鎌倉大仏さま~鎌倉長谷観音 誓願記

 7月2日、鎌倉・ジタン館での「加藤力之輔展」を辞してから、梅雨の晴れ間に恵まれていたので、久しぶりに鎌倉大仏さまを拝顔することに致しました。

 10年ぶりぐらいですが、もう何度目でしょうか…。10回ぐらいはお参りしていると思います。(拝観料300円)

小学校5年生 秋の遠足 小生は前から3列目にいます。前列に吟さんもいますね。

 初めて行ったのが、もう半世紀以上昔の小学校5年生の10月の遠足の時でした。子どもですから、ここが高徳院(大異山高徳院清浄泉寺)という名前の寺院だということを知らず。長じてからも、この高徳院が法然上人(1133 ~ 1212 年)を開祖とする浄土宗の寺院だということも知らずに過ごしてきました。

国宝です

 そして、肝心の鎌倉大仏とは、阿弥陀如来坐像だったということも、恥ずかしながら、つい先年になって知りました。大仏は、大仏という大きな枠組みでしか意識していなかったのです。ですから、当然のことながら、毘盧遮那如来も釈迦如来も阿弥陀如来も阿閦如来も薬師如来も、区別がついておらず、意識もしていませんでした。

 それでは駄目ですから、仏像の見方やお経の基本などを俄か勉強し、しっかりと実体を意識して、鎌倉大仏さまを改めてお参りしたかったのです。

 鎌倉大仏は、阿弥陀如来に特徴的な両手の印相が、瞑想を示す禅定印(ぜんじょういん)になっています。

 しかも、九品往生印の中でも「上品上生」にみえます。

 写真をご覧になればお分かりのように、平日のコロナ禍ということもあって、観光客の数がめっきり減り、本当に少なかったでした。(それでも、日本人より外国人の方が多い気がしました)

 説明文にあるように、この鎌倉大仏は、源頼朝の侍女だったといわれる稲多野局が発起し、僧浄光が勧進して造った、とあります。しかも、「零細な民間の金銭を集積して成ったもので、国家や王侯が資金を出して作ったものではない」とわざわざ断り書きまで添えています。

 そうでしたか。貧困の中、なけなしのお金を寄付する人も多かったことでしょう。当時の庶民の人々の信仰の深さが思い寄せられます。

 自分では絵葉書にしたいぐらい良い写真が撮れた、と勝手に思ってます(笑)。

 以前は大仏さまの胎内に入ることができましたが、またまたコロナ禍で閉鎖されていました。

 鎌倉時代の創建当初は、奈良の大仏さまと同じように寺院の建物内に安置されていたそうですが、台風で何度か吹き飛ばされ、以後、建物は再建されていません。

 吹きさらしで、しかも、海の潮風で大仏さまが傷まないか心配です。あと、1000年、2000年と持つでしょうか?

長谷寺

 鎌倉大仏には、江ノ電の長谷駅で降りて行ったのですが、何度も行っていたはずなのに、道が分からず少し困ってしまいました。多くの人が歩いているので、付いて行った感じです(笑)。方向音痴で地図の読めない男ですから、困ったものです。

 長谷駅から高徳院へ行く途中、長谷観音で有名な長谷寺があったので、帰りに立ち寄りました。生まれて初めての参拝です。400円。

この寺も浄土宗でした。御本尊さまは十一面観音菩薩です。像高9.18メートルで、国内最大級の木造観音だということです。

 観音堂の隣りが「観音ミュージアム」になっていて、そのまま入ろうとしたら、「そちらは入館券が必要です」と係の人に怒られてしまいました。失礼致しました。300円。

 私以外、誰一人も入館する人はいませんでしたが、ここの「観音三十三応現身立像」は圧巻でした。法華経の第二十五章「観世音菩薩普門品(ふもんぼん)」(「観音経」)によると、観音菩薩はさまざまな人々を救うために、三十三身に化身するといいます。聖者の仏身、天界の梵王身、八部身の迦楼羅身などです。ヒンドゥー教と習合したバラエティーに富んだ化身が見られます。(こうして、事前に勉強しておけば、参拝し甲斐があるというものです)

 観音三十三応現身立像は、室町時代につくられたようですが、長谷寺によると、三十三身が全てそろった立像は全国でも珍しい、ということですから、機会が御座いましたら、皆さんもお参りされたらいいと思います。

時宗総本山遊行寺(藤澤山清浄光寺)お参り記

 柳宗悦著「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)に巡り合って以来、日本の仏教、中でも浄土思想にかなり興味を持つようになりました。(日蓮は「真言亡国」「禅天魔」「念仏無間」「律国賊」と痛烈に批判しましたが…)

 若い頃に表面的に触れていた仏教は、かなり理解が浅く、それどころか、誤解している面が多々ありました。曰く、「浄土教は単に極楽浄土への往生を願い、来世だけが大事で、現世はどうでもいい…」、曰く、「浄土思想も踊り念仏も、いたって前近代的で、現在ではもはや通用しない…」云々。

 そんな誤解を吹き飛ばしてくれたのが、柳宗悦著「南無阿弥陀仏」でした。特に、法然(浄土宗)~親鸞(浄土真宗)~一遍(時宗)に至る一連の浄土教の変遷、発展、止揚、変容には目を見張るものがありました。

 著者の柳宗悦は、中でも、当時(終戦後間もない頃)軽視され過ぎていた一遍上人(1239~89年)に焦点を当て、再評価し、名誉を復活させたい意気込みを感じました。一遍は「捨聖(すてひじり)」の異名を持ち、臨終間際には、所持していた全ての経典を寺僧に譲るか、焼き捨ててしまいました。上人は「多くの学僧が色々と立ておかれた教えがございますが、全て色んな疑念に対する仮初めの教えである。念仏行者はこのような教えも捨ててしまって念仏すべきである」とまで言ってます。(ですから、本人は教団を設立する意思はなく、時衆→時宗教団をつくったのは二祖真教上人=1237~1319年=でした)

