箱根の岡田美術館の収蔵品には驚き

スペイン、アルハンブラ宮殿

箱根にある岡田美術館で、来年3月まで「開館5周年記念展 美のスターたち 光琳、若冲、北斎、汝窯など名品勢ぞろい」が開催されております。

重要文化財を含み約450点が公開されているようですが、その出展作品は半端じゃありません。

美術好きの私ではありますが、岡田美術館は、一度も行ったことがありませんし、全く知りませんでした。熱海にあるMOA美術館が世界救世教の教祖の岡田茂吉(1882~1955年)が創立者なので、てっきり、その「姉妹館」かと思いました。

そしたら、まるっきり違うんですね。岡田美術館の創立者は岡田和生氏(76)で、ユニバーサルエンターテインメントの創業者。何の会社かと思いましたら、パチンコ機などの製造販売メーカーで、ラスベガスや香港など海外でカジノまで経営しているようです。旧社名「アルゼ」なら聞いたことがあります。

今は便利な世の中で、このユニバーサル社についても、岡田氏についても、ネット上で簡単に検索できます。まさに毀誉褒貶で、何処まで正しい正確な情報なのかは神のみぞ知るといった感じでしょうか。下世話な言い方で恐縮ですが、バクチって随分儲かるものなんですね、ただし「胴元」なら(笑)。

とにかく、コレクションの質の高さには驚きです。1948年以降、64年間所在が不明だった喜多川歌麿の肉筆大作「深川の雪」、83年間所在不明だった伊藤若冲の「孔雀鳳凰図」、重要文化財の尾形乾山「色絵竜田川文透彫反鉢」、それに、尾形光琳、葛飾北斎、横山大観、速水御舟ら名品ぞろい。これら全て、個人の収集品なんですからね。思わず、「凄い財力」「半端じゃない資産」と叫びたくなってしまうほどです。

別に「成金趣味」などと批判するつもりは毛頭ありません。むしろ、貴重な日本の美術品が海外に流出されなくてよかったわけで、これは岡田氏の功績です。

ただ、入場料の一般2800円は、ちょっと高過ぎるんじゃないかなあ(笑)。

「アンダー・ザ・シルバーレイク」は★★

久しぶりに劇場に足を運んで映画を見てきました。最近、ほんの少し嫌なことがありまして、現実逃避したかったからです(笑)。

それにしても、最近は、一食抜いてでも、是が非でも観てみたいという映画がない!ない、と断定すれば、製作者にあまりにも失礼なので、少ない!と言っておきます。

第一、ただで観ている映画評論家はグルですからね。つまらない映画でも「最高!」だの「面白い!」だのといった陳腐な言葉を並べて、見事、宣伝マンの役割を果たします。あまり、貶せば次に仕事が来なくなるからでしょう。

でも私は騙されました。「今年ベストの声続々」「カンヌも騒然となった”新感覚サスペンス”」の宣伝文句に惹かれて「アンダー・ザ・シルバーレイク」(デヴィット・ロバート・ミッチェル監督最新作)を観てきましたが、支離滅裂。最初に、とっても懐かしアソシエイションズの「ネバー・マイ・ラブ」(1967年)が掛かって、大いに期待されたのですが、はっきり言いますが、駄作でした。

まさに、ロサンゼルス郊外のハリウッドが舞台のハリウッド映画。天下のハリウッド映画も随分劣化したものです。

ミッチェル監督は、何を表現したかったのか。ヒッチコックや無声映画女優ジャネット・ゲイナーらの墓が出てきたり、マリリン・モンローの主演映画「女房は生きていた」を模したシーンが出てきたり、往年の黄金時代のハリウッド映画に対するオマージュが随所に盛り込まれ、それは分かりますがね。ホラーサスペンスと称しても、日本人の感覚からすれば、ちょっと頂けない残虐な暴力や殺人場面が多過ぎです。それに、暗号解読と言っても、子ども騙しのパズルのようなダサいからくりなので呆れてしまいました。

登場する若い男も女も、気ままに本能のまんま生きている感じで、退廃的。ハリウッド・セレブたちのパーティー場面が多く出てきて、「現代風俗を活写した」とでも言いたいのでしょうが、まさに、エログロナンセンスのオンパレードでした。

主人公のサムは、映画か音楽業界での成功を夢見て田舎から出てきた青年で、家賃が払えないという設定ながら、高級車を持っているというのも変。マザコンの母親がしょっちゅう電話を掛けてくるので、家賃代を借りればいいのに、払えず追い出される寸前と話が進んでいきます。住んでいるアパートもプール付きですからね。

