熱田神宮と「自宅高級料亭化」計画=名古屋珍道中(下)

(昨日のつづき)

 5月15日(日)~16日(月)の名古屋珍道中の続きです。二日目、16日のお話です。ホテルでは一応よく眠れたのですが、疲れが全く取れていません。それにまだ風邪が治りきっていないので、元気もありません。チェックアウトの11時まで、そのまま寝ていようかなあ、と思ったぐらいです。

 でも意を決して出掛けました。朝のバイキング、ちょっと欲に駆られて食べ過ぎて、少し腹ごなししなければいかんかなあ、と思ったからでした。目指すは、熱田神宮です。昨晩は、旧友のK君から、乗るべき名鉄線の在り処などを丁寧に教わっていたのですが、それでも、名古屋は複雑で、右往左往状態でした。駅員さんに聞いたのですが、「4番線や」というだけで、何行きに乗ったらいいのか、さっぱり分かりません。それに、特急やら準急やらあって、止まるかどうか分からないので、各駅の普通列車が来るまで暫く待ちました。

名鉄・神宮前駅 「チカンやめますか」「仕事やめますか」…そんなにいるのかなあ

 スマホで「名古屋~熱田神宮」と検索したら、何と東京から熱田神宮へのルートが出てきました。何で? しかも、降りる駅名は「神宮前」です。熱田神宮の「あ」の字も出てきません。もう破れかぶれになって、電車に乗り込み、その「神宮前」で降り、案内看板に「熱田神宮」と初めて「熱田」を見つけたので、その方向に降りて、ようやく辿り着きました。

 案外広い神宮でした。「日本の三大神宮」かと思ったら、日本書記によると、三大神宮とは「伊勢神宮」「出雲大神宮」「石上神宮」(奈良県天理市)を指すようですね。三種の神器の一つ「草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)」を所蔵するこの熱田神宮は三大神宮の中に入っていません。延喜式神名帳には記された日本三大神宮でも、「伊勢神宮」「鹿島神宮」「香取神宮」となり、熱田神宮は入っていません。ただ、「伊勢神宮」「熱田神宮」「明治神宮」を日本三大神宮とする説もあるようです。

熱田神宮 本宮

 とにかく、本宮にお参りし、本宮横の売店、なんて言っちゃ怒られますね。調べたら、「本宮授与所」というらしいのですが、そこで「お守り」を購入致しました。これでも私は、強欲な人間ですから、買うものは決まってます。お金も地位も名誉も、そんなもんは吹けば飛ぶような将棋の駒みたいなもんです。何と言っても、この世で一番欲しいものは…?そう、私は「健康長寿」のお守りを迷わず購入しました(笑)。一千円也。

熱田神宮 樹齢1000年以上の大楠(空海上人、御手植えと伝わる御神木(直径7.7メートル、高さ20メートル)

 帰りの途中に、「剣の宝庫 草薙館」と「宝物館」(共通券800円)にも立ち寄りました。でも、そこの入口の受付の女性とはちょっとした言い合いになりました。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、壇ノ浦の戦いで、「三種の神器」は安徳天皇とともに海中に沈んでしまった、とやっていたので、「こちらの草薙神剣は本物ですか? 本物は壇ノ浦に沈んでしまったのではないですか?」と受付の人に聞いたら、「いえ、あちらは形代(複製?)でしたから、本物の神剣は非公開ですけど、ちゃんとこちらで所蔵しております。何なら、神職を呼びますかあぁぁーー!?」と反駁されてしまいました。

 別に口論しに来たわけではないので、「じゃあ、NHKは間違ってたんですね。別に神職さんをお呼びしなくて結構ですよ」と言ってそそくさと退散しました。女性は、実に怖い形相でしたからあー。

名古屋「御器所亭」 八海酒造のライディーンビール「ピルスナー」と串焼き・名古屋コーチンのキモとハツ

  ちょっとお参りしただけで、もう(少し)フラフラでしたので、そのまま旧友K君が住む1Kの「大豪邸」に行くことにしました。学生時代は、ちょくちょく酔っ払ったまま、彼の下宿(上板橋、千石、田園調布、雪が谷大塚)に泊まらせてもらったものでしたが、今回の彼の塒(ねぐら)では、狭くてとてもお爺さん二人で泊まれないということで、ホテルを取ったわけです。

 彼の「豪邸」は、名古屋から市営地下鉄桜通線の「御器所」駅から歩いたところにありました。「御器所」と書いて、「ごきそ」と読みます。まず、読めませんね(他にこの路線には高岳=たかおか=とか徳重=とくしげ=とか難読駅があります)。でも、ここは熱田神宮に奉納する器をつくっていた工房があった所だったことから付けられた由緒ある地名でした。今回、熱田神宮とは御縁がありました。

名古屋「御器所亭」 伊賀の銘酒「瀧自慢」 こりゃうめえ

 K君からは、「遅くても13時まで来てください」という話でしたが、もうクタクタで、織田信秀が北野天満宮から菅原道真像か何かを勧進した「桜天神社」にお参りすることも薦められましたが、気力がないので、早めに着いてしまいました。時計を見ると午前11時前でした。何しろ初めて行く所です。今は、Googleマップという便利なものがあるので、住所とスマホを頼りにやっと、彼のアジトを発見することができました。が、表札がない! しかも、彼はスマホを紛失しているので、連絡の取りようがない! 恐る恐るピンポンすると、反応がない! どないなっとるんねん???

名古屋「御器所亭」 愛知県設楽町の関谷醸造「一念不動」 これは格別、こんな旨い酒が世の中にあったとは!

 彼の自宅に押し掛けたのは、彼はちょっとしたセミプロの板前さんで、「自宅高級料亭化」計画を実施してくれたからです。何しろ懐石料理なんて大得意。そんじょそこらの料亭が吃驚するぐらいの料理を出してくれるのです。もしかして、今頃、食材の買い出しに出掛けたんだろうなあ、と予測が付きました。そこで、近くに喫茶店でもあれば時間を潰せるので、探したのですが、見つかりません。再び、彼のアジトに戻って、敷石の上に座って休んでいたら、15分ほどで、やはり、大きな荷物を下げて彼は戻って来てくれました。

 最初は「何か、手伝ってくれ」という話でしたが、すぐに「邪魔だからあっちに行ってくれ」ということになり、私も目の前に用意してくれたお酒を手酌で昼間からグイグイいくことにしました。

名古屋「御器所亭」 関谷醸造「一念不動」と活き車海老刺身 その前に伊勢湾産の栄螺壺焼き 実に合う!

 そのお酒は、何日も前から事前に用意していてくれたらしく、「八海山」で有名な八海酒造のライディーンビール「ピルスナー」、伊賀の銘酒「瀧自慢」、そして、愛知県設楽町の関谷醸造「一念不動」と生まれて初めて呑む酒ばかりでした。東京の田舎なんかじゃとても呑めない最高級のお酒ばかりでした。癖がなく「浄水」のようにグイグイ呑めてしまうのです。

名古屋「御器所亭」 伊賀の銘酒「瀧自慢」と、本場中の本場、その手は桑名のハマグリのしゃぶしゃぶ

 料理も、最高級、名古屋コーチンのキモとハツの串焼き、まだピョンピョン生きていた車海老の刺身、その手は桑名のハマグリのしゃぶしゃぶ、鰹とカンパチの刺身とその握り寿司、そして、締めは蚕豆、車海老入り卵雑炊と至れり尽くせり。ただ、病身の彼もついに力尽きて、予定していた自家製イチゴ添えアイスクリームと天麩羅はお預けとなりました。

 K君とは14年ぶりの再会で、積もる話がたくさんあったはずでした。でも、いったん、顔を合わせると、心で語ることが多く、また「美味い、旨い」と、呑んだり食べたりすることが忙しくなり、そんな煩わしい話をするのも馬鹿らしくなりました。

名古屋「御器所亭」 鰹とカンパチ刺身 キュウリの塩麹浅漬け。鰹とカンパチは後で握り寿司の御提供

 昔、名探偵ホームズの英語の副読本の中で、ホームズと友人のワトソンが顔を合せた時、お互いほとんどしゃべることがなく、確か、Old friends do not talk.(旧友というものは、お互いあまり喋らないものだ。)といった言葉が出てきたと思います。まあ、それに近いです。

 そのため、二人の共通の友人で、昨年亡くなったY君の思い出話とか、それに纏わる酷い不条理な話とか、野暮な話はやめることにしました。

 その代わり、萬古焼とか川喜田半泥子とか北大路魯山人の話をしました。萬古焼は、今の三重県四日市市と菰野町に窯元があるそうです。半泥子は、百五銀行の頭取も務めた実業家ながら、50歳過ぎて陶芸を始め、「東の魯山人、西の半泥子」と呼ばれた人です。半泥子は、今の三重県立津高校出身で、K君の同郷の先輩に当たりますが、「魯山人となんか比べものにならん」と一刀両断でした。

