🎬「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」はマイナス★

 今年の第95回米アカデミー賞で、主要部門の作品賞を含む7部門も受賞した「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」(ダニエル・クワン、ダニエル・シャイナート両監督)を観に映画館まで足を運びましたが、あまりにも観るに耐えられず、途中で退席してしまいました。途中退席はあまり覚えていませんが、生涯で初めてかもしれません。

 映画記者や評論家としてではなく、一般庶民として入場券を購入して観たので、正々堂々と開陳させて頂きますと、この映画で、製作者や監督が何を言いたいのかさっぱり分かりませんでした。そして、主演のミシェル・ヨーさん(60)がアジア系で初めて主演女優賞を受賞するなど大きな話題になり、つい田舎もんの私も観てしまいましたが、結局、米アカデミー賞の選考委員たちがどうしてこの映画に栄誉を与えたのか、さっぱり理解できませんでした。

 考えられることは、ハリウッド関係者が、世界第2位の経済大国であり、世界一の人口を誇る中国のマーケットを意識したのでしょう。アカデミー賞は宣伝効果抜群ですから、恐らく、何十億ドルもの興収を狙っているはずです。映画では中国語が頻出しますので、世界中の中国系の人たちは痛快かもしれません。

 メタフィジックスにせよ、血が出る暴力シーンが多く、単なるカンフー映画か、SF映画と割り切って楽しめば良いんでしょうけど、個人的には、あまりにも荒唐無稽過ぎて、観ていて少しも楽しめず、登場人物に少しも感情移入が出来ませんでした。エンターテインメントなのに、腹を立ててしまってはもうどうしようもありませんよね?

 「お金と時間の無駄」と判断して、途中で松岡洋石全権代表の如く、席を蹴って、退席しました。

 

つい、昨日写されたもののよう=佐藤洋一、衣川太一 著「占領期カラー写真を読む」

 私は「ポイント貴公子」なので(ポイント乞食ではありませんよ!)、三省堂書店のポイントが少し溜まったので、何か新書を買うことにしました。でも、三省堂はちょっと不便でして、他の書店、例えば、紀伊國屋書店なんかは、いつでも何ポイントからでも使えるのに、三省堂は100ポイント(以上)単位でしか使えないのです。

 御存知なかったでしょう? 最近、本屋さんなんかに足を運ばれていないんじゃないんですか? 私は、街の本屋さんがなくなってしまっては困るので、なるべくリアルの書店に行くようにしております。だって、「エンゲル係数(お酒も含む)」以外でお金を使うとしたら旅行するか、もう本を買うか、洋服を買うかぐらいしかないからです。競馬もパチンコもしませんし…。

 昨日は、高校の同級生田中英夫君の訃報に接しました。4日に同窓会を開いて久しぶりに皆で顔を合わせようという時期だったので、衝撃が走りました。同級生ですから同い年です。人生100年時代、世間的にはまだまだ早い方ですが、誰でも、いつ何時、死神が襲ってくるか分かりません。それなら、生きているうちが華ですから、お金なんか貯め込んだりせず、日本経済に貢献し、好きなものを買って楽しく過ごした方が健康にいいですよね?

新富町「はたり」日替わり定食1000円

 さて、新書と書きましたが、古書に対する新しい本という意味で最初に書いたのですが、結局購入したのは新書でした(笑)。佐藤洋一、衣川太一 著「占領期カラー写真を読む」(岩波新書、2023年2月21日初版)という本で、1週間前に買ったので、先ほど電車の中で読了しました。

 コダックや富士フイルムなどカラー写真やスライドの歴史の詳細にも触れ、正直、かなりマニアックな、ある意味では難解な学術書でしたが、占領期のカラー写真は初見のものばかりでしたので、興味深く拝読しました。著者は二人なので、どのように本文を分担されていたのか分かりませんが、写真については、2009年頃から、ネットオークションで手に入れることが多くなったことが書かれていました。写真投稿サイト flickr やネットオークション eBay などです。オークションにかけられる写真は、ほとんど撮影した本人が亡くなった後、遺族によるものが多いので、撮影された年月日や場所など基礎情報に欠けるものが多く、さながら歴史探偵のように苦労して調査しておられました。しかも、売る側が高く売ろうとして「バラ売り」したりするので、ますます出所判明に困難を来すことも書かれていました。

 6年7カ月間、マッカーサー将軍率いるGHQという名の米軍による日本占領期(1945年9月2日~52年4月28日)は今から70年以上昔ですから、若い人の中には「えっ?日本って、占領されてたの?」という人もいるかもしれません。それ以上に、「えっ?マジ?日本はアメリカと戦争してたの?マジ、マジ?」と驚く若者もいるかもしれません。学校での歴史の授業は明治時代辺りまでが精一杯で、近現代史を学ばないせいなのでしょう。でも、こうしてカラー写真で見ると、つい最近のように見えます。いくらAIが発達して、白黒写真をカラー化出来ても、ほんまもんの「色」には及ばないことでしょう。