暗号解読の末、新興宗教のカルト集団のアジトに行き着きますが、その教祖らしい男が「生きているだけで、心配事が多過ぎる」と言いながら、3人の若い女と一緒に集団自殺するのも、作り物の映画と知りつつ、何か、最後まで歯がゆくなるほど、イライラしてしまいました。

これは、あくまでも個人の感想ですが、この映画を観た後、小津安二郎監督の「東京物語」をまた観たくなってしまいました。もう何十回も観てますが、あんな「時代風俗」を活写した名作はないからです。原節子は、戦死した次男の妻紀子役でした。尾道から出てきた年老いた両親を親身になって世話をするのは、実の息子や娘ではなくて、この血の繋がっていない戦争未亡人でした。

戦死した次男は出てきません。この映画は1953年公開ですが、まだまだ、戦争の傷跡が残っている時代で、どこの家庭でも、親戚や親、兄弟の中で、一人か二人は戦死しているという共通の体験がありました。だから、説明しなくても、笠智衆と東山千栄子が演じた年老いた両親の気持ちが分かったのでしょう。

「アンダー・ザ・シルバーレイク」は確かに現代という風俗を活写してましたが、駄作に終わったのは、時代そのものが劣化したせいのような気もしてきました。

「青年の樹」のモデルの藤木氏

これでも私は昔、映画に出演したことがあります。長身痩躯で美男子でしたからねえ(笑)。

でも、出演と言っても端役、いや、これも言い過ぎで、台詞もない単なるエキストラを学生時代にアルバイトで何本かやっただけでした。

その中に「青年の樹」という作品がありました。1977年公開の東宝映画(西村潔監督)で、主演は、三浦友和と檀ふみ。後から知ったのですが、原作は石原慎太郎の同名の小説(1959~60年、「週刊明星」連載)で、既に60年に石原裕次郎と北原三枝のコンビで日活で映画化されており、これが二度目でした。

横浜の港を舞台にした作品で、ヤクザ和久組の跡取りとして生まれた主人公が東京の大学に入学し、「苦闘の末、二代目となる青春怒号篇」ということですが、もう40年以上も昔なので、内容はすっかり忘れてしまっております(笑)。学生役でしたから、衣装も私服で、そのまんまでした。

撮影現場は、立教大学だったかなあという程度の記憶ですが、主役の三浦友和さんが学食で食事する場面で、彼が箸を口元に持って行くと「カット」。食べようとすると「カット」。それをアップで撮ったり、少し離れて撮ったり、右から撮ったり、左から撮ったり、そのたんびに、「カット」の連続。「えっ?これで演技できるの?」という感じでした。

溝口健二監督らが映画のことをよく「シャシン」と言ってましたが、本当に映像ではなく、写真を撮っている感じでした。そう言えば、昔は映画のことを活動写真と言ってましたからね。「あー、こうして映画が撮影されているのかあ」と思うのと同時に、「俳優って、あまり面白くないなあ」と生意気に思ってしまい、それ以来、俳優志望をやめてしまいました(笑)。

檀ふみさんは、憧れの女優で、私も大ファンの檀一雄先生のお嬢様ですからね。サインをもらいたかったのですが、彼女は勉強家でいつもロケバスの中で本ばかり読んでいて近づけない雰囲気でした。

気張った私は、単なる主役の背景になる学生なので、目立ってはいけないのに、カメラを見てしまったりして、「おい!そこの! エキストラなんだから、目立っちゃ駄目なんだよ。何やってんだよ!」と助監督に大声で怒られたことを覚えています。それで、エキストラも嫌になって、アルバイトもやめた気がします。

さて、この石原慎太郎著「青年の樹」にはモデルがいました。横浜港運協会会長で、藤木企業会長・横浜エフエム社長の藤木幸夫氏です。少し、毀誉褒貶のある方で、陰では全国的に有名な「横浜のドン」と呼ばれ、地元政財界を仕切っているという噂の持ち主です。これもまた、噂の領域を出ませんが、菅官房長官のパトロンとも言われ、横浜市がカジノを誘致した場合、一番の顔役になる人とも言われています。

その彼の半自叙伝「ミナトのせがれ」(神奈川新聞社、2004年8月18日初版)を読むように、と名古屋にお住まいの篠田先生が貸してくれました。その本の帯に石原慎太郎氏が「私はかつて、若き日の著者をモデルに『青年の樹』を書いたことがある…」と推薦文を書いていたので、自分も上述したことを思い出したわけです。

