味とは情報なり、味より情報が全てなり

 「歴史人」(ABCアーク)8月号「江戸の暮らし大全」特集を読んでいて、驚いてしまいました。

 「江戸町民の食事」なんですが、朝は、1日に1回しか炊かない炊き立てのアツアツのご飯と味噌汁、そして香の物だけ。卵も海苔もありません。お昼は、朝に炊いたご飯の残りと、干物の焼き魚、そして香の物。結局、このランチが一番豪華なのです。というのも、夕飯は、残った冷や飯をお茶漬けにして流し込み、おかずと言えば、香の物だけですからね。コロッケも生姜焼きも餃子も何もありません。これは、庶民の暮らしぶりなので、将軍さまや大名家ともなれば、これより遥かにましな食事をしていたことでしょうが、それにしても庶民は質素です。

 恐らく、江戸時代、庶民は、かなりの肉体労働に勤しんだはずですから、カロリー的にも足りるわけありません。昼間働いているからランチを豪華にしているんでしょうか。

 その点、現代人、特に私は、将軍さまや大名も驚くほど超豪華なランチを毎日のように取っていることになります。その贅沢さは、江戸幕府の将軍さま以上、ということになるかもしれません。

 まあ、お許しください。私が今働いているのは、ランチを食するため、と言っても過言ではないからです。働くためにランチを食べるのではなく、ランチを食べるために働いているのです(笑)。

新富町「蕎麦和食 はたり」

 そのためには情報収集が欠かせません。かと言って、あまりネット情報は重視しません。「孤独のグルメ」のように、自分の足で稼いで、フラッと入った店が美味しかったりするからです。

 とは言いながらも、全く、ネット情報を参考にしないわけでもありません。本日は、猛暑ですから、あっさりと蕎麦にでもしようと、検索してみたら、新富町の「蕎麦和食 はたり」という店が味、人気とも界隈ナンバーワンだということを知りました。

 「はたり」? あまり聞いたことがないので、地図で調べてみたら、何と、以前に1回か2回、行ったことがあった店だったのです(苦笑)。最近、ちょくちょくランチに行くようになった小料理屋「中むら」の近く、というより、同じビルの地下にあります。

新富町「蕎麦和食 はたり」もりそば+ミニ豚丼ランチ 1100円

 初めて行った時は、何も知らず、外の看板とメニューをチラッと見て入り、今では味も覚えていないくらい、淡々と済ませたのですが、今回は違います。ネット情報から、この店は、「厳選したそばの実を石臼で丁寧に挽いた、そば粉100%の十割そばがいただける人気店」という情報が私の脳の奥底にインプットされていました。

 そんな情報が入っていて、いざ食べてみると、まるっきり味が違うのです。蕎麦をすすりながら、「おー、これが石臼で挽いた蕎麦粉100%なのかあ~。さすが、十割蕎麦だなああ~」と、味に磨きがかかります。それこそ、情報の恐ろしさです。何でもそうでしょう。「ウチは魯山人の器を使っておるどす」なぞと言われれば、急に背筋がピンと伸びて、旨さも格別になってくるんじゃないでしょうか。

 そう、食べ物は結局、情報なんですよ。「天保3年創業」の鰻屋とか「嘉永2年創業」の和菓子屋なんて言われれば、震えて、思わず襟を正してしまいます。

 また、宮内庁御用達の銘菓なんて言われれば、何か自分が偉くなったような気分にもなれます。オーギュスト・エスコフィエやポール・ボキューズなんて名シェフの名前が出たりすれば、眼も眩んで圧倒されます。

 味は二の次です。情報を食べているようなものですからね。「ミシュランの星が付けば、絶対に美味い」なんという法律はないのに、多くの人が盲目的に信じ込んでいます。本末転倒ではありますが、これが日本人の哀しい性(さが)なのです。

 要するに、人間の脳は何とでも、騙されてしまうものなのです。

「歴史人」読者プレゼントにまたまた当選=「冠位十二階マグネット」

 「歴史人」読者プレゼントにまたまた当選してしまいました。一体、これで何度目なのでしょうか? 確かに、この雑誌は毎月のように購入して葉書を出しておりますが、当選の確立は何十万分の一のはずです。

 こわ~~~

 何故なら、私自身、決してくじ運が強い人間ではないからです。

 「厳選な抽選な結果」と書かれていますので、その通りだったのかもしれません。葉書に「今月号は、珍しく誤字脱字や誤植が少なかったですねえ」と書いてしまったので、口封じのための当選だったのかなあ、と勘繰りたくなりました(失礼致しました=笑)。

