哀れ、明智光秀の最期=ムック「戦国争乱」

 コロナ禍で、結局、休日は「我慢の三連休」になってしまいました。ひたすら、家に閉じこもって勉強をしていました。何の勉強ですかって? フリーランスの個人事業主として必須の簿記関係です。訳が分からなくなって、ここ数カ月、何度も何度も匙を投げ出したくなりました。まさか、この年まで受験生のような勉強をさせられるとは夢にも思っていませんでした。今でもよく分からず、フラストレーションが溜まります。

 そんな勉強の合間、気分転換に読んでいるのが、中央公論新社のムック「戦国争乱」です。今、個人的にも戦国時代への関心、興味が深まっているので、この本は異様に面白いですね。信長、秀吉、家康を中心に「桶狭間の戦い」から「大坂の陣」までの代表的な18の合戦と60人の武将を徹底的に分析しています。何と言っても、戦国時代を日本史の狭いジャンルに閉じ込めることなく、世界史的視野で位置付けているところが、この本の醍醐味です。

 今年6~7月に放送された「NHKスペシャル 戦国~激動の世界と日本~」で、私も初めて知ったのですが、スペインの国王フェリペ二世は、宣教師を「先兵」に使って、日本をメキシコやフィリピンなどと同じように植民地化することを企んでいたといいます。この点について、この本でも詳しく触れられていて、清水克行明大教授によると、日本でのイエズス会の目的は二つあって、一つは純粋なキリスト教の布教。もう一つは、軍事大国日本を先兵にして中国・明の植民地化にあったといいます。イエズス会の創設者の一人イグナティウス・デ・ロヨラは、元々軍人でしたからね。本当は、日本を最初に植民地にする予定だったのが、自前で何万丁も火縄銃をつくってしまう世界最大級の軍事大国だった日本を攻め落とすことができないことを宣教師たちには早々に分かったようで、究極の目的の中国植民地化に切り替えたのでしょう。

 純粋な布教を目指したのは、宣教師ザビエル、巡察師バリニャーノ、司祭オルガンティーノらでした。彼らは、中国植民地化で政治利用を図った日本布教長のカブラル、日本準管区両長コエリョ、司祭フロイスらとの間で確執があったといいます。

 また、昨日22日のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」でもやってましたが、あの歴史的な織田信長による「比叡山焼き討ち」についても詳しく解説してくれています。テレビでも、主人公の明智光秀は、比叡山焼き討ちは、信長の命令で不本意にも仕方なく参戦したように描かれていましたが、この本では違っていました。光秀は積極的に参戦したというのです。

 近年、明智光秀が大津市の土豪和田秀純に送った書状(1571年9月2日付)が見つかり、光秀は内応を約束した秀純には前日の戦勝を報告する一方、敵対する仰木村の民は皆殺しにすると記していたといいます。

 光秀はこの時期、足利将軍家と織田家の両方に仕え、どっちつかずの状態だっため、比叡山焼き討ちに積極的に参戦して、織田家臣として手柄を立てたかったのではないかと推測されています。実際、光秀は信長からその武功を認められ、焼き討ちした坂本の領地を与えられます。

 私も、実際、「明智光秀ゆかりの地」を訪ねて、今月初めに坂本城跡や光秀の菩提寺である西教寺に行ってきたばかりなので、文字だけで想像力が湧きました。

 本能寺の変の後の天下分け目の「山崎の戦い」で羽柴秀吉軍に敗れた明智光秀は、大津の坂本城に逃げ帰る途中の京都市伏見区小栗栖の「明智藪」で、落ち武者狩りの農民によって殺害されます。秀吉は、確保した光秀の首を本能寺の焼け跡に晒し、次いで首と遺骸をつないで粟田口で大罪人を示す磔にしたと、この本に書かれていました。

 この部分を引用することはやや逡巡はしましたが、冷酷な戦国時代の実相だと思われ、敢えて引用しました。明日にも露のようにそこはかとなく消えてしまう命のやり取りをしていた戦国武将と比べれば、今のような平和な時代に生まれた現代日本人の悩みなど本当に取るに足らないものなのかもしれませんね。何度も書きますが、戦国時代に生まれなくてよかった。

伊達政宗の祖先は茨城県人だった=「歴史人」11月号「戦国武将の国盗り変遷マップ」

 「歴史人」11月号(KKベストセラーズ)「戦国武将の国盗り変遷マップ」特集をやっと読了しました。

 不勉強のせいか、知らなかったことばかりです。特に、東北地方の戦国時代の武将は、伊達政宗と上杉景勝と最上義光ぐらいしか知りませんでしたが、まさに群雄割拠で、他にも有象無象の大名がのし上がっては消える弱肉強食の時代だったんですね。

 知っていたはずの伊達政宗にしても、仙台の青葉城の印象が強すぎて、伊達氏は元々の東北人かと思っていましたら、常陸国伊佐庄中村(茨城県筑西市)出身で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の関東御家人として、奥州藤原氏征伐に参戦し、武功として伊達郡を与えられたため、伊達氏を称したというのです。本姓は「中村」だったといいます。伊達者が絢爛豪華な数寄者の代名詞になっているぐらいですから、他の苗字だとピンときませんね(笑)。

 もう一人、「福島」の地名をつくった木村吉清という人物がおります。この人、元々、丹波亀山の足軽か雑兵出身だったといわれ、俄か大名の典型です。信長に謀反を起こした荒木村重に仕え、彼が失脚した後、明智光秀の家臣となり、本能寺の変にも参戦したといいます。山崎の合戦では羽柴秀吉につき、その戦功により5000石を与えられた、と、サラリとこの本に書かれています。でも、よくよく考えてみれば、本能寺の変から山崎の合戦までわずか11日です。こんな短時間で光秀を見限って寝返ったということになりますが、まさに戦国時代だからこそあり得る話なのかもしれません。もしかして、彼は、相当な忍びの間者を擁していて、秀吉の「中国大返し」のことも、細川幽斎・忠興親子が光秀を見捨てたという情報も得ていたのかもしれません。

 木村吉清は、秀吉による「奥州仕置き」で遠征し、「抜群の功があった」としてその60倍も加増されて東北の大大名になりますが、家臣団は浪人・無頼者出身が多く、暴政を敷いたため、地元の葛西氏や大崎氏の残党も加わった一揆で失脚します。一揆の背後で、伊達政宗が糸を引いていたとも言われています。その後、吉清は、嫡男清久とともに、蒲生家の与力として遇されて、信夫郡杉目5万石を与えられ、吉清は、この杉目の地を福島と改名したといいます。

 ちなみに、吉清の嫡男木村清久は、最期まで秀吉の恩を忘れなかったのか、大坂の夏の陣で討死しています。

 ◇尼子の悲劇

 このほか、中国地方で毛利元就・輝元に滅ぼされた出雲地方の大名だった「尼子の悲劇」があります。尼子義久・勝久に仕えた重臣で「尼子三傑」の一人、山中鹿介(やまなか・しかのすけ)は、尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話が有名ですが、今では知る人は少ないでしょう。

 また、戦前の修身などの教科書では、楠木正成・正行父子が訣別する「桜井の別れ」が必ず取り上げられ、知らない人はいなかったと思われますが、「忠君愛国」思想を教育するのにちょうどよかったのかもしれません。このように、歴史の常識というのは、解釈の面で、時代によって変わっていくものだということを思い返し、この本を興味深く拝読致しました。

