天橋立の歌はそういうことでしたか…大塚ひかり著「女系図でみる驚きの日本史」続編

大塚ひかり著「女系図でみる驚きの日本史」(新潮新書)は、読了するのに結構時間がかかりました。普通、新書なら1~2日で読めてしまうんですが、これは6日ほどかかりました。読みながら、丁寧に、著者がつくった「女系図」を参照していたからでしょう。

でも、これが決め手です。著者の大塚氏も、あとがきで「女系図は作ってびっくりの連続でした」と本人も大発見したことが結構あったようです。

この本を取り上げるのは2回目ですが、今日は前回取り上げたかったことを引用してみます。

流動的だった天皇の地位

…天皇というと現代人は絶対的なものと考えがちだが、「大王」と呼ばれていた天武天皇以前の彼らの地位は流動的だった。「古事記」「日本書紀」では天皇とされていない人物も、古くからの伝承を伝えた「風土記」では天皇とされていたりする。…

ということで、古代は、大王=天皇になるための権力闘争が凄まじかったようです。例えば、記紀によると、第21代雄略天皇は二人の兄や従兄弟らを含む6人も殺害させたようです。当時は、武内宿禰を祖とする葛城氏の方が権力を持っていて、葛城氏の血を引くツブラノ大臣らが最有力候補でしたが暗殺されました。

井上満郎著「古代の日本と渡来人」によると、7世紀の畿内の人口のほぼ30%は渡来人だったという。京都=山城国は、もともと「渡来人の里」だった。(京都平安京を開いた桓武天皇の生母高野新笠は、百済出身でしたね=「続日本紀」による)

※著者は、渡来人の秦氏は、中国の秦の始皇帝に祖を持つ、という見解でしたが、小生は古代史の泰斗上田正昭氏が主張する「秦氏は、秦の始皇帝とは無関係で、朝鮮の新羅系の渡来人」という説に賛同します。

天橋立 Copyright par  Mori Kawsaki

大江山いくのの道の遠ければ まだふみも見ず天橋立

という百人一首にも載る有名な歌があります。

作者は小式部。母親はあの「和泉式部日記」で知られる和泉式部です。誰に宛てた歌かといいますと、当代一のプレイボーイ、著者の大塚氏に言わせると、「インテリ女喰い」の藤原定頼という貴人です。

この定頼。光源氏のように輝き、モテててモテてしょうがない、といった感じです。大塚氏が、歌集を読むだびに系図をつくっているうちに、「こいつ、よく出てくるなあという奴がいる」。それが、この藤原定頼だったのです。

何しろ、お相手した方々が半端じゃない。先ほどの小式部のほかに、紫式部の娘大弐三位、相模、大和宣旨といった当代一流のインテリ女性だったのです。

もちろん、定頼も出自はピカイチ。父親は、四納言の一人と言われた知識人の藤原公任、母親は、昭平親王(村上天皇の子)の子で、しかも、藤原高光(父師輔、母雅子内親王)の娘の「腹」でした。(ただし、天皇家の外戚になりそこねて、公任は権大納言、定頼は権中納言止まりで終わる)

前述の「大江山…」の歌の背景は以下の通りです。

小式部の母和泉式部が、夫藤原保昌について丹後国に下ったとき、京で歌合があり、その時、定頼がふざけて小式部に「丹後の国にやった使いはもう帰ってきましたか?どんなにハラハラしているでしょう」と声を掛けた。和泉式部は名高い歌詠みです。その娘の小式部はどうせ、母親に歌を代作してもらっているだろう。その使者はもう帰ってきたのかい?とからかったというのです。

それに対する答えが、「大江山…」。意味は、「大江山を越えて行く生野の道は遠いので、まだ踏んでみたことがないの、天橋立は。まだ文も見ていません」。

なるほど、そういう意味で、そういう返歌だったんですか!勉強になりました。

(私も天橋立の写真を現代の小式部さんにお借りしました=笑)

江戸時代は正妻率がわずか20%

平安時代は父親より、母親が誰かによって身分が決まってしまいます。「胤(たね)より腹が大事」と前回書きました。しかし、それは、平安中期まで。平安後期になると、院政時代となり、父権が強大となり男系社会になります。

著者は、平安から江戸時代までの権力者の母親がどういう出自か全て調べあげ、母親が正妻である比率を割り出します。それによると、平安時代の摂関藤原家は、正妻率が77%、鎌倉時代の将軍源氏の正妻率は67%、執権北条家は56%、室町時代の将軍足利家は、47%。そして、江戸時代の将軍徳川家は何と20%にまで急落するのです。徳川将軍の母になった側室の中には、八百屋や魚屋といた平民の娘までいるらしいのです。

これはどうして?

