明智光秀の私怨だったのか?=日本史最大のミステリー「本能寺の変」

 日本史最大のミステリーの一つは「本能寺の変」ではないでしょうか。天正10年(1582年)6月、明智光秀が織田信長を急襲した下剋上事件です。

 光秀は重臣として「後入り」なのに、家臣団の中では最初の城持ち(坂本城)になった出世頭なのに、何故、信長を裏切ったのか? 関白太政大臣も務めた近衛前久黒幕説、羽柴秀吉黒幕説、長宗我部元親黒幕説…等々色んな黒幕説や、安土城での徳川家康の接待で粗相があったとして、信長から家臣たちの面前で叱責されて恥をかかされた恨み説などがありますが、真相は不明です。また、信長の遺体が京都・本能寺の現場から見つからなかったということがミステリーに一層の拍車をかけています。

 そんな中、10月11日付の毎日新聞朝刊の紙面で、感染症が専門の早川智日大医学部教授が、「悲劇的な最期を遂げた織田信長」というタイトルで寄稿されており、その中で「信長も降伏を申し入れて来た丹波の波多野兄弟を安土城に招いて斬殺するなど、やっていることはあまり変わりない。このとき、波多野家の城内で降伏交渉の人質になっていた明智光秀の母親が報復として殺害されており、本能寺の変の原因の一つという説もある。」と書かれていたので吃驚です。

 勿論、こちらの不勉強ではありますが、そんな話聞いたこともありませんでした。となると、色んな説がありましたが、光秀が打倒信長を決意したのは、信長の狂気のサディズムにより、結果的に母親が殺されてしまったという怨恨で、その報復に他ならないではありませんか。黒幕なんかいません。私怨です。これで決まり。でも、これまで歴史学者は何をやっていたんでしょうか?今の歴史学者だけでなく、江戸時代、明治から昭和にかけて歴史学者なら知らないはずありません。何故、この「私怨説」が定着しなかったのでしょうか?

 感染症専門の医学部の教授が知っているのに現代の歴史学者が知らないとしたらおかしな話です。

1956年創業の銀座「デリー」ターリー1200円 量多かったす。本文と全く関係ないやんけ!

 そんなわだかまりを持って、ここ数日間、過ごしていたら、たまたま、ネット上で、歴史と文化の研究所代表の渡辺大門さん(文学博士)という方が「【戦国こぼれ話】織田信長が明智光秀の母を見殺しにして、八上城の波多野氏を磔刑したのは真っ赤な嘘」と題する記事を発見しました。投稿されたのは、2年も前の2021年10月17日付です。それによると、明智光秀は波多野氏に自分の母親を人質として送り込む必要はないし、そんな事実は一次史料では確認できない、と結論づけているのです。

 渡辺氏によると、光秀の母親が殺害されたという逸話が載っている文献は、本能寺の変から100年も経った遠山信春著「総見記」(1685年頃)で、史料的に問題が多いとされる小瀬甫庵の「信長記」を元に増補・考証し、脚色や創作が随所に加えられているといいます。

 あれれれ? 光秀の母親人質殺害事件はなかったということですか? だから「なかった」ことは史実として定着し、一般人には知れ渡ることはなかったということなのでしょうか?

 何だか割り切れませんが、少なくとも、早川智日大医学部教授も毎日新聞の編集記者もデスクも、渡辺大門氏の2年前の記事を読んでいなかったことはほぼ確実です。もし、読んでいても敢えて書いたとしたら、まだ、歴史学会では、「光秀の母親、人質殺害」は一つの説として残っているということなのでしょうか?

 何だか分からない。これだから歴史は曖昧で、よく分からないですねえ。

 

姓名に五音が全て含まれていると良い事があるかも?

 日本の歴史上の人物で「三大英傑」と言えば、

 織田信長(1534~82)享年47歳

 豊臣秀吉(1637~98)享年61歳

 徳川家康(1543~1616)享年73歳

 の3人ということで、相場が決まっています。冠に「戦国時代の」と付くべきかもしれませんが、日本史上の「三英傑」と言えば、この3人で決定しても差し支えないでしょう。

 この3人の中で人気度で言えば、恐らく、信長が一番でしょう。続いて、秀吉、最後が家康。多分、家康は「たぬきじじい」の陰口通り、如才がない陰謀家のイメージが焼き付いているからでしょう。

 しかし、信長は、最も信頼していた家臣明智光秀に裏切られて、47歳で自刃し、天下統一一歩手前の志半ばで終わっています。

 秀吉の晩年は猜疑心の塊で、無謀な朝鮮出兵を繰り返し、秀頼に家督を譲って、末代まで豊臣政権安泰を構想しましたが、家康によって、秀吉自ら神として祀られていた豊国神社や奈良の大仏(15メートル)より大きい京都大仏(19メートル)まで破壊され、歴史上から抹殺されようとしました。

 その点、家康は、戦国の世を収めて、260年も続く徳川政権を樹立することに成功しました。治水も含め、風水に基づいた都市整備(江戸城の鬼門に寛永寺、裏鬼門に増上寺、その他、周囲に目黒、目白などの不動尊を配備)、徳川家が断絶しないよう「御三家・御三卿」の創設や「大奥」などを設置し、金地院崇伝や天海上人、三浦按針らのブレーンを側に配置して、自ら亡き後の100年後、300年後を見据えて計画しています。「長寿こそ天下取りの秘訣」を熟知していた家康は「健康おたく」で、自ら薬草園をつくって、薬を調剤するなどしていたといわれます。

