北条早雲の興国寺城跡=ついに「洗脳」されたO氏

  会社の後輩で、還暦過ぎて静岡県の某支局長に転身したO氏からメールが来ました。な、何と、戦国時代の火ぶたを切ったと言われる伊勢新九郎盛時(北条早雲=1456?~1519年)の最初の居城として知られる興国寺城跡(静岡県沼津市)に週末の休日を利用して行って来たというのです。しかも、「高低差20メートルもある空堀を作らせて東西に睨みをきかせた北条早雲の野望を感じました」と大いに感動した様子だったのです。

興国寺城跡(静岡県沼津市)Copyright par K.O

 O氏は昨年10月末まで、小生と同じ部署で、席が隣でしたので、仕事の合間によく無駄話をしたものでした。主に小生が、歴史や文化などについて、偉そうに蘊蓄を傾けることが多かったのですが、特に力を入れたのは、全国のお城巡りや神社仏閣、仏像の話でした。

 しかし、O氏は全くといっていいぐらい関心がなく、特にお城の魅力をこちらがいくら口酸っぱく唱えても、うわの空でしか聞いてくれませんでした。

興国寺城跡(静岡県沼津市) Copyright par K.O

 そんな彼が、この期に及んでお城の魅力を語るとは! やっと、小生の「洗脳」が実を結んだ、と感激したわけなのです(笑)。

興国寺城跡(静岡県沼津市) Copyright par K.O

 全国にお城は、2万5000とも3万ともあると言われ、中世の山城跡も含めば5万以上はあると言われています。恐らく、一人で一生懸けても全てを回れないかもしれません。

 でも、城廻りをすると、健康にも良いちょっとした運動になり、山城も多いので、良い空気が吸えます(笑)。何よりも、色々と調べるとその時代のことや城主の家系も知りたくなり、日本史に詳しくなります。お城は合戦の場なので、それ以外の、というか、それに付随する城主の菩提寺や合戦必勝に願を懸ける神社にも興味を持つようになり、城と併せてお参りしたくなります。

興国寺城跡(静岡県沼津市) 穂見神社 Copyright par K.O

 特に城跡は建物も何も残っていないので、当時の櫓や大手門などを想像する楽しみがあります。O氏が感動した興国寺城跡は遺跡ではありますが、実際に行ってみれば、歴史上の人物だった北条早雲が実在したという実感をつかむことが出来たと思います。(小生は行ったことがないので、いつか行ってみたいと思っています。)

 現存12天守や大坂城、名古屋城などは入場料が必要ですが、山城のほとんどは無料で入ることが出来て、誰にでも開放されているところが魅力です。

 別にお城は歴史学者さんらの独占物でも何でもありませんから、庶民でも大いに知的に楽しめばいいのです。と書きながら、私は読者の皆さんにもお城廻りを趣味にするよう「洗脳」しております(笑)。

 

明智光秀の私怨だったのか?=日本史最大のミステリー「本能寺の変」

 日本史最大のミステリーの一つは「本能寺の変」ではないでしょうか。天正10年(1582年)6月、明智光秀が織田信長を急襲した下剋上事件です。

 光秀は重臣として「後入り」なのに、家臣団の中では最初の城持ち(坂本城)になった出世頭なのに、何故、信長を裏切ったのか? 関白太政大臣も務めた近衛前久黒幕説、羽柴秀吉黒幕説、長宗我部元親黒幕説…等々色んな黒幕説や、安土城での徳川家康の接待で粗相があったとして、信長から家臣たちの面前で叱責されて恥をかかされた恨み説などがありますが、真相は不明です。また、信長の遺体が京都・本能寺の現場から見つからなかったということがミステリーに一層の拍車をかけています。

 そんな中、10月11日付の毎日新聞朝刊の紙面で、感染症が専門の早川智日大医学部教授が、「悲劇的な最期を遂げた織田信長」というタイトルで寄稿されており、その中で「信長も降伏を申し入れて来た丹波の波多野兄弟を安土城に招いて斬殺するなど、やっていることはあまり変わりない。このとき、波多野家の城内で降伏交渉の人質になっていた明智光秀の母親が報復として殺害されており、本能寺の変の原因の一つという説もある。」と書かれていたので吃驚です。

 勿論、こちらの不勉強ではありますが、そんな話聞いたこともありませんでした。となると、色んな説がありましたが、光秀が打倒信長を決意したのは、信長の狂気のサディズムにより、結果的に母親が殺されてしまったという怨恨で、その報復に他ならないではありませんか。黒幕なんかいません。私怨です。これで決まり。でも、これまで歴史学者は何をやっていたんでしょうか?今の歴史学者だけでなく、江戸時代、明治から昭和にかけて歴史学者なら知らないはずありません。何故、この「私怨説」が定着しなかったのでしょうか?

 感染症専門の医学部の教授が知っているのに現代の歴史学者が知らないとしたらおかしな話です。

1956年創業の銀座「デリー」ターリー1200円 量多かったす。本文と全く関係ないやんけ!

 そんなわだかまりを持って、ここ数日間、過ごしていたら、たまたま、ネット上で、歴史と文化の研究所代表の渡辺大門さん(文学博士)という方が「【戦国こぼれ話】織田信長が明智光秀の母を見殺しにして、八上城の波多野氏を磔刑したのは真っ赤な嘘」と題する記事を発見しました。投稿されたのは、2年も前の2021年10月17日付です。それによると、明智光秀は波多野氏に自分の母親を人質として送り込む必要はないし、そんな事実は一次史料では確認できない、と結論づけているのです。

 渡辺氏によると、光秀の母親が殺害されたという逸話が載っている文献は、本能寺の変から100年も経った遠山信春著「総見記」(1685年頃)で、史料的に問題が多いとされる小瀬甫庵の「信長記」を元に増補・考証し、脚色や創作が随所に加えられているといいます。

 あれれれ? 光秀の母親人質殺害事件はなかったということですか? だから「なかった」ことは史実として定着し、一般人には知れ渡ることはなかったということなのでしょうか?

