日本人好みの作品なのかなあ?=上野の森美術館「モネ 連作の情景」展

 東京・上野の森美術館で開催中の「モネ 連作の情景」展を万難を排して観に行って来ました。(来年1月28日まで)

入り口はモネのジヴェルニーの庭を再現(撮影許可された作品)

  この展覧会は、主催が産経新聞社ということで、失礼ながら宣伝力が弱く、開催されていること自体を知らない人も多いかもしれません。東京朝日新聞は、毎週、火曜日の夕刊で、目下、関東圏で開催中の美術展を表枠にして紹介していますが、産経はライバル社なので、一切、モネ展について報道しないのです。裏事情は分かり、そのうち報道するかもしれませんけど、意地が悪い新聞社ですねえ(苦笑)。

 でも、フランスの印象派の巨匠クロード・モネ(1840~1926年)は、私の大学の卒論の対象者でしたから、見逃すわけにはいきません。(卒論テーマは「印象派」で、作曲家のクロード・ドビュッシーも取り上げて「二人のクロード」と題しました。)

モネ「睡蓮」1897~98年 米ロサンゼルス・カウンティ美術館蔵(撮影許可された作品)

 一応、私は、モネの専門家気取りでしたから、モネの作品を求めて、世界各国の美術館を行脚しました。パリのオルセー美術館、ルーブル美術館、ロンドンの大英博物館、ニューヨーク・メトロポリタン美術館、それに東京のブリヂストン(現アーティゾン)美術館や倉敷の大原美術館など色々と行きましたが、やはり、モネの「睡蓮」の連作があるパリのオランジュリー美術館と第1回印象派展(1874年)に出展した記念すべき「印象・日の出」を所蔵するパリのマルモッタン美術館は忘れられません(本物に接して鳥肌が立ちましたよ)。意外な大穴は、スイスのチューリヒ美術館です。忘れてしまいましたが(笑)、何かの仕事でチューリヒに滞在した時、たまたま入った美術館でしたが、パリのオランジュリー美術館と全く引けを取らない「睡蓮」の連作が何十点も展示されていて驚くとともに、本当に圧倒されてしまいました。特に最晩年の「睡蓮」は、姿形が全く把握できない、網膜で創作せざるを得ないほど抽象的になり、その混在する色彩がほぼ暴力的に迫ってきました。

 そんな凄いものを観てしまっているので、今展の「モネ 連作の情景」展は、申し訳ないですが、「看板に偽りあり」と思ってしまいましたね。ただ、最初に展示されていた「1章 印象派以前のモネ」では、「桃の入った瓶」(1866年)、「ルーヴル河岸」(1867年)などモネ20代の初期作品が展示され、結構、初めて拝見する作品ばかりでした。

モネ「ロンドン国会議事堂、バラ色のシンフォニー」1900年 ポーラ美術館蔵(撮影許可された作品)

 個人的には、連作の一つ「積みわら」(1885年)と「国会議事堂、バラ色のシンフォニー」(1900年)が気に入りましたが、前者は倉敷の大原美術館所蔵、後者は箱根のポーラ美術館所蔵じゃありませんか。両方とも国内にあるとは! 私も典型的な日本人(もしくは、ほんの少し外れた日本人=笑)なので、いかにも日本人が好みそうな作品なのかもしれませんね。

 同時に、何でモネはこれほどまで日本人に愛されているのかも不思議です。モネ自身もアトリエに葛飾北斎の浮世絵を飾っていたり、当時のジャポニスムに多大な影響を受けた作品を残していますから、もしかしたら、相思相愛なのかもしれません。

モネ「ロンドン・ウォータールー橋、曇り」1900年 ダブリン・ヒュー・レイン画廊(撮影許可された作品)

 来年2024年は、第1回印象派展が開催されて、ちょうど150年に当たる年だということで、全国の美術館で「印象派展」がいくつか開催されるようです。どれを観たらいいのか困っちゃいます。だって、入場料がバカにならないからです。この産経主催のモネ展だって、土日祝日の一般の料金は3000円もするんですからね!! 観るのを諦めようかと思いましたが、私は賢者ですから、平日の午後4時以降の割引2300円で観ることが出来ました。それでも、こういうチケットだけは直ぐ完売してしまうので、二度目の挑戦でやっとゲット出来ました(笑)。

 

元朝日新聞論説委員の隈元信一さん逝く、行年69歳

 元朝日新聞論説委員の畏友隈元信一さんが、10月17日午前6時7分、都内の病院で亡くなられました。行年69歳。10月23日が誕生日だということで、あと少しで70歳の誕生日を迎えるはずでした。2年前の2021年夏に発病し、余命3カ月から半年と医者から宣告されたようですが、激痛を乗り越えて、よくぞ闘病生活を耐え抜いたと思います。覚悟はしておりましたが、やはり、哀しいし、寂しい思いです。

 隈元さんは2017年に朝日新聞を退社後、放送評論が専門のフリージャーナリストとして活躍されていました。何冊か本を出版していますので、この渓流斎ブログでも何回か「本名」で登場させてもらっています。

 ・2017年12月18日付「【書評】「永六輔」を読んで」

 ・2022年2月16日付「激震の1990年代の放送界を振り返る=隈元信一著『探訪 ローカル番組の作り手たち』を読みながら」

 などです。それらの記事に私と彼との出会いや個人的な交流などを書いていますので、御面倒ながらそちらをご参照ください。

 また、会員でしか読めませんが、ネットの「論座」で13回に渡って闘病記を連載されていました。今、検索したら、ウイキペディアになるほどの「有名人」でした。

 大学の講師なども務めましたが、異様に行動力のあるジャーナリストで、日本全国だけでなく、アジア、特に韓国とインドネシアの演劇や音楽などの文化にも幅広く精通し、何年間か滞在していたこともありました。ですから、交際範囲が異様に広く、フェイスブックの「お友達」も1000人以上といいましたから、凄いの一言です。これは、以前のブログに書きましたが、彼が闘病入院中、有志の方が隈元さんの本(「探訪」)の出版基金募集を呼び掛けたところ、その年の2021年末の時点で361人の応募があったといいますから、彼の実質を伴った「人徳」が証明されたようなものでした。

