「禁じられた西郷隆盛の『顔』」=写真から消された維新最大の功労者

いつも何かと小生に気を遣ってくださるノンフィクション作家の斎藤充功(みちのり)氏から、出版社二見書房を通して本が送られて来ました。

 「禁じられた西郷隆盛の『顔』 写真から消された維新最大の功労者」(二見文庫、2020年10月25日初版)という本です。2014年に刊行された「消された『西郷写真』の謎 写真がとらえた禁断の歴史」(学研パブリッシング)を増補改訂した文庫版です。

 ちょうど1年前に出版され、小生もこのブログ(2019年9月26日付)で取り上げさせて頂いた「フルベッキ写真の正体 孝明天皇すり替え説の真相」(二見文庫)の続編にもなっております。

 一応、帯にある通り、「明治維新史の暗部に切りこむノンフィクションミステリー」となっていますので、タネ明かしをしてしまうのはフェアではありませんが、結論を先に言ってしまいますと、結局、これまで出回っている西郷隆盛の「真顔」と言われていた写真は、東京歯科大学法人類学研究室の橋本正次教授による鑑定で「一致」に至らず、なおも探索作業が続いている…ということでした。

 著者は、「西郷写真」の存在を求めて、上野の西郷さん像をスタートして、二戸、大阪、下関、長崎、鹿児島…と関係者に会い、3年間かけて丹念に取材しています。そのフットワークの軽さはさすがです。

 斎藤充功氏が特に問題とした代表的な写真が、加治将一著「幕末 維新の暗号」(祥伝社、2007年)で再脚光を浴びた「フルベッキ群像写真」(幕末に来日したオランダ系米人宣教師フルベッキと息子を囲んで44人の武士が写ったもの。写っている武士たちは、坂本龍馬、中岡慎太郎、西郷隆盛、大久保利通、高杉晋作、伊藤博文…ではないかと推定された)、明治2年から8年にかけて浅草で撮影された「スイカ西郷」と呼ばれる写真(西瓜のような頭をした人物が西郷ではないかと言われたが、法人類学者の鑑定では否定。医師小田原瑞苛が有力だが、確定にまで至っていない)、天皇の専属写真師、内田久一撮影の「大阪造幣寮前に集合した近衛兵と3人の指揮官らしき人物=その中央が西郷か?」、オーストリア人のスティルフリードによって盗撮された「横須賀造幣所を行幸中の明治天皇」などです。

 実際、写真がないと、参照できず、このように文字だけ並べても、お読みになっている方は何のことか分からないことでしょう。仕方がないので、ご興味のある方は本書を手に取って頂きたいと存じます。

 フットワークの軽い斎藤氏は、鹿児島県さつま町にある「宮之城島津家資料センター」を訪れ、加治将一著「西郷の貌」などで、西郷隆盛と同定している「一三人撮り」写真の史料根拠としていた「宮之城史」が、資料として存在しないことを同センター専門委員の川添俊行氏から引き出したことは、この本の手柄でしょう。

「スイカ西郷」に写る右端の男性が大久保利通と一致

 著者の斎藤氏は、法人類学の橋本教授とタッグを組んで、さまざまな「西郷写真」を鑑定し、結果的には西郷さんに「一致」と断定できる写真は見つかりませんでしたが、その過程で、思わぬ収穫がありました。

 「スイカ西郷」の写真で右端に立ち、西郷と思しき西瓜頭の男性の肩に手を掛けている男性が、大久保利通であるとほぼ確定できたことでした。有名な髭もじゃの大久保ではなく、まだ明治初期の若い頃の写真です。

 結局、西郷隆盛と断定できる写真は発見できませんでしたが、著者は「必ずどこかにあるはずだ」という確信を持っていることから、この続編が書かれるかもしれません。

 坂本龍馬も高杉晋作も桂小五郎=木戸孝允も大久保利通も幕末の志士と呼ばれた人たちのほとんどの写真が残っているというのに、維新最大の功労者である西郷隆盛の写真だけが残っていないのは何故か?ー 著者は、西郷隆盛が神格化されたり、反政府の象徴にされないように、明治の要人の誰かが故意に、隠したり、消したりしたのではないかという説を取っておりましたが、確かに、その通りなのでしょうね。

 「あるものをなかったことに」したのは現代の安倍政権下の官僚によって行われましたが(公文書破棄事件)、西郷写真の抹殺は、確かに明治維新史暗部のミステリーですね。

伊藤博文は女性、山縣有朋は邸宅

 昨日のこのブログで、日産と初代総理大臣伊藤博文とのほんのちょっとした関係に触れましたが、これには種本がありました。それは竹内正浩著「『家系図』と『お屋敷』で読み解く歴代総理大臣 明治・大正篇」(実業之日本社、2017年6月1日初版)という本でした。

 昨年たまたま購入しておりましたが、読むことはなく、積読状態でしたが、昨日から読み始めたのでした。そして、そこに伊藤博文と日産とのほんの少しの関係が出てきてまたまたシンクロニシティを感じたわけです。

 この本は、文字通り、歴代総理大臣の家系と本宅・別荘などを探った異色の研究本です。

 伊藤博文は、かなりの漁色家として知られ、婚外子も多くいました。黒岩涙香が明治31年7月から9月にかけて「万朝報」紙上で、500人以上の顕官や資産家の「畜妾」を実名住所入りで赤裸々に暴露した「弊風一斑 畜妾の実例」という記事を連載しますが、その中で、伊藤博文については「大勲位侯爵伊藤博文の漁色談は敢て珍しからず世間に知られたる事実も亦甚だ多し」と書かれています。妾を囲うことが半ば当然と思われていた明治の世であってさえも、伊藤博文の漁色は飛び抜けていたというわけです。(伊藤博文が寵愛した一人に日本橋芳町(現人形町)の「小奴」という半玉がいたが、彼女は、後にオッペケペーの川上音二郎と一緒になり川上貞奴として知られる)

 かなりの女好きの伊藤博文と並び、明治国家を建設するのに奮闘した人物として山縣有朋が挙げられます。彼は、「黒幕」「悪漢」「軍閥の巨魁」などと、戦後は悪いイメージが拡散されましたが、山縣は意外にも伊藤とは違って女性関係は地味だったというのです。山縣が妻にしたのは、山口県湯玉の庄屋の娘友子で、三男四女をもうけますが、次女の松子を除いて全て夭折し家庭的には不幸でした。

 山縣のいわゆる妾として名前が挙がるのは、新橋の芸妓吉田貞子(実家の日本橋の商家が没落して芸者に)ただ一人だったと言われています。(吉田貞子の実姉たきも新橋の芸妓で、こちらは三井財閥の大番頭益田孝に見初められた)

 山縣有朋が女性の代わり(?)に情熱を注いだのが邸宅、別荘、庭園でした。庭師七代目小川治兵衛の作庭による京都の「無鄰菴」や小田原の「古希庵」といった別荘や東京・目白の本邸「椿山荘」のほか、栃木県の那須野ケ原に農場まで経営していました。

