またまたお土産をいただいてしまいました

  カナダにお住まいの辻下さんが一時帰国され、久しぶりに銀座の何処かでお会いして食事を伴にしましょう、という話になりましたが、結局、日程の都合がつかず、食事会は中止になってしまいました。

 と思ったら、本日、銀座にある弊社にわざわざ訪ねてくださり、「お土産」ということで、世界に名だたる台湾コーヒーの高級ブランド「世界冠軍珈琲」を持って来てくださったのです。1階の受付で、数分間程度の立ち話で終わってしまいましたが、数年ぶりの再会でした。

台湾コーヒーの高級ブランド「世界冠軍珈琲」

 辻下さんは、おつな寿司セミナーの会員だった片岡みい子さんの御主人の正垣さんと成城学園時代の親友で、片岡さんが6年前の2017年に亡くなった時に、この渓流斎ブログにそのことを書いたところ、たまたま、カナダの自宅パソコンで御覧になった辻下さんが、小生に連絡してくださったのでした。調べてみたら、片岡さんが亡くなった翌2018年5月に一時帰国した辻下さんと、私もお会いして、銀座で食事をしましたから、それ以来5年ぶりの再会でした。

 前回は、ドイツ製のワイン「聖母」を「手土産」に頂き、今回は台湾の「世界冠軍珈琲」です。何か、戴いてばかりですねえ。私が好きな言葉が、綾小路きみまろと同じ「もらう」「いただく」「ただ」ということを御存知だったからでしょうか(苦笑)。

 今回、日程が合わなくなった理由の一つに、辻下さん御夫妻が一時帰国して、京都旅行された際、彼が某有名神社の急勾配の参道でつまずいて、足を捻挫してしまったことがありました。駅や空港で車椅子を借りるほど重傷だったようです。(1カ月近く経ち、やっと平地なら少しずつ歩けるようになったといいますが、移動はタクシーでしょう。)

 今回ゆっくりお話しする時間が取れず残念でしたが、不思議なことは、何でこれほどまで彼が私に御親切にしてくださるのか、ということです。

【証拠写真】築地「魚月」ランチ握り1500円 何か足りない? あっ!ガリがない! でも箸を付けて後で気が付いたから、「遅かりし由良之助」。店員さんは50メートルぐらい遠く離れてますし、そのまま、黙って食べましたよ。

 帰り際に、辻下さんは「いつも色々と情報を教えて頂き感謝してます」と仰ってくださったので、恐らく、いつも渓流斎ブログを御愛読して頂き、その御礼だったのではないか、と勝手に解釈してしまいました。間違ったらごめんなさい。

 こちらこそ、いつもお読み頂き、そして、お土産まで頂き、感謝申し上げます。有難う御座いました。

初めてのタコス=そして、老舗の料亭は何処か?

 このブログはあまりにも複雑怪奇で、テーマに一貫性がなく、話題も縦横無尽に複層しておりますから、読者の皆様方も付いていくのが大変のことと存じます。

 案の定、昨日は数十人の方が脱落されたようです。アクセス数を見れば分かります。痛恨の極みで御座いまする(苦笑)。

 さて、先日、仙台伊達藩の江戸上屋敷跡を視察のため、東京・汐留の日本テレビ本社を訪れた話を書きましたが、そのビルの(恐らく)1階にメキシコ料理のタコスを売っている「TACO BELLタコベル」があったので、再度、行ってみました。

 勿論、ランチするためです。これまた以前にこのブログに書きましたが、世界各国の料理を食べて、コロナ禍で実際に行けない海外旅行を模擬体験しようと、銀座で、色んな国の料理を食べ歩きをしました。その中で、メキシコ料理にも挑戦したのですが、生憎、私が訪れた数日前にその店は閉店してしまっていたのです。

 「捕らぬ狸の皮算用」とはよく言ったもので、逃したものは気になります。「いつかはタコスなるものを食べてみたいものだ」と、腰を低くしてそのチャンスを狙っていたのでした(大袈裟な!)。

(ダブル)タコスセット 900円

 そして、本日、ついに、タコスなるものを食しました。私の記憶が確かなら、生まれて初めて食べました。

 まあ、こんなものか、といった程度の感想ですが(笑)。

 野菜やひき肉を包んだ皮が、カレーに付くナンのように柔らかいものかと思っていたら、パリパリとはいかなくても、少し硬めでした。まあ、ファストフードといった感じで、対費用効果としてはギリギリかな、といった感じでした。

 さて、またまた皆様には驚かれるかと存じますが、この年になって、いまだに何冊かの本を同時進行で読んでいます。渓流斎は勉強家です。と、誰も言ってくれないので、厚かましく自分で言っているだけで、その実力と内容は全く伴っておりません!