私もよく行っていた王子のmam-and-pap bookstoreも閉店してしまい本当に本当に残念です

 隈元さんとは30年以上のお付き合いでしたが、大変お忙しい人だったので、それほど頻繁にお会いしていたわけではありません。でも、何年振りかに会っても、そのギャップやスパンを感じさせず、いつも気さくで親しみ深く接してくれました。小生を弟のように可愛がってくれた、と言っても良いでしょう。

 彼の取材での得意技は、あの奇人さんとも言うべき永六輔さんに非常に食い込んだように、一旦、この人だと思った取材相手は最後まで離さない粘り強さにあったと思います。まだ本や文章には書かれていない、多くの人から直接得たいわゆるヒューミント情報を多く持っていましたから、かなり説得力がありました。それでいて、彼の性格なのか、茲では書けない、かなりシビアというかシニカルな批判も多々ありました。ただ、持って生まれた洞察力は人より抜きんでいて、彼の想像や推測した通りに、物事や人事が進んでいく有り様を見て、舌を巻いたことが何度もありました。

 クマモッチャン、もうあの「隈元節」が聞けないと思うと、本当に残念で、心の底から悲しみが込み上げて来ます。御冥福をお祈り申し上げます。

【追記】

 このブログを読んだ満洲研究家の松岡將氏から早速メールを頂きました。5年前に隈元さんとは一度拙宅でお会いしたことがあったというのです。「まだお若いのに本当に残念です。ご冥福を祈るのみです」といった趣旨の内容でした。

 そうでした、そうでした。すっかり忘れておりました。隈元さんの東大の卒論のテーマが「満洲問題」だということを聞き、「それなら松岡さんを知らないと潜りだよ!」と言って、松岡氏のご自宅に押し掛けたのでした。この時、満洲国の総務庁次長だった古海忠之氏の御子息も参加しました。調べたら、渓流斎ブログ2018年4月9日付 「久しぶりの満洲懇話会」にその模様を詳しく書いておりました(笑)。

 この時、松岡氏から高価な「獺祭」を振る舞われました。いつもながら、本当に御迷惑をお掛けしました。

《渓流斎日乗》は無料です=有料にはしません

 9月5日付の朝日新聞朝刊で、X(旧ツイッター)のフォロワーが60万人を突破し、投稿サイトでは有料会員2万人を誇り、日経の敏腕記者から華麗なるフリージャーナリストに転身された人(43歳)の話が載っておりました。有料サイトは月額500円と言いますから、単純計算しても月1000万円の収入です。このほか、掲示板やオフ会などに参加できるコア会員3000人は、月額980円らしいので、年収1億数千万円ですか。。。???

 いやはや、下衆の勘繰りをしてしまいました。大変失礼致しました。

 私のブログは無料で、広告費から収入を得ておりますが、年間でも、差し引き2万円程度ですよ(笑)。多額の時間とお金を費やして(主に書籍代)、散々苦労して書いてこの程度です。本当に、本当に、本当に笑ってしまいます。

 でも、ブログを有料会員制にするつもりはありません。理由は決まってます。有料会員になってくださるのは、思い当たるところでも、2人か3人しかいないからです(笑)。こりゃ、無理です。

東銀座「トレオン16区」海老と小柱のトマトクリームソースの前菜

 また、下衆の勘繰りに戻って、思考回路を巡らしてみるとー。

 所詮、世の中、女(男)と金

 なんですよ。有料会員になる皆様は、女(男)と金の情報が欲しいのでしょう。マッチングアプリだとか経済情報だとか投資だとか、綺麗な言葉で洗浄されてはいますが、人間がナケナシのお金を出してでも欲しい情報というものは、所詮、博打も含む儲け話かエロ情報なのです。そうでなければ、蜜の味と言われる「他人の不幸」情報です。人間は皆、楽をして優雅な生活を送り、「嗚呼、自分はまだマシな方なんだ」と安心したいのです。

 (最初に書いた日経からフリージャーナリストに転身した人の有料「経済情報」は見たことはありませんので、小生の持論は彼に当てはまらないかもしれないことは、念を押しておきます。)

 翻って、小生のブログ《渓流斎日乗》は、残念ながら、毒にも薬にもならない、と言いますか、儲け話やリビドーには全く欠けています。そんなサイトが有料として成り立つわけがないのです!

 だから、好き勝手に個人的なことでも書けるのです(笑)。

東銀座「トレオン16区」海老と小柱のトマトクリームソース1300円 初めて入店しましたが、意外にも結構美味かった

 早速、個人的な話ですが、新型コロナに関して、5類に移行してから、妙に私の周囲で感染者が増えているのです。だから、外や電車やバスの中でマスクをしていない人を見るとゾッとしてしまいます。そもそも、私は統計やおカミの言うことは信じていませんからね(苦笑)。実体験は信じます。

 私の場合、会社の同じ部署の人で2人も感染者になりましたから、昨年の5類に移行する前だったら、堂々の「濃厚接触者」になるはずです。だからこそ、暑苦しくても、我慢してマスクをしているのです。その半面、マスクをしない人が私の身近に目に付いたりすると、「俺は実は、濃厚接触者なんだぜい」と告白したくなります。見知らぬ他人なので、実際にそんな子どもじみたことしませんけど(苦笑)。

 以上、好き勝手に書いておりますので、有料サイトにしようなどとは、滅相も御座いません。

 ただ、お読みになった皆さんが、知らない情報を得て、少し得した気分になったり、「渓流斎よりマシな人生送っているな」と思って頂いたり、その逆で、「この本、面白そうなので、読んでみようかしら」と思ってくださったり、「また、今日も、一生懸命に生きて頑張ろう」と少しでも思ってくださったりすれば、主宰者としてはこの上もない喜びで御座います。

