中部東海お城巡りツアー2日目は、墨俣一夜城・岐阜城・犬山城・岡崎城

国宝犬山城

昨晩は、尾上菊五郎丈に連れて行ってもらった名古屋一の繁華街栄の高級クラブ「みゃあたにゃ」で座っただけで4万5000円というテーブルチャージを払って、世紀の美女とドンペリニヨンを痛飲しました。

と、日記には書いておこう。

墨俣(すのまた)一夜城と木下藤吉郎

「中部東海お城巡りツアー」は最終日。この日は残り4城を廻りました。

最初は、名古屋から岐阜県大垣市に向かい、秀吉が信長の家臣木下藤吉郎の時代に、稲葉城攻略の拠点として、一夜で建ててしまったという墨俣城。本当かなあ?

金華山山頂329メートルに聳え立つ岐阜城

次に向かったのが、岐阜城。ここは、金華山の山頂にあり、ロープウエイで行きましたよ。

山頂駅から降りても、かなりハードな山道でした。

先程の秀吉が稲葉城攻略のために一夜で建てたという墨俣城。この、稲葉城が何処かと思ったら、ナーンダ、この岐阜城だったんですね。

稲葉城を岐阜城と改名したのは、織田信長でした。信長は、当時「井の口」と呼ばれた地名を岐阜と改名していたのです。

だから、岐阜と信長は、切っても切れない縁だったんですね。地元の英雄ですから、「信長ワンカップ」から「信長せんべい」に至るまで、お土産屋さんで売ってました。

信長は、山頂の岐阜城に住んだわけではなく、金華山の麓に大豪邸宅を作ったらしく、目下、「信長公居館」は発掘調査中で、わざわざ滝が注ぐ池の庭園まで作っていたようです。

国宝犬山城

続いて訪れたのが、犬山城。個人的ながら、実に60年ぶりの再訪です。

60年前は、写真が残っているだけで、殆ど記憶がありませんが(笑)。

渓流斎先生が御幼少の砌、訪れた犬山城

400年以上昔に建てられた木造建築がそのまま、残っていたことから、「国宝」一号に指定されたようです。いな、残っていたというより、代々の城主成瀬家が守り抜いたからに他ありません。

今でも、建前上は、成瀬家所有となっているそうですが、財団法人化して、一般に公開するなどして、かろうじて維持しているようです。

国宝の城は現在、全国に5カ所ありますが、賢明なる読者諸兄姉の皆様方は諳んじておられることでしょう。序でに、重要文化財に指定されている城は、7カ所あります。こちらは分かりますか?

岡崎城

最後に訪れたのが岡崎城。徳川家康生誕の城のとして有名ですが、想像していたより、敷地も広大で天守も立派だったので驚いてしまいました。

家康は、幼少年時代は人質生活が長く、この岡崎城に戻ってきたのは、信長が桶狭間の戦いで今川義元を破ってからです。その後間もなくして、浜松城に移ります。

1590年の秀吉による小田原攻めと北条氏滅亡で、家康は、関東に移封され、この時、岡崎城主となったのが、関ケ原の戦いで逃げる石田三成を確保して手柄を立てた田中吉政です。

江戸時代となり、岡崎城主田中吉政は、筑後柳川36万石を与えられる大出世を遂げます。

田中吉政には世継ぎがいなかったため、筑後柳川は、久留米の有馬藩と柳川の立花藩とに分割されてしまいます。

私のご先祖様は、久留米藩の下級武士だったため、田中吉政にはかなり興味があります。

先祖が、播磨の有馬の家臣だったのか、それとも、もともと田中吉政の家臣だったら、岡崎から移ってきた可能性もあるからです。

良い参考文献等があれば、御教授下され。宜しゅう頼みまする。

中部東海お城巡りツアーを大決行=駿府城〜浜松城〜名古屋城編

名古屋城

ムフフフ…私は今、名古屋におります。

独り、栄(名古屋一の繁華街)で、追河君と同じような貴族の夜を存分に味わっております(笑)。

訳がありまして、「徳川家康を訪ねて三千里」。急に、家康馴染みのお城巡りを思い立って、一人で新聞広告に出ていたツアーに申し込んで、参加したのでした。

駿府城

かつて一度訪ねたことがあるお城もこのツアーの中に入ってましたが、訪ねたのがもう半世紀以上前の大昔だったり、自分では行った気ながら、初めてのお城だったりしたのもありました。

今朝は、朝5時に目覚まし時計をかけていたつもりでしたが、目覚ましが「オン」になっておらず、もう少しのところで遅刻するところでした(笑)。

団体ツアーですから、遅刻していたら、アウト!このように皆様に御報告することは、不可能でした。

今の日本の縮図を反映して、見事に老男女46人もの人が参加しました。せめて30人くらいかと思っていたのに、バスはギュウギュウ詰めです。特に、後期高齢者が大きな声を出して一番元気でした。

ホモ・サピエンスですから、雌種の皆様は、バスの中で、1秒も休まずお喋りに費やして周囲に騒音を撒き散らし、朝早くて眠い小生なんかは、非常に不快でした。

駿府城

最初に訪れたのが、静岡市の駿府城。大河ドラマ「直虎」で何度も出てきたので、とても近しく感じていたのですが、これほど広大で立派な城だとは思いませんでした。

もともとは、室町時代の守護職今川氏の城でした。今川と言えば、一番有名なのが、今川義元です。

家康は、この義元によって、人質となり、幼年時代から少年時代をこの駿府城で過ごします。

そして、今川義元が桶狭間の戦いで、織田信長軍によって敗れると、家康は、今度は城主としてこの駿府城を拠点とします。

なおも、関ヶ原の戦いを経て全国統一して江戸幕府を開いてから、家督を二代家忠に譲ってから、家康は、またまた、「隠居」と称しながら、「院政」を敷いて、駿府城を拠点にします。だから、駿府城はこれが三度目です。

