藤原道長=傲慢、悪人説は間違い?

 先日NHK-BSで放送された「英雄たちの選択」の「藤原道長 平安最強の権力者の実像」は、これまでの通説、俗説、定説を引っ繰り返すようで実に面白かったです。

 道長と言えば、三人の娘(彰子=しょうし、あきこ、妍子=けんし、よしこ、威子=いし、たけこ)を三代の天皇(一条、三条、後一条)にわたって后として送り込み(一家三后)、「この世をばわが世とぞ思う 望月の欠けたることもなしと思へば」と歌って、天皇の外戚として権勢を振るった最高権力者というのが定説ですが、感情の起伏が激しくても、結構、神経症で寝込んだりするなど人間味があって、強運の持ち主だったことが分かりました。

 古代史の権威の倉本一宏氏も「道長は多面性を持った人物で、繊細でありながら豪放、寛容でありながら残忍、生真面目でありながらいい加減」と分析しておりましたが、意外にも、とても人間らしくて共感してしまいました。

 何しろ、藤原兼家の五男として生まれたので、最初から陣定(じんのさだめ=左大臣から参議に至る約20人で政策決定する)の要職に付ける立場ではなかったのに、兄の道隆、道兼が相次いで亡くなったことから、一条天皇の母后だった姉の詮子の推挙で「内覧」という重職に抜擢されます。これが、出世階段を昇るきっかけとなり、道長は、最後まで姉詮子に対する感謝の念を忘れませんでした。

 有名な「この世をばわが世とぞ思う 望月の欠けたることもなしと思へば」という歌は、娘威子が後一条天皇の中宮に決まった祝宴の席で詠まれたもので、権力の絶頂期とはいえ、何という傲岸不遜で、これ以上ないほど不忠とも言えます。

 しかし、この歌を書き留めたのは、道長のライバルの藤原実資(さねすけ)で(「小右記」)、道長自身は、「御堂関白日記」(国宝)に「歌を詠んだ」としか書いていないといいます(ちなみに、道長は一度も関白の職に就いていないので、題は後から付けられたもの)。道長に詳しい倉本氏によると、歌が祝賀会の二次会で詠まれたらしく、(飲み過ぎていて)本人も覚えていなかったかもしれないというのです。

 これは面白い史実ですね。

 倉本氏も、この「望月の歌」によって、藤原道長=悪人、不忠、傲慢説が広まり、これによって、残念ながら、平安貴族そのものが悪で、この後勃興する武士の方が立派だというのが日本史の通説になったのではないかと指摘しておりました。確かに、そうかもしれませんね。(当然のことながら、倉本氏は、戦国武将より平安貴族贔屓です)

 その一方で、もう少し注目しなければならないことは、教養人だった道長の文化に対する貢献です。これまで、藤原家の間で権力闘争が激しく、政権が安定していませんでしたが、道長が絶対的権力を握ることによって、国内も安定して国風文化の華が開くのです。道長は、一条天皇の后におくった彰子には、教育係の女官として、和泉式部(和歌)、赤染衛門(歌人、歴史)、そして紫式部(物語)といった後世に名を残す超一流人を付けるほどです。

 道長の最大の政争相手だった藤原伊周の姉妹の定子も一条天皇の女御(后)でしたが、その定子の女官が「枕草子」の清少納言で、紫式部と清少納言の仲が悪かったというのは頷けますね。また、一条天皇は、「源氏物語」のファンで、続きを読みたいがために、作品が手元にある彰子のもとに足繁く通ったという逸話には納得してしまいました。文化の力、畏るべしです。

 話は一挙に江戸時代に飛びますが(笑)、五代将軍徳川綱吉は、三代将軍家光の四男として生まれ、全く将軍職の芽がないので舘林藩主となります。しかし、四代家綱に後継ぎがいなかったため、予期しなかった将軍になってしまいます。綱吉には「生類憐みの令」を発した悪い将軍という後付けのネガティブなイメージがあります(内分泌異常で、身長が124センチしかなかったらしい)。この綱吉の時代に元禄文化が華開くというのは、何となく、傲慢な悪い印象がありながら、国風文化を開いた道長との共通点を連想してしまったわけです。

 元禄文化の代表人物には、美術工芸に尾形光琳・乾山、菱川師宣、文学に井原西鶴や松尾芭蕉、近松門左衛門らがいます。この時代に、こんな凄い文化人が集中して活躍していたとは、何とも不思議です。

乱読のすすぬ=家康は日本史上最高の偉人?

 ここしばらく、(とは言っても2日ほど)どうもブログが書けない状態でした。気の向くまま、興味の赴くまま、乱読していたので、頭がごった煮状態になっていたのです。本に登場する人物は、いつの間にか身近な親しい友人となり、時間と空間を超えてしまっていたのです。

 例えば、越前三国から継体天皇を擁立して磐井の乱(528年)を平定した物部麁鹿火(もののべの あらかい)や白村江の戦(663年)の司令官狭井檳榔(さいの あじまさ)、安曇比羅夫(あずみの ひらふ)らが私の頭の中で右往左往しています。でも、彼らの方が、コロナ禍で最近滅多に会えない現代の友人たちより近しく感じでしまうのです。古代人は、檳榔(あじまさ)とか比羅夫(ひらふ)とか、名前が格好良くていいじゃないですか(笑)。

 重症ですね。

 とはいえ、誰しもが、いずれ、三途の川を渡って彼岸の世界に逝くわけです。遥か遠い昔に亡くなった歴史上の人物と、今を生きている現代人と区別することもないんじゃないかと私なんか思ってしまいます。

 だって、現代人はメールを送っても「既読スルー」して返信もしない輩ばっかじゃありませんか。O君、H君、K君よ。これでは、古代人と会話していた方がよっぽど精神衛生上、健康に良い。