 それにしても、戦国史ですから、人間の本性が剥き出しです。疑心暗鬼から、離合集散あり、裏切り、寝返り、下剋上ありの何でもあり、しかも殺戮の仕方があまりにも残酷で、つくづくこの時代に生まれなくてよかった、と改めて天に感謝しております。

明智光秀ゆかりの地を訪ねて(下)=本能寺跡~勝竜寺城~明智藪~関ケ原合戦地跡

関ケ原古戦場で甲冑姿で身を包む若武者たち

2020年11月8日(日) 「明智光秀ゆかりの地を訪ねて」の三日目、最終日です。よくぞ茲までついてきて下さいました。読む方は大変でしょうが、書く方はもっと大変なのです(笑)。

 京都市西院のホテルを朝8時半にバスで出発し、10分ほどで「本能寺の跡」(京都市中京区山田町油小路通)に到着しました。

 御池通りを挟んで、京都市役所の真向かいにある本能寺(京都市中京区寺町通御池通下ル)には、私も中学校の修学旅行以来、何度も訪れていますが、ここは初めてです。

 でも、こちらの方が、実際に「本能寺の変」があった本物なのです。

 2005年に出版され、時の小泉首相も感動したということでベストセラーになった加藤廣著「信長の枷」でも詳述されていましたが、ここから西へ歩いて4~5分のところに南蛮寺という伴天連の寺があり、本能寺から南蛮寺に行くことができる秘密の抜け穴があったといわれます。

 この抜け穴は、本能寺の変の時、塞がれていて、信長は脱出できなかったといいます。そして、この秘密の抜け穴の在り処を知っていたのは、羽柴秀吉と徳川家康ぐらいだったことから、本能寺の変の黒幕説として、秀吉と家康の名前も挙がっているのです。(ほかに、光秀怨恨による単独説、四国の長曾我部元親黒幕説、将軍足利義昭黒幕説、朝廷黒幕説などあり、何冊も本が書けます)

 この本能寺は、変の後に、秀吉らによって今の京都市役所向かいの地に移転・再建され、南蛮寺は、秀吉の伴天連追放令で廃寺となります。

 今、「本能寺の跡」地には介護の「デイケアセンター」が建っておりました。碑の本能寺の「能」のつくりは、ヒ(火)が二つではなく、「火よ去れ」という意味を込めて、「去」になっています。

 本物の「本能寺跡」(京都市中京区山田町油小路通)を後にして、現在ある「本能寺」(京都市中京区寺町通御池通下ル)に移動しました(バスで10分ほど)。法華宗大本山です。中学生の頃は、無邪気にも、ここで「本能寺の変」があったと思っていました。

  境内には「信長公廟」がありますが、本能寺の変後、信長の遺骸は見つかっていません。だから、小説などで、信長は、抜け道を通って逃れた、などといった話が描かれるのです。

 本能寺からバスで40分ほど掛けて南西に向かったのは勝竜寺城跡(京都府長岡京市勝竜寺)です。「明智光秀 最期の城」と言われています。

 備中高松城で毛利軍と戦っていた羽柴秀吉は、1582年(天正10年)6月2日の本能寺の変の報せてを受けて、急遽、毛利軍と和睦して「中国大返し」で京に戻ります。これを受けて、光秀は6月13日に摂津国と山城国の境に位置する天王山の麓の山崎での合戦に挑みましたが、兵力に劣り、敗退します。信頼する盟友細川藤孝(幽斎)や筒井順敬らの積極的な支援を得ることができなかったことが光秀にとっての痛恨の極みでした。(明智光秀は「三日天下」と習ったことがありましたが、実際は「十一日天下」でしたね)

 残りの手勢とともに、この勝竜寺城に戻った光秀は、密かに裏門が逃れ、再起を懸けて、自分の城である坂本城(滋賀県大津市)に戻ろうとします。しかし、後からもう一度出てきますが、その途中の明智藪(京都市伏見区小栗栖)で、落ち武者狩りの農民らによって殺害されてしまいます。

 勝竜寺城は1571年(元亀2年)、織田信長の命を受けた細川藤孝が、それまであった臨時的な砦を本格的な城郭につくり替えたものです。

 1578年(天正8年)、細川藤孝の嫡男忠興と、明智光秀の娘玉(細川ガラシャ)との婚礼がこの城で行われたということで、二人の像も城内にありました。

 幽斎と号して文化人でもあった細川藤孝は、この城で、茶会や連歌会、能、囲碁会などを催したと言われます。

 また、これまでの中世の城とは一線を画し、天守や石垣、瓦葺などは後世の城郭づくりに関して、諸国の大名に大きな影響を与えたといいます。

 話は遡りますが、光秀が本能寺の変を起こす一週間ほど前の5月28日、丹波亀山城近くの愛宕神社での連歌会に参加し、

 ときは今 あめが下知る 五月かな

 という意味深な歌を詠みます。

「とき」とは光秀出身の美濃守護土岐氏のこと、「あめが下知る」とは天下に命じる、と解釈する人もいます。しかし、これから自分が謀反を起こすことを連歌会で示唆するわけがなく、こじつけに過ぎないという識者もおります。

 ところで、石垣といえば、大津市坂本の石工集団・穴太衆が有名です。穴太衆と書いて「あのうしゅう」と読みます。もし、御存知なら貴方もかなりのお城通です。粋ですね。

 穴太衆が手掛けた石垣は、安土城、彦根城、竹田城、姫路城などがありますが、現在も、その子孫が「粟田建設」(大津市坂本)として存続しているといいますから驚きです。中国や米国など海外でも石垣づくりや修復を手掛けているそうです。

勝龍寺本堂

 ついでに、勝竜寺城から歩いて数分のところにあり、お城の名前の発祥ともなった勝龍寺にもお参りしました。

 806年(大同元年)、空海(弘法大師)が開基したといわれる真言宗の古刹でした。山崎の合戦(もしくは天王山の戦い)で、この辺りは多くの戦死者が出ていたわけですから、彼らのご冥福をお祈り致しました。

 勝竜寺城(京都府長岡京市勝竜寺)から明智藪(京都市伏見区小栗栖)と呼ばれる明智光秀最期の地を訪れました。バスで1時間ぐらいでしたから、馬なら2~3時間ぐらいだったかもしれません。

 光秀が無念の最期を遂げたのがこの辺りだったと言われます。

 ここは、京都市地下鉄東西線「醍醐駅」から住宅街の狭い道を通って、歩いて20分ぐらい掛かると思います。醍醐といえば、豊臣秀吉が全盛期で最晩年の1598年(慶長3年)4月に豪勢な花見会を開いた醍醐寺があります。何か不思議な縁ですね。

日蓮本宗 本経寺

 実は「明智藪」を450年近くも管理してきたのが、この近くの本経寺さんでした。日蓮本宗で1506年に創建されました。上の写真の通り、境内には「明智日向守光秀公」の供養塔がありました。

 主君信長の逆臣とはいえ、明智光秀は「ゆかりの地」では大変尊崇されていることがよく分かりました。

 でも、光秀の暗殺者たちは、どうやって情報をつかんだんでしょうか?インターネットやスマホがない時代です。当時は、文(ふみ)と立札と口コミぐらいしかないはずですが、情報伝播の素早さには驚くばかり。秀吉軍も光秀軍もお互い間者(スパイ)を養成して相手の動きを探っていたことは確かでしょうが、現代人以上に優秀だったのかもしれません。とにかく命懸けですから。

「明智藪」からバスで1時間ほど、山科から近江へ東を走り、最後の目的地、美濃の「関ケ原合戦地跡地」(岐阜県不破郡関ケ原町)に到着しました。一度は訪れてみたいと思ってましたが、やっと実現しました。