 何だか割り切れませんが、少なくとも、早川智日大医学部教授も毎日新聞の編集記者もデスクも、渡辺大門氏の2年前の記事を読んでいなかったことはほぼ確実です。もし、読んでいても敢えて書いたとしたら、まだ、歴史学会では、「光秀の母親、人質殺害」は一つの説として残っているということなのでしょうか?

 何だか分からない。これだから歴史は曖昧で、よく分からないですねえ。

 

「歴史は繰り返す」のか、「霊が霊を呼ぶ」のか?=倉本一宏ほか著「新説戦乱の日本史」

 倉本一宏ほか著「新説戦乱の日本史」(SB新書、2021年8月15日初版)なる本が、小生の書斎で、どういうわけか見放されて積読状態になっていたのを発見し、読んでおります(もうすぐ読了します)。

 これが、実に、実に面白い。どうして、積読で忘れ去られていたのかしら? 思い起こせば、この本は、確か、月刊誌「歴史人」読者プレゼントの当選品だったのです! 駄目ですねえ。身銭を切って買った本を優先して読んでいたら後回しになってしまいました。

 この本、繰り返しますが、本当に面白いです。かつての定説を覆してくれるからです。一つだけ、例を挙げますと、長南政義氏が執筆した「新説 日露戦争」です。日露戦争史といえば、これまで、谷寿夫著「機密 日露戦史」という史料を用いた研究が主でした。この本は、第三軍司令官乃木希典に批判的だった長岡外史の史料を使って書かれたので、当然、乃木将軍に関しては批判的です。しかし、その後、第三軍関係者の日記などが発見され、研究が進み、乃木希典に対する評価も(良い方向に)変化したというのです。

 有名な司馬遼太郎の長編小説「坂の上の雲」も、谷寿夫の「機密 日露戦史」を基づいて書かれたので、乃木大将に対しては批判的です。旅順攻囲戦でも、「馬鹿の一つ覚えのような戦法で」無謀な肉弾戦を何度も繰り返した、と描かれ、「坂の上の雲」を読んだ私も、乃木将軍に対しては「無能」のレッテルを貼ってしまったほどです。

 しかし、そうではなく、近年の研究では、第三軍は、攻撃失敗の度にその失敗の教訓を適切に学び、戦略を変えて、次の攻撃方法を改良していったことが明らかになったというのです。また、第三軍が第一回総攻撃を東北正面からにしたのは、決して無謀ではなく、「極めて妥当だった」と、この「新説 日露戦争」の執筆者・長南政義氏は評価しているのです。

 また、勝負の分かれ目となった二〇三高地を、大本営と海軍の要請によって、攻撃目標に変更したのは、「司馬遼太郎の小説「殉死」の影響で、児玉源太郎が下したという印象が強いかもしれませんが、実際に決断したのは乃木希典でした。」と長南政義氏は、やんわりと「司馬史観」を否定しています。他にも司馬批判めいた箇所があり、あくまでも、小説は物語であり、フィクションであり、お話に過ぎず、実際の歴史とは違いますよ、といった達観した大人の態度でした。「講釈師、見て来たよう嘘を言う」との格言がある通り、所詮、小説と歴史は同じ舞台では闘えませんからね。

 でも、神格化された司馬先生もこの本では形無しでした。

大聖寺 copyright par TY

 ところで、日本史上、もし、たった一つだけ、代表的な合戦を選ぶとしたら、1600年の天下分け目の「関ヶ原の戦い」が一番多いのではないかと思います。それでは、日本史上最大の事件を選ぶとすれば、殆どの人は悩みますが、少なくともベストスリー以内に「本能寺の変」が入ると私は勝手に思っています。本能寺の変の後、明智光秀は、中国大返しの羽柴秀吉による速攻で、「山崎の戦い」(1582年)で敗れ、いわゆる「三日天下」で滅亡します。

 関ケ原の戦いが行われたのは、現在の岐阜県不破郡関ケ原町で、古代から関所が設けられた要所で、ここを境に東を関東、西を関西と称するようになりました。古代では不破道(ふわのみち)と呼ばれていました。そして、山崎の戦いが行われたのは、天王山の麓で、現在の京都府乙訓郡大山崎町です。古代は山前(やまさき)と呼ばれていました。

 この関ケ原と山崎、古代では不破道と山前ー何が言いたいのかといいますと、倉本一宏氏が執筆した「新説 壬申の乱」を読むと、吃驚です。この不破道と山前が壬申の乱(672年)の重要な舞台になった所だったのです。不破道は、大海人皇子(後の天武天皇)が封鎖を命じて、壬申の乱の戦いを優位に進める端緒となりました。そして、山前は、壬申の乱で敗れた大友皇子が自害した場所だったのです。

 何で同じような場所で合戦やら事件が起きるのか?ー「歴史は繰り返す」と言うべきなのか、怖い話、「霊が霊を呼ぶ」のか、何とも言えない因縁を感じましたね。

出来れば全部観たい=山本勉監修「運慶✕仏像の旅」

 山本勉監修「運慶✕仏像の旅」(JTBパブリッシング、2017年9月1日初版)は、もう直ぐ読了しますが、旅行の際には携帯して参照したい本です。

 この本を読んで、全国にある運慶作の仏像を全て、とまでは言わなくても、出来るだけ多く拝観したい誘惑に駆られてしまいました。私が現地で実物を観たのは、東大寺南大門の金剛力士立像と高野山金剛峰寺の八大童子立像ぐらいで、後はふだんは非公開だったりして、東京国立博物館などの特別展で、無著・世親菩薩立像(興福寺)や重源上人坐像(東大寺)などを拝観させて頂いたぐらいです。何と言っても、運慶20代のデビュー作と言われる奈良・円成寺の大日如来坐像(迂生が新橋の奈良県物産館で購入したあのモデル像です=下の写真)の実物には、まだお目にかかったことはありません。

 焼き物の世界で「備前に始まり、備前で終わる」と言われたりするように、彫刻の世界では「運慶に始まり、運慶で終わる」と言っても過言ではないんじゃないでしょうか。いや、彫刻の世界ではなく、日本の美術史上と言っても良いかもしれません。私自身は「印象派」を大学の卒論に選んだせいか、泰西美術については、かなり海外の美術館巡りもして観てきましたが、年を取ると日本に回帰してしまい、北斎、光琳、若冲、等伯、雪舟の方が技巧的に優れ、日本人の感性に合うことを認識するようになりました。さらに、平面画よりも立体の方が凄いと思うようになり、その天才と抜群の知名度から究極的には仏師運慶が日本美術を代表するナンバーワンではないかと思うようになったのです。

