いざ鎌倉への歴史散歩=覚園寺、鎌倉宮、永福寺跡、大蔵幕府跡、法華堂跡、浄妙寺、報国寺

鎌倉「覚園寺」

 8月9日に栃木県足利市の「足利氏館」(日本の100名城)に行ったお話を書きましたが、その時、「こりゃあ、しっかり鎌倉幕府のことを勉強して、鎌倉に行って実地調査しなければ、日本の歴史なんか少しも分からないなあ」と実感しました。

 足利氏は室町幕府を開くほど天下一の氏族となりましたが、もともとは、鎌倉幕府を開いた源頼朝の有力御家人として出世街道を昇り始めたからです。武家社会700年の最初を切り開いた鎌倉幕府を知らなければ、日本史は分からないと悟ったわけです。

 そこで、「いざ、鎌倉」ですが、見るべきところがあまりにも多過ぎます。歴史散歩にしても、寺社仏閣巡りにしても、掃苔趣味(偉人のお墓参り)にしても、全部回るとなると数年掛かるかもしれません。何しろ、中世の日本の首都だったわけですからね。

 そこで、今回は「歴史散歩」に絞ることにしましたが、最初に目指したのは、覚園寺(かくおんじ)です。お出掛けしたのは、熱中症危険情報が発令された8月11日(火)の夏休みです。

 この寺は、いつぞや、鎌倉の画廊で個展を開催されていた加藤力之輔画伯から、是非行くように勧められていたからです。(加藤画伯は現在、京都泉涌寺の宿坊にお住まいですが、鎌倉出身です)

 真言宗泉涌寺派鷲峰山(じゅぶさん)覚園寺は、二代執権北条義時が1218年に建てた薬師堂が前身になっている、と上の看板にも書かれていますね。

覚園寺 愛染堂

 再来年2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、この北条義時が主人公らしいので、ブームになる前に一度お参りしたかったのです。でも、何で、北条義時が主人公なんでしょうかね? 北条氏なら、御成敗式目を制定した北条泰時や二度の元寇を食い止めた北条時宗の方が有名なような気がしたからです。

 でも、義時も源頼朝の挙兵以来絶えず傍に仕え、頼朝の死後も将軍を補佐して屋台骨を支え、承久の乱でも後鳥羽上皇軍を破ったりしてます。ま、いずれにせよ、世間でまた鎌倉幕府が注目されることは大いに楽しみです。

覚園寺 本堂 薬師堂

 で、肝心の覚園寺ですが、普段は案内人の方が境内を色々と御紹介してくださるようでしたが、コロナ禍で、この薬師堂だけ辛うじてお参りすることができました。恐らく地蔵堂と思われるお堂は工事中で、間違えてお堂の前をうろついていたら、「ここには入らないでください」と関係者に怒られてしまいましたよ。入口に紐の柵でもしてあれば入らなかったんですけどね。多分、大河ドラマのロケ撮影のために綺麗にしているのかもしれません。でも、覚園寺の印象が悪くなりました。

 ただ、1354年に再建された本堂薬師堂の薬師如来像と日光、月光菩薩の薬師三尊は、国宝級でした。そして、その周囲に配置された十二神将も…。撮影できないのが残念でしたが、やはり、茲はお参りの価値はあります。

 実は、覚園寺に参る際、JR鎌倉駅東口から「大塔宮」行きのバスに乗りました。

 親譲りの無鉄砲で旅の計画を立てるのが苦手で、大雑把な予定しか組んでいなかったおかげで、随分と時間をロスしてしまいました。鎌倉駅には午前10時15分頃には着いていて、10時25分のバスに簡単に乗れていたのですが、駅でふらふらしたり、ちゃんと停留所の場所を調べていなかったので、目の前で発車してしまいました。次のバスまで20分、炎天下で待ちましたよ。

 大塔宮とは、鎌倉宮のことで、由緒は上の看板の通りです。

 学生時代の畏友刀根君は、20代から30代の大半を北鎌倉に住んでいて、鎌倉博士の異名を取っていたので、彼に、事前に、鎌倉のお薦めを聞いていたのですが、この鎌倉宮も入っていました。他に妙法寺、海蔵寺、杉本寺などもありましたが、今回は「歴史散歩」なので、残念、次回に回すことにしました。

永福寺跡

 鎌倉宮をお参りした後、是非とも、訪れたかったのが茲でした。永福寺と書いて「ようふくじ」と読みます。鎌倉宮の北、歩いて10分ほどにあります。途中で、けもの道みたいな狭い草茫々の道を歩きます。

 源頼朝は1189年、敵対する平泉の奥州藤原氏を攻め落とし、ようやく「全国統一」を果たします。

 奥州から鎌倉に帰ってきた頼朝は、自分たち幕府の政庁(大蔵幕府)の東に、この永福寺を建てます。前庭に池を張り巡らせ、攻め落とした平泉の毛越寺に大変良く似た設計だったと言われています。

永福寺跡

 建物は、薬師堂と二階堂と阿弥陀堂があり、迎賓館として使われた可能性もあるようです。

 識者によると、滅ぼした奥州藤原氏に対する霊の鎮魂の意味も込めていたと言われます。

 最近、発掘が進み、こうして整備されています。観光客は一人もいませんでした。鎌倉駅には多くの人がいましたが、恐らく、彼らは鶴岡八幡宮や小町通りに行くのでしょう。

 変わり者と言われようが、私は一人だけ、永福寺の遺構を眺めて色々と往時を偲び、感動で打ち震えておりました。やっぱり、変わってるかなあ…(笑)。

雪ノ下「八重寿し」 生バラちらし丼 1150円

 正午を過ぎたところで、早くもお腹が空いてきました。

 「岐れ道」交差点の近くにあった「八重寿し」に入りました。実は、この店は、ガイドブックに出ていて、事前にチェックしていたお店の一つだったのです。このガイドブックには地図が満載され、歩き回るのにもってこいです。しかし、やたらとレストランや土産物店も載っています。もしかしたら、こういうガイドブックというのは、お店から広告料をとって掲載しているのかしら、と疑ってみたくなりました。そう言えば、ネットの「グーグルマップ」なんて、お店情報だらけですよね。とても、タダで掲載しているとは思えない。クライアントになったことがないので裏の事情は分かりませんが、もしお分かりの関係者の皆様からの匿名情報があれば、お待ちしております(笑)。

 で、ここの「生バラちらし丼」ですが、実に美味、旨かったでした。鎌倉は観光地なので、銀座並みの値段でしたが、釣り合いは取れていました。ただ、ご飯の量があまりにも少ない、底が見えるくらいです(まさか)。一言、皮肉でも言いたかったのですが、店の50代後半に見える大将が機嫌悪く、ムスッとして話しかける雰囲気もなし。細かいことで、店の若いもん(とは言っても40代か?)を叱ったりしていたので、食べ終わるとそくさと出ました。「このガイドブックに出ていたのですが、掲載料を払ったんですか?」と聞いてみたかったなあ(笑)。

大蔵幕府旧跡

 お昼を食べて、少しは元気を回復したので、また、炎天下を歩きました。しっかりイタリア製の高級帽子ブガッティは被ってます。

 目指すは「大蔵幕府跡」です。

 ここに、源頼朝以来三代将軍と政子が46年間、政務を行った政庁社と住まいや寝殿などがあったのです。

 鎌倉幕府の政庁社の敷地のほとんどは、今や、清泉小学校になっています。ちょっと調べたら、この清泉小学校の創立母体とは、スペインの「聖心侍女修道会」なんですね。ということは、カトリックの私立学園ということになります。まあ、まあ、驚くばかりです。まさか、平城京跡に私立学校は建てられないでしょう?

