松岡將写真・文「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 参百景ー美の殿堂へのいざない」(同時代社)

 「有言実行の人」です。

 まさかこんなに早く企画が実現するとは思ってもみませんでした。

 私のブログが本になりました。いや、間違いました。言葉足らずでした。屡々、私のブログに掲載させて頂いている写真(WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua)が本になりました、というのが正確です。

 7月7日に同時代社から刊行される「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 参百景ー美の殿堂へのいざない」(4800円+税)という美術書のことです。

 写真と文は、近現代史・満洲研究家の松岡將氏です。1970年代初頭といいますから、もう今から半世紀近い昔。30歳代後半の農水省のエリート官僚だった松岡氏は在ワシントン日本国大使館勤務を命じられました。丸4年間の滞米生活を送った折、まさに公私ともに通い詰めた所がワシントン・ナショナル・ギャラリーでした。自宅から車でわずか20分という近距離だったこともあり、週末のプライベートの時だけでなく、日米農産物貿易交渉に関わる日本の国会議員や政府関係者、米国の上下両院議員、米農務省高官らとの接遇場所や空いた時間に案内するなど訪問回数は、幾何学級数的(多いという意味です)。ついでに撮った写真も何百枚、何千枚だったようです。詳しくは分かりませんが、そのカメラ装備も、ライカのようなプロ仕様だったと思われます。欧米の美術館のほとんどでは写真撮影は問題はないのですが、フラッシュ撮影は禁止でしょう。恐らくプロカメラマンのように照明まで配備できなかったかもしれませんが、驚くほど画像が鮮明で、画素数もかなり高感度です。

 実は、この有り余るほどのギャラリーの写真を松岡氏は最初、持て余していたようです。彼は、有難いことに、このブログの愛読者でして、私が適当に選んだ写真とブログの記事とのあまりにもの乖離(つまり合っていないこと)を嘆かわしく思われたらしく、ある日、「この写真をブログに御自由に使ってください」と、小生に添付メールで送ってくださったのです。

 そのうち、「ギャラリーの写真をまとめた本をいつか出したい」という話を伺ったのが、1年半ほど前でしたか。それが、「ある出版社に企画を持ちかけています」と聞いたのが、昨年の今ごろ。「著作権は大丈夫かなあ」と心配しつつ、その後、コロナ禍もあり、「企画の実現は随分先のこと」とこちらで勝手に思っていたところ、予告もなく、この本が「贈呈」として送られてきたのです。もう吃驚です。

 表紙の写真は、レオナルド・ダビンチ作「ジネヴラ・デ・ベンチの肖像」(1474~78)です。ダビンチの作品が欧州の美術館以外で所蔵されているのは、ここしかないそうです。この名作は、ワシントン・ナショナル・ギャラリーの創設者アンドリュー・メロンの長女エルサ・メロン・ブルースAilsa Mellon Bruce (1901~1969)が1967年に購入したといいます。長い美術史から見れば、つい最近のことではありませんか。

 ワシントン・ナショナル・ギャラリーは、世界の有名美術館の中でもごく新しい美術館で、実業家・銀行家で米財務長官などを歴任したアンドリュー・メロン(カーネギー・メロン大学に名を遺す)が1931年に個人でエルミタージュ美術館などから取得した収集品を米国民に寄贈する形で、当時のルーズベルト大統領と米議会の同意で1937年にワシントンDCの地で着工し、1941年に開館した美術館だったのです。近現代史、昭和史のど真ん中じゃありませんか。

 松岡氏はさすが近現代史研究家ですから、「あとがき」の中で、1931(昭和6)年は満洲事変が勃発した年、1937(昭和12)年は支那事変(日中戦争)が開始した年、ギャラリー開館2カ月前の1941(昭和16)年1月は、陸相東条英機大将が「生キテ虜囚ノ辱メヲ受クルナカレ」とする「戦陣訓」を全軍に示達した、などと書いておられます。

 そして、「ナショナル・ギャラリーは全長238メートル、戦艦大和は全長256メートルで、大きさはほぼ同じだった」などと過去の御自身の著作からも引用しています。日本が軍国主義に邁進している時に、米国は着々と文化を育成していたのです。

 本書では、肝心の美術作品については13世紀末の宗教画辺りから、ルネサンスを経て、近世、近代の写実主義、印象派辺りまで網羅しています。ダビンチ、ラファエロ、レンブラント、モネ、ゴッホら巨匠の名前は、表紙写真の帯に出ている通りです。

オランダの聖ルチア伝説のマスター「天上の聖母マリア」(1485/1500年)WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 私はかなりの面倒臭がり屋ですから、松岡氏からお借りした写真をブログに掲載する際、わざと(笑)キャプションを掲載しませんでしたが、この本ではしっかりと、作品名、年代、作者まで明記されていますので、長年、渓流斎ブログを見て「この写真の作品は何だっけ?」と悩んでおられた方々は、一気に解消されます。(松岡氏は、特別に思い入れのある作品については、個人的なコメントを添えています。例えば、上の写真の「天上の聖母マリア」については「ワシントン駐在となる数年前に母を失ったばかりの私の心を、仏画にも似て癒してくれるものだった」などと…)

 かつては王侯貴族ぐらいしかこのような美術作品に触れることができなかった時代と比べれば現代人は本当に恵まれています。しかも、ワシントン・ナショナル・ギャラリーは、米国民のために設立された美術館なのに、「文化は人類共通の財産」として、異邦人(しかも設立当時は敵性国人!)にも自由に開放しているところが本当に素晴らしい。松岡氏もあとがきで、「(写真を)このまま自分一人のものとしておくのは、いかにも勿体ない。出来れば何とかこれを多くの人々と共有することができないか、と思うようになった」ことが、出版の動機だったことを明かしています。

 この「世界初」の書評(?)を読まれて御興味を持たれた方は、是非手に取って御覧になって頂ければ私も嬉しいです。

簿記からファイナンスに至る会計の歴史を俯瞰=「会計の世界史」

 田中靖浩著「会計の世界史」(日経出版社)を読了しました。6月25日付のこのブログで、前半とビートルズの部分だけを読んで色々とケチを付けてしまいましたが、後半は著者の専門である会計の話がふんだんに盛り込まれ、しかも、しっかりと年号も入っておりました。とても面白い本でした。

 前回も書きましたが、もし高校生の時にこの本を読んでいたら、私も将来、公認会計士を目指していたかもしれません。1919年に近代的な管理会計が始まって100年。今はちょうど端境期に来ています。

 大雑把に言いますと、16世紀のイタリアのベネツィア(家族で資金調達)とフィレンツェ(仲間から資金調達)で始まった「簿記」が、17世紀、世界で初めて株式会社(東インド会社)をつくったオランダ(見知らぬ株主から資金調達)、そして蒸気機関の発明で産業革命を成し遂げた英国で財務会計が発達し、それが米国でさらに効率的な管理会計(「科学的管理法の父」フレデリック・テイラー)に発展し、20世紀末のグローバリズムにより、会計は「過去の後追い」から「未来のキャッシュフロー」を予測するファイナンスになった、という歴史的経過を辿っているのです。

