【補遺】「人間には3種類しかいない」「長谷川家住宅」「使うな、危険!」、そして渋沢栄一

 ■映画「バイス」を観て、後から思ったのですが、主人公のチェイニー米副大統領には、彼を支えてくれる家族が頻繁に登場しますが、本当に心を割って話せるような親友がいない感じでした。

 そこで思い出したのが、かつて外務大臣を務めた田中真紀子さんが言った言葉です。

 「人間には3種類しかいない。家族か、敵か、使用人だ」

 いやあ、これは名言ですね。勿論、皮肉ですが。

 使用人というのは、普通の人は決して使う言葉ではありませんが、恐らく彼女は父親角栄さんの会社経営を一部引き継いだことがあり、それで、会社法の役員ではない社員を指す「使用人」という言葉がすぐ出てきたのではないか、と同情してしまいました。

 映画を観終わって、チェイニーさんも、彼の頭の中には「家族」と「敵」と「使用人」しか存在しないのではないかと思ったわけです。

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 ■渓流斎ブログ2019年4月7日付「 京都『長谷川家住宅』で松岡氏の『在満少国民望郷紀行』スライドショーが開催 」で触れた「長谷川家住宅」ですが、講演を終えて、京都から東京の自宅に帰宅した松岡將氏から、メールで詳しい情報を寄せて下さいました。

 まず、この長谷川家住宅は、有形文化財に登録されていますが、幕末は、何と、あの「蛤御門の変」の際に会津藩士の宿舎だったというのです。現在の当主の中川氏は、松岡氏の農林水産省時代の後輩に当たる人で、開催に当たって全面的に支援してくださったようです。

 開催案内のパンフレットも添付して送って頂きましたが、何と、後援として、農林水産省近畿農政局、京都府、 朝日新聞京都総局、京都新聞、古材文化の会と、錚々たる名前が連ねておりましたから、かなりの規模だったことが分かります。

 参加者の中には、「近畿満鉄会」の会員で、歌手の加藤登紀子さん(満洲・哈爾濱生まれ)の御令兄(元大手金属会社副社長で現在、ロシア料理店社長)や東京帝大の「新人会の研究」などの著作がある日本の近現代史専門のヘンリー・スミス・コロンビア大学名誉教授らも臨席されたそうです。

関宿城

■4月8日付では「関宿城址を巡る旅」を書きましたが、遠足だというのに、手を拭くウエットティッシュを持って行くのを忘れてしまい、難儀してしまいました。

 そしたら、昨日読んだ小岩順一著「使うな、危険!」(講談社)を読んでいたら、コンビニやドラッグストアなどで売っているウェットティッシュには、人体に影響を与える塩化ベンザルコニウムやパラベン、グルコン酸クロルヘキシジンなどが含まれているというのです。

 ウエットティッシュで拭いた手で握った寿司を口にしようものなら、食中毒になりかねないといった警告も書かれていました。

 あらまーー。それなら、ウエットティッシュを使わずにそのまま、おにぎりを食べたことは、よかったということになりますね。衛生的にどうかと思いましたが、免疫力がついたかもしれません(笑)何せ、現代人は「無菌」だの「無臭」だのと、やたらとうるさすぎます。ウエットティッシュで殺菌されたと勘違いして、もし食中毒になったりしたら、本末転倒です。これは、笑えませんよ。

 この本では、ウエットティッシュの代わりとして、20度の焼酎甲類ミニボトルを買い、ティッシュペーパーに濡らして使えばいい、と書かれていました。手の消毒になりそうですね。次回はその手を使ってみましょう。

 この本には、他にも色々書かれていますが、ご興味のある方は、古い本ですから、図書館でも借りてみてください。

Copyright 財務省のHPから引用

■昨日は新紙幣のデザインが正式発表されました。1万円が渋沢栄一、5000円が津田梅子、1000円が北里柴三郎になることは、皆さん、御案内の通り。

 でも、新紙幣の発行は5年後の2024年。5年も前に発表しますかねえ?何でこの時期? 何か政治的臭いを感じますねえ。。。

 さて、この中で一番の注目は、1万円の渋沢栄一でしょう。私も東京都北区王子の飛鳥山公園内にある記念館を訪れたことがありますが、この人、怪物みたいな偉人ですね。「日本の資本主義の父」で、500近い企業を創業したというのですからね。

 出身は、現在の埼玉県深谷市。映画「翔んで埼玉」が話題になっている今、埼玉県人は大いに喜んでいることでしょう。何しろ、映画では「埼玉県人はそこら辺の草でも喰っていろ!」と虐待された県民ですからね(笑)。

 昨晩、天下のNHKラヂオを聴いていたら、女性アナが大興奮していて、「私は埼玉県出身なんですが、小さい頃、郷土の歴史で、渋沢栄一が如何に偉い人なのか習いました。そんな郷土の英雄が選ばれるなんて感無量です」と、ずっと喋り続けていたら、隣の男性アナが「渋沢栄一は、埼玉県の英雄というより、日本の英雄ですよ」と、たしなめていたので可笑しかったですねえ。