 もしかしたら、後世に影響を与えた最重要人物として、たった一人を挙げよと言われれば、この徳川家康になるかもしれません。私は一票を入れます(笑)。

 さて、この徳川家康という名前ですが、実は、「とくがわ・いえやす」の発音の中に「あいうえお」と五音が全て揃っているのです。織田信長には「い」と「え」がありません。豊臣秀吉には「あ」と「う」がありません。これは、単なる姓名占いかゴロ遊びではありますが、「そっかー」なんて思ってしまいます。

 ところで、このブログ《渓流斎日乗》の主宰者は、高田信之介(たかた・しんのすけ)と言います。これは、世を忍ぶ仮の姿と言いますか、諱(本名)ではなく、筆名ですが、驚くべきことに、何と、この筆名には偶然にも「あいうえお」の五音が全て含まれていたのです。「やったー」です。

 だから、何なの?と言われてしまいそうですね(苦笑)。失礼しました~。

織田信長も見たのか「皆既月食+惑星食」?=442年ぶりの「天体ショー」

  昨日(11月8日)の夜は、皆既月食の最中に、天王星が月でその姿が隠れる惑星食も442年ぶりに起こる「天体ショー」が奏でられ、世間は大騒ぎでした。

2022年11月8日午後6時56分

 野次馬の私も勿論、自宅で観覧致しました。

2022年11月8日午後7時15分

 私は、都心から離れた高層長屋に住んでおりますが、空気は都会より澄んでおり、しかも、自宅の天守閣では群衆から誰にも邪魔されず、悠々と眺めることが出来ました(笑)。

2022年11月8日午後7時16分

 マスコミは、「皆既食中に、天王星食のような惑星食が見られるのは442年ぶり」「天王星食は4000年以上なかった」「次回は322年後の2344年の土星食」(国立天文台)などと報じていました。

 322年後に生きている今の人類は確実にいないと思われますから、茲では442年前の話をー。

 前回は、1580年7月26日(土星食)だったというのです。日本は天正8年、安土桃山時代です。この2年後の1582年に「本能寺の変」が起きるので、織田信長の全盛期と言えます。信長拠点の安土城は4年前の1576年に完成しているので、もしかしたら、信長は安土城の天守から見たかもしれません。この時、信長46歳。羽柴秀吉は43歳。徳川家康は37歳(いずれも満年齢)となります。

 当時の史料が残っているのかどうか、分かりませんが、信長は安土城下に家臣を住まわせていたので、もしかして、家臣と一緒に眺めたかもしれません。

2022年11月8日午後7時16分

 でも、当時は、予告してくれるメディアもなかったし、望遠鏡も南蛮から手に入ったのかどうか…。そもそも、望遠鏡は、1608年にオランダのリッペルスハイによって発明されたと言いますから、1580年の時点では存在していなかったことになりますね。

 とはいえ、偶然に、月の満ち欠けに遭遇して、色が赤っぽく変色する月を「何じゃ、こりゃあ~」と見ていたかもしれません。ま、そういうことにしましょう(笑)。

2022年11月8日午後8時43分

 ちなみに、1580年は、スペイン国王フェリペ2世がポルトガルを併合した年です。この8年後の1588年にスペイン無敵艦隊が、アルマダの海戦で英蘭連合艦隊に大敗したことで徐々に国力が衰えていきますから、この年はスペインが世界一の覇権大国だったと言えます。でも、「皆既月食+土星食」は日本でしか見られなかったのかしら?

2022年11月8日午後8時31分

 何もよく分かっていないのに、ブログを書くべきではありませんね。このブログを読んだ322年後の人類に笑われてしまいますよね。(東京~新潟より東、つまり東北、北海道辺りでは、天王星食までは見られなかったようです。)

 ともかく、いずれにせよ、私は、今回、442年ぶりの歴史的瞬間の現場に立ち合った気分になれました。

上総介の本当の意味とは?=「鎌倉殿の13人」の上総広常

  相変わらず、「歴史人」7月号の「源頼朝亡き後の北条義時と13人の御家人」特集を読んでいます。複雑な人物相関図なので、真面目にこの本を、他の本に掲載されている系図などを参照したりして読むと、読了するのに2~3週間は掛かる情報量があります。

 鎌倉幕府と中世史に興味が湧いたのは、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の影響です、と以前、このブログでも書きましたが、正直、ドラマは見ていてつまんないですね。戦記物の話なのに、三谷幸喜の脚本は、橋田壽賀子のファミリードラマみたいだからです。源平合戦のドラマなら、以前なら必ずといって良いぐらい出てきた、例えば、那須与一の扇の弓射だとか、熊谷直実と平敦盛との一騎打ちだとか、「見るべきほどのことは見つ」と壇ノ浦の戦いで最期の言葉を残した平知盛とか、奥州平泉の戦いでの弁慶の立ち往生などは、ワザとらしく、ことごとく故意に省略しおります。本人は、革新的に描いたつもりのようですが、画竜点睛を欠きますね。見たくもない親子、きょうだい間や御家人同士の嫉妬や憎しみ合いを重視している家族劇、心理劇を見せつけられている感じがします。

 そもそも三谷さんは合戦シーンを書くのが苦手なようです。6年前の「真田丸」でも重要な関ケ原の戦いの合戦場面が全く出て来ないので唖然としました。合戦シーンは人馬が多く登場し、ロケに莫大な費用が掛かります。となると、制作費が少なくて済む三谷さんは、「NHK泣かせ』ではなく、「NHK喜ばせ」です(笑)。だから、何度も大河ドラマの脚本家に指名されるんでしょうね。

