フランスは燃えているか?

 フランスが燃えていますね。パリで大規模な「黄色ベスト」抗議デモが行われたかと思ったら、11日夜には、東部ストラスブールでのクリスマス・マーケットで、イスラム過激派によるテロと見られる発砲事件があり、少なくとも4人が死亡、十数人が重軽傷を負ったといいます。29歳の犯人はまだ逃走中だとか。

 日ごろ、米国と中国と韓国の話題しか大きく報道しない日本のマスコミも少しはフランスの異変を報道し始めましたねえ。

 何しろ、国王をギロチンにかけてしまう国民性です。さすがに、マクロン大統領も身の危険を感じたのか、最低賃金引き上げや残業代やボーナスなどの非課税を打ち出すなど大幅な譲歩を強いられました。

 正当な抗議活動をせず、お上に唯々諾々と従う子羊のような日本国民とフランス人とはえらい違いです。

スペイン・マドリード

 私自身は、たまたま学生時代にフランス語を専攻してしまったので、好むと好まざるとに関わらず、フランスの動向は気になります。戦後の米国一辺倒の日本政府の方針に嫌気がさした「アンチ巨人」みたいなものです(笑)。だから、別にフランスでなくても、ドイツでもイタリアでもスペインでも構わないのですが、何と言っても、フランスの歴史や思想や文学からは学べることが大きいのです。

 特に、19世紀が好きですね。ナポレオンの帝政から共和政になったり、王政復古したり、再び帝政が復活したり、また共和政になったり、政治体制がひっきりなしに変わるからです。スタンダール、バルザック、ユーゴー、フロベール、ゾラ…仏文学の全盛期です。

 右翼、左翼といった定義も、フランス革命後の国民議会で、議長席から見て、右に座ったか、左に座ったかの違いだったことはよく知られています。人権思想も、仏革命後の「人権宣言」が世界史的にも大いに寄与していることでしょう。つまり、フランスの動向は、昔も今も無視できないということを言いたかっただけですが。

スペイン・マドリード

で、フランス人がつくったか、具現化した政治体制を冷静に見てみますと、学校で教えられたり、マスコミで吹き込まれている知識は、かなり独断と偏見に満ちていることが分かります。

 例えば、「帝国主義」的というと、まるで悪の権化みたいです。つまり、侵略主義的といいますか、植民地主義的といいますか、他国を武力で屈服させて、従わせるイメージがあります。でも、フランスの場合、アルジェリア、チュニジアなどの北アフリカやベトナム、カンボジアなどのインドシナなどを侵略して植民地にしたのは、第3共和政(1870~1940)ですからね。意外にも、人民が統治する共和政なんですよ。

 王政も、国王を処刑してしまうほど最悪の政治体制なら、なぜ、今でも多くの国が王政を採用しているのでしょうか。先進国といわれる欧州のスペインもスウェーデンもオランダもデンマークも王国です。あ、そう言えば、サウジアラビアやクウェートなど中東は絶対王政の国でした。

スペイン・マドリード

 もう一つ。多くの人は植民地主義は既に過去のもので、「近代化」されて終わったものだと誤解している人が多いのですが、今でも現役バリバリです(笑)。

 11月に仏領ニューカレドニア(本当はヌーベル・カレドニー)で行われた独立を問う住民投票で、「残留派」が多数を占め、結局、住民はフランスの植民地に甘んじることを受け入れたわけです。島民の本当の気持ちは分かりませんが、今でも島民がフランス本国からの苛烈な税と重労働で虐げられているとしたら、暴動が起きて、独立派が多数を占めたのかもしれません。いや、内情は正確には分かりません。単に独立派が負けただけかもしれませんが。

 昨年9月にカリブ海を大型ハリケーン「イルマ」が襲来して、付近の海域の島々に甚大な被害を及ぼしました。日本では、ベタ扱いでしたが、フランスのテレビはトップで「サン・マルタン島」の窮状を連日報道しているので不思議に思っていたら、そこはフランス領だったからでした。今は、植民地とは言わず、海外領土だの海外準県だのと呼んでますが、同じようなもんでしょう。

 色々と勝手な持論を展開しましたが、この際、賢明なる読者諸兄姉の皆様方のご意見をコメントで賜りたいものです。

 えっ?何で、フランスの話をしておきながら、スペインの写真なのかって?

 ええじゃないすか。スペイン旅行の写真、まだ残っていて、使っていないんですから。許してたもれ(笑)。

忍者と諜報活動

昨日の12月1日(土)は、第25回諜報研究会のインテリジェンス・ツアーと講演会に参加してきました。

今回のツアーは、東京・四ツ谷駅近辺。テーマは、「伊賀者の跡地を訪ねて」といった感じでした。

四ツ谷といえば、お岩さんの四谷怪談が一番有名ですが、甲州街道沿いに江戸城警備を担当する伊賀者と呼ばれた「忍び」が住んでいたというのです。

今回のツアーの案内人を務めてくださった三重大学の山田雄司教授によると、我々が今普通に使っている「忍者」は昭和30年ぐらいから使われ始めただけで、それまでは「忍び」と呼ばれていたそうです。

いずれにせよ、忍者とは、諜報活動従事者の原点なのかもしれません。

ツアーで説明する山田雄司三重大教授

思えば、昭和30年代は、忍者ブームだったんじゃないでしょうか。

子ども向け漫画から、テレビ、映画に至るまで、忍者は、格好の題材でした。個人的ながら、今思い出してもテレビドラマ「忍びの者」(品川隆二主演)は異様に怖かった。「隠密剣士」に出てきたのは確か甲賀流だったと思います。

漫画は「伊賀の影丸」「サスケ」「忍者部隊 月光」「仮面の忍者 赤影」、そして「忍者ハットリくん」などよく読んだものですが、それらは、テレビでアニメになったり、実写ドラマになったりしていました。

その「忍者ハットリくん」のモデル(?)になったのが、服部半蔵で、彼は実在の人物です。彼の墓は、自分が開山した西念寺という浄土宗の寺にあり、JR四ツ谷駅から歩いて10分ぐらいのところにありました。

