松岡將写真・文「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 参百景ー美の殿堂へのいざない」(同時代社)

 「有言実行の人」です。

 まさかこんなに早く企画が実現するとは思ってもみませんでした。

 私のブログが本になりました。いや、間違いました。言葉足らずでした。屡々、私のブログに掲載させて頂いている写真(WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua)が本になりました、というのが正確です。

 7月7日に同時代社から刊行される「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 参百景ー美の殿堂へのいざない」(4800円+税)という美術書のことです。

 写真と文は、近現代史・満洲研究家の松岡將氏です。1970年代初頭といいますから、もう今から半世紀近い昔。30歳代後半の農水省のエリート官僚だった松岡氏は在ワシントン日本国大使館勤務を命じられました。丸4年間の滞米生活を送った折、まさに公私ともに通い詰めた所がワシントン・ナショナル・ギャラリーでした。自宅から車でわずか20分という近距離だったこともあり、週末のプライベートの時だけでなく、日米農産物貿易交渉に関わる日本の国会議員や政府関係者、米国の上下両院議員、米農務省高官らとの接遇場所や空いた時間に案内するなど訪問回数は、幾何学級数的(多いという意味です)。ついでに撮った写真も何百枚、何千枚だったようです。詳しくは分かりませんが、そのカメラ装備も、ライカのようなプロ仕様だったと思われます。欧米の美術館のほとんどでは写真撮影は問題はないのですが、フラッシュ撮影は禁止でしょう。恐らくプロカメラマンのように照明まで配備できなかったかもしれませんが、驚くほど画像が鮮明で、画素数もかなり高感度です。

 実は、この有り余るほどのギャラリーの写真を松岡氏は最初、持て余していたようです。彼は、有難いことに、このブログの愛読者でして、私が適当に選んだ写真とブログの記事とのあまりにもの乖離(つまり合っていないこと)を嘆かわしく思われたらしく、ある日、「この写真をブログに御自由に使ってください」と、小生に添付メールで送ってくださったのです。

 そのうち、「ギャラリーの写真をまとめた本をいつか出したい」という話を伺ったのが、1年半ほど前でしたか。それが、「ある出版社に企画を持ちかけています」と聞いたのが、昨年の今ごろ。「著作権は大丈夫かなあ」と心配しつつ、その後、コロナ禍もあり、「企画の実現は随分先のこと」とこちらで勝手に思っていたところ、予告もなく、この本が「贈呈」として送られてきたのです。もう吃驚です。

 表紙の写真は、レオナルド・ダビンチ作「ジネヴラ・デ・ベンチの肖像」(1474~78)です。ダビンチの作品が欧州の美術館以外で所蔵されているのは、ここしかないそうです。この名作は、ワシントン・ナショナル・ギャラリーの創設者アンドリュー・メロンの長女エルサ・メロン・ブルースAilsa Mellon Bruce (1901~1969)が1967年に購入したといいます。長い美術史から見れば、つい最近のことではありませんか。

 ワシントン・ナショナル・ギャラリーは、世界の有名美術館の中でもごく新しい美術館で、実業家・銀行家で米財務長官などを歴任したアンドリュー・メロン(カーネギー・メロン大学に名を遺す)が1931年に個人でエルミタージュ美術館などから取得した収集品を米国民に寄贈する形で、当時のルーズベルト大統領と米議会の同意で1937年にワシントンDCの地で着工し、1941年に開館した美術館だったのです。近現代史、昭和史のど真ん中じゃありませんか。

 松岡氏はさすが近現代史研究家ですから、「あとがき」の中で、1931(昭和6)年は満洲事変が勃発した年、1937(昭和12)年は支那事変(日中戦争)が開始した年、ギャラリー開館2カ月前の1941(昭和16)年1月は、陸相東条英機大将が「生キテ虜囚ノ辱メヲ受クルナカレ」とする「戦陣訓」を全軍に示達した、などと書いておられます。

 そして、「ナショナル・ギャラリーは全長238メートル、戦艦大和は全長256メートルで、大きさはほぼ同じだった」などと過去の御自身の著作からも引用しています。日本が軍国主義に邁進している時に、米国は着々と文化を育成していたのです。

 本書では、肝心の美術作品については13世紀末の宗教画辺りから、ルネサンスを経て、近世、近代の写実主義、印象派辺りまで網羅しています。ダビンチ、ラファエロ、レンブラント、モネ、ゴッホら巨匠の名前は、表紙写真の帯に出ている通りです。

オランダの聖ルチア伝説のマスター「天上の聖母マリア」(1485/1500年)WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 私はかなりの面倒臭がり屋ですから、松岡氏からお借りした写真をブログに掲載する際、わざと(笑)キャプションを掲載しませんでしたが、この本ではしっかりと、作品名、年代、作者まで明記されていますので、長年、渓流斎ブログを見て「この写真の作品は何だっけ?」と悩んでおられた方々は、一気に解消されます。(松岡氏は、特別に思い入れのある作品については、個人的なコメントを添えています。例えば、上の写真の「天上の聖母マリア」については「ワシントン駐在となる数年前に母を失ったばかりの私の心を、仏画にも似て癒してくれるものだった」などと…)

 かつては王侯貴族ぐらいしかこのような美術作品に触れることができなかった時代と比べれば現代人は本当に恵まれています。しかも、ワシントン・ナショナル・ギャラリーは、米国民のために設立された美術館なのに、「文化は人類共通の財産」として、異邦人(しかも設立当時は敵性国人!)にも自由に開放しているところが本当に素晴らしい。松岡氏もあとがきで、「(写真を)このまま自分一人のものとしておくのは、いかにも勿体ない。出来れば何とかこれを多くの人々と共有することができないか、と思うようになった」ことが、出版の動機だったことを明かしています。

