忍者と諜報活動

昨日の12月1日(土)は、第25回諜報研究会のインテリジェンス・ツアーと講演会に参加してきました。

今回のツアーは、東京・四ツ谷駅近辺。テーマは、「伊賀者の跡地を訪ねて」といった感じでした。

四ツ谷といえば、お岩さんの四谷怪談が一番有名ですが、甲州街道沿いに江戸城警備を担当する伊賀者と呼ばれた「忍び」が住んでいたというのです。

今回のツアーの案内人を務めてくださった三重大学の山田雄司教授によると、我々が今普通に使っている「忍者」は昭和30年ぐらいから使われ始めただけで、それまでは「忍び」と呼ばれていたそうです。

いずれにせよ、忍者とは、諜報活動従事者の原点なのかもしれません。

ツアーで説明する山田雄司三重大教授

思えば、昭和30年代は、忍者ブームだったんじゃないでしょうか。

子ども向け漫画から、テレビ、映画に至るまで、忍者は、格好の題材でした。個人的ながら、今思い出してもテレビドラマ「忍びの者」(品川隆二主演)は異様に怖かった。「隠密剣士」に出てきたのは確か甲賀流だったと思います。

漫画は「伊賀の影丸」「サスケ」「忍者部隊 月光」「仮面の忍者 赤影」、そして「忍者ハットリくん」などよく読んだものですが、それらは、テレビでアニメになったり、実写ドラマになったりしていました。

その「忍者ハットリくん」のモデル(?)になったのが、服部半蔵で、彼は実在の人物です。彼の墓は、自分が開山した西念寺という浄土宗の寺にあり、JR四ツ谷駅から歩いて10分ぐらいのところにありました。

服部半蔵というのは、代々同じ名前を継承して明治まで続いた武士の名前で、一番有名なのが、本能寺の変の際、大坂の堺にいた徳川家康が、追っ手から逃げる時に道案内した二代目の服部半蔵正成です。これは、甲賀と伊賀の山を越えて岡崎城まで逃れた「神君伊賀越え」の逸話として有名です。

この服部半蔵正成は、槍の名手として知られ、その槍がこの寺に保存されておりました。(現物かなあ、と思ってしまいましたが)

この正成の父に当たる初代服部半蔵は、いわゆる忍術を使う忍びだったらしいですが、この二代目服部半蔵は忍びではなく、伊賀の忍びの者を束ねる「頭」のような存在だったらしいのです。

服部半蔵といえば、今もある半蔵門という地名は、そこに家康から屋敷を賜ったので、そう名付けられたということはよく知られております。

その後、江戸城拡張のため、半蔵と手下の伊賀者たちは、この四ツ谷辺りに所領を与えられたというのです。

服部半蔵正成の墓(逆光でした)

伊賀者は、ほかに、今の原宿の隠田にも所領を与えられ、移り住んだそうです。(隠田といえば、明治になって、皇室や政界・軍人に影響を与えて「隠田の行者」「日本のラスプーチン」と呼ばれた新興宗教の教祖飯野吉三郎を思い出しますね)

伊賀者は、かつては、諜報活動をやってましたが、平和な江戸時代になってからは、主に、江戸城と周辺の警備の役目を担ったようです。

四ツ谷に伊賀者が住むようになったのは、甲州街道の先に八王子があり、ここに同心奉行所があった関係もあったようですね。

伊賀者は、そのまま、江戸に残りますが、服部半蔵一族は、その後、桑名藩の家老を代々務めたそうです。

というのは、西念寺境内には、上の写真の通り、徳川家康長男信康の供養塔があるからです。実は、服部半蔵正成と長男信康とは深い因縁があったのです。

長男信康は、武田勝頼と内通したという嫌疑を掛けられ、家康より切腹を命じられたのでした。この時、介錯を命じられたのが、服部半蔵正成でした。

三河時代から家康に仕えていた正成は、家康と同い年で、長男の信康は小さい頃からよく知っていて、可愛がっていたため、信康の介錯を果たせず、後に自ら出家した、と上の説明文に書かれています。

西念寺から新宿方面に歩いて10分ほどで、笹寺(長善寺)があります。

昔の江戸切絵図を見ると、この辺りに、「伊賀町」とか「伊賀丁」と書かれた箇所があり、伊賀者の屋敷があったものと想像されます。

しかし、今では全く面影もなく、軌跡も、記念碑も見当たりませんでした。

伊賀者の墓があるのではないかと、少し、境内の墓地を探しましたが、結局見つかりませんでした。

忍びの者たちは、書き物を残さず、ほとんど口伝だったといいますから、跡形もないことは、当然といえば、当然なのかもしれません。

四ツ谷を後にして、我々は地下鉄を乗り継いで、早稲田大学に向かいました。ここで、講演会が開かれるからでした。(途中で早稲田の蕎麦屋さんで昼食休憩)

ツアーの案内役を務めてくださった三重大学の山田雄司教授は、学術博士でもあり、恐らく、現代の忍者研究の第一人者でしょう。もともと怨霊の研究者でしたが、2012年から忍者の研究も併せて始め、「忍者の研究」「忍者の教科書」などかなりの点数の関連書籍を出版されております。

午後は、山田先生は、忍者のように講師に早変わりして(しっかり、ネクタイをトイレの鏡の前で締めている姿をお見掛けしてしまいました!)、忍者の歴史を講義してくれました。

初めに、忍者の起源として、「聖徳太子が甲賀馬杉の人大伴細入を使って物部守屋を倒したことから、太子から『志能便(忍)』と名付けられたとする」と聞いて、「えっ?そんな昔からあったのか」と驚いたものですが、その出所の文献は、17世紀後半に成立した「忍術應義伝」などによるもので、古代の「日本書紀」にそのような記述がないことから、この説は、あくまでも伝承のようでした。

とにかく、忍びの基本は、公にしないで、忍術などは一族の中だけで、口伝とし、名前も、生きている存在も、残してはいけないとされてきたようです。証拠が残らないわけです。

とはいえ、忍びの者は、やはり、戦乱の世に活躍するもので、特に南北朝時代から戦国時代にかけて隆盛し、平和な江戸時代になると、忍術も使いようがなく、だんだんと廃れていったようです。

