平成最後の終戦記念日に思うこと

8月15日。73回目の終戦記念日です。もしくは、平成最後の終戦記念日。

8月15日は、ポツダム宣言受諾を昭和天皇が玉音放送で国民に報せた日であるので、「終戦記念日」はおかしいという学者もおります。東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリ号で降伏文書を調印した「9月2日」こそが終戦記念日だと主張します。

確かに8月15日時点で、アジア太平洋の全ての地域でピッタリと戦闘が終結したわけではなく、15日以降も特攻や散発的な戦闘がありました。

しかし、私自身、最近は、8月15日は終戦記念日でいいと思うようになりました。正確に言えば、9月2日は「敗戦記念日」です。文字通り、この日は外交上、国際法に則って、降伏文書に調印したわけですから。とはいえ、日本人は、敗戦記念日の9月2日をメモリアルデーにすることはないでしょうね。

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昨晩は、「日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実」(中公新書)がベストセラーになった吉田裕・一橋大学名誉教授がラジオに出演していて、思わず耳を傾けてしまいました。

吉田氏によると、アジア・太平洋戦争では310万人(軍人・軍属230万人、民間人80万人)に及ぶ日本人犠牲者を出しましたが、その9割が1944年以降と推測されるというのです。この1年間だけで軍人・軍属の戦死者は200万人以上。日露戦争は9万人だったので異常に高い数字です。(第二次大戦の敗戦国ドイツが、占領国から追放された際の死亡者が200万人という事実にも卒倒しますが)

資料が残されていないので正確な数字は推計の域は出ないものの、その戦死者の内訳として戦闘による戦死者は3分の1程度で、残りは、餓死やマラリア、赤痢などによる戦病死と、戦艦などが撃沈されたことによる海没死、それに戦場での自殺と「処置」だったといいます。

1937年に始まった日中戦争が泥沼化し、40年から国民皆兵の徴兵が始まります。末期は、若者だけでなく中年までも、そして、健常者だけでなく身体・精神障害者までもが徴兵されるようになったことから、厳しい行軍でついていけなくなったり、上官による鉄拳制裁やリンチで自殺に追い込まれたりします。また、戦場に置き去りにされたり、足手まといとして「処置」という名の下で殺害されたりしたというわけです。

吉田氏は、その背景には、「当時は、人権や人命に対する著しい軽視があった」と指摘しておりました。戦前の日本社会は、職場で、学校で、家庭で、親や教師や上司らによる、今でいう暴行や暴力が頻繁に行われることが普通で、殴られたことがないのはよっぽどのインテリぐらいだったのではないかいうのです。

特に人命軽視が甚だしい。フィリピンから奇跡的に生還した兵士も「兵隊は消耗品だった」と断言してます。まるで、日本の軍隊には「兵たん=ロジスティック」という観念がなかったかのようで、前線にいる兵士に対する補給を疎かにして、食物などは「現地調達」です。だから餓死者が出るのです。しかも、軍機保護法などで兵士には行き先も告げず、「行って来い」の片道切符のみで、二度と帰ってくるなと「玉砕」さえ命じます。

戦前も官僚制度ですから、辻政信牟田口廉也といった職業軍人であるエリート将官は優遇します。しかし、赤紙一枚で引っぱって来た兵士に対する扱いは将棋の駒の「歩」以下です。武器も、40年も前の日露戦争の「三八式歩兵銃」ですからね。圧倒的な武器弾薬と物資の補給を前線に送り、ある程度の兵士の人権を認め、戦死した場合、遺体を丁重に回収していた米軍とはえらい違いです。

そもそも、国力と技術力と戦力が全く違う米国に戦勝できるわけがなく、神風が吹くわけがなく、陰湿ないじめとリンチで自分より弱い者を自殺に追い込むのが、日本人の心因性でした。(記録には残っていませんが、かなりの精神疾患者が出たようです)

ですから、この73年前の敗戦は日本の歴史上最大の変革です。幕末も、戦国時代も、大化の改新も遠く及びません。

「他人を押しのけてでも」の立身出世主義、「余所者排除」の排他主義、「前例にありません」の事なかれ主義、「総理のご意向」の権威主義と忖度主義、友情よりも拝金主義、それでいて縁故主義と血統主義…と、臭いものに蓋をし、強きを助け、弱き挫く日本人の心因性は、将来も、そう大して変わるわけがありませんから、戦争は二度と御免です。

読売新聞を拡張した最盛期の人々

読売新聞副社長、日本テレビ会長などを歴任した氏家斉一郎談・塩野米松聞き書き「昭和という時代を生きて」(岩波書店、2012年刊)をやっと読了しました。

刊行された翌13年に氏家さんは84歳で亡くなっておりますから、「遺言」めいた話でしょうが、やはり肝心なことは「墓場まで持っていく」と公言されていたように、はっきりとしたことは分かりませんでした。

