鳥取砂丘~姫路城~倉敷・大原美術館=山陰・山陽の旅最終日

姫路城

 12月3日(火)は「山陰・山陽の旅」の3日目、最終日でした。待ちに待った姫路城です。

 その前に、この日の朝は、前日暗くて行けなかった鳥取砂丘へ。

鳥取砂丘

 前日夕食を取った丘の上の土産物屋さん付近から二人乗りのリフトで下って砂丘へ。往復300円のリフト代はツアー代に含まれていました(笑)。5~6分で砂漠へ。

朝の9時前で、シーズンオフだったせいか、我々ツアー参加者以外誰もおらず、日本海から吹きすさぶ風が冷たくて、寒くて早く帰りたくなりました(笑)。

ラクダさんもおらず、「ラクダの写真を撮ったら料金頂きます」との看板だけが空しく、突風に耐えていました。

1993年 世界文化遺産の日本第一号として記載された姫路城

 鳥取市から無料高速道路の鳥取自動車道と有料の中国自動車道などを通って、約2時間ぐらい掛けて南下して一路、姫路城へ。

 バスの中で、御一緒した「一人旅の達人」で74歳ぐらいにみえるK氏と話が弾み、彼は「鳥取自動車を有料にしたら、通る人がいなくなっちゃうからだよ」とか、「このツアーは安いよ。東京~岡山の新幹線グリーン車券だけで、元が取れちゃうから。ホテル代もバス代もタダみたいなもんだよ」と仰るではありませんか。

姫路城 籠城に備えて城内には11カ所の井戸があった

 なるほど、鳥取県の人口はわずか57万人。10月末に、栗原先生のお導きで宇都宮城に行きましたが、宇都宮市の人口だけで51万人ですからね。鳥取市の駅前商店街もシャッターで閉まっている店が多く、何と言っても、街灯が少なくて薄暗い。物価も他府県と比べて安いのでしょう。だから、「おまけ」の宿泊ホテルは鳥取県になったと思われます。K氏は「瀬戸内海側の岡山や姫路に泊まったら採算が合わないわけですよ」と言うのです。

 もう一つ。東京~岡山の新幹線グリーン車往復料金は、4万7460円。それなのに、ツアー旅行代金は、シーズンオフのため4万9900円。差し引き2440円で、ホテル代、バス代、入場料代、ガイド代等を賄っていたわけか…んな、そんなことできるわけない!

 2泊3日で、夕食は1回だけしか付いていなかったり、一日何カ所も土産物店を回ったりしていることから、提携、連携、共済、共存等色んなバックマージンで、業務を維持しているのでしょうね。

姫路城 地上6階、地下1階の7階構造 大天守の高さは31.5メートル 

 あ、旅行記のはずが、とんだ話になってしまいましたね。とにかく、姫路城です。ツアーに参加していなければ、入場料は1000円でした。

 姫路城の歴史は元弘3年(1333年)、護良親王の命により挙兵した赤松則村が京に上る途中、姫山に砦を築いたのが始まりだと入り口で入手したパンフレットに書かれていました。

 歴代の姫路城主の中で重要人物を挙げると、まずは羽柴秀吉(1583年から3年間)。長州毛利攻めの際、黒田官兵衛の勧めで入城しました。今の姫路城を整えたのは、関ヶ原の戦い後の慶長5年(1600年)に城主になった池田輝政。徳川家康の次女督姫と結婚し、播磨52万石を与えられました。薩摩、長州など西国列強に睨みを利かせる役割を担わされたわけです。

 元和3年(1617年)には、徳川四天王の本多忠勝の嫡男忠政が、伊勢国桑名から移封され、一緒に同行した忠政の嫡男忠刻に、二代将軍秀忠の長女千姫が再嫁します。千姫は7歳で豊臣秀頼と政略結婚させられますが、大坂夏の陣で大坂城から脱出しました。西の丸には今でも「千姫の部屋」があります。

 本多家のほかに、徳川の親戚と思われる松平家や、やはり徳川四天王の榊原康正や酒井忠次の末裔と思われる榊原家や酒井家などが城主となっていることから、相当な重要拠点だったことが分かります。

 姫路城がなぜ、国宝になったかと言えば、何と言っても、明治政府の愚かな廃城令から幸運にも免れ、太平洋戦争での米軍による2度の姫路空襲で奇跡的に生き残ったことが大きいですね。

 明治、昭和の大修理を経て、平成21年(2009年)には6年かけて「平成の修理」が行われ、「白鷺城」の異名通り、輝くばかりの白さが復活しました。

好古園 入園料300円(姫路城との共通券なら1050円だとか)

 そして、現在は、この城はどなたが所有しているのかと思ったら、な、何と文部科学省なんだそうです。「なあんだ、日本国民の共有の財産か」と安心していては駄目ですね。何しろ、今の官僚は、人事権を握られた安倍最長期政権に忖度して生きています。姫路城も、偽造されたり、改ざんされたり、廃棄されたり、シュレッダーで「なかったこと」にしたりしかねませんよお。

 いや、ブログが炎上してはいけないので、この辺で。2時間の自由時間が少し余ったので、姫路城西御屋敷跡に日本庭園として平成4年に開園した「好古園」を散策しました。結構広くて、途中で迷子になって、駆け足でバスにまで戻りましたが、紅葉がとても綺麗でした。

倉敷

 念願だった姫路城を後にして、バスは倉敷へ。当初は、色々と散策しようかと思いましたが、昨日書きましたが、急きょ、1時間15分の自由時間を大原美術館一本に絞ることにしました。

大原美術館 本館/ 分館と工芸・東洋館を合わせて1300円

大原美術館といえば、代表作は、エル・グレコの「受胎告知」でしょうけど、あたしは、グレコはスペインのトレドやマドリードでかなり観てきましたからね。お目当ては日本美術でした。

 「工芸・東洋館」では、河井寛次郎、浜田庄司、バーナード・リーチなどの陶芸作品が充実していました。

 創立者の大原孫三郎が支援し、美術館の収集品の元になった買い付けもした画家の児島虎次郎の作品も初めて見ましたが、なかなか良かったですね。岡山出身の虎次郎は東京美術学校は2年飛び級で卒業し、欧州に留学してベルギーのゲント美術アカデミーを首席で卒業します。帰国後、「朝顔」など印象派の影響がみられる大作など旺盛な創作活動を続けましたが、病に倒れ、47歳の若さで亡くなっています。

 この後、倉敷から岡山に戻り、新幹線のグリーン車で帰京した次第。3日間、小生の旅行記にお付き合いくださり、誠に有難う御座いました。私もこれで、やっと、一息つくことができました。

 業界団体の幹部職員から「渓流斎さん、ブログは何時間もかけて執筆されているとのことですが、やめたらきっと楽になりますよ」と甘い誘惑の声を囁かれましたが、頑張ってその誘惑を断ち切って完走することができました。これも皆様のお蔭です。感謝!

