「出版と権力」との関係をもっと知るべき

 魚住昭著「出版と権力 講談社と野間家の110年」(講談社、3850円)をやっと読了しました。読後感は爽快とまではいきませんでしたが、日本を代表する日本一の出版社を通して、誰も知らなかった日本の近現代の裏面史が描かれていました。

 講談社の内部に詳しい事情通から聞いた話によりますと、このような社外秘の文章を、わざわざ部外者の作家に見せて、ノンフィクションを書いてもらったのは、段々、講談社の社内も世代が変わって、昔の事情を知らなくなった若い人が増えてきたため、是非とも若い社員には、創業当時からの講談社の裏事情まで知ってもらいたいという上層幹部の信念によるものだったそうです。

 確かに、どこの大手企業にもある「社史」など、つまらなくて社員でさえ誰も読みませんからね(苦笑)。

 この本が少し勿体ぶったような書き方をするのはそのせいだったのかあ、と意地悪な言い方ですが、納得しました。

銀座「アナム」Bランチカレー980円

 渓流斎ブログでこの本を取り上げるのはこれが3回目なので、今回は後半のことに絞って書きます。後半の主人公は何と言っても、「中興の祖」と言われた四代目社長の野間省一です。この人は、もともと野間家の人間ではなく、夭折した二代目社長恒(ひさし=野間清治・左衛夫妻の息子)の妻だった登喜子(皇族出身)の婿養子として野間家に入った人でした。旧姓高木省一。子どもの頃から神童とうたわれ、旧制静岡高校から東京帝大法学部に入り、卒業後は、大蔵省か内務省に入省してもおかしくなかったのに、南満州鉄道に入社します。省一が、満鉄に入社したのは、後に「新幹線の父」と呼ばれた十河信二の影響が大きかったからだといわれます。省一が旧制静高から帝大に入学する際に、援助を受けたのが静岡を代表する物流会社「鈴与」でしたが、その六代目社長鈴木与平と鉄道省官僚の十河と親しく、その縁で省一は十河と面識があったからだといいます。

 省一の満鉄時代の活躍(哈爾浜鉄道局総務課資料係長秋山炭六らとのソ連情報分析)はスパイ映画にでもなりそうな話ですが、その辺りは長くなるので、本書を読んでください(笑)。

 とにかく、省一は野間家に入り、社長になりますが、戦中に軍部と協力した「戦犯容疑」から戦後、会社から一時追放されます。が、組合の反対を押し切って、社長に返り咲き、創業者の「忠君愛国思想」路線から脱皮して、文芸から美術全集や科学書の「ブルーバックス」に至るまで、総合出版社に育て上げます。

 講談社は、多くの関連会社を持ち、それらは、本社がある地名から「音羽グループ」と呼ばれています。その一つに光文社(カッパ・ブックスや「女性自身」「フラッシュ」などを発行)がありますが、同社は戦時中に陸軍と共同で雑誌「征旗」などを出版していた日本報道社が起源だったとはこの本で知りました。

 もう一つ、キングレコードがあります。戦前、100万部もの大発行部数を誇った大衆誌「キング」から命名されたものでしょうが、この「キング」も戦時中は、敵性用語だから不謹慎だと、当局ではなく、大衆読者からの抗議によって、雑誌名を「富士」と改名を余儀なくされます。加藤陽子著「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」(新潮社)みたいな話ですね。

 雑誌「キング」が「富士」に改名しますから、キングレコードも「富士音盤」と改名します。この西宮工場を、さらに「富士航空」と改名して、レコードではなく、航空機部品を生産していたといいます。まさに、出版の世界だけでなく、軍需産業として講談社は戦争に協力していたことが分かります。

北西酒造「村上大介」

 この本は3850円と高めですから、残念ながら、よほどの通か、粋な人しか買わないことでしょう。今は長い「出版不況」のトンネルの中にいますからね。同書によると、雑誌の売り上げがピークだったのは1997年で、実倍額が全国で1兆5644億円でしたが、2018年は5930億円。22年間で売り上げが3分の1近く落ち込んだことになります。(書籍は、雑誌ほど落ち込みが酷くはないものの、1996年の1兆0931億円がピークで、2018年は6991億円にダウン)

 これでは、日販、トーハンといった大手取次会社が赤字を出したり、街の本屋さんが次々と消えてなくなっていくはずです(アマゾンの影響が大きい)。

 でも、通や粋な人だけではなく、本書を読んで色々知ってもらいたいことが沢山あります。戦後の占領軍GHQによる検閲は苛烈で、まさに酷いものでしたが、戦時中の軍部による検閲と顧問団名目の大目付派遣と、顧問料名義の賄賂、たかりの酷かったことです。これでは、米軍を非難すらできなくなります。前回、その陸軍の鈴木庫三中佐の戦後の変わり身の早さのことを書きましたが、日本人だけを、特別に、殊更賛美する人にはこの本を読んでもらいたいと思いました。

鈴木庫三という男=「出版と権力 講談社と野間家の110年」

 先週から魚住昭氏による669ページの大著「出版と権力 講談社と野間家の110年」(講談社)を読んでいます。途中で、「随分、よく調べているなあ」と感嘆したり、逆に、「社外秘の文書を特別に閲覧することができた、と豪語している割には驚愕すべき話は出て来ないなあ」と落胆したりしながら読んでいます。(やはり、同じ時代を扱った立花隆著「天皇と東大」の方が図抜けて面白い)

 この本に関しては、既に、渓流斎ブログの7月23日付の記事「講談社創立者野間清治の父は上総飯野藩士だった」で一度取り上げましたが、3年前に講談社ウエブサイト「現代ビジネス」に連載されていた時分から私は読んでいました。ウエブでは、講談社創立者「野間清治の一代記」(特に沖縄での御乱行)の印象が強かったのですが、改めて通読してみますと、タイトルの「出版と権力」そのものズバリの内容でした。

 まさに、出版、特に、雑誌は「時代を写す鏡」です。その時代の大衆が何を求めているのか?ーそのときの時流に乗らないと、雑誌は売れません。教職者だった野間清治が明治43年に初めて「雄弁」を、翌44年に「講談倶楽部」を次々と発行し、当初の「返品の山」の嵐を乗り越えて成功した時代背景には、自由民権運動後の国会開設や、明治新政府による教育の普及によって識字率が向上したことがありました。