 と、書いても分かりにくいかもしれませんが、この本では色々挿絵や図解で説明してくれているので初心者にとっても分かりやすいです。

ヤブカンゾウ

 会計とは直接関係ないのですが、関連した話が実に興味深いのです。例えば、第2次世界大戦中、ドイツの空襲に悩まされていた英国はある発明で問題を解決することができます。それがレーダーの発明です。このレーダーを発明したのが、産業革命の蒸気機関を発明したジェームズ・ワットの子孫のロバート・ワトソン・ワットだったというのです。

 また、米国でアメリカンドリームを実現したのは、最初の創業者とか開発者ではなく、後から「資本の論理」で実権を握った者だったという話も興味深かったです。

 これはどういうことかと言うと、例えば、米国の大陸横断鉄道を企画してリンカーン大統領に訴えて実現させたのは、セオドア・ジュッダでしたが、彼は鉄道会社から「追い出されて」しまいます。代わりに実権を握ったのが「ビッグフォー」と呼ばれた4人の実力者で、その中には、弁護士からカリフォルニア州知事などになったリーランド・スタンフォードがいます。この人は、後にスタンフォード大学を創設して後世に名を残しています。

 1848年、カリフォルニアで金鉱が発見され、ゴールドラッシュになります。第1発見者だった製材所で働くジムとその土地の所有者のサッターは大儲けして、めでたし、めでたしで終わるはずだった…。しかし、ジムは荒くれ者につけ狙われ、貧困のうちに生涯を終え、サッターは土地の権利を主張しても無視され、息子を暴漢に殺害されるなど、これまた不幸のうちに亡くなりました。結局、一番儲かったのは、周囲の者でした。シャベルなどを売る雑貨商や、作業がしやすいジーンズを売って莫大な利益を得たリーバイス兄弟らだったのです。

 1859年、ペンシルベニア州タイタスビル。鉄道員で「大佐」と呼ばれたエドウィン・ドレークは米史上初めて石油の採掘に成功します。これで大金を手にするかと思いきや、パートナーの出資者から「追い出され」、わずかな年金で寂しい老後を送ります。彼に代わって大成功を収めたのが、有り余る原油の精製に目を付けたジョン・ロックフェラーでした。彼は、我こそが基準だとばかりに「スタンダード・オイル」を創設し、合併と買収で全土展開し、「石油王」と呼ばれるようになります。彼も若者の教育に熱心で、財政難で閉校寸前だったシカゴ大学に多額の寄付をして復興します。(そのシカゴ大学で「管理会計」の新講座を立ち上げたのがジェームズ・マッキンゼー教授だった)

 南北戦争後、アトランタで「コカ・コーラ」を発明したジョン・ペンバートンも、巨額融資を受けた友人らから「資本の論理」で追い出されます。

 そう言えば、アップルの創業者スティーブ・ジョブズも、自分のつくった会社から追い出されましたね。復帰してからiPhoneを生み出して見事な復活を遂げますが、56歳の若さで病気で亡くなってしまいました。米国では、どうも創業者、パイオニアは不幸に見えます。

ヤブカンゾウ

 このほか、本書では鉄鋼王カーネギー(自ら創設したカーネギーメロン大学とNYカーネギーホールに名を残す)や、投下資本利益率(ROI)=利益率×回転率の公式を生み出したピエール・デュポン(仏革命を逃れて新大陸に渡り、火薬の製造で莫大な利益を得たデュポン一族の子孫で、後にナイロンストッキング開発など化学製品の大企業に発展させた)らが登場します。名前だけはよく聞いたことがある人名や会社の成り立ちがよく分かりました。

 世界史も「会計」をキーワードにすると、これほど見方が変わるのかと驚くほど面白い本でした。

銀行、利息、会計の語源が分かる「会計の世界史」

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 今、ちょっと面白い本を読んでいます。田中靖浩著「会計の世界史」(日本経済新聞出版 )という本です。2018年9月26日初版ですから、手元に届くまで2年近く掛かりました。Vous savez ce que je voudrais dire? それだけ大人気でベストセラーになった本です。

 現役の公認会計士が書いた本ですが、難しい数式が出てくるわけではなく、逸話が豊富で、著者は美術に相当関心あるらしく、ダビンチ、レンブラントら泰西名画の巨匠が登場します。しかも、会計と少し関係があるのです。もし、この本を高校生の時に読んでいたら、私もその後、公認会計士を目指していたかもしれません。(中世~近世欧州の「公証人」は、今の会計士と弁護士を合わせたような地位の高い職業だったとか)

 それだけ面白い本なのですが、哀しいかな、明らかな間違いが散見します。不勉強なこんな私がすぐ簡単に見つけてしまうのですから、著者だけでなく編集者、校正者は何をやっているんでしょうか?教養度が落ちているのかと心配になります。

 例えば、83ページで出てくる「レオナルド・ダ・ヴィンチはフランス・パリの地でそっと人生の幕を閉じました。」という部分。そんなわけないでしょう。ダビンチが亡くなったのは、フランス中西部ロワール地方のアンボワーズです。晩年、仏国王フランソワ1世から招かれて与えられたクロ・リュセ城で、です。イタリア人(当時国家はありませんでしたが)のダビンチの代表作「モナリザ」がイタリアではなく、パリのルーブル美術館にあるのはそのためです。

 もう一つは398ページ。「ポールとジョージが2人交代でメイン・ボーカルを務め」というのはビートルズ・ファンでなくともあきれた大間違い。当然、「ジョン(レノン)とポール(マッカートニー)が2人交代でメイン・ボーカルを務め」でしょう。常識過ぎて、こんな間違いがあると本書全体の信用を落としかねません。

それに「世界史」と銘打ちながら、おおよその年号が、わざとなのかあまり出てきません。せめて、何世紀かぐらい明記すべきです。

 などと色々とケチを付けましたが(笑)、この本は、「会計」をキーワードに人間ドラマと歴史が満載です。

 ◇簿記はイタリアで誕生した

 例えば、銀行のBankは、14世紀初頭(と本文には書いてませんが)、イタリア・ヴェネツィアの机Banco(バンコ)から始まったといいます。銀行員とは、「机の上で客とカネのやり取りする者」ということだったのです。カトリック教会が絶対的権威を持っていた時代で、当時、カネを貸した銀行は客からウーズラと呼ばれる金利を取ることは禁止されていました。唯一許されていたのがユダヤ人で、当時の状況はシェークスピアの「ベニスの商人」などに活写されます。

 その後、ヴェネツィアの銀行は、融資に当たってウーズラは取れないが、金利ではない「失われたチャンスの補償」という苦し紛れの名目で、実際は金利を取ることにしました。この「補償」をウーズラと区別して「インタレッセ」と呼び、現在の利息interest の語源になったといいます。

 また、1602年(と本書には書かれていませんが)、新興国オランダは世界初の株式会社といわれる東インド会社を設立します。これまで、ほとんど身内や親戚などから資金を集めて事業を行っていた商人は、この後から見知らぬ(ストレンジャー)株主から資金を集めることになります。彼らに対しては、「正しい計算と分配」について最低限の説明責任を果たさなければなりません。この説明報告 account for が、会計 accountingの語源になったといいます。