 この「世界初」の書評(?)を読まれて御興味を持たれた方は、是非手に取って御覧になって頂ければ私も嬉しいです。

鎌倉のジタン館で「加藤力之輔展 時の足跡」

Daisuke Kato et Angela Cuadra ミクストメディア

 かけた情けは水に流せ

 受けた恩は石に刻め

 2年前のスペイン旅行で、ピカソの「ゲルニカ」を見る際に奥方様に大変お世話になり、昨年は京都での「送り火」で再会した加藤力之輔画伯が鎌倉で個展を開催されているということで、ちょっと足を延ばしてきました。

昨年は、加藤画伯の御子息Daisuke氏と御令室のAngelaさん、それに可愛い盛りの腕白のお孫さんたちにもお会いしましたが、二代にわたる芸術一家でDaisuke氏とAngelaさんの作品も展示されていました。

新型コロナで甚大な被害を受けたスペイン・マドリード在住の加藤画伯の奥方と御子息夫妻、お孫さんたちは、どうにか息災で元気にしているということで、少し安心しました。

東京では2日、ついにコロナ感染者が100人を越えました。

そこで、観光地鎌倉の人混みを避けて、平日に有休を取って伺ったのですが、交際範囲が広い加藤画伯のことですから、結構、訪れる方がいらっしゃいました。

ジタン館は、画廊のオーナーの御尊父が、自宅を改造して画廊に仕立てたようですが、戦前は若い無名画家のパトロンでもあり、仲が良かった藤田嗣治の若い頃の全く見たことがない後年の画風とは全然違う作品も所蔵されておりました。それを内緒で見せてもらいました(笑)。

この画廊は、鈴木清順監督なら涎を垂らしてでもロケに使いたいような雰囲気があります。私も何年かぶりに訪れたのですが、方向音痴で地図を読めない男ですから、ちょっと迷ってしまいました(笑)。

加藤力之輔展は、7月6日(月)まで開催中です。

そう言えば、帰り際、小生が「これから鎌倉近辺の寺社仏閣巡りをするつもりです」と話したところ、加藤画伯は「2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公北条義時が建てた覚園寺(かくおんじ)に行かれると良いですよ。あそこはまだあまりよく知られていませんが、素晴らしいお寺ですよ。鎌倉駅からバスが出てます」などと色々と教えてくれました。

 加藤画伯は地元鎌倉出身なので色々と詳しいのです。生憎、この日は別の寺社仏閣に行く予定をしていたので今回は覚園寺には行きませんでした。でも、再来年にブームになる前に一度訪れたいなあ、と思ってます。

英語は普遍的、中国語は宇宙的、日本語は言霊的

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 昨晩は、中部北陸地方にお住まいのT氏と久しぶりに長電話しました。T氏は、学生時代の畏友ですが、十数年か、数十年か、音信不通になった時期があり、小生があらゆる手段を講じて捜索して数年前にやっとメールでの交際が再開した人です。

 彼は、突然、一方的に電話番号もアドレスも変えてしまったので、連絡の取りようがありませんでした。そのような仕打ちに対しての失望感と、自分が悪事を働いたのではないかという加害妄想と自己嫌悪と人間不信などについて、今日は書くつもりはありません。今日は、「空白期間」に彼がどんな生活を送って何を考えていたのか、長電話でほんの少し垣間見ることができたことを綴ってみたいと思います。

 T氏は、数年前まで、何年間か、恐らく10年近く、中国大陸に渡って、大学の日本語講師(教授待遇)をやっていたようです。日本で知り合った中国人の教授からスカウトされたといいます。彼は、私と同じ大学でフランス語を勉強していて、中国語はズブの素人でしたが、私生活で色々とあり、心機一転、ゼロからのやり直しのスタートということで決意したそうです。

 彼の中国語は、今でこそ中国人から「貴方は中国人かと思っていた」と言われるほど、完璧にマスターしましたが、最初は全くチンプンカンプンで、意味が分かってもさっぱり真意がつかめなかったといいます。それが、中国に渡って1年ぐらいして、街の商店街を一人で歩いていると、店の人から、日本語に直訳すると「おまえは何が欲しいんだ」と声を掛けられたそうです。その時、彼は「サービス業に従事する人間が客に対して、何という物の言い方をするんだ」とムッとしたそうです。「日本なら、いらっしゃいませ、が普通だろう」。

 しかし、中国語という言語そのものがそういう特質を持っていることに、後で、ハッと気が付き、それがきっかけで中国語の表現や語用が霧が晴れるようにすっかり分かったというのです。もちろん、中国語にも「いらっしゃいませ」に相当する表現法はありますが、客に対して「お前さんには何が必要だ」などと店員が普通に言うのは、日本では考えられません。しかし、そういう表現の仕方は、中国ではぶっきらぼうでも尊大でもなく、普通の言い回しで、「お前は何が欲しいんだ」という中国語が、日本語の「いらっしゃいませ」と同じ意味だということに彼は気づいたわけです。

 考えてみれば、日本語ほど、上下関係に厳しく、丁寧語、敬語などは外国人には習得が最も困難でしょう。しかも、ストレートな表現が少なく、言外の象徴的なニュアンスが含まれたりします。外国人には「惻隠の情」とか「情状酌量」とか「忖度」などという言葉はさっぱり分からないでしょう。

 例えば、彼は先生ですが、学生から「先生の授業には実に感心した」といった文面を送って来る者がいたそうです。それに対して、彼は「日本語では、先生に対して、『感心した』という表現は使わないし、使ってはいけない」と丁寧に説明するそうです。また、食事の席で、学生から、直訳すると「先生、この食事はうまいだろ」などとストレートに聞いてくるそうです。日本なら、先生に対して、そんな即物的なものの言い方はしない、せめて「いかがですか?」と遠回しに表現する、と彼は言います。

 そこで、彼が悟ったのは、中国語とはコスミック、つまり「宇宙的な言語」だということでした。これには多少説明がいりますが、とにかく、人間を超えた、寛容性すら超えた言語、何でも飲み込んでしまう蟒蛇(うわばみ)のような言語なのだ、という程度でご理解して頂き、次に進みます。