新富町

 今や旧統一教会との関係問題ですっかりミソを付けて信頼を失ってしまった細田博之・衆院議長は、若き通産省官僚の頃、米国に留学し、下宿先のスティール夫妻が占領下の日本で撮影したカラースライドをたまたま見たことがきっかけで、「毎日グラフ別冊 ニッポンの40年前」(1985年)の出版などに繋がったことも書かれていました。細田氏は「あと10年は待てない。なぜなら多くの撮影者はこの世を去り、写真は散逸してしまうから」との思いから、毎日新聞社と連携し、スティール氏が中心になって全米から1万枚もの占領期のカラー写真を集めたといいます。

 エリートの細田氏にそんな功績があったとは全く知りませんでした。

作曲家村井邦彦氏と中村吉右衛門とは親友だったとは=日経「私の履歴書」

  私は音楽好きなので、今、日本経済新聞で連載中の「私の履歴書」の作曲家「村井邦彦さんの巻」を毎日楽しみに読んでおります。昨年12月の指揮者の「リッカルド・ムーティの巻」も大変興味深かったでしたね。特にムーティ若き頃、バーリ音楽院で同校の校長を務めていたニーノ・ロータと出会い、指揮を習ったことがあったことが書かれていて本当に驚きました。ニーノ・ロータは私も大好きな「太陽がいっぱい」などの映画音楽も多く作曲した人だったことは、以前このブログにも書きました。色んな人との繋がりがあり、人との御縁が成功の道に導かれることを垣間見た感じでした。

 扨て、今月の村井邦彦さん(1945~)ですが、この方も素晴らしい友人に恵まれたお蔭で大家となったことが読んでいて分かりました。大変失礼ながら、村井さんについて、私自身は、歌謡曲の作曲家というお名前程度で詳しく知りませんでした。

 歌謡曲は今では全く聴かなくなりましたが、小中学生の頃はよく聴いていたものでした。そしたら、村井邦彦氏の代表作が、ちょうどその頃に私が聴いていたヒット曲とドンピシャリ合っていたのです。テンプターズの「エメラルドの伝説」、ピーターの「夜と朝の間に」、赤い鳥「翼をください」、辺見マリ「経験」、トワエモア「虹と雪のバラード」(1972年札幌冬季五輪のテーマ)等々、みーんな、村井氏の作曲だったのです。「え?あれも?」「これも?」てな感じです。

 しかも、調べてみたら、村井邦彦氏がそれらのヒット曲を量産していたのは、まだ20歳代前半の若造(失礼!)だったのです。またまた、「しかも」と書きますが、大学は慶応の法学部と畑違いで、正式な音楽教育を受けていないような感じなのです。どこで、作曲なんか学んだのか? 色んな疑問を持ちながら読んでいくと、毎日面白い逸話にぶつかります。

銀座

 特に、2月5日(日)に掲載された連載5回目「吉右衛門こと波野君 生涯の仲」には吃驚してしまいました。村井氏は、一昨年に亡くなった歌舞伎俳優二代目中村吉右衛門こと波野久信さん(1944~2021年)とは暁星学園(フランス語必修のカトリック系中高一貫男子校)の同級生で、しかも、彼とその兄昭暁(てるあき=二代目松本白鸚)氏の3人でジャズ・トリオのバンドを組んだことがあったというのです。白鸚さんがドラム、吉右衛門がベース、村井氏は独学でマスターしたピアノだったといいます。ラジオの文化放送で演奏がオンエアされたこともあったといいますから、まさに「へー、知らなかったあ」です。村井氏と吉右衛門は生涯、家族ぐるみの付き合いだったそうです。

 私自身はかつて、歌舞伎の取材で吉右衛門丈には大変お世話になったことがあり(そして大好きな役者でした)、実兄の松本幸四郎丈(当時)とはあまり仲が良くなく、「二人は共演はしない」という噂を聞いていたので、まさに、驚いてしまったわけです。

 村井邦彦氏は、中学生時代からヌーベルバーグ映画とモダンジャズに魅せられ、「スイングジャーナル」誌を定期購読し、高校1年の時、同誌に載っていた「ジャズ演奏 生徒募集」の広告を見て応募し、そこでサックスの吉本栄さんから譜面の読み方などを学び、またそこで知り合った慶応高校生からの誘いで、慶応の「ライト・ミュージック・ソサイエティ」(ジュニア版)というジャズオーケストラに参加するようになり、音楽の基礎をみっちり学んだたようでした。

 やはり、村井氏も人との出会いと御縁で、運が開けていった感じです。(この先を読むのが楽しみです。)

🎬「イニシェリン島の精霊」は★★★

 最近、ダムが決壊したかのよに、映画づいてしまいました。予告編を観て、いつか観ようか、観まいか迷っていたところ、新聞の広告で、「本年度アカデミー賞 最有力!」「主要8部門ノミネート」「ゴールデングローブ賞 最多3部門受賞」といった惹句に惹かれて、つい観てしまいました。

 「スリー・ビルボード」の監督マーティン・マグドナーの最新作で、コリン・ファレル主演の「イニシェリン島の精霊」です。予告編で、ファレル演じる主人公の気の弱そうで生真面目なパードリックに対して、その親友で、いかつい顔をしたコルム(ブレンダン・グリーソン)が急に、「お前とは友達をやめる」と言い出し、その理由について、「ただ嫌いになっただけだ」と言い放ちます。二人の間に一体、何があったのか?