 この本は、何と言っても写真が凄い迫力です。写真提供として「文化庁」や「奈良県立博物館」などのクレジットもありますが、仏像の鼻先の数センチから接写したような、土門拳ばりのアップ写真もあり、圧倒されます。また、この本は、仏像研究の権威である山本勉先生の「監修」となっており、実際に寺院を参拝する監修者の山本勉氏の御尊顔が何度も登場されております。

 仏教美術の研究は21世紀になっても着実に進歩を遂げ、神奈川県称名寺光明院の大威徳明王像は1998年に体内から取り出された納入文書が2007年に開封され、初めて運慶作と判明されたことをこの本で知りました。先に少し触れた東大寺を再興した重源上人坐像も銘記も史料もないので、快慶作など諸説ありましたが、山本氏は「無著・世親像の作風の共通を見て、作者は運慶説が有力」としてます。

 そして、何よりも、新興宗教団体「真如苑」が2008年3月に、米ニューヨークで行われたオークションで、約14億円で落札した大日如来坐像(半蔵門ミュージアム)が、栃木県足利市の樺崎寺(廃寺)に安置されていた運慶作ではないかと推定されました。この像をX線撮影すると体内に五輪塔などが埋め込まれていることが分かり、足利市光徳寺蔵の運慶作大日如来像との共通点も見られ、重要文化財に指定されました。運慶作はほぼ間違いないことでしょう。これも、運慶作と推定する論文を発表した山本勉氏の功績のようです。その後、山本氏は、この像を所蔵する半蔵門ミュージアムの館長になられました。

 その一方で、京都・高山寺に移した運慶作の廬舎那(るしゃな)仏像や賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)像、鎌倉の源実朝持仏堂の釈迦如来像、大蔵薬師堂(北条義時が創建した覚園寺)の薬師如来像、北条政子発願の勝長寿院五仏堂の五大尊像などは、残念ながら現存していないといいます。

 先に、私は「運慶は日本美術史上ナンバーワンだ」と書きましたが、実際は、運慶一人だけで制作した仏像は少なく、運慶の父康慶を始祖とする奈良仏師の慶派(同僚の快慶や子息の湛慶、康勝ら)による共同制作が多いのです。運慶は、勿論、自ら鑿(のみ)を手にしますが、職人をまとめたり指示したりする棟梁か、依頼者と折衝する総合プロデューサーの役割を担っていたと思われます。鎌倉時代になり、時の権力者の源頼朝や北条時政、政子、和田義盛らからの依頼による仏像制作も多くなります。この本の71ページに京都・六波羅蜜寺の運慶坐像(伝湛慶作)の写真が掲載され、私も初めて運慶さんの御尊顔に接しましたが、河童みたいな顔で(失礼!)、妥協はしない意志の強さと自負心が表れていますが、何処か計算高い如才のない面も見え隠れします。人間的な、あまりにも人間的な…。

 ということで、余計に運慶が好きになり、800年経っても現存する運慶作の仏像を求めていつか巡礼したいと思います。

現世人類は所詮、猿人の子孫さ

 今年もあとわずかで、年の瀬も押し迫って来ました。

 ランチに行ったりすると、その店の常連さんや馴染み客が「今年で最後かな? 良いお年を」と言って出ていく人も多くなりました。

 まだ少し早いですが、今年も読者の皆様には大変お世話になりました。今年は相当な数の馴染みの読者さんが離れていきましたが(苦笑)、また、相当な数の新しい読者の皆様も御愛読して頂いたようです。このブログがいつまで続くか分かりませんが、感謝しか御座いません。

 さて、今年は、いつもの個人的なことながら、人類学にハマりました。ジェレミー・デシルヴァ著、赤根洋子訳「直立二足歩行の人類史」(文藝春秋)、エマニュエル・トッド著、 堀茂樹訳「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」上下巻(文藝春秋)、そして、篠田謙一著「人類の起源」(中公新書)と、これまでほとんど知らなかった古代人類化石のゲノムを解読した最新科学を教えてもらい、目から鱗が落ちるような感動でした。

 もともと、私自身は、記者生活をしながら、近現代史の勉強を個人的に始めました。きっかけは、ゾルゲ事件研究会でした。しかし、昭和の初期から敗戦に至るあの狂気と言っても良い時代に登場する人物の中には、一兵卒たちは皆殺しになっても、自分だけは飛行機に乗って逃げて助かるといった日本史上最悪とも言うべき軍人がいて、腸が煮え沸るどころか、吐き気を催すほどで、日本人というものがつぐづく嫌になってしまいました。

 同時に、近現代史を知るには、明治維新を知らなければならない。明治維新を知るには江戸の徳川の治世を知らなければならない。江戸時代を知るには、まず関ケ原の戦いを知らなければお話にならない。関ケ原を知るにはそれに至る戦国時代を知らなければならない。でも、彼ら戦国武将を知るには鎌倉時代の御家人たちのことを知らなければならない。そして当然のことながら天皇家の歴史を知るには古代にまで遡らなければならず、究極の果て、人類学にまで逆上ってしまったわけです(笑)。

 でも、色んなことが分かると、皆つながっていて、「なるほど。そういうことだったのかあ」と感激することが多々あります。

東銀座 料亭H

 今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、脚本のせいで、合戦場面がほとんどなく、まるでホームドラマかメロドラマになってしまい、残念至極なお芝居でしたが、その半面、鎌倉時代関連の書籍が多く出回り、色んなことを学ぶことができました。

 鎌倉殿の13人の一人、大江広元の子孫に毛利元就がいて、中原親能の子孫には大友宗麟がいて、八田知家の子孫には小田氏治がいる、といったことは以前、このブログでも書いたことがありますが、和田合戦で滅亡させられた初代侍所別当・和田義盛(三浦義村の従兄弟に当たる)の子孫に、織田信長の重臣だった佐久間信盛や盛政(母は柴田勝家の姉)らがいること最近、知りました(笑)。佐久間氏は、和田義盛の嫡男常盛の子、朝盛が、三浦義明の孫に当たる佐久間家村の養子になったことから始まります。