 批評はこれぐらいにして、「歴史人」に戻りますと、87ページにこんな記述があります。

 (上総)広常は「介(すけ)」を称する地方官人で、受領(国司)からすれば使用人レベル。京にあっては院のそば近くにも寄れない卑小な存在。…

 と書かれていますが、何かの間違いではないかと思います。何故なら、上総国は、そのトップの長官職に当たる「守(かみ)」には皇族が任命されるからです。つまり、上総守は名誉職で、実際は次官に当たる上総介がトップだからです。ですから、「上総介が使用人レベル」という言い方はどうかなあ、と思うわけです。(それに、上総広常は2万騎の兵を引き連れて、頼朝に従った大豪族でした。)

 このような、トップに皇族が任命される国は、他に上野、常陸などがあり、「親王任国」と呼ばれます。皇族が実際に地方のトップとして任地に赴任する場合は少なく、実体は、その次官の上野介や常陸介がトップになるわけです。(古代より四等官は「守(かみ)」「介(すけ)」「掾(じょう)」「目(さかん)」の順です、)

 ですから、歴史上、忠臣蔵で有名な吉良上野介や幕末の小栗上野介は出てきても、何とか上総守や上野守や常陸守は見かけないわけです。

 上総介といえば、戦国時代の織田信長がこの上総介を称していました。実際、信長の織田家は、地方の領主からやっと尾張守護代にまで這い上がって来た「成り上がり者」に過ぎません。(その当時の尾張守護は斯波氏)。何故、信長が上総介と称したのかというと、尾張守護代より上総介の方が格上だと思ったからだという説があります。私もそう思います。

 と思ったら、ネット情報ですが、こんな記事が出てきました。 

 桓武平氏の祖である高望王が平姓を賜った直後、上総介に任官し、「坂東平氏」が始まります。高望王の長男国香、次男の良兼、また五男良文の孫で、「平忠常の乱」で知られる忠常も上総介を名乗っていました。ということで、坂東平氏にとって「上総介」とは、平氏一門の総領格を意味しました。(一部換骨奪胎)

 なるほど、そいうことでしたかあ。

 信長の本名は、「平朝臣織田上総介三郎信長」というのだそうです。織田家は平氏の末裔を自認しているので、坂東平氏のトップである棟梁の意味を込めて上総介を自称したということかもしれません。

 ちなみに、徳川家康は新田氏の末裔を自称したので、源氏です。新田氏は、源頼朝と同じ河内源氏の流れを汲み、鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞が最も有名です。

 以前、日本近世史の専門で2年前に亡くなった山本博文・東大史料編纂所教授の本を読んでいたら、江戸時代になると、大岡越前守とか吉良上野介とかいう役職は必ずしもその実態が伴うものではなく、「官職」として売買され、自分の好きな国の守や介を自称できたというのです。ただし、江戸城がある武蔵国の守や介は「畏れ多い」ということで自称も他称もできなかったようです。

 あ、そうそう、大老職も本来、老中を長年務めた人の名誉職だったようで、井伊氏の大老職も、田沼意次から買った、と山本博文の著書(何の本だったか失念)に書かれていました。

 いつの世も、「金次第」ということなのかもしれません。

 

「本能寺の変」の謎が解明した?

 古代史に回帰したと思ったら、もう戦国時代に戻ってしまいました(笑)。

 また、例の週刊朝日ムック「歴史道」最新号が「本能寺の変」を特集していたので、迷わず買ってしまったのです。

 この本の発売日が1月6日。その2日前の1月4日の朝日新聞の朝刊一面に大スクープが掲載されました。何と、「明智光秀は、本能寺に行っていなかった?」という衝撃的な新事実が発見されたのです。明智光秀が最も信頼していた家臣の斎藤利三(としみつ、1534~82年、春日局の父、山崎の戦いの後、捕縛され処刑、絵師海北友松の親友)と明智秀満(左馬助、1536~82年)率いる先発隊2000余騎が本能寺を襲撃し、光秀本人は、本能寺から南約8キロの鳥羽に控えていたというのです。

 えっ? それなら、「敵は本能寺にあり!」と、軍配を寺に向けて突進した明智光秀の姿は、講談のつくり話だったんですか? 講談師、見てきたような嘘を言う、とは昔から言われてきました(笑)。

 「明智光秀が本能寺に行かなかった」と証言したのは、実際に本能寺の変に参戦した斎藤利三の三男利宗(としむね、1567~1647年、当時数えで16歳)だったということですから、かなり信憑性があります。(加賀藩の兵学者関屋政春著「乙夜之書物(いつやのかきもの)」上巻(1669年)の中で、斎藤利宗が甥で加賀藩士の井上清左衛門に語ったというもの)

 この「歴史道」では、本能寺の変に関する歴史的史料を「一次史料」「二次史料」と区別して列挙していますが、勿論、この「乙夜之書物」は、雑誌の締め切りの関係で入っていません。が、後世に書かれた「二次史料」とはいえ、信憑性は高いでしょう。斎藤利宗が、江戸の平和な時代になって甥に嘘や出鱈目を語って何の得になるのでしょうか。

 織田信長に関する評伝で最も有名な歴史的史料は、太田牛一著「信長公記」ですが、これは後世になって一次史料を参考にして書かれたもので、二次史料に分類されていました。一次史料で重要なものの一つに、光秀と深い親交のあった吉田神社の祀官だった吉田兼見が残した「兼見卿記(かねみきょうき)」があり、そこに光秀本人が本能寺を急襲したように書かれていたため、後世に影響を与えたようです。

 しかし、吉田兼見自身が本能寺近くに行って見たわけではなく、あくまでも伝聞で書いたといいます。となると、実際に本能寺の変に参戦した人物である斎藤利宗の証言の方が真実ではないでしょうか?

