内海には725もの島々があるそうで、第1位は淡路島、第2位は小豆島、第3位は周防大島の順。

 今回のツアー参加者は16人だったと初日に書きましたが、失礼ながら、私がこれまで参加したツアーの中でも最低のメンバーだと思いました。何故なら、バスガイドさんの話はバスの中で身動きが取れないので聞かざるを得ません。一方、各お城に、結構年配の地元ボランティアガイドさんがいて、熱心に説明してくれますが、今治城では、グループの人たちは一切無視して、話も聞かずに自分勝手に見て回っていたのです。

 あまりにも気の毒だったので、私一人だけが、一生懸命に70代半ばと思われる男性ボランティアガイドさんの側にくっついて話を聞いてあげましたよ。

今治国際ホテルの超豪華ディナー

 今回のツアーでは、夕食は1回しかつかなかったのですが、今治で泊まったホテルの夕食は豪華絢爛で大変美味でした。2泊3日分の夕食でした(笑)。

今治城(海城)夜景 あ、失敗!
今治城(海城)夜景 大成功

 夕食後、バスガイドKさんのお薦めで、ライトアップされた今治城の写真を撮りに行きました。

 一応、今治市の中心街なのでしょうが、街中は薄暗いので驚いてしまいました。後で分かったのですが、街灯があまりなかったのです。でも、東京などの都心は真夜中でもライトが煌々とついていて昼間のようですから、考えてみれば、東京の方が異常だということになります。

 それにしても、今治城の夜景は素晴らしかった。海城ですから、海水の内堀に映る天守が見事です。「来て良かった~」と思いました。正直、2日目の高知城も松山城も今治城も甲乙つけ難いほど、どれも素晴らしかったでした。

つづく

徳島城、高松城、丸亀城=四国9名城巡り初日(上)

丸亀城 すんばらしい

 しばらくブログを更新しておりませんでしたが、11月20日(日)から22日(火)まで、2泊3日で、C社が主催する「四国9名城」巡りに行っておりました。何しろ、全国で現存天守12ありますが、そのうち四国にある4天守全部回ってくださるというので、9月の新聞広告を見て、直ぐ申し込みました。一人で四国中のお城巡りをしたら、交通費、タクシー代など幾ら掛かるか分かりません。旅程計画も大変。その点、ツアーに紛れ込んでしまえば、バスで安価で運んでくれます。こんな良いお買い物はない、というわけです(ちなみに、全国旅行支援が使えて、8万5640円だったのが6万9640円となりました。このほか、3000円×2泊のクーポン券付き)。

徳島城

 でも、正直、今回の旅行で、生きていく自信を少し失いました(苦笑)。今まで出来たことが簡単に出来なくなったことが分かったからです。加齢によるもので、綾小路きみまろの世界です。重症ではありませんが、注意欠陥症みたいな感じです。ホテルの部屋の鍵を室内に忘れるやら、100名城スタンプ台の側に大切な資料ファイルを置き忘れるやら、鬼より怖い御家人からの御土産メモを失くすやら、注意力が散漫するようになっていたのです。

徳島城

 体力も落ちました。初日の第一弾は徳島城(徳島県)でしたが、かなり急勾配の山城で、階段が正確には数えていませんでしたが、500段近くあったんじゃないかと思います。途中で何度も一息いれたほどです。あの身延山久遠寺の急勾配の階段「菩提梯」を思い出しました。

 そうそう今回のツアーは、結構、自由時間が多く、決まった時間までにバスに戻れば良いというシステムでした。食事も2泊3日で、朝食2回(ホテルのバイキング)、昼食1回、夕食1回しかなかったので、同行者とはあまり顔を合わせることはなく、まるで一人で旅行している感じでした。今回の参加者は16人で、ペアが5組、一人参加が6人(男女各8人)でしたが、一人参加者の2、3人の方と少し言葉を交わした程度で、勿論お名前も何処から来られたのか最後まで分からず仕舞いでした(笑)。

徳島城 蜂須賀家政公

徳島城は、既に南北朝時代に築城されましたが、豊臣秀吉の家臣として有名な蜂須賀小六(正勝)の嫡男家政が17万6000石の阿波の領主として天正13年(1585年)に入国し、蜂須賀家が幕末まで続きます。明治8年に城のほとんどの建物は解体され、太平洋戦争の際、米軍の空襲もあり、現在、建物は何も残っていません。