 上の写真にあるように、大蔵幕府跡の碑は大正6年に鎌倉町青年会によって建立され、その解説を清泉小の子供たちの「自主研究」と思われる「成果」が貼られています。読みにくいですが、是非お目をお通しください。

 鎌倉に来て、そして、その前に鎌倉のガイドブックや資料を読んだりして、鎌倉幕府なのに、何で、薩摩藩の島津氏や長州藩の毛利氏が当たり前のように出てくるのかと思っていたら、勉強不足でした!

 まず、薩摩藩(鹿児島県)の島津氏。本姓は惟宗(これむね)氏で、始祖忠久は近衛家の家司(けいし)出身で、源頼朝の有力御家人になった人でした。島津氏は、後に薩摩・大隅・日向三国の守護になるわけです。

 そして、長州藩(山口県)の毛利氏。始祖は、何と大江広元(学者出身の鎌倉官僚)の四男季光(すえみつ=鎌倉幕府御家人)だったのです。大江氏一族は季光の四男経光のみ残りますが、毛利氏は安芸国の国人になるわけです。

 ということは、薩長という幕末の雄藩の藩主は、武家社会の始祖である鎌倉幕府からほとんど変わっていない名門の氏族だったということになりますね。ですから、これも、鎌倉幕府を知らなければ、日本史をよく理解できないという一つの例になります。

 この後、法華堂跡を訪れました。

 源頼朝、北条義時、大江広元、島津忠久のお墓があるからです。

 彼らがいなければ、鎌倉幕府は成立しなかったわけであり、逆に言えば、彼らのお墓参りすることによって、鎌倉幕府の存在を実感することができるわけです。

源頼朝墓

 源頼朝の墓は、小高い山の中腹にあります。

 年を取ると、長い階段を昇って、ここまで辿り着くのが結構大変で、息が早くなりました。

 お墓の近くで、若いアベック(死語)がイチャイチャしていたので、「何でこんな所で?」と、嫌あな気持ちになりました。

 下に降りて、白旗神社の近くにある小さな公園に日陰になったベンチがあったので、ここでペットボトルのお水を飲んで少し休憩。さ、これから何処に行こうか?とガイドブックと睨めっこしました。無計画ですからね(笑)。

 9日に「足利氏館」に行ったばかりなので、足利氏所縁のお寺に行くしかない!ということで浄妙寺を目指しました。臨済宗建長寺派。鎌倉五山の第5位です。

 熱中症になりかねないほどの炎熱下を、車の通りが異様に多い金沢街道の狭い歩道を歩きましたが、しっかりとした道しるべがないではありませんか!!

 あまりにも遠いのでおかしいなあ、と思い、途中でガイドブックの地図で確かめたら、そこは青砥橋で、10分近く余分に歩いてました。また引き返したら、浄明寺バス停近くに浄妙寺の駐車場があり、申し訳程度に表示がありました。でも、これじゃあ、後ろを振り向かなければ分かりません。「不親切だなあ」と確信した次第。

浄妙寺 本堂 拝観料100円

 この上の写真の浄妙寺本堂の空の青さと影の濃さをご覧頂ければ、少しは炎天下の暑さが分かってもらえるかもしれません。

 浄妙寺は、足利義兼(よしかね)が1188年に創建しました。足利義兼は、「八幡太郎義家」こと源義家のひ孫で足利氏二代目。9日に行ったあの栃木県足利市の足利氏館をつくった人と言われておりますから、また会いに来た感じです。義兼は頼朝の忠臣で鎌倉幕府御家人でしたから、地元の足利市よりも鎌倉にいる方が多かったことでしょう。それとも、「いざ、鎌倉」で、あの足利からかこまで駆け付けたのでしょうか?

 本堂の裏手には、室町幕府を開いた足利尊氏の父貞氏(さだうじ)のお墓があるので、お参りしてきました。このブログの「足利氏館の巻」でも書きましたが、足利貞氏は、上杉重房の孫の清子と結婚して尊氏らをもうけ、上杉氏と縁者になるのでしたね。

 最後に訪れたのが浄妙寺の向かいにある報国寺でした。浄妙寺と同じ臨済宗建長寺派でした。

 看板にある通り、足利尊氏の祖父家時が1334年に創建し、足利、上杉両氏の菩提寺として栄えたとあります。

報国寺 孟宗竹の竹庭 拝観料300円

 本日お参りしたお寺の中で、一番、広く、落ち着いて、京都の寺院と同じような雰囲気があり、大変気に入りました。

「いざ鎌倉への歴史散歩」は、無計画だったとはいえ、大変充実したものになりました。また、鎌倉には行きます。何回も行くことでしょう。次回も楽しみです。

足利学校~「日本100名城」足利氏館・鑁阿寺漫遊記

鑁阿寺(ばんなじ)本堂(国宝)

相も変わらず、コロナ感染者は増え続けていますが、本日(8月9日)は意を決して、城巡りの旅に出掛けてきました。家の中で本ばかし読んでいては駄目ですからね。

 鎌倉幕府の有力御家人で、尊氏の時代に室町幕府を開いた足利氏館(あしかがしやかた=栃木県足利市)が「日本の100名城」だということを知り、34度の暑さもものかは。是が非でも行きたくなってしまったのです。

 自宅の最寄り駅から片道2時間ちょっとで行けるのも魅力的でした。

JR両毛線足利駅は、生まれて初めて降りました。

 駅の時刻表を見たら、何と、1時間に1本しか運行していませんでした。北口と南口があり、どちらを降りたら目的地に行けるか確認したかったのですが、構内には目立つ看板は何処にもありませんでした。

 改札口の駅員さんに聞いて、北口で降りました。「小京都」と呼ばれているわりには、駅前商店街もなく、哀しい哉、寂れていました。

 最初に目指したのは、「日本最古の学校」と言われている足利学校です。

 駅から徒歩10分ほどで行けます。

 足利学校といえば、この写真が教科書などにも載っているし、一番有名でしょう。

 いいですねえ。

 私の世代の言葉で言えば「いけてます」。

 足利学校の創設については、諸説あります。

 奈良時代に、郡司や地方豪族の子弟の役人養成学校のためにつくられたとか、平安時代に小野篁(おのの・たかむら)によって創設されたとか、鎌倉時代に足利氏二代目の足利義兼がつくったとか(足利義兼は、この後に出てくる「足利氏館」を創建したという説もあり)色々ありますが、歴史的に明らかになっているのは、室町時代、関東管領上杉憲実(のりざね)が再興したことです。

 憲実は、現在国宝に指定されている書籍を寄進し、鎌倉五山派の僧快元を初代の痒主(しょうしゅ=学長)として招聘します。

孔子像

 天文18年(1549年)、フランシスコ・ザビエルによって「日本国中最大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介され、「学徒三千」とまで言われたそうです。

 ついでながら、足利学校を再興した上杉憲実は、室町時代の関東支配トップの「鎌倉公方」を補佐する「関東管領」でした。それが、将軍足利義教(よしのり)と鎌倉公方の足利持氏(もちうじ)が対立するようになり、当初は憲実は調停に努力しますが、結局、幕命により持氏を討伐します(永享の乱、1438~39年)。その後、憲実は出家し、足利学校を再興します。もともと、学問を好む人で、諸国行脚して西国で没したと言われます。