 椿山荘は、山縣有朋が傘寿(80歳)を機に藤田平太郎男爵に譲渡されます。藤田平太郎の父は、長州奇兵隊出身で維新後「政商」となった藤田伝三郎で、建設・土木から電力開発、金融、新聞(大阪毎日新聞)まで経営した「藤田財閥」の創業者でした。藤田財閥の一角だった藤田観光は現在も優良企業で、ワシントンホテル、箱根小涌園、ホテル椿山荘東京などを展開していることで知られています。

 ま、有体に言えば、山縣と藤田の長州閥つながりで椿山荘はホテルとして残ったことになります。

 

「駅前食堂」の作者が決定=古谷綱武さんか?ミルクボールも応援

 渓流斎ブログの記事の中で、これまで一番コメントが多かったのが「駅前食堂」(2008年5月28日)という記事だと思われますが、昨日、春日芳彦さんという同世代の方からコメントを頂き、この随想「駅前食堂」(タイトルは違ったと思いますが)の作者が決定しました。

 「駅前食堂」は昭和40年代頃に全国の小学校の国語の教科書に掲載されていた随想で、駅前にある食堂に入った作者が、親子丼にするか、かつ丼にするか迷っていたら、ほっぺが真っ赤なお店の女の子から「親子丼も、かつ丼も両方美味しいですよお」とニッコリ笑われてしまい、また迷ってしまったという他愛のない話です。でも印象的な話でいつまでも忘れられませんでした。

 それなのに、作者は誰だったのか、結局作者はどっちを注文したのかさえも忘れてしまい、「果たしてどうだったのでしょうか?」と、このブログで読者の皆さんに疑問を投げかけたのでした。そしたら、12年も昔に書いたというのに、思い出したように、ポツリポツリとコメントを頂くようになったのでした。

 この経緯について真面目に書いても面白くないので、漫才師のミルクボールに登場してもらいましょう。

親子丼とちゃうやんけ!

 駒込「オカンが言うにはな、小学校の教科書に載っとった『駅前食堂』の作者は、昔TBSの『ニュースコープ』のキャスターをやっていた古谷綱正さんの兄で文芸評論家の古谷綱武さんだと言うんねん」

 熱海「えー、その人、昨日9月3日付の渓流斎ブログ『成瀬巳喜男に観る日本の戦前1930年代』に載っとった人やんけ。すごいシンクロニシティやなあ。古谷綱武さんは、新劇の神様、滝沢修の奥さんの文子さんのお兄さんだっちゅうからね。それにしても偶然やなあ偶然。それで決まりやんけ」

 駒込「俺もな、そう思ったんやけど、オカンが言うにはな、作者は曽野綾子さんちゃうかと言うねん。あの文体といい、クリスチャンらしい心配りといい、曽野さんとちゃうかと言うんねん」

 熱海「そっかー、ほなら、古谷さんとちゃうか、曽野綾子さんに決まりかあ…」

 駒込「それがな、オカンが言うにはな、曽野さんは、上皇后美智子陛下と同じ聖心女子大学出身やし、産経新聞御用達の愛国主義者とも言われとんし、第一、昔のお嬢様が一人でこきたない駅前食堂に行くんかい、と言うんなん」

 熱海「こきたないは言い過ぎやろ…、ほなら曽野綾子さんとちゃうかあ。ほんならオカンはもうちょっと詳しいこと言っとらんかったか?教えて」

 駒込「それがな、オカンが言うにはな、作者は男だろうし、奥さんは生活評論家の吉沢久子さんだと言うんねん」

 熱海「それじゃ、古谷綱武さんやないけ、これで決まりや。作者は男性でその奥さんが『100歳の本当の幸福』など沢山の著作がある評論家の吉沢久子さんなら古谷綱武さん以外にいない。古谷さんは成城高校時代、大岡昇平と富永太郎と同級生で文学に目覚め、太宰治や檀一雄らとも同人誌を発行し、演劇から人生論、児童文学に至るまで幅広く評論活動を続けた人や。これで決まりやんけ」

 駒込「それがな、オカンが言うにはな、まだ分からへんと言うんねん」

 熱海「何で分からへんのや、作者は古谷綱武さんに決まりやろ」

 駒込「それがな、オトンが言うには、作者は結局、親子丼を食べたらしいんやけど、昭和10年に成瀬巳喜男監督作品にも出ていた新劇の神様、滝沢修さんじゃないかと言うんねん」

 熱海「んなわけないやろ、いい加減にせいや。もーえーわー、失礼しましたあ」

 (コメントお寄せ頂いた皆様、誠に有難う御座いました)

「親鸞聖人伝絵」と大原問答と平等思想について

 このブログは、毎日書くことを自分に課しておりましたが、ここ1~2週間の連日の35度に及ぶ猛暑で、さすがに体力、気力、知力ともに衰え、書き続けることができませんでした。

 ということで、ブログは4日ぶりです。熱中症とコロナに苛まれる現代人は、生きているだけでも大変ですね。

 さて、難解な「ランボー詩集」は相変わらず牛の歩みで読み進んでいますので、その傍らに読んでいたのが沙加戸弘編著「はじめてふれる 親鸞聖人伝絵」(東本願寺出版、2020年3月28日初版)でした。

 今年6月21日付のこのブログで、浄土真宗の親鸞聖人(1173~1262年)が「教行信証」を執筆し、関東布教の拠点とした茨城県笠間市の稲田禅房西念寺をお参りしたことを書きましたが、その後、本屋さんでこの本をたまたま見つけて購入したのでした。法然上人や一遍上人の絵伝(いずれも国宝)は知っておりましたが、親鸞聖人伝絵があることは知りませんでした。

 この伝絵は、親鸞聖人の生涯で起きた画期的な出来事を絵巻にし、それに解説を加えたものです。四幅二十図あるようです。本願寺三代門首覚如が生涯をかけて康永2年(1343年)に完成したものです。「御絵伝」の絵を描いたのが浄賀法眼とされ、解説に当たる「御伝鈔」は覚如本人が書いたと言われています。普段は非公開だと思われます。

 御絵伝第2図「出家学道」では、親鸞聖人が9歳の時に出家得度される場面が描かれています。得度を依頼された慈円僧正は「15歳までは出家できません。これは規則です」と頑なに断ったものの、親鸞聖人がこれに応えて、あの後世になって有名になった歌を詠みます。

 明日ありと

 思う心のあだ桜

 夜半に嵐の 吹かぬものかは

 歌人でもあり「愚管抄」などの著書もある慈円は心の中で唸り、得度の式を行ったといいます。

 親鸞聖人自身は自ら教団をつくる意思はなかったと言われています。本願寺教団はつくったのは親鸞の曾孫に当たる覚如上人であり、その覚如がこの御伝鈔を書いているということは、この「親鸞聖人伝絵」には、結果的には本願寺教団の思想が色濃く反映されることになったようです。例えば、第6図「選択付属」では親鸞聖人が師の法然から著書「選択本願念仏集」の書写などを許される場面を取り上げる一方、晩年になって、親鸞が長男善鸞を義絶せざるを得なかった「事件」を「伝絵」として取り上げることはありません。

