湯築城、宇和島城、大洲城=四国9名城巡り最終3日目(下)

宇和島城(現存12天守)

11月26日付「高知城、松山城、今治城」編に続く「四国9名城巡り」3日目の最終編です。いくら事前に少し「予習」したとはいえ、九つも城を廻ると、何が何だか分からなくなり、頭が混乱してしまいます。

 でも、ツアーの地元バスガイドのKさんはベテランで、流石に手馴れているというか、熟練の技を発揮され、それぞれのお城の築城者や歴史だけでなく、地元の特産品や、この他の四国の名勝名跡まで、しっかり頭に入っていてメモなしで話をしていたので感心してしまいました。「実は、わたしは、松山市郊外の愛媛みかんの農家の娘なんです」と打ち明けておられましたが、非常に頭脳明晰で、大変勉強熱心な方だということはすぐ分かりました。こちらも色々と教えてもらい、松山の名産「六時屋タルト」は、松山藩の久松松平家が長崎奉行を務めていた際に、ポルトガル人から製法を秘伝され、今では皇室御用達になっているとか、このブログに書いていることは、ほとんどガイドさんからの受けおりみたいなものです(笑)。

 前日に泊まった今治市では、タオルの生産が日本一で約8割も占め、市内には150社ほどもありますが、厳選な資格審査、しかもアポなしで製品審査を強行して、それに通った会社しか「今治タオル」のブランドを名乗ってはいけないことも教えてもらいました。ですから、数千円から3万円もするタオルがあるそうです。また、安倍晋三政権時代に大きな問題になった加計学園が今治市にあり、バスで近くを通ると、「ここからは見えませんが、あの小さい丘の向こうにあるんですよ」と、しっかり忖度なしに教えて頂きました(笑)。

湯築城(100名城)

 最終日の最初、初日から数えれば7番目に訪れた城は、愛媛県松山市にある湯築城(国指定史跡)でした。今治市からバスで南下して1時間ちょっとです。松山城の近くなので、当初は2日目に松山城と一緒に廻る予定でしたが、湯築城は、月曜日が休館だったため、この日に変更されたのでした。

 正直、湯築城に関しては、ほとんど知らず、事前にそれほど興味がある城ではありませんでした。そしたら、この資料館で「ある事実」を知り、椅子から転げ落ちるほど驚いてしまいました。

 その前に、前日の今治城では、地元のボランティアガイドさんの話を無視して聞かずに、自分勝手に廻っていたツアーの同行グループの人たちのことを、このブログで「私がこれまで参加したツアーの中でも最低のメンバーだ」と酷評しましたが、この日は打って変わって、地元ボランティアガイドさんについて熱心に話を聞いているのです。まるで優等生です。これが同じメンバーだと思うと、信じられないほどです。他人の評価は当てにならないものです。思わず、勝海舟の「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張」という言葉を思い出してしまいました。

湯築城

 一言で言って、湯築城は中世の城です。自然の岩山は除き、石垣はなく土塁です。中世の伊予の国の守護だった河野氏が、南北朝時代から戦国時代まで約250年間居城としていました。

 河野氏は風早郡河野郷(松山市北条地区)を本拠とし、源平合戦では河野通信(みちのぶ)が源氏方として功績を挙げ、鎌倉幕府の有力御家人となり、伊予国の統率権を得ます。しかし、通信は、承久の乱で京都方について負け、奥州平泉に流されてその地で没し、河野氏は没落します。それでも、元寇の際は、通信の曾孫に当たる通有が大活躍し、一族が復活し、それ以降代々、この湯築城を拠点にするわけです。

湯築城 子の通り、本丸から松山城が見えます。目と鼻の先でしょ?

 私が先に、「椅子から転げ落ちるほど驚いた」と書いたのは、この城の資料館でビデオを拝見していたら、承久の乱で敗れた河野通信の孫が、時宗の開祖一遍上人だったことを知ったからでした。あ、そう言えば、河野氏と言えば、何処かで聞いたことがあると思いました。一遍上人の本名は河野智真で、河野通信の子通広の子息です。まだ河野氏が復活する前の没落した時期だったので、仏門に入らざるを得なかったのでしょう。

 ということは、河野通信が承久の乱で鎌倉方についていれば、そのまま河野氏の栄華は続き、一遍上人という時宗の開祖は生まれなかったかもしれません。私は仏教史にはとても関心があるので、湯築城がいっぺんに身近に感じてしまいました。

 湯築城は「日本100名城」に選ばれているので(今回廻った四国9城全てが100名城)、資料館で100名城スタンプを押したところ、その場に持っていた個人の資料ファイルを置き忘れる失態を演じてしまいました。後で、「これ、忘れた人、どなたですか?」と添乗員のKさんが届けてくれましたが、注意力散漫症は茲でも健在でした。

宇和島城

 湯築城の後、バスは南進して宇和島城に向かいました。宇和島市は愛媛県の南端に近く、高知県の傍です。途中で、真珠店を兼ねたハイウエーレストラン宇和島で、名物「鯛めし」の昼食でした。観光バスツアーといえば、大抵、旅行会社とお土産店が結託して、行きたくもないお土産店に何度も何度も連れて行かれますが、最近のツアーはほとんど減りました。今回のツアーも茲だけでした。それに、殆どの人は買い物をしてませんでした(笑)。

 私自身も全く知りませんでしたが、真珠といえばミキモトで、三重県の英虞湾で養殖されて日本一の生産地だと思っていましたが、実は日本一は愛媛県で国内生産の80%も占めるんだそうです。真珠は神戸にある取引所で競りにかけられ、現在、1玉1万円から1万6000円が相場だそうです。ネックレスをつくるのには40玉必要なので、ひとつ40万円となるわけです。バスガイドのKさんは「段々、真珠は取れなくなるので、将来上がるので今のうち勝っておいた方がいいかもしれませんよ」などとセールストークをしていました(笑)。

宇和島城

 さて宇和島城です。現存12天守の重要文化財で、縄張りしたのが「築城の名人」藤堂高虎でしたから、大いに期待しました。もともとは海城だったらしいのですが、堀はほとんど埋められ、現在はその面影はありません。

 現存天守は藤堂高虎というより、伊達家のお城です。幕末の四賢侯の一人、伊達宗城(むねなり)が最も有名ですが、不勉強だった昔は、宇和島に何で伊達なんだろう?と思っていました。勿論、仙台の伊達政宗の末裔です。慶長20年(1615年)、政宗の長男秀宗が宇和島に入城し、明治を迎えるまで伊達9代の居城でした。秀宗は長男だったとはいえ、庶子で、正室に嫡男が生まれたため、宇和島を拝領したわけです。

宇和島城 現存12天守(伊達家)珍しく玄関口がある

 宇和島城は、二代藩主宗利が寛文6年(1666年)頃に建築したもので、既に平和な幕藩体制が確立した後だったので、全国の城でも珍しく「玄関」があるお城なのです。

 明治になって、新政府に接取され、大阪鎮台の所管となりますが、明治22年、伊達家が買い戻します。地元ボランティアガイドさんの説明によると、四賢侯の伊達宗城が明治になって、大蔵卿となり、部下の渋沢栄一と知り合い、渋沢に財産の運用を託したところ、かなり資産が膨れ上がって裕福になったから出来たそうです。この逸話はあまり書かれていない、現地でしか聞けない話でした。(昭和24年に宇和島市に寄付)

 宇和島城ではまたまたバスの駐車場が分からなくなり、迷子になりそうでした(苦笑)。

大洲城

 さて、宇和島城から松山方面にUターンして向かったのが、このツアー最後の9番目の城、大洲(おおず)城6万石でした。これも100名城に選ばれていますが、ほとんど知らず、全く期待していませんでしたが、もしかしたら、一番印象に残るお城でした。

 何しろ、平成16年(2004年)に、企画段階も含めて約20年かけて四層四階の木造天守を復元したのです。天守は明治21年に姿を消しましたが、図面や雛型や写真が残っていたお蔭です。富山県から優秀な宮大工も招聘し、鉄くぎなしで、吹き抜けは安土城の影響と言われています。総工費の13億円は、市民から1万円以上の寄付を募ったそうです。中には、地元不動産業の女性社長さんが、ポンと1億1000万円も寄付されてます。郷土愛は宇和島の人より、強い感じでした。

 面白いことに、商魂たくましく、天守をホテルとして貸し出し、1泊4人まで100万円で泊まれるそうです(1人増えると10万円プラス)。年に何組からか予約があるようです。当日は、篝火がたかれてお殿様お姫様のようなお出迎え。天守内に畳が敷かれ、城内の露天風呂にも入れ、料理人を呼んでその場で調理してもらえるという話です。

大洲城(12億円かけて木造復元された)

 大洲城は、あの築城の名人、藤堂高虎も関わったりしていますが、江戸になって賤ヶ岳の7本槍の一人、脇坂安治が立藩し、元和3年(1617年)、脇坂家が信濃飯田藩に転封となった後、米子から加藤貞泰が移封され、加藤家が明治まで続きます。

 幕末の大洲藩は勤皇の気風が強く、鳥羽伏見の戦いでは官軍側で参戦しています。また、坂本龍馬の海援隊が運用し、沈没事件でも有名になった蒸気船「いろは丸」はこの大洲藩が貸し出したものでした。

大洲城

 大洲城は、事前にそれほど予備知識もなく、あまり期待していなかったのですが、行ってみたら、こじんまりとした城下町で、地元愛が強い町で木造天守が復活し、なかなか良かったでした。

 以上、3日間で、四国の九つの名城を巡ってきた漫遊記でした。ここまで随分長いお話を読んでくださった皆様には感謝申し上げます。読むのは大変でしたでしょうけど、書く方はもっと大変でした(笑)。この記事の初回を読んでくださった会社の後輩のW君は「僕も冷蔵庫を開けて、何を取ろうか一瞬忘れてしまったり、自宅で立ち上がってから、あれっ?自分は何をしようとしたか分からなくなることがありますよ」と励ましてくれました。

 W君は私より一回り以上若いのに、大丈夫なのかなあ、と逆に心配になりました(笑)。

高知城、松山城、今治城=四国9名城巡り2日目(中)

松山城(現存12天守、重要文化財)広い、本当に広い

 11月24日付の「徳島城、高松城、丸亀城」編に続いて、四国9名城巡りの2日目です。執筆者の体力と知力の都合で、かつてとは違い、なかなか更新できておりませんが、単なる漫遊記なので、お気軽にお読みください。

高知城(現存12天守)

 城巡り第4弾の高知城(現存12天守、重要文化財)は、泊まった高知のホテルからバスでわずか3分でした。

高知城(現存12天守)

 前日は徳島城で「迷い人」になってしまいましたが、この日はホテルで朝食を取った後、部屋に戻ろうとするとカギがない!室内に置き忘れたことが分かり、慌ててフロントに降りて、係りの人にお手数を煩わせてしまいました。綾小路きみまろの世界は続きます(笑)。

高知城(現存12天守)山内一豊像

 高知城(現存12天守)は、既に南北朝時代に大高坂山城として築城され、戦国時代は長宗我部元親が拠点にしたという説もあります。が、やはり、何と言っても、山内一豊でしょう。信長、秀吉の家臣ながら、関ケ原の戦いでは徳川方について手柄を立て、一豊は遠江5万5000石の掛川城から、土佐一国9万8000石(後に24万2000石)を与えられ、築城します。

 山内一豊と言えば、困窮時代に糟糠の妻千代さんが、そっとヘソクリを出して、「これで馬をお買いになって出陣してください」と援助したお蔭で出世していったという逸話はあまりにも有名で、小説(司馬遼太郎「功名が辻」)やドラマ、映画などになっております。