 この山城の「麓」には、現在、徳島市立徳島城博物館があり、入館しましたけど、どういうわけか何が展示されていたか覚えていないのです。ここでも、うわの空といいますか、注意力散漫を発揮してしまいました。はい、綾小路きみまろの世界です。(笑)。

 さて、バスに戻る時間が迫って来たので、戻ろうとしたところ、二又の道があり、「あれ?駐車場はどっちだっけ?」と迷ってしまいました。左の道を進むと、バラ園がありました。「あれ?来る時、バラ園なんか見なかった。もしかして、右に行かなければならなかったのか」と思い、元来た道を戻ると、C社のバッジを付けた同行者らしき女性二人連れがいたので、声を掛けたら、「この道で大丈夫ですよ」と仰るではありませんか。あれ?バラ園なんか全く覚えていません。そう言えば、来るとき、ガイドさんの旗ばかり見て、一生懸命についていき、周りの景色はあまり見ていなかったことに気が付きました。これを他山の石として、次回から、帰りに迷子にならないように、周囲の看板や景色を頭を入れておくことにしました。(とは言っても、もう一回、迷子になりそうになりました!=苦笑)

高松城

 第2弾は高松城(香川県)です。私の出身高校と同じ海城です。もっとも、こちらは「うみじろ」と読みますが、私の東京の新宿区にある高校は「かいじょう」と読みます(笑)。以前、NHKの「ブラタモリ」で放送されていたので、訪れるのを楽しみにしていました。

高松城 向こうに見えるのが二の丸から本丸に続く鞘橋(さやばし)

 山城で急勾配を登らなければならない徳島城と違い、高松城は海城(うみじろ)なので、平地です。戦さの時、大丈夫だったのかな、と心配したくなるほど散策しやすいお城です。もっとも、現在は、「玉藻公園」として公開されています。園内の総面積は約8万平方メートルもあるとか。

高松城 本丸に残る天守台 3層5階の天守は残ってません

 高松城は、天正16年(1588年)、ということは本能寺の変の6年後、豊臣秀吉の家臣生駒親正(ちかまさ)が築城し、生駒家4代54年間、水戸徳川の松平家(初代は水戸黄門の兄松平頼重)11代228年間にわたり居城した海城です。

高松城 復元された桜御門
高松城 艮(うしとら)櫓 有名な月見櫓は工事中でした

 城内には当時、天守のほか、約20もの櫓があったそうですが、空襲などで建物のほとんどが喪失しました。が、艮(うしとら)櫓などは残り、重要文化財に指定されています。他に、桜御門などが復元されました。松平藩時代に政庁・御殿として使用された被雲閣は、明治になって老朽化したため取り壊されましたが、大正6年に再建され、現在、事務所のほか、茶会、会議などで利用されているそうです。

 高松城巡りは、昼休み休憩も含み、2時間ぐらい自由時間がありましたので、この後、近くのJR高松駅に向かい、駅ビルの2階の「杵屋」で、名物の讃岐うどん(とり天、870円)を頂き、1階のコンビニ兼土産物店(高松銘品館)で上官の命令に従い、買い物をしました。

丸亀城(現存天守12)
丸亀城(現存天守12)

 初日最後の第3弾は、現存天守12のうちのひとつ丸亀城(香川県)です。高松城と同じ生駒親正が慶長2年(1597年)、築城を開始します。江戸時代となり、一国一城令により、一時、廃城となりますが、生駒家がお家騒動で所領が没収され、その後、山崎家、そして京極家が継いで、幕末まで続きます。

 大変見事な素晴らしいお城でした。高さ60メートルの日本一の高石垣を誇るそうで圧倒されました。

丸亀城(現存天守12)

 こりゃあ、凄い。(ここから、急坂を登るのに、大変つらい思いをさせられます!)