【追記】

 何で、「所詮、世の中、色と金」なんぞと汚い言葉を使うのかと言いますと、迷惑メールがそうだからです。大抵の私のところに来るスパム(迷惑)メールは、「高額金が当選しました」とか「私はアフリカ・ガボンの銀行役員です。貴方様だけにお教えする投資話があります」とか、見知らぬおネエちゃんからの「お誘い」だったりするからです。

 皆さんも同じようなものじゃありませんか? 隠しても駄目ですよ。

100年前の関東大震災直後に起きた不都合な真実

 9月1日は、関東大震災から100年の節目の年です。100年は、長いと言えば長いですが、「人生100年時代」ではあっという間です。

 本日付の新聞各紙はどんな紙面展開するのか? 興味津々で都内最終版の6紙を眺めてみました。そしたら、「扱い方」が、どえりゃあ~違うのです。

 扱い方というのは、大震災のどさくさの中、「朝鮮人が井戸に毒を流した」などといった流言蜚語が飛び交い、自警団らによって朝鮮人・中国人が虐殺された事件をどういう風に紙面展開するのか、といったことでした。毎日新聞は、社説、記者の目、社会面を使ってかなり濃厚に反映していました。朝日新聞も負けじと、社説、特集面、社会面で積極的に報道しています。東京新聞も、「売り」の「こちら特報部」で朝鮮人虐殺正当化の「ヘイト団体」まで取り上げています。ネットで確認したところ、時事通信もかなり報道していました。

 その一方で、うっすらと予想はされましたが、産経新聞と読売新聞は全く触れていません。産経と読売の幹部は「朝鮮人虐殺はなかったこと」にしているかのようです。日本経済新聞も、ほとんど触れていません。と、思ったら、辛うじて、社説で、虐殺があったことを、震災直後に発行された「震災画報」の記事を引用して取り上げております。何故、論説委員が直接書かないのか不思議です。

 劇団俳優座を創設した一人である千田是也(本名伊藤圀夫、1904~94年)は、大震災後、千駄ヶ谷で朝鮮人と間違われて暴行された経験があり、芸名を、「千駄ヶ谷のコリアン」から付けた逸話は有名です。千田是也のような実体験をした人が亡くなると、歴史は風化して「なかったことに」なるのでしょうか。

スーパーブルームーン

 松野博一官房長官は8月30日の会見で、朝鮮人虐殺について問われ、「政府内において事実関係を把握する記録が見つからない」と宣言したようです。しかし、震災直後の内務省警保局の電信文には、朝鮮人殺害や日本人誤殺、流言の拡散などが記され、震災から2年後に警視庁が発行した「大正大震火災誌」にも掲載されています。また、政府の中央防災会議の2009年の報告書では、震災の死者・行方不明者約10万5000人のうち「1~数%」(つまり、1000人~数千人)が虐殺犠牲者と推計しています(東京新聞「こちら特報部」)。ということなので、岸田政権が事実関係を把握しようとしないのか、もしくは「なかったこと」にしようとする強い意思が伺えます。小池百合子都知事が犠牲者追悼式典に追悼文を送付しないのも、同じような理由なのでしょう。

 大震災のどさくさに紛れて、朝鮮人だけでなく、「主義者」と呼ばれた反国家主義者も虐殺されました。その一番の例が無政府主義者の大杉栄と妻の伊藤野枝、そして6歳の甥橘宗一が憲兵隊によって虐殺された「甘粕事件」です。さすがに本日、そこまで取り上げるメディアはありませんでしたね。(甘粕正彦憲兵大尉はその後、満洲に渡り、満洲映画協会の理事長になり、ソ連侵攻で、「大ばくち 身ぐるみ脱いで すってんてん」という辞世の句を残して服毒自殺しました。)

スーパーブルームーン

 産経、読売、日経も岸田政権も小池知事も「もう自虐史観はやめて、前向きな新しい歴史をつくろう」という積極的な意図が見えますが、読者には100年前の史実が伝わっていません。

 昨日は、西武池袋百貨店が、大手百貨店としては1962年の阪神百貨店以来61年ぶりにストライキを行いました。テレビで、ある若い男性がインタビューを受けていましたが、彼は「ストライキなんて教科書に載っているのを知っているぐらいで初めてです」などと発言していました。彼よりちょっと年を取った世代である私からすれば、「えー!!??」です。特に、我々は国鉄のストで学生時代はさんざん悩まされた世代ですからね。会社でも30年前まで頻繁に時限ストを行ったいました。

 30年前ぐらいにストライキが頻発した出来事を(当然のことですが)若い世代は知らないのですから、100年前の虐殺事件ともなると、知るわけがありません。特に、産経と読売の読者でしたら、知り得ません。でも、あれっ?そっかあ~。今の若い人は新聞読まないかあ~。

 奇しくも、本日から関東大震災直後の虐殺事件を扱った映画「福田村事件」(森達也監督)が公開されたので、御覧になったら如何でしょうか?

【追記】2023年9月2日

 関東大震災後の朝鮮人虐殺事件に関して、「国営放送」のNHKでさえかなり積極的に報道していました。予算審議を政府に握られているNHKが出来るのに、何で政府の意向に従わなくても済む読売、産経、日経が政府の顔色を窺って報道を避けるのか、全くもって不思議です。

銀座、ちょっと気になるスポット(4)=時事通信社

 「銀座、気になるスポット」シリーズは一体、何回続くんですかねえ?