足立美術館と念願の出雲大社へ=山陰・山陽旅行の2日目

足立美術館

12月2日(月)。「山陰・山陽旅行」の2日目です。初日は、移動日だけということで、米子駅前の床屋のおじさんの枕話だけで終わってしまいました。

 この日は、集合時間前の早朝に、米子城址に行く予定でしたが、早朝から雨。すっかり意気消沈して行くのをやめてしまいました。

足立美術館

この日のハイライトは、出雲大社の参拝です。

何で、出雲大社は島根県なのに、鳥取県の米子市に宿泊したんだろう?それは、後から理由が分かりました。

 団体ツアーの総勢は46人。貸し切りバスに乗ると超満員です。私自身、色んなツアーに個人で参加しましたが、こんな多いのは初めてでした。ほとんど人生を達観された方々ばかりでしたが、何でこんなに多いんだろう?その理由も後から分かりました。

足立美術館

 出雲大社の前に、日本庭園と120点の横山大観のコレクションを誇る「足立美術館」に立ち寄りました。入館料は、な、何と2300円。でも、ツアー料金の中に含まれていました(笑)。

 足立美術館を訪れるのは30年ぶりぐらいで、2回目です。でも、それだけ、歳を取ったせいか、深い感動が心に染み入りましたね。

日本庭園は、米国の専門誌で、2003年から連続16年も「日本一」に輝いているそうで、苔庭あり、枯山水あり、白砂青松庭あり…。5万坪もの敷地があるそうですから、見ていて飽きない。できれば、一日ボーと過ごしたいぐらいです。チコちゃんに叱られてもかまいません。

足立美術館

 展示されている絵画は、もちろん、撮影禁止でしたが、横山大観はじめ、竹内栖鳳、橋本関雪、川合玉堂ら日本画を中心に1500点(所蔵分も含む)。私は、若い頃は印象派を中心に西洋の油絵ばかり見続けてきましたが、歳を取ると日本に回帰するといいますか、断然、日本画の方が鑑賞するのが五臓六腑に染み込んで楽しくなりました。かなりの欧米にある美術館巡りをしましたし、もう、泰西名画はお腹いっぱい、といった感じです。

足立美術館

 足立美術館を開館した足立全康(1899~1990)は、地元安来市出身の実業家で、「庭園も一幅の絵画である」という信念のもとで、このような庭園を充実したらしいですが、本当に素晴らしい。

 下世話な話ですが、横山大観の富士山の絵画が、7億円はくだらないと言われていますから、120点ともなると、大観さんだけで、840億円はくだらない、わけですね。

 その財力はどこから来たのか?館内の年譜によると、足立全康は、尋常小学校を卒業後、家業の手伝いから、炭団(たどん)の販売を始め、それが当たって、商売を広げ、地元の安来鋼(はがね)や繊維卸業を軌道に乗せ、戦後は不動産投資で富を築いたようです。

後日談ですが、たまたま、その日の夜に、京洛先生から電話があり、足立美術館の素晴らしさを話したところ、「いやいや、倉敷の大原美術館の収蔵品の方が量・質とも上ですよ。是非、倉敷に行って比べてみてください」というので、最終日の3日目に倉敷に立ち寄った際、自由時間はすべて大原美術館に費やしました。

 大原美術館は1930年に、大原孫三郎によって開館されましたが、孫三郎は倉敷紡績(クラボウ)、倉敷絹織(クラレ)、それに今の中国銀行や中国電力などの社長を務め、大財閥を築いた人ですから、やはり、こちらの方が、桁違いの財力でした。

二の鳥居である勢溜(せいだまり)

さて、個人的には念願だった出雲大社にバスは向かいました。

 その途中で、団体ツアー旅行には付き物として、「トイレ休憩」の建前で必ず立ち寄る土産物店にバスは横づけされました。そこは「島根ワイナリー」といって、地元産のワインが9種類ほど試飲ができるのです。甘口から辛口までバラエティーに富んで用意されて、まさに飲み放題。途中で分からなくなってしまいましたが、8杯ぐらい飲んでしまいました。意外にも甘口ワインが旨かったでした。

 ただ酒を呑んでしまったので、「悪いなあ」と思い、買いたくもないお土産を2点買いましたよ。いけない、敵の罠にまんまとハマってしまった。

奥に一の鳥居が見えます

 出雲大社本殿近くの土産物店の2階で昼食を取った後、30分ほど自由時間になったので、一の鳥居(高さ23メートル)に行ってみようかと思ったら、外はどしゃぶりでした。途中まで行ったのですが、靴下まで濡れてきて、集合時間に間に合わなくなるといけないので、あえなくギブアップして引き返し、二の鳥居(高さ8.8メートル)がある勢溜(せいだまり)で我慢しました。

神楽殿

 集合時間に戻ったところ、どういうわけか雨はやんでくれました。

 ガイドさんの案内で、最初に連れて行ってくださった所は、神楽殿。大注連縄が特徴的で、私も写真で何度か拝見したことがありました。

 素人の方は、ここが本殿だと勘違いして、ここだけお参りして帰ってしまう人もいるんだとか。

オオクニヌシノミコト

 御存知、大国主大神、オオクニヌシノミコトです。出雲大社の祭神です。

 「因幡の白うさぎ」の話や国譲りの物語に登場します。

拝殿

はい、ここが拝殿。1963年に新築され、高さ12.9メートルあるそうです。

 右側に少し見えるのが、国宝の御本殿です。

神楽殿の大注連縄

 その前に、先ほどの神楽殿の大注連縄のアップ。以前は、この大注連縄に向かって、お賽銭を投げつける輩が多く、たくさんのコインが藁の間に挟まっていたそうです。今はない、ということは禁止されたのでしょう。

 長さ13.6メートル。重さが5.2トンもあるといいますから、下敷きになったら大変ですね。

八足門

 御本殿に向かいました。建物は、将軍徳川吉宗の頃の延享元年(1744年)に完成されたもので、国宝。

 ただし、上の写真は御本殿の手前にある八足門で、お正月以外、普段は御本殿に入れませんのでここで参拝します。

 神社での参拝は、普通は、2礼2拍手1礼ですが、出雲大社だけ特別で、2礼4拍手1礼となっていました。

御本殿

 上の写真が、国宝の御本殿です。屋根の上にバッテンのようにクロスしたものがありますが千木(ちぎ)と呼ばれ、穴も開いていますが、その穴の大きさはヒトの頭が入るくらいの大きさなんだそうです。

江戸時代につくられた御本殿の高さは24メートル。平安時代はこの倍の48メートルもあったそうです。それどころか、日本古代文明の発祥地とでも言うべき出雲国なので、当時は96メートルという全国一の巨大な建造物だったことが、2000年に発見された遺跡で明らかになっています。

 祭神のオオクニヌシノミコトは、西に向かってお座りになっているので、写真ではこちらに向かってお座りになっていることになっています。目と目が合いましたか?

 そうそう、出雲大社は60年に1度、「遷宮」という行事があります。ただ、出雲大社の場合、伊勢神宮のように場所は移動せず、瓦葺を新調するんだそうです。使われるのはヒノキの檜皮。これが不足して将来的に心配されるそうです。あわてて植林しましたが、檜皮が取れるヒノキが成長するのに120年もかかるんだそうです。

 遷宮の直近は平成25年(2013年)、その前は昭和28年(1953年)。次回は2073年ですが、ガイドさんは「60年後も皆さん、お参りに来てくださいね」と呼び掛けていました。これに対して、皆、力なく苦笑するだけでしたが。

お菓子の壽城

 さて、この後向かったのが、米子城です。

いや違った、「お菓子の壽城」というお菓子屋さんです。島根県出雲市から、また鳥取県米子市に舞い戻ってきました。「また、土産物屋かあ」と思いましたが、ここは許します。見事なお城の建物です。米子城を復元したらしいのですが、随分お金をかけているなあ、と思いました。

 早朝、行けなかった本物の米子城址の仇を取った感じでした(笑)。

12種海鮮御膳

 この米子市からバスでまた1時間半もかけて東へ走行し、 鳥取市へ。夕食は、鳥取砂丘のお土産屋さんを兼ねた食堂へ。午後5時半近かったので、外は真っ暗。街灯がほとんどないですからね。砂丘も見えないので、予定が変更され翌日回しとなりました。

 夕食は12種類の海の幸、海鮮御膳。中ビール650円は少し高め。

 2日目の宿泊先は、鳥取駅近くのシティホテルでしたが、駅前通りは寂れてシャッター商店街。街灯も少なくて、薄暗かった。むしろ、東京の夜の明るさの方が異常なのかもしれませんけどね。

 それにしても、2日目の宿泊先もまた鳥取県。どうしちゃったんでしょうかね?これまた、後で分かることになります。

 3日目は、ついに念願の姫路城と倉敷の大原美術館に行くことができました。(つづく)