 当選したのは、「冠位十二階マグネット」です。聖徳太子が603年に制定した日本で最初の冠位で、「徳、仁、礼、信、義、智」の6徳目をそれぞれ大小の二つに分けて十二階としたものです。

 実は、大臣(おおおみ)の蘇我馬子には冠位がなかったそうです。「特別枠」で冠位を授ける側だったからだそうです(勿論、推古天皇や摂政の聖徳太子にも冠位はありません)。

 その一方で、第2回遣隋使派遣の代表だった小野妹子は、帰国後、その功績から、上から5番目の「大礼」から最も高い「大徳」に昇進したといいます。

 私も「歴史人」の読者プレゼントには、これで12回ぐらいは当選しているのではないかと思います。ということは、冠位が一番下の「小智」からトップの「大徳」に昇進したような気分です(笑)。

 「歴史人」の編集部、注文部、広告部、発行人の皆様、本当に有難う御座いました。

「京」と「宮」の違いとは?=「歴史人」4月号から

 「古代の首都になった『京』と『宮』の違いって分かりますか? 何で、平城京や平安京と言うのに、飛鳥宮や近江大津宮は、飛鳥京とか近江京とか言わないんでしょうかねえ?」ー会社の同僚のAさんが何処か思わせぶりな言い方で私にカマを掛けてきました。

 いやあ、分からん!今まで、そんな違いなんて全く意識していませんでした。

 そこで、しょうがないので、久しぶりに「月刊歴史人」(ABCアーク)4月号「古代の都と遷都の謎」特集を買ってみました。Aさんは、答えはその本に書いてある、というからです。

 「歴史人」を買ったのは3カ月ぶりぐらいです。その間買わなかったのは、ここ数年買い続けてきたので、同じような特集が続いていたからです。拙宅は狭いのでそんなに沢山の本を置けません。でも、4月号の「古代の都と遷都の謎」特集は初めてです。昨日、読了しましたが、知らなかったことばかりでした。雑誌ですから図表や写真がふんだんに掲載されているので、本当に分かりやすく、確かに「保存版」です。しかも、「歴史人」にしては珍しく、本文に大きな誤植がないので、驚愕してしまいました。失礼!大袈裟でした(笑)。

 さて、冒頭の京と宮の違いです。

宮=天皇の住まい+儀式のための役所

京=宮+豪族・庶民の居住域を計画的に造った都

ということでした。

 武家時代で言えば、宮とはお城と大名屋敷で、京とは城下町ということになりますか。

 時代の変遷でどんどん変わっていきますが、平安京を例にとりますと、平城京以来中国・唐の都・長安などにならって、碁盤の目の道路を整備して、「平安京」の中央北端に政務の中心である「平安宮」を置き、それ以外には、貴族が館を構え、寺社仏閣も創建され、庶民も住み、禁止されていたにも関わらず、右京の南部は湿地帯だったため、水田にもなったようです。貴族の人気スポットは左京の北側だったということです。

 平安宮の中には大内裏があり、ここには政務が行われる政庁である「朝堂院」や国家や宮廷儀礼が行われる「大極殿(だいごくでん)」、それに「太政官」や「民部省」などの官庁があります。また、その大内裏の中に天皇がお住まいになる「内裏」があり、「源氏物語」などにも出て来る「清涼殿」(天皇の日常生活の場)や即位礼など宮廷儀式が行われる「紫宸殿」などもありました。こういうのは、文章ではなく、雑誌で図解で見るのが一番ですね(笑)。

 古代は天皇が変わる度に何度も遷都をしておりましたが、一番興味深かったことは、桓武天皇が奈良の平城京を捨てて、京都の長岡京に遷都した理由です。仏教勢力の南都六宗の政治干渉を避ける目的があったから、というのは定説で、私も習ったことがあります。もう一つ、この本の著者の一人である藤井勝彦氏によると、天武天皇の孫・元正天皇が即位した霊亀元年(715年)から天武系の天皇が続いていたのに対し、桓武天皇の父・光仁天皇の代で半世紀ぶりに天智天皇系の天皇が出現しました。天応元年(781年)に父から譲位された桓武天皇が新たな天智系の王朝と捉えて、新王朝にふさわしい王都の造営を目論んだというのです。なるほど、奥が深い。(他に平城京は、下水道設備が不十分で、また清掃が行き届かなくて不衛生で、金属による環境汚染もあったという説もあります。)