藤木氏は、早稲田大学政経学部卒のインテリながら、父親の藤木幸太郎が一代で築き上げた港湾荷役業会社を継いだ二代目です。腕力だけが頼りのかつての荷役業者には「酒と女とバクチ」にはまるヤクザな荒くれ者が多かったのです。それを父親は、自分の腕力と交渉力と良き先輩に恵まれ、カタギだけを育てたことで、全国船内荷役協会の会長まで昇り詰めます。同協会副会長が神戸の田岡一雄甲陽運輸社長だったことから、「田岡のおじさん」とは公私にわたる家族ぐるみの付き合いで、そこから世間の誤解も招いたります。

藤木氏は、中国に何度も何度も渡り、大連港の荷役業務を整備して中国政府から表彰されたり、横浜オランダの名誉領事に選ばれたりする逸話は読み応えがありました。

山田耕筰、豊富な人脈を持つ巨人

一昨日10月8日に「山田耕筰 歌曲集」を取り上げたところ、不思議なことに、ブログに書けるほど(笑)の情報が集まってきました。

まずは、山田耕筰の人となりはー。

山田耕筰(1886〜1965年・明治19年〜昭和40年)

【作曲家・指揮者】日本西洋音楽史上の巨人。「赤とんぼ」など美しい童謡は、今も愛唱される。大正・昭和期の作曲家・指揮者。東京都出身。1908年(明治41)東京音楽学校卒。1910年ベルリンに留学。1914年(大正3)帰国して、精力的にオペラやオーケストラ作品を創作する一方、東京フィルハーモニー会に管弦楽部を創設、日本楽劇協会・日本交響楽協会を設立。日本の洋楽普及に多大な貢献をした。北原白秋と出会い、今も親しまれる童謡の名作を多く残した。作品は、交響曲「かちどきと平和」、歌劇「夜明け」、歌曲「赤とんぼ」「からたちの花」「この道」など。

 この出典は、(財)まちみらい千代田「江戸・東京人物辞典」からなのですが、この辞典の執筆者によると、何しろ、山田耕筰は「巨人」ですからね。今では少し忘れられてしまいましたが、とてつもない人です。

 まず、個人的なことながら、静岡県の義母(故人)が、山田耕筰の似顔絵入りのサインを持っていたのです。義母は若い頃、浜松市にある河合楽器の社長秘書を務めていたことがありました。その関係で、河合楽器に所用で訪れた山田本人から直接頂いたようですが、当時私は山田耕筰に熱烈な関心があったわけではなかったので、詳細について聞き忘れてしまいました。

とにかく、似顔絵はご自分で書かれたのかどうか分かりませんが、大僧正のような堂々とした禿頭(とくとう)で風格がありました。

はい、このような感じです。若い頃とは全然違いますね。

写真はいずれも、山田耕筰 十七回忌記念出版「この道 山田耕筰伝記」(恵雅堂出版)の編集を担当されたM氏からお借りしたものです。(従って、写真等の著作権は恵雅堂出版社に帰属します

M氏は「この本は、入社当初の私が編集を担当しました。実際に執筆したのは、社団法人 日本楽劇協会の皆さんですが、その中には山田耕筰の秘書をしていた方もいらっしゃいました。編集作業で1年間程、皆さんと接することができ、耕筰をめぐる大きな人脈の渦を感じたりして貴重な体験でした」と振り返っておりました。
同書は昭和57年発行で、 A4判カラー42ページ、本文中にモノクロ写真を多数掲載した総 305ページの豪華本ながら、残念ながら、現在は絶版だとか。

それでも、M氏は、この「この道 山田耕筰伝記」の一部コピーしたものをメールに添付して送ってくださいました。

この中で、先日、大阪音大の井口教授が講演された「原善一郎」の名前も出てきました。原が大正11年頃、突然、山田を訪ねてきて「ハルビン交響楽団の指揮をしてもらいたい」と要請した話などが出てきます。

また、大正15年夏、日本交響楽協会の分裂騒動が起き、30余人が脱退。山田側の残留者はわずか5人だったといいます。脱退組は近衛秀麿(指揮者で、近衛文麿の実弟)を中心に「新交響楽団」を結成、これが今日のNHK交響楽団の前身となった、と書かれています。私は不勉強で知りませんでしたが、あんなに仲の良かった山田と近衛は仲違いしたということなのでしょうか。

エピソードも満載です。占い好きの山田は昭和14年、実業之日本社から「生れ月の神秘」という占い本を出版して20版以上版を重ねるベストセラーになりました。山田は自分の名前を「耕作」から「耕筰」に改名し、戸籍まで変えてしまったというのです。

もう一つは、下の朝日新聞の記事(1981年11月25日付)にあるように、山田耕筰の未完の遺作オペラ「香妃」を山田の高弟である団伊玖磨によって完成され、東京と大阪で公演されるという内容です。