 何と言っても、野間清治は波乱万丈の人です。「講談倶楽部」は、講談だけでなく、桃中軒雲衛門ら当時一世を風靡した浪花節(浪曲)を掲載したところ、講談師43人から連名で、講談速記録の雑誌掲載をボイコットされますが、新たに「新講談」と称して、都新聞の編集室に依頼して新作を発表していきます。後に「大菩薩峠」で有名になる中里介山や股旅物で第一人者となる長谷川伸らが健筆を振るい、売り上げ増に貢献します。

 それにしても、「出版と権力」の話が中心なので、この本で注目すべき中核をなしている物語は、昭和初期の戦時中の軍部による圧力の話です。まさに、近現代史の稗史です。

 中心人物は、陸軍情報部(後に情報局)情報官の鈴木庫三少佐(後に中佐、最終階級大佐、1894~1964年)です。何しろ、戦時体制という時局柄、国家総動員で、「思想教育」に打ってつけのメディアが雑誌でしたから、社会主義やマルクス主義はもってのほか。反戦思想など戦意高揚に反する記事もアウトです。紙の配給から印刷、流通に至るまで生殺与奪権は全て軍部が抑えていますから、軍部の御機嫌を損ねた出版社は倒産しかねません。

 この鈴木庫三という男は、出版社の幹部を呼びつけては、サーベルをガチャガチャといわせて威嚇して編集方針を変更させ、顧問団という名の監視役を社に送りつけたり、謝礼という名の法外な賄賂を受け取ったりします。

 一方の講談社の方は、かなり強かで陸軍のために「若桜」、海軍のために「海軍」を発行して軍部に全面的に協力して、用紙確保に心配なく、莫大な利益を上げていきます。

 日本敗戦後、講談社は戦争協力者として指弾されて、戦前の幹部は一掃され、GHQによる指令もあり、民主主義思想を根幹にした出版社として生まれ変わります。その際に、再登場したのが、戦後も生き延びた例の鈴木庫三さんです。講談社の幹部に会うと、「僕に頼みたい原稿があったらいくらでも書くよ。だいたい民主主義だなんて言ったって、僕はその方の専門家だからねえ」と言い放ったといいます。

 何という変わり身の早さ! 戦時中にあれほど若者たちを戦争に煽って、自分の意に反する言論を弾圧してきたというのに、自らの戦争責任などひとかけらも感じていない。鈴木庫三という男。ジャーナリスト清沢洌から「日本思想界の独裁者」と言われた男。人間ではありながら、良心の呵責や罪悪感など一切持ち合わせていない人間というものがこの世に存在するということを見事に見せつけてくれました。

 

講談社創立者野間清治の父は上総飯野藩士だった

 本日は、ついに東京五輪開会式。やっちまうんですね。(もうソフトボールやサッカー等の予選は始まってますが)

 疫病下のオリンピアード

 後世の歴史家は、2021年の東京五輪をそう名付けることでしょう。既に、東京都内のコロナウイルス感染者が2000人近くに迫り、オリンピック大会関係者も22日現在、78人の感染者が確認されたと公式発表されていますから、今から中止してもいいぐらいなんですけどね。とにかく、歴史上始まって以来、盛り上がりに全く欠けるシラケ五輪です。

 さて、私事ながら、4連休なので、東京都内の博物館にでも行きたいところですが、緊急事態宣言が出されているので、家でじっと本を読んでいます。

浦和・「中村家」 うな重特上4800円

 今読んでいるのは、いつぞやも、このブログで、私の自宅の書斎の机の上には未読の本が「積読状態」になっていることを白状しましたが、その中の1冊です。魚住昭著「出版と権力 講談社と野間家の110年」(講談社、2021年2月15日初版)という本です。2018年から20年にかけて、講談社ウエブサイト「現代ビジネス」に連載されたものを、大幅に改稿して単行本化したもので、私自身もネット連載中の記事は拝読させて頂き、その「面白さ」は既に、痛感しておりました。

 著者の魚住氏は共同通信出身のノンフィクション作家です。私は若い駆け出し記者の頃、共同通信の人には目の敵にされ、意地悪されたり、取材妨害されたりし、また、人海戦術で他社を潰そうとする態度があからさまだったので、今でも共同は、大嫌いな会社なのですが、魚住氏とは接点がなく、著書を通してですが、その取材力には感服しております。

 「出版と権力」は、日本一の出版社、講談社を創立した野間清治の一代記ですが、サブタイトルにあるように、清治の後を継いだ二代目恒(ひさし)から六代目の佐和子社長辺りまでの110年間を総覧しているようです。講談社という一つの出版メディアを主人公に、当時の政治的社会的背景から風俗、流行に至るまで、時代の最先端の空気を他社より先んじてリードする出版人の裏の苦労話も書かれているようです。

 まあ、近現代史の裏のエピソードが満載ですから、面白くないわけないでしょう。

 何しろ、注を入れて669ページという事典のような大著です。ネットで読んだとはいえ、単行本の方は、まだ、最初の方しか読んでいませんが、一番興味を持ったのは、創業者野間清治の先祖の話です。明治11年(1878年)生まれの清治の父好雄は、上総飯野藩(現千葉県富津市)の藩士の三男だったんですね。

◇保科正之の御縁で飯野藩と会津藩は縁戚関係

 飯野藩は慶安元年(1648年)、保科正貞が立藩し、代々保科家が藩主を務めました。家康の孫に当たる正之が、保科家に養子に入ったため、保科家は一時廃嫡になりましたが、その保科正之は会津松平家を興したため、保科正貞が飯野藩を立藩できたわけです。ということは、会津藩と飯野藩は縁戚関係ということで、幕末は、飯野藩も、奥羽越列強同盟の会津藩に馳せ参じて、戊辰戦争で官軍と戦うことになるのです。

 野間清治の父好雄の長兄銀次郎は、飯野藩士19人と脱藩して遊撃隊を結成して官軍と戦いますが、官軍に蹴散らされ、その責任を問われた銀次郎は、飯野藩家老とともに切腹したといいます。

 また、野間清治の母の文(ふみ)は、飯野藩武術指南役・森要蔵の長女で、清治の父好雄は、森要蔵の内弟子だったので、妻の文は師の娘に当たります。森要蔵は、もともとは江戸詰め肥後細川藩士の六男で、北辰一刀流の千葉周作に師事し、神田お玉が池の千葉道場の四天王の一人と称されました。司馬遼太郎の「竜馬がゆく」などにも登場する剣客です。その森要蔵も三男寅雄(文の弟)ら門弟28人を連れて、会津藩の応援に駆け付けますが、壮絶な最期を遂げます。