 さらには、桓武天皇の生母が、百済渡来人である高野新笠(にいがさ)で、その父・和乙継(やまとのおとつぐ)は百済王武寧王の子孫だといいます。ですから、平城京から長岡京への遷都は、造営された山背国乙訓郡長岡村(現京都府向日市南部)が高野新笠の本拠地だったため、ということもあったようです。長岡村は、絶大な財力を持っていた秦氏の拠点でもありました。秦氏というのは、応神天皇の御代に百済から渡来してきた弓月君(ゆづきのきみ)を祖とする氏族で、当初は大和国葛城辺りに住んでいところ、後に山背国太秦などにも移り住み、土木や養蚕、機織りなどの技術を生かして財を蓄えたといいます。長岡京から平安京への遷都も秦氏の財力に頼ったことでしょう。

 こうしてみると、日本の古代国家(政権)が定着するには渡来人の助力がなければ、成り立たなかったと言えます。さらに踏み込んで言えば、人類学的にみて、弥生人=渡来人ならば、日本人のルーツ、特に権力者や上流階級の一部というより、多くのルーツは、文字や算術や仏教、それに農耕、土木建築、冶金、陶芸、養蚕、機織り技術を会得していた渡来人なのかもしれません。

 少なくとも、渡来人や遣隋使や遣唐使らが齎した朝鮮や中国の文物や文献なしでは、日本の古代国家が成立したなかったことは確かだと言えます。

長谷川等伯「楓図」などを堪能しました=「京都・智積院の名宝」展ー東京・六本木のサントリー美術館

 月刊誌「歴史人」(ABCアーク)12月号の読者プレゼントでチケットが当選した「京都・智積院の名宝」展(東京・六本木のサントリー美術館、2023年1月22日まで)に本日、行って参りました。

 未だコロナ禍で、事前予約制なのかどうか、場所は何処なのか、初めて行くところなので色々と調べて行きました。あれっ?そしたら、サントリー美術館には一度行ったことがありました。何の展覧会だったのか?…忘れてしまいましたが、今年だったようです…。うーむ、認知力が大分、衰えてきたようです。寄る年波、仕方ないですね。(ブログの過去記事を調べたら、以前行ったサントリー美術館は、今年5月2日「大英博物館 北斎 国内の肉筆画の名品とともに」展でした。こういう時、ブログは便利です=笑)

 私は土曜日の朝は、よくNHK-FMの「世界の快適音楽セレクション」を聴いております。本日はクリスマスイブということで、特別番組をやってましたが、その中でも面白かったのが、「ゴンチチルーレット」です。ゴンチチというのは、この番組のMCで、ゴンザレス三上(69)とチチ松村(68)の2人のギターデュオというのは皆さん御存知だと思います。これまで26枚ぐらいのCDアルバムをリリースし、収録してきた曲は300曲以上あるといいます。それらの曲をアトランダムにシャッフルして番号が付けられ、番組の中で、彼らがその番号を言って、かかった曲が何という曲か本人たちに当ててもらうという余興でした。300曲以上あると、自分たち本人が演奏していたとしても、確かに忘れてしまうものです。早速、曲がかかると、2人は「覚えてないなあ」「分からないなあ」を連発。中には、自分たちの曲なのに「この曲、知らん」としらを切ったりするので大笑いしてしまいました。

 まあ、そんなもんです。私も自分が過去に書いたブログの記事もすっかり忘れています(笑)。

 評論家小林秀雄も、自分の娘さんから難しい現代国語の問題を聞かれ、「誰が書いたんだ、こんな悪文。酷い文章だ」と吐き捨てたところ、小林秀雄本人の文章だったりしたという逸話も残っています。

 全くレベルが違うとはいえ、私がサントリー美術館のことを忘れたのも、同じ原理と言えるでしょう(笑)。

六本木・サントリー美術館

 さて、やっと、展覧会の話です。

 目玉になっている「国宝 長谷川等伯『楓図』 16世紀 智積院蔵」と「国宝 長谷川久蔵『桜図』 16世紀 智積院蔵」は初めての寺外同時公開らしいのですが、土曜日だというのに結構空いていたお蔭で、ゆっくりと堪能することが出来ました。

 実は、私、狩野永徳よりも長谷川等伯の方が好きなんですが、特に、東京国立博物館蔵の六曲一双の「松林図屏風」(国宝)は、日本美術の頂点だと思っています。水墨画でこれだけのことを表現できる芸術家は他に見当たりません。ワビサビの極致です。勿論、水墨画と言えば、雪舟かもしれません。本人も雪舟の弟子の第五世を自称していたほどですけど、雪舟は完成し過ぎです。等伯は見るものに修行させます。想像力と創造力の駆使が要求されます。脳の中で色々と構成させられます。でも、うまく焦点が合うと、松林図という二次元の世界が立体化し、松の枝が揺れ動き、風の音が聞こえ、風が肌身に当たる感覚さえ覚えるのです。