初めての米子で面白い床屋のご主人と会う=山陰・山陽の旅

 「城好き」を自称しておきながら、日本一のお城「国宝 姫路城」にまだ行ったことはありません。「ライフワークは、寺社仏閣巡り」と宣言しておきながら、八百万の神が集まる出雲大社にも行ったことありませんでした。

 それじゃあ、駄目でしょう。ということで、この二つがセットになっていた団体旅行ツアーがあることを10月某日の新聞広告で見つけて、一人参加も同じ料金ということもあって、申し込んでみました。

その旅行の出発が昨日12月1日のことでした。東京から岡山までの「新幹線グリーン車」というのが、このツアーの「売り」でしたが、豪華さはそこまで。残念!初日は移動だけで、6時間半も掛かり、どういうわけか宿泊先が、何も関係がない鳥取県の米子市の駅近くのシティホテルで、大浴場がなし。

しかも、その日は、夕食もつかないということで、グリーン車代の影響がここまで波及するとは、申し込んだ参加者の中で想像出来る者は一人もありませんでした。

早速、ホテルを出て散策したところ、米子城跡があることが分かりました。看板では駅前辺りから800メートル。でも、雨が少し降ってました。少し走ったりして、15分ぐらいで、城址公園の入口みたいな所に着きましたが、辺りは真っ暗。これじゃ無理なので、明日、早朝にでも行くか、ということで、再び、駅に戻りました。

そしたら、床屋のネオンサインが目に入り、頭をカットしてもらうついでに、色々と米子市の情報を「床屋談義」で、取材しちまおうという魂胆で入ってみました。

米子市の特産物は何か?観光名所は何か?地元の有名人は誰か?ー色々とご主人に聞いてみましたが、あまりよく知らない、とどうも話が噛み合わない。おかしいな、と思ったら、このご主人はもともと松江市出身で、どうも、電車で40分ぐらいかけて米子にまで来ているみたいでした。

米子市は鳥取県とはいえ、西端で島根県に近く、県は違えども、松江市文化圏に入ることが初めて分かった次第。

 ご主人に、地元の人がお勧めの居酒屋を紹介してもらおうか、と聞いたところ、この床屋から歩いて1分ほどの「太平記」という店を教えてもらいました。

あとは、こっちが質問もしていないのに、ご主人自身が旅行した北海道の話になり、函館でのナオンは酷かった、札幌のススキノのサロンの横の店では隠れてやっていたとか、その筋の話のオンパレードになり、とにかく、興に乗って、変態的なレラシオンとか、ホワイトは凄いとか、一日に三回はしなきゃ、みたいな話を滔々とまくし立てて止まらないのです。

あまりにも、そういう数奇ものの話が多いので、「ご主人は、さっき自分で43歳って言ってましたけど、ご結婚されてないんですか?」と、つい、プライバシーを侵害してしまいました。

そしたら、「ええ、自分は独身ですよ。結婚するつもりないし、別に寂しくないですよ。老後のお金を貯めているんです。趣味としてクラシック音楽を聴いたり、サスペンスが好きなので本を読んだり、映画を観たりしてますから」と言うではありませんか。

 「あら、独身でしたか。そしたら、あっちの方はまだまだ頑張りたくてしょうがないでしょうね」と、私はもう達観してますから、彼を励ましておきました。

ご主人の独演会が終わった頃、本職も無事に済み、カットと軽いシャンプーで、料金はわずか1700円でした。安い!

この後、ご主人に教えられた通り、「太平記」で一人で呑んでいたら、何と、その床屋のご主人が店に来るんじゃありませんか。吃驚です。彼も飲みに来たと思ったら、詳細は分かりませんが、どうやら、一日の売り上げ金をこの店に銀行代わりに毎日預かってもらっているようでした。真相は分かりませんが。

 なーんだ。「安くて、美味しい、手頃な店」と聞かされていましたが、何かグルみたいですね(笑)。もっとも、添乗員さんが配ったお勧めの店のナンバーワンの店がこの店でしたから、グルというのは言い過ぎだったでしょう。

地元、いや、恐らく隣りの島根県の地酒のヤマタノオロチは、結構、口に合って美味しかったです。この日は予約客でいっぱいで、何人かの人が断られていました。私が入店できたのもラッキーでした。また、米子市に来るようなことがあれば、またこの店に来ますよ。そう言えば、鳥取県は、故片岡みい子さんの親友の米澤画伯の出身地でした。鳥取県を悪く言ったわけじゃありませんからね(笑)。

今日は、何か酒場放浪記みたいな話になってしまいました。次回は、ちゃんとした出雲大社や姫路城のお話になります。

「新善光寺展」が開催中=京都・泉涌寺

おはようございます、京洛先生です。

 昨年も渓流斎ブログで紹介、掲載してくださった「新善光寺展」が、今年も11月30日(土)まで、京都・泉涌寺山内にある「新善光寺」で開かれています。

今年は今週27日(水)に、天皇皇后両陛下が“皇室の御寺”である、泉涌寺に行幸啓されたので、同日は、新善光寺の界隈や狭い参道は、小旗を持った人が押しかけ、いつもは閑静な同寺一帯は大賑わいでした。

ワタシは、渓流斎さんも旧知の加藤力之輔画伯が新善光寺のご住職と入魂でもあるということで、彼のアトリエにお邪魔して、同展を覗いてきました。

 今年は、770年余にわたり同寺に伝わる「寺宝」や皇室ゆかりの遺品も展観、公開され、庭の紅葉とともにじっくり鑑賞してきました。 (残念ながら、寺宝等は、写真撮影禁止でした)

後嵯峨天皇が1243年(寛元元年)の勅願で創立、開山された「新善光寺」ですが、その謂れは、はるばる、信濃の「善光寺」に行かずとも、京の都で信州善光寺に祀られている阿弥陀如来と同仏同体を鋳造して、そのまま拝めるようにということで「新善光寺」の名前で建立されたわけです。

新年令和2年1月1日から始まるお馴染み、JRグループが大キャンペーンを張る「京の冬の旅」に新善光寺が初公開されることになったので、 今年は、そのポスターに使われた狩野周信筆の襖絵「鞨鼓楼図」も公開されました。

その前に、取り敢えず、新善光寺の境内の紅葉などをご覧ください。

恐らく、都心の東京駅をはじめ、銀座や新宿、渋谷などで、この襖絵をバックに座る片山九郎右衛門(能楽師)の、“京の冬の旅”の一大キャンペーンのポスターや映像が頻繁に大写しで流されることでしょう。

廊下の奥の絵は加藤力之輔画伯の作品です。

こちらもそうです。

皆さん、京の都がお待ちしております。

拝復

 確か、泉涌寺は真言宗だったはずですが、浄土教の阿弥陀如来の信仰も強いんですね。

 先週、後輩が京都に紅葉狩りに行ったら、大混雑で、歩くのも大変だったという話を聞きましたよ。

 あまり観光客が来ない、知られていない名所を狙うしかありませんね。

京都・光明寺(西山浄土宗総本山)は今、紅葉の見ごろです

京都の京洛先生です。

「東西タイムズ」の渓流斎編集主幹から「京の都の紅葉の写真を送ってもらえませんかね。東京の紅葉は深みがありませんから」とのご依頼もあり、本日、午後から、洛外、長岡京市にある西山浄土宗総本山「光明寺」に出向き、パチパチ写真を撮ってきました。

Copyright par Kyoraque-sensei

紅葉のこの時季は「光明寺さんの紅葉は、綺麗やし、見に行きまひょか」と、近畿各地から見物人が大挙押し掛けるので、阪急「長岡京市」駅から、阪急バスが臨時増便されて、大賑わいでしたね。

Copyright par Kyoraque-sensei

編集主幹とは、今夏、同じ西山浄土宗で、山科にある青龍山「安養寺」を訪れた際、村上純一御住職から「総本山光明寺は、宗祖法然様の御廟もあり、一度ご覧になるといいですよ。今の時季は閑静で人もほとんどいませんから落ち着くでしょう」と勧められましたね。

