「出雲を原郷とする人たち」には驚きの連続

岡本雅享著「出雲を原郷とする人たち」(藤原書店)が昨年11月に出版された時、すぐ読みたかったのですが、定価が3024円とちと高く、しばらく手が出なかったのですが、最近になって、やっと読めるようになりました。

2011年4月から16年1月まで「山陰中央新報」という地方紙に連載されていたものを単行本化したらしいのですが、レベルが高い。あまりにもの学術的、専門的過ぎて、小生のような浅学非才な人間にとっては難し過ぎて、通読できませんでした。

◇全国に移住する出雲の氏族

それでも、興味がある箇所だけは読みました。タイトルにある通り、出雲(今の島根県)の民が、全国に散らばって移住し、その集落にしっかり出雲という地名や出雲の名前が付いた神社を創建して、ちゃっかりと痕跡を残しているという驚きの学術書というよりかルポルタージュに近いのです。

その範囲は、越前、加賀、能登の国から信濃、越後、武蔵、岩代の国、筑前、周防、伊予、讃岐、山城、播磨、壱岐…と、粗末な船か歩くしかなかった古代の時代に、出雲の氏族たちはよくぞここまで踏破、制覇したものだと感服してしまいます。

出雲の国は、古事記や日本書紀では「国譲りの物語」として登場しますが、出雲の氏族は、そんな記紀が成立するはるか昔から全国に移動していたと言われています。

ということは、天皇族=大和政権が強大な権力を握る前に、彼らは出雲地方だけではなく全国的に制覇していた強力な豪族だったことは間違いないでしょう。(古代は恐らく全国ネットワークがあまりなかったので中央集権とは違ったものだと思われますが)

◇百済から大和へ、新羅、高句麗から出雲へ

なぜ、これほどの文化が出雲に栄えたのかといいますと、著者は水野祐早稲田大学名誉教授の学説を引用して、百済から瀬戸内海を通ってきた大和への文化に対して、新羅や高句麗を通して日本海ルートで出雲に入ってくる文化があったからだといいます。恐らく、海流や潮の流れで、古代でも半島や大陸から出雲に流れ着くことは容易かったのでしょう。

そして「新羅と結びつく出雲文化は、さらに日本海を北上して能登半島から越の国に伝播していき、さらに信州へ、関東の北部に入って南下していった」といいます。そういう流れだったんですね。

大和朝廷が百済系との結びつきが高かったということは、桓武天皇の母高野新笠が百済系渡来人だったという史実(「続日本紀」)と一致しますね。

◇出雲大社は本来、杵築の大社

この本を読んで一番驚いたことは、古代は今の島根半島は地続きではなく、島だったということでした。そして、今の出雲大社は、本来、杵築の大社(きずきのおおやしろ)と呼ばれていて、出雲大社と改称されたのはつい最近、明治に入った1871年だったというのです。

また、古代に遡ると、律令時代に入ると、ほとんどの国造(くにのみやつこ)は政治権力を失いますが、出雲の国造(出雲だけは「こくそう」と読むらしい)だけは権力を保持し続けたようです。

この本は全て読み切れなかったので、今たまたま御縁のある「武蔵国」(今の埼玉、東京、神奈川辺り)編だけは熟読しましたが、これまた知らないことばかりでしたね。

◇武蔵国には出雲伊波比神社と出雲乃伊波比神社の2社が

武蔵国には、出雲から最も離れた所に、二つの出雲系直轄とも言うべき神社が今でもあるといいます。それは、入間郡(埼玉県毛呂山町)の出雲伊波比(いわい)神社と男衾郡(埼玉県寄居町)の出雲乃伊波比神社の2社です。

また、武蔵国の東部にも出雲系の神社が多く、それは氷川神社、久伊豆神社、鷲宮神社群だといいます。埼玉県神社庁によりますと、氷川神社は284社(埼玉県204社、東京都77社、神奈川県3社)、久伊豆神社は54社(全て埼玉県)、鷲宮神社は100社(埼玉県60社、東京40社)に上るといいます。

◇氷川は出雲の斐伊川が由来

この中で、私が特に取り上げたいと思う神社は、足立郡式内氷川神社です。この神社について、文政11年(1828年)の「新編武蔵国風土記稿」には「出雲国氷の川上に鎮座せる杵築大社をうつし祀りし故、氷川神社の神号を賜れり」と記されています。この「氷の川」は古事記で「肥河」(ひのかは)、日本書紀では「簸川」(ひかは)とも書かれた斐伊川のことで、これが氷川神社の社名の由来になったといいます。