 今回の等伯の「楓図」は、写実主義の色彩画で抽象性が全くないのですが、その分、力量が狩野永徳に優ることを暗示してくれます。天下人の秀吉から依頼されたようなので、まさに命懸けで描き切った感じがします。

 「桜図」の長谷川久蔵は、等伯の長男ですが、25歳という若さで亡くなっています。父親譲りのこれだけの画の力量の持ち主なので、本当に惜しまれます。

東京「恵比寿ビアホール」 チキンオーバーライス1150円 展覧会を見終わって実家に行く途中で、六本木はあまり好きではなくなったので恵比寿で下車してランチにしました。

  これら国宝含む名宝を出品されたのが京都の智積院です。真言宗智山派の総本山で、末寺が全国に3000もあるそうです。

 京都には何度も行っておりますが、智積院にはまだお参りしたことがありません。会場で飾られたパネル地図を見ると、三十三間堂の近くの七条通りの東山にありました。この地は、もともと、秀吉が、3歳で夭折した子息・鶴松の菩提を弔うために創建した臨済宗の祥雲禅寺があり、等伯らの襖絵もその寺内の客殿にあったものでした。

 祥雲寺はその後、真言宗の中興の祖で新義真言宗の始祖と言われる覚鑁(かくばん、1095~1143)興教大師が創建した紀伊の根来寺に寄進されますが、それは、根来寺が、根来衆と呼ばれる僧兵を使って秀吉方に反旗を翻し、徳川方についたためでした。江戸時代になって大坂の陣で豊臣家が滅び、根来寺の塔頭だった智積院が東山のこの地を譲り受け、現在に至っています。

「歴史人」読者プレゼントにまたまた当選=人生、最も歩きやすい靴にめぐり逢い

 またまた、「歴史人」(ABCアーク)の読者プレゼントに当選してしまいました。これで何回目なのか、もう覚えていませんが(笑)、5回以上10回未満だと思います。運が良かった、としか言いようがありません。

 当選した12月号のプレゼントは、上の写真の通り、東京・サントリー美術館で開催中の「京都・智積院の名宝」展のチケット2枚です。わずか5組にしか当選しないのに、何でえ?と我ながら不思議に思います。そこで、仏教の「無財の七施」の精神を発揮して、会社の同僚に1枚あげることにしました。希望者が複数いたので、あみだくじで決めました(笑)。

 真言宗智山派の総本山である「京都・智積院の名宝」展の目玉は、私も大好きな長谷川等伯です。今回は、等伯一門による障壁画「桜図」「楓図」などが、寺外で初めて揃って展示されるというので、大いに楽しみです。

 版元のABCアークの後藤隆之編集長を始め、スタッフの皆様方には本当に感謝申し上げます。「歴史人」は毎号、毎号、本当に勉強になるのですが、実は、私は、応募はがきの中で、偉そうに、誤字脱字や誤植などを指摘したりします。少しでも「永久保存版」として、より良い「製品」になってほしいからです。私がこうして当選を重ねることが出来るのは、毎号、人一倍熟読として誤植を指摘するからではないか、と思っているほどです。

 今後も、スタッフの皆様には頑張ってほしいと思っております。

 これで終わってしまっては物足りないので、もう一つ、話題をご提供します。先日、通販で靴を注文したら、ちょっとキツくて、送り返しの宅急便代として1050円を払って、サイズ交換してもらったことを書きました。

 その靴が、昨日、自宅に届きました。

 今朝、通勤で履いてみたら、とっても歩きやすいので吃驚です。靴底の厚いゴムがバネのように跳ね上がり、歩いていても跳躍しているような感じです。歩くことが嬉しく楽しくなります。

 宣伝ではないので、あまり商品名は言いたくないのですが、スイス製の「オン」というスニーカーです。スイス製と言っても、作られたのはベトナムの工場です。私は、普段26センチの靴を履いているのですが、このスニーカーの場合、26センチではキツくて、26.5センチに交換してもらいましたが、この靴の表面がゴアテックスで防水性になっていて、普通のスニーカーより、やや硬めだったのです。もし、私の真似をしてこの靴をお求めになる方がいらっしゃるとしたら、サイズは少し大きめをお勧めします。