 また、ついでながら、上杉氏が何で関東支配のナンバー2になれるほどの権力者になれたかというと、室町幕府を開いた足利尊氏の生母清子が上杉重房の孫だったからでした。

 この上杉重房という人は、もともと藤原氏の分家である観修寺家でしたが、丹後の上杉荘(現在の京都府綾部市)を支配していたことから、上杉氏を称することになります。

 観修寺重房から上杉重房になった彼は、1252年に、当時の都・鎌倉に移り住みます。そして、重房の孫清子が足利貞氏に嫁ぎ、尊氏を生むわけです。

 関東管領になった上杉氏はその後、山内(やまのうち)、扇谷(おおぎがやつ)など四家に分裂し、先日、このブログの「川越城の巻」で取り上げた河越合戦(1545年)で、小田原の北条氏康によって扇谷上杉氏は滅亡し、越後に逃れた山内上杉氏も長尾景虎(後の上杉謙信)に上杉姓と関東管領を譲り、滅亡してしまうのです。

足利学校 南庭園

 滅亡させられた上杉氏にとっては皮肉なことに、火災などによって荒廃した足利学校は、この北条氏康によって、また再興されるわけです。でも、弱肉強食の戦国時代ですから、私なんか、もっと小田原の北条氏康は再評価されるべきだと思っています。

 江戸時代になると、全国から青雲の志を持った心ある多くの若者が足利学校を訪れます。主な著名人は、林羅山、谷文晁、渡辺崋山、吉田松陰、高杉晋作らです。

 足利学校から今回の主目的である「足利氏館」に向かいました。

 途中で、いわゆる茶店や有名蕎麦店(長い行列が並ぶ相田みつをゆかりの「なか川」)などが並び、ほんの少し観光地らしい雰囲気です。

 戦前の皇国史観では、足利尊氏は賊軍の象徴のような悪者扱いでしたが、戦後になってようやく、次第に、中立に歴史的にも判断されるようになりました。良いことだと思っています。

 大変失礼ながら、よくぞこのような寂れた所から全国を統一する野心家というか偉人が出現したものだと感心してしまいました。言い過ぎでした。当時は栄えて華やかだったことでしょう。地元の皆様ゴメンナサイ!

 そもそも、足利氏は、「八幡太郎義家」で知られる清和源氏、源義家の孫義康が足利に本拠地を置いたと言われますから、血統は申し分ないのです。(山川出版「日本史小辞典」)

 さあ、いよいよ、その足利氏が本拠地を置いた「足利氏館」です。

 でも、あれっ?お寺みたいですね。

 金剛山鑁阿寺ですか…。鑁阿寺? 「ばんなじ」なんてとても読めませんね。

 案内の看板には、「平安後期、八幡太郎義家の子、義国、その子足利義康(足利氏祖)の二代にわたって堀と土手を築いて邸宅としました」と書かれています。

 が、私の持っている「日本100名城 公式ガイドブック」では「創築者は、足利氏二代目義兼説が有力である」と書かれています。

 何だか分からない。。。

 建久7年(1196年)、義兼が館内に持仏堂をつくり、これが鑁阿寺という足利氏一門の氏寺となって現在に至るわけです。

 真言宗大日派なので、弘法大師空海像が館内にありました。

 はい、この通り、本堂は国宝でした。

 こちらに足を運んでお参りしないと、実物にお目にかかることはできません。

 御本尊様は大日如来のようですが、残念ながら、特別な人しか本堂の内部に入れないので、よく見えませんでした。

 真言宗なので、「南無大師遍照金剛」と唱え、コロナの逸早い終息をお祈りしました。

 本堂の西にある経堂です。重要文化財に指定。万巻のお経が収められていると思われます。

 こちらは、多宝塔です。

 2年前に、真言宗の総本山、高野山金剛峰寺の根本中堂をお参りした時、このような多宝塔を多く拝見したので、少し懐かしくなりました。

 上の看板をよくお読みください。

 「徳川氏は新田氏の後裔と称し」たとありますね。武家社会の始まりである鎌倉幕府と足利氏や新田氏らを含めた東国武士団とも呼ばれた鎌倉の御家人のことをもっと勉強しなければ、日本史は何も分からないと思いました。

 いざ、鎌倉に行かなければ、と気がせきました。夏休みになったので、後日、鎌倉巡りを計画しています。

 鑁阿寺の鐘楼。建久7年(1196年)建立とありますが、本当ですかね?一度も火災に遭っていなければ、重文でなく、国宝でなければおかしい気がします。

 まあ、何処から見ても、ここは「弘法大師御霊場」であるお寺ですね。城巡りに来たつもりなんですが…。

 東門にありました、ありました。「史蹟 足利氏宅址」ですか…。館(やかた)でなくて宅でいいんでしょうか…(笑)。

 やはり、こちらも足利氏宅跡ですね。何か、足利さんちのお家って感じなんですが…。

 ひ、ひ、控えよ、何と心得ておる。天下の征夷大将軍足利氏の館であるぞよ、と怒られそうです。

 最後にやっと、城址らしい雰囲気を見つけました。

 お堀と土塀…中世の城らしい雰囲気です。石垣は後世になってつくられたような気がしますが、あまり自分の意見を勝手に言うと専門家に怒られるのでやめておきます(笑)。

 旅の途中で、有名な釈正道和尚から「無事帰還」を案ずるメールを頂戴仕りました。有難いことです。熱暑の中、無事に帰宅でき、こうしてブログを書くこともできました。

「川越城本丸御殿」訪問記=日本100名城

世間の皆様と同じように4連休でしたが、雨が降り続いて、どうも外に出る気がしませんでした。一体いつになったら梅雨は終わるんでしょうか?こんな長いのありましたかね?(調べたら、梅雨明け最短は、2018年の6月29日。最遅は1982年の8月4日だとか)

 家に閉じこもり、本を読んだり、録画した番組ばかり見てましたが、今日は思い切って川越城に行ってみることにしました。

川越・藏の街通り

 実は、公益財団法人日本城郭協会が選定した「日本100名城」と「続 日本100名城」(学研)の公式ガイドブックを買ってしまい、パラパラめくっているうちに、やはり、「100名城」ぐらい生きているうちに行っておかないと、と思ってしまったからなのです。

川越のシンボル「時の鐘」

 日本では、山城、城址、城郭、国宝・重文の現存12天守をひっくるめて「城」とすると、全国で3万あるとも5万あるとも言われています。一生のうちで全てを回るのは、まあ、大変というか難しいことでしょう。

 私はこれまで50以上のお城を回ってますが、そろそろ、残された時間も有限になってきたので、名城に絞って行きたくなりました。

 ということで、まずは自宅近くの関東近辺のお城は取り急ぎ、日帰りで行ってみようかと思ったのでした。

 川越は、通訳ガイドの研修で行って以来、多分、6、7年ぶりです。昔の記憶を頼りに行ってみましたが、すっかり忘れてしまっておりました。これではガイドになりませんね(笑)。

 でも、観光地らしく、案内地図があちこちにあったおかげで、迷子、いや迷い人にならずに行けました。

最初に目指したのは、川越城本丸から北西に位置する東明寺です。

ここは、歴史に名高い「河越合戦(夜戦)」が1546年春に行われた激戦地です。

 ここは、小田原の北条氏康率いる軍勢8000が、関東の反北条連合軍8万を夜戦で打ち破った古戦場です。この「東明寺口の合戦」では、扇谷(おおぎがやつ)上杉朝定が討ち死にし(病死の説も)、扇谷上杉氏が滅びて、関東の国衆の多くが北条方の傘下になった歴史的戦争でした。