服部半蔵というのは、代々同じ名前を継承して明治まで続いた武士の名前で、一番有名なのが、本能寺の変の際、大坂の堺にいた徳川家康が、追っ手から逃げる時に道案内した二代目の服部半蔵正成です。これは、甲賀と伊賀の山を越えて岡崎城まで逃れた「神君伊賀越え」の逸話として有名です。

この服部半蔵正成は、槍の名手として知られ、その槍がこの寺に保存されておりました。(現物かなあ、と思ってしまいましたが)

この正成の父に当たる初代服部半蔵は、いわゆる忍術を使う忍びだったらしいですが、この二代目服部半蔵は忍びではなく、伊賀の忍びの者を束ねる「頭」のような存在だったらしいのです。

服部半蔵といえば、今もある半蔵門という地名は、そこに家康から屋敷を賜ったので、そう名付けられたということはよく知られております。

その後、江戸城拡張のため、半蔵と手下の伊賀者たちは、この四ツ谷辺りに所領を与えられたというのです。

服部半蔵正成の墓(逆光でした)

伊賀者は、ほかに、今の原宿の隠田にも所領を与えられ、移り住んだそうです。(隠田といえば、明治になって、皇室や政界・軍人に影響を与えて「隠田の行者」「日本のラスプーチン」と呼ばれた新興宗教の教祖飯野吉三郎を思い出しますね)

伊賀者は、かつては、諜報活動をやってましたが、平和な江戸時代になってからは、主に、江戸城と周辺の警備の役目を担ったようです。

四ツ谷に伊賀者が住むようになったのは、甲州街道の先に八王子があり、ここに同心奉行所があった関係もあったようですね。

伊賀者は、そのまま、江戸に残りますが、服部半蔵一族は、その後、桑名藩の家老を代々務めたそうです。

というのは、西念寺境内には、上の写真の通り、徳川家康長男信康の供養塔があるからです。実は、服部半蔵正成と長男信康とは深い因縁があったのです。

長男信康は、武田勝頼と内通したという嫌疑を掛けられ、家康より切腹を命じられたのでした。この時、介錯を命じられたのが、服部半蔵正成でした。

三河時代から家康に仕えていた正成は、家康と同い年で、長男の信康は小さい頃からよく知っていて、可愛がっていたため、信康の介錯を果たせず、後に自ら出家した、と上の説明文に書かれています。

西念寺から新宿方面に歩いて10分ほどで、笹寺(長善寺)があります。

昔の江戸切絵図を見ると、この辺りに、「伊賀町」とか「伊賀丁」と書かれた箇所があり、伊賀者の屋敷があったものと想像されます。

しかし、今では全く面影もなく、軌跡も、記念碑も見当たりませんでした。

伊賀者の墓があるのではないかと、少し、境内の墓地を探しましたが、結局見つかりませんでした。

忍びの者たちは、書き物を残さず、ほとんど口伝だったといいますから、跡形もないことは、当然といえば、当然なのかもしれません。

四ツ谷を後にして、我々は地下鉄を乗り継いで、早稲田大学に向かいました。ここで、講演会が開かれるからでした。(途中で早稲田の蕎麦屋さんで昼食休憩)

ツアーの案内役を務めてくださった三重大学の山田雄司教授は、学術博士でもあり、恐らく、現代の忍者研究の第一人者でしょう。もともと怨霊の研究者でしたが、2012年から忍者の研究も併せて始め、「忍者の研究」「忍者の教科書」などかなりの点数の関連書籍を出版されております。

午後は、山田先生は、忍者のように講師に早変わりして(しっかり、ネクタイをトイレの鏡の前で締めている姿をお見掛けしてしまいました!)、忍者の歴史を講義してくれました。

初めに、忍者の起源として、「聖徳太子が甲賀馬杉の人大伴細入を使って物部守屋を倒したことから、太子から『志能便(忍)』と名付けられたとする」と聞いて、「えっ?そんな昔からあったのか」と驚いたものですが、その出所の文献は、17世紀後半に成立した「忍術應義伝」などによるもので、古代の「日本書紀」にそのような記述がないことから、この説は、あくまでも伝承のようでした。

とにかく、忍びの基本は、公にしないで、忍術などは一族の中だけで、口伝とし、名前も、生きている存在も、残してはいけないとされてきたようです。証拠が残らないわけです。

とはいえ、忍びの者は、やはり、戦乱の世に活躍するもので、特に南北朝時代から戦国時代にかけて隆盛し、平和な江戸時代になると、忍術も使いようがなく、だんだんと廃れていったようです。

あと、忍者は漫画のような手裏剣を実際に投げていなかったそうですね。

恐らく、平和な江戸時代になっても、忍びは、諜報活動を続けていたと思われますが、明治になって、雇主の大名が没落したことから、忍者も廃業したことでしょう。

忍者について、ご興味のある方は、山田先生の著作を是非読んでみてください。

講演会で、もう一人興味深かったお話は、やはり、インテリジェンス研究所理事長の山本武利・早大・一橋大名誉教授の「陸軍中野学校初期卒業生の『忍者』活動」でした。

陸軍中野学校創立期には、岩畔豪雄、秋草俊、福本亀治に次ぐ第4の功労者として上田昌雄という当時大佐がいたといいます。この上田昌雄は2カ月半だけ二代目所長を務めましたが、戦後の回想録の中で、「中野学校卒業者は、全世界を対象としてやらなきゃならんということを私の方針の一つにしました。また、それまでは何か忍術使いをこさえるという考え方でやっていたんですね」などと発言していたことを取り上げておりました。

また、中野学校の海外長期滞在者は、欧米人との交流で引けを取らないよう、長身でハンサムな人物を当局が採用する発想があったのではないかと指摘された話も面白かったでした。

海外に長期派遣された中野学校卒業生は、商人やビジネスマン、領事館員などに身を隠していた者が多く、珍しかったのは記者、僧侶、教師という職業だったというのは意外でした。