特に彼が「暗躍した」社屋の東京・大手町の国有地払い下げや、中部読売創刊に関わり、地元の中日新聞との熾烈な闘いなど、もう少し内情を知りたかったですね。

ご本人は読売新聞経済部の敏腕記者だったので、御自分で執筆すればよかったと思われますが、余計なお世話でしょう。しかし、残念ながら、同じ読売新聞の内情を暴いた御手洗辰雄著「新聞太平記」(鱒書房)、佐野眞一 著「巨怪伝―正力松太郎と影武者たちの一世紀』」( 文藝春秋)、魚住明著「渡邊恒雄 メディアと権力」(講談社)などと比べると「読み劣り」してしまいます。

とはいえ、政界、官界、財界に次ぐ「第四の権力」と一時(的に)言われたマスコミの内情がよく分かります。国有地払い下げにしろ、「社会の木鐸」と世間で思われていたマスコミが、実は、向こうの人間(政官財)に取り入って、いや、食い込んで、一緒になって狂言回しの役目を演じていたわけですから、そりゃあ、一介の政治記者如きが「天下国家」を論じたくなることがよく分かります。

新聞記者はあちこちで情報を収集して、スパイみたいに、と書けば怒られるので、止めときますが(笑)、とにかく、コーディネーターのような働きをして、政治家や官僚を動かします。昭和30~40年代の右肩上がりの高度成長期ですから、やりたい放題で自分の思い通りになる感じなのです。何しろ、氏家さんは渡辺恒雄氏とともに、大野伴睦を一国の首相に担ぎ上げようとしたりするのですから、もはや記者の域を超えてます。

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氏家さん本人も述懐してますが、非常に運に恵まれたジャーナリストでした。キューバのカストロ首相には気に入られて2度も会っているし、ベトナムのホー・チ・ミン主席には会いに行ったら、亡くなって、スクープ記事を書くことができ、日本代表として葬儀に参列したりします。

「読売中興の祖」務台副社長には目を掛けられ、50歳そこそこで取締役に大出世します。セゾングループの堤清二さんや徳間書店の徳間康快さんら多くの友人に恵まれて左遷の雌伏期間中に救われたりします。

氏家さんが読売に入社したのは昭和26年。彼は、昭和25年末の時点で、毎日新聞が408万部でトップ、朝日新聞が395万部、そして、読売新聞はわずか186万部だったと記憶しています。読売は、もともと、東京のローカル紙だったからです。

それが、「販売の神様」務台さんの豪腕で、大阪に進出し、九州に進出し、中部に進出し…全国制覇を果たして、ついに世界一の1000万部にまで部数を伸ばすのですから、氏家さんらは、ちょうど新聞拡販戦争のど真ん中で熾烈な取材合戦を繰り広げていたわけです。

しかし、それも遠い昔の話。今では若い人の新聞離れで、天下の読売も700万部とも650万部とも、かなり落ち込んだという話を聞いたことがあります。

既に新聞の影響力は落ち込み、政治家を動かすどころか、利用されて、読売新聞は「御用新聞」とも「自民党機関紙」とも「政界広報紙」と揶揄されるようになりました。

もっとも、氏家さん本人は、最後の方で「新聞は反権力であってはいけない。国益に反してしまうことがあるからだ。せいぜい非権力であるべきだ」と語っていましたから、昔ではなく、今のこのような読売新聞をつくったのは、渡辺氏であり、氏家さんであることがこの本を読むとよく分かります。

2人とも若い頃はバリバリの共産党員だったのに、後年はバリバリの反共・体制護持派になるのですから、人間の抱く思想の不可解さを印象付けます。

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読売新聞について、もっとご意見があれば、コメント御願い致します。私自身は、これまで読売の悪口ばかり書いてきましたが、今、経済面が一番充実していて分かりやすく、抜群に面白いのは読売だと思っているので毎日欠かさず読んでおります。

老人力がつき始めました

有楽町「魚や旬」の魚づくしランチ980円=刺身(鯛、マグロ)、煮魚(鯖味噌)、焼き魚(鮭)、揚げ物(白身魚フライ)という豪華メニュー(焼き魚が写ってません)

私はあまりテレビは見ませんが、テレビ東京の「開運!なんでも鑑定団」は結構見てます。

これでも、大学の卒論は「印象派」でしたし、長じてからは美術担当記者も仕ったこともあり、芸術に関する見る眼と教養はかなりのものと勝手に自負しております(笑)。それでも、この番組の鑑定士は半端じゃない知識と経験の持ち主で、私の知らない作家が出たりして、大変勉強になります。

大体欠かさず見てはいるのですが、たまに、見逃すこともあり、再放送を見たりします。我ながら随分熱心ですねえ(笑)。再放送は、大体、5~6カ月前に既に放送されていたものです。ですから、一度見たかどうか、忘れてしまっているのです。部分部分で、「あ、確か前に見たな」と分かるのですが、まだらボケ状態で、他の部分は全く初めて見たような気がするのです。