あと、忍者は漫画のような手裏剣を実際に投げていなかったそうですね。

恐らく、平和な江戸時代になっても、忍びは、諜報活動を続けていたと思われますが、明治になって、雇主の大名が没落したことから、忍者も廃業したことでしょう。

忍者について、ご興味のある方は、山田先生の著作を是非読んでみてください。

講演会で、もう一人興味深かったお話は、やはり、インテリジェンス研究所理事長の山本武利・早大・一橋大名誉教授の「陸軍中野学校初期卒業生の『忍者』活動」でした。

陸軍中野学校創立期には、岩畔豪雄、秋草俊、福本亀治に次ぐ第4の功労者として上田昌雄という当時大佐がいたといいます。この上田昌雄は2カ月半だけ二代目所長を務めましたが、戦後の回想録の中で、「中野学校卒業者は、全世界を対象としてやらなきゃならんということを私の方針の一つにしました。また、それまでは何か忍術使いをこさえるという考え方でやっていたんですね」などと発言していたことを取り上げておりました。

また、中野学校の海外長期滞在者は、欧米人との交流で引けを取らないよう、長身でハンサムな人物を当局が採用する発想があったのではないかと指摘された話も面白かったでした。

海外に長期派遣された中野学校卒業生は、商人やビジネスマン、領事館員などに身を隠していた者が多く、珍しかったのは記者、僧侶、教師という職業だったというのは意外でした。

特に、記者については、あの国際諜報団ゾルゲ事件のグループの「本職」が、新聞社や通信社の特派員だったことから、中野学校卒業生の中では「珍しかった職種」だったとは、本当に意外でした。

その「ジャーナリスト」だったというのは、1期生の新穂智という人物で、同盟通信社のジャカルタ支局の記者として偽装しました。

実際には、ニューギニア戦線で工作班を指揮するなどの活動をしましたが、部下のオランダ兵捕虜虐待の責任を問われて、十分な裁判もなく、戦後の昭和23年12月8日に死刑となったというのです。

あの時代、色んな運命に翻弄された人がいたんだと思うと目頭が熱くなりました。

邪馬台国の久留米・八女説、鎌倉幕府成立、咸宜園、吉田ドクトリン…は「日本史の論点」で学びました

アルハンブラ宮殿の天井画(イスラムは偶像崇拝を禁止しているのに、このような具象画があるのは極めて珍しいとか)

中公新書編集部編「日本史の論点 邪馬台国から象徴天皇まで」(中央公論新社、2018年8月25日初版)も、スペイン旅行の際に持って行った本でしたが、なかなか面白くて、往復の飛行機内では、かかっている映画で面白い作品が少なかったので、専ら読書に耽っておりました。

第1章の古代が倉本一宏・国際日本文化研究センター教授から始まり、中世は今谷明・帝京大学特任教授、近世が大石学・東京学芸大学教授、近代は清水唯一朗・慶大教授、現代が宮城大蔵・上智大教授と、「今一番旬」と言ったら語弊があるかもしれませんが、最先端の歴史家を執筆陣に迎え、最新の「学説」を伝授してくれます。

歴史は時代を映す鏡ですから、その時代によって変化するものです。最近では、学校の教科書から聖徳太子や坂本龍馬の名前が消えると話題になったり、鎌倉幕府の成立が、これまでは、「いい国つくろう」の1192年(源頼朝の征夷大将軍就任)だったのが、壇ノ浦の戦いで平家が滅び、頼朝が守護・地頭を置く文治勅許を獲得した1185年が、現在学界では圧倒的な支持を得ていることなど初めて知り、勉強になりました。

「日本史の論点」ですから、各時代で、長年論争になってきた「課題」が取り上げられています。

例えば、畿内説と九州説との間で論争が続いてきた「邪馬台国はどこにあったのか」。古代の倉本一宏氏は、纏向(まきむく)遺跡発掘により畿内説が学界では優勢になっているのものの、同氏はあえて九州説を取っていました。邪馬台国の邪馬台は「やまたい」ではなく、「やまと」と読むことが適切だとして、福岡県の久留米市と八女市とみやま市近辺が筑紫の中心だったと考え、この地域で灌漑集落遺跡が発見されれば、そここそが邪馬台国の可能性が高い、という説を立てておられました。

ちなみに、小生の先祖は、久留米藩出身なので、遺跡が見つかればいいなあと応援しております。

古代史専門の倉本氏はこうも力説します。「武家が中央の政治に影響力を持ち、政治の中心に座ったりすると、日本の歴史は途端に暴力的になってしまった。…もちろん、『古代的なもの』『京都的なもの』「貴族的なもの」がいいことばかりではないことは、重々承知してはいるけれども、苦痛を長引かせるために鈍刀で首を斬ったり、…降伏してきた女性や子供を皆殺しにしてしまう発想は、儒教倫理を表看板にしている古代国家ではあり得ないものであった」と。

これは、「古代=京都=公家=軟弱・ひ弱=陋習=ネガティブ」「中世以降=武士=実力=身分差別なく能力主義で這い上がれる=ポジティブ」といった固定されたイメージを覆してくれるものでした。

他にも色々取り上げたいのですが、あと2点ほど。まずは、近世を執筆した大石氏によると、江戸時代は義務教育はなかったが、人々は知識に対して貪欲で主体的に勉強したといいます。その一例として、大分県日田市(天領)にあった「咸宜園(かんぎえん)」を挙げております。

これは、1817年(文化14年)、儒学者の広瀬淡窓(たんそう)が設立したもので、全国から生徒が集まり、1897年(明治30年)に閉鎖されるまでの80年間で、5000人近くの人が学んだといいます。生徒たちは何年間もここに下宿して勉強し、長州の大村益次郎も学んだ一人だったそうです。

◇吉田ドクトリン

話は飛びますが、永井陽之助(東工大教授)や高坂正尭(京大教授)らの説を引用して「現代」を執筆した宮城氏によると、戦後の吉田茂路線(ドクトリン)とは、「軽武装」と「経済」を重視する政治的なリアリズムだったといいます。

そして、1951年のサンフランシスコ講和会議に池田勇人蔵相の秘書官として随行した宮澤喜一(後の首相)は、54年に吉田が首相の座を追われて鳩山一郎政権が成立すると、危機感を持ったといいます。56年には「暴露本」のような「東京ーワシントンの密談」(中公文庫)まで出版します。その理由について、宮澤は、五百旗頭真氏らのインタビューで、GHQによって追放されていた鳩山や岸信介といった「戦前派」が復活して、彼らの信条通りの政治が実現すれば、明らかに戦前に遡ってしまい、せっかく、吉田茂や池田勇人と一緒になってつくった戦後の一時代が終わったと思ったからだといいます。

同じ自民党でも、昔は、中選挙区だったせいか、派閥があり、同じ保守でも思想信条がハト派からタカ派まで両極端な政治家が同居したいたことが分かります。

言うまでもないことですが、今の安倍晋三首相は、「戦前派」の岸信介元首相の孫に当たります。安倍首相が「戦後レジームからの脱却」を目指して憲法改正を主張するのは、遺伝子のせいなのかもしれません。

まだまだ、書きたいのですが、この辺で。

 スペイン・アルハンブラ宮殿

「本能寺の変」にスペインも絡んでいた!?