特に、記者については、あの国際諜報団ゾルゲ事件のグループの「本職」が、新聞社や通信社の特派員だったことから、中野学校卒業生の中では「珍しかった職種」だったとは、本当に意外でした。

その「ジャーナリスト」だったというのは、1期生の新穂智という人物で、同盟通信社のジャカルタ支局の記者として偽装しました。

実際には、ニューギニア戦線で工作班を指揮するなどの活動をしましたが、部下のオランダ兵捕虜虐待の責任を問われて、十分な裁判もなく、戦後の昭和23年12月8日に死刑となったというのです。

あの時代、色んな運命に翻弄された人がいたんだと思うと目頭が熱くなりました。

邪馬台国の久留米・八女説、鎌倉幕府成立、咸宜園、吉田ドクトリン…は「日本史の論点」で学びました

アルハンブラ宮殿の天井画(イスラムは偶像崇拝を禁止しているのに、このような具象画があるのは極めて珍しいとか)

中公新書編集部編「日本史の論点 邪馬台国から象徴天皇まで」(中央公論新社、2018年8月25日初版)も、スペイン旅行の際に持って行った本でしたが、なかなか面白くて、往復の飛行機内では、かかっている映画で面白い作品が少なかったので、専ら読書に耽っておりました。

第1章の古代が倉本一宏・国際日本文化研究センター教授から始まり、中世は今谷明・帝京大学特任教授、近世が大石学・東京学芸大学教授、近代は清水唯一朗・慶大教授、現代が宮城大蔵・上智大教授と、「今一番旬」と言ったら語弊があるかもしれませんが、最先端の歴史家を執筆陣に迎え、最新の「学説」を伝授してくれます。

歴史は時代を映す鏡ですから、その時代によって変化するものです。最近では、学校の教科書から聖徳太子や坂本龍馬の名前が消えると話題になったり、鎌倉幕府の成立が、これまでは、「いい国つくろう」の1192年(源頼朝の征夷大将軍就任)だったのが、壇ノ浦の戦いで平家が滅び、頼朝が守護・地頭を置く文治勅許を獲得した1185年が、現在学界では圧倒的な支持を得ていることなど初めて知り、勉強になりました。

「日本史の論点」ですから、各時代で、長年論争になってきた「課題」が取り上げられています。

例えば、畿内説と九州説との間で論争が続いてきた「邪馬台国はどこにあったのか」。古代の倉本一宏氏は、纏向(まきむく)遺跡発掘により畿内説が学界では優勢になっているのものの、同氏はあえて九州説を取っていました。邪馬台国の邪馬台は「やまたい」ではなく、「やまと」と読むことが適切だとして、福岡県の久留米市と八女市とみやま市近辺が筑紫の中心だったと考え、この地域で灌漑集落遺跡が発見されれば、そここそが邪馬台国の可能性が高い、という説を立てておられました。

ちなみに、小生の先祖は、久留米藩出身なので、遺跡が見つかればいいなあと応援しております。

古代史専門の倉本氏はこうも力説します。「武家が中央の政治に影響力を持ち、政治の中心に座ったりすると、日本の歴史は途端に暴力的になってしまった。…もちろん、『古代的なもの』『京都的なもの』「貴族的なもの」がいいことばかりではないことは、重々承知してはいるけれども、苦痛を長引かせるために鈍刀で首を斬ったり、…降伏してきた女性や子供を皆殺しにしてしまう発想は、儒教倫理を表看板にしている古代国家ではあり得ないものであった」と。

これは、「古代=京都=公家=軟弱・ひ弱=陋習=ネガティブ」「中世以降=武士=実力=身分差別なく能力主義で這い上がれる=ポジティブ」といった固定されたイメージを覆してくれるものでした。

他にも色々取り上げたいのですが、あと2点ほど。まずは、近世を執筆した大石氏によると、江戸時代は義務教育はなかったが、人々は知識に対して貪欲で主体的に勉強したといいます。その一例として、大分県日田市(天領)にあった「咸宜園(かんぎえん)」を挙げております。

これは、1817年(文化14年)、儒学者の広瀬淡窓(たんそう)が設立したもので、全国から生徒が集まり、1897年(明治30年)に閉鎖されるまでの80年間で、5000人近くの人が学んだといいます。生徒たちは何年間もここに下宿して勉強し、長州の大村益次郎も学んだ一人だったそうです。

◇吉田ドクトリン

話は飛びますが、永井陽之助(東工大教授)や高坂正尭(京大教授)らの説を引用して「現代」を執筆した宮城氏によると、戦後の吉田茂路線(ドクトリン)とは、「軽武装」と「経済」を重視する政治的なリアリズムだったといいます。

そして、1951年のサンフランシスコ講和会議に池田勇人蔵相の秘書官として随行した宮澤喜一(後の首相)は、54年に吉田が首相の座を追われて鳩山一郎政権が成立すると、危機感を持ったといいます。56年には「暴露本」のような「東京ーワシントンの密談」(中公文庫)まで出版します。その理由について、宮澤は、五百旗頭真氏らのインタビューで、GHQによって追放されていた鳩山や岸信介といった「戦前派」が復活して、彼らの信条通りの政治が実現すれば、明らかに戦前に遡ってしまい、せっかく、吉田茂や池田勇人と一緒になってつくった戦後の一時代が終わったと思ったからだといいます。

同じ自民党でも、昔は、中選挙区だったせいか、派閥があり、同じ保守でも思想信条がハト派からタカ派まで両極端な政治家が同居したいたことが分かります。

言うまでもないことですが、今の安倍晋三首相は、「戦前派」の岸信介元首相の孫に当たります。安倍首相が「戦後レジームからの脱却」を目指して憲法改正を主張するのは、遺伝子のせいなのかもしれません。