 詳しくは、上記に書かれております。北条氏康は、川越城に立て籠もる義弟北条綱成以下3000の兵を加勢に出陣したわけです。

 関東連合軍(関東管領の山内=やまのうち=上杉憲政、古河公方=こがくぼう=足利晴氏など)の8万の数は疑わしいという説がありますが、とにかく、関東一円が、北条氏の支配下に決定的となった歴史的な戦なのです。

 河越(川越)夜戦の激戦地、東明寺は、一遍上人の時宗だったんですね。知りませんでした。先日、時宗総本山清浄光寺(遊行寺、神奈川県藤沢市)にお参りに行ったばかりですから、不思議な御縁を感じました。

 この日はたまたま、どなた様かの法事があり、境内の本堂からお経が聞こえてきました。ここの御本尊様は、虚空蔵菩薩でした。

 河越合戦から約半世紀後の1590年、小田原北条氏は、豊臣秀吉に滅ぼされ、関東一円(主に武蔵国)は、三河出身の徳川家康に委任されたことは御案内の通りです。

 東明寺まで、JR川越駅から歩いて30分という話でしたが、50分ぐらい掛かり、結構それだけで疲れてしまいました。

 しかし、これからが本番です。川越城本丸御殿を目指します。(結局、東明寺から20分は掛かりました)

 途中で、川越城中ノ門と堀があったので見学しました。

 川越市内は、今ではすっかり商店街と住宅街になってしまいましたが、ここのお堀だけは歴史的遺産として残すことが決まったといいます。

 見ていると、往時が偲ばれ、きらびやかな商店が並ぶ観光地・川越が、実は、城下町だったことがこのお堀で分かります。

 中ノ門堀の仕組みは、上記の通りです。

 川越市役所の前に銅像があり、「あの人かな?」と思ったら、やはり、太田道灌でした。

 太田道灌は1456年、主君扇谷上杉持朝の命で、父道真(資清)とともに、河越城を築いた人です。(続いて、太田道灌は、岩槻城も築城したと言われていましたが、最近は、そうではなかったという異説が有力になっているようです。岩槻にあった太田道灌の銅像、あれは何だということになりますが…)

 翌57年には、古河公方に与する房総の千葉氏を抑えるために、武蔵国豊嶋郡に江戸城も築きます。

 後に関東の覇者となった家康が、この江戸城を拠点としたので、太田道灌を特別に英雄視したと言われています。でも、当たっていることでしょう。

 扇谷上杉氏の家宰だった太田道灌はあまりにも優秀だっため、主君上杉定正は自分の地位が脅かされるのではないかと不安と疑念を抱き、ついに道灌を謀殺してしまうからです。

 先日、お城に関連したテレビ番組を見ていたら、ある若い美人の女性タレントさんが、「江戸城ってどこにあるんですか?」と聞き、お城好きで知られる落語家から「皇居ですよ」と教えられると、「えー、知らなかった」と叫び、その落語家も見ていた私ものけぞって驚きました。

 皇居が江戸城だったことを知らなければ、明治維新も知らないだろうし、戦前まで言われていた宮城も知らないだろうし、徳川将軍も知らなければ、まさか、太田道灌のことも知らないだろうなあ、と思わず確信してしまいました。

 さて、話が脱線しているうちに、川越城本丸御殿に到着しました。

 川越は、昔から何度も行ったことがありますが、お城に行くのは何と今回が初めてです。この本丸御殿の近くに野球場があり、広い駐車場もあり、その辺りに昔、駐車したこともありましたが、当時は城にはさほど興味がなかったので、ここに本丸御殿があることなぞ、知るよしもなし。

 入るのに検温と消毒と、それに名前と電話番号まで書かされました。(本丸御殿、市立博物館、市立美術館の3館共通券で370円)体温36度4分。

 上の写真は、本丸御殿に移築された家老詰所です。

 明治初期に解体され、現ふじみ野市の商家に再築されていたのが、昭和62年に川越市に寄贈され、ここに移築されたとか。

 中では、御家老連中が真剣な表情で、評定しておりました。幕末は、三浦半島やお台場などの警備を川越藩は一手に任されるのですから、大変な重役です。

 中庭もなかなか風情があってよかったです。江戸時代にタイムスリップ。

 本丸御殿から少し南に位置する高台にあった川越城富士見櫓跡です。

 川越城は、天守がなかったらしく、この富士見櫓が藩内で一番高い建物だったそうです。昔は、ここから富士山がよく見えたそうです。

鳥良商店のユーリンチー定食858円

 川越城本丸御殿のあと、道路をはさんで隣りの川越市立博物館と同美術館を覗いてきました。それぞれ、かつては二の丸、三の丸があった所です。再び、三度、検温、消毒、名前と電話番号を明記。

 川越藩は、隙を伺う伊達藩などの東北に睨みを利かせる要所となる親藩ですから、代々の藩主は老中になるなど幕閣の逸材を輩出しました。

 特に有名な人は、三代将軍家光の小姓も務めたこともある、「知恵伊豆」と呼ばれた松平伊豆守信綱(1596~1662)です。野火止用水や川越街道を整備したり、川越祭りを始めたのもこの人だといいます。

 彼は、何と言っても、中年の頃、島原の乱のために出兵し、最後は総大将として乱を平定しています。戦後、この功績で忍藩から3万加増されて6万石の川越藩に移封されたわけです。

 松平信綱の墓は、小生も子どもの頃からよく行ったことがある臨済宗妙心寺派の平林寺(埼玉県新座市)にあります。昔は、私の母校・東久留米第四小学校(廃校)からこの寺まで歩く「歩行会」があったり、友だちの誕生会があったりして、広い境内の野原でシートを敷いて飲食したり、鬼ごっこをしたりしていましたが、HPを見たら、今は、飲食は、禁止されているようです。

 世の中、世知辛くなりましたねえ。

鎌倉大仏さま~鎌倉長谷観音 誓願記

 7月2日、鎌倉・ジタン館での「加藤力之輔展」を辞してから、梅雨の晴れ間に恵まれていたので、久しぶりに鎌倉大仏さまを拝顔することに致しました。

 10年ぶりぐらいですが、もう何度目でしょうか…。10回ぐらいはお参りしていると思います。(拝観料300円)

小学校5年生 秋の遠足 小生は前から3列目にいます。前列に吟さんもいますね。

 初めて行ったのが、もう半世紀以上昔の小学校5年生の10月の遠足の時でした。子どもですから、ここが高徳院(大異山高徳院清浄泉寺)という名前の寺院だということを知らず。長じてからも、この高徳院が法然上人(1133 ~ 1212 年)を開祖とする浄土宗の寺院だということも知らずに過ごしてきました。

国宝です

 そして、肝心の鎌倉大仏とは、阿弥陀如来坐像だったということも、恥ずかしながら、つい先年になって知りました。大仏は、大仏という大きな枠組みでしか意識していなかったのです。ですから、当然のことながら、毘盧遮那如来も釈迦如来も阿弥陀如来も阿閦如来も薬師如来も、区別がついておらず、意識もしていませんでした。