グラナダ

実は今、4冊ぐらい並行して本を読んでいるため、頭の中は、ごった煮のシチュー状態です(笑)。

病気をきかっけに、本はなるべく買わないようにしているのですが、やはり、本ぐらいしか人生の楽しみ(と同時に苦しみ)がないので、増えてしまいます。

今朝から読み始めたのは、安部龍太郎著「信長はなぜ葬られたのか 世界史の中の本能寺の変 」(幻冬舎新書、2018年7月30日初版)です。「世界史からの視点」というのが、新鮮というか、斬新的です。

プラド美術館 ベラスケス像

安部先生は、いつぞや、京都は、京洛先生の守備範囲である上京区にある老舗居酒屋「神馬(しんめ)」に出没され、ちょうど、京洛先生と小生がそこで一緒に呑んでいた時に、安部先生と取り巻き編集者が奥の超一等席にいらっしゃっていたという話を聞いたことがありました。つまり、同じ時間と空間を共有していたわけです(笑)。神馬は、東京からハイヤーを乗り付けて来店するツワモノがいるほどの人気店で、調子に乗った神馬の親父が、あまりにも居丈高だったので、その後我々は行かなくなりましたけど…。

さて、「信長はなぜ葬られたのか 世界史の中の本能寺の変 」です。私も加藤廣さんの「信長の棺」などを読んで、本能寺の変の「黒幕」は、五摂家筆頭の近衛前久(さきひさ)だったいう説に、私も納得しましたが、さらにその背後に、スペインやイエズス会もいたというので驚きですね。

コルドバ 大聖堂

安部氏は、以下のような持論を展開します。

…信長は南蛮貿易による利益と軍事技術の供与を受けるために、イエズス会を通じてポルトガルと友好関係を築いていたが、ポルトガルは1580年にスペインに併合された。

そこで、信長はスペインとの新たな外交関係を築く必要に迫られ、イエズス会東アジア巡察師のアレッシャンドロ・ヴァリニャーノと1581年2月から7月まで交渉したが、合意に至らなかった。

スペインが明国征服のための兵を出すよう信長に求めたからだと思われる。日本にそれを示す資料は残っていないが、ヴァリニャーノがマニラ在住のスペイン総督に宛てた手紙を読めば、そうとしか考えられない。

信長は、イエズス会とスペインを敵に回したため、信長政権はとたんに不安定化した。キリシタン大名や南蛮貿易で巨万の富を得ていた豪商たちが見限り始めたからである。

これをチャンスとみたのが、京都から備後の鞆の浦に追放された室町幕府15代将軍足利義昭。彼は朝廷や幕府ゆかりの大名に檄を飛ばし、これに応じたのが、義昭の従兄弟で義兄弟に当たる近衛前久だった。前久の工作で、明智光秀が本能寺の変を起こした…

というのです。

サラゴサ

なるほどねえ。スペインが絡んでいたとは、驚き、桃の木ですよ。

渓流斎上等兵、名誉の負傷で勇気ある撤退=金鑚神社参拝はまた次の機会に

本庄城址

ベルリン方面から「ミッション・インポッシブル」の指令が至急便のMP3で来ました。

映画のトム・クルーズ気取りもいいですが、これは映画ではなく、現実の指令です。都心から80分、埼玉県の本庄市に鎮座する「金鑚(かねさね)神社」は一度参拝することですね。ブログのネタになりますよ(笑)。「本殿」を設けない神体山(しんたいさん)を「本殿」とする神社は、日本広しと言えども、長野の「諏訪大社」と、奈良の「大神(おおみわ)神社」と、この「金鑚神社」の三つの神社しかありません。是非、このミッションの実行を。なお、このMP3の音声は、終了後、直ちに消去されます。。。。

うーん、スパイ映画みたいですね。

でも、私自身、本庄市は何度も通過したことはあっても、生まれてこのかた、一度も行ったことはありません。ちょっと調べたところ、市の名前の由来になった「本庄城址」もあるじゃありませんか。それに、私も大尊敬する、盲目のハンデを乗り越えて「群書類従」を編纂刊行した国学者の塙保己一(1746~1821)の出身地ではありませんか。この人、国際的にも有名で、あのヘレン・ケラーにも影響を与えたと言われてます。これは行くしかない。

しかし、高崎線本庄駅に到着して驚きました。ほとんど人が歩いておらず、駅前商店街は、今、全国的に何処でもそうでしょうが、シャッター商店街で、ほとんど開いてません。

私は無鉄砲ですから、行けばどうにかなるだろうとほとんど計画せず、行ってみましたが、観光案内所も見つからず、そのまま、北口の自転車屋さんに向かいました。レンタル自転車を借りるためです。(500円也)

私は、城好きですから、まず向かったのは、本庄城址。途中、高校生らしき少年に道を聞いたところ、市役所の裏手当たりだと教えてくれました。高校野球の熱戦も観ないでご苦労様なことでした。

城山稲荷神社

何回か、行ったり来たり、ウロウロしていたところ、城山稲荷神社の鳥居近くに看板が見つかりました。本庄城の由来は、「本庄実忠が弘治2年(1556年)に築城した平城である。云々。。。」と書いてありますから、そちらをお読みください。

この後、本庄市の「歴史民俗資料館」に立ち寄りました。何と、入場料無料。驚きました。上野の東京国立博物館で見た縄文土器と違わない立派な土器が展示されていたのです。えっ?本庄って、縄文文化もあったそんな古い土地だったんですか?