 さらに、18世紀半ばに始まった(これも書いてない)英国の産業革命。その原動力となった蒸気機関は、石炭を採掘する際に坑道に溢れた地下水を排出するポンプを動かすために発明されたのだそうです。知りませんでしたね。その蒸気機関から機関車がジョージ・スティーヴンソンらによって発明され、世界で初めて鉄道で蒸気機関車が走ったのは、その130年後にビートルズを生むことになる貿易港都市リヴァプールと新興工業都市マンチェスター間でした。同時に世界初の鉄道死亡事故(禁止されたにも関わらず、給水・給炭で停車していた機関車から元商務相が勝手に下車して線路上で轢かれて死亡)が起きたといいます。これも初めて知る逸話でした。

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 まだ半分しか読んでいませんが、よく調べて書かれています。よく売れているということですから間違いを訂正するなど改訂版を出せば、後世に読み継がれると思います。

社会の縮図と社会の矛盾=斎藤充功著「ルポ 老人受刑者」を読む

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 ノンフィクション作家の斎藤充功(さいとう・みちのり)氏から新刊が送られてきました。昨年の今頃、「今度、中央公論から本を出すんですよ。頼まれちゃってねえ」と嬉しそうな声で突然、電話を頂きましたが、ついに完成したのです。「ルポ 老人受刑者」(中央公論新社・2020年5月10日初版)という本でした。

 私がジュウコウさん(と勝手に呼んでいるのですが)の謦咳に接することになったのは、彼の「日本のスパイ王ー陸軍中野学校の創設者・秋草俊少将の真実」という本で、このブログにその読書感想文を書いたことがきっかけでしたから、スパイと老人受刑者物語を、どう結び付けていいのか最初は分かりませんでした。

 でも、読み進めていくうちに、ジュウコウさんが老人受刑者に興味を持ったのは昨日今日の話ではなく、もう何十年も前から企画を温めていたテーマだったことが分かりました。何しろ、序章「漂流する老人受刑者」では、今から36年も昔の1984年10月にインタビューした呉刑務支所(現広島刑務所呉拘置支所)の大正生まれの老受刑者らが登場します。刑務所取材歴40年弱、筋金入りだったのです。

 法務省の資料によると、2007年の全受刑者7万0989人に対して、65歳以上の高齢受刑者は1884人で全体の2.65%だったのに、その10年後の2017年には同4万7331人に対して同2278人で全体の4.81%を占めたといいます。特に70歳以上の受刑者が10年前と比べ4.8倍と急増。さらに再入所率(再犯者)は7割を超えています。

 2017年の高齢受刑者2278人の罪状は、70歳以上を見てみると、第1位が窃盗で54.2%、次いで、覚醒剤関係が9.4%、道路交通法違反8.4%、詐欺7.2%と続いています。1位の窃盗の中身では、万引きと自転車盗が90%を超えています。つまり、高齢受刑者の多くが、強盗殺人などの凶悪犯ではなく、数千円の万引きや無銭飲食などで捕まった者が多いのです。再犯だと軽犯罪でも情状酌量も執行猶予も認められず、2年は実刑を食らい、5回も10回も刑務所を出たり入ったりしている様が、受刑者とのインタビュー通して浮かび上がります。

 高齢者ともなると、出所しても仕事が見つからず、また、再び万引きをして捕まって入所する人が多く、まさに悪循環です。受刑者の世界は確かに特別かもしれませんが、日本の超高齢社会の縮図というか、社会の鏡を写している感じでした。

 ジュウコウさんは先日、79歳の誕生日を迎えられましたが、至ってお元気で、本書では殺人罪等で無期懲役となった高齢受刑者の殺人現場のスナック(今は消滅)を訪ねて、山梨県まで足を運んだりしています。相変わらずフットワークが軽い恐るべきルポライターです。

 受刑者だけでなく、矯正医療センターの看護師さんや、元矯正局長らにもインタビューしていますが、正直、あまり楽しい話はなく、スカッとする話も出てきません。死刑問題の質問には口を噤んだりします。私も帯広にいた頃、刑務所を視察させて頂いたことがあります。条例で決まっているのか、2年に1回程度、マスコミに現状を公開しているのです。その時は、受刑者と面会することはありませんでしたが、獄舎というか誰もいない独房とかは見学させて頂きました。帯広は、真冬はマイナス35度にもなる極寒の地ですから、冬は寒くて大変だろうなあ、と実感しました。

 老受刑者は、帯広ではなく、比較的温暖な呉拘置支所などに収容されますが、競争率(?)が高く、全員が入所できるわけではありません。それに、老受刑者ともなると色んな病気に罹っています。中には認知症を患っている受刑者もおり、紙オムツが倉庫に山積している拘置所もありました。「刑務所というより、病院か福祉施設のよう」という関係者の比喩も的確です。

 それにしても、日本では数百円のお菓子を盗んでも再犯なら老人でも簡単に牢屋にぶち込まれるというのに、高位高官ともなれば、賭けマージャンの常習犯でも何らお咎めなく、受刑者にもなりません。この矛盾。この不条理。この体たらく。

 【追記】

 本日発売の「週刊新潮」6月25日号にも「ルポ 老人受刑者」の書評が掲載されていました。

「歎異抄」を読む=邪道に興味を持つ救いようのない悪人である私

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 私は長年、ジャーナリズムの世界にいるので、職業病なのか、何でも斜に構えて物事を搦め手から見る傾向があります。当事者ではないからです。何か話題になるようなことが起きれば取材しますが、いつも第三者ですから、それらの事象は醒めた目で見なければなりません。何でもそうです。政治の世界は当然ながら、普通の人が楽しんでいるスポーツや芸能の世界まで正面から観察しません。いつも、これは何か裏があるな、と猜疑心の目を持って見ます。だから楽しめません(笑)。娯楽にもなりません。

 宗教の世界もそうです。教祖や開祖の教義よりも、分派した経緯やイザコザや争いの方に興味を持ってしまいます。実に邪道です。罰当たりです。分かっています。

 先日、「もっと古典を読もう」と一念発起し、親鸞の直弟子・唯円が書いたと言われる「歎異抄」を再読しました。若い頃読んだ時、よく理解できなかったのですが、ここ数年、柳宗悦「南無阿弥陀仏」や法然「選択本願念仏集」等を読んできたので、何とか読むことができました。「歎異抄」は、親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」の悪人正機説が有名ですが、阿弥陀仏の大慈悲を絶対視する(とまでは言ってませんが)「他力本願」を重視した書と言えるでしょう。歎異抄とは、師・親鸞亡き後、異説が蔓延る世を嘆く、という意味です。親鸞聖人がお伝えしたかった本当のことを会得してほしい、といったことを意図した書です。