 この本でも、小和田泰経氏は「たかだか1町(約109メートル)四方の寺院を取り囲むのに大軍は必要ない。(明智光秀は)全軍(1万3000~2万兵)で本能寺を攻めたのではなく、残りは七口と称される京都の出入り口を押さえていたのであろう」と書いてあるので、光秀本人が「現場」に行かなかったことは、十分あり得る話なのです。

本能寺跡

 光秀は、直接、主君信長に手を掛けたくなくて本能寺に行かなかったとしたら、彼の性格が伺えます。この本では、本能寺の変を起こした光秀の動機について、「怨恨説」「黒幕説」「野望説」など色々書かれていますが、私は、一つじゃない「複合説」を取ります。信長の古くからの重臣である宿老の佐久間信盛が追放され、滝川一益は伊勢長島(三重県桑名市)から上野厩橋(群馬県前橋市)に国替えさせられるなど、信長は世代交代を始めた。光秀も、せっかく坂本城、丹波亀山城を苦労して治めることができたのに、次は俺の番か、と危機感を持ったこと。四国長宗我部元親との交渉役を外されたこと。それに、中国毛利軍と戦っていた羽柴秀吉の与力(配下、つまり格下げ)になることを命令されたことなどから、将来を悲観して、中国地方に向かわず、変を起こす4日前(1582年5月28日、本能寺の変は6月2日早朝、当時陰暦で5月は30日まで)に急に決断して、緻密な完璧主義者の性格の光秀には似合わず、無計画に性急に、そして杜撰に事を進めていったのではないかと思います。

 考えてみれば、本能寺の変は、わずか439年前の出来事です。古代史と比べれば、つい最近のことです。これからも、信頼できる史料が出てくれば、どんどん謎も解明していくのではないでしょうか。

【追記】

 本能寺の変の第一次史料「兼見卿記」を書いた吉田神社の祀官吉田兼見(兼和)は単なる神官ではなく、公家であり、朝廷(正親町天皇)と光秀との仲介役だったんですね。光秀は、本能寺の変の後、大津に向かい、粟田口で吉田兼見と対面しているといいます。それどころか、変から5日後の1582年6月7日、吉田兼見は、光秀が占拠した信長の居城安土城に派遣され、光秀を信長に代わる権力者として認める朝廷の意向を光秀に伝えたといいます。

 これだけ、光秀に直接会っているなら、吉田兼見は本能寺の変の真相を本人から聞いていたはずなのに、具体的に書かなかったのは、光秀から口止めされていたのか? 態と書かなかったのか? やはり、謎は深まるばかり…。

名こそ惜けれ=戦国武将の死生観

最近、どうも個人的な関心が「戦国時代」づいています。日本の歴史の中で、戦国時代を知らなければ、江戸時代のことが分からないし、江戸時代のことを知らなければ、現代も分からない、とこじつけみたいな話ですが、戦国時代のことを知ると、何か、日本史の舞台裏と政略結婚による人脈が分かるような気がして、爽快な気分になれるのです。

 ということで、また「歴史人」(KKベストセラーズ)1月号を買ってしまいました。「戦国武将の死生観」を特集していたからです。いつも死と隣り合わせで生きてきた戦国武将の遺言状や辞世の句などが載っていますが、不運にも討ち死にしたり、処刑されたりする武将がいる一方、当時としては恐るべき長生きした武将もいたりするので、大変興味深かったです。

 最初に「戦国大名 長寿ランキング」を御紹介すると、1位が真田信之の93歳、2位が島津義弘の85歳、3位が尼子経久と宇喜多秀家の84歳、5位が細川忠興の83歳…となっています。各武将、色んな逸話がありますが、1位の真田信之は、有名な真田幸村のお兄さんです。関ケ原では、真田昌幸・信繁(幸村)親子が西軍についたのに対して、信之は徳川方の東軍について、戦後、父昌幸の上田城を与えられ、元の沼田城主と合わせて6万8000石の大名になった人です。当時としては信じられないほど長寿である数えの93歳まで生きましたが、30代から病気がちの人だったらしいですね。

 真田藩は元和8年に上田から松代に移封されますが、幕末にこの藩から佐久間象山を輩出します。

 3位の宇喜多秀家は84歳で亡くなりますが、後半の約50年間は八丈島で過ごし、そこで亡くなっています。備前・美作の大名で、豊臣秀吉の五大老にまで昇り詰め、関ケ原の戦いでは西軍に属して敗退し、島流しになったわけです。前田利家の娘を娶ったことから、島流しの間は、密かに前田藩からの援助があったと言われています。勿論、皆さん御存知の話ですが。

 また、「戦国武将の滅びの美学ランキング」で、1位を獲得したのは松永久秀です。以前なら、主君三好氏に反逆し、将軍足利義輝を殺害し、東大寺大仏殿を焼き打ちした極悪非道の、下克上の典型的な悪人のイメージがありましたが、最近では、随分見直されてきたようです。将軍義輝暗殺事件の際は、久秀は大和の国におり、直接関与せず、大仏殿の焼失は三好方の放火だったいう説が有力になってきたからです。

 久秀の最期は、天下一と称された「平蜘蛛の茶釜」とともに信貴山城で、織田軍に抵抗して爆死したと言われますが、茶器、刀剣、書画などの目利きという一流の文化人でもありました。いつか、彼が築城した多聞城趾に行きたくなりました。

 戦国時代の「天下分け目」の最大の合戦は、関ケ原の戦いですが、盟友石田三成に殉じて自害した大谷吉継の逸話が印象的です。西軍に属していた小早川秀秋らの裏切りで、吉継軍は壊滅しますが、吉継は自害するときに「(小早川秀秋は)人面獣心なり。三年の間に必ずや祟りをなさん」と秀秋の陣に向かって叫び、切腹したといいます。

