「韓非子」は諸子百家の集大成

 徳間書店について、私はよく知りませんが、殿方のリビドーを刺激し、任侠道の機関誌のような週刊「アサヒ芸能」を発行しているかと思えば、岩波書店も出さないような堅い、堅い中国の古典シリーズなどの教養書まで幅広く発行しています。

 噂でしか知りませんが、徳間書店の創業社長の「懐刀(ふところがたな)」と言われた方は、永田町から霞ヶ関、大手町、丸の内、桜田門と政官財界、警察公安関係の大物を接遇・折伏して権勢を振るい、隠れた「メディア王」として斯界で知らない人はいないと言われています。怖いですねえ、怖いですねえ~(淀川長治風に)

 私は真面目な人間ですから、その徳間書店が「中国の思想シリーズ」を発行する版元とは知らずに購入しておりました。長らく本棚の片隅で眠っておりましたが、先日、中江丑吉著「中国古代政治思想」(岩波書店)が難解過ぎて挫折したため、それでは、もう一度、いちから中国思想を勉強しようと思ったのです。

 また、「勉強」です! 京洛先生から怒られそうですね(笑)。

 末岡先生から、博愛主義を唱えた「墨子」を読むように説諭されましたが、どういうわけか、見当たらず、手始めに、中国の思想シリーズ第1巻の「韓非子」を読んでみました。

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 面白い。実に面白い。何も知らずに読み始めたのですが、韓非子は、中国古代の乱世の春秋・戦国時代に現れた「諸子百家」の最後に輩出した思想家で、乱世を統一した秦の始皇帝のブレーンとして迎えられた人でした(残念なことに、自分の地位を脅かされると危惧したライバル李斯の讒言によって、韓非子は自害させられました)

 読者の皆様は頭脳明晰ですから、ご説明するまでもありませんが、「諸子百家」の「子」というのは先生の尊称で、「家」は学派という意味です。

 ですから、孔子とは、孔先生ということで、本名は孔丘(こうきゅう)です。それでは、諸子百家の主要人物を取り上げてみることにしましょう。

 【儒家】孔丘、孟軻、荀況

 【墨家】墨翟

 【名家】公孫竜、恵施

 【道家】老聃(李耳)、荘周

 【法家】商鞅、管仲、申不害、韓非

 【陰陽家】鄒衍

 孟子は本名孟軻(もうか)、荀子は荀況(じゅんきょう)さんだったですね。

 で、話は法家の韓非(?~紀元前233年)でした。普通に先生の「子」を付けるなら韓子でしょうが、そうではなくて韓非子ですから、稀なケースです。最後の諸子百家の集大成として尊重されているのでしょうか。

 韓非は、荀子の弟子でしたが、恐らく、孔子も墨子も老子も荘子あらゆる諸子百家を勉強したことでしょう。

 「韓非子」の中で、日本人なら誰でも知っている格言に「逆鱗に触れる」があります。「説難(ぜいなん)」の篇にあります。説難とは進言の難しさのことです。逆に言えば、「逆鱗」の出典は「韓非子」だったわけです。

 この本で一番面白かったことは、46~47ページの解説です。先ほど、韓非は荀子の弟子だったと書きました。荀子は「性悪説」で有名です。荀子は、人間の性質は本来悪であるからこそ、教育して矯正するべきだと考えます。つまり、人間性は努力次第で善に変わることができる、そうするべきだという思想です。

 しかし、韓非は違います。人間を善に導くことなどは念頭にありません。大切なことは、人間が現実、欲望によって行動することを知り、その対策を講じることです。その対策とは法術のことで、韓非の目的は、君主による人民の統治で、人民の教化ではなかったといいます。

 なるほど、同じ「性悪説」でもこれほど違うとは思いも寄りませんでした が、韓非子の場合は、「法の支配」rule of law の先駆的思想ではないでしょうか。

 京洛先生、やはり、「人生ちゃらんぽらんに過ごす」よりも、勉強した方が毎日、楽しいですよ(笑)。

 

中江丑吉著「中国古代政治思想」は難解でした

 「日本も近く大戦争を惹起し、そして結局は満州はおろか、台湾、朝鮮までもモギ取られる日が必ずくる。日本は有史以来の艱難の底に沈むだろう。こっちはそのときこそ筆をもって国に報いるつもりだ。だが、ドイツも日本もけっして全く無だというのではない。ともに『アンティ・テーゼ』であり『ニヒト・ザイン』としての役割を持っているんだ。だから、戦後の新しい秩序も従来のデモクラシイそのままではありえない。必ず アウフヘーベン(止揚)された新しいデモクラシイが現れるはずだ。……」

  これは昭和16年(1941年)8月15日、中江丑吉が、弟子筋に当たる当時第一高等学校の学生だった阪谷芳直(1920~2001 、日銀、アジア開銀等に勤務する傍ら、中江丑吉の評伝を刊行)に対して、北京滞在最後の日に語ったとされる箴言です。その年の12月8日が、真珠湾攻撃の日ですから、まだ太平洋戦争は始まっていません。(1937年から泥沼の日中戦争は始まってますが) ということは、まさに、予言が当たってしまったわけです。