 和田合戦で、和田常盛は自害に追い込まれますが、その子、朝盛は佐久間氏の養子になっていたため、逃れることができました。しかし、朝盛は承久の乱に際して、後鳥羽上皇側について没落します。一方、朝盛の子である家盛は、北条義時側についたので、乱後は恩賞として尾張国愛知郡御器所(ごきそ)を与えられるのです。(「歴史人」12月号)

 私はこの御器所と聞いて、吃驚してしまいました。今年5月に名古屋に住む友人の家を訪ねたのですが、その場所が御器所だったのです。友人の話では、御器所はもともと熱田神宮の器をつくる職人が多く住んでいたことから、そんな変わった名前が付けられたという由緒は聞いていましたが、佐久間氏のことは全く聞いていませんでした。佐久間家盛が御器所の地を与えられたため、佐久間氏は尾張の地に根を張るようになり、その関係で、佐久間信盛や盛政らは、尾張の守護代、織田信長の重臣になったわけです。つまりは、戦国武将佐久間信盛らは、もともと三浦半島を本拠地とする三浦氏だったということになります。

 まさに、点と点がつながって線になった感じです。

東銀座・割烹「きむら」白魚唐揚げ定食1300円

 確かに、鎌倉時代は、梶原景時の変、比企能員の乱、畠山重忠の乱、将軍頼家、実朝の暗殺…と血と血で争う殺戮と粛清の嵐が吹き荒れました。当時は刑法もなければ、人権意識そのものがないので生命は軽んじられ、仕方がなかったかもしれません。でも、それは日本だけの状況かと思ったら、エマニュエル・トッド著「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」の中で、フランスのある教会区の住民台帳のようなものを調べたところ、13世紀(日本ではちょうど鎌倉時代)のある村の殺人率が10万人当たり100人(現代は、だいたい10万人当たり1人未満)と異様に多かったといいます。

 「なあんだ、世界的現象かあ」と思ってしまったわけです。当時は、ちょっとした言い争いでも直ぐに殺人事件に発展してしまったということなのでしょう。

 30万年前にアフリカで出現した現生人類は、7万年前に本格的にアフリカを出て世界に拡散し、1万年前に農耕を始めて定住生活をするようになると、土地、領土争いから戦争が絶えなくなります。21世紀になってもロシアがウクライナに侵攻するぐらいですから、人類は原始以来、全く変わっていません。人類学で篩にかければ、所詮、現世人類は700万年前、霊長類のチンパンジーから分岐して進化した猿人の子孫に過ぎません。だから、何が起きても予想外として驚くようなものはないかもしれませんね。

「鎌倉殿の13人」NHK大河ドラマ館、鎌倉国宝館、鎌倉歴史文化交流館へ小旅行

 いざ、鎌倉へ。

鎌倉・鶴岡八幡宮 二の鳥居

 月刊「歴史人」の読者プレゼントで、「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館の入場券が当選したので、平日に有休を取って、行って参りました。

 平日にしたのは、鎌倉は一大観光地であり、今年のNHK大河ドラマで鎌倉が舞台になっており、週末は相当混むと予想したからでした。

鎌倉・鶴岡八幡宮

 案の定、「鎌倉の原宿」のような小町通りを始め、平日だというのに人混みでいっぱいでした。特に、中学生か高校生らしき少年少女が、秋の遠足か修学旅行で、団体でいっぱい押し寄せておりました。

鎌倉・鶴岡八幡宮

 それに輪をかけたのは、9月14日(水)~16日(金)は鶴岡八幡宮の例大祭に当たっていたことです。一般の参拝者も多数詰めかけておりました。

 例大祭ということで、こうして、一の鳥居付近で、「鎌倉囃子」が演奏されていました。

「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館

 取り敢えず、「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館に向かいました。場所は、一の鳥居を入った八幡宮内の「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」にありました。

 入場は日時指定だったため、ネットで事前に申し込んでおきました。そのため、超満員ということはなく、ゆったりと落ち着いて見学できました。

「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館

 個人的に、最近、大河ドラマ館によく足を運んでおりまして、2017年の「おんな城主 直虎」(井伊直虎=浜松市)、2020年の「麒麟がくる」(明智光秀=岐阜県)、2021年の「青天を衝け」(渋沢栄一=東京都北区飛鳥山)以来4度目です。

「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館

 これまた、個人的な話ですが、私がNHKの大河ドラマにハマったのはつい最近のことです。子どもの頃見ていたのは、「源義経」(1966年)と「天と地と」(1969年)と「樅ノ木は残った」(1970年)ぐらいでした。

 あとは、長じで、仕事として見ることになった「太平記」(1991年)だけです。後は、タイトルを知っていても、中身はほとんど見ていませんでした。

「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館

 それが、どういうわけか、大河ドラマにハマって見るようになったのは、2016年の「真田丸」からです。それ以降の「おんな城主 直虎」「西郷どん」「いだてん~東京オリムピック噺~」「麒麟がくる」「青天を衝け」「鎌倉殿の13人」と、7年連続、大体見ています。

 こうして振り返ると、月日の経つ速さには唖然としてしまいます。

「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館

 その、今年の「鎌倉殿の13人」ですが、正直、あまり、面白くありませんね。分析すれば、スタジオ撮影が多く、野外での合戦シーンがほとんどないせいだと思います。

 本来、源平合戦と内部抗争の話で、おまけに平泉での源義経追討の合戦も見どころだったはずなのに、弁慶の立ち往生もないのですから、拍子抜けしました。

鎌倉・鶴岡八幡宮

 大河ドラマ館は30分ほどで引き揚げて、鶴岡八幡宮に久しぶりにお参りすることにしました。

 鶴岡八幡宮は1063年、河内源氏2代目の源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮を鎌倉の由比郷鶴岡に鶴岡若宮として勧請したのが始まりと言われています。