 また、承元元年(1207年)に、専修念仏停止(せんじゅねんぶつちょうじ)により、法然は讃岐に、親鸞は越後に流罪、その他4人が死罪となる「承元の法難」が起きます。この模様は、御絵伝第12図「法然上人配流」で描かれています。ただこの図の右端に「不機嫌な善恵房」が描かれています。解説によると、この善恵房が、配流される法然上人に対して「念仏をやめたら罪も軽くなりますよ」言ったので、師の法然から大いに叱責されたといいます。そういう史実があったのかどうか、あったとしても何故そのような不機嫌な善恵房を書かなければならなかったのか、については何らかの作者の意図が感じられます。

 法然には380余人という多くの弟子がいたと言われますが、「七箇条制誡」によると、初期の法然門弟190人の中で、綽空(後の親鸞)は86番目に名前が確認されるに過ぎなかったと言われます。一方の善恵房証空の方は、14歳から法然の側に仕え、「七箇条制誡」では法然門弟中、四番目に署名され、後に浄土宗の中の本派本流の鎮西派とは違う西山派を確立します。善恵房は、承元の法難の際には慈円の庇護により、かろうじて流罪を免れます。

 また、善恵房証空の孫弟子に当たるのが時宗の開祖一遍上人です。ということは、本願寺教団を設立して、この御伝鈔を書いた当時の覚如上人にとって、証空も一遍も同じ法然浄土宗の流れを汲むライバルではなかったかと思われます。わざわざ「不機嫌な善恵房」を描かせたのは、「法然の教えを忠実に守っている正統派は、我が教団だ」とアピールしたかったかのようにも見えます。別に誹謗する意図は全くありませんし、理解はできます。

親鸞が「教行信証」を執筆した稲田の西念寺

 話は変わって、先日22日に放送されたNHK「歴史発掘ミステリー」で「京都 千年蔵『大原 勝林院』」を取り上げていました。とても面白い番組でした。ただ、1点だけ気になったのは、大原三千院の北にあるこの勝林院を長和2年(1013年)に創建(復興)した寂源のことです。寂源は、19歳で出家する前は源時叙(みなもとのときのぶ)という右近衛少将でした。しかも、後に権力の最高位を手にする藤原道長の室倫子は時叙の姉。つまり、寂源は、道長の義弟に当たるのです(寂源の出家には諸説あり不明)。

 番組では、寂源が比叡山の僧侶を集めて論談し、比叡山の僧侶が、仏教は厳しい修行と苦行を経た我々僧侶だけが御教えを伝授する役目があると主張したのに対して、寂源は、信仰には優劣がなく、貴賤もなく、男と女の区別もなく、善人も悪人もなく、仏様は救ってくださる、と反駁したところ、その証拠として暗がりの阿弥陀如来坐像がパッと輝いたという逸話をやっておりました。その論壇の場には、最高権力者に昇り詰めながら、疫病などで荒廃する都の惨状を見て己の無力さと将来、自分自身が地獄に堕ちるのではないかと不安を抱いていた寂源の義兄の藤原道長が、影で見ていたとなっていました。

 この場面を見て「あれっ?」と思いました。

 浄土宗の開祖法然上人の生涯の初期の頃に、有名な「大原問答」というものがありました。文治2年(1186年)に、法然が顕真法印の要請により浄土宗の教義について、比叡山・南都の学僧と問答し信服させ、法然を一躍有名にした出来事でした。この大原問答が行われた所が、この大原・勝林院だったのです。私が「あれっ?」と思ったのは、これまでの皇族や貴族らを中心にした南都六宗の旧仏教に対して、法然が異議申し立てをして、老若男女、貴賤も善人も悪人も関係なく、念仏を唱えれば、皆平等に誰でも極楽浄土に往生することができるという非常に革命的な、ある意味では危険な思想を法然が初めて主張していたと思っていたからです。

 NHKの番組がもし史実だとしたら、法然よりも150年以上も昔に、寂源が革命的な「平等仏教」を説いていたことになります。しかも、道長政権という貴族政治が頂点を極めた時代で、いわば「貴族仏教」が頂点を極めていた時代です。法然が、寂源の思想を知っていたかどうか分かりませんが、場合によっては特筆もので、歴史を書き換えなければならないのではないかと思った次第です。

35年ぶりのランボー詩集

 最近、文学しています。残った夏休みの宿題を慌てて仕上げようとしている感じもします。

 文学ですから、儲かりません。はっきり言って、なくても困りません。といいますか、なくても生活に支障はきたしません。そういうものに、学生時代の一時期、命を懸けるほど熱中したことがありました。

 今でこそ堕落して、他人のこしらえたフィクションには目もくれずに、ビジネス書やブロックチェーンやMMT関連の書物にまで首を突っ込んで、不安な将来に備えていますが、かつては、経済に左右されない人生こそが美徳であると信じていた時期がありました。

 文学には社会を変革する力があると信じていたこともありました。

 それは新聞広告で目にした一冊の文庫本でした。

  中地義和編「対訳 ランボー詩集」(岩波文庫、2020年7月14日初版)です。何か見てはいけない広告を見てしまった感じでしたが、ずっと心の奥底に引っかかっていました。フランス象徴派詩人アルチュール・ランボー(1854~91)は、学生時代にかなりはまったことがありましたから尚更です。フランス語の原書は、文庫版では飽き足らず、高いプレイヤード版の全集も買いました。日本語は、小林秀雄訳、中原中也訳、鈴村和成訳などを経て、平井啓之ら共訳の「ランボー全集」(青土社)まで買い揃えました。それでも、難解過ぎて途中で挫折してしまいました。

 わざわざ、この本を買ったのは「対訳」としてフランス語の原文と和訳が並列していたからでした。

 しかし、正直に告白すると、途中で挫折したように、20代の頭ではさっぱり分かりませんでした。意味はどうにか取れても、作者の意図する本意や時代的背景などを熟知していなかったせいもありました。ランボーは15歳頃から詩作をはじめ、20歳で早くも筆を折りました。ということは作品の大半は、10代の少年が書いたものです。歴史に残る大天才を前にして、異国の軽輩が何か言うのも烏滸がましいのですが、極東に住む凡夫の若者はランボーの作品を理解することを諦めました。そして、邪道ながら、彼にまつわる逸話(ファンタン・ラトゥールの絵画など)を追いかけました。

 詩作をやめたランボーは、オランダ軍傭兵としてジャカルタに行ったり(後に脱走)、キプロスの採石場の現場監督をしたりしましたが、地元シャルルヴィル高等中学校時代の級友エルネスト・ドラエー(1853~1930)から文学への関心を問われると「あんなもの、もう考えもしないさ!」と答えたといいます(1879年)。

 その後、ランボーはイエメンのアデンにあるバルデー商会に雇われ、アビシニア(現エチオピア)のハラールの代理店に勤め、交易商人になります。主に象牙やコーヒーの取引やフランスからの工業製品や武器まで扱ったようです。しかし、アデンで膝の腫瘍が悪化します。風土病だったとも性病だったとも色んな説がありますが、フランスのマルセイユに戻り、コンセプション病院で右脚を切断し、1891年11月10日に同病院で死去します。まだ37歳という若さでした。

 若い頃のランボーと言えば、詩人ポール・ヴェルレーヌ(1844~96)との不適切な関係を始め、ふしだらで酔いどれの破天荒な私生活が有名ですが、詩作を断ち切り、武器商人になった晩年の孤独で悲惨な生活とその早すぎる死が、彼の書いた難解な作品(「地獄の一季節」など)と見事に、結果的に「言行一致」してしまったことが、何百年経っても彼に惹き付けられる魅力になっていると言えるでしょう。