高知城(現存12天守)算木積石垣

 高知城=土佐藩は、幕末に「薩長土肥」の一角として、多くの偉人を輩出しました。坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太(瑞山)…そして最後の藩主山内容堂。彼は幕末の四賢侯の一人で、徳川慶喜に大政奉還を勧めた人でした。大酒飲みで「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と、陰で揶揄されましたが、最近では再評価されているようです。

高知城(現存12天守)板垣退助像

 城内には板垣退助像もありました。明治の自由民権運動の旗手として有名で、銅像もその演説姿のようですが、実は土佐藩の家老クラスとも言える馬廻組(300石)の上士です。もともと板垣家は、武田信玄の重臣板垣信方を祖とする家柄で、武田家滅亡後、掛川時代の山内一豊の家臣になったわけです。土佐藩だけでなく、江戸時代は身分社会でしたから、武士の中でも階級があり、坂本龍馬らは郷士と呼ばれる下士で、板垣や後藤象二郎のような上士とは住む場所も違っていました。

 100円札にもなった板垣退助は、明治の言論人、政治家のイメージが強いですが、もともと上級武士ですから、幕末の戊辰戦争の際は、新政府側の迅衝隊(じんしょうたい)を率いて、近藤勇らの新選組とも戦っています(甲州勝沼の戦い)。

松山城(現存12天守)本丸6000坪

 次に向かったのは松山城(現存12天守)=第5弾=です。四国の南の高知からまた北上して愛媛県ですから、2時間ちょっと掛かりました。(高知高速道を通り、途中、石鎚山SAで休憩)

 松山と言えば、夏目漱石の「坊ちゃん」の舞台であり、漱石の親友正岡子規の故郷で、今でも俳句が盛んです。また、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の主人公の秋山好古・真之兄弟の故郷でもあります。道後温泉と蜜柑の産地としても有名で、私も何度か松山を訪れたことがありますが、若い頃はあまりお城に興味がなかったので、松山城も、そして今回廻った四国9城全て、生まれて初めて訪れました。

松山城(現存天守12)20メートルの石垣 7階建物

 (この石垣は、「坂の上の雲」の秋山真之が、若き頃、スルスルとよじ登ったという逸話が残っているそうです。)

 松山城の高さは海抜132メートルで勝山の山頂にあります。。実はここまで来るのにロープウェイ(帰りはリフトでしたが)を使って来たのです。勿論、歩いて登って来る方もいますが、ツアー参加者には往復切符(ロープウェイとリフトの両方使える)が手渡されました。

松山城(現存12天守)

 松山城の創設者は、秀吉の家臣で、賤ヶ岳の合戦で七本槍の一人として活躍した加藤嘉明です。昔は、「かとう・よしあきら」という振り仮名だったのでそう覚えていたのですが、最近は「かとう・よしあき」が多いですね。

 そう言えば、高知城の山内一豊も、昔は「やまのうち・かずとよ」と呼ばれていましたが、最近は「やまうち・かつとよ」と読む説が有力なんだそうです。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場する三代将軍源実朝を暗殺した公暁は、昔は「くぎょう」と習ったのに、ドラマでは最新学説を取っているらしく、「こうぎょう」になっています。何という日本語の曖昧さ! どないなっとるねん!? でも、この曖昧さが、長い歴史を持つ日本人の心因性を形作っているような気がします。テキトー(適当)というか、清濁併せ吞む、というか、自分の名前さえどう呼ばれようと気にしないという大らかさと言うべきか、それとも逆に、大胆不敵と言うべきか…。

松山城(現存12天守)

 加藤嘉明も、1600年の関ヶ原の戦いでは、山内一豊と同じように、徳川家康方についてその戦功を認められ、伊予20万石の大名となります。道後平野の中枢部にある勝山に城郭を築く許可を得ますが、着工から25年の寛永4年(1627年)、松山城完成を目前にして義明は、会津へ転封となってしまいます。(もっとも、42万石に加増されたので栄転ではありますが)

松山城(現存12天守)安土城の影響か、天守と御殿が一体

 その後、あの蒲生氏郷の孫・忠知が出羽国(山形県)上山城から入国し、二之丸の築造を完成しましたが、寛永11年(1634年)8月、参勤交代の途中の京都で病没し、嗣子がいないので断絶します。

松山城(現存12天守)天守

 蒲生家断絶の翌年の寛永12年(1635年)7月、伊勢国桑名城主松平(久松)定行が松山藩主15万石に封じられ、それ以来14代世襲して明治維新に至りました。久松家(菅原道真を祖とする)の戦国武将俊勝が、徳川家康の生母於大の方(伝通院、水野忠政の娘)の再婚相手となったことから、代々、久松家は松平姓を名乗ることを許されたのでした。

 松山藩は親藩ですから幕末は当然のことながら、幕府方についたため、朝敵として追討され、財政難の中、15万両も朝廷に献上し、藩主、重臣の蟄居、更迭などで赦免されました。

 それにしても、これだけの立派で広大な曲輪を持つ城が、一部復元再建されたにせよ、21世紀までよく残ったものです。大袈裟ですが、世界に誇っていいお城です。(松山城ばかり贔屓にしてはいけませんが)

松山市「鯛めしスタンド」天然鯛めし定食1850円。養殖ものは1300円でしたが、やはり、せっかくですから天然鯛を選びました。

 松山城も昼食時間を含めて2時間半ぐらい自由時間があったので、ゆっくり見物できました。と思ったら、リフトで麓に降りて、近くのロープウェイ街にあった「鯛めしスタンド」でランチしていたら、そこに無料のマップが置いてありました。

 それを見たら、近くに「坂の上の雲ミュージアム」や「秋山兄弟生誕地」があるので行ってみることにしました。

松山市 秋山兄弟生誕地

 そしたら、「秋山兄弟生誕地」は月曜日で休館日。「坂の上の雲ミュージアム」もやっと見つけましたが、中に入って見学していたら、とてもバスの集合時間には間に合わないことが分かり、泣く泣く退散しました

今治城(海城)と藤堂高虎像

 松山城を北上して、2日目最後の目的地、今治城=第6弾=にはバスで1時間ほどで到着しました。松山も今治も同じ愛媛県で、現在は松山市(人口約52万人)が県庁の所在地として栄えていますが、今治市(人口約16万人)は古代の伊予国の国府が置かれた所だったといいます。つまり、古代は今治の方が栄えていたのでしょう。

 高松城と同じ海城である今治城を、6年の歳月をかけて慶長13年(1608年)に築城したのが、関ヶ原で戦功をたて、伊予半国20万石を領した藤堂高虎です。彼の銅像も建っています。

今治城(海城)の天守

 藤堂高虎は、「築城の名人」と言われ、今治城の前の文禄4年(1595年)に、同じ伊予(愛媛県)に、大洲城と宇和島城(現存12天守)をつくり、今治城の後の慶長13年(1608年)には、伊勢22万石に移封され、伊賀上野城、そして(安濃)津城を大改修しています。

 藤堂高虎は190センチを超える大男だったと言われますが、主君を8回とも10回とも言われるぐらい(仕方なく)変えて、足軽クラスの身分から大大名にまで出世した逸話は事欠かないのですが、茲では省略しておきます。

今治城(海城)天守から見えるしまなみ海道、手前右下に藤堂高虎像が見えます。

 天守からは、今治市と広島県尾道市を結ぶ全長60キロのしまなみ海道が見えました。バスガイドさんの説明では、瀬戸内海には725もの島々があるそうで、第1位は淡路島、第2位は小豆島、第3位は周防大島の順。

 今回のツアー参加者は16人だったと初日に書きましたが、失礼ながら、私がこれまで参加したツアーの中でも最低のメンバーだと思いました。何故なら、バスガイドさんの話はバスの中で身動きが取れないので聞かざるを得ません。一方、各お城に、結構年配の地元ボランティアガイドさんがいて、熱心に説明してくれますが、今治城では、グループの人たちは一切無視して、話も聞かずに自分勝手に見て回っていたのです。

 あまりにも気の毒だったので、私一人だけが、一生懸命に70代半ばと思われる男性ボランティアガイドさんの側にくっついて話を聞いてあげましたよ。

今治国際ホテルの超豪華ディナー

 今回のツアーでは、夕食は1回しかつかなかったのですが、今治で泊まったホテルの夕食は豪華絢爛で大変美味でした。2泊3日分の夕食でした(笑)。

今治城(海城)夜景 あ、失敗!
今治城(海城)夜景 大成功

 夕食後、バスガイドKさんのお薦めで、ライトアップされた今治城の写真を撮りに行きました。

 一応、今治市の中心街なのでしょうが、街中は薄暗いので驚いてしまいました。後で分かったのですが、街灯があまりなかったのです。でも、東京などの都心は真夜中でもライトが煌々とついていて昼間のようですから、考えてみれば、東京の方が異常だということになります。

 それにしても、今治城の夜景は素晴らしかった。海城ですから、海水の内堀に映る天守が見事です。「来て良かった~」と思いました。正直、2日目の高知城も松山城も今治城も甲乙つけ難いほど、どれも素晴らしかったでした。

つづく

徳島城、高松城、丸亀城=四国9名城巡り初日(上)

丸亀城 すんばらしい

 しばらくブログを更新しておりませんでしたが、11月20日(日)から22日(火)まで、2泊3日で、C社が主催する「四国9名城」巡りに行っておりました。何しろ、全国で現存天守12ありますが、そのうち四国にある4天守全部回ってくださるというので、9月の新聞広告を見て、直ぐ申し込みました。一人で四国中のお城巡りをしたら、交通費、タクシー代など幾ら掛かるか分かりません。旅程計画も大変。その点、ツアーに紛れ込んでしまえば、バスで安価で運んでくれます。こんな良いお買い物はない、というわけです(ちなみに、全国旅行支援が使えて、8万5640円だったのが6万9640円となりました。このほか、3000円×2泊のクーポン券付き)。

徳島城

 でも、正直、今回の旅行で、生きていく自信を少し失いました(苦笑)。今まで出来たことが簡単に出来なくなったことが分かったからです。加齢によるもので、綾小路きみまろの世界です。重症ではありませんが、注意欠陥症みたいな感じです。ホテルの部屋の鍵を室内に忘れるやら、100名城スタンプ台の側に大切な資料ファイルを置き忘れるやら、鬼より怖い御家人からの御土産メモを失くすやら、注意力が散漫するようになっていたのです。

徳島城

 体力も落ちました。初日の第一弾は徳島城(徳島県)でしたが、かなり急勾配の山城で、階段が正確には数えていませんでしたが、500段近くあったんじゃないかと思います。途中で何度も一息いれたほどです。あの身延山久遠寺の急勾配の階段「菩提梯」を思い出しました。

 そうそう今回のツアーは、結構、自由時間が多く、決まった時間までにバスに戻れば良いというシステムでした。食事も2泊3日で、朝食2回(ホテルのバイキング)、昼食1回、夕食1回しかなかったので、同行者とはあまり顔を合わせることはなく、まるで一人で旅行している感じでした。今回の参加者は16人で、ペアが5組、一人参加が6人(男女各8人)でしたが、一人参加者の2、3人の方と少し言葉を交わした程度で、勿論お名前も何処から来られたのか最後まで分からず仕舞いでした(笑)。

徳島城 蜂須賀家政公

徳島城は、既に南北朝時代に築城されましたが、豊臣秀吉の家臣として有名な蜂須賀小六(正勝)の嫡男家政が17万6000石の阿波の領主として天正13年(1585年)に入国し、蜂須賀家が幕末まで続きます。明治8年に城のほとんどの建物は解体され、太平洋戦争の際、米軍の空襲もあり、現在、建物は何も残っていません。