 こりゃあ、本編を観たくなりますよね。

 でも、「予測不可能にして衝撃の結末とは?」と宣伝文句にある通り、サスペンスかミステリーの映画のようですので、結末は言えません。とはいえ、万人向きの映画ではないと思います。かなりグロテスクなので、私ならお薦めしないなあ…。怖いもの見たさに飢えている方なら丁度良いかもしれませんけど…。何で日本人的なわびさびの精神が分からないのかなあ?別に過激じゃなくていいし、あそこまでしなくてもいいじゃないか、と私なんか思ってしまいます…。

 と書きながら、この映画、フィクションとして割り切れば、かなり、練りに練られた考えられた作品になっています。奥が深いと言いますか、しばらく、この映画から頭が離れなくなり、色々と考えさせられます。友情という普遍的な問題についてだけではなく、人生とは何か、そもそも生きるとは何なのかと…。

 最初、観ている者は、いつの話なのか、何が何だか分からない世界に引きずり込まれていきますが、だんだんと、それは1924年4月1日に起きたことで、本土から少し離れたアイルランドの離島イニシェリン(架空の地らしい)で、住民同士がほとんど顔見知りの非常に狭い世界で物語が展開されることが分かります。樹木がほとんどなく、産業もほとんどないようで、あるとしたら、漁業か牧畜ぐらいです。この時代、テレビもラジオもなく、娯楽があるとしたら、辛うじて蓄音機のSPレコードとフィドルぐらい。男たちの愉しみは、村でたった1軒しかないようなパブで、昼となく、夜となく飲み明かすぐらいです。本土では内戦が続いているらしく、時折、砲弾の音が聞こえてきます。

 そんな狭い世界で人間関係がよじれると厄介なことになります。何しろ、道ですれ違わないことがないくらい狭い村社会で、隠れる所などほとんどありませんから…。

 この映画で応援したくなるのは、主人公パードリックの妹シボーンを演じているケリー・ゴードンです。彼女がいなければ、単なる怪奇映画になってしまいそうですが、シボーンを設定することで、映画に深みを増すことが出来、なるほどアカデミー賞候補になるのも頷けます。字幕なしで英語だけ聴いていると、どうも聴き取りにくい知らない単語が多く出てきましたが、恐らくアイルランド人がよく使う単語なのでしょう。調べたところ、コリン・ファレルは勿論、ブレンダン・グリーソンもケリー・ゴードンも、主役の俳優さんほぼ全員、アイルランド出身でした。凝り性のマグドナー監督のキャスティングだと思われます。

🎬「モリコーネ 映画が恋した音楽家」は★★★★

 一人の老人が、机の上で一心不乱に五線譜上に音符を書き連ねています。時々、何かに取りつかれたように、何かを口ずさみながら、書き続けています。もしかしたら、作曲中なの? えっ!? ピアノもギターも何も楽器がないのに、頭の中で浮かんだメロディを机の上でそのまま五線譜に書き記すことが出来るなんて、絶対音感の持ち主で。大天才ではないか!

 この場面を「モリコーネ 映画が恋した音楽家」を映画館の予告編で観て、是非とも観たいと思い、先日、劇場で観てきました。

 主人公は、映画音楽の巨匠エンニオ・モリコーネ(1928~2020年、行年91歳)。私がこの人の名前を初めて意識して知ったのは、「ニュー・シネマ・パラダイス」(1988年)=仏カンヌ映画祭審査員グランプリ、米アカデミー賞外国映画賞受賞=を観た時で、その映画音楽も世界的に大ヒットしたからです。

 この映画「モリコーネ」は、その「ニュー・シネマ・パラダイス」のジュゼッペ・トルナトーレ監督が、モリコーネの生涯と作品を巡って多くの映画関係者らにインタビューしたドキュメンタリーです。何しろ、インタビューで登場するのは70人以上と言いますから、映画通を自称する私でさえ、ほとんど知らない人ばかりなので、混乱してしまいました。これから御覧になる方は、事前に公式HPのサイトで「登場人物」の横顔を参照した上で御覧になれば、かなり整理されて理解できると思います。

 何しろ、映画の上映が倍速のような速さなので(笑)、登場人物の名前と肩書や作品名の説明字幕が読み終わる前にすぐ消えてしまいます。まさに、高度な鑑賞力が必要とされます。皮肉で言っておりますが(笑)。

 モリコーネが作曲した映画音楽は1961年以来500本以上だったといいます。この映画でもかなり多くの作品が出て来ましたが、日本未公開作品も多く含まれ、いくら映画通の私でも、観たのはその3割ぐらいじゃないかと思いました。ただ、かつて夢中になって観たクリント・イーストウッド主演の「荒野の用心棒」(1964年)やジャン・ギャバン、リノ・ヴァンチェラ、アラン・ドロンの三大スターが共演した「シシリアン」(1969年)、それにロバート・デニーロ主演の「ミッション」(1986年)、「海の上のピアニスト」(1998年)まで音楽がモリコーネの作品だったとは、知りませんでしたね。