なるほど。これで、やっと長年の疑問が氷解しました。

首都圏の神社仏閣を網羅するサイト「猫の足あと」を主宰する松長社長には必読書となることでしょう。

【追記】

京都の相国寺境内では、出雲集落の遺跡が発掘されています。

また、新羅の古都だった現韓国慶州市にある古墳(5世紀末〜6世紀前半)で、国引き神話が描く新羅と出雲と越(こし=福井、石川、富山、新潟)の繋がりを象徴するかのように、出雲石の勾玉と糸魚川産翡翠の勾玉が出土しているといいます。

現代人が想像する以上に、古代では交流が盛んだったということなのでしょう。

【書評】山本武利著「陸軍中野学校」

先週、山本武利著「陸軍中野学校『秘密工作員』養成機関の実像」(筑摩選書)を読了しまして、2、3点疑問に感じたことがあり、先日、見学ツアーでお世話になったNPO法人インテリジェンス研究所の事務局長さんに問い合わせたところ、そのメールが著者の山本武利早大名誉教授に回って、山本氏から直々に「御返事」があり、吃驚してしまいました。

実はちょっと「物足りなかった」と正直な感想を書こうと思ったのですが、山本先生から「お書きになったブログをお送り下さい」と逆に依頼されてしまい、それは困った。どうせ、誰も読むことはないだろうと安心していたからです(苦笑)。しかし、「世界最強の忖度メディア」を自称しておりますから、あまりきついことが書けなくなってしまいました。いや、これは半分冗談です。

◇朝日新聞の中国侵略 大陸新報

小生が山本氏のお名前を知ったのは2011年2月に初版が出た「朝日新聞の中国侵略」(文藝春秋)という刺激的なタイトルの本をたまたま東京・新宿の紀伊国屋書店で見つけ、その内容に大変感服してしまい、いつか謦咳に接したい先生だなあと思っておりました。(その後、一度名刺だけ交換させて頂きました)

この本は、良心的な朝日新聞が、昭和14年に中国市場の制覇を目論んで、上海で「大陸新報」という日本語新聞を帝国陸軍や満洲浪人らと手を組んで発行し、戦後は、その歴史的事実を朝日新聞がひた隠しにしたことから、山本教授が半世紀に渡る専門のメディア研究から史実を掘り起こした労作でした。

私自身は、この本で初めて「大陸新報」の存在を知りましたが、皆様ご存知の京洛先生が若かりし頃に勤めていた新聞社の先輩にこの大陸新報出身の方がいらしたという話を聞いた時は驚きましたね。

箱根山・陸軍戸山学校趾(本書に出てくる《山》もこの辺り)

で、山本氏の「陸軍中野学校」について、ですが、私が何故、最初に「物足りなかった」と生意気、傲岸不遜な感想を述べたかといいますと、これでも小生は、近現代史関係の読み物を少し読んでいるとはいえ、小生如き知的レベルの人間でも知っていることがこの本には書かれておらず、「もっと逸話的な話を盛り込めば、読者は興味を掻き立てられてるはずなのに」と僭越にも思ってしまったわけです。

◇岩畔豪雄と秋草俊

例えば、陸軍中野学校の基礎を作った岩畔豪雄(いわくろ・ひでお)と秋草俊という2人の人物のことです。岩畔については、戦後生き延びて、京都産業大学の創立者の1人になったこと。この京都産業大学教授に招聘された若泉敬教授が、佐藤栄作首相(当時)の密使として沖縄返還協議に加わっていた関係にも踏み込んでほしかったですね。

もう1人の秋草については、私も、この《渓流斎日乗》の今年2月6日に取り上げた斎藤充功著「日本のスパイ王陸軍中野学校の創立者・秋草俊少将の真実」で触れましたが、あの本は、エピソードが満載で(例えば、秋草の親戚には日本電電公社総裁や富士通社長、日興證券社長らがいる華麗なる一族だったことなど)、初めて秋草俊という人物像が立体的に浮かび上がり、寝食を忘れるほどあの本には没頭したものでした。

とはいえ、私の「勘違い」は、山本先生の御著書は、あくまでも歴史家の書く学術書だということでした。あまり、脇道逸れたこと(逸話)を書くことはアカデミズムでは邪道なんでしょうね。(それに、庶民はどうも、中野学校に関しては市川雷蔵主演の映画のような派手な活劇を求めてしまいます)

ですから、斎藤氏の著作では、シベリアに抑留された秋草俊はウラジーミル監獄で「獄死」したことになっておりましたが、(ソ連の公式通知)山本氏は、発掘した公文書の秋草俊のところに「受刑」と書かれていたことから、「秋草の死の公表の遅れは彼が病死ではなく、ソ連が追及してやまない対ソインテリジェンス工作の現場の総指揮官を秘密裏に処刑つまり冷酷に死刑に処した事実を隠していたことを示唆している」と歴史家の冷静な目で分析しております。