 「歎異抄」は、昔買った中央公論社の「日本の名著」に収録されている石田瑞麿・東海大教授による現代語訳を読んだので、数時間で読めました。それで満足していたら、ネット上で実に精細に「歎異抄」を分析して原文と現代語訳を対比したサイトを偶然発見しました。驚いたことに、このサイトでは、石田瑞麿も含み、梅原猛、五木寛之、阿満利麿、倉田百三、暁烏敏、松原泰道、紀野一義、野間宏ら錚々たる宗教学者や作家といった各氏の現代語訳や解釈の誤りを指摘して、「親鸞聖人の書き残されたものとは合わない」とまで言うのです。そして、「歎異抄の正しい解説は、ほとんどの学者ができません」「最も正確で、分かりやすい解説書」はこの本しかない、とばかりに、新聞でよく広告を見かけるある一冊の本がアマゾンの宣伝付きで紹介されていました。

法然上人

 確かに、このサイトは分かりやすく、明解な解説で読み応え十分です。例えば、「摂取不捨の利益」を「絶対の幸福」と訳すあたりは「凄いなあ」と感心しますが、その解釈が正しいのか、また、過去の碩学の解釈がこのサイトが指摘している通りに大間違いなのか、私自身は無学で判断できません。京都A寺の御住職さまならすぐ分かるかもしれませんが、私はただ、「これは宗教論争なのかなあ」と思ったり、「ある本を売るための宣伝サイトなのかな」と思ったりします。

 そして、何よりも、こうした解釈の違いこそが、弟子による分派や新教団設立などが生まれていくのではないかと、罰当たりの不逞の輩である私なんか思ってしまいます。

 例えば、親鸞は自らは生涯を法然の弟子として過ごし、新しく教団を設立する意思はなかったと言われています(親鸞は、法然190人の門弟の中の86番目の弟子だったと言われます。そのせいか、もしくは、故意なのか、作為的なのか、寺内大吉の名著「念仏ひじり三国志―法然をめぐる人々」に親鸞はほとんど登場しません)。浄土真宗(という教団)をつくったのは、京都で親鸞の最期を看取った末娘の恵信尼の孫の覚如だと言われてます。ところが、これは本願寺派の話で、他にも東国の門徒を中心にして教団が継承された高田門徒(専修寺派)や荒木門徒など他にも沢山の分派があるのです。

 浄土真宗といえば、中興の祖・蓮如がすぐ思い浮かび、西本願寺と東本願寺、それに築地本願寺と有名な寺院が多く、本派本流だと思っていました。そしたら、特に真宗高田派は、15世紀に加賀の守護富樫氏の内紛の際に、本願寺派と敵対し、同じ宗派なのに、その後も度々、相争ったりしています。私の学生時代の畏友T氏は、この真宗高田派の名門中学校に通いましたが、仏教の授業では「とにもかくにも親鸞聖人様。本願寺派のことは扱いはするが、ただ『そっちもある』みたいな冷淡さだった」というのです。これには私のような素人は「へー」と、腰を抜かすほど驚いてしまいましたね。高田派は、浄土真宗とは言わず、正式には単に真宗とだけいうことも後で知りました。

 このように、神聖な宗教に対してさえも、ブンヤの私は、例えば、浄土真宗の信者(門徒)数は国内最大、その理由は何故かなどといった邪道な逸話ばかりに興味を持ってしまいます。

 ついでながら、最近、もう一つ、驚いたことは、日本の仏教の祖ともいうべき天台宗の開祖最澄(767~822年)が近江出身(今の大津市坂本本町生まれ)だということは知っていましたが、宗教学者の塩入良道・大正大学教授によると、最澄は、後漢の王族の帰化人の子孫と伝える三津首百枝(みつの おびと ももえ)の子息だというのです。となると、最澄=三津広野は渡来人(の子孫)だったということになります。

 嗚呼、普通の人なら京都の清水寺が何宗で、金閣寺が何宗なのか、融通念仏宗と天台宗との違いは何なのか、なんて気にしないでしょう。私のように、こんな邪道ばかり探っていては、地獄に堕ちることでしょうね。地蔵菩薩さまに救いを求めるしかありません。

 

思想検事がいた時代なら渓流斎はアウト

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

《渓流斎日乗》なる詭激(きげき)思想を孕(はら)む危険分子は、機宜(きぎ)を逸せず禍(か)を未然に防遏(ぼうあつ)するの要ありー。

 先月、満洲研究家の松岡先生とLINEでやり取りしていた際、2人の共通の知人である荻野富士夫・小樽商科大学教授(現在名誉教授)の書かれた「思想検事」(岩波新書・2000年9月20日)は、小生だけが未読だったので、私は「いつか読まなければならないと思ってます」と返事をしておきました。もう20年も昔の本です。今では古典的名著になっているのか、立花隆著「天皇と東大」の膨大な参考文献の1冊としても挙げられていました。

 20年前の本ですから、古書で探すしかありません。やっとネットで見つけたら、送料を入れたら当時の定価(660円)の2倍の値段になってしまいました。そうまでもしても、手に入れたかった本でした。(A社では最高1万2800円もの値が付いていました!)

 先程、やっと読了したところですが、明治末からアジア太平洋戦争中にかけて、検察権力が肥大化していく様子が手に取るように分かりました。昭和初期の異様な軍部の台頭と軌を一にするかのような司法省の増長ぶりです。いや、逆に言えば、軍部だけが突出していたわけではなく、司法も行政も立法も、そして庶民の隣組や自警団に至るまで一緒になって挙国一致で国体護持の戦時体制を築き挙げてきたということになります。国家総動員法や大政翼賛会など政治面だけみていてはこの時代は分かりません。最終的には司法の検事、判事が臣民を支配していたことが分かります。その最たるものが「思想検事」で「皇国史観」にも染まり、それが判断基準でした。

 検察や裁判官は神さまではありません。権力当局者は、かなり自分で匙加減ができる恣意的なものだったことが分かります。これは過去の終わった話ではなく、現代への警鐘として捉えるべきでしょう。

「黒川高検検事長事件」が起きたばかりの現代ですから、検察の歴史を知らなければなりません。

 でも、正直、この本は決して読み易い本ではありません。ある程度の歴史的時代背景や、大逆事件、森戸事件、三・一五事件、四・一六事件、小林多喜二虐殺事件、ゾルゲ事件、それに横浜事件などについての予備知識がない人は、読み進む上で難儀するかもしれません。なぜなら、この本は、それら事件の内容については詳しく触れず、司法省内の機構改革や思想検察を創設する上で中心になった小山松吉、塩野季彦、平田勲、池田克、太田耐造、井本台吉ら主要人物について多く紙数が費やされているからです。

 読み易くないというもう一つの要因は、本書で度々引用されている「思想研究資料」「思想実務家合同議事録」など戦前の司法省の公文書では、現在では全く使われないかなり難しい漢語が使われているせいなのかもしれません。しかし、慣れ親しむと、私なんか読んでいて心地良くなり、この記事に最初に書いたような「創作語」がスラスラ作れるようになりました(笑)。