 この山城の「麓」には、現在、徳島市立徳島城博物館があり、入館しましたけど、どういうわけか何が展示されていたか覚えていないのです。ここでも、うわの空といいますか、注意力散漫を発揮してしまいました。はい、綾小路きみまろの世界です。(笑)。

 さて、バスに戻る時間が迫って来たので、戻ろうとしたところ、二又の道があり、「あれ?駐車場はどっちだっけ?」と迷ってしまいました。左の道を進むと、バラ園がありました。「あれ?来る時、バラ園なんか見なかった。もしかして、右に行かなければならなかったのか」と思い、元来た道を戻ると、C社のバッジを付けた同行者らしき女性二人連れがいたので、声を掛けたら、「この道で大丈夫ですよ」と仰るではありませんか。あれ?バラ園なんか全く覚えていません。そう言えば、来るとき、ガイドさんの旗ばかり見て、一生懸命についていき、周りの景色はあまり見ていなかったことに気が付きました。これを他山の石として、次回から、帰りに迷子にならないように、周囲の看板や景色を頭を入れておくことにしました。(とは言っても、もう一回、迷子になりそうになりました!=苦笑)

高松城

 第2弾は高松城(香川県)です。私の出身高校と同じ海城です。もっとも、こちらは「うみじろ」と読みますが、私の東京の新宿区にある高校は「かいじょう」と読みます(笑)。以前、NHKの「ブラタモリ」で放送されていたので、訪れるのを楽しみにしていました。

高松城 向こうに見えるのが二の丸から本丸に続く鞘橋(さやばし)

 山城で急勾配を登らなければならない徳島城と違い、高松城は海城(うみじろ)なので、平地です。戦さの時、大丈夫だったのかな、と心配したくなるほど散策しやすいお城です。もっとも、現在は、「玉藻公園」として公開されています。園内の総面積は約8万平方メートルもあるとか。

高松城 本丸に残る天守台 3層5階の天守は残ってません

 高松城は、天正16年(1588年)、ということは本能寺の変の6年後、豊臣秀吉の家臣生駒親正(ちかまさ)が築城し、生駒家4代54年間、水戸徳川の松平家(初代は水戸黄門の兄松平頼重)11代228年間にわたり居城した海城です。

高松城 復元された桜御門
高松城 艮(うしとら)櫓 有名な月見櫓は工事中でした

 城内には当時、天守のほか、約20もの櫓があったそうですが、空襲などで建物のほとんどが喪失しました。が、艮(うしとら)櫓などは残り、重要文化財に指定されています。他に、桜御門などが復元されました。松平藩時代に政庁・御殿として使用された被雲閣は、明治になって老朽化したため取り壊されましたが、大正6年に再建され、現在、事務所のほか、茶会、会議などで利用されているそうです。

 高松城巡りは、昼休み休憩も含み、2時間ぐらい自由時間がありましたので、この後、近くのJR高松駅に向かい、駅ビルの2階の「杵屋」で、名物の讃岐うどん(とり天、870円)を頂き、1階のコンビニ兼土産物店(高松銘品館)で上官の命令に従い、買い物をしました。

丸亀城(現存天守12)
丸亀城(現存天守12)

 初日最後の第3弾は、現存天守12のうちのひとつ丸亀城(香川県)です。高松城と同じ生駒親正が慶長2年(1597年)、築城を開始します。江戸時代となり、一国一城令により、一時、廃城となりますが、生駒家がお家騒動で所領が没収され、その後、山崎家、そして京極家が継いで、幕末まで続きます。

 大変見事な素晴らしいお城でした。高さ60メートルの日本一の高石垣を誇るそうで圧倒されました。

丸亀城(現存天守12)

 こりゃあ、凄い。(ここから、急坂を登るのに、大変つらい思いをさせられます!)

丸亀城天守 

 これが、3層3階の現存木造天守12の一つですが、意外と小さい。

 石落としや、弓や鉄砲を打つ狭間もしっかりあります。この天守は、四国の中で最も古く万治3年(1660年)に完成したそうです。

丸亀城二の丸辺りから見える瀬戸大橋

 丸亀城二の丸辺りから見える瀬戸大橋。バスガイドKさんの説明によると、瀬戸大橋は、6本の橋で出来ており、全長9368メートル。6本の橋のうち、5本香川県、1本岡山県にあるそうです。1988年に全線開通し、総工費は何と1兆1300億円だとか。

高知市のひろめ市場 四万十川の栗焼酎「ダバダ火振」

 1日目の3城の日程を消化して、バスは一路、この日に宿泊する高知市へ。北の香川県から南の高知県まで1時間40分ほど、高知高速道路を通って、その途中で四国山地(坂本龍馬が脱藩の際、登った)を突き抜けるわけですから、トンネルだらけでした。

 この日は夕食が付いていなかったので、バスガイドKさんお薦めの「ひろめ市場」に行きました。新阪急高知ホテルから歩いて7分ほどです。ホテルから高知城にも歩いて7分ほどで行けます。このホテルは、35年ぐらい昔、仕事で泊まったことがありますが、当時はお城にほとんど興味がなかったので、こんな近くにお城があったとは、灯台下暗しです。

 ひろめ市場は、大きな体育館のような建物に70軒の屋台のような居酒屋や御土産屋さんなどがひしめいています。私は見たことがありませんが、テレビの「ケンミンSHOW」という番組で何度か取り上げられたらしく、観光客でいっぱいでした。ほとんどの店が満席で、やっと「鰹処ぼっちり」という居酒屋前に相席を見つけて、座っていたおじさんに断って、座らさせてもらいました。

 鰹のたたき定食900円と土佐の地酒(名前は失念)、それに、相席のおじさんの薦めで四万十川の栗焼酎「ダバダ火振」も後で注文しました。お酒は色々と呑んで来ましたが、栗焼酎なんて初めてでした。

高知市ひろめ市場近くで 高知は坂本龍馬を始め、歴史上の偉人、有名人だらけです

 相席になったおじさんは、ちょっと変わった人で、70代前半といった感じ。三重県の四日市から来た、と言ってました。私も三重県出身の友人がいて、結構、三重県内は旅行したことがあるので話は弾みました。おじさんは、この時期、高知市で趣味の蘭の品評会があって、毎年、3日間ほど市内に泊まるそうです。高知には沢山の友人がいる、と仰ってましたが、独りで呑んでいたのは何故かしら。

 いずれにせよ、このおじさん、ご職業は何だったのか知りませんが、私が「城巡りで四国を旅行しています」と話したら、彼は異様に戦国武将に詳しいことが分かりました。私と互角に話が出来るのですから(笑)。そして、彼は三重県出身ということで、名古屋に対する尋常ならざる敵愾心を燃やしていました。

 「名古屋名物、と言われている(伊勢)海老フライもひつまぶしも味噌カツも、本当は伊勢名物なんですよ。伊勢の人間は宣伝が下手なんです。それに比べて尾張の連中は…」といった具合です。那古野(名古屋)は織田信長、豊臣秀吉、加藤清正、蜂須賀小六ら多くの戦国武将を生んでいますが、野心家さんが多いのかしら。

 三重県のおじさんが頼んだ餃子を一つだけ、あまりにも薦めるので、頂きましたが、そのうち、彼は何の挨拶もなく、プイと帰っていなくなってしまいました。

田野屋塩二郎「シューラスク」

 帰りがてら、バスガイドKさんが薦めていた田野屋塩二郎のシューラスクというお菓子を買ってみました。田野屋塩二郎さんという人は東京の人でしたが、30代半ばで一念発起して高知で、火力は使わず、天日と潮風だけに拘って塩づくりをしている方で、その塩は高級レストランのシェフらに大好評。もっとも、1キロ当たり100万円もするという超高級の塩で(ホンマかいな?裏は取ってませんが)、本物の塩は買えないので、せめて、お菓子を買ってみたのでした。

 甘くて、ほんの少ししょっぱい今まで食べたことがない不思議なお菓子でした。

つづく

念願の身延山久遠寺にお参り出来ました

昨日のつづき

 9月25日(日)、甲府は晴れ。甲府駅で身延線が全線復旧したことを確認し、前日、駅で予約していた特急ふじかわ4号(8時45分発)で身延駅へ。身延山久遠寺お詣りに再チャレンジです。

 JR東海身延線は単線でした。身延駅には9時38分着。9時45分発のバス・身延山駅には悠々間に合いました。この辺り、電車もバスも1時間に1本とか2本ですから、乗り過ごしたら大変です。

 何しろ、生まれて初めて独りで行く所ですから不安でした。身延駅から身延山終点までバスで12分ほどでしたが、途中で、久遠寺の「総門」があり、その巨大さに吃驚仰天し、不安も吹き飛んでしまいました。

身延山久遠寺 三門

 バス終点から、何となくこちらの方向だろうと、歩き始め、数分で三門に到着。これもあまりにも巨大で荘厳さがあり、圧倒されました。

 この三門の手前に、お土産店も兼ねた観光案内所があったので迷わず飛び込みました。私は食いしん坊の自称グルメですから(笑)、何処かランチが出来る店を紹介してもらおうと思ったのです。

 案内所の係の女性はとても親切な方で、沢山のパンフレットとマップ、それにロープウェイの(100円)割引券までくれるのです。ありがたや、ありがたやです。これで奥之院まで行けます。

菩提梯 高さ104メートル、287の石段

 いざ出発。三門を潜り抜けて、まず目に入ったのがこの急勾配の石段です。「菩提梯」と呼ばれ、高さ104メートル、287の石段があるというのです。

 ひょっえー、これは無理じゃあー。

 横道として、やや急な「男坂」と緩やかな「女坂」があり、私は男坂にすることにしました。

日蓮を身延の地に招いた鎌倉の御家人波木井実長の碑

 男坂の手前に、日蓮聖人を身延の地に招いた鎌倉の御家人で、甲斐国波木井郷の領主だった南部(波木井)実長の像と碑がありました。

 南部氏は、新羅三郎源義光の子孫で、甲斐源氏の加賀美遠光の子である南部三郎光行に始まるといわれています。その名字は甲斐国の南部郷から由来するといいます。その子孫は、近世になって南部藩(盛岡藩)の藩主となるわけです。

身延山久遠寺 五重塔 明治8年の大火で焼失し、2008年、133年ぶりに再建

 少し大袈裟ですが、息も絶え絶え、途中休憩しながら男坂をやっと登り、久遠寺境内に到着しました。

 最初にお迎えてしてくださったのは、この五重塔です。明治の大火で焼失していましたが、2008年に133年ぶりに再建されたといいます。

身延山久遠寺 本堂

 ついに本堂です。

身延山久遠寺 本堂

 本堂内は、靴を脱いで、自由にお参りできます。

身延山久遠寺 祖師堂

 本堂から祖師堂~報恩閣~拝殿~仏殿と建物内で「陸続き」になっており、それぞれのお堂を個別にお参りできます。

身延山久遠寺 祖師堂
身延山久遠寺 仏殿
身延山久遠寺 御真骨堂

 私自身はそれほど熱心な仏教徒とは言えませんが、このような聖地をお参りすると、さすがに荘厳厳粛な気持ちになれます。

 身延山に来られてよかった、身延山を参拝することが出来て本当によかった、と感謝の気持ちが沸き起こりました。

 これで、天台宗の比叡山延暦寺、真言宗の高野山金剛峰寺、浄土宗の知恩院、浄土真宗の東西本願寺、時宗の清浄光寺、臨済宗の建仁寺、曹洞宗の永平寺…と各宗派の総本山をほとんど制覇した感じです。この中で、高野山にはかなり圧倒されましたが、この身延山も比類なき聖地で圧巻でした。

