京都・西陣は千本釈迦堂の大根炊き

京都・西陣「千本釈迦堂」©️Kyorakusakio

京洛先生です。

最近、どういうわけか《渓流斎日乗》では、滋賀県の大津農林水産通信員とやらが、幅を利かせておられるようです。

が、「元祖」「本家本元」はこのアタシだということを、読者諸兄姉の皆々様方にはよおく御理解、御芳情、御鞭撻の程、宜しく賜わりたき次第にて存じまする。

京都・西陣「千本釈迦堂」©️Kyorakusakio

◇12月8日は臘八大接心

あ、さて、12月8日は、何の日かご存知ですか? 「米国がイスラエルの首都をエルサレムに宣言して、パレスチナで紛争が激化している?」「富岡八幡宮の女性宮司が弟(前宮司)に殺された?」。
それも大きな事件でしたが、仏教徒の始祖、お釈迦様、釈尊、仏陀が悟りをひらかれた「成道会(じょうどうえ)」(12月8日)です。禅宗では「臘八大接心(ろうはつ おおぜっしん)」と言って、12月1日から8日まで僧堂できびしい修行に勤しみます。

◇応仁の乱の舞台で大根炊き
京都・西陣の一隅にある「千本釈迦堂」では、その「悟り」にあやかり、毎年開いている「大根焚き」の日です。鎌倉時代から続いていて、今では、洛中の冬の風物詩にもなっています。
同寺は、仮寓のそばでもあり、今日はその盛況ぶりを覗いて来ました。
通称”千本釈迦堂”。正しくは「大報恩寺(真言宗智山派)」は、あの「応仁の乱」でも、唯一、焼け残った洛中の最古の建造物であり、本堂は「国宝」になっています。

京都・西陣「千本釈迦堂」©️Kyorakusakio

貴人も数年前に、大根炊きを食べに見えたでしょう。本堂の横の「宝物館」の運慶、快慶らの重文の仏像の見事さにびっくりされたりしましたが、例のあの椿事もこの境内でしたね。

◇この紋どころが見えぬか!
緋毛氈の敷かれた床几に腰を掛け、出来立ての温ったかい大根焚きを食べていると、大阪からやってきた、さる民放の報道クルーが、迂生に「取材に応じてくれませんか」と頼みに来ました。
こちらは、取材でも、インタビューでもなんでも応じても良いのですが、後で、彼らが上司から叱られたら可哀そうなので、偶々、着用していたジャンパーの胸の小さなマークをお見せしたところ、カメラマン氏は、大声を出してその場にひっくり返って、大急ぎで逃げ出しました。

何もご存知の無い貴人も、慌てて、「京洛先生!何かあったのですか」と、心配そうな表情を見せられたので、「いやいや、これを見せただけですよ」と、微苦笑しながら、ジャンパーに縫ってあった彼らのライバルのテレビ局のマークを見せたのでした。
貴人もそれを見て「ヒヤ―、それでは、カメラマンさんも驚いて逃げますよ」と大笑いになりました。

京都・西陣「千本釈迦堂」の大根炊き 1000円©️Kyorakusakio

千本釈迦堂の大根焚きは、7日と8日の2日間開かれていて、報道関係者は初日に殺到するので、8日はマスコミは何処も来ておらず、人出もそれほど多くありませんでした。
ただ、大きな大根が3切れと油揚げが一枚入った無病息災の大根焚きは千円です。
関係者によると2日間で1万人が大根焚きを食べるので、俗に言えば売り上げは1千万円はくだらないわけですね。
仕込みから料理、接遇をするのは檀信徒さんで、事実上、無料奉仕でしょうから、この売り上げはすべてお寺の収入になるわけです。ただ、お寺としては「お賽銭」のほかは、これと言った大きな収入がないだけに、この「大根焚き」は、お寺の修理維持費にとっては貴重な財源になっているのは確かです。

ちなみに、鎌倉時代、同寺の三世慈禅上人が、大根の切り口に梵字(ぼんじ)を書いて魔よけにしたのが起源の「大根焚き」は、少し辛めの出汁が、大きな大根に染みて、昼飯代わりになるくらいボリュームがあり美味かったですね。

ご報告迄。

「猫の足あと」と武蔵国の歴史

埼玉県秩父郡長瀞町の宝登山神社

IT青年実業家の松長社長にはもう一つ顔がありまして、東京・首都圏の寺社仏閣の来歴などを網羅したサイト「猫の足あと」https://tesshow.jp/ を主宰・運営していることです。