 実は昨年9月の渓流斎ブログで、「明治の銀座『新聞』めぐり」を5回に渡って連載致しました。明治から現在に至るまで、銀座は、実は新聞社街だったことを足を使って歩いて、現場検証した画期的な企画でした(笑)。5回連載は以下の通りです(クリックすれば読めます)。

 (1)「足の踏み場もないほど新聞社だらけ」=2021年9月17日

(2)「東京横浜毎日新聞社は高級ブランドショップに」=同年9月20日

(3)「尾張町交差点は情報発信の拠点だった」=同年9月22日

(4)「読売新聞は虎ノ門から銀座1丁目に移転」=同年9月24日

(5)「33社全部回ったけどまだ足りない!」(完)=同年9月25日

 以上は明治の新聞社の話でしたが、「大手3紙」と言われる新聞社も、銀座界隈に東京本社がありました。大手町に移る前の読売新聞は、現在、マロニエゲート銀座がある2丁目にありました。「2.26事件」の舞台にもなった朝日新聞社は、現在の築地に移転する前は、有楽町マリオンにあったことをまさか御存知じゃない方はいないと思います。

 現在、竹橋のパレスサイドビルにある毎日新聞東京本社は、日本外国特派員協会が入居している有楽町駅前の丸の内二重橋ビルにありました。移転したのは1966年で、私はまだ小学生でしたが、有楽町の駅のプラットフォームから、窓を通して新聞社の内部が丸見えで、忙しそうに立ち働いている記者さんたちが見えました。記憶違いかもしれませんが。

銀座「時事通信社」

 今回取り上げるのは、報道機関の時事通信社です。銀座5丁目ですが、昭和通りの向こう側ですから東銀座です。この連載の第3回にも登場した木挽町かと思ったら、ここだけは采女町です。江戸後期の切絵図を見ると、時事通信社ビルが建っているところは、信州の諏訪藩3万石の3000坪の上屋敷があったところでした。ただ、町名は、江戸前期から享保9年(1724年)まで伊予今治藩主松平采女正定基の屋敷があったことによります。 享保9年、大火によって屋敷は焼失し、その後は火除地となり、俗に「采女が原」と呼ばれたそうです。

 明治になって、大名屋敷は新政府に没収され、ここには「築地精養軒」が出来ました。精養軒は当初、明治5年(1872年)2月、岩倉具視らの支援で北村重威が銀座で創業しましたが、開業当日に「銀座の大火」により焼失してしまいました。そのため、同年4月にこの木挽町に移転して開業しました。(明治9年、上野公園開園と同時に支店を開設し、それが現在の上野精養軒として続いています)

 築地精養軒は、日本最初の西洋料理店の一つとして評判を呼び、岩倉具視は勿論、西郷隆盛も通ったといいます。

 また、森鴎外の小説「普請中」にも登場するように、築地精養軒は西洋料理店だけでなく、ホテルでもありました。そして、このホテル内にあったのが、「米倉」という高級理容店です。私も10年ぐらい昔に銀座の米倉本店に行ったことがあります(現在、カットとシャンプーセットで1万6500円也。ホテルオークラ内の「米倉」は司馬遼太郎先生御用達の店でした。)

 理容「米倉」は、大正7年(1918年)、米倉近により創業されました。米倉が修行を積んだ日本橋「篠原理髪店」と、義父・後藤米吉の「三笠館」の流れを汲むといいます。私もその10年ぐらい昔に米倉で散髪した時に御主人に聞いた話ですが、この三笠館というのは、日露戦争の連合艦隊の旗艦「三笠」内で営業していたといいます。

銀座「新橋演舞場」

 床屋さんの話は長くなるので、これぐらいにして、築地精養軒は大正12年の関東大震災で焼失してしまいます。(それで、精養軒は上野に本社を移すわけです)。その後、敷地はどうなったのか不明ですが、戦後の昭和35年(1960年)に、東急グループのホテル第一号店として「銀座東急ホテル」が開業します(2001年まで)。ここは歌舞伎座と新橋演舞場の中間点に当たることから、地方から観劇に訪れる人たちの定宿になりました。

 また、銀座東急ホテルは、歌舞伎や新劇の「新派」の俳優の記者会見場としても知られ、私もよく取材に行ったものです。ただ、会場が狭く、太い柱で俳優の姿が見えにくい席が多かった記憶があります。つまり、新高輪ホテルのように、大人数の宴会が開けるような会場がなかったと思います。銀座の超一等地ですから、仕方ないでしょう。

新橋演舞場

 歌舞伎がはねた後、演劇評論家の萩原雪夫さんからホテルの地下のバーでよくビールやスコッチの水割りを驕ってもらった思い出があります。萩原先生からは、長唄と清元の違いや歌舞伎鑑賞の基礎を習い、本当によくしてもらいました。

 2003年から時事通信社の東京本社が日比谷公園から移転してきます。時事通信は戦前の国策通信社「同盟通信社」の流れを汲む報道機関です。明治時代の三井の番頭益田孝が創業した時事通信社と名称は全く同じですが、無関係です。同盟通信は戦後、GHQの顔色を伺って自主解散し、時事通信と共同通信と電通の3社に分かれて再スタートします。

 ちなみに、益田孝が創刊した三井物産の社内報「中外物価新報」(1876年)が、現在の日本経済新聞になったわけです。

地の底に堕ちたマスコミ=朝日新聞も知らない警察官

 朝日新聞の本日19日付朝刊の政治コラム「多事奏論」で、斯界では有名な高橋純子編集委員が、正月早々、自分が運転していた車が商業施設のパーキングで駐車中の車のバンパーに「軽く」ぶつけてしまい、念のため、警察を呼んだ逸話を書いております。

 駆け付けて来た20歳そこそこのお巡りさんから、名前、職業、そして勤務先を聴かれ、「朝日新聞です」と答えると、そのお巡さんから「あさひは、平仮名ですか、カタカナですか?」と聞かれた上、漢字なら「旭日のあさひ、じゃなくてですか?」と確かめられたといいます。

 高橋編集委員は「ひと昔前は朝日新聞と告げると、良くも悪くも警戒されたものだけど、ね」と皮肉ってますけど、私は椅子からズッコケ落ちるほど驚愕しましたね。

 若い人は新聞を読まなくなったと言われて長いですが、警察官まで読まなくなったとは衝撃以外他に何ものでもありません。時事通信を知らないのは分かりますが、朝日新聞を知らないとは!!