比類なき超天才児とその後の「没落人生」(本人は認めないでしょうが)とのギャップがあまりにも大き過ぎるので、謎が謎を呼ぶことになったのです。

プレイヤード版の「ランボー全集」。40年近い昔に買った本だが、当時7760円もした

 ということで、35年ぶりに改めて「ランボー詩集」の文庫本(1122円)を読み始めています。

 原文と対訳を熟読すると、何と1篇の詩を読むのに2~3日も掛かります。本当です。読書は主に通勤電車の中でしているので、48時間~72時間掛かるという意味ではありません。電車の中で、1篇の詩作品を読むと1日で読み切れず、2~3日掛かるという意味です。

 15~16歳の時に書かれた初期韻文詩は、見事な12音綴のアレクサンドランの定型詩になっていて、しっかり脚韻が踏まれています。アレクサンドランは、日本の短歌や俳句と同じようなものかもしれません。脚韻は、aabbだったり、 ababだったり色々ですが、韻を踏むために、主語と述語が倒置されたり、名詞と形容詞が入れ替わったり、形式を優先するために、意味は後回しで、かなりこじつけになったりして、外国人にとって理解するのに難儀することがあります。

 何と言ってもフランス語の語彙力には全く歯が立ちません。相手は15歳の少年でも、記憶力抜群の比類なき超天才ですから、異邦人の凡夫が勝てるわけがありません。

 ただ、年を取って、人生経験も豊富になり、既に世界各地を旅行し、分別も付き、大きな病気も体験し、他人からの裏切りや嘲笑も味わい、辛酸を舐めてきたお蔭で、人生経験の少ない少年には負けませんね(笑)。それに、自分で言うのも何なんですが、不断の努力による膨大な読書量で、ランボーには負けない教養なるものも身に着きましたから、怖れることはありません。

 そんな中で興味深かったことは、15歳の少年だというのに世の中の動きや時事問題にかなり関心があって、当時、普仏戦争(1870年)の最中で、スダンでプロシャ軍に降伏したナポレオン三世を揶揄、批判する詩まで書いていたことです。(15歳の自分はビリヤード場で遊び惚けていましたからえらい違いです。)この詩は、私も学生の頃に読んでいたはずですが、すっかり忘れています(苦笑)。当時のフランスは、世の中の動きや情報を知る手段として新聞ぐらいしかなかったでしょうが、15歳のランボーは「皇帝の憤激」という詩の中で、ナポレオン三世のことを「遊蕩に明け暮れた20年に酔いしれている」といった反帝政派のキャンペーンを文字ったり、「彼(ナポレオン三世)は、眼鏡をかけた協力者を思い出している」と書き、共和派から帝政派に鞍替えして首相になったエミール・オリビエのことを示唆したりしています。

 ランボーの10代は、普仏戦争とパリ・コミューンが起きた歴史的な激動期でした。当時のフランス人たちは、「遊蕩に明け暮れた」(遊蕩orgieには乱交パーティーという意味もある)だけでナポレオン三世のことを思い浮かび、「眼鏡をかけた協力者」だけで、オリビエ首相のことが何ら説明もなく分かったことでしょう。これでは、詩人というより、ジャーナリストですね。(そう言えば、19世紀のバルザックやフロベールらの小説は、例えば二月革命など当時の時代背景を忠実に再現したもので、フィクションというより、ジャーナリスティックでした)

学生時代の畏友と横浜でランボー詩集の「読書会」を開いて勉強していた20代後半の頃。1ページ読むのに1週間掛かった

 私が20代の頃に読んでさっぱり分からなかったことは、今ではネットのお蔭で、簡単に分かります。オリビエ首相だって検索すれは略歴とともに、眼鏡をかけた彼自身の肖像写真まで出てきますからね。今の若い人は羨ましい。

 文学していると、コロナ禍の現代を忘れて19世紀に逃避行できます。何と言っても、ヴェルレーヌはともかく(二人の直接の交際はわずか4年だったとは!ランボー17歳から21歳まで。ランボーの死後、無名だった彼を蘇らせたのはヴェルレーヌの尽力によるものだった)、学生時代に親しんだジョルジュ・イザンバール(ランボーの高等中学校の教師)とかポール・デメニー(イザンバールの友人で詩人)やジェルマン・ヌーヴォー(「イルミナシオン」の清書も手伝った詩人)らの名前がこの本にも出てきて、あまりにもの懐かしさに心が動揺し、涙が出てくるほどでした。

 恐らく分かってもらえないでしょうけど、私は、彼らのことを現代人より近しく感じてしまうのです。

 20代の私は純真無垢で、純粋芸術である(と思い込んでいた)文学に憧れを抱いていたことも思い出しました。

 でも、文学の実体は、なくても支障がない絵空事です。一人の人生を変えるほどの文学に出合えた人には「おめでとう御座います」と言うしかありません。

 文学だけでなく、生活も哲学も宗教も経済学も政治学も無意味かもしれません。パスカルがいみじくも言ったように、結局、「人生は大いなる暇つぶし」だと最近とみに感じています。

何とも不可解な「スパイ関三次郎事件 戦後最北端謀略戦」

Photo Copyright par Duc de Matsuoqua

 足利と鎌倉の旅行中、電車の中でずっと読んでいたのが、佐藤哲朗著「スパイ関三次郎事件 戦後最北端謀略戦」(河出書房新社、2020年4月30日初版)でした。

 この本は、2カ月前の6月13日に京都にお住まいの京洛先生からメールを頂き、その存在を知りましたが、最近になってようやく入手できたわけです。実は、「スパイ関三次郎事件」と言っても、小生にとっては初耳で全く知らず、著者もどういう人か分からず、メールを頂いただけでは、他の書物を差し置いて、万難を排してでもすぐさま読みたいという興味が湧かなかったのでした。ーというのが正直な気持ちでした。

 しかし、読み始めてみて、いきなり脳天をどつかれたような衝撃で、推理小説やサスペンスを読むよりも断然面白い。というより、読んでも読んでも、謎が深まり、何が真実なのかさっぱり分からず迷路にはまったまんま、読了してしまったのです。

 事件が起きたのは、戦後まもない昭和28年(1953年)7月29日。関三次郎(当時51歳)という北海道余市生まれで利尻島育ち。漁師をしていましたが漁船の転覆事故で行方不明となり、どうやら戦前は樺太(現サハリン)で暮らしていて戦後のどさくさで帰国せず、無国籍だった男が、北海道の宗谷岬から南へ約10キロ離れた海岸にずぶぬれになって上陸し、濡れた多額の紙幣を焚火で乾かしているところを地元民に見つかり、逮捕されたのが始まりです。

 当時は、米ソ冷戦の真っ只中。関は、ソ連のスパイなのか、それとも占領中の米軍のCIC(アメリカ合衆国陸軍防諜部隊)の工作員なのかー? 二転三転するどころか、四転も五転もして、結局、最後まで真相が分からない…。