このオペラ「香妃」について、M氏は「私は幸運にもリハーサルから見ることができました。團伊玖磨先生が女性の声楽家に声を荒げて指示していた場面も見ています。いやはや、オペラひとつ公演するのには大変な財源と人材、エネルギーがいるもののだと若かった私はビックリしました」との感想を漏らされておりました。

オペラ「香妃」説明

オペラ「香妃」の一場面

繰り返しになりますが、これら貴重な写真は、いずれも山田耕筰 十七回忌記念出版「この道 山田耕筰伝記」(恵雅堂出版)の中で掲載されたものをお借りしたものです。ついでながら、昭和17年、山田耕筰に、満洲の皇帝愛新覚羅溥儀から贈られた「乾隆の壷」までありました。

山田耕筰は明治、大正、昭和という時代を代表する文化人であり、その時代の証言者でもあったことが、これでよく分かります。

特別展「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」で心が洗われました

「体育の日」のある三連休のほとんどがブログの取材と執筆と校正と、講演者様とのメールのやり取りと、訂正と更新とさらに更新に追われてしまいました(笑)が、寸暇を惜しんで、東京・上野の国立博物館で開催中の特別展「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」に足を運んできました。

普段の私は、やましい心の狭いことばかり考えておりますから、せめて仏像様のお力と御慈悲によって、心を洗おうという罰当たりな魂胆を敢行したわけです。

京都にお住まいの京洛先生のお導きで、有難いことに、京都奈良の寺社仏閣はかなり巡っているのですが、大報恩寺は聞いたことがありませんでした。

非常に楽しみに出掛けたところ、大報恩寺とは、北野天満宮近くの千本釈迦堂のことではありませんか!

ここなら、京洛先生お気に入りの寺で、小生も何度かお参りしておりました。

千本釈迦堂大報恩寺は、鎌倉初期の安貞元年(1227年)に義空上人(奥州藤原秀衡の孫に当たる)によって開創された寺です。洛中で「火災に遭うことなく現存する」最も古い寺だといいます。本堂は、創建時そのままのもので「国宝」に指定されております。柱には応仁の乱の刀や槍の傷跡が残っていました。

◇京洛先生と倶梨伽羅紋々

京都の人が言う「この前の戦災」とは、鳥羽伏見の戦いではなく、応仁の乱を指すことがこれで分かりました。

境内では毎年12月に「大根焚き」が行われ、もう5、6年前のことですが、たまたま京洛先生と一緒にベンチに座って、熱々の大根を食べていたら、テレビがこちらに取材に来ました。

そしたら、京洛先生はその筋の人ですから、背中の倶利伽羅紋々を見せながら、何か一言言った途端、テレビ・クルーの人たちは真っ青な顔をして慌てて逃げ去ってしまったのです。

何事が起きたのか、京洛先生に尋ねたところ、彼は、ちょうど取材に来たテレビ局のライバル・テレビ局のロゴが背中に入ったジャンパーを着ていたのです。

「『ここの者だけど、いいの?』と言っただけですよ」と京洛先生は平然としたものでした。もちろん、彼はライバル・テレビ局の人間ではありません(笑)。

特別展「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」のパンフレットより

さて、大報恩寺展のことでした。

四年に一度のご開帳でしか拝めない「釈迦如来坐像」(快慶の一番弟子・行快作)や「釈迦十大弟子立像」(快慶最晩年作)、「六観音菩薩像」(運慶の晩年の弟子・肥後定慶作)は、前から後ろから360度の角度から見ることができて、見応え十分でした。なんて、言ってはいけませんね。荘厳な気持ちになりました。

合掌

お蔭さまで、心が少し軽くなりました。

【六観音菩薩】とは

六道それぞれの衆生を救う6体の観音密教では、地獄道聖(しょう)観音餓鬼道千手観音畜生道馬頭観音修羅道十一面観音人間道准胝(じゅんでい)または不空羂索(ふくうけんじゃく)観音天道如意輪観音を配する。(大辞泉より)

【釈迦十大弟子】とは

釈迦(しゃか)の10人の高弟。「智慧第一」の舎利弗(しゃりほつ)、「神通(じんつう)第一」の目犍連(もくけんれん)、「頭陀(ずだ)第一」の摩訶迦葉(まかかしょう)、「天眼第一」の阿那律(あなりつ)、「解空(げくう)第一」の須菩提(しゅぼだい)、「説法第一」の富楼那(ふるな)、「論義第一」の迦旃延(かせんねん)、「持律第一」の優婆離(うばり)、「密行第一」の羅睺羅(らごら)、「多聞(たもん)第一」の阿難陀(あなんだ)。(大辞泉より)
地獄道から衆生を救済する聖観音菩薩像(もちろん、この菩薩像だけがフラッシュなしの撮影を許可されていました。「地獄にいる人が多いせいなのかなあ」と邪推してしまいました)