 今ではすっかり忘れられた中江丑吉(なかえ・うしきち、1889~1942)は市井の中国古代学研究家です。戦時中に北京に30年間も滞在して、中国の古典を始め、カント、ヘーゲル、マルクスなどの哲学を原書ドイツ語で精読し、世界史的視野で、日中戦争の帰趨などを論考した人でした。

 中江丑吉は、ルソーの翻訳などで知られる明治の思想家中江兆民の長男として生まれました。1913年に東京帝大法科大学政治学科を卒業後の翌年、袁世凱の憲法制定顧問となった法学者有賀長雄 (1860~1921)の助手として北京へ渡ります。1919年の五・四運動の動乱の最中、 面識のある中国高官の曹汝霖、章宗祥 (日本滞在時に中江兆民に世話になった)を救ったことから、逆に彼らの支援を受けて北京に30年も滞在し、独学で中国古代学研究に打ち込みます。

1941年、肺結核のため帰国し、福岡の九州帝国大学病院で翌42年 8 月死去。享年52。

「中国古代政治思想」(岩波書店)

  中江丑吉は、死を前にして「あれこれ万感交錯せるも結局何にもならず。無名より無名に没入する外なし」といったメモを残します。没後の1950年になって、やっと論考は「中国古代政治思想」(岩波書店)としてまとめられ、出版されます。

 となると、この 中江丑吉の遺作「中国古代政治思想」 を読まなければなりませんね。

 読んでみました。しかし、。。。。浅学菲才な身としては難解過ぎて、理解できませんでした。情けないですが、降参です。自らの恥を晒しますが、読解力に足るに十分な教養を持ち合わせていませんでした。人工知能(AI)の大家・新井紀子先生に怒られますね。

  自分の菲才を棚に上げて言及するのも猛々しいのですが、明治生まれの教養人の学識の深さに圧倒されました。逆に、こういう人だからこそ、未来を予知できたのでしょう。こういう日本人は将来も現れるのでしょうか?

 「我も」と思う方は、是非ともこの本を読んでみてください。

人工知能(AI)は人間を超えるのか?AI生みの親アラン・チューリングは悲運の人だった

 あまり自己主張しない会社の同僚の本岡君が珍しく、「Eテレの『フランケンシュタインの誘惑』という番組、観てますか?面白いですよ。木曜夜10時からです。もし、まだでしたら是非。お勧めです」と言うではありませんか。そこまで言うならということで、私も見てみました。

 科学は人類の進歩の面で、大きな恩恵をもたらすと同時に、人間を大量に殺戮する兵器を発明したりする負の面を持っています。善良な人造人間を作ろうとして失敗して怪物を作ってしまったフランケンシュタイン博士のような「マッド・サイエンティスト」を毎回取り上げた番組でした。私は見逃しましたが、私が子どもの頃に「偉人」として崇められていたラジウムを発見したキュリー夫人なんかも取り上げられ、実はラジウム光線を浴びて顎が突出するなど人体に影響を受けた実験学生なんかも登場し、「負の面」も映し出したようでした。

 さて、先週、この番組を観たのですが、主人公は、今何かと話題になっている人工知能(AI)の概念を人類で初めて考案した英国のアラン・チューリング(1912~54年)でした。私は彼の名前を何かの本で、チラッと拝見した程度で、どんな人が知りませんでしたが、この番組を観て初めて分かりました。

 アラン・チューリングは今でこそ、「コンピュータ科学の始祖」と崇められています。しかし、存命中は、ナチス・ドイツの暗号「エニグマ」(謎)を解読するのに貢献しながら、軍事機密の「ウラトラ・シークレット」とされたことから、業績が秘匿され、悲運のまま41歳の若さで自ら命を絶ってしまうのです。

 アラン・チューリングの本職は、名門ケンブリッジ大学を出た数学者でしたが、生い立ちから悲運といってもいいでしょう。両親は当時英国の植民地だったインドに赴任する際、小さいアランを知人に預けます。そのせいか、アランは、子どもの頃から孤独で、学校では友達もいなくていじめられます。科学に興味を持ち始め、やっと話が合う1年先輩の友人クリストファー・モーコムと知り合い、二人でケンブリッジ入学を目指します。しかし、モーコムは大学に合格するものの、18歳の若さで結核で亡くなってしまうのです。

 ケンブリッジ大学に入学したアラン・チューリングは、数学を専攻し、ニューマン教授から「人間が行う計算は機械が行うことになる」という教えに刺激を受けて、1936年に「機械でプログラムを動かす」という今では当たり前になったソフトウエアの概念を展開する論文を世界で初めて発表して注目されます。まだ、コンピューターができる前の時代で、アランは、当時は誰にも理解されなかった「人間の脳に匹敵する機械をつくりたい」という研究をするつもりでしたが、ちょうど、第2次世界大戦が勃発し、政府暗号学校にスカウトされて暗号解読に時間を取られてしまうのです。