これは実に悲しいものがありますね。あれだけ、夢中になって見て、半年経って忘れて、また初めて見るように見ているのですから、あの時の半年前の時間は何だったのか、今消費している時間は何なのか、と空しくなってしまいます。

また、フランス語も英語も、単語は覚えて半年も経つと全く雲散霧消して脳裏から消え去ってしまうのです。哀しい。

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そこで、思い出したのが、赤瀬川源平さん(1937~2014)の「老人力」です。ご説明するまでもないでしょうが、これは「物忘れが激しくなった」と否定的に考えずに、「老人力がついてきた」と前向きに考えようと逆転の発想を提唱したものです。「老人力」(1998年)はベストセラーになりました。あれから、もう20年も経つんですね。

提唱したのが1997年といいますから、ちょうど彼が還暦の60歳のときだったんですね。

個人的ながら、「老人力」がベストセラーになる前に、私も老人力がついて何の著作か忘れてしまいましたが(笑)、一度、彼にインタビューしたことがあります。かなり和気藹々とした会話が続き、彼の偉ぶらない飾らないところに感銘を受けたものです。その3カ月後ぐらいに、ある文壇パーティーで再会したので、「この間は、大変お世話になりました」とご挨拶すると、「…どちら様でしたっけ…」と怪訝そうな表情を浮かべるのです。その時、彼は50代でしたが、既に老人力がつき始めていたということなのでしょうか。

勿論、私以上に毎日のように色んな人と会っているので、一度だけ会っただけの三文記者などいちいち覚えていないでしょうが、当時はかなりショックでした。(当時の私は、取材で年間500人ぐらいの人と名刺交換してましたが)

優秀で才能がある人でさえそうなんですから、まして凡人をやですね。

旧制中学・高校の学制を並べたくなりました

神戸にお住まいの山口先生のお勧めで、氏家斉一郎(1926~2001)談・塩野米松聞き書き「昭和という時代を生きて」(岩波書店・2012年11月15日初版)を読み始めております。

氏家氏といえば、読売新聞の副社長から系列の日本テレビの会長にまで登り詰めた人で、ナベツネこと渡辺恒雄・読売新聞主筆の「片腕」ぐらいの知識しかありませんでしたが、この本を読むと、これまで全く知らなかったことのオンパレードで「へー、そうだったのかあ」と感心しきり、という凡俗な新聞用語が飛び出してくるほどです。

氏家さんは、大正15年(1926年)5月17日、東京生まれ。小生の亡父と同い年でした。(渡辺恒雄さんも同年5月30日生まれ。同い年ながら、氏家さんとは同窓の東京高等学校の1年上だったようです。)この本を読んで、父親の世代が青春時代にどんな時代の空気を吸っていたのかよく分かりました。

まだ、読売新聞社に入社する前の学生時代の話のところを読んでいますが、どうも、旧制の学制が戦後と随分様変わりしたため、読みながら、ここでちょっと整理したい欲望に駆られました。

その前に、「氏家」という名前は非常に変わった名前で、どこかの武将か由緒ある名家と思ってましたが、やはり、「信長公記」に出てくる「美濃の三人衆」の一人・氏家直元(大垣城主)がご先祖さまだったようです。

彼の祖父氏家広雄は帝大を出て弁護士になった人。父貞一郎も東京帝大法学部を出て、財閥「古河合名」の理事を務めた人。彼の従兄弟に当たる氏家純一は、野村ホールディングスの会長と経団連副会長も務めた人で、いわば、華麗なる一族だったんですね。

さて、彼の小学校は、昭和8年に入学した桃園第三尋常小学校(昭和16年から国民学校に名称変更)という公立学校でした。当時は、私立より公立の方が有名中学への進学率が高かったそうです。(他に、本郷の誠之小学校、青山師範附属小学校、番町小学校など)ちなみに、桃園第三小学校の出身者には、津島雄二氏(自民党元津島派会長、作家太宰治の女婿)や私も以前親しくさせて頂いた女優の三田佳子さんもそうなんだそうです。

当時の有名中学とは、旧制の府立中学です。(実は、早稲田中、武蔵中、麻布中、成城中など名門私立中学も既にありました)氏家さんが旧制中学に入学するのは昭和14年(1939年)4月ですが、その年までにあった11の旧制府立中学を並べてみますとー。

・府立一中→都立日比谷高校

・府立二中→都立立川高校

・府立三中→都立両国高校

・府立四中→都立戸山高校

・府立五中→都立小石川高校

・府立六中→都立新宿高校

・府立七中→都立墨田川高校

・府立八中→都立小山台高校

・府立九中→都立北園高校

・府立十中→都立西高校

・府立十一中→都立江北高校

氏家さんが入学した中学は上記のナンバースクールではなく、今は無き東京高等学校尋常科でした。これは、日本初の七年制の官立高校で、東京帝国大学の附属中学・高校の位置付けだったそうです。(90%近くが東大進学)旧制中学は5年制で、成績がよければ4年で卒業。旧制高校は3年制(ところが、戦時体制の昭和18年から2年制)。つまり、普通なら8年で大学(3年制)進学するところを、7年で大学進学するので、相当なエリート校だったのでしょう。