家康は、余程、駿府城が好きだったんでしょうね。

現在、天守(閣)を発掘、復元中で、完成すれば、また、素晴らしい観光資源となることでしょう。

浜松城

次に、バスで向かったのが浜松城です。

普通なら、駿府城から浜松城までバスで1時間もあれば楽勝ですが、今日は、桜が満開の日曜日と重なって、駐車場を求めて、道路が大渋滞で、2時間半はかかってしまいました。

浜松城は、家康が29歳から45歳までの元気な青年、中年期を過ごした城で、ここで、武田信玄との三方原の戦いで惨敗したりしますが、一番脂の乗り切った時代でした。後に「出世城」とも言われ、江戸中期、老中にまで出世した唐津城主水野忠邦らは、志願して国替えで浜松城主になったりしました。

個人的ながら、浜松城は、昨年訪れたばかりなので、飛び抜けて感動できませんでしたが、意外に敷地が広く、城下町もかなり工夫して築き上げていたことが分かりました。

名古屋城

この後、名古屋城に行きました。

名古屋といえば、以前、仕事と遊びで何十回も行っているのに、名古屋城を訪れるのは生まれて初めてだったということが、今日分かりました。当時、名古屋球場での中日戦のナイターの取材が終わると、栄で飲み明かしていたので、二日酔いの頭で行った記憶もないのです。

「尾張名古屋は城でもつ」と昔から言われていたのに、何で、これまで行かなかったのか?若い頃は、さほど城に興味がなかったのか、お城はあまりにも当たり前過ぎて、近くにあって、いつでも行けると思っていたのか、どちらかなんでしょうけど、いやあ、今日は感動しましたねえ。

名古屋城は、大阪城、熊本城と並ぶ三大名城なんですってね。(ちなみに、全国には、城跡まで含めると、3万ぐらいの城(跡)があり、今のコンビニより多かったとか)

名古屋城は、築城名人の加藤清正が関わったから、三大名城に選ばれたらしいですが、本当に感銘しました。駿府城も凄かったし、昨年行った小田原城も素晴らしいと思いましたが、この名古屋城と比べると、美空ひばりと坂本冬美ほどの違いがあります。京洛先生の真似ですが(笑)。

それほど、名古屋城は桁違いに素晴らしかったです。

本当です。

「尾張名古屋は城でもつ」の格言は嘘ではありませんでした。

この名古屋城。400年前にできた国宝の本物は、アメリカ軍が昭和20年に焼夷弾を落として焼却したことを今の日本人は殆ど知りません。(今の名古屋城は、昭和34年に復元。しかし、今年のゴールデンウィーク明けから、再び天守は、耐震工事などが行われ、非公開になるそうです。見るなら、今でしょう)

日本は、アメリカから、バーミヤンの石仏と同じくらい貴重な歴史的文化遺産の建造物を破壊する蛮行をされながら、そして、今のトランプ政権からは、鉄鋼とアルミニウムの関税を、ヨーロッパやカナダや同じアジアの韓国まで除外しながら、「同盟国」日本はモロに標的にされながら、多くの日本人は、いまだにアメリカを敬い、尊崇し、コカコーラやマクドナルドやケンタッキーやディズニーやプレスリーやリーバイス・ジーンズを受け入れて平伏しているという、この現状。

世界的にも特別に優秀な日本の官僚が、この真実を知らないわけがない。

右翼だの、左翼だの、政治的イデオロギーの問題じゃないのです。歴史的文化遺産の話です。

※おっと、オキシトシンかセロトニンが出過ぎたようです(笑)。明日は、岐阜城、犬山城、岡崎城などを巡ります。

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「埼玉」の由来は「人を幸せにする心」、古代は東日本の中心地だった!

川越市

谷川彰英著「埼玉 地名の由来を歩く」(ベスト新書、2017年9月15日初版第2刷)を読んでます。

凄く楽しみにして読み始めたので、大変残念でした。誤植が多いのです。

前半に、「言明天皇」が出てきますが、明らかに「元明天皇」の間違い。1回や2回の間違いならよくあることですが、これが、4回も5回も続いて「言明天皇」とあると、確信的です。「えっ?最近の歴史教科書では名前が変わったの?」と、こちらで何度も辞典や事典で調べ直したほどです。

元明天皇は、平城京に遷都し、「古事記」「風土記」を編纂した女帝として有名です。

もっと酷いのは、79ページの地図です。新座市、和光市、志木市など埼玉県南部と練馬区など東京都北部の地図なのですが、清瀬市の隣が、何と「東村山市」と明記されているのです。「東久留米市でしょ!!!」と大声で叫びたくなりました。

東久留米市は、あの渓流斎先生がご幼少の砌、野山を駆けずり回った由緒ある土地柄です。ありえなーい。

著者は、信州松本の御出身で、筑波大学教授などを歴任された学者です。この辺りの土地勘はないでしょうが、あまりにもおそ松君です。それ以上に、出版社(KKベストセラーズ)の編集者・校正者も見抜けないんでしょうかねえ?劣化を感じます。

と、最初からかなり貶してしまいましたが、この本から教えられること多とします。著者は「地名の由来を歩く」シリーズを既に、京都、奈良など5冊も刊行されており、地名の歴史の専門家でしょう。手馴れています。新聞記者のように自分の足で歩いて取材している辺りは、感心します。

誤記以外は素晴らしい労作です。以下、いつものように換骨奪胎で。

・さいたま市大宮区に鎮座する氷川神社は、武蔵国の「一宮(いちのみや)」とされている。古代の武蔵国の国府が置かれたのは、今の東京都府中市。ここにある大国魂(おおくにたま)神社は、武蔵国の「総社」なので、一宮の氷川神社の方が格上である。(「総社」とは、当該国の格式が高い神社(多くは6社)をまとめて勧請して祀った神社のこと。)