 その一つが、阿古真理著「日本外食全史」(亜紀書房)です。3080円と、私としてはかなり高価な本でしたが、書評で評判でしたので、清水の舞台から飛び降りる覚悟で買ってしまいました。

 で、大変失礼とは存じますが、正直申して、最初は、著者の文体に付いていけませんでした。私のブログのように(笑)、急に著者の個人的な友人が出てきたり、まるで、週刊誌のグラビア記事を読んでいる感じでした。と、思ったら、著者は、もともと週刊誌のライターさんだったんですね。失礼ながら、好嫌の反応が如実に出る文体です。

 でも、読み進めていくうちに慣れていき、内容も俄然面白くなっていきます。不勉強な私ですから、知らないことばかり出てきます。(そう来なくては!)例えば、和食。「貴族が完成させた儀式的な大饗料理に、僧侶らの高度な調理技術に基づく精進料理を組み合わせたもの」などと色んな定義がありますが、以下のような変遷があることを教えてくれました。

(1)本膳料理=中国や朝鮮半島の影響のもとに生まれ、平安時代に確立。切り方の工夫には日本の独自性あり。

(2)精進料理=平安末期から鎌倉初期にかけて、宋から帰国した僧侶が持ち帰った技術をもとにした魚肉を使わない料理。

(3)懐石料理=本膳料理を発展させた少人数の茶会の席で出された料理。千利休が完成。

(4)会席料理=江戸時代、懐石料理から茶道の要素を抜き、お茶の代わりに酒を料理とともに楽しむものとして登場。

 そして、日本で最初の料亭と言われるのが、元禄年間(1688~1704年)に営業を始めた大坂・四天王寺の「浮瀬(うかむせ)」なんだそうです。松尾芭蕉、司馬江漢、曲亭馬琴ら多くの文化人も訪れたとか。

 江戸は、私も何かの本で読み、聞いたことがある浅草の「八百善」は、享和年間(1801~1804年)に創業。画家の酒井抱一、谷文晁、葛飾北斎、渡辺崋山ら一流の文化人も集まる場所でもあったらしい。幕末、ペリーが来航し、日米和親条約の宴席で出された料理も八百善だったといいます。もっとも、ペリーの口には合わなかったらしい。

 京都と言えば、一番の老舗は、私も、京洛先生のお導きで、中には入らず、長い長い土塀の軒先だけを覗いただけですが、南禅寺門前の「瓢亭」かと思いましたら、高橋嘉兵衛が懐石料理を出し始めたのが天保8年(1837年)と意外と新しい。もっとも、「瓢亭」は、腰かけ茶屋として南禅寺前で始めたのが、今から400年前という長い長い歴史があります。

 京都に現存する老舗料理店は、丸太町の「柿傳」(1721年)、四条大橋近くの「ちもと」(1718年)、袋町の「はり清」(明和年間=1764~1772年)などがあります。

 皆様も是非、訪れて、その感想をお聞かせください。宜しく御頼み申し上げます。

143年ぶりに「茅の輪」が出現=京都・八坂神社

Photo Copyright par Kyoraque-sensei

おはようございます。京都の京洛先生です。新型肺炎が世界中に蔓延して、2020年「東京五輪」どころではありませんね。

トランプ米大統領は「非常事態宣言」を出しました。「大統領再選」の危機感と言えますが、これもトランプ独特の一芝居です(笑)。僅か5兆円か、6兆円くらいで、非常事態が解決、解消できるわけありませんよ。

 日本では、「東京五輪」の開催決定権も無い、小池百合子・東京都知事が偉そうにマスコミ相手に色々喋っていますが、そのコメントの背景も解説せずに垂れ流すマスコミというのは何ですかねえ?小池さんの東京都知事選の事前運動か、PRを手助けしているだけの話です。取材する側にその自覚がないのですから、本当に情けない話です。

 クラスター(cluster)とかいう「感染集団」は、新型肺炎のことだけでなく、裏読みできないマスコミ自体が感染集団みたいなもので、はっきり言って、ただの烏合の衆ですよ。