 確かに、魯山人は陶芸家、料理家、書家、美食家として超一流というか、怪物でしたからね。人間的にお付き合いはしたくないですが、一度、彼の作った陶器(約百万円)で酒を呑んだり、食事したりしたいもんです。

名古屋「御器所亭」 ハマグリの出し汁に北海道産高級米と車海老と蚕豆と卵入り雑炊 

 実は、K君は4月に倒れて救急車で運ばれ、1週間入院し、5月も救急車を呼ぶなど健康問題を抱えていました。「俺はいつも人と会うとき、これが最期ですね、と言って会ってる」というので、私も「変なこと言うんじゃないよ。俺はまだ、オヌシの天麩羅とアイスクリームを喰ってないんだからな。次は絶対、天麩羅とアイスクリームを喰わせてくれよ。大枚払うから。もうここの場所も覚えたから大丈夫」と檄を飛ばしておきました。

 これは勿論、冗談ではなく、本心でした。

【追記】2022年5月19日

 K君のスマホ、やはり、中村公園で見つかったそうです。よかった、よかった。届けてくださった名古屋市民の皆様、有難う御座いました。

 

旧友を訪ねて 43年ぶり再会も=名古屋珍道中(上)

 5月15日(日)~16日(月)、一泊二日で、名古屋に住む大学時代の旧友K君のお見舞いも兼ねて、小旅行を敢行しました。1日目だけは、大学時代の後輩で、今や有名私立大学の教授にあらせらる山上君もお住まいの浜松から飛び入り参加してくださり、実に充実した日々を過ごすことができました。

 とはいえ、最初からかなりのトラブル続きで、まるで我々の人生を象徴しているかのようでした(苦笑)。何しろ、山上君とは大学卒業以来一度も会ったことがなく、42年か43年ぶりの再会。K君とも、彼は記憶力抜群で、最後に二人で会ったのが、東京・銀座で、2008年12月31日以来だといいいますから、14年ぶりぐらいです。

 三人の共通点は、同じ大学の音楽倶楽部仲間ということです。それでも、43年ぶりともなると、昔の面影も何もなく、浦島太郎さんが玉手箱を開けて、「あっと言う間に、お爺さん~」ですから、果たしてうまく再会できるのやら…。

 待ち合わせ場所は、新幹線出口(太閤通口)を降りた「銀の時計」前ということでしたが、「いない!」。K君に電話しても出ない。それじゃあということで、山上君に電話しても出ない!どないなっとるんねん???もしかして、反対側の出口(桜通口)かな?と思って、右往左往して銀の時計に戻ったら、いたいた。「あれっ?電話したのに」と二人を責めると、「あれ?え?」と悪びれた様子もない。お爺さんは耳が遠いので電話が鳴っても気が付かないことが判明しました。これがトラブルの第一弾、先が思いやられます。

名古屋・豊国神社

 この後、私の宿泊するホテルに荷物を預けて、タクシーで向かったところは中村公園です。ここは天下の豊臣秀吉の生誕地であり、豊国神社が建立されていました。

名古屋・豊臣秀吉生誕地

 豊臣秀吉は、名古屋生まれだったのです。看板にある通り、「秀吉は1536年、木下弥右衛門の子として生まれた」とあります。この木下弥右衛門がどんな人物だったのか、諸説ありますが、単なるドン百姓(差別用語)ではなく、中村の長(おさ)だったという説があります。つまり、村長さん、恐らく大地主か庄屋クラスでしょう。秀吉は、最底辺のどん底から這いあがって立身出世した歴史上最大の人物とされますが、もともとある程度裕福な特権階級だったんじゃないかと思います。哀しいかな、無産階級では教育も受けられませんし、ゼロだと何も生まれませんから。

太閤秀吉功路 最終地点の碑除幕式(名古屋・中村公園)

 たまたま、公園内で、「太閤秀吉功路 最終地点の碑」の除幕式を地元の名士を集めてやっておりました。

 何の碑かと思ったら、秀吉の馬印「せんなり瓢箪」でした。

名古屋・秀吉清正公園

 中村公園内に他に何かあるか探してみました。

名古屋・中村公園内「初代中村勘三郎(1598~1658年)生誕地記念碑」

 ありました、ありました。「初代中村勘三郎(1598~1658年)生誕地記念碑」です。えっ?歌舞伎役者で、中村座の座頭だった勘三郎はここで生まれたんですか。

 看板などの情報によると、中村勘三郎は、豊臣秀吉の三大老中の一人、中村一氏の末弟・中村右近の孫だと言われてます。兄の狂言師・中村勘次郎らと大蔵流狂言を学び、舞踊「猿若」を創作したといいます。 元和8年(1622年)江戸に行き、寛永元年(1624年)、猿若勘三郎を名乗り、同年江戸の中橋南地(現東京・京橋)に「猿若座」(のちの「中村座」)を建てて、その座元(支配人)となった人です。

 秀吉と勘三郎が同郷人だったとは。

 公園内には「秀吉清正記念館」もあったのでちょっと覗いてきました(無料)。清正とは、後に肥後52万石の大大名になる加藤清正のことで、清正もここ中村生まれです(1562年)。父親は、刀鍛冶・加藤清忠だったようです。

 尾張出身の戦国武将は、ほかに、織田信長、森蘭丸、前田利家、柴田勝家、池田輝政、福島正則、蜂須賀小六、山内一豊…と錚々たる武将を輩出してます。

 名古屋の人は、今回の小旅行で、あまり親切な人がいませんでしたが、著名な戦国武将が生まれるくらい生存競争が激しい土地柄なのかしら?

 ただし、地元の人の話では、中村公園がある中村区は土地が低く、名古屋駅の西側は、亀島や津島といった地名があるように古代中世は陸続きではなかったようです。

 逆に名古屋駅の東側の東山などは、地名の通り、「山の手」で現代も高級住宅街が多いということでした。

名古屋城

 次に向かったのが、名古屋城です。中村公園から「メ―グル」と呼ばれる「なごや観光ルートバス」に乗りました。

名古屋城

 メ―グルは1乗車210円ですが、一日乗車券(500円)を買うととても便利です。名古屋城に入城するには普通は一般500円ですが、メ―グルカードを見せると、割引で400円。この後、入った徳川美術館と庭園徳川園も通常は一般1550円ですが、やはり、メ―グルを提示すると1350円で済みました。メ―グルは2回(420円分)しか乗りませんでしたが、入場券で300円分割引を受けたので、十分に元が取れたのです(笑)。

 タクシーの運転手さんは「名古屋には観光するところがない」とぼやいてましたが、名古屋観光するなら、メ―グルはお勧めです。ただし、本数が少ないのでご注意。

名古屋城 石垣ファンにはたまらない
名古屋城 石垣フェチにはたまらない

 名古屋城の天守は現在、工事中で中に入れないことは知っていたので、お目当ては「本丸御殿」でした。3期にわたる工事で、2018年から全面的に公開されるようになりました。

名古屋城 本丸御殿
名古屋城 本丸御殿
名古屋城 本丸御殿

  期待通り、見応え十分でした。バチカンのシスティーナ礼拝堂に匹敵するぐらいです。日本美術の粋が集まっています。

 本当に圧倒されました。

名古屋城 本丸御殿
名古屋城 本丸御殿・上洛殿(三代将軍家光をお迎えするために増築)
名古屋城 本丸御殿
名古屋城 本丸御殿

 残念ながら、「本物」は、昭和20年の米軍による空襲で焼失してしまいました。名古屋城は、昭和11年に指定された「国宝第1号」ですからね。米軍は、それを知って、爆撃したに違いありません。米国人は野蛮な文化破壊者ですよ。ロシア人を批判する資格があるのかしら?と、つい興奮してしまいます。

 本丸御殿は、復元ですが、世界に誇れます。感嘆感服致しました。今回、これを見るだけで名古屋に来た甲斐がありました。

元祖てんむす千寿と愛知の地酒「関谷酒造」の「蓬莱泉」ワンカップ こりゃうめえ

 あ、その前にランチは、K君が3人分用意してくれました。天むすの元祖「千寿」と愛知の地酒「関谷酒造」の「蓬莱泉」ワンカップです。これが旨いの何の…。これまた、名古屋に足を運んだ甲斐がありました(笑)。

名古屋・徳川美術館と庭園「徳川園」

 次に向かったのが徳川美術館と庭園「徳川園」です。大変、大変失礼ながら、口から泡を吹いて驚くような見たことがないようなお宝は展示されていませんでした。(尾張)徳川家代々の本当の秘宝は、蔵にあるんでしょうね(笑)。

名古屋・庭園「徳川園」大曽根の瀧

  徳川美術館では、どういうわけか、春季特別展が開催されていて、安藤広重の「東海道五十三次」と「木曽海道六拾九次」の全作品が展示されていました。山上君は静岡県出身で、「東海道五十三次」で描かれた蒲原(本当は雪は降らない)や三島や見附や舞浜などは馴染みの深い地元の名所なので、食い入るように見つめておりました。

名古屋のシンボル・テレビ塔

 次に向かったのが、現代の一番、名古屋らしい所ということで、久屋大通り公園にあるテレビ塔です。

 久屋大通り公園は、何となく、札幌の大通公園に似たイメージがありましたが、すっかり変わってしまい、公園の両脇は、超高級ブティックやレストランが並び、随分、敷居が高くなりました。

名古屋「御園座」懐かしい!

