徳川家臣団の変遷が面白い=「歴史道」25号「真説! 徳川家康伝」特集

 1922年創刊と日本で一番古い週刊誌で、101年の歴史を持つ「週刊朝日」(朝日新聞出版)が今年5月末で休刊になる、という超メガトン級のニュースが飛び込んで来ました。時代の趨勢を感じます。100年以上も歴史あるメディアが事実上廃刊になるのです。ピーク時は、150万部に達していたそうですが、昨年12月の平均は7万4千部程度。将来の部数と広告収入の減少を見込んだことが休刊の表向きの理由ですが、同社は週刊誌は他に「AERA」も発売しており、2誌同時発刊は経営的に厳しいと判断したようです。まあ、一番の理由は若い人が紙媒体を読まなくなり、ネット情報に依存するようになったからなのでしょう。

 私は古い世代なので、やはり紙媒体が一番です。残念としか言いようがありませんが、何を言っても始まらないでしょう。

 でも、その週刊朝日ムックとして隔月刊で発行されている「歴史道」は続けてほしいなあ、と思っております。1月発売の第25号は「真説! 徳川家康伝」特集で、あからさまなNHK大河ドラマ「どうする家康」とのタイアップ記事もありましたが、雑誌存続のためには仕方がないということで御同情申し上げます。

 ムックなので、写真や図解が豊富というのが特徴ですが、テレビに出たがりの、特に見たくもない、勝ち誇ったような学者様のアップした顔写真を何枚も掲載するのはそれほど必要なものか、と苦言だけは呈しておきます。その学者様の洞察力と業績は尊敬しますけど、まさかアイドル雑誌?これも売るために仕方ないのかなあ?

 先日、やっと読了しましたが、徳川家康というまさに日本史上燦然と輝く「日本一の英傑」の生涯がこの本で分かります。人には功罪がありますが、戦国時代の最終勝者で、その後、260年間もの太平の世を築き挙げた家康の手腕は、やはり、罪より功の方が遥かに上回っていると認めざるを得ません。3歳での実母との別離、幼少時代の人質生活、そして16歳(1558年の鱸氏攻め)から合戦に次ぐ合戦で、最晩年の大坂の陣(死の1年前)を入れれば、戦争に明け暮れた波乱万丈の一生と言えるでしょう。

 渓流斎ブログ2023年1月11日付「水野家と久松家が松平氏の縁戚になったのは?=NHK大河ドラマ『どうする家康』で江戸時代ブームか」でも書きましたが、この本を買ったのは、付録として「徳川家臣団 最強ランキング」が付いていたからでした。つまり、私には徳川家臣団の知識が不足しておりました。260年続く幕藩体制を築いた家康ですが、家康一人の力で天下を獲ったわけではありません。優秀で有力な家臣団がいたからこそ成就できたのです。その家臣団のほとんどが、幕末まで続く藩主(大名)になっているので、そのルーツを知りたかったこともあります。1月11日付のブログでも書きましたが、上総鶴巻藩主などの水野家は家康の実母於大の方の実家であり、下総関宿藩主などになった久松家は、その於大の方が離縁後に嫁いだ先でしたね。

 家臣団の中で、徳川四天王が一番、人口に膾炙しておりますが、それ以外に、この本では詳述されていませんでしたが、「徳川十六神将」とか「徳川二十四将」「徳川二十八神将」とかあるようです。特に二十八神将となると、後世になってつくられたものなので、人物名の誤記などもあるというので、よほどの通の人でなければ覚える必要はないかもしれませんが、この本の付録「徳川家臣団 最強ランキング」では「三河統一時代」と「五カ国領有時代」「関東入国時」と時代別に家臣団の変遷が詳述されています。例えば、三河統一時代の「三奉行」が高力清長、本多重次、天野康景だったことが分かります。私も含めて、知る人ぞ知る武将なので、彼らがその後、どうなったのか、子孫が幕末まで生き残って何処かの藩主になっていたのか調べたりすると本当にキリがありません。

銀座「マトリキッチン」

 そこで、有名どころとして、徳川四天王の筆頭、酒井忠次を今回取り上げますが、この人は、家康より15歳年長で家康の義理の叔父に当たる人でした。(酒井忠次の正妻碓井姫は家康の父広忠の妹。酒井氏は、鎌倉幕府の公文所初代別当大江広元の末裔とも言われている。また、酒井氏は松平氏と同族の兄弟(同祖)で、三河の国衆の中で酒井氏の方が有力だった時もあった。家康時代の酒井氏は、忠尚家、忠次家、正親家の3家から成る)。左衛門尉(さえもんのじょう)酒井忠次は、特に天正3年(1575年)の長篠の戦では、武田軍の背後に回る奇策を演じて、織田・徳川連合軍の勝利に導きました。いくら信長、家康といった目上の人に対してでも物怖じせず、率直に物を申す人柄で、酒井家の代々の藩主の家風として伝えられています。酒井忠次の孫に当たる忠勝から庄内藩主として幕末まで十二代続きます。あくまでも徳川家の臣下として誠意を尽くした庄内藩は、幕末の戊辰戦争でも最後まで善戦したため、過酷な処分が予想されましたが、比較的軽い処分で済みました。それは西郷隆盛の配慮だったことを後で知った旧庄内藩士によって明治初期に「西郷南洲翁遺訓」がまとめられた、という話につながります。

 歴史とは、現代との「つながり」ですから、そのルーツを知れば知るほど興味が増していきますね。

水野家と久松家が松平氏の縁戚になったのは?=NHK大河ドラマ「どうする家康」で江戸時代ブームか

 NHK大河ドラマ「どうする家康」が先週から始まりましたが、初回(1月8日)の視聴率が関東で15.4%と歴代2番目の低さだったことが昨日、ビデオリサーチの発表から分かりました。超人気グループ「嵐」の松本潤さんを主役の徳川家康に抜擢して満を持したはずなのに、どうしたものか。何度も大河ドラマで取り上げられている家康に飽きられたのか、そもそも大河ドラマが国民的番組にならなくなったのか、よく分かりませんが、もしかしたら、「テレビ離れ」が原因なのかもしれません。

 スマホゲームやらネットフリックスやら、他に楽しめることが世の中には沢山あふれていますからね。

 私は古い人間ですから、「どうする家康」は見ています。前回の「鎌倉殿の13人」では、あるべき合戦シーンがなく、メロドラマかホームドラマに堕していたことが興醒めでしたが、今回は結構、合戦シーンもあり、これはもしや? と思いました。そしたら、大河ドラマの通であるA君が「ありゃ酷い。馬なんかCGですよ。全部、同じ動きをして同じ動作を繰り返しているだけ。ネットの書き込みでも大騒ぎです」と言うではありませんか。