◇陸軍中野学校の研究書の決定版

山本氏は、中野学校が、1938年4月の防諜研究所〜1939年5月の後方勤務要員養成所〜1940年8月の陸軍中野学校と名称が変遷したことを突き止め、その歴史はわずか7年間で、養成要員は2000人余りだったことを明らかにし、その要員の一部の行方を詳細に追っています。

特に、昨年101歳で亡くなった第1期生の牧澤義夫氏には生前、インタビューを重ね、彼から借りた貴重な写真も同書には掲載されています。

中野学校は秘密機関ですから、陸軍内でもその存在を知っている者はわずかで、生徒は軍服を着ないで、背広や私服を着ていたことなど私が初めて知ることが多く書かれています。陸軍中野学校についてはこれまで実に多くの関連書が出版されていますが、恐らく、今の時点で中野学校に関する研究書の決定版と言っても間違いないことでしょう。

それだけに、版を重ねた際には、見学ツアー後の講演会で指摘された「ポツダム昇進組」(264ページ)と、私も指摘させて頂いた「小校鈴木」(227ページ)の誤記は直してもらいたいものです。(ポツダム昇進組の記述に関しては、戦中の昭和19年に少佐に昇進している卒業生がいるので間違い。小校は少校=満洲軍で、日本の少佐に当たる=の誤記)

第1期生の越巻勝治氏が、後半、何の断りもなく、急に「越村」となって登場し、「誤記かな」と思ったら、終わりの索引の中でだけ「越巻(越村)勝治」となっており、「なるほど、越村とは変名だったのか」と後で分かりました。また、同じ第1期生の久保田一郎氏は、日下部一郎氏と同一人物だったでしょうか。本文中に注記してもらいたいものです。

いずれにせよ、小生の細かい質問にも御丁寧にお答え頂いた山本先生には大変感謝しております。

 

東京・西早稲田の戸山〜諜報研究会第一回見学ツアー

東京・西早稲田の穴八幡宮

昨日は、晴天に恵まれ、小春日和の中、インテリジェンス研究所主催の見学ツアーに参加して来ました。

東京都新宿区西早稲田の早稲田大学近くにある戸山は、戦前、陸軍の機密軍用地で、一般人どころか、軍人でも許可を得なければ足を踏み入れることができない場所で、731細菌部隊で有名になった石井四郎が教官を務めた陸軍軍医学校や、石井が亡くなった東京第一陸軍病院や、諜報部員も養成したであろう陸軍戸山学校などもあり、大変見がいのある充実したツアーでした。

穴八幡宮(集合時間にかなり早めに着いたの集合場所近くの穴八幡宮を参拝しました)

とにかく、山手線の内側の都心地区にこれだけ広大な森や公園(都立戸山公園)があるとは知りませんでした。

まあ、今や閑静な住宅街になっておりました。

国立感染症研究所(陸軍軍医学校跡)

最初に訪れた国立感染症研究所は、かつて陸軍軍医学校があった所です。1929年に麹町(現東京逓信病院)から移転してきました。

陸軍軍医学校(現国立感染症研究所)行幸記念碑

移転した年に、昭和天皇が行幸し、今でも、その記念碑を見ることができます。

この軍医学校で、後に731部隊を率いる石井四郎が教官を務めていました。

1989年には、ここで大量の人骨が発見され、慰霊祭が行われたようです。

人骨は、1890〜1940年頃のもので100体以上。戦死したものとみられる損傷した骸骨などもあったそうで、石井部隊との関連性(つまり人体実験など)も疑われましたが、依然として憶測の域を出ず、真相不明のようです。

国立国際医療研究センター(東京第一陸軍病院跡)

続いて訪れたのが国立国際医療研究センターで、ここは、かつて東京第一陸軍病院があった所。やはり、1929年に千代田区隼町にあった陸軍本病院が移転してきたという話です。

現病院の資料室には、陸軍軍医学校の校長を務めた森鴎外の執務机が保存、展示されているそうですが、今回は週末ということで見られませんでした。

戦後の昭和34年に、この病院の近くに自宅があった石井四郎がこの病院で亡くなっています。享年67。

箱根山(尾張徳川家下屋敷跡⇨陸軍戸山学校・防疫研究室・軍楽隊野外音楽堂跡)

この後、都立戸山公園内にある箱根山を訪れました。江戸時代は、尾張徳川家下屋敷だった所で、殿様の所望で、屋敷内の庭園にわざわざ土を運んで箱根に見立てた山を作ったそうです。今でも、この山は山手線内で一番標高が高いそうですよ。