平安時代は、天皇家に代わって外戚の藤原氏が権力を握り、鎌倉時代は源氏に代わって、北条氏が実権を掌握。室町の足利将軍も外戚の日野家に左右されていた。「吾妻鏡」の愛読者だった徳川家康が、こうした歴史を読み、外戚に権力を握らせないように、徳川家の政権が未来永劫続くよう願いを込めて、「暗に正妻や外戚を重視しないようにしたのではないか」という著者の洞察。誠に見事でした。

嗚呼、残念。他にも書きたいことがあるのですが、この辺で。

大塚ひかり著「女系図でみる驚きの日本史」は凄過ぎる

大塚ひかり著「女系図でみる驚きの日本史」(新潮新書、2017年9月20日初版)を数日前から読んでおりますが、これまた図抜けて面白い。目から鱗が落ちるといいますか、まさに驚きの逆転の発想で、いまだかつて、偉い歴史学者がとらえたことがない画期的な野心作です。

つまり、これまでの歴史は、天皇家にしろ、藤原氏にしろ、源氏や平氏にしろ、ほとんど全て男系、つまりは父親中心で、息子に政権や家督が継がれていくといった流れの発想で、描かれてきました。

となると、平氏は、壇ノ浦で滅亡した、ということになります。

ところが、おっとどっこい。

女系、つまりは母親の系図をたどっていくと、平氏は滅亡したわけではなく、平清盛の血筋は、何と今上天皇にまで繋がっているのです。

一方の鎌倉幕府を開いた源頼朝の直系子孫はほどなくして途絶えてしまうのです。

皇居

著者の大塚氏(1961~)は、歴史学者ではありませんが、中学生の頃から古典文学を読むことが大好きで、個人訳の「源氏物語」全6巻まで出版しているようです。大学では、文学ではなく、日本史学を専攻してます。

そして、何と言っても、複雑な人間関係が数多出てくる古典文学や歴史上の人物には、系図がないとなかなか理解できません。しかし、男系だけで追っていては行き詰る。そこで、自分で好きが高じて、女系の系図をつくったところ、これまで見えなかった人物の系列関係が一目で分かるようになったといいます。

著者は言います。「胤(たね)よりも腹(はら)が大事―母親が誰かに注目した女系図でたどると、日本史の見え方が一変する」

確かにその通り。

驚くべき史実です。

例えば、天皇家。一部の右派の皆様は、「女系天皇」どころか、「女性天皇」も否定されておられますが、この本によると、「万世一系」と言われている天皇家は、既に、「女系」の時代があったんですね。

同書のように、家系図をここに書かないと理解しにくいかもしれませんが、43代元明天皇(女性)は、41代持統天皇(女性、40代天武天皇の皇后)の異母妹で、42代文武天皇の母親であり、草壁皇子の妻でありました。

草壁皇子は、皇太子(次期天皇)でしたが、即位の前に亡くなってしまい、その妻だった元明は「皇后を経ずにして即位した初の女帝」となります。

そして、この後、元明天皇と草壁皇子との間の娘が、独身のまま44代元正天皇(女性)として即位します。

「草壁皇子は天皇ではない。母元明天皇の娘であるため、即位した形である。これって『女系天皇』ではないのか?」と、著者は疑問を投げかけているのです。

東京・水天宮

著者も得意とする紫式部の「源氏物語」の世界。実際の平安時代は、男性が女性のもとに行く「通い婚」が普通だったので、父親が誰か、以上に母親が誰なのかの方が重要で、子どもの出世は母親で決まってしまったことが多かったようです。

まさに、胤より腹が大事です。

実際、天皇の寵愛を受ける女性には、中宮(皇后)、女御、更衣といった序列があり、正妻以外から生まれた子どもは「外腹」(ほかばら)、劣った身分の母親から生まれた子どもは「劣り腹」などという隠語があり、「源氏物語」や「栄華物語」「大鏡」などにも堂々と登場します。(正妻の子は、嫡妻腹=むかひばら=というそうな)

「源氏物語」の主人公光源氏(醍醐天皇の子息源高明がモデルの一人とされている)が、桐壺帝の子息で、あれほど優れているのに、臣下として「源氏」を名乗ったのは、「更衣腹」と世間で言われたせいではないか、と著者は推理していますが、随分説得力がありますね。

