懐かしい「イージー・ライダー」を、知らないとは…

 私の義理の息子は、アメリカ人なので、会った時に、覚えたばかりの英語のフレーズを試す「実験台」になってもらっています(笑)。

先日も会った時に、

 I gave the last full measure of devotion. 知ってるかい?

 と、試してみたら、

「リンカーンのゲティスバーグ演説ですね。さすが、お義父さん」と褒められてしまいました。

 「なーんだ、自慢話かあ」で終わりたくないので、この後、深刻な続きがあります(笑)。

 (↑ 試訳は「私は死力を尽くして献身した」)

銀座「たか」焼き魚定食1200円 近くの大手出版社の編集者が通い詰める店らしく、さすがに美味。

「じゃあ、映画The Last Full Measure(『ラスト・フル・メジャー 知られざる英雄の真実』)(2019年)は観た?ベトナム戦争の話だけど、タイトルは、そのリンカーンの演説から取られた。ピーター・フォンダの最期の出演作になったやつ…」と私。

 「観てませんけど…。ピーター・フォンダ?」

 「えっ?ピーター・フォンダ知らないの?『イージー・ライダー』の」

  ちなみに、彼はロサンゼルス出身で、ハリウッドに近い所で育ち、映画通でもあります。

 私は「えーー、それは驚き。ピーター・フォンダのお姉さんはジェーン・フォンダで、お父さんも有名なヘンリー・フォンダで、ノーベル文学賞を受賞したスタインベックの『怒りの葡萄』(ジョン・フォード監督、1940年)にも出ていた…」と一気にまくしたてました。

 「うーん、ジェーン・フォンダは聞いたことあるけど…。スタインベックは学校で習った気がするけど…。うーん、チェック!」と、いつものように、彼はスマホを取り出して、検索し始めました。

 「あの歴史に残る名作『イージー・ライダー』(1969年)だよ! 本当に観てないの?」

 「うん、ノーーー」

 スマホ画面を睨みながら、「全く、何を言っているのか、訳が分からない」といった表情を彼は浮かべるのでした。

これに対して、私は I’m taken aback.とか、 astonishedとか、 shocked とか、あらゆる「驚愕」の言葉を並べました。

◇世代間ギャップ

 しかし、冷静になって考えてみると、それは「世代間ギャップ」ではないかと思いました。私の世代で、「イージー・ライダー」やピーター・フォンダを知らない人はまずいない。常識だと思われます。でも、そんな常識も、哲学的に考察すると、世代が変わると全く通じなくなってしまうということです。

 あんなに人気があって、有名で、一世を風靡しても、30年も経てば、すっかり忘れ去られてしまうという事実に、遅まきながら気が付いたわけです。同時に、自分が常識だと思っていることなど、年が経てば風化して、通用しなくなることも身に染みて分かりました。

 「常識を疑え」ではなく、「常識は時代によって変化する」です。平たく言えば、「おっさん、もう古いよ」ということになるんでしょうが、仕方ないですね。私はもう新しいモノは受け付けられない年になってしまいました。

 「イージー・ライダー」には、デニス・ホッパーとジャック・ニコルソンも出ていました。ステッペンウルフのテーマ曲「ワイルドでいこう!」も大ヒットしたんだけどなあ…。

 「世代間ギャップ」と言えば、父親と子との葛藤を描いた映画「エデンの東」(1955年、エリア・カザン監督)を思い出します。ジェームス・ディーン主演の名作です。テーマ曲も素晴らしい。

 そう言えば、「エデンの東」も原作者は、ジョン・スタインベックでしたねえ。

 繋がりました。

 お後が宜しいようで。

実に久し振りの六本木=サントリー美術館「美を結ぶ。ひらく。」展

 新型コロナ感染拡大による緊急事態宣言が発令されている最中、国禁を犯して、東京・六本木の東京ミッドタウン3階・サントリー美術館で開催中の「美を結ぶ。ひらく。」展に行って参りました。

 いつぞやも、このブログでも書きましたが、雑誌「歴史人」(KKベストセラーズ)の読者プレゼントでこの展覧会のチケット2枚(3000円相当)が当たり、捨てるのも「如何なものか」と思い、1枚は会社の後輩にあげて、もう1枚は、御自ら捕縛覚悟で国禁を犯して出馬したわけです。

東京ミッドタウン

 六本木は本当に久しぶりでした。何年振りか覚えていないくらいです。六本木交差点にあった書店もドラッグストアになってしまっていましたし、女優の倍賞千恵子さんか倍賞美津子さんがオーナーだったという噂の「ばいしょう」という焼き鳥屋さんなど、若い頃にあったお店はもうほとんど姿を消しておりました。(いまだに健在は、喫茶店の「アマンド」と「おつな寿司」とイタリア料理「シシリア」とロアビルぐらいでした)

 思い出すのは、学生の頃に通った「クレイジーホース」というディスコです。酔っ払って友人たちと行ったことぐらいしか覚えていませんが、まあ、当時は最先端の遊びでした。

 ディスコなんて言っても、今の若い人はさっぱり分からないでしょう。

六本木交差点付近

 もう40年以上も昔の話です。そんなことを考えながら、六本木の街を歩いていたら、すれ違う人の大半は、40歳以下の中年と若者たちでした。「そうかあ、彼らは、40年前は生まれてもいなくて、影も形もなかったんだなあ」と思うと何か不思議な感じがしました。同時に、当時出会った60代だった人たちは今、ほとんどこの世から姿を消してしまったんだなあ、と思うと感慨深いものがありました。