 私はネットの書き込みは読まない主義なので、読みませんでしたが、そんな大騒ぎするくらいなら結構見ているんじゃないか、と思った次第です(笑)。

 もうここ半世紀以上も、日本は大河ドラマを中心に世の中が回っておりました。経済波及効果を狙って、地方の公共団体や観光協会は地元や郷土の偉人や名士を主役に取り上げてもらおうと必死です。テレビ番組も他局なのに、クイズ番組にせよ、旅行番組にせよ、関連ものばかり放送されます。出版界も今年は徳川家康関連本のオンパレードになるはずです。

 私も「同じアホなら踊らにゃ損、損」とばかりに、便乗商法に乗って、まずは「歴史道」(朝日新聞出版)25号「真説! 徳川家康伝」特集を購入しました。「家康特集」雑誌は複数出ておりましたが、この本に決めたのは理由があります。一応、家康に関してはある程度、私自身、知り尽くしております。生意気ですねえ(笑)。しかし、家康の家臣団に関する知識は不足していました。家臣団について知っているのは、「徳川四天王」と「徳川二十将」ぐらいです。そしたら、この「歴史道」には付録として「徳川家臣団 最強ランキング」が付いていたのです。こりゃあ、買うしかありませんね(笑)。

 家臣団について、本多忠勝井伊直政といった超有名人は置いといて、この本で初めて知ったのは石川数正のことでした。私は、彼のことを最初に知ったのは、国宝松本城を築城した大名としてですが、もともと、家康の家臣どころか筆頭家老の重臣で、西三河の旗頭を務めた人であることは後で知りました。(東三河の旗頭は、家康より14歳年長の徳川四天王の酒井忠次)それが、彼は、ひょんなことで家康を裏切って、豊臣秀吉方に出奔してしまうのです。何故、出奔したのか、確実な理由はいまだに分かっていないようですが、今回、この本で初めて知ったことは、石川数正の母は、家康の生母・於大の方の妹と書かれていたのです。ということは、石川数正は、家康の従兄弟になります。親戚の身内ですから、重臣になれるはずです。

 話は飛びますが、江戸時代になると、例えば、家康の次男結城秀康は越前68万石に移封され、越前松平氏の祖になります。越前松平氏は、越前だけでなく、出雲の松江藩や岡山の津山藩、上野の前橋藩など大名藩主として勢力を拡大しますので、家康の子孫が藩を治める「徳川家」の分権政治みたいに見えてきます。

 でも、これは、家康が関ケ原の戦いや大坂の陣など合戦を経て、政権基盤をしっかりと確立したから出来たことでした。勃興期と言いますか、草創期は、逆に身内こそ権力を脅かす危険な要因だったというので、なるほど、と思ってしまいました。

 それはどういう意味かと言いますと、家康の御先祖様は、上野国(群馬県)新田郡世良田荘得川(徳川)郷一円を支配していた源氏の嫡流新田氏であるとされていますが、恐らく後付けでしょう。遡って、ほぼ確実に歴史として分かっているのは、三河国松平郷(豊田市松平町)の土豪から国衆に発展した松平氏の三代目信光辺りです。この人、何と男女合わせて48人もの子供がいたそうです。その子供たちのうち、有力者が、竹谷(たけのや)、安城、形原(かたのはら)、大草、五井、能見などの分家を作り、この中で、家康に繋がる安城(安祥)が「松平宗家」となります。そのまた子孫にも、深溝(ふこうず)、大給(おぎゅう)、桜井、鵜殿などに分封され「十八松平」と呼ばれる分派が生まれていきます。彼らは、血を分けた兄弟親戚同士なのに、権力闘争で、一族間の争いが絶えなかったといいます。家康があまりにも近い近親を重用しなかったのは、このように親戚同士争った祖先の例を小さい頃に教えられていたからかもしれません。

 いずれにせよ、「宗家」である安城松平氏の二代目長親は、北条早雲と一戦を交えています。家康の祖父に当たる四代目清康は、安城松平氏の中興の祖みたいな人で、本拠地を安城(安祥)城から岡崎城に移します。清康は家臣による謀反で暗殺され、家康の父広忠も24歳で病死したとされますが、家臣に暗殺されたという説もあります。

 こうして、家康は生まれる前から、外敵だけでなく、身内との権力闘争の渦に巻き込まれていたわけです。

 また、話は飛んで、先ほど、越前松平氏のことについて触れました。「江戸三百藩」と言われる藩主は、外様以外は、家康の股肱の家臣だった三河武士との異名を持つ本多や酒井、大久保や榊原、井伊(彼だけは遠州)といった子孫の譜代大名と親藩の松平氏、もしくは徳川氏です。親藩の中には、久松家とか水野家などがありましたが、家康の親戚筋ということは分かっていても、私自身はあまりよく知りませんでした。

 このような複雑な姻戚関係を解くカギとなる人物をこの本で見つけました。家康の生母・於大の方でした。於大の方は、尾張の国衆で緒川城の城主・水野忠政の娘でした。それで、水野家は縁戚になったわけです。水野忠政の死後、於大の方の兄に当たる信元が水野家を継ぎますが、信元は今川家から織田家に寝返ってしまったため、於大の方は松平広忠(家康の父)から離縁されます。その於大の方が再嫁したのが、知多郡の阿古居城の城主久松俊勝でした。桶狭間の戦いの後、家康は、久松俊勝と於大の方の間の3人の息子に松平姓を与えて家臣とします。なるほど、そういうことで、水野家と久松家が松平氏の親戚となり、幕末まで続くわけですか。(於大の方は、離縁後も竹千代=松平元康=徳川家康との交流を続け、竹千代が今川家の人質になった際は、於大の方の母、つまり、祖母の源応尼(於富の方=水野忠政の妻)が幼い竹千代のための庵室を用意して世話をしたといいます。)

 歴史は知れば知るほど理解が深まります。

幕藩体制の完成は4代将軍家綱からか=「歴史人」1月号「江戸500藩 変遷事典」

 (昨日のつづき)

 年末年始は、勿論、私は生真面目ですから(笑)、勉学にも勤しんでおりました。主に、エマニュエル・トッド氏の「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」(文藝春秋)など上下巻の分厚い本に時間を取られて読めなかった「歴史道」「歴史人」「週刊文春」などの雑誌でしたけど(笑)。

 ということで、本日はまたまた月刊誌「歴史人」を取り上げます。昨年12月に発売された1月号「江戸500藩 変遷事典」特集号です。「事典」と銘打っているぐらいですから、情報量が多いったらありゃしない。なかなか、読めませんでしたが、1月4日にやっと読了できました。