 ようやく戦後の1947年、アランは数学学界で「経験から学習する機械」という人工知能の概念を発表しますが、ほとんど相手にされません。エニグマを解読した天才科学者だったことは、秘匿されたため、奇人変人扱いされました。その後、1952年、アランは、当時違法だった同性愛行為で逮捕されて有罪判決を受け、12カ月の保護観察処分を受け、失意のうちに2年後の54年に亡くなります。

 人工知能(AI)という言葉が世界で初めて公になったのは、アランが亡くなった2年後の1956年、米ダートマス大学での学会ででした。

 1974年、英情報部の元大佐が出版した「ウルトラ・シークレット」で初めて、アラン・チューリングがエニグマを解読した偉大な数学者だったことが公にされ、チューリングはやっと「コンピュータ科学の始祖」と呼ばれるようになったのです。

 ここまでが前段です。

 このアラン・チューリングの生涯をテレビで観たおかげで、今話題の新井紀子著「AI vs 教科書が読めない子どもたち」(東洋経済新報社)を読んで、その内容がよく分かりました。この本は、実は読むつもりはなかったのですが、最近、人工知能に凝っている本山君が私に貸してくれたのです。2018年2月15日初版ですが、2019年のビジネス書大賞を受賞し、28万部突破というベストセラーです。

 テレビ番組を観ていて、最初、何で数学者のアラン・チューリングが人工知能の概念を考え出したのかよく分かりませんでした。この本の著者で、2011年に「ロボットは東大に入れるか」と名付けた人工知能プロジェクトを始めた新井紀子氏も数学者です。

 この本を読んで初めて分かりました。今では自明の理ながら、コンピューターというのは計算機なのでした。逆に言うとコンピューターは計算しかできないのです。AIが言葉をしゃべったり、動いたりしているように聞こえたり見えたりしますが、実は、機械の中で複雑な計算をしているというのです。

 新井氏は、この本で、もう少し細かく説明します。4000年以上の長い歴史を通して、数学は、人間の認識や、人間が認識している事象を説明する手段として、「論理」と「確率」と「統計」という言葉を獲得してきた、あるいは、獲得できたのはその三つだけだった、いうのです。長くなってしまうので、この「論理」「確率」「統計」とは何かについては茲では詳しく触れず、同書に譲ります。

 人工知能(AI)の話に集約します。新井氏はこう書きます。

 「真の意味でのAI」とは、人間と同じような知能を持ったAIのことでした。ただし、AIは計算機ですから、数式、つまり、数学の言葉に置き換えることのできないことは計算できません。では、私たちの知能の営みは、すべて論理と確率、統計に置き換えることができるでしょうか。残念ですが、そうならないでしょう。

 ということなどから、新井氏は、ロボットが人間の知能を追い越す「シンギュラリティ」は到来しない、と断定するのです。将棋や囲碁などでコンピューターが人間に勝ってもです。

 つまり、この本には書いてませんが、単なる私見によると、人間の持つ非論理的な曖昧さとか、矛盾、優柔不断さ、義理人情で忠誠心がありながら、裏切りや背信する行為、利己的である一方、利他的であったりするつかみどころのない不可解さは、AIではとてもできないということなのでしょう。何故なら、AIは論理的な計算機だからです。スーパーコンピューターがいくら過去の膨大なビッグデータを蓄積しても、人間は過去の歴史に学ばず、痛い目に遭わなければ忘れますから(笑)、人間は、天下のスパコンが思いもつかない挙動不審な行動を取るということなんでしょう。

 ただし、シンギュラリティが来ないとはいっても、著者の新井氏は楽観してません。ホワイトカラーの50%の仕事は、今から20年後以内でAIに取って代わる、つまり、半分の仕事が奪われるというか、なくなってしまうと予想しているのです。なくなる職業として、電話販売員、不動産登記の審査・調査のほか、スポーツの審判員や銀行の窓口などがあります。新聞記事も既にAIが書いていますからね。

 うーん、これからの現役世代は大変だなあ。。。でも、確かにこの本は面白い。ベストセラーになるはずです。

 

「アメリカ経済のユダヤ・パワー」で納得しました

 先日、国際金融関係の本を読んでいたら、ゴールドマン・サックスなどウォール街での金融ビジネスで、上位に君臨しているほとんどがユダヤ系だというので、「どうしてなのかな?」と素朴な疑問を友人の榊原君に話したら、彼は、佐藤唯行著「アメリカ経済のユダヤ・パワー」(ダイヤモンド社)という本を貸してくれました。

 この本は、2001年10月4日初版とかなり古い本なので、情報も古いのですが(何しろ、フェイスブックのザッカーバーグもネットフリックスも出てきません!)、何故、ユダヤ系の人たちが米国経済界の上位に躍進したのか少し分かりました。

 最初にお断りすると、この本の著者(獨協大学教授)と同様に、私自身も「ユダヤ人陰謀説」には与しません。150年ほど前から米国に来たユダヤ人のほとんどが東欧やロシアなどで迫害されてやむ得ず移民した者が多く、ほとんど無一文の状態から、血の出るような努力を重ねて「アメリカン・ドリーム」を実現した者が多かったからです。そして、恐らく、この本に書かれている成功したユダヤ人とは違い、彼らの大半は成功せずに貧困のうちに生涯を終えていたと思われるからです。

