市川裕著「ユダヤ人とユダヤ教」を読んで

 長年、「ユダヤ問題」については関心を持っていましたが、不勉強でなかなかその核心については、よく分かっておりませんでした。

 ユダヤ民族は、ローマ帝国や新バビロニア王国による支配と捕囚によって、世界中に離散してからは差別と迫害と虐殺(19世紀末のロシアにおけるポグロム=破壊とナチスによるホロコーストなど)の歴史が続き、第2次大戦後になって今度はシオニズムによってパレスチナに国家を建設して、核兵器を装備していることが公然の秘密の軍事大国となり、かつてそこに居た人々が難民になるという歴史的事実もあります。

バルセロナ・グエル邸

それにしても、ユダヤ人は神に選ばれた「選民」として、作家、思想家、哲学者、物理学者、音楽家、演奏家、俳優、金融資本家…と何と多くの優秀な「人類」を輩出しているのかという疑問が長年あり、ますます関心が深まっていました。いわゆる「ユダヤの陰謀」めいた本も読みましたが、眉唾ものもあり、どこか本質をついていないと感じておりました。

 そこで、出版されたばかりの市川裕著「ユダヤ人とユダヤ教」(岩波新書・2019年1月22日初版)を購入して読んでみました。

新書なので、入門書かと思っていたら、著者は東京大学の定年をあと2年後に控えた「ユダヤ学」のオーソリティーでした。最初の歴史的アプローチこそ、ついて行けたのですが、中盤からのユダヤの信仰や思想・哲学になると、初めて聞く専門用語ばかりで、読み進むのに難渋してしまいました。

バルセロナ・グエル邸

まず最初に、一番驚いたのは、「ユダヤ教は『宗教』ではない。人々の精神と生活、そして人生を根本から支える神の教えに従った生き方だ」といった著者の記述です。えっ? ユダヤ教は宗教じゃなかったの?という素朴な疑問です。読み進めていくと、私がユダヤ教の司祭か牧師に当たるものと誤解していた「ラビ」とは、聖職者ではなく、神の教えに関して専門知識を持つ律法学者だというのです。

つまり、ユダヤ教とは、厳密な意味で宗教ではなく、戒律を重んじ、それを厳格に実践する精神と生活様式だったのです。6日目の安息日は、必ず休み、普段はシナゴーグでの礼拝や律法の朗読とタルムード(聖典)の学習など毎日決まりきった行動を厳格に実行しなければならないのです。とても骨の折れる信仰実践です。

 戒律といえば、私自身は、「モーセの十戒」ぐらいしか知りませんでしたが、とにかく、色んな種類の独自の律法があるのです。その代表的なものが、「モーセの五書」(旧約聖書の「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」)とも呼ばれる文字によって伝えられた「成文トーラー」と、西暦200年頃に編纂された口伝律法集「ミシュナ」(ヘブライ語で「繰り返し語られた法規範」全6巻63篇)と呼ばれる「口伝トーラー」です。

口伝トーラーは、 ヘブライ語で「道」「歩み」を意味するユダヤ啓示法の法規範である「ハラハー」と、法規範以外の神学や倫理、人物伝や聖書註解を扱う「アガダー」に分類されます。ラビたちは、ヘブライ語を民族の言葉として選び、神の言葉の学習を中心に据えます。ラビ・ユダヤ教に従うユダヤ人は、主なる神である唯一神を信じ、神の教えに従った行動をすることが求められます。具体的に何をすべきかに関しては、ラビたちの教えに従うことが義務付けられます。従って、ナザレのイエスをメシアと信じて従うのは異端だといいます(65ページ)。

バルセロナ・グエル邸バルセロナ・グエル邸

 このほか、神秘主義のカバラー思想などもありますが、難しい話はこの辺にして、この本で、勉強になったことは、イスラム教が支配する中世になって、ユダヤ人の9割が、当時欧州などより先進国だったイスラム世界に住み、法学をはじめ、哲学、科学、医学、言語学、数学、天文学などを吸収し、旺盛な商業活動も行っていたということです。それが、1492年のいわゆるレコンキスタで、イスラム世界が欧州から駆逐されると、ユダヤ人も追放、放浪が始まったということです。中世ヘブライ語で、スペインを「スファラド」、その出身者を「スファラディ」と呼び、スペインで長くイスラム文化の影響を受けたスファラディ系ユダヤ人の社会では、哲学的合理主義と中庸の徳が推奨され、生き延びることを優先して、キリスト教への改宗も行われたといいます。(スペインからオランダに移住したスピノザ一族など)

 もう一つ、ライン地方を中心とする中欧を「アシュケナズ」、その出身者を「アシュケナジ」と呼び、アシュケナジ系ユダヤ人社会では、敬虔さを重視する宗教思想が尊ばれ、迫害に対して、果敢に殉教する道が選ばれたといいます。

 ユダヤ人というのは、ハラハーに基づき、「ユダヤ人の母親から生まれた子、もしくはユダヤ教への改宗者」と定義されていますが、内実は、複雑で、エチオピア系ユダヤ人などいろんな民族が含まれ、色んな考えの人がいて、イスラエルを国家と認めないユダヤ人や、厳格な原理主義のユダヤ教に反対するユダヤ人さえもいるというので、聊か驚きました。


 ヴィルナ(現在のヴィリニュス)が「リトアニアのエルサレム」と呼ばれた街で、18世紀には正統派ユダヤ教の拠点だったことも初めて知りました。 とにかく、ユダヤ民族は教育と学習に熱心で「書物の民」と呼ばれ、成人の結婚が奨励されることから、歴史に残る多くの優秀な人材を輩出してきたことが分かりました。

 この本の不満を言えば、ユダヤ教の思想・哲学を伝えた偉人は出てきましたが、一般の人でもよく知るユダヤ人として出てくるのは、スピノザとマルクスとハイネ、それに、フロイトとアインシュタインぐらいだったので、もっと多く登場してもよかったのではないかと思いました。そして、何故、あそこまでユダヤ人だけが差別され、迫害されてきたのか、ご存知だと思われるので、もう少し詳しく説明されてもよかったのではないかと思いました。でも、大変勉強になりました。

京都「左阿弥」は意外と知られていない由緒ある料亭です

明けましておめでとうございます。京洛先生です。

渓流斎さんは、先日のブログで「茶屋四郎次郎」を取り上げておられましたが、京都には彼の邸宅があった址(中京区新町通蛸薬師下ると上京区小川通下長者町)に立札と石碑がそれぞれ立っておりますよ。

