デジタルネイティブからトークンネイティブの時代へパラダイムシフト

佐藤航陽著「お金2.0     新しい経済のルールと生き方」(幻冬社、2017年11月30日初版)を読了しました。

うーん。難しい。最初スーと読めはしましたが、もう一度読み返して、朧げな輪郭を掴んだ程度です。

もちろん、本書に出てくるハイエクの経済理論だのシェアリングエコノミーなどといったことは頭では理解できますよ。しかし、身体がついていけないといった感じなのです。

それもそのはず。著者は、1986年の福島県生まれで、まだ30歳代前半。物心ついた頃から周囲にデジタル機器があり、小学校での授業もパソコンで受けた世代。所謂、デジタル・ネイティブ世代。

片や私は、御幼少の砌は、冷蔵庫も電気洗濯機もテレビもなかったアナログ世代。生まれて初めてワープロを買ったのが29歳。パソコンは39歳という「遅咲き」ですからね。

著者の佐藤氏は、学生時代から起業し、今や年商100億円以上の決済サービスアプリ等のIT企業を経営するいわゆる青年実業家です。

ただ、子どもの頃はお金に相当苦労したようです。兄弟3人と片親の4人世帯の年収が100万円も届かなかったこともあったようです。

その話は、ともかく、彼はデジタルネイティブ世代ですから、我々のような旧世代とは根本的に発想が違います。

スバリ言いますと、パラダイム(認識の枠組み)が全く違うのです。

本書のキーワードを三つ挙げるとしたら、「仮想通貨」「ブロックチェーン」「トークンエコノミー」でしょうか。

まず、仮想通貨というのは、中央銀行など中央に管理者がいなくても成り立って発行される仮想の通貨のことで、ビットコインなどがその代表例として挙げられます。旧世代は、胡散臭い目でみてますが。

ビットコインなどは、ブロックチェーンという技術が活用されています。これは、一定期間のデータを一つのブロック(塊)として記録し、それをチェーン(鎖)のように繋げていくことで、ネットワーク全体に取引の履歴を保存し、第三者が容易に改ざんできないようになってます。

…と、言われても、旧世代は理解不能ですね(笑)。

そして、最後のトークンとは、仮想通貨の根っこで使われているブロックチェーン上で流通する文字列のことを指す場合が多く、トークンエコノミーとは、このような仮想通貨やブロックチェーン上で機能する独自の経済圏のことを指し、正確な定義があるわけではないといいます。

… あら、そう来ましたか。

とにかく、仮想通貨は自分でやって、つまりは、買って大損するか、大富豪になってみなければ、それを支えている「塊鎖」とやら、「文字列」とやらも、その実態は分からないことでしょうね。

この本で感心することは、著者は究極的には、お金とは、単なる「道具」であると割り切っていることです。大賛成ですね。そして、デジタルネイティブ第一世代と呼んでもいい彼らは、旧世代を馬鹿にしているわけではなく、単なる歴史の流れで、自分たちはスマホが当たり前の世代で、次の第二世代は、仮想通貨が当たり前のトークンネイティブ世代で、自分たち第一世代はその架け橋になっているに過ぎないことを自覚しているのです。

恐らく、単に私自身が読み違えているのかもしれませんが、いずれにせよ、2020年代も間近に迫り、パラダイムも完璧にシフトしている現実が、この本から読み取ることができます。

華族の家族の物語

恐らく、現在、華族の研究家としては第一人者の浅見雅男氏が、軽いエッセイ風の読み物「歴史の余白」(文春新書2018年3月20日初版)を出版し、今、私も面白く拝読しております。

例によって、この本は、博多にお住いの吉田先生からのお勧めですが、浅見氏とは、一度だけ渋谷のおつな寿司でお会いしたことがあります。もう20年ぐらい昔でしょうけど、当時、浅見氏はまだ、文藝春秋の編集者をされておりました。

著者は、学者以上にあらゆる文献に目を通しておられますので、説得力があります。例えば、天皇の生前退位についても「神話時代や古代はともかく、中世以降は天皇が生前に皇位を退くことは珍しくなかった。江戸時代に限っても。107代の後陽成から121代の孝明まで15人の天皇のうち9人が生前に譲位している。その理由はさまざまだが、天皇は即位した以上、終身、皇位にとどまるという定めや慣行はなかったのだ」とはっきり書いております。

つまり、生前退位を否定する考え方は、明治薩長政権が皇室典範で決めた比較的新しいものに過ぎないと歴史的に証明しているのです。

この本を読んで、初めて教えられたことは多くありますが、明治維新をやり遂げた公家代表の一人で、御札の肖像画にもなった岩倉具視がおります。彼は公家の中でも低い身分で碌高も少なかっただけに、維新後の出世には周囲からの妬みややっかみが多かったそうです。それはともかく、その曽孫に当たる靖子が日本女子大附属高校時代に共産党のシンパとなり、あの有名な昭和8年の一斉検挙で逮捕され、市ヶ谷刑務所に収監。治安維持法違反の裁判が始まる前に保釈された渋谷の自宅で自裁してしまうんですね。

実に波乱万丈なのは、靖子だけではなく、その父親の具張(ともはる)です。岩倉具視の直系の孫に当たり公爵岩倉家を継ぎますが、新橋の芸者に大金を注ぎ込んで破産してしまうのです。具張の父具定(ともさだ=岩倉具視の子息で岩倉家を継ぎ、宮内大臣などを歴任)、明治34年8月22日付「時事新報」で、全国で50万円以上資産を持つ411人の一人として掲載されるほどの大富豪でしたが、具張はこれらを全て散財しただけでなく、100万円以上の借財を抱えてしまったといいます。