 恐らく、私が生きたこれまでの人生で色んな靴を履きましたが、これは一番、歩きやすい靴だと思います。

 あれっ? 宣伝ではありませんよ。この会社から1銭ももらっていませんからねえ(笑)。それに、本日は電車や街中でこの同じ靴を履いている人は見かけませんでした。履き易さ、というか、歩き易さは、あくまでも個人的な見解です。個人差があるでしょうから、責任は持ちませんので、そこんとこ宜しく御願い申し上げます。

「歴史人」(ABCアーク)の読者プレゼントにまたまた当選してしまいました

 にゃんとまあ、またまた、また、月刊誌「歴史人」(ABCアーク)の読者プレゼントに当選してしまいました。

 「歴史人」はここ数年、毎月買い続けて、毎月、読者プレゼントに応募しているので、いつだっけ? 何月号のプレゼントが当たったのかなあ、と思ったら、やはり8月号でした。

 しかも、上記写真の通り、「徳川家康公 御家紋 御花押」入りの彫刻グラスと「葛飾北斎 富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」のクリアボトルの二つもです。

 えっ? 何で? 何かの間違いなのでは? いや、確かに間違いなんでしょうけど、開けてしまいましたし…この際、有難く拝受仕り候、ということで、そこんとこ宜しくです。

「徳川家康公 御家紋 御花押」入りの彫刻グラス

 欲しかった家康公のグラスでは、シーバスリーガルか、ジャック・ダニエルか、奄美大島の黒糖焼酎「里の曙」を家康公の気分になって、オン・ザ・ロックで飲むつもりです。

 「マイ・ボトル」は世の中に溢れていますが、「マイ・グラス」をお持ちの方はさぞかし少ないでしょう(笑)。

「葛飾北斎 富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」のクリアボトル

 意外にも当選してしまった「葛飾北斎 富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」のクリアボトルは、うーん、何にしましょう? こちらなら返品しましょうか? ただし、御社が、返送用段ボールと郵送料を持って頂くという条件付きですよ(笑)。

 もし、こちらも当選品として受け取って良いなら、冷やした麦茶か何かを入れて、会社に持って行くことにしますか。

 そう言えば、私は「歴史人」は毎月購入して、このブログに「感想文」を書き、応募葉書にはいつも、酷い誤字脱字を指摘して、切磋琢磨されるよう叱咤激励しております。もしかしたら、私は「歴史人」の回し者に見られるかもしれませんが、単なる愛読者です。内容が良いので、いつも勉強させて頂いているだけで御座います。

 いずれにせよ、私を選んでいただいたABCアーク社の編集部か広告部か販売部か分かりませんけど、皆様、誠に有難う御座いました!

「徳川十六将」と阿茶の局のこと=恐るべき家康の人心掌握術

 またまたNHK大河ドラマの「便乗商法」と知りながら、「歴史人」8月号「徳川家康 天下人への決断」特集を購読してしまいました。いや、「タイアップ記事」かもしれませんが。

 2023年の大河ドラマは「どうする家康」が予定されています。戦国時代を終息させ、260年の太平の世をつくった徳川家康に関しては、私もある程度知識があるつもりでしたが、やはり、この本で初めて知ることが結構ありました。

 例えば、武田信玄との「三方ヶ原の戦い」で敗退した家康は、辛うじて命拾いをして浜松城にまで逃げ帰りますが、その途中で、家康の影武者になり、身代わりになって討ち死にしたのが夏目吉信という家臣でした。その彼の子孫に当たるのが、明治の文豪夏目漱石だったとは知りませんでした。ただ、夏目吉信の子孫はその後、旗本に取り立てられ、漱石の夏目家は代々、牛込の庄屋を務めていた家柄だったため、断定できないという説もあるようです。

 徳川家臣団のうち、「徳川四天王」と呼ばれた酒井忠次本多忠勝榊原康政井伊直政は大体、履歴は分かっておりましたが、「徳川十六将」に関しては、整理できておりませんでした。というのも、徳川の家臣には、大久保や鳥居や松平や本多や酒井の名字が実に多いからです。

 徳川家臣団の中で、世間でも有名な「伊賀忍者」服部半蔵こと服部正成は、「徳川十六将」に入っておりました。でも、「三河物語」の著者でもある有名な大久保彦左衛門こと大久保忠教(ただたか)は、「十六将」に入っていません。その代わり、彦左衛門の兄で、家康の父の代から仕えていた大久保忠世(ただよ)と大久保忠佐(ただすけ)が「十六将」に選ばれています。

 大久保といえば、本多正信との権力争いで敗れた老中の大久保忠隣(ただちか)も有名です。彼は、大久保忠世の嫡男で、小田原藩主も務めました。忠隣は、「十六将」には入っておりません。