京都・八坂神社  Photo Copyright par Kyoraque-sensei

ところで「祇園祭」の勧進元である京都・八坂神社では6月30日から始まる夏越の神事の「茅の輪」が、新型肺炎の蔓延もあって、三か月も早く、境内に登場しました。

御覧の通り143年ぶりに夏以外に「茅の輪」が  Photo Copyright par Kyoraque-sensei

 本来の「茅の輪のくぐり」は、新年から半年間にたまった穢れを払い、無事、夏を越せるよう、無病息災を願う神事なのです。

 今回の茅の輪は、八坂神社境内の「疫(えき)神社」と、本殿西側の二か所に設けられ、謂れが書かれた説明を読んで茅の輪をくぐる人が相次ぎ、「これで肺炎に罹らずにすむ」と喋りあう女性の姿が目立ちました。

「これで、肺炎に罹らずに済むわいな…」  Photo Copyright par Kyoraque-sensei

 八坂神社の記録では「夏越の祓え」以外で、「茅の輪」が設けられたのは明治10年(1877年)のコレラの大流行以来143年ぶりだということです。明治10年といえば、西南戦争が起きた年です。

 貴人も、以前、北野天満宮で「夏越の祓え」で茅の輪くぐりをされたことがありましたね。その時は青々とした茅(かや)を使っていた、と思いますが、今回の茅は時季外れでもあり、八坂神社に保管されていた茅を使った、ということで青々としていません。でも、ご利益は不変ということです。

以上

 いやあ、いつもながら、タイムリーなリポート有難う御座います。西南戦争の明治10年以来の茅の輪だなんて、今、凄い時代に生きているんですね。

 実感できました!

究極の文化財、美術品を公開へ=京都・東寺で真言宗の最高の儀式「後七日御修法」

京都・東寺 Copyright par Kyoraque-sensei

 ブログを書き続けて幾星霜か。ちょっと、書くネタに尽きて困ったときに、いつも天から救いの手が伸びてきます。

 今回も、京都にお住まいの京洛先生から特派員リポートが送られてきました。

京都・東寺 Copyright par Kyoraque-sensei

おはようございます。京洛先生です。

 七草粥も終わり、渓流斎さんも、正月休みから、帝都のオフイスに精勤されていると思います。8日(水)は、渓流斎さんもご存知の、御社とも関わりの深い大手代理店OBで長老のNさんが上洛されました。

 いつも正月休み明けの観光客が少ないこの時期に奥様とこちらにみえますが、今回は今週末まで滞在されています。そこで「何処に御案内しようか」と考えた末、今回は、いつも渓流斎ブログに紹介、写真掲載してもらっている「東寺」での真言宗の最高の儀式「後七日御修法(ごひちにちみしほ)」にお連れすることに致しました。

8日は、その最初の日に当たり、儀式が行われる東寺境内の国宝「灌頂院」の前までご一緒しました。

京都・東寺 Copyright par Kyoraque-sensei

 渓流斎さんは、昨年、高野山の「金剛峯寺」に出かけられ、念願の宿坊に泊まられ、大感激され、以後、ますます、仏教の関連書籍などを読破されていますね(笑)。

 後七日御修法はこのブログでは何度も紹介されておりますが、その高野山の金剛峰寺をはじめ、「真言宗」各派、十八本山の山主、高僧が集まり、8日から来週14日(火)まで7日間、灌頂院で五穀豊穣、国家安泰、世界平和の祈願法要をするわけです。

 弘法大師空海が平安時代の835年から京都の御所で始めたもので、明治初期、数年、途絶えましたが、その後は、御所から東寺に場所を移して行われてきています。

京都・東寺 Copyright par Kyoraque-sensei

 初日の8日は、宮内庁から勅使が天皇陛下の「御衣(ぎょい)」が届けられました。

  いつもながら、お坊さんの頭が綺麗でしょう(笑)

 

京都・東寺 Copyright par Kyoraque-sensei

法要では、御衣を前に7日間にわたり、護摩を焚いて大法要が行われますが、8日は、今年の大阿闍梨(おおあじゃり、導師)である「仁和寺」の瀬川大秀門跡をはじめ、真言宗の長老、門跡らが朱傘をかざされ、上の写真のような行列が続きました。いつもながら全国の真言宗の僧侶、檀信徒の方がこの様子を見ようと、大勢来ておられました。

 Nさんは「いやあ、凄いものですね。京都、奈良など大伽藍の高僧が一堂に集まるのですからね。こういう希少な機会に出くわせるとはワタシも感激です。軽薄な観光客もいませんし、数珠を持って、『南無大師遍照金剛』と念仏を唱えて、手を合わされている檀信徒のご婦人方の着物も、いずれも高価な立派なもの、とお見受けしました。やはり、お金が出来ても、最後は精神世界に惹かれるのですね」と、日ごろお目にかかれない光景、様子をじっくり眺めておられました。