 明治の新聞人は、福沢諭吉(「時事新報」)、成島柳北(「朝野新聞」)、栗本鋤雲(「郵便報知新聞」)らもともと幕臣や佐幕派が多かったのですが、野間清治のように雑誌、出版人も佐幕派の血を引いていたとは、感慨深い話でした。

 

「天地間無用の人」の幕臣時代=成島柳北

 「われ歴世鴻恩を受けし主君に、骸骨を乞ひ、病懶(びょうらん)の極、真に天地間無用の人となれり。故に世間有用の事を為すを好まず」

 成島柳北(なるしま・りゅうほく=1837~1884年)の「濹上隠士伝」の有名な一節です。「天地間無用の人」とはあまりにも激烈な言葉です。幕末、第十三代将軍徳川家茂、十四代家茂に直に四書五経等を講じる「侍講」という重職に就く幕臣だった成島柳北は、維新後、和泉橋通りの屋敷からも逐われ、隠居の身となります。まだ朝野新聞社長として活躍する前の話です。(ちなみに朝野新聞社は、東京・銀座4丁目、今、服部時計店「和光」が建っているところにありました。)

 明治の反骨ジャーナリスト成島柳北について、今では知る人も少ないでしょう。彼の次兄(大目付森泰次郎)の孫が俳優の森繁久弥だということぐらいなら御存知かもしれません。私は、彼の幕臣時代の活動について、全く知らなかったのですが、古書店で手に入れた前田愛著「成島柳北」(朝日新聞社、1976年6月15日初版)でその概要を知ることができました。この本、漢文をそのまんま引用だけしている箇所があまりにも多いので、意味を解釈するのが困難で、難しいったらありゃしない(笑)。私も1970年代の大学生ではありましたが、当時、そんな漢籍の素養があった学生は多くはいなかったと記憶しています。訳文がないので、この本はスラスラ読めません。

中津藩中屋敷跡に建つ立教学院発祥地の碑

 でも読み進めていくうちに漢文の文語体は何とも言えない快楽になり、まさに江戸時代の日本人と会話している気分にさせてくれます。意味が分からなければ、漢和辞典で調べればいいだけの話でした。

 「天地間無用の人」は成島柳北が発明した言葉だと思っていたのですが、どうやら先人の寺門静軒(1796~1868年)が「江戸繁盛記」の冒頭で書いて自称した「無用之人」を踏襲したようです。寺門静軒は水戸藩士の庶子として生まれたため、結局、水戸藩に仕官できず、自らを「無用之人」と称して、儒学者として生涯を過ごした人です。代表作「江戸繁盛記」は評判を呼びますが、天保の改革で悪名高い鳥居耀蔵によって「風紀を乱す」との理由で、絶版にさせられ、寺門静軒自身も江戸市中から追放処分を受けます。

 時は幕末。浅薄な尊王攘夷思想にかぶれた勤王の志士たちが血生臭い闘争に明け暮れていたイメージが強かったでのすが、成島柳北ら文人墨客グループは、隅田川に舟を泛べて漢詩を詠い、楼閣に登って芸妓と戯れます(「柳橋新誌」)。そんなヤワなことをしているから、佐幕派は薩長の田舎侍に敗れたのだ、とだけは言われたくないですねえ(笑)。漢籍と芸事は武士の嗜みであり、江戸文化の華でもありました。そんな文人成島柳北も、小栗上野介(1827~68年)や栗本鋤雲(1822~97年)を中心に幕府が導入したフランス式軍隊の騎兵頭に指名されたりします。

東京・築地

 その前に、成島柳北が属した文人墨客サロンの中心人物は、代々将軍の侍医を務める桂川甫周でした。桂川甫周といえば、前野良沢、杉田玄白による「解体新書」の翻訳作業に従事した蘭方医として有名ですが、あれは18世紀後半の明和の時代ですから合わない…。こちらは四代目(1751~1809年)でした。成島柳北の友人の同姓同名の方は、七代目(1826~1881年)でした。七代目甫周も蘭学者でもあったので、江戸時代最大のオランダ語辞書「和蘭字彙」を完成させます。ちなみに、安政年間になると蘭学に代わって英学が台頭し、洋書調所から「英和対訳袖珍辞書」が文久2年に出版されますが、この辞典の訳語の60%が「和蘭字彙」からの借用だったといいます。

 漢詩人大沼枕山(1818~91年)を通して、漢学者大槻磐渓(1801~78年)、書家中沢雪城(1810~66年)、儒者春田九皐(はるた・きゅうこう、1812~62年、浜松藩士)、儒学者鷲津毅堂(1825~82年、永井荷風の外祖父)らと交遊を持っていた成島柳北は、11歳年長の桂川甫周のサロンで、語学の天才柳河春三(やながわ・しゅんさん、1832~70年、尾張藩出身の洋学者)や神田孝平(1830~98年、洋学者、長野県令)、宇都宮三郎(1834~1902年、尾張藩士、洋学者、化学者)らと知り合うことになります。もう一人、忘れてはならないのは福沢諭吉で、彼が咸臨丸の遣米使節に参加できたのは、桂川甫周の推薦だったといいます。

 もっとも、福沢諭吉の方は、舟遊びや芸妓に傾倒する成島柳北らとは一線を画していたようで、桂川甫周の次女、今泉みねは明治になって80歳を過ぎて、「福沢さんは、どうも遊び仲間とはちがふように私の頭に残っています。始終ふところは本でいっぱいにふくらんでいました」と回想しています。(「名ごりの夢」)

 さすが福沢諭吉、緒方洪庵の大坂適塾の塾頭を務めたぐらいですから、かなりの勉強家だったのですね。その福沢諭吉が幕末に大坂から江戸に出て、最初に行ったのが、中津藩上屋敷。何と今の銀座にあったのですね。汐留に近い今の銀座8丁目14~21辺りで、鰻の竹葉亭本店や近く取り壊されると言われる中銀カプセルタワービルなどがあります。何か碑でもあるかと私も歩き回って探しましたが、見つけられませんでした。