箱根山と呼ばれるようになったのは、陸軍の軍用地になってからで、戦時中は、ここに陸軍戸山学校や防疫研究室、軍楽隊野外音楽堂が建てられたということです。

見学ツアーが終わってから、近くの早稲田大学に行き、早大名誉教授の山本武利氏の新刊「陸軍中野学校」(筑摩選書)を巡る書評会のようなものが開催されました。

私は、この本を会場で買ってまだ読んでいなかったので、内容について行けず、少し残念でしたが、大変興味深い話のオンパレードでした。(本については、いつか感想を書くつもりです)

この中で、元共同通信論説副委員長の春名幹男氏が、中野学校の教官に意外な人物がいたことを挙げていました。例えば、明治の元勲西郷隆盛の実弟で海相などを務めた西郷従道の孫従吾や、トルコ事情は、元NHKのキャスター磯村尚徳氏の父磯村武亮(最終階級陸軍中将)、フランス事情は作曲家の山田耕筰、他に衆院議員宇都宮徳馬の実父太郎(最終陸軍大将)らもいたそうです。

「陸軍中野学校」の著者山本氏は、公文書を渉猟して、この機密諜報機関が1938年設立の防諜研究所に遡ることを突き止め、この研究所は翌39年に後方勤務要員養成所と変わり、さらに翌40年に陸軍中野学校に名称を変更しますが、日本の敗戦で、わずか7年間しか存続しなかったことも明らかにし、重要人物として、プランナーが石井四郎と岩畔豪雄と秋草俊の3人、実践者として石井四郎、村上隆、香川義雄、飯島良雄の4人を挙げていました。

特に、村上隆は、石井四郎の片腕として最重要人物ながら、あまり詳細についてはよく分かっていないらしいのですが、関東軍参謀長も務めシベリアに抑留された秦彦三郎の回顧録「苦難に堪えて」の中で、ソ連が最も敵愾心を持った3人として、関東軍情報部長土居明夫と石井四郎、それに村上隆を挙げていたことを明らかにして、「歴史家として、彼についての追跡は不可欠です」と発言してました。

早く、山本氏の著作を読みたくなりました。

「憲法の涙」を読んで

井上達夫「リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください」の第2弾「憲法の涙」(毎日新聞出版、2016年3月20日初版)を先日から読んでおり、もうすぐ読み終わります。

同書では、井上東大大学院教授は、一気に持論を展開し、改憲派も護憲派も両方とも「欺瞞」だとバッサリ切り捨てます。

◇憲法9条削除を主張

何しろ、井上教授の持論は、憲法9条を改正するのでも、修正するのでも、護持するのでもなく、「削除」ですからね。しかも、自衛隊を「戦力」として認めるならば、「徴兵制」を復活させよ、といいますからね。最初は眩暈がするほど圧倒されましたが、よく聞けば、というより、読み進めていけば、全く突拍子でもなく、理がないこともない気がしてきます。

なぜ、憲法9条を削除するのかといいますと、井上教授は、「日本の安全保障の基本戦略を憲法に書き込むべきではなく、通常の民主的な立法過程で絶えず討議され、決定・試行され、批判的に再検討され続けるべきだ」という考えの持ち主だからです。

つまり、「今の憲法9条では、安全保障の基本を『非武装中立』と凍結してしまっている。それが容易に変えられないから、右も左も解釈改憲で対応し、結果として9条を死文化させている」と主張するのです。

井上氏によると、憲法9条第2項で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と明記されているのに、現実は、自衛隊という世界第5位の「戦力」を保持している。これはいかなる「解釈」をしても、自衛隊は違憲となり、護憲派のように「見て見ぬふりをする」ような解釈は、欺瞞だと切り捨てます。

また、井上教授が、「もし戦力を持つなら」ば、その条件として「徴兵制導入」を提言していることについては、国民が無責任な好戦感情にあおられないための歯止め策であり、同時に「良心的兵役拒否権」を認める、といいます。(徴兵は、権力者や国会議員の息子も貧乏人も差別なく公平に行い、拒否すれば、国民の責務を果たさず、逃れることになり、代わりに消防士など危険な業務が義務付けられることも付加しておりました)