京都・東寺 Copyright par Kyoraque-sensei

  「後七日御修法」は14日(火)に終わり、同日午後12時頃から、2時間に限って、「法要」後の灌頂院(通常は非公開)内が公開されます。法要後の堂内には香がたかれた匂いが漂い、重要文化財の曼荼羅もまだ架けられていて、”究極の文化財、美術品公開”とも言える機会です。ご興味のある方は見に行かれることですね。

 以上

京都・光明寺(西山浄土宗総本山)は今、紅葉の見ごろです

京都の京洛先生です。

「東西タイムズ」の渓流斎編集主幹から「京の都の紅葉の写真を送ってもらえませんかね。東京の紅葉は深みがありませんから」とのご依頼もあり、本日、午後から、洛外、長岡京市にある西山浄土宗総本山「光明寺」に出向き、パチパチ写真を撮ってきました。

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紅葉のこの時季は「光明寺さんの紅葉は、綺麗やし、見に行きまひょか」と、近畿各地から見物人が大挙押し掛けるので、阪急「長岡京市」駅から、阪急バスが臨時増便されて、大賑わいでしたね。

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編集主幹とは、今夏、同じ西山浄土宗で、山科にある青龍山「安養寺」を訪れた際、村上純一御住職から「総本山光明寺は、宗祖法然様の御廟もあり、一度ご覧になるといいですよ。今の時季は閑静で人もほとんどいませんから落ち着くでしょう」と勧められましたね。

 確かに、暑さの頂点を極めたあの日、人影が全くない同寺を訪ねることができましたが、今日は、打って変わって大変な賑わいで、見物客目当ての様々な露店も出ていて、「これが同じあの光明寺か」と吃驚仰天です(笑)。

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あの夏の日、渓流斎主幹は、青葉を見ながら「紅葉の時季になると、恐らく、此処は一面、紅葉参道になるのでしょうね」と言っておられましたが、全くその通りでした。これから12月半ばまでは、紅葉見物が出来るくらいまだ青葉も残っていました。

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総門から御影堂までの石畳も、紅葉見物の人出が絶えず、阿弥陀堂、御影堂の堂内も、老若男女、子供連れ、アベック等々でごった返していました。

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光明寺は京都の西南の西山連峰を背景に、今から800年前、法然上人の教えを伝えるべく建立されましたが、総門の前には「浄土門根元地」と大きな石標が建てられています。

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広い境内は、楓の木が多く、「薬院門」から「閻魔堂」にかけての緩やかな下り坂は、まるで紅葉のトンネルのようで壮観でした。

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「御影堂」の裏には「国光大師の御廟」があります。この夏は、御影堂の中に入り、誰もいないお堂で、年老いた管理人の方の詳しい光明寺の謂れを教えてもらいましたが、裏手は拝観しませんでしたね。石庭もありました。…

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この時季だけは入山料500円を徴収されますが、それだけの値打ちはある境内の紅葉探訪、散策でした。

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御影堂の中から、外の紅葉の色合いも綺麗でしょう。

機会がありましたら、また紅葉狩りに京都にお越しください。

以上

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京洛先生江

そうですか。またまた、光明寺まで足を運ばれたのですか。少し、懐かしいですね(笑)。

 確か、光明寺から長岡京市駅までのバスが1時間に1本か2本しかなく、「大変な所に来てしまった」と思いましたが、紅葉のシーズンは臨時バスが出るんですね。

 たくさんの人出の中、「アベック」なんて、1960年代風で、今では死語になってしまいましたが、京洛先生の時間は停まっているのでしょうね(笑)。

 あれから、私自身は、日本浄土教に関して、ほんの少し勉強しましたので、西山浄土宗も、鎮西派も、法然上人も、弁長上人も、証空上人も、そして、阿弥陀如来の思想も知識として増えました。お蔭で、これからも寺院や仏像を参拝するのが、ますます楽しみになりました。

 また、いつか京都に行って寺社仏閣巡りをしたいと思っています。ご指導ご鞭撻の程、宜しくお願い申し上げます。

渓流斎

「幕末下級武士の絵日記」の作者尾崎石城さんのお墓参りをしたくなりました

来月8月に京都に行くことになっています。

京洛先生のお導きですが、最近、寺社仏閣巡りにスイッチが入ってしまったので、京都は本当に楽しみです。歴史ある京都は、ほんの少し歩いただけで、名所旧跡、古刹名刹だらけですからね。