 渋沢栄一が関係した会社として、王子製紙、みずほ銀行、キリンビール、三井物産、日本経済新聞など今でも大活躍している企業が名を連ねています。

 王子の渋沢栄一記念館に行った後、あまりにも色んな所に渋沢栄一の名前が出てきたので、その後、しばらくの間、どこに行っても渋沢栄一の名前が頭の中に出てきて、夢にまで出てきたので少し困りました。

 ここまで、彼の偉業ばかり書きましたが、ひねくれた見方も書き添えておきます。渋沢栄一は、2回結婚してますが、他にお妾さんが数多いらっしゃって、子どもが20人ぐらいいたそうです。

 当時は、普通のことだったかもしれませんが、20人とは凄い。「英雄色を好む」と言いますか、それでも、よほどの資産がないと沢山の子どもたちを養育できないでしょうから、偉人だったことは確かです。

 渋沢栄一の最初の結婚は、従妹の尾高千代でしたから、現在でも渋沢家と尾高家とは濃厚な縁戚関係になります。クラシック音楽通なら誰でも知っている「尾高賞」の作曲家・指揮者の尾高尚忠、その長男の尾高惇忠(作曲家)、次男の尾高忠明(指揮者)らも渋沢一族だったんですね。

 最後に、天保年間生まれの渋沢栄一は、現在の埼玉県深谷市の豪農出身ですから、身分は農民です。それでも、幕末は「徳川慶喜に取り立てられて幕臣になった」と何処の本にも書かれていますが、どうやって幕臣になれたのか何処にも書いていません。恐らく、豪農でしたから、お金で、武士の株券でも買ったのではないでしょうか。それに、幕末は身分制度が曖昧になり出したと言います。最も武士らしいと言われた新撰組の近藤勇も土方歳三らも、元々は、日野村の農民でしたからね。

 

京都御所で梅を愛でる

京洛先生です。新生「渓流斎ブログ」が、早くも10万アクセスを突破されたようで、おめでとう御座います。御同慶の至りです。

 何やら、迂生の名前まで出して謝辞を述べられておられましたが、迂生は黒子ですからいいですよ。多羅尾伴内のように、ある時は弁護士、ある時は美術鑑定士、そしてある時は…の職業不詳、住所不定の神出鬼没ですから、影武者です(笑)。

 人は、70歳になっても、80歳になってもテレビに出たり、舞台に上がったりして、とにかく目立とう、目立とうとしますが、迂生は御簾に隠れて、三味線を弾いたり、笛を吹いたり、時には大きな銅鑼を鳴らして、けしかけたりする方が性にあっているんですよ(笑)。

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 さて、帝都の本日(2月9日(土))は、大雪だそうですね。まだまだ、厳しい寒さが続きますが、渓流斎先生もご高齢ですから、身体はくれぐれも労わってください。過日、写真をお送りしました折にお伝えしましたように、「北野天満宮」では、8日(金)から境内の「梅苑」公開がスタートしました。週末ですから、9日(土)と10日(日曜)は、梅を愛でる観光客で、かなり混雑することでしょう。


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 迂生はへそ曲がりですから、北野天満宮は避けて、観光客があまり来ない洛中の穴場の「京都御所」の梅を見に出かけました。京都御苑にはおよそ4万の樹木が植わっているそうで、春夏秋冬、何かしらの樹木の花が咲いており、これほど優雅な時間を過ごせるところはあまりないでしょうね。


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 しかも、大宮御所、仙洞御所を囲むように、明治の遷都まで、天皇に身近で奉仕していた近衛、閑院宮、一条、九条、桂宮、賀陽宮、中山、有栖川宮などなど貴族の邸宅跡やこれらに関連する「学習院」など関連施設の旧祉・旧跡もあり、碑や「立て札」で、所在の場所が分かるので歴史の勉強になります。


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 上の写真の「西園寺邸」跡には、今は時季が過ぎた山茶花が少し残っておりました。もともと、西園寺家は「雅楽(琵琶)」の家元で、邸宅跡に「白雲神社」があり、音楽家やミュージシャンらが技芸の上達に祈願に来ております。フォーク歌手の長谷川きよしが寄せた祈願もありました。


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 西園寺は「立命館」の建学にも関わりましたが、”立命館・発祥の地”という謂われの碑文も残され、記されていました。

 この西園寺家跡の前に「梅林」があり、これから3月末まで、紅白の梅が咲き誇ります。


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 桓武天皇が、延暦13年(794年)に長岡京から平安遷都した時には、今の京都御所よりも西の千本通りを中心に、平安宮や内裏などいわゆる「御所」がありました。それが、たびたびの火災で、天皇は宮内裏(仮御所)を転々としました。今の京都御所のある所は、もともと、摂関政治の基礎をつくった藤原良房や、その後の藤原道長らが住んで居た所なのです。


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 正元元年(1259年)になり、当時の里内裏がやはり焼失してしまい、「土御門東洞院殿」を此処に移して改築したそうです。そして、元弘元年(1331年)に光厳天皇が「即位」をして、それが明治2年(1869年)まで続くわけです。今の京都御所は安政2年(1855年)にできたもので、実はまだ歴史的には新しい建物なのです。

以上 

フランス地図旅行 Fin

 「地球の歩き方』フランス版(ダイヤモンド社)は、本当に勉強になりました。私自身、知っていたこともあり、全く知らなかったことも沢山ありました。せっかく知識として得たのですから、備忘録として書いておきます。