 本多正信も「十六将」に入っていませんが、江戸幕府草創期のブレーンの筆頭として活躍しました。三河の下級武士出身で、三河の一向一揆では一向宗門徒側に就きましたが、後に許されて大出世することになります。同じく一向宗側に就いて許され、その後、戦陣で活躍した武将として、渡辺守綱蜂屋貞次が「十六将」に選ばれています。このように、人質時代から苦労している家康は、家臣に対して寛大で、かつては敵だった今川や武田や織田氏の家臣を徳川家臣団に取り込んで拡大していきます。恐るべき家康の人心掌握術です。

 大久保忠隣を政争で追い落とした本多正信の嫡男正純は、逆に大久保家などからの恨みを買い、「宇都宮城釣天井事件」で二代将軍秀忠暗殺の嫌疑を掛けられ、改易させられます。

名古屋城

 徳川十六将の中で、私でもよく知っているのは鳥居元忠です(弟の忠広も十六将に選ばれています)。彼は、家康が今川の人質時代から過ごした古参の一人で、関ケ原の戦いの前哨戦と言われた伏見城の戦いで、西軍に敗れて自刃しています。その際の血染めの廊下が、京都の養源院(豊臣秀吉の側室淀殿が父浅井長政の二十一回忌に建立、火災で焼失したが、淀君の妹で二代将軍秀忠の正室お江により再建)の天井として使われています。私は以前にこの養源院を訪れたことがあるので、血染めの天井は、鳥居元忠の名前とともに強烈な印象として残っているのでした。

 家康は11男5女をもうけたと言われますから、正室と側室は、名家の娘から町娘に至るまで15人以上いたといいます。正室の築山殿は、母が今川義元の妹でしたが、武田氏に通じているという嫌疑で殺害されます。

 側室の中で注目したのは阿茶の局です。家康との間に子宝に恵まれませんでしたが、大変、聡明な人だったらしく、関ケ原の戦いで、西軍の小早川秀秋が東軍に寝返る仲介をしたとも言われ、大坂の陣では、家康の意向で、本多正純板倉重昌らとともに和議の交渉役を果たしたといいます。また、秀忠の五女和子が後水尾天皇に入内する際に母代わりに入洛し、天皇から従一位を賜りました。

【徳川十六将】

 酒井忠次(1527~96年)、本多忠勝(1548~1610年)、榊原康政(1548~1606年)、井伊直政(1561~1602年)=以上「徳川四天王」、米津常春(1524~1612年)、高木清秀(1526~1610年)、内藤正成(1528~1602年)、大久保忠世(1532~94年)、大久保忠佐(1537~1613年)、蜂屋貞次(1539~64年)、鳥居元忠(1539~1600年)、鳥居忠広(?~1573年)渡辺守綱(1542~1620年)、平岩親吉(1542~1611年)、服部正成(1542~96年)、松平康忠(1545~1618年)

読者プレゼントに続けて当選してしまいました=人生は縁と運

 うひゃぁ~! 何たるちいあ(死語=笑)!

 応募した懸賞が続けて当選してしまいました。一つは、東京新聞の「6月16日 和菓子の日・読者プレゼント」(全国和菓子協会)です。応募したことさえも忘れていたので吃驚です。

 当選したのは、和菓子柄のエコバッグです。折り畳めばポケットに入る便利なバッグです。

 こりゃあいい。こいつは春から縁起がいい。(今は夏でした!)

 東京新聞と全国和菓子協会に感謝です。

もう一つは、「鎌倉殿の13人 大河ドラマ館」の入場券です。ここ数年、毎月購読している「歴史人」(ABCアーク)7月号の読者プレゼントで当選しました。

 実は同誌6月号で、あまりにも誤字脱字が多かったので、応募はがきにそれらをクドクドと指摘したので、恐れをなした編集部が気を遣って、私に当選させ、「口封じ」(笑)を狙ったものとみられますが、残念、こうして書かれてしまいました(爆笑)。

 「歴史人」読者プレゼントに当選したのは、これで4回目ぐらいです。凄い当選確率です(笑)。それだけ、私が、毎号、熟読して意見もどしどし述べているせいなのかもしれませんが、過去の当選者でも排除しない出版社の心意気には大変感謝したいと思っております。

 有難う御座いました。

 そして、「大河ドラマ館」も、2017年の井伊の「おんな城主 直虎」(浜松市)、2020年の明智光秀の「麒麟がくる」(岐阜市)、2021年の渋沢栄一の「青天を衝け」(東京都北区飛鳥山)と結構行っておりますので、今年の「鎌倉殿の13人」(鎌倉市)も「勉強のために、是非とも行って来い」ということになったのでしょうね。

新橋演舞場

 話は飛びますが、私のこれまで生きて来た苦難の人生の経験上、得た教訓は、「人生とは縁と運」でした。そして、それはてっきり自分だけが考えたものだと誤解していました。

 そしたら、先日、NHKラジオの「ビジネス英語」を聴いていたら、出演者のジェニー・シルバーさんが、こんな発言をしたのです。

 Life is about fate and luck, but fate will only come to you when you make the effort.

