北条早雲の興国寺城跡=ついに「洗脳」されたO氏

  会社の後輩で、還暦過ぎて静岡県の某支局長に転身したO氏からメールが来ました。な、何と、戦国時代の火ぶたを切ったと言われる伊勢新九郎盛時(北条早雲=1456?~1519年)の最初の居城として知られる興国寺城跡(静岡県沼津市)に週末の休日を利用して行って来たというのです。しかも、「高低差20メートルもある空堀を作らせて東西に睨みをきかせた北条早雲の野望を感じました」と大いに感動した様子だったのです。

興国寺城跡(静岡県沼津市)Copyright par K.O

 O氏は昨年10月末まで、小生と同じ部署で、席が隣でしたので、仕事の合間によく無駄話をしたものでした。主に小生が、歴史や文化などについて、偉そうに蘊蓄を傾けることが多かったのですが、特に力を入れたのは、全国のお城巡りや神社仏閣、仏像の話でした。

 しかし、O氏は全くといっていいぐらい関心がなく、特にお城の魅力をこちらがいくら口酸っぱく唱えても、うわの空でしか聞いてくれませんでした。

興国寺城跡(静岡県沼津市) Copyright par K.O

 そんな彼が、この期に及んでお城の魅力を語るとは! やっと、小生の「洗脳」が実を結んだ、と感激したわけなのです(笑)。

興国寺城跡(静岡県沼津市) Copyright par K.O

 全国にお城は、2万5000とも3万ともあると言われ、中世の山城跡も含めば5万以上はあると言われています。恐らく、一人で一生懸けても全てを回れないかもしれません。

 でも、城廻りをすると、健康にも良いちょっとした運動になり、山城も多いので、良い空気が吸えます(笑)。何よりも、色々と調べるとその時代のことや城主の家系も知りたくなり、日本史に詳しくなります。お城は合戦の場なので、それ以外の、というか、それに付随する城主の菩提寺や合戦必勝に願を懸ける神社にも興味を持つようになり、城と併せてお参りしたくなります。

興国寺城跡(静岡県沼津市) 穂見神社 Copyright par K.O

 特に城跡は建物も何も残っていないので、当時の櫓や大手門などを想像する楽しみがあります。O氏が感動した興国寺城跡は遺跡ではありますが、実際に行ってみれば、歴史上の人物だった北条早雲が実在したという実感をつかむことが出来たと思います。(小生は行ったことがないので、いつか行ってみたいと思っています。)

 現存12天守や大坂城、名古屋城などは入場料が必要ですが、山城のほとんどは無料で入ることが出来て、誰にでも開放されているところが魅力です。

 別にお城は歴史学者さんらの独占物でも何でもありませんから、庶民でも大いに知的に楽しめばいいのです。と書きながら、私は読者の皆さんにもお城廻りを趣味にするよう「洗脳」しております(笑)。

 

残念!「ブラタモリ」終了

 NHKの人気番組「ブラタモリ」が3月末で終わってしまうんですね。とても、残念です。「目から鱗が落ちる」ような話がふんだんに用意されていて、とてもタメになったからです。

 それでも、番組当初はその存在すら知りませんでした。タモリと女子アナとの掛け合いも見どころですが、初代アシスタントの久保田祐佳さんも2代目の首藤奈知子さんも見たことがありませんでした。番組を見始めたのは、3代目の桑子真帆さんからでした。彼女は頭の回転が速く、最初はとまどっていたのに、どんどん知識を吸収して成長していく様が見ものでした。3~4年間担当していたと思っていましたが、2015年4月からわずか1年しか担当していなかったんですね。ブラタモリといえば、桑子ちゃんというイメージが強かったので意外でした。今では、「クローズアップ現代」を担当するなど看板アナです。

 4代目の近江友里恵さんは16年4月から2年間担当しましたが、一番好感が持てる人でした。天然ボケに見せかけて、裏ではかなり勉強していることが分かりました。でも、そういう人に限ってNHKを退局してしまうんですね。18年4月から担当した5代目の林田理沙さんは東京芸大ピアノ科卒という異色のアナウンサーで博士号まで取得しているところが凄い。門外漢の地学や地球物理学には苦手意識丸出しでしたが、彼女も努力家で凄い成長して惜しまれて降板した感じでした。20年から2年間担当した6代目の浅野里香さんは近江アナより天然ボケで肩肘を張らない物おじしない所が良かった。そして22年から担当している現在の7代目の野口葵衣さんは、場違いな感じがしましたが、気が付かないうちに溶け込んでいったところ凄い。

東銀座

「なあんだ、お前は女子アナしか注目しなかったのか」と言われそうなので、弁解しますが、非常に勉強になりました。岩石のチャートなんて、この番組で初めて知りました。タモリは岩石マニアなので何でも知っていて、講師の案内役を驚かせていましたが、事前にかなり情報を仕入れて彼は台本通りに喋っていたと、性格が悪い私は推測してます(笑)。

それに、道を歩いていて、変に蛇行していたり窪んだりしていると、「ははあん、ここは元々は川が流れていて今は暗渠になってるんだなあ」と推理を働かせるようになりました。

番組は事前の下調べから始まって案内役の選定に至るまで、かなりお金をかけていたことがそのスタッフの多さで分かります。あんな番組、一人しか取材に行かない新聞記者では無理だし、民放でも作れません。スタッフが有り余っている天下のNHKだからこそ作れるのです。

 前回放送された「鎌倉」は、もう、種が尽きたかと思ったら、知らないことばかり。特に、極楽寺は、元寇の頃から作られ、西日本がもし元に占領された時を見込んで、興福寺や那智大社や東大寺の大仏まで模して鎌倉に作っていたとは驚きでした。

また、金沢文庫には、国宝が2万点、世界に一つしかない蔵書も何点もあるということで、歴史を後世に伝えた金沢北条氏と称名寺の影に隠れた貢献には感動しました。

もっと北条氏を再評価していいですよね。

多宝塔が身近にあったので吃驚=真言宗智山派の円乗院

 昨日は半年ぶりぐらいで東久留米の実家に行って来ましたが、9月の半ばだというのに強烈な残暑というより猛暑で、駅から実家まで歩いたら釜茹で状態でした。ちょっとあまりにもの異常気象で、このままでは人類も地球に住めなくなるんじゃないかという嫌な予感がしてきました。地球物理学では、それは20億年後ですが、もっと早まるのではないでしょうか。

円乗院

 ところで、私の趣味は、皆様にはバレておりますが、世界の城巡りと神社仏閣巡りです。あと温泉巡りですかね(笑)。暇さえあれば色々と行きたいのですが、今年の夏の暑さは異常でしたので、途中で熱中症になって周囲に迷惑をかけたくないということで、自重しておりました。

円乗院

 9月の半ばですから、近場ならいいか、ということで、やっと、神社仏閣巡りを再開しました。自宅から自転車で20分ほど。安養山西念寺円乗院です。鎌倉時代、「坂東武士の鑑」との誉(ほまれ)高い畠山重忠(1164~1205年)が建久年間(1190~99年)に、道場村(現さいたま市桜区道場)に創建し、慶長年間(1596~1615年)に現在地(さいたま市中央区)に移建されたといいます。真言宗智山派で、御本尊は五大明王です。