 私の古い友人に、財産を捨て、家族を捨て、友人を捨て、名誉を捨て、全てを捨てて「捨聖」のような生活を送っている人がいるので、個人的に尚更、一遍上人に惹かれます。

 本を読んで、いつか、一遍上人が開いた(ことになっている)時宗の総本山遊行寺に行ってみたいと思っていました。遊行寺のある神奈川県の藤沢市は、自宅から遠方なので、いつになることやら、と思っていましたが、先日、意外と早く、その夢を実現することができました。

遊行寺本堂

総本山だけになかなか立派な寺院でした。

本堂内にはかろうじで靴を脱いで中に入れました。無人でしたが、監視カメラが見張っていたと思います。御本尊は、金色に輝く立派な阿弥陀如来さまでした。写真を撮りたかったのですが、もちろん、控えました。

一遍上人像

 本堂前に一遍上人像があります。時宗の宗祖ではありますが、この寺を創建したわけではないことは先に書いた通りです。

 一遍上人は、全国各地を遊行し、出会った人々に「南無阿弥陀佛」と書いた念仏札を配り歩いて定住していなかったからです。(その活動は、算(ふだ)を賦(くば)り、結縁することから賦算(ふさん)と呼ばれました)

 ということで、この総本山遊行寺は、正式名称は藤澤山(とうたくざん)清浄光寺(しょうじょうこうじ)といいます。創建したのは、1325年、四祖の呑海上人でした。

 上の写真の説明文にある通り、この呑海上人の実兄が地頭の俣野景平で、この広大な敷地を寄進したとあります。景平は死後、俣野大権現として境内で祀られています。

 藤沢は、東海道五十三次の宿場町としても栄え、歌川広重の浮世絵などに描かれています。ですから、藤沢は近世の宿場町から名前を取ったものとばかり思っていましたら、既に中世鎌倉時代から遊行寺の門前町として大いに栄え、藤沢山から取って、藤沢の地名になったというのです。

 勉強になりました。

 本堂の裏手の長生院に「小栗判官の墓」があるというので足を運んでみました。

 小栗判官は、歌舞伎の演目「當世流小栗判官」にもなった実在の人物で、私も20年近く昔に、先代市川猿之助主演で舞台を見たことがあるので、馴染み深かったからです。

 小栗判官と照手姫伝説の「史実」に関しては、上の写真の看板に書かれていますので、お読みください。

上の写真の「中雀門」はなかなか風格がありました。

 説明では、幕末に紀伊大納言の徳川治宝による寄進とありますが、徳川家の葵の御紋ではなく、菊の御紋の方が目立ちますね。

 ◇「国宝 一遍上人聖絵」買えず、非常に残念

 今回、時宗総本山遊行寺をお参りしたもう一つの目的は、境内で販売している「国宝 一遍上人聖絵」の図録(2000円)を購入することでした。しかしながら、残念。この中雀門の奥にある寺務所にも行きましたが、「新型コロナの感染防止」を理由に閉まっておりました。「お守り札も御朱印もお手渡ししません」と掲示されていたので、大声を出して呼んでも無理なのでしょう。残念でした。

 この寺務所だけでなく、境内にある「遊行寺宝物館」も新型コロナのため、まだ依然として休館でした。「新型コロナを世界で一番怖がっているのはお坊さんですよ」と言う人がおりましたが、その通りですね。広い境内では、たったのお一人も僧侶に遭遇することはありませんでした。

【追記】

一遍上人語録に以下のものがあります。

 念仏の行者は智恵をも愚痴をも捨て、善悪の境界をもすて、貴賤高下の道理をもすて、地獄をおそるる心をもすて、極楽を願ふ心をもすて、又諸宗の悟りをもすて、一切の事をすてて申す念仏こそ、弥陀超世の本願に尤もかなひ候へ。(消息法語5)

 地獄を怖れる心を捨て、極楽浄土を願う心も捨て、仏教の悟りも捨て、とにかく智慧も愚痴も一切の事を捨てろ、とまで言ってます。超過激な究極の思想ではないでしょうか。

茨城県笠間市の稲田禅房西念寺=親鸞聖人をたずねて

 コロナ感染者が一向に減らないのに、19日から県境封鎖の関所も全面解除され、全国で行動の自由を得ることができましたので、好きな城郭と寺社仏閣巡りを再開することにしました。

 色々と行きたい所があるのですが、差し迫って優先したかったのが、親鸞聖人(1173~1262年)が「教行信証」を執筆し、関東布教の拠点とした茨城県笠間市の稲田禅房西念寺でした。このかつて「稲田草庵」と呼ばれた地に、親鸞聖人と家族は20年(1214~35年、数え年42歳から63歳にかけて)も住んでいたそうです。浄土真宗別格本山です。はい、実は今、「教行信証」を読んでいるのです。

西念寺 この写真が一番有名でしょう

 私は無鉄砲ですから、あまり事前に計画を立てるのが苦手です。笠間市と言えば、笠間焼で有名ですから、ついでに色々と見て回ろうかと、スマホで時刻表などを調べたら、何と自宅から電車と歩きで往復5時間も掛かることが分かり、笠間焼巡りは諦めて、「西念寺」一本に絞ることにしました。

西念寺

 電車はかなり空いていました。乗り換え駅では、「全面解除されましたが、慎重に行動してください」とのアナウンスもあり、まだ多くの人は警戒しているようでした。

 栃木県の小山駅から水戸線に乗り換えて、最寄り駅の「稲田」に到着。駅長さん1人しかしない小さな駅で、下車したのは私一人でした。駅前に商店街のない簡素な町で、心寂しくなりました。観光案内では駅から歩いて15分でしたが、狭い住宅地に紛れ込んでしまい、境内に着くのに25分ほど掛かってしまいました。

 参拝者は数人おりましたが、間もなく帰り、しばらくは、私一人が境内を散策しました。親鸞聖人の聖地ですから、もっと門徒衆が押しかけているのかと思っていたので、拍子抜けしてしまいました。