著者によると、紫式部(当時の最高権力者藤原道長の愛人でもあったらしい)の娘賢子の女系を丹念にたどっていくと、今上天皇にまでいくというので、これまた驚きです。

この本については、また次回書きます(笑)。

京都・西陣は千本釈迦堂の大根炊き

京都・西陣「千本釈迦堂」©️Kyorakusakio

京洛先生です。

最近、どういうわけか《渓流斎日乗》では、滋賀県の大津農林水産通信員とやらが、幅を利かせておられるようです。

が、「元祖」「本家本元」はこのアタシだということを、読者諸兄姉の皆々様方にはよおく御理解、御芳情、御鞭撻の程、宜しく賜わりたき次第にて存じまする。

京都・西陣「千本釈迦堂」©️Kyorakusakio

◇12月8日は臘八大接心

あ、さて、12月8日は、何の日かご存知ですか? 「米国がイスラエルの首都をエルサレムに宣言して、パレスチナで紛争が激化している?」「富岡八幡宮の女性宮司が弟(前宮司)に殺された?」。
それも大きな事件でしたが、仏教徒の始祖、お釈迦様、釈尊、仏陀が悟りをひらかれた「成道会(じょうどうえ)」(12月8日)です。禅宗では「臘八大接心(ろうはつ おおぜっしん)」と言って、12月1日から8日まで僧堂できびしい修行に勤しみます。

◇応仁の乱の舞台で大根炊き
京都・西陣の一隅にある「千本釈迦堂」では、その「悟り」にあやかり、毎年開いている「大根焚き」の日です。鎌倉時代から続いていて、今では、洛中の冬の風物詩にもなっています。
同寺は、仮寓のそばでもあり、今日はその盛況ぶりを覗いて来ました。
通称”千本釈迦堂”。正しくは「大報恩寺(真言宗智山派)」は、あの「応仁の乱」でも、唯一、焼け残った洛中の最古の建造物であり、本堂は「国宝」になっています。

京都・西陣「千本釈迦堂」©️Kyorakusakio

貴人も数年前に、大根炊きを食べに見えたでしょう。本堂の横の「宝物館」の運慶、快慶らの重文の仏像の見事さにびっくりされたりしましたが、例のあの椿事もこの境内でしたね。

◇この紋どころが見えぬか!
緋毛氈の敷かれた床几に腰を掛け、出来立ての温ったかい大根焚きを食べていると、大阪からやってきた、さる民放の報道クルーが、迂生に「取材に応じてくれませんか」と頼みに来ました。
こちらは、取材でも、インタビューでもなんでも応じても良いのですが、後で、彼らが上司から叱られたら可哀そうなので、偶々、着用していたジャンパーの胸の小さなマークをお見せしたところ、カメラマン氏は、大声を出してその場にひっくり返って、大急ぎで逃げ出しました。

何もご存知の無い貴人も、慌てて、「京洛先生!何かあったのですか」と、心配そうな表情を見せられたので、「いやいや、これを見せただけですよ」と、微苦笑しながら、ジャンパーに縫ってあった彼らのライバルのテレビ局のマークを見せたのでした。
貴人もそれを見て「ヒヤ―、それでは、カメラマンさんも驚いて逃げますよ」と大笑いになりました。

京都・西陣「千本釈迦堂」の大根炊き 1000円©️Kyorakusakio

千本釈迦堂の大根焚きは、7日と8日の2日間開かれていて、報道関係者は初日に殺到するので、8日はマスコミは何処も来ておらず、人出もそれほど多くありませんでした。
ただ、大きな大根が3切れと油揚げが一枚入った無病息災の大根焚きは千円です。
関係者によると2日間で1万人が大根焚きを食べるので、俗に言えば売り上げは1千万円はくだらないわけですね。
仕込みから料理、接遇をするのは檀信徒さんで、事実上、無料奉仕でしょうから、この売り上げはすべてお寺の収入になるわけです。ただ、お寺としては「お賽銭」のほかは、これと言った大きな収入がないだけに、この「大根焚き」は、お寺の修理維持費にとっては貴重な財源になっているのは確かです。

ちなみに、鎌倉時代、同寺の三世慈禅上人が、大根の切り口に梵字(ぼんじ)を書いて魔よけにしたのが起源の「大根焚き」は、少し辛めの出汁が、大きな大根に染みて、昼飯代わりになるくらいボリュームがあり美味かったですね。