鎌倉・鶴岡八幡宮

 それを現在にも残っているような若宮大路を整備し、鶴岡八幡宮を移して拡張したのが、1185年に鎌倉幕府を開いた源頼朝でした。若宮大路は、妻政子の安産祈願も兼ねていたようです。

 八幡宮ですから、武運の神をまつっています。

 鶴岡八幡宮では、「応神天皇」「神功皇后」「比売神」の三柱の神様を御祭神としてお祀りしています。

 八幡宮内では、流鏑馬や相撲や放生会などの「神事」が行われ、鎌倉の精神的、文化的支柱になっていたようです。

 私も、普段より多めのお賽銭を奮発し、ウクライナ戦争が早く終わるよう世界平和と万人の健康をお祈りし、またまた健康長寿のお守り(800円)を買い求めました。

鎌倉国宝館

 大河ドラマ館は、想像していた通りでしたが、大いに期待したのは、大河ドラマ館の入場パンフレットを提示すると、鎌倉国宝館(大人300円)と鎌倉歴史文化交流館(同)に無料で入場できることでした。そのため、事前にホームページで、両館の休館日をチェックして、日曜日と月曜日を避けることにしたのでした。

 この中で、鎌倉国宝館は大正解でした。館内での写真撮影は出来ませんでしたが、国宝、重要文化財の仏像(如来、菩薩、明王、天)や高僧像などがズラリです。私が特に感動したのは、本などの写真ではよく拝見していた「北条時頼坐像」(重文)を目の前で見ることができたことです。思わず、「えっ? これ本物?」と声をあげそうになりました。

 北条時頼は第五代執権で、三浦泰村一族を滅ぼすなど得宗独裁政権を確立した人でもあります。一方で、仏教、特に禅宗に信仰が篤く、蘭渓道隆を招いて鎌倉五山第一位の建長寺を建立しています。

 晩年は出家して、最明寺の入道とも呼ばれ、日蓮が「立正安国論」を献本したのがこの最明寺の入道であり、能の「鉢の木」や「徒然草」などでも登場します。

鎌倉歴史文化交流館

 次に向かったのが、「鎌倉歴史文化交流館」です。地図で見ると、若宮大路の二の鳥居辺りで、西に進み、小町通りを突っ切り、東海道線の踏切も渡り、くねくねした軽い坂道を登ったところ(扇が谷)にあるようでした。

 9月半ばだというのに、30度の暑さで、辿り着くだけでふうふうでした。

鎌倉歴史文化交流館

 館内では、「吾妻鏡」の原本(写本)らしきものが展示されていたり、大佛次郎、川端康成ら「鎌倉文士」の足跡を辿るビデオが流れたりしていました。

鎌倉「カフェ ミルクホール」

さて、昼時になったので、一度行きたかった鎌倉「カフェ ミルクホール」を目指しました。

今は便利な時代になり、スマホのグーグルマップで検索して、「徒歩」を押すと、自動車のナビゲーターみたいに、「次を右折して」とか「次を左折して」とか言ってくれるのです(笑)。

 いやはや、本当に便利な時代になったもんです。

鎌倉「カフェ ミルクホール」オペラライス・セット 1300円

 鎌倉「カフェ ミルクホール」のお目当ては、白クリームのオムライスであるこの店の名物「オペラライス」です。随分昔に、何かの雑誌か、テレビで知ったもので、いつか一度、チャレンジしたいと思っていたのです。

鎌倉「カフェ ミルクホール」オペラライス・セットの珈琲とデザート 1300円

 オペラライスは上品な味でしたが、量はそれほど多くないので、若い男性諸君では物足りないかもしれません。

 が、私のような年配者なら大丈夫です。昭和初期のミルクホールというより、大正ロマンを感じさせる店の雰囲気は何物にも代えがたく、ゆっくり落ち着けました。

日蓮の旅、8月に身延山へ

 8月の夏休みは、日蓮宗の総本山身延山久遠寺に行くことにしました。昨夏、お参りする予定でしたが、コロナ禍の影響でキャンセルせざるを得なかったのでした。今年はそのリベンジで、義理と人情で同じ宿を予約しました。

 身延山は、あの水戸黄門さまも御宿泊されたという宿坊に泊まり、帰りは、海音寺潮五郎と高浜虚子が定宿にしていたという武田信玄の秘湯・下部温泉のホテルに一泊することにしました。

 最近、鎌倉時代の歴史を勉強したおかげで、大分、知識が増えました。私自身は、日本史の中で、鎌倉新仏教にはかなり興味がありましたので、その政治的、経済的、社会的背景が分かって大変参考になりました。つまり、鎌倉新仏教が生まれる土台や基盤が少し分かったということです。

 その鎌倉新仏教の代表とも言える浄土宗(法然)の知恩院、浄土真宗(親鸞)の東西本願寺、臨済宗(栄西)の建長寺、建仁寺など、曹洞宗(道元)の永平寺、時宗(一遍)の清浄光寺といった総本山、大本山にはかつてお参りしたことはありましたが、日蓮宗の総本山(祖山というらしいですが)だけはまだお参りしたことがなかったので、死ぬ前にいつか是非お参りしたいと思っておりました。

 しかも、日蓮は、私の亡父が、個人的に最も関心を寄せていた人物の一人であり宗教でした。とはいえ、特定の団体や組織に入会することは嫌って、独り書斎で関連書籍を収集して読んでいる程度でしたが…。私なんか読めない難解な専門書が多くありましたが、今回は私でも読める本を何冊か実家から借りてきました。そのうちの一冊が、この田村芳朗(1921~89年)著「日蓮 殉教の如来使」(NHKブックス・1975年10月1日初版)です。田村氏は当時、東大教授。もう半世紀近い昔の本なので、表現が少し古い箇所がありますが、日蓮の膨大な遺文を第一次史料として、実証的に検討した評伝です。実証的というのは、後世に日蓮を神格化して書かれたものや、呪術的、奇跡的行為などは極力排除して、日蓮の真の実体に迫ろうとした意欲作という意味です。

 当時の書評は知りませんが、恐らく熱烈な信者や宗教界からは、日蓮が自称した「旃陀羅(せんだら)が子」という出自を始め、神懸りなカリスマ性がそれほど強調されていないということで批判されたかもしれません。私自身は、この本こそ、人間日蓮に真に迫っていると大変評価していますが…。