 小早川秀秋は、秀吉の正室ねね(北政所、高台院)の兄木下家定の息子、つまり甥に当たる人物で、毛利元就の三兄弟の三男小早川隆景に後嗣がいなかったため、その養子になった人でした。秀秋は関ケ原の戦いの2年後に21歳の若さで急死したので、「大谷刑部の祟り」と噂されたのでした。

 勿論、皆さま御存知の話でしたが、この本にはまだまだ沢山色んな話が出てきます。山崎の戦いで秀吉軍に敗れた明智光秀が、近江の坂本城に戻ろうと逃げた際に残った従者に溝尾茂朝(みぞお・しげとも)や進士貞連(しんじ・さだつら)らの名前が出てきて、随分、マニアックながら、私なんか「武士は死して名を残す、というが凄いなあ」と思ってしまいました。

 あまりにも戦国武将の逸話を読み過ぎると、「中学時代の友達だった南部君は、南部藩主の末裔だったのかなあ?」とか、「古田って、あの古田織部の子孫かな?」「立花さんは、立花宗茂の子孫かなあ?」なぞと、勘繰りたくなってしまいました(笑)。

 豊臣秀吉の一族は、大坂の陣で滅亡したことになってますが、織田信長の一族は現代にも子孫は続いてます。何しろ信長には11人(12人説も)男子がいました。信長の嫡男信忠は、本能寺の変の際に討ち死にしましたが、信長の弟の長益(有楽斎)や二男信雄らの子孫は生き残り丹波柏原藩主などになりました。

 そう言えば、元フィギュアスケート選手の織田信成さんは直系の子孫ともいわれています。

 当然の話ながら、遠い遥かな戦国時代が現代と繋がっています。

【追記】

 19日のNHKの番組で、「関ヶ原の戦い」の新発見をやってました。空撮による最新技術で赤色立体地図を作成したところ、本丸が一辺260メートルもある巨大な山城「玉城」が山中(地名)に発見されたのです。恐らく、ここが西軍の本陣の陣城で、豊臣秀頼か総大将の毛利輝元の数万の部隊を配置する目論見だったらしいことが分かりました。文献に出てこないのは、勝った徳川側からしか関ヶ原の戦いが描かれていないからでした。

 当時、8歳の秀頼は、母親の淀殿と秀吉の正室の北政所の庇護下にあり、淀殿も北政所も必ずしも西軍や石田三成側に立っていたわけではなかったようでした。だから、寝返った小早川秀秋も、調略を進めていた東軍の黒田長政も、北政所から養育され、北政所だけに忠誠心があったため、小早川が寝返ったのは、北政所の意向に沿ったことが真相のようでした。新説です。

毛利輝元は、関ケ原の戦いのどさくさに紛れて、九州、四国に領土拡大を図り、大坂城から一歩も動かず。南宮山に陣取った輝元の養子の毛利秀元も、徳川軍勢を見過ごすなど最初から西軍のために戦う気がないような怪しい動きばかりしていました。

 毛利と島津義弘が真面目に戦い、淀殿と北政所が西軍に協力的だったら、必ず西軍が勝っていた戦いでした。

 これだから歴史は面白い。

哀れ、明智光秀の最期=ムック「戦国争乱」

 コロナ禍で、結局、休日は「我慢の三連休」になってしまいました。ひたすら、家に閉じこもって勉強をしていました。何の勉強ですかって? フリーランスの個人事業主として必須の簿記関係です。訳が分からなくなって、ここ数カ月、何度も何度も匙を投げ出したくなりました。まさか、この年まで受験生のような勉強をさせられるとは夢にも思っていませんでした。今でもよく分からず、フラストレーションが溜まります。

 そんな勉強の合間、気分転換に読んでいるのが、中央公論新社のムック「戦国争乱」です。今、個人的にも戦国時代への関心、興味が深まっているので、この本は異様に面白いですね。信長、秀吉、家康を中心に「桶狭間の戦い」から「大坂の陣」までの代表的な18の合戦と60人の武将を徹底的に分析しています。何と言っても、戦国時代を日本史の狭いジャンルに閉じ込めることなく、世界史的視野で位置付けているところが、この本の醍醐味です。

 今年6~7月に放送された「NHKスペシャル 戦国~激動の世界と日本~」で、私も初めて知ったのですが、スペインの国王フェリペ二世は、宣教師を「先兵」に使って、日本をメキシコやフィリピンなどと同じように植民地化することを企んでいたといいます。この点について、この本でも詳しく触れられていて、清水克行明大教授によると、日本でのイエズス会の目的は二つあって、一つは純粋なキリスト教の布教。もう一つは、軍事大国日本を先兵にして中国・明の植民地化にあったといいます。イエズス会の創設者の一人イグナティウス・デ・ロヨラは、元々軍人でしたからね。本当は、日本を最初に植民地にする予定だったのが、自前で何万丁も火縄銃をつくってしまう世界最大級の軍事大国だった日本を攻め落とすことができないことを宣教師たちには早々に分かったようで、究極の目的の中国植民地化に切り替えたのでしょう。

 純粋な布教を目指したのは、宣教師ザビエル、巡察師バリニャーノ、司祭オルガンティーノらでした。彼らは、中国植民地化で政治利用を図った日本布教長のカブラル、日本準管区両長コエリョ、司祭フロイスらとの間で確執があったといいます。

 また、昨日22日のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」でもやってましたが、あの歴史的な織田信長による「比叡山焼き討ち」についても詳しく解説してくれています。テレビでも、主人公の明智光秀は、比叡山焼き討ちは、信長の命令で不本意にも仕方なく参戦したように描かれていましたが、この本では違っていました。光秀は積極的に参戦したというのです。

 近年、明智光秀が大津市の土豪和田秀純に送った書状(1571年9月2日付)が見つかり、光秀は内応を約束した秀純には前日の戦勝を報告する一方、敵対する仰木村の民は皆殺しにすると記していたといいます。