同じ元公家として、東坊城家があります。江戸時代の禄高は、岩倉家の倍の301石もあり、明治になって子爵となりますが、家督を継いだ徳長(よしなが)が、赤坂あたりの芸者に大枚を注ぎ込んで没落し、大正時代は「貧乏公家」との定評が立ってしまいます。この徳長の三女英子が、後の大女優入江たか子だと知り、吃驚してしまいました。

英子は、 最近、閉校するということで話題になった文化学院(与謝野晶子らも教壇に立った)を卒業して、新劇の舞台に代役で出演したのがきっかけで、スターの切符を手にし、家族の生活を支えたという話です。

入江たか子については、2016年12月27日付の《渓流斎日乗》で、成瀬巳喜男の「まごころ」の中でも取り上げましたが、驚くほど美しい戦前の無声映画の大スターだったとはいえ、本物の華族の娘だったとは。。。

最後におまけ。

「平民宰相」と呼ばれた原敬首相。歴代首相を務める人は、これまで全員、公侯伯子男の爵位を受けるのに、この人は断り続けて、爵位なしで宰相になったからなんだそうですね。

原敬の家系は、南部藩の重臣で、明治薩長からみると逆賊です。原敬には「薩長の田舎侍から爵位をもらってたまるか」という反骨精神があったんでしょうね。

経済学は人々を幸せにできるのか?

浜松城

学生時代は、夏目漱石や古典文学、サルトルやカミュなどの哲学など専ら人文科学に熱中していたため、社会科学、特に経済学の勉強は疎かにしておりました。

まあ、経済学については斜に構えていたところがあり、敬遠していたわけです。それでも、森嶋通夫氏や宇沢弘文といった世界的な経済学者の名前だけは知っており、老境に入り、少しずつ彼らの著作を読み始めております。

でも、門外漢なので、専門書は歯が立ちません。手始めに、宇沢弘文著「経済学は人びとを幸福にできるか」(東洋経済新報社、2013年11月7日初版)を読んでみました。これは、講演会の速記録やエッセイ風の読み物でしたので、読みやすかった。結構知らなかった、蒙を啓いてくれる箇所が多かったので、また、備忘録のため、換骨奪胎で列挙したいと思います。

浜松城

・1929年の大恐慌の時、高名な経済学者サミュエルソンの父親は、インディアナ州ゲーリー(日本の八幡のような鉄鋼の街)のUSスチール社の職工だったが、1920年代初頭はかなり景気が良く、全てのお金をはたいて、フロリダの別荘用地を買ったが、それが詐欺で一晩でゼロになった。これが、サミュエルソンの子どもの頃の大恐慌の思い出。

・第二次大戦の終わった1945年の夏にフリードリヒ・ハイエクとフランク・ナイトがスイスの避暑地モンペルランで一緒になり、戦後の荒廃から回復する経済的基盤を考えるモンペルラン・ソサイエティの原型みたいなものを作る。2人は、シカゴ学派の中心的人物だったが、それが後に、弟子である金儲け主義で新自由主義のミルトン・フリードマンとジョージ・スティグラーに取って変わってしまう。ナイトは80歳過ぎた晩年になって、フリードマンとスティグラーの最近の言動は目に余るものがあるとして、この2人の破門宣言をした。

・英国のシドニー&ビアトリス・ウェブ夫妻は、フェビアン協会を作った新しいタイプの労働運動の指導者だった。この夫妻が英国で初めて作った労働者階級のための大学がロンドン・スクール・オブ・エコノミクスだった。(今やあのトマ・ピケティも学んだ世界一流の大学として有名です。インテリ・ロックンローラー、ミック・ジャガーも通ったとか)

・ケネディ政権などの国防長官を務めたマクナマラは、ベトナム戦争でキル・レシオ(殺戮比率)を使って、ベトコン1人殺すのに何万ドルかかるか戦略・戦術を考えた。このキル・レシオはマクナマラ自身が考えた概念で、太平洋戦争中、日本爆撃の全責任を負っていた司令官カーティス・ルメイ少将の目に止まり、マクナマラはグアム島に呼ばれ、そこで日本攻略の作戦を練った。(如何に安上がりで日本人庶民を殺戮できるかを考えたってことでせう)

・第一次大戦に従軍した米帰還兵にフーバー大統領がボーナスを約束したのに、なかなかそれを履行しないので、数万の帰還兵が1932年5月にワシントンでデモを行った。このデモを共産主義者が煽動しているという根拠がない理由で鎮圧した司令官がマッカーサーだった。フーバー大統領が中止命令しても聞かなかた。徹底的に弾圧し、幼児まで殺されたという記録が残っている。米国人のマッカーサーに関するイメージは、このボーナス・アーミー事件の影響力が大きい。(日本人は誰も知らない)

浜松城

・ケインズは、第二次大戦中も、政府代表というポストを利用して結構酷いことをやっている。その代表が、印象派絵画の買い占めだった。ドイツ軍がパリ侵攻前にフランス政府から名画の疎開を要請された際、個人的に安く買い占めたという。この事実は、ブルームズベリーの一員だった女流作家ヴァージニア・ウルフの日記に残されている。

・シカゴ大学哲学科のジョン・ドラン教授はベトナム反戦運動で逮捕され大学を追われた。「ノーム・チョムスキーはえらい。彼は反戦運動で54回も逮捕されている。それに比べると自分は1回しか逮捕されていない」とドランは話したが、彼の場合、みせしめのためか、懲役10年という重い刑だった。

・私がシカゴ大学にいた頃、ジョーセフ・スティグリッツという天才的な頭脳と魅力的な人柄を持った学生がいた。それから何年かして彼をスター・プロフェッサーとしてシカゴ大学に招いた。2001年、スティグリッツはノーベル経済学賞を受賞した。

・ケンブリッジ大学をトップで卒業する学生の大部分は、イートンやラグビーなど名門パブリック・スクールの教師になることだという。少し成績が落ちる学生は、研究者を志すか、公務員を志望する。一番成績の悪い学生は銀行に行くという。(あら、日本とじぇんじぇん違う=笑)

他人の不幸は蜜の味なのか?