 そうそう大変なことが起きました。今回起きたトラブルの究極の極致です。K君が、スマホを無くしたことに気が付いたのです。恐らく、午前中に出掛けた秀吉生誕地の中村公園内で置き忘れたのではないか、ということで、公園事務所や近くの交番に電話しましたが、まだ届け出はありませんでした(いまだ探索中)。

 普通だったら、パニックになるのに、K君は肚が座っているというか、あまり動揺しません。仏教的諦念に近いんです。でも、早く見つかることを願っています。

 今回一緒に合流してくれた山上君は、夕方の新幹線で帰るというので、地下鉄の「栄」駅で別れました。一緒にお酒でも飲もうと思っていたのに本当に残念でした。

名古屋の居酒屋「大甚本店」閉まってたあ

 今回の小旅行は「トラブル続き」だった、と書いた通り、最悪だったのは、本日のハイライトだった「夜のお楽しみ」が日曜日だったせいなのか、予定していたお店が全て閉まっていたことでした。まず、K君が学生時代から通っていた、名古屋一の老舗居酒屋「大甚本店」(創業明治40年、伏見)が閉まっていました。そして、御園座近くの「大甚中店」も閉まっていました。

名古屋・伏見 バー「バーンズ」

 しかも、K君が1カ月も前から考え抜いてくれていた「二次会」用の老舗著名バー「バーンズ」までこの日は「貸し切り」で中に入れませんでした。

 どないなっとるんねん??? 

名古屋・串カツ屋

 仕方がないので、伏見駅の近くにあった串カツ屋さん「串かつでんがな」に飛び込みで入り、この後、名古屋駅にタクシーで向かいました。

名古屋ミッドランドスクエア42階「スカイプロムナード」800円のはずが

 K君が「どうしても見てもらいたい」ということで、駅前に聳え立つ超高層ビル「ミッドランドスクエア」の42階「スカイプロムナード」に連れて行ってくれました。(名古屋には超高層ビルは、駅前にある3棟ぐらいしかありません)

名古屋ミッドランドスクエア「スカイプロムナード」360度の視界で、名古屋城も見えます

  ここは入場料が800円ですが、K君の「身体障害者手帳」を提示すると、その付き添いまでロハで入場できたのです。

 周囲は若いカップルばかりで、お爺さんの二人連れは、何となく異様な雰囲気でした。

 でも、今回、山上君と再会したのは43年ぶりのこと。ということは、43年前は彼ら若いカップルはまだこの世に生まれてもいなかったに違いありません。感慨深いものがあります。

 2日目の16日(月)の話は次回に続きます。

鎌倉五山の円覚寺~浄智寺~建長寺~寿福寺、そして源義朝、太田道灌ゆかりの英勝寺に参拝

 12月12日の日曜日、思い立って、「鎌倉五山」巡りを決行して来ました。

 「鎌倉五山」とは、御説明するまでもなく、神奈川県鎌倉市にある臨済宗の禅寺で、第一位建長寺、第二位円覚寺、第三位寿福寺、第四位浄智寺、第五位浄妙寺の寺院とその寺格のことで、一説では北条氏によって制定されたといいます。

 「京都五山」(別格南禅寺、第一位天竜寺、第二位相国寺、第三位建仁寺、第四位東福寺、第五位万寿寺)と対をなしていますが、残念ながら、その規模や雄大さ、壮麗さ等を含めて鎌倉五山の方がどうしても見衰えしてしまいますが、国宝、重文級のものもあり、とても等閑にはできません。

 来年(2022年)というより、来月から始まるNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放送されれば、鎌倉はまためっちゃ混みますから、人混みを避けたかったのでした。

鎌倉五山第二位 円覚寺
鎌倉五山第二位 円覚寺

 皆様御案内の通り、私自身、鎌倉五山第五位の浄妙寺に関しては既に昨年8月にお参りしたばかりですので、今回は、残りの4寺院をお参り致しました。(浄妙寺は、「八幡太郎義家」こと源義家のひ孫で足利氏二代目義兼(よしかね)が1188年に創建。2020年8月12日付の渓流斎日乗「いざ鎌倉への歴史散歩=覚園寺、鎌倉宮、永福寺跡、大蔵幕府跡、法華堂跡、浄妙寺、報国寺」をご参照)

 まずは第二位の円覚寺を目指しました。JR横須賀線の北鎌倉駅からすぐ近くです。

 円覚寺(拝観志納金500円)はかつて数回はお参りしていますが、もう20年ぶりか、30年ぶりぐらいです。もうほとんど覚えていません。

鎌倉五山第二位 円覚寺 山門

 円覚寺といえば、私の場合、すぐ夏目漱石のことを思い起こします。三部作の最後に当たる「門」の舞台になったところで、漱石自身もここの宿坊「帰源院」で明治27年12月下旬から1月7日まで座禅修行したことがありました。横須賀線は明治22年に開通しています。

 現在も座禅が出来るようですが、一般といいますか、在家向けは、新型コロナの影響で結構中止になったようです。

鎌倉五山第二位 円覚寺

 円覚寺は1282年創建、第八代執権北条時宗が蘭渓道隆亡き後、中国から招いた無学祖元(後の仏光国師)が開山しました。その2年後に亡くなった時宗と九代貞時、最後の十四代執権高時をお祀りしています。

 
鎌倉五山第二位 円覚寺 舎利殿(国宝)

 円覚寺といえば、何と言っても国宝の舎利殿(仏陀の歯牙をお祀りしている)ですが、お正月三が日など特別な期間以外は拝観制限されているとのことで、遠くから写真を撮るのみでした。

 この舎利殿は、三代将軍源実朝が、宋の能仁寺から請来したもので、鎌倉の太平寺(尼寺・廃寺)から仏殿(鎌倉末~室町初期に再建)を移築したものだといいます。

鎌倉五山第四位 浄智寺 鎌倉では珍しい唐様の鐘楼門
鎌倉五山第四位 浄智寺

 次に向かったのが、 鎌倉五山第四位の浄智寺 (拝観志納金200円)です。円覚寺から迷わなければ、歩7,8分というところでしょうか。途中、駆け込み寺として有名な東慶寺がありましたが、我慢して通り過ぎました。

 浄智寺の正式名称は、臨済宗円覚寺派金宝山浄智寺です。第五代執権北条時頼の三男宗政の菩提を弔うために1281年頃に創建されました。開基は宗政夫人と諸時親子。開山は、建長寺第2代住職も務めた中国僧兀庵普寧(ごったん ふねい)ら3人です。

鎌倉五山第四位 浄智寺

 御本尊は、阿弥陀如来、釈迦如来、弥勒如来の木造三世仏坐像(神奈川県重要文化財)です。

 これは、後で知ったのですが、映画「ツィゴイネルワイゼン」や「武士の一分」などが境内で撮影され、映画監督の小津安二郎や日本画家小倉遊亀らがこの寺域で暮らし、墓所には作家澁澤龍彦らが眠っております。

鎌倉五山第一位 建長寺
鎌倉五山第一位 建長寺

 次に向かったのが 鎌倉五山第一位の建長寺(拝観志納金500円)です。やはり、第一位だけに迫力が違いました(笑)。かつて、一度は参拝したことがあったのですが、これまた全く記憶にありません(苦笑)。

 100年の歴史がある進学校「鎌倉学園」(加藤力之輔画伯、サザンの桑田佳祐の出身校)が隣接していたことも今回初めて知りました。

 正式名称は巨福山(こふくざん)建長興国禅寺。上の写真の 巨福山 の「巨」の字に点が付いているのは、十代住職一山一寧(いっさんいちねい)が筆の勢いに任せて書いてしまったといいます。しかし、結果的にその点が全体を引き締めて百貫の値を添えたことから「百貫点」と呼ばれるようになったといいます。

鎌倉五山第一位 建長寺 三門

 建長寺は、建長5年(1253年)、五代執権北条時頼が建立した我が国最初の禅宗専門寺院です。開山(創始者)は、中国の宋から33歳の時に来日した蘭渓道隆(後の大覚禅師)です。

 上の写真の「三門」は国の重要文化財に指定されています。三門とは、三解脱門の略で、「空」「無相」「無作」を表し、この三門をくぐることによって、あらゆる執着から解き放たれることを意味するといいます。