丸亀城天守 

 これが、3層3階の現存木造天守12の一つですが、意外と小さい。

 石落としや、弓や鉄砲を打つ狭間もしっかりあります。この天守は、四国の中で最も古く万治3年(1660年)に完成したそうです。

丸亀城二の丸辺りから見える瀬戸大橋

 丸亀城二の丸辺りから見える瀬戸大橋。バスガイドKさんの説明によると、瀬戸大橋は、6本の橋で出来ており、全長9368メートル。6本の橋のうち、5本香川県、1本岡山県にあるそうです。1988年に全線開通し、総工費は何と1兆1300億円だとか。

高知市のひろめ市場 四万十川の栗焼酎「ダバダ火振」

 1日目の3城の日程を消化して、バスは一路、この日に宿泊する高知市へ。北の香川県から南の高知県まで1時間40分ほど、高知高速道路を通って、その途中で四国山地(坂本龍馬が脱藩の際、登った)を突き抜けるわけですから、トンネルだらけでした。

 この日は夕食が付いていなかったので、バスガイドKさんお薦めの「ひろめ市場」に行きました。新阪急高知ホテルから歩いて7分ほどです。ホテルから高知城にも歩いて7分ほどで行けます。このホテルは、35年ぐらい昔、仕事で泊まったことがありますが、当時はお城にほとんど興味がなかったので、こんな近くにお城があったとは、灯台下暗しです。

 ひろめ市場は、大きな体育館のような建物に70軒の屋台のような居酒屋や御土産屋さんなどがひしめいています。私は見たことがありませんが、テレビの「ケンミンSHOW」という番組で何度か取り上げられたらしく、観光客でいっぱいでした。ほとんどの店が満席で、やっと「鰹処ぼっちり」という居酒屋前に相席を見つけて、座っていたおじさんに断って、座らさせてもらいました。

 鰹のたたき定食900円と土佐の地酒(名前は失念)、それに、相席のおじさんの薦めで四万十川の栗焼酎「ダバダ火振」も後で注文しました。お酒は色々と呑んで来ましたが、栗焼酎なんて初めてでした。

高知市ひろめ市場近くで 高知は坂本龍馬を始め、歴史上の偉人、有名人だらけです

 相席になったおじさんは、ちょっと変わった人で、70代前半といった感じ。三重県の四日市から来た、と言ってました。私も三重県出身の友人がいて、結構、三重県内は旅行したことがあるので話は弾みました。おじさんは、この時期、高知市で趣味の蘭の品評会があって、毎年、3日間ほど市内に泊まるそうです。高知には沢山の友人がいる、と仰ってましたが、独りで呑んでいたのは何故かしら。

 いずれにせよ、このおじさん、ご職業は何だったのか知りませんが、私が「城巡りで四国を旅行しています」と話したら、彼は異様に戦国武将に詳しいことが分かりました。私と互角に話が出来るのですから(笑)。そして、彼は三重県出身ということで、名古屋に対する尋常ならざる敵愾心を燃やしていました。

 「名古屋名物、と言われている(伊勢)海老フライもひつまぶしも味噌カツも、本当は伊勢名物なんですよ。伊勢の人間は宣伝が下手なんです。それに比べて尾張の連中は…」といった具合です。那古野(名古屋)は織田信長、豊臣秀吉、加藤清正、蜂須賀小六ら多くの戦国武将を生んでいますが、野心家さんが多いのかしら。

 三重県のおじさんが頼んだ餃子を一つだけ、あまりにも薦めるので、頂きましたが、そのうち、彼は何の挨拶もなく、プイと帰っていなくなってしまいました。

田野屋塩二郎「シューラスク」

 帰りがてら、バスガイドKさんが薦めていた田野屋塩二郎のシューラスクというお菓子を買ってみました。田野屋塩二郎さんという人は東京の人でしたが、30代半ばで一念発起して高知で、火力は使わず、天日と潮風だけに拘って塩づくりをしている方で、その塩は高級レストランのシェフらに大好評。もっとも、1キロ当たり100万円もするという超高級の塩で(ホンマかいな?裏は取ってませんが)、本物の塩は買えないので、せめて、お菓子を買ってみたのでした。

 甘くて、ほんの少ししょっぱい今まで食べたことがない不思議なお菓子でした。

つづく

人類と家族の起源を考察=エマニュエル・トッド著「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」

 本日、スマホを紛失してしまいました。焦りましたよ。でも、今日ランチに行った築地の「千秋」に戻ってみたら、案の定、その店で忘れておりました。もう六時です(洒落です)。でも、一瞬、命が縮む思いでしたから、見つかってよかった、よかった。

 さて、先月、ジェレミー・デシルヴァ著、赤根洋子訳「直立二足歩行の人類史」(文藝春秋)を読んで大いに感心感動したことはこのブログにも書きました。そのお陰で、文化人類学への興味が復活してしまいました。私が学生だった1970年代は、レヴィストロースを始め、文化人類学がブームでした。しかし、不勉強な私は、他の事(音楽のバンド活動でしたが)に夢中になってしまい、読書に勤しむことがなかったことを未だに後悔しております。