トルファン・ベゼクリク千仏洞  Copyright par Matsouoqua-sausai

今話題の中野信子著「シャーデンフロイデ   他人を引きずり下ろす快感」(幻冬舎新書、2018年1月20日初版)を読了しました。

著者は、テレビで売り出し中の「美人脳学者」で、出版広告も彼女のアップの顔写真が掲載されて、思わず手に取ってみたくなります。

それにしても、「シャーロンフロイデ」、じゃなかった、「シャーデンフロイデ」って何ですかね?

以前、これまた「美人公認会計士」として売り出された女性が著書を山のように出版して、「セレンディピティ」なる煙に巻くような言葉を流行らせましたけんど、そんな類いの言葉なんでしょうか?(今、あのマヨラーでしたっけ?美人公認会計士さんは、最近メディアに出なくなりましたね。どうしちゃったのかしら?)

いやはや、シャーデンフロイデの話でした。何やら、ドイツ語で、直訳すると「毒の喜び」となるらしく、誰かが失敗した時に、思わず湧き起こってしまう喜びの感情なんだとか。

「他人の不幸は蜜の味」と訳せばいいのかもしれません。まあ、妬みや嫉妬などの感情から来る復讐心みたいなもんかもしれませんが、彼女は、心理学者ではなく、脳学者ですから、そんな感情が何処から来るのか冷静に脳を解剖、いや分析してます。

それは、愛情ホルモンとか、幸せホルモンなどと俗に呼ばれる「オキシトシン」という物質が、毒の喜びに関係しているというのです。

話せば長くなってしまいますので、なるべく早く簡潔に書きたいのですが、(ご興味のある方はこの本を読まれればいいと思います)オキシトシンが厄介なのは、「人のため」とか、「社会正義のため」などといった感情になって、公共交通機関の中で暴行を働いたり、ネットで匿名という安全地帯にいて罵声を発したりするという複雑なものだというのです。

二律背反、絶対的自己矛盾の西田哲学みたいです。

芸能人や政治家の不倫に関しても、社会的に抹殺しかねないほどのブーイングが巻き起こるのも、それを認めてしまえば、社会秩序や倫理や道徳が保てないという危機感から来るというのです。

本人は、正義感でやっているので、糾弾や攻撃行動は終息するまで止むことはありません。

例によって、以下に備忘録として換骨奪胎で列記します。

・心理学者バリー・シュワルツは「選択肢が多いと迷ってしまい、幸福度が下がる」と主張。人間の脳は「考えたくもないけど、間違いたくもない」と虫のいい働きをする。

→皆んながやっているから、人気があるから、多くの人が選んでいるから、有名だから、などといった理由で人は簡単に物事を決めてしまうんですね。

・本当かどうか確認しようのないことでも、占い師に言われたことをそのまま実行したり、高額セミナーにはまったりするのは、「自分が進むべき方向を自分で決めたくない」という思いが根本にある。

・「神の名のもとに」ある教義に判断を任せれば、自分は考えなくて済むし、自分の行動に責任を取らなければならないという不安や恐怖を肩代わりしてもらえる。

→ 止むことないテロも宗教の名を借りる傾向が強いのはそのせい?

・長らく米作地域だった日本は、集団を尊重する志向性の高い人々が淘汰の結果、生き残った。麦作地域のように合理的で冷たい判断は、いかにそれが正しくとも集団にとっては正しくない。火山大地のため米作に適さなかったり、米作よりも海運が盛んだった薩摩や長州が、より合理的な意思決定をして大きな節目を作ったのは示唆的。

・脳内のセロトニンは、不安を感じにくくする物資で、セロトニントランスポーターの密度が高い人は、楽観的な判断を下す傾向がある。日本人の98%は、このセロトニントランスポーターの密度が低い。つまりは、セロトニンが低く、不安を抱きやすい。これは、自然災害が多い日本という環境で、心配症の方が予防対策を講じて有利で、生き延びやすかったからではないか。

・セロトニンが多い人間は、思い切った投資をしたり、遊びにも大胆にお金を使うことができる脳を持っている。しかし、セロトニンが少ない日本人は不安を抱きやすく、老後を心配したりして、大胆にできる人が少ないと考えられる。

→ このように、脳科学的に分析してくれると、毒の喜びも、社会正義心も、そして大胆な行動が取れないのも、「なあんだ、脳がそうなっているだけで、俺のせいじゃなかったのか」と安心してしまい、思考停止になりそうですね(笑)。

「埼玉」の由来は「人を幸せにする心」、古代は東日本の中心地だった!