 それでは駄目ですから、仏像の見方やお経の基本などを俄か勉強し、しっかりと実体を意識して、鎌倉大仏さまを改めてお参りしたかったのです。

 鎌倉大仏は、阿弥陀如来に特徴的な両手の印相が、瞑想を示す禅定印(ぜんじょういん)になっています。

 しかも、九品往生印の中でも「上品上生」にみえます。

 写真をご覧になればお分かりのように、平日のコロナ禍ということもあって、観光客の数がめっきり減り、本当に少なかったでした。(それでも、日本人より外国人の方が多い気がしました)

 説明文にあるように、この鎌倉大仏は、源頼朝の侍女だったといわれる稲多野局が発起し、僧浄光が勧進して造った、とあります。しかも、「零細な民間の金銭を集積して成ったもので、国家や王侯が資金を出して作ったものではない」とわざわざ断り書きまで添えています。

 そうでしたか。貧困の中、なけなしのお金を寄付する人も多かったことでしょう。当時の庶民の人々の信仰の深さが思い寄せられます。

 自分では絵葉書にしたいぐらい良い写真が撮れた、と勝手に思ってます(笑)。

 以前は大仏さまの胎内に入ることができましたが、またまたコロナ禍で閉鎖されていました。

 鎌倉時代の創建当初は、奈良の大仏さまと同じように寺院の建物内に安置されていたそうですが、台風で何度か吹き飛ばされ、以後、建物は再建されていません。

 吹きさらしで、しかも、海の潮風で大仏さまが傷まないか心配です。あと、1000年、2000年と持つでしょうか?

長谷寺

 鎌倉大仏には、江ノ電の長谷駅で降りて行ったのですが、何度も行っていたはずなのに、道が分からず少し困ってしまいました。多くの人が歩いているので、付いて行った感じです(笑)。方向音痴で地図の読めない男ですから、困ったものです。

 長谷駅から高徳院へ行く途中、長谷観音で有名な長谷寺があったので、帰りに立ち寄りました。生まれて初めての参拝です。400円。

この寺も浄土宗でした。御本尊さまは十一面観音菩薩です。像高9.18メートルで、国内最大級の木造観音だということです。

 観音堂の隣りが「観音ミュージアム」になっていて、そのまま入ろうとしたら、「そちらは入館券が必要です」と係の人に怒られてしまいました。失礼致しました。300円。

 私以外、誰一人も入館する人はいませんでしたが、ここの「観音三十三応現身立像」は圧巻でした。法華経の第二十五章「観世音菩薩普門品(ふもんぼん)」(「観音経」)によると、観音菩薩はさまざまな人々を救うために、三十三身に化身するといいます。聖者の仏身、天界の梵王身、八部身の迦楼羅身などです。ヒンドゥー教と習合したバラエティーに富んだ化身が見られます。(こうして、事前に勉強しておけば、参拝し甲斐があるというものです)

 観音三十三応現身立像は、室町時代につくられたようですが、長谷寺によると、三十三身が全てそろった立像は全国でも珍しい、ということですから、機会が御座いましたら、皆さんもお参りされたらいいと思います。

時宗総本山遊行寺(藤澤山清浄光寺)お参り記

 柳宗悦著「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)に巡り合って以来、日本の仏教、中でも浄土思想にかなり興味を持つようになりました。(日蓮は「真言亡国」「禅天魔」「念仏無間」「律国賊」と痛烈に批判しましたが…)

 若い頃に表面的に触れていた仏教は、かなり理解が浅く、それどころか、誤解している面が多々ありました。曰く、「浄土教は単に極楽浄土への往生を願い、来世だけが大事で、現世はどうでもいい…」、曰く、「浄土思想も踊り念仏も、いたって前近代的で、現在ではもはや通用しない…」云々。

 そんな誤解を吹き飛ばしてくれたのが、柳宗悦著「南無阿弥陀仏」でした。特に、法然(浄土宗)~親鸞(浄土真宗)~一遍(時宗)に至る一連の浄土教の変遷、発展、止揚、変容には目を見張るものがありました。

 著者の柳宗悦は、中でも、当時(終戦後間もない頃)軽視され過ぎていた一遍上人(1239~89年)に焦点を当て、再評価し、名誉を復活させたい意気込みを感じました。一遍は「捨聖(すてひじり)」の異名を持ち、臨終間際には、所持していた全ての経典を寺僧に譲るか、焼き捨ててしまいました。上人は「多くの学僧が色々と立ておかれた教えがございますが、全て色んな疑念に対する仮初めの教えである。念仏行者はこのような教えも捨ててしまって念仏すべきである」とまで言ってます。(ですから、本人は教団を設立する意思はなく、時衆→時宗教団をつくったのは二祖真教上人=1237~1319年=でした)

 私の古い友人に、財産を捨て、家族を捨て、友人を捨て、名誉を捨て、全てを捨てて「捨聖」のような生活を送っている人がいるので、個人的に尚更、一遍上人に惹かれます。

 本を読んで、いつか、一遍上人が開いた(ことになっている)時宗の総本山遊行寺に行ってみたいと思っていました。遊行寺のある神奈川県の藤沢市は、自宅から遠方なので、いつになることやら、と思っていましたが、先日、意外と早く、その夢を実現することができました。

遊行寺本堂

総本山だけになかなか立派な寺院でした。

本堂内にはかろうじで靴を脱いで中に入れました。無人でしたが、監視カメラが見張っていたと思います。御本尊は、金色に輝く立派な阿弥陀如来さまでした。写真を撮りたかったのですが、もちろん、控えました。

一遍上人像

 本堂前に一遍上人像があります。時宗の宗祖ではありますが、この寺を創建したわけではないことは先に書いた通りです。

 一遍上人は、全国各地を遊行し、出会った人々に「南無阿弥陀佛」と書いた念仏札を配り歩いて定住していなかったからです。(その活動は、算(ふだ)を賦(くば)り、結縁することから賦算(ふさん)と呼ばれました)

 ということで、この総本山遊行寺は、正式名称は藤澤山(とうたくざん)清浄光寺(しょうじょうこうじ)といいます。創建したのは、1325年、四祖の呑海上人でした。

 上の写真の説明文にある通り、この呑海上人の実兄が地頭の俣野景平で、この広大な敷地を寄進したとあります。景平は死後、俣野大権現として境内で祀られています。

 藤沢は、東海道五十三次の宿場町としても栄え、歌川広重の浮世絵などに描かれています。ですから、藤沢は近世の宿場町から名前を取ったものとばかり思っていましたら、既に中世鎌倉時代から遊行寺の門前町として大いに栄え、藤沢山から取って、藤沢の地名になったというのです。

 勉強になりました。

 本堂の裏手の長生院に「小栗判官の墓」があるというので足を運んでみました。

 小栗判官は、歌舞伎の演目「當世流小栗判官」にもなった実在の人物で、私も20年近く昔に、先代市川猿之助主演で舞台を見たことがあるので、馴染み深かったからです。

 小栗判官と照手姫伝説の「史実」に関しては、上の写真の看板に書かれていますので、お読みください。

上の写真の「中雀門」はなかなか風格がありました。

 説明では、幕末に紀伊大納言の徳川治宝による寄進とありますが、徳川家の葵の御紋ではなく、菊の御紋の方が目立ちますね。

 ◇「国宝 一遍上人聖絵」買えず、非常に残念

 今回、時宗総本山遊行寺をお参りしたもう一つの目的は、境内で販売している「国宝 一遍上人聖絵」の図録(2000円)を購入することでした。しかしながら、残念。この中雀門の奥にある寺務所にも行きましたが、「新型コロナの感染防止」を理由に閉まっておりました。「お守り札も御朱印もお手渡ししません」と掲示されていたので、大声を出して呼んでも無理なのでしょう。残念でした。