まだまだ、書きたいのですが、この辺で。

 スペイン・アルハンブラ宮殿

渓流斎上等兵、名誉の負傷で勇気ある撤退=金鑚神社参拝はまた次の機会に

本庄城址

ベルリン方面から「ミッション・インポッシブル」の指令が至急便のMP3で来ました。

映画のトム・クルーズ気取りもいいですが、これは映画ではなく、現実の指令です。都心から80分、埼玉県の本庄市に鎮座する「金鑚(かねさね)神社」は一度参拝することですね。ブログのネタになりますよ(笑)。「本殿」を設けない神体山(しんたいさん)を「本殿」とする神社は、日本広しと言えども、長野の「諏訪大社」と、奈良の「大神(おおみわ)神社」と、この「金鑚神社」の三つの神社しかありません。是非、このミッションの実行を。なお、このMP3の音声は、終了後、直ちに消去されます。。。。

うーん、スパイ映画みたいですね。

でも、私自身、本庄市は何度も通過したことはあっても、生まれてこのかた、一度も行ったことはありません。ちょっと調べたところ、市の名前の由来になった「本庄城址」もあるじゃありませんか。それに、私も大尊敬する、盲目のハンデを乗り越えて「群書類従」を編纂刊行した国学者の塙保己一(1746~1821)の出身地ではありませんか。この人、国際的にも有名で、あのヘレン・ケラーにも影響を与えたと言われてます。これは行くしかない。

しかし、高崎線本庄駅に到着して驚きました。ほとんど人が歩いておらず、駅前商店街は、今、全国的に何処でもそうでしょうが、シャッター商店街で、ほとんど開いてません。

私は無鉄砲ですから、行けばどうにかなるだろうとほとんど計画せず、行ってみましたが、観光案内所も見つからず、そのまま、北口の自転車屋さんに向かいました。レンタル自転車を借りるためです。(500円也)

私は、城好きですから、まず向かったのは、本庄城址。途中、高校生らしき少年に道を聞いたところ、市役所の裏手当たりだと教えてくれました。高校野球の熱戦も観ないでご苦労様なことでした。

城山稲荷神社

何回か、行ったり来たり、ウロウロしていたところ、城山稲荷神社の鳥居近くに看板が見つかりました。本庄城の由来は、「本庄実忠が弘治2年(1556年)に築城した平城である。云々。。。」と書いてありますから、そちらをお読みください。

この後、本庄市の「歴史民俗資料館」に立ち寄りました。何と、入場料無料。驚きました。上野の東京国立博物館で見た縄文土器と違わない立派な土器が展示されていたのです。えっ?本庄って、縄文文化もあったそんな古い土地だったんですか?

親切な64歳ぐらいの学芸員さんが出てきて「何でも質問してくだい」と言うので、「これから、金鑚(かねさね)神社に行きたいんですが」と道案内を乞うと、「そりゃあ大変ですよ。本庄市内には金鑚神社がたくさんありますけど、実は、皆、分社なんですよ。長野の『諏訪大社』、奈良の『大神(おおみわ)神社』と並ぶ本殿のない日本の三大神社の一つに行かれたいんでしょ?それは、本庄市じゃないんですよ。それは、隣町の神川町にあるんです。行政区画で、この地図は本庄市の発行ですから、ここには載ってないんです。えっ?自転車ですか?そりゃあ、無理とは言いませんけど、大変ですよ。山の方ですからここから上り坂になってますからね」と仰るではありませんか。

とにかく、決めたことですから、行くことにしました。

そば蔵「ざるそばセット」1050円

途中、主要幹線道路にあった「そば蔵」で腹ごしらえ。えらい別嬪さんが給仕してくれました(笑)。駅前商店街は寂れてましたが、皆さん、車社会なので、道路沿いには色々と食べ物屋さんは見つかりました。

さて、出発。学芸員さんの話だと、本庄駅の踏切を越えて、新幹線の「本庄早稲田駅」を越えて、関越高速道路を越えて、八高線の児玉駅まで1時間ぐらい。そこから、金鑚神社まで1時間はかかるということでした。

途中の関越高速道路の渦巻き道路に立ち塞がれて直進できず、道を間違えて迷ってしまいました。また、元に戻って、右側の歩道を走ったら、「抜け道」が見つかりました。初めて行く所は本当に大変で難所でした。

渓流斎上等兵(ポツダム伍長)名誉の負傷。軽傷ながら出血

そんなこんなで、自転車で走っていたところ、側道の溝に落ちそうになり、ブレーキをかける暇もなく、すっ転んでしまいました。痛いの何の。気が付いたら、青空が見えました。昔なら、何ともないのに、経年の結果、体力は落ちましたが、運動神経も反射神経もなくなっておりました。ズボンが破けるくらいですからね。

「こりゃあ、もう無理だな」と内心自覚しまして、ずる賢いことを考えました。「そうだ、このまま、児玉駅まで行って、そこからタクシーに乗って、金鑚神社に行ってしまえ」と。

ケガをした所から、児玉駅まで30分近くかかりましたが、駅も小さく、何と、タクシーが一台もないのですよ!

競進社模範蚕室

「仕方ない。行ける所まで行こう」ということで、途中、児玉駅近くの「競進社模範蚕室」(明治27年、木村九蔵が建設)や「塙保己一記念館」(何と、ここも無料)に立ち寄りながら、金鑚神社を目指しました。

しかし、打撲した膝は痛むし、走っても走っても、なかなか着きません。ペダルを漕ぐ力も萎えてきました。結局、自転車を返却する時間もあるので、あと数キロ手前で「勇気ある撤退」をすることを決めて、引き返すことにしました。学芸員さんの「あんな素晴らしい神社ありませんよ」という言葉が耳奥に残ってましたが、次回、汚名返上、名誉回復することにしましょう。

金鑚神社

本庄駅近くに戻って、地図だけを見て、「ここが本社」と勘違いしていた本庄市内の金鑚神社を参拝することにしました。ここは分社でしたね。

何しろ、神川町にある本家本元の本社は、欽明2年(541年)創建と言われ、天照大神と素戔嗚尊と日本武尊を祀っているというんですからね。神話ではなく、ヤマトタケルの東征の際に創建されたとされ、大和朝廷の権力が東国にまで及んでいた証左になります。