ご報告迄。

「猫の足あと」と武蔵国の歴史

埼玉県秩父郡長瀞町の宝登山神社

IT青年実業家の松長社長にはもう一つ顔がありまして、東京・首都圏の寺社仏閣の来歴などを網羅したサイト「猫の足あと」https://tesshow.jp/ を主宰・運営していることです。

主宰・運営とは、ご自分で週末になると、一人で野山を駆け巡って、手当たり次第に神社仏閣を訪れて、バチバチと生の写真を撮影したり、沿革を調べたり、要するに取材、執筆活動もされているということなのです。ですから、異様に首都圏の神社仏閣の歴史から現代に至るまで詳しいのです。

例えば、赤坂にある日枝神社の日枝(ひえ)は比叡山の比叡から来ているので、この神社はいわば天台宗系の神社だというのです。

千葉県習志野市などにある丹生神社は紀伊国(現和歌山県)の丹生都比売神社の祭神丹生比売命を勧請して創建されたことから、真言宗の高野山系の神社だというのです。

◇氷川神社は足立郡だけ

私が驚いたのは「氷川神社」(さいたま市大宮区)です。「武蔵一宮」と頭に付きますから、武蔵国(東京、埼玉、神奈川、茨城、千葉の一部)のナンバーワンの神社ですから、武蔵国内ならどこにでもあると思っていたら、「そうではありません。埼玉県内の昔の足立郡にしか氷川神社はありませんよ」と彼は自信満々に言うではありませんか。足で稼いだ情報ですからね。(ちなみに、彼の説によると氷川神社は、出雲からの移住者が創建したらしく、出雲の斐川から名前を取ったそうです。)

おっかしいなあ。私の実家は東京都東久留米市ですが、市内に確か二,三カ所は氷川神社と名の付く神社があり、実家の近くにもありました。ですから、埼玉、東京ならどこにでもあると思っていたのです。

それが、足立郡だけだったとは!

足立郡とは、武蔵国を南北に貫く領域で、今の京浜東北線が走る区域に近いと言われています。ですから、大宮や浦和や、東京都足立区や豊島区、練馬区辺りも入ります。この辺りに氷川神社が多いというのです。

足立郡の右隣りというと東側の南北連なる領域は埼玉郡で、埼玉の名前の由来になった行田市や越谷、春日部、岩槻が含まれ、この辺りは、久伊豆神社の系列が圧倒的に多いそうです。

武蔵国埼玉郡の右隣りの葛飾郡は、北の松伏町、三郷から、南は東京都葛飾区、千葉県浦安に至るまでカバーし、この辺りは圧倒的に香取神社の勢力下にあったといいます。昔の川の交易権なんかも香取神社が抑えていたそうです。

◇高麗郡は高句麗人、新座郡は新羅人の街だった

このほか、武蔵国高麗郡(後に入間郡、今の日高市など)は、716年に大和朝廷が高句麗からの渡来人を移住させたから、そう命名されたことは歴史的事実として知ってましたが、実家の東久留米に隣接する埼玉県新座市(平林寺で有名)は、昔は新座郡(和光市、志木市なども含む)と呼ばれ、758年に朝鮮半島の新羅からの渡来人を移住させたので、最初は新羅郡と言われていたんですね。

へー、全然知りませんでした。

古代は、どうしても、九州か、大和や京都、滋賀が中心ですから、学校では関東の古代や中世の歴史は全く教えてくれないので、自分で勉強するしかありません。

この年になって、まだまだ学ぶべきことが多いということです。

【追記】

これは、いつも電車の中で記憶でスマホで書いております。そのため、よく間違えることがあります。早速、「猫の足あと」の松長主宰から、御指摘がありました。

(引用)正確性を期しますと、
>>足立郡とは、(中略)ですから、大宮や浦和や、東京都足立区や豊島区、練馬区辺りも入ります。この辺りに氷川神社が多いというのです。
「ですから」以降は誤りではありますが..
豊島区は豊島郡、練馬区は豊島郡と多摩郡に編入されています。
豊島郡及び、多摩郡の北側は、「足立氏」の勢力が及んでいたということでしょうね。
当然ながら、多摩郡の南側には氷川神社がありません。
(豊島郡とは、北区・豊島区・文京区・板橋区・練馬区の右半分・新宿区・渋谷区あたりです)
ついでに付け足すと、葛飾郡は、江戸時代前期までは下総国です。(武蔵国ではありません)
江戸城下が人が密集して、江東区・墨田区近辺に人が住み着いてしまったから、武蔵国に編入されたのです。
その証拠に墨田川(昔はこちらが荒川だった)に架かっている橋はJR両国駅の両国橋です。武蔵と下総に架かる橋ですね。(引用終わり)