 「思想検察」の萌芽とも言うべき「思想部」が司法省刑事部内にできたのは1927(昭和2)年6月のこと(池田克書記官以下4人の属官)でした。泣く子も黙る特高こと特別高等課が警視庁に設置されたのが1911(明治44)年8月ですから、16年も遅れています。それが、1937年に思想部が発展的解消して刑事局5課(共産主義、労働運動など左翼と海軍を担当)となり、38年に刑事局6課(国家主義などの右翼と類似宗教、陸軍を担当)が新設されると、検察は、裁判官にまで影響力を行使して「思想判事」として養成し、捜査権を持つ特高警察に対しては優位性を発揮しようと目論見ます。司法省対内務省警保局との戦いです。これは、まるで、陸軍と警察との大規模な対立を引き起こした「ゴーストップ事件」(1933年)を思い起こさせます。

 司法省刑事局6課が担当する類似宗教とは、今で言う新興宗教のことです。これまで、不敬罪などで大本教などを弾圧してきましたが、治安維持法を改正して、国体に反するような反戦思想などを持つ新興宗教に対しても、思想検察が堂々と踏み込むことができるようになったのです。キリスト教系の宗教団体や今の創価学会などもありましたが、ひとのみち教や灯台社なども「安寧秩序を乱す詭激思想」として関係者は起訴されました。あまり聞き慣れないひとのみち教は、今のPL教団、灯台社は、今のエホバの証人でした。

新橋の料亭「花蝶」

 先程、戦前の思想検事をつくった主要人物を挙げましたが、塩野季彦については、山本祐司著「東京地検特捜部」(角川文庫)に出てきたあの思想・公安検察の派閥のドンとして暗躍した人物です。そして最後に書いた井本台吉は戦前、思想課長などを歴任し、戦後は、検事総長にまで昇り詰めた人で、1968年の日通事件の際の「花蝶事件」の主役だった人物でしたね。

 中でも「中興の祖」というべきか、思想検察の完成者とも言うべき人物は太田耐造でしょう。彼は、刑事局6課長として1941年3月の治安維持法の大改正(条文数を7条から65条へ大幅増加)を主導した立役者でした。

 太田耐造は、20世紀最大のスパイ事件といわれるゾルゲ事件に関する膨大な資料も保存していて、国立国会図書館憲政資料室に所蔵されるほど昭和史を語る上で欠かせない人物です。現在、荻野・小樽商科大学名誉教授教授も推薦している「ゾルゲ事件史料集成――太田耐造関係文書」(加藤哲郎一橋大名誉教授編集・解説)も不二出版から刊行中です。

 思想検事は戦後、GHQにより公職追放となりますが、間もなく、「公安検事」として復活します。

《渓流斎日乗》なる詭激思想を孕む危険分子は、機宜を逸せず禍を未然に防遏するの要ありー。

 扨て扨て、このブログは書き続けられるのでしょうか?

神社の正体に迫る=祇園祭ができないとは…

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuqua

 コロナ禍でも、真面目な私は読書に勤しみ、普段と変わらない生活を続けていますが、映画館や美術館に行けなかったり、好きな城巡りや寺社仏閣巡りができなかったりしたことは、さすがに堪えましたね。

 「足腰がしっかりしている時に」色々と巡りたいと思ったら、ちょうど、緊急事態宣言が発令された4月に「ぎっくり腰」ならぬ「ぎっくり脚」をやって、しばらく歩行困難になってしまったことから、「足腰がしっかりした時期」を通り過ぎてしまいました。

 今はほぼ治りましたが、嗚呼、情けない。

 仕方ないので、本の中で仮想巡りをすることにしました。先日読了した新谷尚紀監修・古川順弘著「神社に秘められた日本史の謎」(宝島新書、2020年5月23日初版)は非常に勉強になりました。

 自分ではある程度の知識はあるつもりでしたが、この本を読むと、今まで、ほとんど何も知らずに神社をお参りをしていたことが分かりました。

 本書は「神社のルーツはどこにあるのか?」に始まり、「戦後の神社はどう変わったか?」まで全部の52の設問に対して、最新の資料や学説で答えてくれる形式になってます。

 少なくとも大抵の神社というものは、皇祖神である天照大神をお祀りしているものだと思いましたら、「実際にアマテアラスを天皇家で祀ったことは、奈良時代になるまでなかったと考えられる」(神話学者・松前健氏)というので驚きました。

 でも、「古事記」(712年)も「日本書紀」(720年)も奈良時代に成立したものであり、「天皇」という名称は天武天皇(?~686年)からと言われていますから(それまでは「大王」と言われた)、出雲大社をはじめ、色々な豪族(恐らく「王」のような存在)の始祖が祀られた多くの神社が創建されています。

 実は、これら豪族の氏神を祀った神社にはどういうものがあるか知りたくて、この本を購入したようなものでした。ありました、ありました。

 藤原氏の春日大社(奈良市)は誰でも知っていることでしょうが、蘇我氏は奈良県橿原市にある宗我都比古(そがつひこ)神社でした。物部氏は、石上(いそのかみ)神宮(奈良県天理市)、大伴氏は、住吉大伴神社(京都市)、息長(おきなが)氏は、山津照(やまつてる)神社(滋賀県米原市)でした。一度、お参りしてみたいですね。

 渡来人の秦氏は松尾大社(京都市)、東漢(やまとのあや)氏は於美阿志(おみあし)神社(奈良県明日香村)でした。

 有名な宗像神社(福岡県宗像市)は宗像氏、私も行ったことがある赤城神社(前橋市)は毛野(けの)氏のそれぞれ地元の豪族の神社だったんですね。キリがないのでこの辺にしておきますが。

  古代、朝廷は神祇官が奉幣する伊勢神宮を頂点にして、その下に官幣社(神祇官から班弊に与る573社)と国弊社(地方の国司から幣帛=へいはく=を受ける2288社)=以上が式内社2861=とその他の神社に分ける社格制度を設けます。それが、現在も神社の「社格」につながっています。

高野山の根本大塔

 巻末には「主な神社の種類と信仰」が掲載されていますが、意外に多かったのが八幡信仰(八幡神社、八幡宮)でした。応神天皇、神功皇后らを祭神とした大分県の宇佐八幡宮が発祥で、平安時代に京都に勧請された石清水八幡宮が創建され、鎌倉時代には源頼朝により鶴岡八幡宮が創建され武神と崇められたことが大きいでしょう。神社本庁に登録されている全国の神社数は7817。知らなかったことは、鎌倉の鶴岡八幡宮には、真言宗高野山の根本大塔によく似た大塔があったことでした。明治の廃仏毀釈で、ぶっ壊されてしまったということですから、本当に残念です。

 全国に約3万あるという稲荷神社は、奈良時代創建と伝わる京都の伏見稲荷大社の神霊を勧請した形をとっています。私も2年ほど前に京洛先生のお導きで伏見稲荷をお参りしましたが、あの鳥居の長い長い行列(?)がインスタ映えするとかで、中国人の観光客だらけでした。コロナ禍となり、今は昔ですね。

 でも、この伏見稲荷大社を創建したのが、渡来人の秦氏だったと聞くと、なるほど、と思ってしまいます。秦氏は、朝鮮半島の百済系とも新羅系とも言われ、秦の始皇帝の末裔とも言われたりしていますから、中国、韓国人観光客らも惹かれるものがあるのかもしれません。また、伏見稲荷を奉斎した氏族として、ほかに荷田氏がいて、代々、伏見稲荷の社家(しゃけ)を務めているといいます。荷田氏といえば、江戸時代の国学者・荷田春満(かだのあずまろ)がすぐ思い浮かびますが、やはり伏見稲荷の神官だったんですね。彼は賀茂真淵のお師匠さんです。