 光秀はこの時期、足利将軍家と織田家の両方に仕え、どっちつかずの状態だっため、比叡山焼き討ちに積極的に参戦して、織田家臣として手柄を立てたかったのではないかと推測されています。実際、光秀は信長からその武功を認められ、焼き討ちした坂本の領地を与えられます。

 私も、実際、「明智光秀ゆかりの地」を訪ねて、今月初めに坂本城跡や光秀の菩提寺である西教寺に行ってきたばかりなので、文字だけで想像力が湧きました。

 本能寺の変の後の天下分け目の「山崎の戦い」で羽柴秀吉軍に敗れた明智光秀は、大津の坂本城に逃げ帰る途中の京都市伏見区小栗栖の「明智藪」で、落ち武者狩りの農民によって殺害されます。秀吉は、確保した光秀の首を本能寺の焼け跡に晒し、次いで首と遺骸をつないで粟田口で大罪人を示す磔にしたと、この本に書かれていました。

 この部分を引用することはやや逡巡はしましたが、冷酷な戦国時代の実相だと思われ、敢えて引用しました。明日にも露のようにそこはかとなく消えてしまう命のやり取りをしていた戦国武将と比べれば、今のような平和な時代に生まれた現代日本人の悩みなど本当に取るに足らないものなのかもしれませんね。何度も書きますが、戦国時代に生まれなくてよかった。

「戦国武将の国盗り変遷マップ」が面白い=「歴史人」

 今、とてつもない本を読んでいます。本というより雑誌ですが、永久保存版に近いムックです。「歴史人」という雑誌の11月号(KKベストセラーズ)で「戦国武将の国盗り変遷マップ」という題で特集しています。本屋さんでたまたま見つけました。(執筆は小和田哲男静岡大名誉教授ら)

 知らなかったことが多かったので勉強になります。私は、全国の「お城巡り」を趣味にしているので、大変参考になります。

 私自身の見立てですが、日本の歴史の中で、最も興味深い時代は、何と言っても「戦国時代」だと思っています。だから、多くの作家が戦国ものをテーマにしたり、NHK大河ドラマでもしばしば扱われたりするのです。人気面でも戦国時代がナンバーワンでしょう。これに続くのが、「幕末・維新」と「古代史」でこれでベスト3が出そろった感じです。

 そう言えば、「維新の三傑」と言われた人物でも、やはり戦国時代の信長、秀吉、家康の三巨頭と比較されると見劣りします。人間的スケールの大きさが違います。殺すか殺されるか生死の境目で生きざるを得なかった過酷な時代背景が戦国時代の英傑を産んだともいえます(幕末もそうですが)。勿論、個人的には一番生まれたくない時代ですけれど(笑)。だからこそ、憧れのない代わりに、そんな過酷な生死の境を生き抜いた英傑には感服してしまうのです。

 戦国時代とは、応仁の乱(1467年)から大坂の陣(1615年)までの約150年間を指します。まさに下剋上の時代で、食うか食われるかの時代です。臣下にいつ寝首をかかれるか分かりません。本書は「戦国武将の国盗り変遷マップ」と称していますから、時代ごとの勢力地図が示されて、その分布が一目で分かります。

 例えば、小田原北条氏の三代目氏康は、1546年の河越合戦(埼玉県川越市)で勝利を収め、扇谷上杉氏を滅亡させ、古河公方や関東管領家を弱体化することによって、ほぼ関東全域の支配権を確立します。しかし、氏康は1559年に氏政に家督を譲った後は、上杉謙信の侵攻に悩まされ、一時期は、北条氏の関東の領土は奪われて半減したりすることが、マップで一目瞭然で分かるのです。(氏政は後に奪還して北条氏の最大の領地を拡大しますが)

 内容は大学院レベルだと思います。私が学生時代に習った北条早雲は、出自の分からない身分の低い成り上がり扱いでしたが、実は、室町幕府の申次衆という高い身分の伊勢氏出身で、最近(とは言っても数十年前)の研究で、伊勢新九郎盛時(伊勢宗瑞)だったことが認定されました(北条に改名したのは二代目氏綱から)。早雲の姉(または妹)の北川殿が駿河の守護今川義忠に嫁いだことから、早雲も京都から駿府に下り、家督争いになった今川氏のお家騒動に積極的に関わり、氏親~義元の擁立に貢献します。戦乱の絶えない世で、今川家の軍師として活躍し、後に小田原を中心に、今川家をしのぐ領土を拡大していきます。

 一方、九州の戦国武将は、島津氏や大友氏、大内氏ぐらいしか知りませんでしたが、佐嘉(佐賀)城を本拠地にした龍造寺氏が北九州で勢力を誇り、一時「三国鼎立」時代があったこともこの本で知りました。特に、龍造寺隆信(1529~84)は「肥前の熊」の異名を取り、少弐氏(冬尚)を下剋上で倒し、大友氏を破り、島津氏と並ぶ勢力を築きましたが、島津・有馬氏の連合軍との沖田畷の戦い敗れ、滅亡します。(代わりに肥前を治めたのが、龍造寺氏の重臣だった鍋島氏。ちなみに、お笑いの「爆笑問題」の田中裕二氏の祖先は、この龍造寺氏の家臣でしたが、敗退後に田中氏は武士をやめて帰農したことをNHKの番組でやってました)