【生誕地】

●アンリ4世(ブルボン王朝創始)=ポーPau(大西洋岸Côte d’Atlantique地方)

●ブレーズ・パスカル(哲学者)=クレルモン・フェラン Clermont-Ferrand(中南部オーヴェルニュ Auvergne地方、ノートルダム・ド・ラソンプシオン大聖堂 Cathedrale Notre-Dame l’Assomption、ノートルダム・デュ・バジリカ聖堂 Basilique Notre-Dame du Port、ミシュラン発祥地)

●スタンダール(作家)=グルノーブルGrenoble(中南東ローヌ・アルプ Rhône-Alpes地方)

●ヴィクトル・ユゴー(作家)=ブザンソンBesançon(中東部フランシュ・コンテFranche-Comté地方、指揮者コンクールで小澤征爾、沼尻竜典ら多くの日本人が優勝 )

●リュミエール兄弟(映画発明者)=ブザンソン Besançon 生まれ、映画の誕生地はリヨン Lyon (中南東ローヌ・アルプ Rhône-Alpes地方)

●ノストラダムス(星占学者)=サン・レミ・ド・プロヴァンス(南部プロヴァンス Provence 地方アヴィニョン近郊、画家ゴッホが同地の精神病院に入院)

●ルイ14世(国王)=サンジェルマン・アン・レーSt-Germain-en-Laye(パリ近郊イル・ド・フランス Ile de France地方)

●クロード・ドビュッシー(作曲家)=サンジェルマン・アン・レーSt-Germain-en-Laye (生家が記念館に)

●ジャン・フランソワ・シャンポリオン(ロゼッタストーン解読)=フィジャックFigeac(南西部Sud-Ouest地方 )

●トゥールーズ・ロートレック(画家)=アルビ Albi(南西部Sud-Ouest地方、少年時代は祖父の家ボスク城で過ごす )

●ギュスターヴ・フロベール(作家)=ルーアンRouen(北東ノルマンディーNormandie地方、父は外科医師。ジャンヌ・ダルクはこの地で火刑)

【物語の舞台・執筆地】

●シャルル・ペロー作の童話「眠れる森の美女」の舞台=ユッセ城 Château d’Ussé(中西部ロワール Loire地方アゼー・ル・リドーAzay-le-Rideau郊外)

●バルザック「谷間の百合」「ゴリオ爺さん」執筆=サシェ城 Château de Saché (中西部ロワール Loire地方アゼー・ル・リドーAzay-le-Rideau郊外)

●アレクサンドル・デュマ「モンテ・クリスト伯」の舞台=イフ城 Château d’If(南部プロヴァンス Provence地方マルセイユ Marseille、主人公ダンテスがイフ島のイフ城に監禁される)

●マルキ・ド・サド侯爵が領主を務めた村=ラコストLacoste(南部プロヴァンス Provence リュベロン地方、この近くのルールマランLourmarinはアルベール・カミュが晩年に過ごした村で、墓もある)

●アルフォンス・ドーデ「風車小屋だより」=フォンヴィエイユFontvieille (南部プロヴァンス Provence地方 アルル Arles郊外)の風車小屋で執筆。ドーデの生誕地は南西部Sud-Ouest地方ニームNîmes=仏最古のローマ都市。

フランス「地図」旅行を楽しみ、雑学王に(続編)

 今年1月9日付の渓流斎ブログ「フランス地図上旅行 マドレーヌとは?」でも書きましたが、「地球の歩き方」フランス版(ダイヤモンド社)を通勤電車の行き帰りに少しずつ読み、至福の時間を過ごしております。

同時に、かなりの「フランス通」と言いますか、雑学の泰斗にさえなりました(笑)。例えば、アルミニウムの原料となる鉱石ボーキサイト bauxite。これは、中世に南フランスのアルル郊外を支配したボー家 Les Bauxから名付けられたんですってね。御存知でしたか? ボー家は、全盛期には80の町を支配していましたが、15世紀にボー家の血筋が絶え、1631年にはルイ13世の宰相リシュリューによって町はことごとく破壊されます。現在、アルル北東のレ・ボー・ド・プロバンス村 Les Baux-de-Provence(人口470人)に廃墟の城が残っていますが、この辺りでも鉱物ボーキサイトが採取されていたようです。

バルセロナ・カタールニャ広場

 フランスには日本人の名前が付いた「通り」もありました。

パリに近いイル・ド・フランスIle-de-France地方グレ・シュル・ロワン村 Grez-sur-Loing (フォンテーヌブローの森の南外れ)にある「黒田清輝通り」です。日本の近代洋画を切り開いた黒田は、1890年から約2年半、この村に滞在しました。ここは他に浅井忠ら多くの日本人画家が滞在して写生作品も残しています。

フランスで最も有名な日本人は、エコール・ド・パリの藤田嗣治でしょう。(戦後、フランスに帰化)彼が、シャンパンで有名なマム社 G.H.Mummの資金援助を受けて手掛けたフジタ礼拝堂 Chapelle-Foujitaが 北東部シャンパーニュChampagne地方のランス Reinsにあります。ランスは、ノートルダム大聖堂 Cathédrale Notre-Dame (藤田はここで洗礼を受けます)があることで有名です。13世紀着工のゴシック様式。20世紀初頭の大修復の際にシャガールがステンドグラスを寄進します。フジタ礼拝堂には藤田と君代夫人が眠っているそうです。