 さて、本日は、京都でも意外と知られていない由緒ある料亭「左阿弥」をご紹介致しましょう。

Copyright Par Kyoraque-sensei

 実は、迂生も詳しくその由来は知りませんでしたが、いつも、墓参りなどで「東大谷」墓地(正式には、浄土真宗大谷派の「大谷祖廟」。地元では“東大谷さん“)から、円山公園の東側の道端を通り、知恩院(浄土宗総本山) に向かうと途中に料亭「左阿弥」があり、気になっておりました。

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上の写真の通り、玄関には立て札が立ち、その由緒も記されております。もともとは、この円山公園の一帯は「安養寺」というお寺の境内でもあり、左阿弥は同寺の塔頭の一つだったということです。それが、江戸の「嘉永」年間に料亭に転身し、現在に至っているわけです。


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貴人が今度、京都に見えた時にこの一帯を御案内しますが、円山公園までは、うるさい観光客が来ますが、この辺りまではほとんど来ません(笑)。今でも閑静で、法然、親鸞らが修行の場所に選んだだけのことがよく伝わってきます。

 また、近年になってからは「御前会議」など、重要、重大な会議が開かれたり、京都で最初のホテル「他阿弥ホテル」がこの地で始まったということです。


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寺内大吉著の「念仏ひじり三国志」を読むと、法然が「吉水(よしみず)」で布教する様を巧みな筆致で描かれておりますが、あれを読んで実地検証して、見て歩くのには、ここが最適の場所です。「吉水」という地名は、東山の山麓で美味しい水が流れ、溢れ出ているということから付けられたわけです。

八坂神社の裏手の円山公園一帯は、昔は「真葛ヶ原」と呼ばれ、淋しい場所だったのですが、今でも感じられます。


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 「安養寺」は、最澄が平安京を鎮護するために建てた古刹で、その塔頭の一つ「左阿弥」は、織田信長の甥・頼長が建てたものでした。(頼長の父は茶人の織田有楽斎。頼長自身も、雲生寺道八と号し、この地で茶事を極めたと言われてます)繰り返しになりますが、江戸期になって料亭になり、いろいろ変遷があったところです。日本の国家の将来を左右する「御前会議」もここで開かれたということですからね。貴人のような歴史好きにはたまらない一帯だと言えることでしょう(笑)。


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 「左阿弥」は、貴人が、足の負傷で途中で参拝を断念された埼玉の歴史の根源にもつながる「金讃(かなさん)神社」ほど古くはありませんが、新年、再度、挑戦されては如何でしょうか。

あの「金讃神社」は、本殿が無く、近くの御室山を御神体にして山を拝む古式にのっとる希少な神社です。古礼に従って本殿が無く、神体山を拝礼する旧官幣社は、全国でも金讃神社と、奈良・桜井の「大神神社」、長野の「諏訪大社」の三社だけです。

 是非とも参拝に行かれて、霊気を浴びて来られることです。今年の「開運」間違いなしですよ。

 以上お終い。

茶屋四郎次郎は今でも続く大財閥だったとは!

 2019年、今年は個人的にも色々とありそうです。

 その一つが、旧友との交際がわずかながら復活したことです。その中の一人、根岸君とは3年、いや5年、いやいや10年以上は会っておりませんでした。行方不明といいますか、蒸発してしまったからです。

 その理由や経緯については、複雑な事情があって、さすがに茲では詳細に書けませんが、彼は一時期、ホームレス状態となり、生き倒れとなっているところを篤志家に助けられ、これまた一時期、社会福祉でお世話になっていたという噂を聞いたことがありました。

もちろん、彼の携帯電話もメールアドレスも通じません。恐らく解約したのでしょうが、親友だったら、変更したら連絡ぐらいするはずです。恐らく、過去を清算するために、かつて親しくしていた友人・知人とは絶縁したいのだろうと察し、しばらくそっとしておきました。何しろ、もうこちらから連絡を取る術がないのでどうしようもなくなくってしまったのです。

バルセロナ・サグラダファミリア教会

でも、3年ほど前、ずっと気になっていたので、恐らく、この世で唯一繋がっていると思われる彼の御令弟(警察に捜索願を届けたのが彼でした)に連絡を取ることを思いつきました。連絡を取るといっても、御令弟の電話番号もメルアドも知りません。そこで、どういう手段を取ったかといいますと、御令弟が勤務する県と市と業種と名前を入力して検索したところ、顔写真付きで御令弟の連絡先が出てきたのです。彼はすっかり社会的責任のある偉い地位についておりました。

 早速、連絡したところ、御令弟は兄に伝えて小生に連絡することを約束してくれました。でも、それっきりで、余程の事情があるのか、彼の方からこちらに連絡してくれることはありませんでした。そこで、昨年、もう一度、御令弟と連絡を取って、根岸君とコンタクトできないか聞いてみました。同窓会に参加できるかどうかといった用件があったからです。

 そうしたら、やっと、彼から返事が来ました。でも、「身動きが取れないほど忙しいので同窓会には出席できない」という返事でした。その後、電話をしても忙しそうで出ることはなく、メールをしても3回に1度程度しか返事が来ないので、さすがに頭に来て、そのままにしておりました。

バルセロナ・サグラダファミリア教会

そしたら、今年の元旦に彼からやっとメールが来たので、夜に電話したら通じたのです。さすがに、日本電産の永守重信会長じゃああるまいし、どんなに忙しくても正月ぐらい休んで仕事はしていないだろうと思ったからです。

 30分ほど話しているうちに、今、彼が何をやっているのかようやく分かりました。もともと、彼は教育関係の仕事をしてましたが、今は某大学の日本語講師と塾の英語講師と試験問題作成など複数掛け持ちしていて、首が回らないほどの忙しさだというのです。

よく、大学の講師の職が見つかったものだと思い、聞いたところ、あまりにも今の時代を象徴しているので、半分、微苦笑してしまいました。今、安倍政権は「人手不足」を理由に外国人労働者への門戸開放政策に踏み切りました。その前に、日本では「就労ビザ」が降りにくく、「学業ビザ」は簡単に降りやすいことから、色んな業者が結託して、「留学生」の名目で来日させて、仕事を斡旋するようになったのです。ここ15年前ぐらいからの出来事でしょうか。ここに、斡旋業者と財界と教育界との黄金のトライアングルができたわけです。つまり、新規に許認可される大学は、「時代を映す鏡」ですから、留学生のための「日本語学科」が増えたというのです。勿論、文部官僚も一枚からんでますねえ。