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 一方、英語にしろフランス語やドイツ語にしろ、欧米の言語はユニバーサル(普遍)だと彼は言います。英語は記号に過ぎないというのです。もっと言えば、方便に過ぎないのです。これに対して、日本語は「言霊」であり、言語に生命が込められているといいます。軽く説明しましょう。

 福沢諭吉が幕末に文久遣欧使節の一員として英国の議会を視察した時、昼間は取っ組み合いの喧嘩をしかねいほどの勢いで議論をしていた議員たちが、夜になって使節団との懇親会に参加すると、昼間の敵同士が、まるで旧友のように心の底から和気藹々となって会話を楽しんでいる様子を見て衝撃を受けたことが、「福翁自伝」に書かれています。

 それで、T氏が悟ったのが、英語は記号に過ぎないということでした。英語圏ではディベートが盛んですが、とにかく、相手を言い負かすことが言語の本質となります。となると、ディベートでは、AとBの相手が代わってもいいのです。英語という言語が方便に過ぎないのなら、いつでも I love you.などと軽く、簡単に言えるのです。日本語では、そういつも簡単に「愛しています」などと軽く言えませんよね。日本語ではそれを言ってしまったら、命をかけてでもあなたを守り、財産の全てを引き渡す覚悟でもなければ言えないわけです(笑)。

 欧州語が「記号」に過ぎず、相手を言い負かす言語なのは何故かというと、T氏の考えでは、古代ギリシャに遡り、ギリシャでは土地が少なかったので、土地に関する訴訟が異様に多かったからだそうです。そのお蔭で、訴訟相手に勝つために色んなレトリックなども使って、表現法や語用が発達したため、そのようになったのではないか、というのです。

 なるほど、一理ありますね。フランスには「明晰ではないものはフランス語ではない」という有名な格言があります。つまり、相手に付け入るスキを与えてはいけない、ということになりますね。だから接続法半過去のような日本人には到底理解できない文法を生み出すのです。日本語のような曖昧性がないのです。言語が相手をやり込める手段だとしたら。

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 一方、日本語で曖昧な、遠回しな表現が多いということは、もし、直接的な言辞を使うと、「それを言っちゃあ、おしめえよ」と寅さんのようになってしまうことになるからです。

 ところで、幕末には、尊王攘夷派と開国派と分かれて、激しい殺し合いがありました。その中でも、西洋の文化を逸早く学んだ開明的な洋学者だった佐久間象山や大村益次郎らは次々と暗殺されます。洋学者の直接的な言葉が攘夷派を刺激したのでしょう。適塾などで学び欧米文明を吸収していた福沢諭吉も、自分の生命が狙われていることを察知して、騒動が収まるまで地元の中津藩に密かに隠れ住んだりします。

 それだけ、日本語は、実存的で、肉体的な言語で、魂が込められており、「武士に二言はなし」ではありませんが、それだけ言葉には命を懸けた重みがあるというわけです。そのため、中国語や欧米語のように軽く言えない言葉が日本語には実に多い、とT氏は言うのです。

 繰り返しますと、英語は、何でも軽く言える記号のような言語で普遍的、中国語は、寛容性を超えあらゆるものを飲み込む宇宙的、そして、日本語は命を張った言語で言霊的、ということになります。その流れで、現在の言語学は、文法論より、語用論の方が盛んなんだそうです。

 以上、T氏の説ですが、それを聞いて私も非常に感銘し、昨晩は久しぶりに味わった知的興奮であまり眠れませんでした。

文学とは実学である

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua 

新型コロナウイルス感染拡大の経済対策として、日本の国家政府は、国民1人に10万円と1世帯にマスク2枚を支給してくれるそうです。まだ届いてませんが、有難いことです。

 でも、素直に喜んでいいものやら。マスク2枚で466億円、国民1人10万円で12兆6000億円もかかるそうです。誰が立て替えてくれるのかと思ったら、新聞には「国費」と書いてましたから、結局、税金なんですね。まさか、大黒様の打ち出の小槌で、パッと現金が魔法のように現れてくれるものでもなし。

 何か、お腹の空いたタコが自分の脚を食べて、どうにか生き延びようとしているように見えます。

 うまい! これが文学です。何か、言葉に表せないモヤモヤしている感情を何とか、文字化するのが文学だとしたら、ここ数十年、厄介ものにされている大学の文学部とやらも、こういった緊急事態に何かと役に立つというものです。

 というのも、昨晩聴いたラジオで、作家の高橋源一郎さんが、現代詩作家の荒川洋治の随筆を朗読し、その中で、「文学とは実学だ。文学は、法律や医学や経済学と同じように、実社会に役立つものだ」といった趣旨のことを、孫引きの曾孫引きではありますが、強調していたからでした。(「ながら」でラジオを聴いていたので、荒川氏の本のタイトルを失念。荒川氏は何と、芸術院会員だったんですね!どうも失礼致しました)

 確かに、ここ数年、私自身も、文学の中でも小説やフィクションは、別に読まなくても良い、世の中に直接役立たないものだという思考に偏っておりました。そのため、ここ数年は、ノンフィクションか歴史書か経済書関係の本ばかり読んで来ました。

 しかし、疫病が世界中に蔓延し、アルベール・カミュの「ペスト」などの小説(結局、カミュが創作したフィクションですよ!)が改めて注目されている昨今を冷静に見つめてみると、文学の効用を見直したくなります。

Camus “La Peste”

 今、世界中で感染拡大を防止するために、経済封鎖するか、人の生命を優先するか、の究極的な二者択一を迫られています。変な言い方ですが、今、緊急事態の世の中で、実学として役に立っているのは経済学と医学ということになります。

 とはいえ、医学も経済学も万能ではありません。医学には医療過誤や副作用や、今騒がれている医療崩壊もあります。経済学も、ソ連型計画経済は歴史的にみても失敗に終わり、資本主義は、1%の富裕層に富が集中するシステム化に陥っています。