 日本人だったら日蓮宗信徒でなくても、いや、世界の人類だったら誰でも、一度はお参りするべき寺院ですね、この日蓮宗総本山・身延山久遠寺は。

 何と言っても、人間の持つ信仰の力というものは凄まじい。あれだけ急勾配の石段や大伽藍をつくってしまうわけですから。

身延山第九十世 日勇上人のお言葉

 この後、ロープウェイで奥之院に向かう途中の境内で、「身延山第九十世 日勇上人のお言葉」が掲示されていました。

 このお言葉を読んで、私自身にも呼び掛けているようで、心が救われ、心が洗われ、少し涙が出て来ました。そして、これからも生きていけるような自信と勇気をもらいました。

身延山ロープウェイ 往復1500円⇒1400円

 午前11時発の身延山ロープウェイに乗りました。

 久遠寺駅(標高390メートル)から奥之院駅(同1153メートル)まで、全長1665メートル。時速18キロで所要時間7分です。と、パンフレットに書いてありました(笑)。

身延山 奥の院 思親閣

 また、そのパンフレットには、奥之院思親閣とは「日蓮聖人が身延山にご隠棲の9カ年の間、風雨厭わず山頂へ登られ、故郷房州小湊を拝し、ご両親お師匠様をお慕いなされた故事に因んで建てられたお堂」と書かれています。

 現代人はロープウェイに乗って、ズルしてしまいますが、日蓮聖人は風雨厭わず山頂へ登られたとのこと。日蓮聖人は凄い健脚だったんですね。

身延山奥之院 日蓮像

 日蓮聖人像は、鎌倉などで何像も、結構拝見したことがありますが、この像が一番御本人に似ているような気がしました。

 つまり、罰当たりになるのを恐れずに述べれば、日蓮聖人を妙に神格化せず、素の本人の姿絵がそのまま像になったように見えるのです。

日蓮聖人 お手植え杉

 日蓮聖人(1222年2月16日~82年10月13日)お手植え杉は樹齢750年を超えるといいます。

 日蓮聖人は西洋式に計算しますと、今年2022年は生誕800年、没後740年になります。が、日蓮宗では数え年を採用されているようで、昨年2021年を「日蓮聖人降誕800年」とされているようでした。

身延山 奥の院 思親閣

 どうも私はせっかちな性格なもので、11時20分発の下りのロープウェイに乗車してしまいました。山頂滞在時間、わずか20分でした(苦笑)。

菩提梯 下り287段 

 久遠寺境内を再度散策した後、いよいよ帰りです。

 今度は下りですから、菩提梯の石段に挑戦しました。公称287段となっていますが、私が勝手に数えながら降りたら294段になりました。恐らく数え間違いでしょう。

身延山 旅館山田屋 喫茶園林 ハヤシライス1200円

 さてお昼時。先ほどの観光案内所で頂いたパンフレットで目を付けていたお店に何軒か行きましたが、日曜日のせいか、閉まっていたり、「ご予約様のみです」と断られたりしてなかなか見つかりません。

 結局、身延山バス停留所の真向かいにある「喫茶 園林」に入り、ハヤシライスを頂きました。

日蓮聖人 草庵跡 御廟

 さあ、ご飯を食べてエネルギーを補給できたので、次に向かったのは、日蓮聖人の草庵跡と御廟です。

 「喫茶 園林」から3~4分で三門に戻り、三門から「草庵跡・御廟」の入り口まで歩いて6~7分。

日蓮聖人 草庵跡 御廟

 でも、入り口から草庵跡までが意外にも長かった。誰もいない坂道を10分ぐらい歩いてやっと草庵跡に辿り着きました。

日蓮聖人 草庵跡

 「ここだったのかあ」という感慨が押し寄せました。

 日蓮聖人は、修行三昧の生活で、冬は極寒で、寒さと飢えに苦しみ、胃腸病も患っていて大変な思いをされたことを手紙等に書き残されておりました。(久遠寺境内と比べ、体感温度はここは3~4度低い感じがしました。何でここに草庵を結んだのか不思議でした)

 近くに川が流れておりましたが、魚を獲るなど殺生もできるはずありませんからね。

日蓮聖人 御廟

 草庵跡からさらに先に進むと、1~2分で御廟です。

 後から来た50代ぐらいの男性が靴を脱いでここに上がって、独りで法華経を唱えていました。

日蓮聖人 御廟

 日蓮聖人は、亡くなったらこの身延の地に葬ってほしい、と言い残されたとされます。その通り、ここで静かに眠っておられると思うと、感無量になりました。随分、立派な御廟です。

 身延山にお参り出来て本当に良かったと思いました。

下部温泉

 25日は、下部温泉「湯元ホテル」に予約していたので、身延から下部温泉駅まで、また身延線で甲府方面に戻りました。

 今回、不思議なことがありました。行きの甲府から身延線で身延駅で降りて、身延山行きのバスに乗ったら杖をついた40代後半ぐらいの男性と一緒になりました。その方も久遠寺にお参りする感じでした。そして、11時発のロープウェイに乗ったら、またその男性と一緒になりました。お顔をジロジロ見たわけではないのですが、杖をついておられたので直ぐ分かりました。そして、何と、身延から下部温泉駅で降りたら、またまたこの男性と一緒になったのです。何という偶然でしょうか。「仏の顔も三度まで」なのか、その後、もうお会いすることはありませんでしたが、不思議だなあと思いました。

 湯元ホテルは、高浜虚子や海音寺潮五郎がよく贔屓にして泊まっていたという宿だったので、ここを予約したのですが、かなり建物も古くなり、昭和というか大正の感じがしました。

 夜の料理は、生ビールがサービスで付き、刺身あり、ステーキありで意外と豪華でした。温泉もゆっくり堪能出来ました。

【追記】

 台風15号による豪雨で、静岡では甚大な被害を受けました。御見舞い申し上げます。

危うし、身延山に参拝できず?甲府城に予定変更

 9月24日(土)~26日(月)、2泊3日の小旅行に行って参りました。主目的は、日蓮宗総本山「身延山久遠寺」参拝です。

 そしたら、ぎゃびーんですよ。JR中央本線、特急あずさ9号で甲府駅に向かう途中、車内アナウンスで、台風15号の影響で、身延線が「終日運休」だというのです。えっ?24日は、身延山久遠寺の宿坊「覚林坊」に宿泊する予定で、1カ月以上前から予約していました。

 どうしよう?

 覚悟を決めました。キャンセルしかない。だって、身延まで行けないのですから。当日キャンセルなので、100%キャンセル料が戻って来ないことが分かっていましたが、仕方ありません。このまま自宅に戻ろうか、迷いましたが、そうだ、甲府の何処かで一泊して、翌日に再チャレンジすることにしました。だって、甲府の山梨県はカンカン晴れで、翌日の予報も晴天だからです。

 そこで、車内で、代わりのホテルのネット予約をスマホで検索しました。1軒目、満員。2軒目、満員…。そりゃそうでしょう。当日になって、空いている方がおかしい。そして、6軒目でやっと駅前北口1分のビジネスホテルが見つかりました。「残り1室」!プチ! ジャニ―喜多川さんの「ユー、やっちまいな」の声が聞こえてきました。

甲府駅に展示された案内板

 甲府駅の改札で駅員さんに確認すると、「終日運休」は確かでした。しかし、何処となく無責任というか、他人行儀でした。被害者の親身になってくれません。

 後で分かったのですが、甲府駅の東京~松本を通る中央本線はJR東日本ですが、甲府~静岡を走る身延線はJR東海と会社が違っていたのです。もしかして、駅員はJR東日本の社員だったので、他社のことだから、という気持ちが態度に出たのかもしれません。

 今回、台風15号が静岡で1日に1カ月分の大雨を降らせる大被害を齎したので、身延線が止まってしまったわけですが、身延線は「すぐ運休する」ことで地元では有名だったようです。

 駅構内で、覚林坊に電話して、事情を話して、当日キャンセルしてもらいました。

 そしたら、吃驚です。

甲府駅北口にある武田信虎像

 もう一度、先方から折り返し電話があり、今回は不可抗力でお越し頂けなかったわけですから、宿泊料は頂くことが出来ませんというのです。次回、機会がありましたら、御願いしますということで、キャンセル料(事前予約、クレジット決済)を返還してくれるというのです。

 随分、良心的です。500年の歴史があるという身延山久遠寺の覚林坊。皆さんも覚えておいてください。

甲府・武田氏館跡

 さて、甲府駅に午前10時半頃到着し、ホテルのチェックイン(15時)まで随分時間があるので、武田神社に行くことにしました。ここは勿論、武田信虎、信玄、勝頼と三代に渡って屋敷を構えた、別名「躑躅が崎館」跡です。

 時間があれば、最終日に行く予定でしたが、逆転した格好です。

 甲府駅北口のロータリーからバスで10分ほどで着きました。(バス停を探すのに苦労しましたが)

 武田神社の拝殿前の階段を登り切ったところに、「太宰治の愛でた桜」の看板がありました。

 あ、忘れていました。太宰治は新婚時代、妻美知子さんの実家のある甲府で約8カ月間過ごし、「富嶽百景」や「女生徒」「新樹の言葉」などの名作を生んでいました。

 太宰の甲府時代は、小説を執筆した御坂峠の天下茶屋が有名ですが、当然、武田神社も訪れていたんですね。

甲府・武田神社

本殿にて、ウクライナ戦争の一刻も早い終結と人類の平和と皆さんのご健康もお祈りしました。

躑躅が崎館跡
武田神社

 神社内には能舞台までありました。

躑躅が崎館跡

 旧大手門の外に出ると、躑躅ヶ崎館跡の石垣が見られました。

躑躅ヶ崎館跡
躑躅ヶ崎館跡 あの石垣らしきものは何?

 いまだ調査、発掘、整備の途中のような感じがしました。

 遥か先にも石垣が見えましたが、年を重ねたせいか、ちょっと、体力と気力がなく、近くまで行きませんでした。恐らく、気温30度ぐらい。汗が出てしょうがありません。

 昼時だったので、日蔭のベンチで、昼食用に持って来たお握りを頂き、取り敢えず、バスの時刻に合わせて、甲府駅に戻ることにしました。(独り徒歩旅行は、電車やバスの時刻を絶えず気にして手配しなければならないので、心がいつもざわついて落ち着きません。神経が疲れます)

甲府城(舞鶴城)公園

 甲府駅に着いて、反対の南口にある甲府城跡を目指しました。

 甲府城は、武田氏滅亡後、豊臣秀吉の命により築城されました。徳川体制になってからも西側への防衛として改築したり、増築したりして、重要性を保持したといわれています。

 甲府城の最も有名な城主は、五代将軍綱吉の側用人になった柳沢吉保でしょう。(東京・駒込の六義園は、柳沢吉保の別邸だった)

 私自身は、甲府城と言えば、幕末、最後の起死回生を図って甲府城を攻めた新選組の近藤勇を思い浮かびます。

甲府城(舞鶴城)公園

 でも、実際、足を運んで見て、その広さと堅固さに驚きです。

 これは、本や文字では全然分からなかったことでした。

甲府城(舞鶴城)公園 天守台

 近藤勇が甲府城を落とせなかったのがよく分かりました。

甲府城(舞鶴城)公園

 まるで要塞です。いや、要塞そのものです。

甲府城(舞鶴城)公園 天守台から臨む

 天守から見下ろせば、敵の動静が丸見えです。

甲府城(舞鶴城)公園

 とにかく、急峻で、鎧兜で登るとなると息も絶え絶えです。

 それに広い、広い。それなのに、これでも、敷地は、旧跡の3分の1しか残っていないというのです。

甲府城跡

 甲府駅の北口にもこうして山手門が復元されています。

甲府駅と甲府城櫓

つまり、甲府城郭のど真ん中にJR中央本線が走っていたのです。

甲府城跡

 だから、甲府駅の南口だけでなく、北口にも城郭跡が残っているのです。

甲府城天守台

 甲府駅北口側に戻ると、こうして、線路を挟んで南口にある天守台が見えるわけです。

甲府駅南口

 甲府城と武田氏とは関係がありませんが、甲府というか、山梨というか、甲斐の国・甲州が産んだ最大の英雄は武田信玄でしょう。(雨宮敬次郎、根津嘉一郎や小佐野賢治といった「甲州財閥」も有名ですが)