 「歴史人」にしては珍しく、誤字脱字が少ないなあ、と思っていたら、細かい字で書かれた「500藩完全データ」の中にありました、ありました。宇都宮藩(71ページ)の主な藩主が「戸田市」(本当は戸田氏)となっていたり、久居藩(84ページ)で「津藩主藤堂高次の次男高通」とするべきところを、「津藩主藤堂高次の次男高が、通」と意味不明の文章になったりしていてズッコケました。

 それでも、偉そうなことばかり言ってはおられません。不勉強な私ですから、知らなかったことばかり書かれておりました。

 まず、江戸時代、「藩」と言わなかったそうですね。大名の所領は、その姓名を冠して「〇〇家領」とか「〇〇領分」と呼ばれ、支配組織も「〇〇家中」というのが通例だったそうです。幕末になって、毛利家家臣たちが、自分たちを「長州藩」と呼ぶようになったのが最初という学説があるようです。

 もう一つ、大老とか老中といった幕閣の超エリート幹部になれる藩主は、譜代大名だけで、外様は勿論、親藩大名も原則的に対象外だったこともこの本で知りました。しかも、老中になれるのも、3万石程度の譜代大名で、10万石クラスになるとあまり登用されないというのです。エリートコースは、まず奏者番(儀礼の際、将軍と大名の取次役)を振り出しに、寺社奉行を兼任し、無事務め上げると、大坂城代や京都所司代に進み、瑕疵がなければ、江戸に戻って老中になれたようです。他に若年寄から老中になるケースも。

 この本には書かれていませんでしたが、天保年間に老中首座になった下総古河藩の藩主だった土井利位(としつら、1789~1848年)も上述した絵に描いたような出世コースを歩んでいました。つまり、奏者番→寺社奉行→大坂城代→京都所司代→老中のコースです。大坂城代時代に大塩平八郎の乱が起き、利位は、古河藩家老の鷹見泉石(渡辺崋山が描いた肖像画=国宝=で有名で儒学者でもあった)に乱の鎮圧を命じています。ただし、古河藩は譜代大名で、他に何人かの老中を輩出しておりますが、最大時の石高は16万石もありました。土井利位藩主の時代でも8万石あったので、異例の抜擢だったのかもしれません。

 さて、「江戸500藩」とか「江戸300藩」とか言われますが、一体、どれくらの藩があったのでしょうか? 歴史家の河合敦氏によると、江戸幕府成立期は185家で、それが元禄期に234家に増え、幕末期に266家、廃藩置県が行われた明治4年は、283家あったといいます。一方、歴史家の安藤優一郎氏によると、幕末期は275家で、内訳は国持大名と国持並大名が20家、城持大名(城主)が128家、城持並と無城大名(陣屋)が127家となっています。

築地「とん㐂」アジフライ定食1300円 昔の大名もこんな御馳走を食べられなかったでしょうが、混んでいて30分も待たされましたよ

 私は、大の城好きなのですが、全国に300人近くいた大名でも、お城が持てる大名はその半分しかいなかったことが分かりました。そうでなくとも、「一国一城令」で廃城にさせられたケースも多いですからね。陣屋どまりです。そして、正確な数字は出ていませんでしたが、1万石以上が大名と呼ばれて領地を拝領しますが、江戸300藩の大名の大半は1万石、2万石クラスの外様ばかりでした。10万石以上なんて全体から見えればほんのわずかです。ところが、私のご先祖様が俸禄した久留米藩(有馬氏)は21万石で、何とベスト20位になっていたので、誇らしくなってしまいました。幕末275藩のうち、20万石以上が20藩しかなかったとしたら、わずか7%。93%が20万石以下の藩だったということになります。

◇知恵伊豆こと松平信綱の活躍

 これまた、この本には出て来ませんでしたが、徳川家康から4代将軍家綱までの50年間で、231もの藩が改易(お取り潰し)になったようです。中でも、広島藩49万8000石の福島正則の改易が最も有名ですね。福島正則は関ケ原で東軍についたとはいえ、もともと豊臣秀吉の子飼いの重臣でしたから、警戒されたのでしょう。お蔭で、40万人もの浪人が街中に溢れ、家綱時代に由井正雪の乱が起きる原因となりました。由井正雪は、楠木正成の末裔を自称する楠木流の兵法学者でした。この乱を鎮圧したのが、「知恵伊豆」こと松平伊豆守信綱でした。老中松平信綱は、島原の乱を平定した総大将として有名ですが、由井正雪の乱にまで関わっていたことは最近知りました。松平信綱は忍藩3万石の大名から、島原の乱平定の功績で、川越藩6万石の藩主になり老中首座にもなった人です。私の東京の実家近くにある埼玉県新座市の平林寺に葬られており、私も何度も訪れましたが、信綱は生前、川越街道を整備したり、野火止用水を掘削したりした藩主として私も小学生の時、郷土史として習ったことがあるので、大変馴染み深い人です。

 話を元に戻しますと、由井正雪の乱後、4代将軍家綱率いる幕府は「武断政治」から「文治政治」に改め、改易も減っていったといいます。大坂の陣での勝利による「元和偃武」を経て、幕藩体制が完成したからでしょう。武士が刀を脇に置いて、行政官になっていったのです。

現世人類は所詮、猿人の子孫さ

 今年もあとわずかで、年の瀬も押し迫って来ました。

 ランチに行ったりすると、その店の常連さんや馴染み客が「今年で最後かな? 良いお年を」と言って出ていく人も多くなりました。

 まだ少し早いですが、今年も読者の皆様には大変お世話になりました。今年は相当な数の馴染みの読者さんが離れていきましたが(苦笑)、また、相当な数の新しい読者の皆様も御愛読して頂いたようです。このブログがいつまで続くか分かりませんが、感謝しか御座いません。

 さて、今年は、いつもの個人的なことながら、人類学にハマりました。ジェレミー・デシルヴァ著、赤根洋子訳「直立二足歩行の人類史」(文藝春秋)、エマニュエル・トッド著、 堀茂樹訳「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」上下巻(文藝春秋)、そして、篠田謙一著「人類の起源」(中公新書)と、これまでほとんど知らなかった古代人類化石のゲノムを解読した最新科学を教えてもらい、目から鱗が落ちるような感動でした。

 もともと、私自身は、記者生活をしながら、近現代史の勉強を個人的に始めました。きっかけは、ゾルゲ事件研究会でした。しかし、昭和の初期から敗戦に至るあの狂気と言っても良い時代に登場する人物の中には、一兵卒たちは皆殺しになっても、自分だけは飛行機に乗って逃げて助かるといった日本史上最悪とも言うべき軍人がいて、腸が煮え沸るどころか、吐き気を催すほどで、日本人というものがつぐづく嫌になってしまいました。