 その点、文学の弊害や副作用は、それほど劇薬ではないので、大したものではない一方、個人の生き方を変えたり、見直したりする力があります。下世話な言い方をすれば、小説を読んでもお金にはなりませんが、ヒトとしての生きる素養と指針を学ぶことができる、ということではないでしょうか。ボディーブローのようにジワジワと効いて、読んだ人の血や肉になるということです。

 昨晩はそんなことを考えていました。

ウクレレ・トリオ「まかまか」と加藤力之輔画伯の個展

WST Nationak Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua 

 外出自粛で、皆さんもストレスが溜まっていることと、拝察致します。ということで、本日は、趣向を変えまして、このブログなどで大変お世話になっている先輩・芸術家の皆様の「作品」をアップすることにしました。

 まずは、満洲関連でお世話になっている宮さんが参加しているウクレレ・トリオ「まかまか」。その演奏セッションを音声ファイルで送ってくださいました。

 小生、ズブのIT音痴であるため、ブログに画像と動画を貼っつけることは、どうにかこうにかできるようになりましたが、「音声」となると初めてです。(そうでないかもしれませんが=笑)

 さんざん苦労して一日がかりで、やっとアップできたようですので、皆さまもお聴きください。

「まかまか」の「ホテルカリフォルニア」

 ウクレレ・トリオ「まかまか」は、がまちゃん(リーダー 編曲)と、かずえさんのリードにバックコード演奏の宮さんの3人。極秘情報ですが、平均年齢は後期高齢者年齢をはるかに超えていると噂されています。
 お聴きになればお分かり通りの、曲はイーグルスの 「ホテルカリフォルニア」。「なかなかやるじゃん」と私は、称賛の返信を送っておきました。

 宮さんは、PDFでこの編曲の楽譜も送ってくださいましたが、残念ながら、何度挑戦してもうまくアップできず。画像でも音声でもないPDFは、どうブログに貼っつけたらいいのか…うまくいきませんでした。宮さん、悪しからず。

 もう一人は、京都の泉涌寺にお住まいの加藤力之輔画伯です。一昨年のスペイン旅行の際には画伯の奥方様には、ピカソの「ゲルニカ」を鑑賞する時など、お世話になりました。スペインでは予想外にも感染者と死者が拡大して大変心配していたのですが、奥方様も、昨夏お会いした画伯と同業者である御子息とスペイン人の奥さんとお子さんたちもお元気なようで安心しました。

 加藤画伯は、最近、京都市の同時代ギャラリーで個展を開催されたということで、その「展示風景」を送ってくださいました。

YouTubeのブログへのアップの仕方は、最近覚えたので、今回も大丈夫のようです(と、思われます)。

 音楽コンサートや歌舞伎を始めとした演劇公演もほとんど全てが中止に追い込まれ、芸術家の皆様も厳しい生活に追い込まれていると思います。

 アーティストだけでなく、何ともお困りなのは、裏方さんと言われる大道具、小道具、音声、照明さんらのスタッフだと思います。

 政府の対応の遅さには、虚脱感を味わいますが、何とかこの難局を乗り切ってもらいたいものです。明けない夜はない、ということで。

【追記】

 ウクレレ・トリオ「まかまか」の「ホテルカリフォルニア」の楽譜がPDFなので、ブログに貼れない、と書いたところ、宮さんが、わざわざPDFをJPGファイルに変換して送ってくださいました。これなら画像と同じですので、ブログにアップできました。

1970年の「レット・イット・ビー」から半世紀も経つとは…

 YouTubeで「うちで踊ろう」を公開したミュージシャン星野源のサイトに、日本の最高指導者の安倍晋三首相がコラボ投稿して、自宅自粛要請を呼び掛けたことに対して、喧々諤々の論争になっています。

 安倍首相は自宅の居間で、愛犬とじゃれたり、珈琲を飲んだりしてくつろいでいるブルジョワ生活をあからさまにしてしまったせいか、派遣切りに遭った人とか、店舗休業を余儀なくされたりした人たちから、「何を呑気なことやってるんだ。そんな暇があったら、休業補償の問題を即刻解決してもらいたい」といった切実な投稿のほか、「国会議員ら特権階級は減給されることなく満額振り込まれるから羨ましい」といった皮肉な意見が殺到したようです。

 安倍さんに期待し過ぎるからいけないんですね。モリカケ問題をあやふやにし、財務省の現場職員が自殺してもまるで他人事。公金の私的流用の疑いが濃厚な「桜を見る会」を結局、なかったことにした安倍さんですからね。最初から、そういう人だと肝に銘じていれば、「裏切られた」なんて思わないはずです。

 それより、この星野源のサイトを、先週8日に逸早く教えてくれたのが、高校時代のバンド仲間の神林君でした。そんな政治的な話ではなく、全く音楽的な話で、曲のコードが普通のメジャー、マイナーではないので、「あの変なコードをコピーできるかい?」と投げかけてきたのでした。我々が、バンドをやっていた初期の頃、ロックの楽譜などほとんど発売されていなかったので、レコードが擦り切れるほど何回も何百回も聴いて、音を取ったものでした。その点、彼には「絶対音階」があるので、仲間が驚愕するほど簡単にコピーしてしまうのでした。

 ということで、早速聴いてみたら、その「うちで踊ろう」は、ボサノヴァ風と言えばボサノヴァ風で、バリバリにブルーノートとかマイナーペンタトニックのようなジャズコードをふんだんに使っていました。記号で書けば、例えば、CとかCmとかではなく、C7(♭9,13)といった複雑なコードです(笑)。

 ギター片手にそんなことをしていたら、久しぶりに自分の音楽遍歴を思い出してしまいました。全く個人的などうしようもない話ですから、ご興味のない方は、ここで左様なら(笑)。