もう一人、フランスで有名な日本人は高島北海(1850~1931)です。何?知らない? 日本画家ですが、絵は独学。もともとは明治新政府の技術官僚で、北東部ロレーヌLorraine地方のナンシーNancyにある森林高等学校に留学します。この街で、後にアール・ヌーヴォーの代表的な芸術家となるエミール・ガレらと知り合い、ガレは高島から日本の美意識を学び、そのジャポニスムの影響が強い工芸品を次々と生み出します(ナンシー派とも)。

バルセロナ・カタールニャ広場

美術の話になったので、その線で話を進めますと、フランスは「芸術大国」と言われますが、しっかりと、過去の芸術家の所縁の地を観光資源として残してます。美術館を建てたり、画家が写生した現場に看板を立てたりしています。計算高い国ですねえ、行きたくなるじゃありませんか(笑)。クロード・モネ(「睡蓮」連作で知られる北西ノルマンディーNormandie地方ジヴェルニーGiverny、「印象:日の出」を描いた同地方ル・アーヴル Le Havre)、ポール・セザンヌ(生まれ故郷の南仏プロヴァンスProvence地方エクス・アン・プロヴァンスAix-en-Provenceとサント・ヴィクトワール山)ら自国民は当然のことながら、オランダのフィンセント・ファン・ゴッホ(終焉の地であるパリ郊外イル・ド・フランスIle de France地方オヴェール・シュル・オワーズAuvers-sur-Oise、南仏プロヴァンスProvence地方アルルArles)、スペインのパブロ・ピカソ(65歳で陶芸を始めた南仏コートダジュールCôte d’Azur地方ヴァロリスVallauris、絵画製作のため滞在した同地方アンティーブAntibesのグリマルディ城Chateaux Grimaldi=現ピカソ美術館など)らは、各地に足跡を残しています。

 そう言えば、ルネサンスの巨匠レオナルド・ダヴィンチなんかイタリア出身ながら、フランソワ1世に招かれて豪邸(北中西部ロワールLoire地方アンボワーズAmboiseのクロ・リュセ城Châteaux du Clos Lucé )を与えられ、同地のフランスで生涯を終えてましたね(同地の聖ユベール礼拝堂Chapelle de St. Hubertにお墓があります)

バルセロナ

嗚呼、ワインやグルメの話、古城の話、ロマネスク様式、ゴシック様式建築、 歴史的に重要な宗教都市(法王庁があったアビニョンAvignon、アンリ4世によって勅令が発せられたナントNantesなど)と伝説都市(ルルドLourdesなど)聖堂、修道院、物語(「眠れる森の美女」「岩窟王」「星の王子さま」など)の聖地などについても、色々と書き残しておきたいのですが、長くなるので、これからまた分割して書いていきます。

【追記】

 地名や聖堂には聖人の名前が多く使われています。サンテティエンヌ(聖エティエンヌ)の語源が気になって調べたら、エティエンヌとは新約聖書の「使徒行伝」に出てくるステパノ(またはステファノ=ギリシャ語で冠の意味)のことで、キリスト教徒最初の殉教者でした。ステパノは英語でStephen、スティーヴン(女性名はstephanie、ステファニー)。スティーヴン・スピルバーグ(映画監督)、スティーヴン・ホーキング(物理学者)、スティーヴン・キング(作家)、フランス象徴派詩人ステファヌ・マラルメら多くいますね。

北野天満宮の梅が咲き始めました

 京都にお住まいの京洛先生から、うれしい「風物詩」を送ってくださいました。

…大阪の梅田にまで遠出し、念願のデジタルカメラを奮発して買ってしまいました。

今日の午後、その新しいデジカメで近所の「北野天満宮」の梅を撮ってきました。だいぶ紅白梅が咲き始めました。2月の「節分」を終える2月8日(金)から境内の「梅苑」公開は3月半ばまで始まります。「梅が咲いたか、桜はまだかいな」ですね。

 デジカメは高性能カメラで画素数が高く、一度そちらにお送りしたのですが、うまく行きませんでした。そこで、少し画質を落として配信することに致しました(笑)。

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 それにしても、一年経つのは早いものです。こういう具合にあっという間に終わるのです。

 「合格祈願」のお札をかけて無事、大学入学した受験生もあっという間に4年経ち、社会人になり、定年を迎え、人生終末を迎えるわけです。

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あっという間に一生ははかなく終わるわけですから、一日一日を大事にしないといけませんね。…

 諸行無常。何か、「平家物語」か「方丈記」を読んでいる感じですね(笑)。

 一日一生

 

秋葉原研修ツアーで不愉快事が三つも

昨日の月曜日は、有休を取って、某通訳団体の研修会に参加してきました。場所は、秋葉原です。昨年、久しぶりにオランダ人家族の東京旅行をガイドした際、下調べに大変苦労したので、最新情報を仕入れようと思ったからでした。参加費は6000円。でも、不愉快なことが三つもありました。