 確かに、暑さの頂点を極めたあの日、人影が全くない同寺を訪ねることができましたが、今日は、打って変わって大変な賑わいで、見物客目当ての様々な露店も出ていて、「これが同じあの光明寺か」と吃驚仰天です(笑)。

Copyright par Kyoraque-sensei

あの夏の日、渓流斎主幹は、青葉を見ながら「紅葉の時季になると、恐らく、此処は一面、紅葉参道になるのでしょうね」と言っておられましたが、全くその通りでした。これから12月半ばまでは、紅葉見物が出来るくらいまだ青葉も残っていました。

Copyright par Kyoraque-sensei

総門から御影堂までの石畳も、紅葉見物の人出が絶えず、阿弥陀堂、御影堂の堂内も、老若男女、子供連れ、アベック等々でごった返していました。

Copyright par Kyoraque-sensei

光明寺は京都の西南の西山連峰を背景に、今から800年前、法然上人の教えを伝えるべく建立されましたが、総門の前には「浄土門根元地」と大きな石標が建てられています。

Copyright par Kyoraque-sensei

広い境内は、楓の木が多く、「薬院門」から「閻魔堂」にかけての緩やかな下り坂は、まるで紅葉のトンネルのようで壮観でした。

Copyright par Kyoraque-sensei

「御影堂」の裏には「国光大師の御廟」があります。この夏は、御影堂の中に入り、誰もいないお堂で、年老いた管理人の方の詳しい光明寺の謂れを教えてもらいましたが、裏手は拝観しませんでしたね。石庭もありました。…

Copyright par Kyoraque-sensei

この時季だけは入山料500円を徴収されますが、それだけの値打ちはある境内の紅葉探訪、散策でした。

Copyright par Kyoraque-sensei

御影堂の中から、外の紅葉の色合いも綺麗でしょう。

機会がありましたら、また紅葉狩りに京都にお越しください。

以上

Copyright par Kyoraque-sensei

京洛先生江

そうですか。またまた、光明寺まで足を運ばれたのですか。少し、懐かしいですね(笑)。

 確か、光明寺から長岡京市駅までのバスが1時間に1本か2本しかなく、「大変な所に来てしまった」と思いましたが、紅葉のシーズンは臨時バスが出るんですね。

 たくさんの人出の中、「アベック」なんて、1960年代風で、今では死語になってしまいましたが、京洛先生の時間は停まっているのでしょうね(笑)。

 あれから、私自身は、日本浄土教に関して、ほんの少し勉強しましたので、西山浄土宗も、鎮西派も、法然上人も、弁長上人も、証空上人も、そして、阿弥陀如来の思想も知識として増えました。お蔭で、これからも寺院や仏像を参拝するのが、ますます楽しみになりました。

 また、いつか京都に行って寺社仏閣巡りをしたいと思っています。ご指導ご鞭撻の程、宜しくお願い申し上げます。

渓流斎

宇都宮探訪は満点でした=大谷観音、大谷石地下採掘場、二荒山神社、松が峰教会、宇都宮城址

10月26日(土)に、宇都宮大旅行を挙行致しましたので、今日はそのお話です。

皆様ご案内の通り、小生の趣味は、全国、いや全世界の城巡りと、寺社仏閣参りでしたね。

 どういうわけか、遠いようで近い宇都宮は一度も行ったことがなく、ということは親藩の宇都宮城址にも行ったことはありませんでした。同じ栃木県でも、那須や日光は仕事や遊びで何十回も行ったことがあったのに、宇都宮は御縁がありませんでした。

 そんな話を宇都宮出身の栗原氏に話したところ、今回、案内役を快諾してくれたのです。それがこの夏のことで、さすがに、真夏の猛暑はとても大変なので、9月に延期したら、雨やら台風やら伸び伸びとなり、10月26日にやっと実現したわけです。

平和観音 昭和23年から29年にかけて彫刻され、昭和31年に開眼供養が行われました

 ということで、城址見物ということでしたが、「どうせ宇都宮まで足を運ばれるのでしたら、お任せください。名所観光地巡りもしませう」ということで、栗原氏のお薦めで、まず宇都宮駅に着いて買ったのが、「大谷(おおや)観光一日(バス)乗車券」、1750円でした。バス代金(往復900円)と大谷観音の拝観料(400円)と大谷資料館の入場券(800円)付きで、途中下車もできますから「350円以上もお得」という触れ込み付きです。

 確かに、これは便利で安い。皆様にもお薦めです。

 宇都宮駅からバスで30分ほどで、大谷観音前に着き、まずは平和観音を参拝。高さ 27メートル。東京芸大の飛田朝次郎教授の下で、昭和23年から29年にかけて6年間、地元の大谷石(おおやいし)で彫られ、昭和31年に、日光輪王寺門跡・菅原大僧正により開眼供養が行われたという有難い観音様です。

 栗原氏は小学校の頃に遠足で来たことがあり、それ以来行ってないので、「半世紀以上ぶりだなあ」と一人で感慨に耽っておりました。

大谷観音(大谷寺)

この平和観音からほど近いところにあるのが、大谷観音(大谷寺)です。平安時代の810年ごろに空海が開基したと伝えられ、院内の石壁に彫られた千手観音像は、日本最古の石仏と言われ、空海の手によるものと言い伝えられています。

大谷観音 この驚くべき自然の彫刻

 寺院内は写真撮影禁止でしたが、このほか、釈迦三尊、薬師三尊、阿弥陀三尊の石仏も彫られています(重文)。大分県の臼杵麿崖仏と並び、「東の麿崖仏」と言われるそうです。これは一見の価値、いやご参拝する価値がありました。

大谷寺の弁財天

大谷寺は空海の開基ということでしたら、当然、真言宗なのですが、現在は天台宗の寺院ということになっていました。栗原氏も「知らなかった…」と頭をかいておりました。

大谷石採掘跡

大谷寺から歩いて、5~6分で、大谷石の採掘現場です。

NHKの「ブラタモリ」でもやっていましたが、そのドデカサは現地に行かなくては分かりませんね。テレビでは分かりません。その巨大さに圧倒されました。

大谷石は凝灰岩で、主に全国の家屋の「石垣」として使われましたが、確かにいくら採掘してもなくならない感じでした。

大谷資料館にある地下採掘場

 大谷資料館の地下採掘場に潜りました。

地下採掘場は、戦時中、戦闘機「疾風」が組み立てられていたとは

戦争中は、軍需工場としても利用されたようです。

地下採掘場は高さ60メートルだとか。まるで「地下神殿」でした

 とにかく、その規模の大きさには唖然としました。薄暗い地下採掘場は、この日の気温10度。まるで「地下神殿」のようでした。雨水が溜まった池みたいな所(立ち入り禁止)もありましたが、深さは30メートルといいますから、驚きです。日本じゃなくて異国にいる気分でした。

 ここは、十分、「世界遺産」にしてもいいと思います。

 これだけ、広くて神秘的だと、映画やテレビやプロモーションビデオなどのロケ撮影として使われているようです。このほか、コンサートや結婚式まで挙行されています。

 私の世代ですと、映画は薬師丸ひろ子主演の「セーラー服と機関銃」がここで撮影されたんだとか。私は見てませんけど(笑)。

二荒山神社では「菊水祭」が行われていました

バスで市内中心部(馬場町)にまで戻り、二荒山(ふたらさん)神社に参拝しました。この二荒(ふたら)を音読みすると「にっこう」、つまり日光になるわけですね。

この日は、神社の菊水祭が始まったばかりでした。このお祭りの写真を撮って安心してしまい、家に帰ったら、二荒山神社の本殿を撮影することを忘れていました(笑)。しっかり、お参りしたんですけど。