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 歴史が面白いのは、遺跡や古文書などの「新発見」が出てきて、新しい解釈が生まれることだけでなく、自分自身も歳を取ると歴史観が全く変わっていくことです。私なんか、戦国武将といえば、若い頃は、「太く短く生きた」その潔さから圧倒的に織田信長の大ファンで、小賢しい策士の秀吉や「たぬき親父」の家康は、とても好きになれませんでした。が、今は断然、徳川家康に軍配を上げます。調べれば調べるほど、こんな凄い日本の歴史上の人物はいない、と確信しています。

 家康ほど頭脳明晰の人もいないと思います。何しろ、全国、300藩と言われる大名から京都所司代などに至るまで重職者は全員覚えて差配して配置させ、彼らの政所や家臣などの人間関係、係累は全て頭に入っているんですからね。凡夫の私は100人でさえ顔と名前と係累が一致しません(苦笑)。

 最近、感心したのは、家康の腹心で「徳川四天王」と言われた武将たちは関ケ原の合戦以降、驚くほど優遇されていなかったことです。四天王筆頭の酒井忠次は関ケ原の前に亡くなり、家督は嫡男家次に譲られましたが、徳川秀忠に従い、関ケ原の本戦に参戦しなかったせいか、高崎5万石に移封。猛将本多忠勝は、上総国大多喜に10万石(関ケ原後は、伊勢国桑名10万石)、三河以来の武功派の榊原康正も上野国舘林10万石、新参ながら側近に大抜擢の井伊直政は上野国箕輪12万石(関ケ原後は近江国佐和山18万石)ですからね。命を懸けて最前線で戦ってきたというのに、加賀100万石、薩摩90万石といった外様大名と比べると、いかにも見劣りします。(勿論、家康は身内には甘く、関ヶ原の後、家康の次男の結城秀康を下総結城10万石から越前北庄=かつての柴田勝家の領地=68万石に加増移封します)

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 これは、ある程度、意図的で、家康は慶長8年(1603年)に征夷大将軍になって江戸幕府を開いてからは武闘派は遠ざけ、代わって本多正信、正純親子(後に失脚)や大久保忠隣といった文治派に近い行政官僚を重用し、天台宗の南光房天海大僧正や臨済宗南禅寺の金地院崇伝ら僧侶をブレーンとして登用したりします。僧侶といっても、毛利の安国寺恵瓊(えけい)のような軍師ではなく、行政官、外交官、立法官のような知性派です。

 天海上人は、風水を採用して江戸城の鬼門(北東)に寛永寺、裏鬼門の方角(南西)に増上寺を置き、八方に目白、目黒、目赤、目青、目黄不動尊などの寺院を建立させた人だと言われます。家康の日光東照宮も造営。家康、秀忠、家光の三代に仕え、108歳の長寿を全うしました。

 崇伝は、諸宗寺院法度、禁中並公家諸法度、武家諸法度などを起草したと言われ、「黒衣の宰相」とも呼ばれました。

 家康自身も「もう武装闘争は終わった」とばかりに、天下普請の城づくりだけでなく、上水や治水、日比谷干拓など「元和偃武」を見越して平和になった江戸百万都市の街づくりに着手しますから、とてつもなく先見の明がある大将軍だと言えます。

 乱読していると、頭が混乱しますが、現代だけでなく過去にも同時に生きている感じで、人生二倍楽しめます。

(実は今、戦後GHQに日本人の魂を売っって諜報機関をつくった有末精三、河辺虎四郎、服部卓四郎といった旧帝国陸軍最高幹部のことで頭がいっぱいなので、こんな文章を書いていても頭が全く整理されていません。)

 

坂下門と桜田門めぐり=江戸城址散策はひとまずこれまで

江戸城 坂下門

 ここ数日、何か、すっかり江戸城づいてしまい、今回は、締めを飾る「ここだけは見逃せない」という所に絞って行って参りました。

 昼休みを利用したので、会社から歩いて行ける距離ではありますが、時間の節約のため、今回は、JRと地下鉄を利用しました。

 「ここだけは見逃せない」というのは、坂下門です。幕末史関係の雑誌を読んでいて、年表を見ていたら、「坂下門外の変」が出てきました。「あれっ?何だっけ?」と昔覚えた記憶の糸を辿っても思い出せません。しかも、京都の事件と誤解していました。何か、「禁門の変」とごっちゃになってしまっていたようです(苦笑)。

「坂下門外の変」の説明がない?

 言うまでもなく、「坂下門外の変」とは、文久2年(1862年)、公武合体論を推進し、和宮降嫁を実現させた老中安藤信正が、尊王攘夷派の水戸浪士らに襲撃された事件です。

 片や、「禁門の変」は、元治元年(1864年)、「八月十八日の政変」で京都を追われた長州藩が勢力奪還を図って入京し、薩摩・会津・桑名の藩兵に敗れた事件で、蛤御門(はまぐりごもん)の変とも言います。(この事件と池田屋事件で被害を蒙った長州藩=特に桂小五郎=の怨念が、戊辰戦争での会津に対する復讐と殲滅につながったと思われます)

 江戸城では、坂下門外の変が起きる2年前の安政7年(1860年)に、井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」が起き、こちらの方があまりにも有名で、多くの小説や映画やドラマになったりしたので、まず日本人で知らない人はいません。

 それに比べて、「坂下門外の変」を知っている人は、あまり映画にもドラマにもなっていないので、少ないですね。となると、老中安藤信正もそれほど知る人は多くない…。彼は、陸奥国磐城平藩主でした。現在の福島県いわき市です。安藤信正は、登城途中の坂下門外で浪士に襲撃されて背中に傷を負うものの一命を取り留めました。しかし、老中職を罷免されて隠居、謹慎を命じられます。それでも、戊辰戦争では、奥州越列藩同盟に加わり、新政府軍と戦います。結局、敗北、降伏し、蟄居を命じられましたが、最後まで、徳川譜代大名としての意地を見せたのではないでしょうか。

江戸城 坂下門

 今の坂下門は、宮内庁の通用門になっているらしく、警備が厳重であまり近くには立ち寄れませんでした。私の風体が怪しく見えるのか、皇宮警察官と思われる人から睨まれてしまいました。

 私はただ、「嗚呼、ここで、わずか150年前に、襲撃事件があった現場だったのだなあ」という感慨に浸りたかっただけなんですけどね。

江戸城 桜田門

 勿論、坂下門の後、有名な桜田門にも足を運びました。

 桜田門には何度も行ったことがありますが、途中で、二重橋があったので、「なあんだ、坂下門と桜田門はこんな近くだったのかあ」と驚きました。歩いて10分かそこらです。

 この桜田門は、上の看板の説明にある通り、正式には「外桜田門」と言っていたそうですね。

 「桜田門外の変」で暗殺された大老井伊直弼の彦根藩上屋敷は、この桜田門からほんの目と鼻の先だったといいます。上屋敷の場所も確かめたかったのですが、時間がなくて残念。

桜田門 この近くで井伊直弼は襲撃されたのか?