あと詳細については、本書を手に取って読んでみて、皆さんも考えてみてください。

私自身は、井上教授の意見、と言ったら怒られるかもしれないので、学説について全面的に賛成することはありませんが、一読の価値はありました。

ただ、日本の国民の1人1人が井上教授が思っているほど、思慮深く、理念や定見や信念を持った人ばかりではなく、丁か半かのどちらでもなく、そしてどちらでもある、極めて曖昧でどっちつかずで、考え方も1年ではなく1日で何度も何度もコロコロと変わってしまうというのが人間の性(さが)じゃないのか、と私のような日和見で、中途半端なぬるま湯人間の平和主義者なんかは、そう思ってしまうんですがね。

近鉄を日本の超一流会社にして「中興の祖」呼ばれた佐伯勇(1903~89年)は、こんな名言を残しているそうです。

学者は現実を知らない。

経営者は情報を知らない。

政治家は両方知ってても喋らない。

リベラリズム再考

新富町「ブロッサム」 ハンバーグ定食750円

井上達夫の法哲学入門「リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください」(毎日新聞出版)。第1部の「リベラルの危機」では、憲法九条の解釈や慰安婦問題、靖国問題など、国論を二分するようなホットイッシューについて、井上教授は火を吹くように話していましたが、第2部の「正義の行方」になると、ガラリと変わって、法哲学とは何なのか、井上教授がなぜ法哲学者の道に進むことになったのか、今、法哲学では何が問題になっているのか、分かりやすく、冷静に講義の形で述べています。

その法哲学ですが、ソクラテスやプラトンに始まり、英国経験論の父ジョン・ロックや「リヴァイアサン」のトマス・ホッブスらの哲学思想も易しく解説され、現代のリベラリズムに多大な影響を与えたジョン・ロールズによる「政治的リアリズム」に対する批判、共同体論者からリベラリストに変容した「ハーバード白熱教室」でブームになったマイケル・サンデルに対する賛意と所見などが述べられています。

◇悪法でも法は法

法哲学は難しいですが、最終的には「正義概念」に行きつくようです。

(引用)社会の政治的決定と、その産物である法が、自分の正義の構想から見たら間違っているにもかかわらず、自分たちの社会の公共的決定の産物として尊重することがいかにして可能なのか。この問いが悪法問題です。

…ここで法を自分たちの社会の公共的決定の産物として尊重するとき、法の正しさを見ている。これは正当性(ライトネス)ではなく正統性(レジティマシー)を問うている。

…「法の支配」、つまり法が「勝者の正義」であってはいけない。政治闘争で勝ったやつが、自分たちの決定を「法」として押しつける。それだけのことであれば、、その法に正統性がない。

正統性というのは、負けた方から見て間違っているけれど、自分たちは次の闘争で勝てるまでは尊重できる。そういう法には正統性があると言える。つまり、敗者の視点から見なければならない。(引用終わり)

という感じて、お話が進むわけです。

このほかに、毎年、1800万人が貧困死し、それを減らすのに年間60億ドルしかかからないのに、米国はイラク戦争で、月間50億ドルもの戦費を使っていたなどと批判したりして、大変、知的好奇心を満足させてくれる記述をあちこちで読むことができます。

ただ、惜しむらくは、159ページで「マハティールのインドネシア」と間違って語ったことをそのまま活字にしてしまっていることです。明らかにマレーシアの間違いであり、編集者も校正者も気が付くべきでした。そうでないと、著者はASEAN(東南アジア諸国連合)にほとんど関心も知識もないのではないかと勘ぐられたり、この本全体の信頼性、というか、井上先生の仰る正統性に欠けてしまう嫌いがあるからです。

井上達夫著「リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください」は、今の時代、是非とも読むべきです

井上達夫著「リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください」(毎日新聞出版)の初版は2015年6月20日発行で、ちょうどその頃の私は事情があってこの世の人でなく、異界を彷徨っておりましたので、もちろん、読んでおりませんでした。

最近、遅ればせながら、この本と、昨年3月15日に発行された同書の続編「憲法の涙」を合わせて読んでいます。

いずれも、法哲学者の井上東大大学院教授が編集者のインタビューに応える形で、話し言葉を書き言葉の活字に起こされ、平易と言えば平易ですが、やはり難解と言えば難解で、色々と賛同したり、反発したりして考えさせられたことは確かです。

◇極右の歴史修正主義も極左の自虐史観も批判

井上教授は、極右の歴史修正主義も極左の自虐史観も両方ともバッサリと袈裟懸けしており、その様は鮮やかで爽快感すらあります。

井上教授は、あの右翼の巨頭と言われる百田尚樹氏を相手に一歩も譲らず、反駁罵倒して、あろうことか、あの百田氏が口ごもってしまうほどの怪力の持ち主で、何と言っても、髭を生やした鬼のような形相や関西弁風でのまくし立て方があまりにも恐ろしいほど強烈です(失礼!)。

https://m.youtube.com/watch?t=12s&v=8Oc0fH96Zq8

ですから、この本の批判をしようものなら、生命が脅かされるのではないかという危機感がありますが(苦笑)、いや、むしろ共鳴する部分が多く、今のような戦前回帰のようなキナ臭い時代では必読書ではないかと確信し、取り上げることにしました。