 比叡山延暦寺に日吉大社があるように、かつては神仏習合が当たり前だったこと。そして、菅原道真の天満宮や徳川家康の日光東照宮など他にも書きたいことがいっぱいあるのですが、最後に京都の八坂神社のことだけ書きます。八坂神社は、明治の廃仏毀釈の前は、祇園社感神院と呼ばれ、疫病除けの神である牛頭天王(ごずてんのう)を祀っていました。牛頭天王は、仏教と陰陽道、神道などが複雑に習合した神で、怨霊の慰撫と防疫を願う祇園御霊会は、祇園祭のルーツだと言われています。それが、新型コロナの影響で、今年の祇園祭の開催の中止が早々と決まってしまいました。こんなこと、牛頭天王様も想像できなかったことでしょうね。

日本人のルーツを求めて考えたら頭が混乱してしまいました

 退職金約6000万円が貰える東京高検・前検事長の黒川弘務氏は、週1~2回、多い時は週3回、遅い時は夜中の2時まで賭けマージャンに興じていたということです(「週刊文春」6月4日号)。そんなことをしていたら、本を読んだり、勉強したりする暇があるのかしら?-なんて、浅はかな私なんかは思ってしまいました。黒川氏は、超エリートのインテリですから、法律の知識は豊富でしょうが、社会常識や教養には欠けているのかもしれません。

 他人様のことですから、どうでもいいのですが、国民の税金が彼に使われているので、一言諫言を述べたかっただけです。私自身は専門知識もない、インテリでもない、ただの凡夫ですから、他人様から後ろ指を指されないように、麻雀もパチンコも競輪競馬も競艇も、博打はせずに只管、寸暇を惜しんで勉強するしかないのです。自粛生活でここ何カ月も友人たちにも会っていないし、飲みにも行かず、遊んでいないなあ~。

◇澤田洋太郎著「ヤマト国家は渡来王朝」

 さて、古代史は面白いが、むつかしい。-というのが、澤田洋太郎著「ヤマト国家は渡来王朝」(新泉社、2004年6月20日新装版第2刷)を読んだ感想です。古代大和朝廷は、朝鮮半島からの「渡来王朝」だったという大胆な結論を導きだしています。

 この1週間以上、この本に掛かりっきりでしたが、どこまで信用したら良いのか、頭が混乱してなかなか読み進むことができませんでした。そりゃそうでしょう。「文武天皇は新羅の文武王のことだった」「天武天皇は新羅の王族金多遂(キムタジュク)だった」(佐々木克明「騎馬民族の落日」)「壬申の乱は、百済・新羅の代理戦争だった」などと言われれば、「えっ?どういうこと?」になりますよ。

 1927年生まれの著者は、第一高等学校から東大法学部卒業後、都立高校の社会科教師を長年勤め、教頭を最後に定年退職し、その後、在野の古代史研究家になった人です(政治、経済関連の書籍も多く出版。2014年死去)。この本は、通説、俗説、異論、独自解釈…を集めたような感じで、学会で認められている「正史」ではなく、いわば「稗史」となるのかもしれませんが、無暗に読み捨てておけないところがありました。正直、途中で読むのが嫌になることもありましたが…(笑)。(秦の始皇帝はユダヤ人だった、という説には引っ繰り返り、源義経はジンギスカンだったという説を思い出しました)

 何しろ、日本の古代史の最も重要な文献である「古事記」や「日本書紀」(以下記紀)には、歴史的事実をそのまま叙したとは言えない創作的な神話があることはよく知られていますが、日本の歴史だというのに、やたらと朝鮮半島の百済や新羅や高句麗の情勢が登場することはあまり知られていません。(記紀を原書で通読した現代人は果たして何人いるのかしら? 私も記紀は、現代語訳でしか読んだことがありません)

 例えば、「日本書紀」では舒明天皇について、「十三年冬十月己丑朔丁酉、天皇崩于百濟宮。丙午、殯於宮北、是謂百濟大殯。」(即位13年冬10月9日。舒明天皇は百済宮で崩御された。18日、宮の北で殯(もがり=葬送儀礼)が行われた。これを百済の大殯と言う。)といったことが書かれています。何故、日本の天皇(この時代は大王と呼ばれていましたが)なのに、百済式の殯が執り行われたのでしょうか?…。

 記紀がこういう書き方だと、古代史学会による正統な歴史解釈のほかに、在野の研究者や好事家らによる独自解釈も数多あります。特に、「万世一系の天皇制」を論議することがタブーとされていたことが、敗戦後に一転して自由な研究が解放されましたからね。

 もう少し例を出すと、本書では、645年の乙巳の変(大化の改新)は、「百済系」の蘇我蝦夷・入鹿「政権」に対する「新羅系」の中大兄皇子と中臣鎌足によるクーデターだったというのです。中大兄皇子と鎌足の背後には、革命の正当化を訴えた南淵請安(みなぶちのしょうあん)らがいたといいます。彼らは、遣隋使で新羅経由で帰国して親・新羅派になったといいます。(南淵請安は、昭和初期の血盟団と五・一五事件の海軍青年将校らの精神的支柱だった農本主義者・権藤成卿が最も影響を受けた人物の一人。権藤は、大化の改新の理論的指導者だった請安に倣い、昭和維新を唱えたといいます。南淵請安は、渡来人である東漢氏=やまとのあやうじ、後漢の霊帝の末裔が帯方郡から3世紀頃に渡来=出身だといわれています)

 (新羅派のはずだった中大兄皇子は、天智天皇として即位すると、百済系渡来人を重用し、壬申の乱後に即位した天武天皇は、新羅系で二人は兄弟ではなかったと書かれていましたが、何か、よく分からなくなってしまいました)

赤は百済と平氏、白は新羅と源氏

 この本では、新羅系は白旗がシンボルで、清和源氏に受け継がれ、百済系は赤旗で、桓武平氏に受け継がれ(桓武天皇の生母高野新笠は、百済系渡来人の末裔だった=「続日本紀」)、平安以降、鎌倉幕府の源氏の源頼朝から平氏の北条氏に変わり、それが室町時代になると源氏の足利尊氏、その後、平氏の織田信長~豊臣秀吉となり、江戸幕府を開いた徳川家康は源氏と交互に政権が交代したという説を展開しています。

 肝心のタイトルにもなっている「ヤマト国家は渡来王朝」というのは、天皇族は朝鮮半島の南端に古代にあった伽耶辺りから渡来してきたという説です。ただし、彼らは、現代の北朝鮮人や韓国人の祖先ではなく、北方からスキタイ系の騎馬民族が朝鮮半島南部に住み着き倭人と呼ばれた人たちで、そこから北九州などを経由して畿内に到達したというものです。となると騎馬民族説ですね。(スキタイ人は鉄器を匈奴や漢に伝え、鉄器は、朝鮮半島南部から日本に伝えられたので、そのような倭人がいたかもしれません)また、ヤマトに国譲りをした出雲も鉄器製作が盛んでしたが、出雲族は、もともと朝鮮南部の安羅からの渡来人の子孫だとする学者もいます(朴炳植氏の説)。