 それより、マスコミ業界では常識ですが、現代では、「桜田門」といえば、警視庁の隠語となっています。

 勿論、この桜田門の近くに警視庁の庁舎があるからです。

二重橋、伏見櫓…江戸城跡めぐり

 中公ムック「歴史と人物」創刊記念プレゼントに応募したところ、上の写真の通り、「オリジナルA4クリアファイル」が当選しました。

 今年1月末締め切りだったので、すっかり忘れていました(笑)。買った雑誌を見返したら、クリアファイルは、「W賞」で当選者は300人でした。本当は「B賞」の「トートバックと中公新書5冊」狙いでしたが、それでも、「W賞」に当たったのですから、凄い。良しとしなければなりませんね。ついている!

 まあ、原価10円か20円ぐらいのファイルに見えましたが(失礼!)、会社の後輩から「メルカリで売れば、500円でも売れるんじゃないですか」と言うのです。そっかー。でも私は、メルカリなんかやってないし、あまり、好きではないので、このクリアファイルは、その後輩にあげてしまいました。彼から、テレビで放送された「大戦国史」をDVDに録画したものをもらってしまいましたから、その御礼です(笑)。

二重橋

 さて、昨日の昼休みは、またまた江戸城にまで足を延ばし、いわゆる一つの「二重橋」まで行って来ました。1時間の昼休みではそこまでが限度でした。

 何と言っても江戸城は広い!細かく史跡を全てを隅々回れば数日掛かるでしょう。

 今は皇居ですから、普段は「宮殿」にまで一般人は入れませんが、個人的には2017年18年に、元ナロードニキで今や優しい右翼の友人栗林氏と一緒に2年連続、お正月の「一般参賀」に参列し、禁断の皇居内に入ったことがあります。

 2018年は、平成最後ということで、参列した日は、最多の12万6720人が参賀したということでしたから、人、人、そのまた人で身動きが取れない状態でした。(1時間半ほど並びましたが、勿論、無料です)

 でも、昨日はコロナ禍で緊急事態宣言が発令され、平日の昼間ということもあり、皇居外苑は人が少なく、ガラガラでした。

 いやはや、目的は皇居参賀ではなく、江戸城址巡りでした。

 看板には「江戸城は長禄元年(1457年)に太田道灌が創築し。天正18年(1590年)に北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに定めた。…」とあっさりした書き方ですが、本当は凄い所なんですけどね(だから、特別史跡か!)。

 上の写真は、伊達政宗の仙台藩上屋敷にほど近いところにある日比谷濠の石垣です。まだ素人なので間違っているかもしれませんが、この石垣は「打込接の亀甲積」に見えます。この辺りに、今は、皇居外苑管理事務所が建っていますが、江戸時代は陸奥泉藩(福島県いわき市)の上屋敷でした。

 何で分かるかと言うと、「大江戸今昔めぐり」というアプリがあるからです。これは、現代地図と古地図を一瞬にして転換できる優れものです。このアプリは、渓流斎ブログのサイトの立ち上げやサーバーなどでお世話になっている松長哲聖氏から紹介されたもので、彼も寺社仏閣に関して協力しているようです。「七福神めぐり」や「江戸歌舞伎ゆかりの地めぐり」などもあり、結構楽しく遊べる(?)アプリです。

 この二重橋は、普段は入れませんが、「一般参賀」の時に渡ることができます。

 向こうに見えるのが伏見櫓です。

 詳しくは上の説明文をお読みください。

 現在、皇居の宮殿がある所は、先ほどの「大江戸今昔めぐり」によると、「西御丸」「西御丸大奥」だったんですね。

 私も以前、何度か訪れている本丸と天守台、二の丸、三の丸などがある江戸城址は、現在、「皇居東御苑」として整備され一般公開されています。(目下、コロナ禍で休園中のようですが)

 ちなみに、天皇陛下がお住まいになる吹上御所がある所は、江戸城時代は(変な表現)、「吹上御庭」と呼ばれ、馬場や梅林や森林もあったようです。普段は一般人は誰も入れませんから、そこは、今でも、古代中世・近世から手つかずの自然が残っているそうです。

 私自身は、二重橋よりも、手前の石垣の方に興味があります(笑)。

 上部は、打込積の亀甲積に見えますが、下の方は布積というんでしょうか?お濠には忍者が潜伏していたのかしら?石垣は、関東大震災でも崩れなかったんでしょうか?