◇安養寺と安養寺

 今回は目的がありまして、村上純一氏が住職を務める京都市左京区にある「青龍山安養寺」(浄土宗)を訪問することです。村上氏は作家村上春樹氏の従兄弟に当たる方で、小生が今年5月のブログで、思い込みの勘違いで、同じ京都市の安養寺でも、 東山区にある「慈円山安養寺」吉水草庵(時宗)の方だとご紹介してしまい、村上氏ご本人から間違いを指摘されてしまった経緯がありました。繰り返しになるので、これ以上述べませんが、御住職にお会いして、仏教の宗派の違いや、現代仏教の問題点などをお伺いすることを楽しみにしています。

 お目にかかるのはちょうどお盆の頃でして、お盆は、新幹線指定席の予約が取りにくい話を聞いてしまいました。その前に、お盆シーズンは割引切符が効かないことも知らされました。京洛先生に相談すると、新橋の安売りチケット屋をウロチョロするなんて貧乏臭くて野暮ですねえ。(それ、ワイのことやないけ!)JR系旅行代理店で予約すると、ホテルと往復切符付きで格段に安く買えますよというので、そうしようかと思ったら、やはり、お盆シーズンだけは割高で、べらぼうに高いことも分かりました。

 そう言えば、私が京都を訪問するのはシーズンオフが多く、お盆に訪れるのは学生時代以来数十年ぶりだということに気がつきました。

◇JR社長に告ぐ

 慌てて、1カ月前に東京・有楽町駅のみどりの窓口に朝の9時過ぎに行ったところ、係りの人が「午前10時からしか販売できません」と言うのです。「えーー」です。仕事が始まってしまうのです。独占企業のJRさんよ、せめて、午前9時からの販売にするべきではないでしょうか! 仕方がないので、昼休みの13時ごろに行ったら、やっと指定券が買えました。ヤレヤレです。

 さて、この間から、 大岡敏昭著「新訂 幕末下級武士の絵日記 その暮らしの風景を読む」(水曜社 )を少しずつ読んでいますが、自分自身が幕末の下級武士になった感じです。タイムマシンがなくても、こういう本を読めば、いつでも過去の時代に暮らしている感覚になれます。

 絵日記の作者は、謹慎中の忍藩(現埼玉県行田市)の下級武士尾崎石城(隼之助)でしたね。先日のブログ(2019年7月19日)で、この本をご紹介した時に、「石城さんの生まれが天保12年となっているが、年齢が合わずおかしい」と書きましたが、後ろの彼の年譜を見たら、「文政12年生まれ」と書かれていました。文政12年なら1829年です。これなら平仄が合います。

 単純ミスなんでしょうが、このほか、93ページの「左端」は「右端」の間違い、97ページの「72図」は「74図」の明らかに間違い・・・と、ちょっと校正が杜撰な感じです。

◇大酒呑みの石城さんと和尚さん

 絵日記の作者尾崎石城は、毎晩のように寺や友人宅や料亭などで、僧侶や町人や女性も交えて酒盛りをして遊びます。田楽、紫蘇茄子、玉子焼き、茶碗蒸し、むきミにつけ、志ゝみ汁などその日何を食したかメニューも伝えてくれます。

 スマホどころか電話も、テレビも映画もない時代です。何を楽しみにしていたのかというと、いわゆる田舎芝居や、浄瑠璃、酒の勢いに任せた即興の歌舞、それに、仏様の誕生日である花祭りや金比羅祭りなどの祭祀、そして、植物を愛でたり、石城さんの場合は、襖絵や屏風絵などのために写生したりしているのです。下級武士だけでなく中級武士との交流もあり、石城さんは毎日、誰か5~6人と、驚くほど多くの人と会い、交流しているのです。

 聖職に就き、「斎戒沐浴」しているはずの大蔵寺の宣孝和尚も、龍源寺の猷道和尚も大酒呑みの女好きで、時には二日酔いで寝込んだり、大変魅力的な人物に描かれています。

◇半端じゃない読書量

 また、学問好きの石城さんの読書量は半端じゃなく、中国の古典として「左傳十五巻」「六経略記十巻」「史記評林二十五巻」「論語新注四巻」「書経集注六巻」「荘子林注十巻」など、我が国では、賀茂真淵「万葉考三巻」、新井白石「藩翰譜」、「源氏忍草十巻」「古今集」「和漢朗詠集」「俳諧七部集」、徳川家康「御遺訓」、平田篤胤「古道大意」…とキリがないほどです。