 上の写真は、修験者弁円が、親鸞聖人の命を狙おうと襲いますが、逆に、回心して親鸞の弟子明法房になったと言い伝えられる場所です。

西念寺の本堂

 上の写真は本堂ですが、中に入れました。薄暗い中、誰もおりませんでしたが、記帳してきました。例えは、間違っていると思いますが、どこかカトリック教会の祭壇のようなきらびやかな金色に輝く仏壇で、まぶしいほどでした。御本尊様は阿弥陀仏だと思われますが、中に隠れている感じで分かりませんでした。

 本堂内の写真撮影は控えました。

 案内掲示板はなかったのですが、恐らくは親鸞聖人のお姿かと思われます。ここに滞在していたのは40歳代から60歳代初めですから、年齢的に合った像に見えます。

 本堂を向かって右側が山道になっていて、親鸞聖人にとっては若い頃に20年間も修行した比叡山を彷彿とさせたようです。

 この看板がその説明文。

 越後に流罪となった親鸞聖人の関東布教の拠点として、健保2年(1214年)、この稲田草庵の地を提供したのが、常陸国稲田の領主だった宇都宮(稲田九郎)頼重で、彼も親鸞に師事して、頼重房教養という法名を称したという墓標記です。この教養は、親鸞の消息「末燈鈔」第九通の「教名」(けうやう)という説もあります。

 上の看板の説明にあるように、天正・慶長年間に庇護者の宇都宮氏が断絶し、西念寺は荒廃してしまいます。

 その荒廃ぶりを嘆き、聖地を復興したのが、笠間城主松平康重の家老石川信昌だったことが書かれています。知りませんでした。

太子堂
親鸞聖人御頂骨堂

 親鸞聖人は京都で入滅されますが、ここの稲田禅房二世救念の願いにより、聖人の御頂骨を分与され、この地に分骨したお堂を建てたことが書かれています。

 もちろん、お堂の敷地内には入れません。

 西念寺を辞すると、ほど近くに林照寺があります。これは、浄土真宗の単立寺院で鎌倉時代に誠信房によって開基されたといいます。

 親鸞による関東布教で、多くの弟子が育ち、下野、常陸、下総にはかなり多くの真宗系の寺があります。いつか、寺巡りをしたいと思ってます。

 JR水戸線稲田駅近くに戻り、ランチをしたお蕎麦屋さん「のざわ」です。実は、食事ができるお店は、近辺にこの1軒しか見当たらず、当然のことながら、昼時は満員。20分ぐらい外で待ちました。

 天ざると地酒「稲里」1合で1936円也。昼間からお酒とは!煩悩具足の凡夫、悪人です。

稲田神社

 電車は1時間に1本しか通っておらず、55分も待ち時間ができたので、また国道50号沿いに、西念寺の方角に戻り、途中で見かけた稲田神社をお参りすることにしました。

 創建は1200余年といい、式内大社ですから由緒ある神社でした。

 御祭神は、スサノオの妻である奇稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)。稲田という地名は稲田姫から取られたのでしょうか?

 かなり急勾配の階段でした。

 またして、誰もいない本殿で、コロナの早期収束をお祈り致しました。

 神社の横は結構広い、あまり整備されてはいない運動広場のようなものがあり、その前に、この「忠魂碑」がありました。弾丸の形から、日清・日露戦争の戦没者の慰霊のように見えますが、詳細は分かりません。

 以上、久しぶりの小旅行でした。ほんの少しだけ親鸞聖人を身近に感じることができました。「教行信証」を読むに当たり、西念寺を思い出すことにします。

新型コロナウイルスの影響で例年になく少ない=京都・醍醐寺で「五大力尊仁王会」

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こんにちは、京洛先生です。

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 新型肺炎が広がり、この調子では2020年は「東京五輪」ではなく、「新型コロナウイルス」の年として後世に伝えられますね。「まだ、東京五輪は先の話だ」と思っている人が多いでしょうが、開催の最終決定権は国際オリンピック委員会(IOC)ですから、土壇場で何が起こるか分かりませんね。

 またその時は日本のマスコミは右往左往、後付け「講釈」をして、あれこれ誤魔化すのは目に見えます(笑)。

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トランプ大統領ではないですが、誰でも先の見通しは、はっきり分らないのですから、「マスコミは嘘ばかりだ!」と言うのは確かにそうです。米国民が、それを感じて同大統領を誕生させたのです(笑)。

 また、そう思っている人が米国だけでなく世界中で多く存在していて、それを追跡、検証する既存マスコミが皆無なのが現実です。

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 それはさておき、昨日23日(日)は世界遺産「醍醐寺」(京都市伏見区)で、庶民から「五大力さん」と親しまれている「五大力尊仁王会」が開催されたので、行って来ました。そのスナップをお送りします。

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 最近、熱心に仏教の歴史を勉強されている渓流斎さんなら詳しいと思いますが、平安初期、真言宗の僧侶、聖宝(しょうぼう)が開祖した醍醐寺ですが、この「五大力尊仁王会」は不動明王など五大明王(ほかに降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王)の力によって、無病息災、国家、家庭の平和、幸せを祈願する、醍醐寺の最大の行事です。

Copyright par Kyoraque-sensei  迫力ある写真ですね!