 光秀公暗殺から18年後の1600年10月21日(慶長5年9月15日)、徳川家康軍(東軍)と石田三成軍(西軍)が激突した「天下分け目」の戦場です。

 東軍8万、西軍10万(諸説あり)。わずか半日で決着がついたと言われてますが、もっともっとだだっ広い原野を想像していました。

石田三成陣跡
三成の軍師島左近の陣地跡
家康が敵の大将の首実検をした所

 関ケ原の合戦については、多くの書物が書かれ、ドラマや映画にもなっているので、御説明はいらないかと存じます。

 上の写真の「あらまし」をお読みください。

 歴史にイフはありませんが、「もし西軍の小早川秀秋が裏切らなければ…」「もし西軍の島津義久が薩摩に敵前逃亡せず、最後まで戦っていたら…」などと考えたくなります。

 でも、石田三成が天下を取った政権は想像もつきませんね。三成は、家康のように狡猾ではないので、秀頼公を奉じて豊臣政権を長く続けさせたかもしれません。

 そうなると、首都は大坂で、大坂城が日本の中心。日本の植民地化を狙うスペインや交易で国威発揚を狙うオランダ、幕末に米国の黒船が襲来したらどう対処いたのでしょうか。うーむ、創造力がないのか、やはり、徳川江戸幕府しか想像できませんね。

 以上、3回にわたって「明智光秀ゆかりの地を訪ねて」を報告してきました。歴史物語とも旅行記とも随筆とも、何にも当てはまらない中途半端なリポートでしたが、最後までお読み頂き、誠に有難う御座いました。

関係者や御協力者の皆様にはこの場を借りて、改めて感謝申し上げます。

明智光秀ゆかりの地を訪ねて(中)=西教寺~坂本城跡~丹波亀山城~福知山城

福知山城

 2020年11月7日(土)、光秀ゆかりの地行脚二日目です。

 まず、大津市坂本にある西教寺をお参りしました。明智光秀一族の菩提寺です。

 日本最大の湖、琵琶湖の南部の「ほとり」にありますが、前夜泊まった北部・長浜市の「対岸」にあり、バスで1時間半も掛かりました。

 この大津市坂本は、琵琶湖のほとりであると同時に、比叡山の「麓」でもあります。織田信長は1570年、敵対する比叡山延暦寺の焼き討ちを断行します。家臣である明智光秀は不本意ながらも参戦し、この西教寺も延焼させたといわれます。その後、信長により坂本の地を与えられた光秀は、いち早く、この西教寺を再興するのです。

西教寺総門 坂本城大手門を移築したものと伝わる

 いやあ、思いのほか広い境内でした。聖徳太子が恩師である高句麗の僧慧慈、慧聡のために創建したと伝えられる古刹です。

 さすが全国に400余りの末寺を持つ天台真盛宗の総本山だけあります。

 この唐門の軒に、何と麒麟の彫刻が見られます。明智光秀が主人公のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」はフィクションですが、当時も、架空の動物ながら麒麟の存在を知られていたのかもしれません。

 西教寺境内にある明智光秀一族の墓です。

 我々はこの日の翌日に、光秀が殺害された「明智藪」(京都市伏見区小栗栖)を訪れましたが、光秀の遺骸はここまで運ばれたということなのでしょう。この寺は、先に亡くなった光秀の最愛の妻煕子(ひろこ)さんと実家の妻木家(美濃守護土岐氏の家臣)の墓もありました。

  光秀の墓と比べると煕子さんの墓はとてもこじんまりとしていました。戦国時代は、妻の葬儀に夫は参列しないという風習がありましたが、光秀は旧習を破って参列したと言われています。

 「煕子」という名前は、三浦綾子の小説「細川ガラシャ夫人」で広く知られるようになりましたが、それ以前は「お牧(槙)の方」の名前で通っていたようです。享年も46や36など諸説あります。

 西教寺の本堂です。本堂内には立派な阿弥陀如来坐像(重要文化財)が鎮座されておりました。

 境内の庭園も素晴らしく、一度は訪れたい寺院だと思います。何しろ総本山ですからね。渓流斎のお墨付きです。 

坂本城 本丸跡

 西教寺の後、坂本城に向かいました。この地を信長より下賜された明智光秀が1571年(元亀2年)に築城しましたた。宣教師ルイス・フロイスの著書「日本史」では、「安土城に次ぐ天下第二の城」と評されたらしいのですが、今は全く面影なし。

 石垣も今では琵琶湖の奥底に沈み、よほどの干潮でない限り、見られないそうです。上の写真を見ても、ここに本丸があったことなど誰も想像できないでしょう。看板すらありません。

 なぜなら、ここは今ではタッチパネルなどを製造するITメーカー、キーエンス(大阪市東淀川区)の保養所になっているからです。NHK大河ドラマ「麒麟がくる」が放送される来年2月ぐらいまで、特別許可として私有地を観光客向けに公開してくれているのです。

 ということは、来年2月以降は、関係者以外立ち入り禁止になります。団体ツアーに参加してよかったと思いました。

 キーエンスは「日本一給与が高い」という一流企業ですが、勤務時間も長いという噂がありますね(笑)。

 坂本城の本丸ではなく、二の丸辺りが城址公園になっていました。

 城址公園にはこのように明智光秀の銅像があります(これからも出てきますが、他の城址公園にも結構、明智光秀像がありました)。

 坂本城を築城した頃の光秀は43歳。それぐらいの年齢の頃の像なのでしょう。

上の写真は、坂本城の三の丸あたりにあった碑です。

 ご興味のある方は、説明文もお読みください。

 また、大河ドラマの幟が立ってますね。NHK畏るべし。

 お昼は、びわ湖楽園ホテルの湖国御膳(滋賀県の郷土料理)でした。鮎、近江牛…料理長さんらしき方がメニューを紹介してくださいました。

 鴨肉が美味しかった。関東で食べる鴨は結構堅いですが、こちらはすごく柔らかくてハムのようでした。ご飯もおかわりしてしまいました。

 昼食会場のびわ湖楽園ホテルから西へ50分ほどで、丹波亀山城(京都府亀岡市荒塚町)に到着しました。

 明智光秀が1577年(天正5 年)頃、丹波攻略の拠点とするために築城しました。明治維新後、廃城となり、すかり荒廃してしまい、所有者も転々としたことから、大正期に新興宗教の大本教の教祖出口王仁三郎(でぐち・おにさぶろう=1871~1948)が購入し、大本教の教団本部となって現在に至っています。

 城址公園内には、またこうして明智光秀像がありました。こちらは、逆算すると、光秀49歳ぐらいの時の像と思われます。

 上の写真が、現在の大本教の教団本部です。かつて丹波亀山城の本丸があったところです。

 教団本部の中には書店もあり、出口王仁三郎の主著「霊界物語」全81巻もありました。いつか読んでみたいと思っています。

 というのも、元毎日新聞記者の早瀬圭一氏が書いた「大本襲撃」(2007年初版・毎日新聞社)を読んで感動したからでした。

 こうして、神聖なる教団の敷地を、物見遊山の一般客にも開放してくださることも凄いと思っております。

 ですから、私自身が大本教に入信することはありませんが、全く偏見はありません。

 上の写真の説明文にある通り、出口王仁三郎が大正末にこの地を購入した時、城址の痕跡すらほとんど残っていなかったようです。

 教団信者がそろって、汗水たらして、石を積み重ねて、当時の有り様を復元したようです。

 しかし、大正末から昭和初めにかけて、大本教は二度も時の政府官憲から襲撃され、徹底的に破壊されます。せっかく積み上げた石垣もです。宗教弾圧です。

 上の写真を見ると、石垣は苔むして、明智光秀が築城した450年前の頃のものに見えますが、実は、二度も大本教団本部が破壊されたため、戦後まもなくに復旧復興されたものです。