 神社の鳥居のような役目を果たしていたんですね。

鎌倉五山第一位 建長寺

 この梵鐘は国宝です。重さ2.7トン。開山した大覚禅師の銘文もあります。

 この梵鐘から、夏目漱石が「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」という句をよみました(明治28年9月)。これに影響されて、漱石の親友正岡子規が「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」を作ったと言われます。漱石が子規の影響を受けたのではなく、その逆です。

鎌倉五山第一位 建長寺 仏殿 地蔵菩薩坐像

仏殿は、国の重文で、 地蔵菩薩坐像 が安置されています。

 現在の建物は四代目で、東京・芝の増上寺にあった二代将軍徳川秀忠夫人お江の方(三代家光の母)の霊屋を建長寺が譲り受けたといいます。

鎌倉五山第一位 建長寺 法堂 千手観音菩薩 雲龍図(小泉淳作画伯)

  法堂は、僧侶が住持の説法を聴き、修行の眼目とした道場です。388人の僧侶がいたという記録もあります。現在の建物は、文化11年(1814年)に再建されたもので、御本尊は、千手観音菩薩です。天井の「雲龍図」は建長寺創建750年を記念して、小泉淳作画伯によって描かれました。

 小泉淳作画伯は、京都の建仁寺の「双龍図」も描かれています。

 小泉淳作画伯の美術館は私もかつて仕事で赴任したことがある北海道十勝の中札内村にあります。確か、小泉画伯は、このような壮大な雲龍図などは、廃校になった小学校の体育館をアトリエにして描いていたと思います。

鎌倉五山第一位 建長寺 葛西善蔵之墓

 境内には、太宰治も敬愛した無頼派の元祖とも言われる私小説作家の葛西善蔵の墓がある、とガイドブックにあったのでお参りしてきました。

 案内表示がないので、結構迷いましたが、階段を昇った高台にありました。葛西善蔵は、極貧の中、昭和3年に42歳の若さで亡くなっていますが、今でも新しいお花が生けてありました。忘れられた作家だと思っていたので、いまだに根強いファンがいらっしゃると思うと感激してしまいました。

鎌倉市山ノ内 カフェ「Sakura」 ビーフカレー(珈琲付)1300円

 時刻も午後1時近くになり、お腹も空いてきたのでランチを取ることにしました。本当は、ガイドブックに出ていた「去来庵」という店で名物のシチューでも食べようかと思ったら、コロナの影響で、喫茶のみの営業でしたので諦め、建長寺近くにあったカフェに入りました。

 量的には少なかったのですが、大盛にすると1500円です(笑)。でも、お店のマダムはとても感じが良い人だったので、また機会があれば行きたいと思わせる店でした。

浄土宗 東光山英勝寺
浄土宗 東光山英勝寺

次に向かったのが、最後に残った 鎌倉五山第三位の寿福寺 です。

ランチを取ったカフェの目の前の亀ヶ谷坂切り通しを通りましたが、「切り通し」というくらいですから、中世に谷間を削って出来た人工的な道ですから、かなりの急勾配でした。

 建長寺辺りは「山ノ内」で、この 亀ヶ谷坂切り通し辺りから「扇が谷」という地名になります。歴史好きの人ならすぐピンとくるでしょうが、室町時代になると、関東管領の山ノ内上杉家と扇が谷上杉家とが熾烈な争いをします。両家の勢力圏がこんな近くに隣接していたとは行ってみて初めて分かりました。

 寿福寺に行く途中で、全く予定のなかった「鎌倉五山」ではない英勝寺を通り過ぎようとしたところ、上の写真の「太田道灌旧邸跡」の碑があったので吃驚仰天。予定を変更してこの浄土宗東光山英勝寺(拝観志納金300円)もお参りすることにしました。

 英勝寺自体は、太田道灌から数えて4代目の康資(やすすけ)の娘で、徳川家康の側室、お勝の方(英勝院)が1636年に創建した鎌倉唯一の尼寺です。

 太田道灌は江戸城や河越城などを築城した武将ですが、扇ケ谷上杉氏の家宰だったので、ここに邸宅があったのですね。

浄土宗東光山英勝寺の御本尊、阿弥陀如来三尊像は運慶作ということですが、国宝に指定されていないのでしょうか?

 でも、太田道灌で驚いていてはいけません。

 英勝寺の「拝観のしおり」には、ここは平安時代末期に、源頼朝の父義朝の屋敷だったというのです。「えーー、早く言ってよお」てな感じです。

 源義朝と言えば、保元・平治の乱で活躍した人で、義朝は平治の乱で平清盛らに敗れて敗走し、途中尾張で部下に殺害されたと言われます。行年36歳。お蔭で、嫡男頼朝は幼かったので伊豆に流され、その後、その土地の北条政子と結婚し、鎌倉幕府を築いていく話は誰でも知っていることでしょうが、頼朝の父義朝が鎌倉に居を構えていたことを知る人は少ないと思います。

 源頼朝の生地は、母の実家がある尾張の熱田神宮の近くと言われますが、父義朝が鎌倉に所縁があったので鎌倉に幕府を開くことにしたのでしょうか? 幼い時に、この鎌倉の義朝邸に頼朝も住んだことがあったのでしょうか?

鎌倉五山第三位 寿福寺
鎌倉五山第三位 寿福寺

 今回、最後に参拝したのは、英勝寺に隣接していた鎌倉五山第三位の寿福寺でした。

 ここは山門から堂宇にかけては非公開なので、拝観志納金もないのですが、そのためパンフレットもありません。

 でも、上の看板にある通り、とても重要な寺院なのです。

鎌倉五山第三位 寿福寺 中門

 何と言っても、正治2年(1200年)、頼朝の妻政子が開基し、日本の臨済宗の開祖栄西が開山した鎌倉五山最古の寺院なのです。

鎌倉五山第三位 寿福寺 北条政子之墓

 境内には北条政子と、政子の次男で暗殺された三代将軍源実朝ののやぐら(墓地)もあります。

鎌倉五山第三位 寿福寺 源実朝之墓

 標識があまりないので、恐らく、一番奥まったところにあるのだろう、と勝手に想像して、やっと探し当てました。

 実朝は、将軍ながら「金槐和歌集」でも有名な歌人でもありました。大海の磯もとどろに寄する波破れて砕けて裂けて散るかも なんて良いですよね。

鶴岡八幡宮で、甥の公暁に暗殺されたのは1219年。今から800余年前のことです。やぐらの写真を撮らさせて頂いたところ、何か、無念のまま亡くなった右大臣実朝将軍の霊がこちらに迫ってきたような感じがしました。

会津漆塗りの盃と小鹿田焼の五寸皿

 最近、どうも「ぐい呑み」づいております。

 このブログの10月30日付「備前焼のぐい吞みをゲット=友人Y君から」に書いた通り、備前岡山出身の友人から備前焼のぐい呑みを頂いたことを書きました。

茂徳作・会津漆器盃

 今度は、先日、会津の裏磐梯に行った際、お出迎えして頂いた安奈さんから、この会津漆塗りの盃を記念に戴いてしまいました。

 ロバート・キャパにならって、写真は「ちょっとピンボケ」ですが、名工・茂徳作の高級品です。箱入りです(笑)。「ガラス工芸のうるし塗り」という説明書の最初に、「会津漆器の生産は天正18年(1590年)、時の藩主・蒲生氏郷公が基礎を築かれ、云々」と書かれております。

 出ました。蒲生氏郷ですよ。このブログの今年3月21日付「商業発展に注力した戦国武将・蒲生氏郷=近江商人や伊勢商人までも」に書いた通り、戦国時代の武将蒲生氏郷(がもう・うじさと、1556~95年)は、「日本商業の父」とも言うべき大名で、今でも連綿と続く近江商人や伊勢商人を育成し(伊藤忠、武田薬品、三井財閥、イオンなど)、会津に移封されると地元の殖産興業の一つとして、漆塗り器の生産などを奨励します。

 400年以上経っても、蒲生氏郷の遺産が残っているわけです。

小鹿田焼(飛び鉋の五寸皿)いい景色です

 話は代わって、このブログの10月31日付「民藝運動に対する疑念を晴らしてくれるか?=小鹿田焼が欲しくなり」に書いた通り、小鹿田焼(おんたやき、と読みます)の「飛び鉋」(とびかんな)の五寸皿を通販で購入したことを書きましたが、割と早く、昨日届きました。

どうです? 実に見事な景色じゃあーりませんか。普通のおかずにも、フルーツ盛りにも、何でも使えそうではありませんか。鉋模様は、職人さんの手彫りですから手間暇が掛かっています。二度と同じ文様の作品は作れないそうです。

会津裏磐梯で買ってきた赤べこと小鹿田焼(飛び鉋の五寸皿)

 やっぱり、渋いですね。歳を取るのもいいもんです。渋さの味わいが分かるようになるからです。

 恐らく柳宗悦の民藝を知らなければ、この小鹿田焼も知らなかったと思います。

 小鹿田焼は江戸中期の宝永2年(1705年)、今の大分県日田に福岡県の小石原焼の技法が伝わったのが始まりだと言われています。その後、衰退しかけていたのですが、大正時代に柳宗悦らの民藝運動で「再発見」され、現在でも根強いファンが多いと言われています。