ということは、愚痴めいた話になるので、「そんなもん、聞きたかねえだあ~」という紳士淑女諸兄姉の皆様は、この先、お読みにならなくて結構です。さようなら。

秋葉原

秋葉原の現地集合が午前8時45分と早く、いつもとは違って早めに家を出ました。そしたら、運悪く、乗った電車の前の座席に座っている変な男が、私が彼の前に立った途端、持っていたA4判下敷きサイズのプラカードを左右に激しく振り始めるのです。そこには「歩きタバコ禁止」と書かれていたのです。

えっ?何? 私はタバコは吸いませんし、まして、ここは電車内ですよ!頭がおかしいに違いありません。男は、70歳ぐらいか。深く帽子を被り、マスクをして眼鏡をかけ、素顔は分かりません。こういう輩は何をしても時間の無駄なので、次の駅で空いた反対側に移動したところ、その狂人は、聞こえよがしに「やっと行ったか」ですよ。えっ?私が一体、何をしたというのですか。たまたま、空いていた空間に立っただけで、何の関わりもなく、初対面のすれ違いにしか過ぎないのに、何で、恨まれる筋合いがあるというのでしょうか。不愉快でしょうがありませんでした。

上階にある店舗のロボットは定評があるとか

これが不愉快の一つ目(笑)。二つ目は、通訳研修会の講義で、主宰者が「メモ厳禁」と宣言したことでした。理由は、資料に全て書いてあるからということでしたが、ありえない!秋葉原の現地ウオーキングツアー中に、メモを取ることは、他の一般客の通行に邪魔になるので、理解でき、私も「メモ禁止」とは戸外の話かと思ってたら、部屋の中での誰にも迷惑を掛けない講義でも駄目と言うんですからねえ。知らずにメモを取っていたら、鬼面のような怖い顔をした女講師が「メモは厳禁です。ここからもメモしていることは見えますよ」ですって!

秋葉原

私は、資料に書いていなかったことをメモしていたところでした。意味が分かりません。頭おかしいじゃないでしょうか。記者からペンとメモ帳を取り上げることは、大工からノミやカンナを奪うのと同じですよ。今度また、メモ禁止なんて言うのなら、そんな研修会やらセミナーなんかには参加しませんよ。

戦後、GHQが露天商を「ラジオセンター」に一堂に集めたといいます

でも、ウォーキングツアーは、主宰者が凄い下調べをしていて、大変役に立ちました。これでも、私もかなり下調べしましたが、知らないところも案内してくれました。秋葉原の戦前は、御案内の通り、駅前に青物市場がありました。戦後すぐに闇市が立ち、1950年代はラジオや部品販売の商店、60年代は電気冷蔵庫やテレビなど家電製品、70年代、80年代は オーディオ・ブーム、90年代からパソコン、今では、アニメやフィギュアなどの萌えオタク文化の世界的発信基地として海外でも知られています。

メイドカフェ


 これだけ秋葉原は変遷が激しいのです。確か、6~7年前にも私は、同じような秋葉原の研修会に参加しましたが、店が変わったりしていて、もう古い情報は通用しませんからね。

今回も秋葉原名物のメイドカフェに行き、「永遠の17歳」のメイドから給仕を受けたりしましたが、加齢のせいで、何が面白いのかさっぱり分かりませんでした。いわゆる「オタク文化」なるフィギュアやコスプレなど全く興味なし。自分が正常だと強調したいわけではありませんが、第一、還暦過ぎたお爺さんが、セーラー服や10代の若い女の子に興味津々なんて、気持ち悪い。変態扱いされますよ!

カフェ入場料700円、絵を描いてくれる抹茶ティー680円、オムライス1100円でしたが、ショータイムあり、ゲームあり、人件費を考えるとサービスは価格に見合ってました

正直、こんな通訳の仕事は、自分には向いていないと思ってしまいました。

ただし、弁護しておきますが、メイドカフェは、皆さんが想像するような(笑)いかがわしい店ではなく、若い女性が一人で入店しているのさえ目撃しました。「ご主人様」「お嬢様」という約束事を楽しむ空想遊びだということです。正直、個人的には行きたいとは思いませんけど(笑)。

ウオーキングツアーを案内してくださったNさんからは、イチゴの糖度の計測器まで何でも売っている「東洋計測器」近くにある穴場の隠れ家レストランを紹介してもらいました。今度利用してみようかと思っております。これが今回の一番の収穫かなあ(笑)。

写真右下の「イヤホン」店は、某著名スポーツ選手が買った30万円のイヤホンも売っているそうな

あと、秋葉原には神田明神近くに「名酒センター」というのがあって、全国の銘酒が1杯150円から試飲できるという話を聞いたものですから、ツアーが終わった後、一人で一生懸命に探してみました。やっと見つけたら、月曜日は定休日で閉店でした!こちらが下調べせず、無謀に行ったのが悪かったにせよ、これが、不愉快の三つ目でした(笑)。

「おでん缶」の自販機は秋葉原発祥という説も。は外国人観光客にも評判だとか

 あれっ?まだお読みになってたんですか?最後まで読んでくださり、誠に有難う御座いました。

 