古伊万里 色絵菊桔梗文瓶(左)と色絵花鳥文六角壺

 そうそう、肝心の展覧会でした(笑)。自ら進んで、どうしても観たいという展覧会ではなかったので、正直、身が入りませんでしたが、やはり、観ているうちに引き込まれました。(会場は空いていて、作品撮影は自由でした)

 私はかなりの俗人、俗物なものですから、リニューアル・オープンしたサントリー美術館の展示品を観ながら、「あ、これは(サントリー創業者の)鳥井信治郎(1879~1962)の収集品かなあ、こっちは(鳥井信治郎の二男で二代目社長の)佐治敬三(1919~99年)のコレクションだったのかなあ?」などと想像しながら観ていました。

 単なる想像ですが。

エミール・ガレ

 こうして、大実業家たちが集めた(と思われる)目が飛び出るくらい高価な美術品を拝見させて頂く機会に恵まれて、本当に有難いことだと思いました。

 正直に言えば、庶民が「おこぼれに預かった」ということになるんでしょうけど、最近のIT成金の某氏が、「お金の使い方が分からなくて困っている」といった趣旨の手記を月刊誌に書いていたので、こんな美術館でも建てたらどうかなあ、などと私なんか思ってしまいました。

 某氏は、自ら創業したIT企業をソフトバンクグループに売却して2000億円もの個人資産があるらしいのですが、ツイッターで「100万円プレゼント」などと無作為にお金をばらまいたりして、どうも成金趣味の域を出ない気がしています。

 そういうことをするなら、病院を建てたり、感染症研究やワクチン開発の資金を提供したり、他に出来ることがいっぱいあるのになあ、と思ってしまいます。 

歌川国貞「両国夕すずみの光景」文化文政期

 いやはや、こんなこと書いても、単なる「持たざる者」の愚痴に過ぎないでしょうけど…。俗人なもので、つい書いてしまいました。

【追記】

 明治政府による「廃仏毀釈」で、荒廃した寺院から貴重な日本美術品が海外に流出しました。そんな中、日本美術の真の価値を知っていたのが、外国人お抱え教師のフェノロサでした。彼が雇われた当時の帝国大学の月給は、現代に換算すると1500万円だったそうです。毎月1500万円ですよ! そのお金で、フェノロサは、せっせと国宝級の日本美術品を買い集めたのでした。

 尾形光琳「松島図屏風」、狩野元信「白衣観音像」などですが、彼のコレクションは、米ボストン美術館に寄贈されたので、アメリカにまで行かなければ観ることができませんよお。

ビートルズ「ペニー・レイン」にはエッチな歌詞も?

 銀座「大海」 大分鳥てん定食 880円

◇「世界ふれあい街歩き」

 NHKの「世界ふれあい街歩き」という番組は、とっても面白い番組なので結構見ています。歩く旅人の目線になるよう特殊なカメラで撮影してくれるので、自分もその街に実際に行った気分になれます。コロナ禍で海外旅行に行けない今、ピッタリの番組ではないかと思います。

 先月は、英国のリヴァプールをやっていました。リヴァプールと言えば、ビートルズの故郷です。見逃すわけにはいきませんでした。この他、リヴァプールはサッカーの聖地でもあり、リヴァプールFCとエヴァートンFCと、二つもプレミアリーグ所属の強豪チームがあり、前者はRED(赤)、後者はBLUE(青)と、ユニフォーム・カラーの俗称で呼ばれ、街中でも”Red or Blue?” お前はどっちのファンなんだ?といった会話が交わされることもやってました。

本文と全く合っていない!(笑) ビートルズの写真にしたいのですが、他の多くの人のような著作権の違反はできませんからね(皮肉)

 そして、ビートルズでした。私が好きな彼らの曲の中でベスト5に入る曲に「ペニー・レイン」があります。リヴァプールにある通りの名前で、ジョン・レノンが少年時代に住んでいたメンローヴ・アヴェニューの家から近い所にあります。私も、リヴァプールには2度ほど訪れているので、勿論、ペニー・レインにも行ったことがあります。(ジョン・レノン自身は、労働者階級を強調していましたが、ジョンが住んだ家は中産階級が住むような住宅で、日本で言えば高級住宅街ですよ)

 番組の中でもペニー・レインは取り上げられ、そこで「出演」した市民が、「歌詞にはリヴァプール人しか分からない言葉が出てくるんだよ」と意味深なことを言っていたので、気になっていました(番組ではその答えを教えてくれませんでした)

◇奇妙な歌詞「ペニー・レイン」

 そこで、調べてみました。私も高校時代から訳してみたりしましたが、どうしても分からない単語が出てきました。例えば、Mack は、今でこそ、アップルのコンピュータか、マクドナルドかな、と想像してしまいますが、これはMackintosh のことで、Mack といえば、マッキントッシュのレインコートのことでした。当時の辞書には載っていなかったので、これが分かった時は目から鱗が落ちました。

 もう一つは、 roundabout で、これも当時の辞書にはなく、今では「ロータリー」だということがすぐ分かります。Behind the shelter in the middle of a roundabout となると、ロータリーの真ん中にある待合所ということになり、「世界ふれあい街歩き」のHPのサイトにはその写真が載っています。

 とにかく「ペニー・レイン」は奇妙な歌詞です。リヴァプール人しか分からないスラングとは、多分、 Full of fish and finger pies in summer 辺りだと思われます。ネットのサイトの中にはFour of fish and finger pies と表記して翻訳しているものがあり、このFour とは「4ペニー分の」という意味だと解説しているものもありましたが、私は一応、Full ofとします。