 駄目ですね。でも、この全国的に有名な神社も、足を運んでみると、意外に敷地が狭いような感じを受けました。

 そうそう、ここには、与謝蕪村の句碑もありました。蕪村は大坂生まれで京都を拠点に活動したので、わざわざ、京都から宇都宮在住の知人の俳人を訪ねに来たみたいでした。

二荒山神社近くのビル地下にある餃子専門店が並ぶ「来らっせ」

 時計の針はもう2時を過ぎており、お腹ペコペコです。

 栗原氏は、宇都宮名物の餃子を食べさせてくれました。

 ビルの地下1階にある「来らっせ」には、常設店舗と日替わり店舗と合わせて10軒ぐらいの餃子店がありました。

これが噂の名物「宇都宮餃子」

 何となく、屋台の雰囲気で、色んな店舗の餃子を楽しむことができるのです。

 中に柚子が入った餃子もあり、どれを食べても美味かったです。入場前は短い行列を並び、テーブル席が満員で、カウンター席でした。観光客も多い感じでした。

 宇都宮餃子は評判通りの味でした。

1932年竣工。「全身」大谷石の松が峰教会

 腹ごしらえもできたので、店舗から15分ほど市役所の方向に歩くと宇都宮城址があるということで、「いざ出陣」。

 その前に、その途中にある松が峰カトリック教会を訪れました。地元の大谷石を使って1932年に竣工されたということで、中にはパイプオルガンもあり、音響効果も抜群だという話です。

 宇都宮市は昭和20年7月に米軍による空爆を受けて、市の半分以上が焼失したそうです。この教会も戦災に遭い、戦後復興されました。

 米軍による空爆で、市民の620人以上が亡くなり、1128人以上が負傷したという記録が残っています。

ついに来ました。宇都宮城!

 教会から歩いて10分ほどで、やっと宇都宮城址に到着しました。

 打ち震える感動です。大袈裟ですが、(復元された)櫓を見ただけで感激しました。

櫓=清明台

この宇都宮城にこうして櫓が復元されたのは、平成元年から本丸城跡発掘調査が行われた以降のことで、栗原氏も「子どもの頃は、なーにもなかったので、宇都宮が城下町だったとあまり意識しなかった」と仰るではありませんか。

 現に宇都宮市観光交流課が企画するパンフレットには、「宇都宮城址」の「城」のかけらも案内していないんですからね。

 小生のような城巡りファンとしては、「勘弁してくれよ」と言いたくなりました。

幕末の慶應年間の宇都宮城、この後、戊辰戦争で、土方歳三軍などによって大半が焼失

 それでいて、宇都宮城址公園には立派な資料館もあり、宇都宮城の立派なパンフレットは、宇都宮市教育委員会文化課が製作発行していました。教育委員会文化課と観光交流課は、同じ市役所でも接点がないのかもしれませんけど、もっと連携しなければいけませんよね。

 宇都宮城は、平安時代後期の11世紀に築かれたといいますから、歴史があります。

 鎌倉時代から宇都宮氏の居城になりましたが、同氏の名前を取って、地名になったということでしょうか。宇都宮は、一宮(いちのみや)=二荒山神社がなまったという説もあるので、鶏が先か、卵が先か、みたいな話ですね。

宇都宮城本丸跡の城址公園で、翌日行われる流鏑馬の予行演習をやってました

宇都宮が城下町として大きく発展したのは、元和5年(1619年)、本多正純が城主になってからですが、正純は謀反の嫌疑をかけられて改易され、出羽に流罪となります。これが「釣天井事件」などと呼ばれて講談にもなりました。正純は幕府の老中にまで出世し、権勢をふるい、家康亡き後、二代将軍秀忠や側近の土井利勝(佐倉藩主~初代古河藩主、老中・大老)らの怒りや反感を買ったと言われます。

 とにかく、宇都宮城は、徳川将軍が江戸から、家康・東照大権現を祀った日光に参拝する際の最後の宿泊地で、本丸は将軍の居住地となり、宇都宮城主は二の丸で居住していたという話ですね。

 そんな親藩の宇都宮藩も幕末の戊辰戦争では、寝返って新政府側に立ったため、幕臣の大鳥圭介や新撰組の土方歳三ら率いる軍が攻め込み、この戦で城内の建築物は焼失したといいます。つまり、明治以降から平成までなーんにもなかったことになりますね。

最後の締めは、宇都宮アーケード「オリオン商店街」にある「かんちゃん」で

宇都宮探訪の最大の目的だった城巡りも終わって、夕方から、市内の古いアーケード商店街にある「かんちゃん」で反省会。

 栗原氏は、実は、宇都宮出身ながら、生活したのは高校卒業までで、この後、東京の難関大学に進学して就職したため、「地元の友人とはバラバラになってしまった」と言います。それでも「宇都宮の人口は30万人、北関東一の都市ですよ」「雪はあまり降りませんが、女性の肌が白くて綺麗です」と郷土愛を忘れていませんでした。

 宇都宮出身の有名人として、ジャズの渡辺貞夫、歌手の森昌子、女優の山口智子(栃木市でした)、作家の落合恵子、漫談家の東京ぼん太、政治家で作新学院の創立者の船田一族、(元巨人投手の江川卓は、作新学院出ですが、出身は福島県いわき市のようでした)陸軍大将だった小磯国昭らがいますね。

 実は、栗原氏は、歩き過ぎたのか、途中でアキレス腱を痛めて、歩きづらくなってしまいました。途中で少し休んでもらいましたが、事前準備と合わせて、最後までガイド役として最善を尽くして頂きました。責任感の強い方です。栗原氏とは不思議な御縁で、こうしてお世話になってしまいましたが、「ここは私の地元ですから、私に花をもたせて戴く喜びを味わわせてください」と変な日本語を使われて、結局、すっかり御馳走になってしまいました。

 栗原氏のおかげで、宇都宮探訪はもちろん、百点満点でした。本当に有難う御座いました。

常林寺で萩見を=京都

Copyright par Kyoraque-sensei

 9月になって少しは暑さが和らぎましたが、渓流斎先生の暮らし向きは如何でしょうか? 京洛先生です。

 貴人のブログを見ると相変わらず、難しそうな本ばかり読んでおられますが、もっと頭を柔らかくしないと息苦しくなりませんか?(笑)。

 年齢が行けば行くほど、持って生まれた気性、性格は治らないものですが(笑)、読む本も、もっと柔らかいものも読まないとね。それに「読書」は足腰の鍛錬をおろそかにします。二宮尊徳みたいに薪を担いで、歩いて読書すれば別ですが(笑)、本は、大体が、座って読むわけですからね。

Copyright par Kyoraque-sensei

 小生は「一日、一万歩」目標で散歩を心掛けています。

 昨日も晴天だったので、今の時季、綺麗に咲き始めた「萩」を愛でに出掛けました。

Copyright par Kyoraque-sensei

 出掛けた場所は、叡山電車「出町柳」駅そばの「常林寺」です。浄土宗のお寺ですが、京都市民には「萩のお寺」として知られています。ちょうどこれから10月初めにかけてが見頃です。

 此処は幕末に勝海舟が上洛した時に宿坊にしていて、中岡慎太郎らと密議をしていたということです。

ちょうど、連休明けで、人けもなく、静かで萩の見物にはよかったですね。

Copyright par Kyoraque-sensei

「常林寺」の前は賀茂川と高野川が合流して「鴨川」になる葵橋界隈です。

 「下鴨神社」も近くですが、常林寺は、それほど大きなお寺ではなく、観光寺院でもないので、日頃は、お寺の前を通っても、目立たないので誰もが通り過ぎます。でも、この時季は、萩が咲き誇っているので、門の外からもその光景が見えます。

Copyright par Kyoraque-sensei

それに気づいて、可憐な萩の花を愛でると、何か得した気分にもなるものです。

以上

 常林寺ですか。。。知りませんでしたね。勝海舟の京都の宿坊で、坂本龍馬も訪れていたということですから、幕末ファンにはたまらないでしょうね。

  調べたところ、毎年9月の敬老の日に「萩供養(はぎくよう)」が催されるそうですね。今でも 四季折々の花々や年中行事を大切にする京都の人にはいつも感服致します。

浄土宗西山派を巡る京都の旅(下)=京の中心(へそ)六角堂、石田梅岩

四条高倉 京寿司「いづ源」

8月18日(日)、京都の旅、最終日です。

特に予定はありませんでしたが、京洛先生の携帯電話のことで四条烏丸のショップに行き、その足で、北政所の命令により、香(こう)の老舗「松栄堂」の白川と、寛政元年創業の「田中長奈良漬」を買い求めに行くぐらいでした。