◇◇◇

 ざっくり言いますと、子どもの頃は歌謡曲や演歌なども聴いてましたが、10代の多感な時代に入ると俄然、ロックです。それが20代まで続きます。ビートルズ(解散後のソロも含めて)、ローリングストーンズ、レッド・ツェッペリン、クイーン、エリック・クラプトンなどはほぼ全てのアルバムを買い揃えました。

 30代に入ると、一変してクラシック音楽オンリーです。特に、モーツァルトのCD全集を40万円ぐらいかけて買い揃えたほか、グレン・グールドにはまってからバッハ、ベートーベン、ブラームス(交響曲第1番は10種類近く)を中心に聴き、ショパンもルビンシュタインによる全集、ポリーニ、ホロヴィッツ、ポゴレリッチ、キーシン、ブーニンらの演奏に耳を傾けました。ドビュッシーは卒論のテーマだったので、改めて、偏屈なミケランジェリのピアノに惚れ、歌劇「ペリアスとメリザンド」まで買い、そして何と言っても、のめり込んだのが20代の時に最も感激したワグナーです。フルトベングラーよりもクレンペラーが好きでしたね。当時ブームだったマーラーもチャイコフスキーもスメタナも堪能し、バルトーク、ストランビンスキー、シェーンベルク辺りまではカバーしました。現代音楽はグバイドーリア、アルボ・ペルトらも聴きましたが、苦手でしたね。武満徹は例外ですが。

 40代になると、今度はジャズです。若い頃は「爺の音楽」として敬遠していましたが、もしかしたら、今は、ロックやクラシックよりも一番リラックスできて好きかもしれません。グレン・ミラーやベニー・グッドマンなんかは既に聴いてましたが、ジャズにはまったきっかけは、ビル・エヴァンスでした。彼のアルバムをほとんど買い占めて、セロニアス・モンク、バド・パウエル、ウィントン・ケリー、トミー・フラナガン、オスカー・ピーターソン、ジョージ・シアリングなどピアノばかし聴いてました。ラッパは、チャーリー・パーカー、ジョン・コルトレーン、マイルス・デイビス、アート・ペッパーら王道ばかりでしたが、オーネット・コールマンと晩年のマイルスあたりの前衛的になるとついていけなくなりました。

 ウエス・モンゴメリーにはまってからは、ジャズは好んでギターばかりです。ハーブ・エリス、バーニー・ケッセル、ケニー・バレル、タル・ファローらがお気に入りで今でも聴いてます。ヴォーカルは、ヘレン・メリルを端緒に、やはり、ビリー・ホリデイ、ナット・キング・コール、エラ・フィッツジェラルドの正統派でしょうが、以前にブログで書いた通り、ジュリー・ロンドンはしびれますね(笑)。

 50代になると、主にボサノヴァが中心で、シャンソンやカンツォーネもよく聴くようになりました。ボサノヴァのアントニオ・カルロス・ジョビンはレノン・マッカートニーに引けを取らない20世紀が生んだ世界最高の作曲家だと思ってます。シャンソンは、何と言ってもセルジュ・ゲンズブールです。エディット・ピアフもシャルル・トロネもいいですが、フランソワーズ・アルディ、シルビー・バルタン、イブ・モンタンというミーハー志向。カンツォーネはジリオラ・チンクエッティと極めてオーソドックスなポップスですが好んで聴きました。

◇「14歳の法則」を発見

 今は、昔のCDを引っ張り出して色んなジャンルの曲を聴いています。正直、今流行のラップにはついていけません。分かったことは、人間は、14歳の時に聴いた音楽がその後の人生を決定づけることでした。大袈裟な言い方ですが、人生で最も多感な14歳前後に聴いた音楽が、その人の「懐メロ」になるということです。14歳と言えば中学生ですから、お小遣いも少なく、そんなにレコードなんて買えません。私の場合は、「ミュージック・ライフ」などの音楽雑誌を買って、レコードのジャケット写真を何度も何度も穴があくほど眺めて「欲しいなあ、お金があったらなあ」と思っていました。それが、長じて金銭的に余裕ができると、その反動で、昔買えなかったCDレコードを次々と買い集めることになってしまったのです。

 個人的ながら、私の場合は、写真でアップした通り、S&G「明日に架ける橋」、サンタナ「天の守護神」、CSN&N「デジャ・ヴ」、CCR「コスモズ・ファクトリー」、EL&P「展覧会の絵」、フェイセズ「馬の耳に念仏」、ジャニス・ジョプリン「パール」などです。いずれも1970年か71年に発売されたものだったことが後になって分かり、この「14歳の法則」を新発見したのです(大袈裟ですが、商標登録申請中=冗談です)。記憶していた耳が自然と当時流行った音楽を求めたのでしょう。嗚呼、当時聴いていたシカゴ、BS&T、チェイス、クリスティー、カーリー・サイモン、ジェームズ・テーラー、カーペンターズなんかも本当に懐かしい。

 1970年は、4月にビートルズか解散し、最後のLP「レット・イット・ビー」が発売され、映画も公開された年でした。私は、朝早くから夜遅くまで、3本も4本も、この同じ映画「レット・イット・ビー」を新宿の武蔵野館で何回も見続けたものでした。当時は、入れ替え制ではありませんでしたからね。よく飽きなかったものです(笑)。

 あれから半世紀もの年月が過ぎてしまったとは、とても信じられません。振り返ると、邦楽はほとんど聴かず、洋楽ばかり聴いていたことになります。

 この私が発見した「14歳の法則」、きっと貴方にも当てはまると思いますよ!