中津藩江戸中屋敷

 でも、上屋敷に着いた福沢諭吉は「中屋敷に行くように」と指示されます。中津藩の中屋敷は今の築地の聖路加国際病院がすっぽり入ってしまう広大な屋敷で、福沢諭吉はここで、最初は蘭学の塾を開きます。それが、横浜に行って異人と会話してもオランダ語がさっぱり通じないことから、英語の勉学に変えていくのです。勿論、ここが慶応義塾の発祥地となります。ここから桂川甫周の屋敷と近かったため、福沢諭吉は、本を借りるためなどで桂川邸を行き来していたわけです。

中津藩中屋敷跡に建つ立教女学院発祥地の碑

 明治から昭和にかけて活躍した作家の永井荷風(1879~1959年)は、外祖父鷲津毅堂も交際していた成島柳北(の死後)に私淑し、「柳北先史の柳橋新誌につきて」などの作品を発表し、柳北若き頃の日記「硯北日録」などを注釈復刻しようとしたりしました。荷風ほど江戸の戯作文学に憧憬の念を持った人はいないぐらいですから、江戸文学の血脈は、寺門静軒~成島柳北~永井荷風と受け継がれている気がしました。

「我は法華経の広宣流布を委ねられた上行菩薩なり」=佐藤賢一著「日蓮」

鎌倉・長勝寺 日蓮聖人像

 佐藤賢一著「日蓮」(新潮社、2021年2月16日初版、1980円)を読了しました。非常に勉強になりました。小説というより、評伝でしたね。ただ、佐渡島流刑から鎌倉に帰宅後、波木井(南部)実長からの申し出により身延山に庵を結ぶことになり、そこで、(第一次)蒙古襲来の報せを受けるというところで終わってしまったので、続編があると思います。

 この本については、既に一昨日(7月6日付)のブログ「法然上人を悪しざまに言う日蓮」で前半(第一部 天変地異)を取り上げていますので、本日は後半(第二部 蒙古襲来)のことを中心に書くつもりです。

 最初に「小説というより、評伝でした」と書いておきながら、やはり、学術論文とは違う作家が創造した小説ですから、善と悪を故意に際立たせた(言って良ければ)作り物の物語になっています。鎌倉の得宗被官筆頭で最高権力者の平左衛門尉頼綱(鎌倉の龍ノ口で日蓮を処刑しようとして果たせず、佐渡島に流刑した)と日蓮との手に汗を握る対決である会話を佐藤氏が傍で聞いていたわけではありませんから、「講釈師、見てきたような…」のあれです。

 しかしながら、大変苦心して書かれた評伝だったので、この本を読んでやっと日蓮があれほど激烈に他宗派を排撃した理由が分かりました。一昨日書いたことと少し重複しますが、「念仏無間」というのは、浄土宗の専修念仏は、ひたすら浄土門に邁進せよと言い、聖道門の法華経は、捨て、閉じ、閣(さしお)き、抛(なげう)て命じるからだといいます。(法然の言うところの捨閉閣抛=しゃへいかくほう=)「真言亡国」は、護摩祈祷で戦勝を祈願した平家も後鳥羽院も敗れたではないか、「禅天魔の所為」とは、禅宗は「教外別伝」(きょうげべつでん)「不立文字」(ふりゅうもんじ)を掲げ、釈迦の説かれた一切経を抛擲し、久遠の仏の教えを聞かないからだというのです。(「律宗国賊」に関しては問答が省略されてました)

鎌倉・妙本寺

 何故、数多あるお経の中で、法華経だけを日蓮が尊重するのかというと、釈迦が「法華経以前に説かれた諸法は方便の経で、真実を明かしていない仮の教えだ」と申しているからだというのです。

 そして、法華経を広める地涌(じゆ)の菩薩を率いる菩薩として、安立行菩薩(衆生を無辺なれども済度する)と浄行菩薩(煩悩は無数なれど断ち尽くす)と無辺行菩薩(法門は無尽なれども知り尽くす)と上行菩薩(仏道は無上なれども成し遂げる)の四菩薩(四弘誓願)がいますが、日蓮本人は、龍ノ口での法難の際に、自分自身は、法華経の広宣流布を委ねられた菩薩の導師の一人、上行菩薩であることを自覚したといいます。

 なるほど、そういうことでしたか。私自身は、どこそこの教団に属す信徒ではありませんが、また、もう少し、法華経に挑戦したくなりました。

 この本を読んでよかったのは、昨年9月に鎌倉の日蓮宗の寺院巡りをしたお蔭で、活字だけで、鎌倉の情景を目に浮かべることができたことです。(2020年9月22日付渓流斎日乗「鎌倉日蓮宗寺院巡り=本覚寺、妙本寺、常栄寺、妙法寺、安国論寺、長勝寺、龍口寺」をご参照ください)

鎌倉・龍口寺

 この本を読んで、まだ行ったことがない、佐渡や身延山に、日蓮聖人の足跡を訪ねて、いつか行ってみたいと思いました。(その前に、日蓮聖人が入滅された東京・大田区の池上本門寺を再訪したいと思います)

 また、この本で、日蓮の師である清澄寺の別当道善房や、日昭(成弁、比叡山同学の日蓮より一歳年長ながら最初の弟子)、日朗(日昭の甥)、日興(実相寺修行僧伯耆房)、日向(にこう=安房出身)、日頂(下総富木常忍の養子)、日持(最初は日興に師事)の六老僧や日行日法(熊王)といった日蓮の直弟子や、四条頼基(金吾殿)、池上宗仲・宗長宿屋光則大学三郎富木常忍といった檀越(だんおつ)のことも勉強させて頂きました。

 日蓮という後世に莫大な影響を与えた偉大な日本人が生きた時代背景には、地震などの天変地異と飢餓と疫病の流行に加え、政争と戦乱と蒙古襲来(他国侵逼=しんぴつ)という日本史上稀に見る「国難」があったということがよく分かりました。安倍前首相が口癖のように使っていた国難とは、あれは何だったのか首をかしげたくなるほどです。

【追記】

 ここまで書くのに5時間も掛かりました。あにやってんでしょうか(笑)。ついでながら、佐藤賢一氏の「日蓮」は、仏法論争の話が中心で、日蓮が一体どんなものを食べていたのか、どんな服装をしていたのか、どんな仏具(真言ではないので金剛杵なんか持っていなかったでしょうが)を備えていたのか、といったことが殆ど書かれていなかったので、気になりました。

 小説ならもう少し俗人的なことを書いてもいいと思ったのですが、宗教家は神聖なのでそこまで書いては駄目なんでしょうか?