 そんなモリコーネですが、映画音楽を作曲するのは「屈辱的だった」と告白しています。もともとローマの音楽院でゴッフレド・ペトラッシから正式に作曲技法を習ったクラシック音楽の正統派だったせいかもしれません。ただ、1950年代から台頭したジョン・ケージらによる「実験音楽」の流行もあり、その現代音楽の影響からか、かなり自由に映画音楽に実験音楽を取り入れております。「荒野の用心棒」などでは、何の楽器か知りませんが、アイヌの人たちが使うような「ボヨヨ~ン」と鳴る楽器や、口笛や雑音まで取り入れて時代の最先端の現代音楽を採用していました。

 私が学生だった1970年代初めの頃は、映画音楽が一ジャンルとして確立しており、かなりヒットしておりました。ラジオで映画音楽だけのリクエスト番組やベスト10があったほどです。大抵、1位になるのは「エデンの東」か「禁じられた遊び」か「ティファニーで朝食を」の「ムーン・リバー」あたり。このほか、上位には「シェルブールの雨傘」やフランシス・レイの「ある愛の詩」「男と女」「白い恋人たち」、パーシー・フェイスの「夏の日の恋」あたりが入り、とにかく名曲揃いでした。そうそう、忘れてならないのは、私も大好きなニーノ・ロータです。「太陽がいっぱい」「甘い生活」「ゴッドファーザー愛のテーマ」など今でも心に響く名曲ばかりです。

 この映画では、モリコーネが作曲した「死刑台のメロディ」(1971年)の主題歌「勝利への讃歌」を唄ったジョーン・バエズも登場し、私自身、非常に懐かしいなあ、と感じました。でも、やはり個人的好みから言えば、モリコーネは、ニーノ・ロータやフランシス・レイの次になってしまいます。ごめんなさい。それでも、勿論、彼の天賦の才は認められずにはいられません。

 しかし、私の世代でさえ、通好みで、私自身、公開作品の3割程度しか知らないとすれば、私より若い世代となると、ますます「エンニオ・モリコーネって誰?」となるかもしれないと思ってしまいました。

 でも、今の時代はユーチューブやDVDがあるので、時空を乗り越えて鑑賞できるはず。モリコーネが担当した音楽の映画を中心にこれから観る愉しみがありますよ。

【追記】ネタバレ(これから映画を御覧になる方は読まないで)

 「荒野の用心棒」などのセルジオ・レオーネ監督は、モリコーネとは小学校時代のクラスメートだったことや、スンタリー・キューブリック監督の「時計じかけのオレンジ」は、もともとモリコーネが音楽を担当するはずだったのに、行き違いで他の作曲家に回ってしまったことを、モリコーネが人生唯一後悔したことに挙げていたことは、大変興味深い逸話でした。

 

映画🎬「SHE SAID シー・セッド その名を暴け」は★★★★★

 久し振りに映画を劇場に足を運んで観て来ました。2年半ぶりぐらいかなあ? ちょっとよく覚えておりません(苦笑)。

 勿論、コロナ禍の影響ですが、何が何でも、石にかじりついてでも,観たい映画がなかったからかもしれません。所詮、映画はつくりものですし、現実生活やノンフィクションには劣るといいますか、二の次になってしまいました(失礼!)。そうなると、かつては、これまで1カ月に2~3本、映画館で観ていたのに、観ない習慣が出来てしまいました。また、怒られてしまいますが、映画を観る暇があったら、人類学や歴史関連の本を読んでいた方が遥かに有意義な時間が過ごせると思ってしまったわけです。

 ですから、この「SHE SAID シー・セッド その名を暴け」も殆ど期待しないで映画館に行きました。テレビで派手に宣伝しており、内容についても、あのハリウッドの帝王とも呼ばれた敏腕プロデューサー、ワインスタインによる性的暴行事件と、その後、勇気を出してカミングアウトするようになった女性被害者たちの「#Me Too」運動の話だということも、分かりきってしまっていたので、新鮮味がないだろうなあ、と高を括ってしまっておりました(これまた、失礼!)

 そしたら、我も忘れて映画の世界にどっぷり引き込まれてしまいました。正直言いますと、最初は、何が何なのか、さっぱり分かりませんでした。出演する俳優さんもほとんど知らず、顔と名前が一致しません。しかも、ですよ。20年前の若い時と、その20年後の2017年の現在の姿が交互に出てきて(勿論、全く別の、似ている女優さんが演じています)、本当に何が何だか、顔の区別ができないために、さっぱり付いていけなかったのです。

 それが、次第にジグソーパズルのピースがハマっていき、全体像がうっすら見えて来ると、「そういうことだったのかあ」と分かり、何とも言えない爽快感が出てきたのです。

 まあ、これ以上、内容について触れませんけど、舞台は米ニューヨークタイムズ紙の本社になっています。二人の、…いちいち断る必要はないかもしれませんけど、ママさん記者による調査報道のスクープ記事を巡る実話が描かれています。