・ということで、古代、武蔵国の中心は、府中ではなく、埼玉だったのではないか。

神の御魂(みたま)には大きく「荒(あら)御魂」と「和(にぎ)御霊」の二つに分かれる。荒御魂とは、「荒く猛き神霊」、和御魂とは「柔和・情熱などの徳を備えた神霊または霊魂」のこと。この和御魂には、さらに二つの神霊があり、一つは「幸(さき)御魂」で「人に幸福を与える神の霊魂」。もう一つは「奇(くし)御魂」で、「不思議な力を持つ神霊」のこと。

埼玉は、前玉(さきたま)から転じたもので、この前玉は、幸御魂(さきみたま=人に幸福を与える)から来たものだった。

・「続日本紀」によると、元正天皇の霊亀2年(716年)、「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7カ国にいる高麗(こま)人(=高句麗からの渡来人)1799人を武蔵国に移住させ、初めて高麗郡(こまのこおり)を置いた」とある。高麗郡は、今の日高市から飯能市にかけての丘陵地。恐らく、高句麗から亡命した若光王が朝廷に願い出て許されたからではないか。

・一方、新羅からの渡来人を移住させた地域に「新羅郡(しらぎのこおり)」を置く。今の志木市、和光市、新座市辺り。志木は、新羅から転訛されたものと言われ、新座は、新羅郡から新座(にいくら=新倉とも)郡になったことから由来すると言われる。

(上田正昭著「帰化人」によると、百済系の漢氏=あやのうじ=は、軍事=鉄器や馬なども=、土木、外交などに強く、蘇我氏と結びつき朝廷内で台頭します。法隆寺「釈迦三尊像」をつくった止利仏師や蝦夷を征伐したとして知られる坂上田村麻呂らも漢氏の子孫です。

新羅系の秦氏=はたのうじ=は、大蔵官僚となり大和朝廷の財務を司ります。聖徳太子や藤原氏との結びつきが強く、国宝第1号に指定された弥勒菩薩像で有名な広隆寺は秦河勝=はたのかわかつ=が創建したもので、御本尊様は、聖徳太子から賜っています。神奈川県秦野市も、秦氏が移住した土地です。)

・和光市は、江戸時代は、「上新倉村」「下新倉村」「白子村」と言われ、白子宿は繁栄していた。新羅はかつて、志楽木(しらぎ)と書かれ、それが転じて白木となった説がある。白子も語感的に新羅をイメージさせる。恐らく、今の和光市が、古代新羅人の移住先の中心地ではなかったか。

・朝霞市は、近世以降、膝折村と言われていた。これは、応永30年(1423年)、常陸国の小栗城を攻め落とされた城主の子息小栗助重が逃げ延びて、この地に来たとき、馬が勢い余って、膝を折って死んでしまったという伝説から付けられたという。膝折村から朝霞町になったのは昭和7年のこと。東京・駒沢にあった東京ゴルフ倶楽部をこの地に移転させ。開場日に朝香宮殿下の御臨席を賜り始球式が行われた。この朝香宮の名前を頂くことにしたが、そのままでは畏れ多いので、この地に発生する朝霞(あさぎり)にちなんで朝霞町にしたというもの。

・昭和天皇の弟宮秩父宮は、従来なら「三笠宮」など畿内の山の名から命名されていたのを、あえて、武蔵国の名山である秩父から命名された。秩父の歴史に深い理解があったものとみられる。地元民は大いに喜び、秩父宮は今では秩父神社の御祭神として祀られている。

・川越は、平安末期、桓武平氏の流れを汲む秩父氏がここに進出して荘園を開き、秩父重綱の子重隆以降は河越氏と名乗る。この重隆の孫重頼の娘「郷御前(さとごぜん)」は、源義経の正室。この史実は意外と知られていない。

岩付城趾を訪ねて幾百里

最近はまっている太田道灌が築城したと言われる岩付城趾を見たくなり、生まれて初めて東武野田線に乗って、念願の岩槻まで行ってきました。

以前は、岩槻市でしたが、浦和の軍門に下って(笑)、今はさいたま市岩槻区です。

岩付城は、太田道灌が築城したと思っていたら、地元の看板を見たら、築城したのは、道灌の父太田道真とも、後に忍城主となる成田氏とも言われているようです。

海城ゼミナールとは?

東武野田線岩槻駅を降り立って、メーンストリートを歩きましたが、賑やかなのは最初の百メートル程度。後は、シャッター商店ばかり目立ち、すっかり寂れていました。

岩槻は「人形の町」と言われ老舗が多く軒を並べていますが、雛祭りが近いというのに、人通りが本当に少ない。まさか、皆さん、雛人形もネットで購入ですか?

同じ太田道灌が築城した河越城の城下町、今の川越市は観光都市「小江戸」として賑やかに繁栄しているのと大違いでした。

この日の観光客は、私一人だったんじゃないでしょうか(笑)。

たまたま、最初に訪れたのが「時の鐘」でした。

川越の「時の鐘」に勝るとも劣らないのに、観光客が私以外誰もいませんでした。

時の鐘の説明は、上の写真を読んでください(笑)。

実は、岩槻を訪れたもう一つの目的は、久伊豆神社への御参拝でした。

この神社は、首都圏の神社仏閣紹介サイト「猫の足あと」を主宰する松長氏から教えてもらい、その存在を初めて知り、いつか御参拝したいと思っていたのです。

私は、埼玉県の神社と言えば、「武蔵国一宮」大宮の氷川神社系統ばかりだと思っていたら、松長氏から「同じ埼玉県でも、岩槻、越谷辺りは、氷川神社は一つもありません。久伊豆神社系統ばかりですよ」と言われ、驚いてしまったのです。

久伊豆神社は、上の写真の説明の通り、約1300年前の欽明天皇の時代に出雲の土師氏が創建したと言われております。

土師氏というのは、古墳時代に埴輪を製作した一族と言われ、その子孫が伝説の武内宿禰であり、さらにその子孫が菅原氏と言われています。

菅原氏というのは、あの「学問の神様」菅原道真を輩出した一族です。

ですから、このように、久伊豆神社の隣には末社として北野天満宮が祀られているのです。(京洛先生も吃驚!)