 でも、実態は、留学生とはいっても、金を稼ぐために日本に来ただけなので、真面目に日本語を勉強しない輩も少なからずいるそうです。出席日数が欲しいだけで、学業は二の次というわけです。

バルセロナ・サグラダファミリア教会

ところで、「日本語教師」になるには、専門学校に行って、420時間の授業を受けて、単位を取って国家資格を取らなければならず、学費も100万円ぐらいは掛かると聞いたことがあります。でも、根岸君の場合は、一瞬、ホームレスをやっていたぐらいですから、そんな大金がないため、論文等による書類審査と面接だけで、つまり、資格なしで合格したというのです。凄い男ですが、「絶対に受かる自信があった」というかなりの自信家でもあります。いやいや、彼は秀才です。かなりの努力家というより桁違いの勉強家で、頭の切れるとても優秀な人物であることは確かです。

バルセロナ・サグラダファミリア教会

 さて、彼を受け入れてくれた某大学は、2000年に創立された新興大学で、関東だけでなく中部地方にまで複数のキャンパスを持っています。そして、驚くべきことに、創立した母体が、日本史に名前を刻む有名な豪商・茶屋四郎次郎にまで遡るというのです。

 え?知らないですか?茶屋四郎次郎とは、安土桃山から江戸時代にかけて活躍した京都の豪商で、特に徳川家康の懐刀となり、武器兵器の調達から、諜報活動まで行い、巨万の富を築いた人で、代々、茶屋四郎次郎の名前を継いでいったと言われています。

 根岸君は「茶屋四郎次郎は財閥だよ、財閥。それもとてつもない大財閥だよ」と言うのです。財閥といえば、三井、三菱、住友、安田、そして大倉、浅野、鴻池…と私もかなり詳しい方だと思っておりましたが、まさか、歴史の教科書でしか知らない茶屋四郎次郎が健在で、今でも続く大財閥で、大学までつくってしまっていたとは全く知りませんでしたね。

 いやあ、驚きました。今の教育界はどうなっているのか、あくまでも個人的感想ですが、何か、魑魅魍魎とした感じです(失礼!)

バルセロナ・サグラダファミリア教会

 そう言えば、以前(2017年2月23日)、この《渓流斎日乗》で、「凄過ぎる滋慶学園」を書いたことがあります。

 滋賀県出身の浮舟邦彦理事長が、この滋慶学園グループの創業者らしく、歯科衛生士、福祉士、整体師、そして、一気に飛んで、製菓調理師、ファッションデザイナー、挙句の果てには俳優、声優、ダンサー、歌手、アニメーター、おまけに美容師まで養成する専門学校から大学院レベルまで開校している、といったようなことを書いてます。

2年前のことなので、書いた本人は全く内容を忘れておりましたが、読み返してみたら、皆様ご存知のあの京洛先生がかつて、この滋慶学園グループのどこかの学校で教鞭を執っていたらしいことも書いておりました。

えっ?そうだったの!?

フランスは燃えているか?

 フランスが燃えていますね。パリで大規模な「黄色ベスト」抗議デモが行われたかと思ったら、11日夜には、東部ストラスブールでのクリスマス・マーケットで、イスラム過激派によるテロと見られる発砲事件があり、少なくとも4人が死亡、十数人が重軽傷を負ったといいます。29歳の犯人はまだ逃走中だとか。

 日ごろ、米国と中国と韓国の話題しか大きく報道しない日本のマスコミも少しはフランスの異変を報道し始めましたねえ。

 何しろ、国王をギロチンにかけてしまう国民性です。さすがに、マクロン大統領も身の危険を感じたのか、最低賃金引き上げや残業代やボーナスなどの非課税を打ち出すなど大幅な譲歩を強いられました。

 正当な抗議活動をせず、お上に唯々諾々と従う子羊のような日本国民とフランス人とはえらい違いです。

スペイン・マドリード

 私自身は、たまたま学生時代にフランス語を専攻してしまったので、好むと好まざるとに関わらず、フランスの動向は気になります。戦後の米国一辺倒の日本政府の方針に嫌気がさした「アンチ巨人」みたいなものです(笑)。だから、別にフランスでなくても、ドイツでもイタリアでもスペインでも構わないのですが、何と言っても、フランスの歴史や思想や文学からは学べることが大きいのです。

 特に、19世紀が好きですね。ナポレオンの帝政から共和政になったり、王政復古したり、再び帝政が復活したり、また共和政になったり、政治体制がひっきりなしに変わるからです。スタンダール、バルザック、ユーゴー、フロベール、ゾラ…仏文学の全盛期です。

 右翼、左翼といった定義も、フランス革命後の国民議会で、議長席から見て、右に座ったか、左に座ったかの違いだったことはよく知られています。人権思想も、仏革命後の「人権宣言」が世界史的にも大いに寄与していることでしょう。つまり、フランスの動向は、昔も今も無視できないということを言いたかっただけですが。

スペイン・マドリード

で、フランス人がつくったか、具現化した政治体制を冷静に見てみますと、学校で教えられたり、マスコミで吹き込まれている知識は、かなり独断と偏見に満ちていることが分かります。

 例えば、「帝国主義」的というと、まるで悪の権化みたいです。つまり、侵略主義的といいますか、植民地主義的といいますか、他国を武力で屈服させて、従わせるイメージがあります。でも、フランスの場合、アルジェリア、チュニジアなどの北アフリカやベトナム、カンボジアなどのインドシナなどを侵略して植民地にしたのは、第3共和政(1870~1940)ですからね。意外にも、人民が統治する共和政なんですよ。

 王政も、国王を処刑してしまうほど最悪の政治体制なら、なぜ、今でも多くの国が王政を採用しているのでしょうか。先進国といわれる欧州のスペインもスウェーデンもオランダもデンマークも王国です。あ、そう言えば、サウジアラビアやクウェートなど中東は絶対王政の国でした。

スペイン・マドリード

 もう一つ。多くの人は植民地主義は既に過去のもので、「近代化」されて終わったものだと誤解している人が多いのですが、今でも現役バリバリです(笑)。

 11月に仏領ニューカレドニア(本当はヌーベル・カレドニー)で行われた独立を問う住民投票で、「残留派」が多数を占め、結局、住民はフランスの植民地に甘んじることを受け入れたわけです。島民の本当の気持ちは分かりませんが、今でも島民がフランス本国からの苛烈な税と重労働で虐げられているとしたら、暴動が起きて、独立派が多数を占めたのかもしれません。いや、内情は正確には分かりません。単に独立派が負けただけかもしれませんが。

 昨年9月にカリブ海を大型ハリケーン「イルマ」が襲来して、付近の海域の島々に甚大な被害を及ぼしました。日本では、ベタ扱いでしたが、フランスのテレビはトップで「サン・マルタン島」の窮状を連日報道しているので不思議に思っていたら、そこはフランス領だったからでした。今は、植民地とは言わず、海外領土だの海外準県だのと呼んでますが、同じようなもんでしょう。

 色々と勝手な持論を展開しましたが、この際、賢明なる読者諸兄姉の皆様方のご意見をコメントで賜りたいものです。

 えっ?何で、フランスの話をしておきながら、スペインの写真なのかって?