 著者の佐藤哲朗氏は、元毎日新聞編集委員。社会部で公安や検察関係の取材が長いベテラン記者でした。1939年生まれといいますから今年で81歳。奇しくも樺太豊原(現ユジノサハリンスク)生まれの北海道育ち。中学生の時に、このスパイ関三次郎の公判を「社会科見学」(授業)の一環として傍聴した経験もある人でした。

 1972年の正月、当時、札幌で毎日新聞の司法担当記者をしていた筆者は、札幌地検の塚谷悟検事正らも出席する記者クラブとの新年会に参加します。塚谷検事正は、旭川地検次席検事時代の一番の思い出として、関三次郎という国際スパイ事件を取り上げ、「何せ、この事件には証拠というものが何一つなかった。頼りになるのは本人の供述だけ。しかも、それが法廷で二転三転。あまりの矛盾の多さに弁護側から『被告は少しおかしい』と精神鑑定請求まで出される始末だった。紆余曲折したが、関三次郎とソ連人船長の被告二人に有罪判決が出て一見落着した」と振り返ります。

 他社の記者たちは、そのまま聞き過ごしますが、佐藤記者だけは、裁判を傍聴した経験もあるこのスパイ関三次郎事件にのめり込み、翌日から社の資料室に入り浸ってこの事件を調べ始めます。

 1972年ということは今から48年も昔のことです。この本の「はじめに」よると、著者の佐藤記者が、それ以降に取材した関係者は数百人を超え、当然、関三次郎本人には延べ6回、長時間のインタビューをし、取材走行距離は延べ4万キロに及んだといいます。

 今から67年前の1953年に起きたこの事件は、当時はセンセーショナルな事件として、毎日のように大々的に報道されましたが、今ではこの事件のことを知る人は私を含めてほとんどいないのではないでしょうか。

◇問題三法が執筆継続の動機

 80歳を超えた老記者にこのような本を執筆して出版にまで漕ぎつけるような原動力になったのは、安倍政権の「数の力」によって、「特定機密保護法」(2013年12月、いわゆる「スパイ防止法」)、「安全保障関連法」(2014年7月、集団的自衛権の行使容認)、「共謀罪法」(2017年6月)の問題三法の成立があったからだ、と著者は「終章」で書きます。「スパイ防止法には、国家の『機密情報の漏洩防止』に狙いがあり、集団的自衛権行使には『戦争のできる国家体制』の確立、そして『共謀罪』法には『国民の言論封じ込め』と相互に関連があり、いずれも体制側にとって都合のいい法律であることは論を俟たない」と。

 そのために、67年も昔に起きた過去の事件を通して、現代の状況を見つめ直してほしいという著者の願望があったと思われます。

 とにかく、この本には、色々と問題を抱えた関三次郎の親族、知人、友人から司法・海上保安庁関係者、CIC関係者、ソ連巡回艇「ラズエズノイ号」関係者、それに、暴力団関係者、鹿地亘失踪事件関係者、公安関係者、元軍人、通訳らさまざまな人たちが登場し、何らかの関三次郎とのつながりや関連性があったことが分かってきます。

 数百人に及ぶ取材の末、最後に著者は、関三次郎とは、ソ連KGBと米CICのダブルエージェントだったのではないか、と推測しますが、関本人は最後までのらりくらりと記者の質問をはぐらかし、検事正だった塚谷悟も、この事件は「国家機密」だったことから、「公務員の守秘義務」を楯に最後まで真相を語ることなく亡くなったといいます。

 推理小説のように最後は謎解きで終わって爽快感があるような内容ではありませんが、半世紀にわたって真相を追い求めた著者の情熱と信念が伝わってくる良書、意欲作、歴史に残る好著だと言えます。

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この本を読まないと日本の近代政治の本質が分からない=エイコ・マルコ・シナワ著「悪党・ヤクザ・ナショナリスト―近代日本の暴力政治」

(8月4日のつづき)

 エイコ・マルコ・シナワ著「悪党・ヤクザ・ナショナリスト―近代日本の暴力政治」を先日読了しましたが、仕事が忙しくてなかなか書く時間が取れませんでした。本当です(笑)。

 前回も書きましたが、この本は、著者が米ハーバード大学に提出した博士号論文を基に書籍化したものです。となると、執筆したのは年齢を逆算すると著者28歳ぐらいのときです。読了して、第一の感想は「よくぞ、20代の若さでこれほどの内容をまとめ上げたものだ」と、世界的にも歴史的にも、著者の筆力というか力量というか、非凡なる才能に感服したことです。著者は日系米国人と思われますが、異国の政治状況の歴史をこれほどまで適格に分析し、「政治と暴力」をテーマを最後まで諦めることなく追跡して、読者の蒙を啓かせてくれたことに関しては、日本人の一人として感謝したいぐらいです。是非、多くの心ある人には読んで頂きたいです。

 色々と書きたいのですが、戦後のフィクサーとして活躍した笹川良一(1899~1995)と児玉誉士夫(1911~1984)の両巨頭と、安倍晋三現首相の祖父に当たる岸信介首相(当時)や大野伴睦衆院議長(同)らとの濃密関係等について、CIAの個人ファイルを参照しながら、著者はかなりの紙数を費やしていますが、ほとんど知られていることで、私も何度かこのブログに書いたことがあるので省略します。そこで、主に、私の知らなかったことを茲では敢て書いておきます。

院外団の登場

 明治末になると、帝国議会も開設され政党も力を付けてきたので、演説を暴力で妨害する壮士に代わって「院外団」なるものが形成されます。議員ではなく、暴力団組員や右翼が多かったのですが、若い野心家の学生たちも群がって来ました。その一人が、戦後、自民党副総裁も務めた大野伴睦です。当時、彼は明治大学の学生で、政友会の院外団で政治活動を始めます。これに対抗する憲政会は、院外団の中に早稲田大学の学生が付きます。東京専門学校=早稲田大学を創設した大隈重信は改進党を設立し、その流れで憲政会になるわけですからね。大学ラグビーの伝統戦、早明戦より、政治の世界でいち早く戦いの火ぶたが切られていたとは…(笑)。明治大学出身の政治家には、三木武夫、村山富市の両元首相を始め、松岡洋右、佐藤孝行、山口敏夫、萩生田光一、早稲田出身の政治家は、竹下登、森喜朗両元首相をはじめ、朝日新聞出身の河野一郎と橋本登美三郎や、三木武吉、岸田文雄ら数多。東京大学は例外ですが、極めて政治に近い大学だったんですね。

大日本国粋会と大日本正義団

 次に、大正末から二つの主要国家主義団体が活動を活発化していきます。大日本国粋会と大日本正義団です。この両者は「明らかにヤクザ集団だった」と著者は結論付けています。

 国粋会は1919年10月、政友会の内相床次竹二郎(とこなみ・たけじろう=薩摩藩士出身)とヤクザの親分との協働で結成した組織(と著者は書いています)。1930年代の初めは、全国90の支部に増え、会員総数は20万人に達したと言われます。八幡製鉄所争議、野田醤油争議など多くの労働争議の鎮圧で威力を発揮します。