 同時に、近現代史を知るには、明治維新を知らなければならない。明治維新を知るには江戸の徳川の治世を知らなければならない。江戸時代を知るには、まず関ケ原の戦いを知らなければお話にならない。関ケ原を知るにはそれに至る戦国時代を知らなければならない。でも、彼ら戦国武将を知るには鎌倉時代の御家人たちのことを知らなければならない。そして当然のことながら天皇家の歴史を知るには古代にまで遡らなければならず、究極の果て、人類学にまで逆上ってしまったわけです(笑)。

 でも、色んなことが分かると、皆つながっていて、「なるほど。そういうことだったのかあ」と感激することが多々あります。

東銀座 料亭H

 今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、脚本のせいで、合戦場面がほとんどなく、まるでホームドラマかメロドラマになってしまい、残念至極なお芝居でしたが、その半面、鎌倉時代関連の書籍が多く出回り、色んなことを学ぶことができました。

 鎌倉殿の13人の一人、大江広元の子孫に毛利元就がいて、中原親能の子孫には大友宗麟がいて、八田知家の子孫には小田氏治がいる、といったことは以前、このブログでも書いたことがありますが、和田合戦で滅亡させられた初代侍所別当・和田義盛(三浦義村の従兄弟に当たる)の子孫に、織田信長の重臣だった佐久間信盛や盛政(母は柴田勝家の姉)らがいること最近、知りました(笑)。佐久間氏は、和田義盛の嫡男常盛の子、朝盛が、三浦義明の孫に当たる佐久間家村の養子になったことから始まります。

 和田合戦で、和田常盛は自害に追い込まれますが、その子、朝盛は佐久間氏の養子になっていたため、逃れることができました。しかし、朝盛は承久の乱に際して、後鳥羽上皇側について没落します。一方、朝盛の子である家盛は、北条義時側についたので、乱後は恩賞として尾張国愛知郡御器所(ごきそ)を与えられるのです。(「歴史人」12月号)

 私はこの御器所と聞いて、吃驚してしまいました。今年5月に名古屋に住む友人の家を訪ねたのですが、その場所が御器所だったのです。友人の話では、御器所はもともと熱田神宮の器をつくる職人が多く住んでいたことから、そんな変わった名前が付けられたという由緒は聞いていましたが、佐久間氏のことは全く聞いていませんでした。佐久間家盛が御器所の地を与えられたため、佐久間氏は尾張の地に根を張るようになり、その関係で、佐久間信盛や盛政らは、尾張の守護代、織田信長の重臣になったわけです。つまりは、戦国武将佐久間信盛らは、もともと三浦半島を本拠地とする三浦氏だったということになります。

 まさに、点と点がつながって線になった感じです。

東銀座・割烹「きむら」白魚唐揚げ定食1300円

 確かに、鎌倉時代は、梶原景時の変、比企能員の乱、畠山重忠の乱、将軍頼家、実朝の暗殺…と血と血で争う殺戮と粛清の嵐が吹き荒れました。当時は刑法もなければ、人権意識そのものがないので生命は軽んじられ、仕方がなかったかもしれません。でも、それは日本だけの状況かと思ったら、エマニュエル・トッド著「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」の中で、フランスのある教会区の住民台帳のようなものを調べたところ、13世紀(日本ではちょうど鎌倉時代)のある村の殺人率が10万人当たり100人(現代は、だいたい10万人当たり1人未満)と異様に多かったといいます。

 「なあんだ、世界的現象かあ」と思ってしまったわけです。当時は、ちょっとした言い争いでも直ぐに殺人事件に発展してしまったということなのでしょう。

 30万年前にアフリカで出現した現生人類は、7万年前に本格的にアフリカを出て世界に拡散し、1万年前に農耕を始めて定住生活をするようになると、土地、領土争いから戦争が絶えなくなります。21世紀になってもロシアがウクライナに侵攻するぐらいですから、人類は原始以来、全く変わっていません。人類学で篩にかければ、所詮、現世人類は700万年前、霊長類のチンパンジーから分岐して進化した猿人の子孫に過ぎません。だから、何が起きても予想外として驚くようなものはないかもしれませんね。

明治の元勲は偉大だった=瀧井一博著「大久保利通 『知』を結ぶ指導者」

  このブログでも何度か取り上げました「『大名家』の知られざる明治・大正・昭和史」(ダイアプレス、1430円)を読んでいたら、もっと幕末史や明治の新制度のことを勉強したくなりました。そしたら、ちょうどお手頃の本が見つかりました。瀧井一博著「大久保利通 『知』を結ぶ指導者」(新潮選書、2022年7月25日初版、2420円)です。

 歴史上の人物としての大久保利通は、個人的に、どちらかと言えば、あまり好きになれない人物でした。いや、大嫌いな人物でした。主君の島津久光を裏切るやら、何と言っても、大親友であった盟友西郷隆盛を結果的に追い詰めて死に至らしめた張本人です。変節漢、裏切り者、冷徹、冷酷無比、独裁者といった言葉は、常に彼に付きまとっていた修辞でした。

 しかし、そういった定説を根本的に覆したのが、本書だったのです。この本のキャッチコピー曰く、「独裁と排除の仮面の裏には、人の才を見出し、それを繋ぎ、地方からの国づくりを目指した素顔があった」です。私も新聞各紙が取り上げた書評を読むうちに、「あれっ?自分の考え方は間違っていたのかもしれない」と思い直し、正直、ちょっと高い本だな、と思いつつ、いわば罪滅ぼしのつもりで購入したのでした。

 それで、どうだったのか、と言いますと、すっかり見直しました(笑)。「大久保利通とは、こんな人だったのかあ」と自分の不勉強を恥じました。勿論、この本は、大久保利通を主人公にした物語なので、彼が敵対した徳川慶喜や幕臣たちに対する評価が異様に低く、少しは割り引いて読まなければなりません。でも、著者は、残された大久保日記や書簡などを丁寧に渉猟し、なるべく、ほんの少しですが、距離を置いて客観的に人物像を造形した努力の跡が見られます。

 そんなお堅い話は抜きにしても、幕末明治に関心がある人なら誰でも、十分、面白く拝読できます。薩長土肥の雄藩が如何にして明治維新という大業を成し遂げることができたのか。新政府は、どうやって、征韓論や佐賀の乱、西南の役などの国難を乗り切って、如何にして政治制度を築き上げていったのかー。全てこの本に書かれています。まだ、3分の1近く残っていますが、その途中で、この本が、「第76回毎日出版文化賞」を(11月3日に)受賞したことを知りました。確かに賞に値する良書なので、選考委員の皆さんの千里眼には感心しました。