 携帯ショップでの用を無事終えた後、京洛先生は「これから何処に行きましょうか。ああたは、京都のへそに行ったことはありますか?」と仰るではありませんか。

 「京都のへそ?何ですか、それ?」と私。

 「六角堂と呼ばれる聖徳太子が開基したと言われる寺のことです。ここが、京都のへそ、つまり、京都の中心地に当たるということですが、本堂北の本坊は、池坊と呼ばれ、生け花の発祥地といわれてます」

えーっ!凄い所じゃないですか。是非、是非にということで、ショップから20分ぐらいのところまで歩いて行きました。

 六角堂の来歴については、上の写真の高札をお読みください。紫雲山頂法寺が正式名称でした。

 親鸞聖人がここで参籠し、後に浄土真宗を開宗する根源となった、とも書いてあります。

 「京都のへそ」というのは、噂でもフェイクニュースでもなく、実際に「へそ石」がありました。

 京都市の中心のそのまた中心といった意味なのでしょう。

 六角堂の周辺は全て池坊の敷地となっており、この近くにいけばなの池坊の本部があったり、読売新聞の京都総局があったりしました。何で、池坊に読売が?

 それは、読売新聞二代目社主の正力亨氏の妻峰子さんの妹が、池坊専永夫人の保子さんだったからです。その御縁なのでしょう。これも、物識りの京洛先生からの受けおりですが(笑)。

 この後、向かったのが、香(こう)の老舗「松栄堂」です。

 京洛先生は「まあ、すぐそこです」と仰ってましたが、住所は、烏丸通り二条となってましたから、結構歩いたことになります。猛暑の炎天下でしたから、余計、距離を感じました(笑)。

 松栄堂は創業が宝永2年(1706年)といいますから、もう300年以上の老舗です。私も長く生きていますが、これほどの種類と品数が揃ったお香(こう)の店舗は初めてです。

 店舗の隣りには「薫習館」と名付けられた展示館が併設され、いろんな香りを楽しむことができました。仏事用の香だけでなく、ヒーリングや、アロマテラピー用の香などもありました。

京洛先生 御生誕の地

「松栄堂」の近くに、京洛先生が生まれた自宅があった所がある、というので行ってみました。昔は病院ではなく、自宅に産婆さんを呼んで出産したものでした。何しろ、京洛先生の祖父は江戸時代生まれということですから、相当昔の話ですが(笑)。

 現在は、「尾張屋」という蕎麦屋さんになっていて、京洛先生のかつての自宅は、今は尾張屋の家族が住む自宅になっているようでした。

 まあ、東京で言えば、銀座か日本橋といった都心の繁華街の裏通りといった感じです。実際、京洛先生の子どもの頃の遊び場が、新撰組の「誠」の制服を作った近くの大丸百貨店だったというんですからね。

この「京洛先生 御生誕の地」の近くにあるのが、「心学」の石田梅岩が開いた塾の跡地で、「石門心学発祥之地」「此付近石田梅岩講舎跡」の石碑が立っておりました。

京洛先生は「今時、経済評論家でさえ、石田梅岩も心学も知りません。困ったもんですよ」と嘆いておりました。

この看板には、石田梅岩は、聴講料を一切取らず、「正直・倹約・勤勉」などの道徳を説き、とりわけ商人の間に広まった、などと書かれています。

石門心学についても、上の写真の看板で説明されていますので、お読みください。

 京洛先生は「石田梅岩は今の京都府亀岡市出身ですが、亀岡は色んな人を輩出していますね。大本教の出口王仁三郎もそうですし、絵師の円山応挙もそうでしたね」と一人で感心しておられました。

 昼時になったので、 京洛先生ご贔屓の高倉通り綾小路下る 「いづ源」に入りました。

 私も2年ぶりぐらいです。確か、 鯖寿司で有名な京寿司の老舗「いづう」(天明元年=1781年創業)から暖簾分けした店です。このほか、以前、よく連れて行ってもらった八坂神社近くの「いづ重」も、同じ「いづう」からの暖簾分けでしたから、ここはその兄弟店みたいなもんです。

美人の女将さんが大変な話好きで、我々が浄土宗西山(せいざん)派の寺巡りをした話をすると、「そうどすね。西山さんやったら、永観堂(浄土宗西山禅林寺派総本山)はんと誓願寺(浄土宗西山深草寺派総本山)はんは欠かせまへんにゃわぁ~」と仰るではありませんか。女将さんは、毎日色んな賓客をお相手していますから、「耳学問」は確かです。実際、信心深く、お寺参りもされているようでした。

 私は心の中で、「ああ、今日帰っちゃうので、行けずに残念」と思いました。また次ぎの機会にお参りしたいと思いました。浄土宗西山派は現在、大きく分けて三つの流派があり、我々が足を運んだ光明寺は、西山浄土宗の総本山でした。

浄土真宗本願寺派

 京洛先生と別れて、新幹線の時間まで少しあったので、京都駅近くの西本願寺に行ってみることにしました。

 京都駅から歩いて15分ほどなんでしょうが、午後2時、炎天下の京都は死ぬほどの暑さです。途中で倒れてしまうのではないかと思うほどでした。本当です。

西本願寺「御影堂」

なぜ、西本願寺を選んだかといいますと、前日、島原に行った際、その近くに西本願寺があり、ガイド役の京洛先生が「西本願寺は、龍谷山本願寺が正式で、自分たちのことを『西』なんて言わないんですよ。 『浄土真宗本願寺派』と言っているのです。権力が膨大になることを恐れた江戸幕府が、浄土真宗を『東』(真宗大谷派)と『西』に分割しただけなので、西本願寺は、自分たちを『本願寺派』と名乗るように、我こそが本派だと思っているんです」と解説してくれた話を耳にしたからでした。

 西本願寺、いや龍谷山本願寺の国宝の飛雲閣と阿弥陀堂が目下、修復工事中で見られなかったのが残念でしたが、足を運んで良かったでした。

 それにしても、京都は本当に暑かった。

浄土宗西山派を巡る京都の旅(中)=島原から長岡京の光明寺、そして百万遍へ

島原の御門

京都の旅2日目の17日(土)。

 前夜、「明日は何処に行きましょうかねえ。世界遺産になった仁徳天皇陵に行きますか」と京洛先生は仰るので吃驚してしまいました。ここ数年、毎年のように欠かさず京都旅行をして、京洛先生のお世話になっておりますが、昨年は神戸、一昨年は大津…と、御本人は京都を飽きてしまっているのか、京都以外を巡ることが多かったのでした。

 でも、何となく気乗りがしませんでした。「安養寺の村上住職が仰っていた熊谷直実が創建したという光明寺に行ってみたいのですが…」と提案したところ、京洛先生は「そうですか。では、今回は浄土宗西山派の旅としますか」ということで、予定を変更してくださいました。

 その前に「腹ごしらえ」ということで連れて行ってくれた所が島原です。

 江戸時代に遊郭や料亭が軒を連ね、幕末の志士や新選組らが入り乱れた歓楽街です。司馬遼太郎の小説などによく登場していましたね。

島原の遊郭「角屋」

残念ながら、今ではすっかり寂れてしまい、歴史的保存建造物などになってしまいました。

ちょっと歩けば「長州藩志士 久坂玄瑞の密議の角屋」などの石碑があります。

 角屋については、上の写真の説明文をお読みになってください。

島原住吉神社

 何で、島原に来たかといいますと、ここには特別に安くて旨くて量もある和食を食べさせてくれる「魚河岸 宮武」があるからでした。以前から、京洛先生から「今度、京都にお見えになったらお連れしますよ」と聞かされていた店で、私はすっかり忘れていましたが(笑)。