鎌倉・長勝寺

 昨夏、「身延山に行こう」と思い立ったのは、佐藤賢一の小説「日蓮」(新潮社)に感銘を受けたからでした。小説ですから、「講釈師見て来たような嘘を言う」部分もあるかもしれませんが、関連文献を相当渉猟していたようで、史実を忠実に再現し、しかも人物像が生き生きと浮かび上がって、大変面白い魅力ある読み物に仕上がっていました。

 今回は、かなり鎌倉幕府の知識が増えたので、この本を再読すればもっと面白く読めるかもしれません。例えば、日蓮の代表的主著と言われる「立正安国論」を幕府の最高権力者だった最明寺入道に提出しましたが、この最明寺殿とは第5代執権北条時頼のことで、時頼と聞けば、色んなことが思い浮かびます。出家しても、息子の時宗が執権になっても、「院政」に習って、最高権力者の地位に就いていたこと。南宋の僧蘭渓道隆を招いて鎌倉五山第一位の建長寺を創建したこと。また、執権時代は、前将軍・藤原頼経の側近だった名越光時(北条義時の孫)が頼経を擁して起こそうとした武力行動を鎮圧したこと(名越の乱)。そして、有力御家人であった三浦氏や千葉氏を滅ぼしたことなどが挙げられます。

 8代執権時宗の時代では、二度にわたる蒙古襲来(文永・弘安の役)に加え、六波羅探題の北条時輔による反乱など内憂外患に苛まれました。つまり、内乱と海外侵略です。

 この二つを「予言」したと言われるのが、日蓮が北条時頼に提出した「立正安国論」ということになります。すなわち、日蓮は、正法が消えうせた時には、国土に様々な災難が起き、それは法華経に書かれている他国侵逼(しんぴつ=他国侵入)と自界叛逆(自国内乱)のことだと喝破したのでした。

 承久の乱の翌年(1222年)に安房の漁師の子として生まれた日蓮は、北条時頼、時宗と同時代人ですから、上に掲げた内乱や蒙古襲来によって、結果的に予言が的中し、経験したことになります。

鎌倉・龍口寺

 しかし、「立正安国論」等は時の為政者や宗教界では全く受け入れられず、逆に弾圧、挑発されて依怙地になった日蓮は、他宗派を攻撃し始めます。そのいい例が、「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」の四箇格言です。これで幕府や地頭からだけでなく、他宗派からも恨みと反感を買い、何度も訴えられて伊豆や佐渡島に流罪となります。特に、文永8年(1271年)、佐渡流罪を問う裁判に引き立てるために、鎌倉の日蓮の草庵を襲って逮捕したのが、平左衛門尉頼綱でした。佐藤賢一の「日蓮」を読んでいた昨年はあまりピンと来なかったのですが、今では平頼綱といえば、北条氏の伊豆時代から仕えた古い御内人(みうちにん)だということが分かります。8代執権時頼と9代執権貞時の執事として大きな権勢を振るった人です。ライバルの安達泰盛を霜月騒動で滅ぼしますが、逆に彼の恐怖政治を恐れた執権貞時によって誅殺されました(平禅門の乱)。

 一介の無名の僧に過ぎなかった(当時)日蓮は、北条時頼や平頼綱といった時の権力者の存在を知り、蒙古からの国書到来など一部の人しか知り得ない内外情勢の事情に通じていました。かなりの情報通です。そんな俗世間から離れた聖界の人が、何処から情報を得るのか不思議でしたが、田村芳朗氏の「日蓮 殉教の如来使」には、早い段階(1256年)で日蓮に帰信した人の中に、北条氏一門の名越光時(あの名越の乱で、伊豆に流された人)の重臣である四条金吾頼基や武蔵池上郷の地頭池上宗仲(後に屋敷に池上本門寺を建立)・宗長兄弟がいたことが書かれていました。恐らく、このような日蓮に帰依した武士たちが、日蓮に当時の政治情勢を伝えていたと思われます。(となると、内乱も他国侵入も「予言」ではなく、確かな情報に基づいた確信だったのではないかと思われます。)

 とにかく、この時代は大地震など天変地異が続発し、飢饉や疫病がはびこって、鎌倉の道端でも屍が累々といった状況で、巷では飢えた物乞いが群れをなし、まともな薬や医療もなく加持祈祷のみが頼りでした。

 数多の迫害や法難(龍の口など)に遭いながらも、最後まで自己の信念を貫き通した日蓮は、こうした国難と人心の不安といった惨状を間近に見て、黙っていられなかったと思われます。

【追記】

 私の父親が九州の片田舎から上京して、初めて住んだのが東京・蒲田(私は此処で生まれました)で、近くに池上本門寺があったことから、日蓮に興味を持ったようでした。

 何しろ、私の子供の時の家族旅行が千葉県の誕生寺(日蓮生誕地)だったぐらいですから(笑)。

 鎌倉への関心は、小学校5年の時の遠足が原点です。バスガイドさんが車内で「七里ヶ浜の磯づたい 稲村ヶ崎 名将の剣投せじ古戦場」と文部省唱歌「鎌倉」を歌ってくれました。お土産にカルタを買ったら、「日蓮の龍ノ口の法難」があって、急に稲光が起きて、日蓮を処刑しようとした武士たちが恐ろしくなって逃げたカードもありました。

 そんな記憶があるので、日蓮聖人からは逃れられません。

斯波も細川も畠山も一色も足利氏で村上源氏だった=皇族と藤原氏が1300年以上も政権中枢を担う国日本

 最近の渓流斎ブログは、歴史のことばかり書いています。小生を、鬼の首を取ったように誹謗中傷する気の毒な人がいるからです。気の毒というのは、明らかに拙ブログを読まないで中傷するからです。何か被害妄想のようで、自分のことが書かれたと誤解していると思われますが、歴史上の人物なので、残念ながら、生きている貴方のことであるわけありません。それが、読んでいない証拠です。

 歴史を勉強すると、人間というものは、古代から、豹変、裏切り、日和見、我田引水、滅私奉公、お家大事だけを信奉して生きて来たことが分かります。我々は彼らの子孫なのです。歴史上の人物がこの有り様ですから、彼らのDNAを受け継いでいる生きている人間は尚更、豹変したり、心変わりしたりすることが分かります。