川越市

谷川彰英著「埼玉 地名の由来を歩く」(ベスト新書、2017年9月15日初版第2刷)を読んでます。

凄く楽しみにして読み始めたので、大変残念でした。誤植が多いのです。

前半に、「言明天皇」が出てきますが、明らかに「元明天皇」の間違い。1回や2回の間違いならよくあることですが、これが、4回も5回も続いて「言明天皇」とあると、確信的です。「えっ?最近の歴史教科書では名前が変わったの?」と、こちらで何度も辞典や事典で調べ直したほどです。

元明天皇は、平城京に遷都し、「古事記」「風土記」を編纂した女帝として有名です。

もっと酷いのは、79ページの地図です。新座市、和光市、志木市など埼玉県南部と練馬区など東京都北部の地図なのですが、清瀬市の隣が、何と「東村山市」と明記されているのです。「東久留米市でしょ!!!」と大声で叫びたくなりました。

東久留米市は、あの渓流斎先生がご幼少の砌、野山を駆けずり回った由緒ある土地柄です。ありえなーい。

著者は、信州松本の御出身で、筑波大学教授などを歴任された学者です。この辺りの土地勘はないでしょうが、あまりにもおそ松君です。それ以上に、出版社(KKベストセラーズ)の編集者・校正者も見抜けないんでしょうかねえ?劣化を感じます。

と、最初からかなり貶してしまいましたが、この本から教えられること多とします。著者は「地名の由来を歩く」シリーズを既に、京都、奈良など5冊も刊行されており、地名の歴史の専門家でしょう。手馴れています。新聞記者のように自分の足で歩いて取材している辺りは、感心します。

誤記以外は素晴らしい労作です。以下、いつものように換骨奪胎で。

・さいたま市大宮区に鎮座する氷川神社は、武蔵国の「一宮(いちのみや)」とされている。古代の武蔵国の国府が置かれたのは、今の東京都府中市。ここにある大国魂(おおくにたま)神社は、武蔵国の「総社」なので、一宮の氷川神社の方が格上である。(「総社」とは、当該国の格式が高い神社(多くは6社)をまとめて勧請して祀った神社のこと。)

・ということで、古代、武蔵国の中心は、府中ではなく、埼玉だったのではないか。

神の御魂(みたま)には大きく「荒(あら)御魂」と「和(にぎ)御霊」の二つに分かれる。荒御魂とは、「荒く猛き神霊」、和御魂とは「柔和・情熱などの徳を備えた神霊または霊魂」のこと。この和御魂には、さらに二つの神霊があり、一つは「幸(さき)御魂」で「人に幸福を与える神の霊魂」。もう一つは「奇(くし)御魂」で、「不思議な力を持つ神霊」のこと。

埼玉は、前玉(さきたま)から転じたもので、この前玉は、幸御魂(さきみたま=人に幸福を与える)から来たものだった。

・「続日本紀」によると、元正天皇の霊亀2年(716年)、「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7カ国にいる高麗(こま)人(=高句麗からの渡来人)1799人を武蔵国に移住させ、初めて高麗郡(こまのこおり)を置いた」とある。高麗郡は、今の日高市から飯能市にかけての丘陵地。恐らく、高句麗から亡命した若光王が朝廷に願い出て許されたからではないか。

・一方、新羅からの渡来人を移住させた地域に「新羅郡(しらぎのこおり)」を置く。今の志木市、和光市、新座市辺り。志木は、新羅から転訛されたものと言われ、新座は、新羅郡から新座(にいくら=新倉とも)郡になったことから由来すると言われる。

(上田正昭著「帰化人」によると、百済系の漢氏=あやのうじ=は、軍事=鉄器や馬なども=、土木、外交などに強く、蘇我氏と結びつき朝廷内で台頭します。法隆寺「釈迦三尊像」をつくった止利仏師や蝦夷を征伐したとして知られる坂上田村麻呂らも漢氏の子孫です。

新羅系の秦氏=はたのうじ=は、大蔵官僚となり大和朝廷の財務を司ります。聖徳太子や藤原氏との結びつきが強く、国宝第1号に指定された弥勒菩薩像で有名な広隆寺は秦河勝=はたのかわかつ=が創建したもので、御本尊様は、聖徳太子から賜っています。神奈川県秦野市も、秦氏が移住した土地です。)

・和光市は、江戸時代は、「上新倉村」「下新倉村」「白子村」と言われ、白子宿は繁栄していた。新羅はかつて、志楽木(しらぎ)と書かれ、それが転じて白木となった説がある。白子も語感的に新羅をイメージさせる。恐らく、今の和光市が、古代新羅人の移住先の中心地ではなかったか。

・朝霞市は、近世以降、膝折村と言われていた。これは、応永30年(1423年)、常陸国の小栗城を攻め落とされた城主の子息小栗助重が逃げ延びて、この地に来たとき、馬が勢い余って、膝を折って死んでしまったという伝説から付けられたという。膝折村から朝霞町になったのは昭和7年のこと。東京・駒沢にあった東京ゴルフ倶楽部をこの地に移転させ。開場日に朝香宮殿下の御臨席を賜り始球式が行われた。この朝香宮の名前を頂くことにしたが、そのままでは畏れ多いので、この地に発生する朝霞(あさぎり)にちなんで朝霞町にしたというもの。

・昭和天皇の弟宮秩父宮は、従来なら「三笠宮」など畿内の山の名から命名されていたのを、あえて、武蔵国の名山である秩父から命名された。秩父の歴史に深い理解があったものとみられる。地元民は大いに喜び、秩父宮は今では秩父神社の御祭神として祀られている。

・川越は、平安末期、桓武平氏の流れを汲む秩父氏がここに進出して荘園を開き、秩父重綱の子重隆以降は河越氏と名乗る。この重隆の孫重頼の娘「郷御前(さとごぜん)」は、源義経の正室。この史実は意外と知られていない。

財務省改ざんリークは、大阪地検特捜部?