 その罪滅ぼしとして、先日、レヴィストロースの名著「悲しき熱帯」上下(中公クラシックス)を買い込み、早速読み始めました。それなのに、瀧井一博著「大久保利通 『知』を結ぶ指導者」(新潮選書)や松岡聡著「スパコン富岳の挑戦」(文春新書)など、次から次と読むべき本が登場してしまい、レヴィストロースさんは後回しになってしまいました。

 大方の緊急課題本は読了出来ましたので、では、レヴィストロースさんを再開しようかと思ったら、困ったことに、またまた新たに興味深い本が出現してしまいました。エマニュエル・トッド著、 堀茂樹訳の「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」(文藝春秋、2022年10月30日初版、ただし原著は5年前の2017年刊)です。今、その 上巻「アングロサクソンがなぜ覇権を握ったか」を読んでいるところです。

 デシルヴァ著「直立二足歩行の人類史」、レヴィストロース著「悲しき熱帯」といった「人類学」の一連の流れの一環です。大雑把に言えば、歴史はチマチマした人間の業の行いの記録ですが、古人類学は、話し言語や文字が生まれる前の二足歩行を始めた約1100万年前の類人猿の話から始まりますので、雄大で膨大です。人間として生まれて来たからには、誰でも「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」は気になります。この本、スラスラ読めるかと思いましたら、結構、著者特有の専門用語が多出するので、つっかえ、つっかえ読んでいます。

 著者のトッド氏と言えば、ソ連崩壊などを予言した歴史人口学者として世界的に著名ですが(親日家で、目下来日中)、私のような仏文学を昔かじった学徒としては、「ポール・ニザンの孫」というのが真っ先に思い浮かんでしまいます。恐らく日本人のほとんどの方は知らないでしょうが、ジャーナリスト、作家のポール・ニザンはサルトルの親友で、1940年5月、通訳として転属されたダンケルクの戦いで戦死しています。行年35歳。代表作「アデン アラビア」は「ぼくは20歳だった。それが人生で最も美しい時代とは誰にも言わせない」という一文で始まり、若き頃の私が大変な衝撃を受けた出だしでした。

 エマニュエル・トッドの実父オリヴィエ・トッドもジャーナリスト兼作家なので、「なあんだ、彼の並外れて優れた知性は遺伝じゃないか」なんて思ってしまいます(笑)。

東銀座「むさしや」創業明治7年

 相変わらず、長々と前書きを連ねてしまいましたが、この本の要約がなかなかまとまらないからです(笑)。それに、まだ上巻の半分しか読んでいません。でも、ここまで読んできて、強引に最も印象に残ったことを茲に書くとすると、現生人類ホモ・サピエンスは元々、一夫一妻制だったということです。それが、一夫多妻や、稀に一妻多夫になったりしますが、文明が高度に発達した地域になれば、一夫一妻制に戻るというのです。

 これまで一般的に太古の家族共同体では、人類はひしめき合うように雑居し、性的に混乱し、原初的な近親相姦も頻繁に行われていた、という仮説が通説でしたが、それに意義を唱えて全面否定したのが、フィンランド人の哲学者・人類学者エドワード・ウェスターマーク(1862~1939年)でした。ウェスターマークは、近親相姦のタブーは文化事象ではなく、生存競争上の有利さをもたらすものとして自然選択された無意識の行動だと結論付けました(1891年「人類婚姻史」)。トッド氏は言います。「明らかにウェスターマークは正しい。彼より後に登場したフロイトやレヴィストロースらは近親相姦の回避の内に一つの文化事象を見ようとしたが、それは誤りだった。悲しいかな。人文科学はこうした知的後退に満ち満ちている」と皮肉交じりに叙述しています。えっ?あのレヴィストロースが間違いだったとは!?(トッド氏は、構造主義にも否定的に言述しております。)

 最新研究によると、霊長類の類人猿は今から約600万年前にヒトとチンパンジーに分かれます。だから、人間とチンパンジーの染色体はほとんど同じで、塩基配列の違いは約 2%に過ぎないと言われています。しかし、人類とチンパンジーの決定的な違いは、家族です。初期のホモ・サピエンスは一夫一妻制の核家族でしたが、チンパンジーは夫婦関係は知らない。群れでは、メスを庇護するオスが次々と変わり、オスとメスの安定した関係は認められない。第一、父子関係が確定できないというのです。野性のチンパンジーの平均寿命は15年。片や「人生100年時代」。このように、人類が霊長類、いや生物の頂点に君臨して長寿を保つことができるようになったのも、家族が関係しているのかもしれません。