東銀座

 私が不勉強を恥じた一番大きな点は、てっきり、大久保利通は唯我独尊の独裁者かと思っていたことです。実は、彼は気配り、心配りがある人で、事前の根回しをし、うまくいかないと心を痛めたり、(手紙の中で)落涙したり、辞表を提出したりする人間的側面があったことです。勿論、根回しというのは、政治的駆け引きであり、目的のためには手段を選ばない冷徹さがありますが、それは合理主義でもあり、嫌らしい権謀家の大久保らしいと言えば、大久保らしいのです。

 根回しのカウンターパートナーは、主に、同郷の薩摩藩なら島津久光と西郷隆盛、長州藩なら木戸孝允、そして、宮中工作なら岩倉具視といった具合です。それに大久保は、分け隔てなく、優秀な人材なら、福沢諭吉、西周といった幕臣まで重職に採用しようとしたりしました。

 その政治の目的とは何だったのか? と聞かれると、即座に単純にお答えすることはできませんが、少なくとも大久保を代表する明治の為政者にとっては、私利私欲を廃して公に尽くすことが第一義だったようです。それは、五箇条の御誓文の最初の「広ク会議ヲ興シ,万機公論ニ決スヘシ。」にも表れています。

 明治政府首脳たちは、王政復古の大号令を経て、天皇中心の君主国家をつくろうとしたことは間違いないのですが、特に大久保は、「君民共治」(後にいう立憲君主制)の政体を目指していたことです。独裁的な天皇君主制ではなかったのです。明治4年に参議に就任するに当たり、有名な「定大目的」(政権の大目的)を提出しますが、この中ではっきりと、天皇親政と言えども、決して独裁とならず、御誓文にあるように公論に則ったものでなければならない、と主張しているのです。しかも、華族や士族といった差別なき世を創りだす、とまで宣言しているのです。大久保がこんな革新的な人だったとは。。。

 私にとって、意外だったことは、あの岩倉具視でさえもが、幕末の慶応元年(1865年)6月に執筆した政治意見書「叢裡鳴虫」の中で、「国政の大綱は、天皇一人が決してよいものではない。幕府が専断してよいものではない。君臣が相共に討議して、その結果を天皇が裁決すべきものなのである」と力説していたことです。公家でありながら、天皇独裁を暗に否定しているのです。大久保も影響を受けていたのでしょう。

東銀座

 また、維新三傑の一人、長州藩の木戸孝允も同年、旧知の対馬藩士への書簡の中で、自分は長州の人でも日本の人でもない。(そういったものから離れて、)日本という国の現状を天の高みから見てみようと語っているのです。この話は、維新後の木戸が、版籍奉還と廃藩置県という新政府最大の「一大難事業」を一刻も早く断行するべきだという急進派で、時間を掛けてゆっくりと改革するべきたと主張する大久保としばしば対立したという話につながるわけです。

 私は大久保の方がもっと急進的な過激派だったと誤解していました。

 いずれにせよ、国家の根本となる政治制度を構築するには、理想だけでは済まされず、明治の元勲たちは確固とした思想があり、中でも特別に、大久保利通には広い視野を持った、他人の意見には耳を傾ける(西郷隆盛以上に)「知」の人だったことが、この本を読んで初めて知りました。

(つづく)

意外に知らなかった史実=「『大名家』の知られざる明治・大正・昭和史」

 「『大名家』の知られざる明治・大正・昭和史」(ダイアプレス、2022年9月21日発売、1430円)を読了しました。

 残念ながら、ちょっと誤植が多い本でしたが、執筆・監修がよくテレビに出演されている著名な河合敦先生ということですから、版を重ねれば修正されると思われます。何しろ、百科事典のような情報量が満載の本ですから、書斎の手近に置いて、時たま参照したいと思うのです。

 昨日も自宅からちょっと離れた紀伊國屋書店に自転車で行ったところ、この本が山積みになって売られていたので、巷では結構、評判を呼んでいることでしょう。是非とも、もう一度、校正・修正してほしいものです。

 この本を渓流斎ブログで取り上げるのは三度目です。(2022年11月1日付「維新後、お殿様たちはどうなったの?」、11月4日付「江戸三百藩のはじめとおわり」)。そろそろ、ネタも尽きかけましたが(笑)、最後に感想めいた終わり方にしたいと思います。つまり、意外に知らなかった史実がこの本から読み取ることが出来たのです。

 まず、大名とは何ぞや?ということですが、簡単に言えば、1万石以上の城主のことです。分家筋の支藩には、お城がなく、陣屋だけのところもありますが、それでも、石高は1万石以上が相場です。では、その大名は誰がなれるのか?と言えば、江戸三百藩で一番多いのは、当然のことながら、徳川家の血筋でしょう。江戸と御三家(尾張、紀州、水戸)は徳川家なのですぐ分かりますが、家康が徳川と名乗る前は、松平元康でしたから、松平家の藩もかなりあります。

 一番有名なのが、越前福井藩で、家康の次男結城秀康が松平に改姓して越前に移封されました。幕末には、四賢侯の一人、松平春嶽(慶永)を輩出します。次に有名な藩主は、最後まで新政府軍と戦った会津藩の松平容保でしょう。容保はもともと高須四兄弟の一人で、尾張藩の支藩高須藩(松平尾張家)から養子として入った藩主です。会津藩は、二代将軍徳川秀忠の庶子である保科正之が、三代将軍家光によって配されたもので、代々松平保科家が継いでいました。

 この他、松平家が藩主になっているのは、山形県の上山藩、福島県の守山藩(水戸藩の支藩)、茨城県の常陸府中藩(水戸支藩)、群馬県の前橋藩(越前支藩)、高崎藩(大河内家)、小幡藩(家康の女婿奥平家)、千葉県の多古藩(久松家)、埼玉県の忍藩(奥平家)、川越藩(松井家)、愛知県の三河吉田家(大河内家)、岐阜県の岩村藩(大給家)、長野県の松本藩(戸田家)、上田藩(藤井家)、三重県の桑名藩(久松家、幕末は高須四兄弟の一人で、会津藩の松平容保の実弟定敬が藩主に)、兵庫県の尼崎藩(桜井家)、愛媛県の伊予松山藩(久松家)と今治藩(同)、西条藩(紀伊支藩)、岡山県の津山藩(越前松平家)、島根県の広瀬藩(越前松平家)、大分県の杵築藩(能見家)など多数あります。

 山形藩、茨城県の結城藩、千葉県の鶴牧藩、和歌山県の新宮藩など水野家の藩主大名が多い。この水野家というのは、家康の生母於大の方の実家で、家康の従兄弟に当たる水野家の武将が大名に封じられていたわけでした。