金鑚神社本殿

何度も書きますが、本庄市の金鑚神社は分社ですが、敷地も広く、格式もあり、かなり風格もありました。樹齢500年の楠木も立派でした。

皆様ご存知の関東近辺の寺社仏閣案内サイト「猫の足あと」には掲載されていないのかな、と見てみたところ、本庄市の分社は名前だけでしたが、神川町の金鑚神社(総本社)はしっかりと概要、由緒まで載っておりました。

抜かりありませんでした(笑)。

オランダ人兵士も長崎で被爆していたとは…日蘭史から

暑いですね。38度なんて、ゆで蛸になりそうですよ。

「海の日」の祝日で、何もする気がしませんでしたが、ちょと必要に迫られて、日本とオランダの交流史を調べておりました。

エポックメイキングは、やはり、関ケ原の戦いの前の1600年4月に、オランダ商船リーフデ号が、今の大分県の臼杵に漂着し、五大老の一人だった徳川家康が、その貿易商人ヤン・ヨーステンを庇護して、今の東京駅近くに屋敷まで与えて、外交顧問にしたことでしょう。

ヤン・ヨーステンがなまって、八重洲になったというのはどうやら本当らしく、東京駅八重洲地下街にヤン・ヨーステンの彫像があるようです。

よく知られているように、江戸幕府は鎖国政策を取りながら、中国とオランダだけは、長崎・出島での貿易を許可します。

何で、オランダなのか?南蛮人と呼ばれたスペイン、ポルトガルはカトリックで、オランダはプロテスタントだったから、というのが、教科書で教えてくれるところですが、今ひとつ、納得はいきませんね。

ある本によれば、特にカトリックのイエズス会は、貿易商人と同行して、奴隷貿易をやっていたようです。日本人の奴隷は、ルソン島で高く買われたようです。スペイン、ポルトガルは、中南米のインカ、アステカ帝国を滅ぼした前歴がありますからね。「伴天連追放令」を出した秀吉はそこら辺の知識や情報を持っていたのでしょう。

英国も新教ですから、なぜ、オランダかと聞かれれば、恐らく、オランダは奴隷貿易を少なくとも日本ではしなかったからではないかと推測します。

江戸時代は鎖国したとはいえ、天文学から物理学、航海術、医学、それに、レンブラントの国ですから、絵画や芸術に至るまで、西洋の科学、技術、文化がオランダを通じで入ってきたわけですから、知識人はこぞってオランダ語を勉強しました。

前野良沢、杉田玄白らによる日本初の海外医学翻訳書「解体新書」は、オランダ語訳ですし、福沢諭吉や大村益次郎らを輩出した緒方洪庵の適塾は蘭学塾でした。医者といえば、蘭方医でしたからね。

西周、榎本武揚らが(明治ではなく)幕末に留学した先は、オランダのライデン大学です。レンブラントもここで学びました。日本人初のフリーメーソン会員といわれる西周は、哲学や科学、技術などの翻訳語を産み出した人でした。

さて、一気に近現代に飛びますが、日本とオランダは先の太平洋戦争で、東インド会社、今のインドネシアの利権を巡って戦争をしました。オランダは、いわゆるABCDラインで、石油輸出を禁止して日本を苦しめました。1942年、日本はオランダ兵を含む連合軍兵を8万人以上に捕虜し、その中の一部を長崎の捕虜収容所に入れますが、そこで米軍による原爆投下により被爆した人がいたことは知りませんでした。

オランダは、BC級戦犯として、連合国の中で最も多い226人の日本人軍人・軍属を処刑しましたが、戦後かなり長い間、つい最近まで反日感情が強い国だったことも後で知りました。

オランダは現在も王国で、日本の皇室との交流を深めて、徐々に和解の道を歩んでくれたようですが、何か、複雑な話でした。

ちなみに、現在はヴィレム・アレクサンダー国王、政権は自由民主国民党のマルク・ルッテ首相。すぐ言える人はなかなかの知恵者です。

細川護熙元首相まで藤原氏の末裔だった

倉本一宏著「藤原氏」(中公新書)をやっと読了できましたので、書評ではなく、備忘録として書いてみたいと思います。

登場人物を一人一人、家系図で追いながら、いちいち人物相関図を確かめていたので、通読するのに2週間以上掛かりました。 前回書いた時は「大学院の修士課程レベル」と書きましたが、訂正します。「大学院の博士号課程レベル」でした。ここに登場する天皇、藤原氏、皇后、中宮、家系図、分家図を全て諳んじて言うことができれば、博士号取得は間違いないことでしょう。

それでは行きます。

・藤原鎌足を継いで中心に立った二男の史(ふひと)は、鎌足が亡くなった時、まだ14歳だった。幼少期は、百済系渡来人田辺氏の許で、養育された。権力取得した後は、史を「等しく比べる者がいない最高名」として不比等と改名した。

・藤原氏の礎を作った不比等の四兄弟が、その後の藤原氏の繁栄の祖を作る。(1)南家の武智麻呂(2)北家の房前(3)式家の宇合(4)京家の麻呂ーの4人だ。あいにく、この4人とも同じ疫病で亡くなった。何の疫病だったのか、この本には書かれていなかったが、洋泉社ムックの「藤原氏」には、天然痘と書いてあった。

・「御堂関白記」を残した藤原道長は、関白には就ていなかった。内覧と太政官一上(だいじょうかんいちのかみ)と左大臣のみ。天皇の外戚を利用して、摂関政治の頂点に立った。

・道長のピークはちょうど今から1000年前の寛仁2年(1018年)10月、三女威子を後一条天皇の中宮に立て、二次会の宴席で、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる事も 無しと思へば」という有名な句を詠んだ。道長の21年間に及ぶ絶対的な権力政権により、政治が安定し、女房文学の繁栄がもたらされた。(道長の末子長家の子孫が和歌を司る冷泉家)