昔のように、それほど神社仏閣に関して知識がなかった頃でしたら、何で久伊豆神社なのに、北野天満宮なの?と疑問に思っていたでしょうが、「土師氏創建」と見て、私は全く違和感を覚えなかったのでした。

このような話は、神社の案内では説明されていませんよ、エヘン(笑)。

久伊豆神社は、江戸城の鬼門(東北、丑寅)方角にあることから、徳川家康が鬼門除として信仰したそうですね。

神社内では孔雀が飼われていて、これらは、朝香宮殿下がこの神社を1938年に訪れた際に記念に贈った孔雀の末裔なんだそうです。

奉納されて、今年は80年祭ということになります。

この後、岩付城趾を目指して、岩槻城址公園に行きましたが、今は、お子ちゃま用の公園や野球場、テニスコートなどになってしまい、全く面影すらなくなってしまいました。

せめて、本丸跡に、石碑ぐらい設置しておいてほしかったのに、それすら見当たりませんでした。

ガッカリしました。

岩槻城址公園から隣りの諏訪神社まで行きました。

信濃国の諏訪神社から軍神を祀っていると説明されてました。

この辺りは、岩槻藩の武家屋敷があったところらしいですが、その跡形も全くありませんでした。

歴史のある街ですから、もう少し、観光客を誘致するよう工夫したらいいのになあ、と残念に思いました。(そういえば、川越の鰻のように、岩槻には、これといった食の名産品がなかったでしたね…何と言っても、川越や秩父のように大掛かりな有名なお祭りもなかった!)

浄土真宗浄源寺(西本願寺)

随分歩きました。

が、スマホの万歩計を見たら、1万5000歩程度でした。

「太田道灌と江戸」講演会を聴講してきました

昨晩は、雪が降り始める中、日比谷カレッジ主催の講演会「太田道灌と江戸」を聴講に行ってきました。

日比谷カレッジなんて、聞いたことないでしょう。何処の大学?―正解は、東京・日比谷図書館の地下の「文化館」で、月に数回開催されている文化芸術、政治経済、科学の講演会のことです。私も初参加です。

日比谷図書館は、都立から千代田区立に移管した途端、随分きれいになり、立派になりました。赤絨毯で敷き詰めらたような超高級感が漂うようになりました。地下のテナントの飲食店も一流半クラスです(笑)。

京都二条城

講演会は、500円~1000円程度ですから、皆さんにもお勧め。日本国憲法が保障してくれる「文化的生活」を送ることができます。

「太田道灌と江戸」の講師は、国立公文書館上席公文書専門官の小宮山敏和氏。小宮山氏は最初に「国立公文書館」の説明をしてくれたので、私も初めてこのような組織が日本国に存在することを知りました(大袈裟な)。

◇徳川将軍の紅葉山文庫にまで遡る

何と、この国立公文書館の母体は、江戸城内の紅葉山文庫だというのです。徳川家康、八大将軍吉宗は「本好き」で知られていますが、この紅葉山文庫というのは、歴代将軍の書庫ということになります。家康は、「吾妻鏡」が愛読書だったと言われていますが、秀吉による小田原城攻めで降伏した北条氏の所蔵していた「吾妻鏡」が黒田官兵衛に寄贈され、これが家康に献上されて、紅葉山文庫に収蔵されたと言われてます。これは、「北条本」の異名を持ち、重要文化財に指定されてます。

紅葉山文庫は、明治維新後、「内閣文庫」となり、これが、1971年に国立公文書館となったのです。所蔵資料は実に140万冊。このうち、毎年膨大に増える行政文書関係が94万冊。内閣文庫から引き継いだ歴史的資料が48万冊(不変)あるといいます。私も含めて多くの国民は知らなかったと思いますが、資料は展示だけでなく、利用もできるということです。これは、是非、時間をつくって茲に行ってみなければなりませんね。竹橋の東京国立近代美術館のお隣りにあるようです。

京都二条城

さて、肝心の講演会ですが、国立公文書館で所蔵する太田道灌(1432~86)関連の古文書(「太田家記」「寛永緒家系図」「武江年表」「禁制」書状=寺社仏閣が戦乱に巻き込まれないように戦国武将に保障してもらうために、賄賂などを贈る)の説明といった感じでした。

小宮山氏は、有名な「山吹伝説」の話(道灌が旅の途中で雨に遭い、農家で蓑笠を借りようと訪ねると、少女が、後拾遺和歌集の兼明親王の歌「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」を引用して、家が貧乏で、お貸しする蓑笠もない、と暗喩した)で、その農家の場所が、今の埼玉県の越生や東京都新宿区、豊島区の面影橋近くなど数ヶ所ある逸話を披露しておりました。

◇太田道灌の実像とは

講師の見解で面白かったのは、江戸に幕府を築いた家康とその後の歴代将軍は、いかに太田道灌が幼少から聡明で、偉大な武将だったかという逸話をつくって、徳川家をその偉大な道灌の後継者として箔を付けようとしたのではないかという推測です。

もう一つ、江戸の城下町は、1590年の小田原攻めの後、移封された家康が一人で、ゼロから築き上げたと思っていましたが、家康移封直前の古地図には「江戸宿」が掲載されていて、既にある程度の宿場町があったことも教えられました。