 これだけの学問を積んだ人ですから、この絵日記が書かれた6年後に明治維新となり、石城さんは一連の咎めが赦免され、藩校培根堂(ばいこんどう)の教頭に抜擢されます。しかし、明治4年(1871年)に廃藩置県となり、藩校も閉校され、その後、石城さんは宮城県に移り、租税事務の中位の役人になります。そして、明治9年(1876年)にその地で死去し、仙台元寺小路の「満願寺」に葬られたということです。享年47。

 もし、仙台に行く機会があれば、満願寺に行って尾崎石城さんのお墓参りをしたいと思いました。年金も社会保障も人権もない時代。石城さんは、貧しい子どもたちをしばしば食事の席に呼んだりします。心優しい石城さんにはそれぐらい入れ込んでしまいました。

京都・旧「三井家下鴨別邸」の紫陽花が見ごろです

 おはようございます、京洛先生です。

 相変わらず、千葉県の佐倉城址公園、国立歴史民俗博物館と、勉強熱心ですねえ(笑)。「還暦」過ぎの、インテリ老人は、ちゃらんぽらんに人生を過ごすことが得手でないようです。何でも「勉強!勉強!」ではダメですよ。“狐狸庵センセイ”のように大ウソつき、ほらを吹いて、世間を煙に巻くようにならないとブログも面白くありません。

 最近は、男だけでなく、女も歴史が好きだということで、「歴女」とかいう流行語があるようですが、これも、お勉強一筋で、余裕が無い「ガリ勉」の延長です。人間は正直です。無駄がないと、その反動が、ギスギスした表情や物腰に表れるのですよ。

 ところで、迂生が推薦した映画「警視庁物語」を見に行きましたか?芦田伸介の出た「七人の刑事」(TBS系、1961~69)や波島進演じる立石主任の「特別機動捜査隊」(NET、現テレビ朝日系、1961~77)などテレビの刑事ドラマの原型ですから、それこそ“現代映像資料館”だと思って、東京のミニシアター「ラピュタ 阿佐ヶ谷 」に行くべしです。そうしないと、90歳、100歳と長生きできませんよ(笑)。

 さて、貴人から「季節にあった写真はないか」というご下命、注文が飛んできましたので、昨日(6月23日)、京都・下鴨神社に隣接する旧「三井家下鴨別邸」=重要文化財=の紫陽花が綺麗だというので足を運び、写真を撮ってきました。

 三井はもともと養蚕の神様(蚕ノ社)を信仰していました。というのも呉服商ですから縁がありますね。また、三井家の祖霊の「顕名霊社(あきなれいしゃ)」も、京都・太秦の「木嶋神社」に祀っていましたが、明治初めの廃仏毀釈などあれこれ騒ぎがあって、明治42年に三井高安(三井家の遠祖、三井高利=三井家の家祖=の祖父)の三百年忌を機会に下鴨・糺の森に「顕名霊社」を遷座し、その参詣のための休憩所としてこの別邸を作ったわけです。

 昨日、一昨日と二日間はこの旧三井家下鴨別邸の敷地にある「紫陽花苑」を無料開放したので綺麗な紫陽花を見ようという大勢の人で賑わいました。

 貴人は以前、映画の草創期の大スターだった“目玉の松ちゃん”こと尾上松之助の銅像が下鴨神社そばの「糺の森」にあったのを覚えていますか?糺の森というのも、元は木嶋神社境内あって、今ではそこは「元・糺の森」と呼ばれています。

 糺の森とは誤ったことを正すということですね。今度、京都に見えたときに木嶋神社を案内しますが、ここには「三柱鳥居(みつはしらとりい)」という変わった鳥居があります。鳥居を三基合わせたもので、東京の向島の「三囲神社」に行くとこの木嶋神社の三柱鳥居を原型にした「三柱鳥居」が見られます。

この「三囲神社」も、三井家、三井グループがあれこれバックアップ、支援しています。逸話が好きな貴人は、是非一度訪ねてみることです。感激するでしょう。

以上

おしまい。

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平清盛一族の屋敷跡か?=何と、葬送の鳥辺野で

おはようございます。京洛先生です。

水戸漫遊記や、お城巡りと休日は歴史探索をされているようで何よりです。

ところで、昨晩のNHKの全国ニュースでも報じられていましたが、当地、洛中では、ホテル建設の工事現場から「平清盛一族の屋敷跡か?」とみられる遺構が見つかりました。

昨日はその発掘現場で、遺跡の説明会がありました。迂生も「どんなものか」と野次馬の一人として見てきました。

 場所は京都市内は東山通五条西入る付近で、通称「五条坂」と呼ばれ、清水焼の窯元などがあるところです。

 清水寺に行く観光客でごった返す五条通りに面しています。観光客の激増で、京都市内は、ホテルの新築ラッシュですが、その工事現場から、平安時代後期のそれらしき堀や石垣、井戸などが見つかったのです。