(意訳)人生とは縁と運みたいなものです。でも、縁というのは、努力して初めて恵まれるものではないでしょうか。

 えーー!? 「運」なら、西洋的な思想に思えますが、「縁」とはまさに仏教思想というか東洋的だと思っていたので、欧米人でも、縁と運の両方を重視する人がいたとは意外に思ってしまったのです。

 ま、同じ、人類として西洋人も東洋人も何も変わらない、ということなのかもしれませんが。

「ソ連侵攻の真実」を学びましょう=「歴史人」6月号

  今春は、ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」上下と「ホモ・デウス」上下、平山周吉著「満洲国グランドホテル」など超大作を読むのに掛かりっきりだっため、他の本や雑誌があまり読めず、積読状態になっています(笑)。

 例えば、雑誌の「歴史人」(ABCアーク)、「歴史道」(朝日新聞出版)なんかもう4~5冊も未読です(苦笑)。でも、考えてみれば、世界の文明国の中で、日本ほど、これだけ歴史雑誌が毎月のように定期的に出版されている国はないのでは? 日本人は真面目なんでしょうね。何歳になっても、歴史から教訓を学ぼうとしています。

 それに、悪い意味ではなく、「歴史修正」が進んでいて、私が、もう半世紀昔の高校生の頃に学んだ「歴史」とは随分変化しています。例えば、当時、645年は「大化の改新」としか習いませんでしたが、今では「乙巳の変」となり、鎌倉幕府成立も「1192年」(いいくに)だったのが、1185年(いいはこ)が定説になりそうです。歴史の教科書から「聖徳太子」や「坂本龍馬」の名前が消える? ということも話題になりました。歴史学習も、パソコンのソフトと同じように「更新」しなければならないということなのでしょう。

 そこで、本日は、「歴史人」6月号の「沖縄戦とソ連侵攻の真実」特集を取り上げることに致します。私自身、前半の「沖縄戦」についてはある程度知っておりましたが、後半の「ソ連侵攻の真実」については、不勉強で知らないことが多かったでした。

 雑誌ですから、タイムリーにも今、進行中のロシアによるウクライナ侵攻も取り上げております。井上寿一学習院大教授の記事などを引用しますと、1997年、ロシア・ウクライナ友好協力条約が成立し、ウクライナの領土保全・国境不可侵などをうたったというのに、ロシアは2014年にクリミア半島を併合し、今年2月24日にはウクライナ全土の侵略を開始し、民間人を大虐殺するなど戦争犯罪を犯しています。

 つまり、ロシアという国は国際条約や国際法を破っても、不法者や犯罪者意識がサラサラなく、ならず者国家だということです。条約の一方的破棄と侵略は、この国のまさに「お家芸」であり、「伝統」だとも言えます。プーチンは、尊敬するスターリンの顰に倣ったとも言われますが、そのスターリンがしたことは、1945年8月9日、日ソ中立条約(41年4月に締結され、少なくとも46年4月までは有効だった)を一方的に破棄し、まずは満洲国に侵攻し、対日参戦したことでした(ヤルタ会談での密約)。

「歴史人」6月号 「沖縄戦とソ連侵攻の真実」

 満洲に侵攻したソ連軍は150万兵とも言われ、この特集号で初めて、その侵攻する師団がどのルートで制圧していったかなどの詳細が分かりました。対する日本の関東軍は70万兵とは言われていましたが、既にその前年から、グアム、沖縄、フィリピンなどに精鋭部隊は根こそぎ取られ、「張り子の虎」に過ぎなかったといいます。

 終戦時155万人の日本人が満洲、関東州にいましたが、そのうち死亡者は17万6000人、その半分近い7万8500人が開拓団の犠牲者だと言われています。また、ソ連軍は約60万人の日本人をシベリアに抑留し、劣悪な環境と十分ではない食事の収容所や強制労働で5万~10万人が死亡したといいます。シベリア抑留は日本人だけかと思いきや、ハンガリー人50万人、ドイツ人は何と240万人も強制奴隷労働で使役したといいます。