飲食店サイト「ぐるなび」の原点は地下鉄広告

 某諜報機関の機関長から、ネットで飲食店の情報を提供している「ぐるなび」を徹底的に調査してほしいとの依頼がありました。

 任せてください。これでもその筋の端くれですからね(笑)。

バルセロナ・グエル邸

まず、「ぐるなび」サイトの「会社概要」によりますと、事業内容は、「パソコン・携帯電話・スマートフォン等による飲食店のインターネット検索サービスその他関連する事業 」とあります。同業他社の中に、カカクコム・グループが運営する「食べログ」がありますが、食べログが消費者からの情報を主軸に基本的に無料で発信しているのに対して、「ぐるなび」は、有料加盟店からの広告収入から成り立っています。総掲載店舗数約50万店のうち、有料の加盟店舗数は5万6967店(2016年3月期末)となっております。

ということは、「ぐるなび」は広告代理店ということになります。同社の公式サイトの沿革には、「1996年6月、株式会社NKBの一事業部として飲食店検索サイト『ぐるなび』をインターネット上に開設」とあります。このNKBとは何かといいますと、1948年に創業された交通広告会社で、旧社名は、交通文化事業株式会社。主に、地下鉄のベンチなどの看板広告を手掛ける会社として出発しました。創業者は、瀧冨士太郎(1903~1975)。

この方、もともとジャーナリストで旬刊誌「交通研究」を発行しておりました。その関係で、阪急の小林一三、東急の五島慶太ら鉄道界の大物との交際を深め、監督官庁の運輸省(当時)高官の天下り先を忖度して交通文化事業株式会社を設立し、広告事業を展開します。新規事業を行うには、政財官の「黄金のトライアングル」が威力を発揮することを熟知していたのでした。


バルセロナ・グエル邸

 交通・観光事業に従事する関係者の子息らへの奨学金として、彼の名前を冠した「瀧冨士基金」が現在でもあります。この育英事業は、瀧が設立した公益財団法人「日本交通文化協会」が行っているもので、同協会はこのほか、駅構内の壁画などパブリックアート事業や展覧会なども開催しております。

瀧冨士太郎の子息が瀧久雄氏(1940~)です。この人こそが「ぐるなび」の創業者です。東工大を卒業し、三菱金属に入社した技術者でしたが、父親の急逝により、後を継ぐことになります。先見の明があった同氏は、看板広告の将来性を案じて米国に視察に出掛け、まだ今後どう展開するか分からなかったインターネットに注目し、「ぐるなび」を始めたわけです。国土交通省の元高官らを顧問に迎えるなど父親のビジネススタイルを踏襲しました。

瀧久雄氏の趣味は囲碁です。NKBの関連会社として、囲碁対局サイトを運営する「株式会社パンダネット」(1962年6月創業)の代表取締役も務めています。話は飛びますが、このパンダネットですが、日本棋院利光松男理事長(1923~2004、日本航空相談役、JALパック社長)が自殺した遠因があったという情報が真しやかに流れております。これは、対局ソフトを開発する際の提供企業の選定をめぐって、日本棋院が「パンダネット」から韓国の「世界サイバー棋院」に切り替えたことで、理事会内で大問題となり、利光理事長の心労が重なったと言われています。


バルセロナ・グエル邸

先ほど、瀧冨士太郎が創刊した旬刊誌「交通研究」の話が出ましたが、鉄道・運輸関係の老舗といえば、1943年に創刊された「陸輸新報」の流れを汲む「交通新聞」があります。交通新聞が美空ひばりなら、交通研究は、丘みどりです(笑)。

交通新聞は業界紙なので、一般の人は知らないかもしれませんが、「時刻表」「旅の手帖」、そして「散歩の達人」を出版している会社だと言えば、分かるかもしれません。戦中から「時刻表」を出すぐらいですから、国鉄、そして政府関係者、労働組合、関連政党などと密接な関係があったという証左になります。

交通新聞社は、瀧氏のNKBと共同出資して、2000年に「トラベルサイト」を設立しましたが、現在機能しているかどうかは不明です。

 以上、まとめサイト「NEVER(決して~ない)」でした。 

京都・東寺で御修法=真言宗最高の秘儀

おはようございます。京洛先生です。最近の渓流斎ブログを拝読しておりますと、名古屋の篠田先生だの、大阪の難波先生だの、色んな先生が登場され、貴人も果報者ですね。吉田兼好も「徒然草」の中で「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり 」と言っております。何事も先人の助言を虚心坦懐に聞いておけば、早まった決断をすることなく、あとで後悔しないものですよ。

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さて、昨日の14日は、貴人もご存知の「東寺(教王護国寺)」で、国家安泰を祈願した真言宗の最高の秘儀「御修法(みしほ)」が終わりました。

「ああ、あれですね!」と言われるでしょうか。それとも、「えっ?それ何でしたっけ?」と素惚けることでしょうか(笑)。何度も渓流斎ブログでも取り上げて頂いた御修法ですよ。迂生は、今年も一年に一度だけ特別開扉される境内の国宝「灌頂院」に入ってきました。


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以前も書きましたが、もうお忘れかもしれませんが(笑)、「御修法」は、真言宗の開祖・弘法大師が承和元年(882年)に「国家鎮護」を祈祷して始めたものです。明治時代までは宮中で行われておりましたが、明治以降は、遷都になったこともあり、場所がここ東寺の「灌頂院」に代わりました。