親切な64歳ぐらいの学芸員さんが出てきて「何でも質問してくだい」と言うので、「これから、金鑚(かねさね)神社に行きたいんですが」と道案内を乞うと、「そりゃあ大変ですよ。本庄市内には金鑚神社がたくさんありますけど、実は、皆、分社なんですよ。長野の『諏訪大社』、奈良の『大神(おおみわ)神社』と並ぶ本殿のない日本の三大神社の一つに行かれたいんでしょ?それは、本庄市じゃないんですよ。それは、隣町の神川町にあるんです。行政区画で、この地図は本庄市の発行ですから、ここには載ってないんです。えっ?自転車ですか?そりゃあ、無理とは言いませんけど、大変ですよ。山の方ですからここから上り坂になってますからね」と仰るではありませんか。

とにかく、決めたことですから、行くことにしました。

そば蔵「ざるそばセット」1050円

途中、主要幹線道路にあった「そば蔵」で腹ごしらえ。えらい別嬪さんが給仕してくれました(笑)。駅前商店街は寂れてましたが、皆さん、車社会なので、道路沿いには色々と食べ物屋さんは見つかりました。

さて、出発。学芸員さんの話だと、本庄駅の踏切を越えて、新幹線の「本庄早稲田駅」を越えて、関越高速道路を越えて、八高線の児玉駅まで1時間ぐらい。そこから、金鑚神社まで1時間はかかるということでした。

途中の関越高速道路の渦巻き道路に立ち塞がれて直進できず、道を間違えて迷ってしまいました。また、元に戻って、右側の歩道を走ったら、「抜け道」が見つかりました。初めて行く所は本当に大変で難所でした。

渓流斎上等兵(ポツダム伍長)名誉の負傷。軽傷ながら出血

そんなこんなで、自転車で走っていたところ、側道の溝に落ちそうになり、ブレーキをかける暇もなく、すっ転んでしまいました。痛いの何の。気が付いたら、青空が見えました。昔なら、何ともないのに、経年の結果、体力は落ちましたが、運動神経も反射神経もなくなっておりました。ズボンが破けるくらいですからね。

「こりゃあ、もう無理だな」と内心自覚しまして、ずる賢いことを考えました。「そうだ、このまま、児玉駅まで行って、そこからタクシーに乗って、金鑚神社に行ってしまえ」と。

ケガをした所から、児玉駅まで30分近くかかりましたが、駅も小さく、何と、タクシーが一台もないのですよ!

競進社模範蚕室

「仕方ない。行ける所まで行こう」ということで、途中、児玉駅近くの「競進社模範蚕室」(明治27年、木村九蔵が建設)や「塙保己一記念館」(何と、ここも無料)に立ち寄りながら、金鑚神社を目指しました。

しかし、打撲した膝は痛むし、走っても走っても、なかなか着きません。ペダルを漕ぐ力も萎えてきました。結局、自転車を返却する時間もあるので、あと数キロ手前で「勇気ある撤退」をすることを決めて、引き返すことにしました。学芸員さんの「あんな素晴らしい神社ありませんよ」という言葉が耳奥に残ってましたが、次回、汚名返上、名誉回復することにしましょう。

金鑚神社

本庄駅近くに戻って、地図だけを見て、「ここが本社」と勘違いしていた本庄市内の金鑚神社を参拝することにしました。ここは分社でしたね。

何しろ、神川町にある本家本元の本社は、欽明2年(541年)創建と言われ、天照大神と素戔嗚尊と日本武尊を祀っているというんですからね。神話ではなく、ヤマトタケルの東征の際に創建されたとされ、大和朝廷の権力が東国にまで及んでいた証左になります。

金鑚神社本殿

何度も書きますが、本庄市の金鑚神社は分社ですが、敷地も広く、格式もあり、かなり風格もありました。樹齢500年の楠木も立派でした。

皆様ご存知の関東近辺の寺社仏閣案内サイト「猫の足あと」には掲載されていないのかな、と見てみたところ、本庄市の分社は名前だけでしたが、神川町の金鑚神社(総本社)はしっかりと概要、由緒まで載っておりました。

抜かりありませんでした(笑)。

細川護熙元首相まで藤原氏の末裔だった

倉本一宏著「藤原氏」(中公新書)をやっと読了できましたので、書評ではなく、備忘録として書いてみたいと思います。

登場人物を一人一人、家系図で追いながら、いちいち人物相関図を確かめていたので、通読するのに2週間以上掛かりました。 前回書いた時は「大学院の修士課程レベル」と書きましたが、訂正します。「大学院の博士号課程レベル」でした。ここに登場する天皇、藤原氏、皇后、中宮、家系図、分家図を全て諳んじて言うことができれば、博士号取得は間違いないことでしょう。

それでは行きます。

・藤原鎌足を継いで中心に立った二男の史(ふひと)は、鎌足が亡くなった時、まだ14歳だった。幼少期は、百済系渡来人田辺氏の許で、養育された。権力取得した後は、史を「等しく比べる者がいない最高名」として不比等と改名した。

・藤原氏の礎を作った不比等の四兄弟が、その後の藤原氏の繁栄の祖を作る。(1)南家の武智麻呂(2)北家の房前(3)式家の宇合(4)京家の麻呂ーの4人だ。あいにく、この4人とも同じ疫病で亡くなった。何の疫病だったのか、この本には書かれていなかったが、洋泉社ムックの「藤原氏」には、天然痘と書いてあった。

・「御堂関白記」を残した藤原道長は、関白には就ていなかった。内覧と太政官一上(だいじょうかんいちのかみ)と左大臣のみ。天皇の外戚を利用して、摂関政治の頂点に立った。

・道長のピークはちょうど今から1000年前の寛仁2年(1018年)10月、三女威子を後一条天皇の中宮に立て、二次会の宴席で、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる事も 無しと思へば」という有名な句を詠んだ。道長の21年間に及ぶ絶対的な権力政権により、政治が安定し、女房文学の繁栄がもたらされた。(道長の末子長家の子孫が和歌を司る冷泉家)

・道長は1028年に62歳で死去。道長を継いだ頼通は、4人の妃を後宮に入れたが、皇子を儲けることが出来ず、外戚の地位を得られなかった。これが摂関政治の衰退に繋がり、院政の道を開く。道長の死後は、頼通より4歳年長の姉彰子(一条天皇の皇后で、後一条天皇と後朱雀天皇の母。紫式部、和泉式部らが仕えた)が権力を握ったが、頼通は51年間もの超長期政権を築いた。

・北家冬嗣の兄である参議真夏を祖とする日野家からは、親鸞や、室町八代将軍義政の室となった日野富子らがいる。

・北家魚名の五代目に当たる秀郷は、承平・天慶の乱を鎮圧したとして有名だが、その後、「武将の祖」と仰ぎみられ、奥州藤原氏、足利氏、北面の武士佐藤義清(西行)らを輩出する。戦国武将の大友氏、立花氏なども秀郷の子孫を自称するも確かな証拠はないらしい。

・現代の細川護熙元首相は、熊本藩主の子孫としてよく知られているが、母親温子(よしこ)は、近衛文麿の娘で、実は藤原氏の末裔でもあった!