 畠山重忠は今の埼玉県深谷市生まれで、今の比企郡嵐山町の菅谷館を本拠地としておりましたが、この辺りまでも畠山重忠の領地だったということになりますね。

円乗院

  お目当ては、境内にある高さ30メートルの多宝塔でした。弘法大師空海の1150年御遠忌に当たる昭和56年(1981年)に記念事業として建立されたものです。高野山金剛峯寺、根来寺に次ぐ大塔ということで必見、いやお参りには欠かせません。

円乗院

 御覧の通り、確かに立派な大塔です。以前、私自身、高野山にお参りしましたが、そこにある根本中堂を思い出しました。そっくりです。住宅街の中に、根本中堂のような大塔があるのは、どこか、不自然ではありますが、境内に入れば神聖な雰囲気があります。

 残念ながら、多宝塔の敷地内には入れませんでしたが、真言宗ですから、塔内では大日如来を祀っているかもしれません。

円乗院

 拝観時間は午前7時から午後5時までです。私がお参りした時は、どなたも他に参拝者はおりませんでしたが、色んな方がいらっしゃるようで、境内には「三脚撮影禁止」だの、「ここからは墓参者のみ関係者以外は立ち入り禁止」だのといった看板があちらこちらに「展示」され、よほど、何かの被害を蒙っているのかしら?と思ってしまいました。

円乗院

 「ご安心ください。私は単なる神社仏閣巡りの参拝者です」と言いながら、本堂でのお賽銭は少し弾んでおきました。

 そして、ここをお参りすることが出来て、坂東武者の畠山重忠のことをまた少し身近に感じることが出来ました。歴史が教えるところでは、彼は、清廉潔白の恩義に堅い武将で、源平合戦で大活躍しましたが、源頼朝の死後、北条時政の騙し討ちに遭って、命を落としました。まさに、権力闘争です。

 関東地方には、鎌倉だけではなく、御家人たちが建立した寺院が多くあります。いつ何時、生命を奪われかねない乱世で、武将たちは仏教に救いを求めたことがよく分かります。

天祖神社

 この円乗院の奥という言い方は変ですが、与野本町駅を背後に前進すると、バラ園で有名な与野公園がありました。

 ついで、と言っては怒られますが、公園内に天祖神社が祀られていましたので、お参りして来ました。

 以上、本日は、何か、小学生の夏休みの作文のような記事でした。

天婦羅もタバコもコップも元々はポルトガル語だったとは!

 ポルトガルの旅行番組を見ていたら、ポルトガル料理が食べたくなりました。ポルトガル料理といえば、ポルトガル好きが高じて何年か現地に滞在した好きな作家の檀一雄のことを思い起こします。ポルトガル料理店は、銀座にあるのかしら?

 ご安心ください。東京・銀座は、恐らく世界一のグルメ都市かもしれません。ない料理店はないくらいです。ミシュランの三ツ星レストランが多いということで世界的に有名になったスペイン・バスク地方のサン・セバスティアンに引けを取らないのではないでしょうか?だって、ランチでさえも、世界中の料理が楽しめるからです。

 私の個人的印象では、やはり、銀座で気軽にランチが食べられるお店で一番多いのは和食店というのは当たり前ですが、二番目は一時の「イタ飯」ブームが続いているイタリア料理店だと思います。西洋料理店の筆頭でしょう。次は、フランス料理店といきたいところですが、どうも高級感が先に出て下火になり、イタリアンに抜かれ、今やスペイン料理店の方がフレンチより多いような気がします。フランス料理店ともなると、ロワジールにせよ、エスコフィエにせよ、ポール・ボウキューズにせよ、ちょっと敷居が高過ぎますからね。フレンチと聞いただけで、庶民は、敬遠してしまいます。

銀座・ベトナム料理「ニャー」バンミー&牛フォーセットランチ一1200円

 残念ながら、英国とドイツはグルメの世界では除外されてしまいますが、銀座にはあります。また、ロシア料理店は数軒あり、私の行きつけの店もあります。世界三大料理の一つと言われるトルコ料理店もあります。アジアでは、中華料理店がイタリアンと同じか、それより少し多いぐらいありますが、タイやヴェトナム、インドネシアなども増えました。個人的には、ヴェトナムのラーメンと言われる「フォー」が好きなので、結構、ヴェトナム料理店には行きます。

 さて、銀座にポルトガル料理店はあるのでしょうか?

 ありました、ありました。さすがに銀座です。数軒あるようですが、私は、その中の泰明小学校の向かいのビルの地下にある「ビラモウラ」という店にしました。何度か店先は通っても、入店するのは初めてでした。

 ビラモウラとは、ポルトガルの南の地中海に面したリゾート地らしいですね。

 ランチに何種類かありましたが、私はポルトガルの伝統料理「フェイジョアーダ」というのも頼んでみました。「麦小町豚肉と豆の煮込み」と書いてありましたが、同じイベリア半島なのに、スペイン料理と全くと言っていいぐらい違いますね。豆が入っているせいかもしれません。言い過ぎかもしれませんが、ポルトガル料理の方が、庶民的な味がしました。

 そう言えば、ワインもスペインのきりっとしたワインとポルトガルのポートワインと全然違いますからね。ポルトガル人は甘口を好むのかしら?

 世界のGDPランキングで、ポルトガルは現在50位で、スペインは15位ですから、欧州の中でも下位です。15世紀から17世紀にかけての大航海時代では、スペインと世界を二分した超大国だったポルトガルは、今はその勢いの影もないほどですが、遺産だけは残しています。植民地にしたブラジルやアンゴラ、モザンビークなどでは今でも公用語はポルトガル語ですし、南蛮人として日本にやって来たので、結構、ポルトガル語が日本語に取り入れられているのです。

 カステラ、カルタ、ボタン、ビロード、ビスケット、キャラメルなどは私も知っておりましたが、何と何と、天婦羅までポルトガル語のtempero から来ているんですってね! これには吃驚しました。天婦羅がもともとポルトガル料理だとしたら、世界遺産の和食じゃないってことなんでしょうか?(笑)

 テーブルに「日本語になったポルトガル語」の一覧表があって、他にも色々とありました。ブランコ、カナリア、コンペイトウ、チャルメラ、コップ、デウス(神)、マント、パン、オルガン、タバコ、ベランダ、シャボン(石鹸)までありました。

 全く「へ~」ですよ。確かに、日本人が最初に接触した西洋人は1543年に種子島に鉄砲を伝来したポルトガル人でした。世が世なら、日本はもっとポルトガルの影響を受けたかもしれませんが、コップ、パン、ベランダ…といった言葉だけでも凄いですよ。

浅草物語=Aさんと10年ぶりの再会

 25日(日)は、久しぶりに浅草に行って来ました。友人のAさんと10年ぶりぐらいに会うためでした。

 Aさんは日本人ですが、もう長らくフランスに住んでおり、何年に1度か帰国する程度で、今回、久しぶりにタイミングが合ったので、渡仏する前日にお会いすることにしたのです。

浅草寺 雷門

 Aさんとは老舗蕎麦屋で待ち合わせしましたが、時間があったので、一人で観音様にお参りすることにしました。

浅草寺

 日曜日なので、凄い人出でした。でも、ほとんどが外国人観光客という感じでした。コロナの第9波が始まったという報道もありましたが、彼らは、もうほとんどマスクもせずに満喫しておられました。