 甲府駅の北口には信玄が追放した父親の信虎像が、2019年に建立されましたが、南口の武田信玄像は結構古いと思います。もう40年ぐらい昔、友人の今村君と急に昇仙峡で釣りをしようということで出掛け、この武田信玄像も拝謁したことを覚えています。当日、何処に泊まったのか、全然覚えていませんが、この信玄像だけは如実に覚えています。(調べたら、信玄像は1969年に完成。当初は駅前噴水の南側にありましたが、1985年、駅前広場の整備で現在地に移設されたそうです。)

甲州ほうとう「小作」(甲州駅北口)

 ホテルニューステーションにチェックインした後、夕食は、このホテルの隣の隣の隣にある「甲州ほうとう 小作」にしました。

 甲州の名産といえば、ほうとうでしょう。小作は結構有名店のようで、店内には有名人のサイン色紙が結構貼ってありました。

甲州ほうとう「小作」豚肉ほうとう1500円

 選んだのは、豚肉ほうとうです。

 甲州は山岳地帯が多く、平野が少なく、お米が取れません。それで、お米が取れる領地獲得のため、武田信玄は、上杉謙信や北条氏、織田信長らとの戦いを余儀なくされたという説があります。

 ほうとうは、信玄が陣中食として考えたという説が有力です。まあ、太いうどんと野菜や肉を煮込んだ鍋と言っても間違いなさそうです。戦うための栄養満点といったところでしょうか。

甲州ほうとう「小作」ワイン500円 チリ産だった!

 甲州に来たからには、「甲州ワイン」は欠かせません。今や世界的ブランドです。この店の小作ワインを注文して、ラベルを詳しくみたら、何と「チリ産」と書いてありました。

 ありゃあまあ、てな感じでした。

(つづく)

「鎌倉殿の13人」NHK大河ドラマ館、鎌倉国宝館、鎌倉歴史文化交流館へ小旅行

 いざ、鎌倉へ。

鎌倉・鶴岡八幡宮 二の鳥居

 月刊「歴史人」の読者プレゼントで、「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館の入場券が当選したので、平日に有休を取って、行って参りました。

 平日にしたのは、鎌倉は一大観光地であり、今年のNHK大河ドラマで鎌倉が舞台になっており、週末は相当混むと予想したからでした。

鎌倉・鶴岡八幡宮

 案の定、「鎌倉の原宿」のような小町通りを始め、平日だというのに人混みでいっぱいでした。特に、中学生か高校生らしき少年少女が、秋の遠足か修学旅行で、団体でいっぱい押し寄せておりました。

鎌倉・鶴岡八幡宮

 それに輪をかけたのは、9月14日(水)~16日(金)は鶴岡八幡宮の例大祭に当たっていたことです。一般の参拝者も多数詰めかけておりました。

 例大祭ということで、こうして、一の鳥居付近で、「鎌倉囃子」が演奏されていました。

「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館

 取り敢えず、「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館に向かいました。場所は、一の鳥居を入った八幡宮内の「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」にありました。

 入場は日時指定だったため、ネットで事前に申し込んでおきました。そのため、超満員ということはなく、ゆったりと落ち着いて見学できました。

「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館

 個人的に、最近、大河ドラマ館によく足を運んでおりまして、2017年の「おんな城主 直虎」(井伊直虎=浜松市)、2020年の「麒麟がくる」(明智光秀=岐阜県)、2021年の「青天を衝け」(渋沢栄一=東京都北区飛鳥山)以来4度目です。

「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館

 これまた、個人的な話ですが、私がNHKの大河ドラマにハマったのはつい最近のことです。子どもの頃見ていたのは、「源義経」(1966年)と「天と地と」(1969年)と「樅ノ木は残った」(1970年)ぐらいでした。

 あとは、長じで、仕事として見ることになった「太平記」(1991年)だけです。後は、タイトルを知っていても、中身はほとんど見ていませんでした。

「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館

 それが、どういうわけか、大河ドラマにハマって見るようになったのは、2016年の「真田丸」からです。それ以降の「おんな城主 直虎」「西郷どん」「いだてん~東京オリムピック噺~」「麒麟がくる」「青天を衝け」「鎌倉殿の13人」と、7年連続、大体見ています。

 こうして振り返ると、月日の経つ速さには唖然としてしまいます。

「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館

 その、今年の「鎌倉殿の13人」ですが、正直、あまり、面白くありませんね。分析すれば、スタジオ撮影が多く、野外での合戦シーンがほとんどないせいだと思います。

 本来、源平合戦と内部抗争の話で、おまけに平泉での源義経追討の合戦も見どころだったはずなのに、弁慶の立ち往生もないのですから、拍子抜けしました。

鎌倉・鶴岡八幡宮

 大河ドラマ館は30分ほどで引き揚げて、鶴岡八幡宮に久しぶりにお参りすることにしました。

 鶴岡八幡宮は1063年、河内源氏2代目の源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮を鎌倉の由比郷鶴岡に鶴岡若宮として勧請したのが始まりと言われています。

鎌倉・鶴岡八幡宮

 それを現在にも残っているような若宮大路を整備し、鶴岡八幡宮を移して拡張したのが、1185年に鎌倉幕府を開いた源頼朝でした。若宮大路は、妻政子の安産祈願も兼ねていたようです。

 八幡宮ですから、武運の神をまつっています。

 鶴岡八幡宮では、「応神天皇」「神功皇后」「比売神」の三柱の神様を御祭神としてお祀りしています。

 八幡宮内では、流鏑馬や相撲や放生会などの「神事」が行われ、鎌倉の精神的、文化的支柱になっていたようです。

 私も、普段より多めのお賽銭を奮発し、ウクライナ戦争が早く終わるよう世界平和と万人の健康をお祈りし、またまた健康長寿のお守り(800円)を買い求めました。

鎌倉国宝館

 大河ドラマ館は、想像していた通りでしたが、大いに期待したのは、大河ドラマ館の入場パンフレットを提示すると、鎌倉国宝館(大人300円)と鎌倉歴史文化交流館(同)に無料で入場できることでした。そのため、事前にホームページで、両館の休館日をチェックして、日曜日と月曜日を避けることにしたのでした。

 この中で、鎌倉国宝館は大正解でした。館内での写真撮影は出来ませんでしたが、国宝、重要文化財の仏像(如来、菩薩、明王、天)や高僧像などがズラリです。私が特に感動したのは、本などの写真ではよく拝見していた「北条時頼坐像」(重文)を目の前で見ることができたことです。思わず、「えっ? これ本物?」と声をあげそうになりました。

 北条時頼は第五代執権で、三浦泰村一族を滅ぼすなど得宗独裁政権を確立した人でもあります。一方で、仏教、特に禅宗に信仰が篤く、蘭渓道隆を招いて鎌倉五山第一位の建長寺を建立しています。

 晩年は出家して、最明寺の入道とも呼ばれ、日蓮が「立正安国論」を献本したのがこの最明寺の入道であり、能の「鉢の木」や「徒然草」などでも登場します。

鎌倉歴史文化交流館

 次に向かったのが、「鎌倉歴史文化交流館」です。地図で見ると、若宮大路の二の鳥居辺りで、西に進み、小町通りを突っ切り、東海道線の踏切も渡り、くねくねした軽い坂道を登ったところ(扇が谷)にあるようでした。

 9月半ばだというのに、30度の暑さで、辿り着くだけでふうふうでした。

鎌倉歴史文化交流館

 館内では、「吾妻鏡」の原本(写本)らしきものが展示されていたり、大佛次郎、川端康成ら「鎌倉文士」の足跡を辿るビデオが流れたりしていました。

鎌倉「カフェ ミルクホール」

さて、昼時になったので、一度行きたかった鎌倉「カフェ ミルクホール」を目指しました。

今は便利な時代になり、スマホのグーグルマップで検索して、「徒歩」を押すと、自動車のナビゲーターみたいに、「次を右折して」とか「次を左折して」とか言ってくれるのです(笑)。

 いやはや、本当に便利な時代になったもんです。

鎌倉「カフェ ミルクホール」オペラライス・セット 1300円

 鎌倉「カフェ ミルクホール」のお目当ては、白クリームのオムライスであるこの店の名物「オペラライス」です。随分昔に、何かの雑誌か、テレビで知ったもので、いつか一度、チャレンジしたいと思っていたのです。

鎌倉「カフェ ミルクホール」オペラライス・セットの珈琲とデザート 1300円

 オペラライスは上品な味でしたが、量はそれほど多くないので、若い男性諸君では物足りないかもしれません。

 が、私のような年配者なら大丈夫です。昭和初期のミルクホールというより、大正ロマンを感じさせる店の雰囲気は何物にも代えがたく、ゆっくり落ち着けました。

熱田神宮の草薙神剣は本物だった?

 渓流斎ブログの「熱田神宮と「自宅高級料亭化」計画=名古屋珍道中(下)」で、「宝物館」の受付の女性と大口論寸前にまでいった話を書きました。

 熱田神宮には、「三種の神器」の一つである草薙神剣を所蔵されていると言われますが、壇ノ浦の戦いで、安徳天皇とともに海中に沈んでしまったというので、「こちらの草薙神剣は本物ですか? 本物は壇ノ浦に沈んでしまったのではないですか?」と受付の人に聞いたら、「いえ、あちらは形代(複製?)でしたから、本物の神剣は非公開ですけど、ちゃんとこちらで所蔵しております。何なら、神職を呼びますかあぁぁーー!?」と怒られた話を書きました。

 正直、私自身はあれからずっと「わだかまり」を持っていたのですが、自宅書斎で積読になっていた古い雑誌「歴史道」第20巻「古代天皇の謎と秘史」特集(朝日新聞出版、2022年3月15日発行)の稲田智宏氏の書かれた「三種の神器に隠された真実」を読むと、少し疑問が氷解しました。

 稲田氏によると、三種の神器は、第10代崇神天皇が「畏れ多い」ということで、「本体」のほかに、新たに神鏡(八咫鏡=やたのかがみ)と神剣(草薙神剣)の「分身」を作らせたといいます。三種の神器の残りの八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)はそのままです。ちなみに、初代神武天皇と「欠史八代」と言われる二代綏靖天皇から九代開花天皇までは「神話の世界」で実在性を証明するのが乏しく、10代崇神天皇こそが初代天皇だという説があります。

アベノマスクがハンケチに変身?

 いずれにせよ、まず、八咫鏡の本体は伊勢神宮に伝わり、現在でも伊勢神宮の内宮に収められていて、壇ノ浦の戦いで沈んだのは「分身」の方で、しかも、無事に回収されて、宮中に伝わり、現在は皇居賢所にあるといいます。

 八尺瓊勾玉も壇ノ浦の戦いでいったん海中に投げ出されましたが、無事に回収されて、宮中に伝わり、現在は皇居の剣璽の間に収められているといいます。

 さて、最後は問題の?草薙神剣です。壇ノ浦の戦いで海中に沈んでしまい、回収できなかったのは、「分身」の方でした。「本体」の方は、そのまま尾張の熱田神宮に伝わり、現在も所蔵されているというのです。熱田神宮の宝物館の受付女性の主張は正しかったわけです!