 私も長年、マスコミ業界で働いておりますので、新聞社の内幕やら、取材方法やら、取材相手との交渉といったことは熟知しておりますので、その描き方は、本当に真に迫っております(当たり前かあ=笑)。ですので、感心どころか、感激してしまいました。

 最初にお断りしたように、出演している俳優さんの顔も名前も知らなかったのですが、新聞社内の役割ならよく分かりました。勿論、日本と米国ではシステムは違うかもしれませんが、まず女性記者2人がいて、デスクらしき年配の女性がいて、その上に白髭を生やした部長らしき年配の男性がいて、そのまた上に編集局長らしい黒人の統括責任者がいて、告発記事なので裁判にもなりかねないということで、記事化するに当たって最終ゴーサインする社主か社長らしき壮年男性がいるような感じを私自身は観ていて受けました。あまり観たことがない俳優さんたちだったので、名前を知らなかったのは申し訳なかったのですが、役割だけは手に取るように分かり、自分自身も現場にいるような錯覚をしてしまったぐらいです。

 特に、オフレコで取材に応じた被害を受けた女優さん(御本人が出演!)が、意を決して最後に「自分の名前を出してもらってもいいですよ」という電話をし、それを受けた記者が、感激して涙を流すシーンが出てきましたが、思わず私ももらい泣きしてしまいました。まだ、青いですねえ(笑)。その女性記者ジョディー・カンター役は誰なのか、後で調べたら、ゾーイ・カザン(1983~)という女優さんで、「波止場」や「エデンの東」の監督として知られるあの巨匠エリア・カザンの孫娘さんだったんですね。知らなかったなあ。

 あまり褒めてばかりいると私らしくないので(笑)、あら探ししますと、この映画では、やたらとiPhoneとMacパソコンが登場します。勿論、原作に登場するからしょうがないかもしれませんけど、GAFAの一角、アップル社と宣伝契約しているんじゃないかと勘繰りたくなりましたよ。

長谷川等伯「楓図」などを堪能しました=「京都・智積院の名宝」展ー東京・六本木のサントリー美術館

 月刊誌「歴史人」(ABCアーク)12月号の読者プレゼントでチケットが当選した「京都・智積院の名宝」展(東京・六本木のサントリー美術館、2023年1月22日まで)に本日、行って参りました。

 未だコロナ禍で、事前予約制なのかどうか、場所は何処なのか、初めて行くところなので色々と調べて行きました。あれっ?そしたら、サントリー美術館には一度行ったことがありました。何の展覧会だったのか?…忘れてしまいましたが、今年だったようです…。うーむ、認知力が大分、衰えてきたようです。寄る年波、仕方ないですね。(ブログの過去記事を調べたら、以前行ったサントリー美術館は、今年5月2日「大英博物館 北斎 国内の肉筆画の名品とともに」展でした。こういう時、ブログは便利です=笑)

 私は土曜日の朝は、よくNHK-FMの「世界の快適音楽セレクション」を聴いております。本日はクリスマスイブということで、特別番組をやってましたが、その中でも面白かったのが、「ゴンチチルーレット」です。ゴンチチというのは、この番組のMCで、ゴンザレス三上(69)とチチ松村(68)の2人のギターデュオというのは皆さん御存知だと思います。これまで26枚ぐらいのCDアルバムをリリースし、収録してきた曲は300曲以上あるといいます。それらの曲をアトランダムにシャッフルして番号が付けられ、番組の中で、彼らがその番号を言って、かかった曲が何という曲か本人たちに当ててもらうという余興でした。300曲以上あると、自分たち本人が演奏していたとしても、確かに忘れてしまうものです。早速、曲がかかると、2人は「覚えてないなあ」「分からないなあ」を連発。中には、自分たちの曲なのに「この曲、知らん」としらを切ったりするので大笑いしてしまいました。

 まあ、そんなもんです。私も自分が過去に書いたブログの記事もすっかり忘れています(笑)。

 評論家小林秀雄も、自分の娘さんから難しい現代国語の問題を聞かれ、「誰が書いたんだ、こんな悪文。酷い文章だ」と吐き捨てたところ、小林秀雄本人の文章だったりしたという逸話も残っています。

 全くレベルが違うとはいえ、私がサントリー美術館のことを忘れたのも、同じ原理と言えるでしょう(笑)。

六本木・サントリー美術館

 さて、やっと、展覧会の話です。

 目玉になっている「国宝 長谷川等伯『楓図』 16世紀 智積院蔵」と「国宝 長谷川久蔵『桜図』 16世紀 智積院蔵」は初めての寺外同時公開らしいのですが、土曜日だというのに結構空いていたお蔭で、ゆっくりと堪能することが出来ました。