 例えば、鎌倉時代だけを見ても、凄まじい粛清と権力闘争の嵐です。源義経、源範頼、上総広常、比企能員、畠山重孝、阿野全成、平賀朝雅、梶原景時、三浦泰村…と根も葉もなくても「謀反の疑い」を理由に、中には一族もろとも滅亡させられています。

 その半面、鎌倉時代の権力闘争に辛うじて生き残った一族の子孫は、次の室町・南北朝時代どころか、戦国時代、幕末、明治、昭和、現代と権力の中枢に返り咲いたりしています。武士も大名も御先祖様が、桓武平氏、清和源氏だったりすると、皇族の末裔ということになりますから、結局、日本という国は、皇族(天皇家)とその外戚の藤原氏が1300年以上も政権中枢を担ってきた国だということになります。

 以前にこのブログにも書きましたが、「鎌倉殿の13人」の一人、公文所寄人・中原親能の子孫が戦国時代の豊後の大名大友宗麟で、初代政所の別当大江広元の子孫が、戦国時代から幕末に歴史の表舞台で活躍する毛利氏でした。

 「鎌倉殿の13人」の中には入っていませんが、島津氏の祖である島津忠久は、清和源氏流と言われていますが、源頼朝の有力の御家人となり、薩摩、大隅、日向、越前と異例にも4カ国もの守護職に任じられました。この島津氏は、戦国時代、幕末明治と九州の大名として存続し、昭和天皇の第5皇女が島津家に嫁がれるなど、天皇家と姻戚関係になっています。

鎌倉五山の第5位 浄妙寺

 また、「鎌倉殿の13人」の中に入っていない超有力御家人が、足利義兼(よしかね)です。「八幡太郎義家」こと源義家のひ孫で足利氏二代目。栃木県足利市の足利氏館をつくった人と言われ、1188年に鎌倉五山の第5位の浄妙寺(臨済宗建長寺派)を創建しました。

 何で、足利義兼が超有力御家人なのかといいますと、ズバリ、室町幕府を開いた足利尊氏の御先祖さまだからです。義兼は、源義経を始め、河内源氏一族でさえ粛清の嵐に巻き込まれる中、辛うじて生き残ったわけです。それだけではありません。足利氏の分派といいますか、流れを汲む子孫には、室町幕府の将軍を補佐する「三管領」である斯波氏も、細川氏も、畠山氏がいるからです。つまり、斯波も細川も畠山も、足利氏であり、村上源氏だったというわけです。

 ちなみに、斯波氏は、足利家氏が陸奥斯波郡を領地としたから。細川氏は、足利義季が三河細川郷を領地としたから。そして、畠山氏は、足利義純が、北条氏によって滅亡させられた畠山重忠の旧領を与えられ、しかも、足利義純は、畠山重忠の正室だった女性を自分の妻にして畠山氏を存続させています。

 また、室町幕府の侍所長官である所司に任ぜられた四家を「四識」と言いますが、主に山名氏、一色氏、京極氏、赤松氏の四家が務めました(当初は、清和源氏の土岐氏、畠山氏も入れた六家。赤松氏が没落して三家に)。山名氏は、鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞の子孫義範が、上野国多胡軍山名(現群馬県高崎市)に所領を得たから。一色氏は、足利公深が三河国吉良庄一色に本領を得たから。京極氏は、承久の乱で戦功で近江守護に任じられた佐々木信綱の四男氏信が京都の京極高辻に館を構えたから。赤松氏は、村上源氏の一流で、九条家領播磨国佐用郡佐用荘赤松村を本拠とし、赤松則祐が最盛期で、室町時代、播磨・美作・備前の守護となりますが、関ケ原の戦いでは西軍に属し、一族は戦死ししたため、断絶します。

 こう見ていくと、日本史上で貴種ではなかった者が天下を取ったのは、農民出身と言われる豊臣秀吉ただ一人だと思われます。信長の織田家も、清和源氏の美濃守護土岐氏の家臣である守護代に過ぎなかったのが、一種の下剋上で這いあがり、やはり足利氏の支流である今川義元を破ってからは、天下取りまであと一歩のところまでいきます。徳川家康の祖先松平家は河内源氏の新田氏の末裔を自称していますが、否定する学者もいます。

 このブログの最初の方で、「日本という国は、皇族とその外戚の藤原氏が1300年以上も政権中枢を担ってきた国だ」と書きましたが、その良い例が、先の大戦中に首相を務めた近衛文麿です。近衛家は、藤原北家嫡流で公家の五摂家筆頭。代々、摂政関白を務めた公爵家です。

 もっと最近では平成5年から翌年にかけて内閣総理大臣を務めた細川護熙氏です。彼は肥後細川家の第18代当主です。この細川氏と言えば、足利氏であり、足利氏と言えば、村上源氏で、皇族の末裔ではありませんか。

歴史は学び直しが必要=「キーパーソンと時代の流れで一気にわかる鎌倉・室町時代」

 相変わらず、鎌倉幕府と中世史にハマっています。

 というのも、結構、関連書籍を衝動買いしてしまい、積読状態になっていたからです(苦笑)。

 この本は中身を見ずに、タイトルと、監修が今は時めく東大史料編纂所の本郷和人教授ということで、信頼してネットで買ってしまいました。

 でも、買ってすぐ後悔してしまいました。どぎついイラストで、どう見ても、お子ちゃま向けで、大人が電車の中で読むには恥ずかしくて憚れるほどでした。

 11ページに「1392年 足利尊氏が幕府の最盛期を築き、ついに南北朝合一」と大きな活字で出てきますが、これは明らかに足利尊氏ではなく、足利義満の間違いでしょう。尊氏は1358年に53歳で亡くなっていますからあり得ません。こんな間違いを碩学の本郷大先生が見抜けないわけがなく、恐らく、名前を貸しただけで、この本を読んでいないんだろうなあ、と思われます。これで、「監修」というのは、本を売るための手段だということが分かります。間違っているかもしれませんけど。