 それを考えると、あまりにも凄い。出口王仁三郎の明智光秀が築城した亀山城を是が非でも復元したいという執念が伝わってくるようです。

 ちなみに、丹波亀山城のある亀岡市の亀岡駅は、JR山陰本線の快速で京都駅までわずか20分。通勤圏になっているそうです。

 また、この近くの湯の花温泉には、ジョン・レノンと小野洋子夫妻がお忍びで訪れたらしいですね(笑)。

 丹波亀山城を後にして北西に向かったのは、この日最後の予定の福知山城(京都府福知山市)です。バスで1時間5分ほどの距離でした。

 福知山城は天正7(1579)年、丹波を平定した明智光秀が築城しました。明治維新後、廃城となり、石垣と銅門番所だけが残っていましたが、1986年に市民の瓦1枚運動などで三層四階の天守閣が復元されました。内部は明智光秀に関する資料や福知山地方の歴史や文化財を紹介したパネルなどがありました。

 財団法人日本城郭協会による「続 日本の名城100」にも選出されています。スタンプの台帳も家から持ってきたのに、浮かれていたのか、バスの車内に台帳を置いたまますっかり忘れてしまいました。嗚呼、残念!!

 明治になって廃城になっても石垣は残ったということで、光秀時代の石垣です。

 この写真の右上に模様のついた変な直方体の石が見えます。これは何と、墓石から転用されたらしいのです。

 領民をあまり苦しめたくないという明智光秀の配慮で、近場にある、利用できるものは何でも利用しようといった作為の現れのようです。

 主君織田信長を暗殺した逆賊のイメージが強かった明智光秀ですが、地子銭の免除や治水事業など善政を行い、領民たちには優しかった面があり、福知山では今でも光秀を慕う「福知山音頭」が歌い継がれているという話です。

 そこで思い出したのが、「忠臣蔵」では悪役の吉良上野介です。この高家旗本吉良義央は、「悪の権化」のように描かれています。私はもう30年近い昔、彼が治めた吉良町(現愛知県西尾市)を取材で訪れたことがありますが、地元では、灌漑用水を整えたりした領民思いの領主だった、と言い伝えられ、今でも尊敬されていました。

 歴史の解釈って多面的に複層していて、分からないものですよ。一方的、皮相的に見てはいけないという教訓です。

明智光秀ゆかりの地を訪ねて(上)=桶狭間古戦場~織田信長公居館跡~岐阜城~長浜城

岐阜城

 「机上の空論」といいますか、あまり本ばかり読んで知ったつもりになるのも如何なものか、と思い直し、城巡りの現地取材に飛び出しました。

 ちょうど、今年はNHK大河ドラマ「麒麟がくる」で、主人公の明智光秀が脚光を浴び、再評価されていることもあり、それに便乗した団体ツアーに単独で潜り込むことに致しました。

 えっ?こんな東京では新型コロナの感染者290人前後も続出して、第2波襲来、第3波襲来と言われている最悪の時期に? 国賊ものですねえ。

 いえ、違います。むしろ国粋愛国主義者ですよ(笑)。我が日本国政府が強引に推し進めている「Go to トラベル」キャンペーンに身銭を切って参加したのですから。二泊三日の旅行でしたから、1泊に付き1万4000円の支援が頂けることから2泊で2万8000円(その分、旅費代割引かれて8万4000円に)。これに、現地(滋賀県、京都府など)で使える地域共通クーポン計1万2000円分も貰えましたから、合計4万円もの国家予算を拝受しての大名旅行でした。企画した旅行代理店は、非常に気を遣って、参加者には毎朝、健康チェックシートを提出させて検温し、バスに乗るたびにアルコール消毒を義務化しておりました。

 団体ツアーの参加者は18人。一人参加は男女各4人でした。小学校2年生ぐらいのお子様が参加していることには吃驚しました。平日ですから、学校を休んだのかしら? 「長篠の戦い」がどうしただの、と子供らしくない老成したことを漏れ聞いてしまい、怖くなって敬ってずっと遠くに離れておりましたから、どういうお子さんなのか不明ですが。

 それよりもっと驚いたのは、91歳の男性が参加していたことです。「昭和4年2月生まれ。若い頃は、水泳の選手で、古橋広之進と一緒に泳いだことがあるよ。クレージーキャッツの犬塚弘とは同級生だよ」。どこまで真実か分かりませんが、年齢的にはぴったりです。足腰がしっかりしていて、普通に歩いていたので、80歳ぐらいかと思ってました。

2020年11月6日(金)第1日

 最初に訪れたのが、桶狭間の戦いの古戦場です。

 今は住宅街に囲まれた記念公園になってますが、意外にも拍子抜けするほど小さいので吃驚しました(驚いてばかりですねえ)。

 桶狭間の戦いは、明智光秀の主君織田信長が1560年、この地で駿河・遠江・三河の守護今川義元の大軍を破り、天下に名を轟かせた歴史的合戦です。 義元殿、打ち死に。

 当時の信長26歳。小国・尾張の守護代の家臣から成り上がったまだ無名の若造で、対する今川義元は名門中の名門の駿府の守護職である大大名。格式が違います。信長の軍勢は今川の10分の1の2000ぐらいだったと言われますが、奇襲作戦が成功します。合戦当日は雷雨があり、今川軍は刀剣武器を雷から避ける目的で他に収容していたため、戦闘準備に手間取り、それが敗因の一つになったとも言われています。いずれにせよ、今川は、田舎侍の織田の「大うつけ」を甘くみていたことは確かでしょう。

桶狭間で勝った信長は、天下覇者の有力候補として全国デビューしたわけです。

 次に訪れたのが、織田信長公居館跡。岐阜城がある金華山の麓にあります。

 2年ほど前に、この地を訪れたことがありますが、見違えるほど変わっておりました。居館跡らしく整備されておりました。

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」効果なんでしょうね。恐るべし。

大河ドラマ館も見物しました。

ミニチュアの三重塔や居館の庭園なども再現されていました。

 こんな門兵がいる立派な?居館への門など2年前はありませんでしたからね。

 NHKの威力は大したものです(笑)。再び、恐るべし。

 ロープウェイを使って金華山頂上付近にある岐阜城へ。

 元の名前は稲葉山城。信長の舅である斎藤利政(道三)が1539年に本格的な城づくりを始めます。詳細については、上の写真の看板にある説明書をお読みください。

岐阜城 1956年復元

 1567年、信長は、美濃攻略で、稲葉山城を攻め落とし、本拠地を小牧山城からこの地に移転します。その際、古代中国の周王朝の文王が岐山によって天下平定した故事にちなんで、城と町(井ノ口)の名前を岐阜と改名するのです。

 1日目の滞在先は、滋賀県長浜市内のホテル。夕食のメニューは高級料亭並みで、今まで参加した団体ツアーで出た食事の中でも、最高級の部類でした。ビール中瓶907円は、クーポン券で(笑)。

長浜城 1983年復元

 ホテルの目の前が長浜城がある豊公園になっていて、ツアーのコースになっていなかったので、夜、一人で散歩がてら行ってみました。公園内は、足元もおぼつかないくらい真っ暗闇で、人もほとんどいなく、お化けが出て来るような薄気味悪さを感じましたが、7分ほどで辿り着けました。