 また、他の日にNHKで、専門家による戦国時代の最強武将を選ぶ番組をやってましたが、九州一の武将は立花宗茂が選ばれました。えっ?誰? 彼は大友家の猛将、高橋紹運の長男で、同じく大友家の重臣立花道雪の養子になりましたが、関ヶ原の戦いでは西軍に就いたため、改易されました。しかし、余程人望が高かったのか知略を怖れられたのか、二代徳川秀忠の時代に筑後柳川城主に復帰します。でも、この人、この雑誌ではちょこっとしか出て来ないんですよね。大きく取り上げられているのが、島津家の領地を拡大した島津4兄弟の義久と義弘です。この2人なら、さすがの私でも知っています。

 日本史上最大、最高の「成り上がり」は、武士でもない庶民から関白の地位にまで上り詰めた豊臣秀吉でしょうが、織田信長も、尾張の守護斯波氏の守護代の家臣からの成り上がりで、徳川(松平)家康も、三河の守護細川氏の家臣からの成り上がりで、名を残した戦国大名のほとんど(毛利元就、松永久秀らも)が室町時代の権威(守護職)を下剋上で倒して成り上がったことがよく分かります。

 ついでながら、前半で、畠山政就⇒畠山義就、細川勝元⇒細川政元といった明らかな単純ミスが散見し、どうなるかと思いましたが、それ以降はあまり誤植もないようです。

歴史を塗り替える新事実には驚くばかり=Nスぺ「戦国~激動の世界と日本~」

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

いやあ、これまでの歴史観が百八十度引っ繰り返ってしまいましたよ。「これまで自分は、何の歴史を学んできたんだろう?」と呆然とするぐらいの衝撃がありました。 

 今年7月11日に放送されたNHKスペシャル「戦国 ~激動の世界と日本~」第1集「秘められた征服計画 織田信長×宣教師」と第2集「ジャパン・シルバーを獲得せよ 徳川家康×オランダ」のことです。

 恐らく皆さんは御覧になったと思いますが、私は見ていませんでした。でも、心優しい友人たちが録画したDVDを貸してくれました。本当に驚きました。見ていて何度も「そういうことだったのか」と膝を打ち、解けなかった複雑なジクソーパズルが繋がった感じがしました。

 「新発見で迫る戦国日本の真実」と銘打っていますから、歴史学者さえも知らなかったことかもしれません。とにかく、バチカンにあるイエズス会ローマ文書館に所蔵されている初公開の宣教師文書やオランダ国立公文書館が所蔵する「世界初の株式会社」と言われているオランダ東インド会社の平戸オランダ商館文書などの記録や報告書から、これまでの歴史を塗り替える新真実が発見されたのです。

 日本の戦国時代とは、応仁の乱が始まる1467年から、徳川家が豊臣家を滅亡させて全国統一を完成させた大坂の陣の1615年までの約150年間のことを指しますが、単なる狭い国土での内戦に過ぎないかと思っていたら、実は、当時世界最大の帝国スペイン(旧教)と新興国オランダ(新教)との代理戦争の側面があったという驚くべき事実があったのです。グローバリズムは20世紀末に始まったわけではなく、東インド会社の登場の17世紀初頭から始まっていたのです。シカゴ大学のケネス・ポメランツ教授が指摘するように、「戦国時代の日本は、まさに世界史の最前線にいた」のです。

◇スペインの日本征服計画

 第1集の「秘められた征服計画」では、スペインが宣教師を先兵というか、隠れ蓑にして、いや、諜報機関として日本人を洗脳して、挙句の果てには植民地として征服してしまおうという計画があったことが、宣教師から国王フェリペ2世への報告書などで浮かび上がります。フェリペ2世は、「征服王」の異名を持つ野心家です。スペインは、宣教師を先兵にして中南米からアジアにかけて広大な植民地を獲得してきました。

 しかし、戦国時代の日本は、世界でも稀に見る軍事大国で、メキシコやペルーやフィリピンのように簡単に植民地化できないことから、最終目的である中国の明を日本の軍事力を利用して征服するという計画にひとまず変わっていきます。

 宣教師たちは、戦国大名の中でも飛ぶ鳥を落とす勢いでのし上がってきた尾張の弱小国の織田信長に目を付けて取り入ります。その情報収集能力と先見の明は大したものです。これではスペインではなくスパインです(失礼しましたあ)。信長もスペインの持つ銃などの武器が欲しいので宣教師たちを利用します。信長は宣教師たちを通して得た最新鋭の銃を使って、長篠の戦い(武田家が滅亡)や石山本願寺での戦い(仏教勢力が衰退)に打ち勝ち天下統一に近づきます。一方で、宣教師たちは、キリシタン大名高山右近(摂津)らに信長に参戦するよう働きかけていたのです。

 この間、日本は世界でも稀にみる軍事大国になり、鉄砲は西洋より性能が良い国産化に成功します。(弾丸の鉛はタイの鉛鉱石の鉱山から発掘されたものだったことにも驚きました) 

 信長が本能寺の変で亡くなった後、宣教師たちは逸早く、豊臣秀吉に接近します。しかし、秀吉の方が一枚上手で、スペインより先に明への遠征を企み、その前に朝鮮出兵します。しかも、小西行長らキリシタン大名を最前線に送り、彼らの弱体化を図り、バテレン追放令まで出します。さらに、秀吉はフィリピンに密偵を派遣し、スペインの富を強奪する企みまでし、宣教師たちに「秀吉は傲慢と野心の塊」と報告書に書かせます。番組では触れてませんでしたが、秀吉がバテレン追放令を出した背景には、宣教師が日本人を奴隷にしてルソン島に運ぶ奴隷船の先兵になっていたことを見抜いていたからだという説もあります。

 ◇大坂の陣はスペイン対オランダの代理戦争

 第2集の「ジャパン・シルバーを獲得せよ」では、当時の日本は銀山王国で、佐渡銀山では多い時は年間100トンと世界の産出量の3分の1もの大量の銀を産出していたという驚くべき事実が明かされます。これまで「日本は資源が出ない」と教えられてきたので、引っ繰り返るほど驚きました。