主宰・運営とは、ご自分で週末になると、一人で野山を駆け巡って、手当たり次第に神社仏閣を訪れて、バチバチと生の写真を撮影したり、沿革を調べたり、要するに取材、執筆活動もされているということなのです。ですから、異様に首都圏の神社仏閣の歴史から現代に至るまで詳しいのです。

例えば、赤坂にある日枝神社の日枝(ひえ)は比叡山の比叡から来ているので、この神社はいわば天台宗系の神社だというのです。

千葉県習志野市などにある丹生神社は紀伊国(現和歌山県)の丹生都比売神社の祭神丹生比売命を勧請して創建されたことから、真言宗の高野山系の神社だというのです。

◇氷川神社は足立郡だけ

私が驚いたのは「氷川神社」(さいたま市大宮区)です。「武蔵一宮」と頭に付きますから、武蔵国(東京、埼玉、神奈川、茨城、千葉の一部)のナンバーワンの神社ですから、武蔵国内ならどこにでもあると思っていたら、「そうではありません。埼玉県内の昔の足立郡にしか氷川神社はありませんよ」と彼は自信満々に言うではありませんか。足で稼いだ情報ですからね。(ちなみに、彼の説によると氷川神社は、出雲からの移住者が創建したらしく、出雲の斐川から名前を取ったそうです。)

おっかしいなあ。私の実家は東京都東久留米市ですが、市内に確か二,三カ所は氷川神社と名の付く神社があり、実家の近くにもありました。ですから、埼玉、東京ならどこにでもあると思っていたのです。

それが、足立郡だけだったとは!

足立郡とは、武蔵国を南北に貫く領域で、今の京浜東北線が走る区域に近いと言われています。ですから、大宮や浦和や、東京都足立区や豊島区、練馬区辺りも入ります。この辺りに氷川神社が多いというのです。

足立郡の右隣りというと東側の南北連なる領域は埼玉郡で、埼玉の名前の由来になった行田市や越谷、春日部、岩槻が含まれ、この辺りは、久伊豆神社の系列が圧倒的に多いそうです。

武蔵国埼玉郡の右隣りの葛飾郡は、北の松伏町、三郷から、南は東京都葛飾区、千葉県浦安に至るまでカバーし、この辺りは圧倒的に香取神社の勢力下にあったといいます。昔の川の交易権なんかも香取神社が抑えていたそうです。

◇高麗郡は高句麗人、新座郡は新羅人の街だった

このほか、武蔵国高麗郡(後に入間郡、今の日高市など)は、716年に大和朝廷が高句麗からの渡来人を移住させたから、そう命名されたことは歴史的事実として知ってましたが、実家の東久留米に隣接する埼玉県新座市(平林寺で有名)は、昔は新座郡(和光市、志木市なども含む)と呼ばれ、758年に朝鮮半島の新羅からの渡来人を移住させたので、最初は新羅郡と言われていたんですね。

へー、全然知りませんでした。

古代は、どうしても、九州か、大和や京都、滋賀が中心ですから、学校では関東の古代や中世の歴史は全く教えてくれないので、自分で勉強するしかありません。

この年になって、まだまだ学ぶべきことが多いということです。

【追記】

これは、いつも電車の中で記憶でスマホで書いております。そのため、よく間違えることがあります。早速、「猫の足あと」の松長主宰から、御指摘がありました。

(引用)正確性を期しますと、
>>足立郡とは、(中略)ですから、大宮や浦和や、東京都足立区や豊島区、練馬区辺りも入ります。この辺りに氷川神社が多いというのです。
「ですから」以降は誤りではありますが..
豊島区は豊島郡、練馬区は豊島郡と多摩郡に編入されています。
豊島郡及び、多摩郡の北側は、「足立氏」の勢力が及んでいたということでしょうね。
当然ながら、多摩郡の南側には氷川神社がありません。
(豊島郡とは、北区・豊島区・文京区・板橋区・練馬区の右半分・新宿区・渋谷区あたりです)
ついでに付け足すと、葛飾郡は、江戸時代前期までは下総国です。(武蔵国ではありません)
江戸城下が人が密集して、江東区・墨田区近辺に人が住み着いてしまったから、武蔵国に編入されたのです。
その証拠に墨田川(昔はこちらが荒川だった)に架かっている橋はJR両国駅の両国橋です。武蔵と下総に架かる橋ですね。(引用終わり)