日仏会館でデプレシャン監督作品「あの頃エッフェル塔の下で」を観る

日仏会館

 昨年12月に見事厳しい審査を経て(?)、東京・恵比寿にある日仏会館の会員になることができました。そこで開催されるフランスに関する色んな講演会やセミナーやイベントに参加できます(非会員の方もbienvenu)。1月に「ジャポニスム」に関するセミナーがありましたが、仕事が遅くなり、キャンセルせざるを得なくなりました。

 昨晩は会員として初めて参加しました。(そう言えば、2015年1月に日仏会館で開催された「21世紀の資本」のトマ・ピケティの講演を取材したものです。ということは5年ぶりでしたか…早い、早すぎる)

ヘアーサロン・ヤマギシ 月曜休みでした

 その前日に、京洛先生から電話があり、明日、日仏会館に行く予定だと話したところ、「恵比寿ですか…そうですか…懐かしいですね。中華のちょろりに行ったらいいじゃないですか」と仰るではありませんか。

 えっ?何ですか?ちょろり?

「中華屋さんですよ。あたしはよく行きましたよ。恵比寿ビアガーデンの近くでもあります。そこで、よく炒飯と餃子にビールを注文したものですよ」

 いい話を聞きました。京都の京洛如来様は、まだ東京で調布菩薩だった頃、職場が恵比寿にあったことから、恵比寿は自分の庭みたいなものでした。

 「恵比寿駅近くにヤマギシという床屋がありましてね。社長はあの大野で修行した人で、あたしはよく行ったものです。今でも東京に行った時に予約して行きますよ。貴方も行ってみたらどうですか?『京都の京洛から話を聞いて来ました』と言ったら、喜びますよ」

 あれ?それ、もしかしたら、恵比寿商店会から宣伝料のマージンでももらっているんじゃないですかねえ(笑)。

 でも、私も、当日の夕飯はどうしようかと思っていたので、良い店を紹介してもらいました。

 中華「ちょろり」は、日仏会館の目と鼻の先にありました。夕方5時頃入ったら、お客さんはまだ誰もいなく、しばらく一人でした。大衆中華料理屋さんというか、大きなテーブルが7個ぐらいあって、30~40人で満杯になる感じでした。(帰りの夜9時過ぎに店の前を通ったら、超満員でした。夜中の3時までやっているようです)

 京洛先生のお薦め通り、炒飯と餃子とビールを注文。炒飯は、何か、和風で、昔懐かしい味。餃子は野菜がいっぱい入ってました。

 さて、肝心の日仏会館の催しは、「映画と文学」の6回目でした。アルノー・デプレシャン監督作品「あの頃エッフェル塔の下で」(2015年、123分)が上映された後、目白大学の杉原先生による、特に、映画のフラッシュバック技法とマルセル・プルーストとの関係について解説がありました。

アルノー・デプレシャン監督作品「あの頃エッフェル塔の下で」 左は、 ポール役のカンタン・ドルメール、右は エステル役のリー・ロワ・ルコリネ

5年前に日本でも公開されたこの映画は見逃していましたが、なかなか良かったですね。よほどの映画通じゃなきゃデプレシャン監督作品は知らないでしょうが、私も初めて観ました。1960年生まれのデプレシャン監督の青春時代を色濃く反映した作品で、私もほぼ同世代なので、心に染み入りました。満点です。

 デプレシャン監督は、ベルギー国境に近いフランス北東部の田舎町ノール県ルーベ出身で、パリに上京して仏国立高等映画学院で学んだようです。映画の原題はTrois souvenirs de ma jeunesse で、直訳すると「我が青春の三つの物語」となります。主人公のポール・デダリュスは人類学者で外交官ですが、タジキスタンかどこかの旧東側国の税関で捕まり、スパイ容疑で取り調べられるところから物語は始まります。その時、主人公が青春時代の三つの物語をフラッシュバックで思い出すという展開です。

 後で聞いた杉原先生の解説によると、主人公のポール・デダリュスとは、ジェイムス・ジョイスの「ユリシーズ」に登場する作家志望の青年スティーヴン・ディーダラスから拝借したもので、ユリシーズもこの映画も「帰還」がテーマになっているとか。

 主人公のポール(青年時代はカンタン・ドルメール、現在の壮年時代はマチュー・アマルリック)とエステル(リー・ロワ・ルコリネ)との淡い悲恋の物語といえば、それまでですが、恋する若い二人の心の揺れや不安が見事に描かれ、私も身に覚えがあるので懐かしくなりました(笑)。ポール役のドルメールも清々しく格好良かったですが、エステル役のルコリネは、男なら誰でも夢中になるほど魅力的で、強さと弱さを巧みに表現できて、なかなかの演技達者でした。

 そして、何と言ってもプルースト。これでも、学生時代は岩崎力先生の講義に参加して少し齧りました。今でも「失われた時を求めて」 À la recherche du temps perdu の第1章「スワン家の方へ」(1913年) Du côté de chez Swann の最初に出てくる「長い間、私はまだ早い時間から床に就いた」の《 Longtemps, je me suis couché de bonne heure 》は今でも諳んじることができます。岩崎先生には、マルグレット・ユルスナールやヴァレリー・ラルボーらも教えてもらいましたが、名前を聞いただけで異様に懐かしい。何の役にも立ちませんが(笑)。

 デプレシャン監督には、「魂を救え!」(1992年)や「そして僕は恋をする」(1996年)、「クリスマス・ストーリー」(2008年)などがありますが、登場人物に関連性があり、一種のシリーズ物語になっているようです。バルザックに「人間喜劇」、エミール・ゾラには「ルーゴン・マッカール叢書」などがありますが、フランス人は作品は違っても、続きものになる、こういう関連シリーズ物語が好きなんですね。

 映画では、主人公は人類学者になる人ですから本をよく読み、レヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」などを読んでいる場面も出てきました。私は、青春時代にフランスに首をつっこんでしまったので、この先、死ぬまで関わることでしょうから、日仏会館のイベントにはなるべく参加していくつもりです。お会いしたら声を掛けてください(笑)。

🎬「彼らは生きていた」は★★★★★

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 100年以上昔の第一次世界大戦(1914~18)のドキュメンタリー映画「彼らは生きていた」(ピーター・ジャクソン監督)を土曜日に観てきました。