 この遺構は、武家政権を初めて確立した平清盛(1118~1181年)時代のものと、推定されるということで、清盛の屋敷跡ではなかったかと歴史学者、専門家は見ています。

浄土真宗本願寺派(西大谷)

 最初の写真のように堀は東西約15メートル、幅3メートルで、石がしっかり積み上げられていました。出土品から、12世紀頃に作られたと見られます。

 また、この周辺は古代以前から葬送の場所で、平安時代からは「鳥辺野」(とりべの)と言われていました。平氏など武家は、この界隈に軍事拠点や住居を構えていたと見られます。保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)が起きた頃です。

六波羅密寺

  特に、今回注目されていることは、鎌倉幕府が西国の御家人、朝廷を監視するためにつくった「六波羅政庁(探題)」が出来る以前の、平清盛の頃の遺構が見つかったということでした。

 また、遺構の見つかった場所からは、弥生時代後期の「方形周溝墓」も見つかり、平安時代よりもさらにもっと古くから、葬送がこの地で行われていた歴史を知ることができます。

 昨日の遺構現場には大勢の見学する人が来て、発掘した専門家の説明を熱心に聞いていました。流石に、煩い観光客は居ませんでしたね( ´艸`)。

 今回の発掘では、同時に、「平安京」が成立(794年)するもっと大昔の「古代」が、ちらっと地中から垣間見られた瞬間でもありました。

 まずは、ご報告まで。

 以上

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京都の不思議=ボトルの相続

  その後、如何お過ごしですか、京洛先生です。 

ブログを拝見すると、渓流斎先生は、「歴史研究」から「スパイ研究」、さらには「映画鑑賞」と、あれこれお忙しいようですね(笑)。 世間は「天皇の譲位」、「平成」から「令和」への改元で大騒ぎですが、渓流斎ブログには、ほとんど、それが触れられていませんね(笑)。やはり、何か書いてもよいのではないですか?

 いつもながら、マスコミは鉦や太鼓をたたいて、さんざん、世間、大衆を煽っています。何も考えない大衆は、”改元音頭”を踊り、踊らされて、憂さを晴らす、というパターンです。

 新聞各社は「天皇陛下おめでとう!」「慶祝!」と、大きな名刺広告を集めて紙面に載せていますが、あの広告費はチャンと「禁裏」に納めているのですかね?(笑)。自社の財布に入り、収入、収益になるのなら、”あやかり商法”というか、詐欺”みたいな話ですよ(笑)。 

大手新聞各社は「こちらが献上しようと思っても、禁裏は固辞される」ということでしょうが、「日本ナントか協会」とかいう、国際慈善団体の名称を使って、「アフリカの子供を救おう!」と浄財を集め、豪華な自社ビルを建てる費用に充てる手合いとこれでは同じですよ。

 誰も文句を言わないのも可笑しな話です。そのうち、広告収入が、下降線のテレビ業界も、映像版あやかり「名刺広告」を始めるのじゃないしょうか(笑)。「人の褌で相撲をとる」とは、こういうことをいうのです。

京都「ヘルメス」

 ところで、”10日間連休”のさなか、「奇遇」、「奇縁」のお話を一つご披露しましょう。

 貴人もご存知の三軒茶屋のガルーダ博士が連休中、洛中の別荘にお見えになり、当方にも御報がありました。いつもは、ご友人らと夜の巷を徘徊されるのですが、今回は、女婿の御尊父が亡くなられ、その葬儀、御弔いのために見えました。それら大事な役目を一通り済まされた後、「時間があるので、ご一緒しませんか」と当方に有難い、お誘いがありました。