中国・昭陵     Copyright par Matsouoqua-Sausai

一昨日(3月13日)、この《渓流斎日乗》に「 財務省による改ざんをリークしたのは誰なのか?」を書いたところ、今日発売の「週刊新潮」が、その「答え」を書いているようでしたので、通勤電車に乗り込む前に、思わず買ってしまいました。400円。

時代は変わりました。周囲をざっと見回してみると、電車の中で、週刊誌を読んでいる人間は私一人しかいませんでしたね。新聞も含めて、他に誰もいません。

ほとんどの皆さん、スマホで何かしてました。

銀座にて「豚と茄子炒め定食」800円

さて、その核心ですが、週刊新潮は、「大阪地検特捜部の反安倍分子が、朝日新聞にリークした」と書いてますね。

私はニュース・ソースは永久に分からないだろうと思ってましたが、朝日新聞の「さる幹部」が、いとも容易く、週刊誌記者にくっちゃべっちゃていたので、逆に驚いてしまいました。

でも、大阪地検なら一番可能性が高かったので、意外性はありませんでした。まさか、彼(ら)が、産経や読売にタレこむわけがありませんからね(笑)。

「週刊新潮」は面白い週刊誌です。前半で「内閣人事局」をつくって、財務省から大阪地検に至るまで、官僚の人事権を握って「モノを言わせぬ」面従腹背の独裁体制を敷いた安倍首相を批判というか、おちょくっておきながら、その一方で、しっかりと、イタコの評論家らに「誤報新聞」朝日批判も忘れておりません。

バランス感覚の取れた週刊誌だと言えるでしょう。

皮肉に聞こえましたか?

何と言っても、「常識を壊されるようなことがあった」などという言葉を身近に残して自殺した近畿財務局の50代半ばの職員が気の毒で仕方ありません。

恐らく、上司から、意にそぐわぬ改ざんを命じられたのでしょう。

実に痛ましい。

あ、もう一つ。気取った新聞社は、絶対書かないこと(笑)。

解任された佐川国税庁長官。年収は2193万円ありましたが、退職金の4999万円は、満額支払われたということです。

官僚の世界もトップになると、破格というか、半端じゃない高額な補償があるんですね。

これじゃあ、皆んな、出世のために忖度しますよ。人間だもん。

(勿論、原資は、国民の血税です)

投資は逃避なのか?似たもの同士なのか?(単なる地口ですが)

興城 copyright par Matsouoqua Sausai

いやはや、先日足を運んだ本屋さんで、刺激的なタイトルに引かれて、ついつい買ってしまいました。

荻原博子著「投資なんか、おやめなさい」。版元はあの有名なY君が在職する新潮新書で、2017年9月20日初版です。私が買ったのは同年11月15日発行の5刷。かなりのスピードで売れているようです。

著者は、テレビにも登場する著名な経済ジャーナリストですが、この本では、保険会社から銀行、証券会社に至るまで国内外を問わず、あらゆる金融機関を敵に回して、「正義」を貫いている清清しさがあります。

商人は物を売ります。八百屋さんは野菜を売り、魚屋さんは水産物を売ります。もちろん、ビジネスですから利潤を追求します。しかし、この本を読んで、金融機関ほど、自分たちの暴利をむさぼる金融商品を売って、阿漕な商売をする商人はいないのではないかと思わせますねえ。

何しろ、手数料が膨大なのです。例えば、1000万円の投資信託を買うのに、4%も手数料を支払うのです。40万円です。1000万円のワンルームマンションでも、高級車でもいいですが、買うときに40万円もの手数料支払いますかねえ?(もちろん、登記などで別に費用がかかりますが)。投資信託なら、これまた、信託報酬と言われる「手数料」を毎年毎年、払わなければならないのです。年率2%以上もあります。年間20万円以上です!べらぼうですね。

例によって、個人的な感想とともに、換骨奪胎で引用させて頂きます。

・【保険】の場合、1万円の保険料を支払うと、そこから運営経費や保障などでお金が差し引かれる。金額は、商品、年齢、性別などによって違うが、モノによっては、加入して4000円ほど引かれて、6000円からスタートになります。スタートが6000円だと、3%もの高利回りで運用されても、なかなか最初の保険料の1万円には到達しないのです。

⇒確かに、保険は、契約すると4割は最初から保険会社に持っていかれてしまうと聞いたことがあります。この4割は、わざわざ会社にまで足を運んで、相談に乗ってくれる、保険外交員らの給料の一部になるわけです。

・顧客の無知につけこむ「ドル建て生命保険」。例えばの例。「35歳男性が死んだときに10万ドル受け取れる終身保険に、月々161ドルの保険料で加入したとします。この保険では、10年後に解約すると約1万6000ドル、20年後なら約3万5900ドルとなります。」

これを1ドル=100円に単純計算すると、月々の保険料は1万6100円なので、10年間に支払う金額は、1万6100円×12カ月×10年=193万2000円。あれ?200万円近く支払っているのに、10年後に解約すると160万円しかもらえない。20年後に解約したら、386万4000円支払ったのに、359万円しか戻ってこない、というわけです。

・円が最高値になったのは、東日本大震災直後の2011年3月17日で、1ドル=76円だった。

・【外貨預金】通常の銀行だと、ドルの場合、預け入れに1円、引き出しに1円が為替レートに上乗せされる。

つまり、100円に対して、合計2円の手数料が引かれるということになる。

ということは、

100万円を預けると、預け入れと引き出しで手数料2万円も払うことになる。

ただし、オーストラリア・ドル預金の往復手数料は5円。100万円なら5万円!が手数料になります。

・【金取引】2017年6月7日の時点で、金1グラムの買値は4952円、売値は4867円。85円の差額は、税金と手数料。こうしたことを考慮すると、買ったときよりも1割以上価格が上がっていないとトクしない。

また、日本の金価格は、海外の金価格と為替に支配される。金の価格が変わらないとしたら、為替が1割以上「円安」になっていないとトクしない。そんなタイミング良く円安にはならない。

・【変額個人年金】ゆうちょ銀行で販売していた「変額個人年金」は、加入時に4%の契約手数料。これに保険運用期間中に、年間合計約3%の手数料を取る。

⇒1000万円の変額年金に加入したら、まず40万円取られ、毎年約3%の手数料を25年間払い続けると約500万円となり、残りは500万円しかなくなってしまう。毎年5%以上の運用成績ではないと元手は取り戻せない。

もう「郵便局だから安心だ」という神話は通用しない!