 東京・有楽町の映画館で午前9時45分からの上映。63席しかないので、チケットは25分前に完売してしまいました。その様子をその場で見た私は、チケットはネットで購入していたのでセーフ。次の上映時間は夜の9時10分からですから、遠方から来られた方は絶望的な表情を浮かべていました。でも、こういう良心的な映画をご覧になる方がたくさんいるとは、世の中、捨てたもんじゃありませんね。私も含めて遠方の方は、良質な映画鑑賞の場合、次回はネット購入をお薦めします。

 この作品は、ジャクソン監督が、大英帝国戦争博物館に所蔵されていたモノクロの未公開フィルムを最新技術でカラー化し、当時従軍した兵士のインタビューの肉声をバックに重ねたものですが、信じられないほど画像が鮮明になり、つい最近に起きた戦争にさえ錯覚してしまいます。1961年生まれのジャクソン監督は、この映画を同大戦に従軍した自分の祖父に捧げていました。

第一次大戦では、戦場での兵士の移動は、トラックやジープがまだなく、徒歩か馬で、映画では、爆撃機は登場しませんでしたが、既に新兵器である戦車(タンク)が開発され、重機関銃、毒ガスまで使用されていました。

  第一次大戦では、7000万人以上の軍人が動員され、戦闘員900万人以上、非戦闘員は700万人以上死亡したといわれます。映画では、フランス国内の戦線で対峙した英国とドイツが、互いに迷路のような塹壕を掘り合って、陣取り合戦のような肉弾戦が中心でしたから、両軍ともに甚大の戦死者を生みます。

 おぞましい戦闘シーンや、腐乱した戦死者の遺体など出てきますが、よくぞこんなフィルムが残っていたと感心します。

 多くの日本人は、第1次世界大戦については、太平洋戦争ほど関心がないというのが本音かもしれません。私自身も、レマルクの「西部戦線異状なし」を読んだぐらいで、どちらかと言うと第2次世界大戦の方がもっと詳しく知りたい派です。

 しかし、欧州人にとっては、欧州大陸そのものが戦場となり、勝者も敗者も、いずれも甚大な損害を蒙ったことから、第1次世界大戦への関心度は、日本人と比較にならないでしょう。

 この映画の原題は、They shall not grow old で、敢えて逸脱して意訳すれば、「彼らの生きざまは並大抵ではなかった」辺りでしょうが、「彼らは生きていた」という映画タイトルは、実に巧いなと思いました。1914年のサラエボ事件を発端に、戦意が高揚し、マスコミが煽り立て、英国では、19歳から志願兵を受け入れるというのに、18歳、17歳、いや中には15歳や16歳まで年齢を偽って従軍していた様子から、この映画は始まります。

 100年前とはいえ、我々の父親、祖父、曾祖父の世代ですから、日々の喜怒哀楽は万国共通で、時代は変わっても本質は何も変わっていないことが分かります。

 兵士たちの食事は非常に粗末で、トイレがなく、穴を掘ったところに板を張って集団で用を足し、中には板が折れて、肥溜めに落ちる兵士もいました(尾籠な話で失礼)。

 塹壕は雨が降るとぬかるみになって、ネズミや病気が発生し、泥沼に落ちて亡くなる兵士もあり、苦心惨憺する有様も出てきます。このほか、英国軍のドイツ兵の捕虜に対する扱い方が、ちょっと紳士的に描きする嫌いがあり、本当かな、と思ってしまいました。

 1918年11月11日午前11時に休戦条約が調印され、大戦は終結しますが、帰還した兵士たちは、白い目で見られ、求職を断られるなど、市民生活とのギャップが描かれていました。帰還兵たちは「戦場に行った者しか分からない」と嘆いていましたが、この映画を観た観客は、塹壕での悲惨な戦闘を疑似体験しているので、非常に気持ちが分かります。こういうことは、時代を現代に置き換えても同じことでしょうね。

古代史の新発見が望まれる=東博で「出雲と大和」展

 新型コロナウイルスが猛威を奮う中、「よゐこは不特定多数の人が集まる所に行ってはいけません」と一国の総理大臣から通告されていたにも関わらず、上野の東京国立博物館に行って来ました。「出雲と大和」が開催されていたからです。

 週末なので混むはずでしたが、空いていたわけではありませんが、近くで見られました。けど、中国語が聞こえると(彼らは何処にいようが我が物顔で声がデカい!)、ドキッと緊張している自分を発見しました。

出品目録をざっと見ただけですが、出品111点中、国宝が23点、重要文化財75点という豪華絢爛さです。失礼、太古の発掘物ですから、絢爛さまではいかず、正直、余程、古代に関心があり、ある程度の知識がないとつまらないかもしれません。

 国宝「銅剣、銅鐸、銅矛」(出雲市荒神谷遺跡出土、弥生時代、前2〜前1世紀、文化庁蔵)や日本書記にも記された国宝「七支刀(しちしとう)」(古墳時代、4世紀、奈良・石神神宮像)など眼を見張るものが沢山ありました。でも、私自身は、ある程度の知識はあるつもりでしたが、はっきり言って難しかったですね。

 銅鐸一つ取っても、祭司用だと言われてますが、実際にどのように使われたのか諸説あります。

 また、考古学や古代学は、大半は文字がない時代ですから発掘された出土品から想像しなければなりません。専門家なら勾玉一つ見ただけで、色んなことが分かるでしょうが、悲しい哉、素人には限界があります。

 個人的には古代には48メートルの高さを誇ったと言われる出雲大社本殿の縮小版の模型が良かったですね。昨年は、実際に初めて出雲大社をお参りする機会に恵まれたので、感激も一入です。巨大本殿が存在したという証明になる鎌倉時代の宇豆柱(うづばしら)も展示されていました。

 出雲では博物館に立ち寄らなかったので、今回、初めて色んなお宝を見ることができました。

 3世紀になって大和に王権が成立し、巨大な前方後円墳がつくられます。しかし、多くの古墳は文化庁と宮内庁の管轄で、学者でさえ立ち入り禁止されているので、まだまだ未解明な所が多いのです。

◇国譲りで大和が出雲を征服したのか?