 

法然上人を悪しざまに言う日蓮

 ちょっと酷い言い方なんで聞いてくださいな。

 その人は、名前は出せませんけど、こんなことを言うのです。「歴史学者は、日本史は室町時代から学ぶべし、と述べております。史実として学ぶには、室町以前は資料が乏しい故です。渓流斎翁は、安直に相変わらず信仰の如く『歴史人』を紹介されておられますが、鎌倉時代は、古代同様に、イメージを膨らませて語るしか無いのですよ。」

 「室町時代から学べ」と言った歴史学者は誰なんでしょ? 自分の得意な専門分野だから言ってるだけでしょう。江戸時代を知るには戦国時代を知らなければならないし、戦国時代を知るには鎌倉時代を知らなければならないし、そもそも古代史を知らなければ、「この国のかたち」が分かるわけがありませんよ。安直な人間と決めつけられようとも。

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 ーーと前置きを書きましたが、鎌倉時代を勉強し直して本当に良かったと思っています。先日から読み始めた佐藤賢一著「日蓮」(新潮社)は、思っていた以上に難解で、仏教用語や思想の知識がなければ全く歯が立たず、同時に鎌倉時代の制度や歴代執権、連署らの名前や、弟子を含めた膨大な人物相関図が分からなければ、さっぱり理解できないからです。

 直木賞作家佐藤賢一氏(1968~)については、大変失礼ながら、著作をほとんど読んだことがないのですが、東北大学大学院で仏文学を専攻し、「小説フランス革命」や「ナポレオン」などフランス関係の小説を多く発表されていることぐらいは知っておりました。そんな人が、何で、日本人の、しかも、宗教者の日蓮を取り上げるのかー?専門外で大丈夫なのかしらー?といった興味本位で、この本を手に取ったわけです。

 そしたら、繰り返しになりますが、極めて難解で、当然のことながら、かなり仏教を勉強されている方だということがよく分かりました。「法華経」は勿論のこと、「金光明経」「大集経」「仁王経」「薬師経」、それに、法然の「選択本願念仏集」、日蓮の「立正安国論」…とかなりの経典や仏教書等を読み込んでおられると思われます。

 平安末から鎌倉時代にかけて、戦乱と天変地異と疫病が流行して、世の中が不安定だったせいか、不思議なくらい史上稀にみるほど多くの新興宗教が勃興します。法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗、そして日蓮の日蓮宗などです。この中で、日蓮は「遅れて来た」教祖だったこともあり、既成宗派を激烈に批判します。それは「四箇格言(しかかくげん)」と呼ばれ、「念仏無間の業、禅天魔の所為、真言亡国の悪法、律宗国賊の妄説」の四つを指します。

 つまり、専修念仏の浄土宗などを信仰すると、無間地獄に堕ちる。臨済、曹洞宗などの禅宗は、天魔の所業である。真言宗は生国不明の架空の仏で無縁の主である大日如来を立てることから亡国の法である。律宗は、戒律を説いて清浄を装いながら、人を惑わし、国を亡ぼす国賊であるー。といった具合です。

 この本は、まだ前半しか読んでいませんが、特に日蓮の批判の対象になったのが、浄土宗でした。日蓮は、法然房源空が、源空が、と呼び捨てですからねえ。念仏なんかするから、天変地異が起きるのだ。浄土宗なんか、浄土三部経しか認めず、他の経を棄て、西方にいる阿弥陀如来だけを崇めて、東方におわす薬師如来だけでなく、釈迦や菩薩すら否定し、極楽浄土に行くことしか説かない。何で現世で、即身成仏しようとしないのか。それには法華経を信じて「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えるしかない、と一般衆生だけでなく、時の権力者たちに主張します。(最明寺殿こと五代執権北条時頼に「立正安国論」を提出)

銀座・魚金「マグロ寿司」ランチ1000円

 私は、日蓮(1222~1282年)については、亡父の影響で大変興味があり、惹かれますが、法然上人(1133~1212年)は、日本歴史上の人物の中で最も尊敬する人の一人なので、あまり悪しざまに扱われると抗弁したくなります。が、これは佐藤氏の創作ですから、実際に日蓮が発言した言葉とは違うと思われます。しかし、日蓮は、実際に鎌倉の松葉が谷の草庵を浄土宗僧侶や念仏者たちによって襲撃されて焼き討ちに遭ったりしているので、浄土宗を敵視したことは間違いありません。この本は、小説とはいえ、ほぼ史実に沿ったことが描かれていると思われます。

 ただ、小説だから軽い読み物だと思ったら大間違いです。恐らく、事前に大学院レベルの知識を詰め込んでおかないと、理解できないと思います。老婆心ながら。

スマホ中毒者の独り言=アンデシュ・ハンセン著「スマホ脳」を読んで

 我ながら、自分自身がスマホ中毒だということは自覚しております。中毒というより、スマホ依存症かもしれません。

 まあ、どちらでも同じことですか…(笑)。

 さすがに、他人様に迷惑となる「歩きスマホ」は絶対しませんが、スクランブル交差点での長い信号待ちでは、イライラしてスマホを取り出して、メールをチェックしたり、酷い時にはこの渓流斎ブログを書いていたりしておりました。

 しかし、もうそれは過去のことにしよう、と思っています。

 今、大ベストセラーになっているアンデシュ・ハンセン著、久山葉子訳「スマホ脳」(新潮新書)を読むと、「そんなことしてられない」と冷や水を浴びせられます。(我々は1日に2600回以上スマホを触り、平均して10分に1度スマホを手に取っているとか!)本来なら、ベストセラー本は、このブログではなるべく取り上げない方針でしたが、(だって、私が紹介しなくても、売れてるんだもん)この本は、意外に面白いというか、もっと言えば、世界的ベストセラーになるだけあって、とても素晴らしい本だということを発見し、書かずにはいられなくなったのです。

 この本は、技術書でも手引書でもなく、1974年、スウェーデン生まれの精神科医から見たヒトの志向、性癖、思考の分析本でした。脳科学、人類学、進化論の書と言ってもいいかもしれません。でも、専門書のような堅苦しさはなく、訳文が良いのか大変読みやすいのです。

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 デジタル・デバイスに関して、人類で最も精通していると思われるアップル共同創業者のスティーブ・ジョブズは、自分の10代の子どもに対しては、iPadの使用時間を制限し、マイクロソフト共同創業者のビル・ゲイツは、子供が14歳になるまでスマホを持たせなかったといいます。これらの機器が若年層に与える弊害を知り尽くしていたからなのでしょう。

 面白いのは、ジャスティン・ローゼンスタインという30歳代の米国人です。彼は自分のフェイスブックの利用時間を制限することを決め、スナップチャットはきっぱりやめたといいます。依存症の面ではヘロインに匹敵するという理由からです。このローゼンスタインさん、単なる米国の青年とはわけが違う。何と、フェイスブックの「いいね」機能を開発した人だというのです。彼は、後にインタビューで「思ってもみないような悪影響があることは、後になって分かった」と語っているぐらいですから、デジタル機器の恐ろしさを人一倍、身に染みて痛感したことでしょう。

 ヒトは、どうしてスマホ中毒になるのかー?