さらに、おまけですが、日比谷は、もともと海で、家康が神田駿河台辺りの山を削って埋め立てたという話は知っておりましたが、資料として配られた古地図では、日比谷は海ではなく、入り江だったんですね。そして、今の東京駅や有楽町や新橋は埋立地ではなくて、ぎりぎり「江戸前島」という陸地だったんですね。勉強になりました。

最終的に、扇谷上杉氏の家宰だった道灌は暗殺されてしまいますが、黒幕は、主君より力を持った道灌からの下克上を恐れた扇谷上杉家や、関東管領の山内上杉家など諸説あります。この辺りの古文書で、「永享記」では「道灌は山内上杉家に不義を働いたため、成敗した」という記述がある一方、北条氏の前に小田原城主だった大森氏文書では、「扇谷上杉氏は、小さいので、道灌でもっているようなものだ」といった道灌に好意的な記述も見られるそうです。

過去の出来事とはいえ、評価が真っ二つに分かれる古文書が存在することで、歴史の醍醐味を感じます。

川越、かわごえ、カワゴエ

埼玉県川越市の喜多院

ちょっと御縁があり、思いついて、「小江戸(こえど)」の川越を散策してきました。

小江戸とは、江戸時代の雰囲気を残した城下町のことで、小江戸と名前が付くところは、全国には他に彦根市ぐらいしかないようです。

単なる江戸情緒を残した城下町なら、全国にはかなりあるかもしれませんが、「小江戸」となると、他に、「伝統的な祭りがあること」などといった条件があるようです。(川越祭りを、川越氷川神社を祭神として始めたのは、「知恵伊豆」こと、川越5代藩主松平伊豆守信綱です。新座市の平林寺にお墓がありますね。)

さて、このように、川越市は、皆さまご存知の通り歴史のある町です。15世紀に扇谷(おおぎがやつ)上杉氏の家宰太田道灌が江戸城、岩附城とともに、河越城をつくったことで発展しましたが、平安時代初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で慈覚大師円仁が、天台宗の星野山無量寿寺を建立し、その後、関東天台宗の本山となったことから、中世は寺町として栄えていたことでしょう。

天海上人像

この無量寿寺は、北院、中院、南院と分かれており、中院が中心でしたが、江戸時代になると、あの江戸の町を風水等による都市計画(魔除けの方角に目黒、目赤、目黄、目白不動尊などを配置し、江戸城本丸の鬼門の方角に上野寛永寺、裏鬼門に増上寺を建立した)で名を馳せることになる天海上人が家康の招きで、1599年に住職に就き、北院を中心にして、北院を喜多院に改名します。中院は南に移転して、そこに仙波東照宮を建てます。そして、南院は廃院となります。(天海上人は、その後、2代秀忠、3代家光にまで使えて、108歳まで生きたとか)

仙波東照宮は、日本の三大東照宮の一つなんだそうです。(他の二つとは、日光と久能山。家康は、久能山で亡くなった後、日光に祀られる前に、家康の遺体は、仙波東照宮でしばらく留め置かれたそうです)

話は遡りますが、慈覚大師円仁は、無量寿寺を建立する際に、大津市坂本の日吉神社の御神体をお運びして、近くに日枝神社も建立します。上の写真でも看板が見えますね(笑)

日枝神社の「ひえ」は、天台宗の比叡山延暦寺の比叡(ひえい)から来たという説があり、日枝神社は、天台宗系ということで辻褄が合います、

多宝塔

喜多院の境内には、多宝塔があります。規模は小さいですが、高野山の塔に似ています。

大正浪漫通り

川越市は、36万人の人口(北海道十勝地方と同じですが、十勝は岩手県ほどの面積があります)ながら、年間650万人もの観光客を誇るそうです。その理由は、東京都心に近いことと、色んな時代の「観光資源」をうまく保存しているからに他ありません。

川越は、恐らく、古代、中世から火災が多い街で、江戸時代は織物業が盛んで、染料を煮詰めたりするのに使う藁の火が、残り火として風に煽られて引火して、町中に広まる大火事になったという説が一つあります。

寛政4年(1792年)に建てられた呉服店「大沢家」(現在、民芸品店)。国指定重要文化財。個人の住宅が重文となるのは、全国でもここだけ。唯我独尊(笑)です。

明治に入ってからも、大火災は続き、特に明治26年(1893年)の大火では、川越の町の3分の2が灰燼になったと言われています。

そこで、街の商人は、盛んに防災用の蔵をつくるようになり、それが、今でも商店として使われ、大切な観光資源に発展したわけです。

加えて、川越は、あの憎き米軍による空襲がなかったので、奇跡的に古い歴史的建造物が生き残ったわけです。

川越の町のシンボル「時の鐘

川越城主酒井忠勝が約400年前に、藩の民に時を知らせる為に作り、その後、大火で何度も消失し、これは四代目。

現在のものは、明治26年の大火後再建されたもので、明治天皇からも寄付が寄せられたそうです。

毎日、午前6時と正午と午後3時と午後6時の4回、鐘が鳴ります。

高さは約16メートルで、江戸時代は、これ以上高い建物の建設は禁止されたそうです。

菓子屋横丁で最も古い松陸

寛政8年(1796年)創業で、菓子屋横丁で一番の老舗。

かつては、横丁には70軒ほどの菓子屋があったそうですが、今22軒。

それでも、かなりの観光客が押し掛けておりました。

着物着ている、2〜3人一組の若い女性も多く見かけましたが、彼女たちが話している言葉は、中国語でした。

残念なことに、川越城本丸跡に今回は行く時間がなかったので、次回挑戦したいと思います。

最近の渓流斎、「城博士」を自称してますから(笑)。

天橋立の歌はそういうことでしたか…大塚ひかり著「女系図でみる驚きの日本史」続編

大塚ひかり著「女系図でみる驚きの日本史」(新潮新書)は、読了するのに結構時間がかかりました。普通、新書なら1~2日で読めてしまうんですが、これは6日ほどかかりました。読みながら、丁寧に、著者がつくった「女系図」を参照していたからでしょう。