 こうして、家康の縁戚関係と「徳川四天王」など家臣団の有力者から大名が選ばれていた場合が多かったことが分かります。

 本能寺の変で織田信長と嫡男の信忠が討ち死にしたため、織田家の大名はいないと思っていましたら、おっとどっこい、失礼ながら、しぶとく生き残っていました。山形県の天童藩は、信長の次男信勝の家系、奈良県の芝村藩は、信長の弟有楽斎(長益)の家系、兵庫県の柏原藩は、信長の弟信包の家系が立藩して繋がっています。

 それに比べて、秀吉の豊臣家は、大坂の陣で滅亡させられてしまい、(淀君と秀頼は自害)、江戸になって大名は一人もいません、と思っていたら、秀吉の妻である北政所の兄木下家定が、関ケ原の戦いで東軍で武功を立て、大分県の日出藩を立藩し、幕末まで木下家が藩主として続ていました。木下家の19代当主木下崇俊氏は学習院時代、明仁上皇さまと御学友で、演劇部に所属し、オノ・ヨーコと演劇仲間だったそうです。1934年生まれで、惜しくも今年(2022年)亡くなられたようです。

 長州藩の毛利家は、鎌倉幕府初代政所別当の大江広元を祖とし、薩摩藩の島津家は、鎌倉幕府の御家人島津忠久を祖とすることはよく知られていますが、長崎県の五島藩は、平清盛の異母弟平家盛が祖、宮崎県の高鍋藩は平安時代から筑前国秋月を領した名族秋月氏が祖だということは知る人ぞ知る史実でしょう。

 最後に、私は北海道の帯広に赴任したことがありますので、同じ十勝の池田町というのは大変馴染みがある町です。戦後、葡萄を栽培してワインを町の名産にし、池田町のワイン城は有名になりました。ポップスのドリカムのボーカル吉田美和さんの出身地としても知られています。その池田町は、維新後、北海道開拓に力を入れて「池田農場」を開いた旧鳥取藩の当主・池田仲博や「池田牧場」を開いた鳥取藩の支藩である鹿野藩の池田家から付けられたようです。知らなかったので、へーと思ってしまいました。また、釧路市にも鳥取町がありましたが、これも、明治17~18年に旧鳥取藩士が移住したことから付けられました。これは知っておりました(笑)。

【追記】

 もう知らない方も多いかもしれませんけど、映画「ゴジラ」やドラマ「渡る世間は鬼ばかり」などに出演された女優の河内桃子(こうち・ももこ、1932~98年、病気のため66歳没)は、三河吉田藩主の大河内松平家の末裔だったんですね。清楚な美人で、やはり、どこか気品と華がある女優さんでした。彼女の御主人のテレビプロデューサー久松定隆氏は、今治藩主の久松松平家の末裔ということで、お似合いの夫婦だったことになります。

日本史を書き換える新発見=NHKスペシャル「新・幕末史」

 10月16日(日)と23日(日)に放送されたNHKスペシャル「新・幕末史」はかなり見応えがありました。16日は 「第1集 幕府vs列強 全面戦争の危機」、23日は 「第2集 戊辰戦争 狙われた日本」というタイトルでした。2年前にも同様のシリーズで、戦国時代を取り上げて、日本史に留まらず、世界史的視野で、その同時代のスペインなどの列強国や宣教師たちがいかにして日本の植民地化を企んだりしていた事実がバチカンなどの資料から発見され、その斬新的な番組制作の手法に圧倒されました。

 今回も、英国国立公文書館のほか、当時のロシアやプロシア(ドイツ)などの列強の極秘文書が初めて公開され、幕末の戊辰戦争などが、単なる日本国内の内戦ではなく、英、仏、蘭、米、露、プロシアの列強諸国による分割植民地統治に発展しかねない事態まであったとは驚くばかりでした。

 私も、市井の幕末史好きですから、ある程度のことは知っておりました。徳川幕府方にはフランス(ロッシュ公使)、反幕の薩長方には英国(パークス公使)がついて、互いに武器と軍事顧問団を派遣して、英仏の代理戦争のようになっていたこと。大量殺戮が可能になった新兵器のガトリング砲などは米国の南北戦争で使用された「余りもの」だったこと…などは知っておりましたが、ロシアとプロシアの動向については盲点でした。

 ロシアは1853年のクリミア戦争で英国などに敗退すると、極東侵略政策に転換し、日本を植民地化しようと図ります。そのいい例が、対馬です。1861年にロシア海軍の拠点のような要塞を対馬につくり、半年間も駐在していたのです。それを外国奉行だった小栗忠順の粘り強い交渉と、英国の進出で辛うじて難を切り抜けたりしていたのです。明治になって、新政府は徳川幕府の弊害や無能論ばかり教育で教え込んできましたが、実際は、小栗上野介ら有能な幕閣がいたわけです。(21世紀になって、ロシアはウクライナに侵攻しましたが、「他国侵略」というロシア人気質は19世紀から全く変わらず、連綿と続いてきたことが分かります。)

◇プロシアは北海道植民地化を計画

 プロシア(ビスマルク首相)は、戊辰戦争の際、奥羽越列藩同盟の会津藩と庄内藩に食い込み、新潟港に武器を調達する代わりに、北海道を植民地化しようと企てていたことが、残された極秘文書で明らかになりました。そんな史実は、どこの教科書にも載っていなかったことですし、全く知らなかったので驚いてしまいました。

 番組では特に英国の公使パークスの動向に注目していました。1866年の長州征伐の際、幕府がフランスから武器を調達するために、ロンドン銀行から融資を申請したところ、パークスはロンドン銀行に対してその融資を止めさせています。逆に、商社ジャーディン・マセソン(長崎のグラバーが有名)を通して、長州に武器を調達しています。また、戊辰戦争の際には、パークスは、フランス、オランダ、プロシアなど列強6カ国の代表者を徴集して、内乱終結まで武器援助などをしない不関与の「局外中立」を認めさせたりしていました。そのお陰で、フランスは徳川幕府の軍事顧問団を引き上げざるを得なくなり、結果的に幕府方が不利になりました。(でも、箱館戦争では榎本武揚率いる幕府軍にフランスの軍事顧問団が付き添っていたはずで、その辺り、番組では詳しく検証してませんでした)

 こうして見ていくと、特に英仏など列強諸国が干渉していなければ、佐幕派が勝っていたのかもしれませんし、日本の歴史も変わっていたのかもしれません。戊辰戦争を世界史の中で見ていくと様相が変わるぐらいですから、海外の歴史学者が日本の幕末史に注目するのもよく分かりました。

 (番組の再放送やオンデマンド放送などもあるようです)