 長浜城は1573年、浅井長政攻めで戦功のあった羽柴(豊臣)秀吉が信長からこの地を拝領し、築城したものです。1582年の本能寺の変の後は、柴田勝家一族の領地となり、翌年の賤ケ岳の戦いの後は、秀吉の子飼いの山内一豊が入城します。

 山内一豊は妻の方が有名ですが、(笑)小田原征伐の後、掛川城主となり、関ケ原の戦いでは東軍徳川方に与し、戦功により初代土佐藩主となります。

 幕末には第十五代藩主山内容堂が活躍するのは皆様ご案内の通り。

しこりを残した浄土真宗本願寺派と高田派の争い=北陸の戦国興亡史

 昨日も取り上げた「歴史人」11月号「戦国武将の国盗り変遷マップ」特集ですが、全国でも異彩を放っているのが「『北陸』の戦国興亡史」です。文明6年(1474年)、加賀の守護富樫氏の家督相続争いに浄土真宗の本願寺派(一向宗)と高田派が分かれて戦い、弱体化した富樫氏を凌駕して本願寺の「加賀三箇寺(さんかじ)」(本泉寺、松岡寺、光教寺)が北陸の支配権を確立したりするからです。

 宗教とは何か、と思ってしまいますね。この本には軍事的戦略について詳細されていませんが、お寺のお坊さんや門徒たちが、武士という軍事専門集団に互角かそれ以上に戦って勝ってしまうということは、僧兵などという生易しいものではなく、武士と同じような鎧兜で武装し、弓矢や刀剣などの軍備は、武装集団以上だったのかもしれません。(一向一揆は農民だけでなく武士も参戦したようです)

 人を殺めることは仏教の戒律に反するはずですが、破戒してもそれに見合うメリットがあったからなのでしょう。寺院による支配権・自治権を持つということは経済的基盤を確立するということに他ならないからでしょう。寺社領から収穫される農作物を取り立てたり、領民から税を徴収したりしていたに違いありません。

 いずれにせよ、北陸地方は、他の日本各地と比べて、異様です。戦国武将同士だけの戦いではなく、浄土真宗の門徒らが参戦した三つ巴、四つ巴の争いで複層しています。そして、一向宗一揆が強かったのは、門徒たちが「死ねば極楽浄土に行ける」と信じて、命知らずにも勇敢に戦ったせいなのかもしれません。

「北陸」の戦国興亡史を年表風にするとー。

1474年 応仁・文明の乱で東軍に属した加賀の守護富樫政親(まさちか)が、西軍に属した弟の幸千代(こうちよ)と家督争い。本願寺派を味方につけた政親が、高田派の専修寺を味方につけた幸千代を追放。

1475年 越前朝倉孝景、権勢を強めた本願寺派8世蓮如の吉崎御坊を攻め落とす。蓮如、吉崎を去り、山科に本願寺建立。

1487年 富樫政親が本願寺派の弾圧を始めたため、加賀一向一揆が勃発。本願寺派は政親居城の高尾城を落とし、政親自害に追い込む。

1493年 明応の政変。10代将軍足利義稙(よしたね)が畠山政長らを率いて、畠山義豊(義就の嫡男)を追討するために河内に出陣。その間隙に、細川政元が義稙と対立していた足利義澄を11代将軍に擁立。畠山政長、自害。

1506年 本願寺派加賀本泉寺の蓮悟、本願寺派9世実如(蓮如の第8子)の支援を仰ぎ、11代将軍義澄を擁す細川政元の要請で越前侵攻。10代将軍義稙を匿う越前の朝倉貞景、本願寺派と対立する高田派の勝鬘寺、本流院、称名寺などを味方につける。朝倉貞景、不意討ちで本願寺派の門徒を一掃。

1507年 細川政元、暗殺死。政元の養子澄元(11代将軍義澄派)と高国(10代将軍義稙派)の覇権争い。澄元の子晴元が高国を敗死に追い込み、12代将軍義晴を擁立。一向一揆の強大化を怖れた晴元、法華宗と結び、山科本願寺を焼却。本願寺派10世証如(実如の孫)、大坂の石山本願寺に移る。(後に織田信長が石山本願寺を攻略し、その跡地に豊臣秀吉が大坂城を建立することになります)

 以下略

 こうして見ると、同じ浄土真宗でも本願寺派と高田派は敵・味方に分かれて血と血で争う歴史があったことが分かります。

 学生時代の親友T君は神童で、中学校は三重県の地元の名門高田中学に通いましたが、この学校は浄土真宗高田派の学校でした。授業で宗教の時間があり、親鸞聖人の教えは熱心に教えてくれましたが、本願寺の話になると、「そういうものもある」と大変素っ気なかったんだそうです。浄土真宗といえば、西本願寺と東本願寺と築地本願寺ぐらいしか知らない人にとっては驚きです。

 でも、こうして歴史を見ると謎が解けましたね。先生は、550年も昔に起きたこと(本願寺派と高田派専修寺との争い)を忘れていなかったということなのでしょうね。

「戦国武将の国盗り変遷マップ」が面白い=「歴史人」

 今、とてつもない本を読んでいます。本というより雑誌ですが、永久保存版に近いムックです。「歴史人」という雑誌の11月号(KKベストセラーズ)で「戦国武将の国盗り変遷マップ」という題で特集しています。本屋さんでたまたま見つけました。(執筆は小和田哲男静岡大名誉教授ら)

 知らなかったことが多かったので勉強になります。私は、全国の「お城巡り」を趣味にしているので、大変参考になります。

 私自身の見立てですが、日本の歴史の中で、最も興味深い時代は、何と言っても「戦国時代」だと思っています。だから、多くの作家が戦国ものをテーマにしたり、NHK大河ドラマでもしばしば扱われたりするのです。人気面でも戦国時代がナンバーワンでしょう。これに続くのが、「幕末・維新」と「古代史」でこれでベスト3が出そろった感じです。

 そう言えば、「維新の三傑」と言われた人物でも、やはり戦国時代の信長、秀吉、家康の三巨頭と比較されると見劣りします。人間的スケールの大きさが違います。殺すか殺されるか生死の境目で生きざるを得なかった過酷な時代背景が戦国時代の英傑を産んだともいえます(幕末もそうですが)。勿論、個人的には一番生まれたくない時代ですけれど(笑)。だからこそ、憧れのない代わりに、そんな過酷な生死の境を生き抜いた英傑には感服してしまうのです。

 戦国時代とは、応仁の乱(1467年)から大坂の陣(1615年)までの約150年間を指します。まさに下剋上の時代で、食うか食われるかの時代です。臣下にいつ寝首をかかれるか分かりません。本書は「戦国武将の国盗り変遷マップ」と称していますから、時代ごとの勢力地図が示されて、その分布が一目で分かります。

 例えば、小田原北条氏の三代目氏康は、1546年の河越合戦(埼玉県川越市)で勝利を収め、扇谷上杉氏を滅亡させ、古河公方や関東管領家を弱体化することによって、ほぼ関東全域の支配権を確立します。しかし、氏康は1559年に氏政に家督を譲った後は、上杉謙信の侵攻に悩まされ、一時期は、北条氏の関東の領土は奪われて半減したりすることが、マップで一目瞭然で分かるのです。(氏政は後に奪還して北条氏の最大の領地を拡大しますが)