 海中に沈んだ分身の剣の方は、その後、鎌倉時代に伊勢神宮が新たに「草薙剣」として再生して天皇に進上し、これが宮中に伝わり、現在、八尺瓊勾玉と同じく、皇居の剣璽の間に収められているといいます。

 とはいえ、「本体」の草薙神剣とは、そもそも、スサノオノミコトがクシイナダヒメを救うために退治した八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の尾から出てきたとされています。これが天照大御神の所有物となり、伊勢神宮に奉仕する初代斎宮・倭姫命に渡ります。倭姫命は、東国平定に向かう甥の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)にこの神剣を渡し、日本武尊は、途中の駿河国で、この剣で草を薙いで火を避けることができたことから、「草薙剣」の名前の由来になったといいます。(現在、静岡市清水区に草薙の地名が残っています)

 つまり、神話の世界の話なので、科学的エビデンスを示せと言われれば、難しいかもしれません。しかし、信仰の世界なので、熱田神宮の草薙神剣は「本体」であることを信じてお参りすれば良いだけの話です。

 私は熱田神宮では「健康長寿」のお守りを買いましたから、「本体」であることを信じることにしました。何か問題でも?

【追記】

 鎌倉幕府をつくった源頼朝は尾張生まれ、と聞いて、えっ?と思ってしまいました。

 実は、頼朝の生母由良御前(源義朝の正室)は、熱田大宮司・藤原季範の娘だったので、頼朝は熱田で生まれたのでした。

 頼朝も熱田神宮と関係があったとは驚き。

 宝物館の受付女性に、もし、このことを確かめるために、「本当ですか?」と聞いたら、女性は、今度は「本当です。何なら、大宮司を呼びますかあぁぁぁー!?」と怒られそうですね(笑)。

熱田神宮と「自宅高級料亭化」計画=名古屋珍道中(下)

(昨日のつづき)

 5月15日(日)~16日(月)の名古屋珍道中の続きです。二日目、16日のお話です。ホテルでは一応よく眠れたのですが、疲れが全く取れていません。それにまだ風邪が治りきっていないので、元気もありません。チェックアウトの11時まで、そのまま寝ていようかなあ、と思ったぐらいです。

 でも意を決して出掛けました。朝のバイキング、ちょっと欲に駆られて食べ過ぎて、少し腹ごなししなければいかんかなあ、と思ったからでした。目指すは、熱田神宮です。昨晩は、旧友のK君から、乗るべき名鉄線の在り処などを丁寧に教わっていたのですが、それでも、名古屋は複雑で、右往左往状態でした。駅員さんに聞いたのですが、「4番線や」というだけで、何行きに乗ったらいいのか、さっぱり分かりません。それに、特急やら準急やらあって、止まるかどうか分からないので、各駅の普通列車が来るまで暫く待ちました。

名鉄・神宮前駅 「チカンやめますか」「仕事やめますか」…そんなにいるのかなあ

 スマホで「名古屋~熱田神宮」と検索したら、何と東京から熱田神宮へのルートが出てきました。何で? しかも、降りる駅名は「神宮前」です。熱田神宮の「あ」の字も出てきません。もう破れかぶれになって、電車に乗り込み、その「神宮前」で降り、案内看板に「熱田神宮」と初めて「熱田」を見つけたので、その方向に降りて、ようやく辿り着きました。

 案外広い神宮でした。「日本の三大神宮」かと思ったら、日本書記によると、三大神宮とは「伊勢神宮」「出雲大神宮」「石上神宮」(奈良県天理市)を指すようですね。三種の神器の一つ「草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)」を所蔵するこの熱田神宮は三大神宮の中に入っていません。延喜式神名帳には記された日本三大神宮でも、「伊勢神宮」「鹿島神宮」「香取神宮」となり、熱田神宮は入っていません。ただ、「伊勢神宮」「熱田神宮」「明治神宮」を日本三大神宮とする説もあるようです。

熱田神宮 本宮

 とにかく、本宮にお参りし、本宮横の売店、なんて言っちゃ怒られますね。調べたら、「本宮授与所」というらしいのですが、そこで「お守り」を購入致しました。これでも私は、強欲な人間ですから、買うものは決まってます。お金も地位も名誉も、そんなもんは吹けば飛ぶような将棋の駒みたいなもんです。何と言っても、この世で一番欲しいものは…?そう、私は「健康長寿」のお守りを迷わず購入しました(笑)。一千円也。

熱田神宮 樹齢1000年以上の大楠(空海上人、御手植えと伝わる御神木(直径7.7メートル、高さ20メートル)

 帰りの途中に、「剣の宝庫 草薙館」と「宝物館」(共通券800円)にも立ち寄りました。でも、そこの入口の受付の女性とはちょっとした言い合いになりました。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、壇ノ浦の戦いで、「三種の神器」は安徳天皇とともに海中に沈んでしまった、とやっていたので、「こちらの草薙神剣は本物ですか? 本物は壇ノ浦に沈んでしまったのではないですか?」と受付の人に聞いたら、「いえ、あちらは形代(複製?)でしたから、本物の神剣は非公開ですけど、ちゃんとこちらで所蔵しております。何なら、神職を呼びますかあぁぁーー!?」と反駁されてしまいました。

 別に口論しに来たわけではないので、「じゃあ、NHKは間違ってたんですね。別に神職さんをお呼びしなくて結構ですよ」と言ってそそくさと退散しました。女性は、実に怖い形相でしたからあー。

名古屋「御器所亭」 八海酒造のライディーンビール「ピルスナー」と串焼き・名古屋コーチンのキモとハツ

  ちょっとお参りしただけで、もう(少し)フラフラでしたので、そのまま旧友K君が住む1Kの「大豪邸」に行くことにしました。学生時代は、ちょくちょく酔っ払ったまま、彼の下宿(上板橋、千石、田園調布、雪が谷大塚)に泊まらせてもらったものでしたが、今回の彼の塒(ねぐら)では、狭くてとてもお爺さん二人で泊まれないということで、ホテルを取ったわけです。

 彼の「豪邸」は、名古屋から市営地下鉄桜通線の「御器所」駅から歩いたところにありました。「御器所」と書いて、「ごきそ」と読みます。まず、読めませんね(他にこの路線には高岳=たかおか=とか徳重=とくしげ=とか難読駅があります)。でも、ここは熱田神宮に奉納する器をつくっていた工房があった所だったことから付けられた由緒ある地名でした。今回、熱田神宮とは御縁がありました。

名古屋「御器所亭」 伊賀の銘酒「瀧自慢」 こりゃうめえ

 K君からは、「遅くても13時まで来てください」という話でしたが、もうクタクタで、織田信秀が北野天満宮から菅原道真像か何かを勧進した「桜天神社」にお参りすることも薦められましたが、気力がないので、早めに着いてしまいました。時計を見ると午前11時前でした。何しろ初めて行く所です。今は、Googleマップという便利なものがあるので、住所とスマホを頼りにやっと、彼のアジトを発見することができました。が、表札がない! しかも、彼はスマホを紛失しているので、連絡の取りようがない! 恐る恐るピンポンすると、反応がない! どないなっとるんねん???

名古屋「御器所亭」 愛知県設楽町の関谷醸造「一念不動」 これは格別、こんな旨い酒が世の中にあったとは!

 彼の自宅に押し掛けたのは、彼はちょっとしたセミプロの板前さんで、「自宅高級料亭化」計画を実施してくれたからです。何しろ懐石料理なんて大得意。そんじょそこらの料亭が吃驚するぐらいの料理を出してくれるのです。もしかして、今頃、食材の買い出しに出掛けたんだろうなあ、と予測が付きました。そこで、近くに喫茶店でもあれば時間を潰せるので、探したのですが、見つかりません。再び、彼のアジトに戻って、敷石の上に座って休んでいたら、15分ほどで、やはり、大きな荷物を下げて彼は戻って来てくれました。

 最初は「何か、手伝ってくれ」という話でしたが、すぐに「邪魔だからあっちに行ってくれ」ということになり、私も目の前に用意してくれたお酒を手酌で昼間からグイグイいくことにしました。

名古屋「御器所亭」 関谷醸造「一念不動」と活き車海老刺身 その前に伊勢湾産の栄螺壺焼き 実に合う!

 そのお酒は、何日も前から事前に用意していてくれたらしく、「八海山」で有名な八海酒造のライディーンビール「ピルスナー」、伊賀の銘酒「瀧自慢」、そして、愛知県設楽町の関谷醸造「一念不動」と生まれて初めて呑む酒ばかりでした。東京の田舎なんかじゃとても呑めない最高級のお酒ばかりでした。癖がなく「浄水」のようにグイグイ呑めてしまうのです。

名古屋「御器所亭」 伊賀の銘酒「瀧自慢」と、本場中の本場、その手は桑名のハマグリのしゃぶしゃぶ

 料理も、最高級、名古屋コーチンのキモとハツの串焼き、まだピョンピョン生きていた車海老の刺身、その手は桑名のハマグリのしゃぶしゃぶ、鰹とカンパチの刺身とその握り寿司、そして、締めは蚕豆、車海老入り卵雑炊と至れり尽くせり。ただ、病身の彼もついに力尽きて、予定していた自家製イチゴ添えアイスクリームと天麩羅はお預けとなりました。

 K君とは14年ぶりの再会で、積もる話がたくさんあったはずでした。でも、いったん、顔を合わせると、心で語ることが多く、また「美味い、旨い」と、呑んだり食べたりすることが忙しくなり、そんな煩わしい話をするのも馬鹿らしくなりました。

名古屋「御器所亭」 鰹とカンパチ刺身 キュウリの塩麹浅漬け。鰹とカンパチは後で握り寿司の御提供

 昔、名探偵ホームズの英語の副読本の中で、ホームズと友人のワトソンが顔を合せた時、お互いほとんどしゃべることがなく、確か、Old friends do not talk.(旧友というものは、お互いあまり喋らないものだ。)といった言葉が出てきたと思います。まあ、それに近いです。

 そのため、二人の共通の友人で、昨年亡くなったY君の思い出話とか、それに纏わる酷い不条理な話とか、野暮な話はやめることにしました。

 その代わり、萬古焼とか川喜田半泥子とか北大路魯山人の話をしました。萬古焼は、今の三重県四日市市と菰野町に窯元があるそうです。半泥子は、百五銀行の頭取も務めた実業家ながら、50歳過ぎて陶芸を始め、「東の魯山人、西の半泥子」と呼ばれた人です。半泥子は、今の三重県立津高校出身で、K君の同郷の先輩に当たりますが、「魯山人となんか比べものにならん」と一刀両断でした。

 確かに、魯山人は陶芸家、料理家、書家、美食家として超一流というか、怪物でしたからね。人間的にお付き合いはしたくないですが、一度、彼の作った陶器(約百万円)で酒を呑んだり、食事したりしたいもんです。

名古屋「御器所亭」 ハマグリの出し汁に北海道産高級米と車海老と蚕豆と卵入り雑炊 

 実は、K君は4月に倒れて救急車で運ばれ、1週間入院し、5月も救急車を呼ぶなど健康問題を抱えていました。「俺はいつも人と会うとき、これが最期ですね、と言って会ってる」というので、私も「変なこと言うんじゃないよ。俺はまだ、オヌシの天麩羅とアイスクリームを喰ってないんだからな。次は絶対、天麩羅とアイスクリームを喰わせてくれよ。大枚払うから。もうここの場所も覚えたから大丈夫」と檄を飛ばしておきました。