・【結論】デフレなので、銀行に預けても、金利は0.001%しかつかないが、元本だけは保証されている。だから、膨大な手数料を取られる投資信託や変額個人年金などで運用するよりも、「投資をしない」というのも一つの考え方。

⇒それでも投資をしたいのなら、銀行や証券や他人任せにしない。地道に毎日勉強して自己責任で、借金などせずにまず小額で株式投資などをやった方がまだいい。損をするのも自己責任。

以上

嗚呼、エキスだけ書いてしまいました(笑)。

蘇我氏が分かれば古代史が分かり、古代史が分かれば日本の歴史が分かる

Copyright par Matsouoqua Sausaie

先日、倉本一宏著「蘇我氏」(中公新書)を読了しましたが、1週間近く経つのに、まだ、あの感銘が消えていません。「そっかあ」「そういうことだったのかあ」と納得することばかりでした。

この感銘もいずれ忘れてしまうので、書き留めておかなければなりません。前回書いた記事に【追記】として掲載しようかと思いましたが、稿を改めることにしたわけです。

倉本氏は、「おわりに」に梗概をうまくまとめておられました。それなどを参考に私の感想も含めて列記致したく存じます。

・「乙巳の変」は(1)舒明天皇と皇極天皇との間の皇子、中大兄王子(なかのおおえのみこ、後の天智天皇)と、舒明天皇と蘇我馬子の女(むすめ)法提郎媛との間の皇子、古人大兄王子(ふるひとのおおえのみこ)との大王位継承争い(2)中臣鎌足と蘇我入鹿との間の国際政策構想(唐からの圧力にどう対処するかの外交問題)の争い(3)蘇我氏内部における本宗家争い(4)大夫(まえつきみ)氏族層内部における蘇我氏族と非蘇我氏族との争い―など複雑な要素がからんだクーデターだった。

・その際、中大兄王子の敵対者として、その実像以上に反天皇の立場(幕末史でいうところの賊軍)に描かれたのが蘇我蝦夷・入鹿親子だが、究極的には、「日本書紀」の編者である持統天皇と藤原不比等の主張に基づくものだったと考えられる。

・中臣鎌足の子息藤原不比等は、嫡妻(ちゃくさい)として、蘇我馬子の孫で、蝦夷の甥に当たる連子(むらじこ)の女である娼子(しょうし、媼子=おんし)を迎えたのは、蘇我氏という尊貴性を自己の中に取り入れて、正統性を主張する魂胆が背景にあった。

・同時に、藤原氏の不比等は、蘇我氏が6世紀から行ってきた天皇家との姻戚関係の構築による身内氏族化という政略も同時に踏襲した。(藤原氏による天皇家との外戚関係構築は、蘇我氏の真似をしただけだったとは!)

・乙巳の変で、蘇我氏本宗家は滅亡したが、本宗家の弟、甥筋などに当たる田中氏、久米氏、小治田氏、桜井氏などは奈良時代辺りまで、石川氏や宗岳(そが)氏などとして、藤原氏独裁の中、低官位に甘んじながらも平安末まで生き抜いた。

・最近の歴史教科書は、昔と大違い。聖徳太子の名前も消えるという噂もありましたが、今は厩戸王子(うまやとのみこ=聖徳太子)と記述されているようです。何故なら、聖徳太子は、厩戸王子の死後の諡(おくりな)で、生前に一度も、聖徳太子と名乗っていなかったからだそうです。

・この聖徳太子は、父用明天皇(欽明天皇と蘇我稲目の女堅塩媛=きたしひめ=との間の皇子)と母穴穂部間人王女(欽明天皇と蘇我稲目の女小姉君との間の皇女)との間に生まれた皇子で、つまり、蘇我氏の血が半分流れていたわけです。

・蘇我馬子の孫連子(むらじこ)の子孫が石川氏を名乗るも、元慶元年(877年)に、宗岳(そが)と改姓。これが後世には「むねおか」と読むようになり、宗岡、宗丘などの字も当てられた。埼玉県志木市の宗岡も関係あるのではないかという説も。

・参議(正四位以上)。平安時代になると、蘇我氏末裔は三位以上の官人はいなくなり、多くは五位で終わってしまう。(六位以下の官人の叙位記事は原則として「六国史」には掲載されない)

・平安時代の摂関期になると、国家による正史が編纂されなくなり、その代わりに古記録と呼ばれる男性貴族や皇族による日記が現れるようになる。倉本氏は、かつて、摂関期は古代氏族としての蘇我氏は完全に終焉したと考えていたが、それが誤りだったと気づきます。古記録には、蘇我氏末裔は、六位下の下級官人として古記録に登場していた!(同様に古代の名族である安倍氏、阿部氏、紀氏、石上氏、物部氏、平群氏、巨勢氏、大伴氏、伴氏、佐伯氏、春日氏、大神氏、橘氏なども健在だったと言われてます)

倉本一宏著「蘇我氏 古代豪族の興亡」は悲運一族の名誉回復書か?