 ええじゃないすか。スペイン旅行の写真、まだ残っていて、使っていないんですから。許してたもれ(笑)。

忍者と諜報活動

昨日の12月1日(土)は、第25回諜報研究会のインテリジェンス・ツアーと講演会に参加してきました。

今回のツアーは、東京・四ツ谷駅近辺。テーマは、「伊賀者の跡地を訪ねて」といった感じでした。

四ツ谷といえば、お岩さんの四谷怪談が一番有名ですが、甲州街道沿いに江戸城警備を担当する伊賀者と呼ばれた「忍び」が住んでいたというのです。

今回のツアーの案内人を務めてくださった三重大学の山田雄司教授によると、我々が今普通に使っている「忍者」は昭和30年ぐらいから使われ始めただけで、それまでは「忍び」と呼ばれていたそうです。

いずれにせよ、忍者とは、諜報活動従事者の原点なのかもしれません。

ツアーで説明する山田雄司三重大教授

思えば、昭和30年代は、忍者ブームだったんじゃないでしょうか。

子ども向け漫画から、テレビ、映画に至るまで、忍者は、格好の題材でした。個人的ながら、今思い出してもテレビドラマ「忍びの者」(品川隆二主演)は異様に怖かった。「隠密剣士」に出てきたのは確か甲賀流だったと思います。

漫画は「伊賀の影丸」「サスケ」「忍者部隊 月光」「仮面の忍者 赤影」、そして「忍者ハットリくん」などよく読んだものですが、それらは、テレビでアニメになったり、実写ドラマになったりしていました。

その「忍者ハットリくん」のモデル(?)になったのが、服部半蔵で、彼は実在の人物です。彼の墓は、自分が開山した西念寺という浄土宗の寺にあり、JR四ツ谷駅から歩いて10分ぐらいのところにありました。

服部半蔵というのは、代々同じ名前を継承して明治まで続いた武士の名前で、一番有名なのが、本能寺の変の際、大坂の堺にいた徳川家康が、追っ手から逃げる時に道案内した二代目の服部半蔵正成です。これは、甲賀と伊賀の山を越えて岡崎城まで逃れた「神君伊賀越え」の逸話として有名です。

この服部半蔵正成は、槍の名手として知られ、その槍がこの寺に保存されておりました。(現物かなあ、と思ってしまいましたが)

この正成の父に当たる初代服部半蔵は、いわゆる忍術を使う忍びだったらしいですが、この二代目服部半蔵は忍びではなく、伊賀の忍びの者を束ねる「頭」のような存在だったらしいのです。

服部半蔵といえば、今もある半蔵門という地名は、そこに家康から屋敷を賜ったので、そう名付けられたということはよく知られております。

その後、江戸城拡張のため、半蔵と手下の伊賀者たちは、この四ツ谷辺りに所領を与えられたというのです。

服部半蔵正成の墓(逆光でした)

伊賀者は、ほかに、今の原宿の隠田にも所領を与えられ、移り住んだそうです。(隠田といえば、明治になって、皇室や政界・軍人に影響を与えて「隠田の行者」「日本のラスプーチン」と呼ばれた新興宗教の教祖飯野吉三郎を思い出しますね)

伊賀者は、かつては、諜報活動をやってましたが、平和な江戸時代になってからは、主に、江戸城と周辺の警備の役目を担ったようです。

四ツ谷に伊賀者が住むようになったのは、甲州街道の先に八王子があり、ここに同心奉行所があった関係もあったようですね。

伊賀者は、そのまま、江戸に残りますが、服部半蔵一族は、その後、桑名藩の家老を代々務めたそうです。

というのは、西念寺境内には、上の写真の通り、徳川家康長男信康の供養塔があるからです。実は、服部半蔵正成と長男信康とは深い因縁があったのです。

長男信康は、武田勝頼と内通したという嫌疑を掛けられ、家康より切腹を命じられたのでした。この時、介錯を命じられたのが、服部半蔵正成でした。

三河時代から家康に仕えていた正成は、家康と同い年で、長男の信康は小さい頃からよく知っていて、可愛がっていたため、信康の介錯を果たせず、後に自ら出家した、と上の説明文に書かれています。

西念寺から新宿方面に歩いて10分ほどで、笹寺(長善寺)があります。

昔の江戸切絵図を見ると、この辺りに、「伊賀町」とか「伊賀丁」と書かれた箇所があり、伊賀者の屋敷があったものと想像されます。

しかし、今では全く面影もなく、軌跡も、記念碑も見当たりませんでした。

伊賀者の墓があるのではないかと、少し、境内の墓地を探しましたが、結局見つかりませんでした。

忍びの者たちは、書き物を残さず、ほとんど口伝だったといいますから、跡形もないことは、当然といえば、当然なのかもしれません。

四ツ谷を後にして、我々は地下鉄を乗り継いで、早稲田大学に向かいました。ここで、講演会が開かれるからでした。(途中で早稲田の蕎麦屋さんで昼食休憩)

ツアーの案内役を務めてくださった三重大学の山田雄司教授は、学術博士でもあり、恐らく、現代の忍者研究の第一人者でしょう。もともと怨霊の研究者でしたが、2012年から忍者の研究も併せて始め、「忍者の研究」「忍者の教科書」などかなりの点数の関連書籍を出版されております。

午後は、山田先生は、忍者のように講師に早変わりして(しっかり、ネクタイをトイレの鏡の前で締めている姿をお見掛けしてしまいました!)、忍者の歴史を講義してくれました。