 この寺務所だけでなく、境内にある「遊行寺宝物館」も新型コロナのため、まだ依然として休館でした。「新型コロナを世界で一番怖がっているのはお坊さんですよ」と言う人がおりましたが、その通りですね。広い境内では、たったのお一人も僧侶に遭遇することはありませんでした。

【追記】

一遍上人語録に以下のものがあります。

 念仏の行者は智恵をも愚痴をも捨て、善悪の境界をもすて、貴賤高下の道理をもすて、地獄をおそるる心をもすて、極楽を願ふ心をもすて、又諸宗の悟りをもすて、一切の事をすてて申す念仏こそ、弥陀超世の本願に尤もかなひ候へ。(消息法語5)

 地獄を怖れる心を捨て、極楽浄土を願う心も捨て、仏教の悟りも捨て、とにかく智慧も愚痴も一切の事を捨てろ、とまで言ってます。超過激な究極の思想ではないでしょうか。

茨城県笠間市の稲田禅房西念寺=親鸞聖人をたずねて

 コロナ感染者が一向に減らないのに、19日から県境封鎖の関所も全面解除され、全国で行動の自由を得ることができましたので、好きな城郭と寺社仏閣巡りを再開することにしました。

 色々と行きたい所があるのですが、差し迫って優先したかったのが、親鸞聖人(1173~1262年)が「教行信証」を執筆し、関東布教の拠点とした茨城県笠間市の稲田禅房西念寺でした。このかつて「稲田草庵」と呼ばれた地に、親鸞聖人と家族は20年(1214~35年、数え年42歳から63歳にかけて)も住んでいたそうです。浄土真宗別格本山です。はい、実は今、「教行信証」を読んでいるのです。

西念寺 この写真が一番有名でしょう

 私は無鉄砲ですから、あまり事前に計画を立てるのが苦手です。笠間市と言えば、笠間焼で有名ですから、ついでに色々と見て回ろうかと、スマホで時刻表などを調べたら、何と自宅から電車と歩きで往復5時間も掛かることが分かり、笠間焼巡りは諦めて、「西念寺」一本に絞ることにしました。

西念寺

 電車はかなり空いていました。乗り換え駅では、「全面解除されましたが、慎重に行動してください」とのアナウンスもあり、まだ多くの人は警戒しているようでした。

 栃木県の小山駅から水戸線に乗り換えて、最寄り駅の「稲田」に到着。駅長さん1人しかしない小さな駅で、下車したのは私一人でした。駅前に商店街のない簡素な町で、心寂しくなりました。観光案内では駅から歩いて15分でしたが、狭い住宅地に紛れ込んでしまい、境内に着くのに25分ほど掛かってしまいました。

 参拝者は数人おりましたが、間もなく帰り、しばらくは、私一人が境内を散策しました。親鸞聖人の聖地ですから、もっと門徒衆が押しかけているのかと思っていたので、拍子抜けしてしまいました。

 上の写真は、修験者弁円が、親鸞聖人の命を狙おうと襲いますが、逆に、回心して親鸞の弟子明法房になったと言い伝えられる場所です。

西念寺の本堂

 上の写真は本堂ですが、中に入れました。薄暗い中、誰もおりませんでしたが、記帳してきました。例えは、間違っていると思いますが、どこかカトリック教会の祭壇のようなきらびやかな金色に輝く仏壇で、まぶしいほどでした。御本尊様は阿弥陀仏だと思われますが、中に隠れている感じで分かりませんでした。

 本堂内の写真撮影は控えました。

 案内掲示板はなかったのですが、恐らくは親鸞聖人のお姿かと思われます。ここに滞在していたのは40歳代から60歳代初めですから、年齢的に合った像に見えます。

 本堂を向かって右側が山道になっていて、親鸞聖人にとっては若い頃に20年間も修行した比叡山を彷彿とさせたようです。

 この看板がその説明文。

 越後に流罪となった親鸞聖人の関東布教の拠点として、健保2年(1214年)、この稲田草庵の地を提供したのが、常陸国稲田の領主だった宇都宮(稲田九郎)頼重で、彼も親鸞に師事して、頼重房教養という法名を称したという墓標記です。この教養は、親鸞の消息「末燈鈔」第九通の「教名」(けうやう)という説もあります。

 上の看板の説明にあるように、天正・慶長年間に庇護者の宇都宮氏が断絶し、西念寺は荒廃してしまいます。

 その荒廃ぶりを嘆き、聖地を復興したのが、笠間城主松平康重の家老石川信昌だったことが書かれています。知りませんでした。

太子堂
親鸞聖人御頂骨堂

 親鸞聖人は京都で入滅されますが、ここの稲田禅房二世救念の願いにより、聖人の御頂骨を分与され、この地に分骨したお堂を建てたことが書かれています。

 もちろん、お堂の敷地内には入れません。

 西念寺を辞すると、ほど近くに林照寺があります。これは、浄土真宗の単立寺院で鎌倉時代に誠信房によって開基されたといいます。

 親鸞による関東布教で、多くの弟子が育ち、下野、常陸、下総にはかなり多くの真宗系の寺があります。いつか、寺巡りをしたいと思ってます。

 JR水戸線稲田駅近くに戻り、ランチをしたお蕎麦屋さん「のざわ」です。実は、食事ができるお店は、近辺にこの1軒しか見当たらず、当然のことながら、昼時は満員。20分ぐらい外で待ちました。

 天ざると地酒「稲里」1合で1936円也。昼間からお酒とは!煩悩具足の凡夫、悪人です。

稲田神社

 電車は1時間に1本しか通っておらず、55分も待ち時間ができたので、また国道50号沿いに、西念寺の方角に戻り、途中で見かけた稲田神社をお参りすることにしました。

 創建は1200余年といい、式内大社ですから由緒ある神社でした。

 御祭神は、スサノオの妻である奇稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)。稲田という地名は稲田姫から取られたのでしょうか?

 かなり急勾配の階段でした。

 またして、誰もいない本殿で、コロナの早期収束をお祈り致しました。

 神社の横は結構広い、あまり整備されてはいない運動広場のようなものがあり、その前に、この「忠魂碑」がありました。弾丸の形から、日清・日露戦争の戦没者の慰霊のように見えますが、詳細は分かりません。

 以上、久しぶりの小旅行でした。ほんの少しだけ親鸞聖人を身近に感じることができました。「教行信証」を読むに当たり、西念寺を思い出すことにします。

新型コロナウイルスの影響で例年になく少ない=京都・醍醐寺で「五大力尊仁王会」

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こんにちは、京洛先生です。

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 新型肺炎が広がり、この調子では2020年は「東京五輪」ではなく、「新型コロナウイルス」の年として後世に伝えられますね。「まだ、東京五輪は先の話だ」と思っている人が多いでしょうが、開催の最終決定権は国際オリンピック委員会(IOC)ですから、土壇場で何が起こるか分かりませんね。

 またその時は日本のマスコミは右往左往、後付け「講釈」をして、あれこれ誤魔化すのは目に見えます(笑)。

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トランプ大統領ではないですが、誰でも先の見通しは、はっきり分らないのですから、「マスコミは嘘ばかりだ!」と言うのは確かにそうです。米国民が、それを感じて同大統領を誕生させたのです(笑)。

 また、そう思っている人が米国だけでなく世界中で多く存在していて、それを追跡、検証する既存マスコミが皆無なのが現実です。

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 それはさておき、昨日23日(日)は世界遺産「醍醐寺」(京都市伏見区)で、庶民から「五大力さん」と親しまれている「五大力尊仁王会」が開催されたので、行って来ました。そのスナップをお送りします。

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 最近、熱心に仏教の歴史を勉強されている渓流斎さんなら詳しいと思いますが、平安初期、真言宗の僧侶、聖宝(しょうぼう)が開祖した醍醐寺ですが、この「五大力尊仁王会」は不動明王など五大明王(ほかに降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王)の力によって、無病息災、国家、家庭の平和、幸せを祈願する、醍醐寺の最大の行事です。

Copyright par Kyoraque-sensei  迫力ある写真ですね!