同期に歴史学者になる網野善彦(1928~2004)らがいました。同い年ながら一学年上に渡辺恒雄氏。氏家さんは昭和19年に、そのまま東京高校に進学。渡辺氏は高校を2年で繰上げ卒業し、入隊しますが、昭和20年の敗戦で、氏家さんは召集を免れます。戦後は、旧制高校を2年制にしていたのを3年制に戻す運動にも加わります。

ちなみに、氏家さんの父親は、自分と同じように第一高等学校に行ってほしかったようです。旧制高校の名門ナンバースクールは一高から八高まで8校ありました。

一高(東京)、二高(仙台)、三高(京都)、四高(金沢)、五高(熊本)、六高(岡山)、七高(鹿児島)、八高(名古屋)

このほか、ナンバースクール以外で全国に創設された高校で、浦和水戸東京静岡松本福岡広島新潟高校などが東京帝大進学の上位校でした。

何か、今もあまり変わっていないような気がします。

おさらいですが、戦前は、小学校6年~中学5年~高校3年~大学3年(計17年)ということになり、新制の6~3~3~4年(計16年)より1年長いですね。飛び級があったからでしょうか。(他に専門学校や陸軍士官学校、海軍兵学校などのコースもあり)

旧制高校出身者は、もう90歳以上でしょう。できれば、もっとお話が聞きたいと思いました。

文芸評論家雨宮さんのこと

先月23日(月)に東京・帝国ホテルで開催された歴史小説家の「加藤廣さんお別れ会」のことを書きましたが、その時、会場でスピーチされた文芸評論家の雨宮由希夫さんが、何と吃驚、かの著名なロシア文学者内村剛介(1920~2009)の甥っ子さんだっということが、関係者への取材で明らかになりました。

おっと、どこか、国営放送のニュース風の口調になってしまいましたね(笑)。

いやあ、これは本当の話です。

当日、かなり多くの方々のスピーチがありましたが、雨宮さんのお話はとても印象的でしたので、よく覚えております。

2005年、加藤さんの本格デビュー作「信長の棺」が発表されたとき、 同氏は東京の三省堂書店に勤務されており、同書店のメール・マガジン「ブック・クーリエ」に「書評」を連載されておりました。

そこに、「本来歴史学者がやらなければならない事件の解明を物書きの罪業を背負った新人作家が代わってやってのけた。驚異の新人の旅立ちと、新たな『信長もの』の傑作の誕生に心より拍手喝采したい」と書いた記事を、加藤さんが目にして感動し、本能寺3部作の「明智左馬助の恋」の「あとがき」の中で、「雨宮氏の温かい言葉には、あやうく涙腺まで切れそうになったことを告白しておきたい」と書いてくださったというのです。

雨宮さんは、スピーチの中で「『あやうく涙腺まで切れそうになった』のは私の方です。駆け出しの書評家で、実績らしい実績のなかった私にはこれ以上の光栄なことはないと感涙にむせばずにはおられませんでした」と応じておられました。このくだりが、とても印象的だったのです。

銀座「保志乃」いわし定食 980円

その後、関係者への取材で、雨宮さんは「参列者が懇談している中でスピーチなどふつうは誰も聞いていないものですが、しわぶき一つなく、雑談もなく、皆様が聞き入ってくれたことには恐れ入りました」と感想を述べられていたそうです。

雨宮さんの本名は敢えて秘しますが、内村剛介の甥っ子ということで、シンポジウムや哈爾濱学院の同窓記念式典にも必ず出席されていたようです。

「宝くじで1億円当たった人の末路」は意外と、いや結構面白い

富山城

鈴木信行著「宝くじで1億円当たった人の末路」(日経BP社、2017年3月28日初版)は、昨年のベストセラーらしいですが、読んでみると意外と面白い。猛暑で読書する気力がなくても、サクサクと読めます(笑)。

まあ、悩み相談みたいなものです。大学教授や評論家らその筋の専門家がズバリ答えてくれるのです。

ですから、自分の興味があるとこだけ読めばいいのです。

内容は、表題のほか、

「事故物件を借りちゃった人の末路」

「『友達ゼロ』の人の末路」

「留学に逃げた人(学歴ロンダリング)の末路」

「外国人観光客が嫌いな人の末路」

「8時間以上寝る人の末路」

「禁煙にしない店の末路」

などなどです。

表題の「宝くじで1億円当たった人の末路」は、以前に色んな本を読んでいたので、答えはほとんど同じでした。

1億円にしろ、7億円にしろ、当選確率は交通事故に遭う確率よりかなり低い1000万部の1ですし、「宝くじとは、愚か者に課せられた税金」という「格言」は確かにその通りです。たとえ当たっても、トラブルに巻き込まれるのが必定で、かえって貧困になるというのは、ほぼ正解でしょう。