 端的に言うと、脳内にドーパミンと呼ばれる報酬物質の量が増えて、やめられなくなってしまうからです。人類誕生以来、ヒトは過酷な環境の下で生き延びるために進化してきましたが、このドーパミンによる作用によることが大きいのです。生き延びるために食欲を満たすことによって、エンドルフィンと呼ばれる快楽物資が発散され、自分の子孫を残す生殖行為でもエンドルフィンが促されるといった具合です。

 生き延びるために、ライオンや虎などの捕食者に出会わないようにしたり、蛇や毒グモから避けたりしなければならず、そういった探索能力や、何処に行けば果実が成っているのか、何処に行けばマンモスがいるのかといった情報収集能力を発揮するには、このヒトに行動の動機付けを与えるドーパミンの助けが必要とされるといいます。

 ということは、スマホで情報を探索し、ニュースに接しているときに発出するドーパミンと、他人からの「いいね」といった承諾を得ることで出るエンドルフィンで、際限のない満足と欲求不満の連鎖で、中毒、もしくは依存症に陥ってしまうということなのかもしれません。

 そして、何と言っても、もしかしたら、スマホは、人類誕生以来の最も恐ろしい脳破壊兵器なのかもしれません。。。

 そんなカラクリが分かったとしても、ヒトはスマホを手放すことができるのでしょうか?ー多分、この「スマホ脳」は大ベストセラーなのに、読んでいないのか、通勤電車内では9割近くの人がスマホの画面に吸い込まれています。

 今から、貴方はフェイスブックやツイッターやLINEを辞められますか? もう禁断の果実を食べてしまったからには、無理かもしれませんね。

 私自身も利用時間を減らすことはできても、きっぱりとやめることはできないと思っています。(とは言いながら、広告宣伝媒体のフェイスブックなんかやめちゃうかも=笑)メールチェックもパソコンで1週間に1回ぐらいだった時代が懐かしい。スマホもパソコンもなかった時代に戻れるものなら戻りたいものです。

NHK朝ドラ「おかえりモネ」の宮城県登米市から徳永直まで一気に連想される長い長い物語

釈悪道老師から、いきなりメールが来ました。

 「読み人おらず」の浅薄で不実な駄文を長々綴ることは、老い先が永くない渓流斎翁が為すことではありませぬ。近く、渓流斎翁を逆上させるお便りを差し上げましょう。お楽しみに!

 ナヌー!? です。

 読み人知らず、なら聞いたことありますが、読み人おらず、とは言い得て妙…などと感心している場合か! 何度読み返しても、ここまで他人を陥れて冒涜できる人は、世にも稀で、一種の天賦の才能です。間違いなく極楽浄土へは行けないでしょう。残念…。

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 さて、渓流斎ブログのアクセス・カウントを見てみたら、49万アクセスを超え、記念になる50万アクセスまでもうすぐではありませんか!このブログを開始したのは2005年3月ですが、新しく独立して、このサイトを立ち上げたのは2017年9月です。ほぼ4年で、区切りの良い50万アクセスに到達することができるようです。これもこれも、釈悪道以外の読者の皆様のお蔭です。御礼申し上げます。

「おかえりモネ」

 また、さて、ですが、満洲研究家の松岡將氏から、意外な話と要望等がここ最近、次々と寄せられてきました。

 最初は、5月17日から始まったNHK朝の連続テレビ小説「おかえりモネ」を時間があったらご覧ください、といった簡単なものでした。

 ドラマは、宮城県気仙沼市の離島で育った主人公百音(もね=清原果耶)が、高校卒業後、内陸部の登米市にある祖父の知人宅に下宿して、森林組合で働き始め、難関の気象予報士を目指すといった話です。

 何で?と思ったら、舞台になっている登米市が松岡氏の御縁のある故郷だというのです。

 松岡氏は、御母堂の実家の北海道で生まれ、幼少期は満洲(中国東北部)で過ごし苦労して引き揚げてきた方ですが、父親の祖先は、仙台伊達藩の支藩である登米藩士で、代々、祐筆(文書や記録を司る職)を務めていた家柄だったというのです。この御尊父を始め、旧登米伊達藩士松岡家の子弟5人は登米高等尋常小学校を卒業されたというのです。(ドラマを見ていては分かりませんが、登米市は今でもかなり教育熱心な城下町だそうです)

 当然ながら、松岡氏は、登米市の祖母や伯母たちが話していた「登米弁」を、ドラマで俳優たちが、どんな具合に話すか楽しみだという話でした。

 しかし、話はそれで終わらなかったのです!

 私自身、かつては登米市は行ったことも聞いたこともない未知の土地でした。上の写真のバッジは、市の観光課からマスコミに配られた宣伝拡販財用のバッジではありますが(現地で売っていると思われます)、このバッジがなければ、「とめし」とは読めませんでした(苦笑)。

 それが、いきなりですが、登米市は、「太陽のない街」などで知られるプロレタリア作家徳永直(1899〜1958年)と御縁があり、登米を舞台にした「妻よねむれ」「日本人サトウ」などの小説を書いているというのです。

 徳永直の「太陽のない街」は文学史の教科書に必ず載るほど有名で、日本人なら知らない人はいないはず。そんな大作家は熊本出身ですが、(最初の)妻がこの登米出身だったというのです。

◇「妻よねむれ」

 そこで、松岡氏から「二の矢」が放たれ、「是非、徳永直の『妻よねむれ』を古本で御購入されたし。私は涙なしには読めませんでした」といった要望が飛び込んできました。

 「妻よねむれ」は昭和22年の作品で、当時はベストセラーになったようです。ネットで探してみたら、アマゾンの古書で4万円以上もしました。こりゃ無理、ということで、地元の図書館で探したらすぐ見つかり、すぐ借りることができ、今、一生懸命、読んでいるところなのです。