青山城址~小倉城址~菅谷館跡~稲荷塚古墳

国指定史跡 小倉城趾

トランプ米大統領夫妻と安倍首相夫妻は昨晩、「渓流斎日乗」が予告した通り、東京・銀座のミシュランも推薦する超高級鉄板焼料理「うかい亭」で会食しましたね。

えっ?具体的な店名は書いてなかった?そりゃ、そうでしょう(笑)。「体制護持」「党広報機関紙」ですから、そこまで書きませんよ(笑)。

で、トランプ大統領と安倍首相は昼間は、埼玉県の名門で3年後の東京五輪会場にもなる霞が関カンツリー倶楽部でゴルフをなさってました。

私たちは、ちょうどその頃、好天に恵まれて、そのゴルフ場近くの山城にエッチラホッチラ登っておりました。

都内に本部がある「山城歩き同好会」に私も参加させてもらい、全部で6人が中世の城跡を散策しました。

東武東上線の終点小川町駅(これがかなり遠かった)から、バスで愛宕公園下まで(220円)行き、そこで迷っていたら、シトロエンに乗った地元の優しいおじさんが、わざわざ登山道の入り口まで案内してくれたのです。お名前も伺いませんでしたが、この方のおかげで、幸先良いスタートが切れました。

どうも有り難うございました。

昼なお暗い細くてきつい檜と杉の山道を辿って最初に着いた所が青山(割谷)城跡でした。詳細は上の看板をご参照ください(笑)。

室町時代から南北朝時代の15世紀、城主は不明ですが、関東管領扇谷(おおぎがやつ)上杉氏の家臣上田氏が有力と言われてます。

ここからまた、30分ほど狭い急な山道を歩いてやっとのことで辿り着いた所が、今回のハイライトの一つ、小倉(おぐら)城趾です。こちらも城主は不明で、戦国時代の後北条氏の家臣の遠山氏とも上田氏とも言われています。

ここは「国指定の史跡」として登録されていますから、絶対に一見の価値ありますね。とにかく素晴らしい。苦労して登ってきた甲斐がありました。

何でこんな山奥に城が建てられたのか不思議ですが、敵から逃れて下界を探訪するのにちょうどよかったのでしょう。また、城下を流れる槻川(つきがわ)から物資を運んだり、武蔵国原産の板碑の石材を運搬したりしていたらしいです。

ここは、中世から水運業が盛んだったようです。

この小倉城の特徴が上写真のような石の平積みです。まあ、石垣ですが、いかにも中世の城らしく、武蔵国の城で見られる平積み石はここだけだそうです。

この後、ハイキングコースにもなっている嵐山町の嵐山渓谷道を散策しました。

ここは、日比谷公園や明治神宮などを設計した本多静六博士が、京都の嵐山(あらしやま)に似ているということで、武蔵嵐山(らんざん)と名付けたらしく、大正時代あたりから観光資源になったようです。

東武東上線「武蔵嵐山」駅に近付くと、国道254線近くに「菅谷館跡」があります。ここは鎌倉時代の源頼朝の右腕と言われた畠山重忠の城跡だったそうです。

本郭のほかに、二の郭、三の郭、南郭、西郭などがあり、規模は小倉城より広い。実に立派な城跡です。

ここには県立嵐山史跡博物館もあります。

詳細は→ 菅谷館跡

室町末期から戦国時代は、山内上杉氏の内紛などで戦場になりました。

畠山重忠像

鎌倉武将畠山重忠は、埼玉県深谷市畠山出身なんだそうですが、意外にも埼玉県北部は、鎌倉武将を多く輩出しているんですね。

平家物語などに登場し、歌舞伎の題材にもなった熊谷直実の熊谷市出身が一番有名かもしれませんけど、木曽義仲は、源義賢の次男で、生まれは現在の埼玉県比企郡嵐山町の大蔵館だったというのです。父義賢が兄義朝(頼朝、義経の父)と対立して、義朝の長男義平に討たれ、義仲は信濃国木曽谷に逃れたことから、木曽義仲と呼ばれるようになったんですね。