 何よりも、ユダヤ人ということで最初から差別され、1970年代までまともに企業に就職できなかったといいます。(米国の基幹産業である石油産業はユダヤ系だと思っていたら、WASP=プロテスタントのアングロサクソン系白人=が独占していたことをこの本で知りました)となると、自分たちで起業しなければなりません。この本では、最初は廃品回収業に近い職種から大成功を収めたユダヤ人も出てきます。

 ユダヤ系といえば、金融業のほか、新聞(ニューヨーク・タイムズなど)やテレビ(ABCなど)などのメディア(この本では、メディア王ルパート・マードックはユダヤ人ではない、と書いてありました)、ハリウッド映画(スピルバーグ監督らと映画製作会社ドリームワークスを共同創業したデヴィッド・ゲフィンは、レコード会社の経営者で、ジョン・レノンの最後のアルバム「ダブル・ファンタジー」を出したゲフィン・レーベルだったとは!彼も勿論ユダヤ人です)、俳優らのほとんどがそうだということは知っておりましたが、それ以外にも、化粧品(エスティー・ローダー、マックス・ファクター、レブロンなど)、服飾ファッション(カルバン・クライン、ラルフ・ローレンなど)、玩具(トイザらス、バービー人形など)も創業者がユダヤ系だったことをこの本で初めて知りました。

 では、なぜ、これほどまでユダヤ人が優秀なのか? 著者の佐藤教授は、その秘訣は、ユダヤ人の教育にあると見ています。佐藤氏はこう書きます。

 幼い子どもを対象とするユダヤ教古典学習の根幹は、徹底した暗記教育である。これを毎日繰り返すうちに、脳の中に大きな記憶回路が作り出されるといわれる。敬虔なユダヤ教徒の家庭で生育した若者たちの中から、天性の記憶力の持ち主が生まれることは偶然ではないのである。

 なるほど。旧約聖書をはじめ、ユダヤ教の聖典タルムード(6編・63項目からなる口伝律法ミシュナとその注解ゲマラから成る)を丸暗記させられるのでしょう。頭脳が鍛えられるはずです。

 そして、佐藤教授によると、ユダヤ人がビジネスの面で成功するのは、キリスト教や仏教などでは「清貧」を重んじるのに対して、ユダヤ教は、富を求める衝動は人間の幸福に不可欠なものと容認しているからではないか、と分析しています。これも、なるほど、です。

 ユダヤ人は相互扶助の形で、起業する若者たちに低金利で融資したりしていることもビジネス面で役立っていることは確かです。就職差別により、隙間産業を探したり、起業せざるを得なかったことが逆に彼らにビジネスチャンスを与えた格好になりました。

 いい本を貸してもらいました。

宮沢賢治と俵万智の父とアルミニウムの不思議

 佐藤健太郎著「世界史を変えた新素材」(新潮選書)を読了しました。私のような雑学好き、エピソード好きの人間にとっては、この上もなく面白かったでした。続編があれば、勿論、また読んでみたいですね。

 著者は有機化学の研究者なので、本文では原子記号などが多く出てきますが、文系出身の人が読んでも大丈夫です。著者は理科系とはいえ、歴史を取り扱うぐらいですから、かなり文系のセンスもあります。(私は文系ながら受験で化学を選択したので問題なし=笑)

 例えば、「炭酸カルシウム」の章では、石灰(炭酸カルシウム)は、土壌の酸性度を中和することから、作物を病虫害から守ることに注目して、石灰を普及することに尽力した人として詩人の宮沢賢治(花巻農学校の教諭で、石灰を産する東北砕石工場の技師でもあった)を取り上げております。また、「磁石」の章では、サマリウムという元素を用いて強力な磁石を世に送り出した松下電器産業や信越化学工業などで活躍した研究者が、歌人の俵万智の父親だったことも、例に挙げたりしています。

 俵万智は、ベストセラーになった歌集「サラダ記念日」の中で、「ひところは『世界で一番強かった』父の磁石うずくまる棚」という短歌が収めれていますが、こんなエピソードを知らなければ何も知らずに意味を分からず読み飛ばしてしまうことでしょう。

 この短歌の通り、俵万智の父親を抜いて、現在世界最強の座に君臨するのが、佐川真人(1943~)が1982年に開発したネオジム磁石だ、とこの本には書かれています。

 この本を読むと少し物識りになったような気がします(笑)。著者もこの本を書く上で参考にした文献を巻末で明らかにしていますが、専門書以外では、ハラリ著「サピエンス全史」やダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」といったベストセラーになった一般書まで取り上げており、著者の目配りに感心するとともに、幅広い読書量に支えられていることが分かりました。