 最後のコーナーの年譜を見ていたら、大陸との交流が盛んだった出雲の勢力というか文明圏は弥生時代初期からあり、その一方で、後から大和政権は成立して、「国譲り」で大和が出雲を併合したのは明白に思えました。

 「古事記」は、敗れた出雲の側の立場を描き、出雲のことはあまり触れていない「日本書記」は、大和の側から叙述したものだということをある学者さんは言ってましたが、そう考えると分かりやすいですね。

 いずれにせよ、古墳が考古学者に公開されて、新史実が発見されれば、素晴らしいと思っております。

 この後、遅ればせの新年会が根津駅近くの「駅馬車」という店であるので、地下鉄で行こうとしたら、博物館のチケットの裏を見たら地図が載っていて、歩いて行けそうな距離だと分かり、徒歩で行きました。

 そしたら、参加した赤坂さんも東博を見て歩いて根津まで来たという小生と同じコースだったので笑ってしまいました。

 新年会では赤坂さんは、ピントが外れた唐変木なことばかり発言するので皆の笑い者、いや人気者でした(笑)。

🎬「リチャード・ジュエル」は★★★★★

WST Natinal Gallery Copyright Par Duc de Matsuoqua 

名古屋にお住まいの篠田先生から電話があり、「ああたが、ブログで批判していた韓国映画『パラサイト』、観に行きましたが、よかったじゃありませんか。今度のアカデミー賞も獲るかもしれませんよ」と仰るので、気は確かなのかと思いましたよ。

 週刊文春でも、映画評論家と称する人たちが全員、「満点」を付けていたのを発見して唖然、呆然としましたが、あんな残酷で後味が悪い、血みどろの不愉快な映画、ないじゃありませんか。今年のアカデミー賞候補には、殺害場面の多すぎるあのハリウッド映画「ジョーカー」までなっているというのですから、映画産業界に対する不信感さえ抱きました。そしたら、篠田先生は「それは、ああたの限界ですね。映画なんて作り物だと割り切って観なければならないんですよ。『パラサイト』の後半のとんでもない展開なんて、日本人なんかとても作れませんよ。『万引家族』の是枝監督なんて、とても及びもつきません。今の時代を反映しているわけだし、『パラサイト』のようなとんでもない世界の方が、現実世界を如実に反映しているわけですよ」と悪びれた様子もなく、かつ丼をペロリと平らげる有様です。

 まあ、好みや趣味は人それぞれですから、とやかく言えませんけど、私は、嫌ですね。断固としてあんな映画は二度と見たくない。限界を指摘されようが、批判されようが、 日本人ですから、箱庭的な墨絵のような映画の方を好みますよ。勿論、是枝監督に軍配をあげます。

 かくして、映画産業に関して、かなりの不信感を抱いてしまったので、「これではいけない」ということで、お口直しの意味で、小雪のちらつく中、またまた映画館に足を運びましたよ。1996年のアトランタ五輪の最中に起きた爆破テロ事件で、第1発見者の英雄から、一転して容疑者になった警備員の実話を扱った「リチャード・ジュエル」です。クリント・イーストウッド監督なら、大丈夫だろうという安心感と期待感で観たのでしたが、正解でした。私の採点は満点です。この映画こそ、アカデミー賞候補になってもいいのに、カスリもしません。きっと、米FBIやメディアを痛烈に批判している映画だからなのでしょうね。

アトランタ爆破テロ事件とは、五輪大会7日目の 7月27日午前 1時20分頃、市内センテニアル公園の屋外コンサート会場で、パイプ爆弾による爆破事件が発生し、死者2人、負傷者111人を出した事件です。日本人はほとんど忘れているし、第1発見者の警備員が、国民的ヒーローから一転して犯人扱いされる悲劇など、覚えている人は少ないでしょう。

 この事件の裏、というか表でどんなことが起きたのか、といったことをノンフィクション・スタイルで再現したのがこの映画です。この手のスタイルは、イーストウッド監督は、2016年の「ハドソン川の奇跡」と18年の「15時17分、パリ行き」で成功させていますから、同監督のお手の物といった感じかもしれません。

 実に良い映画でした。俳優全員が本物のように見え、全く演じているように見えなかったところが凄い映画でした。

 私は一番面白かったのは、野心に燃えるアトランタ・ジャーナル紙の女性記者キャッシー(オリビア・ワイルド)が、かなり露骨な色仕掛けでFBIのトム・ショウ捜査官(ジョン・ハム)からトップシークレットの情報を取って、スクープする場面でした。バーのカウンターでのやり取りなどは、事実かどうか分かりませんが、美男と美女なので、キツネとタヌキの化かし合いは、実にサマになっていて、いかにもあり得そうな場面で、イーストウッド監督しか描けませんね。身に覚えがあるメディアの人間が観たらたまらないと思います。私もずっと、ニヤニヤして観ていました(笑)。

 結局、警備員のリチャード・ジュエル(ポール・ウォルター・ハウザー)は無実で、キャッシー記者が書いた記事はフェイクニュースになりますが、それまでは、メディアスクラムによってリチャードとその母親ボビ(キャシー・ベイツ)の2人は、天国から地獄に突き落とされ、私生活が台無しにされてしまいます。

 FBIという強大な国家権力とメディアに対抗するために、この2人を助けたのが、弁護士のワトソン・ブライアント(サム・ロックウェル)でした。この映画は、リチャードと弁護士ワトソンとの出会いの場面から始まるので、何で、そこまでして、ワトソンが、リチャードのために親身になれるのかよく分かります。ワトソン役の俳優は、何処かで観たことある、と思ったら、2018年の「バイス」(チェイニー米副大統領の映画)のブッシュ大統領役でしたね。

 とにかく、この映画のおかげで、映画産業界に対する不信感が、ほんの少し和らぎました。(ということは、なくなったわけではない!)