 ガイドブックには載っていないような、知る人ぞ知る店で、口コミでやって来たお客さんが、大勢やって来ます。 ランチは、朝の10時半開店で、午後1時半で完売状態になります。

10時半に着いたのですが、既に満杯で、30分ほど戸外の暑い炎天下で待たされることになり、近くの島原住吉神社などをお参りして時間をつぶしました。

宮武 日替わり定食800円(税別)

 午前11時、待望の入場です。

 上の写真をご覧になればお分かりの通り、大層豪勢な料理だというのに、日替わり定食が800円(税抜き)という飛び切りの安さです。味は勿論天下一品です。近くに別のこじんまりとして和食屋さんがありましたが、同じような品数の料理で1500円の価格でした。まあ、何と、半額近い値段!これなら人が押し寄せるはずです。

 この「宮武」の近くに魚市場があり、東京でいえば、築地か豊洲といった感じでしょうが、新鮮な魚がすぐ手に入る地の利を生かして、随分良心的な商売をしているものだと感心してしまいました。この店に連れて行ってくださった京洛先生には感謝、感謝です。

 お腹が整ったところで、目指したのは浄土宗西山派の総本山光明寺です。

 京都市街から少し離れた長岡京にあり、バスと阪急電車を乗り継いで、1時間ぐらい掛かったでしょうか。阪急「長岡天神前」からバスに乗りましたが、1時間に2本ぐらいしかなく、行きも帰りも30分ぐらい待たされました。

 でも、足を運んで良かったでした。境内のあまりにもの広さに圧倒されました。

 不勉強で何も知らなかったので、前日に安養寺の村上住職から光明寺の話を聞かなかったら、お参りすることすら頭にありませんでしたからね。

 光明寺とはどんな寺なのか、私が説明するよりも、上の写真を読んでくだされば、十分です。

 光明寺の創建に尽力したのは、「平家物語」や謡曲「敦盛」などに登場する武将熊谷直実です。

 熊谷直実は、今の埼玉県の熊谷市出身かと思ったら、安養寺の村上住職によると、もともとは京都の出身で、平氏だったらしいですね。それが、坂東に下って源氏の武将になったらしいのです。

 武将の宿命とはいえ、多くの人を殺める罪の深さにおののいた熊谷直実は、出家して法然上人の弟子となります。物語は、文楽と歌舞伎「熊谷陣屋」などにも取り上げられ、人口に膾炙しています。

 熊谷蓮生法師となり、念仏一筋に暮らした「念仏三昧院」が、今の光明寺に発展したと言われています。

上の写真は、御影堂(みえどう)で宝暦3年(1753年)に再建された光明寺の中心となるお堂だそうです。御本尊は法然上人御自作の「張り子の御影」。堂内に座っておられた僧侶の方と少し話を伺ったところ、浄土宗西山派の光明寺別院が東京都町田市にもあるということでした。

かなり立派なお堂です。

ほとんど参拝者がおらず、ゆっくりと参拝することができました。

円光大師火葬跡

ここは、法然上人の死後15年経過した頃、専修念仏の広まりに危機感を持った天台宗の僧兵たちが知恩院の御廟を襲撃するという話(嘉禄の法難)を聞いた弟子たちが、密かに上人の遺体を掘り起こして、この地に運んで荼毘に付したと言われます。(遺骨は各地に分骨されたそうです)

 この話を安養寺の村上住職から伺って、是非とも光明寺をお参りしたいと思ったのでした。

 光明寺の隣りには、村上春樹さんの御尊父も通った浄土宗西山派の僧侶を養成する「西山専門学校」(現京都西山短期大学)もありました。「ここだったのかあ」と感激しました。

 炎天下だったので隈なく歩いたわけではありませんが、大学の近くには商店どころか、喫茶店すら見当たらず、これでは修行三昧するしかないかな、と思いました。

 光明寺を辞して、また京都市内に戻り、向かったところは「百万遍」。「今回は浄土宗巡りにしませう」という京洛先生の提案でした。

 百万遍知恩寺は、浄土宗八総本山の一つということで、お参りは欠かせません。

 上の説明文にある通り、百万遍というのは、文字通り、疫病退散のために百万遍も念仏を唱えたところから、付けられたんですね。

百万遍知恩寺 本堂

百万遍の辺りは、京都大学のキャンパスがあちこちにありました。そのうち、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士の記念館にも足を運んでみました。

京都帝国大学は、村上春樹さんの御尊父も学ばれた大学なので、いつのまにか、彼の手記「猫を捨てる」を辿る旅になりました。

村上春樹氏は、この「猫を棄てる」という父親について初めて書いた手記の中で、「こういう個人的な文章がどれだけ一般読者の関心を惹くものなのか、僕にはわからない」と疑っておりましたが、こうして、私のような一人の一般読者が、安養寺~西山専門学校~京都帝大と足を運んだわけですから、相当な影響力があったということです。ご安心ください(笑)。

 猛暑の旅を終えて、北野天満宮近くの京洛先生の邸宅に戻り、すっかりお馴染みになった近くの銭湯「西京極湯」で一風呂浴びました。

 この「西京極湯」の近くにあるのが、浄福寺です。幕末に薩摩藩の屯所となった寺です。司馬遼太郎の小説にもあります。

浄福寺と薩摩藩との御縁は、天正20年(1592年)、豊臣秀吉の朝鮮出兵に反対して自害させられた島津歳久の首が葬られたことから始まったと言われています。

 浄福寺は延暦年間に天台宗の寺として創建されましたが、火災などで色々と移転があったりして、室町時代末から浄土宗となりました。

 うーん、すごい。ここも浄土宗ですか。偶然にも浄土宗巡りとなりました。

一風呂浴びてからの楽しみは、やはり、きゅっと一杯。

 風呂上りによく立ち寄っていたお好み焼き屋さん「西出」がお盆休みだったので、千本通の串カツ屋さん「半左笑門」に初めて入ってみました。

 いけてました。

浄土宗西山派を巡る京都の旅(上)=安養寺の村上住職を訪ねて

 ほんの少しの御無沙汰でしたが、京都に行っておりました。8月16日(金)~18日(日)の2泊3日という短い期間でしたが、内容は4泊6日といった感じでした。

 すっかり京都の「常宿」となってしまった京洛先生の御邸宅に御厄介になりながらの旅でした。

 この時期、Overtourism(観光公害)を覚悟していたのですが、割と空いていました。台風一過のせいで国際線の本数が減ったせいなのかもしれません。京洛先生は「台風ですから、蒙古襲来みたいなものですよ」と仰るので大笑いしてしまいました。   

京都は、京洛先生のショバですから、全てお任せです。

今回は、左京区にある青龍山安養寺の村上純一御住職と面談することが本義でした。あ、慣れない仏教用語を使ってしまいました(笑)。

このブログで、何回か触れさせて頂きましたが、村上純一御住職は、ノーベル文学賞に最も近い作家村上春樹さんの従兄弟に当たる人で、春樹さんが今年5月発売の「月刊 文藝春秋」6月号に初めて御尊父の思い出の手記(「猫を棄てる」)を書かれたのを読み、その御紹介ついでにこのブログで取り上げたのでした。

その際、間違って、同姓同名の京都市の安養寺ながら、東山区にある慈円山安養寺の方だと思い込んで紹介してしまい、このブログを目にされた村上純一御住職、御本人から誤りを指摘されたのでした。

で、今回は、大袈裟ですが、その訂正謝罪行脚でもあったわけです。

「小宝」のオムライス、手前が(中)で1000円

繰り返しになりますが、京都に着けば、全て京洛先生お任せです。「取り敢えずランチにでも行きませう」ということで、京都駅から市バスに乗って、場所も分からぬまま、降りて炎天下を歩いた所が、岡崎の高級別荘地区でした。京都市動物園の近くにある洋食屋「小宝」に向かいました。