 毎年、10万人を超える参拝者が訪れますが、新型肺炎の影響と、中国人など外国人の観光客激減もあって、去年に比べて参拝者は少なかったですね。

そのせいで、混雑せず参拝はスムース、境内もゆっくり歩けて快適でした。

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本堂前の特設舞台での大きな紅白の二段重ねの鏡餅を持ち上げる「持ち上げ力奉納」もやっていましたが、新型肺炎の影響もあり、参加者が例年より少なく鏡餅の持ち上げの最長時間は男性(重さ150キロ)は5分58秒、女性(重さ90キロ)6分40秒でした。

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それにしても、京都でも、どこもかしこも「新型肺炎」の影響が出ていました。

以上 おしまい。

民俗学から藝能へのつながり転移=大阪・難波の国立文楽劇場で「みやざき神楽」を開催

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今晩は、浪速先生です。

今日は全国的に雨模様で気温はかなり上がって、もう春の陽気でしたね。

新型肺炎騒ぎは日本列島全体に益々広がり、畿内は和歌山で済生会有田病院の50代の男性医師が感染、同病院及びその周辺は大騒ぎです

日ごろ、どんなことがあっても能天気な日本人も、伝染病となるとマスクや消毒液を買い溜めしたりして、昔のオイルショック時のトイレットペーパー買い占め騒ぎの反省、教訓は全く生かされていません。

そんな日本の国内事情をいち早く察知した米国政府は「こんな危ない日本に米国人を任せられない!」と、米国民救出のため急遽チャ-ター機を日本に派遣しますが、つまり、これは「シンゾウ、アベは信頼できない!」の証拠です。

ところが”安倍親衛隊”の日本のマスコミは、その内実は報じません。こちら大阪も一時に比べ中国人観光客がガタ減りです。道頓堀周辺も一時は中国人で占拠されていましたが、今は人通りが少なく歩きやすくなり、商売人は大変でしょうが、遊びに来る日本人は気持ちが良いと思いますね。

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そんな中、ワタシは2月15日(土)の昼下がり。「無料」ということもあって神話の故郷、宮崎の「みやざき神楽」を大阪・難波の国立文楽劇場の舞台で開催されるというので見てきました。

去年10月、東京の国立能楽堂でも開催されたそうですが、ご存知でしたか?恐らく、知らないままで過ごされたと思いますが、国立能楽堂HPを日頃からチェックしていないとダメですね(笑)。

国の「重要無形民俗文化財」に指定されている日本三大秘境の一つ宮崎県椎葉村で毎年11月~12月に夜通し行われる「椎葉神楽」です。

宮崎から国立文楽劇場に河野俊嗣県知事も駆けつけ、天孫降臨神話の高千穂周辺の神楽のPRの挨拶をしましたが、確かに宮崎県の県央、県南は神楽が盛んだそうです。

この日、同劇場の舞台では「不土野神楽」で椎葉村に太鼓と鈴に合わせて、刀を振って火の神への祈祷、唱教をあげたり、鬼神面(きじんめん)や山の神面をかぶって力強く舞う「神楽」が舞台につくられた神域の中で行われました。

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河野知事は、昨年10月に国立能楽堂での同じ「神楽」公演では、鈴木健二氏(元NHKアナウンサー)から「神楽は舞台でするものではありません。やはり現地で闇夜の中で繰り広げられるのを、直かに接しないと神楽の持つ神秘性や神とのつながりは分かりません」と厳しい指摘があったそうです。しかし、現地に行く機会が容易でない都会人には、罰当たりかもしれませんが、希少な機会です。

貴人も「神楽」の謂れ、歴史、その系統を調べると民俗学から藝能へのつながり転移の視点から、屹度、ご興味を持たれると思います。この日は無料であることもあってか劇場は満員で特に青い目の外国人が目立ちました。

以上

京都・相国寺の承天閣美術館で「茶の湯・禅と数寄」展が開催中=宗旦狐の逸話も面白い

京都・相国寺 Copyright par Kyoraque-sensei  

おはようございます。京洛先生です。

 ワタシが勧めた「藝術新潮」2月号を購入され一読されて、「軽薄だ!」と厳しいご指摘ですが(笑)、世の中、すべてが軽佻浮薄です。貴人のように物事をナンデモ真正面から真面目に受け止める人は、生きにくいご時世です。もっと、生半可にいい加減にならないとノイローゼ、不眠症に陥りますよ(笑)。

京都・相国寺 Copyright par Kyoraque-sensei  

 ところで、中国・武漢の「急性肺炎」で、中国をあてにしている業界、企業は大慌てですね。株価も下降線に入りました。恐らくすぐ解決できることではなく、今夏の東京オリンピックも影響を受けると思いますね。特にその対応が「人の集まる場所に行かない方がいい!」ということでは、「景気」の落ち込みは半端じゃないですよ。「東京五輪後に不況がやって来る」と予測するエコノミスト、評論家はいましたが、これでは「東京五輪前に不況がやって来る」と言うことになりますね。

京都・相国寺 Copyright par Kyoraque-sensei  

 消費増税で消費が減速し、デパート、コンビニなどの業界では既に売り上げが大きく落ち込み始めているのですから、尋常じゃありません。

 1月28日(火)には、武漢に行ったこともない奈良在住の運転手が、武漢から来たツアー観光客を乗せて運転し、新型肺炎に感染したという事が分かり大騒ぎになっています。

京都・相国寺 Copyright par Kyoraque-sensei  

 京都、大阪、東京と中国人観光客が多いところは、日本国内での感染にこれまで以上に神経をとがらせことになります。

 洛中も新年になり、中国人観光客がめっきり減りました。その分、静かになり、煩くない分、地元住民は、ほっと一息つきますが、これから、新型肺炎の感染騒ぎを考えると憂鬱になりますね。

京都・相国寺 Copyright par Kyoraque-sensei  

 そんな世間の動きとは別に、以前、南青山の東京別院に渓流斎さんが参禅に行かれた京都五山の一つ「相国寺」に1月29日(水)の昼下がりぶらっと出かけてきました。
 同寺の境内にある承天閣美術館で「茶の湯・禅と数寄」展が開催中(3月29日まで)で、それを覗いてきたわけです。

 この展覧会は、昨年10月~12月は「Ⅰ期」、新年1月11日から「Ⅱ期」と、二回に分けての長期の開催です。Ⅱ期は、無学祖元の国宝「墨跡」(鎌倉時代、相国寺蔵)、明の永楽帝が足利義満におくった国宝「明永楽帝勅書」(室町時代、相国寺蔵)など、展示数は少ないですが、“禅と茶”、“権力者と茶”、“数寄者と茶”の関係がよく分かる品々が並び、充実した展覧会でした。