「事故物件を借りちゃった人の末路」は、あの相川探訪記者お勧めの事故物件公示サイト「大島てる」の運営者本人が登場して、サイトを立ち上げた経緯から、自殺した人の部屋は不思議と、また自殺者が出るような霊が霊を呼ぶ不思議な話まで飛び出します。本当に嘘みたいな話ですが、真実なので、科学では証明できない人間の心理や闇が働くということなんでしょう。ご興味ある方は、この章を読むだけでも価値があると思います(笑)。

私自身は、「『友達ゼロ』の人の末路」を興味深く拝読しました。回答者は、諸富祥彦明治大学教授。

個人的ながら、最近、どうも学生時代の旧友と次々と疎遠になってしまい、「昔はあんなに仲が良くて月に一回は飲みに行ったのに」「こちらに何か非でもあったのかなあ」などと勘繰りたくなり、長い付き合いだったため、かえって修復がうまくいかない状況が続いておりました。

しかし、この章を読んで少し救われました。人間には「群れることが好きなタイプ」と「苦手なタイプ」がいるそうです。(私は、圧倒的に後者=笑)

群れる、要するに、つるむことが好きな人は、「心を麻痺させて楽になれる」(幻想)、「友達が増えることで『自分には価値がある』と自信が持てる」(根拠なき自信)半面、「人間として成長できない」(孤独力を磨けない)、「同調圧力によるストレスで精神的に追い込まれる」、「年を取っても自分が何をどう感じていて、何を欲しているのか分からなくなる」といったデメリットがあるというのです。

ですから、諸富教授は「無理につるむ選択をする必要はない」とキッパリ宣言するのです。

「友達がいないと困った時に助けてくれる人がいない」という悩みも、「そもそも、広く浅くの表面的な関係で結ばれた友達が、いざという時に、本気であなたを助けてくれると思いますか。相手が苦しい時に自分の身を投げ出してでも何とかしようとする。そうした深い人間関係は『孤独を知った者同士』の間にこそ生まれる」という言葉は非常に説得力がありますね。

この本は何処からでも読めます。勿論、人生に正解があるわけではないので、正しい回答はないのかもしれませんが、貴方にもきっと参考になるアドバイスがあると思います。

同盟通信の異能の記者大屋久寿雄

鳥居英晴著「国策通信社『同盟』の興亡ー通信記者と戦争」(花伝社、2014年7月25日初版)は、著者が5年以上の歳月をかけて執筆した800ページ以上にも及ぶ大変な労作でした。

大変歴史的、資料的価値が高い本で、明治時代の通信社の勃興期(中小さまざま100社以上の通信社が創立されては消えていったらしい)から、先の大戦の敗戦により、同盟通信が、社団法人共同通信社と株式会社時事通信社と広告会社電通の3社に分かれて再出発を果たすところまで、綿密に追っています。

著者は、元共同通信出身の記者らしいですが、比較的、公平に冷静に文献を掘り起こして分析しています。多くのガサツな学術書やネット情報では、「戦前の同盟通信は、現在の共同通信のこと」の一言で済まされる場合が多いですからね。

確かに、同盟通信の遺産のほとんどが共同通信に受け継がれました。時事通信の古いOBから言わせると「かまどの灰まで共同は持って行った」そうで、それでいて、大陸や南方など海外に派遣された何百人もの特派員ら「引揚者」を引き取る役目を時事通信は背負わされました。

同書の第17章には「共同は、同盟の総務、報道、連絡の3局と写真部から選んだ約1000人で発足。…これに対して時事は報道(主として旧海外局系)、経済、調査の3局から約250人で発足。外地からの引き揚げ社員で3年後には1000人を超えた。同盟の資産の中の通信社の生命ともいうべき国内専用線は共同に引き継がれた」と書かれています。

また、同盟通信の異能の記者で、戦後は時事通信に入社した大屋久寿雄は「将来のはっきりしない時事よりは、大磐石かに見える共同の方へ行くのは、人情であり、当然すぎるほど当然だった。かくて、時事は、共同に拒まれたノコリモノだけの救済収容機関と化したわけでした」と書き残しています。

この本では、この同盟通信の大屋記者にかなりのページを割いています。著者も、この大屋久寿雄の遺稿を入手できたことから、「いつかぜひとも出版したい」と「あとがき」に書いております。

大屋久寿雄とはどういう人物なのか?