 直訳すると、「夏のたくさんの魚とフィンガーパイ」で、何のことかよく分かりません。それが、色んなサイトを読むと、fish とは、あの英国の定番食のフィッシュ・アンド・チップスのことであるらしい。そして、肝心なのが、finger piesで、これはリヴァプール人しか分からない俗語らしく、食べ物ではなく、女の子のprivate part を愛撫すること、または、万引きすること、なんてのもありました。これでは、米国人でも分からないでしょうね。

 でも、今はネットが発達してとても便利ですね。この曲は、メインヴォーカルのポール・マッカートニーが作詞作曲したと思われますが、ジョンも少し手伝っているかもしれません。さっきの問題個所のFull of fish and finger pies in summer ですが、Full of fish and finger piesまでは、ジョンとポール(そしてジョージも?)がコーラスでハモってますが、 in summer はジョンだけの声に私は聴こえます。「あの夏にやっちゃったんだよ」という雰囲気がよく出ています(笑)。そんな名曲を作ったポールは当時、24歳か25歳。ジョンは26歳か27歳の若さです。

◇「ノルウェーの森」は「ノルウェー製家具」

 昔はとんでもない、誤訳が多かったものです。以前にもこのブログで書いたことがありますが、例えば、ビートルズのNorwegian woodは「ノルウェーの森」と訳されてましたが、本来なら「ノルウェー製の家具」が正しい。ジョン・レノンのCold Turkey は、「冷たい七面鳥」のタイトルでシングルが発売されましたが、これは、麻薬の禁断症状のことで、今では大変な誤訳だったことが分かります。

 「ペニー・レイン」は1967年発売。私は当時小学生でしたが、ラジオで同時代で聴いてました。(その後、レコード、CDを買い、何百回聴いたことか!)でも、歌詞の意味が分かったのは、やっと54年も経ってからでした(笑)。

見つかった? 何が? 愉しみが=備前焼の湯呑茶碗購入記

 備前焼 湯呑茶碗(鈴木美基作)

 コロナ禍による自粛で、つまらない毎日を送らざるを得ません。でも、あまり、落ち込んでばかりもいられないので、何か愉しみを見つけることにしました。

 面白きなき世を面白く、です。

 私の場合、ほんの少し、焼き物に凝ってみました。焼き物といっても、サバの塩焼き定食ではありません(くだらない!=笑)。有田焼、九谷焼、笠間焼といったあの焼き物です。高校生程度の基礎知識しかないので、少し調べたら、中世から現代まで続く代表的な六つの窯を「六古窯」と呼ぶそうですね。それは、越前、瀬戸、常滑、信楽、丹波、備前の6窯です。1948年頃、古陶磁研究家の小山冨士夫氏により命名されたといいます。既に奈良、平安時代から生産が始まっています。

 となると、私も、以前購入したり、家にあったりして、良く知っている唐津焼や萩焼や志野焼や益子焼などは、六古窯と比べれば、それほど古くないということになります。豊臣秀吉による朝鮮出兵で、多くの陶工が日本に強制的に連れて来られたりして、九州を中心に全国至るところで、窯が開かれたという話を聞いたことがあります。

 茶道具の陶磁器の中には城が買えるほど、超高価なものがあったりして、調べれば調べるほど焼き物の世界は奥が深いので、歴史的な話はひとまず置いて、個人的な話に絞ります。

◇湯呑茶碗が欲しい

 きっかけは普段、家でお茶を飲んでいる湯呑茶碗です。いくらなのか、知りませんが、安物で、スーパーで「一山幾ら」の中から見つけてきたような代物です。毎日使っているものですから、そんな安物ではあまりにも味気ない。それでは、何か良い物でも奮発して買ってみようかと思い立ったわけです。

 でも、焼き物は種類が莫大で迷うばかり。そこで、誰が言ったか知りませんが、「備前に始まり備前に終わる」という格言を思い出し、備前焼に絞ることにしたのです。

 そしたら、銀座に備前焼の専門店があることを見つけました。何と私の通勤路のみゆき通りにあり、毎日のようにそのビルの傍を通っていたのです。その店は「夢幻庵」といい、ビルの2階にあります。昼休みに、飛び込みで入ったら、40代ぐらいの女性の店主が笑顔で迎えてくれました。「夢幻庵」は岡山県備前市に本店と支店があり、陶芸作家を200人以上抱えているというのです。東京の、しかも銀座に支店を出すぐらいですから、相当なお店なんでしょう。

備前焼 湯呑茶碗(鈴木美基作)良い景色です♪

◇「小橋俊允は私の弟です」

 それで、店主と色々と話しているうちに、結局、湯呑茶碗一個を買ってしまいました。備前市の鈴木美基さんという陶芸作家が作ったものです。6600円也。お店の女性は「作者は48歳ぐらいの方です」と説明してくれましたが、後で自分でネットで調べてみたら、1970年生まれの方でした。ということは50歳ですよね? もう一人、気に入った湯呑茶碗があり、どちらにしようかと最後まで悩みましたが、8800円という値段の関係もあり、今回は諦めました。作家は小橋俊允さんという人でした。この方、ネット通販でも名前を見かけた人でした。偶然です。通販で購入してもよかったのですが、ネットでは重さも大きさも肌合いもよく分からないので、店舗に足を運ぶことにした経緯があります。

 そしたら、お店の女性は、後になって、「(小橋俊允は)私の弟なんですよ」というので吃驚してしまいました。既に、鈴木美基さんの茶碗を注文してしまっていたので、「遅かりし蔵之介」です。店主は、最初、小橋さんのことを「41歳ぐらいです」と説明しておりましたが、私が後で調べたら、1977年生まれ、ということで、それなら43歳です。えっ!? もし、その場で分かっていたら、「ご自分の弟さんなのに、年齢も知らないんですか?」と、突っ込みを入れていたことでしょう(笑)。

お茶だけでなくビールや焼酎も呑めるとは!