京都・相国寺 Copyright par Kyoraque-sensei  

しかも、平日なので来館者も、少なくゆったり見られるのは好いですね。

 展示品の写真撮影は不可ですが、相国寺の境内は御覧の通り、静寂で南天が咲いていたり、梅の枝には早くも梅の蕾が膨らみはじめ季節感を味わいました。

相国寺 宗旦稲荷 Copyright par Kyoraque-sensei  

 同寺の専門道場そばの“宗旦狐”を祀る「宗旦稲荷社」にも参って来ました。ここで伝承されている「宗旦狐」の謂れについてはリンクを貼っておきます。

 逸話は面白いでしょう。

 以上

鳥取砂丘~姫路城~倉敷・大原美術館=山陰・山陽の旅最終日

姫路城

 12月3日(火)は「山陰・山陽の旅」の3日目、最終日でした。待ちに待った姫路城です。

 その前に、この日の朝は、前日暗くて行けなかった鳥取砂丘へ。

鳥取砂丘

 前日夕食を取った丘の上の土産物屋さん付近から二人乗りのリフトで下って砂丘へ。往復300円のリフト代はツアー代に含まれていました(笑)。5~6分で砂漠へ。

朝の9時前で、シーズンオフだったせいか、我々ツアー参加者以外誰もおらず、日本海から吹きすさぶ風が冷たくて、寒くて早く帰りたくなりました(笑)。

ラクダさんもおらず、「ラクダの写真を撮ったら料金頂きます」との看板だけが空しく、突風に耐えていました。

1993年 世界文化遺産の日本第一号として記載された姫路城

 鳥取市から無料高速道路の鳥取自動車道と有料の中国自動車道などを通って、約2時間ぐらい掛けて南下して一路、姫路城へ。

 バスの中で、御一緒した「一人旅の達人」で74歳ぐらいにみえるK氏と話が弾み、彼は「鳥取自動車を有料にしたら、通る人がいなくなっちゃうからだよ」とか、「このツアーは安いよ。東京~岡山の新幹線グリーン車券だけで、元が取れちゃうから。ホテル代もバス代もタダみたいなもんだよ」と仰るではありませんか。

姫路城 籠城に備えて城内には11カ所の井戸があった

 なるほど、鳥取県の人口はわずか57万人。10月末に、栗原先生のお導きで宇都宮城に行きましたが、宇都宮市の人口だけで51万人ですからね。鳥取市の駅前商店街もシャッターで閉まっている店が多く、何と言っても、街灯が少なくて薄暗い。物価も他府県と比べて安いのでしょう。だから、「おまけ」の宿泊ホテルは鳥取県になったと思われます。K氏は「瀬戸内海側の岡山や姫路に泊まったら採算が合わないわけですよ」と言うのです。

 もう一つ。東京~岡山の新幹線グリーン車往復料金は、4万7460円。それなのに、ツアー旅行代金は、シーズンオフのため4万9900円。差し引き2440円で、ホテル代、バス代、入場料代、ガイド代等を賄っていたわけか…んな、そんなことできるわけない!

 2泊3日で、夕食は1回だけしか付いていなかったり、一日何カ所も土産物店を回ったりしていることから、提携、連携、共済、共存等色んなバックマージンで、業務を維持しているのでしょうね。

姫路城 地上6階、地下1階の7階構造 大天守の高さは31.5メートル 

 あ、旅行記のはずが、とんだ話になってしまいましたね。とにかく、姫路城です。ツアーに参加していなければ、入場料は1000円でした。

 姫路城の歴史は元弘3年(1333年)、護良親王の命により挙兵した赤松則村が京に上る途中、姫山に砦を築いたのが始まりだと入り口で入手したパンフレットに書かれていました。

 歴代の姫路城主の中で重要人物を挙げると、まずは羽柴秀吉(1583年から3年間)。長州毛利攻めの際、黒田官兵衛の勧めで入城しました。今の姫路城を整えたのは、関ヶ原の戦い後の慶長5年(1600年)に城主になった池田輝政。徳川家康の次女督姫と結婚し、播磨52万石を与えられました。薩摩、長州など西国列強に睨みを利かせる役割を担わされたわけです。

 元和3年(1617年)には、徳川四天王の本多忠勝の嫡男忠政が、伊勢国桑名から移封され、一緒に同行した忠政の嫡男忠刻に、二代将軍秀忠の長女千姫が再嫁します。千姫は7歳で豊臣秀頼と政略結婚させられますが、大坂夏の陣で大坂城から脱出しました。西の丸には今でも「千姫の部屋」があります。

 本多家のほかに、徳川の親戚と思われる松平家や、やはり徳川四天王の榊原康正や酒井忠次の末裔と思われる榊原家や酒井家などが城主となっていることから、相当な重要拠点だったことが分かります。

 姫路城がなぜ、国宝になったかと言えば、何と言っても、明治政府の愚かな廃城令から幸運にも免れ、太平洋戦争での米軍による2度の姫路空襲で奇跡的に生き残ったことが大きいですね。

 明治、昭和の大修理を経て、平成21年(2009年)には6年かけて「平成の修理」が行われ、「白鷺城」の異名通り、輝くばかりの白さが復活しました。

好古園 入園料300円(姫路城との共通券なら1050円だとか)

 そして、現在は、この城はどなたが所有しているのかと思ったら、な、何と文部科学省なんだそうです。「なあんだ、日本国民の共有の財産か」と安心していては駄目ですね。何しろ、今の官僚は、人事権を握られた安倍最長期政権に忖度して生きています。姫路城も、偽造されたり、改ざんされたり、廃棄されたり、シュレッダーで「なかったこと」にしたりしかねませんよお。