 正義団は1922年1月、酒井栄蔵というヤクザの親分によって設立。32年には、全国106カ所に支部があり、東京本部が7万人、大阪本部が3万5000人いたとされます。酒井は「東洋のムッソリーニ」と呼ばれ、実際、25年にはムッソリーニと会談しています。正義団も、大阪市電や東洋モスリンなどの争議を暴力で鎮圧する役割を果たします。

 正直、私自身は、国粋会も正義団もよく知りませんでした。明治以来の右翼組織を詳細に分析した立花隆の名著「天皇と東大」にさえもあまり取り上げられていなかったからです(うろ覚えの記憶ですが)。両組織とも国家主義的イデオロギーに根付いており、労働者と左翼に対して攻撃的であるという意味でイタリア・ファシストの黒シャツ隊やドイツ・ナチスの突撃隊とよく似ていた、と著者はいいます。ただし、シチリア発祥のマフィアは、反ファシストで、ムッソリーニはシチリアでの実権を握るため、マフィアを「犯罪集団」として徹底的に弾圧したことから、マフィアと国粋会・正義団とは異質なものだという見方を著者はしています。冷酷残忍な殺人集団と言われたマフィアは実は、反体制派の反ファシストだったというのなら今までのイメージが少し変わります。

 国粋会・正義団の主力メンバーは政治家、軍人、右翼活動家のほかに建設業経営者が多かったことから、ストライキを鎮圧しますが、被差別部落解放を目的とする社会主義的傾向を持った「水平社」までも標的にします(水国事件)。組織幹部の建設業経営者が彼らを労働者として雇う立場にあり、敵対する水平社の活動家が力を持つことを恐れたからだろうという著者の分析には納得しました。

 国粋会・正義団は、今から見れば眉をひそめたくなるほどの異様な暴力集団なのですが、ロシア革命後の世相の中、共産主義革命を恐れる当時は、広く国民に受け入れられたようです。驚いたことに、台湾総督府民政長官や満鉄総裁、東京市長などを歴任し、後世からも偉人として尊崇の念で語られるあの後藤新平が、国粋会の二代目総裁になることを希望していたといいますからね。信じられません。また、国粋会は「大アジア主義」で満洲事変が起きた翌月の1931年10月には「満洲国粋会」が創設されたという記録が残っているようです。

戦後、右翼団体の復活

 話は飛んで、1945年8月の日本の敗戦により、これらの右翼団体は解散させられますが、米軍の占領が終わった1954年、関東国粋会の梅津勘兵衛と木村篤太郎元法相は協働して博徒とテキ屋をまとめて「護国団」を結成します。1959年には、この護国団と国粋会を含む10を超える右翼団体が集まって「全日本愛国者団体協議会」を結成します。その幹部の顔ぶれは、1930年に浜口雄幸首相暗殺を企て、死刑宣告されるも1940年に釈放された佐郷屋留雄、1932年の血盟団事件の首謀者井上日召、1939年に政友会の中島知久平総裁狙撃を企てた三浦義一(あの室町将軍です)、1932年の五.一五事件で重要な役割を果たした橘孝三郎(評論家立花隆=本名橘隆志の親戚)らがいたといいます。これでは、まさに戦前の復活ですね。政治風土は「時間続き」で全く変わっていないと見るべきかもしれませんが。

 1959年6月には、護国団と松葉会(戦前は博徒らを含む土建業で出発し、戦後は浅草などの闇市を仕切っていた「関根組」が起こした政治団体、現指定暴力団)を含む右翼16団体からもう一つの右翼組織である「愛国者懇談会」が結成されます。いずれの右翼組織も、翌1960年の三池炭鉱労働争議や安保闘争などで、警察と一緒になって暴力鎮圧の要として活躍するわけです。

 かなり念入りに調べ上げた著書だと思います。繰り返しになりますが、こういう歴史的事実があったのだ、と多くの心ある人には読んでもらいたいと思います。

(一部敬称略)

エイコ・マルコ・シナワ著「悪党・ヤクザ・ナショナリスト―近代日本の暴力政治」を読む

 新聞の書評で、エイコ・マルコ・シナワ著、藤田美菜子訳「悪党・ヤクザ・ナショナリスト―近代日本の暴力政治」(朝日選書、2020年6月25日初版)の存在を知り、早速購入してこの本を読んでいます。「その筋」の本は、どういうわけか、小生のライフワークになっていますからね(笑)。きっかけは30年も昔ですが、芸能担当の記者になり、芸能界とその筋との濃厚な関係を初めて知り、裏社会のことを知らなければ芸能界のことが分からないことに気が付き、その筋関係の本をやたらと読みまくったからでした。

 この本は、副題にある通り、芸能界ではなく、政治の世界と暴力団との密接な関係を抉りだすように描かれています。暴力というか武力で政治を動かしてきた史実は戦国時代どころか古代にまで遡り、その例は枚挙に暇がありません。この本では、その中でも幕末の1860年(桜田門外の変があった年)から昭和の1960年(安保闘争、三池争議、浅沼社会党委員長暗殺事件があった年)までの100年間に絞って、多種多様な資料と史料を駆使して分析しています。それらは、幕末の志士(彼らは今で言うテロリストでもあった)に始まり、明治の壮士(暴力で敵対する政治家の演説を妨害した)、大正・昭和の院外団(大野伴睦が有名)、そして本物のヤクザの衆院議員(吉田磯吉、保良浅之助ら)を取り上げ、日本人でさえ知らなかった負の歴史を教えてくれます。

 著者のエイコ・マルコ・シナワ氏は1975年、米加州生まれで、米ウイリアムズ大学歴史学部教授という略歴が巻末に載っていますが、著者がどうしてこれほどまでに日本の近現代史に興味を持ち、その専門家になったのか、読者が知りたいそれ以上の情報は、何処にも、ネットにも掲載されていませんでした。名前から日系米国人と推測されるのですが、故意なのか、その点については全く触れていません。幕末明治の史料も相当読み込んでいると思われ、旧漢字も読めなければならないので、かなり日本語に精通した米国人であることは確かのはずです。

 この本の原著は、2003年に著者がハーバード大学の博士号を取得した論文だといいます。最初から一般読者向けに書かれなかったせいか、堅く、読みにくい部分もありますが、外国人から見る日本史は容赦がないので、そういう見方があったのか、と新鮮な気持ちにさえさせてくれます。日本人の学者が、これまであまり真摯に取り上げて来なかった暴力団と政治との濃厚接触関係という視点も外国人の学者だからこそできたのかもしれません。

 巻末の「謝辞」では、実に多くの日米両国の偉大な専門の歴史家にお世話になったか、実名を挙げて御礼の言葉を述べています。が、最初のイントロダクションで、「徳川幕府(1600~1868年)」と出てきたのには驚かされました。1600年は関ケ原の戦いの年で、まだ、徳川家康は全国統一を果たしていたとは言えない年。家康が征夷大将軍に任官された1603年が徳川幕府の始まりと日本では教えられています。また徳川幕府が終わったのも大政奉還の年の1867年でいいんじゃないでしょうか?