ドニヤン製高級レース Copyright par KYoraque-sensei

 どこの章を読んでも「なるほど」と感心するのですが、特に書き残しておきたいことは、新素材の発見によって、今では世界的な企業になった話です。その一つが、アルミニウムの世界最大級の米アルコア社を創業したチャールズ・マーティン・ホール(1863~1914)です。米オハイオ州オーバリン大学(桜美林大学を創設した清水安三が留学卒業した大学=ここまではさすがにこの本には書かれていませんねえ=笑。山崎朋子著「朝陽門外の虹」(岩波書店)に詳しい)の学生だった頃、フランク・ジューエット教授が学生のやる気と興味を引き出そうとして「アルミニウムを大量に精製する技術を開発すれば大金持ちになれるだろう」と聞かされます。これを聞いて発奮したホールは、実験と失敗と試行錯誤を重ねて、23歳の時にアルミニウムの精錬法を開発するのです。

 不思議なことに、この技術を見出したのは、ホール一人だけではなく、大西洋を隔てたフランスにもいました。化学者のポール・エルー(1863~1914)で、これまた不思議なことに、生まれた年も同じで、23歳で精錬法を開発したのも同じ。極め付けは、同じ年に51歳で亡くなっていることです。二人は面識がなかったといいますが、あまりにもの偶然の一致に驚きの連続です。歴史的必然さえ感じてしまいます。ホールの方は、アルコア社を設立して、ジューエット教授の「予言」通り、億万長者になります。

 当初、アルミニウムは強靭さに欠けていましたが、それは、合金の形で飛行機やミサイルにまで使えるほどになります。その合金の代表がジュラルミンですが、その独占製造権を取得したドイツのデュレナー金属工業が、同社の社名とアルミニウムを合体して名付けたのがジュラルミンだったというのです。クイズになるような雑学でしたね(笑)。

 このほか、真珠、絹(シルク)、ゴム、プラスチック、シリコンの話が知らなかったことばかりで面白かったでした。月に30万円も注ぎ込むようなネットゲームに熱中している若者にも勧めたい本でした。

 

出雲に製鉄を伝えたのはヒッタイト人だった??

 最近、どうも乱読気味で、渋沢栄一から古代の神話に至るまで、何の脈絡もない感じでしたが、どういうわけか、フッと偶然にも導線が繋がったりしまして、自分でも面白くなってしまいます。

 今、佐藤健太郎著「世界史を変えた新素材」(新潮社、2018年10月25日初版)を読んでいます。文明をもたらす要因として「材料」に注目し、それらが世界史を変革するほどの起爆剤になったことを素材ごとに詳細しています。人類が発見、または発明、開発した新素材とは、金とか陶磁器とかアルミニウムのことです。

 この中で、「鉄」の章を読んでいたら、先日読んだばかりの瀧音能之著「風土記と古代の神々」(平凡社)に出てきた八岐大蛇を退治したスサノオ神(須佐之男命)が製鉄技術を伝えた朝鮮半島からの渡来人によってもたらされた神だったことをこのブログで何度か書きましたが、この章でも出雲の製鉄の話が出てきたので、その偶然の一致に驚いてしまったのです。

 この本によると、鉄は、小アジアに興ったヒッタイト人が紀元前15世紀頃に初めて使ったと言われています。著者はサイエンスライターなので、学者以上の知識で正確を期します。つまり、正確に言いますと、鉄器を使った人類は以前からいましたが、武器として使える硬くて強靭な鋼鉄を作る技術をヒッタイト人は開発したというのです。これら鋼鉄をつくるには、鉄を溶かす高温の炎が必要で、膨大な木材が必要となります。酸素を絶えず送り込んで高火力を保持するだけでなく、炭素の含有量も微妙に調節しなければなりません。炭素含有量が多過ぎると、鉄はもろくなって叩くと割れてしまうからです。

 ヒッタイト人は、これら鋼鉄製の刃物や戦車で、今のシリアやエジプト方面まで勢力を拡大し、鋼鉄の製法をひた隠ししますが、その帝国は長続きせず、紀元前1190年頃までに滅亡します。反乱や異民族の侵入も原因の一つですが、彼らが必要な木炭確保のために森林を破壊し尽してしまったことも要因と言われています。

 そして、ヒッタイト人の生き残りは、森林を求めて東進し、やがて東アジアではタタール(韃靼=だったん)人と呼ばれるようになり、彼らの製鉄技術が4~5世紀に日本にもたらされたというのです。やっと、日本が出てきましたね(笑)。タタールの名前を取って「たたら製鉄」という言葉ができたという説もあります。著者の佐藤氏はこう書きます。

 製鉄に必要な木材の確保は深刻な問題で、日本のたたら製鉄も一つの炉に対して1800町歩(約1800ヘクタール)という広大な森林が必要とされていた。背後に中国山地の豊かな森林を控えた出雲地方で、たたら製鉄が盛んに行われたのは偶然ではない。

 うーん、見事に繋がりましたね(笑)。出雲に製鉄技術を伝えた渡来人は、タタール人、つまりヒッタイト人だったのかもしれませんね。(勿論、タタール人から製法を習った朝鮮半島の新羅人が伝えた可能性が高いでしょうが、韃靼人は交易を求めて度々、日本に渡って来てます)