 いや、ブログが炎上してはいけないので、この辺で。2時間の自由時間が少し余ったので、姫路城西御屋敷跡に日本庭園として平成4年に開園した「好古園」を散策しました。結構広くて、途中で迷子になって、駆け足でバスにまで戻りましたが、紅葉がとても綺麗でした。

倉敷

 念願だった姫路城を後にして、バスは倉敷へ。当初は、色々と散策しようかと思いましたが、昨日書きましたが、急きょ、1時間15分の自由時間を大原美術館一本に絞ることにしました。

大原美術館 本館/ 分館と工芸・東洋館を合わせて1300円

大原美術館といえば、代表作は、エル・グレコの「受胎告知」でしょうけど、あたしは、グレコはスペインのトレドやマドリードでかなり観てきましたからね。お目当ては日本美術でした。

 「工芸・東洋館」では、河井寛次郎、浜田庄司、バーナード・リーチなどの陶芸作品が充実していました。

 創立者の大原孫三郎が支援し、美術館の収集品の元になった買い付けもした画家の児島虎次郎の作品も初めて見ましたが、なかなか良かったですね。岡山出身の虎次郎は東京美術学校は2年飛び級で卒業し、欧州に留学してベルギーのゲント美術アカデミーを首席で卒業します。帰国後、「朝顔」など印象派の影響がみられる大作など旺盛な創作活動を続けましたが、病に倒れ、47歳の若さで亡くなっています。

 この後、倉敷から岡山に戻り、新幹線のグリーン車で帰京した次第。3日間、小生の旅行記にお付き合いくださり、誠に有難う御座いました。私もこれで、やっと、一息つくことができました。

 業界団体の幹部職員から「渓流斎さん、ブログは何時間もかけて執筆されているとのことですが、やめたらきっと楽になりますよ」と甘い誘惑の声を囁かれましたが、頑張ってその誘惑を断ち切って完走することができました。これも皆様のお蔭です。感謝!

足立美術館と念願の出雲大社へ=山陰・山陽旅行の2日目

足立美術館

12月2日(月)。「山陰・山陽旅行」の2日目です。初日は、移動日だけということで、米子駅前の床屋のおじさんの枕話だけで終わってしまいました。

 この日は、集合時間前の早朝に、米子城址に行く予定でしたが、早朝から雨。すっかり意気消沈して行くのをやめてしまいました。

足立美術館

この日のハイライトは、出雲大社の参拝です。

何で、出雲大社は島根県なのに、鳥取県の米子市に宿泊したんだろう?それは、後から理由が分かりました。

 団体ツアーの総勢は46人。貸し切りバスに乗ると超満員です。私自身、色んなツアーに個人で参加しましたが、こんな多いのは初めてでした。ほとんど人生を達観された方々ばかりでしたが、何でこんなに多いんだろう?その理由も後から分かりました。

足立美術館

 出雲大社の前に、日本庭園と120点の横山大観のコレクションを誇る「足立美術館」に立ち寄りました。入館料は、な、何と2300円。でも、ツアー料金の中に含まれていました(笑)。

 足立美術館を訪れるのは30年ぶりぐらいで、2回目です。でも、それだけ、歳を取ったせいか、深い感動が心に染み入りましたね。

日本庭園は、米国の専門誌で、2003年から連続16年も「日本一」に輝いているそうで、苔庭あり、枯山水あり、白砂青松庭あり…。5万坪もの敷地があるそうですから、見ていて飽きない。できれば、一日ボーと過ごしたいぐらいです。チコちゃんに叱られてもかまいません。

足立美術館

 展示されている絵画は、もちろん、撮影禁止でしたが、横山大観はじめ、竹内栖鳳、橋本関雪、川合玉堂ら日本画を中心に1500点(所蔵分も含む)。私は、若い頃は印象派を中心に西洋の油絵ばかり見続けてきましたが、歳を取ると日本に回帰するといいますか、断然、日本画の方が鑑賞するのが五臓六腑に染み込んで楽しくなりました。かなりの欧米にある美術館巡りをしましたし、もう、泰西名画はお腹いっぱい、といった感じです。

足立美術館

 足立美術館を開館した足立全康(1899~1990)は、地元安来市出身の実業家で、「庭園も一幅の絵画である」という信念のもとで、このような庭園を充実したらしいですが、本当に素晴らしい。

 下世話な話ですが、横山大観の富士山の絵画が、7億円はくだらないと言われていますから、120点ともなると、大観さんだけで、840億円はくだらない、わけですね。

 その財力はどこから来たのか?館内の年譜によると、足立全康は、尋常小学校を卒業後、家業の手伝いから、炭団(たどん)の販売を始め、それが当たって、商売を広げ、地元の安来鋼(はがね)や繊維卸業を軌道に乗せ、戦後は不動産投資で富を築いたようです。

後日談ですが、たまたま、その日の夜に、京洛先生から電話があり、足立美術館の素晴らしさを話したところ、「いやいや、倉敷の大原美術館の収蔵品の方が量・質とも上ですよ。是非、倉敷に行って比べてみてください」というので、最終日の3日目に倉敷に立ち寄った際、自由時間はすべて大原美術館に費やしました。

 大原美術館は1930年に、大原孫三郎によって開館されましたが、孫三郎は倉敷紡績(クラボウ)、倉敷絹織(クラレ)、それに今の中国銀行や中国電力などの社長を務め、大財閥を築いた人ですから、やはり、こちらの方が、桁違いの財力でした。

二の鳥居である勢溜(せいだまり)

さて、個人的には念願だった出雲大社にバスは向かいました。

 その途中で、団体ツアー旅行には付き物として、「トイレ休憩」の建前で必ず立ち寄る土産物店にバスは横づけされました。そこは「島根ワイナリー」といって、地元産のワインが9種類ほど試飲ができるのです。甘口から辛口までバラエティーに富んで用意されて、まさに飲み放題。途中で分からなくなってしまいましたが、8杯ぐらい飲んでしまいました。意外にも甘口ワインが旨かったでした。