銀座「いわた」 銀座にしてはお手頃

 高橋編集委員の「ひと昔前」をお借りすると、私の経験では、その「ひと昔前」ですが、朝日新聞の人から「朝日の記事にならないニュースはニュースではない」とまで豪語されたことがあります。1993年のことですから、30年近い昔のまだインターネットが普及していない牧歌的時代です。その朝日新聞の人は傲慢さが脳と皮膚に染みついていたのでしょう。

 当時の朝日新聞の夕刊で、園山俊二さんの「ペエスケ」という四コマ漫画が連載されていました。1993年1月20日のことですが、その園山俊二さんが57歳で急逝されたということで、私は、仕事として彼の訃報を書かなくてはならなくなりました。いつ、どこで、何の病気で亡くなり、業績はどうのこうの、といったあれです。

 そこで、園山さんの御自宅に電話すると、奥様らしい方が出てきて、「その件に関しまして情報は、全て朝日新聞にお任せしているので、朝日新聞に聞いてもらえないでしょうか」と丁重なお言葉があったので、私は朝日新聞の代表電話にかけて、担当者につないでもらいました。

 こちらの会社名と名前と、趣旨を説明すると、その担当者は「あ、その件は、(朝日新聞の)夕刊に出ますからそれを見てください」と言い放ったのです。私は、怒りで一瞬、頭が真っ白になりました。その夕刊の時間帯に間に合わせたいから、こうして、取材しているのではないか! 遺族の方も「窓口」を朝日新聞に指定されたので、電話しているだけじゃないか!

 しかし、相手はけんもほろろでした。あくまでも、夕刊を見てくれ、と主張し、ウチが載せない記事はニュースに価しない、とまで傲慢ぶりをかましてきたのです。

 その後、どうなったのか、御想像にお任せします(笑)。

銀座「ライオン」グリル

 それより、何と言っても、私が言いたいのは、時代の趨勢で、マスコミを代表する天下の朝日新聞が、今では警察官にさえ知られていない、吹けば飛ぶような存在に堕ちてしまったことです。ネット時代となり、ニュースは、どこの誰なのか得たいの知れない人間まで発信していますから、氾濫しています。若い人たちは、ニュース源がどこだろうと、どうでも良いのでしょう。

 (本当にどうでも良いのですが、最近の新聞やテレビは「SNSで話題」なんていう安易な話題づくりは止めてもらいたいものだ!)

 気になったのは、先ほどの30年近い昔の朝日新聞の傲慢な中年か初老の記者です。今はもう御存命ではないかもしれませんけど、この高橋編集委員のコラムを読んだら、口から泡が出て卒倒することでしょう。

 確かめたいので、その傲岸不遜紳士さんには是非ともこちらに連絡してもらいたいものです。

幸運にも多くの秘仏さまとお会いできました=「最澄と天台宗のすべて」

 東京・上野の東京国立博物館・平成館で開催中の「最澄と天台宗のすべて」に行って参りました。何しろ、「天台宗のすべて」ですからね。訳あって、会場を二巡してじっくりと拝観致しました。

 この展覧会は「事前予約制」で、私もネットで入場券を購入しました。一般2100円とちょっと高めでしたが、「伝教大師1200年大遠忌」ということで、大変素晴らしい企画展でした。

比叡山延暦寺 根本中堂内部(模擬)

 そんな素晴らしい展覧会なのに、読売新聞社主催ですから、読売を読んでいる方はその「存在」は分かっていたでしょうが、他の新聞を読んでいる方は知らなかったかもしれません。例えば、朝日新聞の美術展紹介欄には掲載していないほど意地悪の念の入れようですから、朝日の読者の中にはこの展覧会のことを知らない方もいるかもしれません。

 私は色々とアンテナを張ってますから大丈夫でした(笑)。先日このブログで御紹介した「歴史人」11月号「日本の仏像 基本のき」でもこの展覧会のことが紹介されていたので、しっかり予習して行きました。(展覧会では、最澄と徳一との「三一権実(さんいちごんじつ)論争」が出て来なかったので残念でした)

◇ 深大寺の国宝「釈迦如来倚像」と御対面

 大収穫だったのは、東京・深大寺所蔵の国宝「釈迦如来倚像」(7世紀後半の白鳳時代)を御拝顔できたことです。何と言っても「東日本最古の国宝仏」ですからね。いつか行くつもりでしたが、向こうから直々こちらにお会いに来てくださった感じです。倚像(いぞう)というのは椅子か何かにお座りになっている姿ですから、特に珍しいのです。日本では古代、その習慣がなかったので、坐像は多くても、倚像は廃れたという話です。

 深大寺には、もう半世紀も昔の高校生か大学生の頃に、何度か参拝に訪れたことがあるのですが、不勉強で、奈良時代の733年に創建され、平安時代の859年に天台宗別格本山となった寺院で、正式名称を「浮岳山 昌楽院 深大寺」だということまで知りませんでした。この寺には先程の国宝釈迦如来倚像のほかに、2メートル近い「慈恵大師(良源)坐像」があり、それも展示されていたので度肝を抜かれました。これは、日本最大の肖像彫刻で、江戸時代以来、205年ぶりの出開帳だというのです。まさに秘仏の中の秘仏です。「展覧会史上初出展」と主催者が胸を張るだけはあります。私もこんな奇跡に巡り合えたことを感謝したい気持ちになりました。

 秘仏と言えば、この「最澄と天台宗のすべて」展では他にも沢山の秘仏に接することができました。兵庫・能福寺蔵の重文「十一面観音菩薩立像」(平安時代、10世紀)、東京・寛永寺蔵の重文「薬師如来立像」(平安時代、9~10世紀)、滋賀・伊崎寺蔵の重文「不動明王坐像」(平安時代、10世紀)などです。