ニキータ山下のディナー・コンサートと「山田耕筰歌曲集 傑作選100曲」

先程、哈爾浜学院にまつわる話題を《渓流斎日乗》に取り上げさせて頂きましたが、その「関係者」(笑)の方から、是非とも取り上げてほしいというコンサート等がありましたので、乗り掛かった舟ですから、茲でもお報せすることに致しました。

ご興味のある方は、是非、ご参加ください。

ポスターにある通り、ニキータ山下によるロシア民謡などのディナー・コンサートです。アコーディオンは、後藤ミホコ。

2018年11月1日(木)と6日(火)開場18時15分。場所は、東京・高田馬場駅前にあるロシア・レストラン「チャイカ」(電話03-3208-9551)です。

ニキータ山下は、ハルビンで日本人の父親と白系ロシア人の母親との間で生まれ、東京芸大声楽科を卒業。男性ボーカルグループ「ロイヤルナイツ」にリードボーカルとして参加して、旧ソ連で一躍人気グループとなり、その後ソロでも活躍している歌手です。

もう一つは、大阪音楽大学の井口淳子教授の講演会の「原善一郎」関係で、何度も山田耕筰が出てきましたが、その関連として、「山田耕筰歌曲集 傑作選100曲」(恵雅堂出版CD)をご紹介します。関定子ソプラノ、塚田佳男ピアノで「この道」「からたちの花」「赤とんぼ」などが収録されています。

1994年度レコード・アカデミー賞を受賞しております。不朽の名盤ですね。

えっ?何か、宣伝臭いですって?

いや、広告じゃありませんよ。あくまでも、ご紹介です。

東方社と原善一郎について御教授賜りました

一昨日6日に開催されたインテリジェンス研究所(山本武利理事長)主催の午後の講演会では、新たにお二人の研究者の発表がありました。

◇東方社研究のこれまでとこれから

お一人は、京都外国語大学非常勤講師・政治経済研究所主任研究員の井上祐子氏による「東方社研究のこれまでとこれから―井上編著『秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争―東方社が写した日本と大東亜共栄圏―』の紹介を兼ねて―」というお話でした。

タイトルが異様に長いのですが(笑)、井上氏が今年7月にみずき書林から出版された同名書の紹介を兼ねた東方社研究発表でした。同書の内容紹介として「戦時下の日本とはどういう場だったのか。そして大東亜共栄圏のもとで各国の人びとはどのように暮らしていたのか―。陽の目を見ることなく眠っていた写真2万点のなかから200点を精選し、詳細な解説とともに紹介」とあります。

私は不勉強で東方社を知りませんでしたが、かろうじて、戦時中に戦意高揚のプロパガンダのために発行された写真雑誌「FRONT」は知っておりました。東方社は、この「FRONT」などを発行していた陸軍参謀本部傘下の写真工房だったのです。

東方社で活躍し、戦後、特に有名になったカメラマンとして、木村伊兵衛、濱谷浩、菊池俊吉らがいますが、理事として、ヴァレリー研究家でフランス文学者の中島健蔵がかかわっていたとは知りませんでしたね。(彼の経歴ではあまり触れられていません)もちろん、評論家の林達夫が第3代理事長で、岩波書店社主の岩波茂雄に資金面で援助してほしい旨の書簡まで送っていたことも知りませんでした。

井上氏の編著書は労作です。2万点のネガから200点を精選したということですが、キャプションがないので、本当に大変だったと苦労話を披歴しておりました。写真に写っている背景の看板や標識などから、場所や時代を特定したり、写っている人物が分からないので、戦時中の新聞を何時間もかけて照合してやっと特定するという作業をやってきたそうです。

講演会後の懇親会で、井上氏本人に伺ったところ、膨大なネガは、旧所蔵者の遺族の皆さんだけでは、維持・管理が難しいため、政経研で受け入れることになったそうです。

歴史的に貴重な遺産がこうして陽の目をみたのは、井上氏らの功績でしょう。

◇原善一郎とは何者か?