 毎年、10万人を超える参拝者が訪れますが、新型肺炎の影響と、中国人など外国人の観光客激減もあって、去年に比べて参拝者は少なかったですね。

そのせいで、混雑せず参拝はスムース、境内もゆっくり歩けて快適でした。

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本堂前の特設舞台での大きな紅白の二段重ねの鏡餅を持ち上げる「持ち上げ力奉納」もやっていましたが、新型肺炎の影響もあり、参加者が例年より少なく鏡餅の持ち上げの最長時間は男性(重さ150キロ)は5分58秒、女性(重さ90キロ)6分40秒でした。

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それにしても、京都でも、どこもかしこも「新型肺炎」の影響が出ていました。

以上 おしまい。

民俗学から藝能へのつながり転移=大阪・難波の国立文楽劇場で「みやざき神楽」を開催

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今晩は、浪速先生です。

今日は全国的に雨模様で気温はかなり上がって、もう春の陽気でしたね。

新型肺炎騒ぎは日本列島全体に益々広がり、畿内は和歌山で済生会有田病院の50代の男性医師が感染、同病院及びその周辺は大騒ぎです

日ごろ、どんなことがあっても能天気な日本人も、伝染病となるとマスクや消毒液を買い溜めしたりして、昔のオイルショック時のトイレットペーパー買い占め騒ぎの反省、教訓は全く生かされていません。

そんな日本の国内事情をいち早く察知した米国政府は「こんな危ない日本に米国人を任せられない!」と、米国民救出のため急遽チャ-ター機を日本に派遣しますが、つまり、これは「シンゾウ、アベは信頼できない!」の証拠です。

ところが”安倍親衛隊”の日本のマスコミは、その内実は報じません。こちら大阪も一時に比べ中国人観光客がガタ減りです。道頓堀周辺も一時は中国人で占拠されていましたが、今は人通りが少なく歩きやすくなり、商売人は大変でしょうが、遊びに来る日本人は気持ちが良いと思いますね。

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そんな中、ワタシは2月15日(土)の昼下がり。「無料」ということもあって神話の故郷、宮崎の「みやざき神楽」を大阪・難波の国立文楽劇場の舞台で開催されるというので見てきました。

去年10月、東京の国立能楽堂でも開催されたそうですが、ご存知でしたか?恐らく、知らないままで過ごされたと思いますが、国立能楽堂HPを日頃からチェックしていないとダメですね(笑)。

国の「重要無形民俗文化財」に指定されている日本三大秘境の一つ宮崎県椎葉村で毎年11月~12月に夜通し行われる「椎葉神楽」です。

宮崎から国立文楽劇場に河野俊嗣県知事も駆けつけ、天孫降臨神話の高千穂周辺の神楽のPRの挨拶をしましたが、確かに宮崎県の県央、県南は神楽が盛んだそうです。

この日、同劇場の舞台では「不土野神楽」で椎葉村に太鼓と鈴に合わせて、刀を振って火の神への祈祷、唱教をあげたり、鬼神面(きじんめん)や山の神面をかぶって力強く舞う「神楽」が舞台につくられた神域の中で行われました。

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河野知事は、昨年10月に国立能楽堂での同じ「神楽」公演では、鈴木健二氏(元NHKアナウンサー)から「神楽は舞台でするものではありません。やはり現地で闇夜の中で繰り広げられるのを、直かに接しないと神楽の持つ神秘性や神とのつながりは分かりません」と厳しい指摘があったそうです。しかし、現地に行く機会が容易でない都会人には、罰当たりかもしれませんが、希少な機会です。

貴人も「神楽」の謂れ、歴史、その系統を調べると民俗学から藝能へのつながり転移の視点から、屹度、ご興味を持たれると思います。この日は無料であることもあってか劇場は満員で特に青い目の外国人が目立ちました。

以上

京都・相国寺の承天閣美術館で「茶の湯・禅と数寄」展が開催中=宗旦狐の逸話も面白い

京都・相国寺 Copyright par Kyoraque-sensei  

おはようございます。京洛先生です。

 ワタシが勧めた「藝術新潮」2月号を購入され一読されて、「軽薄だ!」と厳しいご指摘ですが(笑)、世の中、すべてが軽佻浮薄です。貴人のように物事をナンデモ真正面から真面目に受け止める人は、生きにくいご時世です。もっと、生半可にいい加減にならないとノイローゼ、不眠症に陥りますよ(笑)。

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 ところで、中国・武漢の「急性肺炎」で、中国をあてにしている業界、企業は大慌てですね。株価も下降線に入りました。恐らくすぐ解決できることではなく、今夏の東京オリンピックも影響を受けると思いますね。特にその対応が「人の集まる場所に行かない方がいい!」ということでは、「景気」の落ち込みは半端じゃないですよ。「東京五輪後に不況がやって来る」と予測するエコノミスト、評論家はいましたが、これでは「東京五輪前に不況がやって来る」と言うことになりますね。

京都・相国寺 Copyright par Kyoraque-sensei  

 消費増税で消費が減速し、デパート、コンビニなどの業界では既に売り上げが大きく落ち込み始めているのですから、尋常じゃありません。

 1月28日(火)には、武漢に行ったこともない奈良在住の運転手が、武漢から来たツアー観光客を乗せて運転し、新型肺炎に感染したという事が分かり大騒ぎになっています。

京都・相国寺 Copyright par Kyoraque-sensei  

 京都、大阪、東京と中国人観光客が多いところは、日本国内での感染にこれまで以上に神経をとがらせことになります。

 洛中も新年になり、中国人観光客がめっきり減りました。その分、静かになり、煩くない分、地元住民は、ほっと一息つきますが、これから、新型肺炎の感染騒ぎを考えると憂鬱になりますね。

京都・相国寺 Copyright par Kyoraque-sensei  

 そんな世間の動きとは別に、以前、南青山の東京別院に渓流斎さんが参禅に行かれた京都五山の一つ「相国寺」に1月29日(水)の昼下がりぶらっと出かけてきました。
 同寺の境内にある承天閣美術館で「茶の湯・禅と数寄」展が開催中(3月29日まで)で、それを覗いてきたわけです。

 この展覧会は、昨年10月~12月は「Ⅰ期」、新年1月11日から「Ⅱ期」と、二回に分けての長期の開催です。Ⅱ期は、無学祖元の国宝「墨跡」(鎌倉時代、相国寺蔵)、明の永楽帝が足利義満におくった国宝「明永楽帝勅書」(室町時代、相国寺蔵)など、展示数は少ないですが、“禅と茶”、“権力者と茶”、“数寄者と茶”の関係がよく分かる品々が並び、充実した展覧会でした。