 最初から少しケチを付けてしまいましたが、この本から学んだことは大いにあったと断言できます。

 特に、政友会の衆院議員だった暴力団の親分、保良浅之助(1883~1975)については勉強になりました。その前に、この本の表紙にもなっている憲政会の吉田磯吉(1867〜1936)に触れなければなりません。

 吉田は、火野葦平の「花と竜」のモデルにもなった侠客です。荒くれ男が多い遠賀川沿いの北九州若松を根城に賭博場を経営し、筑豊炭坑の石炭を大阪に運ぶ若松港の発展に寄与するなど地元の大親分として一目置かれていました。反政友会候補として政界に打って出て初当選したのが1915年、以後32年まで衆院議員を務めます。労働争議では経営者側に有利なように介入したと言われます。この本には書かれていませんでしたが、彼の葬儀にはわざわざ東京から元首相の若槻礼次郎や民政党総裁の町田忠治までもが参列したことを、猪野健治著「侠客の条件―吉田磯吉伝」 (ちくま文庫) で読んだことがあります。

 一方の保良は、憲政会の吉田磯吉に対抗するために政友会から三顧の礼を持って迎え入れられた人物(衆院議員に当選)でした。勿論、吉田と同じ侠客です。賭場を開帳するヤクザの親分でしたが、山口県下関で身を落ち着けて、魚の運搬に使う竹籠の製造業を大きくし、朝鮮にまで進出して木箱の製造を始め、終いには山口、鳥取、熊本などに製材所や建設会社、製氷会社、下関駅前には山陽百貨店を開業し、兵庫、広島、大阪には数十の劇場まで経営するほどの実業家になります。そして、裏街道では「籠寅組」を率いていたといいますから、驚いてしまいました。この本は政治の話が中心なので、書いていませんでしたが、下関の籠寅組と言えば、その筋では名門中の名門。浪曲師広沢虎造の興行を巡って、神戸の山口組と敵対し、東京浅草で、籠寅組が山口組二代目の山口登組長を襲撃して重傷を負わせた(後にこの傷が元で死亡)武闘派だったからです。

 著者は、政友会が保良をスカウトする際、長州出身の田中義一首相が直々に説得し、その際に、恐らく国家機密を明かしたのではないかと推測しています。その機密事項とは、山東出兵失敗や張作霖爆殺事件の話だと思われるとまで書いています。仮初めにも籠寅組を率いるヤクザの親分と政界トップがここまで親しげな仲だったとは、同時代の日本人はともかく、後世の日本人はすっかり忘れているか、もしくは知らないことでしょう。

銀座「岩戸」アジ丼

 ついでながら、色々と政党が出てきたので、この本に沿って乱暴に整理してみます。

 明治維新の原動力になったのが、薩長土肥の四藩。それが自由民権運動が高まる中、明治一四年の政変が起こり、権力が薩長二藩に独占されます。薩摩が海軍、長州が陸軍を仕切るわけです。野に下った土佐高知の板垣退助は自由党を結党し、肥前佐賀の大隈重信は改進党(後の進歩党)を結党します。この両者は、一時期、隈板内閣をつくり、1898年に合併して憲政党を結党するなど密月があったものの、間もなく分裂します。1900年、旧自由党に、伊藤博文、星亨らが合流して結党したのが、政友会です。一方の反政友会の流れは、1913年、桂太郎による立憲同志会が結成され、16年には中正会などと合流して憲政会(27年に民政党に改称)となるわけです。憲政会の初代総裁加藤高明は、岩崎弥太郎の女婿となったことから「三菱の大番頭」と皮肉られ、後に首相になった人です。

 昭和初期に青年将校らによって「財閥と結託した腐敗政党」と糾弾されたのが、この政友会と民政党の二大政党のことです。政友会には三井財閥、民政党には三菱財閥がバックにいたことは周知の事実だったことから、血盟団事件では三井の総帥団琢磨らがテロで暗殺されたりするのです。(つづく)

 

 

「ゾルゲを助けた医者 安田徳太郎と〈悪人〉たち」はお薦めです

 4連休中は、沖縄にお住まいの上里さんから航空便でお贈り頂いた安田一郎著「ゾルゲを助けた医者 安田徳太郎と〈悪人〉たち」(青土社、2020年3月31日初版)をずっと読んで過ごし、読了しました。

 皆さんから「お前は、いつも人様から贈られた本ばかり読んでいるのお」と批判されれば、「責任を痛感しています。真摯に反省しております」と応えるしかありません。

 上里さんからは、これまで、大島幹雄著「満洲浪漫  長谷川濬が見た夢」 (藤原書店)や森口豁著「紙ハブと呼ばれた男 沖縄言論人 池宮城秀意の反骨」(彩流社)など何十冊もの心に残る良書を贈って頂き、本当に感謝申し上げます。

 さて、安田一郎著「ゾルゲを助けた医者 安田徳太郎と〈悪人〉たち」のことです。

 これでも私はかつて、「ゾルゲ研究会」(通称、すでに解散)なる会に属したことがあるので、ゾルゲ事件の関する書籍はかなり読んでおりますから、事件には精通しているつもりでした。

 もちろん、安田徳太郎(1898~1983、享年85)についてもゾルゲ事件に連座して逮捕された諜報団の一員だということは知っておりました。しかし、正直、医者だったということぐらいで、彼がどういう人物で、何故逮捕されたのかまではよく知りませんでした。諜報団の中で、それほど目立った動きをした重要人物でもなかったし、半ば当局がこじつけて諜報団の一員に仕立て上げたような感じもあったからです。

 本書を読んで初めて、安田徳太郎という人となりが分かりました。この本の著者は、徳太郎の長男一郎(1926~2017、享年91、元横浜市立大学文理学部教授、心理学者)ですから、徳太郎本人の少年時代の日記を始め、家族親族でしか知り得ない事柄が満載されています。(著者は文章を書く専門家ではないので、前半は読みづらいというか、分かりにくい箇所がありましたが、後半はすっきり読めました)

 まず驚くべきことは、徳太郎の縁戚関係です。労働農民党代議士でただ一人治安維持法に反対して暗殺された「山宣」の愛称で慕われた山本宣治は、従兄弟に当たり、ホトトギス派の俳人として名をなした山口誓子(せいし、本名新比古=ちかひこ)はまたいとこに当たります。

 また、同じようにゾルゲ事件で逮捕された作家の高倉テル(京都帝大時代、河上肇の影響でマルキストになる)は、徳太郎の妹つうの夫、つまり、義弟に当たります。

 このほか、徳太郎の進路に影響を与えた人として小説家の近松秋江まで登場します。

 徳太郎は、明治31年、京都市生まれ。旧制府立三中から京都帝大医学部を卒業したエリートで、日本で初めてフロイトの「精神分析入門」を翻訳して紹介した人でもあります。若い頃に大逆事件などを体験し、軍国主義が高まる中、三・一五事件など治安維持法による共産党弾圧を見聞し、昭和初期には東京・青山の一等地(とはいっても、当時の青山はファッション街ではなく、麻布連隊区司令部や第一師団司令部、陸軍軍法会議などがある「軍都」でした)に内科医を開業します。特高によって拷問死した日本共産党中央委員の岩田義道や作家の小林多喜二の凄惨な遺体を検分したりしたことも、当局からマークされる遠因になります。

 徳太郎のゾルゲ事件での逮捕容疑のきっかけは、この青山の内科医にゾルゲ諜報団の中心人物宮城与徳が昭和10年1月に「肺病で喀血した」と診察に訪れたことで始まりました。