  今月8日に宮内庁京都事務所が天皇の「御衣(みころも)」を東寺に預け、それを祈願した御衣を、14日には勅使が受け取りに同寺に訪れました。


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 御修法には、全国の真言宗の16派18総本山の長老、高僧が一堂に集まるいわば“真言宗サミット”でもあり、毎年のことですが、大勢の真言宗の僧侶、関係者が集まり、天気も良いので大変な賑わいでした。


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 例年と同じように御修法で祈祷された「御衣」を再び、宮内庁に引き渡すため「唐櫃」に入れた御衣と、祈祷した長老、高僧の還列があり、全国から集まった真言宗の寺院のお坊さんや関係者が手を合わせていました。


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頭髪をそり上げてテカテカに光るお坊さんのアタマというのは、本当に後光がさすというか、清潔感が漂いますね(笑)。ユール・ブリンナーが人気があったのもよく分かります(笑)


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 正午過ぎから、御修法の終わった灌頂院に入り、志納金(千円)で護符を頂くのですが、全国から見えたお坊さんの中には、壇信徒から頼まれたのでしょう、一人で何枚も護符を受け取る人もいました。


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一年に一度の「御修法」ですが、京都人でもほとんどの人は知らないでしょう。灌頂院前に並ぶ列もほとんど坊主頭のお坊さんばかりです(笑)。勿論、観光客はいません。

迂生は毎年出かけていますが、灌頂院の中は、先程まで祈祷されていた護摩木の匂いが残っていて、祈祷に使われた仏具やお供えの饅頭、干菓子などがそのまま残されておりました。「胎蔵曼荼羅」「金剛曼荼羅」など重要文化財も掛けられていて、ある意味で“究極の美術展”でした。


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 今年の「御修法」の導師(長老)の栄誉を受けたのは奈良の真言宗豊山派総本山「長谷寺」の田代弘興化主(79)です。

以上

フランス地図上旅行 マドレーヌとは?

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し (萩原朔太郎「純情小曲集」旅上)

ということで、フランスに行って、お城や庭園、それに美術館や教会、大聖堂、修道院などを訪ねて、現地の美味しい料理とワインを味わって、できればそこに住む人たちとフランス語で話をしてみたいと思い立ちましたが、やはり、諸般の事情で行き難し。

 そこで、せめて、旅情でも味わいたいと思い、ガイドブックを買ってきました。

 「地球の歩き方」(フランス版)(ダイヤモンド社)です。このシリーズ本がこれほど有名になるずっと昔、私がまだ学生だった1979年に、この本を片手にヨーロッパを30日間旅行したことがあります。(「地球の歩き方」は、現在100種以上出版されてますが、当時は、ヨーロッパ版、アメリカ版など数冊程度しかありませんでした)何と、もう実に40年も昔なんですねえ。一人で参加したのですが、この旅行で、九州から参加した風来坊の今村君と知り合い、「旅は道連れ」で、英、蘭、丁、独、南斯拉夫、希、伊、仏と結局最後まで一緒に同行しました。

風来坊の今村君はその後も放浪を重ね、今現在もアメリカに住んでおります。

バルセロナ・サグラダ・ファミリア教会

さて、なぜ、「地球の歩き方」(フランス版)を買ったのかと言いますと、昨年、初めてスペインを旅行した際、スペイン版を買って大いに役立ったからでした。聖ヤコブの遺骨が埋葬されていると言われている巡礼地サンティアゴ・デ・コンポステーラの来歴や、16世紀にインカ帝国やアステカ帝国を滅亡させたピサロとコルテスがスペインでも農作物があまり育たない荒野のエストレマドゥーラ地方出身だったことなど、これまで知らなかった色んな知識を得ることができ、スペインに関してかなり詳しくなりました。

それなのに、私自身、フランス専門家を自称しておきながら(笑)、パリだけは何度か自分の足で駆け巡りましたから、大体のことは分かっていても、特にフランスの地方の地理や名所旧跡に関する知識は覚束なかったのです。

 これじゃ、駄目じゃん。ということで、ちょっと、フランス地方に関して勉強したくなったのです。

この本はまだ、全部読んでおりませんが、かなりの収穫がありましたねえ。せっかくですから、クイズ形式としましょう。

ノトル・ダム・ド・パリ

【質問】

(1)皇帝ナポレオンがこよなく愛したブルゴーニュ産のワインの銘柄とは?

(2)スペインには、バル Barとレストラン Restaurante の中間の居酒屋風食堂として、食べるな、いやタベルナ taberna がありましたね。フランスにもカフェ Café とレストランRestaurant(ゲストガンの発音に近い)の中間として、大衆的な食堂であるビストロ Bistroとブラッスリー Brasserieがあります。それでは、「食通の都」リヨンで郷土料理を提供する大衆食堂は何と言いますか?ついでに、地方で宿泊できる食堂のことを何と言いますか?

(3)スペインの巡礼地サンティアゴ・デ・コンポステーラに通じる巡礼道の起点の一つと言われているブルゴーニュ Bourgogne 地方ヴェズレー Vézelay にある有名な聖堂は何でしょうか?