・道長は1028年に62歳で死去。道長を継いだ頼通は、4人の妃を後宮に入れたが、皇子を儲けることが出来ず、外戚の地位を得られなかった。これが摂関政治の衰退に繋がり、院政の道を開く。道長の死後は、頼通より4歳年長の姉彰子(一条天皇の皇后で、後一条天皇と後朱雀天皇の母。紫式部、和泉式部らが仕えた)が権力を握ったが、頼通は51年間もの超長期政権を築いた。

・北家冬嗣の兄である参議真夏を祖とする日野家からは、親鸞や、室町八代将軍義政の室となった日野富子らがいる。

・北家魚名の五代目に当たる秀郷は、承平・天慶の乱を鎮圧したとして有名だが、その後、「武将の祖」と仰ぎみられ、奥州藤原氏、足利氏、北面の武士佐藤義清(西行)らを輩出する。戦国武将の大友氏、立花氏なども秀郷の子孫を自称するも確かな証拠はないらしい。

・現代の細川護熙元首相は、熊本藩主の子孫としてよく知られているが、母親温子(よしこ)は、近衛文麿の娘で、実は藤原氏の末裔でもあった!

藤原氏を知らなければ何も始まらない

ここ2週間も日本の歴史を語るときに欠かせない「藤原氏」にはまっています。

倉本一宏著「藤原氏 権力者の一族」(中公新書・2017年12月25日初版)を読み続けていますが、なかなか読了できません(苦笑)。登場する人物を一人一人、「系図」で確かめて、人間関係を確認しながら読んでいるためです。

ですから、新書と言いながら、内容は濃密過ぎるほど深く、恐らく大学院の修士課程レベルではないかと勝手に思っています。この本だけで、理解することが難しいので、洋泉社ムック「藤原氏 至上の一族の正体」まで買ってしまったほどです。これを読むと、官位制や藤原氏から分かれる「近衛」「九条」「一条」などの公家一族の流れなどが一目で分かり、とても参考になります。

この本は、本人も「はじめに」に書かれておりますが、そして、以前私もこのブログで取り上げた「蘇我氏 古代豪族の興亡」(中公新書)の続編に当たります。藤原氏は、天皇の外戚となって権力を握った蘇我氏のやり方をそのまま踏襲したことになります。倉本氏といえば、先に「戦争の日本古代史」(講談社現代新書)も読んでいましたので、その博学ぶり、碩学ぶりには感服を通り越しておりました。

倉本氏は、「古事記」はもちろん、藤原不比等が撰修に深く関わった「日本書紀」、「続日本紀」(仲麻呂)、「日本後記」(冬嗣)、「続日本後記」(良房)、「日本文徳天皇実録」(基経)、「日本三代実録」(時平)の「六国史」、「藤氏家伝」「日本紀略」…とほぼ全ての原本に当たり、想像もできないほどの文献を読破しておられるようで、まあ、とても生半可な気持ちで読んでいてはとてもついていけません。

この本の内容を一言でまとめるのはまず困難です。少なくとも言えるのは、中臣鎌子=藤原鎌足を祖とする藤原氏は、この後、1300年間も日本の支配層の中枢の中枢を占めて、歴史を動かしてきたことは事実であり、奇跡的です。途中で藤原氏が天皇に成り代わろうと乱を起こしたり、摂関政治時代は特に、藤原氏が、数多いる親王の中から次の皇太子、天皇まで決めており、何だか、「万世一系」の天皇制といわれても、実は「藤原制」ではなかったのか、と勘繰りたくなってしまったほどです。

藤原氏といえば、平安時代の藤原道長は誰でも知っているでしょうが、幕末の三条実美も、近現代の西園寺公望も近衛文麿も藤原氏の末裔と聞くと少なからずの人は驚くことでしょう。1300年間、ずっと日本を動かし続けてきたのです。

それだけではありません。平泉で栄華を誇った奥州藤原三代も藤原氏。今も名前が続いている佐藤は、左衛門尉の藤原から、加藤は、加賀の藤原から、伊藤は伊勢の藤原、後藤は備後の藤原から来ていると言われていますからね。

武将の源氏も平氏も藤原の血が流れているので、まさに藤原氏抜きに日本の歴史を語れないわけです。

本日は、ちょっと官位制についてだけ、触れます。21世紀の現代になっても、叙位叙勲の制度があることは御存知かと思います。公立の小中学校の校長や大学教授も、亡くなった後や、88歳の米寿を迎えた場合、叙位叙勲されます。

このうち、例えば、大体ですが、小中学校の校長は、「正六位」か「従六位」、高校の校長は「正五位」か「従五位」か「正六位」、大学教授は「正四位」か「従四位」辺りで叙位されます。

古代から貴族の叙位は21歳以上になると行われ、大宝律令で定められた蔭位制(高位の親のお蔭で位を引き継ぐ)によりますと、皇族の親王は従四位下からスタート。藤原氏のような超有力臣族ともなると、従五位下からスタートするのです。(親が正一位や従一位の場合)