浅草寺

 でも、考えてみれば、外国人観光客が東京見物するとすれば、浅草ぐらいしかないんですよね。奈良や京都のように広大な敷地を持つ寺社仏閣が東京にはほとんどありませんからね。

 私も以前、外国人観光客のツアーガイドをしたことがありますが、やはり、浅草と秋葉原と銀座ぐらいでした。あとは原宿の明治神宮ぐらいでしょうか。

 だから、浅草に人が殺到するのでしょう。本堂の参拝所の前は、ほとんどが外国人観光客で、かなりの行列でしたので、参拝は諦めて、目的地に向かいました。

浅草 そば処「弁天」天せいろ 1980円

 目的地のそば処「弁天」は昭和25年創業で、江戸時代から続く店もある浅草の中では、それほど老舗ではありませんが、もう70年以上続いています。グルメ雑誌「dancyu」で紹介されていたので、3週間も前に予約を取っておきました。

 天せいろに板わさ、それにビールと日本酒を注文しました。さすがdancyuお勧めとあって、蕎麦の旨味、カラット揚がった天婦羅との相性が抜群で、その美味に舌鼓を打ちました。

 久し振りの再会で、積もる話もあり、調子に乗って呑んでいたら、店の主人が不機嫌そうな顔をして「ここは2時間で制限してます」と言うではありませんか。こちらもそのつもりでしたが、まだ!1時間半しか経っていません。我々も気分を悪くして、勘定を済ませる時に、私が「まだ1時間半でしたよ」と嫌味を言ったら、向こうは「本当は日曜日の予約を取っていないんですよ」と反発するではありませんか! それなら最初から、電話で予約を受けた際に「日曜日は予約受け付けていない」と言えばいいじゃないか! 味は「日本一」で、最高だけど、もう二度とこの店の暖簾をくぐるものか、と思いましたね。(※あくまでも個人の感想です。鬼平ファンのAさんのために、せっかく日本酒と蕎麦の組み合わせで蕎麦屋さんにしたのに残念でした。)

浅草「神谷バー」デンキブラン 350円

 このまま別れるつもりでしたが、気分直しに有名な「神谷バー」に行こうと提案したら、Aさんも「私も行きたかった店です」と言うではありませんか。凄い偶然。その前に、通りすがりにビジネスホテルがあったので、私が当てずっぽうに「(前泊するのは)ここのホテルでしょ?」と聞いたら、ズバリでした。偶然の一致が続きました(やはり、人生とは偶然の産物でした=笑)。

 Aさんは大変慎み深い人で、あまりネットに書かれることは好まれないので、細かい事は省略させて頂きますが、パリ郊外の某大学で、日本語と日本文化の教鞭を執っておられる方です。久しぶりにお会いして、話は脈絡がないほど多岐に渡りましたが、超エリート教育を進めるフランスのグランゼコールの話などを伺いました。

 神谷バー名物のデンキブランは2杯で打ち止めにして帰宅しました。昨年は40度の焼酎で泥酔して帰りは傷だらけとなり、今でもその傷跡が残るぐらいですから、さすがに自重しました(笑)。

背広1着100万円=NHK「世界ふれあい街歩き」ロンドン編

 以前は、全くといっていいぐらい、ほとんどテレビは見なかったのですが、最近では結構見るようになりました。もっとも、「見る」とはいっても、大抵はナマではなく、ビデオ録画したものですが。

 よく見る番組は、やはり、大半は歴史ものか、旅行ものです。特に好きな番組は、NHKの「世界ふれあい街歩き」という番組です。この番組は、カメラを旅人目線に設置して、世界中の有名、無名の街を、まさに地元の人と触れ合いながら旅をする1時間の番組です。途中で、博物館の館長らが出てきて、その土地の歴史を説明してくれたり、くさい演技をする地元の女子大生がその土地の名物グルメを紹介したりするコーナーもあり、毎回、パターンは同じですが、結構知らないことばかりなので楽しめます。

 BSだけでなく、地上波でも再放送したりしているので、私なんか、30分ぐらい見て、やっと初めて、「あっ! 前に見たことがある!」と気付いたりします。(随分、加齢力が付いてきました。)

 番組では、街で偶然すれ違った人に声を掛けると、「ウチにいらっしゃい」と自宅に招待してくれたり、朝出会った人が、夕方に偶然にパブや劇場などで再会したり、何処かで音楽が聴こえる、と思って近づいたら、偶然、午前中に一度会った人がバグパイプを吹いていたりするような同じパターンが、毎回、毎回、様式美のように繰り返されます。

 それにしても、あまりにも「偶然」があり過ぎます。さすがに、最後のテロップで「コーディネーター」の肩書の人が登場したりするので、「偶然」ではなく、かなり事前からちゃんとアポイントを取っているのは確実で、偶然を装って、演技をしてもらっていることが容易に想像できます。そりゃそうでしょう。いきなりカメラを持った日本人が、顔の目の前にやって来たりしたら、誰でも怪しむはずですよ。

 先日は「格式高きクールな街 ロンドン メイフェア&ソーホー」というタイトルで、ロンドン一の高級住宅街を特集しておりました(再放送か再々放送)。メイフェアは、May fair で、17.8世紀に、ここで5月にマーケット(定期市)が開かれたことから付けられたそうです。昨年逝去したエリザベス女王(2世)もこのメイフェアの祖母の家で生まれたといいます。

 高級住宅街ですから、王室御用達の店も立ち並びます。特に有名なのは、日本語の「背広」の語源になったとも言われるサヴィル・ロウ地区です。この辺りに十何軒か洋服仕立て屋さんがありますが、番組では「偶然に」入った店が「ヘンリー・プール」Henry Poole という店でした。数ある洋服店の中でも最古の老舗らしく、1806年創業です。首相を務めたウィストン・チャーチルが若い頃から贔屓にしていたといわれ、今でも彼の顧客名簿と型紙が残っていました。調べてみたら、フランスのナポレオン三世まで海を越えて愛用したようです。ナポレオン三世の写真を見たら、以後は、「おっ?あの服はヘンリー・プールかな?」と考えるようにします(笑)。

 番組では、この店の支配人らしき人にインタビューしておりましたが、驚いたことに、背広1着のオーダーメイド代が6000ポンドから、日本円にして100万円からというので魂げてしまいましたよ。支配人は「20年は持ちますから、それほど驚くべき価格ではありません」と胸を張っておりました。

 もう一つ、たまたま通りすがりにあった会員制の社交場「ジェントルマンズ・クラブ」も紹介されていました。室内には宮殿のような豪華な調度品が並ぶ邸宅は、もともとは銀行家のJPモルガンのロンドンの自宅だったといいますから、これも驚くばかりです。ここの会員になるには、6人の会員からの推薦がなければならないのですが、年会費は「意外に安く」、1600ポンド(27万円)だと言っておりました。

 これまたヤラセ、おっと失礼、偶然にも、室内で3人の紳士会員が談笑しておりましたが、3人とも全員、恐らく、ヘンリー・プールで誂えた100万円の高級スーツを身に纏い、「ここでは服装規定dress code はありませんけど、それなりの格好をしなければ…」と、穏やかにクイーンズ・イングリッシュで応答しておりました。