でも、これが決め手です。著者の大塚氏も、あとがきで「女系図は作ってびっくりの連続でした」と本人も大発見したことが結構あったようです。

この本を取り上げるのは2回目ですが、今日は前回取り上げたかったことを引用してみます。

流動的だった天皇の地位

…天皇というと現代人は絶対的なものと考えがちだが、「大王」と呼ばれていた天武天皇以前の彼らの地位は流動的だった。「古事記」「日本書紀」では天皇とされていない人物も、古くからの伝承を伝えた「風土記」では天皇とされていたりする。…

ということで、古代は、大王=天皇になるための権力闘争が凄まじかったようです。例えば、記紀によると、第21代雄略天皇は二人の兄や従兄弟らを含む6人も殺害させたようです。当時は、武内宿禰を祖とする葛城氏の方が権力を持っていて、葛城氏の血を引くツブラノ大臣らが最有力候補でしたが暗殺されました。

井上満郎著「古代の日本と渡来人」によると、7世紀の畿内の人口のほぼ30%は渡来人だったという。京都=山城国は、もともと「渡来人の里」だった。(京都平安京を開いた桓武天皇の生母高野新笠は、百済出身でしたね=「続日本紀」による)

※著者は、渡来人の秦氏は、中国の秦の始皇帝に祖を持つ、という見解でしたが、小生は古代史の泰斗上田正昭氏が主張する「秦氏は、秦の始皇帝とは無関係で、朝鮮の新羅系の渡来人」という説に賛同します。

天橋立 Copyright par  Mori Kawsaki

大江山いくのの道の遠ければ まだふみも見ず天橋立

という百人一首にも載る有名な歌があります。

作者は小式部。母親はあの「和泉式部日記」で知られる和泉式部です。誰に宛てた歌かといいますと、当代一のプレイボーイ、著者の大塚氏に言わせると、「インテリ女喰い」の藤原定頼という貴人です。

この定頼。光源氏のように輝き、モテててモテてしょうがない、といった感じです。大塚氏が、歌集を読むだびに系図をつくっているうちに、「こいつ、よく出てくるなあという奴がいる」。それが、この藤原定頼だったのです。

何しろ、お相手した方々が半端じゃない。先ほどの小式部のほかに、紫式部の娘大弐三位、相模、大和宣旨といった当代一流のインテリ女性だったのです。

もちろん、定頼も出自はピカイチ。父親は、四納言の一人と言われた知識人の藤原公任、母親は、昭平親王(村上天皇の子)の子で、しかも、藤原高光(父師輔、母雅子内親王)の娘の「腹」でした。(ただし、天皇家の外戚になりそこねて、公任は権大納言、定頼は権中納言止まりで終わる)

前述の「大江山…」の歌の背景は以下の通りです。

小式部の母和泉式部が、夫藤原保昌について丹後国に下ったとき、京で歌合があり、その時、定頼がふざけて小式部に「丹後の国にやった使いはもう帰ってきましたか?どんなにハラハラしているでしょう」と声を掛けた。和泉式部は名高い歌詠みです。その娘の小式部はどうせ、母親に歌を代作してもらっているだろう。その使者はもう帰ってきたのかい?とからかったというのです。

それに対する答えが、「大江山…」。意味は、「大江山を越えて行く生野の道は遠いので、まだ踏んでみたことがないの、天橋立は。まだ文も見ていません」。

なるほど、そういう意味で、そういう返歌だったんですか!勉強になりました。

(私も天橋立の写真を現代の小式部さんにお借りしました=笑)

江戸時代は正妻率がわずか20%

平安時代は父親より、母親が誰かによって身分が決まってしまいます。「胤(たね)より腹が大事」と前回書きました。しかし、それは、平安中期まで。平安後期になると、院政時代となり、父権が強大となり男系社会になります。

著者は、平安から江戸時代までの権力者の母親がどういう出自か全て調べあげ、母親が正妻である比率を割り出します。それによると、平安時代の摂関藤原家は、正妻率が77%、鎌倉時代の将軍源氏の正妻率は67%、執権北条家は56%、室町時代の将軍足利家は、47%。そして、江戸時代の将軍徳川家は何と20%にまで急落するのです。徳川将軍の母になった側室の中には、八百屋や魚屋といた平民の娘までいるらしいのです。

これはどうして?

平安時代は、天皇家に代わって外戚の藤原氏が権力を握り、鎌倉時代は源氏に代わって、北条氏が実権を掌握。室町の足利将軍も外戚の日野家に左右されていた。「吾妻鏡」の愛読者だった徳川家康が、こうした歴史を読み、外戚に権力を握らせないように、徳川家の政権が未来永劫続くよう願いを込めて、「暗に正妻や外戚を重視しないようにしたのではないか」という著者の洞察。誠に見事でした。

嗚呼、残念。他にも書きたいことがあるのですが、この辺で。

大塚ひかり著「女系図でみる驚きの日本史」は凄過ぎる

大塚ひかり著「女系図でみる驚きの日本史」(新潮新書、2017年9月20日初版)を数日前から読んでおりますが、これまた図抜けて面白い。目から鱗が落ちるといいますか、まさに驚きの逆転の発想で、いまだかつて、偉い歴史学者がとらえたことがない画期的な野心作です。

つまり、これまでの歴史は、天皇家にしろ、藤原氏にしろ、源氏や平氏にしろ、ほとんど全て男系、つまりは父親中心で、息子に政権や家督が継がれていくといった流れの発想で、描かれてきました。