◇茶碗で酒でも呑むかあ

 ということで、鈴木美基氏の湯呑茶碗は、これからも長く愛用していくつもりです。何と言っても、おまけの「収穫」は、この茶碗で、お茶だけでなく、ビールが飲めたり、焼酎のお湯割りなんかも呑めたりできるという話を聞いたことでした。

 「使えば使うほど、味が出てきますよ」と店主さん。こりゃあ、いい。愉しみが一つ増えました。

テーマ曲が懐かしい「ゴッドファーザー」と「ドクトル・ジバゴ」を観る

 新型コロナで映画館に行きづらくなり、今掛かっている映画も一食抜いてでも是非観てみたい作品が少ないので、最近、映画館に足を運んでいません。

◇多感な十代は尾を引く

 その代わり、DVDや録画なんかで結構観ています。それも古い映画です。人間、多感な十代の頃に接した音楽や美術や建築や映画や小説などが、その後の人生の尾を引くと言われてますが、その通りですね。

 私が十代の頃は、1960年代後半から70年代半ばにかけてでしたが、その頃に聴いた音楽や観た映画は、骨身に染みていて懐かしさでいっぱいになります。

 最近観て感動した古い映画は、フランシス・F・コッポラ監督の「ゴッドファーザー」3部作です。第1作が1972年、第2作が1974年ですが、第3作は1990年公開です。もう全く説明する必要がないマフィアの映画で、私も何度か弐番館やテレビなどで観ているのですが、細かい所はほとんど忘れていて、新作を観る感じでした(笑)。それに、十代の頃に観るのと、家族を持って年を取ってから観るのでは、印象は全く変わります。

 第1部の主人公ヴィトー・コルネオーレ役のマーロン・ブランド(1924~2004年)は、70歳ぐらいに見えましたが、当時はまだ47歳ぐらいだったんですね。それにしても凄い迫力と風格でした。口の中に綿を入れて頬を膨らませたりしたらしい。アカデミー賞主演男優賞を受賞(拒否)したのに、第2作に出演しなかったのは、第1作の時のパラマウント映画社側からのオファーに不満だったブランドが、第2作の出演ギャラで折り合わなかったかららしいですね。

 第2作と第3作の主人公は、ヴィトーの跡目を継いだ息子マイケル役のアル・パチーノ(1940~)でしたが、これまた見事な老け役ぶりでした。若きヴィトー・コルネオーレ役を演じたロバート・デニーロは当時全く無名だったとか。それにしても若い。第2作で、ヴィトーの養子でファミリーの顧問弁護士トム・ヘイゲン役のロバート・デュバルも準主役級だったのに、これまた出演料の問題などで第3作に出演していません。今は、直ぐ「裏話」が分かるので、便利な世の中になったものです。(すべて、今さら…という話でしたが)

 「ゴッドファーザー」と言えば、直ぐにニーノ・ロータのテーマ曲とアンディ・ウイリアムスの「愛のテーマ」が思い浮かび、これらの曲を聴くと本当に懐かしくなります。

◇生まれて初めて観る「ドクトル・ジバゴ」

 もう一つ、先日、あの有名な映画「ドクトル・ジバゴ」(デヴィッド・リーン監督作品)を初めて観たのです。日本公開は1966年6月。ビートルズが来日した頃ですね。この映画は、テレビなどで何度も放送されたので何度も観る機会があったのに、逃していました。54年間も。

 原作者のパステルナークが、ノーベル文学賞を受賞しながら辞退せざるを得なかった経緯を詳細した陶山幾朗著「パステルナーク事件と戦後日本」(恵雅堂出版)について、以前、このブログで書いたことがあります。( 「陶山幾朗著『パステルナーク事件と戦後日本』は名著としてお薦めします」

 ロシア革命前後の混沌とした社会が描かれているのは皆さんご案内の通りです。まさに内戦ですから、目を背けたくなる場面も出てきます。

 この映画は54年間も観ていませんでしたが、モーリス・ジャールの挿入曲「ラーラのテーマ」は、ほぼ同時代にラジオなどで聴いていました。名曲です。この曲を聴くと少年時代を思い出し、本当に懐かしくなります。(映画も観ていないのに!)映画音楽の中では、「エデンの東」「太陽がいっぱい」「避暑地の出来事」の「夏の日の恋」と並び大好きです。と、書くと年代が分かってしまいますね(笑)。

◇ジュリー・クリスティ

 この「ラーラのテーマ」はどういうわけか、「タラのテーマ」だとずっと間違って覚えていました(苦笑)。ラーラはドクトル・ジバゴの愛人にもなった美しき女性で、映画に出ていた女優さんは誰かなと思ったら、ジュリー・クリスティという人でした。1940年生まれですから、ジョン・レノンと同い年で、撮影当時25歳ぐらいでしたか。英国の女優さんで、1965年の「ダーリング」で米アカデミー主演女優賞を受賞しています。