銀座、ちょっと気になるスポット(8)=歌舞伎発祥之地

 しばらく中断しておりましたが、久しぶりに「銀座、ちょっと気になるスポット」シリーズを再開しましょう。

 銀座といえば、やはり歌舞伎座です。今ある歌舞伎座は明治になって、東京日日新聞社長なども務めた福地源一郎らの尽力で出来ましたが、江戸時代には、今では「歌舞伎発祥之地」になっている猿若中村座があったり、森田(守田)座(明治になって新富座に)があったり、山村座(「絵島生島事件」で廃座に)があったりしましたので、銀座は「芝居小屋町」と言っても差し支えないでしょう。

 以前、この渓流斎ブログで、守田座跡や山村座跡、新富座跡を何回かご紹介したことがありましたので、今回は歌舞伎発祥之地である猿若中村座跡(写真上)を取り上げることにします。

 場所は、京橋3丁目なので、正確に言えば銀座ではありませんが、銀座1丁目の高速下の歩道を渡ってすぐ側ですから、あまり堅いことは言わんといてください(笑)。

  座元中村勘三郎が、猿若中村座をこの地に建てたのは、寛永元年(1624年)のことです。中村勘三郎と言えば思い出してください。2022年5月17日付の渓流斎ブログ「旧友を訪ねて 43年ぶり再会も=名古屋珍道中(上)」で取り上げております。初代中村勘三郎(1598~1658年)は、あの豊臣秀吉と全く同じ現在の名古屋市中村区にある中村公園内に生まれ、その生誕記念碑が建っていることを御紹介しました。

 …中村勘三郎は、豊臣秀吉の三大老中の一人、中村一氏の末弟・中村右近の孫だと言われてます。兄の狂言師・中村勘次郎らと大蔵流狂言を学び、舞踊「猿若」を創作したといいます。 元和8年(1622年)江戸に行き、寛永元年(1624年)、猿若勘三郎を名乗り、同年江戸の中橋南地(現東京・京橋)に「猿若座」(のちの「中村座」)を建てて、その座元(支配人)となった人です。…

 これを読むと、勘三郎丈が猿若座を建てたのは26歳の若さだったことが分かります。それなりの潤沢な資金があったのでしょうか。中村屋(屋号)は現在でも続く名門中の名門の大幹部で、勘三郎はその基礎を作った人ですから、実に偉い人だったことが分かります。

コナミ本社=銀座1丁目

 先ほど、「歌舞伎発祥之地」は正確には銀座ではなく、京橋3丁目です、と書きました。

 でも、その目の前(という言い方も変ですが)は銀座1丁目です。そこは、かつてセゾングループの高級ホテル西洋銀座(2013年閉鎖)と、映画館の銀座テアトルシネマなどがあったのですが、今はすっかり様変わりして、アミューズメント会社のコナミの本社になっておりました。

 しばらく、この場所に足を運んでいなかったので吃驚です。もう30年ぐらい昔ですが、この高級ホテル西洋銀座で、セゾングループ総帥堤清二氏というか作家の辻井喬氏(1927~2013年)にインタビューしたことがあったので、隔世の感を禁じ得ませんでした。

銀座1丁目「ニューキャッスル」

 このあと、銀座1丁目にある「ニューキャッスル」に行き、ランチのカライライス(レギュラー100円)を食しました。

 喫茶店「ニューキャッスル」はかつて、蔦がからまった店舗が有楽町駅近くにあり、私も昔、通ったことがありますが、いつの間にかなくなっていました。それが、先日、テレビでやっていて、2011年に東北大震災の影響で古い建物が損害を受けるなどして閉店し、今は、常連さんだった人が三代目として切り盛りしているということでしたので、訪れたのでした。

 創業昭和21年の看板の味をしっかり受け継いでおりました。

 

 

書き下ろし長編時代小説「新選組最強剣士 永倉新八 恋慕剣」は力作です

 今年6月でもうFacebookのチェックはやめたのですが、大学と会社の先輩でもあった日暮高則氏から出版社を通して、拙宅に本が送られてきました。書き下ろし長編時代小説「新選組最強剣士 永倉新八 恋慕剣」(コスミック・時代文庫)という本です。

 あれっ? 日暮さんは今年2月25日に「板谷峠の死闘」(コスミック・時代文庫)を出版されたばかりで、私も早速購入して、この渓流斎ブログに「感想文」を書いたばかりなのに、もう新刊を発表されたんですか!?

 しかも長編です。相当前から何作か、書き溜めていたのかもしれません。

 文庫本なので2~3日で読めるかと思ったら、結局、読了するのに1週間以上掛かってしまいました。実は、私はこれでも「新選組フリーク」なので、ちゃんと史実に沿っているのかどうか、チェックしながら読んでいたからでした。嫌な性格ですねえ(笑)。

 いくら小説だからといって、あまりにも史実からかけ離れていると荒唐無稽で、興醒めしてしまいます。あの司馬遼太郎は、作品を書くのに、馴染みにしている神保町の高山書店から最低トラック1台分の書籍を購入して、膨大な資料を読み込んで執筆していたと言われていますから、たとえフィクションでも史実にそれほど逸脱しない、あれだけの物語が書けたのだと思います。

 そこで、この「新選組最強剣士 永倉新八 恋慕剣」はどうでしょう? 永倉新八はあまりにも有名です。物語の主軸になっている京都・遊郭島原の芸妓との間にできた娘探しや、明治24年の大津事件の犯人津田三蔵と永倉新八が出会っていたというのは、作者が長編小説に仕立てるために苦心したフィクションであることは明々白々なので、それらは良しとしましょう。

 永倉新八は松前藩江戸定府取次役の子息として生まれ、神道無念流の剣客に。近藤勇の天然理心流道場「試衛館」の食客になった縁で、新選組では二番組隊長に。あの池田屋事件では近藤勇らとともに正面から斬り込み、すっかり名を上げた剣士…。フムフムその通りです。新選組時代の朋友島田魁は、維新後も生き延びて京都・西本願寺の太鼓楼の寺男になっていた?…うーん、確かに史実はその通りです。藤堂平助は、伊勢藤堂藩主の御落胤だったという異説まできっちりと抑えています。著者は、新選組フリークが驚くほど、かなり細かく調べ尽くしています。

 でも、永倉新八が江戸で近藤勇らと別れた後、芳賀宜道らと幕臣らを集めて組織した隊のことを「靖共隊(せいへいたい)」と80ページに書かれていますが、これは「靖共隊(せいきょうたい」もしくは、「靖兵隊(せいへいたい)」の書き違いでしょう。また、永倉新八ら靖共隊が行軍途中で原田左之助と別行動を取ったのが、「小山付近」(81ページ)となっていますが、これも、「山崎宿(千葉県野田市)」の間違いではないでしょうか。