 ただ酒を呑んでしまったので、「悪いなあ」と思い、買いたくもないお土産を2点買いましたよ。いけない、敵の罠にまんまとハマってしまった。

奥に一の鳥居が見えます

 出雲大社本殿近くの土産物店の2階で昼食を取った後、30分ほど自由時間になったので、一の鳥居(高さ23メートル)に行ってみようかと思ったら、外はどしゃぶりでした。途中まで行ったのですが、靴下まで濡れてきて、集合時間に間に合わなくなるといけないので、あえなくギブアップして引き返し、二の鳥居(高さ8.8メートル)がある勢溜(せいだまり)で我慢しました。

神楽殿

 集合時間に戻ったところ、どういうわけか雨はやんでくれました。

 ガイドさんの案内で、最初に連れて行ってくださった所は、神楽殿。大注連縄が特徴的で、私も写真で何度か拝見したことがありました。

 素人の方は、ここが本殿だと勘違いして、ここだけお参りして帰ってしまう人もいるんだとか。

オオクニヌシノミコト

 御存知、大国主大神、オオクニヌシノミコトです。出雲大社の祭神です。

 「因幡の白うさぎ」の話や国譲りの物語に登場します。

拝殿

はい、ここが拝殿。1963年に新築され、高さ12.9メートルあるそうです。

 右側に少し見えるのが、国宝の御本殿です。

神楽殿の大注連縄

 その前に、先ほどの神楽殿の大注連縄のアップ。以前は、この大注連縄に向かって、お賽銭を投げつける輩が多く、たくさんのコインが藁の間に挟まっていたそうです。今はない、ということは禁止されたのでしょう。

 長さ13.6メートル。重さが5.2トンもあるといいますから、下敷きになったら大変ですね。

八足門

 御本殿に向かいました。建物は、将軍徳川吉宗の頃の延享元年(1744年)に完成されたもので、国宝。

 ただし、上の写真は御本殿の手前にある八足門で、お正月以外、普段は御本殿に入れませんのでここで参拝します。

 神社での参拝は、普通は、2礼2拍手1礼ですが、出雲大社だけ特別で、2礼4拍手1礼となっていました。

御本殿

 上の写真が、国宝の御本殿です。屋根の上にバッテンのようにクロスしたものがありますが千木(ちぎ)と呼ばれ、穴も開いていますが、その穴の大きさはヒトの頭が入るくらいの大きさなんだそうです。

江戸時代につくられた御本殿の高さは24メートル。平安時代はこの倍の48メートルもあったそうです。それどころか、日本古代文明の発祥地とでも言うべき出雲国なので、当時は96メートルという全国一の巨大な建造物だったことが、2000年に発見された遺跡で明らかになっています。

 祭神のオオクニヌシノミコトは、西に向かってお座りになっているので、写真ではこちらに向かってお座りになっていることになっています。目と目が合いましたか?

 そうそう、出雲大社は60年に1度、「遷宮」という行事があります。ただ、出雲大社の場合、伊勢神宮のように場所は移動せず、瓦葺を新調するんだそうです。使われるのはヒノキの檜皮。これが不足して将来的に心配されるそうです。あわてて植林しましたが、檜皮が取れるヒノキが成長するのに120年もかかるんだそうです。

 遷宮の直近は平成25年(2013年)、その前は昭和28年(1953年)。次回は2073年ですが、ガイドさんは「60年後も皆さん、お参りに来てくださいね」と呼び掛けていました。これに対して、皆、力なく苦笑するだけでしたが。

お菓子の壽城

 さて、この後向かったのが、米子城です。

いや違った、「お菓子の壽城」というお菓子屋さんです。島根県出雲市から、また鳥取県米子市に舞い戻ってきました。「また、土産物屋かあ」と思いましたが、ここは許します。見事なお城の建物です。米子城を復元したらしいのですが、随分お金をかけているなあ、と思いました。

 早朝、行けなかった本物の米子城址の仇を取った感じでした(笑)。

12種海鮮御膳

 この米子市からバスでまた1時間半もかけて東へ走行し、 鳥取市へ。夕食は、鳥取砂丘のお土産屋さんを兼ねた食堂へ。午後5時半近かったので、外は真っ暗。街灯がほとんどないですからね。砂丘も見えないので、予定が変更され翌日回しとなりました。

 夕食は12種類の海の幸、海鮮御膳。中ビール650円は少し高め。

 2日目の宿泊先は、鳥取駅近くのシティホテルでしたが、駅前通りは寂れてシャッター商店街。街灯も少なくて、薄暗かった。むしろ、東京の夜の明るさの方が異常なのかもしれませんけどね。

 それにしても、2日目の宿泊先もまた鳥取県。どうしちゃったんでしょうかね?これまた、後で分かることになります。

 3日目は、ついに念願の姫路城と倉敷の大原美術館に行くことができました。(つづく)

初めての米子で面白い床屋のご主人と会う=山陰・山陽の旅

 「城好き」を自称しておきながら、日本一のお城「国宝 姫路城」にまだ行ったことはありません。「ライフワークは、寺社仏閣巡り」と宣言しておきながら、八百万の神が集まる出雲大社にも行ったことありませんでした。

 それじゃあ、駄目でしょう。ということで、この二つがセットになっていた団体旅行ツアーがあることを10月某日の新聞広告で見つけて、一人参加も同じ料金ということもあって、申し込んでみました。

その旅行の出発が昨日12月1日のことでした。東京から岡山までの「新幹線グリーン車」というのが、このツアーの「売り」でしたが、豪華さはそこまで。残念!初日は移動だけで、6時間半も掛かり、どういうわけか宿泊先が、何も関係がない鳥取県の米子市の駅近くのシティホテルで、大浴場がなし。