 彼女は、写真で何度も拝見したことがありますが、名前まで知らなかったことを正直に告白します。これも「今さら何を…?」といった話です。何でこんな古い映画の話しか書けなかったかと言えば、今の流行についていけなくなったからでしょう。でも、それでいいんです。

三島由紀夫の予言通りになった現代社会

 学生時代の畏友小島先生(職場でそう呼ばれているようです)からFBを通して、以下のようなコメントを頂きました。(一部改竄)

 三島由紀夫の話題の続編をブログで期待しています。我々は彼の死の年齢を既に超えているので、美化する必要はないと思います。何故、まだ振るのか?と思われるかもしれませんが、11月2日(月)から5週間に渡ってNHKラジオ第2で放送された「カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス▽声でつづる昭和人物史~三島由紀夫1~5」を聴きましたか?もし、聴き逃していれば、”らじる⭐︎らじる”の「聴き逃し」サービスで、今月中まで聴くことができます。特に第5回がお勧めです。

 正直、「急にそう言われても…」という感想でした。三島由紀夫に関しては、「没後50年」でもう当分、取り上げないつもりでした。あれだけ騒いだメディアも11月25日の命日を過ぎると、潮を引いたように話題として取り上げられなくなりましたし。

 でも、年末年始休暇に入り、少しだけ時間的余裕も出てきたので聴いてみました。この番組が聴けるのも、12月いっぱいまでらしいので急いだこともあります。

 そしたら、驚くほど面白かったので、小島先生の指令に従って、ブログに取り上げることに致しました。番組はNHKが保存している音声資料を再現し、政財界人から文化人に至るまで昭和を生きた人々を取り上げ、その人物像と歴史的意味を探るものです。解説は、昭和史に詳しい作家の保阪正康さんで、進行役は宇田川清江アナウンサー。

 長くなるので、小島先生お薦めの第5回だけを取り上げます。三島が市ヶ谷の自衛隊駐屯地で自決する1週間前の1970年11月18日に三島の東京都大田区南馬込の自宅での「最後のインタビュー」です。聞き手は、文芸評論家の古林尚(ふるばやし・たかし=1927~98)さん。これは、皆さんにも聴いてもらいたいのですが(番組にリンクを貼っておきました)、天才三島の驚愕すべき予見能力を発揮した将来像が語られるのです。

◇将来を予言

 話し言葉を分かりやすく少し書き言葉に直すと、三島はこんなことを言っているのです。

 自分は日本文化を知っている最後のジェネレーション(世代)である。古典の言葉が身体に入った人間というのはこれから(の日本には)出てこないだろう。これからは国際主義の時代で安部公房の書くような抽象主義の時代になり、世界中で同じような問題を抱え、言葉こそ違っていても、同じ精神世界でやっていくことになる。もう草臥れ果てた。(だから、俺はそんな世界になるまでは生きていたくない)

 天才にしか備わっていない鋭い予知能力であり、同時に、三島は「有言実行」の人だったと改めて思った次第です。

 なぜなら、この第5回の番組の前半で、早稲田大学の学生との討論会(1968年10月3日)を録音(新潮社)したものがあり、この中で、ある学生さんが「三島先生は、作品の中で『夭折の美学』を盛んに説き、美しく死にたいと仰っていますが、御自身はまだ生きていらっしゃるじゃありませんか」と半ば揶揄したような質問をしているのです。それに対して、三島は、戦後になってなかなかそのチャンスがなかっただけで、太宰治が心中死したようにチャンスがあれば自分もやりますよ、と示唆していたのです。これは、自決する2年前の討論会ですから、その頃からか、ずっと以前から「自死」に取り付かれていたように見えます。

 そして、何よりも、世界は三島が50年前に予言した通りになっているので慄然としてしまいました。当時はその言葉さえなかったグローバリズムであり、新自由市場主義であり、言語こそ違っても、世界が同時に同じ問題を抱えているではありませんか!特に貧富の格差拡大や経済問題だけでなく、新型コロナウイルスが問題に加わりましたからね。

◇その場しのぎと偽善に陥った日本人

 三島は自決する前に自衛隊員らに「檄文」を配りました。その中で「われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。」といった箇所は、今でも通底している日本の現状だと言っても良いでしょう。

 何しろ、国権の最高機関である国会で118回も虚偽発言しても、前総理大臣なら起訴されず、秘書だけのせいにしてお終いにするような日本という国家です。国民はスマホゲームばかりにうつつを抜かして、批判精神すら持ち合わせていません。確かに三島由紀夫のあの行動を美化するつもりはありませんが、50年経って、三島の予言に驚嘆し、少しは彼の心情と信条が分かるようになりました

 NHKラジオ第2は良い番組を放送し、しかも「聴き逃し」サービスまでやってくれます。それなのに、前田晃伸会長は、「ラジオの1本化」と称して、ラジオ第2を廃止しようと目論んでおられます。それは暴挙であり、やめてほしいです。

凄過ぎる木下グループ=PCR検査までやるとは

  東京・新橋駅前に来店型の「新型コロナPCR検査センター」が12月4日から開業したことをニュースで知りました。完全予約制(ウエブなど)で、店舗で唾液を採取(所要時間3分前後)し、翌日には結果が本人に通知されるそうです。検査価格は2900円(税別)。それは良いとして、驚いたことに、この「新型コロナ検査センター」という会社は、木下グループの一員だということです。