 あと、二つ、三つ、隊士の死因について、通説とは違うものが散見されましたが、通説を取らなかったということで済むかもしれませんが、194ページに「明治二十九年(一八九六年)は、…この時、日本は日清戦争の真っ最中」と書かれていますが、明らかに勘違いですね。日清戦争は1894~95年で、前年に終わっていますから。

 いやあ、今、校正の仕事もしているので、誤字脱字や事実関係について、つい過敏に反応してしまうのは、「職業病」なのです。意地悪ではないので、2刷になった時に訂正されたら良いと思います。

 というのも、この本は力作なので必ずや増刷されると思うからです。これから読まれる方の楽しみがなくなるので、内容については触れられませんが、元新選組の永倉新八と大津事件の津田三蔵に接点があったなどという発想は、誰にも出来るものではありません。それでいて、もし、老境を迎えた永倉新八が明治24年、その2年前に開通したばかりの鉄道(東海道線)に乗って京都に行き、芸妓小常との間に出来た娘磯を探しに行ったとしたら、その年に起きた大津事件の報道に身近で接していたことになり、もしかして津田三蔵にも会ったかもしれない、と読者に思わせることに成功しています。

 また、大阪堂島の米相場の先物売買についてもかなり調べて描写されています。

 新選組ファンでなくても、複雑な人物関係と物語の構成について、関心すると思います。日暮氏の作家としての力量がこの一冊で証明された、と私は思いました。

 【追記】2022年9月1日

 永倉新八の回想記「新撰組顛末記」(新人物文庫)の181ページに「永倉新八がかねてなじみを重ねていた島原遊郭内亀屋の芸奴小常が、かねて永倉の胤を宿していたがその年の7月6日に一女お磯を産んで…」とあります。また、229ページには「新撰組時代に京都でもうけた娘の磯子にあって親子の対面をする。磯子はそのころ女優となって尾上小亀と名のっていた。」とあります。

 小常も磯も実在人物だったことが分かります。

「徳川十六将」と阿茶の局のこと=恐るべき家康の人心掌握術

 またまたNHK大河ドラマの「便乗商法」と知りながら、「歴史人」8月号「徳川家康 天下人への決断」特集を購読してしまいました。いや、「タイアップ記事」かもしれませんが。

 2023年の大河ドラマは「どうする家康」が予定されています。戦国時代を終息させ、260年の太平の世をつくった徳川家康に関しては、私もある程度知識があるつもりでしたが、やはり、この本で初めて知ることが結構ありました。

 例えば、武田信玄との「三方ヶ原の戦い」で敗退した家康は、辛うじて命拾いをして浜松城にまで逃げ帰りますが、その途中で、家康の影武者になり、身代わりになって討ち死にしたのが夏目吉信という家臣でした。その彼の子孫に当たるのが、明治の文豪夏目漱石だったとは知りませんでした。ただ、夏目吉信の子孫はその後、旗本に取り立てられ、漱石の夏目家は代々、牛込の庄屋を務めていた家柄だったため、断定できないという説もあるようです。

 徳川家臣団のうち、「徳川四天王」と呼ばれた酒井忠次本多忠勝榊原康政井伊直政は大体、履歴は分かっておりましたが、「徳川十六将」に関しては、整理できておりませんでした。というのも、徳川の家臣には、大久保や鳥居や松平や本多や酒井の名字が実に多いからです。

 徳川家臣団の中で、世間でも有名な「伊賀忍者」服部半蔵こと服部正成は、「徳川十六将」に入っておりました。でも、「三河物語」の著者でもある有名な大久保彦左衛門こと大久保忠教(ただたか)は、「十六将」に入っていません。その代わり、彦左衛門の兄で、家康の父の代から仕えていた大久保忠世(ただよ)と大久保忠佐(ただすけ)が「十六将」に選ばれています。

 大久保といえば、本多正信との権力争いで敗れた老中の大久保忠隣(ただちか)も有名です。彼は、大久保忠世の嫡男で、小田原藩主も務めました。忠隣は、「十六将」には入っておりません。

 本多正信も「十六将」に入っていませんが、江戸幕府草創期のブレーンの筆頭として活躍しました。三河の下級武士出身で、三河の一向一揆では一向宗門徒側に就きましたが、後に許されて大出世することになります。同じく一向宗側に就いて許され、その後、戦陣で活躍した武将として、渡辺守綱蜂屋貞次が「十六将」に選ばれています。このように、人質時代から苦労している家康は、家臣に対して寛大で、かつては敵だった今川や武田や織田氏の家臣を徳川家臣団に取り込んで拡大していきます。恐るべき家康の人心掌握術です。

 大久保忠隣を政争で追い落とした本多正信の嫡男正純は、逆に大久保家などからの恨みを買い、「宇都宮城釣天井事件」で二代将軍秀忠暗殺の嫌疑を掛けられ、改易させられます。

名古屋城

 徳川十六将の中で、私でもよく知っているのは鳥居元忠です(弟の忠広も十六将に選ばれています)。彼は、家康が今川の人質時代から過ごした古参の一人で、関ケ原の戦いの前哨戦と言われた伏見城の戦いで、西軍に敗れて自刃しています。その際の血染めの廊下が、京都の養源院(豊臣秀吉の側室淀殿が父浅井長政の二十一回忌に建立、火災で焼失したが、淀君の妹で二代将軍秀忠の正室お江により再建)の天井として使われています。私は以前にこの養源院を訪れたことがあるので、血染めの天井は、鳥居元忠の名前とともに強烈な印象として残っているのでした。

 家康は11男5女をもうけたと言われますから、正室と側室は、名家の娘から町娘に至るまで15人以上いたといいます。正室の築山殿は、母が今川義元の妹でしたが、武田氏に通じているという嫌疑で殺害されます。

 側室の中で注目したのは阿茶の局です。家康との間に子宝に恵まれませんでしたが、大変、聡明な人だったらしく、関ケ原の戦いで、西軍の小早川秀秋が東軍に寝返る仲介をしたとも言われ、大坂の陣では、家康の意向で、本多正純板倉重昌らとともに和議の交渉役を果たしたといいます。また、秀忠の五女和子が後水尾天皇に入内する際に母代わりに入洛し、天皇から従一位を賜りました。

【徳川十六将】

 酒井忠次(1527~96年)、本多忠勝(1548~1610年)、榊原康政(1548~1606年)、井伊直政(1561~1602年)=以上「徳川四天王」、米津常春(1524~1612年)、高木清秀(1526~1610年)、内藤正成(1528~1602年)、大久保忠世(1532~94年)、大久保忠佐(1537~1613年)、蜂屋貞次(1539~64年)、鳥居元忠(1539~1600年)、鳥居忠広(?~1573年)渡辺守綱(1542~1620年)、平岩親吉(1542~1611年)、服部正成(1542~96年)、松平康忠(1545~1618年)