 ええんでなえかえ(北海道弁)

「わたし、船長さんになる!」そして…=裏磐梯一人旅

 御縁がありまして、週末に一人旅に行って来ました。

 御縁というのは、小学校時代からの古い古い友人の御嬢さんが、ちょっと事情があって、今年4月から福島県の裏磐梯のホテルに単身赴任されているということで、さぞかし、一人寂しく、毎晩枕を濡らしているのではないかと心配し、応援に行ってみたのでした。

東京・鍛冶橋~会津の長距離バス 行きも帰りも大渋滞で行き6時間、帰り6時間半掛かってしまいました

 ところが、おっとこどっこい。豈はからん哉でした。

 裏磐梯は、御嬢さん(北原安奈さんと言うので、これから安奈さん)が父親の仕事の関係で幼稚園から小学校低学年まで過ごした「第二の故郷」みたいな所で、私が泊まりに行った日に、ホテルの仕事をわざわざ休んで夕飯に付き合って頂いたのですが、いきなり、「私、Uターン族としてここに永住しようかと思っています」と言うので腰を抜かすほど驚いてしまいました。

 家族のプライバシーではありますが、首都圏にいる高校生の娘さん一人を置いて(面倒は母、つまり私の友人がみているわけです)での大決断だったでしょうが、随分あっさりしていたので驚いてしまったのです。

 「まあ、近いのでちょくちょく帰れますし、気が変わるかもしれませんけど」

 そうなんです。安奈さんは、猪年生まれのせいか、「猪突猛進」型で、東京の大学を卒業してから何度仕事が変わったことか。私も彼女が働く銀座のチョコレート屋さんや、高田馬場のバーに顔を出したこともあります(笑)。趣味も幅広く、またまた彼女のプライバシーを暴いてしまいますが、今よりもっと若い頃、サッカーやラグビー選手に熱をあげて、全国、試合を追っかけ回したこともあったとか。

裏磐梯レイクリゾートホテル スタッフ120人、最大872人の賓客を収容出来る大型の高級ホテルで総工費は目の玉が飛び出るほどです。オーナーは何代か代わり、現在は大手通販会社ベルーナの子会社グランベルホテルが経営。

 でも、今回はかなり本気モードのようで、裏磐梯に赴任する前に、今まで取っていなかった運転免許証を取るために、わざわざ佐賀県にまで行って合宿して取得し、今年6月には「一級小型船舶操縦免許」まで取得したというのです。

裏磐梯・檜原湖 15時間45分発の観光船に乗船

 この小型船舶の免許は、ホテルが運営する観光船の船長さんが営業が終わると湖の沖合に船を停泊させるので、船長さんが岸に戻って来られるように小型船で送り迎えするために必要だというのです。

 「へー凄いなあ」と思ったら、安奈さんは「将来、大型船の免許も取って、船長さんになりたーあい」とまで言うのです。まあ、NHK朝の連続テレビ小説の主人公にでもなりそうな破天荒な女性です(笑)。

裏磐梯・檜原湖

 安奈さんは、小学校から中学、高校まで、もう少し都会の福島県会津若松市で育ちましたが、裏磐梯の方が気に入っているのは、何と言ってもスキーが出来るからだといいます。

 目の前の会津磐梯山は、恰好のスキー場で、安奈さんは幼稚園の頃からここで滑り、中学、高校とスキー部で鳴らしたようです。

 「私、寒いのも大好きです」と言うぐらいですから、彼女にとって、裏磐梯は天国みたいな所かもしれません。

裏磐梯・檜原湖 磐梯山

 この裏磐梯に来て初めて知ったのですが、上の写真の磐梯山は、明治21年(1888年)7月15日に大噴火して、この檜原湖は、噴火によって地盤沈下と河川の氾濫などで出来た湖だというのです。

 死者477人という記録が残っていますが、この檜原湖の下には多くの集落があり、そのまま埋没してしまったという悲しい過去の歴史があったわけです。

 明治21年と言えば、つい最近のことではありませんか!近代メディアも発達したばかりで、地元福島新聞をはじめ、東京日日新聞、朝野新聞、時事新報、報知新聞、東京朝日新聞なども特派員を派遣して大きく報道しました。当時はよほどインパクトがあった事案だったのか、この年の10月には早くも五代目尾上菊五郎によって「是万代話柄 音聞浅間写画(これはばんだいのはなしぐさ おとにきくあさまのうつしえ)」(万代は磐梯にかけ、浅間山の噴火とした)の演目で歌舞伎が演じられたといいます。

裏磐梯・曽原湖

 観光船から降りると、安奈さんは、若葉マークの付いた自慢の愛車ジムニーで、彼女のお気に入りスポットである曽原湖に連れて行ってくれました。檜原湖から車でわずか数分ほどですが。

 湖面に映る対象的な風景は、もし私に絵心があれば描きたくなるような景色でした。

 私は普段は都会で、高層ビルに囲まれて、活字ばかり追っている生活ですから、さすがに目と心が洗われます。

裏磐梯・曽原湖

 裏磐梯と言われるところは、正式に福島県北塩原村と言って、この村のHPを見ると、この村の人口は今年10月1日現在2618人。観光産業に従事している方が多いとみられます。

 磐梯山という火山は、噴火で大惨事を招く一方、逆にそのお蔭で、豊かな温泉が湧き出るという立地が出来たことになります。バブルの頃は、かなり多くの別荘やペンションがあったのですが、当時と比べると今はかなり寂れてしまったそうです。

 安奈さんは、いつか、将来、恩返しの意味も込めて、この村のために尽くしてみたいと夢を語ってくれました。「全身全霊」「粉骨砕身」などという言葉が出るくらいですから、かなり本気のようです。

 今から17年後の2038年は、磐梯山大噴火から節目の150年を迎えます。美人で社交的でお友達も多い安奈さんのことですから、それまでに着々と準備をしているようです。

 17年後ですかぁ…私はそれまで生きているかどうか分かりませんが、その雄姿を見てみたいなあと思っています。

裏磐梯・五色沼自然探勝路

 ホテルの夕食は豪華な和食のフルコースで、地酒の利き酒セットをお代わりまでしていい気分になりました。彼女は車ですから、ノンアルコールビールで嫌々付き合ってもらいましたが、色々な話が聞けてよかったでした。

 翌朝も、大浴場で温泉を堪能した後、向かったのは、ホテルの近くにある「五色沼」です。大小30ほどあり、エメラルドグリーン、ターコイズブルーなど様々な色彩を持つ湖沼の総称で、村の重要な観光資源 tourist attractionになっています。2016年にミシュラン・グリーンガイド一つ星に認定されています。

約4キロの「五色沼自然探勝路」が整備されていて、往復約2時間40分掛かるということで、帰りのバスのことなどもあり、私は半分ぐらい行って引き返すことにしました。

裏磐梯・五色沼の柳沼

 最初、レンタル自転車でも借りて行こうかなあ、と思ったのですが、トレッキングコースは車両禁止でした。何でかなあ、と思って行ってみたら、かなり岩がゴツゴツした歩きにくいでこぼこ道で、これでは自転車走行も難しいと分かったわけです。

 写真では再現できませんが、この柳沼の実物は実に素晴らしい。

 この五色沼周辺を始め、磐梯山の大噴火で荒廃してしまった裏磐梯に私財を投じて植林した地元の偉人に遠藤現夢(十次郎、1863~1935年)という人がいることをここで初めて知りました。柳沼の近くに「遠藤現夢翁の碑」があります。

裏磐梯・五色沼の青沼

 この青沼は、その名前の通り、エメラルドグリーンというか、ターコイズブルーというのか、実に幻想的な色彩で、見ていて飽きませんでした。

 北海道の沼を思い出しましたが、本州にもこのような幻想的な沼があるとは思いませんでした。

裏磐梯・五色沼の瑠璃沼

 この瑠璃沼の写真は、逆光でよく分かりませんが、その名前からして、瑠璃色の沼のようです。沼といっても、小さな湖ですね。

裏磐梯・五色沼の弁天沼

 この弁天沼は、結局、今回は行かなかった「五色沼」最大の毘沙門沼に次ぎ、湖沼群の中で2番目に広い沼です。

 写真には写っていませんが、コロナ感染者の減少のせいか、結構、観光客でいっぱいで、狭い道をすれ違うのもやっとの所もありました。

 以上 安奈さん、そして仲介してくださった吟さんには大変お世話になりました。

 【追記】

 帰りのバスも、事故で大渋滞でストレスが溜まりました。そんな狭いバスの中で、後ろの心ない40代ぐらいのキツネ目の眼鏡をかけた女の客が傍若無人にもスマホでユーチューブをイヤホンもせずに、ボリュームを上げて見ているので、イライラしてしまいました。

 途中、羽生SAで休憩した際、運転手さんに、「私が直接注意すれば喧嘩になるので、後で運転手さんからマイク放送で注意してもらえませんか」とお願いしたら、再出発した際、運転手さんは「今、会社からの情報ですが、お客さんの中に、ヘッドホンをせずに音楽などを聴いていらっしゃる方もいますが、周りの方にも迷惑になるので、是非ともヘッドホンをお付けになってお聴きください」と放送してくれたのです。そしたら、ピタリと止みました。

 私が言ったことを「会社からの情報」とは、オツなことを言うものです。気分爽快で、下車の際に、何度も運転手さんに御礼を言いました。

 それにしても、傍若無人で、自己中心的で身勝手な人間が最近増えたと思いませんか?