 ただ、著者の佐藤氏は、ヒッタイト人が人類で初めて鋼鉄の製法を開発して世界に拡散した、という説は最近疑問が呈されていることも書いています。ヒッタイト以前の遺跡からも発掘されはじめ、異民族による戦乱の形跡も見られないからです。「初めて製鉄を行ったのは誰であったか、もう少し研究の進展を待つ必要がありそうだ」と佐藤氏も書いております。

 でも、「古代のロマン」とよく言われるように、色々と想像するのも面白いのではないでしょうか。出雲に製鉄を伝えた渡来人がかつてのヒッタイト人ではなかったにせよ、広大な森林が必要だったという事実は変わりませんからね。

 こうした脈絡のない読書でも、偶然にもつながりが出てくと、面白みが増します。

スサノオ神は渡来人の神

いやあ、魂消ました。

 日本人なら誰でも知っている八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治したスサノオ神(須佐之男命=すさのおのみこと)が、朝鮮半島からの渡来人が崇めた神だったというのです。

 神話の世界の話ですが、私は神話が、単なる机上の空論でも、荒唐無稽だとも、そして、牽強付会だとも思っていません。何らかの形で何代も何代にも渡って伝承されてきた話が「形」になったものだと思っております。その証拠に、神々が活躍した舞台が現在でも地名などとして残っているのです。

 今、瀧音能之著「風土記と古代の神々 もうひとつの日本神話」(平凡社、2019年1月16日初版)を読んでおりますが、1ページ、1ページ、感心しながら勉強させて頂いております。著者は、日本古代史専門の駒沢大学教授です。

 瀧音教授は、「古事記」「日本書紀」だけでなく、「風土記」に注目して古代の神話を実証的に解明されております。風土記の中でも特に「出雲風土記」を取り上げています。(奈良時代、朝廷は全国60余りあった国々に「風土記」を提出するように命じましたが、現在残っているのは、 出雲、常陸、播磨、肥前、豊後の5国分だけ。 このうち出雲だけが完本です)

 出雲は、大和朝廷が成立する以前は最も勢力があった豪族で、文化も技術も際立て進んでいた国だったと思われます。何故なら、日本海をはさんで、大陸や朝鮮半島からの最新技術を逸早く取り入れていたからです。勿論、人的交流もあったでしょう。だから、大和朝廷としては全国平定に当たって、出雲に攻め入り、それが「国譲り」の物語になったのではないかと私は推測しています。

 さて、瀧音教授によると、スサノオ神に関連する地名が「出雲風土記」の中で4カ所出てくるといいます。意宇郡の「安来郷」(いずこから来たスサノオ神がここに来て、「気持ちが落ち着いた」と語った)、飯石郡の「須佐郷」(スサノオ神は、ここは小さい国だが良い国だと語り、大須佐田と小須佐田という田を定めた)、大原郡の御室山(みむろやま=ここにスサノオ神が御室を造って宿った)、最後は大原郡の「佐世郷」(スサノオ神が佐世の木の葉を頭にかざして踊ったところ、地面にその木の葉が落ちた)です。この4カ所は、地図で見ると同じ緯度で東西に一直線に並びます。

 この中で、安来郷は今の島根県安来市で、安来節や陶芸家河井寛次郎の出身地として知られていますが、最も重要なのが「須佐郷」です。現在、島根県出雲市にある須佐神社辺りです。瀧音教授はこう書きます。

 それでは、スサノオ神の性格はというと、結論的には製鉄神であったと考えられる。その理由は、まず何よりも須佐郷(中略)は産鉄地域であることがあげられる。…「出雲風土記」の中にも鉄関係の記載をみることができる。こうした地域的な特徴やスサノオ神がもっている呪術的性格などから、スサノオ神は須佐郷を本拠地とする製鉄神であったと考えられる。そして、製鉄という技術をふまえるならば、そもそも朝鮮半島からの渡来人集団によってもたらされた神であるということができるであろう。

 いかがでしょうか?私は納得してこの学説を受け入れました。

  文字や五経や仏教、土木工学、建築、画、仏像、織物、手工芸、馬と馬具、須恵器など思想や技術を持った渡来人は5世紀の頃から、大和の政権中枢に受け入れられ、大活躍したことは以前、このブログの「今来の才伎」(2016年5月24日)で書いたことがあります。

 ここから私の推測ですが、スサノオ神が退治したヤマタノオロチは八つの頭と胴を持った龍のような怪物と言われてますが、実際は、たびたび水害を及ぼして地域住民を困らせていた八つの河川だったのではないかという説があります。

 ということは、ヤマタノオロチを退治したということは、土着の地域住民ができなかった治水の技術を持った渡来人が行ったということにならないでしょうか。つまり、須佐郷に居た渡来人は製鉄技術だけでなく、治水技術にも秀でていたのではないかと私は思っています。

 

 

「創価学会 秘史」を読んで

 大分にお住まいの野依先生の強いお薦めで、高橋篤史著「創価学会 秘史」(講談社、2018年2月27日初版)を読了しました。秘史ですからね、凄い本で、著者はかなり詳細に取材、情報収集、分析されており、知らないことばかりで読み応えがありました。