 下衆な勘繰りではありますが、会員の皆様方は一体、どんな話をされるんでしょうか? 恐らく、天下国家や株やファンドの値動きやウクライナ戦争の話なんかでしょうか? ジャーナリストの会員さんもおりましたが、まさか、英オーディション番組で決勝進出した、とにかく明るい安村や広末涼子の話なんかしないことでしょうね。

名著なればのズッシリとした感動=レヴィ=ストロース著、川田順造訳「悲しき熱帯」

 レヴィ=ストロース(1908~2009年)著、川田順造訳「悲しき熱帯Ⅱ」(中公クラシックス)をやっと読了することが出来ました。マルセル・プルーストのような文章は、非常に難解で、かなり読み解くのに苦労しましたが、やはり、名著と言われるだけに、読了することが出来てズシリと重い達成感があり、感無量になりました。

 最後まで読んでいたら、本当に最終巻末に「年表」や「関連地図」(大貫良夫氏作成)まで掲載されていたので、「ありゃまあ、知らなかった」と驚いてしまいました。最初から地図があることを知っていたら、参照しながら読めたのに、と思ったのです。確かに、カタカナの固有名詞が出て来ると、最初は、これが地名なのか、ヒトの名前なのか、植物なのか、戸惑うことが多かったからです。そんなら、今度は地図を見ながら再読しますか?(笑)

新富町・割烹「中むら」小アジフライ定食 銀座では絶滅した、雰囲気のある小料理屋。銀座より価格は100円ほど安くリーズナブル。女将さんも感じが良い、常連さんが多い店でした。

 「悲しき熱帯」の大長編の中で、一つだけ印象深かったことを挙げろ、と言われますと、私は迷うことなく、ナンビクワラ族の訪問記を挙げますね。この部族に関しては、以前にもチラッとこのブログに書きましたが、とにかく、アマゾン奥地の未開人の中で最も貧しい部族だったからです。(著者は、ナンビクワラ族のことを「石器時代」なんて書いております。)

 「悲しき熱帯Ⅱ」の161ページにはこんな記述がみられます。

 ハンモックは、熱帯アメリカのインディオの発明によるものだ。が、そのハンモックも、それ以外の休息や睡眠に使う道具も一切持っていないということは、ナンビクワラ族の貧しさを端的に表している。彼らは地面に裸で寝るのである。乾季の夜は寒く、彼らは互いに体を寄せあったり、焚火に近寄ったりして暖をとる。

 この前の141~142ページには、ナンビクワラ族の生活様態が描かれています。

  ナンビクワラ族の1年は、はっきりとして二つの時期に分けられている。10月から3月までの雨の多い季節は、集団は各々、小川の流れを見下ろす小さな高地の上に居住する。先住民は、そこに木の枝や椰子の葉でざっとした小屋を建てる。(中略)乾季の初めに村は放棄され、各集団は幾つかの遊動的な群れになって散って行く。7カ月の間、これらの群れは獲物を求めてサバンナを渡り歩くのである。獲物といっても多くは小動物で、蛆虫、蜘蛛、イナゴ、齧歯動物、蛇、トカゲなどである。このほか、木の実や草の実、根、野性の蜂蜜など、いわば彼らを飢え死にから守ってくれるあらゆるものを探し歩く。

 うーむ、凄いなあ、凄まじい生活ですね。蛆虫まで御馳走?になるなんて、最も生活レベルが低い人類であることは間違いないことでしょう。とても、生き残れるとは思えません。彼らはその後どうなったのか? と思ったら、日本人の文化人類学者がしっかりと、フォローされているようですね。巻末に参考文献として列挙されていました。

 一つは、著名な文化人類学者の今福龍太氏の論考「時の地峡をわたって」(レヴィ=ストロース著「サンパウロのサウダージ」(みすず書房)の今福氏による翻訳版に所収)です。今福氏が2000年3月にサンパウロ大学に招聘されたことを機会に、60年余り前にレヴィ=ストロースが住み、写真を撮った地点を丹念に再訪して鋭利な考察を行ったものです。

 もう一つは、この「悲しき熱帯」を翻訳した川田順造氏の著書「『悲しき熱帯』の記憶」(中公文庫)です。レヴィ=ストロースのブラジル体験から50年後(1984年)に、ナンビクワラをはじめ、ブラジル各地を訪れて感じ、考えたことを起点に「悲しき熱帯」の現在を考察したものです。

 いずれも、私自身未読なので内容は分かりませんが、こうして、世界中の文化人類学者がレヴィ=ストロースに大いなる影響を受けたことが分かります。レヴィ=ストロースのもう一つの代表作「野生の思考」(みすず書房)も私自身、未読ですので、いつか挑戦してみたいと思っております。

湯築城、宇和島城、大洲城=四国9名城巡り最終3日目(下)

宇和島城(現存12天守)

11月26日付「高知城、松山城、今治城」編に続く「四国9名城巡り」3日目の最終編です。いくら事前に少し「予習」したとはいえ、九つも城を廻ると、何が何だか分からなくなり、頭が混乱してしまいます。

 でも、ツアーの地元バスガイドのKさんはベテランで、流石に手馴れているというか、熟練の技を発揮され、それぞれのお城の築城者や歴史だけでなく、地元の特産品や、この他の四国の名勝名跡まで、しっかり頭に入っていてメモなしで話をしていたので感心してしまいました。「実は、わたしは、松山市郊外の愛媛みかんの農家の娘なんです」と打ち明けておられましたが、非常に頭脳明晰で、大変勉強熱心な方だということはすぐ分かりました。こちらも色々と教えてもらい、松山の名産「六時屋タルト」は、松山藩の久松松平家が長崎奉行を務めていた際に、ポルトガル人から製法を秘伝され、今では皇室御用達になっているとか、このブログに書いていることは、ほとんどガイドさんからの受けおりみたいなものです(笑)。

 前日に泊まった今治市では、タオルの生産が日本一で約8割も占め、市内には150社ほどもありますが、厳選な資格審査、しかもアポなしで製品審査を強行して、それに通った会社しか「今治タオル」のブランドを名乗ってはいけないことも教えてもらいました。ですから、数千円から3万円もするタオルがあるそうです。また、安倍晋三政権時代に大きな問題になった加計学園が今治市にあり、バスで近くを通ると、「ここからは見えませんが、あの小さい丘の向こうにあるんですよ」と、しっかり忖度なしに教えて頂きました(笑)。

湯築城(100名城)

 最終日の最初、初日から数えれば7番目に訪れた城は、愛媛県松山市にある湯築城(国指定史跡)でした。今治市からバスで南下して1時間ちょっとです。松山城の近くなので、当初は2日目に松山城と一緒に廻る予定でしたが、湯築城は、月曜日が休館だったため、この日に変更されたのでした。

 正直、湯築城に関しては、ほとんど知らず、事前にそれほど興味がある城ではありませんでした。そしたら、この資料館で「ある事実」を知り、椅子から転げ落ちるほど驚いてしまいました。