 この中で、私が何度も戻って来て、御拝顔奉ったのが、京都・真正極楽寺(真如堂)蔵の重文「阿弥陀如来立像」(平安時代、10世紀)でした。高僧・慈覚大師円仁の作と言われます。阿弥陀如来といえば、坐像が多いのですが、これは立像で、その立像の中では現存最古とされています。こんな穏やかな表情の阿弥陀さまは、私が今まで拝顔した阿弥陀如来像の中でも一番と言っていいぐらい落ち着いておられました。年に1日だけ開帳という秘仏で、しかも寺外初公開の仏像をこんなに間近に何度も御拝顔できるとは有頂天になってしまいました。(売っていた絵葉書の写真と実物とでは全くと言っていいくらい違うので、絵葉書は買いませんでした)

比叡山延暦寺 根本中堂内部(模擬)

 最澄(767~822年)は、平等思想を説いた「法華経」の教義を礎とする天台宗を開き、誰でも悟りを開くことができるという一乗思想を唱えましたが、比叡山に開いた延暦寺は仏教の総合大学と言ってもよく、後にここで学んだ法然は浄土宗、親鸞は浄土真宗(以上浄土教系)、栄西は臨済宗、道元は曹洞宗(以上禅宗)、日蓮は日蓮宗(法華経系)を開いたので、多彩な人材を輩出していると言えます。

 先程の阿弥陀如来立像を作成した円仁(山門派の祖)は、下野国(今の栃木県)の人で、「入唐求法巡礼行記」などの著書があり、唐の長安に留学し、師の最澄が果たせなかった密教を体得して天台密教(台密)を大成し、天台第三代座主にもなりました。一方、阿弥陀如来像を作成されたように、浄土教も広めた高僧でもあるので、天台宗というのは、懐が広い何でもありの寛容的な仏教のような気がしました。(その代わり、千日回峰があるように修行が一番厳しい宗派かもしれません)

 そもそも、天台宗そのものは、中国の南北朝から随にかけての高僧智顗(ちぎ)が大成した宗派ですから、中国仏教と言えます。もっとも、中国仏教はその後の廃仏毀釈で消滅に近い形で衰退してしまったので、辛うじて、日本が優等生として命脈を保ったと言えます。

 伝教大師最澄も、渡来人三津首(みつのおびと)氏の出身で出家前の幼名は広野と言いましたから、日本の仏教は今の日本人が大好きな言葉であるダイバーシティに富んでいるとも言えます。

上野でランチをしようとしたら、目当ての店は午後1時を過ぎたというのにどこも満員で行列。そこで、西川口まで行き、駅近の中国料理「天下鮮」へ。西川口は今や、神戸や横浜を越える中華街と言われ、それを確かめに行きました。

 最初に「訳あって、会場を二巡した」と書いたのは、会場の案内人の勝手な判断によって「第2会場」から先に見させられたためでした。第2会場を入ると、最澄の「さ」の字も出て来ず、いきなり「比叡山焼き討ち」辺りから始まったので、最初から推理小説の「犯人」を教えられた感じでした。時系列の意味で歴史の流れが分からなくなってしまったので、「第1会場」を見た後、もう一度「第2会場」を閲覧したのでした。

 そのお蔭で、円仁作の「阿弥陀如来立像」を再度、御拝顔することができたわけです。

JR西川口駅近の中国料理「天下鮮」の定番の蘭州ラーメン880円。やはり、本場の味でした。お客さんも中国人ばかりで、中国語が飛び交い、ここが日本だとはとても思えませんでした。西川口にはかたまってはいませんが、50軒ぐらいの「本場」の中華料理店があるといいます。その理由は、書くスペースがなくなりました。残念

 なお、私がさんざん書いた円仁作の阿弥陀如来立像は11月3日で展示期間が終了してしまったようです。となると、是非とも、京都・真正極楽寺(真如堂)まで足をお運びください。ただし、秘仏ですので、年に1度の公開日をお確かめになってくださいね。

 あ、その前に、この展覧会は来年5月22日まで、福岡と京都を巡回するので、そこで「追っかけ」でお会いできるかもしれません。

 円仁作の阿弥陀如来立像は、一生に一度は御対面する価値があります、と私は断言させて頂きます。

満洲事変を契機に戦争賛美する新聞=里見脩著「言論統制というビジネス」

 今読んでいる里見脩著「言論統制というビジネス」(新潮選書、2021年8月25日初版)は、「知る」ことの喜びと幸せを感じさせてくれ、メディア史や近現代史に興味がある私にとってはピッタリの本で、読み終わってしまうのが惜しい気すら感じています。

 実は、著者の里見氏は現在、大妻女子大学人間生活文化研究所特別研究員ではありますが、20年前に同じマスコミの会社で机を並べて一緒に仕事をしたことがある先輩記者でもありました。でも、そんなことは抜きにしても、膨大な文献渉猟は当然のことながら、研究調査が深く行き届いており、操觚之士の出身者らしく文章が読みやすく、感心してしまいました。

 この本は「言論統制」が主題になっていますが、それは、政府や官憲によるものだけでなく、メディア(戦時中は新聞)や国民までもが一躍を担っていた事実を明らかにし、検証に際しては、戦前の国策通信社だった同盟通信の古野伊之助社長の軌跡を軸として追っています。

明治 銀座4丁目の「朝野新聞」本社(江戸東京博物館)

 先日9月11日(土)、第37回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催)にオンラインで参加したことについて、この《渓流斎日乗》ブログに書きました。その際、講師の一人で「記者・清六の戦争」を書かれた毎日新聞社の伊藤絵理子氏は、大変失礼ながら、「勉強不足で」(本人談)、質問(新聞紙条例のことなど)にお答えできなかった場面がありましたが、この本を読めばバッチリですよ(笑)。

 例えば、日本の新聞は、あれほど戦争や軍部に反対していたのに、ガラッと変わったのは、1931年9月18日(実に今年で90周年!)の満州事変がきっかけだった、とよく言われますが、その経緯が詳しく書かれています。