フランス文学者の高橋治男というが方が1989年に、パリでフランスのプロレタリア作家アンリ・プーライユ(1896~1980)の書簡を調べていたところ、「オオヤ・クスオ」という日本人の書いた15通の書簡を発見し、1930年代の日本人が書いたものにしてはなかなかよく出来ていたことから、興味を持ち、2008年に「プーライユと文通した日本人ー大屋久寿雄」というブックレットを出版しています。

それによると、大屋久寿雄は1909年7月5日、福岡県生まれ。13歳の頃に医者だった父が病死したため、母親は3人の子供を連れて上京。大屋は成城第二中学に入ります。この時の同級生が大岡昇平です。(ちなみに、同じ1909年生まれの作家に太宰治と松本清張らがいます)。早熟な左翼の文学青年で、小説、戯曲、短歌までつくります。(大屋は書いた小説を当時小説家だった犬養健が住む東中野の自宅にまで見せにいったようです。のちに、大屋はハノイで軍属になっていた犬養と再会します。犬養健は、暗殺された犬養毅の子息で、ゾルゲ事件で連座。戦後法相)

高卒後、フランスのリヨン大学に留学し、パリでは作家の林芙美子の案内役を務めたりします。帰国後の33年に聯合通信にコネ入社します。(大赤字だった聯合は、36年に、反対する電報通信社を吸収合併して同盟通信を設立します)38年6月、29歳で仏領インドシナのハノイ特派を命じられ、同年12月に、重慶を脱出して昆明からハノイに潜入した汪兆銘の居所を突きとめようと手に汗を握る取材合戦に巻き込まれます。

汪兆銘の滞在先は分かったものの、中国から派遣された刺客によって、汪兆銘の側近の曽仲鳴が暗殺されるなど混迷状態となり、結局、世界的スクープになる汪兆銘との会見記事をものにすることはできません。それどころか、影佐禎昭大佐(引退した自民党の谷垣さんの祖父)率いる梅機関などによる「和平工作」に協力し、汪兆銘がハノイから上海に脱出する手助けをしたり、汪兆銘の脱出先に関する虚報記事を書いたりして、軍部に協力したりするのです。

大屋は「仏印進駐記」「戦争巡歴」などの著作を残しています。(大屋の後任の香港兼ハノイ特派員は前田雄二で、彼は東京帝大仏文科の学生時代、後のゾルゲ事件で連座して処刑されたアバス通信(今のAFP)記者ブーケリッチの牛込の自宅で会話のレッスンを受けていたそうです!)

大屋は、戦争末期は、日本放送協会(今のNHK)に出向し、「玉音放送」の後、海外編成部長としてマイクの前に立ち、「敗れはしたが、これは一時的なものです」と発言したことから、報道された米国で大変な物議を醸したりしたそうです。

前述しました通り、大屋は戦後、時事通信に入り、48年にカリエスを発症し、51年に42歳の若さでこの世を去ります。

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この本の著者鳥居英晴さんは、このブログで以前ご紹介した「北多摩通信所の傍受者たち」(けやき出版)の著者でもあり、傍受・通信所関係にはかなりご興味あるようで、今のラジオプレス(RP)の前身に当たる「蔽之館(へいしかん)」のことに触れたり、「極秘扱い」で当時ほとんど存在が秘匿されていた同盟通信の川越分室(埼玉県)の場所を突き止めたりします。

同盟川越分室は、当時、川越商業学校があったところでした。日本の運命を決めたポツダム宣言、トルーマン大統領の原爆投下声明、ソ連の対日宣戦布告などをここで傍受して政府に伝えたといわれます。

【追記】この本を読了するのに3週間半、この拙文を書くのに3時間半かかりました。

「加藤廣さんお別れの会」

昨日23日(月)は、ついに日本新記録が樹立されましたね。埼玉県熊谷市で気温41.1度と、従来の記録を5年ぶりに更新しました。

そんな、もう脳みそが溶けちゃいそうな猛暑の最中、夏用ながらしっかり上下のスーツを着てネクタイを締めた集団が、東京・日比谷の帝国ホテルに参集しました。

今年4月に87歳で亡くなった、ベストセラー小説「信長の棺」(日本経済新聞出版)などで知られる作家加藤廣さんの「お別れの会」が行われたのです。小生も末席を汚しました。

主催者発表で70人の方が列席しました。

私は少し遅れて参加しましたが、加藤さんの交友の広さから次々と友人知人後輩や編集者らがスピーチして、参加した人同士と歓談する暇もなく、せっかく用意された帝国ホテルの高級料理や飲み物を飲食する暇がほとんどなく、少し勿体ない気がしました。

加藤廣さんは、私も参加していた「おつな寿司セミナー」(2014年9月13日解散)の仲間でした。

加藤さんが2005年、75歳の高齢で歴史小説家として鮮烈なデビューをできたのは、勿論、彼の文才によるところではありますが、「おつな」抜きでは実現できなかったことでしょう。まず、おつなの主宰者だったGさんが、メンバーだった日経文芸記者のUさんに取り次ぎ、Uさんは、元講談社の豪腕編集者K氏を加藤さんに紹介し、段ボール箱にぎっしり詰まった1000枚の原稿を少し縮めて、タイトルも変えて、デビュー作が生まれたのでした。