 その前に、前日の今治城では、地元のボランティアガイドさんの話を無視して聞かずに、自分勝手に廻っていたツアーの同行グループの人たちのことを、このブログで「私がこれまで参加したツアーの中でも最低のメンバーだ」と酷評しましたが、この日は打って変わって、地元ボランティアガイドさんについて熱心に話を聞いているのです。まるで優等生です。これが同じメンバーだと思うと、信じられないほどです。他人の評価は当てにならないものです。思わず、勝海舟の「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張」という言葉を思い出してしまいました。

湯築城

 一言で言って、湯築城は中世の城です。自然の岩山は除き、石垣はなく土塁です。中世の伊予の国の守護だった河野氏が、南北朝時代から戦国時代まで約250年間居城としていました。

 河野氏は風早郡河野郷(松山市北条地区)を本拠とし、源平合戦では河野通信(みちのぶ)が源氏方として功績を挙げ、鎌倉幕府の有力御家人となり、伊予国の統率権を得ます。しかし、通信は、承久の乱で京都方について負け、奥州平泉に流されてその地で没し、河野氏は没落します。それでも、元寇の際は、通信の曾孫に当たる通有が大活躍し、一族が復活し、それ以降代々、この湯築城を拠点にするわけです。

湯築城 子の通り、本丸から松山城が見えます。目と鼻の先でしょ?

 私が先に、「椅子から転げ落ちるほど驚いた」と書いたのは、この城の資料館でビデオを拝見していたら、承久の乱で敗れた河野通信の孫が、時宗の開祖一遍上人だったことを知ったからでした。あ、そう言えば、河野氏と言えば、何処かで聞いたことがあると思いました。一遍上人の本名は河野智真で、河野通信の子通広の子息です。まだ河野氏が復活する前の没落した時期だったので、仏門に入らざるを得なかったのでしょう。

 ということは、河野通信が承久の乱で鎌倉方についていれば、そのまま河野氏の栄華は続き、一遍上人という時宗の開祖は生まれなかったかもしれません。私は仏教史にはとても関心があるので、湯築城がいっぺんに身近に感じてしまいました。

 湯築城は「日本100名城」に選ばれているので(今回廻った四国9城全てが100名城)、資料館で100名城スタンプを押したところ、その場に持っていた個人の資料ファイルを置き忘れる失態を演じてしまいました。後で、「これ、忘れた人、どなたですか?」と添乗員のKさんが届けてくれましたが、注意力散漫症は茲でも健在でした。

宇和島城

 湯築城の後、バスは南進して宇和島城に向かいました。宇和島市は愛媛県の南端に近く、高知県の傍です。途中で、真珠店を兼ねたハイウエーレストラン宇和島で、名物「鯛めし」の昼食でした。観光バスツアーといえば、大抵、旅行会社とお土産店が結託して、行きたくもないお土産店に何度も何度も連れて行かれますが、最近のツアーはほとんど減りました。今回のツアーも茲だけでした。それに、殆どの人は買い物をしてませんでした(笑)。

 私自身も全く知りませんでしたが、真珠といえばミキモトで、三重県の英虞湾で養殖されて日本一の生産地だと思っていましたが、実は日本一は愛媛県で国内生産の80%も占めるんだそうです。真珠は神戸にある取引所で競りにかけられ、現在、1玉1万円から1万6000円が相場だそうです。ネックレスをつくるのには40玉必要なので、ひとつ40万円となるわけです。バスガイドのKさんは「段々、真珠は取れなくなるので、将来上がるので今のうち勝っておいた方がいいかもしれませんよ」などとセールストークをしていました(笑)。

宇和島城

 さて宇和島城です。現存12天守の重要文化財で、縄張りしたのが「築城の名人」藤堂高虎でしたから、大いに期待しました。もともとは海城だったらしいのですが、堀はほとんど埋められ、現在はその面影はありません。

 現存天守は藤堂高虎というより、伊達家のお城です。幕末の四賢侯の一人、伊達宗城(むねなり)が最も有名ですが、不勉強だった昔は、宇和島に何で伊達なんだろう?と思っていました。勿論、仙台の伊達政宗の末裔です。慶長20年(1615年)、政宗の長男秀宗が宇和島に入城し、明治を迎えるまで伊達9代の居城でした。秀宗は長男だったとはいえ、庶子で、正室に嫡男が生まれたため、宇和島を拝領したわけです。

宇和島城 現存12天守(伊達家)珍しく玄関口がある

 宇和島城は、二代藩主宗利が寛文6年(1666年)頃に建築したもので、既に平和な幕藩体制が確立した後だったので、全国の城でも珍しく「玄関」があるお城なのです。

 明治になって、新政府に接取され、大阪鎮台の所管となりますが、明治22年、伊達家が買い戻します。地元ボランティアガイドさんの説明によると、四賢侯の伊達宗城が明治になって、大蔵卿となり、部下の渋沢栄一と知り合い、渋沢に財産の運用を託したところ、かなり資産が膨れ上がって裕福になったから出来たそうです。この逸話はあまり書かれていない、現地でしか聞けない話でした。(昭和24年に宇和島市に寄付)

 宇和島城ではまたまたバスの駐車場が分からなくなり、迷子になりそうでした(苦笑)。

大洲城

 さて、宇和島城から松山方面にUターンして向かったのが、このツアー最後の9番目の城、大洲(おおず)城6万石でした。これも100名城に選ばれていますが、ほとんど知らず、全く期待していませんでしたが、もしかしたら、一番印象に残るお城でした。

 何しろ、平成16年(2004年)に、企画段階も含めて約20年かけて四層四階の木造天守を復元したのです。天守は明治21年に姿を消しましたが、図面や雛型や写真が残っていたお蔭です。富山県から優秀な宮大工も招聘し、鉄くぎなしで、吹き抜けは安土城の影響と言われています。総工費の13億円は、市民から1万円以上の寄付を募ったそうです。中には、地元不動産業の女性社長さんが、ポンと1億1000万円も寄付されてます。郷土愛は宇和島の人より、強い感じでした。

 面白いことに、商魂たくましく、天守をホテルとして貸し出し、1泊4人まで100万円で泊まれるそうです(1人増えると10万円プラス)。年に何組からか予約があるようです。当日は、篝火がたかれてお殿様お姫様のようなお出迎え。天守内に畳が敷かれ、城内の露天風呂にも入れ、料理人を呼んでその場で調理してもらえるという話です。

大洲城(12億円かけて木造復元された)

 大洲城は、あの築城の名人、藤堂高虎も関わったりしていますが、江戸になって賤ヶ岳の7本槍の一人、脇坂安治が立藩し、元和3年(1617年)、脇坂家が信濃飯田藩に転封となった後、米子から加藤貞泰が移封され、加藤家が明治まで続きます。

 幕末の大洲藩は勤皇の気風が強く、鳥羽伏見の戦いでは官軍側で参戦しています。また、坂本龍馬の海援隊が運用し、沈没事件でも有名になった蒸気船「いろは丸」はこの大洲藩が貸し出したものでした。

大洲城

 大洲城は、事前にそれほど予備知識もなく、あまり期待していなかったのですが、行ってみたら、こじんまりとした城下町で、地元愛が強い町で木造天守が復活し、なかなか良かったでした。