京都・相国寺 Copyright par Kyoraque-sensei  

しかも、平日なので来館者も、少なくゆったり見られるのは好いですね。

 展示品の写真撮影は不可ですが、相国寺の境内は御覧の通り、静寂で南天が咲いていたり、梅の枝には早くも梅の蕾が膨らみはじめ季節感を味わいました。

相国寺 宗旦稲荷 Copyright par Kyoraque-sensei  

 同寺の専門道場そばの“宗旦狐”を祀る「宗旦稲荷社」にも参って来ました。ここで伝承されている「宗旦狐」の謂れについてはリンクを貼っておきます。

 逸話は面白いでしょう。

 以上

鳥取砂丘~姫路城~倉敷・大原美術館=山陰・山陽の旅最終日

姫路城

 12月3日(火)は「山陰・山陽の旅」の3日目、最終日でした。待ちに待った姫路城です。

 その前に、この日の朝は、前日暗くて行けなかった鳥取砂丘へ。

鳥取砂丘

 前日夕食を取った丘の上の土産物屋さん付近から二人乗りのリフトで下って砂丘へ。往復300円のリフト代はツアー代に含まれていました(笑)。5~6分で砂漠へ。

朝の9時前で、シーズンオフだったせいか、我々ツアー参加者以外誰もおらず、日本海から吹きすさぶ風が冷たくて、寒くて早く帰りたくなりました(笑)。

ラクダさんもおらず、「ラクダの写真を撮ったら料金頂きます」との看板だけが空しく、突風に耐えていました。

1993年 世界文化遺産の日本第一号として記載された姫路城

 鳥取市から無料高速道路の鳥取自動車道と有料の中国自動車道などを通って、約2時間ぐらい掛けて南下して一路、姫路城へ。

 バスの中で、御一緒した「一人旅の達人」で74歳ぐらいにみえるK氏と話が弾み、彼は「鳥取自動車を有料にしたら、通る人がいなくなっちゃうからだよ」とか、「このツアーは安いよ。東京~岡山の新幹線グリーン車券だけで、元が取れちゃうから。ホテル代もバス代もタダみたいなもんだよ」と仰るではありませんか。

姫路城 籠城に備えて城内には11カ所の井戸があった

 なるほど、鳥取県の人口はわずか57万人。10月末に、栗原先生のお導きで宇都宮城に行きましたが、宇都宮市の人口だけで51万人ですからね。鳥取市の駅前商店街もシャッターで閉まっている店が多く、何と言っても、街灯が少なくて薄暗い。物価も他府県と比べて安いのでしょう。だから、「おまけ」の宿泊ホテルは鳥取県になったと思われます。K氏は「瀬戸内海側の岡山や姫路に泊まったら採算が合わないわけですよ」と言うのです。

 もう一つ。東京~岡山の新幹線グリーン車往復料金は、4万7460円。それなのに、ツアー旅行代金は、シーズンオフのため4万9900円。差し引き2440円で、ホテル代、バス代、入場料代、ガイド代等を賄っていたわけか…んな、そんなことできるわけない!

 2泊3日で、夕食は1回だけしか付いていなかったり、一日何カ所も土産物店を回ったりしていることから、提携、連携、共済、共存等色んなバックマージンで、業務を維持しているのでしょうね。

姫路城 地上6階、地下1階の7階構造 大天守の高さは31.5メートル 

 あ、旅行記のはずが、とんだ話になってしまいましたね。とにかく、姫路城です。ツアーに参加していなければ、入場料は1000円でした。

 姫路城の歴史は元弘3年(1333年)、護良親王の命により挙兵した赤松則村が京に上る途中、姫山に砦を築いたのが始まりだと入り口で入手したパンフレットに書かれていました。

 歴代の姫路城主の中で重要人物を挙げると、まずは羽柴秀吉(1583年から3年間)。長州毛利攻めの際、黒田官兵衛の勧めで入城しました。今の姫路城を整えたのは、関ヶ原の戦い後の慶長5年(1600年)に城主になった池田輝政。徳川家康の次女督姫と結婚し、播磨52万石を与えられました。薩摩、長州など西国列強に睨みを利かせる役割を担わされたわけです。

 元和3年(1617年)には、徳川四天王の本多忠勝の嫡男忠政が、伊勢国桑名から移封され、一緒に同行した忠政の嫡男忠刻に、二代将軍秀忠の長女千姫が再嫁します。千姫は7歳で豊臣秀頼と政略結婚させられますが、大坂夏の陣で大坂城から脱出しました。西の丸には今でも「千姫の部屋」があります。

 本多家のほかに、徳川の親戚と思われる松平家や、やはり徳川四天王の榊原康正や酒井忠次の末裔と思われる榊原家や酒井家などが城主となっていることから、相当な重要拠点だったことが分かります。

 姫路城がなぜ、国宝になったかと言えば、何と言っても、明治政府の愚かな廃城令から幸運にも免れ、太平洋戦争での米軍による2度の姫路空襲で奇跡的に生き残ったことが大きいですね。

 明治、昭和の大修理を経て、平成21年(2009年)には6年かけて「平成の修理」が行われ、「白鷺城」の異名通り、輝くばかりの白さが復活しました。

好古園 入園料300円(姫路城との共通券なら1050円だとか)

 そして、現在は、この城はどなたが所有しているのかと思ったら、な、何と文部科学省なんだそうです。「なあんだ、日本国民の共有の財産か」と安心していては駄目ですね。何しろ、今の官僚は、人事権を握られた安倍最長期政権に忖度して生きています。姫路城も、偽造されたり、改ざんされたり、廃棄されたり、シュレッダーで「なかったこと」にしたりしかねませんよお。

 いや、ブログが炎上してはいけないので、この辺で。2時間の自由時間が少し余ったので、姫路城西御屋敷跡に日本庭園として平成4年に開園した「好古園」を散策しました。結構広くて、途中で迷子になって、駆け足でバスにまで戻りましたが、紅葉がとても綺麗でした。

倉敷

 念願だった姫路城を後にして、バスは倉敷へ。当初は、色々と散策しようかと思いましたが、昨日書きましたが、急きょ、1時間15分の自由時間を大原美術館一本に絞ることにしました。

大原美術館 本館/ 分館と工芸・東洋館を合わせて1300円

大原美術館といえば、代表作は、エル・グレコの「受胎告知」でしょうけど、あたしは、グレコはスペインのトレドやマドリードでかなり観てきましたからね。お目当ては日本美術でした。

 「工芸・東洋館」では、河井寛次郎、浜田庄司、バーナード・リーチなどの陶芸作品が充実していました。

 創立者の大原孫三郎が支援し、美術館の収集品の元になった買い付けもした画家の児島虎次郎の作品も初めて見ましたが、なかなか良かったですね。岡山出身の虎次郎は東京美術学校は2年飛び級で卒業し、欧州に留学してベルギーのゲント美術アカデミーを首席で卒業します。帰国後、「朝顔」など印象派の影響がみられる大作など旺盛な創作活動を続けましたが、病に倒れ、47歳の若さで亡くなっています。

 この後、倉敷から岡山に戻り、新幹線のグリーン車で帰京した次第。3日間、小生の旅行記にお付き合いくださり、誠に有難う御座いました。私もこれで、やっと、一息つくことができました。

 業界団体の幹部職員から「渓流斎さん、ブログは何時間もかけて執筆されているとのことですが、やめたらきっと楽になりますよ」と甘い誘惑の声を囁かれましたが、頑張ってその誘惑を断ち切って完走することができました。これも皆様のお蔭です。感謝!