しかも、その日は、夕食もつかないということで、グリーン車代の影響がここまで波及するとは、申し込んだ参加者の中で想像出来る者は一人もありませんでした。

早速、ホテルを出て散策したところ、米子城跡があることが分かりました。看板では駅前辺りから800メートル。でも、雨が少し降ってました。少し走ったりして、15分ぐらいで、城址公園の入口みたいな所に着きましたが、辺りは真っ暗。これじゃ無理なので、明日、早朝にでも行くか、ということで、再び、駅に戻りました。

そしたら、床屋のネオンサインが目に入り、頭をカットしてもらうついでに、色々と米子市の情報を「床屋談義」で、取材しちまおうという魂胆で入ってみました。

米子市の特産物は何か?観光名所は何か?地元の有名人は誰か?ー色々とご主人に聞いてみましたが、あまりよく知らない、とどうも話が噛み合わない。おかしいな、と思ったら、このご主人はもともと松江市出身で、どうも、電車で40分ぐらいかけて米子にまで来ているみたいでした。

米子市は鳥取県とはいえ、西端で島根県に近く、県は違えども、松江市文化圏に入ることが初めて分かった次第。

 ご主人に、地元の人がお勧めの居酒屋を紹介してもらおうか、と聞いたところ、この床屋から歩いて1分ほどの「太平記」という店を教えてもらいました。

あとは、こっちが質問もしていないのに、ご主人自身が旅行した北海道の話になり、函館でのナオンは酷かった、札幌のススキノのサロンの横の店では隠れてやっていたとか、その筋の話のオンパレードになり、とにかく、興に乗って、変態的なレラシオンとか、ホワイトは凄いとか、一日に三回はしなきゃ、みたいな話を滔々とまくし立てて止まらないのです。

あまりにも、そういう数奇ものの話が多いので、「ご主人は、さっき自分で43歳って言ってましたけど、ご結婚されてないんですか?」と、つい、プライバシーを侵害してしまいました。

そしたら、「ええ、自分は独身ですよ。結婚するつもりないし、別に寂しくないですよ。老後のお金を貯めているんです。趣味としてクラシック音楽を聴いたり、サスペンスが好きなので本を読んだり、映画を観たりしてますから」と言うではありませんか。

 「あら、独身でしたか。そしたら、あっちの方はまだまだ頑張りたくてしょうがないでしょうね」と、私はもう達観してますから、彼を励ましておきました。

ご主人の独演会が終わった頃、本職も無事に済み、カットと軽いシャンプーで、料金はわずか1700円でした。安い!

この後、ご主人に教えられた通り、「太平記」で一人で呑んでいたら、何と、その床屋のご主人が店に来るんじゃありませんか。吃驚です。彼も飲みに来たと思ったら、詳細は分かりませんが、どうやら、一日の売り上げ金をこの店に銀行代わりに毎日預かってもらっているようでした。真相は分かりませんが。

 なーんだ。「安くて、美味しい、手頃な店」と聞かされていましたが、何かグルみたいですね(笑)。もっとも、添乗員さんが配ったお勧めの店のナンバーワンの店がこの店でしたから、グルというのは言い過ぎだったでしょう。

地元、いや、恐らく隣りの島根県の地酒のヤマタノオロチは、結構、口に合って美味しかったです。この日は予約客でいっぱいで、何人かの人が断られていました。私が入店できたのもラッキーでした。また、米子市に来るようなことがあれば、またこの店に来ますよ。そう言えば、鳥取県は、故片岡みい子さんの親友の米澤画伯の出身地でした。鳥取県を悪く言ったわけじゃありませんからね(笑)。

今日は、何か酒場放浪記みたいな話になってしまいました。次回は、ちゃんとした出雲大社や姫路城のお話になります。

「新善光寺展」が開催中=京都・泉涌寺

おはようございます、京洛先生です。

 昨年も渓流斎ブログで紹介、掲載してくださった「新善光寺展」が、今年も11月30日(土)まで、京都・泉涌寺山内にある「新善光寺」で開かれています。

今年は今週27日(水)に、天皇皇后両陛下が“皇室の御寺”である、泉涌寺に行幸啓されたので、同日は、新善光寺の界隈や狭い参道は、小旗を持った人が押しかけ、いつもは閑静な同寺一帯は大賑わいでした。

ワタシは、渓流斎さんも旧知の加藤力之輔画伯が新善光寺のご住職と入魂でもあるということで、彼のアトリエにお邪魔して、同展を覗いてきました。

 今年は、770年余にわたり同寺に伝わる「寺宝」や皇室ゆかりの遺品も展観、公開され、庭の紅葉とともにじっくり鑑賞してきました。 (残念ながら、寺宝等は、写真撮影禁止でした)

後嵯峨天皇が1243年(寛元元年)の勅願で創立、開山された「新善光寺」ですが、その謂れは、はるばる、信濃の「善光寺」に行かずとも、京の都で信州善光寺に祀られている阿弥陀如来と同仏同体を鋳造して、そのまま拝めるようにということで「新善光寺」の名前で建立されたわけです。

新年令和2年1月1日から始まるお馴染み、JRグループが大キャンペーンを張る「京の冬の旅」に新善光寺が初公開されることになったので、 今年は、そのポスターに使われた狩野周信筆の襖絵「鞨鼓楼図」も公開されました。

その前に、取り敢えず、新善光寺の境内の紅葉などをご覧ください。

恐らく、都心の東京駅をはじめ、銀座や新宿、渋谷などで、この襖絵をバックに座る片山九郎右衛門(能楽師)の、“京の冬の旅”の一大キャンペーンのポスターや映像が頻繁に大写しで流されることでしょう。

廊下の奥の絵は加藤力之輔画伯の作品です。

こちらもそうです。

皆さん、京の都がお待ちしております。

拝復

 確か、泉涌寺は真言宗だったはずですが、浄土教の阿弥陀如来の信仰も強いんですね。

 先週、後輩が京都に紅葉狩りに行ったら、大混雑で、歩くのも大変だったという話を聞きましたよ。

 あまり観光客が来ない、知られていない名所を狙うしかありませんね。