「伊達政宗 終焉の地」と江戸城跡

銀座「ごだいご」 ランチごだいご御膳 1100円

 昨日、伊達政宗(1567~1636年)のことを書いたら、ふと、「政宗終焉の地」を再訪したくなり、昼休みに日比谷公園にまで走って行きました。しかも、5月24日(太陰暦)は、政宗公の命日(386年遠忌)だったのです。是非ともお参りもしなければなりません。

(会社から歩いて20分ほど)

 場所は、皇居寄りの日比谷交差点近くの公園入り口(交番がある)から入るとすぐあります。

 上の写真の木々の間から微かに見える建物は、戦後、GHQ本部が置かれた第一生命ビルです。

 ここが「伊達政宗 終焉の地」です。

 初めて、ここが「伊達政宗 終焉の地」だと知ったのは、ほんの5,6年前です。ですから、この立て看板が出来て、まだ10年も経っていないのではないかと思います。

 私の会社は、2003年まで日比谷公園内にありましたから、日比谷公園に関しては隅から隅まで歩き尽くし、熟知していたつもりでしたから、この看板を見つけた時は本当に吃驚しました。

 「えっ?ここに伊達仙台藩の上屋敷があったの?」聞いてないよ、といった感じです。先日、この渓流斎ブログにも書きましたが、伊達仙台藩の上屋敷は当初、ここにあり、寛永18年(1641年)になって浜屋敷(今の汐留の日本テレビ本社)に移転(幕末まで)したのでした。

 ちなみに、以前、会社があった場所は、盛岡南部藩の上屋敷跡だった所でした。

心字池 右後方は帝国ホテル

「伊達政宗 終焉の地」の目の前は、今は心字池になっています。

 かつてはお濠だったらしいのです。

 石垣は、江戸時代のものですが、よくぞ残ったものです。

米軍は東京を空襲する際、既に、戦後の占領統治を考えており、第一生命ビルをGHQ本部にし、日比谷界隈の宝塚劇場や映画館等は兵士の慰問のために残すことを決定し、この辺りを爆撃しなかったと言われています。だから、石垣も残ったのでしょう。

 この石垣の上にベンチがあり、よく、ランチ気分でサンドイッチやおにぎりを食べたり、本を読んだりしたものです。

この石垣は、江戸城外郭城門の一つ、日比谷御門の一部とのこと。

案内板では、慶長19年(1614年)に熊本藩主加藤忠広によって石垣が築造され、寛永5年(1628年)には仙台藩主伊達政宗によって門の石垣が構築された、とあります。

日比谷公園を出て、日比谷交差点を渡ると、もうそこは江戸城です。勿論、今の皇居です。

 以前、テレビで、ある女性タレントが「皇居が江戸城だったの?知らなかったあー!」と叫んでいたのを見て、腰が抜けるほど驚きました。世の中にこういう人もいるとは…。戦前、宮城(みやぎ、ではなく、きゅうじょう)と呼ばれていたことも知らないことでしょう。

 それはさておき、伊達藩の上屋敷が江戸城からこんな近いとは驚きです。目と鼻の先。まさに「スープが冷めない距離」です。家康公が、よっぽど伊達政宗を警戒したのか、逆に、よほど近くに置いておきたかったのかのどちらかでしょう。伊達藩は外様ですが、家康は案外、政宗公を気に入っていたんじゃないかと私なんか思うんですけど、理論的な裏付けはありません(笑)。

 仙台藩は「伊達騒動」を始め、お家騒動が極端に多く激しかった藩で、幕末も佐幕派と新政府側と壮絶な争いがありました。あの仙台藩から遣米使節に選ばれた玉蟲左太夫も、奥州越列藩同盟の推進に活躍したため、最後は詰め腹を切らされました。大変惜しい人材でしたが、玉蟲左太夫は、言わば、伊達政宗公の遺訓を守って、徳川方に忠誠を尽くしたような気がします。これも想像ですが。

 江戸城は、天守こそ再建されませんでしたが、広大な敷地といい、天下普請の石垣といい、日本全国見渡しても、江戸城に優るお城はありません。私なんか、外から石垣を眺めるだけでも大満足です。石垣は諸藩から献上されたので、藩の家紋が彫られたりしています。

 コロナ禍で遠出ができない人には、江戸城跡はお薦めです。(あ、これは関東圏にお住まい向けの発言でした。全世界の愛読者の皆様、大変失礼仕りました)

見つけた!仙台藩江戸上屋敷跡

東京・汐留 日本テレビ本社 下はゼロスタ広場

 昨日も取り上げました「仙台藩士 幕末世界一周」の玉蟲左太夫にはまってしまい、昼休みを利用して東京・汐留(港区東新橋)の日本テレビ本社に行って来ました。

 な、な、何で?

 チ、チ、チ。あたしがテレビに出るわけない。ここは江戸時代は仙台伊達藩の上屋敷があった所だったのです。

 明治になってから、上屋敷は新政府に没収され、汐留は、日本で最初の鉄道である新橋停車場が建設された所でもありました。

 日本で初めての鉄道は、1872年10月14日、新橋~横浜間で開業しましたから、来年でちょうど150周年を迎えます。記念行事が予定されているようなので、来年こそは、コロナが終息してほしいものです。

 さて、仙台伊達藩の江戸上屋敷は、今では日本テレビの本社になっているということは、先ほどの玉蟲左太夫著、山本三郎解説の「仙台藩士 幕末世界一周」(荒蝦夷)で初めて知りました。

 この本によると、玉蟲左太夫は、この江戸上屋敷内にあった学問所「順造館」でも教鞭を執っていたというのです。

 ということは、玉蟲左太夫さんも、幕末にこの汐留辺りをウロチョロしていたわけですね。何か感無量です。

 でも、屋敷跡の看板を探すのに一苦労でした。銀座にある会社から昼休みを利用して行ったので、ランチを含めて1時間で戻れるかどうか冷や冷やでした(笑)。(迷わずに速足で行けば、10分ちょっとで行けますが)

 上の写真の「江戸時代の仙台藩上屋敷跡」の看板は、日本テレビ本社敷地内の1階というか地下にあるというか、ゼロスタ広場の地下通路寄りの柱にやっと見つけました。冗談じゃない、くらい分かりづらい場所にありました。

もっと分かりづらかったのが、上の看板「江戸時代の仙台藩上屋敷表門跡」です。

日本テレビ本社の1階というか地下にあるのかと思ったら、1階というか2階というか、汐留通りに面した所の、何か、工事中みたいな出っ張った所、日本テレビの北玄関近くで、この看板をやっと見つけました。(面倒臭い言い回しで失敬致しました。本当に、地下なのか1階なのか2階なのか、区別が付かないのです)

 せっかく、あたしが苦労して見つけてきた看板ですから、写真を眺めるだけでなく、是非とも文字もお読みくださいね(笑)。

 仙台伊達藩の江戸屋敷は、伊達政宗が存命中の江戸初期は、江戸城に近い外桜田(現千代田区日比谷公園)や愛宕下(港区新橋)などにありましたが、寛永18年(1641年)にこの浜屋敷を幕府より与えられました。当初は下屋敷でしたが、延宝4年(1676年)以降は幕末までは上屋敷だったのです。

 元禄15年(1702年)12月15日、本所の吉良邸に討ち入りを果たした赤穂浪士が、高輪の泉岳寺に向かう途中、仙台藩士に呼び止められ、ここで粥のもてなしを受けた、と看板に書いております。

あらま、結局、看板の文字を少し書いてしまいましたね。

中世の石垣が見どころでした=日本百名城「金山城跡」ー亡くなった親友を偲ぶ傷心旅行

金山城跡 復元された大手虎口(金山城で一番有名なスポット)

 親しい友人を亡くしてしまい、ショックで寝込むわけにもいかず、傷心旅行に出かけることに致しました。

 東京では緊急事態宣言、周辺首都圏でもまん延防止等重点措置が発令され、不要不急の外出や飲食店でのお酒を含めた自粛要請がなされておりましたが、傷心旅行ですから、よゐこの仮面を取ることにしました。