時代が下って、関東管領扇谷上杉氏の家臣で、河越城、江戸城を築城した太田道灌は、小川町のずっと先の越生町出身と言われております。

「山城歩き同好会」の最後の締めは、これまた武蔵嵐山駅に近い「稲荷塚古墳」でした。

古代にこの地に古墳をつくるほどの有力な豪族が住んでいたわけで、古代から中世、近世と脈々と歴史が続いてきたことが分かります。

特に、一番初めに出てきた小川町は、重要文化財にも指定されている「細川紙」と呼ばれる和紙が有名ですが、これは、1300年前に渡来した高麗の人たちの製造技術が伝わってきたものだそうです。

詳細は→ 細川紙

恐らく、高麗人たちは、技能職人として、また土地の有力者として政治的発言権も持っていたのかもしれません。

万歩計を見ると、この日に歩いたのは、2万5000歩以上にも及びました。意外と知らなかった歴史散歩ができ、昨日は少し疲れましたが、非常に有意義な時間を過ごすことができました。

寺社仏閣巡りの「猫の足あと」はお薦めです

東京・目黒不動尊

IT関係で言えば、私が初めてワープロを買ったのは1985年。エプソンの「ワードバンク」という機種で、ディスプレイにはわずか数行の文字しか掲示されませんでした。

生まれて初めてパソコンを買ったのは1995年。アップルの「マックブック」という機種でした。初めてインターネットに接続しましたが、当時はまだダイヤル回線で遅く、画像が出ると驚きました。ブラウザはネットスケープナビゲーターという「N」のマークが印象的でしたが、今はとんと噂は聞きません。どうなったのでしょうか?

そして、ブログを始めたのが2005年で、10年起きに新しいことに挑戦してます。2015年は、特になく、黄泉の国に行ってましたけど(笑)。

まあ、IT関係は、比較的早い時期に挑戦していることを自慢したかっただけですが、実は、技術的なことは恥ずかしくも全く何も分かっておりません。

それが先日、海城学園の同窓会に参加して、若い後輩の皆さんの中には、結構IT関係の仕事をしている人が多く、「へー」と思っただけででした。

そしたら昨日、何気なく名刺を整理していて、海原メディア会の事務局長でIT会社の社長でもある松長氏の名刺の裏を見たところ、そこには「猫の足あと」と書いてあったので吃驚!知ってるぞ!と思い、彼に連絡して問い糾したところ、彼はあっさりと「へい、あっしがやりやんした」と、かつ丼をペロリと平らげたのです(笑)。

いやはや、少し脱線しました(笑)。

猫の足あと」とは、今のところ、東京、神奈川、千葉、埼玉など関東圏内にある寺院、神社の沿革、観光名所などが網羅されたサイトです。

私の趣味(と言っては怒られますが)に「寺社仏閣巡り」がありまして、たまたま自宅近くに全く知らなかった豪勢な神社を発見して、検索したところ、この「猫の足あと」に巡り合い、それ以降は、分からない時は、このサイトに頼るようになっていたのです。

まさか、世代が少し違いますが、高校の後輩が開設していたとは!灯台下暗しでした。

しかも、これらの寺社仏閣は、松長氏が全て自分の脚を使って廻り、自ら写真も撮ってきたといいますから、二重の驚きです。

「サイトの寺社仏閣は、貴兄が(全て・ほとんど・大体)取材、執筆したのですか?」との小生の質問に彼はこう答えました。

…江戸時代は自転車もない中、日本橋を出発したら初日の宿泊は、保土ヶ谷又は戸塚でしょうから、舗道をウオーキングシューズで歩くのは当時よりかなり楽でしょうね。
朝から夕方まで散歩を続けると4万歩、約30km、参詣寺社30~50くらいになります。

御朱印画像をくれる方、汚い画像を綺麗な画像に差し替えるように画像を送ってくる寺社様などの場合は、「画像は◯◯さんからの寄贈」と注記しております。
従って画像の全てが小生の撮影と言ってもいいでしょう。…

ひょっえー!ぶったまげました。

寺社仏閣巡りは、週末と祝日のみらしいですが、1日4万歩、50カ所とは大した魂消たです。

「江戸五色不動尊」や「秩父三十四カ所霊場」なども掲載されていますが、まだ、関東圏内に限られていたのは、1人で廻っているせいだったんですね。

ということで、お忙しい方もこの「猫の足あと」(←こちらをクリック)を覗いてみて下さい。

今度、IT関係に異様に詳しい松長氏から渓流斎ブログのホームページ化について、相談に行こうかと思っております。