 いやはや、まだまだ勉強が足りません。

「伊達政宗 終焉の地」と江戸城跡

銀座「ごだいご」 ランチごだいご御膳 1100円

 昨日、伊達政宗(1567~1636年)のことを書いたら、ふと、「政宗終焉の地」を再訪したくなり、昼休みに日比谷公園にまで走って行きました。しかも、5月24日(太陰暦)は、政宗公の命日(386年遠忌)だったのです。是非ともお参りもしなければなりません。

(会社から歩いて20分ほど)

 場所は、皇居寄りの日比谷交差点近くの公園入り口(交番がある)から入るとすぐあります。

 上の写真の木々の間から微かに見える建物は、戦後、GHQ本部が置かれた第一生命ビルです。

 ここが「伊達政宗 終焉の地」です。

 初めて、ここが「伊達政宗 終焉の地」だと知ったのは、ほんの5,6年前です。ですから、この立て看板が出来て、まだ10年も経っていないのではないかと思います。

 私の会社は、2003年まで日比谷公園内にありましたから、日比谷公園に関しては隅から隅まで歩き尽くし、熟知していたつもりでしたから、この看板を見つけた時は本当に吃驚しました。

 「えっ?ここに伊達仙台藩の上屋敷があったの?」聞いてないよ、といった感じです。先日、この渓流斎ブログにも書きましたが、伊達仙台藩の上屋敷は当初、ここにあり、寛永18年(1641年)になって浜屋敷(今の汐留の日本テレビ本社)に移転(幕末まで)したのでした。

 ちなみに、以前、会社があった場所は、盛岡南部藩の上屋敷跡だった所でした。

心字池 右後方は帝国ホテル

「伊達政宗 終焉の地」の目の前は、今は心字池になっています。

 かつてはお濠だったらしいのです。

 石垣は、江戸時代のものですが、よくぞ残ったものです。

米軍は東京を空襲する際、既に、戦後の占領統治を考えており、第一生命ビルをGHQ本部にし、日比谷界隈の宝塚劇場や映画館等は兵士の慰問のために残すことを決定し、この辺りを爆撃しなかったと言われています。だから、石垣も残ったのでしょう。

 この石垣の上にベンチがあり、よく、ランチ気分でサンドイッチやおにぎりを食べたり、本を読んだりしたものです。

この石垣は、江戸城外郭城門の一つ、日比谷御門の一部とのこと。

案内板では、慶長19年(1614年)に熊本藩主加藤忠広によって石垣が築造され、寛永5年(1628年)には仙台藩主伊達政宗によって門の石垣が構築された、とあります。

日比谷公園を出て、日比谷交差点を渡ると、もうそこは江戸城です。勿論、今の皇居です。

 以前、テレビで、ある女性タレントが「皇居が江戸城だったの?知らなかったあー!」と叫んでいたのを見て、腰が抜けるほど驚きました。世の中にこういう人もいるとは…。戦前、宮城(みやぎ、ではなく、きゅうじょう)と呼ばれていたことも知らないことでしょう。

 それはさておき、伊達藩の上屋敷が江戸城からこんな近いとは驚きです。目と鼻の先。まさに「スープが冷めない距離」です。家康公が、よっぽど伊達政宗を警戒したのか、逆に、よほど近くに置いておきたかったのかのどちらかでしょう。伊達藩は外様ですが、家康は案外、政宗公を気に入っていたんじゃないかと私なんか思うんですけど、理論的な裏付けはありません(笑)。

 仙台藩は「伊達騒動」を始め、お家騒動が極端に多く激しかった藩で、幕末も佐幕派と新政府側と壮絶な争いがありました。あの仙台藩から遣米使節に選ばれた玉蟲左太夫も、奥州越列藩同盟の推進に活躍したため、最後は詰め腹を切らされました。大変惜しい人材でしたが、玉蟲左太夫は、言わば、伊達政宗公の遺訓を守って、徳川方に忠誠を尽くしたような気がします。これも想像ですが。

 江戸城は、天守こそ再建されませんでしたが、広大な敷地といい、天下普請の石垣といい、日本全国見渡しても、江戸城に優るお城はありません。私なんか、外から石垣を眺めるだけでも大満足です。石垣は諸藩から献上されたので、藩の家紋が彫られたりしています。

 コロナ禍で遠出ができない人には、江戸城跡はお薦めです。(あ、これは関東圏にお住まい向けの発言でした。全世界の愛読者の皆様、大変失礼仕りました)

多くの人に玉蟲左太夫のことを知ってほしい=「仙台藩士 幕末世界一周」を読了

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 玉蟲左太夫著、山本三郎現代語訳・解説「仙台藩士 幕末世界一周」(荒蝦夷)を読了しました。いやあ凄い本でした。読後は、歴史に埋もれてしまった仙台藩士・玉蟲左太夫誼茂(たまむし・さだゆう・やすしげ)のことをもっと多くの人に知ってもらいたい。と思いました。幕末は、坂本龍馬や勝海舟や西郷隆盛や新撰組だけではありません、内憂外患のとてつもない危機の時代だったせいか、他にも多くの偉人を輩出しました。

 万延元年(実際は安政7年=1860年)1月。幕府の遣米使節の一行77人が米国に派遣されたのは、日米修好通商条約批准書をワシントン(第15代ジェームズ・ブキャナン大統領)で交換するためでした。玉蟲左太夫は、正使、つまり使節団代表の新見豊前守正興・外国奉行の従者として渡航する栄誉に恵まれました。仙台藩主伊達慶邦に献上される形で、毎日、「航米日録」が書かれました。

 そこには立ち寄った先の地理、歴史から、社会制度、人口、風俗、生物、慣習、食、宗教に至るまで、鋭い観察眼で描写しています。よく取材したものです。既に、このブログでは、この本の前半と中盤を取り上げたので、今回は後半部分を取り上げます。

 後半は、一仕事終えた後、大西洋を渡って、アフリカ大陸の喜望峰~インド洋~バタビア~香港を経ての帰国航海記です。1860年1月から9月まで、277日間に及ぶ世界一周でした。

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 一番興味深かったのは、玉蟲左太夫の清国(中国)人観です。ハワイやサンフランシスコなどで知り合った清国人は、教養と節度があり、とても親切だったので、むしろ、米国人の「礼の無さ」や「上下の無さ」を嘆かわしく感じていました。「米国人らにもっと『聖教』を施せば、もっと良い人間になれるだろうに」とさえ記述します。この聖教とは武士の教養として必須の朱子学のことです。その儒教の本家本元の中国を尊敬しながら、英仏列強などに侵略されている現状を嘆いたりします。

 それが、寄港したバタビア(今のインドネシア・ジャカルタ)で会った中国人は、親切に巻き煙草をくれたのかと思ったら、後で、請求書を持ってきたりして、その狡猾さに一気に中国人に対するイメージがダウンします。中国人も欧州列強と同じように、東南アジアに進出しているとさえ感じます。阿片戦争で植民地化された香港では、中国人が、英国人から犬馬のように鞭で叩かれている様を目の当たりにして、中国人自らの無能と堕落の結果ではないか、と切歯扼腕し、清国政府の失政を批判したりします。