 これは勿論、冗談ではなく、本心でした。

【追記】2022年5月19日

 K君のスマホ、やはり、中村公園で見つかったそうです。よかった、よかった。届けてくださった名古屋市民の皆様、有難う御座いました。

 

旧友を訪ねて 43年ぶり再会も=名古屋珍道中(上)

 5月15日(日)~16日(月)、一泊二日で、名古屋に住む大学時代の旧友K君のお見舞いも兼ねて、小旅行を敢行しました。1日目だけは、大学時代の後輩で、今や有名私立大学の教授にあらせらる山上君もお住まいの浜松から飛び入り参加してくださり、実に充実した日々を過ごすことができました。

 とはいえ、最初からかなりのトラブル続きで、まるで我々の人生を象徴しているかのようでした(苦笑)。何しろ、山上君とは大学卒業以来一度も会ったことがなく、42年か43年ぶりの再会。K君とも、彼は記憶力抜群で、最後に二人で会ったのが、東京・銀座で、2008年12月31日以来だといいいますから、14年ぶりぐらいです。

 三人の共通点は、同じ大学の音楽倶楽部仲間ということです。それでも、43年ぶりともなると、昔の面影も何もなく、浦島太郎さんが玉手箱を開けて、「あっと言う間に、お爺さん~」ですから、果たしてうまく再会できるのやら…。

 待ち合わせ場所は、新幹線出口(太閤通口)を降りた「銀の時計」前ということでしたが、「いない!」。K君に電話しても出ない。それじゃあということで、山上君に電話しても出ない!どないなっとるんねん???もしかして、反対側の出口(桜通口)かな?と思って、右往左往して銀の時計に戻ったら、いたいた。「あれっ?電話したのに」と二人を責めると、「あれ?え?」と悪びれた様子もない。お爺さんは耳が遠いので電話が鳴っても気が付かないことが判明しました。これがトラブルの第一弾、先が思いやられます。

名古屋・豊国神社

 この後、私の宿泊するホテルに荷物を預けて、タクシーで向かったところは中村公園です。ここは天下の豊臣秀吉の生誕地であり、豊国神社が建立されていました。

名古屋・豊臣秀吉生誕地

 豊臣秀吉は、名古屋生まれだったのです。看板にある通り、「秀吉は1536年、木下弥右衛門の子として生まれた」とあります。この木下弥右衛門がどんな人物だったのか、諸説ありますが、単なるドン百姓(差別用語)ではなく、中村の長(おさ)だったという説があります。つまり、村長さん、恐らく大地主か庄屋クラスでしょう。秀吉は、最底辺のどん底から這いあがって立身出世した歴史上最大の人物とされますが、もともとある程度裕福な特権階級だったんじゃないかと思います。哀しいかな、無産階級では教育も受けられませんし、ゼロだと何も生まれませんから。

太閤秀吉功路 最終地点の碑除幕式(名古屋・中村公園)

 たまたま、公園内で、「太閤秀吉功路 最終地点の碑」の除幕式を地元の名士を集めてやっておりました。

 何の碑かと思ったら、秀吉の馬印「せんなり瓢箪」でした。

名古屋・秀吉清正公園

 中村公園内に他に何かあるか探してみました。

名古屋・中村公園内「初代中村勘三郎(1598~1658年)生誕地記念碑」

 ありました、ありました。「初代中村勘三郎(1598~1658年)生誕地記念碑」です。えっ?歌舞伎役者で、中村座の座頭だった勘三郎はここで生まれたんですか。

 看板などの情報によると、中村勘三郎は、豊臣秀吉の三大老中の一人、中村一氏の末弟・中村右近の孫だと言われてます。兄の狂言師・中村勘次郎らと大蔵流狂言を学び、舞踊「猿若」を創作したといいます。 元和8年(1622年)江戸に行き、寛永元年(1624年)、猿若勘三郎を名乗り、同年江戸の中橋南地(現東京・京橋)に「猿若座」(のちの「中村座」)を建てて、その座元(支配人)となった人です。

 秀吉と勘三郎が同郷人だったとは。

 公園内には「秀吉清正記念館」もあったのでちょっと覗いてきました(無料)。清正とは、後に肥後52万石の大大名になる加藤清正のことで、清正もここ中村生まれです(1562年)。父親は、刀鍛冶・加藤清忠だったようです。

 尾張出身の戦国武将は、ほかに、織田信長、森蘭丸、前田利家、柴田勝家、池田輝政、福島正則、蜂須賀小六、山内一豊…と錚々たる武将を輩出してます。

 名古屋の人は、今回の小旅行で、あまり親切な人がいませんでしたが、著名な戦国武将が生まれるくらい生存競争が激しい土地柄なのかしら?

 ただし、地元の人の話では、中村公園がある中村区は土地が低く、名古屋駅の西側は、亀島や津島といった地名があるように古代中世は陸続きではなかったようです。

 逆に名古屋駅の東側の東山などは、地名の通り、「山の手」で現代も高級住宅街が多いということでした。

名古屋城

 次に向かったのが、名古屋城です。中村公園から「メ―グル」と呼ばれる「なごや観光ルートバス」に乗りました。

名古屋城

 メ―グルは1乗車210円ですが、一日乗車券(500円)を買うととても便利です。名古屋城に入城するには普通は一般500円ですが、メ―グルカードを見せると、割引で400円。この後、入った徳川美術館と庭園徳川園も通常は一般1550円ですが、やはり、メ―グルを提示すると1350円で済みました。メ―グルは2回(420円分)しか乗りませんでしたが、入場券で300円分割引を受けたので、十分に元が取れたのです(笑)。

 タクシーの運転手さんは「名古屋には観光するところがない」とぼやいてましたが、名古屋観光するなら、メ―グルはお勧めです。ただし、本数が少ないのでご注意。

名古屋城 石垣ファンにはたまらない
名古屋城 石垣フェチにはたまらない

 名古屋城の天守は現在、工事中で中に入れないことは知っていたので、お目当ては「本丸御殿」でした。3期にわたる工事で、2018年から全面的に公開されるようになりました。

名古屋城 本丸御殿
名古屋城 本丸御殿
名古屋城 本丸御殿

  期待通り、見応え十分でした。バチカンのシスティーナ礼拝堂に匹敵するぐらいです。日本美術の粋が集まっています。

 本当に圧倒されました。

名古屋城 本丸御殿
名古屋城 本丸御殿・上洛殿(三代将軍家光をお迎えするために増築)
名古屋城 本丸御殿
名古屋城 本丸御殿

 残念ながら、「本物」は、昭和20年の米軍による空襲で焼失してしまいました。名古屋城は、昭和11年に指定された「国宝第1号」ですからね。米軍は、それを知って、爆撃したに違いありません。米国人は野蛮な文化破壊者ですよ。ロシア人を批判する資格があるのかしら?と、つい興奮してしまいます。

 本丸御殿は、復元ですが、世界に誇れます。感嘆感服致しました。今回、これを見るだけで名古屋に来た甲斐がありました。

元祖てんむす千寿と愛知の地酒「関谷酒造」の「蓬莱泉」ワンカップ こりゃうめえ

 あ、その前にランチは、K君が3人分用意してくれました。天むすの元祖「千寿」と愛知の地酒「関谷酒造」の「蓬莱泉」ワンカップです。これが旨いの何の…。これまた、名古屋に足を運んだ甲斐がありました(笑)。

名古屋・徳川美術館と庭園「徳川園」

 次に向かったのが徳川美術館と庭園「徳川園」です。大変、大変失礼ながら、口から泡を吹いて驚くような見たことがないようなお宝は展示されていませんでした。(尾張)徳川家代々の本当の秘宝は、蔵にあるんでしょうね(笑)。

名古屋・庭園「徳川園」大曽根の瀧

  徳川美術館では、どういうわけか、春季特別展が開催されていて、安藤広重の「東海道五十三次」と「木曽海道六拾九次」の全作品が展示されていました。山上君は静岡県出身で、「東海道五十三次」で描かれた蒲原(本当は雪は降らない)や三島や見附や舞浜などは馴染みの深い地元の名所なので、食い入るように見つめておりました。

名古屋のシンボル・テレビ塔

 次に向かったのが、現代の一番、名古屋らしい所ということで、久屋大通り公園にあるテレビ塔です。

 久屋大通り公園は、何となく、札幌の大通公園に似たイメージがありましたが、すっかり変わってしまい、公園の両脇は、超高級ブティックやレストランが並び、随分、敷居が高くなりました。

名古屋「御園座」懐かしい!

 そうそう大変なことが起きました。今回起きたトラブルの究極の極致です。K君が、スマホを無くしたことに気が付いたのです。恐らく、午前中に出掛けた秀吉生誕地の中村公園内で置き忘れたのではないか、ということで、公園事務所や近くの交番に電話しましたが、まだ届け出はありませんでした(いまだ探索中)。

 普通だったら、パニックになるのに、K君は肚が座っているというか、あまり動揺しません。仏教的諦念に近いんです。でも、早く見つかることを願っています。

 今回一緒に合流してくれた山上君は、夕方の新幹線で帰るというので、地下鉄の「栄」駅で別れました。一緒にお酒でも飲もうと思っていたのに本当に残念でした。

名古屋の居酒屋「大甚本店」閉まってたあ

 今回の小旅行は「トラブル続き」だった、と書いた通り、最悪だったのは、本日のハイライトだった「夜のお楽しみ」が日曜日だったせいなのか、予定していたお店が全て閉まっていたことでした。まず、K君が学生時代から通っていた、名古屋一の老舗居酒屋「大甚本店」(創業明治40年、伏見)が閉まっていました。そして、御園座近くの「大甚中店」も閉まっていました。

名古屋・伏見 バー「バーンズ」

 しかも、K君が1カ月も前から考え抜いてくれていた「二次会」用の老舗著名バー「バーンズ」までこの日は「貸し切り」で中に入れませんでした。

 どないなっとるんねん??? 