初めに、忍者の起源として、「聖徳太子が甲賀馬杉の人大伴細入を使って物部守屋を倒したことから、太子から『志能便(忍)』と名付けられたとする」と聞いて、「えっ?そんな昔からあったのか」と驚いたものですが、その出所の文献は、17世紀後半に成立した「忍術應義伝」などによるもので、古代の「日本書紀」にそのような記述がないことから、この説は、あくまでも伝承のようでした。

とにかく、忍びの基本は、公にしないで、忍術などは一族の中だけで、口伝とし、名前も、生きている存在も、残してはいけないとされてきたようです。証拠が残らないわけです。

とはいえ、忍びの者は、やはり、戦乱の世に活躍するもので、特に南北朝時代から戦国時代にかけて隆盛し、平和な江戸時代になると、忍術も使いようがなく、だんだんと廃れていったようです。

あと、忍者は漫画のような手裏剣を実際に投げていなかったそうですね。

恐らく、平和な江戸時代になっても、忍びは、諜報活動を続けていたと思われますが、明治になって、雇主の大名が没落したことから、忍者も廃業したことでしょう。

忍者について、ご興味のある方は、山田先生の著作を是非読んでみてください。

講演会で、もう一人興味深かったお話は、やはり、インテリジェンス研究所理事長の山本武利・早大・一橋大名誉教授の「陸軍中野学校初期卒業生の『忍者』活動」でした。

陸軍中野学校創立期には、岩畔豪雄、秋草俊、福本亀治に次ぐ第4の功労者として上田昌雄という当時大佐がいたといいます。この上田昌雄は2カ月半だけ二代目所長を務めましたが、戦後の回想録の中で、「中野学校卒業者は、全世界を対象としてやらなきゃならんということを私の方針の一つにしました。また、それまでは何か忍術使いをこさえるという考え方でやっていたんですね」などと発言していたことを取り上げておりました。

また、中野学校の海外長期滞在者は、欧米人との交流で引けを取らないよう、長身でハンサムな人物を当局が採用する発想があったのではないかと指摘された話も面白かったでした。

海外に長期派遣された中野学校卒業生は、商人やビジネスマン、領事館員などに身を隠していた者が多く、珍しかったのは記者、僧侶、教師という職業だったというのは意外でした。

特に、記者については、あの国際諜報団ゾルゲ事件のグループの「本職」が、新聞社や通信社の特派員だったことから、中野学校卒業生の中では「珍しかった職種」だったとは、本当に意外でした。

その「ジャーナリスト」だったというのは、1期生の新穂智という人物で、同盟通信社のジャカルタ支局の記者として偽装しました。

実際には、ニューギニア戦線で工作班を指揮するなどの活動をしましたが、部下のオランダ兵捕虜虐待の責任を問われて、十分な裁判もなく、戦後の昭和23年12月8日に死刑となったというのです。

あの時代、色んな運命に翻弄された人がいたんだと思うと目頭が熱くなりました。

邪馬台国の久留米・八女説、鎌倉幕府成立、咸宜園、吉田ドクトリン…は「日本史の論点」で学びました

アルハンブラ宮殿の天井画(イスラムは偶像崇拝を禁止しているのに、このような具象画があるのは極めて珍しいとか)

中公新書編集部編「日本史の論点 邪馬台国から象徴天皇まで」(中央公論新社、2018年8月25日初版)も、スペイン旅行の際に持って行った本でしたが、なかなか面白くて、往復の飛行機内では、かかっている映画で面白い作品が少なかったので、専ら読書に耽っておりました。

第1章の古代が倉本一宏・国際日本文化研究センター教授から始まり、中世は今谷明・帝京大学特任教授、近世が大石学・東京学芸大学教授、近代は清水唯一朗・慶大教授、現代が宮城大蔵・上智大教授と、「今一番旬」と言ったら語弊があるかもしれませんが、最先端の歴史家を執筆陣に迎え、最新の「学説」を伝授してくれます。

歴史は時代を映す鏡ですから、その時代によって変化するものです。最近では、学校の教科書から聖徳太子や坂本龍馬の名前が消えると話題になったり、鎌倉幕府の成立が、これまでは、「いい国つくろう」の1192年(源頼朝の征夷大将軍就任)だったのが、壇ノ浦の戦いで平家が滅び、頼朝が守護・地頭を置く文治勅許を獲得した1185年が、現在学界では圧倒的な支持を得ていることなど初めて知り、勉強になりました。

「日本史の論点」ですから、各時代で、長年論争になってきた「課題」が取り上げられています。

例えば、畿内説と九州説との間で論争が続いてきた「邪馬台国はどこにあったのか」。古代の倉本一宏氏は、纏向(まきむく)遺跡発掘により畿内説が学界では優勢になっているのものの、同氏はあえて九州説を取っていました。邪馬台国の邪馬台は「やまたい」ではなく、「やまと」と読むことが適切だとして、福岡県の久留米市と八女市とみやま市近辺が筑紫の中心だったと考え、この地域で灌漑集落遺跡が発見されれば、そここそが邪馬台国の可能性が高い、という説を立てておられました。

ちなみに、小生の先祖は、久留米藩出身なので、遺跡が見つかればいいなあと応援しております。

古代史専門の倉本氏はこうも力説します。「武家が中央の政治に影響力を持ち、政治の中心に座ったりすると、日本の歴史は途端に暴力的になってしまった。…もちろん、『古代的なもの』『京都的なもの』「貴族的なもの」がいいことばかりではないことは、重々承知してはいるけれども、苦痛を長引かせるために鈍刀で首を斬ったり、…降伏してきた女性や子供を皆殺しにしてしまう発想は、儒教倫理を表看板にしている古代国家ではあり得ないものであった」と。

これは、「古代=京都=公家=軟弱・ひ弱=陋習=ネガティブ」「中世以降=武士=実力=身分差別なく能力主義で這い上がれる=ポジティブ」といった固定されたイメージを覆してくれるものでした。

他にも色々取り上げたいのですが、あと2点ほど。まずは、近世を執筆した大石氏によると、江戸時代は義務教育はなかったが、人々は知識に対して貪欲で主体的に勉強したといいます。その一例として、大分県日田市(天領)にあった「咸宜園(かんぎえん)」を挙げております。

これは、1817年(文化14年)、儒学者の広瀬淡窓(たんそう)が設立したもので、全国から生徒が集まり、1897年(明治30年)に閉鎖されるまでの80年間で、5000人近くの人が学んだといいます。生徒たちは何年間もここに下宿して勉強し、長州の大村益次郎も学んだ一人だったそうです。