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 玉蟲左太夫は、帰国後、幕末の動乱に巻き込まれ、新政府軍に対抗する奥羽越列藩同盟の中心人物の一人と目され、戊辰戦争敗戦後に捕らわれて、切腹を命じられます。

 山本三郎氏が執筆した終章「玉蟲左太夫の残映」では、自由民権運動の最中の明治14年につくられた「五日市憲法草案」が玉蟲左太夫の影響によるものではないかという説を唱えていました。私もこのくだりを読んで納得してしまいました。起草者は千葉卓三郎という元仙台藩士で、十代に仙台藩校「養賢堂」で学び、ここで玉蟲左太夫の講義を受けていたといいます。彼は、帰国したばかりの玉蟲左太夫から、米国の先進的な政治や教育制度、地方自治など最新知識を学び、その影響で、五日市憲法草案にあるような「国民の権利自由」(第45条)や「法の下での平等」(第48条)などに反映されたのではないか、と山本氏は推測しています。

 なぜ、「推測」しかできないのかと言いますと、起草した千葉卓三郎が、その師である仙台藩校「養賢堂」の学頭だった大槻磐渓の名前は書き残しても、玉蟲左太夫の名前を書き残さなかったからです。明治14年当時の玉蟲は、いまだに切腹を命じられて家禄を没収された「戦犯」の身であり、名前を出すことが憚れたのではないか、と山本氏はこれまた推測しています。

 千葉卓三郎は明治16年に31歳の若さで病死し、玉蟲左太夫の名誉が回復され、家名再興を許されたのは明治22年(1889年)のことでした。

玉蟲左太夫は幕末のジャーナリストだ=「仙台藩士幕末世界一周」を読む

 先月、「ドライビング・ヒストリック・アメリカ 懐かしのヴァージニアに住まいして」(同時代社)を上梓された松岡將氏から、「もし貴兄が、『仙台藩士幕末世界一周』(山本三郎:2010年、荒蝦夷)を未読であれば、(2300円+という安価でもあり)騙されたと思って是非ご購入されたし」とのメールを頂いたことは、以前、このブログでもご紹介致しました。

 何しろ、10年以上昔の本ですから、やっと見つけて、私も「騙されたつもり」(笑)で購入し、早速目を通し始めましたが、本当にめっちゃ面白い。この本を御紹介して頂いた松岡氏には感謝申し上げます。

 この本の著者は、玉蟲左太夫誼茂(たまむし・さだゆう やすしげ=1823~69年)という仙台伊達藩士で、日米修好通商条約批准書交換のため、公式使節団の一員(正使・新見豊前守正興外国奉行兼神奈川奉行の従者)として、米国が派遣してきた軍艦ポーハタン号に乗艦して渡米し、その後、アフリカ、ジャワ、香港などを経由して「世界一周」をして帰還し、その間の出来事を膨大な「航米日録」としてまとめた人です。

 恐らく、初めて世界一周をした日本人の一人ですが、「初めてビールを飲んだ日本人」として、彼の肖像写真が某ビール会社の広告に使われたことがあるそうです。

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 松岡氏の著書「ドライビング・ヒストリック・アメリカ」の第Ⅵ話にポーハタン号が出てきますが、この話を読んだ松岡氏の東北学院中・高時代からの親友三浦信氏が、彼の五代前の祖先に当たる玉蟲左大夫誼茂がこの同じポーハタン号で渡米して、航海記を書いていたことを思い出し、この本を贈ってくれたというのです。

 松岡氏が調べたところ、玉蟲左大夫は、帰国後、戊辰戦役の際、奥羽越列藩同盟の主要な役割を果たしたため、新政府軍に睨まれ、明治2年、戊辰戦役敗戦後に捕縛され、仙台藩牢中で切腹した人物でした。同時期に咸臨丸で渡米した福沢諭吉とも親交があり、玉蟲の死を知った福沢も「何たることか」と悲憤慷慨したといいます。

 この「仙台藩士幕末世界一周」の現代語訳を出版し、興味深い解説も施した山本三郎氏(1936~2012年)は、この玉蟲左太夫誼茂の玄孫に当たる人で、地元仙台の東北放送などに勤務したマスコミ人でした。「仙台藩士幕末世界一周」を読めば分かるのですが、この本の著者玉蟲左太夫は「幕末のジャーナリスト」か「幕末のノンフィクション作家」と言ってもよく、停泊した当地の風俗から、棲息する動植物、物価に至るまで本当に隅から隅まで取材して、事細かく記載しています。マスコミ人の山本氏も、その「ジャーナリスト玉蟲」の血を引いていたということなのでしょう。

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 万延元年(1860年)1月~9月の10カ月間、ほぼ毎日記入された航海日誌です。現代語訳されているせいか、160年も昔の話ながら、全く古びていません。特に、著者の玉蟲左太夫が大変魅力的な人物です。当時のがんじがらめの身分社会の中で、開明的な思想の持ち主で、艦長が、甲板上で行われた水兵の葬儀に参列したことに感心し(日本では殿様が足軽の葬儀に出ることなどあり得なかった)、選挙で大統領を選ぶ米国の共和制に感心したりしています。

 幕末とはいえ、鎖国の江戸時代だったということで、初めて西洋の文物に触れたそのカルチャーショックぶりは、いかなる日本の歴史上、これほど大きなショックを体験した人たちは、いないと思われます。好奇心旺盛な玉蟲左太夫は、戦艦の蒸気船の仕組みを事細かく取材してまとめ、生まれて初めて飲むビールに感心し、蒸気機関車に乗ってその速さに驚き、現地の女性の服装や食べ物に感心します。ハワイでは、薬局店「普済堂」を開いていた中国人の主人麗邦と筆談して、阿片戦争などで英国に侵略された支那(中国)情勢を語り合い、玉蟲は同情を寄せつつも、日本が「中国の二の舞い」ならないようにするにはどうしたら良いかなどと苦慮します。