青山城址~小倉城址~菅谷館跡~稲荷塚古墳

国指定史跡 小倉城趾

トランプ米大統領夫妻と安倍首相夫妻は昨晩、「渓流斎日乗」が予告した通り、東京・銀座のミシュランも推薦する超高級鉄板焼料理「うかい亭」で会食しましたね。

えっ?具体的な店名は書いてなかった?そりゃ、そうでしょう(笑)。「体制護持」「党広報機関紙」ですから、そこまで書きませんよ(笑)。

で、トランプ大統領と安倍首相は昼間は、埼玉県の名門で3年後の東京五輪会場にもなる霞が関カンツリー倶楽部でゴルフをなさってました。

私たちは、ちょうどその頃、好天に恵まれて、そのゴルフ場近くの山城にエッチラホッチラ登っておりました。

都内に本部がある「山城歩き同好会」に私も参加させてもらい、全部で6人が中世の城跡を散策しました。

東武東上線の終点小川町駅(これがかなり遠かった)から、バスで愛宕公園下まで(220円)行き、そこで迷っていたら、シトロエンに乗った地元の優しいおじさんが、わざわざ登山道の入り口まで案内してくれたのです。お名前も伺いませんでしたが、この方のおかげで、幸先良いスタートが切れました。

どうも有り難うございました。

昼なお暗い細くてきつい檜と杉の山道を辿って最初に着いた所が青山(割谷)城跡でした。詳細は上の看板をご参照ください(笑)。

室町時代から南北朝時代の15世紀、城主は不明ですが、関東管領扇谷(おおぎがやつ)上杉氏の家臣上田氏が有力と言われてます。

ここからまた、30分ほど狭い急な山道を歩いてやっとのことで辿り着いた所が、今回のハイライトの一つ、小倉(おぐら)城趾です。こちらも城主は不明で、戦国時代の後北条氏の家臣の遠山氏とも上田氏とも言われています。

ここは「国指定の史跡」として登録されていますから、絶対に一見の価値ありますね。とにかく素晴らしい。苦労して登ってきた甲斐がありました。

何でこんな山奥に城が建てられたのか不思議ですが、敵から逃れて下界を探訪するのにちょうどよかったのでしょう。また、城下を流れる槻川(つきがわ)から物資を運んだり、武蔵国原産の板碑の石材を運搬したりしていたらしいです。

ここは、中世から水運業が盛んだったようです。

この小倉城の特徴が上写真のような石の平積みです。まあ、石垣ですが、いかにも中世の城らしく、武蔵国の城で見られる平積み石はここだけだそうです。

この後、ハイキングコースにもなっている嵐山町の嵐山渓谷道を散策しました。

ここは、日比谷公園や明治神宮などを設計した本多静六博士が、京都の嵐山(あらしやま)に似ているということで、武蔵嵐山(らんざん)と名付けたらしく、大正時代あたりから観光資源になったようです。

東武東上線「武蔵嵐山」駅に近付くと、国道254線近くに「菅谷館跡」があります。ここは鎌倉時代の源頼朝の右腕と言われた畠山重忠の城跡だったそうです。

本郭のほかに、二の郭、三の郭、南郭、西郭などがあり、規模は小倉城より広い。実に立派な城跡です。

ここには県立嵐山史跡博物館もあります。

詳細は→ 菅谷館跡

室町末期から戦国時代は、山内上杉氏の内紛などで戦場になりました。

畠山重忠像

鎌倉武将畠山重忠は、埼玉県深谷市畠山出身なんだそうですが、意外にも埼玉県北部は、鎌倉武将を多く輩出しているんですね。

平家物語などに登場し、歌舞伎の題材にもなった熊谷直実の熊谷市出身が一番有名かもしれませんけど、木曽義仲は、源義賢の次男で、生まれは現在の埼玉県比企郡嵐山町の大蔵館だったというのです。父義賢が兄義朝(頼朝、義経の父)と対立して、義朝の長男義平に討たれ、義仲は信濃国木曽谷に逃れたことから、木曽義仲と呼ばれるようになったんですね。