目指したのは、「日本100名城」にも選出されている金山(かなやま)城です。群馬県太田市金山町にあります。

自宅の最寄り駅から、金谷城跡の最寄り駅の太田までわずか1時間26分しか掛かりませんでした。都心に行くのと変りゃあせん(苦笑)。JR宇都宮線久喜駅から東武伊勢崎線に乗り換えますが、久喜駅から太田駅まで、奮発して特急(指定780円、運賃660円)に乗りましたから意外と近かった。

総合案内板

 総合案内板に書かれている通り、金山城は、昭和9年(1934年)に群馬県で初めて城跡として「国の史跡」指定を受けています。

 ここまで、太田駅から歩くと、1時間半ぐらい掛かりますが、バスも走っていないようで、私はズルしてタクシーに乗りました。最初は「太田市立史跡金山城跡ガイダンス施設」までタクシーに乗って、そこから歩こうかと思いましたら、かなりの急こう配で、タクシーの運転手さんも「キツイですよ」と言うので、運転手さんの言うところの「城跡入り口」まで乗せてもらうことにしました。(駅から19分ぐらい。タクシー代1770円)

 コロナ禍で、「ゴールデンウイークも観光客がほとんどいなかった!」とタクシーの運転手さんもボヤいてました。

馬場下通路

金山城は、文明元年(1469年)、新田一族の岩松家純が築城した、いわゆる中世の城です。門も櫓も建物は何も残っていませんが、石垣だけでも風格が見て取れます。

物見台下虎口

 岩松氏を下克上で倒して城主となった由良氏(横瀬氏から改姓)の時代の16世紀半ばに最盛期を迎えます。上杉謙信や武田勝頼らから十数回も攻撃されますが、一度も落城しませんでした。

月ノ池

 しかし、1584年、小田原北条氏の謀略によりついに落城し、北条氏の支配下になりましたが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉軍による小田原征伐で、北条氏の支城だったこの金山城も廃城となります。

大手虎口大手虎口
大手虎口

 この大手虎口が、金山城の写真では一番有名です。

 私もこの石垣を見たいがために、ここまで足を運んだわけです。

大手虎口

 上部の石垣は復元されたものですが、下の方には中世のままの石垣もあるそうです。

 私は石垣ファンなので、こんな石垣を見るとゾクッとしますねえ(笑)。ほんの少しだけ、西洋の中世城壁に似た感じがします。

 石垣だけで、昔の人たちの生活の営みが垣間見える気がします。

日ノ池

 これも有名な「日ノ池」で、解説パンフレットによると、戦いの勝利や雨乞いなどの儀式が行われた神聖な池だったらしい。

 こんな山城の頂上付近に池があること自体、不思議です。

新田神社

 金山山山頂の金山城本丸跡に、地元有志らが明治8年(1875年)に創建したのが、この新田神社です。鎌倉幕府を倒した郷土の英雄新田義貞を祀っています。

 ここで私は、4月27日に亡くなった親友神林康君の冥福をお祈りしました。

金山城主系図
実城(みじょう)本丸址

 金山城の本丸は、実城(みじょう)と呼ばれていました。

本丸残存石垣

 新田神社の裏手に回ると、この「本丸残存石垣」が見られます。いわゆる野面積にみえます。15~16世紀のものでしょうが、よくぞ、こんな山の頂上にまで重たい石を運んだものです。

 城主の権力の大きさには圧倒されます。

建物は隈研吾氏設計だとか

 本丸跡を見て、また、タクシーで連れてきてもらった「城跡入り口」まで同じ道を戻り、そこから車道(県道金山城址線)の端を恐る恐る歩いて「金山城跡ガイダンス施設」まで行きました。歩く人はほとんどいなく、車はブンブン飛ばしていました。どういうわけか、こんな山道をジョギングする人が何人かいました。ここまで歩いて20分。

上野国新田郡庁(復元模型)

ガイダンス施設に来てよかったことは、新田荘の歴史が模型展示で、手に取るように分かったことでした。

 新田荘は、かの清和源氏の血を引く新田氏が切り開いた土地だとばかり思っていたら、ここはもともと、古代から色んな豪族が支配していた所で、東日本最大級の天神山古墳など、古墳だらけの土地でした。今度は古墳巡りでもしようかしら(笑)。

 大和王権は、ここに、上野(こうずけ)国新田郡の郡庁まで築き、郡司を派遣して政務や儀式を行っていました。

 租税として納められた米を保管する「正倉」も多く建てられたということですから、この辺りは結構、お米が採れたことでしょう。古代は、もともと野(ずけ)という国一つだったのが、お米の収穫量が多いことから、上野(こうずけ=群馬県)と下野(しもつけ=栃木県)に分割されたという説を聞いたことがありますが、恐らくそういうことだったのでしょう。

 そして、中世になって、やっと武士化した新田氏が台頭してくるわけですね。

金龍寺

 昼時になったので、持ってきたおにぎりをガイダンス施設近くのハイキングコースのベンチで食べて、ここからまたタクシーを呼んで、駅まで戻ろうかどうか思案しましたが、結局、歩くことにしました。真っすぐ帰れば、50分ぐらい歩けば、駅に着くようでした。

 でも、歩くことにしたのは、ガイダンス施設のパネルで見たお寺が気になり、途中で寄りたかったからでした。せっかく、ここまで来たのですから、お参りしなければ、と気がせきました。

金龍寺本堂

 ガイダンス施設から歩いて10分ほどで、金龍寺(きんりゅうじ)に到着。

 ここは曹洞宗の寺院で、金山城主だった由良(横瀬)氏の菩提寺です。

 本堂では、また、亡くなった親友神林康君の冥福をお祈りしました。

金龍寺 新田義貞供養塔

 正一位左中将 新田義貞公の供養塔もあります。

 金龍寺は、天正18年(1590年)、由良氏の常陸国牛久移封で、一緒に移転しましたが、慶長年間にこの地を拝領した舘林藩榊原氏(徳川四天王の一人)によって再興されたといいます。

大光院

 金龍寺からまた歩いて15分ほどで、大光(だいこう)院に到着。

 金山城址の南曲輪に「中島知久平」の銅像が立っており、南曲輪も「中島記念公園」と命名されていました。中島知久平、って聞いたことあるし、誰だっけなあーとずっと気になっていたら、大光院境内の入り口付近で公園になっている所に、上の看板がありました。

 中島知久平氏は、あの中島飛行機をつくった人だったんですね。太田市押切町出身。つまり、地元の英雄だったのです。

 私は昭和史を少し齧ったので、中島知久平は、政友会の総裁を務め、鉄道大臣なども歴任した政治家だということでインプットしていました。もともと実業家で、政界に進出したんですね。

 中島飛行機は戦後、富士重工となり、この群馬工場で、あの懐かしいスバル360を生産していたとは知らなかった。私が子どもの頃、父親がこのスバル360を中古で買ったので、よく乗ったことを覚えています。可笑しいくらいボロボロの中古車なのに、それなりに走りました。雨が降った時、(駐車している)車の中で遊んだりしました。

大光院

 大光院は、清和源氏新田氏の子孫と称する徳川家康が、その新田氏の祖新田義重を追善するため、慶長13年(1613年)に創建した浄土宗の寺院です。寺領300石。初代住職呑龍(どんりゅう)に由来する子育て信仰で有名で、地元では、大光院のことを別名「呑龍様」と呼んでいるようです。

 勿論、ここでも、親友だった故神林康君の冥福をお祈りしました。

東武伊勢崎線太田駅北口前に建つ新田義貞像

 大光院から歩いて25分。やっと太田駅に到着。

 太田駅北口駅前に建つ新田義貞公が「お疲れ様」と声を掛けてくれました。

「会津のいとしき日々 」をYouTubeで発信

 私の友人のお嬢さんが「ユーチューバー」になりました。「AnnAIZUm」というハンドルネームで、「会津のいとしき日々 」というタイトルで、意欲的に発信していくようです。

 一本は、「磐越西線 郡山から猪苗代まで」というタイトルで、郡山駅発会津若松駅行下り電車の車窓から撮影したものです。

 約50分間、特に物語があるわけではなく、「鉄ちゃん」「鉄子」向きの電車の窓から見える景色と駅の映像ですが、しっかり字幕(しかも振り仮名付き!)が付いて、BGMなど効果音まで入れています。

凄い! 何処でこんな技を磨いたんでしょうか?