となると、平氏は、壇ノ浦で滅亡した、ということになります。

ところが、おっとどっこい。

女系、つまりは母親の系図をたどっていくと、平氏は滅亡したわけではなく、平清盛の血筋は、何と今上天皇にまで繋がっているのです。

一方の鎌倉幕府を開いた源頼朝の直系子孫はほどなくして途絶えてしまうのです。

皇居

著者の大塚氏(1961~)は、歴史学者ではありませんが、中学生の頃から古典文学を読むことが大好きで、個人訳の「源氏物語」全6巻まで出版しているようです。大学では、文学ではなく、日本史学を専攻してます。

そして、何と言っても、複雑な人間関係が数多出てくる古典文学や歴史上の人物には、系図がないとなかなか理解できません。しかし、男系だけで追っていては行き詰る。そこで、自分で好きが高じて、女系の系図をつくったところ、これまで見えなかった人物の系列関係が一目で分かるようになったといいます。

著者は言います。「胤(たね)よりも腹(はら)が大事―母親が誰かに注目した女系図でたどると、日本史の見え方が一変する」

確かにその通り。

驚くべき史実です。

例えば、天皇家。一部の右派の皆様は、「女系天皇」どころか、「女性天皇」も否定されておられますが、この本によると、「万世一系」と言われている天皇家は、既に、「女系」の時代があったんですね。

同書のように、家系図をここに書かないと理解しにくいかもしれませんが、43代元明天皇(女性)は、41代持統天皇(女性、40代天武天皇の皇后)の異母妹で、42代文武天皇の母親であり、草壁皇子の妻でありました。

草壁皇子は、皇太子(次期天皇)でしたが、即位の前に亡くなってしまい、その妻だった元明は「皇后を経ずにして即位した初の女帝」となります。

そして、この後、元明天皇と草壁皇子との間の娘が、独身のまま44代元正天皇(女性)として即位します。

「草壁皇子は天皇ではない。母元明天皇の娘であるため、即位した形である。これって『女系天皇』ではないのか?」と、著者は疑問を投げかけているのです。

東京・水天宮

著者も得意とする紫式部の「源氏物語」の世界。実際の平安時代は、男性が女性のもとに行く「通い婚」が普通だったので、父親が誰か、以上に母親が誰なのかの方が重要で、子どもの出世は母親で決まってしまったことが多かったようです。

まさに、胤より腹が大事です。

実際、天皇の寵愛を受ける女性には、中宮(皇后)、女御、更衣といった序列があり、正妻以外から生まれた子どもは「外腹」(ほかばら)、劣った身分の母親から生まれた子どもは「劣り腹」などという隠語があり、「源氏物語」や「栄華物語」「大鏡」などにも堂々と登場します。(正妻の子は、嫡妻腹=むかひばら=というそうな)

「源氏物語」の主人公光源氏(醍醐天皇の子息源高明がモデルの一人とされている)が、桐壺帝の子息で、あれほど優れているのに、臣下として「源氏」を名乗ったのは、「更衣腹」と世間で言われたせいではないか、と著者は推理していますが、随分説得力がありますね。

著者によると、紫式部(当時の最高権力者藤原道長の愛人でもあったらしい)の娘賢子の女系を丹念にたどっていくと、今上天皇にまでいくというので、これまた驚きです。

この本については、また次回書きます(笑)。

日本橋人形町は芝居の街だった

「歴史散歩」が趣味の私としては、全国で「教育委員会」などが掲げる標識といいますか、史跡の由来を説明する看板を見つけることが何よりも楽しみです。

欧米でもよくあります。パリなんかにある「ここにビクトル・ユゴーが住んでいた」といった類です。ウィーンなんかは、「ベートーベンがここで『運命』を作曲した」といったような看板が至る所にあり、いちいちオーストリア国旗が掲揚されているので、ウィーンの街中は国旗だらけだったような覚えがあります(笑)。

日本橋七福神を巡りをしている時に、人形町界隈で歴史の舞台になった看板を見つけました。「人形町」と言うくらいですから、人形浄瑠璃の芝居小屋が多くあったことは知っておりましたが、文楽の芝居小屋跡の看板は見つけることができませんでした。

その代わり、歌舞伎にちなんだ舞台が結構ありました。上の写真の「玄冶店跡」です。深川芸者お富と伊豆屋の若旦那与三郎(切られ与三)の悲恋物語。「いやさ、お富、久しぶりだなあ」のあれです(三世瀬川如皐作「世話情浮名横櫛」=よわなさけうきなのよこぐし)。玄冶店は、江戸の妾宅街ということで、芝居では鎌倉の源氏店に舞台を変えております。嘉永6年(1853年)、江戸中村座初演。ということは、幕末のペリーが来航した年だったんですね。モノの本によると、初演の与三郎は八代目團十郎で、翌年、大坂で32歳の若さで切腹したとか。お富は梅幸、のちの四代目菊五郎ですからね。

上の写真は、刃物の「うぶけや」。玄冶店跡のすぐ近くにありました。うぶけや、という屋号は「うぶ毛でも剃れる、切れる、抜ける」との評判で付けれられたそうです。「毛抜き」も売っており、歌舞伎役者の錦絵も飾られていたので、あの歌舞伎の「毛抜」の舞台になった所かなと勘違いしてしまいました。

歌舞伎の「毛抜」、本名題「鳴神不動北山桜」は、寛保2年(1742年)、大坂・佐渡島座で二代目團十郎によって初演されたようですが、この「うぶけや」も負けないくらい凄い。創業は、天明3年(1783年)大坂でした。1800年代に入って江戸日本橋長谷川町(現堀留町)に支店を出し、維新後に現在地に移転したという老舗だったのです。(大坂本店は今はないそうです)

今度、挟みでも買ってみようかしら。

日本橋人形町は、文楽だけでなく、歌舞伎の芝居小屋街だったことが分かる看板です。

幕府に認可された江戸四座のうち、中村座と市村座の二座あったですね。残りの二座は、木挽町(現銀座六丁目辺り)にあった山村座と森田座(のち守田座)ですが、山村座は正徳4年(1714年)、例の「江島生島事件」で廃座されました。