チェリーセージ Copyright par Keiryusai

 この「日誌」の最初の方の圧巻は、ポーハタン号が太平洋を横断する際、大変な暴風雨に遭い、生命の危険まで冒されそうだったという記述です。玉蟲左太夫は、正使・新見外国奉行の従者だったため、与えられた「部屋」は、船上に仮設されたもので、大砲を突き出す窓を仮に塞いで寝室にしているため、怒涛によって簡単に壊れて、暴風雨が入り込み寝室は水浸しで川のようになります。寒さで震えが止まらず、病気になる寸前を何度も乗り越えたという描写もありました。

 この中には書かれていませんでしたが、恐らく、偉い正使、副使らの奉行らは、雨風が入ってこない船内の個室を当てがわれていたことでしょう。同じサムライでも奉行と従者との格差の違いがよく分かりました。

 ちなみに、この遣米使節の正使は、新見豊前守正興ですが、副使は村垣淡路守範正、目付(監察)は小栗忠順(ただまさ)でした。薩長史観嫌いで幕臣派の私は、この小栗忠順は、幕末の偉人の中でも最も評価している一人です。使節代表団の中で最も注目された人物で、ポーハタン号士官のジョンストン中尉は「小栗は確かに一行中で最も敏腕で実際的な人物であった。使節らが訪問せし諸所の官吏との正式交渉は、全部、彼によってのみ処理された」と書き残しています。

 小栗は帰国後、横須賀製鉄所(造船所)を建設するなど、勝海舟と並び「日本海軍の始祖」と言われました。が、討幕軍との戦いでは徹底抗戦する主戦論を唱えて罷免され、権田村(現群馬県高崎市)に蟄居しているところを討幕軍に捕らえられ、斬首されます。嗚呼、本当に惜しい人材でした。

 話はそれましたが、本書はエピソード満載で、使節団の通詞(通訳)見習いで、米国では「トミー」の愛称で女性たちに大人気で、現地紙にも書かれた立石斧次郎(長野桂次郎と改名)は、フジテレビ出身でフリーアナウンサーの長野智子さんの曽祖父だったとは、驚きでした。

 また、使節団が航海した1860年は、その3月に桜田門外の変が起きた年でした。この事件は、6月12日付のフィラデルフィア・インクワイアラー紙などでも報道されていたんですね!!(最初は「大君」=将軍が暗殺されたと誤って報道され、翌日、「国務長官」に訂正。解説の山本三郎氏は、使節団の村垣副使らは通詞を通して概要を得たが、玉蟲左太夫の耳に入ったかどうかは不明と記述しています)160年前の米国では、海の遥か向こうの極東の島国の話まで新聞で報道していたとは、ジャーナリストの端くれとして、ちょっと興奮してしまいました。

 

近世城郭は500城しかなかった=日本の5万城のわずか1%

彩翔亭(所沢航空記念公園)Copyright par Keiryusai

 ゴールデンウイークだというのに、私が住んでいる首都圏では緊急事態宣言とまん延防止等重点措置が発令され、居酒屋でもお酒出しちゃ駄目よお、ということになり、不要不急の外出を避けるよう通達が出されているので、鎌倉の寺社仏閣や好きな城巡りもできません。

 仕方がないので、誌上で城巡りをすることにしました。

 またまた、月刊誌「歴史人」(ABCアーク)ですが、5月号で「日本の城 基本のき」を特集してくれてたので、またまた購入しました。「城の見方 徹底解説」「知っていれば城歩きが100倍面白くなる!」などと銘打ってますが、かなり難易度が高い内容だと思います。

 私自身、「破風(はふ)」とは何か、説明できませんでしたし、「懸魚」も「蟇股」も「冠木門」も、漢字が読めませんでしたからね。(それぞれ、「げぎょ」「かえるまた」「かぶきもん」と読みます)

 私は「石フェチ」というか(笑)、お城の石垣を見るのは大好きなんですが、名称として、一見、乱雑に積み上げているように見える(1)「野面積(のづらづみ)」ぐらいしか知りませんでした。それが、この本で、この他に、合端(あいば=築石の接合部分)を削って加工し、隙間を減らして接合する(2)「打込接(うちこみはぎ)」と、それをさらに徹底的に加工して隙間なくキッチリ積んだ(3)「切込接(きりこみはぎ)」の3種類の工法があることを教えられました。

 この3種類の工法の中でも、不規則に積む「乱積(らんづみ)」や、同じような高さの石を積む「布積(ぬのづみ)」、または、変則的な「谷積(たにづみ)」や、亀の甲羅のような形を積む「亀甲積(きっこうづみ)」、石材の対角線を垂直に落とし込むように積む「矢筈積(やはずつみ)」など色んな積み方があることも知りました。この中で、「野面積・乱積」の代表は、会津若松城天守台、一番キチンと整頓されて積み上げられた「切込接・布積」の代表に江戸城天守台などがありました。

アヤメ 彩翔亭で Copyright par Keiryusai

 何と言っても、勉強になったのが、三浦正幸広島大学名誉教授の解説です。城の定義は色々ありますが、飛鳥時代に築かれた(渡来人が伝えた)朝鮮式山城を城の嚆矢とすると、明治までに全国で築かれた城の数は約5万もあるといいます。(2020年の統計で、全国のコンビニの店舗数は5万6844軒といいますから、コンビニ並みに全国にお城があったということになります。)

 しかし、我々が城をイメージするのは、大抵、天守があるお城のことで、それは、安土桃山時代以降に築かれた近世城郭だといいます。その数は500城で、全体の1%に過ぎないのです。実は、飛鳥時代や平安時代に築かれた城は極めて少なく、鎌倉末期から室町末にかけて築かれた中世城郭が99%も占めるといいます。しかし、中世城郭は粗末な掘っ立て小屋みたいなもので、江戸時代の農家の納屋よりも格段に低級だったため、残っている実物は皆無で、現存する城郭建築は全て近世城郭だというのです。この独創的な近世城郭を創始したのは織田信長と言っても過言ではない、と三浦名誉教授は言います。