名古屋・串カツ屋

 仕方がないので、伏見駅の近くにあった串カツ屋さん「串かつでんがな」に飛び込みで入り、この後、名古屋駅にタクシーで向かいました。

名古屋ミッドランドスクエア42階「スカイプロムナード」800円のはずが

 K君が「どうしても見てもらいたい」ということで、駅前に聳え立つ超高層ビル「ミッドランドスクエア」の42階「スカイプロムナード」に連れて行ってくれました。(名古屋には超高層ビルは、駅前にある3棟ぐらいしかありません)

名古屋ミッドランドスクエア「スカイプロムナード」360度の視界で、名古屋城も見えます

  ここは入場料が800円ですが、K君の「身体障害者手帳」を提示すると、その付き添いまでロハで入場できたのです。

 周囲は若いカップルばかりで、お爺さんの二人連れは、何となく異様な雰囲気でした。

 でも、今回、山上君と再会したのは43年ぶりのこと。ということは、43年前は彼ら若いカップルはまだこの世に生まれてもいなかったに違いありません。感慨深いものがあります。

 2日目の16日(月)の話は次回に続きます。

鎌倉五山の円覚寺~浄智寺~建長寺~寿福寺、そして源義朝、太田道灌ゆかりの英勝寺に参拝

 12月12日の日曜日、思い立って、「鎌倉五山」巡りを決行して来ました。

 「鎌倉五山」とは、御説明するまでもなく、神奈川県鎌倉市にある臨済宗の禅寺で、第一位建長寺、第二位円覚寺、第三位寿福寺、第四位浄智寺、第五位浄妙寺の寺院とその寺格のことで、一説では北条氏によって制定されたといいます。

 「京都五山」(別格南禅寺、第一位天竜寺、第二位相国寺、第三位建仁寺、第四位東福寺、第五位万寿寺)と対をなしていますが、残念ながら、その規模や雄大さ、壮麗さ等を含めて鎌倉五山の方がどうしても見衰えしてしまいますが、国宝、重文級のものもあり、とても等閑にはできません。

 来年(2022年)というより、来月から始まるNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放送されれば、鎌倉はまためっちゃ混みますから、人混みを避けたかったのでした。

鎌倉五山第二位 円覚寺
鎌倉五山第二位 円覚寺

 皆様御案内の通り、私自身、鎌倉五山第五位の浄妙寺に関しては既に昨年8月にお参りしたばかりですので、今回は、残りの4寺院をお参り致しました。(浄妙寺は、「八幡太郎義家」こと源義家のひ孫で足利氏二代目義兼(よしかね)が1188年に創建。2020年8月12日付の渓流斎日乗「いざ鎌倉への歴史散歩=覚園寺、鎌倉宮、永福寺跡、大蔵幕府跡、法華堂跡、浄妙寺、報国寺」をご参照)

 まずは第二位の円覚寺を目指しました。JR横須賀線の北鎌倉駅からすぐ近くです。

 円覚寺(拝観志納金500円)はかつて数回はお参りしていますが、もう20年ぶりか、30年ぶりぐらいです。もうほとんど覚えていません。

鎌倉五山第二位 円覚寺 山門

 円覚寺といえば、私の場合、すぐ夏目漱石のことを思い起こします。三部作の最後に当たる「門」の舞台になったところで、漱石自身もここの宿坊「帰源院」で明治27年12月下旬から1月7日まで座禅修行したことがありました。横須賀線は明治22年に開通しています。

 現在も座禅が出来るようですが、一般といいますか、在家向けは、新型コロナの影響で結構中止になったようです。

鎌倉五山第二位 円覚寺

 円覚寺は1282年創建、第八代執権北条時宗が蘭渓道隆亡き後、中国から招いた無学祖元(後の仏光国師)が開山しました。その2年後に亡くなった時宗と九代貞時、最後の十四代執権高時をお祀りしています。

 
鎌倉五山第二位 円覚寺 舎利殿(国宝)

 円覚寺といえば、何と言っても国宝の舎利殿(仏陀の歯牙をお祀りしている)ですが、お正月三が日など特別な期間以外は拝観制限されているとのことで、遠くから写真を撮るのみでした。

 この舎利殿は、三代将軍源実朝が、宋の能仁寺から請来したもので、鎌倉の太平寺(尼寺・廃寺)から仏殿(鎌倉末~室町初期に再建)を移築したものだといいます。

鎌倉五山第四位 浄智寺 鎌倉では珍しい唐様の鐘楼門
鎌倉五山第四位 浄智寺

 次に向かったのが、 鎌倉五山第四位の浄智寺 (拝観志納金200円)です。円覚寺から迷わなければ、歩7,8分というところでしょうか。途中、駆け込み寺として有名な東慶寺がありましたが、我慢して通り過ぎました。

 浄智寺の正式名称は、臨済宗円覚寺派金宝山浄智寺です。第五代執権北条時頼の三男宗政の菩提を弔うために1281年頃に創建されました。開基は宗政夫人と諸時親子。開山は、建長寺第2代住職も務めた中国僧兀庵普寧(ごったん ふねい)ら3人です。

鎌倉五山第四位 浄智寺

 御本尊は、阿弥陀如来、釈迦如来、弥勒如来の木造三世仏坐像(神奈川県重要文化財)です。

 これは、後で知ったのですが、映画「ツィゴイネルワイゼン」や「武士の一分」などが境内で撮影され、映画監督の小津安二郎や日本画家小倉遊亀らがこの寺域で暮らし、墓所には作家澁澤龍彦らが眠っております。

鎌倉五山第一位 建長寺
鎌倉五山第一位 建長寺

 次に向かったのが 鎌倉五山第一位の建長寺(拝観志納金500円)です。やはり、第一位だけに迫力が違いました(笑)。かつて、一度は参拝したことがあったのですが、これまた全く記憶にありません(苦笑)。

 100年の歴史がある進学校「鎌倉学園」(加藤力之輔画伯、サザンの桑田佳祐の出身校)が隣接していたことも今回初めて知りました。

 正式名称は巨福山(こふくざん)建長興国禅寺。上の写真の 巨福山 の「巨」の字に点が付いているのは、十代住職一山一寧(いっさんいちねい)が筆の勢いに任せて書いてしまったといいます。しかし、結果的にその点が全体を引き締めて百貫の値を添えたことから「百貫点」と呼ばれるようになったといいます。

鎌倉五山第一位 建長寺 三門

 建長寺は、建長5年(1253年)、五代執権北条時頼が建立した我が国最初の禅宗専門寺院です。開山(創始者)は、中国の宋から33歳の時に来日した蘭渓道隆(後の大覚禅師)です。

 上の写真の「三門」は国の重要文化財に指定されています。三門とは、三解脱門の略で、「空」「無相」「無作」を表し、この三門をくぐることによって、あらゆる執着から解き放たれることを意味するといいます。

 神社の鳥居のような役目を果たしていたんですね。

鎌倉五山第一位 建長寺

 この梵鐘は国宝です。重さ2.7トン。開山した大覚禅師の銘文もあります。

 この梵鐘から、夏目漱石が「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」という句をよみました(明治28年9月)。これに影響されて、漱石の親友正岡子規が「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」を作ったと言われます。漱石が子規の影響を受けたのではなく、その逆です。

鎌倉五山第一位 建長寺 仏殿 地蔵菩薩坐像

仏殿は、国の重文で、 地蔵菩薩坐像 が安置されています。

 現在の建物は四代目で、東京・芝の増上寺にあった二代将軍徳川秀忠夫人お江の方(三代家光の母)の霊屋を建長寺が譲り受けたといいます。

鎌倉五山第一位 建長寺 法堂 千手観音菩薩 雲龍図(小泉淳作画伯)

  法堂は、僧侶が住持の説法を聴き、修行の眼目とした道場です。388人の僧侶がいたという記録もあります。現在の建物は、文化11年(1814年)に再建されたもので、御本尊は、千手観音菩薩です。天井の「雲龍図」は建長寺創建750年を記念して、小泉淳作画伯によって描かれました。

 小泉淳作画伯は、京都の建仁寺の「双龍図」も描かれています。

 小泉淳作画伯の美術館は私もかつて仕事で赴任したことがある北海道十勝の中札内村にあります。確か、小泉画伯は、このような壮大な雲龍図などは、廃校になった小学校の体育館をアトリエにして描いていたと思います。

鎌倉五山第一位 建長寺 葛西善蔵之墓

 境内には、太宰治も敬愛した無頼派の元祖とも言われる私小説作家の葛西善蔵の墓がある、とガイドブックにあったのでお参りしてきました。

 案内表示がないので、結構迷いましたが、階段を昇った高台にありました。葛西善蔵は、極貧の中、昭和3年に42歳の若さで亡くなっていますが、今でも新しいお花が生けてありました。忘れられた作家だと思っていたので、いまだに根強いファンがいらっしゃると思うと感激してしまいました。

鎌倉市山ノ内 カフェ「Sakura」 ビーフカレー(珈琲付)1300円

 時刻も午後1時近くになり、お腹も空いてきたのでランチを取ることにしました。本当は、ガイドブックに出ていた「去来庵」という店で名物のシチューでも食べようかと思ったら、コロナの影響で、喫茶のみの営業でしたので諦め、建長寺近くにあったカフェに入りました。

 量的には少なかったのですが、大盛にすると1500円です(笑)。でも、お店のマダムはとても感じが良い人だったので、また機会があれば行きたいと思わせる店でした。

浄土宗 東光山英勝寺
浄土宗 東光山英勝寺

次に向かったのが、最後に残った 鎌倉五山第三位の寿福寺 です。

ランチを取ったカフェの目の前の亀ヶ谷坂切り通しを通りましたが、「切り通し」というくらいですから、中世に谷間を削って出来た人工的な道ですから、かなりの急勾配でした。

 建長寺辺りは「山ノ内」で、この 亀ヶ谷坂切り通し辺りから「扇が谷」という地名になります。歴史好きの人ならすぐピンとくるでしょうが、室町時代になると、関東管領の山ノ内上杉家と扇が谷上杉家とが熾烈な争いをします。両家の勢力圏がこんな近くに隣接していたとは行ってみて初めて分かりました。

 寿福寺に行く途中で、全く予定のなかった「鎌倉五山」ではない英勝寺を通り過ぎようとしたところ、上の写真の「太田道灌旧邸跡」の碑があったので吃驚仰天。予定を変更してこの浄土宗東光山英勝寺(拝観志納金300円)もお参りすることにしました。

 英勝寺自体は、太田道灌から数えて4代目の康資(やすすけ)の娘で、徳川家康の側室、お勝の方(英勝院)が1636年に創建した鎌倉唯一の尼寺です。

 太田道灌は江戸城や河越城などを築城した武将ですが、扇ケ谷上杉氏の家宰だったので、ここに邸宅があったのですね。

浄土宗東光山英勝寺の御本尊、阿弥陀如来三尊像は運慶作ということですが、国宝に指定されていないのでしょうか?

 でも、太田道灌で驚いていてはいけません。

 英勝寺の「拝観のしおり」には、ここは平安時代末期に、源頼朝の父義朝の屋敷だったというのです。「えーー、早く言ってよお」てな感じです。

 源義朝と言えば、保元・平治の乱で活躍した人で、義朝は平治の乱で平清盛らに敗れて敗走し、途中尾張で部下に殺害されたと言われます。行年36歳。お蔭で、嫡男頼朝は幼かったので伊豆に流され、その後、その土地の北条政子と結婚し、鎌倉幕府を築いていく話は誰でも知っていることでしょうが、頼朝の父義朝が鎌倉に居を構えていたことを知る人は少ないと思います。

 源頼朝の生地は、母の実家がある尾張の熱田神宮の近くと言われますが、父義朝が鎌倉に所縁があったので鎌倉に幕府を開くことにしたのでしょうか? 幼い時に、この鎌倉の義朝邸に頼朝も住んだことがあったのでしょうか?

鎌倉五山第三位 寿福寺
鎌倉五山第三位 寿福寺

 今回、最後に参拝したのは、英勝寺に隣接していた鎌倉五山第三位の寿福寺でした。

 ここは山門から堂宇にかけては非公開なので、拝観志納金もないのですが、そのためパンフレットもありません。

 でも、上の看板にある通り、とても重要な寺院なのです。

鎌倉五山第三位 寿福寺 中門

 何と言っても、正治2年(1200年)、頼朝の妻政子が開基し、日本の臨済宗の開祖栄西が開山した鎌倉五山最古の寺院なのです。

鎌倉五山第三位 寿福寺 北条政子之墓

 境内には北条政子と、政子の次男で暗殺された三代将軍源実朝ののやぐら(墓地)もあります。

鎌倉五山第三位 寿福寺 源実朝之墓

 標識があまりないので、恐らく、一番奥まったところにあるのだろう、と勝手に想像して、やっと探し当てました。

 実朝は、将軍ながら「金槐和歌集」でも有名な歌人でもありました。大海の磯もとどろに寄する波破れて砕けて裂けて散るかも なんて良いですよね。

鶴岡八幡宮で、甥の公暁に暗殺されたのは1219年。今から800余年前のことです。やぐらの写真を撮らさせて頂いたところ、何か、無念のまま亡くなった右大臣実朝将軍の霊がこちらに迫ってきたような感じがしました。