 実は、私、狩野永徳よりも長谷川等伯の方が好きなんですが、特に、東京国立博物館蔵の六曲一双の「松林図屏風」(国宝)は、日本美術の頂点だと思っています。水墨画でこれだけのことを表現できる芸術家は他に見当たりません。ワビサビの極致です。勿論、水墨画と言えば、雪舟かもしれません。本人も雪舟の弟子の第五世を自称していたほどですけど、雪舟は完成し過ぎです。等伯は見るものに修行させます。想像力と創造力の駆使が要求されます。脳の中で色々と構成させられます。でも、うまく焦点が合うと、松林図という二次元の世界が立体化し、松の枝が揺れ動き、風の音が聞こえ、風が肌身に当たる感覚さえ覚えるのです。

 今回の等伯の「楓図」は、写実主義の色彩画で抽象性が全くないのですが、その分、力量が狩野永徳に優ることを暗示してくれます。天下人の秀吉から依頼されたようなので、まさに命懸けで描き切った感じがします。

 「桜図」の長谷川久蔵は、等伯の長男ですが、25歳という若さで亡くなっています。父親譲りのこれだけの画の力量の持ち主なので、本当に惜しまれます。

東京「恵比寿ビアホール」 チキンオーバーライス1150円 展覧会を見終わって実家に行く途中で、六本木はあまり好きではなくなったので恵比寿で下車してランチにしました。

  これら国宝含む名宝を出品されたのが京都の智積院です。真言宗智山派の総本山で、末寺が全国に3000もあるそうです。

 京都には何度も行っておりますが、智積院にはまだお参りしたことがありません。会場で飾られたパネル地図を見ると、三十三間堂の近くの七条通りの東山にありました。この地は、もともと、秀吉が、3歳で夭折した子息・鶴松の菩提を弔うために創建した臨済宗の祥雲禅寺があり、等伯らの襖絵もその寺内の客殿にあったものでした。

 祥雲寺はその後、真言宗の中興の祖で新義真言宗の始祖と言われる覚鑁(かくばん、1095~1143)興教大師が創建した紀伊の根来寺に寄進されますが、それは、根来寺が、根来衆と呼ばれる僧兵を使って秀吉方に反旗を翻し、徳川方についたためでした。江戸時代になって大坂の陣で豊臣家が滅び、根来寺の塔頭だった智積院が東山のこの地を譲り受け、現在に至っています。

見逃せません「創立150年記念特別展 国宝」=東京・上野の東京国立博物館

 東京・上野の東京国立博物館で開催中の「創立150年記念特別展 国宝」(12月11日まで)を観に行って参りました。

上野「東京国立博物館」

 未だコロナ禍のため、インターネットで、日時指定の「事前予約」でしか入れないので、申し込みサイトにアクセスしたところ、まず、土日の週末はあっという間に、既に完売、祝日も駄目。平日は、一応仕事に行っているので、仕方がないので、仕事が終わった金曜日の夜に予約し、その通り、行って参りました。(金、土は午後8時まで開館)

 随分、人気あるんですね。メディアはNHKと毎日新聞が主催なんですけど、大衆の情報収集能力は凄いものです(笑)。でも、庶民から言わせていただくと、観覧料一般2000円は高過ぎますよね。どなたかが新聞に投書してましたけど、東京国立博物館が所蔵する国宝を展示するわけですから、作品を運搬する運送料もそれ程かからない。第一、輸送で保険をかけることもない。どうしてそんなに高いのか?といった疑問は、私も同感してしまいました。

 「国宝展」の触れ込みは、「史上初 所蔵する国宝89件を全て展示」と「明治から令和までの東博150年の歩みを追体験」です。まず、前者の「国宝89件」は日本中の博物館の中で最大のコレクションです。(うち19件が刀剣)国宝は全国で1131件ありますが、東博でしか観られないのなら、この機会は逃せません(途中入れ替えあり)。

上野「東京国立博物館」金剛力士立像

 もう一つの「東博150年」ということは、「鉄道150年」と全く同じ明治5年に歴史が始まったということになります。薩長土肥の新政権が明治維新を起こしてわずか5年で鉄道を新橋~横浜間に敷設したことは驚愕的ですが、同じように、わずか5年で、身分の差がなく一般市民に美術工芸品を公開する「ハコ」をつくるという思想を現実化させたということも感心すべきだと思います。これは、初代館長を務めた元薩摩藩士で、幕末に英国留学して大英博物館などを体験した町田久成の功績が大きかったことでしょうが、町田一人だけでなく、当時の廃仏毀釈令によって仏像や仏具などが破壊されたり、海外に二束三文で売られたりした時代背景もあったかもしれません。同時に、幕末から明治にかけてパリやウイーンなどで開催された万国博覧会をきっかけにジャポニスムがブームになり、全国から日本文化の粋を集める博物館創設が喫緊の課題だったことでしょう。これも、背景には、欧米列強に負けないように、もっと好意的に言えば、欧米列強の植民地にならないよう「富国強兵」の国家主義思想があったかもしれません。

上野「東京国立博物館」金剛力士立像 12世紀・平安時代

 さて、「国宝展」です。事前にネット予約したのに、「平成館」の入り口付近で雲霞の如く人が並んでいるのには吃驚しました。そして、人が列をつくって並んでいるのに、「優先券」か「スポンサー招待券」でも持っているのか知りませんけど、脇からスイスイ入場する輩が何人も何人もいて、少し腹が立ちました。