(つづく)

童謡のおばあちゃんYouTuber逝く

 もう今年も残り1カ月半を切りました。早いなあ、あっと言う間だなあ、という感想しか思い浮かびません。

 11月半ばになり、そろそろか、と来年の年賀状を買いに、新橋の「さくらや」に買いに行きました。昨年は12月に入って買いに行ったら、売り切れていたからです。裏面カラー絵入り印刷で、1枚73円。他のショップは大体75円、有楽町では80円ぐらいしたので、茲が日本で一番安いんじゃないかと思いました(笑)。

 年賀状書きの季節ともなると、同時に、残念ながら、喪中はがきも届きます。人間の定めだからしょうがありませんが、同時代人として同じ時間を共有した人たちが、この世からいなくなってしまうと思うと、さすがに悲しみで落ち込みます。

何処? パリ? いえいえ、東京・新富町ですたい

 今年は、また宮さんから喪中はがきが届きました。今年5月に、実姉の内藤昭恵様が亡くなられたというのです。あれっ?何処かで聞いたことがある、と思ったら、直ぐに思い出しました。2018年10月1日付の《渓流斎日乗》の「あの初音ミクに童謡を歌わせているのは 88歳のおばあちゃんYouTuber」でご紹介させて頂いた宮さんの御令姉様、内藤昭恵さんでした。4年前ですから、行年92歳ということになります。

どこでマスターされたのか、自己流で覚えたのか聞きそびれましたが、ご自分で作詞作曲した曲をコンピューター上のAI初音ミクにその歌を歌わせているのです。いずれも、どこか懐かしい日常風景を童謡風にアレンジしております。

 人生100年時代ですから、もう少し長生きしてほしかったですね。というのも、宮さんからこんな返信メールを頂いたからです。

 「姉は97曲をYouTubeにアップしました。もう少しで100曲になるから、と励ましましたが叶いませんでした。…残念でなりません。自宅で亡くなったのですが、面倒を見ていた姪が『最期まで前向きに生きていた』と知らせてくれました。…渓流斎さまのブログに取り上げていただいたこと大変喜んでいました。有難うございました。」

 これを読んで、さすがの私もジーンと来てしまいました。

 そこで、勝手ながら、内藤昭恵様のご冥福をお祈り致しまして、彼女が作詞作曲された童謡「ひがんばな」を、この渓流斎ブログでアップさせて頂きたいと存じます。

内藤昭恵さんは、ハンドルネーム「kogomi88」で投稿されていますから、YouTubeで検索すれば他にも沢山出て来ると思います。

「気をつけよう 甘い言葉と65度」=楽天・三木谷浩史さんに提言

 個人的な話ながら、昨日の続きです。

 相当呑み過ぎて、前後不覚になって、奇跡的に生還したという話でした(苦笑)。Aさんからは「あんな酔っ払い初めて見た。てっきりホームに転落しているかと思った」と言われてしまいました。坂口安吾の「教祖の文学」みたいですね。(小林秀雄が水道橋のプラットホームから墜落して不思議な命を助かつたという話)

 後から聞いたところ、呑み過ぎたお酒は、65度の焼酎だったようでした。えっ!? 65度!?それなら、誰でもイチコロになりますよ。

 気をつけよう 甘い言葉と65度

 どっかで転んだらしく、額と左手のひらと両足の親指に青あざが残っていますが、財布も定期入れも無事で盗まれたモノはなかったようです。(ただし、モンベルの折り畳み傘を失くしました)

 赤羽辺りで、ぼったくりバーの客引き外国人からコンビニのATMに連れていかれて、何十万円もの現金を引き出されたという事件をよく耳にしますが、私も、前後不覚でしたから、当然、毒牙に掛かり、罠にハマっていたことでしょう。そうならなかったのは、まさに奇跡でした。