 内容は大学院レベルだと思います。私が学生時代に習った北条早雲は、出自の分からない身分の低い成り上がり扱いでしたが、実は、室町幕府の申次衆という高い身分の伊勢氏出身で、最近(とは言っても数十年前)の研究で、伊勢新九郎盛時(伊勢宗瑞)だったことが認定されました(北条に改名したのは二代目氏綱から)。早雲の姉(または妹)の北川殿が駿河の守護今川義忠に嫁いだことから、早雲も京都から駿府に下り、家督争いになった今川氏のお家騒動に積極的に関わり、氏親~義元の擁立に貢献します。戦乱の絶えない世で、今川家の軍師として活躍し、後に小田原を中心に、今川家をしのぐ領土を拡大していきます。

 一方、九州の戦国武将は、島津氏や大友氏、大内氏ぐらいしか知りませんでしたが、佐嘉(佐賀)城を本拠地にした龍造寺氏が北九州で勢力を誇り、一時「三国鼎立」時代があったこともこの本で知りました。特に、龍造寺隆信(1529~84)は「肥前の熊」の異名を取り、少弐氏(冬尚)を下剋上で倒し、大友氏を破り、島津氏と並ぶ勢力を築きましたが、島津・有馬氏の連合軍との沖田畷の戦い敗れ、滅亡します。(代わりに肥前を治めたのが、龍造寺氏の重臣だった鍋島氏。ちなみに、お笑いの「爆笑問題」の田中裕二氏の祖先は、この龍造寺氏の家臣でしたが、敗退後に田中氏は武士をやめて帰農したことをNHKの番組でやってました)

 また、他の日にNHKで、専門家による戦国時代の最強武将を選ぶ番組をやってましたが、九州一の武将は立花宗茂が選ばれました。えっ?誰? 彼は大友家の猛将、高橋紹運の長男で、同じく大友家の重臣立花道雪の養子になりましたが、関ヶ原の戦いでは西軍に就いたため、改易されました。しかし、余程人望が高かったのか知略を怖れられたのか、二代徳川秀忠の時代に筑後柳川城主に復帰します。でも、この人、この雑誌ではちょこっとしか出て来ないんですよね。大きく取り上げられているのが、島津家の領地を拡大した島津4兄弟の義久と義弘です。この2人なら、さすがの私でも知っています。

 日本史上最大、最高の「成り上がり」は、武士でもない庶民から関白の地位にまで上り詰めた豊臣秀吉でしょうが、織田信長も、尾張の守護斯波氏の守護代の家臣からの成り上がりで、徳川(松平)家康も、三河の守護細川氏の家臣からの成り上がりで、名を残した戦国大名のほとんど(毛利元就、松永久秀らも)が室町時代の権威(守護職)を下剋上で倒して成り上がったことがよく分かります。

 ついでながら、前半で、畠山政就⇒畠山義就、細川勝元⇒細川政元といった明らかな単純ミスが散見し、どうなるかと思いましたが、それ以降はあまり誤植もないようです。

鎌倉日蓮宗寺院巡り=本覚寺、妙本寺、常栄寺、妙法寺、安国論寺、長勝寺、龍口寺

龍口寺の五重塔

 ブログ、ちょっとご無沙汰してしまいましたが、巷では4連休(敬老の日、秋分の日)の真っ最中です。

 コロナ禍とはいえ、こんなチャンスを逃して家に閉じこもっているのも何なんで、以前から計画していた鎌倉の日蓮宗寺院巡りを決行してきました。

 平安末期から鎌倉時代にかけてのこの時期は、日本史の中で最も瞠目すべき時代かもしれません。浄土宗、浄土真宗、時宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗と次々と鎌倉仏教と呼ばれる新宗教が生まれたからです。

 時代は公家社会から武家社会に移り変わり、戦乱と飢饉と疫病が流行り、社会的に不安定な時代で、多くの民衆が救いを求めたからに他ならないことでしょう。

 古都・鎌倉にはこれら鎌倉仏教の寺院がいまだに多く残っているのでお参りするのに最適です。

本覚寺 本堂

 今回は取り敢えず、日蓮宗の寺院に絞ってみました。JR鎌倉駅からほど近い所に主要寺院が集中していて参拝しやすいからです。

 まずは、永享8年(1436年)に創建された本覚寺です。鎌倉駅東口を出て若宮大路を渡り、郵便局の細い道を進むとすぐ到達します。駅から5分ぐらいでしょうか。

 本覚寺については、上の写真の看板の説明にある通りです。拝観は志衲。

本覚寺

 上の説明文にある通り、二代目住職日朝上人が、甲斐の身延山から日蓮聖人の遺骨をこの地に納めたことから「東身延」とも呼ばれています。

本覚寺

 本覚寺は、もともと源頼朝が戎神を祀った戎堂でした。

 上の写真の八角形の建物は近年復興したものですが、配流先の佐渡から戻った日蓮がこの戎堂に滞在していたといわれています。

日蓮上人辻説法跡

 次に向かったのが「日蓮上人辻説法跡」です。本覚寺から、車がクラクションを鳴らしてくる小町大路を北進して、迷わなければ歩いて3分ほどで行けます。

 現在の鎌倉は、道が狭く車が多いという、人に優しくない、あまり「いけ好かない」所になってしまいましたが、当時は車なんかないので、この程度の道幅でも十分機能していたことでしょう。

 そして、この辻説法跡は、市内でも最も人通りが多い繁華街の一つだったはずです。安房から出てきた日蓮がここで辻説法を始めたと、上の看板に書かれていますが、石碑などがある場所は鉄の柵で囲まれて入れないようになっていました。信徒にとって、ここは「聖地」だからという理由です。

 念じれば、日蓮聖人が辻説法している姿が浮かび上がってきそうな歴史的スポットでした。(と思ったら、日蓮は辻説法などしなかった、という説もあるようです。何だかよく分かりません)

妙本寺

次に向かったのが「妙本寺」です。迷わなければ、辻説法跡から歩いて7~8分で行けます。拝観志衲。

妙本寺の縁起については、上の説明文に書いてある通りですが、もともとは、頼朝の重臣・比企一族の屋敷跡でした。

 源頼朝が成立させた鎌倉幕府は、関東の御家人、つまり坂東武者によって支えられました。現在、埼玉県比企郡として名前を残す比企能員(ひき・よしかず)を始めとする比企一族も、有力御家人の一つでした。その当時の御家人の勢力がどれくらい大きかったのか、この妙本寺、実は比企一族の屋敷跡の広大な敷地を訪れて初めて分かりました。やはり、現地を見なければ分かりませんね。あまりにもの広さに圧倒されました。

妙本寺

 しかし、比企一族は北条氏によって滅ぼされました。乱から逃れ、辛うじて生き残った末子の比企能本(ひき・よしもと)が日蓮聖人と出会い、屋敷を献上して1260年に法華堂を創建したのが、この妙本寺の始まりだと言われています。

妙本寺 祖師堂

 鎌倉の有力御家人を調べてみると、北条氏などによって滅ぼされたのは、比企能員(ひき・よしかず)だけではないんですね。石橋山の戦いで頼朝の危機を救った梶原景時も、奥州合戦で活躍した畠山重忠も、侍所初代別当だった和田義盛も、評定衆の三浦泰村も安達泰盛も、ほとんどやられて、生き残ったのは足利氏ぐらいじゃないかと思わせるぐらいです。

 「いざ、鎌倉」と何かあれば駆け付けた坂東武者のイメージが強った鎌倉時代でしたが、北条執権の全盛時代は、ほとんど関東武士は淘汰されてしまっていたんですね。

常栄寺 (ぼたもち寺)