 明治維新当時に存在した城は全国に180ありましたが、明治政府による廃城令や、米軍による空爆などで、往時の城郭建築を全て失った城は133城に及ぶといいます。単純計算すると、500城あった近世城郭のうち、一部でも、往時の姿を現代に残している城はわずか47城しかないといことになりますね。

◇天守現存はわずか12城

 それでも、江戸時代以前からの天守が残る城はわずか、たったの12城で、そのうち5城(姫路城、彦根城、松本城、松江城、犬山城)が国宝、7城(丸岡城、丸亀城、宇和島城、備中松山城、高知城、弘前城、伊予松山城)が重要文化財に指定されていることは皆様御存知の通りです。

 公益財団法人・日本城郭協会が「日本100名城」「続日本100名城」を選出しておりますが、この200城を全て巡れば、近世城郭は半分近く踏破したことになります。うーん、誌上だけでは、やはり満足できなくなりました。死ぬまでに200城巡れるかしら?若い時に全国を出張で駆け回っていたので、もっと早く城巡りしていたら、もうとっくにクリアしていたことでしょう。これまで、50城ぐらい巡ったから、何とかなるかなあー?

戦国武将 最強は誰か?=意外にも信長公は第6位

 「歴史人」4月号の特集「発表! 戦国武将 最強ランキング」はなかなか読み応えがありました。全合戦の勝率から導き出された最強の武将は誰なのか決定したもので、意外にも第1位は毛利元就。49勝9敗2分で勝率8割1分7厘という戦績でした。

 第2位は、四国の王者・長宗我部元親で47勝12敗2分けの勝率7割7分。第3位は豊臣秀吉で106勝22敗15分の勝率7割4分1厘でした。これまた、意外にも、織田信長は59勝15敗8分(勝率7割2分)で6位にしか入っていないんですね。徳川家康も52勝10敗12分(同7割3厘)の8位ですが。

 ところで、関東の雄・北条氏康は34勝8敗8分、勝率6割8分で第9位に食い込んでいて、全50合戦の勝敗表が掲載されていますが、読んでいて矛盾した箇所が出てきます。1556年3月10日の鎌倉合戦で里見義堯(さとみ・よしたか)に勝利を収めたことになっていますが(32ページ)、15勝9敗5分(勝率5割1分7厘)で第20位に入った里見義堯は「安房の小大名ながら北条氏康に勝利した戦術家」として紹介されています(37ページ)。

 それによると、里見義堯は天文24年には北条氏康軍に大勝し、武名を挙げたことになっています。天文24年は西暦1554年で、この年は、武田信玄と今川義元と北条氏康が「三国同盟」を結んだ年です。その後、第1次久留里城=千葉県君津市=の戦いがあり、里見氏が北条氏の攻撃を退けています。北条氏康の項で、里見義堯に勝ったとされる1556年を調べると、この年の「三浦三崎の戦い」で里見水軍が相模に進軍して北条水軍に辛勝したとあります。となると、いずれにせよ、北条氏康は敗れたことになり、34勝8敗8分ではなく、33勝9敗8分にならなければおかしいし、里見義堯の項で、北条氏康軍に「大勝した」のではなく、「辛勝した」にしなければおかしい。こう考えると、他にも間違いがあるのかもしれません。

 例によって、自分が知らなかったことなど特に銘記しておきたいことをメモ書きします。

・戦国大名(武将)が勝利を重ねるのに最も重要な存在は、軍師。天下を取った豊臣秀吉には実弟の豊臣秀長黒田官兵衛(如水)、竹中半兵衛らがいたことが大きい。他に、今川義元の太原雪斎(たいげん・せっさい=今川氏親の重臣庵原左衛門尉の子)、大友宗麟の立花道雪角隈石宗(つのくま・せきそう)、龍造寺隆信の鍋島直茂、伊達政宗の片倉小十郎景綱、武田信玄の真田幸隆山本勘助ら、毛利輝元の安国寺恵瓊(えけい=安芸守護大名武田信重の子)、徳川家康の本多正信、石田三成の島左近(筒井順慶、蒲生氏郷らに仕えた後、関ケ原の戦いの前に主君三成の半分の俸禄で迎えれた)らがいる。

・子だくさんの第1位は、本願寺の中興の祖、蓮如で男子13人、女子14人。84歳で亡くなった時、5番目の妻で34歳の蓮能尼は生後2カ月の息子を抱いていた。2位は織田信秀で男女ともに12人、その子息の織田信長も男子10~12人、女子10人を側室に産ませた(異説あり)。

・応仁の乱の後、「剣術三大源流」の流派が始まる。愛洲移香斎(あいすい・こうさい)による「陰流」、中条長秀の「中条流」、飯篠長威斎(いいざさ・ちょういさい)の「神道流」の三派だ。陰流の愛洲移は常陸国の鹿島の人、神道流の飯篠は香取神宮の神意を受けて創始。飯篠の弟子で「鹿島神流」を創始した松本備前守尚勝は鹿島神宮の神職。同じく飯篠の神道流の門派から出て「新当流」を創始した塚原卜伝は鹿島神宮の神官の次男と、どうも剣客には鹿島神宮と香取神宮に関係している。

・剣豪ランキングで、第1位の宮本武蔵に次ぎ第2位を獲得したのが、上泉信綱(かみいずみ・のぶつな)。上野国大胡(群馬県前橋市)の上泉城主の子で、青年時代に鎌倉で念阿弥慈恩を流祖とする「念流」を学び、下総国香取で松本備前守尚勝の「鹿島神流」や塚原卜伝の「新当流」を習得し、常陸国鹿島で「陰流」の愛洲移香斎に師事して「新陰流」を創始。上泉信綱の弟子として、「柳生新陰流」を創始した柳生石舟斎宗厳(せきしゅうさい・むねよし)、「疋田陰流」の疋田文五郎、「タイ捨流」の丸目蔵人佐(まるめ・くらんどのすけ)ら多くの剣豪を輩出した。