もう一人は、大阪音楽大学音楽学部教授の井口淳子氏で、講演タイトルは「戦時上海の文化工作―上海音楽協会と原善一郎(オーケストラ・マネージャー)」でした。

井口氏によると、上海音楽協会とは、 1942年6月、外務省、興亜院、陸海軍の監督の下、上海在住の民間人によって設立された文化工作を目的とした財団法人で、その中核は、上海交響楽団による公演活動でした。戦時中、日本国内では、「敵性音楽」演奏は禁止されていたと思いますが、外地ではかなり頻繁に公演会が催されていたようです。

私は全く存じ上げませんでしたが、原善一郎(1900〜51)という人は、同年10月頃からこの上海音楽協会の主事(オーケストラ・マネジャー)になった人で、戦後は音楽プロモーターとしても活躍します。

原は、経歴が大変変わった人で、長野県の貧しい農家に生まれ、旧制中学校を中退せざるを得なくなり、横浜の貿易会社松浦商会に入社します。同商会の哈爾浜(ハルビン)支店に派遣されたことが、彼のその後の人生を大きく変えます。哈爾浜学院でロシア語を習得したお蔭で、その語学力が認められて、1925年、山田耕筰と近衛文麿による「日露交歓交響管弦楽演奏会」のマネジャーに抜擢されます。翌26年から35年にかけて、新交響楽団のマネジャーを務める一方、上海在住のユダヤ系ラトヴィア人音楽プロモーター、ストロークの片腕となり、海外演奏家のマネジメントやラジオ放送出演などを協力したりします。

42年から上述通り、上海音楽協会の主事を務め、上海交響楽団プロデュース。その後、ハルビン交響楽団(朝比奈隆指揮)にも関わります。戦後は、その朝比奈に請われて、関西交響楽団の専務理事を務めることになります。

1951年、世界的なバイオリニスト、メニューヒンの日本公演を興行主ストロークとともに、東奔西走しているうちに過労のため朝日新聞社内で心臓発作を起こし、そのまま帰らぬ人となりました。享年50。以上、これらは井口教授の調査によるものです。

敗戦後の哈爾浜学院

皆様御案内の通り、私は個人的に、哈爾浜学院には思い入れがありますので、関係者にこの「原善一郎」について、学院の卒業者名簿に当たってもらったところ、本科の正規生として「該当者なし」ということでした。ただ、哈爾浜学院には、本科以外に、軍部や外務省、満鉄などから派遣された特修科(専攻科)生がおり、こちらは故意なのか、名簿を残さなかったか、散逸したか、なので、原善一郎はそちらに所属していた可能性があるようです。

なぜなら、原善一郎は「参謀本部の嘱託として宣伝の仕事をしていた」という土居明夫(元陸軍中将)の証言があるからです。

最後に、井口教授は「戦争がなかったら、原善一郎は山田耕筰や近衛秀麿らと知り合っていなかったことでしょう。音楽マネジメントには『記録は残さない』という不文律があるため、詳細について残っていない。まだまだ原善一郎に関しては謎が多い」と結んでおりました。

私も文化記者時代の25年ほど前に、東京のホテルオークラで朝比奈隆にインタビューしたことがありましたが、上海やハルビンの話も原善一郎の話も全く耳にしませんでした。

いずれにせよ、お二人の意欲的な研究には頭が下がる思いで拝聴しました。

📖中島健蔵「昭和時代」(岩波新書、1957年)

📖多川精一「戦争のグラフィズムー回想の『FRONT』-」(平凡社、1988年)

📖岩野裕一「王道楽土の交響楽ー満洲知られざる音楽史」(音楽之友社、1999年)

クールベ「世界の起源」のモデルをついに発見!

アルハンブラ宮殿

ギュスターヴ・クールベ(1819〜77)は、19世紀フランスを代表する写実主義の画家です。代表作「オルナンの埋葬」「画家のアトリエ」などはよく知られています。詩人ボードレールの肖像画も残しています。

私自身は、大学の卒論に「印象派」(モネとドビュッシー)を選んだくらいですから、フランス史の中では、19世紀の文化や、革命を挟んだ帝政、王政復古、共和制、帝政、共和制とコロコロ変わる政治体制などにも関心があり、今でも興味を持ち続けております。

さて、クールベですが、パリのオルセー美術館に行かれると、クールベ・コーナーがありますが、そこに、ほぼ等身大の女性のgenitalsのクローズアップが展示されていて、まず大抵の人は度肝を抜かされます。タイトルの「世界の起源」(46×55センチ)とは言い得て妙で、よく名付けたものです(笑)。顔は描かれていません。局部だけです。

あまりにもリアル過ぎて「これ、ゲージュツなの?」と東洋から来たおじさんは圧倒されますが、これを見る前に、2人の若い裸婦がベッドで絡むようにまどろんでいる姿を描いた有名な、あの官能的な、想像以上に巨大な「眠り」(135×200センチ、プティ・パレ美術館)を事前に見ていれば、そのドギマギ感は少し薄れるかもしれませんが(笑)。