 東京日日新聞(1943年に大阪毎日新聞と統合して毎日新聞)は、もともと陸軍と親密な関係がありましたが、満洲事変をきっかけにさらに戦争ムードが広がり、満洲事変のことを社内では、「毎日新聞後援・関東軍主催・満洲戦争」と自嘲する者さえいたといいます。しかも、社論を代表する東日と大毎の主筆だった高石真五郎は、外国生活が長く、リベラルな考えの持ち主でしたが、満洲事変に関しては非常な強硬論者だったというのです。彼は「領土的野心を持つものではなく、正当に保持している経済的権益を守るもので、第三国の介入を許さぬ、というものだった」という証言もあったといいます。

 これでは、毎日新聞は、政府や官憲から命令されるまでもなく、戦争に協力していったことがよく分かります。(部数拡大の営業戦略もあったことでしょう)

 一方の「全国二大紙」(1930年まで、読売新聞はまだ22万部程度の小さな東京ローカル紙でした。しかし、正力、務台コンビで販売戦略が奏功し、1937年になると、東京日日、朝日を抜いてトップに浮上します)の朝日新聞はどうだったかと言いますと、その豹変ぶりが実に興味深いのです。例えば、大阪朝日は、事変発生直後の9月20日付朝刊社説で「必要以上の戦闘行為拡大を警(いまし)めなければならぬ」などと戦線拡大に反対の立場を断固主張しておきながら、そのわずか11日後の10月1日付朝刊社説では「現在の国民政府が…日本の有する正当な権益を一掃してしまおうとするには、必ず日本との衝突は免れないであろう」などと満洲独立支持へと主張を一転させてしまうのです。

東銀座「改造」書店 閉店してしまったのか?

 それまで、軍備費削減の論調を張っていた朝日は、在郷軍人会などから猛烈な不買運動に遭っていました。1930年に168万部余だった部数が、翌31年には143万部余と減少し、厳しい経営状態に立たされていたといいます。(しかし、「戦争ビジネス」で起死回生し、部数拡大していきます)

 こうした豹変ぶりについて、月刊誌「改造」は「朝日新聞ともあろうものが、軍部の強気と、読者の非買同盟にひとたまりもなく恐れをなして、お筆先に手加減をした」と揶揄され、月刊誌「文藝春秋」(1932年5月号)からは「東京朝日は昨年の秋、赤坂の星が丘茶寮に幹部総出動で、軍部の御機嫌をひたすら取り結んで、言論の権威を踏みにじった」と暴露されています。

 この「星が丘茶寮」と書いてあるのを読んで、本書には全く書いていませんでしたが、私は、すぐ、北大路魯山人じゃないか!とピンときました。調べてみると、魯山人は1925年にこの会員制料亭「星岡茶寮」の顧問兼料理長に就任しましたが、36年には、その横暴さや出費の多さを理由に解雇されています。でも、1931年秋でしたら、魯山人はいたことになります。あの朝日新聞の編集局長だった緒方竹虎も、朝日不買運動をチラつかせた軍部の連中も、魯山人のつくる食器(重要文化財クラス?)と料理に舌鼓を打ったのではないかと想像すると、何か歴史の現場に踏み込んだような気になってニヤニヤしてしまいました。(文藝春秋が朝日を批判するのは、昔からで、お家芸だったんですね!)

 ちなみに、この 「星岡茶寮」 はもともと、日枝神社の境内だった所を、明治維新で氏子の減少で維持できなくなり、三井財閥の三野村利助ら財界人により買い取られて料亭が作られたものでした。戦時中に米軍による空襲で焼失し、戦後は東急グループに買い取られ、ビートルズが宿泊した東京ヒルトンホテルになったり、キャピタル東急ホテルになったりし、現在は、地上29階の東急キャピトルタワーが屹立しています。

 この本を読みながら、私は、行間から一気に、勝手に色々と脱線しますが、新たに知らなかった知識を得ることができて、ますます 読み終わってしまうのが惜しい気がしています。

 

本音を言えばブログは書けなくなる

 今朝(6月10日付)の東京朝日新聞朝刊の一面に「読者のみなさまへ」との社告があり、来月7月1日から購読料を現在の4037円から4400円に改定する、とありました。「改定」ですか…。「値上げ」と書かないところが凄いですね。オツなもんです。あまりにも突然の告知でしたが、同紙の本体価格の改定は「1993年12月以来、27年7か月ぶりです」と胸を張っております。

 裏事情は推測するしかありませんが、大幅部数減による経営難で、値上げするしかなくなったということなのでしょう。カルテルは結んでいないことになってますが、他の大手紙も追随することでしょう。

 その朝日の2面の「ひと」欄で、「ネットのトラブル防止のための講演を続ける小木曽健さん(47)」を取り上げています。大手ネットゲーム会社の社員として、こなした無料出張講演が2000回にも上るといいます。

 知人の批判、交際相手の写真流出、著名人に対する誹謗中傷、犯罪予告…。冗談のつもりでも人を傷つけ、事件にもなる。(小木曽さんは)「自宅の玄関に張り出せる内容しか書き込んではいけない」と繰り返し説く、と同記事にあります。

 忸怩たる思いですね。

銀座「ローマイヤー」フランス産サンクトポルク ポークソテー~ジンジャーソース1100円。 日本語で言えば、「豚の生姜焼き」ってなところかなあ?