次に向かったのが、「常栄寺」、別名「ぼたもち寺」と呼ばれています。拝観志衲。

 日蓮は、法華経を広めるために、「真言亡国(しんごんぼうこく)、禅天魔(ぜんてんま)、念仏無間(ねんぶつむけん)、律国賊(りつこくぞく)」と他の宗派を激しく断罪し、災害や疫病の蔓延などに無策な幕府も批判したことなどから、刑に処されることになります。市中引き回しされた上、刑場の瀧の口へ向かう途中で、一人の老婆が日蓮に胡麻入りのぼた餅を捧げたことから、この寺が創建されたという言い伝えがあります。

妙法寺 総門

 次に向かったのが妙法寺です。

 常栄寺から八雲神社を通ると、車の往来の激しい通りに出て、迷わなければ10分ほどで着きます。

妙法寺 本堂

 妙法寺は、鎌倉の寺院を訪れるとしたら、最もお薦めしたい寺院の一つでした。拝観料300円。土日、祝日のみ開門のようですので要注意。

 妙法寺は、上の説明文にある通り、日蓮聖人が安房から鎌倉に入り、最初に草庵を結んだ由緒のある寺院で、信徒には欠かせない聖地でした。

妙法寺 苔石段

 境内は奥行きがあって、意外にも広く、上の写真のように、有名な苔の石段があり、息を切らして登って行かなければなりません。

妙法寺

 石段を登った中腹に、このような「松葉ケ谷御小庵跡」があります。登るだけで、結構、修行になります。

 当時は、飲み水や食べ物はどうしていたのだろう、と思いを馳せました。

妙法寺

 このまま下に降りようとしましたが、この「松葉ケ谷御小庵跡」の上に護良(もりなが)親王のお墓があるというので、お参りしなければなりません。また、息を切らせて急こう配の石段を登って辿り着きました。

 妙法寺は、後醍醐天皇の皇太子、護良親王の菩提を弔うために、その子息である日叡上人が中興の祖と言われています。

安国論寺

 次に向かったのが、安国論寺です。妙本寺から数分です。拝観料は100円以上となっていました。

 ここで、日蓮聖人が、あの有名な「立正安国論」を執筆したと言われています。

 コロナ禍の現在、国家だけでなく、世界中の人々の安寧を、ここでもお祈りしました。

長勝寺

 次に向かったのが、長勝寺です。安国論寺から横須賀線の踏切を渡って、歩いて5分ほどです。拝観志衲。

長勝寺 本堂

 長勝寺も、妙法寺、安国論寺と並び、日蓮聖人が松葉ケ谷で結んだ三大草庵の一つだと言われています。

 この地の領主・石井長勝が日蓮聖人に帰依して、日除と名乗り、弘長3年(1263年)に邸内に法華堂を建てたのが始まりだと言われています。

長勝寺 日蓮聖人像

 この日蓮聖人像は特に有名なんだそうです。

 さて、他にも日蓮宗寺院はたくさんありますが、この長勝寺を最後に鎌倉駅近くの日蓮宗寺院巡りは打ち止めにし、バスで鎌倉駅に戻りました。長勝寺から駅まで歩いても30分か40分ぐらいでしょうけど、少しズルしました(笑)。

小町通り とんかつ「小満ち」

 寺院巡りをしている間は、ほとんど人がいないので快適でしたが、鎌倉駅に戻ると驚くほどの人、人、人。ほとんどの人たちは、若宮大路や小町通りを通って、鶴岡八幡宮へ参拝するものと思われます。コロナ禍なのにどうしたことでしょう。4連休なので、アヴェック(死語)も家族連れも繰り出したのです。東京・表参道の竹下通りのような混雑でした。

 バスから降りて、私が目指したのは、小町通りにあるとんかつ屋さんの「小満ち」です。川端康成、里見敦、小林秀雄ら鎌倉文士のお気に入りの店だったらしいので、物見遊山気分で行ってみたのです。(そう言えば、鎌倉文士は有名ですが、浦和画家を知らない人が多いですね。関東大震災後に芸術家たちが郊外に移転し、「鎌倉文士に浦和画家」という言葉が流行ったのです)

 昼時だったので、店内は混雑していて、しばらく外で待たされました。

 注文したのはかつ重(1000円)とグラスビール(400円)で、税込み1540円。とんかつは、今まで食べた中で、一番上品で優しい味でした。実に旨い。いつかまた来た時は、とんかつ定食にチャレンジしようかと思いました。

龍口寺

 最後に向かったのは、鎌倉時代の処刑場、龍の口です。

 鎌倉駅から江ノ電に乗って、江ノ島駅で降りて、数分の所にあります。

龍口寺

 鎌倉駅から江ノ島までの江ノ電は、めっちゃくちゃ混んでいました。30分ぐらい掛かったでしょうが、満員で、ずっと、ぎゅうぎゅうといった感じでした。コロナ禍なのに、こんなんで大丈夫なんでしょうか?

龍口寺

 処刑場跡に建てられたのが、龍口寺です。拝観志衲。

 日蓮聖人がここで処刑されようとする寸前、雷鳴が光る奇跡が起こり、聖人の処刑が中止された法難の地ですが、ここに改めて寺院が創建されたのです。

龍口寺 本堂

 詳しい龍口寺の縁起については、上の看板の説明文に書かれていますので、ご参照ください。

龍口寺

 どういうわけか、龍口寺に建てられた日蓮聖人の像は、他と比べて、柔和で穏やかな感じがします。

 処刑されようとした地なのに、何とも不思議です。

龍口寺

 な、何と、龍口寺には五重塔がありました。

 上の説明文にある通り、明治末に建てられたようですが、信仰の深さを感じました。

龍口寺
龍口寺

 最後に龍口寺境内にある「御霊窟」をお参りしました。

 龍の口法難の際、日蓮聖人が囚われて、一晩、この洞窟に幽閉されたといいます。人、ひとりが立ってもいられないほど狭い洞窟で、さぞかし窮屈だったことでしょう。

 熱烈な信徒の皆様から怒られるかもしれませんが、ここで歴史上に実在した人間日蓮に出会えたような気がしました。今回は、随分、中身が濃いお参りができました。

 帰りは、生まれて初めて、龍口寺から程近い湘南江ノ島駅から湘南モノレールに乗って大船駅まで行って、帰宅しました。江ノ電は混んでいましたが、湘南モノレールは空いていてゆったり座れました。

 心配事ばかり多い毎日でしたが、お参りすることで、ほんの少しだけ心が和らぐことができました。

 合掌

 南無妙法蓮華経

いざ鎌倉への歴史散歩=覚園寺、鎌倉宮、永福寺跡、大蔵幕府跡、法華堂跡、浄妙寺、報国寺

鎌倉「覚園寺」

 8月9日に栃木県足利市の「足利氏館」(日本の100名城)に行ったお話を書きましたが、その時、「こりゃあ、しっかり鎌倉幕府のことを勉強して、鎌倉に行って実地調査しなければ、日本の歴史なんか少しも分からないなあ」と実感しました。

 足利氏は室町幕府を開くほど天下一の氏族となりましたが、もともとは、鎌倉幕府を開いた源頼朝の有力御家人として出世街道を昇り始めたからです。武家社会700年の最初を切り開いた鎌倉幕府を知らなければ、日本史は分からないと悟ったわけです。

 そこで、「いざ、鎌倉」ですが、見るべきところがあまりにも多過ぎます。歴史散歩にしても、寺社仏閣巡りにしても、掃苔趣味(偉人のお墓参り)にしても、全部回るとなると数年掛かるかもしれません。何しろ、中世の日本の首都だったわけですからね。