 以上、3日間で、四国の九つの名城を巡ってきた漫遊記でした。ここまで随分長いお話を読んでくださった皆様には感謝申し上げます。読むのは大変でしたでしょうけど、書く方はもっと大変でした(笑)。この記事の初回を読んでくださった会社の後輩のW君は「僕も冷蔵庫を開けて、何を取ろうか一瞬忘れてしまったり、自宅で立ち上がってから、あれっ?自分は何をしようとしたか分からなくなることがありますよ」と励ましてくれました。

 W君は私より一回り以上若いのに、大丈夫なのかなあ、と逆に心配になりました(笑)。

高知城、松山城、今治城=四国9名城巡り2日目(中)

松山城(現存12天守、重要文化財)広い、本当に広い

 11月24日付の「徳島城、高松城、丸亀城」編に続いて、四国9名城巡りの2日目です。執筆者の体力と知力の都合で、かつてとは違い、なかなか更新できておりませんが、単なる漫遊記なので、お気軽にお読みください。

高知城(現存12天守)

 城巡り第4弾の高知城(現存12天守、重要文化財)は、泊まった高知のホテルからバスでわずか3分でした。

高知城(現存12天守)

 前日は徳島城で「迷い人」になってしまいましたが、この日はホテルで朝食を取った後、部屋に戻ろうとするとカギがない!室内に置き忘れたことが分かり、慌ててフロントに降りて、係りの人にお手数を煩わせてしまいました。綾小路きみまろの世界は続きます(笑)。

高知城(現存12天守)山内一豊像

 高知城(現存12天守)は、既に南北朝時代に大高坂山城として築城され、戦国時代は長宗我部元親が拠点にしたという説もあります。が、やはり、何と言っても、山内一豊でしょう。信長、秀吉の家臣ながら、関ケ原の戦いでは徳川方について手柄を立て、一豊は遠江5万5000石の掛川城から、土佐一国9万8000石(後に24万2000石)を与えられ、築城します。

 山内一豊と言えば、困窮時代に糟糠の妻千代さんが、そっとヘソクリを出して、「これで馬をお買いになって出陣してください」と援助したお蔭で出世していったという逸話はあまりにも有名で、小説(司馬遼太郎「功名が辻」)やドラマ、映画などになっております。

高知城(現存12天守)算木積石垣

 高知城=土佐藩は、幕末に「薩長土肥」の一角として、多くの偉人を輩出しました。坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太(瑞山)…そして最後の藩主山内容堂。彼は幕末の四賢侯の一人で、徳川慶喜に大政奉還を勧めた人でした。大酒飲みで「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と、陰で揶揄されましたが、最近では再評価されているようです。

高知城(現存12天守)板垣退助像

 城内には板垣退助像もありました。明治の自由民権運動の旗手として有名で、銅像もその演説姿のようですが、実は土佐藩の家老クラスとも言える馬廻組(300石)の上士です。もともと板垣家は、武田信玄の重臣板垣信方を祖とする家柄で、武田家滅亡後、掛川時代の山内一豊の家臣になったわけです。土佐藩だけでなく、江戸時代は身分社会でしたから、武士の中でも階級があり、坂本龍馬らは郷士と呼ばれる下士で、板垣や後藤象二郎のような上士とは住む場所も違っていました。

 100円札にもなった板垣退助は、明治の言論人、政治家のイメージが強いですが、もともと上級武士ですから、幕末の戊辰戦争の際は、新政府側の迅衝隊(じんしょうたい)を率いて、近藤勇らの新選組とも戦っています(甲州勝沼の戦い)。

松山城(現存12天守)本丸6000坪

 次に向かったのは松山城(現存12天守)=第5弾=です。四国の南の高知からまた北上して愛媛県ですから、2時間ちょっと掛かりました。(高知高速道を通り、途中、石鎚山SAで休憩)

 松山と言えば、夏目漱石の「坊ちゃん」の舞台であり、漱石の親友正岡子規の故郷で、今でも俳句が盛んです。また、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の主人公の秋山好古・真之兄弟の故郷でもあります。道後温泉と蜜柑の産地としても有名で、私も何度か松山を訪れたことがありますが、若い頃はあまりお城に興味がなかったので、松山城も、そして今回廻った四国9城全て、生まれて初めて訪れました。

松山城(現存天守12)20メートルの石垣 7階建物

 (この石垣は、「坂の上の雲」の秋山真之が、若き頃、スルスルとよじ登ったという逸話が残っているそうです。)

 松山城の高さは海抜132メートルで勝山の山頂にあります。。実はここまで来るのにロープウェイ(帰りはリフトでしたが)を使って来たのです。勿論、歩いて登って来る方もいますが、ツアー参加者には往復切符(ロープウェイとリフトの両方使える)が手渡されました。

松山城(現存12天守)

 松山城の創設者は、秀吉の家臣で、賤ヶ岳の合戦で七本槍の一人として活躍した加藤嘉明です。昔は、「かとう・よしあきら」という振り仮名だったのでそう覚えていたのですが、最近は「かとう・よしあき」が多いですね。

 そう言えば、高知城の山内一豊も、昔は「やまのうち・かずとよ」と呼ばれていましたが、最近は「やまうち・かつとよ」と読む説が有力なんだそうです。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場する三代将軍源実朝を暗殺した公暁は、昔は「くぎょう」と習ったのに、ドラマでは最新学説を取っているらしく、「こうぎょう」になっています。何という日本語の曖昧さ! どないなっとるねん!? でも、この曖昧さが、長い歴史を持つ日本人の心因性を形作っているような気がします。テキトー(適当)というか、清濁併せ吞む、というか、自分の名前さえどう呼ばれようと気にしないという大らかさと言うべきか、それとも逆に、大胆不敵と言うべきか…。

松山城(現存12天守)

 加藤嘉明も、1600年の関ヶ原の戦いでは、山内一豊と同じように、徳川家康方についてその戦功を認められ、伊予20万石の大名となります。道後平野の中枢部にある勝山に城郭を築く許可を得ますが、着工から25年の寛永4年(1627年)、松山城完成を目前にして義明は、会津へ転封となってしまいます。(もっとも、42万石に加増されたので栄転ではありますが)

松山城(現存12天守)安土城の影響か、天守と御殿が一体

 その後、あの蒲生氏郷の孫・忠知が出羽国(山形県)上山城から入国し、二之丸の築造を完成しましたが、寛永11年(1634年)8月、参勤交代の途中の京都で病没し、嗣子がいないので断絶します。

松山城(現存12天守)天守

 蒲生家断絶の翌年の寛永12年(1635年)7月、伊勢国桑名城主松平(久松)定行が松山藩主15万石に封じられ、それ以来14代世襲して明治維新に至りました。久松家(菅原道真を祖とする)の戦国武将俊勝が、徳川家康の生母於大の方(伝通院、水野忠政の娘)の再婚相手となったことから、代々、久松家は松平姓を名乗ることを許されたのでした。

 松山藩は親藩ですから幕末は当然のことながら、幕府方についたため、朝敵として追討され、財政難の中、15万両も朝廷に献上し、藩主、重臣の蟄居、更迭などで赦免されました。

 それにしても、これだけの立派で広大な曲輪を持つ城が、一部復元再建されたにせよ、21世紀までよく残ったものです。大袈裟ですが、世界に誇っていいお城です。(松山城ばかり贔屓にしてはいけませんが)