 スターリンの悪行はこれだけではありません。8月11日から樺太侵攻を開始します。南樺太は、日露戦争で薄氷の勝利を収めた日本が1905年のポーツマス条約によって割譲された日本領土でした。ソ連軍は、兵力に劣る日本を圧倒し、17日、王子製紙と炭坑で栄えた樺太最大の恵須取(えすとる=人口4万人)を制圧、25日には南端の大泊に進駐し、樺太全島の占領を完了します。その後、疎開する民間人を乗せた小笠原丸、第二新興丸、泰東丸の3船が、北海道留萌沖で、ソ連軍潜水艦によって撃沈され、1700人以上の民間人が犠牲になります。これで、ロシアによる民間人虐殺はウクライナで始まったわけではなく、お家芸だったことが分かります。

 ちなみに、樺太の後に、ソ連軍によって占拠される国後、択捉、歯舞、色丹の「北方四島」は、幕末の1855年、日露和親条約で取り決められた日本領土でした(樺太は日露両国雑居地とした)。また、その後、明治になった1875年には、択捉島の隣りの得撫島(うるっぷとう)からカムチャッカ半島に近接する占守島(しゅむしゅとう)までの21島のことを「千島列島」と称し、ロシアは樺太を、日本は千島列島を交換して領有する条約が締結されました。(千島・樺太交換条約)

 スターリンの目論見は、樺太と千島列島の占領だけではありませんでした。北海道の釧路と留萌を結ぶラインの北半分を占拠するつもりだったのです。もし、それが実現していたら、日本も朝鮮半島やベルリンの二の舞になっていたところでした。

 それを阻止したのが、日本の最北端のカムチャッカ半島との国境近い占守島での激戦でした。占守島(しゅむしゅとう)とはいっても、私の世代では知らない人がほとんどです。が、私の親の世代は知っていました。ソ連軍が占守島に侵攻したのは、何と「終戦」が終わった8月18日でした。司馬遼太郎の戦車学校時代の上官だった池田末男連隊長(陸軍大佐)らの戦死もありましたが、第91師団歩兵第73旅団など日本軍守備隊は、札幌にいる第5方面軍司令官樋口季一郎中将の指揮で、死力を尽くして防衛して時間を稼ぎ、ソ連軍が足止めを食らっている隙に、米軍が北海道に進駐し、スターリンの北海道分割という野望は挫かれます。

 8月21日に休戦協定が締結されますが、占守島での日本軍の死傷者600~1000人に対して、ソ連軍は1500~4000人だったと言われます。

 北の大地では、8月15日は終戦でも何でもありませんでした。

 今ではこの史実を知る人は少ないのではないでしょうか?

 

「新説 戦乱の日本史」(SB新書)が当たった!=月刊誌「歴史人」読者プレゼントに3度目の当選

 またまた月刊誌「歴史人」(ABCアーク)の読者プレゼントに当選してしまいました。

 これで何と3度目です。この雑誌は、あまりにも面白くてためになるので、ここ1~2年、毎月購入していますが、何か申し訳ない気持ちでいっぱいです。

 今回当たったのは、嬉しくも本です。「新説 戦乱の日本史」(SB新書)という本です。倉本一宏、亀田俊和、千田嘉博、 川戸貴史の各氏ら古代史から近現代史までのその筋の権威が書いているので、面白くないわけがありません。

 取り上げられている「戦乱」は、乙巳の変から関ケ原の戦い、アジア・太平洋戦争まで15件。「新説」ですから、例えば、 乙巳の変は、「蘇我氏内部の抗争も関わったクーデターだった」とするなどこれまでの常識を半ば覆すような説が展開されているようなので、今から読むのが楽しみです。

和田アキ子さんの店、築地「わだ家」

 これで終わってしまうと、あっさりしてしまうので、また銀座ランチ、いや築地ランチです。 

 昨日は、久しぶりに歌手 和田アキ子さんの店、築地「わだ家」に行って来ました。前回行った時は、それほど混んでいなかったのですが、今回は、コロナ感染者の減少のせいか、ほぼ満員で、少し待たされました。

築地「わだ家」 豚丼定食880円

 注文したのは、豚丼定食。これだけ揃って880円とは超お得。

 でも、これまで北海道の帯広で元祖の本場もんを食べて来たので、申し訳ないですが、軍配は帯広の勝ち。こちらは、ちょっとご飯が少なめで、豚が多過ぎ。別に温泉卵もいらないんですけど…。

 こんなことを書くと、アッ子さんから怒られるので、本場帯広の豚丼の味を知っている私が悪いのです、と付記しておきます。