今、保守もリベラルも色んな定義が飛び交い、若い人は共産党が保守で、自民党がリベラルだと確信して、訳が分からなくなってますが、井上教授によると、リベラリズムとは「啓蒙」と「寛容」という二つの歴史的起源があるといいます。

啓蒙主義とは18世紀にフランスを中心に起こった思想運動のことです。因習や迷信を理性で打破し、抑圧から人間を解放しようとするというものです。寛容は16世紀の宗教改革後に、欧州ではすさまじい宗教戦争が起き、荒廃の中でウエストファリア条約が結ばれ、その経験から出てきたものです。

私は、法哲学という学問がこの世に存在することを知りませんでしたが、井上教授は、御専門ですから、カントからヒューム、カール・ポパー、ジョン・グレイ、ジョン・ロールズといった色んな著名学者の学説を引用したり、批判したりしておりますので、まずは手に取って読まれるといいかもしれません。

◇ドイツの「戦後処理」は日本ほど立派ではなかった?

この本で、無学の私が瞠目したことは、「ドイツは、自分たちの戦争責任の追及を日本よりずっと立派に行った」という「神話」を多くの日本人が信じ切っているという指摘です。

まず、特筆しなければならないことは、ドイツは自分たちの戦争責任を二重の意味で限定していることです。一つは、責任の主体はドイツ国民ではなく、ナチスであること(ドイツ国民もナチスの被害者となる)。

そして、責任の対象は、ドイツがやった侵略戦争の相手ではなく、ユダヤ人だということ。つまり、ホロコーストなどは謝罪しても、チェコ侵略やポーランド侵攻などの戦争責任を認めてきたわけではないといいます。

有名な例として、1970年に西独のブラント首相(当時)がポ-ランドを訪問して、ユダヤ人の犠牲者の慰霊碑にひざまずきました。しかし、ユダヤ人ではない一般のポーランド人が蜂起して犠牲になった慰霊碑には行っていなかったというのです。

また、東西ドイツ統一後は、ナショナリズムが高まり、あの戦争は、あくまでもナチスの犯罪でドイツ国民と国防軍は犠牲者だったという歴史修正主義が起こったといいます。

(この本については、これから折を見て何度か取り上げます)

会津藩の悲劇―筆舌に尽くしがたい

小倉城跡登山道=埼玉県比企郡

◇閲覧数が1日2400を突破!?

あんれまあ、驚きです。

今年9月1日からgooブログから思い切って独立して、世界最小双方向性メディア「渓流斎日乗」を立ち上げましたが、これまで閲覧数は1日50~80程度が続いていたのに、今日の閲覧数はいきなり2400を超えてます。

一体、世の中どうなってしまっているんでしょうか?

小倉城跡=埼玉県比企郡

◇会津藩を病的に忌み嫌った木戸孝允

しかも、昨日の「薩長史観の正体」には、史上3人目のコメントまで頂きました。赤羽彦作村長さま、有難う御座いました。

彦作村長は、福島は会津ご出身と漏れ伺っております。

この武田鏡村著「薩長史観の正体」(東洋経済新報社)には、薩長新政府による、幕僚として徳川に誠心誠意を尽くした会津藩への筆舌に尽くしがたい「処分」を明記しております。

会津藩士を病的に恐れ、忌み嫌った長州の木戸孝允による会津藩士と家族への極めて重い懲罰のことです。明治2年、新政府から会津23万石は没収され、家族らはペンペン草も生えない不毛の地と言われた極寒・下北半島の斗南藩3万石に強制移住させられたのです。

会津藩といえば、幕末の白虎隊の悲劇はつとに有名ですが、これは教科書に載せてもいいくらい酷いお話です。

小倉城跡=埼玉県比企郡

◇酷過ぎる懲罰

武田氏は、この本の中で、薩長閥の中で会津藩出身者として白眼視されながら、陸軍大将にまで登りつめた柴五郎の体験談を掲載しています。

「柴家は300石の家禄であったが、斗南では藩からわずかな米が支給されるだけで、到底足りない。…馬に食べさせる雑穀など食べられるものは何でも口にした。…塩漬けにした野良犬を20日間も食べ続けたこともあった。最初は喉を通らなかったが、父親から『武士は戦場で何でも食べるものだ。会津の武士が餓死したとなれば、薩長の下郎どもに笑われるぞ』と言われて我慢して口にした。住まいの小屋に畳はなく、板敷きに稾を積んで筵を敷いた。破れた障子には、米俵を縄で縛って風を防ぐ。陸奥湾から吹き付ける寒風で、炉辺でも食べ物は凍りつく。炉辺で稾に潜って寝るが、五郎は熱病にかかって40日も立つことができず、髪の毛が抜けて、一時はどうなるか分からない状態になった。…」