時代が下って、関東管領扇谷上杉氏の家臣で、河越城、江戸城を築城した太田道灌は、小川町のずっと先の越生町出身と言われております。

「山城歩き同好会」の最後の締めは、これまた武蔵嵐山駅に近い「稲荷塚古墳」でした。

古代にこの地に古墳をつくるほどの有力な豪族が住んでいたわけで、古代から中世、近世と脈々と歴史が続いてきたことが分かります。

特に、一番初めに出てきた小川町は、重要文化財にも指定されている「細川紙」と呼ばれる和紙が有名ですが、これは、1300年前に渡来した高麗の人たちの製造技術が伝わってきたものだそうです。

詳細は→ 細川紙

恐らく、高麗人たちは、技能職人として、また土地の有力者として政治的発言権も持っていたのかもしれません。

万歩計を見ると、この日に歩いたのは、2万5000歩以上にも及びました。意外と知らなかった歴史散歩ができ、昨日は少し疲れましたが、非常に有意義な時間を過ごすことができました。

寺社仏閣巡りの「猫の足あと」はお薦めです

東京・目黒不動尊

IT関係で言えば、私が初めてワープロを買ったのは1985年。エプソンの「ワードバンク」という機種で、ディスプレイにはわずか数行の文字しか掲示されませんでした。

生まれて初めてパソコンを買ったのは1995年。アップルの「マックブック」という機種でした。初めてインターネットに接続しましたが、当時はまだダイヤル回線で遅く、画像が出ると驚きました。ブラウザはネットスケープナビゲーターという「N」のマークが印象的でしたが、今はとんと噂は聞きません。どうなったのでしょうか?

そして、ブログを始めたのが2005年で、10年起きに新しいことに挑戦してます。2015年は、特になく、黄泉の国に行ってましたけど(笑)。

まあ、IT関係は、比較的早い時期に挑戦していることを自慢したかっただけですが、実は、技術的なことは恥ずかしくも全く何も分かっておりません。

それが先日、海城学園の同窓会に参加して、若い後輩の皆さんの中には、結構IT関係の仕事をしている人が多く、「へー」と思っただけででした。

そしたら昨日、何気なく名刺を整理していて、海原メディア会の事務局長でIT会社の社長でもある松長氏の名刺の裏を見たところ、そこには「猫の足あと」と書いてあったので吃驚!知ってるぞ!と思い、彼に連絡して問い糾したところ、彼はあっさりと「へい、あっしがやりやんした」と、かつ丼をペロリと平らげたのです(笑)。

いやはや、少し脱線しました(笑)。

猫の足あと」とは、今のところ、東京、神奈川、千葉、埼玉など関東圏内にある寺院、神社の沿革、観光名所などが網羅されたサイトです。

私の趣味(と言っては怒られますが)に「寺社仏閣巡り」がありまして、たまたま自宅近くに全く知らなかった豪勢な神社を発見して、検索したところ、この「猫の足あと」に巡り合い、それ以降は、分からない時は、このサイトに頼るようになっていたのです。

まさか、世代が少し違いますが、高校の後輩が開設していたとは!灯台下暗しでした。

しかも、これらの寺社仏閣は、松長氏が全て自分の脚を使って廻り、自ら写真も撮ってきたといいますから、二重の驚きです。

「サイトの寺社仏閣は、貴兄が(全て・ほとんど・大体)取材、執筆したのですか?」との小生の質問に彼はこう答えました。

…江戸時代は自転車もない中、日本橋を出発したら初日の宿泊は、保土ヶ谷又は戸塚でしょうから、舗道をウオーキングシューズで歩くのは当時よりかなり楽でしょうね。
朝から夕方まで散歩を続けると4万歩、約30km、参詣寺社30~50くらいになります。

御朱印画像をくれる方、汚い画像を綺麗な画像に差し替えるように画像を送ってくる寺社様などの場合は、「画像は◯◯さんからの寄贈」と注記しております。
従って画像の全てが小生の撮影と言ってもいいでしょう。…

ひょっえー!ぶったまげました。

寺社仏閣巡りは、週末と祝日のみらしいですが、1日4万歩、50カ所とは大した魂消たです。

「江戸五色不動尊」や「秩父三十四カ所霊場」なども掲載されていますが、まだ、関東圏内に限られていたのは、1人で廻っているせいだったんですね。

ということで、お忙しい方もこの「猫の足あと」(←こちらをクリック)を覗いてみて下さい。

今度、IT関係に異様に詳しい松長氏から渓流斎ブログのホームページ化について、相談に行こうかと思っております。