倉本一宏著「蘇我氏 古代豪族の興亡」(中公新書、2015年12月20日初版)。この本は面白い。実に面白かった。

著書は1958年、津市生まれ。国際日本文化研究センター教授。昨夏(2017年8月29日配信)に「戦争の古代史 ―好太王碑、白村江から刀伊の入冠まで」(講談社現代新書)を読んで、大興奮しましたが、その同じ著者でした。はずれがありませんね、一般向けにこの学者の書くものは。今度は、目下発売中の「藤原氏―権力中枢の一族」(中公新書、2017年12月20日初版)も読んでみようかなと思ってます。

倉本氏は恐らく、現代日本を代表する古代史の泰斗ではないでしょうか。

最近、ネット上では、古代史については、誰も分からないだろうからということで、「講釈師、見てきたような嘘をつき」といった内容の素人によるいい加減な記述投稿が目立ち、腹が立っていたのですが、倉本氏の著作は信頼できます。「古事記」「日本書紀」はもちろん、国内の「藤氏家伝」「元興寺伽藍縁起 流記資材帳」から、「呉志」「礼記」「晋書」といった漢籍、朝鮮の「三国史記 百済本紀」などに至るまで多くの原資料に当たって執筆しているので、国際的な視野も広く、敵対する両方の立ち位置まで俯瞰して、できる限り公平性を保っています。

この本は、いわば、これまで天皇絶対史観によって、「蘇我氏=専横=悪玉」「討伐されて当然」として歴史的に決定付けられていた悲運の一族の名誉回復書と言えるかもしれません。

また、大塚ひかり著「女系図でみる驚きの日本史」(新潮新書)で初めて知った(2018年1月17、18日配信)のですが、蘇我稲目ー馬子ー蝦夷ー入鹿の蘇我本流の宗家は滅んでも、いわゆる傍流、分家は、あの藤原氏よりいち早く、天皇家の外戚になったりして、現代の皇室に血脈がつながっていたんですね。

この本の大団円は、やはり、蘇我本宗家が滅んだ皇極4年(645年)6月12日の「乙巳(いつし)の変」でしょう。乙巳の変といっても、半世紀もの昔に学生だった私の世代は誰も知らないと思います。教科書にも参考書にも出てきませんでした。ただ単に「645年 大化の改新」のみです。

しかし、乙巳の変というのは、血生臭いクーデター事件のことで、その後、実権を握った中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が中心となって行った、公地公民制などによる中央集権国家建設を目的とした一連の政治改革のことを大化の改新と言うのが歴史的にも正確な言い方でした。

天皇王権の正統性を詳述した「記紀」によると、乙巳の変は、天皇家から実権を奪って独裁政権を樹立しようとした専横な蘇我一族を天誅により罰したというもので、それがこれまでの「正義」「正当」であり、「歴史」でしたが、この本によると違います。乙巳の変は、複雑な政争だったということです。

当時は、ちょうど唐の覇権主義が朝鮮半島から日本列島にまで及ぼうとしている東アジアの激動期でした。これを向かい討つには、高句麗のように権力集中を目指して、傀儡王を立ててでも独裁権力を振るおうとする蘇我入鹿。(この時、合議制のマエミツキ会議のトップである大臣=オオマエミツキでした)彼は、厩戸王子(聖徳太子)と蘇我蝦夷の妹である刀自古郎女の間の皇子、山背大兄王子を亡きものにしてしまいます。

その代わり、舒明天皇と蘇我蝦夷の妹法提郎媛との間の皇子、古人大兄王子を次期天皇に祭り上げようと画策します。

これに対抗したのが、蘇我一族の血が一滴も入っていない舒明天皇と宝女王(皇極天皇)との間の皇子、葛城王子(=中大兄皇子、後の天智天皇)でした。彼は、唐から最新の統治技術を学んだ留学生や学問僧からの意見を取り入れ、官僚的な中央集権国家建設を目指します。

中大兄皇子の側には、中臣鎌足が付き、鎌足は、蘇我一族の内紛に目に付け、蘇我氏の氏上(うじのかみ)と大臣(おおまえみつき)の座を餌に、蘇我倉氏の石川麻呂と阿倍氏の内麻呂を誘い込んだのではないかというのが、倉本氏の説です。

乙巳の変の刺客に選ばれたのは、中臣鎌足が推挙した佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田(かつらぎのわかいぬかいのあみた)。

「石川麻呂が上奏文を読み上げ終わりかけていた頃、中大兄皇子が入鹿に突進し、剣で頭と肩を斬り割いた。入鹿が立ち上がると、子麻呂が片脚を斬った。皇極天皇が宮殿に入った後、子麻呂と網田が入鹿を斬り殺し、入鹿の屍は雨で水浸しになった前庭に置かれ、蓆や障子で覆われた」と書かれています。

とても今から1373年前の大昔に起きた出来事とは思えないほど生々しい描写です。

「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書」は人類必読書ではないでせうか

東北学の権威である赤坂憲雄・学習院大教授が、「必読書」として多くの人に勧めておられた石光真人編著「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書」改版(中公新書2017年12月25日)を読了しました。初版は、1971年5月25日発行とありますから、もう47年も昔。遅ればせながら、死ぬ前にこの記録を読んで本当によかったと思いました。

私がこれまで読んだ本の中でもベスト10に入るぐらいの感銘を受けました。この本を読むには、居住まいと襟を正して、正座しなければならないという境地になります。

武士道の本質が初めて分かったような気がしました。巷間あふれる小説や講談の類いは嘘臭く興醒めしてしまいます。「葉隠」でさえ、頭の中で考えられた口先だけの論法にさえ思えてしまいます。