藤原氏を知らなければ何も始まらない

ここ2週間も日本の歴史を語るときに欠かせない「藤原氏」にはまっています。

倉本一宏著「藤原氏 権力者の一族」(中公新書・2017年12月25日初版)を読み続けていますが、なかなか読了できません(苦笑)。登場する人物を一人一人、「系図」で確かめて、人間関係を確認しながら読んでいるためです。

ですから、新書と言いながら、内容は濃密過ぎるほど深く、恐らく大学院の修士課程レベルではないかと勝手に思っています。この本だけで、理解することが難しいので、洋泉社ムック「藤原氏 至上の一族の正体」まで買ってしまったほどです。これを読むと、官位制や藤原氏から分かれる「近衛」「九条」「一条」などの公家一族の流れなどが一目で分かり、とても参考になります。

この本は、本人も「はじめに」に書かれておりますが、そして、以前私もこのブログで取り上げた「蘇我氏 古代豪族の興亡」(中公新書)の続編に当たります。藤原氏は、天皇の外戚となって権力を握った蘇我氏のやり方をそのまま踏襲したことになります。倉本氏といえば、先に「戦争の日本古代史」(講談社現代新書)も読んでいましたので、その博学ぶり、碩学ぶりには感服を通り越しておりました。

倉本氏は、「古事記」はもちろん、藤原不比等が撰修に深く関わった「日本書紀」、「続日本紀」(仲麻呂)、「日本後記」(冬嗣)、「続日本後記」(良房)、「日本文徳天皇実録」(基経)、「日本三代実録」(時平)の「六国史」、「藤氏家伝」「日本紀略」…とほぼ全ての原本に当たり、想像もできないほどの文献を読破しておられるようで、まあ、とても生半可な気持ちで読んでいてはとてもついていけません。

この本の内容を一言でまとめるのはまず困難です。少なくとも言えるのは、中臣鎌子=藤原鎌足を祖とする藤原氏は、この後、1300年間も日本の支配層の中枢の中枢を占めて、歴史を動かしてきたことは事実であり、奇跡的です。途中で藤原氏が天皇に成り代わろうと乱を起こしたり、摂関政治時代は特に、藤原氏が、数多いる親王の中から次の皇太子、天皇まで決めており、何だか、「万世一系」の天皇制といわれても、実は「藤原制」ではなかったのか、と勘繰りたくなってしまったほどです。

藤原氏といえば、平安時代の藤原道長は誰でも知っているでしょうが、幕末の三条実美も、近現代の西園寺公望も近衛文麿も藤原氏の末裔と聞くと少なからずの人は驚くことでしょう。1300年間、ずっと日本を動かし続けてきたのです。

それだけではありません。平泉で栄華を誇った奥州藤原三代も藤原氏。今も名前が続いている佐藤は、左衛門尉の藤原から、加藤は、加賀の藤原から、伊藤は伊勢の藤原、後藤は備後の藤原から来ていると言われていますからね。

武将の源氏も平氏も藤原の血が流れているので、まさに藤原氏抜きに日本の歴史を語れないわけです。

本日は、ちょっと官位制についてだけ、触れます。21世紀の現代になっても、叙位叙勲の制度があることは御存知かと思います。公立の小中学校の校長や大学教授も、亡くなった後や、88歳の米寿を迎えた場合、叙位叙勲されます。

このうち、例えば、大体ですが、小中学校の校長は、「正六位」か「従六位」、高校の校長は「正五位」か「従五位」か「正六位」、大学教授は「正四位」か「従四位」辺りで叙位されます。

古代から貴族の叙位は21歳以上になると行われ、大宝律令で定められた蔭位制(高位の親のお蔭で位を引き継ぐ)によりますと、皇族の親王は従四位下からスタート。藤原氏のような超有力臣族ともなると、従五位下からスタートするのです。(親が正一位や従一位の場合)

現代の校長先生や大学名誉教授が亡くなったりした時の最高の叙位が、21歳の若者のスタート地点だったことが分かります。

簡単にこの叙位と職掌の関係で言いますとー。

正一位・従一位=太政大臣

正二位・従二位=左右大臣・内大臣

正三位=大納言

従三位=中納言

正四位下=参議

従四位上=左右大弁

正五位上=左右中弁

正五位下=左右小弁

従五位下=少納言

といった具合です。

これは、何も、江戸時代や古代、中世の話ではないのです。現代も脈々と続いているということが言いたかったのです。

だから、偽証の佐川元国税庁長官やセクハラの福田元財務事務次官らがどれくらいの位階なのか、ちょっと興味ありますねえ(笑)。

志村城〜赤塚城巡り 東京都板橋区に城跡があるとは…

昨日4日は、「山城歩き同好会」の皆様と一緒に、「志村城・赤塚城ハイク」に参加し、実に万歩計で2万5000歩も歩き、いい運動になりました。

場所は、東京都内の板橋区なのです。こんな都会に、まだ手付かずの自然が残されている(というか、保護されている)とは思いませんでした。そして、こんな所に戦国時代の武将が城を構えていたとは全く知りませんでした。我々は、室町、戦国時代といえば、京都や奈良など関西での出来事ならよく知っておりますが、同時代の関東地方で起きたことはほとんど無知です。

この時代でよく知られている武将は、 せめて、太田道灌ぐらいでしょう。だから、恐らく、応仁の乱の前哨戦とも言える享徳の乱(1455〜1483年)を知る人は、余程の歴史通です。

享徳の乱は、室町幕府8代将軍義政の治世で、鎌倉公方(足利尊氏の四男基氏の子孫が世襲)の足利成氏(しげうじ)が、関東管領(鎌倉公方の補佐として将軍が任命。上杉氏が世襲)の上杉憲忠を暗殺したことをきっかけに、関東地方で28年間も続いた内乱のことです。

このグチャグチャの大内乱の最中に、今回の赤塚城に入城したのが、千葉自胤(よりたね、1446〜94年)だと言われています。

残っている資料や史料が少ないので、諸説ありますが、千葉氏とは桓武平氏の流れを汲み、代々、下総周辺を支配していた守護で、今の千葉県の名前の由来になったようです。しかし、最終的に今の千葉県に住み着いて残ったのは、千葉自胤の子孫ではなく、千葉氏の正統性を主張した岩橋氏ですが、話が混乱するので省略します。