藩は公称にあらず、改易逃れの支藩づくり、信濃町の由来=「江戸五百藩」の実態を知る

この「江戸五百藩」(中央公論新社)は、驚くべきほど情報と知識が満載されていて、非常に勉強になりました。

 特に私自身が不明を恥じたことは、江戸時代、藩は国と呼ばれていて、藩が公称として使われ始めたのは、明治時代に入ってからだということでした。明治元年(1868年)、明治新政府が旧幕僚に府と県を置き、旧大名領を藩と呼んだといいます。ですから、作家浅田次郎氏によると、例えば、南部盛岡藩ではなく、盛岡南部家とするのが正解なんだそうです。(それでも、この本では通説通り、藩とか藩主とかいう名称を使ってますが)

 色んな史実や逸話がこの本には書かれていますので、何かに絞って書かなければなりませんが、筆の赴くまま進めていきたいと思います(笑)。

 そうですね。現代人は幕末史に関心が深いので、幕末の話から始めましょう。幕末の改革派の有力大名として、例えば、宇和島藩の伊達宗城とか福井藩の松平春嶽らが出てきます。宇和島は愛媛県なのに、何で、仙台の伊達家がお殿さまなんだろう?北陸の福井が、何で徳川親藩で、松平家のお殿さまなんだろう?と私なんか疑問に思ったものでした。それは、藩の成り立ちを見ればすぐ分かるのです。

 宇和島藩は、仙台の伊達政宗が大坂冬の陣で功を上げ、その庶子秀宗が、藤堂高虎が築いた宇和島城に入城して立藩し、途中で廃藩になるものの、幕末まで伊達家が続いたわけです。

 福井藩は、徳川家康の次男結城秀康が立藩し、二代目忠直から松平姓に改め、越前松平家が幕末まで藩主を務めるわけです。江戸時代は、後嗣(嫡男)がいないと、藩はすぐ改易(お取りつぶし)になるため、有力藩はその対策として分藩や支藩をつくるようになります。特に、福井藩はその数が多かったといいます。途中で代わったりしますが、松江藩(松江城は国宝ですね)、岡山の津山藩(幕末に箕作阮甫、津田真道ら一流学者を輩出)、新潟の糸魚川藩と高田藩、兵庫の明石藩などがあります。随分、広い範囲に渡るので驚くほどです。他に香川の高松藩は御三家水戸藩の分家、井伊彦根藩の支藩として新潟県長岡市の与板藩などがあります。

 こうして、有力大名の子息の後嗣がいなくなった藩に「派遣」されることが多くありましたが、最も有名なのは、「高須四兄弟」でしょう。美濃(岐阜県)の高須藩は、御三家尾張藩の支藩ですから親藩です。幕末の十代松平義建(よしたつ)の四人の息子が、一橋徳川家、尾張藩、桑名藩、会津藩の当主になります。この中で最も有名な人は会津藩主の松平容保(かたもり=幕末に京都守護職を任じられ、新選組を指揮下に)でしょう。この時、岐阜県から福島県へ大勢のお伴を連れて引っ越ししたと考えがちですが、実際は江戸の高須藩邸から会津藩邸に移っただけの話だったといいます(大石学東京学芸大学名誉教授)。

 幕末の動乱で、何故、御三家の尾張藩や、徳川四天王の一人井伊直政直系の彦根藩が早々と佐幕派から脱退して討幕派に傾いたのか不思議でしたが、尾張藩の場合、八代将軍の跡目争いで「格下」と思っていた紀州藩の吉宗に取られてしまったという江戸中央政府に対する「怨念」があったようですね。彦根藩の場合、安政の大獄を断行した井伊直弼のお蔭で、藩士が処刑されたり、京都守護職を罷免されたり、減封までされたため、幕府を見限ったのでしょう。

 江戸幕府は、「元和偃武」以降、天下太平の平和な時代が260年間続いたように思われがちですが、どこの藩でも財政は逼迫し、後嗣を巡ってお家騒動が何度も勃発したり、百姓一揆が頻発したり、権力争いで改易された藩も多くあります。その中で、以前、栗原先生のお導きで行った宇都宮城にまつわる城主本多正純の改易・流罪の話を取り上げます。本多正純は、もともと豊臣秀吉の重臣だった福島正則を密略によって改易させ、その功で小山藩3万3000石から宇都宮藩15万5000石に出世します。しかし、正純は元和8年(1622年)、宇都宮城で釣り天井を落として二代将軍秀忠を殺害しようとした罪で改易され、出羽横手に配流され不遇のうちに亡くなりました。

 この事件の背後に、前の宇都宮藩主・奥平忠昌の祖母加納殿がいました。彼女は、家康の娘で秀忠の異母姉に当たり、その娘は大久保忠隣(ただちか=有名な大久保彦左衛門の甥)の子・忠常に嫁いでいました。大久保忠隣は、三河以来の家康の重臣でしたが、同じライバルの本多正信の密訴により、小田原藩主の座を改易されていたのです。本多正信の嫡男が正純で、大久保家と本多家との間で確執があったと言われています。加納殿は、正純を陥れることで、大久保家の復讐を遂げたということになります。

 もっと書きたいことがありますが、後は一つだけ(笑)。いずれの藩も、江戸には上屋敷、中屋敷、下屋敷があると思っていましたが、家康と秀忠の時代は、屋敷は一つしかなかった、ということをこの本で知りました。これら屋敷跡は、紀尾井町(紀伊、尾張、井伊)など今でも地名になっていますが、知らなかったのは、新宿区の信濃町でした。これは、山城国淀藩の藩主永井信濃守尚政の下屋敷があったからなんだそうですね。もともと信濃殿町と言われていたようです。信州信濃とは関係なかったとは…色々と勉強になりました。(ちなみに、私が以前読んだ本によると、大岡越前守とか永井信濃守といった名称は、領地に関係なく、江戸城がある武蔵守以外なら大体、その石高次第で幕府に認められたようです。勿論、賄賂もからんでるでしょうが)