 宮城は沖縄出身の画家で、1920年に渡米、27年には米共産党日本人部に入党し、コミンテルンによる派遣で昭和7年(1932年)に日本に戻り、本部から指令されるまま、ゾルゲの下で諜報活動に従事した男でした。診察以外でも「諜報活動」のため、度々医院を訪れるようになった宮城与徳は、昭和15年の初めに「ドイツ大使館にいる私の友人が肺炎で危篤なってます。先生、例の肺炎の特効薬を下さいませんか」と頼み込んできました。徳太郎は「宮城さんの友人がナチ・ドイツ大使館にいるというのはおかしな話だ」と思いながらも薬を渡します。数日後、宮城が「おかげで、友人は全快しました」と御礼にやって来ます。これが、この本のタイトルにもなっている「ゾルゲを助けた医者」につながるわけです。

 徳太郎は昭和17(1942)年6月に逮捕され(尾崎秀実やゾルゲらが逮捕されたのは、前年昭和16年10月)、治安維持法、軍機保護法、国防保安法違反の罪名で起訴されますが、結局、治安維持法違反の一つだけで昭和18年(1943)年7月に仮釈放されます(判決は懲役2年、執行猶予5年)。この中で、面白い逸話が書かれています。

 裁判が終わって、徳太郎は平松検事に挨拶に行き、「正直言ってこの事件は何が何だかさっぱり分からないのですが、真相は何なんですか?」と尋ねます。すると、平松検事は「分かるわけない。わしらでさえ分からないのだから。コミンテルンというが、実際(ゾルゲ)はソ連赤軍第4本部の諜報機関(所属)なんだよ」と答えたといいます。

 徳太郎を逮捕し、取り調べに当たった警視庁青山署の高橋与助・特高警部は「てめえこのやろう、ふざけやがって、ゾルゲの命を助けたな。この国賊、非国民が。天皇陛下に申し訳ないと思わないのか」と怒鳴りまくり、髪の毛を引っ張ったりしましたが、コミンテルンとの関係ばかり追及したといいます。一方の司法省の検事たちは、ゾルゲの自白で、ある程度、真相を分かっていたということになります。

 実際、ゾルゲは赤軍4部から派遣されたスパイであり、コミンテルンは、徳太郎が釈放される1カ月前の1943年6月10日に解散していたわけですから。

 この本は、ゾルゲ事件に関心がない人でも、明治末に生まれた若者が、大正デモクラシーと米騒動と労働争議と昭和恐慌、軍国主義まっしぐらという日本史の中でも稀に見る激動の時代を生き抜いた様子を読み取ることができます。

 他にも、青山にあったすき焼き料亭「いろは」の創業者木村荘平(葬儀社「東京博善」=現廣済堂グループ=の創業者でもあり、女性関係が盛んで30人の子持ち。八男荘八は、画家で永井荷風の「濹東綺譚」の挿絵担当、十男荘十は直木賞作家)の話など、意外と知られていない色々な逸話も描かれていますので、お薦めです。

 ちなみに、著者の安田一郎は3年前に亡くなっているので、編者として本書の出版にこぎ着けたのは一郎の次男で徳太郎の孫に当たる安田宏氏(1960〜、聖マリアンナ医科大学教授)です。

橘木俊詔著「”フランスかぶれ”ニッポン」はどうも…

 世間では誰にも認められていませんが、私は、「フランス専門」を僭称していますので、橘木俊詔著「”フランスかぶれ”ニッポン」(藤原書店、2019年11月10日初版)は必読書として読みました。大変面白い本でしたが、途中で投げ出したくなることもありました(笑)。

 「凡例」がないので、最初は読み方に戸惑いました。

 例えば、「長与(専斎)に関しては西井(二〇一九)に依拠した」(53ページ)や「九鬼周造については橘木(二〇一一)に詳しい」(104ページ)などと唐突に出てくるのです。「えっ?何?どうゆうこと?」「どういう意味?」と呟きたくなります。

 (これは、後で分かったのですが、巻末に書かれている参考文献のことで、まるかっこの中の数字はその著書が発行された年号のことでした。学術論文の形式なのかもしれませんが、こういう書き方は初めてです)

 著者は、経済学の専門家なので、「フランスはケネー、サン=シモン、セイ、シスモンディ、ワルラス、クールノーなど傑出した経済学者を生んだ」(180ページ)と筆も滑らかで、スイスイと進み、それぞれの碩学を詳細してくれますが、専門外の分野となると途端にトーンがダウンしてしまいます。

 例えば、世界的な画家になった藤田嗣治の章で、「乳白色の裸婦」を取り上げた部分。「絵画の手法などについては素人の筆者がどのような絵具や顔料を用い、キャンバスにどのような布地を用いたのか、…などと述べる資格はないので、乳白色の技術についてはここでは触れない」。 えっ?

 「ドビュッシーは女性関係も華やかであったが、これまで述べてきたようにフランスの作家や画家の多くがそうであったし、別に驚くに値しないので、詳しいことは述べない」。 えっ?待ってください。また?

 「物理学に疎い筆者が湯浅(年子)の研究内容を書くと間違えるかもしれないし、読者の関心も高くないであろうから、ここでは述べない」。 もー、勘弁してください。少しは関心あるんですけど…。

 ーまあ、ざっとこんな感じで、読者を2階に上げておいて、「この先どうなるんだろう」と期待させておきながら、さっと階段を外すような書き方です。

 そして、画家の久米桂一郎(一八六六-一九三四)の次の行の記述では、

 「浅井忠(一九三五-九〇) 黒田清輝(日本西洋絵画の開拓者は、美術学校出身ではなく、東京外国語学校出身だったとは!←これは私の感想)や久米桂一郎よりも一〇年早く生誕している」と書かれているので、「おかしいなあ」と調べたら、浅井忠は(一八五六-一九〇七)の間違いでした。日本の出版界で最も信頼できる藤原書店がこんなミスをゆめゆめ見逃すとは!悲しくなります。

 文句ばかり並べましたが、幕末・明治以来「フランスかぶれ」した日本の学者(辰野隆、渡辺一夫ら)、作家詩人(永井荷風、木下杢太郎、萩原朔太郎、太宰治、大江健三郎ら)、画家(藤田嗣治ら)、政治家(西園寺公望ら)、財界人(渋沢栄一ら)、ファッション(森英恵、三宅一生、高田賢三ら)、料理人(内海藤太郎ら)ら歴史的著名人を挙げて、平易に解説してくれています。(私は大体知っていたので、高校生向きかもしれません)

 ほとんど網羅していると言っていいでしょうが、重要人物である中江兆民や評論家の小林秀雄についてはごく簡単か、ほとんど登場しないので、もっと詳しく解説してほしかったと思いました。

 それとも「私の専門外なので、ここでは詳しく触れない」と著者は抗弁されるかもしれませんが…。

 (6年前に「21世紀の資本」のトマ・ピケティ氏が、日仏会館で来日講演された際に、橘木氏も同席して、橘木氏の御尊顔を拝見したことがあります。「経済格差問題」の権威として凄い方だと実感したことは、余談ながら付け加えておきます。)