 確かに涙なしでは読めない大変な名作です。

 徳永直が大正13年(1924年)に結婚した最初の妻は、登米町出身の看護婦佐藤トシヲでした。彼女は「私生児」として生まれ、7歳で母親を亡くし、極貧の中で祖母に育てられます。小学校を3年で中退して9歳から奉公を始め、子守りをしたり、糸工場で働いたりして勉学どころではありません。それでも、東京で看護婦の仕事を斡旋してくる所を紹介してもらい、夜に看護婦学校に通って資格を取って、やっと一人前の生活ができる仕事にありつけます。しかし、関東大震災で罹災し、命からがら故郷登米に戻ったときに、「お見合い」で徳永直と結婚することになったのです。

 結婚しても、植字工の夫は労働争議による失業の繰り返しで貧乏は相変わらず。夫婦喧嘩も絶えませんでしたが、トシヲは昭和20年6月、夫と4人の子どもを残して病気で40歳の若さで亡くなってしまいます。「妻よねむれ」は、徳永直が21年に及ぶトシヲとの夫婦生活を愛惜を込めて追悼して描いた小説で、松岡氏もよく御存知の登米市の乾物問屋「菊文」(小説では「竹文」)や、知人や親戚も登場するというのです。トシヲは、かなりの美人さんだったらしく、三女の徳永街子(小説では町子、1935〜2004年)は女優になり、映画「ひめゆりの塔」などに出演しました。また、長男徳永光一(小説では幸一、1927〜2016年)は、岩手大学農学部農業土木工学教授を務めました。

 また、「妻よねむれ」では、徳永直の親しい友人だった作家の小林多喜二がK.T、中野重治がN.Sとイニシャルで登場します。

◇徳永直の妻

 話はそれで終わったと思ったら、松岡氏から「第三の矢」が放たれました。松岡氏は、徳永直の二番目の妻になった女性の身元を歴史探偵のように調べ始めたのです。 

 そしたら、複雑怪奇そのもの。徳永直は2回結婚したという説や3回、いや4回結婚したのではないかといった説など色々あり、本によって年譜に書かれている女性の名前がそれぞれ違っていたりして「何だか、よく分からない」。

 ある説では、徳永直が再婚した相手は、「二十四の瞳」などで知られる壷井栄の実妹で、わずか2カ月で破綻したといいます。となると、探索している女性は三番目の妻ということになるのかー?それとも人違いなのか? 他にも結婚した女性がいたのか?

 小説家というものは、凡人にはない業(ごう)を持って生まれた者ですから一筋縄ではいきません。

 まだ、途中経過なので、この話はどう展開するのか、まだ分かりません。

鎌倉時代は難しい…=何だぁ、京都との連立政権だったとは!

 日本史の中で、鎌倉時代とは何か、一番、解釈が難しいと思っています。貴族社会と武家社会の端境期で、三つ巴、四つ巴の争い。何だかよく分からないのです。私自身の知識が半世紀以上昔の高校生レベルぐらいしかない、というのも要因かもしれませんが、歴史学者の間でも、侃侃諤諤の論争が展開されているようです。(武士の定義も、「在地領主」と考える関東中心の図式と、京都で生まれた殺人を職能とする「軍事貴族」と考える関西発の図式があるそうです=倉本一宏氏)

 第一、源頼朝による鎌倉幕府の成立が、1192年だということは自明の理だ、と私なんか思っていて、語呂合わせて「イイクニ作ろう鎌倉幕府」と覚えていたら、

(1)治承4年(1180年)12月=鎌倉殿と御家人の主従関係が組織的に整えられた。

(2)寿永2年(1183年)10月=頼朝の軍事組織による東国の実効支配を朝廷が公認。

(3)文治元年(1185年)11月=守護・地頭の設置が朝廷に認可された。

(4)建久元年(1190年)11月=頼朝が右近衛大将(うこんのえたいしょう)に任官。

(5)建久3年(1192年)7月=頼朝が征夷大将軍に任官。

 と、成立年に関しては、こんなにも「諸説」があるのです。

 驚くべきことには、もう鎌倉時代という時代区分の言い方は実態に沿っていないと主張する学者も出てきて、2003年の吉川弘文館版「日本の時代史」では、「京・鎌倉の王権」と表記するほどです。つまり、鎌倉時代は、江戸時代のように京都の朝廷の権力が衰えていたわけではなく、京都と鎌倉で政権は並立していたという解釈です。

 源頼朝が、鎌倉に幕府を開く前後に、平家との戦いだけでなく、同じ身内の源氏の叔父やら実弟らとの間で権力闘争や粛清があったりしますが、京都や北陸では木曽(源)義仲(頼朝の従兄弟)が実効支配していたり、朝廷は後白河法皇が実権を手放さず、譲位後も34年間も院政を敷いたりしておりました。

◇「歴史人」7月号「源頼朝と鎌倉幕府の真実」特集

 といったことが、「歴史人」7月号「源頼朝と鎌倉幕府の真実」特集に皆書かれています(笑)。この雑誌一冊読むだけで、鎌倉史に関する考え方がまるっきり変わります。「今まで勉強してきた鎌倉史は一体、何だったのか?」といった感じです。

 登場する人間関係が色々と複層しているので、家系図や年表で確認したりすると、この雑誌を読み通すのに、恐らく1カ月掛かると思います。私もこの1冊だけを読んでいたわけではありませんが、1カ月経ってもまだ読み終わりません。仕事から帰宅した夜に1日4ページ読むのが精いっぱいだからです。この中で、一番、目から鱗が落ちるように理解できたのが、近藤成一東大名誉教授の書かれた「日本初の武家政権『鎌倉幕府』のすべて」(58~59ページ)です。

 それによると、1180年に頼朝が鎌倉に拠点を定めた時点では、頼朝は朝廷から見れば依然として反逆者であり、頼朝の勢力圏は東国に限られていました。西国は、安徳天皇を擁する平家(平宗盛)の勢力圏に属し、北陸道は木曽義仲、東北は藤原秀衡の勢力圏に属していました。(…)その後、このような群雄割拠している状況で、東国における荘園、国衙領の支配を立て直すのに、朝廷は頼朝の権力を必要としたというのです。「鎌倉時代」と呼ばれてきたこの時代を鎌倉の政権と京都の政権が共存し相互規定的関係にあった時代だと定義し直すと、この時代の始まりは、鎌倉幕府と朝廷との共存関係が成立した寿永2年(1183年)と考えるのが適当であろう。