 10分ぐらい並んでやっと入場できましたが、会場内も空いているとは言えず、とぐろを巻く程ではありませんでしたが、やっと二列目の遠くから拝見できる程度でした。小生は背が高いので何の苦も感じませんでしたが。

上野「東京国立博物館」 菱川師宣「見返り美人図」11月13日まで展示

 写真を使わせて頂いている「金剛力士立像」と「見返り美人」は撮影オッケーのものですから、盗み撮りしたものではありません(笑)。

 私は東博にはかつて何度も足を運んでおりますので、何点かの「国宝」は何度も拝見しておりますが、改めて感心したのは、法眼円伊筆「一遍聖絵 巻第七」(1299年)(※鎌倉時代なのに、ほとんど劣化せず色彩が鮮やかで描写も緻密でした)と渡辺崋山の「鷹見泉石像」(1837年)(※鷹見泉石は古河藩家老。以前、古河市の城下町址を散策したので懐かしい。渡辺崋山は、冤罪の「蛮社の獄」で切腹。「門下生3000人」と言われた儒者の佐藤一斎も、「南総里見八犬伝」の滝沢馬琴も崋山を擁護しなかったとドナルド・キーン著「渡辺崋山」に書かれていたことを思い出しました)でした。

 写楽の「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」などは重要文化財に指定されていましたが、浮世絵では最も有名な北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」が国宝にも重文にも指定されていなかったことは意外でした。

三門とは? 禅宗の名僧とは?=「歴史道」23号「仏像と古寺を愉しむ」特集

  外国人観光客の受け入れ制限緩和や全国旅行支援とやらで、銀座の街は、今や、お上りさんと外国人が際立って目立つようになりました。

 今朝の東京の気温は大体16度ぐらいでしたが、どうみても還暦を越えていそうな髭をたくわえたコーカサス系の外国人男性が、半袖のTシャツ一枚という真夏のような恰好で、ニコニコしていたので吃驚しました。こっちは、寒くて、中にベストまで着込んでいましたからね。

◇◇◇

 さて、「歴史道」23号「仏像と古寺を愉しむ」特集を読了しました。この手のムックは、判型がA4判に近い大きさなので、電車の中で読むにはちょっと勇気がいります。電車の中で大きな本を広げて読んでいる人は、まず見たことがありません。いるとしたら私ぐらいなものです(笑)。でも、私も分別が付き過ぎたので、家の中で静かに読むことにしたら、結構読むのに時間が掛かってしまいました。

 仏像の見方や、古寺巡礼に関する本はこれまで結構読んできましたが、やはり、奥が深いんですね。このムックで初めて知ることも多かったでした。

 例えば、お寺の本堂に入る前に大抵、三門(山門)がありますが、これは「空」「無相」「無願」の三解脱の象徴だといいます。「空」「無相」「無願」は仏教思想の根幹を成すものですから、もし御存知でなければ御自分で調べられたら良いと思います。

 私自身、自分なりにかなりの古寺名刹をお参りし、基礎的な仏教の知識や宗派や名僧について知っているつもりではありましたが、恥ずかしながら、このムックで私自身、多くのことを教えられました。

 まず、日本で初めて、国産独自の仏教宗派を開いたのは平安末期、法然(1133〜1212年)の浄土宗(1175年)だと思っておりましたが、史実はその半世紀以上前の良忍(1072〜1132年)の融通念佛宗(1124年、総本山=大阪市平野区の大念佛寺)でした。

 名僧については、特に禅宗関係で知らない人が多かったです。(以下、独自に調べたことも敷衍して書いております)

  臨済宗(達磨から6代を経た唐末の宗祖・臨済義玄が開いた)は、鎌倉時代に栄西が中国から持ち帰って開祖となり、京都に建仁寺などを建立したことは知っておりましたが、その後、様々な宗派に分かれて栄西派は衰えていったといいます。その後、室町時代になって、「応燈関」と呼ばれる3人の傑出した禅僧が現れ、復興し、現代までその隆盛がつながっているというのです。

 「応燈関」というのは、大応国師・南浦紹明(なんぽう・じょうみょう=1235~1309年)と大燈国師・宗峰妙超(しゅうほう・みょうちょう=1282~1337年)と無相大師・関山慧玄(かんざん・えげん=1277~1360年)の3人の名僧のことです。

 南浦紹明は、京都の大徳寺を開山した宗峰妙超の師です。その宗峰妙超は、花園上皇から自身の離宮を禅苑にするよう依頼されたのですが、病が重篤で、代わりに高弟の関山慧玄を推薦します。その関山が開山したのが京都の妙心寺です。

 臨済宗は現在15派に分かれており、全国に約6000の寺院がありますが、このうち約3500と半数以上が妙心寺派の寺院が占めるといいます。そして、京都の大本山妙心寺は、臨済宗系では最大規模の寺院だというのです。また、現代の臨済宗は、江戸中期の妙心寺派の白隠慧鶴(はくいん・えかく)の系統に連なるというのです。白隠といば、「禅画家」としてその名を最初に知ってしまったので、「えろうすんまへん」という気持ちです。