千葉自胤は、享徳の内乱では関東管領の上杉氏(つまりは、室町幕府)方でしたが、鎌倉から古河(茨城県)に本拠地を移した足利成氏(初代古河公方)に呼応した原胤房(たねふさ)らに千葉城を攻撃され、市河城に落ち延びますが、その間に、父、伯父、従兄弟らは自害。結局、上杉氏の支援によって、自胤とその兄実胤兄弟だけは、関東平野にまで逃げ延びます。

康正2年(1456年) のことで、兄実胤は、石浜城(東京都台東区)へ、自胤は、赤塚城(板橋区)に入城します。(単純計算すると、この時、自胤はまだ10歳ですから、長老が補佐する家臣団ということでしょう)

以上が前触れです。今回の探訪ハイクでは、この千葉自胤を中心に彼と所縁がある城や寺社仏閣、そして、彼ら一族(武蔵千葉氏)と自胤の菩提寺「松月院」にまで訪れることができたのです。

一行5人は、 都営地下鉄「志村坂上」駅で集合。駅前にある志村一里塚(国指定史跡、都内で残されている江戸時代の一里塚は、ここと北区西ヶ原の2カ所のみ)、その隣の斉藤商店(明治22年創業の竹細工屋さん)に寄った後、延命寺へ。

この寺は、千葉自胤死後30年も後の時代の話ですが、大永4年(1524年)、小田原の北条氏綱と扇谷上杉朝興とがこの地で戦闘となった時に、志村城主篠田五郎の家臣見次権兵衛が自邸を寺にしたものだといいます。(近くに立派な池のある見次公園もあります)江戸時代は、8代将軍吉宗が鷹狩に来た際、休息所になったとか。

続いて向かったのが、志村城跡。千葉自胤が赤塚城に入城した際に、前衛拠点として千葉一族の信胤が築いたとも、この地の志村氏が築いたとも言われ、不明だそうです。本丸跡には、今は400世帯も入る大型マンションが建っていて、そのマンションは、まるで天守閣のようでした。ここには、今回参加したNさんの実姉家族が住んでいるということで、一同吃驚仰天でした。

熊野神社

この隣の熊野神社は二の丸跡のようで、しっかり、「志村城跡」の石碑が立っておりました。

途中省略して、南北朝時代(1334〜40年)は、七堂伽藍を備えた大寺院だった(1561年の戦乱で上杉謙信によって焼失した、とも)といわれる「松月院大堂」と、神仏習合により隣接した「八幡神社」をお参りして、この近くの「松月院」へ。今回の主人公の千葉自胤のお墓もありました。自胤は、最後まで下総=千葉に戻りたかったようですが、願い叶わず、失意のうち、この「異国」の武蔵の土地で亡くなったということかもしれません。(しかし、小田原の北条氏に滅ぼされるまで、武蔵千葉氏の基盤を作りました)

この後、着いたのが、「東京大仏」で知られる浄土宗乗蓮寺。応永年間(1394〜1427)、今の板橋区仲宿に創建されましたが、道路拡張のため、1973年にこの赤塚の地に移転してきたばかりらしいのです。

大仏さまは大変風格ありました。生まれて初めて訪れましたが、ミャンマー人の旅行者と会い、「日本人より情報通だ」と感心。わざわざ鎌倉にまで行かなくても大仏様の御尊顔を拝することができると思ってしまいました(笑)。

ここは、実は、千葉自胤が構えた赤塚城の二の丸があった所だったらしく、境内にはしっかりと「二の丸跡」の石碑が建てられ、感激してしまいました。

実際の赤塚城本丸跡は、ここから歩いて10分ほど離れた赤塚溜池公園の高台にあり、今から562年前に千葉自胤らが、今の千葉県市川市での戦乱を逃れてここまで来たのだと思うと、感無量になりました。

この近くには、自胤が、赤塚城の鬼門除けのために、信州諏訪大社の分霊を勧請した赤塚諏訪神社があり、勿論、ここもお参りしました。

このほか、立ち寄った所はまだまだありましたが、主に歴史散歩中心に記述しました。

「埼玉」の由来は「人を幸せにする心」、古代は東日本の中心地だった!

川越市

谷川彰英著「埼玉 地名の由来を歩く」(ベスト新書、2017年9月15日初版第2刷)を読んでます。

凄く楽しみにして読み始めたので、大変残念でした。誤植が多いのです。

前半に、「言明天皇」が出てきますが、明らかに「元明天皇」の間違い。1回や2回の間違いならよくあることですが、これが、4回も5回も続いて「言明天皇」とあると、確信的です。「えっ?最近の歴史教科書では名前が変わったの?」と、こちらで何度も辞典や事典で調べ直したほどです。

元明天皇は、平城京に遷都し、「古事記」「風土記」を編纂した女帝として有名です。

もっと酷いのは、79ページの地図です。新座市、和光市、志木市など埼玉県南部と練馬区など東京都北部の地図なのですが、清瀬市の隣が、何と「東村山市」と明記されているのです。「東久留米市でしょ!!!」と大声で叫びたくなりました。

東久留米市は、あの渓流斎先生がご幼少の砌、野山を駆けずり回った由緒ある土地柄です。ありえなーい。

著者は、信州松本の御出身で、筑波大学教授などを歴任された学者です。この辺りの土地勘はないでしょうが、あまりにもおそ松君です。それ以上に、出版社(KKベストセラーズ)の編集者・校正者も見抜けないんでしょうかねえ?劣化を感じます。

と、最初からかなり貶してしまいましたが、この本から教えられること多とします。著者は「地名の由来を歩く」シリーズを既に、京都、奈良など5冊も刊行されており、地名の歴史の専門家でしょう。手馴れています。新聞記者のように自分の足で歩いて取材している辺りは、感心します。

誤記以外は素晴らしい労作です。以下、いつものように換骨奪胎で。

・さいたま市大宮区に鎮座する氷川神社は、武蔵国の「一宮(いちのみや)」とされている。古代の武蔵国の国府が置かれたのは、今の東京都府中市。ここにある大国魂(おおくにたま)神社は、武蔵国の「総社」なので、一宮の氷川神社の方が格上である。(「総社」とは、当該国の格式が高い神社(多くは6社)をまとめて勧請して祀った神社のこと。)