 木下グループは、木下工務店を中心にした建設会社グループだと思いきや、映画「関ケ原」などの製作や、ハリウッド映画「ミッドウエイ」など海外映画の配給をやっているキノフィルムズ、東京や福岡にある映画館キノシネマ、俳優の小林稔侍、光石研、オダギリジョーらが所属する芸能プロダクションの鈍牛倶楽部、それにラジオのインターFMの100%株主といった芸能、報道関係、それに木下スケートアカデミーや水谷隼、張本智和ら卓球選手のスポンサーなどスポーツ関係の会社を運営しています。

 そこまでは、私も何となく知っておりました。仕事で調べたことがあったからです。でも、この木下グループが医療、福祉、教育関係にまで「進出」していたとは知りませんでしたね。木下グループのホームページを見ると、「木下の介護」「木下の保育」「木下福祉アカデミー」「木下未来学園」…何でもござれです。「新型コロナ検査センター」はグループ100%子会社で、グループ内の医療法人和光会が監修しているとのこと。意外でしたね。知らなかった人も多いと思います。

 建設会社から芸能、病院まで、どこか節操がないほど広範囲にカバーしている木下グループは凄過ぎますね。これだけ節操がないことで思い出すのは、このブログでどういうわけかアクセス数が多い、2017年2月23日に書いた「凄過ぎる滋慶学園」ぐらいです。

Luca Two-year old birthday

 つい、「節操がない」などと言ってしまいましたが、建設会社として出発して、芸能も医療も福祉も必要だったから、段々、拡大していったのかもしれません。

 木下グループは、株式を上場していないせいか、「会社概要」情報は「四季報」にも掲載されておらず、ネットでも正式に公開していないみたいですが、非公認のネット情報によると、現在のグループCEO木下直哉氏(1965年生まれ、福岡県出身)が2004年 に1000億円の債務超過に陥っていた木下工務店を買収して代表取締役に就任されたようです。木下氏は、同姓ながら木下工務店の創業者と関係がないようですが、キノフィルムズなど拡大戦略はこの人の経営手腕によるものだったんですね。かなりのやり手です。

 ラジオのインターFMを聴くと、盛んに「木下抗菌サービス」などのCMを流しています。メディアを広告媒体として相乗効果を狙っているのでしょう。

 コロナ禍の中、日本では縦割り行政の弊害でPCR検査が遅々として進んでいません。その間隙を縫って、営利事業としてPCR検査までやってしまうとは、木下グループ、凄過ぎる。

 12月5日午前11時の時点で、木下グループのPCR検査の予約サーバーが込み合っていて繋がらず。「12月8日まで予約は埋まっているので、9日以降のご予約を受け付けます」との告知がありました。

スウイング感に痺れました=エラ・フィッツジェラルド「エラ ~ザ・ロスト・ベルリン・テープ」

 久しぶりに、本当に久しぶりにCDレコードを買いました。

 20世紀最高の女性ジャズ・ヴォーカリストの一人と言われるエラ・フィッツジェラルド(1917~96)の「エラ ~ザ・ロスト・ベルリン・テープ」(ユニバーサル)です。

 「最高の一人」という言い方も変なのですが、「女王は、ビリー・ホリデイだ」「いや、サラ・ヴォーンでしょう」という人がいるからです。あとは好みの問題でしょう。

 このアルバムは、音楽プロデューサーで、「ヴァーヴ」などのジャズレーベルを創設したノーマン・グランツ(1918~2001)がプライベート・コレクションとして保管していた未公開ライヴ・テープをCD化したものです。テープは最近になって発見されたそうです。これは1962年にベルリンで録音されたライヴ音源で、私も先日、FMラジオで初めて聴いて、すっかり魅せられてしまい、久しぶりにレコード店に足を運んだわけです。

 エラのベルリン・ライヴといえば、1960年に録音された有名な「マック・ザ・ナイフ~エラ・イン・ベルリン」があり、これはグラミー賞受賞した名盤です。

 でも、はっきり言って、同じベルリン・ライヴでも、私自身は、こっちの62年録音の「ザ・ロスト・ベルリン・テープ」の方が好きですね。

  スウイング(ノリ)感が全然違います。特に、60年盤でタイトルにもなって有名になった「マック・ザ・ナイフ」は、62年盤では脂の乗り切ったといいますか、少女のような可憐さとベテランの熟練さを合わせ持ったようなヴォーカルです。途中で、乗りに乗ってサッチモ(ルイ・アームストロング)の真似もしています。調べてみたら、この時彼女は45歳だったんですね。

山野楽器の入り口は狭くなりました

 60年盤はギターも入ってますが、62年盤は、ポール・スミスのピアノ、ウィルフレッド・ミドルブルックスのベース、スタン・リーヴィーのドラムスのトリオ。わずか3人なのに、オーケストラのような厚みのある音色を奏でるのです。特に、エラのお気に入りのスミスのピアノは、ピカ一ですね。音楽理論に詳しくないのですが、ジャズ・ヴォーカルのピアノ演奏は、クラシックともロックとも違い、独特というか、異様です。不協和音に近い独特の度数の兼ね合いで、さすがプロ、よくぞ、音程を外さないで唄えるものでした。勿論、この微妙な不協音が、聴く者に心地良い緊張感も与えてくれます。

 1962年といえば、ちょうどビートルズがデビューした年です。エラの「ザ・ロスト・ベルリン・テープ」には「ハレルヤ・アイ・ラブ・ヒム・ソー」も収録されていました。この曲は、1957年のレイ・チャールズのヒット曲ですが、デビュー前のビートルズがドイツのハンブルクで演奏していた曲だったので、「おー、あの曲だあ」と思ってしまいました。