 私自身は、肖像権というものがありますから、このブログにはなるべく「人間の写真」(笑)はわざと掲載しないようにしています。勿論、犯罪予告はもってのほか、で、私は考えたこともありません。しかし、知人や著名人に対する批判は、結構やっております。これも「批判精神は、ジャーナリズムの一環」と開き直った上での話ですが、事件にならないよう、書き方を曖昧にするか、微妙にしたりすることがあります。

 《渓流斎日乗》から批判精神がなくなれば、その存在意義もなくなります。もう誰にも読まれることはないでしょうし、本人だって書きたくない(苦笑)。しかし、単なる個人のブログですから、面倒なことには巻き込まれたくないというのは本音です。そんな本音が頭をもたげてくると、何も書けなくなってきます…。

  まあ、そんな板挟みの中で、執筆活動を続けています。と、今日の日乗には書いておこう。

 扨て、本音と言えば、最近、年のせいか、革靴だと、歩くだけで疲れます。「足取りも軽く」というのは若い頃の話で、今は「足取りが重い」のです。9秒台を目指して全力疾走なんて、もうとてもできなくなりました。

 もう一つ。まだ6月ですが、ここ2、3日、東京都心でも気温が30度前後にもなるというのに、あまり暑さを感じないのです。周囲の人たちはほとんど半袖姿なのに、私自身はいまだに長袖のジャケットを着込んでいます。低温動物になってしまったのか、ランチでレストランに入る際に体温を計られますが、たまに35度台だったりして自分でも驚きます。

 嗚呼、やっぱし、本音ばかり書くとブログもつまらなくなりますねえ…(苦笑)。

業態を変えるのか新聞業界?=ジャーナリズムのレベルが民度のレベルでは?

beautiful Mt. Fuji Copyright par Duc de Matsuoqua

 最近ご無沙汰している日本新聞協会がネットで公開しているデータによると、2000年に約5370万部あった全国の新聞発行部数が、2020年には約3509万部に落ち込んだといいます。つまり、この20年間で、1861万部も激減したことになります。いわば20万部の地方紙が90紙も廃刊したことになります。

 内訳を見ると、一般紙が4740万部から3245万部へと1495万部減、スポーツ紙が630万部から263万部へ367万部減と惨憺たるものです。大雑把ですが、天下の読売新聞も1000万部から700万部、朝日は700万から400万部、毎日に至っては、400万から200万部へと、全国紙と呼ぶには「危険水域」です。

 書籍と雑誌の売上も1997年の2兆4790億円をピークに、2012年になると、その半分以下の1兆2080億円にまで激減しています(経済産業省・商業統計)。

◇スマホが要因?

 「若者の活字離れ」とか、「駅のキオスク店の廃業」などが原因と言われていますが、紙媒体の減少に拍車を掛けた最大の要因はスマートフォンの普及のようですね。総務省によると、スマホの世帯保有率が2010年末にわずか9.7%だったのが、2015年末には72.0%と、この5年間で急速に普及したといいます。

その店は築地の奥深い路地にあります

 その5年間に何があったかと言いますと、日本でアップルのiPhoneが発売されたのは2008年ですが、2010年からスマホは3Gから4Gとなったことが大きかったようです。これにより、データ量が大幅に増量し、文字情報だけでなく、動画もスムーズに観ることができるなど、まさにスマホは、日常生活で手離せないツールになったわけです。

◇ネットに負けた紙媒体

 その中で、ネットサイトの最大の「売り」のコンテンツがニュースだったのですが、1990年代の既成マスコミ経営者は、これほどネット企業が成長するとは夢にも思わず、ほぼタダ同然で、ドル箱のニュース商品をネット企業に渡してしまったことが後を引くことになります。(日本最大のヤフージャパンは、2000年の時価総額が50億円だったのが、20年後には3兆円にまで成長しています。月間250億ページヴューPVにも上るとか)

知る人ぞ知る築地「多け乃」 結構狭いお店と厨房の中に、スタッフが6人もいらっしゃって吃驚

 勿論、既成の紙媒体も指を咥えてこの動向を見ていたわけではありません。2011年から有料の電子版を発行した米ニューヨークタイムズは、コロナ禍の巣ごもりで購読者が増えて、2020年12月末の時点で500万件を超えたといいます(アプリと紙媒体を合わせると750万部)。NYTは、クオリティー・ペイパーと言われていますが、1990年代の発行部数は確か30万部程度の「ローカル紙」でした。また、19世紀から続く英老舗経済誌「エコノミスト」も電子化に成功し、紙で10万部そこそこだったのが、2020年の電子版は102万部に上ったといいます。

◇頑張っている十勝毎日新聞

 日本では、私も帯広時代に大変お世話になった十勝毎日新聞が、いまや1万人もの電子版の有料会員(本紙8万部余)を獲得していると聞きます。私が通信社の支局長として帯広に赴任していたのは2003年~2006年でしたが、当時の十勝管区の人口は36万人、帯広市の人口は16万人で、十勝毎日新聞の発行部数は9万部だったと覚えています。北海道といえば、北海道新聞の独壇場なのですが、十勝と苫小牧ぐらいが地元の新聞が頑張って部数で道新を凌駕していました。

結構、テレビの取材が入る有名店で、この日はカレイ煮魚定食 1500円 に挑戦。味は見た目よりも薄味でした

 ということで、数字ばかり並べて読みにく文章だったかもしれませんが、私自身、長年、新聞業界でお世話になってきたので、最近、「売れる情報」とは何かということばかり考えています。

 このブログも関係しているのですが、俗な書き方をすれば、「お金を出してでも欲しい情報」とは何かです。それは、生死に関わる情報かもしれません。その筆頭が戦争で、新聞は戦争で部数を伸ばした歴史があります。

 平和になっても、日本は災害大国ですから、地震や津波、洪水、地滑りなどの災害情報は欠かせません。

 結局、突き詰めて考えてみると、「医食住」に関わる情報が多くの人が有料でも手に入れたいと思うかもしれません。だから、グルメ情報もバカに出来ませんよ(笑)。

◇官報は無味乾燥

 今では、官公庁や役所、役場などがサイトで情報公開してますが、失礼ながら「官報」は、素材ですから、味気も素っ気もなく面白くありません。第一、素材を読んだだけでは、情報の裏にある背景や本当の真意も、よほどの通でなければ分かりません。

 となると、既成新聞は、これまで以上に、情報の解説や分析、歴史的背景、将来予想、そして何よりも政財官界の汚職追及と社会不正糾弾などで生き延びていくしかないかもしれません。新聞社は都心に多くの不動産を持っていて、「貸しビル業」で存命を図っているようですが、原点に帰ってニュースで勝負してほしいものです。

ジャーナリズムのレベルがその国民のレベルなのですから。