◇吉田ドクトリン

話は飛びますが、永井陽之助(東工大教授)や高坂正尭(京大教授)らの説を引用して「現代」を執筆した宮城氏によると、戦後の吉田茂路線(ドクトリン)とは、「軽武装」と「経済」を重視する政治的なリアリズムだったといいます。

そして、1951年のサンフランシスコ講和会議に池田勇人蔵相の秘書官として随行した宮澤喜一(後の首相)は、54年に吉田が首相の座を追われて鳩山一郎政権が成立すると、危機感を持ったといいます。56年には「暴露本」のような「東京ーワシントンの密談」(中公文庫)まで出版します。その理由について、宮澤は、五百旗頭真氏らのインタビューで、GHQによって追放されていた鳩山や岸信介といった「戦前派」が復活して、彼らの信条通りの政治が実現すれば、明らかに戦前に遡ってしまい、せっかく、吉田茂や池田勇人と一緒になってつくった戦後の一時代が終わったと思ったからだといいます。

同じ自民党でも、昔は、中選挙区だったせいか、派閥があり、同じ保守でも思想信条がハト派からタカ派まで両極端な政治家が同居したいたことが分かります。

言うまでもないことですが、今の安倍晋三首相は、「戦前派」の岸信介元首相の孫に当たります。安倍首相が「戦後レジームからの脱却」を目指して憲法改正を主張するのは、遺伝子のせいなのかもしれません。

まだまだ、書きたいのですが、この辺で。

 スペイン・アルハンブラ宮殿

渓流斎上等兵、名誉の負傷で勇気ある撤退=金鑚神社参拝はまた次の機会に

本庄城址

ベルリン方面から「ミッション・インポッシブル」の指令が至急便のMP3で来ました。

映画のトム・クルーズ気取りもいいですが、これは映画ではなく、現実の指令です。都心から80分、埼玉県の本庄市に鎮座する「金鑚(かねさね)神社」は一度参拝することですね。ブログのネタになりますよ(笑)。「本殿」を設けない神体山(しんたいさん)を「本殿」とする神社は、日本広しと言えども、長野の「諏訪大社」と、奈良の「大神(おおみわ)神社」と、この「金鑚神社」の三つの神社しかありません。是非、このミッションの実行を。なお、このMP3の音声は、終了後、直ちに消去されます。。。。

うーん、スパイ映画みたいですね。

でも、私自身、本庄市は何度も通過したことはあっても、生まれてこのかた、一度も行ったことはありません。ちょっと調べたところ、市の名前の由来になった「本庄城址」もあるじゃありませんか。それに、私も大尊敬する、盲目のハンデを乗り越えて「群書類従」を編纂刊行した国学者の塙保己一(1746~1821)の出身地ではありませんか。この人、国際的にも有名で、あのヘレン・ケラーにも影響を与えたと言われてます。これは行くしかない。

しかし、高崎線本庄駅に到着して驚きました。ほとんど人が歩いておらず、駅前商店街は、今、全国的に何処でもそうでしょうが、シャッター商店街で、ほとんど開いてません。

私は無鉄砲ですから、行けばどうにかなるだろうとほとんど計画せず、行ってみましたが、観光案内所も見つからず、そのまま、北口の自転車屋さんに向かいました。レンタル自転車を借りるためです。(500円也)

私は、城好きですから、まず向かったのは、本庄城址。途中、高校生らしき少年に道を聞いたところ、市役所の裏手当たりだと教えてくれました。高校野球の熱戦も観ないでご苦労様なことでした。

城山稲荷神社

何回か、行ったり来たり、ウロウロしていたところ、城山稲荷神社の鳥居近くに看板が見つかりました。本庄城の由来は、「本庄実忠が弘治2年(1556年)に築城した平城である。云々。。。」と書いてありますから、そちらをお読みください。

この後、本庄市の「歴史民俗資料館」に立ち寄りました。何と、入場料無料。驚きました。上野の東京国立博物館で見た縄文土器と違わない立派な土器が展示されていたのです。えっ?本庄って、縄文文化もあったそんな古い土地だったんですか?

親切な64歳ぐらいの学芸員さんが出てきて「何でも質問してくだい」と言うので、「これから、金鑚(かねさね)神社に行きたいんですが」と道案内を乞うと、「そりゃあ大変ですよ。本庄市内には金鑚神社がたくさんありますけど、実は、皆、分社なんですよ。長野の『諏訪大社』、奈良の『大神(おおみわ)神社』と並ぶ本殿のない日本の三大神社の一つに行かれたいんでしょ?それは、本庄市じゃないんですよ。それは、隣町の神川町にあるんです。行政区画で、この地図は本庄市の発行ですから、ここには載ってないんです。えっ?自転車ですか?そりゃあ、無理とは言いませんけど、大変ですよ。山の方ですからここから上り坂になってますからね」と仰るではありませんか。

とにかく、決めたことですから、行くことにしました。

そば蔵「ざるそばセット」1050円

途中、主要幹線道路にあった「そば蔵」で腹ごしらえ。えらい別嬪さんが給仕してくれました(笑)。駅前商店街は寂れてましたが、皆さん、車社会なので、道路沿いには色々と食べ物屋さんは見つかりました。

さて、出発。学芸員さんの話だと、本庄駅の踏切を越えて、新幹線の「本庄早稲田駅」を越えて、関越高速道路を越えて、八高線の児玉駅まで1時間ぐらい。そこから、金鑚神社まで1時間はかかるということでした。

途中の関越高速道路の渦巻き道路に立ち塞がれて直進できず、道を間違えて迷ってしまいました。また、元に戻って、右側の歩道を走ったら、「抜け道」が見つかりました。初めて行く所は本当に大変で難所でした。

渓流斎上等兵(ポツダム伍長)名誉の負傷。軽傷ながら出血

そんなこんなで、自転車で走っていたところ、側道の溝に落ちそうになり、ブレーキをかける暇もなく、すっ転んでしまいました。痛いの何の。気が付いたら、青空が見えました。昔なら、何ともないのに、経年の結果、体力は落ちましたが、運動神経も反射神経もなくなっておりました。ズボンが破けるくらいですからね。

「こりゃあ、もう無理だな」と内心自覚しまして、ずる賢いことを考えました。「そうだ、このまま、児玉駅まで行って、そこからタクシーに乗って、金鑚神社に行ってしまえ」と。

ケガをした所から、児玉駅まで30分近くかかりましたが、駅も小さく、何と、タクシーが一台もないのですよ!