松山市「鯛めしスタンド」天然鯛めし定食1850円。養殖ものは1300円でしたが、やはり、せっかくですから天然鯛を選びました。

 松山城も昼食時間を含めて2時間半ぐらい自由時間があったので、ゆっくり見物できました。と思ったら、リフトで麓に降りて、近くのロープウェイ街にあった「鯛めしスタンド」でランチしていたら、そこに無料のマップが置いてありました。

 それを見たら、近くに「坂の上の雲ミュージアム」や「秋山兄弟生誕地」があるので行ってみることにしました。

松山市 秋山兄弟生誕地

 そしたら、「秋山兄弟生誕地」は月曜日で休館日。「坂の上の雲ミュージアム」もやっと見つけましたが、中に入って見学していたら、とてもバスの集合時間には間に合わないことが分かり、泣く泣く退散しました

今治城(海城)と藤堂高虎像

 松山城を北上して、2日目最後の目的地、今治城=第6弾=にはバスで1時間ほどで到着しました。松山も今治も同じ愛媛県で、現在は松山市(人口約52万人)が県庁の所在地として栄えていますが、今治市(人口約16万人)は古代の伊予国の国府が置かれた所だったといいます。つまり、古代は今治の方が栄えていたのでしょう。

 高松城と同じ海城である今治城を、6年の歳月をかけて慶長13年(1608年)に築城したのが、関ヶ原で戦功をたて、伊予半国20万石を領した藤堂高虎です。彼の銅像も建っています。

今治城(海城)の天守

 藤堂高虎は、「築城の名人」と言われ、今治城の前の文禄4年(1595年)に、同じ伊予(愛媛県)に、大洲城と宇和島城(現存12天守)をつくり、今治城の後の慶長13年(1608年)には、伊勢22万石に移封され、伊賀上野城、そして(安濃)津城を大改修しています。

 藤堂高虎は190センチを超える大男だったと言われますが、主君を8回とも10回とも言われるぐらい(仕方なく)変えて、足軽クラスの身分から大大名にまで出世した逸話は事欠かないのですが、茲では省略しておきます。

今治城(海城)天守から見えるしまなみ海道、手前右下に藤堂高虎像が見えます。

 天守からは、今治市と広島県尾道市を結ぶ全長60キロのしまなみ海道が見えました。バスガイドさんの説明では、瀬戸内海には725もの島々があるそうで、第1位は淡路島、第2位は小豆島、第3位は周防大島の順。

 今回のツアー参加者は16人だったと初日に書きましたが、失礼ながら、私がこれまで参加したツアーの中でも最低のメンバーだと思いました。何故なら、バスガイドさんの話はバスの中で身動きが取れないので聞かざるを得ません。一方、各お城に、結構年配の地元ボランティアガイドさんがいて、熱心に説明してくれますが、今治城では、グループの人たちは一切無視して、話も聞かずに自分勝手に見て回っていたのです。

 あまりにも気の毒だったので、私一人だけが、一生懸命に70代半ばと思われる男性ボランティアガイドさんの側にくっついて話を聞いてあげましたよ。

今治国際ホテルの超豪華ディナー

 今回のツアーでは、夕食は1回しかつかなかったのですが、今治で泊まったホテルの夕食は豪華絢爛で大変美味でした。2泊3日分の夕食でした(笑)。

今治城(海城)夜景 あ、失敗!
今治城(海城)夜景 大成功

 夕食後、バスガイドKさんのお薦めで、ライトアップされた今治城の写真を撮りに行きました。

 一応、今治市の中心街なのでしょうが、街中は薄暗いので驚いてしまいました。後で分かったのですが、街灯があまりなかったのです。でも、東京などの都心は真夜中でもライトが煌々とついていて昼間のようですから、考えてみれば、東京の方が異常だということになります。

 それにしても、今治城の夜景は素晴らしかった。海城ですから、海水の内堀に映る天守が見事です。「来て良かった~」と思いました。正直、2日目の高知城も松山城も今治城も甲乙つけ難いほど、どれも素晴らしかったでした。

つづく

徳島城、高松城、丸亀城=四国9名城巡り初日(上)

丸亀城 すんばらしい

 しばらくブログを更新しておりませんでしたが、11月20日(日)から22日(火)まで、2泊3日で、C社が主催する「四国9名城」巡りに行っておりました。何しろ、全国で現存天守12ありますが、そのうち四国にある4天守全部回ってくださるというので、9月の新聞広告を見て、直ぐ申し込みました。一人で四国中のお城巡りをしたら、交通費、タクシー代など幾ら掛かるか分かりません。旅程計画も大変。その点、ツアーに紛れ込んでしまえば、バスで安価で運んでくれます。こんな良いお買い物はない、というわけです(ちなみに、全国旅行支援が使えて、8万5640円だったのが6万9640円となりました。このほか、3000円×2泊のクーポン券付き)。

徳島城

 でも、正直、今回の旅行で、生きていく自信を少し失いました(苦笑)。今まで出来たことが簡単に出来なくなったことが分かったからです。加齢によるもので、綾小路きみまろの世界です。重症ではありませんが、注意欠陥症みたいな感じです。ホテルの部屋の鍵を室内に忘れるやら、100名城スタンプ台の側に大切な資料ファイルを置き忘れるやら、鬼より怖い御家人からの御土産メモを失くすやら、注意力が散漫するようになっていたのです。

徳島城

 体力も落ちました。初日の第一弾は徳島城(徳島県)でしたが、かなり急勾配の山城で、階段が正確には数えていませんでしたが、500段近くあったんじゃないかと思います。途中で何度も一息いれたほどです。あの身延山久遠寺の急勾配の階段「菩提梯」を思い出しました。

 そうそう今回のツアーは、結構、自由時間が多く、決まった時間までにバスに戻れば良いというシステムでした。食事も2泊3日で、朝食2回(ホテルのバイキング)、昼食1回、夕食1回しかなかったので、同行者とはあまり顔を合わせることはなく、まるで一人で旅行している感じでした。今回の参加者は16人で、ペアが5組、一人参加が6人(男女各8人)でしたが、一人参加者の2、3人の方と少し言葉を交わした程度で、勿論お名前も何処から来られたのか最後まで分からず仕舞いでした(笑)。

徳島城 蜂須賀家政公

徳島城は、既に南北朝時代に築城されましたが、豊臣秀吉の家臣として有名な蜂須賀小六(正勝)の嫡男家政が17万6000石の阿波の領主として天正13年(1585年)に入国し、蜂須賀家が幕末まで続きます。明治8年に城のほとんどの建物は解体され、太平洋戦争の際、米軍の空襲もあり、現在、建物は何も残っていません。

 この山城の「麓」には、現在、徳島市立徳島城博物館があり、入館しましたけど、どういうわけか何が展示されていたか覚えていないのです。ここでも、うわの空といいますか、注意力散漫を発揮してしまいました。はい、綾小路きみまろの世界です。(笑)。

 さて、バスに戻る時間が迫って来たので、戻ろうとしたところ、二又の道があり、「あれ?駐車場はどっちだっけ?」と迷ってしまいました。左の道を進むと、バラ園がありました。「あれ?来る時、バラ園なんか見なかった。もしかして、右に行かなければならなかったのか」と思い、元来た道を戻ると、C社のバッジを付けた同行者らしき女性二人連れがいたので、声を掛けたら、「この道で大丈夫ですよ」と仰るではありませんか。あれ?バラ園なんか全く覚えていません。そう言えば、来るとき、ガイドさんの旗ばかり見て、一生懸命についていき、周りの景色はあまり見ていなかったことに気が付きました。これを他山の石として、次回から、帰りに迷子にならないように、周囲の看板や景色を頭を入れておくことにしました。(とは言っても、もう一回、迷子になりそうになりました!=苦笑)