 へー、そういうことだったのですか。…となりますと、鎌倉時代は今風に言えば、

1183年、鎌倉・京都連立政権成立

 といった感じでしょうか。

紫陽花

 来年のNHKの大河ドラマは「鎌倉殿の13人」(三谷幸喜脚本)が放送される予定ですが、この本は、この番組を見る前の「予習」になります。

 鎌倉殿13人とは、源頼朝の死後、二代将軍頼家ではなく、頼朝の御家人ら13人が合議制で支配した機関のメンバーのことですが、凄まじい内部での権力闘争で、最後は執権になった北条氏が他のライバルを粛清して権力を独占していったことは皆さま、御案内の通りです。

 13人のメンバーの中で、まず、北条時政(初代執権)と北条義時(二代執権、頼朝の妻政子の弟でドラマの主人公、鎌倉に覚園寺を創建)は実の親子。元朝廷の官人だった中原親能大江広元(政所初代別当、長州毛利氏の始祖とも言われていますが、この本では全く触れず)は兄弟で、侍所の別当和田義盛三浦義澄の甥。また、安達盛長の甥が、公文所寄人足立遠元といった感じで、13人は結構、縁戚関係が濃厚だったことを遅ればせながら、勉強させて頂きました。

 また、鎌倉殿13人の一人で、頼朝の乳母だった比企尼(びくに)の養子となった比企能員(ひき・よしかず)は、二代将軍源頼家の岳父(比企の娘若狭局が頼家に嫁ぐ)となったお蔭で、権勢を振るうことになりますが、北条時政の謀略で滅ぼされます。比企一族の広大な邸宅の敷地跡は、私も昨年訪れたことがあり、「今では日蓮宗の妙法寺になっている」と昨年2020年9月22日付の渓流斎ブログ「鎌倉日蓮宗寺院巡り=本覚寺、妙本寺、常栄寺、妙法寺、安国論寺、長勝寺、龍口寺」に書いたことがありました。比企一族の権力がどれほど膨大だったのか、その敷地の広さだけで大いに想像することができました。

【追記】

 三重県津市に「伊勢平氏発祥の地」の碑があるそうです。ここは、平清盛の父忠盛が生まれた場所だということです。刀根先生は行かれたことがあるんでしょうか?

黒人差別が激しかった1960年代の米最南部が舞台の青春物語=山本悦夫著「ホーニドハウス」

 山本悦夫著「ホーニドハウス」(インターナショナルセイア社、2021年5月31日初版、1980円)を読了しました。

 この本は、今年4月21日付のこの渓流斎ブログで取り上げましたので、少し重複するかもしれませんが、読後感は、なかなか良かったでした。(何しろ、著者の山本氏は、この小説について、5万部の売り上げを目指していますからね。)

 事件が起きるようで起きないようで、やはり何かが起き、恋の成就がうまくいくようで、いかないようで…。要するに先が読めないというか、これから先どうなってしまうのか、いわゆる一つのサスペンスのような推理小説として読んでもいいような作品でした。

 いやはや、どっち付かずな書き方で大変失礼致しましたが、80歳代後半の方が書かれたとはとても思えない、瑞々しい青春物語になっています。作品は、1965年、米最南部フロリダ州の大学町が舞台になっています。この年に米軍によるベトナム北爆が始まり、米国内では依然として黒人への人種差別が激しく、黒人が入れる店と白人が入れる店とは別々で、黒人暴動や公民権運動が広がった時代でした。

 著者の山本氏をそのまま反映した主人公の太郎は、そんな時代の最中に米フロリダ大学経済学部大学院に留学し、そこで知り合った韓国やタイやインドネシアからの国費留学生や現地の白人や黒人らとの交流が描かれます。著者の記憶力には脱帽です。

 主人公太郎が下宿したホーニドハウスとは、haunted house(お化け屋敷)のことですから、「ホーンテッドハウス」の間違いかと思ったら、ディープサウス(米最南部)では、ホーニドハウスと発音するらしいですね。私も一度、フロリダ州オーランド経由で大型客船に乗って、バハマなど周遊(クルージング)する取材旅行に行ったことがありますが(何という贅沢!)、オーランドのホテルの受付の女性の南部なまりの発音が独特で、さっぱり聞き取ることができなかったことを思い出しました。

 第一、オーランドは、「オーランド」とは発音せず、「オラーーンド」と発音していましたからね。通じないはずです(笑)。

 さて、物語には一癖も二癖もありそうな人が登場します。ホーニドハウスの隣人だったジョンは印刷会社に勤めながら、自宅ではダンテの地獄図のような絵を描くアーチストで、室内を真っ赤に装飾する変わった人物で、性的マイノリティー。結局、彼には振り回される日々を送ることになります。

 ホーニドハウスは、黒人居住区と白人居住区の境目辺りにあり、近くにある黒人専用の酒場に思い切って入った太郎は、そこで黒人女性のジンと知り合います。その前に白人のマーサーと一度だけデートをしますが、マーサーは大学のホームカミングのクイーンに推薦されるほどの金髪美人で、太郎は、とても自分に釣り合うわけがないと自ら引いてしまいます。

 同じ大学に通う白人のフレッドは、日本人の太郎に親近感を持って自宅のパーティーに招待してくれ、美大生である従妹のリリーを紹介してくれますが、彼女は足が悪く杖がなければ歩けません。リリーは性格も良く素晴らしい女性ですが、太郎は、日本に恋人がいるし、このままだとフロリダの田舎で一生住み続けることになり、それは本意ではありません。それでも、フレッドは、何かと機会をつくって、しきりにリリーを太郎とくっつけようとします。

 まあ、主人公の本職は勉学ですが、その合間に出掛けた酒場で、黒人から「ビールをおごれ」とナイフで脅されたり、逆にマックという親切な男にバーベキューパーティーに招待され、黒人たちから歓待されたりします。

 最後はどうなるのか、ここでは触れられませんが、読み終わった後、この作品を映画化したら面白いじゃないかなあ、と思いました。フィクションとはいえ、ほぼ実際に体験したことが書かれ、貴重な同時代人の証言になっていますから。