競進社模範蚕室

「仕方ない。行ける所まで行こう」ということで、途中、児玉駅近くの「競進社模範蚕室」(明治27年、木村九蔵が建設)や「塙保己一記念館」(何と、ここも無料)に立ち寄りながら、金鑚神社を目指しました。

しかし、打撲した膝は痛むし、走っても走っても、なかなか着きません。ペダルを漕ぐ力も萎えてきました。結局、自転車を返却する時間もあるので、あと数キロ手前で「勇気ある撤退」をすることを決めて、引き返すことにしました。学芸員さんの「あんな素晴らしい神社ありませんよ」という言葉が耳奥に残ってましたが、次回、汚名返上、名誉回復することにしましょう。

金鑚神社

本庄駅近くに戻って、地図だけを見て、「ここが本社」と勘違いしていた本庄市内の金鑚神社を参拝することにしました。ここは分社でしたね。

何しろ、神川町にある本家本元の本社は、欽明2年(541年)創建と言われ、天照大神と素戔嗚尊と日本武尊を祀っているというんですからね。神話ではなく、ヤマトタケルの東征の際に創建されたとされ、大和朝廷の権力が東国にまで及んでいた証左になります。

金鑚神社本殿

何度も書きますが、本庄市の金鑚神社は分社ですが、敷地も広く、格式もあり、かなり風格もありました。樹齢500年の楠木も立派でした。

皆様ご存知の関東近辺の寺社仏閣案内サイト「猫の足あと」には掲載されていないのかな、と見てみたところ、本庄市の分社は名前だけでしたが、神川町の金鑚神社(総本社)はしっかりと概要、由緒まで載っておりました。

抜かりありませんでした(笑)。

オランダ人兵士も長崎で被爆していたとは…日蘭史から

暑いですね。38度なんて、ゆで蛸になりそうですよ。

「海の日」の祝日で、何もする気がしませんでしたが、ちょと必要に迫られて、日本とオランダの交流史を調べておりました。

エポックメイキングは、やはり、関ケ原の戦いの前の1600年4月に、オランダ商船リーフデ号が、今の大分県の臼杵に漂着し、五大老の一人だった徳川家康が、その貿易商人ヤン・ヨーステンを庇護して、今の東京駅近くに屋敷まで与えて、外交顧問にしたことでしょう。

ヤン・ヨーステンがなまって、八重洲になったというのはどうやら本当らしく、東京駅八重洲地下街にヤン・ヨーステンの彫像があるようです。

よく知られているように、江戸幕府は鎖国政策を取りながら、中国とオランダだけは、長崎・出島での貿易を許可します。

何で、オランダなのか?南蛮人と呼ばれたスペイン、ポルトガルはカトリックで、オランダはプロテスタントだったから、というのが、教科書で教えてくれるところですが、今ひとつ、納得はいきませんね。

ある本によれば、特にカトリックのイエズス会は、貿易商人と同行して、奴隷貿易をやっていたようです。日本人の奴隷は、ルソン島で高く買われたようです。スペイン、ポルトガルは、中南米のインカ、アステカ帝国を滅ぼした前歴がありますからね。「伴天連追放令」を出した秀吉はそこら辺の知識や情報を持っていたのでしょう。

英国も新教ですから、なぜ、オランダかと聞かれれば、恐らく、オランダは奴隷貿易を少なくとも日本ではしなかったからではないかと推測します。

江戸時代は鎖国したとはいえ、天文学から物理学、航海術、医学、それに、レンブラントの国ですから、絵画や芸術に至るまで、西洋の科学、技術、文化がオランダを通じで入ってきたわけですから、知識人はこぞってオランダ語を勉強しました。

前野良沢、杉田玄白らによる日本初の海外医学翻訳書「解体新書」は、オランダ語訳ですし、福沢諭吉や大村益次郎らを輩出した緒方洪庵の適塾は蘭学塾でした。医者といえば、蘭方医でしたからね。

西周、榎本武揚らが(明治ではなく)幕末に留学した先は、オランダのライデン大学です。レンブラントもここで学びました。日本人初のフリーメーソン会員といわれる西周は、哲学や科学、技術などの翻訳語を産み出した人でした。

さて、一気に近現代に飛びますが、日本とオランダは先の太平洋戦争で、東インド会社、今のインドネシアの利権を巡って戦争をしました。オランダは、いわゆるABCDラインで、石油輸出を禁止して日本を苦しめました。1942年、日本はオランダ兵を含む連合軍兵を8万人以上に捕虜し、その中の一部を長崎の捕虜収容所に入れますが、そこで米軍による原爆投下により被爆した人がいたことは知りませんでした。

オランダは、BC級戦犯として、連合国の中で最も多い226人の日本人軍人・軍属を処刑しましたが、戦後かなり長い間、つい最近まで反日感情が強い国だったことも後で知りました。

オランダは現在も王国で、日本の皇室との交流を深めて、徐々に和解の道を歩んでくれたようですが、何か、複雑な話でした。

ちなみに、現在はヴィレム・アレクサンダー国王、政権は自由民主国民党のマルク・ルッテ首相。すぐ言える人はなかなかの知恵者です。

細川護熙元首相まで藤原氏の末裔だった

倉本一宏著「藤原氏」(中公新書)をやっと読了できましたので、書評ではなく、備忘録として書いてみたいと思います。

登場人物を一人一人、家系図で追いながら、いちいち人物相関図を確かめていたので、通読するのに2週間以上掛かりました。 前回書いた時は「大学院の修士課程レベル」と書きましたが、訂正します。「大学院の博士号課程レベル」でした。ここに登場する天皇、藤原氏、皇后、中宮、家系図、分家図を全て諳んじて言うことができれば、博士号取得は間違いないことでしょう。

それでは行きます。

・藤原鎌足を継いで中心に立った二男の史(ふひと)は、鎌足が亡くなった時、まだ14歳だった。幼少期は、百済系渡来人田辺氏の許で、養育された。権力取得した後は、史を「等しく比べる者がいない最高名」として不比等と改名した。

・藤原氏の礎を作った不比等の四兄弟が、その後の藤原氏の繁栄の祖を作る。(1)南家の武智麻呂(2)北家の房前(3)式家の宇合(4)京家の麻呂ーの4人だ。あいにく、この4人とも同じ疫病で亡くなった。何の疫病だったのか、この本には書かれていなかったが、洋泉社ムックの「藤原氏」には、天然痘と書いてあった。