勿論、19世紀のサロンでは、このgenitals作品は大スキャンダルとなり、すぐさま隠匿され、オルセー美術館で一般公開されるようになったのは、つい最近の1995年からでした。その前は、著名な精神科医のジャック・ラカン(1901~81)がオークションで落札して何年間も、秘蔵していたようです。

「世界の起源」は検索すればその画像が出てきますが(18歳未満お断り。ここでは載せられません!)、そのモデルは誰なのか150年以上も不明で、一時はクールベお気に入りのモデル、ジョアンナ・ヒファーナン説もありましたが、謎に包まれていました。

それが、このほど、ついにその「正体」が分かったというのです。歴史家のクロード・ショップ氏が、仏国立図書館の司書部長で美術史家のシルビー・オーブナ氏の手を借りて、小説家のアレクサンドル・デュマと閨秀作家ジョルジュ・サンド(ショパンとの関係は有名)との往復書簡に注釈を付ける作業をしているうちに、そのモデルの名前が出てきて、偶然にも発見したというのです。

写真左がモデルのコンスタンス・ケニオー、右が画家クールベ

10月2日付のニューヨーク・タイムズ紙によると、そのモデルは、コンスタンス・ケニオー(Constance Quéniaux 1832~1908)という人物でした。パリ郊外で私生児として生まれ、オペラ座バレー団の踊り子として活躍した後、膝の故障で引退し、その後、高級娼婦になります。今ではすっかり忘れ去られましたが、当時は、あの楽聖ワーグナーと並び称されたオペラ作曲家のダニエル・フランソワ・エスプリ・オーベール(1782~1871)(現在は、パリ高速地下鉄オーベール駅にその名を残しています)の愛人となり、晩年はロワイヤル通りの豪邸に住み、彼女の死後は、その財産目録がオークションにかけられるほど裕福な後半生を送った人でした。

彼女がモデルになったのは1866年で、34歳ごろだったことが分かります。クールベは47歳でした。(依頼主は、当時コンスタンスを愛人にしていた元オスマントルコの外交官で超お金持ちのハリル・ベイ)その後、クールベは1870年のパリ・コミューンに参加してスイスに亡命せざるを得なくなり、不遇のうちに亡命先で57歳で亡くなります。

コンスタンスは、オペラ座の踊り子としてはかなり才能があったらしく、1854年の新聞の批評欄でも「優美で気品がある」と褒められています。詩人で批評家のテオフィル・ゴーティエも注目したようでした。

時は、日本で言えば、幕末の話です。現代人の感覚では、娼婦から愛人という遍歴は、眉をひそめるかもしれませんが、150年前は、田舎出の、しかも、私生児として生まれた女の子が、社交界にデビューするなり、それなりの地位に昇る手段の一つだったのかもしれません。富裕層は、劇場などに出かけては踊り子や女優らを自分の愛人にする時代でした。

 クールベも依頼主のベイの2人とも不遇のうちに亡くなりました。でも、コンスタンスの場合は、美貌と才覚に恵まれたおかげか、「成功者」として穏やかな晩年を過ごしたようでした。享年75。

あの初音ミクに童謡を歌わせているのは 88歳のおばあちゃんYouTuber

アルハンブラ宮殿

皆様ご存知、あの宮さんのご令姉様には特別な御才能が満ち溢れており、ユーチューブ上で、初音ミクに童謡を歌わせた作品を発表し続けております。

2週間前には、最新作?の童謡「オイラはのら猫」を発表されております。

投稿者は「kogomi88」こと、群馬県在住の88歳の普通のおばあちゃん内藤昭恵さん。宮さんの御令姉さまです。

作品は、ご自分で作詞作曲したものや、知人や童謡仲間の詞に御令姉さまが作曲したものなどがあります。この「オイラはのら猫」のクレジットは「小阪百合子作詞 内藤昭恵作曲 小林登編曲 初音ミク歌」となっております。編曲家の方もいらっしゃるようですね。

実は、このスーパーおばあちゃんの童謡については、以前に一度、この《渓流斎日乗》で取り上げたことがあります。が、皆様ご案内の通り、事情があって、それらの記事は「消滅」してしまいました。

当時、取り上げさせて頂いた時は、確か、まだ作品は4~5曲だったと思いますが、今では、何と91曲(2012年10月11日 ~ 2018年9月12日 )までにもなったというのです。