 古代は、現代人が想像する以上に遥かに多くの人が、大陸から、そして半島から、日本列島へ行き来していたようですから、古代人の間では、それほど国家や民族を意識することなく、混血が進んでいたことでしょう。(神話のスサノオノミコトも、出雲と朝鮮半島の新羅を行き来していました)

 そして、ヤマトが百済の王族を人質として預かったり、百済の要請でわざわざ朝鮮半島の白村江まで遠征して唐や新羅と何故戦ったのか、などについては、朝鮮半島南部に拠点を築いて住み着いた倭人がいなければ、理由が説明がつかないことでしょう。

 私自身は、「日本人はどこからやって来たのか?」という深い疑問の原点があって、古代史に興味を持ちましたが、「日本人とは何か」となると、この本を読むと、多少、混乱してしまいました。

◇日本全国に残る新羅、百済、高句麗

 とにかく、記紀には新羅、百済、高句麗が頻繁に登場します。同書によると、まず「新羅」については、新羅神社という名の社が、青森県八戸市、静岡県浜松市、岐阜県多治見市など全国に9社あり、全国に2760社ある白山神社も新羅に起源を有する神社で、その他、白木、白子、白石、白髭などの地名は日本に移住してきた新羅人が付けた名前だといいます。

 「百済」は、大阪府枚方市に百済寺跡があり、そこの隣接地に百済王神社がある。その他、各地に多くの百済神社があり、大阪市旧鶴橋町一帯は、もともと百済郷と呼ばれていたといいます。

 「高句麗」は、「続日本紀」の霊亀2年(716年)の記事に「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の高麗人1799人を以て武蔵国に遷し、初めて高麗郡を置く」とあり、現在も埼玉県日高市に高麗若光を祀る高麗神社・聖天院がある。この高麗氏から駒井、井上、神田、武藤、金子、和田など多くの氏族が派生し、東京には狛江市や駒場、駒場、駒込、駒沢など駒(高麗)が付く地名が多い。関東地方には高句麗系の渡来者がかなり多かったといいます。今は日本人として同化したということでしょう。

 これらは「説」ですから、歴史的事実かどうか分かりませんが、日本人のルーツは、朝鮮半島や中国大陸、そしてユーラシア、東南アジア、南太平洋等から渡来した人たちということになるのでしょう。

 もっと勉強しなければいけませんね。賭けマージャンをやってる暇はありません(笑)。

庶民の歴史は「歴史」にならない

昭和30年代、あるメーカーの「コロナ」という名前の車が人気で、街中でよく見かけました。今の御時世、この名前での販売はとても難しいでしょうが、当時はコロナにネガティブな意味は全くありませんでした。むしろ、高度経済成長の象徴的な良い響きがあり、「サニー」や「カローラ」といった大衆車よりちょっと上のレベルといった感じでした。

 それが、昭和40年代になると、「コロナ マークⅡ」という名称になりバージョンアップされて、スポーティーな中級車になりました。今では知っている人は少ないでしょうが、スマイリー小原という踊りながら楽団を指揮するタレントさんがCMに出ていたことを思い出します。平成近くになると、コロナの名前が取れて、単に「マークⅡ」だけとなり、グレードアップした高級車になり、今でも続いていると思います。

 私は、何か不思議な符丁の一致を感じました。今世界中を災禍に陥れている新型コロナは、夏場に一旦、収束すると言われますが、また今秋から冬にかけて「第2波」がやって来ると言われています。初期の「武漢ウイルス」から突然ではなく、当然変異して、より強力になって、殺傷力の強いウイルスに変身すると言う専門家もいます。疫病と自動車の話とは全く関係ないのですが、何で、コロナがマークⅡに変身したのか、まるで未来を予言したかのような奇妙な符牒の適合を、私自身、無理やり感じてしまったわけです(笑)。恐らくそんなことを発見した人は私一人だけだと思いますが(爆笑)。

 さて、ここ1カ月間は、立花隆著「天皇と東大」(文春文庫・全4巻)のことばかり書いて来ました。このブログを愛読して頂いている横浜にお住まいのMさんから「圧倒的分量で流石でした。私も読んでみるつもりです」との感想をメールで頂きました。私自身は、このブログを暗中模索で書いていますから、このような反応があると本当に嬉しく感じます。

 あまりよく知らなかったのですが、Mさんの御尊父の父親(つまり彼にとっての祖父)は、終戦近くに予備役ながら召集され、小笠原の母島で戦死されたといいます。そのため、御尊父は母子家庭となり、大変な貧困の中で育つことになりますが、その母親も17歳の時に亡くし、本人は自殺すら考えましたが、周囲に助けられ、借金をしてようやく高校を卒業したといいます。当時は同じような境遇の家庭が多かったことでしょう。私の両親の父親、つまり私にとっての祖父は、2人とも戦死ではなく40歳そこそこで病死したため、両親2人とも10代で母子家庭になり、相当苦労して戦後の混乱期を切り抜けて、貧しいながら家庭をつくり我々子どもたちを大学に行かせるなど一生懸命に育ててくれました。

 「天皇と東大」は、エスタブリッシュメント階級の歴史が書かれ、読み応えがありましたが、我々のような庶民はいくら苦労しても「歴史」にもなりません。学校で教える歴史は、いつも特権階級や勝者から見た歴史だからです。

 話は変わって、先日から山岸良二監修「戦況図鑑 古代争乱」(サンエイ新書)を読んでいますが、古代は、本当に驚くほど多くの争乱があったことが分かります。その争乱の大半は「皇位継承」にからむクーデタ(未遂も)と内乱です。九州筑紫の豪族が新羅と結託して大和朝廷転覆を図った古代史最大の反乱である527年の「磐井の乱」、蘇我氏が物部氏を排斥して政権を掌握した587年の「丁未の変」(物部氏は、娘を大王に嫁がせて外戚を誇った例は見られないそうで意外でした)、中大兄皇子と中臣鎌足らによる蘇我氏を打倒したクーデタ、645年の「乙巳の変」(1970年代までに学校教育を受けた世代は、「大化の改新」としか習わず、私自身はこの名称は10年ぐらい前に初めて知りました!)、天智天皇の後継を巡る叔父と甥による骨肉争いである「壬申の乱」、奈良時代になると「長屋王の変」「藤原広嗣の乱」「橘奈良麻呂の変」「藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱」、平安時代になると「伊予親王謀反事件」「平城太上天皇の変」(従来は「薬子の変」と習いましたが、最近は名称が変わったそうです。歴史は刷新して学んでいかないと駄目ですね)「承和の変」「応天門の変」(応天門とは平安京の朝堂院に入る門だったんですね。図解で初めて確認しました=笑)…と本当にキリがないのでこの辺でやめておきます。