 著者の高橋氏は、現在の創価学会でさえ、そして信者に対してでさえ公開していない教団の資料である創刊当時の「聖教新聞」と「大白蓮華」の縮刷版を何と、かつて創価学会が「邪宗」と断定し、徹底的な攻撃を仕掛けた宗教団体、立正佼成会の附属図書館から発見し(12ページ)、長い間秘蔵されていた学会の戦前の活動が詳細に分かる1930年代半ばに出された最初の機関紙「新教」(後に「教育改造」と改題)と太平洋戦争突入前後に刊行された「価値創造」のコピーなどを独自のルートで辛うじて入手して、この本を書き上げたといいます。

 と、ここまで書いたところで、この本を薦めてくださった野依先生から電話があり、「面白かったですね」と感想を述べたところ、野依先生は「あまりブログに書かない方がいいですよ」と忠告されてしまいました。

 残念ですね(苦笑)。ご興味のある方はお読みください。でも、これで書き終わってしまうと、ブーイングが聞こえてきそうなので、ちょとメモ書きしておきます。

 ・創価学会の前身である「創価教育学会」を創設し、初代会長となった牧口常三郎(幼名・渡辺長七)は、明治4年(1871年)、現在の新潟県柏崎市生まれで、北海道師範学校附属小の訓導や東京・白金小校長などを歴任した。昭和5年(1930年)11月18日、「創価教育学体系」を上梓。1944年7月、治安維持法違反と不敬罪の容疑で逮捕され、同年11月18日、巣鴨拘置所で獄死。

・二代目会長の戸田城聖は明治33年(1900年)、現在の石川県加賀市生まれで牧口とは29歳違い、親子ほど年が離れていた。本業は、受験補修塾・時習学館(東京府大崎町、現東京都品川区)や出版社、金融業などを営む実業家だった。

・昭和8年(1933年)、長野県で「赤化」した小学校教員(世界恐慌の影響で就職難から京都帝大卒もいた)が大量に検挙される「二・四事件」が発生。創価教育会は、出獄後の転向した彼らの受け入れ先となった。思想犯を取り締まる内務省警保局が協力したフシがあった。しかし、その後、ほとんどが脱会。内務省もその後一転して、学会を弾圧することになる。(50ページ~)

・創価教育の思想は満洲にも及んだ。その拠点支部が国士舘が母体となる満洲鏡泊学園だった(学園はその後、武装勢力による急襲で悲劇的な末路を辿る)。国士舘は、福岡県出身で早稲田大学専門部在学中だった柴田徳次郎が大正2年(1913年)に結成した社会教化団体、大民団が母体となり、同郷の玄洋社の頭目、頭山満を顧問に迎えて17年に私塾国士舘を創立、その後、渋沢栄一らの支援も得て、専門学校として認可された。(131ページ~)

・人気作家だった直木三十五は1932年1月8日の読売新聞紙上で、突然、「ファシズム宣言」なる文章を発表。「左翼に対し、ここに闘争を開始する。…12月31日までは、ファシストだ。矢でも、金でも、持って来い」(145ページ)

・1952年4月27日、狸祭り事件が起きる。(248ページ~)

【お詫びと訂正】村上春樹氏御令従弟氏からの御指摘=渓流斎大失態

 昨晩、村上純一氏というどこかで聞いたことがあるような耳慣れぬ方から、このブログのお問い合わせメールが届きました。

 読んでみて吃驚仰天。作家村上春樹氏の従弟の方だったのです。村上春樹氏による月刊文藝春秋の今月号の「手記」で登場されていたので、お名前は頭の片隅に残っていたのですが、まさか、御本人から小生に直接メールが送られるとは想像だにできず、思わず、椅子から転げ落ちそうになりました。

 用件は、小生が今年5月10日に書いた「村上春樹が初めて語る自身の父親」という記事についての間違いの指摘でした。私は、村上春樹氏と純一氏の祖父に当たる村上弁識氏が預かっていた寺院である「安養寺」のことを、大いなる思い違いで、「慈円山安養寺」(京都市東山区)のこととばかり思い込んでそう書いてしまったところ、それは間違いで、京都市左京区にある「青龍山安養寺」のことです、と、現住職を務められておられる村上純一氏から御指摘があったのでした。

 全く面目もないお話で、「思い込み」は怖ろしいもので、てっきり、法然ゆかり吉水草庵の旧跡だったと言われる慈円山安養寺のことだと思い込んでおりました。寺内大吉著「念仏ひじり三国志」の舞台にもなった所で、この本を読んで大いに感動して頭に残っていたので勘違いしてしまいました。

 とはいえ、勿論、青龍山安養寺の方も名刹です。慈覚大師円仁(794~864)が延暦寺の別所に当たる天台宗の寺として開いたと言われる古刹だったのです。

 現在、かつては浄土宗の総本山のような形だった東山区の慈円山安養寺の方は時宗に、天台宗だった左京区の青龍山安養寺は、浄土宗西山派になっていますから、素人はその辺りの変遷や経緯についてはよく分かりません。