これは、あんまりですね。英傑桂小五郎に対する印象も随分変わってしまいました。

「薩長史観の正体」

今年は大政奉還(1867年)からちょうど150年(先月、その舞台の京都・二条城に行ってきました)。そして、来年は明治維新150年。

長州にルーツを持つと言われる安倍首相のことですから、来年は、国家主宰の盛大な国事記念式典を行うことでしょう。

◇前政権を全否定しアウフヘーベン

しかし、我々は、司馬遼太郎の小説やその他多くの「幕末もの」と言われる歴史小説で、独断と偏見に凝り固まってしまっていることを多くの人は知りません。

そんな中、9月21日に東洋経済新報社から初版が発売された武田鏡村著「歴史の偽装を暴き、真実を取り戻す 薩長史観の正体」は、実にエグイ本です。(経済専門出版社がよくぞこういう本を出版したものです)

これまで明治政府というより、薩長革命政権によって流布された「歴史的事実」が検証され、バサバサと反証が試みられているからです。

いつの時代でも、どこの国でも、新しく政権に就いた権力者たちは、とにかく、前政権を全否定して、小池さんの大好きなアウフヘーベンして、後世の人間をだまくらかさなければならないことは、古今東西共通のお話です。

とにかく、「封建主義は前近代的で悪い」「徳川も幕臣どもも皆な無能だった」「徳川方に全く正義はなかった」「徳川政権が続けば、日本は欧米列強の植民地になっていた」…などと、薩長政権は、それがまるで「歴史的必然」だったのかのように吹聴してきました。

青山城跡入口登山道=埼玉県比企郡

それが、この本によると、まるで逆なんですね。

◇薩長史観とは何か?

そもそも「薩長史観」とは何か?この本から引用します。

「明治政治がその成立を正当化するために創り上げた歴史である。それは薩摩や長州が幕末から明治維新にかけて行った策謀・謀反・反逆・暴虐・殺戮・略奪・強姦など、ありとあらゆる犯罪行為を隠蔽するために創られた『欺瞞』に満ちた歴史観である」

うおー、凄い。凄過ぎる言い方です。

著者の武田氏は1947年新潟県生まれで、新潟大学を卒業後、在野で歴史を研究し、通説に囚われない実証的な史実研究をされている方で、「藩主 なるほど人物事典」など著書も多数あるようですが、私自身は彼の著作を購入して読むのは今回が初めてでした。

彼にかかると、久坂玄瑞、高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)、伊藤俊輔(博文)、山県狂介(有朋)、品川弥二郎らを輩出した松下村塾の大教育者で、長州が生んだあまりにも偉大過ぎて言葉が出ない吉田松陰でさえ、「激情に駆られて変節して、暴力革命を礼賛するテロの扇動家であった」と一刀両断なんですからね。

大日山=埼玉県比企郡

◇西郷隆盛は無定見な武闘派?

せめて、大南州と尊敬され、明治の元勲ながら靖国神社にも祀られていない西郷隆盛ぐら褒めても良さそうなものですが、武田氏にかかると、「西郷隆盛は、僧侶を殺して、江戸市中を騒擾化させ、同調者を見殺しにした無定見な武闘派の策略家だ」となっております。

まあ、本当の策略家でしたら、あんな無謀な西南戦争なんか起こさなかったと思いますけどね。。。

一方、薩長史観によって、重罪人扱いされた幕臣の小栗上野介忠順(ただまさ)については、「日本の近代化の基礎をつくった大先駆者で、暴虐な薩長の体質を看破した憂国の士であった」と、歴史的再評価を主張しています。

小栗は、薩長に対して、駿河湾に浮かべた軍艦開陽丸から砲撃するなど「徹底抗戦」を主張したのにもかかわらず、「最後の将軍」徳川慶喜は、逆賊となることを恐れて聞き入れず、大坂から「敵前逃亡」して江戸に逃げ帰ってしまったことが、徳川幕府崩壊の最大の要因でした。

もし、慶喜が小栗の意見を採用していたら勝ち目がなかったと、長州の軍事指導者で後に靖国神社前に大きな銅像が建てられた大村益次郎(村田蔵六)は述懐したらしいですが、まさに、あの幕末の大混乱の中、本当にどうなっていたか分からなかったのです。

◇坂本龍馬は薩摩に暗殺された?