 時に、スマホの影が映るので、スマホで撮影したようですが、編集はセミプロ並みです。

 もう一本は、「めごいこらに会える、会津若松駅」。こちらは2分ぐらいです。

 会津名産、牛の赤べこさんもいますね。「赤べこ音頭」まであるとは。。。

 会津生まれのお嬢さんは、長年関東で暮らしてきましたが、最近になって会津で職を得て、「故郷」に錦を飾ることになったのです。

 ということで、これから会津の魅力をどんどん発信していくようです。ご興味のある方は応援してください。

 蒲生氏郷も喜ぶことでしょう。

明智光秀ゆかりの地を訪ねて(下)=本能寺跡~勝竜寺城~明智藪~関ケ原合戦地跡

関ケ原古戦場で甲冑姿で身を包む若武者たち

2020年11月8日(日) 「明智光秀ゆかりの地を訪ねて」の三日目、最終日です。よくぞ茲までついてきて下さいました。読む方は大変でしょうが、書く方はもっと大変なのです(笑)。

 京都市西院のホテルを朝8時半にバスで出発し、10分ほどで「本能寺の跡」(京都市中京区山田町油小路通)に到着しました。

 御池通りを挟んで、京都市役所の真向かいにある本能寺(京都市中京区寺町通御池通下ル)には、私も中学校の修学旅行以来、何度も訪れていますが、ここは初めてです。

 でも、こちらの方が、実際に「本能寺の変」があった本物なのです。

 2005年に出版され、時の小泉首相も感動したということでベストセラーになった加藤廣著「信長の枷」でも詳述されていましたが、ここから西へ歩いて4~5分のところに南蛮寺という伴天連の寺があり、本能寺から南蛮寺に行くことができる秘密の抜け穴があったといわれます。

 この抜け穴は、本能寺の変の時、塞がれていて、信長は脱出できなかったといいます。そして、この秘密の抜け穴の在り処を知っていたのは、羽柴秀吉と徳川家康ぐらいだったことから、本能寺の変の黒幕説として、秀吉と家康の名前も挙がっているのです。(ほかに、光秀怨恨による単独説、四国の長曾我部元親黒幕説、将軍足利義昭黒幕説、朝廷黒幕説などあり、何冊も本が書けます)

 この本能寺は、変の後に、秀吉らによって今の京都市役所向かいの地に移転・再建され、南蛮寺は、秀吉の伴天連追放令で廃寺となります。

 今、「本能寺の跡」地には介護の「デイケアセンター」が建っておりました。碑の本能寺の「能」のつくりは、ヒ(火)が二つではなく、「火よ去れ」という意味を込めて、「去」になっています。

 本物の「本能寺跡」(京都市中京区山田町油小路通)を後にして、現在ある「本能寺」(京都市中京区寺町通御池通下ル)に移動しました(バスで10分ほど)。法華宗大本山です。中学生の頃は、無邪気にも、ここで「本能寺の変」があったと思っていました。

  境内には「信長公廟」がありますが、本能寺の変後、信長の遺骸は見つかっていません。だから、小説などで、信長は、抜け道を通って逃れた、などといった話が描かれるのです。

 本能寺からバスで40分ほど掛けて南西に向かったのは勝竜寺城跡(京都府長岡京市勝竜寺)です。「明智光秀 最期の城」と言われています。

 備中高松城で毛利軍と戦っていた羽柴秀吉は、1582年(天正10年)6月2日の本能寺の変の報せてを受けて、急遽、毛利軍と和睦して「中国大返し」で京に戻ります。これを受けて、光秀は6月13日に摂津国と山城国の境に位置する天王山の麓の山崎での合戦に挑みましたが、兵力に劣り、敗退します。信頼する盟友細川藤孝(幽斎)や筒井順敬らの積極的な支援を得ることができなかったことが光秀にとっての痛恨の極みでした。(明智光秀は「三日天下」と習ったことがありましたが、実際は「十一日天下」でしたね)

 残りの手勢とともに、この勝竜寺城に戻った光秀は、密かに裏門が逃れ、再起を懸けて、自分の城である坂本城(滋賀県大津市)に戻ろうとします。しかし、後からもう一度出てきますが、その途中の明智藪(京都市伏見区小栗栖)で、落ち武者狩りの農民らによって殺害されてしまいます。

 勝竜寺城は1571年(元亀2年)、織田信長の命を受けた細川藤孝が、それまであった臨時的な砦を本格的な城郭につくり替えたものです。

 1578年(天正8年)、細川藤孝の嫡男忠興と、明智光秀の娘玉(細川ガラシャ)との婚礼がこの城で行われたということで、二人の像も城内にありました。

 幽斎と号して文化人でもあった細川藤孝は、この城で、茶会や連歌会、能、囲碁会などを催したと言われます。

 また、これまでの中世の城とは一線を画し、天守や石垣、瓦葺などは後世の城郭づくりに関して、諸国の大名に大きな影響を与えたといいます。

 話は遡りますが、光秀が本能寺の変を起こす一週間ほど前の5月28日、丹波亀山城近くの愛宕神社での連歌会に参加し、

 ときは今 あめが下知る 五月かな

 という意味深な歌を詠みます。

「とき」とは光秀出身の美濃守護土岐氏のこと、「あめが下知る」とは天下に命じる、と解釈する人もいます。しかし、これから自分が謀反を起こすことを連歌会で示唆するわけがなく、こじつけに過ぎないという識者もおります。

 ところで、石垣といえば、大津市坂本の石工集団・穴太衆が有名です。穴太衆と書いて「あのうしゅう」と読みます。もし、御存知なら貴方もかなりのお城通です。粋ですね。

 穴太衆が手掛けた石垣は、安土城、彦根城、竹田城、姫路城などがありますが、現在も、その子孫が「粟田建設」(大津市坂本)として存続しているといいますから驚きです。中国や米国など海外でも石垣づくりや修復を手掛けているそうです。

勝龍寺本堂

 ついでに、勝竜寺城から歩いて数分のところにあり、お城の名前の発祥ともなった勝龍寺にもお参りしました。

 806年(大同元年)、空海(弘法大師)が開基したといわれる真言宗の古刹でした。山崎の合戦(もしくは天王山の戦い)で、この辺りは多くの戦死者が出ていたわけですから、彼らのご冥福をお祈り致しました。

 勝竜寺城(京都府長岡京市勝竜寺)から明智藪(京都市伏見区小栗栖)と呼ばれる明智光秀最期の地を訪れました。バスで1時間ぐらいでしたから、馬なら2~3時間ぐらいだったかもしれません。

 光秀が無念の最期を遂げたのがこの辺りだったと言われます。

 ここは、京都市地下鉄東西線「醍醐駅」から住宅街の狭い道を通って、歩いて20分ぐらい掛かると思います。醍醐といえば、豊臣秀吉が全盛期で最晩年の1598年(慶長3年)4月に豪勢な花見会を開いた醍醐寺があります。何か不思議な縁ですね。

日蓮本宗 本経寺

 実は「明智藪」を450年近くも管理してきたのが、この近くの本経寺さんでした。日蓮本宗で1506年に創建されました。上の写真の通り、境内には「明智日向守光秀公」の供養塔がありました。

 主君信長の逆臣とはいえ、明智光秀は「ゆかりの地」では大変尊崇されていることがよく分かりました。

 でも、光秀の暗殺者たちは、どうやって情報をつかんだんでしょうか?インターネットやスマホがない時代です。当時は、文(ふみ)と立札と口コミぐらいしかないはずですが、情報伝播の素早さには驚くばかり。秀吉軍も光秀軍もお互い間者(スパイ)を養成して相手の動きを探っていたことは確かでしょうが、現代人以上に優秀だったのかもしれません。とにかく命懸けですから。

「明智藪」からバスで1時間ほど、山科から近江へ東を走り、最後の目的地、美濃の「関ケ原合戦地跡地」(岐阜県不破郡関ケ原町)に到着しました。一度は訪れてみたいと思ってましたが、やっと実現しました。

 光秀公暗殺から18年後の1600年10月21日(慶長5年9月15日)、徳川家康軍(東軍)と石田三成軍(西軍)が激突した「天下分け目」の戦場です。

 東軍8万、西軍10万(諸説あり)。わずか半日で決着がついたと言われてますが、もっともっとだだっ広い原野を想像していました。

石田三成陣跡
三成の軍師島左近の陣地跡
家康が敵の大将の首実検をした所

 関ケ原の合戦については、多くの書物が書かれ、ドラマや映画にもなっているので、御説明はいらないかと存じます。

 上の写真の「あらまし」をお読みください。

 歴史にイフはありませんが、「もし西軍の小早川秀秋が裏切らなければ…」「もし西軍の島津義久が薩摩に敵前逃亡せず、最後まで戦っていたら…」などと考えたくなります。

 でも、石田三成が天下を取った政権は想像もつきませんね。三成は、家康のように狡猾ではないので、秀頼公を奉じて豊臣政権を長く続けさせたかもしれません。

 そうなると、首都は大坂で、大坂城が日本の中心。日本の植民地化を狙うスペインや交易で国威発揚を狙うオランダ、幕末に米国の黒船が襲来したらどう対処いたのでしょうか。うーむ、創造力がないのか、やはり、徳川江戸幕府しか想像できませんね。

 以上、3回にわたって「明智光秀ゆかりの地を訪ねて」を報告してきました。歴史物語とも旅行記とも随筆とも、何にも当てはまらない中途半端なリポートでしたが、最後までお読み頂き、誠に有難う御座いました。

関係者や御協力者の皆様にはこの場を借りて、改めて感謝申し上げます。