現代の校長先生や大学名誉教授が亡くなったりした時の最高の叙位が、21歳の若者のスタート地点だったことが分かります。

簡単にこの叙位と職掌の関係で言いますとー。

正一位・従一位=太政大臣

正二位・従二位=左右大臣・内大臣

正三位=大納言

従三位=中納言

正四位下=参議

従四位上=左右大弁

正五位上=左右中弁

正五位下=左右小弁

従五位下=少納言

といった具合です。

これは、何も、江戸時代や古代、中世の話ではないのです。現代も脈々と続いているということが言いたかったのです。

だから、偽証の佐川元国税庁長官やセクハラの福田元財務事務次官らがどれくらいの位階なのか、ちょっと興味ありますねえ(笑)。

天保年間の老舗「花園万頭」が破産申請

 奈良の西大寺先生です。
 近所の図書館で今晩(1日)の夕刊を眺めていたら、東都は新宿の老舗「花園万頭」が破産申請したというベタ記事が出ていました。
 赤羽先生と違ってインテリゲンチャで読書人の貴人は「え!そんな饅頭屋がありましたかねえ?」と言いそうですが、記事によると天保5年(1834年創業)です。
 「ぬれ甘なつと」が売り物で、デパートでも売っていて、迂生も、在京中は何度か食したことがありました。なかなか美味かったですね。負債総額は20億円だそうで、おそらく、経営多角化で、身の丈の合わないような、事業、投資に手を出して、この始末だと思いますね。
 創業184年。饅頭、和菓子だけを、堅実にやっていれば、そういう事態は起こらなかったと思いますが、儲かっていると、傍に悪魔の「甘いささやき」がくるものです。
 新宿本店は6日まで営業しているそうですが、工場が製造停止で商品は少ないようですね。江戸時代からの老舗が消えるのは東都の一大事件ですよ。ブログに書かないと駄目ですね。失格ですよ(笑)。
 天保はもう、江戸末期に近く、家斉、家慶の治世下で、天保8年が「大塩平八郎の乱」、同10年が「蛮社の獄」、同13年に水戸の「偕楽園」が出来ました。それよりも創業は古いのですからね。
 こういう、破産記事は、天下の日本経済新聞夕刊には出ていませんね。いい加減な「経済新聞」ですよ、ホント(笑)。今朝(2日)の朝刊にも日経新聞は「花園万頭」の破産記事は出ていません。
 奈良特派員の西大寺先生でした。

諜報研究会の見学ツアー 「九段下〜北の丸公園」

江戸城 清水門

5月26日(土)は、NPO法人インテリジェンス研究所が主催する見学ツアーに参加してきました。

前回、高田馬場の戸山公園近辺にある石井731細菌部隊関連の史跡を辿ったツアーでしたが、今回は、九段下の北の丸公園近辺にある近衛歩兵連隊など昭和史だけでなく、江戸、明治時代関連の史跡も沢山見ることができました。

軍人会館

午前10時50分、麹町警察署九段下交番前集合。老若男女、30人ぐらいが参加しました。

まずは、すぐ隣の九段会館へ。1934年2月に、軍人会館として建立されました。総工費272万円だったとか。

昭和11年の「2.26事件」の際に、戒厳令司令部(中将香椎浩平・司令官)にもなりました。

2011年の東日本大震災で天井壁が落下して、お亡くなりになった方もいらして、今も耐震改修中です。

防諜研究所跡

極秘のスパイを養成する陸軍中野学校は、軍人会館近くの愛国婦人会本部裏に「防諜研究所」として設立されました。(勿論、防諜研究所跡の碑はなし)

清水門と牛ヶ淵

目の前は江戸城の内堀の牛ヶ淵。隣は、九段精華高等女学校(空襲で消滅。戦後もGHQの許可下りず、復校ならず)。

「愛国婦人会」と「九段精華学校」の碑はありました。

大隈重信候 雉子橋邸跡

防諜研究所跡前の道路を隔てたところにある大隈重信の屋敷跡。

ここに住んでいた頃は、大蔵卿だったようです。(後で関連話が出てきます)

憲兵司令部・東京憲兵隊跡

大隈重信の屋敷跡の北隣は、現在、合同庁舎になってますが、かつて、泣く子も黙る憲兵さんの司令部があったところでした。現在は、合同庁舎に東京地検と関東公安調査局が入居していたので、思わず苦笑してしまいました。

日本は誠に伝統を重んじる国です。《渓流斎日乗》も検閲しているのかしら?

憲兵司令部は、昭和10年に大手門前からこの地に移転してきましたが、ここは、元は、フランス大使館の敷地跡だったとか。

吉田茂像

憲兵司令部跡から、清水門(これは必見!国の重要文化財)を通過、というか、坂道階段を登って、北の丸公園へ。

何故かしら、最近、公明党さえ責任問題を追及し始めた麻生財務相の母方祖父の吉田茂の銅像へ。

吉田茂は戦中、東条首相に歯向かったことから、戦後は英雄扱いでしたが、実はそうでもなかったという大宅壮一の文章を引用して、主催者は説明してくれました。

近衛歩兵第二連隊跡

近衛歩兵第一連隊跡

近衛兵は、勿論、天皇陛下を御守りする最後の砦のような兵ですから、宮城(皇居)から目と鼻の先のこの北の丸に設置され、全国から最も優秀な人材が選ばれました。

明治に設置され、先の敗戦で消滅しましたが、この近くに近衛砲兵大隊もありました。明治11年(1878年)に竹橋事件が起きた所です。

昭和時代の「5・15事件」や「2・26事件」など青年将校らによる反乱はよく知られておりますが、竹橋事件についてはあまり知られてないので、少しブリタニカ大百科事典を引用させて頂きます。

【竹橋事件】明治初年の陸軍兵士の反乱事件。 1878年8月 23日竹橋 (現東京都千代田区北の丸公園) 在営の近衛砲兵隊二百数十人が,西南戦争恩賞遅延を理由に決起し,隊長,士官を殺害。大蔵卿大隈重信邸を襲撃し,仮皇居 (現在の迎賓館赤坂離宮) 門前で天皇に直訴しようとしたが,同日東京鎮台兵の手で鎮圧された。陸軍裁判所は,同年 10月 15日に死刑 53人,準流刑 118人,その他の刑を宣告。死刑はただちに執行された。この事件をきっかけとして政府は「軍人訓誡」「軍人勅諭」を発布し,軍律強化に努めた。(引用終わり)

ほら、先程の大蔵卿大隈重信邸まで出てきたではありませんか!死刑53人とは只事ではありませんね。

しかも、舞台になったのが、宮城と目と鼻の先の近衛砲兵大隊ですから、山縣有朋ら明治新政府は焦ったでしょう。死刑の数の多さは見せしめの意味もあったんでしょう。

江戸幕府を倒してまだ10年しか経ってませんからね。

しかし、鎮圧に成功した新政府は、この後、「明治十四年の政変」などを経て、薩長への権力集中を確立し、藩閥政治を成就していくわけですね。

昭和天皇御野立所(おのだてしょ)碑

最後にお導き頂いたのが、昭和天皇御野立所。昭和天皇が昭和5年、関東大震災後の帝都復興の様子を視察された所だというのですが、何でこちらをご紹介して頂いたのか、よく分かりませんでした。

いや、そんなこと言ってはいけませんね(笑)。これらツアーは、資料まで配布してくださり、無料だったのですから。

ガイドして頂いた正田先生、山本先生有難う御座いました。

【追記】ちなみに、北の丸公園は、都心のオアシスです。緑豊かで目の保養になる中、一人ベンチでお昼のおにぎりを食べましたが、最高でした!