ルーブル美術館

【答え】

(1)シャンベルタン Chambertin(コート・ド・ニュイCôte de Nuits 地区)でした。ついでながら、このコート・ド・ニュイ地区では、「ワインの王さま」ロマネ・コンティ Romanée -Conti(1ボトル300万円也!)やクロ・ド・ブーショ Clos-de-Vougeotなども産出します。

(2)リヨンの大衆食堂は、ブッション Bouchonです。東京・銀座にも「ブッション・ドール Bouchon d’or」という名前のリヨン料理店があります。地方の宿泊付き食堂は、オーベルジュ Auberge と呼ばれています。画家ゴッホの終焉の地オヴェール・シュル・オワーズ Auvers-sur-Oise(イル・ド・フランス ile de France)には、彼が自殺するまで2カ月間住んでいたラブー亭 Auberge Ravouxは、オーベルジュでした。現在、「ゴッホの家」として公開されています。6ユーロ。

(3)サント・マドレーヌ・バシリカ聖堂 Basillique Ste-Madeleineです。このマドレーヌとは、マグダラのマリア Marie de Magdalaのことだったんですね。プルーストの「失われた時を求めて」にも出てくるお菓子のことだ思ってました(苦笑)。マグダラのマリアは娼婦でしたが、改悛して、後に聖女として崇められるようになりました。宗教画でも欠かせない存在で、イエスが十字架で磔にされた時に、傍にいて、解放した人々の中の一人とも言われています。

で、マドレーヌ菓子に戻りますと、ホタテ貝の形をしてますね。ホタテ貝は、サンティアゴ=十二使徒の一人聖ヤコブのシンボルでしたね。ということで、サンティアゴ・デ・コンポステーラ~ヴェズレー~聖ヤコブ~マドレーヌ聖堂という連想からホタテ貝の形のお菓子になったという民間伝承があるようでした。

 こうして色んなことを知ると、地図上の旅でも大変楽しくなります。また、いつか、次回も同じ企画をやってみます(笑)。

【洛中便り】西班牙料理での饗宴

おはようございます。京洛先生です。今年も本当に残り少なくなりましたね。

 ところで、昨晩は、貴人が、加藤力之輔画伯のご令室から、マドリードで美味しい食事をされた、本場仕込みの「西班牙料理」を、加藤画伯の洛中のアトリエで迂生もご馳走になる機会を得ました。

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 上の写真をご笑覧ください。凄いでしょう。ついでに、アトリエのベランダから眺めた洛中の眺望、京都タワーの威容がよく見えました。


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饗宴料理の中には、マドリードで、渓流斎さんがお口にされた西班牙料理と同じものがありますかね?(笑)。小生は、外国料理は苦手ですが、昨夜の西班牙料理は、いずれも美味しかったですね。


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 料理の名前は憶えていませんが(笑)、西班牙から送られてきた素材をふんだんに使って、加藤画伯と、招待客ながら手伝いに見えていた料理に詳しい立体作家が共作で作られ、もてなしてくださいました。

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加藤画伯のアトリエにふさわしく、集まったのは、ポルトガルと京都を拠点に、「アズレージョ」というポルトガルの装飾絵タイルの創作活動をしている造形作家の石井春さん(www.ishii-haru.info)。泉涌寺の傍で茶道を教えられている「山荘流」家元さん。そのほか眼科医さんなど多彩な顔ぶれが招かれ、“加藤サロン”の楽しい小宴でした。

造形作家の石井さんは自らのブログを持っておられ、いろいろ電脳空間活動も展開されているので、その創作活動の一端をご覧ください。

 また、茶道と言えば、凡人は、表千家、裏千家、武者小路の“三千家”だけが頭に浮かびますが、「山荘流」は高谷宗範という嘉永生まれで、明治、大正、昭和前期に活躍。弁護士、検事もした人物が創始した流派です。

宗範はもともと「遠州流」でしたが、同派から独立した新しい流派を興しました。宗範は当時の茶道界の現実を嘆き、国民道徳を向上させる狙いから、草庵(小間)の茶道を書院(広間)に力点を置くよう唱導したそうです。

これに対して、当時の茶人の高橋菷庵(三井の重役、新聞記者)は「広間でやる台子茶は原始人がするものだ。小間こそ奥行きが深い」と批判し、論争になったそうです。


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宗範は、大正時代に宇治の木幡の道元禅師の生誕の地に「松殿山荘」という約3万4000坪の茶道の道場を作り「財団法人『松殿山荘茶道会』」を設立して書院茶道を広める基礎を作りました。

今も、そこが山荘流茶道会の活躍拠点になっています。これも「松殿山荘茶道会」のホームページがありますから、ご覧になるとその内容、規模の大きさが分かると思います。

まあ、貴人が先日、渓流斎ブログで取り上げた1800年代のフランスのマスコミやサロンの世界を蹂躙、活躍した新聞王ジラルダンと同様、わが日本国も、その時代に、高谷宗範しかり、新聞記者から三井に転身して茶人になった高橋菷庵しかり、似たような軌跡の人物が存在したわけです(笑)。

貴人は、「言論ギャング」野依秀市とジラルダンを比較・考察されていたようですが、結局、芸術、マスコミ、経済界、政治家も、人とのつながり、融合した「サロン」という存在が大きな働きを持つのです。


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新聞記者が安倍首相と談笑するのも情報交換という「サロン」です。そこに“出前の岡持ち”「スシロー」が加わるのですから、その規模、中身がどういうものか分かるというものです(笑)。

以上報告終わり。