ロンドンではなく東銀座

 でも、昨日も同じことを書きましたが、二日酔いで調子が悪い中、急に、私のネット銀行口座から、全く身に覚えがない1万46円という半端な金額が引き落とされたという通知がメールで来たのです。「えっ? カードが盗まれたのか?」 調べたら、ちゃんと手元にありました。 それなら、何だろう?このお金?さんざん調べても分からないので、ついに、有料電話に掛けてみました。「AIチャット」とかやっても、全く返事が来なかったからでした。

 そしたら、さんざん「自己証明」(住所、氏名、生年月日、電話番号を言え!)させておいて、引き落とされた番号まで言わされたのに、電話に出たアオヤギとかいう青年は、木で鼻を括ったような声色で、引き落とした人、会社、団体、店舗は「分かりません」ですからね。あったま来ましたよ。

 でも、夜中に電気代の請求書がメールで届き、金額が一致したので、やっと分かりました。でも、逆でしょう?楽天の三木谷浩史(57)さん? まず、請求書を出してから、後で、引き落とすという順番が筋でしょう? 社内で改善するよう是非とも対処してくださいよ!

 電気代はもともと、Rカードのクレジットカードで決済されるはずでした。それが、R銀行のデビットカードで引き落とされるとはどういうことなのか?

 思い当たることは、先月末頃、ネット通販のR市場の決済カードをRカード(クレジット)からR銀行カード(デビット)に変更したことです。これまでは、Rカードからクレジットとして引き落とされる場合、1カ月近くタイムラグがあったので、使途が明瞭で、何んともなかったのですが、R銀行はデビットカードなので、タイムラグなしに即座に引き落とされます。急に、何のお金が引き落とされたのか、さっぱり分からなかったのでした。(そして、有料電話で問い合わせても、引き落としたモノについては知らぬ存ぜぬ、でしょ?)だから、先ほど提言したように、三木谷さん、まず、最初に請求書を送ってから、数秒後でいいですから、決済してくださいな。

 天下の楽天じゃありませんか!逆だと、ぼったくりバーの客引きだと勘違いされてしまいますよ!

久しぶりに前後不覚に

  昨日は久しぶりに痛飲してしまい、前後不覚となり、どうやって帰宅したのか覚えていません。

 目が覚めたら、額に傷跡があり、血が出ていました。両足の親指の爪の中から出血していて真っ青になっていました。そして、傘をなくしていました。雨の中を足を引きずって歩いていたようです。

 二日酔いで、さすがに自己嫌悪です。

 昨日は都内のY氏邸にお招きを受け、結局6人ほど集まりました。めいめいがお酒とおつまみを持ち込み、後で分かったのですが、6時間も呑み続けていたようです。特に、宮崎産の焼酎がまるでウイスキーの味がして口当たりも良く、ストレートでバカバカ呑んでしまいました。これがいけなかったんですね。

 お蔭で、皆で話した内容はほとんど覚えていません(苦笑)。Y氏邸にお邪魔するのも、10年以上ぶりで、すっかり駅からの道程を忘れておりましたが、今は便利なことに、住所が分かり、アプリのマップのナビを使えば、何とか辿りつけるものです。

 最寄り駅に着いて、どういうわけが人通りが多いなあ、と思ったら、お祭り(太子堂八幡神社例大祭)をやっていたようです。時間がなかったので、私は通り過ぎただけでしたが。

 話の内容は覚えていない、と書きましたが、最初の素面のときは、N紙の記者であるO君が「マイナポイント」の取材を7年もやっているというので、アプリでカードにポイントが振り込まれるやり方を教えてもらいました。私は既に、入会した際に5000円分のポイントをもらっていたので、残りの1万5000円分のポイントがゲットできたようでした。

 マイナンバーカードは、政府というか、国税庁が個人の財産を全て把握するために誕生させたという説がありますが、O君は、その説には否定的で、ポイント獲得は、権利なので、やった方がいいという意見でした。

 参加した初対面のN氏は、元M紙記者で、今は森林研究整備関係の団体で活躍されているようでした。「年会費は7000円と安いから入りませんか?」と薦められましたが、曖昧な返事をして逃げてしまいました(笑)。座が盛り上がって、近くに住む軍事評論家のK氏も呼ぼうということになり、北朝鮮やウクライナ情勢の話をされましたが、私自身は、もうすっかり酔いが回っておりました。

 後から聞いた話ですと、夜10時頃、Y氏邸を辞した後、駅近くの喫茶店に3人で入って酔い覚ましをしたらしいのですが、私は全く覚えていません。O君には随分お世話になったようです。