 今はネットで情報が沢山入ってきます。調べてみると、エラの生涯も子どもの頃に孤児院に入れられたり、早く親を亡くしたり、幸せな環境で生育したとはいえませんでした。二度の離婚経験もありました。孤児などという境遇はフランス・シャンソンの女王エディット・ピアフに似ていますね。ジョン・レノンも子どもの頃に両親に「捨てられた」というトラウマが大人になってもなくなりませんでした。歴史に残る大スターに共通しているので、子どもの頃の不幸は、スーパースターになる条件にさえ思えてきてしまいました。

 このCDを買ったのは、東京・銀座の山野楽器です。半年ぐらい、ビルを改装していましたが、新装開店したこの店に入って吃驚です。2階を中心に、大手携帯電話会社のショップが入居し、CDレコードは4階に追いやられていました。

 しかも、演歌もロックもクラシックもジャズも同じフロアです。以前は、地下にDVDがあり、1階はJ-POPSや演歌、2階は確か(笑)クラシック、3階は確か(笑)ジャズと別れていたのに、凄い縮小ぶりです。

携帯電話ショップになってしまった山野楽器

 つまりは、皆、CDを買わなくなっちゃったということなんでしょうね。今、ネットでユーチューブもあれば、スポッティファイもあり、わざわざお金を出さなくてもタダで音楽は見たり聴いたりできちゃいますからね。

 それに、少子高齢化でピアノを始め、楽器を買う家庭も少なくなってしまったのかもしれません。

 小生は14年前に、この山野楽器で思い切って、目の玉が飛び出るほど高いフォークギター「マーチンD-28」を買ったことがあります。このギターは、ビートルズのプロモーションビデオの「ハローグッドバイ」でジョン・レノンが弾き、映画「レット・イット・ビー」の中では、ポール・マッカートニーがこのマーチンで「トゥ・オブ・アス」を唄っていました。

 山野楽器のギターショップも縮小されたでしょうが、何か哀しくて、そこまで行けませんでした。

年を経て趣味趣向も変わる

新橋演舞場

  「ブログは毎日書き続けなければ駄目ですよ」との先哲の教えに従って、話題がなくても、できるだけ書き続けるようにしています。

 苦痛と言えば苦痛なのですが、もう40年以上もジャーナリズムの世界にいて、毎日のように記事を書き続けて来たので、普通の人より書き慣れているといいますか、いわば「職業病」とも言えるでしょう。職業の延長線でブログを書いているようなものですから、刀根先生をはじめ、何で他の人は毎日続かないんだろうとさせ思ってしまいます(笑)。

 ところで、最近、ものの見方といいますか、自分の考え方が年を経るうちに変わってきていることに気が付いております。

 一番変わったと思うのは「転向者」に対する見方、考え方でしょう。昔なら、そんな節操のない裏切者は許しがたかったのに、今では全く逆に、転向せずに自己の思想を守旧した人の方が、どこか空恐ろしさを感じてしまいます。だって、人間は趣味趣向も考え方も日々変化するものでしょう。生物学的に言っても、細胞だって毎日のように入れ替わっているし、歯だって悪くなるし、髪の毛も抜けたりします。自分の考えを絶対曲げない人は、確かに格好良いかもしれませんが、そこは大人の力学で妥協しなければならない時もあるし、その方が万事うまくいくこともあります。

 戦前は、「国賊」扱いだった足利尊氏や「謀反人」の典型だった明智光秀も、戦後は随分歴史的解釈も変わり、名誉も回復されたではありませんか。

銀座 木挽町で …うーん、分かりやすい。アナログ万歳!

 趣味趣向といえば、私自身は音楽が大好きで、学生の頃は毎日、16時間も聴いていたものですが、今ではほとんど聴かなくなりました。今は1日30分も聴いているかどうか…。

 若い頃は「音楽こそがすべて」でした。ちょうどソニーのウォークマンが新発売され、電車の中でも歩きながらでも、本当に一日中、音楽を聴いていた感じでした。

  それが年を取ったせいなのか、ゆっくり腰を落ち着けて音楽が聴けなくなってしまったのです。というか、勉強しながら、本を読みながら、家事をしながら、といった「ながら」で音楽が聴けなくなったのが一番大きいのです。勉強しながら、では、その勉強のことだけで頭がいっぱいで、音楽が少しも脳に染み込んでくれないのです。つまり、昔だったら、人とおしゃべりしながら、本を読みながら、音楽を聴いてもしっかり把握できたのに、年を取ってからは、一つのことしか頭に入らなくなってしまったのです。音楽を聴くなら、そのことだけ集中して一心不乱に聴けば、脳みそに入ってくれるのですが、他のことをしていると他の方に気を取られて音楽が入ってこなくなってしまったのです。

 いまはまだ、読みたい本も、読まなければならないと思っている本もたくさんあるので、音楽を聴くだけに時間を割くのが惜しい気がしているのです。つまり、あんなに好きだった音楽が自分の人生の優先事項 priority ではランクが落ちたということになります。

 そして、唐突ながら、最近、酒量がめっきり減りました。昔は大酒飲みだったんですが、別に飲まなくても平気な顔をすることができるようになりました。自分自身の健康に気を遣っているかもしれませんが、どうしても呑みたいという気もあまり起きなくなりました。単に年を取ったせいなのかもしれませんが…(笑)。