もう一つ。ちょうど150年前に京都で暗殺された坂本龍馬と中岡慎太郎。下手人は幕府直属の見廻組の佐々木只三郎らということで、既に歴史的決着がついていたのかと思っておりましたが、武田氏は「龍馬は、大政奉還による『新国家』を推進したために薩摩によって暗殺された可能性が高い」というのです。

うーん、まだまだ謎の部分が多いようです。

ともかく、この本は時の権力者たちが、発禁本にしたがるもので、世が世なら、読めないでしょね。

「六諭衍義大意」を読んで

京都・二条城

沖縄にお住まいの上里さんが、「六諭衍義大意」の現代語訳のコピーを送ってくださいました。

六諭衍義は、中国・明の洪武帝が1397年に発布した教訓(范鋐=はんこう=作)で、現代語訳にすると、「両親には親孝行しなさい」「年長者を敬いなさい」「郷里に和睦しなさい」「子孫を教訓しなさい」「各々の職業に全力を尽くしなさい」「非行をしてはいけません」の六項目があります。

これを江戸時代中期に琉球の程順則(ていじゅんそく)が持ち帰り、薩摩藩主の島津吉貴に贈呈されます。さらに八代将軍吉宗にも献上され、後に室鳩巣により和訳され、寺子屋の教科書として全国に波及した、と日本史辞典に書いてあります。

いわゆる一つの安倍首相の大好きな修身ですが、明治の教育勅語にも影響があったと言われてます。

沖縄の上里さんが何で、この六諭衍義大意を小生に送ってくださったのか、その理由についてはよく分かりませんが、六諭衍義を日本に伝えた人は、琉球人だったこと。江戸時代、琉球と明、清とはかなり交流があったことを伝えたかったのではないかと思います。

まあ、日本史の教科書に室鳩巣は出てきても、程順則までは出てきませんからね。

今、この渓流斎日乗を相変わらず電車の中でスマホで書いておりますが、目の前で若い女性が化粧し、優先席では図体のデカい若者が、御年寄が立っているのに短い脚を広げて座っております。

彼らにも、この六諭衍義大意を読んでもらい、感想を聞かせてもらいたいものですが、その場で破られそうです。

カズオ・イシグロさんノーベル文学賞受賞おめでとう御座います!

Milano

村上秋樹です。

何でやねん。今年こそ、ワシが獲るちゅう話だったはずやねん。どないなっとるんねん?

石黒一雄?おお、よお、知ってるわい。じゃが、ワシより五つも年下やんけ。ノーベル文学賞なんて、5年早い。

第一、世界的にワシの方が顔売れとるでえ。知名度もワシの方が上や。

じゃが、向こうはブッカー賞だもんな。「日の名残り」、本は読んどらんけど、映画は見たで。いがったなあ。内容忘れたけんど。アンソニー・パーキンス。ヒッチコックの「サイコ」にも出とったなあ…えっ?ちゃうの?アンソニー・ホプキンス?早く言ってよ。危うく恥かくところやった。

しかし、彼のプライバシーは謎に包まれとるでえ。長崎に生まれて、5歳でエゲレスに渡って、エゲレスで教育を受けて、エゲレス語でモノを考えてたから、日本語忘れてしもうた。で、エゲレス人になったわけや。

ワシの親父は、高校教師やったけど、向こうの親父はんの鎮雄はんは海洋学者らしいな。英国政府から招聘されたらしい。お爺さんの昌明はんも凄い。上海の東亜同文書院を出て、伊藤忠商事天津支店に勤務したことがあるらしい。ワシは、昌明はんの方に興味あるなあ。尾崎秀実や里見甫や川島芳子なんかと接点ないかなあ。

石黒はんのノーベル文学賞授賞理由は「偉大な感情の力を持つ小説で、我々の世界とのつながりの感覚が不確かなものでしかないという、底知れない淵を明らかにした」というわけの分からない説明やったけど、やはり、近代稀に見る作家や。

代表作「充たされざる者」「わたしたちが孤児だったころ」「わたしを離さないで」は名作やで。読む価値ありや。

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この人誰なんでしょうかね?

ま、い、か。

昨日、gooブログ、楽天ブログ、FC2ブログと、これまで渡り歩いた全てのブログを閉鎖しまして、このオフィシャルサイト「渓流斎日乗」を《世界最小メディア》と自称して始めました。

今後とも皆様の御支援、御鞭撻を賜わります。宜しくお願い申し上げる次第で御座います。

渓流斎 独白