昼1時過ぎでしたが、長い行列。日陰のない炎天下、立ったまま30分も待ちましたが、待った甲斐がありました。

何しろ、修学旅行の生徒がタクシーで乗り付けるほどの人気店で、その量が半端じゃない。上の写真のオムライスをご覧になれば、お分かりの通り、(中)で(小)の2倍。(大)はまず一人で食べ切れないでしょう。

物識りの京洛先生によると、「小宝」は、京都の老舗洋食店「宝船」(今はない)から暖簾分けした店で大層昔から繁盛していた店だそうです。

後でお会いした安養寺の村上純一御住職も子どもの時から行っていたそうで、昔から混んでいたそうです。

山縣有朋 別邸「無鄰菴」

この後、何処に行くのかと思いましたら、明治の元勲山縣有朋の別荘「無鄰菴」でした。明治29年に完成し、現在は京都市が委託管理して一般公開してます。入園料410円。

見事な庭園は七代目小川治兵衛作。この辺りの高級別荘の庭園の殆どを小川治兵衛が手掛けたそうです。別荘地区には、老舗の野村財閥のほか、最近では、新興宗教Sやニトリの似鳥さんらも加わったそうです。

そういえば、競馬騎手の武豊さんの大豪邸も教えてもらいました。大名屋敷みたいで、半端じゃありませんでした。写真も撮りましたが、このブログにアップするのはやめておきましょう。

この後、何処に導いてくれるのかと思ったら、もう歩いて安養寺に向かっておりました。ついでに、東山区の慈円山安養寺(時宗)にも連れて行ってもらうつもりでしたが、京洛先生は大変せっかちな性格です。「遅れてしまったらねえ…」と仰りながら先に進み、寺の麓に到着した頃は、まだお約束の時間まで1時間以上ありました(笑)。

村上純一御住職からは前日、電話で「地下鉄の『蹴上』の一番出口からすぐです」とお聞きし、そのことを京洛先生にもお伝えしたのに、「すぐそこですから」とズンズン先に歩かれます。後で分かったのですが、京洛先生の仰る「すぐそこ」とは歩いて30分ぐらいの距離でした(笑)。

日向大神宮 女優羽田美智子さんがパワースポットとして信心されているようです

大変失礼ながら、安養寺は、京都市内ながら市街からも人里からも離れた山奥にありました。お買物に出掛けるのも不自由じゃないかなあと思いました。

時間が早かったので、安養寺に併設(?)している日向大神宮に登りました。安養寺の麓にある京都市浄水場辺りは東山区、安養寺は左京区、そして、日向大神宮は山科区でした。

本殿は、小山の頂上付近にあり、坂道の登り坂は息が切れるほどでした。

日向大神宮については、私がとやかく言うより、上の御由緒をお読み下さい。

この旅の最終日に昼食をとった四条高倉の京寿司「いづ源」の女将さんの話によると、この日向大神宮は、女優の羽田美智子さんがパワースポットとして度々お参りして、信心されている神宮だといいます。

青龍山安養寺 御本尊は阿弥陀如来

やっと、お約束の時間になったので、青龍山安養寺の村上純一御住職を訪ねました。春樹さんの手記にも出てきましたが、ここが、高濱虚子が「山門のぺんぺん草や安養寺」と詠んだお寺か、と感慨深いものがありました。

 この面会が仕事だったら、しっかりメモを取ったことでしょうが、遊びですから、いや、間違いました、お詫び行脚ですからメモはやめました。また、吉本興業のようにテープを取ったりもしません(笑)。どういう面を下げてお会いするべきなのか、迷いましたが、まあ、肩の力を抜いて、ざっくばらんな気持ちでお会いすることにしました。

後で「記念写真でも撮っておけばよかった」と後悔しましたが、このブログは、顔写真はあまり載せない「反フェイスブック主義」を貫いてますから、いいでしょう。ご本人は、あまり、村上春樹さんとは似ていませんでした。

色んな話をお伺いしました。法然上人が開いた浄土宗にも色んな分派があり、京都は主に知恩院の鎮西派と光明寺などの西山(せいざん)派があり、かつては(とは言っても戦国時代までは)西山派の勢いが強かったのですが、徳川家康が本能寺の変を聞いて、大坂堺から逃げる際に知恩院が援助したことから、江戸時代は鎮西派が本派の主流になったそうです。ですから、江戸の増上寺も浄土宗鎮西派というわけです。

鎮西派と西山派は、同じ浄土宗でも違いが多くあり、例えば、お経を読む際、鎮西派は呉音で読みますが、西山派は漢音で読むそうです。漢音は天台宗もそうです。

青龍山安養寺も、もともとは慈覚大師円仁(794~864)が天台宗の寺として開いたといわれております。

京都市内には数え切れないくらい多くの神社仏閣がありますが、村上住職によると、拝観料を取れるような「観光寺」はほんの僅かで、大抵の寺院は、細々と「経営」しているそうです。少子化でこれから消滅してしまう寺院もかなりあるようです。

村上住職は、あまり口には出しませんでしたが、ご自身の寺院経営もなかなか大変なようでした。「世間の多くの人は、宗教法人は税が免除されているので、『坊主丸儲け』と思ってらっしゃるかもしれませんが、サラリーマンと同じように、住職も宗教法人から給料を貰っている形にして、確定申告もあります。例えば、跡を継ぐ息子が僧侶の資格を得るために、大学に行かなければなりませんが、その教育費は宗教法人から出ません。自分の息子ですから、住職の生活費の中から教育費を出さなければ、税務署も黙っていないんですよ」と、明かしてくれました。

そうでしたか。

面白かったのは、村上住職と京洛先生が同じ京都府立鴨沂(おうき)高校出身だったことが分かったことでした。京洛先生の方が5年ほど先輩でしたが、鴨沂高校は、旧制京都府立第一高女で、森光子、山本富士子、沢田研二ら有名人も多く輩出している名門高校どす。

真言宗 泉涌寺 境内は自動車で往来してました

安養寺を辞して、向かったのが泉涌寺でした。

泉涌寺と言えば、歴代天皇の位牌をおさめる格式の高い真言宗の寺院ですが、敷地の広さには腰を抜かすほど驚きました。何故、泉涌寺に向かったのかというと、この境内にある宿坊(?)に、スペイン滞在歴半世紀の画家加藤力之輔画伯のアトリエがあり、夜は五山の送り火の鑑賞会をご一緒しましょう、という話に知らぬ間になっていたからでした(笑)。

加藤画伯の奥さんアサコさんは、依然としてマドリードにお住まいで、私も昨年7月に初めてスペイン旅行した際に、ピカソの「ゲルニカ」を見るのに美術館にお導きして頂いたり、彼女の自宅兼ゲストハウスでランチをご馳走になったりしたことは、昨年のブログに書いた通りです。

 昨年のマドリードではお会いできなかった加藤画伯の子息である大輔さんとスペイン人の美人奥さんアンヘラさん、それに3人のやんちゃな男の子と女の子がたまたま日本に遊びに来ていて、今回お会いすることができました。

泉涌寺「悲田院」から見る送り火

皆で一緒に、「送り火」を見ることにしました。ちょっと離れていたのと山影に隠れてしまっていたせいで、全部を観ることができませんでしたが、スペイン人のアンヘラさんは、初めて見るらしく、感激していました。

我々が送り火を観ている間、大輔さんが一生懸命に料理をしていたらしく、帰ってからバスク料理のマルミタコを御馳走になってしまいました。大輔さんは、お父さんと同じアーティストですから、料理の腕も確かでした。実に美味でおかわりしてしまいました。ポテトと牛肉かと思ったら、マグロのアラで、隠し味にローリエがある、と大輔さんは講釈してくれました(笑)。

 加藤画伯も大輔さんもアンヘラさんもお子さんたちも、皆、スペイン語でしたから、京都なのに、何となく異国に来たような不思議な感じがしました。