まさに、大作曲家並みです!ただ者ではありません。

宮さんは「姉は、音楽の打ち込みからイラスト・動画作成、投稿まですべて一人でやっております。とはいっても、黒字経営の渓流斎さんのブログのようなわけにはいかず、収入はゼロです」と謙遜されておりますが、動画のかわいいイラストも御令姉さまのオリジナルとは、吃驚仰天。実に瞠目ものです。

(それにしても、「黒字経営のブログ」と言われると実におもわゆい=笑)

皆様も、ユーチューブで「kogomi88」と検索すれば、ほかに90曲出てきますから、是非とも御覧ください。

この中で、「かみなりゴロちゃん」という作品が、私が検索した現在、2591回視聴されており、一番人気が高いようです。

皆さん、是非とも応援してくださいね!

また、節目になったら、次回もまた取り上げさせて頂きたいと思っております。

「拡散」をお願いしているクラシック・コンサート

アルハンブラ宮殿

私の音楽遍歴ですが、子どもの頃はよく歌謡曲を聴いていました。城卓矢の「骨まで愛して」なんか好きでしたね(笑)。

10代からバンド遊びをやり始めたので、20代まで専らロックです。ビートルズ、ローリング・ストーンズ、クリーム、レッド・ツェッペリン、クイーン、ポリスなど主にブリティッシュ・ロックを聴いてました。

アルハンブラ宮殿

30代になると、一転してクラシックばかり聴いてました。特に、バッハ、ベートーベン、ブラームスの「三大B」とモーツァルト、マーラー、それにドビュッシー辺りをよく聴きました。エンターテインメントというより、教養として、モーツァルト以外はしかめっ面しながら聴いてました(笑)。

40代になると、専ら、ジャズやボサノヴァです。王道のマイルス・デイビスとコルトレーンにはまり、ピアノはビル・エバンスとウインストン・ケリー、ギターはウエス・モンゴメリー、ボーカルはヘレン・メリルとチェット・ベイカーの「遅れてきたファン」になりました。

ボサノヴァのアントニオ・カルロス・ジョビンは、レノン=マッカートニーと並ぶ作曲家でしょう。ジョアン・ジルベルトも最高です。

とにかく、レコードやCDを買いまくりました。

アルハンブラ宮殿

で、今、自宅の特別オーディオルームという名のラジカセで、モーツァルトの交響曲第29番を聴きながら、このブログを書いております。

この曲は、意外と知られていませんが名曲です。1774年、モーツァルトが18歳の時に作曲した傑作です。さすが大天才です。この曲は、随分前から自分の頭の中でよく回っているのに、どうしてもタイトルが思い出せず、「何だっけ?何だっけ?室内楽だっけ?ディベルティメントだったっけ?」などと数週間、膨大なレコードコレクションの前で頭を悩ませておりました。

そしたら、やっと、色々と自分のコレクションを視聴して、「交響曲29番」だということが分かったのです。演奏は、カラヤン指揮、ベルリンフィル。

ルハンブラ宮殿 後宮のお風呂だとか

そして、昨日、ユーチューブでこのモーツァルトの交響曲29番を検索してみたら、カール・ベーム指揮ウイーンフィルの動画が出てきたので、聴いてみましたら、実に演奏が遅い、遅い(笑)。よく「疾走するモーツァルト」と音楽評論家たちは表現しますが、鈍足、牛足そのもの。まるで別の曲に聴こえてしまいました(笑)。

しかし、こんな名曲なのに、カール・ベームのユーチューブの視聴回数はわずか2900回程度。今、世界で最も売れていると言われながら、私はよく知らない(笑)アリアナ・グランデの「ブレイク・フリー」という曲なんか、現在、9億6000万回も視聴されているではありませんか!残念ながら、クラシックって、世界的にはマイナーな音楽なんだなあと痛感してしまいました。

それを証明する「事案」がありました。

アルハンブラ宮殿

私自身、最近は、昔のようにほとんど全くクラシックのコンサート会場に足を運びませんが、噂によると、このごろは会場に行くとパンフレットが配られ、そこには「聴衆の皆様へのお願い」として「どうか、この公演の内容やご感想をフェイスブックやツイッターなどのSNSでアップしてください」などと書かれているそうですね。

つまり、大手メディアや音楽雑誌だけでは、クラシックファンを獲得することができないので、お客さんにまで宣撫活動の協力を求めているわけです。

著作権がありますので、音声や動画まで拡散するよう要請しているかどうか分かりませんが、今やインスタグラムやユーチューブが大流行ですから、主催者やプロモーターやクラシックの演奏家としては、猫の手も借りたいほど切羽詰まっているということなんでしょうね。

それにしても、時代は変わったものです。