森田座は資金繰りが不安定で、河原崎座が代行興行することが多かったらしいですが、天保の改革で、木挽町から猿若町(現浅草六丁目)に移転させられ、明治に入って験を担いで守田に名前を改め、新富町に移転し、「新富座」を開業したことは皆様ご存知の通り。

人形町の中村座と市村座も、森田座と同じように天保の改革で猿若町に移転させられ、人形町に芝居小屋があったのは約200年間とありますが、芝居小屋だけでなく飲み屋さんやら何やらの一大歓楽街だったことでしょう。今でも雰囲気のある居酒屋が多くあります。

だから、今の若い歌舞伎役者も、気取って六本木なんかで呑んでいないで、原点を辿ってみれば、芝居に味が出てくるんじゃないでしょうか。余計なお世話ですが。いや、世話情か(笑)。

江戸三座筆頭の中村座については、上の写真に書いてある通りです。江戸歌舞伎の創始者とも言われる中村勘三郎は、京都から来た猿若勘三郎だったんですね。

「日本橋七福神めぐり」に行って参りました

江戸三森の一つ、椙森(すぎのもり)神社

1月6日は、まだお正月松の内で、3連休の最初の日でもあり、あまり家に閉じこもっていても何ですから、以前から行きたかったお江戸「日本橋七福神めぐり」に一人で行って参りました。

私のご先祖は、九州は久留米藩のお舟出役という身分(下級武士)で、恐らく、参勤交代の際は、筑後川を伝わり、瀬戸内海から大坂辺りに出て、陸路で江戸に向かい、上屋敷のあった現在の港区赤羽橋に滞在し、その藩邸にあった水天宮にもお参りしたことでありましょう。

水天宮(弁財天)学問・芸術

水天宮は、文政元年(1818年)、久留米の国元(現福岡県)にあったものを、九代藩主有馬頼徳(よりのり)が江戸上屋敷内に分祀したもので、塀越しに賽銭を入れる人が後を絶たなかったため、日を決めて庶民にも公開され、広く信仰を集めたそうです。

維新後は、赤羽橋の久留米藩邸は、薩長連合軍の新政府に摂取されたため、水天宮は青山を経て、明治5年に今の場所(日本橋蠣殻町)に落ち着いたそうです。

「日本橋七福神めぐり」のスタートは、ご先祖様に敬意を表してここから出発することにしました。

水天宮は、安産の神様として知られておりますが、芸能・学問の神様である宝生弁財天も祀られております。宝生弁財天は、先述の久留米藩主有馬頼徳が、加賀藩の11代藩主前田斉広(なりなが)と宝生流能楽の技を競った時に、弁財天に願をかけて、見事に勝利を収めたため、久留米藩としても弁財天の信仰も篤くなったそうです。

2 茶ノ木神社(布袋)笑門来福

下総佐倉藩主で、幕末に大老も務めた堀田家の上屋敷があり、守護神として祀られていた。

社の周囲に巡らされた土手芝の上に茶の木が植え込まれていた。今でも防災・生産の神様として信仰されている。

 3小網神社(福禄寿)幸福・長寿・立身出世

文正元年(1466年)、悪疫鎮静の神として創建され、太田道灌が名付けたと言われる。

昭和4年建立の社殿が戦災を免れ、神社の御守り受けた兵士も無事帰還したことから、「強運厄除けの神」としても信仰を集めている。

4松島神社(大黒天)五穀豊穣・財運・子孫繁栄

下総の柴田家が、鎌倉時代の元亨(1321年)以前に、この地(当時は小島だった)に移り住み、諸神を勧請して創建と言われている。

御祭伸は、大国主神をはじめ、14柱と他社に比べて多い。

5末廣神社(毘沙門天)厄除け・財運・大願成就   多聞天

慶長元年(1596年)以前に稲荷祠として鎮座。吉原の氏神として信仰された。

延宝3年の社殿修復の際に中啓(末廣扇)が見つかり、末廣神社と呼ばれるようになった。

6笠間稲荷神社(寿老人)健康・長寿・病気平癒

安政6年(1859年)、笠間藩主牧野貞直が、国元の笠間稲荷神社(日本の三大稲荷神社の一つ)を江戸下屋敷(この地)に御分霊し、奉斎したのが始まり。

日本橋魚河岸の守り神として、五穀・水産・殖産興業の守護神として庶民の間でも信仰された。

7椙森神社(恵比寿)商売繁盛・大漁豊作

天慶3年(940年)、藤原秀郷が平将門の乱を鎮圧するために、武運を祈願して創建したと言われる。

文正年間の頃、太田道灌が旱魃の雨乞い祈願のため詣でて、山城国稲荷山五社大神を祭祀するようになった。

五社稲荷の一社なる大己貴大神の御宣託により、恵比寿大神を奉斎し、江戸時代の富興行を記念した富塚あり。

また、江戸時代は道灌の選んだ三森の一つと数えられるようになった。三森とは、ここ日本橋堀留町の椙森神社、新橋の烏森神社(昔、江戸三森とは知らずこの辺りの居酒屋さんでよく飲んだものです)そして、神田須田町の柳森神社のことです。

【七福神】

七福神の信仰は、室町時代から始まったと言われています。 弁財天、大黒天、毘沙門天はインドの神様。福禄寿、寿老人、布袋は中国の神様。七福神で唯一日本の神様は、恵比寿様だけです。恵比寿は手に鯛を持っておられます。「めでたい」に通じます。しかし、中国では、鯛はあまり好まれず、食されることもなく、おめでたい魚ではないそうです。恵比寿は日本の神様だからこそ、鯛だったんでしょうね。