 そこで、先夜、ガルーダ博士ご夫妻のマンション傍の千本中立売周辺で食事を済ませ、さらに「もう一軒」となり、ぶらぶら三人で歩き出しました。 

「千中(せんなか)」と略称されるこの界隈は、水上勉の「五番町夕霧楼」の舞台で、「売春禁止法」以前は「五番町」という遊郭がありました。今はマンション、住居が立ち並び、そのころの賑やかさは、ほとんど消え去り、薄暗い、人出がない、狭い道筋を歩いていると、ガルーダ夫人が小さな声で「あれ!、ここヘルメスじゃないの?」と、暗がりに燈るバーの街灯を見つけ指さされました。「え!ヘルメス、どれどれ」とガルーダ博士。「そうだ、ヘルメスだ、亡くなったOさんが、よく飲みに行くといっていた、お店だ」と言うなり、「入ってみるか」となりました。

 0さんというのは、ガルーダ博士が、今回、お葬式に行かれた女婿の実父で、建築家と大学教授を兼任されていた方です。「土に還る」自然素材を用いた、独特の建築工法で、家を建てることを実践し、「藁の家」などユニークな建物も手掛けられ、その世界では有名な方だったそうです。「自由人」らしく、京都の飲み屋街にも出没し、談論風発、友人知人も多く、学生にも、大変人気があったそうです。 

「ヘルメス」は、70歳を過ぎたと思しきママさんが一人だけで、お客さんは誰もいません。時代は「平成」から「令和」に移りましたが、店内の雰囲気は、「平成」など無視して「昭和」が今も健在です。貴人が一緒なら「いやあ、懐かしいですね!こんな店がまだあるのですね、京都には」と痺れますね(笑)。店の壁際には、古いレコードが大量に整理整頓され、お客さんの好みに合わせて、それを聴かせてくれます。

 見慣れぬ客に、多少、不審げな表情で「何をしはりますか?」とママさん。そこで小生が「こちらのご夫妻の親戚で、Oさんという方が、よくここへ見えていたそうですが、ご存知ですか?」と、出しゃばって話を向けると、「え、よく存じていますよ。Oさんは。ご病気やと聞いて、心配していましたが…」と、Oさんの近況、動静もよく知っているので、話は簡単でした。

 ガルーダ博士が「いやあ、実は、先日亡くなりました、ワタシも、東京から葬儀に来て、偶然、ちょうどお店の前を通ったので、思い切って店に入ったわけです」と話されると、「え!Oさんは亡くなられはったのどすか?!いつも、一緒に来はるNさんご夫妻が、だいぶ、よおないと、言うたはったから心配してましたが、そうどすか…」。

Oさんのボトル

ママさんは「ええ先生どうしたわ。学生さんも飲みに連れて来はってね」とOさんの懐旧譚とともに、Oさんが店にキープしていたボトルを棚から出して「ご親戚やし、飲んで、センセイを偲んでおくれやす。Oさんも喜ばはるわ」と水割りを勧めてくれました。

 これには、ガルーダ博士も言葉に詰まり、しばししんみり。Oさんの好きだったという、フランク永井の「公園の手品師」などアナログのレコードプレイヤで聴き惚れました。

 ガルーダ夫人は「きっと、Oさんが導いてくれたのよ、パパ」と言われましたが、本当に奇縁、ハプニングでした。

 翌日、ガルーダ博士は、Oさんの息子さんの女婿を、「ヘルメス」に連れて行き、ボトルの引継ぎを済ませ、帰京されました。行きつけのバーにキープされたボトルの相続、形見分けというのも、珍しいと思いますね。

以上おしまい。 

再びOさんのボトル

北野天満宮の梅が咲き始めました

 京都にお住まいの京洛先生から、うれしい「風物詩」を送ってくださいました。

…大阪の梅田にまで遠出し、念願のデジタルカメラを奮発して買ってしまいました。

今日の午後、その新しいデジカメで近所の「北野天満宮」の梅を撮ってきました。だいぶ紅白梅が咲き始めました。2月の「節分」を終える2月8日(金)から境内の「梅苑」公開は3月半ばまで始まります。「梅が咲いたか、桜はまだかいな」ですね。

 デジカメは高性能カメラで画素数が高く、一度そちらにお送りしたのですが、うまく行きませんでした。そこで、少し画質を落として配信することに致しました(笑)。

Copyright par Kyoraque sensei

 それにしても、一年経つのは早いものです。こういう具合にあっという間に終わるのです。

 「合格祈願」のお札をかけて無事、大学入学した受験生もあっという間に4年経ち、社会人になり、定年を迎え、人生終末を迎えるわけです。

Copyright par Kyoraque sennsei

あっという間に一生ははかなく終わるわけですから、一日一日を大事にしないといけませんね。…

 諸行無常。何か、「平家物語」か「方丈記」を読んでいる感じですね(笑)。

 一日一生