 ところで、村上純一氏は、私の間違いについて、糾弾されるどころか、「(両寺とも安養寺と)寺号が同じですし距離もそう離れていませんので、しばしばお間違えになってご来寺になる方もございます。春樹に心を寄せてくださる方々が折々来てくださいます。
 ということは、渓流斎様の文章をお読みになった方が東山区の安養寺様にいらっしゃることも考えられます。ご点検の上、可能ならば訂正をお願い申し上げたく存じます。」などと、勿体無いお言葉をお掛けしてくれました。身が細る思いで御座いまする。

先ほどの村上春樹氏の記事の中で、私は「(村上春樹氏は )ヨレヨレのジャケットを着て風采が上がらない感じでした。 」と書いてしまいました。当然、怒られるかと思いましたら、これについて村上純一氏は「 内容について、小生が申し上げることは無いのですが…」と優しい心遣いまでされてました。ますます、面目ないことです。

 いずれにせよ、村上純一 中僧正様をはじめ、関係者の皆様には大変な御迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。

 思えば、どういうわけか、この《渓流斎日乗》は意外と色んな方が目を通されておられるようで、私が書いた記事について、直接御本人様から御連絡のあったのは、 岩波茂雄の別荘「惜櫟荘」を私財を投じて購入された作家の佐伯泰英氏の関係者(その記事は消滅しました)、「日本のスパイ王 陸軍中野学校の創設者・秋草俊少将の真実」を書かれた作家の斎藤充功氏らがいらっしゃいます。

 

渋沢栄一と土方歳三と彰義隊と日経と一橋大学と…

 鹿島茂著「渋沢栄一Ⅱ 論語篇」をやっと読了しました。Ⅰの「算盤篇」と合わせて、原稿用紙1700枚。長い。2巻通読するのに9日間かかりました。

 17年間にわたって雑誌に長期連載されたものを単行本にまとめたものらしいので、内容や引用に重複する部分が結構あり、もう少し短くできたのではないかと思いましたが、それだけ、渋沢栄一という人間が超人で巨人だった表れではないかとも思いました。

「Ⅱ 論語篇」は、明治になって渋沢が500以上の会社を設立したり、協力したりする奮闘記です。同時に、日清・日露戦争、第1次世界大戦という激動期でしたから、欧米との軋轢を解消するために、財界を中心に親善視察団を派遣したり、国内では教育施設の創立に尽力したりして、渋沢を通して、日本の近現代史が語られています。

 現在の米中貿易戦争にしろ、日米貿易摩擦にしろ、覇権争いという意味で世界は、渋沢の時代とほとんど変わっていないことが分かります。

 渋沢栄一(1840~1931、享年91)は、江戸時代の天保生まれで、幕末、明治、大正、昭和と生き抜きましたから、同時代の証言者にもなっています。幕末に一橋慶喜に仕えたため、京都では新撰組の近藤勇や土方歳三らと実際に会っていて、彼らの人物像を四男秀雄にも語っている辺りは非常に面白かったです。(渋沢が、薩摩に内通した幕府御書院番士大沢源次郎を捕縛した際、土方から「とかく理論の立つ人は勇気がなく、勇気がある人は理論を無視しがちだか、君は若いのに両方いける」と褒められた逸話を語っています)

 渋沢栄一が徳川昭武の随行団の一員としてパリに滞在中、一緒に慶喜に仕官した栄一の従兄である渋沢喜作は日本に残りますが、新参としては異例の出世を遂げて、慶喜の奥祐筆に抜擢されます。鳥羽伏見の戦いでは、軍目付役として出陣し、慶喜が江戸に逃げ帰ってからは、江戸で再起を誓い、彰義隊を結成するのです。最後まで上野で官軍に抵抗した彰義隊をつくったのが、渋沢栄一の従兄だったとは!しかし、喜作は内部分裂の結果、彰義隊を飛び出して、新たに振武軍を結成します。それが、官軍に知られて追撃され、武州田無の本拠地から飯能に逃れ、結局、喜作は、榎本武揚らとともに箱館にまで転戦するのです。箱館は土方歳三が戦死した地でしたが、喜作は生還し、明治には実業家になりますが、山っ気のある人で、投機に失敗して、栄一がかなり尻拭いしたらしいですね。

 著者は「牛乳・リボンから帝国劇場・東京會舘に至るまで」と書いてますが、渋沢栄一は生涯に500以上の会社を立ち上げています。意外と知られていないのがマスコミで、今の日本経済新聞(中外物価新報)も毎日新聞(東京日日新聞)もNHK(日本放送協会)も、共同通信・時事通信(国際通信)も、渋沢が設立したり、協力したり、資本参加したりしているのです。

 教育面では、今の一橋大学(東京商法講習所)、二松学舎大学、国学院大学(皇典講究所)、東京女学館大学、日本女子大学、東京経済大学(大倉商業学校)などの設立に関わっています。

 同書では多くの参考文献が登場してましたが、この中で、最後の将軍徳川慶喜が晩年になってやっと回顧談に応じた歴史的資料でもある「昔夢会筆記」(平凡社の東洋文庫)や、渋沢栄一の多くの愛人関係を暴いて「萬朝報」に連載されていたものをまとめた「弊風一斑 畜妾の実例」(社会思想社の現代教養文庫)辺りは読んでみたいと思いました。