また、さすがに、九段下、飯田橋近辺は、歴史の宝庫でした。榎本武揚が始めた北辰社牧場(牛乳を販売)跡や、肥前藩士だった佐野常民が創設した日本赤十字社跡、徳川幕府が創設した蕃書調書(明治になり帝国大学に発展)などもありました。もっと探索したくなりました。

名古屋城天守が木造で復元 4年後が楽しみ

 長い連休の後は、どうもエンジンがかかりにくいもんです。仕事にも勉学にも身が入りません(苦笑)。
ということで、皆様からの投稿も交えた種々雑多の話題をー。
「最近の渓流斎ブログは実につまらん。昔はもっと誠実でひた向きで、パンチが効いたものが多かったのに、最近のものは読むに耐えません」(福岡県・A子)。
あっちゃあ、いきなり、強烈なパンチを食らいましたね。
まあ、自己弁護しません。病気のため、中断した時期が長かったせいかもしれませんけど、理由になりません。本人は、毎日、知らなかったことを知る喜びでいっぱいで、一歩ずつ前進しているつもりなんですけどねえ。。。あ、これ以上書くと本当に自己弁護になるのでやめときます。
 
玉敷神社の「藤まつり」は1本だけ
「昨日は、自宅近くの騎西・玉敷神社『藤まつり』に行って来ましたが、今年は異常気象で、例年ならGWに満開のはずの藤の花がすっかり散っておりました。見物客もガラガラで、露天商さんも町内会も当てが外れて、暇を持て余しておりました。地元観光協会の会長さんは『スマホで花がすでに散っているのがリアルタイムで分かるから、観光客が来ないんだよ。便利なのも、困ったもんだなあ」とボヤいておりました。」(埼玉県・B男)
 なるほど、地元観光業界にとっては死活問題ですからね。確かに昔は、咲いているのか、咲いていないのか、満開なのか、散ってしまったのか、最新情報のほとんどが口コミでしたからね。口コミなんか、糸電話(死語)みたいなもんですから、多くの人にそんなに正確に伝わるわけがない。
 無駄がなくなったと、言えなくもありませんけど、余裕がない生活になったということなんでしょうね。
赤塚公園(東京都板橋区)の橡の木(マロニエ)の花
「今日は朝から酷暑向けに、いち早く、クーラーの掃除に『おそうじ屋さん本当』に来てもらいました。毎年、クーラー掃除をしているのですが、おカネはかかっても、モーターが軽くなり、電気代がかなり抑えられるのです。これは案外知られていません。それに、心なしか、空気が澄んで感じられます。半日かかったので、昼飯を食いに出かけられず、どうしようかと思って、作家の松井今朝子女史のホームページを覗いたら『牛肉をマルエツで買って、タケノコの水煮と、生姜で、甘辛く作って、美味かった』と言う記事を読み、すぐ、隣の公設市場で材料を仕込んで甘辛く煮込み食しましたが、手前味噌ですが、美味かったですね。皆さん一度やってみたらどうですか(笑)。
 松井女史の実家は、京都・祇園の高価な料理屋『川上』ですが、此処のメニューの百分の一のおカネで出来るのですから安いものです(笑)。松井今朝子女史のHPの料理献立はアナですよ」(香川県・K男)
早速、 松井今朝子女史ホームページ を私も覗いてみることにしました。確かに、美味しそうで、男でも手軽に出来そうな料理がいっぱい載ってますね。松井さんは「今ごはん、昔ごはん」などたくさんの料理関連本を出版されているようで、実家が実家だけに、お料理は得意なんでしょうね。
 このホームページを覗きますと、松井先生はしょっちゅう趣味の乗馬をされていて、その帰りに大宮(さいたま市)の馴染みのお店に立ち寄って、食材などをお求めになっているようです。
名古屋城
 あまり、人様から頂いた投稿ばかりでお茶を濁してはいけませんので、私も一言。
 私も今年3月に行ったばかりの尾張名古屋城天守が、木造復元のため、昨日7日で入場禁止になった、というニュースには驚きました。全く知りませんでしたね。再公開は2022年末といいますから、4年後じゃありませんか!
 嗚呼、無理して行ってよかった。(行ってない皆さんはごめんなさい。)
 皆さんよくご存知の通り、名古屋城は戦前、城郭では国宝第1号に指定されましたが、1945年に米軍による空爆で焼失してしまいました。文化財遺産を平気で破壊するような国は歴史観がない野蛮な国と断言します。
 多くの新聞は、「戦災により焼失」だの、「空襲により焼失」だのと、主体を書かずに、曖昧にぼやかしてますが、はっきりと「米軍による」と書かなきゃなりません。
 マスコミは、どうしても、こうも主体や主語を曖昧にするのでしょうか!
 そうでなければ、なぜ米軍がそこまで追い込まれて、日本の国宝を破壊したのか、なぜ戦争が起きたのか、さえも曖昧になってしまうからです。
 名古屋城天守は1959年に鉄筋コンクリートで再建されましたが、今度は17世紀当時の図面も参考にして、しっかりと耐震に対応した木造で復元するというので、完成が楽しみです。老骨に鞭を打ってでも是非ともまた見に行きたいです。
 城巡り趣味の渓流斎与利