この本については、この《渓流斎日乗》でも以前に触れたことがあります。柴五郎は、陸軍大将にまで昇り詰めた英雄的軍人でした。明治33年に起きた義和団事件の際、北京駐在武官(中佐)だった柴は、その冷静沈着な行動で列強諸国から一目置かれる存在でした。義和団事件の詳細については、あの不愉快な(笑)東洋文庫所蔵の「北京籠城」(平凡社)に講演速記として掲載されております。

しかし、この栄光なる柴大将の過去は、実に悲惨で、壮絶な艱難辛苦の連続だったのです。それが、この「遺書」に書かれています。安政6年(1859年)、会津藩士として会津若松に生まれた柴五郎は、薩長革命軍による東北征伐=会津戦争という動乱の中、祖母と母と姉妹らは、会津城下で、「薩長の手に掛かるのなら」と自害して果ててしまうのです。柴五郎、時に満九歳。五郎だけは、いずれ戦力となる武士の男として成長せよ、と田舎に預けられていた時でした。柴五郎は、その時を回顧してこう書きます。

…これ永遠の別離とは露知らず、門前に送り出たる祖母、母に一礼して、いそいそと立ち去りたり。ああ思わざりき、祖母、母、姉妹、これが今生の別れなりと知りて余を送りしとは。この日までひそかに相語らいて、男子は一人なりと生きながらえ、柴家を相続せしめ、藩の汚名を天下に雪ぐべきなりとし、戦闘に役立たぬ婦女子はいたずらに兵糧を浪費すべからずと籠城を拒み、敵侵入とともに自害して辱めを受けざることを約しありしなり。わずか七歳の幼き妹まで懐剣を持ちて自害の時を待ちおりしとは、いかに余が幼かりしとはいえ不敏にして知らず。まことに慚愧にたえず、想いおこして苦しきことかぎりなし。…

その後、降伏した会津藩士らは、下北半島にある極寒の、しかも火山灰地の不毛の斗南に追放され、作物が取れず、ぼろ家は襖も障子もなく吹き曝しで、赤貧洗うが如くという以上に餓死寸前にまで追い込まれます。

時に犬の肉しか食べるものがなく、柴少年は嘔吐を催している中、父から「やれやれ会津の乞食藩士どもも下北に餓死して絶えたるよと、薩長の下郎武士どもに笑わるるぞ、生き抜け、生きて残れ、会津の国辱雪ぐまで生きてあれよ、ここはまだ戦場なるぞ」と厳しく叱責されたことなども書き残しております。

その後、柴少年は、細い伝手を辿って東京に出て、下僕といいますか、奴隷のような生活をして辛酸を舐め、幸運なことに陸軍幼年学校の試験に合格して、何とか生き抜き、「遺書」は陸軍士官学校の3年期で終わっています。陸軍大将柴五郎は、自分の手柄については語りたがらない人物だったようです。

この「遺書」を編纂し、第二部として柴五郎の評伝を書いた石光真人は、近現代史や満洲関係に興味がある人なら誰でも知っている露探(ロシア情勢の情報専門家)石光真清の御子息だったんですね。この真清の叔父に当たるのが、「遺書」にもよく出てきた、柴五郎を陸軍幼年学校の受験を勧めた恩人野田豁通(青森県初代大参事)で、その関係で、二人は親交を結んでいたわけです。

子息の石光真人は、東京日日新聞の記者などもしていたことから、晩年の柴五郎は、「遺書」の編集等を任せたようです。

柴五郎は、「日本は負ける」と予言していた敗戦直後の昭和20年12月3日、死去。享年87。実兄の柴四朗(白虎隊の生き残り)は、東海散士の筆名で政治小説「佳人之奇遇」書いたジャーナリスト、政治家。

この本で、維新の動乱に翻弄され、賊軍の汚名を着せられた会津藩士の武士道の魂に触れました。「武士は食わねど高楊枝」のような痩せ我慢の精神かもしれませんが、どんなにどん底に堕ちても、絶対に不正は働かず、あくまでも真摯に誠実に生き抜くといった精神です。

自分も襟を正したくなります。同時に、今年の「明治維新150年記念式典」も手放しで喜んで祝いたい気持ちもなくなってしまいました。

少なくとも、60歳の佐川宣寿国税庁長官(旧会津藩出身。都立九段高〜東大〜大蔵省)のように「差し押さえ物件を格安で仕入れて東京・世田谷区に大豪邸を建てた生涯収入8億円の官僚」(週刊文春)のような恥辱に満ちた名前を歴史に残して死にたくないものです。

【追記】

会津戦争で編成された隊の編成は以下の通り。四方位神に則ってます。

【東】青龍隊(36歳〜49歳)国境守護

【西】白虎隊(16歳〜17歳)予備(悲劇として語り継がれます)

【南】朱雀隊(18歳〜35歳)実戦

【北】玄武隊(50歳以上)城内守護

戊辰戦争で、会津藩士の戦死者は約3000人、自害した女性は233人といわれてます。勿論、柴五郎の祖母、母、姉妹も含まれていることでしょう。

これほど、会津藩が蛇蝎の如く敵視されたのは、藩主松平容保が京都守護職に就き、新撰組、京都見廻組を誕生させ、「池田屋事件」や禁門の変などで、長州藩士や浪士を多く殺害したことが遠因。長州桂小五郎(木戸孝允)はその復讐の急先鋒で、宿敵会津藩の抹殺を目論んでいたといわれます。

靖國神社には、戦死した会津藩士は祀られていません。