・ということで、古代、武蔵国の中心は、府中ではなく、埼玉だったのではないか。

神の御魂(みたま)には大きく「荒(あら)御魂」と「和(にぎ)御霊」の二つに分かれる。荒御魂とは、「荒く猛き神霊」、和御魂とは「柔和・情熱などの徳を備えた神霊または霊魂」のこと。この和御魂には、さらに二つの神霊があり、一つは「幸(さき)御魂」で「人に幸福を与える神の霊魂」。もう一つは「奇(くし)御魂」で、「不思議な力を持つ神霊」のこと。

埼玉は、前玉(さきたま)から転じたもので、この前玉は、幸御魂(さきみたま=人に幸福を与える)から来たものだった。

・「続日本紀」によると、元正天皇の霊亀2年(716年)、「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7カ国にいる高麗(こま)人(=高句麗からの渡来人)1799人を武蔵国に移住させ、初めて高麗郡(こまのこおり)を置いた」とある。高麗郡は、今の日高市から飯能市にかけての丘陵地。恐らく、高句麗から亡命した若光王が朝廷に願い出て許されたからではないか。

・一方、新羅からの渡来人を移住させた地域に「新羅郡(しらぎのこおり)」を置く。今の志木市、和光市、新座市辺り。志木は、新羅から転訛されたものと言われ、新座は、新羅郡から新座(にいくら=新倉とも)郡になったことから由来すると言われる。

(上田正昭著「帰化人」によると、百済系の漢氏=あやのうじ=は、軍事=鉄器や馬なども=、土木、外交などに強く、蘇我氏と結びつき朝廷内で台頭します。法隆寺「釈迦三尊像」をつくった止利仏師や蝦夷を征伐したとして知られる坂上田村麻呂らも漢氏の子孫です。

新羅系の秦氏=はたのうじ=は、大蔵官僚となり大和朝廷の財務を司ります。聖徳太子や藤原氏との結びつきが強く、国宝第1号に指定された弥勒菩薩像で有名な広隆寺は秦河勝=はたのかわかつ=が創建したもので、御本尊様は、聖徳太子から賜っています。神奈川県秦野市も、秦氏が移住した土地です。)

・和光市は、江戸時代は、「上新倉村」「下新倉村」「白子村」と言われ、白子宿は繁栄していた。新羅はかつて、志楽木(しらぎ)と書かれ、それが転じて白木となった説がある。白子も語感的に新羅をイメージさせる。恐らく、今の和光市が、古代新羅人の移住先の中心地ではなかったか。

・朝霞市は、近世以降、膝折村と言われていた。これは、応永30年(1423年)、常陸国の小栗城を攻め落とされた城主の子息小栗助重が逃げ延びて、この地に来たとき、馬が勢い余って、膝を折って死んでしまったという伝説から付けられたという。膝折村から朝霞町になったのは昭和7年のこと。東京・駒沢にあった東京ゴルフ倶楽部をこの地に移転させ。開場日に朝香宮殿下の御臨席を賜り始球式が行われた。この朝香宮の名前を頂くことにしたが、そのままでは畏れ多いので、この地に発生する朝霞(あさぎり)にちなんで朝霞町にしたというもの。

・昭和天皇の弟宮秩父宮は、従来なら「三笠宮」など畿内の山の名から命名されていたのを、あえて、武蔵国の名山である秩父から命名された。秩父の歴史に深い理解があったものとみられる。地元民は大いに喜び、秩父宮は今では秩父神社の御祭神として祀られている。

・川越は、平安末期、桓武平氏の流れを汲む秩父氏がここに進出して荘園を開き、秩父重綱の子重隆以降は河越氏と名乗る。この重隆の孫重頼の娘「郷御前(さとごぜん)」は、源義経の正室。この史実は意外と知られていない。

天橋立の歌はそういうことでしたか…大塚ひかり著「女系図でみる驚きの日本史」続編

大塚ひかり著「女系図でみる驚きの日本史」(新潮新書)は、読了するのに結構時間がかかりました。普通、新書なら1~2日で読めてしまうんですが、これは6日ほどかかりました。読みながら、丁寧に、著者がつくった「女系図」を参照していたからでしょう。

でも、これが決め手です。著者の大塚氏も、あとがきで「女系図は作ってびっくりの連続でした」と本人も大発見したことが結構あったようです。

この本を取り上げるのは2回目ですが、今日は前回取り上げたかったことを引用してみます。

流動的だった天皇の地位

…天皇というと現代人は絶対的なものと考えがちだが、「大王」と呼ばれていた天武天皇以前の彼らの地位は流動的だった。「古事記」「日本書紀」では天皇とされていない人物も、古くからの伝承を伝えた「風土記」では天皇とされていたりする。…

ということで、古代は、大王=天皇になるための権力闘争が凄まじかったようです。例えば、記紀によると、第21代雄略天皇は二人の兄や従兄弟らを含む6人も殺害させたようです。当時は、武内宿禰を祖とする葛城氏の方が権力を持っていて、葛城氏の血を引くツブラノ大臣らが最有力候補でしたが暗殺されました。

井上満郎著「古代の日本と渡来人」によると、7世紀の畿内の人口のほぼ30%は渡来人だったという。京都=山城国は、もともと「渡来人の里」だった。(京都平安京を開いた桓武天皇の生母高野新笠は、百済出身でしたね=「続日本紀」による)

※著者は、渡来人の秦氏は、中国の秦の始皇帝に祖を持つ、という見解でしたが、小生は古代史の泰斗上田正昭氏が主張する「秦氏は、秦の始皇帝とは無関係で、朝鮮の新羅系の渡来人」という説に賛同します。

天橋立 Copyright par  Mori Kawsaki

大江山いくのの道の遠ければ まだふみも見ず天橋立

という百人一首にも載る有名な歌があります。

作者は小式部。母親はあの「和泉式部日記」で知られる和泉式部です。誰に宛てた歌かといいますと、当代一のプレイボーイ、著者の大塚氏に言わせると、「インテリ女喰い」の藤原定頼という貴人です。

この定頼。光源氏のように輝き、モテててモテてしょうがない、といった感じです。大塚氏が、歌集を読むだびに系図をつくっているうちに、「こいつ、よく出てくるなあという奴がいる」。それが、この藤原定頼だったのです。