 まだあります。美術の趣味が全く変わってしまったことです。若い頃は、泰西名画一辺倒で、ゴッホの「ひまわり」とか、とにかく脂ぎった油絵が大好きだったのに、今では、わびさび、枯淡な水墨画、もしくは長谷川等伯、狩野派、琳派などの日本美術の方が遥かに好きになりました。展覧会に行くとしたら、西洋美術よりも日本美術や仏像展を優先したくなります。

 なあんだ、やはり、単に、抹香臭くなって、年を取っただけかもしれませんね(笑)。

 

三島事件から半世紀、極めて個人的な雑観

 ◇三島割腹自決の衝撃

 11月25日は作家三島由紀夫が陸上自衛隊の市谷駐屯地で割腹自決した日で、今年はちょうど半世紀です。ということは、現在53歳ぐらいか、それ以上の方でないと、この事件を実体験した感想は書けないと思います。

 あの衝撃は今でも忘れられません。私は東京都下の中学生でした。当時、自分でもよく分からないのですが、剣道部に所属していて、この事件の第一報を知ったのは、剣道部の顧問の杉本教頭先生からでした。帰りがけの我々に学校の校庭で彼はこう言いました。「本日、日本で一番偉い方が亡くなりました」。

 日本で一番偉いのかどうなのか。当時、三島の作品を碌に読んでいなかったくせに、妙に反発心が湧き起きたことを覚えています。名前を知っていた三島作品は「潮騒」「永すぎた春」「金閣寺」など映画化された作品ばかり。ということは、まだ読んでおらず、小説は「仮面の告白」を既に読んでいたかどうか、記憶は曖昧です。

 三島主演の映画「憂国」(1966年)は見ていなくとも、切腹シーンで話題騒然となったことは覚えています。それが、実際、三島自身がミニチュア軍隊のような「楯の会」を結成して、メンバーとともに市谷駐屯地を襲撃して、本当に割腹してしまうのですから、興味よりも恐ろしさの方が先だったことを覚えています。当時は全共闘運動が盛んで、世間では左翼勢力の天下のような雰囲気だったせいか、極右の三島は恐ろしい人だ、憲法が改正され、徴兵制が敷かれ、戦争が始まる、といった恐怖心の方が強かったのでした。(私の少年時代は、親世代の戦争の記憶はまだ生々しく、私自身も徴兵制は復活すると思い込んでいました)

 翌日だったか、クラスの誰かが、朝日新聞の前日の夕刊を持ってきました。総監室で割腹自決した三島と三島を介錯した後自決した森田必勝の二人の首が並んだ写真が一面に大きく掲載されていました。この写真は、カメラマンが敷居の上から当てずっぽうにシャッターだけを押して隠し撮りしたら写っていたらしいのですが、個人的には「どうしてこんな写真を載せるんだろう」という気持ちが強かったでした。

◇50年後を予言した三島由紀夫

 まだ、中学生でしたから、政治も文学も思想も哲学も難し過ぎて関心すらなし。ビートルズやレッドツェッペリンに夢中でした。そのせいか、三島のクーデターまがいの行動には、滑稽と言えば生意気過ぎますが、正直、痛々しさを感じました。バルコニーで演説中は野次が飛び、三島本人も自衛隊員が同調して一緒に決起してくれることを期待していなかったようですし。

 半世紀を過ぎ、三島が生きた45歳をとうに過ぎた今の私は、三島が命を懸けて書いた「檄」文はある程度理解できます。それ以上に、檄文はまるで「予言の書」ではないかと思うようになりました。三島が憂いたように、「自衛隊はアメリカの傭兵」のような存在のままで、今でも莫大な資金でイージス艦など大量の米国製武器を買わされて続けています。日本国民の税金で。

 三島の死後、経済優先の弱肉強食の金融市場主義が蔓延って貧富の格差が拡大し、電車の中で化粧をしても恥とも思わない、三島が予言したような魂の抜けたような日本人ばかりになってしまいました。

 私は高校から大学にかけて、三島の主要作品は読破して、その煌めくような華麗な文体に眩暈し、日本文学史上最高の知性を持った文章家ではないかとさえ思ったことがあります。三島が自決する前夜に「最後の晩餐」をした東京・新橋の「末げん」に食事に行ったり、三島の遺児が成長して開店していた銀座の「宝石店」を探して見に行ったり、三島が夜な夜な通い詰めた新宿のバー「どん底」に飲みに行ったりし、結構、ミーハーなこともやったりしました。

それなのに、最後までアンビバレントの気持ちはなくなりませんでした。純真だった中学生の頃の反発心と、長じて文体に魅了された敬服心という相反する気持ちです。

◇ジャーナリズムの真骨頂

 今は、仮面を被った三島由紀夫よりも、幼少期病弱で祖母に溺愛された本名の平岡公威の方が興味があります。また、農商務官僚で、三島の死後も長命を保った実父平岡梓の方が興味があります。さらに、内務官僚で汚職の嫌疑で樺太長官の職を追われた三島の祖父平岡定太郎の方がもっと興味があります。

 三島のボディビルで鍛えた筋肉隆々で自身満々の姿は、己の弱さを隠すための方便だったのではないかと愚察しています。文学として、三島より、夏目漱石や芥川龍之介や太宰治の方に私自身が惹かれるのは、後者は、三島のように「弱さ」を隠すことなく、人間の「弱さ」を作品の中で正直に吐露してくれたからだと思います。

 三島没後50年ということで、新聞、テレビ、雑誌等で散々取り上げられ、未だに熱烈な信奉者が多いことも分かりました。でも、11月25日を過ぎれば、取り上げられる機会は減ることでしょう。

 それこそがジャーナリズムの真骨頂です。