・「御堂関白記」を残した藤原道長は、関白には就ていなかった。内覧と太政官一上(だいじょうかんいちのかみ)と左大臣のみ。天皇の外戚を利用して、摂関政治の頂点に立った。

・道長のピークはちょうど今から1000年前の寛仁2年(1018年)10月、三女威子を後一条天皇の中宮に立て、二次会の宴席で、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる事も 無しと思へば」という有名な句を詠んだ。道長の21年間に及ぶ絶対的な権力政権により、政治が安定し、女房文学の繁栄がもたらされた。(道長の末子長家の子孫が和歌を司る冷泉家)

・道長は1028年に62歳で死去。道長を継いだ頼通は、4人の妃を後宮に入れたが、皇子を儲けることが出来ず、外戚の地位を得られなかった。これが摂関政治の衰退に繋がり、院政の道を開く。道長の死後は、頼通より4歳年長の姉彰子(一条天皇の皇后で、後一条天皇と後朱雀天皇の母。紫式部、和泉式部らが仕えた)が権力を握ったが、頼通は51年間もの超長期政権を築いた。

・北家冬嗣の兄である参議真夏を祖とする日野家からは、親鸞や、室町八代将軍義政の室となった日野富子らがいる。

・北家魚名の五代目に当たる秀郷は、承平・天慶の乱を鎮圧したとして有名だが、その後、「武将の祖」と仰ぎみられ、奥州藤原氏、足利氏、北面の武士佐藤義清(西行)らを輩出する。戦国武将の大友氏、立花氏なども秀郷の子孫を自称するも確かな証拠はないらしい。

・現代の細川護熙元首相は、熊本藩主の子孫としてよく知られているが、母親温子(よしこ)は、近衛文麿の娘で、実は藤原氏の末裔でもあった!

藤原氏を知らなければ何も始まらない

ここ2週間も日本の歴史を語るときに欠かせない「藤原氏」にはまっています。

倉本一宏著「藤原氏 権力者の一族」(中公新書・2017年12月25日初版)を読み続けていますが、なかなか読了できません(苦笑)。登場する人物を一人一人、「系図」で確かめて、人間関係を確認しながら読んでいるためです。

ですから、新書と言いながら、内容は濃密過ぎるほど深く、恐らく大学院の修士課程レベルではないかと勝手に思っています。この本だけで、理解することが難しいので、洋泉社ムック「藤原氏 至上の一族の正体」まで買ってしまったほどです。これを読むと、官位制や藤原氏から分かれる「近衛」「九条」「一条」などの公家一族の流れなどが一目で分かり、とても参考になります。

この本は、本人も「はじめに」に書かれておりますが、そして、以前私もこのブログで取り上げた「蘇我氏 古代豪族の興亡」(中公新書)の続編に当たります。藤原氏は、天皇の外戚となって権力を握った蘇我氏のやり方をそのまま踏襲したことになります。倉本氏といえば、先に「戦争の日本古代史」(講談社現代新書)も読んでいましたので、その博学ぶり、碩学ぶりには感服を通り越しておりました。

倉本氏は、「古事記」はもちろん、藤原不比等が撰修に深く関わった「日本書紀」、「続日本紀」(仲麻呂)、「日本後記」(冬嗣)、「続日本後記」(良房)、「日本文徳天皇実録」(基経)、「日本三代実録」(時平)の「六国史」、「藤氏家伝」「日本紀略」…とほぼ全ての原本に当たり、想像もできないほどの文献を読破しておられるようで、まあ、とても生半可な気持ちで読んでいてはとてもついていけません。

この本の内容を一言でまとめるのはまず困難です。少なくとも言えるのは、中臣鎌子=藤原鎌足を祖とする藤原氏は、この後、1300年間も日本の支配層の中枢の中枢を占めて、歴史を動かしてきたことは事実であり、奇跡的です。途中で藤原氏が天皇に成り代わろうと乱を起こしたり、摂関政治時代は特に、藤原氏が、数多いる親王の中から次の皇太子、天皇まで決めており、何だか、「万世一系」の天皇制といわれても、実は「藤原制」ではなかったのか、と勘繰りたくなってしまったほどです。

藤原氏といえば、平安時代の藤原道長は誰でも知っているでしょうが、幕末の三条実美も、近現代の西園寺公望も近衛文麿も藤原氏の末裔と聞くと少なからずの人は驚くことでしょう。1300年間、ずっと日本を動かし続けてきたのです。

それだけではありません。平泉で栄華を誇った奥州藤原三代も藤原氏。今も名前が続いている佐藤は、左衛門尉の藤原から、加藤は、加賀の藤原から、伊藤は伊勢の藤原、後藤は備後の藤原から来ていると言われていますからね。

武将の源氏も平氏も藤原の血が流れているので、まさに藤原氏抜きに日本の歴史を語れないわけです。

本日は、ちょっと官位制についてだけ、触れます。21世紀の現代になっても、叙位叙勲の制度があることは御存知かと思います。公立の小中学校の校長や大学教授も、亡くなった後や、88歳の米寿を迎えた場合、叙位叙勲されます。

このうち、例えば、大体ですが、小中学校の校長は、「正六位」か「従六位」、高校の校長は「正五位」か「従五位」か「正六位」、大学教授は「正四位」か「従四位」辺りで叙位されます。

古代から貴族の叙位は21歳以上になると行われ、大宝律令で定められた蔭位制(高位の親のお蔭で位を引き継ぐ)によりますと、皇族の親王は従四位下からスタート。藤原氏のような超有力臣族ともなると、従五位下からスタートするのです。(親が正一位や従一位の場合)

現代の校長先生や大学名誉教授が亡くなったりした時の最高の叙位が、21歳の若者のスタート地点だったことが分かります。

簡単にこの叙位と職掌の関係で言いますとー。

正一位・従一位=太政大臣

正二位・従二位=左右大臣・内大臣

正三位=大納言

従三位=中納言

正四位下=参議

従四位上=左右大弁

正五位上=左右中弁

正五位下=左右小弁

従五位下=少納言

といった具合です。

これは、何も、江戸時代や古代、中世の話ではないのです。現代も脈々と続いているということが言いたかったのです。

だから、偽証の佐川元国税庁長官やセクハラの福田元財務事務次官らがどれくらいの位階なのか、ちょっと興味ありますねえ(笑)。