 でも、全体的に、教科書のようにツボを押さえた記述で、年表や地図や系図などが盛り込まれていますので、大変分かりやすいです。私自身は、何故、鎌倉幕府が滅んだのかその理由が知りたかったのですが、腑に落ちる解説をしてくれました。

 元寇では、御家人だけでなく、非御家人まで全国から動員されました。しかし、元の連中を神風で?追い払っても、幕府には恩賞として与える所領があるわけではなく、次第に御家人たちの不満が執権の北条氏に向けられます。それに呼応して、権力奪回を図る後醍醐天皇が不満武士をたきつけて、倒幕運動に邁進し、ついに、足利高氏・新田義貞軍が幕府を滅ぼします。結局は、経済問題だったということが分かりました。

 最初にイチャモンを付けましたけど、この本はよく出来ています。私の高校時代の教科書ではほとんど取り上げられなかった、というか、私の世代では習わなかった「平禅門の乱」(1293年)や「中先代の乱」(1335年)、「観応の擾乱」(1350年)などにも触れらています。

 また、我々の世代は、源頼朝の挙兵から平氏の滅亡まで、「源平合戦」「源平の争乱」などと習っていましたが、最近では「治承・寿永の乱」と呼ぶらしいですね。源氏対平氏の単純の構図ではなく、例えば、頼朝の下に馳せ参じた千葉氏も上総氏も畠山氏も三浦氏も坂東平氏だったからです。

 もう言わずもがなですが、鎌倉幕府の成立が、頼朝が征夷大将軍に任命された1192年ではなく、守護・地頭が設置された1185年の方が今の多くの教科書で採用されているといいます。

 それに、戦前は、天皇中心の国家主義の高まりの中、南北朝時代の「南朝」が正統であり、「楠木正成が忠臣で、足利尊氏は逆賊」と教科書で教えられました。(戦後は、南朝正統論の支配から解放され、足利尊氏も客観的に評価されるようになりました。)

 やはり、歴史は学び直さなければいけませんね。

「和田義盛の乱」、三浦義村裏切りの真相

 「歴史人」7月号(「源頼朝亡き後の北条義時と13人の御家人」特集)をやっと読了しました。戦国時代の豊後の大名大友宗麟の御先祖さまが、「鎌倉殿の13人」の中原親能だったとか、梶原景時を追撃した駿河の武士・吉川友兼が、戦国時代の吉川氏の御先祖さまだったとか、教えられることが多く、色々と勉強になりました。

 でも、誤植や間違いが多過ぎました。私が発見しただけでも7カ所はありました。特に酷かったのは、「8代執権・時宗の祖・一遍もまた武士層に心の支えを与えていた」と105ページに書かれていることです。時宗(じしゅう)の開祖一遍上人が、8代執権北条時宗(ときむね)の祖になってしまっています! 明らかに筆者の記憶違いなのでしょうが、校正の段階で気付くはずです。編集長も目を通していないのではないでしょうか?

 名前の漢字の間違いも結構見受けられましたし、商品価値を貶めてしまうことになります。繰り返しになりますが、これらは校正の段階で直せるはずです。もう優秀な人材が出版界に入ってこなくなってしまったということなのでしょうか?

 あまり批判しても、しょうがないので、最終的にはこの本(雑誌)を買って良かった、と私は思っていることを強調しておきます。本当に色んなことを教えてもらいました。

 最後に一つだけ、取り上げてみますと、「和田義盛の乱」のことです。侍所の別当(長官)も務めた最有力御家人の一人である和田義盛は、三浦義明の孫であり、三浦一族です。乱を起こす直前に、一族の三浦義村からの支援を得るために起請文まで交わしたというのに、結局、最終的に三浦義村は裏切って、北条義時側に付きます。とても不可解で、さっぱり理由が分からなかったのですが、この本には、考えられる真相が列挙されていて、それを読んで初めて納得できました。

 まず、三浦義村にとって、和田義盛は、父方の従兄弟に当たりますが、北条義時は、母方の従兄弟でもあったのです。義村が、義盛よりも義時側に付いたのは、三浦一族の中で、義村がトップに立ちたかったからで、侍所別当など大出世している和田義盛は目の上のたん瘤だったというわけです。そういうことだったら、理解できますね。

 鎌倉幕府の初期は、血と血で争う権力闘争で、親子だろうが、兄弟だろうが、従兄弟だろうが関係ありません。むしろ、幕府御家人の幹部連中は、ほとんど全て、政略結構で姻戚関係を結んでいますから、義父だったり、義兄弟だったり、乳母子同士だったりします。

 「古今著聞集」巻十五「闘諍」の中に、寝返った三浦義村が千葉胤綱(千葉常胤の曾孫)から「三浦の犬は友を食らう」(三浦は同族を裏切った)と詰め寄られた話が出てきます。

 それを言ったら、始まりません。初代将軍源頼朝は、平氏滅亡の最大の功労者で、異母弟でもある源義経と源範頼まで自害・暗殺に追い詰めています。

 二代将軍頼家も三代将軍実朝も暗殺され、有力御家人だった「坂東武者」比企能員も、畠山重忠も、梶原景時も北条時政の陰謀で誅殺され、そして、時代は下って、三浦泰村(義村の次男)も五代執権北条時頼によって一族が滅亡され(宝治合戦)、北条氏に対抗できる御家人がいなくなり、北条家の独裁政権が確立します。(ちなみに、時頼は、鎌倉大仏をつくり、蘭渓道隆を招いて鎌倉五山第一位の建長寺を創建した人です。)

 鎌倉幕府の初期は、いつ何時、寝首をかかれてもおかしくないマフィアの抗争みたいな時代です。戦乱と疫病と飢饉で明日のの命も知れず、元寇という国難も起きました。貴族や武士だけでなく、民衆も何か精神的に縋りたいものが欲しいことはよく分かります。だからこそ、浄土宗、禅宗、日蓮宗など鎌倉新仏教が生まれ、彼らに支持され発展したのでしょう。

 運慶、快慶ら仏師が活躍した「写実主義」の時代でもあり、彼らの仏像や作品は今でも感動します。でも、命がいくつもあっても足らない鎌倉時代に生まれなくてよかった、と私なんかつくづく思ってしまいます。