 でも、気が付いたら、宇都宮か高崎近くの知らない駅でした。慌てて降りて戻りましたが、それはどうやら最終電車のようでした。ま、奇跡みたいなもんです。

 過日、テレビで、ある脳科学者が、人間には「帰巣本能」があるので、どんなに酔っ払っていても、家に帰ることが出来るといった話をしていましたが、まさしく、その帰巣本能で帰宅できたようです。家に着いたのは、夜中の1時過ぎでした。

 朝目覚めて、点検したら財布と定期入れは無事でした。それなのに、午後1時13分に、私のネット銀行のデビットカードから1万46円という身に覚えがない金額が引き落とされたという通知がメールで来たのです。何だろう、これ?そのカードは手元にあり、暗証番号を押さないと引き落とされないはずなので、不思議です。銀行に電話したら、「(誰が引き落としたのか)分かりません」ですからねえ。ふざけています。考えられるのは、電気代の引き落としじゃないですか、と言うのみです。電気代はクレジットカードで引き落とされることになっていたので、何か分からず、気持ちが悪いです。

 あんなに呑み過ぎなければよかった、と反省しています。あれだけ泥酔していたら、気が付かないうちに身ぐるみ剝がされていたかもしれません。そう思えば、「最小の被害で済んだ」と考えることができます。

 それにしても、我ながら馬鹿なことをしたものです。

渓流斎ブログの手引き=最悪の場合は「お取り潰し」

 もひかひて、もしかして、生まれて初めて、この《渓流斎日乗》ブログにアクセスされた方がいらっしゃるかもしれません。

 というのも、私は今年4月24日、都内で大学の同窓会の講師に招かれて、講演させて頂いたのですが、時間が足りず、用意したレジュメの4分の1もお話できなかったのでした。そこで、その大学の同窓会の会報に、「お話できなかったことは、色々とブログに書いておりますので、足りない部分は是非ご参照ください」といったような趣旨といいますか、宣伝文(笑)をブログのアドレス付きで寄稿してしまったのです。(同窓会の会報は昨日、自宅に届きました)

 真面目な大学のOB、OGの皆さんのことですから、もひかひて、「あの野郎がそう言うなら、冷やかしで見てみるか」と思われた方もいらっしゃるのではないかと思ったわけです。

 しかし、初めてこのブログを読まれる方にとっては、戸惑われることも多いかもしれません。あまりにもの情報の多さで、恐らく、何をどうやって手を付けていいのか分からないと思います。

彼岸花

 そこで、私のお薦めのやり方の一つは、パソコンでしたら、サイトのトップの右に、スマホでしたらサイトの一番後ろの辺りに「検索…」Qとありますから、例えば、その中に「メディア」と書いて検索すると、過去に書かれたメディア関係の記事が出て来ます。

 私はビートルズが好きなので、結構ビートルズのことを書いていますが、やはり、検索欄に「ビートルズ」と入れて検索すると、色々と過去記事が出て来ます。私のお薦めは「銀座 新聞」と検索欄に入力して頂くと、明治時代、銀座は新聞社だらけだったことを現在の場所に行って写真を撮って5回連載した記事が出て来ますので、是非読んで頂きたいと存じます。

 でも、検索欄に「郷ひろみ」とか「SixTONES」とか入力しても記事は出て来ません。要するに「趣味が合わない」ということで、別に渓流斎ブログを今後お読みにならなくても宜しいということを意味するわけです(笑)。

 もし、かりそめにも、趣味が合ったりして、そのまま最新記事もお読み頂いたら、嬉しい限りで御座います。

◇お取り潰しの危機

 あと、申し遅れましたが、もしかして、この渓流斎ブログも今年いっぱいぐらいで、なくなってしまうことを告知しなければなりません。理由は、このブログのサイトを立ち上げ、サーバーも管理して頂いたIT技術者の松長哲聖氏が今年7月に急死されてしまったからです。松長氏の会社の後を継いでくださる方が正式に決まれば、このブログも安泰ですが、まだ御連絡がないので、今後どうなるか分かりません。

 最悪の場合、このブログも「お取り潰し」になってしまうわけです。江戸時代みたいですね。でも、人生には限りがあるわけですから、私もある程度、覚悟しております。が、世の中には、渓流斎ブログの廃絶を大喜びする輩も何人かいるので、正直、それだけは悔しいですね。

 メメント・モリ。明るく、楽しく、前向きに!