高松城

 第2弾は高松城(香川県)です。私の出身高校と同じ海城です。もっとも、こちらは「うみじろ」と読みますが、私の東京の新宿区にある高校は「かいじょう」と読みます(笑)。以前、NHKの「ブラタモリ」で放送されていたので、訪れるのを楽しみにしていました。

高松城 向こうに見えるのが二の丸から本丸に続く鞘橋(さやばし)

 山城で急勾配を登らなければならない徳島城と違い、高松城は海城(うみじろ)なので、平地です。戦さの時、大丈夫だったのかな、と心配したくなるほど散策しやすいお城です。もっとも、現在は、「玉藻公園」として公開されています。園内の総面積は約8万平方メートルもあるとか。

高松城 本丸に残る天守台 3層5階の天守は残ってません

 高松城は、天正16年(1588年)、ということは本能寺の変の6年後、豊臣秀吉の家臣生駒親正(ちかまさ)が築城し、生駒家4代54年間、水戸徳川の松平家(初代は水戸黄門の兄松平頼重)11代228年間にわたり居城した海城です。

高松城 復元された桜御門
高松城 艮(うしとら)櫓 有名な月見櫓は工事中でした

 城内には当時、天守のほか、約20もの櫓があったそうですが、空襲などで建物のほとんどが喪失しました。が、艮(うしとら)櫓などは残り、重要文化財に指定されています。他に、桜御門などが復元されました。松平藩時代に政庁・御殿として使用された被雲閣は、明治になって老朽化したため取り壊されましたが、大正6年に再建され、現在、事務所のほか、茶会、会議などで利用されているそうです。

 高松城巡りは、昼休み休憩も含み、2時間ぐらい自由時間がありましたので、この後、近くのJR高松駅に向かい、駅ビルの2階の「杵屋」で、名物の讃岐うどん(とり天、870円)を頂き、1階のコンビニ兼土産物店(高松銘品館)で上官の命令に従い、買い物をしました。

丸亀城(現存天守12)
丸亀城(現存天守12)

 初日最後の第3弾は、現存天守12のうちのひとつ丸亀城(香川県)です。高松城と同じ生駒親正が慶長2年(1597年)、築城を開始します。江戸時代となり、一国一城令により、一時、廃城となりますが、生駒家がお家騒動で所領が没収され、その後、山崎家、そして京極家が継いで、幕末まで続きます。

 大変見事な素晴らしいお城でした。高さ60メートルの日本一の高石垣を誇るそうで圧倒されました。

丸亀城(現存天守12)

 こりゃあ、凄い。(ここから、急坂を登るのに、大変つらい思いをさせられます!)

丸亀城天守 

 これが、3層3階の現存木造天守12の一つですが、意外と小さい。

 石落としや、弓や鉄砲を打つ狭間もしっかりあります。この天守は、四国の中で最も古く万治3年(1660年)に完成したそうです。

丸亀城二の丸辺りから見える瀬戸大橋

 丸亀城二の丸辺りから見える瀬戸大橋。バスガイドKさんの説明によると、瀬戸大橋は、6本の橋で出来ており、全長9368メートル。6本の橋のうち、5本香川県、1本岡山県にあるそうです。1988年に全線開通し、総工費は何と1兆1300億円だとか。

高知市のひろめ市場 四万十川の栗焼酎「ダバダ火振」

 1日目の3城の日程を消化して、バスは一路、この日に宿泊する高知市へ。北の香川県から南の高知県まで1時間40分ほど、高知高速道路を通って、その途中で四国山地(坂本龍馬が脱藩の際、登った)を突き抜けるわけですから、トンネルだらけでした。

 この日は夕食が付いていなかったので、バスガイドKさんお薦めの「ひろめ市場」に行きました。新阪急高知ホテルから歩いて7分ほどです。ホテルから高知城にも歩いて7分ほどで行けます。このホテルは、35年ぐらい昔、仕事で泊まったことがありますが、当時はお城にほとんど興味がなかったので、こんな近くにお城があったとは、灯台下暗しです。

 ひろめ市場は、大きな体育館のような建物に70軒の屋台のような居酒屋や御土産屋さんなどがひしめいています。私は見たことがありませんが、テレビの「ケンミンSHOW」という番組で何度か取り上げられたらしく、観光客でいっぱいでした。ほとんどの店が満席で、やっと「鰹処ぼっちり」という居酒屋前に相席を見つけて、座っていたおじさんに断って、座らさせてもらいました。

 鰹のたたき定食900円と土佐の地酒(名前は失念)、それに、相席のおじさんの薦めで四万十川の栗焼酎「ダバダ火振」も後で注文しました。お酒は色々と呑んで来ましたが、栗焼酎なんて初めてでした。

高知市ひろめ市場近くで 高知は坂本龍馬を始め、歴史上の偉人、有名人だらけです

 相席になったおじさんは、ちょっと変わった人で、70代前半といった感じ。三重県の四日市から来た、と言ってました。私も三重県出身の友人がいて、結構、三重県内は旅行したことがあるので話は弾みました。おじさんは、この時期、高知市で趣味の蘭の品評会があって、毎年、3日間ほど市内に泊まるそうです。高知には沢山の友人がいる、と仰ってましたが、独りで呑んでいたのは何故かしら。

 いずれにせよ、このおじさん、ご職業は何だったのか知りませんが、私が「城巡りで四国を旅行しています」と話したら、彼は異様に戦国武将に詳しいことが分かりました。私と互角に話が出来るのですから(笑)。そして、彼は三重県出身ということで、名古屋に対する尋常ならざる敵愾心を燃やしていました。

 「名古屋名物、と言われている(伊勢)海老フライもひつまぶしも味噌カツも、本当は伊勢名物なんですよ。伊勢の人間は宣伝が下手なんです。それに比べて尾張の連中は…」といった具合です。那古野(名古屋)は織田信長、豊臣秀吉、加藤清正、蜂須賀小六ら多くの戦国武将を生んでいますが、野心家さんが多いのかしら。

 三重県のおじさんが頼んだ餃子を一つだけ、あまりにも薦めるので、頂きましたが、そのうち、彼は何の挨拶もなく、プイと帰っていなくなってしまいました。

田野屋塩二郎「シューラスク」

 帰りがてら、バスガイドKさんが薦めていた田野屋塩二郎のシューラスクというお菓子を買ってみました。田野屋塩二郎さんという人は東京の人でしたが、30代半ばで一念発起して高知で、火力は使わず、天日と潮風だけに拘って塩づくりをしている方で、その塩は高級レストランのシェフらに大好評。もっとも、1キロ当たり100万円もするという超高級の塩で(ホンマかいな?裏は取ってませんが)、本物の塩は買えないので、せめて、お菓子を買ってみたのでした。

 甘くて、ほんの少ししょっぱい今まで食べたことがない不思議なお菓子でした。

つづく