幸運だったのは、当時首相だった小泉純一郎氏が、「信長の棺」を絶賛しているという記事が朝日新聞に掲載され、これで一気に火が付いて、増刷が続きました。

「おつな」では25年以上のお付き合いでしたから、何十回もお会いしてましたが、「大作家」になられてからは、改めて私も何度か、インタビューをさせて頂きました。「信長の棺」から「秀吉の枷」「明智左馬助の恋」に至る「本能寺三部作」、週刊新潮に連載された時から読んでいた「謎手本忠臣蔵」といった歴史小説のほか、「信長軍団に学ぶ処世の法則」や「黄金の日本史」などの実用書まで次々と著作を発表し、ご高齢ながらそのバイタリティーはどこからやってくるのか、不思議なほどでした。

加藤さんは、新聞連載にしろ、週刊誌連載にしろ、連載前からほぼ完成していて締め切りの何日も前から原稿を渡していたそうです。とても、律儀な人でした。そして、自分にはとても厳しい苦労人でした。

おこぼれにも預かりました。東京・銀座の高級おでん「やす幸」や京都の先斗町の高級クラブ(名前は失念。京大の著名教授が出入りしていた会員制)などでご馳走になったりしました。

加藤さんはデビューして13年、気力を振り絞って駆け抜けました。以前は月に一度ぐらいお会いしていたので、何か、また、ふと再会するような錯覚に陥りましたが、遺影を見て、もうお会いできないと分かり、本当に寂しくなりました。

加藤さんは、少年時代からの夢だった小説家を75歳で実現したわけですが、後輩には素晴らしいお手本と生き様(という言葉は、あまり好きではありませんが)を見せてくれたと思っています。

加藤廣さんのご冥福をお祈り申し上げます。

「在満少国民望郷紀行」、年内にも出版か?

自称「老麒伏歷」の松岡宿老閣下、最近、都心の豪邸に引き篭もって、何かただならぬ野望に駆られて、何事かなさんと勤しんでおられたようですが、いつのまにか、「在満少国民望郷紀行」なる書籍の執筆、編集、校正に励んでおられていて、目下、「一次稿」を作成中であることが、渓流斎日乗の調べで明らかになりました。

 判型をA5判横(「松岡二十世とその時代」の大きさ)にするか、B5判横(週刊誌大)にするか、散々迷われたそうですが、結局、B5判(週刊誌大)にすることにしたそうです。

何次稿まで、編集校正されるのかは分かりませんが、恐らく、年内には完成して出版されることでしょう。

  旧満洲(現中国東北部)の「今と昔」を対比した解説本です。現中国政府は、ヤマトホテルにしろ、関東軍司令部にしろ、昔の建物を破壊せずにそのまま二次利用しているので、今旅行しても比較できます。

添付して頂いた本の校正写真を見る限り、かなり“イケてる”感じがしますね。

歴史的資料価値が高いものになるはずで、全国の小中高大学の図書館、自治体の図書館、中国の図書館にも納入してもらってもいいのではないでしょうか。

勿論、一般書として本屋さんに山積みされれば尚良し。

 松岡宿老は「普通の“本”と違って、“文章校正”だけでなく、写真の大きさや入れ場所(場合によっては取替)、“写真の注記”など、傘寿越えの『漲る力』でやることが一杯ありそうです」と張り切っておられます。

この「漲る力」は、落ちぶれた有力新聞社広告局が、藁をもすがるサプリメントの広告文句かと思ったら、在満少国民の間て歌われた歌詞に出てくるそうです。

銀座で生まれた通信社

鳥居英晴著「国策通信社『同盟』の興亡」(花伝社・2014年7月31日初版)を読み始めました。滅法面白いのでやめられません。

著者の鳥居英晴さんは、あの「日本陸軍の通信諜報戦 北多摩通信所」を書いた人でした。元共同通信記者。このリーフレットのような薄い本を私は2257円(送料・手数料込み)で買ったことを先日のブログに書きましたが、こちらの同盟通信社の本は広辞苑のような分厚い本で800ページ以上もあります。定価は5000円プラス税ですが、ネットでは1万9524円で新本が売られていました。

鳥居氏は、この本を書くために生まれてきたのですね。こちらも、大変読み応えがあります。自分自身、今まで知らなかったことがたくさん書かれていて、色々教えられます。

しょっぱなから、「通信社は銀座で生まれた」とあります。(13ページ)

銀座なら私の庭みたいなもんですから(笑)、猛暑の中、汗を拭き拭き、この本に出てきた通信社や新聞社跡を辿って歩いてみました。ただし、全く、面影も何もなし。記念碑や看板もないので、ここに新聞社や通信社があったことさえ分かりませんでした。

御存知、銀座の象徴とも言うべき4丁目の和光。服部時計店。ここに、銀座に初めて進出した新聞「日新真事誌」の社屋がありました。1873年(明治6年)7月のこと。経営者は、英国人ジョン・レディ・ブラック。彼は1863年(幕末じゃないですか)に来日し、1867年10月(まだ幕末)に横浜で、英字紙ジャパン・ガゼットを創刊しています。