 つまり、白隠がいなかったら、今の臨済宗はなかったと言えるかもしれません。いわば中興の祖です。ということは、いくら宗祖や開祖が立派で偉大でも、その後を継ぐ弟子たちが大したことがなければ、その宗派は衰えてしまうということになりますね。

 また、曹洞宗についてですが、道元が中国の宋から持ち帰り宗祖となり、越前に大本山永平寺を開いたことは知っておりましたが、もう一人、大事な名僧がおりました。教団を全国展開した瑩山紹瑾(けいざん・じょうきん=1268~1325年)です。曹洞宗では道元は「高祖」、瑩山は「太祖」と呼ばれるようです。ですから、曹洞宗の場合、大本山は道元の開いた永平寺のほかに、もう一つ、瑩山が開いた總持寺があるというわけです。總持寺は当初(1321年)、能登(石川県輪島市)に建立されましたが、明治になって横浜市鶴見に移転します。

◇西瓜も蓮根も筍も隠元禅師のお蔭

 明治になって、新政府は廃仏毀釈を断行し、それでも容認した仏教・寺院は「13宗56派」あります。その13宗の中で最後に開宗したのが、江戸初期、1661年の黄檗宗です。こちらも禅宗系で開祖は中国・明から招へいした隠元隆琦(いんげん・りゅうき=1592~1673年)です。大本山萬福寺を京都の宇治に建立します。

 隠元禅師が、インゲン豆を日本にもたらしたことは知っておりましたが、このほかに、スイカやレンコン、タケノコまでもそうだったんですね。また、急須を使った煎茶文化も黄檗宗を通して広まったといいます。

 大変勉強になりました。

本当に懐かしいサン=サーンスと「アルルの女」

 本日の読売新聞を読んでいたら、空木慈園著「サン=サーンスをもう一度」という本の広告が目に入って来ました。大変失礼ながら、この本に興味を持ったわけではなく、「サン=サーンス」の名前です。本当に懐かしい。

 今でこそ、ほとんど聴かなくなりましたが、もう半世紀以上も昔の私が小学生時代、毎日のように聴いたものです。東京郊外の小学6年生。当時、私は、代表児童委員会委員長兼放送部の部長で、お昼に2、3人と一緒にレコードを掛ける「係り」を仰せつかっていました。この時、曲を紹介するDJ役もです。放送室に給食を運んで、曲の合間に食事しますが、当時は「特権」のような感じで嬉々として楽しんだものでした。

 曲は、演歌や流行歌やジャズやロックは御法度でした(笑)。やはり、子どもの情操教育に相応しいクラシックです。その中でも、ベートーヴェンやマーラーやシュトックハウゼンのようなちょっと肩肘を張って聴くような曲ではなく、レストランのBGMのような小品です。その代表が、サン=サーンスだったのです。

 「初めにお聞かせするレコードは、サン=サーンスの『白鳥』です」

 サン=サーンスと言えば、「白鳥」。この曲を何度掛けたことでしょうか。

 他に、覚えているのは、レハールのワルツ「金と銀」、そしてエルガーの「愛のあいさつ」(チェロ演奏)、ヨハン・シュトラウス「美しき青きドナウ」、グリーク「ペールギュント」組曲「朝」…。これらも毎日のように掛けていました。今では、YouTubeで検索すれば、簡単に聴くことができますね。今の小学生諸君は、どうしているのでしょうか? やはり、ダウンロードした曲をそのまま流したりしているのかなあ?

東京・一ツ橋

  そう言えば、思い出しました。下校時刻になると、放送部員は、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」のラルゴ(家路)を掛けるのも仕事でした。

 「下校時刻になりました。用のない生徒は早く家に帰りましょう」

 それでも、帰らない生徒に対しては、

 「運動場の鉄棒近くでおしゃべりしている生徒、早く家に帰りましょう」

 などと、偉そうに注意したものです。

 私の通った小学校は廃校となり、今では影も形もありません。こうして、思い出だけが残っています。

東京・一ツ橋

【追記】

 あんりまー。下校時に掛けた音楽を「ドヴォルザークの交響曲第9番『新世界より』のラルゴ(家路)」と書きましたが、大間違いでした。これは、中学校の時の下校音楽でした!

 では、小学校の時の下校音楽は何だったのか?思い出したら、メロディーが浮かんで来ました。でも、曲名が分かりません。そこで、小学校時代の同級生Gさんに聞いてみました。私が下手なピアノでメロディーを演奏して聴いてもらいました。しかしながら、彼女も思い出せません。

 最後の手段。スマホで「クラシック、フルート、名曲」で検索してみました。その通り、フルートの名曲だったからです。そしたら、何曲か候補が出てきましたが、そのリストの中で直ぐピンと来て、やっと思い出しました。

 ビゼーの「アルルの女」組曲の「メヌエット」でした。

 サン=サーンスよりもこっちの方が胸に沁み渡り、涙が出るほど懐かしくなりました。

 音楽は童心にかえらせてくれます。