何しろ、お相手した方々が半端じゃない。先ほどの小式部のほかに、紫式部の娘大弐三位、相模、大和宣旨といった当代一流のインテリ女性だったのです。

もちろん、定頼も出自はピカイチ。父親は、四納言の一人と言われた知識人の藤原公任、母親は、昭平親王(村上天皇の子)の子で、しかも、藤原高光(父師輔、母雅子内親王)の娘の「腹」でした。(ただし、天皇家の外戚になりそこねて、公任は権大納言、定頼は権中納言止まりで終わる)

前述の「大江山…」の歌の背景は以下の通りです。

小式部の母和泉式部が、夫藤原保昌について丹後国に下ったとき、京で歌合があり、その時、定頼がふざけて小式部に「丹後の国にやった使いはもう帰ってきましたか?どんなにハラハラしているでしょう」と声を掛けた。和泉式部は名高い歌詠みです。その娘の小式部はどうせ、母親に歌を代作してもらっているだろう。その使者はもう帰ってきたのかい?とからかったというのです。

それに対する答えが、「大江山…」。意味は、「大江山を越えて行く生野の道は遠いので、まだ踏んでみたことがないの、天橋立は。まだ文も見ていません」。

なるほど、そういう意味で、そういう返歌だったんですか!勉強になりました。

(私も天橋立の写真を現代の小式部さんにお借りしました=笑)

江戸時代は正妻率がわずか20%

平安時代は父親より、母親が誰かによって身分が決まってしまいます。「胤(たね)より腹が大事」と前回書きました。しかし、それは、平安中期まで。平安後期になると、院政時代となり、父権が強大となり男系社会になります。

著者は、平安から江戸時代までの権力者の母親がどういう出自か全て調べあげ、母親が正妻である比率を割り出します。それによると、平安時代の摂関藤原家は、正妻率が77%、鎌倉時代の将軍源氏の正妻率は67%、執権北条家は56%、室町時代の将軍足利家は、47%。そして、江戸時代の将軍徳川家は何と20%にまで急落するのです。徳川将軍の母になった側室の中には、八百屋や魚屋といた平民の娘までいるらしいのです。

これはどうして?

平安時代は、天皇家に代わって外戚の藤原氏が権力を握り、鎌倉時代は源氏に代わって、北条氏が実権を掌握。室町の足利将軍も外戚の日野家に左右されていた。「吾妻鏡」の愛読者だった徳川家康が、こうした歴史を読み、外戚に権力を握らせないように、徳川家の政権が未来永劫続くよう願いを込めて、「暗に正妻や外戚を重視しないようにしたのではないか」という著者の洞察。誠に見事でした。

嗚呼、残念。他にも書きたいことがあるのですが、この辺で。

大塚ひかり著「女系図でみる驚きの日本史」は凄過ぎる

大塚ひかり著「女系図でみる驚きの日本史」(新潮新書、2017年9月20日初版)を数日前から読んでおりますが、これまた図抜けて面白い。目から鱗が落ちるといいますか、まさに驚きの逆転の発想で、いまだかつて、偉い歴史学者がとらえたことがない画期的な野心作です。

つまり、これまでの歴史は、天皇家にしろ、藤原氏にしろ、源氏や平氏にしろ、ほとんど全て男系、つまりは父親中心で、息子に政権や家督が継がれていくといった流れの発想で、描かれてきました。

となると、平氏は、壇ノ浦で滅亡した、ということになります。

ところが、おっとどっこい。

女系、つまりは母親の系図をたどっていくと、平氏は滅亡したわけではなく、平清盛の血筋は、何と今上天皇にまで繋がっているのです。

一方の鎌倉幕府を開いた源頼朝の直系子孫はほどなくして途絶えてしまうのです。

皇居

著者の大塚氏(1961~)は、歴史学者ではありませんが、中学生の頃から古典文学を読むことが大好きで、個人訳の「源氏物語」全6巻まで出版しているようです。大学では、文学ではなく、日本史学を専攻してます。

そして、何と言っても、複雑な人間関係が数多出てくる古典文学や歴史上の人物には、系図がないとなかなか理解できません。しかし、男系だけで追っていては行き詰る。そこで、自分で好きが高じて、女系の系図をつくったところ、これまで見えなかった人物の系列関係が一目で分かるようになったといいます。

著者は言います。「胤(たね)よりも腹(はら)が大事―母親が誰かに注目した女系図でたどると、日本史の見え方が一変する」

確かにその通り。

驚くべき史実です。

例えば、天皇家。一部の右派の皆様は、「女系天皇」どころか、「女性天皇」も否定されておられますが、この本によると、「万世一系」と言われている天皇家は、既に、「女系」の時代があったんですね。

同書のように、家系図をここに書かないと理解しにくいかもしれませんが、43代元明天皇(女性)は、41代持統天皇(女性、40代天武天皇の皇后)の異母妹で、42代文武天皇の母親であり、草壁皇子の妻でありました。

草壁皇子は、皇太子(次期天皇)でしたが、即位の前に亡くなってしまい、その妻だった元明は「皇后を経ずにして即位した初の女帝」となります。

そして、この後、元明天皇と草壁皇子との間の娘が、独身のまま44代元正天皇(女性)として即位します。

「草壁皇子は天皇ではない。母元明天皇の娘であるため、即位した形である。これって『女系天皇』ではないのか?」と、著者は疑問を投げかけているのです。

東京・水天宮

著者も得意とする紫式部の「源氏物語」の世界。実際の平安時代は、男性が女性のもとに行く「通い婚」が普通だったので、父親が誰か、以上に母親が誰なのかの方が重要で、子どもの出世は母親で決まってしまったことが多かったようです。

まさに、胤より腹が大事です。

実際、天皇の寵愛を受ける女性には、中宮(皇后)、女御、更衣といった序列があり、正妻以外から生まれた子どもは「外腹」(ほかばら)、劣った身分の母親から生まれた子どもは「劣り腹」などという隠語があり、「源氏物語」や「栄華物語」「大鏡」などにも堂々と登場します。(正妻の子は、嫡妻腹=むかひばら=というそうな)

「源氏物語」の主人公光源氏(醍醐天皇の子息源高明がモデルの一人とされている)が、桐壺帝の子息で、あれほど優れているのに、臣下として「源氏」を名乗ったのは、「更衣腹」と世間で言われたせいではないか、と著者は推理していますが、随分説得力がありますね。

著者によると、紫式部(当時の最高権力者藤原道長の愛人でもあったらしい)の娘賢子の女系を丹念にたどっていくと、今上天皇にまでいくというので、これまた驚きです。

この本については、また次回書きます(笑)。