銀座5丁目、銀座中央通りにある「イグジット・メルサ」。以前は「ニューメルサ」と言ってましたが、最近名前を変えたようです。今は中国系企業に買収されたラオックスなどが入り、ほとんど中国人観光客の溜まり場になっています。

ここにあの東京日日新聞社(現毎日新聞)があったというのです!1877年(明治10年)のこと。後に主筆・社長を務めた福地桜痴(源一郎)はこの年に西南戦争を取材しています。福地は歌舞伎座を創設し、劇作するなど演劇界に名を残します。東京日日がここにあったとはねえ。

銀座1丁目1番地にある京橋三菱ビルディングで、今は三菱UFJ銀行などになってますが、ここに、東京日日新聞と同じ年の1877年(明治10年)、読売新聞社の社屋が建っていたというのです。

銀座の端っこ、道を渡ると京橋です。

読売新聞は、今のマロニエ通りにあるビルと、旧プランタン銀座にあったと聞いてましたが、最初はここだったんですか。尾崎紅葉の「金色夜叉」が連載されていた頃の明治期の読売はここにあったんでしょうか。

朝日新聞は1888年(明治21年)、京橋区滝山町4番地(現銀座6丁目の並木通り)に大阪から進出します。

星亨が、自身が発行した自由党系の「めさまし新聞」を大阪朝日の村山龍平に譲渡して、それが「東京朝日新聞」と改題されます。めさまし新聞の社屋が、同じ滝山町にあったのかどうかは不明です。

今はこのように高級ブランドショップと外資系高級ホテルになって、新聞社もすっかり不動産業となっております。写真の中の手前には当時ここで校正係として働いていた石川啄木の石碑が建っているので、ここに朝日新聞があったことが分かります。

文芸欄を創設して小説記者となった夏目漱石もここに通っていました。斜め向かいに、漱石も好きだった「空也もなか」があります。

鳥居氏の本によると、日本最初の近代的通信社とされるのは「時事通信社」(今の時事通信とはまったくの無関係)で、1888年(明治21年)1月4日、京橋区木挽町5丁目4番地で生まれた、といいます。今の銀座6丁目13ということで探しましたが、苦労しました。恐らく、上写真の今の銀座ウォールビルだと思われます。

当時は、この辺りは、三十三間堀川が流れていて、今は埋められて道路になっていますから、昔の地図と見比べて歩いていたら、本当に難儀しました。

ここは、牧久さんの書いた「特務機関長 許斐氏利」にも出てきた、戦後直ぐに東京温泉のあった所だったと思います。どちらも、看板も石碑も何もないので、この本を読んでいなかったら、さっぱり分からなかったことでしょう。

時事通信社は、三井物産初代社長益田孝(鈍翁、茶人としても有名)が出資して社主となった会社で、政府の御用機関だったと言われます。益田は、社内報だった「中外商業新報」(後の日本経済新聞)も発行してますから、ジャーナリズムの世界にかなり食い込んでいたんですね。

銀座8丁目7-3の並木通り角に喫茶店「プロント」がありますが、ここはかつて、「新聞用達会社」があった所でした。同社は、改進党系の郵便報知新聞(後に報知新聞と改題)の社長矢野文雄が1890年(明治23年)1月10日に設立しました。当時の住所は、京橋区日吉町20番地。

この新聞用達会社と先ほどの益田孝の時事通信社が1892年(明治25年)5月9日に合併して「帝国通信社」となるのです。やはり、改進党系ですが、当時は、「国際通信社」と並ぶ二大通信社でした。

この「プロント」の斜め向かい側の銀座8丁目にある、今バー「ブリック」がある辺りに、国民新聞社があったというのです。

国民新聞は、1888年(明治21年)に民友社を起こした徳富蘇峰が1890年(明治23年)に創刊。蘇峰も改進党に近い立場だったようです。

銀座6丁目の交詢社。福沢諭吉の提唱でつくられた日本最初の実業家社交クラブ。ここに福沢が創刊した時事新報社がありました。

時事新報、国民新聞、報知新聞は、戦前を代表する新聞でしたが、戦後、いずれも廃刊します。

交詢社通りを有楽町駅に向かった隣の隣のビルは、今、ヴェルサーチェなどが入居していますが、ここには、光永星郎が起こした日本電報通信社(後の電通)が1906年(明治39年)に本社を構えた所でした。

このビルの並木通りを渡った真向かいにホーン商会ビルがあったと言われます。このホーン商会ビルには、米AP通信社と英ロイター通信社などが入居していました。後に同盟通信社を設立する一人、古野伊之助は、新聞広告を見て、AP通信社の給仕としてジャーナリストとしての第一歩をここで踏み出すことになります。

何か、非常に感慨深いものがありますねえ。