 古代史関係の本を読んでいて、心地良いというか、面白いというか、興味深いのは、古代人の名前です。現代人のキラキラ・ネームも吃驚です。有名な蘇我馬子とか入鹿なども随分変わった珍しい名前ですが、人口に膾炙し過ぎています。663年の有名な「白村江の戦い」(中国や韓国の史料では「白村江」ではなく「白江」なので、そのうち「白江の戦い」に変更されるかもしれません。何で日本で白村江と言い続けてきたのか理由があるのでしょうから、不思議)に出陣した将軍の名前が残っています。

 第1陣の前将軍大花下(だいけげ)・阿曇比羅夫(あずみのひらふ)、小花下・河辺百枝(かわべのももえ)、大山下(だいさんげ)・狭井檳榔(さいのあじまさ)。第2陣の前将軍・上毛野稚子(かみつけののわかこ)、間人大蓋(はしひとのおおふた)、中将軍・巨勢神前訳語(こせのかむさきのおさ)、三輪根麻呂(みわのねまろ)、後将軍・阿倍比羅夫、大宅鎌柄(おおやけのかまつら)…。「あじまさ」とか「かまつら」とか、戦国武将にも劣らない強そうな名前じゃありませんか(笑)。

 この本を読むと、丁未の変(587年)で物部氏が没落し、乙巳の変(645年)で蘇我氏が没落し、伊予親王謀反事件(807年)で藤原南家が没落し、承和の変(842年)で藤原北家(良房)の政権が台頭し、応天門の変(866年)で大伴氏と紀氏といった古代豪族が没落して、藤原北家が独占状態となり、阿衡の紛議(887~8年)で橘氏、昌泰の変(901年)菅原氏が排斥される、といった具合で、なるほど、「権力闘争」というものは、こういう流れがあったのかということが整理されていて分かりました。

ブラームス交響曲第1番から原節子まで

 上の写真は、すべてブラームスの「交響曲第1番」です。カラヤン、バースタインからトスカニーニ、ブルーノ・ワルター、小澤征爾まであります。クラシックの中で、この曲だけは特別に好きなのです。「あ、この音とは違う」「この音じゃない」と、一度、FM放送か何かで聴いたことがある「失われた音を求めて」色んな指揮者の演奏CDを集めたらこんなになりましたが、まだまだあることでしょう。

 ブラームスの交響曲第1番ハ短調は、皆さまご案内の通り、恩師シューマンの「マンフレッド序曲」を聴いて感激した1855年に着手し、21年もの長きの歳月を経て、1876年にやっと完成した作品です。22歳の若者が43歳の中年になっていました(ブラームスは64歳で死去)。何でこの曲が好きなのかは、最初の重苦しいテーマが、ゆっくりとだんだんと高まっていき、最終楽章では、ついに「生の躍動 elan vital」を感じさせてくれるからです。我慢して最後まで聴いた価値があるわけです(笑)。クラシックを聴いて、あまり涙を流したりしませんが、この曲とワーグナーの「マインスタージンガー序曲」だけは別格ですね。感情が高まりカタルシスを感じます。

 ということで、私は、ブラームスの1番を聴きながら、ブログを書いています。昨日なんかも書くのに4時間は掛かりましたからね。4時間も、5時間もかけて書いたブログにあまり反応がないのに、20分~30分でさっと書いたブログに注目されたりすると、「あれま」とガクっときます。だって、人間なんだもん。

 この1カ月ばかしは、立花隆著「天皇と東大」(文春文庫)ばかり読み、昨日でやっと完読したことを書きましたが、その間、浮気して月刊文藝春秋も読んでいました。

 さすがに日本で最も売れている雑誌とあって目の付け所が大衆誘導的です。私も洗脳されて買ってしまいました。ざっと主な記事を読みましたが、どうせ忘れてしまうので、備忘録をー。

・巻頭のノーベル賞学者山中伸弥教授と橋下弁護士(呑み友達らしい)との対談「ウイルス vs 日本人」ー。山中教授の仮説では、日本人は欧米人より感染による死者が少ないことから、日本人には「ファクターX」なるものがあるのではないか。それは、日本人は、マスクや入浴など清潔意識が高く、ハグや握手、大声で話すことが欧米人より少ないこと、そしてBCGワクチンにも相関関係あるかもしれないこと等々…。あくまでも仮説なので、楽観視できませんが。

・奥村康・順天堂大医学部免疫学特任教授の「最後は『集団免疫』しかない」は、刺激的、絶望的な論説ではありましたが、最も説得力がありました。直視しなければならないことは、ウイルスは消えたり無くなったりしないということです。共生するしかない。でも、発症しても軽症で済む人や症状が出ない人も大勢いるので、彼らに免疫ができ、免疫を持つ人が一定の割合を占めた時にウイルスの流行は収束に向かう、という話です。そして、軽症で済ますには、個人の免疫力を高めることが大事で、それには(1)不規則な生活(2)激しい運動(3)精神的ストレスーを避けることが最も肝心だといいます。やはり、一番参考になりました。

・村中璃子医師「WHOはなぜ中国の味方なのか」-WHOのテドロス事務局長が「中国寄り」との批判が多いが、テドロス氏はエジプトの保健相、外務相を経て、WHO事務局長選挙で、中国によるプッシュで当選した人。エチオピアは2019年、国全体の直接投資額の60%も中国に頼っている。だから、テドロスさんは中国寄りになっているーという話。あれ?この話は新聞でも報道されていて皆知っている話。村中医師はWHOで勤務した経験があるらしいので、もっと奥深い裏情報を知りたかったので残念。

・峯村健司・朝日新聞編集委員「CIAと武漢病毒研究所の暗躍」は、米中コロナ戦争の内幕を描いたルポ。でも、何で、朝日新聞を蛇蝎の如く嫌って、機会があれば貶めようとしている文藝春秋が朝日の記者やOB(船橋洋一)を採用するのかしら。文春記者でもこれぐらい書けるはず。もしかして、朝日と文春は、表向き「敵対関係」を装っておきながら、テーブルの下ではちゃっかり握手して相互利益を図っているのかしら?

・芝山幹郎×石井妙子対談「『原節子』生誕100年 映画ベスト10」-。1963年に42歳で引退して本名の會田昌江に戻り、2015年に95歳で亡くなった大女優を振り返っています(52年間も隠遁していたとは!)。この人、テレビも舞台にも出ず、映画一筋の女優だったんですね。原節子といえば、小津安二郎の「東京物語」や「麦秋」が代表作かと思っていました(小津の「晩春」「麦秋」「東京物語」で演じる原節子の役は全て紀子なので「紀子三部作」という)が、戦時下では「ハワイ・マレー沖海戦」(1942年、山本嘉次郎)、「熱風」(1943年、山本薩夫)など結構出ていたんですね。小生、観ていません。戦後直後の黒澤明の「わが青春に悔なし」(1946年)は観てますが、これはあの京大・滝川事件をモデルにしたものでした。何とタイムリーな(笑)。私は(世界の溝口健二から「成瀬君のシャシンはうまいことはうまいが、キン〇〇が有りませんね」と批判された)成瀬巳喜男のファンですから「めし」(1951年)と「山の音」(1954年)は是非観たい。いつか、神保町に行って、成瀬巳喜男のDVDが売っていたら購入するつもりです。

 ※文中敬称略あり。