 この銀に目を付けたのが、スペインとの独立戦争を戦っていた新興国オランダでした。東インド会社のジャック・スペックス商館長は徳川家康に接近し、オランダは、スペインのような布教や領土獲得の野心はなく、ただ貿易による利益を追求したいだけだと説得して、家康の望む大量の武器弾薬を売りつけます。これらの武器が関ケ原の戦いや大坂の陣などに使われます。特に大坂の陣では、大坂城の豊臣秀頼側にスペインが付き、まるでオランダとスペインとの代理戦争の様相を呈します。最後は、徳川方がオランダ製のカノン大砲を500メートル離れた遠方から大坂城を攻撃して勝利を収めます。この大砲購入により、銀貨1万2000枚分、重さ97トンもの銀が日本からオランダに渡り、オランダがスペインとの独立戦争に打ち勝つ原動力になったのです。

◇日本初の外人部隊か?

 話はこれで終わらず、オランダとスペインの「植民地争奪戦争」は続き、特に、スペインが支配していた現インドネシアのモルッカ諸島へ、何と日本人のサムライが傭兵として派遣され、オランダがスペインの要塞を奪取した様が、オランダ国立公文書館の報告書に出ていたのです。そこには、積荷リストとして、火縄銃や刀、槍のほか、「ユウジロウ 月7万2000円(換算)、ヤサク 月7万2000円、ソウエモン 月8万8000円」などと日本人の名前とその月給まで書かれていたのです。

 戦国の時代が終わり、仕事がなくなった武士(サムライ)たちが海外に職場に求め、スペインの要塞を陥落させ、オランダ人からは「スペインを駆逐するのに日本人傭兵が大いに役立った」と報告書の中で言わしめていたのです。

 このほぼ同時代に、欧州では三十年戦争(1618~48年、哲学者デカルトも参戦)があり、オランダが勝利し、スペインが敗れて衰退するきっかけとなりますが、この時オランダが使った大砲の銅は「日本産」だったというのです。世界史の大転換の中で、日本はすでに、グローバリズムに取り込まれ、「貢献」していたことも驚きです。 

 この番組を見て、「本当に歴史を書き換えなければならないのではないか」という思いを強くした次第です。(あくまでも個人的な感想でした。南蛮人がキリスト教を武器に日本征服を企んでいたことが、500年経ってやっと公文書初公開で明らかになるとは!驚きを通り越して恐怖すら感じます)

元号について知識が増えました

所功、久礼旦雄、吉野健一共著「元号 年号から読み解く日本史」(文春新書)は、大変読み応えありました。

僭越ながら、それほど易易と読み飛ばすことができないでしょう。中級から上級読者向けです。まず、「薬子の乱」や「承久の変」といった歴史上の出来事の年代や天皇や藤原氏の系図が頭に入っていないとスラスラ読めないはずです。

私がこの本の中で興味深かったことを2~3点挙げますと、日本の元号は、本来、朝廷内で難陳され、天皇が最終的に裁可して改元されていましたが、やはり、時代を経て、時の最高権力者が元号を決定していたことがあったことでした。平安時代の藤原道長が自邸で、改元を決定していたことはさほど驚きませんが、例えば、織田信長は「天正」、豊臣秀吉は「文禄」「慶長」、徳川家康は「元和」の改元に意見を申し入れたか、直接、選定していたというのです。

もう一つは、年号の読み方については、特に朝廷や幕府から伝達されていなかったということです。改元を伝える「お触れ」などには、一部の地域では、読み方を「ルビ」として記載した例もありましたが、ほとんど各地に任されていたというのです。例えば「慶長」は「けいちょう」か、「きょうちょう」か、「宝暦」は「ほうれき」か「ほうりゃく」かなど、当時の史料でも読み方が一定していないというのです。

「へー」ですよ。日本語の漢字の読み方は「呉音」読みから「漢音」読みまで色々ありますから、日本語は難しい。ま、そこがいい所かもしれませんが(笑)。

現代人は、元号というのは、「一人の天皇陛下に一つ」、つまり、「一世一元」が当たり前だと思いがちですが、それは、明治以降の話であって、それ以前は天皇一代の間に何度も改元が行われてきました。おめでたい「祥瑞」(吉兆)が出現(例えば、白い雉とか)した時とか、都に疫病や天災、戦災に遭った時とか、60年に一度回ってくる「辛酉」(中国では革命が起きると言われた)や「甲子」(革令)の年に、改元したわけです。

幕末の孝明天皇朝(在位20年弱)は、「嘉永」から「慶応」まで6回も改元され、途中の「万延」と「元治」は1年しか続きませんでした。

江戸幕府や大名のお抱え儒学者、例えば、著名な林羅山や藤田東湖、それに山崎闇斎や新井白石らもかなり、改元に際して意見を申し入れていたことも、この本で初めて知りました。

「明治」は、15歳の天皇が「御籤を抽き聖択」、つまり、候補の中からクジを引いて決められたということで、これも驚き。

今では、本家本元の中国は、元号を廃止して西暦を使っていますから、元号は「日本的な、あまりにも日本的な」ものになっています。「日本書紀」の記述から初代神武天皇が紀元前660年に即位し、その年を紀元1年とすると、天保11年(1840年)は皇紀2500年に当たり、当時の知識人たちはしっかりと明記していたことには感心しました。

その100年後の昭和15年(1940年)、日本は盛大に「皇紀2600年」の祝賀会を挙行しました。零式戦闘機、つまりゼロ戦は、この年に製作されたのでそのように命名されたことは有名ですね。

来年は改元の年で、どんな年号になるのか、個人的には興味津々です。