 そこで、今回は「歴史散歩」に絞ることにしましたが、最初に目指したのは、覚園寺(かくおんじ)です。お出掛けしたのは、熱中症危険情報が発令された8月11日(火)の夏休みです。

 この寺は、いつぞや、鎌倉の画廊で個展を開催されていた加藤力之輔画伯から、是非行くように勧められていたからです。(加藤画伯は現在、京都泉涌寺の宿坊にお住まいですが、鎌倉出身です)

 真言宗泉涌寺派鷲峰山(じゅぶさん)覚園寺は、二代執権北条義時が1218年に建てた薬師堂が前身になっている、と上の看板にも書かれていますね。

覚園寺 愛染堂

 再来年2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、この北条義時が主人公らしいので、ブームになる前に一度お参りしたかったのです。でも、何で、北条義時が主人公なんでしょうかね? 北条氏なら、御成敗式目を制定した北条泰時や二度の元寇を食い止めた北条時宗の方が有名なような気がしたからです。

 でも、義時も源頼朝の挙兵以来絶えず傍に仕え、頼朝の死後も将軍を補佐して屋台骨を支え、承久の乱でも後鳥羽上皇軍を破ったりしてます。ま、いずれにせよ、世間でまた鎌倉幕府が注目されることは大いに楽しみです。

覚園寺 本堂 薬師堂

 で、肝心の覚園寺ですが、普段は案内人の方が境内を色々と御紹介してくださるようでしたが、コロナ禍で、この薬師堂だけ辛うじてお参りすることができました。恐らく地蔵堂と思われるお堂は工事中で、間違えてお堂の前をうろついていたら、「ここには入らないでください」と関係者に怒られてしまいましたよ。入口に紐の柵でもしてあれば入らなかったんですけどね。多分、大河ドラマのロケ撮影のために綺麗にしているのかもしれません。でも、覚園寺の印象が悪くなりました。

 ただ、1354年に再建された本堂薬師堂の薬師如来像と日光、月光菩薩の薬師三尊は、国宝級でした。そして、その周囲に配置された十二神将も…。撮影できないのが残念でしたが、やはり、茲はお参りの価値はあります。

 実は、覚園寺に参る際、JR鎌倉駅東口から「大塔宮」行きのバスに乗りました。

 親譲りの無鉄砲で旅の計画を立てるのが苦手で、大雑把な予定しか組んでいなかったおかげで、随分と時間をロスしてしまいました。鎌倉駅には午前10時15分頃には着いていて、10時25分のバスに簡単に乗れていたのですが、駅でふらふらしたり、ちゃんと停留所の場所を調べていなかったので、目の前で発車してしまいました。次のバスまで20分、炎天下で待ちましたよ。

 大塔宮とは、鎌倉宮のことで、由緒は上の看板の通りです。

 学生時代の畏友刀根君は、20代から30代の大半を北鎌倉に住んでいて、鎌倉博士の異名を取っていたので、彼に、事前に、鎌倉のお薦めを聞いていたのですが、この鎌倉宮も入っていました。他に妙法寺、海蔵寺、杉本寺などもありましたが、今回は「歴史散歩」なので、残念、次回に回すことにしました。

永福寺跡

 鎌倉宮をお参りした後、是非とも、訪れたかったのが茲でした。永福寺と書いて「ようふくじ」と読みます。鎌倉宮の北、歩いて10分ほどにあります。途中で、けもの道みたいな狭い草茫々の道を歩きます。

 源頼朝は1189年、敵対する平泉の奥州藤原氏を攻め落とし、ようやく「全国統一」を果たします。

 奥州から鎌倉に帰ってきた頼朝は、自分たち幕府の政庁(大蔵幕府)の東に、この永福寺を建てます。前庭に池を張り巡らせ、攻め落とした平泉の毛越寺に大変良く似た設計だったと言われています。

永福寺跡

 建物は、薬師堂と二階堂と阿弥陀堂があり、迎賓館として使われた可能性もあるようです。

 識者によると、滅ぼした奥州藤原氏に対する霊の鎮魂の意味も込めていたと言われます。

 最近、発掘が進み、こうして整備されています。観光客は一人もいませんでした。鎌倉駅には多くの人がいましたが、恐らく、彼らは鶴岡八幡宮や小町通りに行くのでしょう。

 変わり者と言われようが、私は一人だけ、永福寺の遺構を眺めて色々と往時を偲び、感動で打ち震えておりました。やっぱり、変わってるかなあ…(笑)。

雪ノ下「八重寿し」 生バラちらし丼 1150円

 正午を過ぎたところで、早くもお腹が空いてきました。

 「岐れ道」交差点の近くにあった「八重寿し」に入りました。実は、この店は、ガイドブックに出ていて、事前にチェックしていたお店の一つだったのです。このガイドブックには地図が満載され、歩き回るのにもってこいです。しかし、やたらとレストランや土産物店も載っています。もしかしたら、こういうガイドブックというのは、お店から広告料をとって掲載しているのかしら、と疑ってみたくなりました。そう言えば、ネットの「グーグルマップ」なんて、お店情報だらけですよね。とても、タダで掲載しているとは思えない。クライアントになったことがないので裏の事情は分かりませんが、もしお分かりの関係者の皆様からの匿名情報があれば、お待ちしております(笑)。

 で、ここの「生バラちらし丼」ですが、実に美味、旨かったでした。鎌倉は観光地なので、銀座並みの値段でしたが、釣り合いは取れていました。ただ、ご飯の量があまりにも少ない、底が見えるくらいです(まさか)。一言、皮肉でも言いたかったのですが、店の50代後半に見える大将が機嫌悪く、ムスッとして話しかける雰囲気もなし。細かいことで、店の若いもん(とは言っても40代か?)を叱ったりしていたので、食べ終わるとそくさと出ました。「このガイドブックに出ていたのですが、掲載料を払ったんですか?」と聞いてみたかったなあ(笑)。

大蔵幕府旧跡

 お昼を食べて、少しは元気を回復したので、また、炎天下を歩きました。しっかりイタリア製の高級帽子ブガッティは被ってます。

 目指すは「大蔵幕府跡」です。

 ここに、源頼朝以来三代将軍と政子が46年間、政務を行った政庁社と住まいや寝殿などがあったのです。

 鎌倉幕府の政庁社の敷地のほとんどは、今や、清泉小学校になっています。ちょっと調べたら、この清泉小学校の創立母体とは、スペインの「聖心侍女修道会」なんですね。ということは、カトリックの私立学園ということになります。まあ、まあ、驚くばかりです。まさか、平城京跡に私立学校は建てられないでしょう?

 上の写真にあるように、大蔵幕府跡の碑は大正6年に鎌倉町青年会によって建立され、その解説を清泉小の子供たちの「自主研究」と思われる「成果」が貼られています。読みにくいですが、是非お目をお通しください。

 鎌倉に来て、そして、その前に鎌倉のガイドブックや資料を読んだりして、鎌倉幕府なのに、何で、薩摩藩の島津氏や長州藩の毛利氏が当たり前のように出てくるのかと思っていたら、勉強不足でした!

 まず、薩摩藩(鹿児島県)の島津氏。本姓は惟宗(これむね)氏で、始祖忠久は近衛家の家司(けいし)出身で、源頼朝の有力御家人になった人でした。島津氏は、後に薩摩・大隅・日向三国の守護になるわけです。

 そして、長州藩(山口県)の毛利氏。始祖は、何と大江広元(学者出身の鎌倉官僚)の四男季光(すえみつ=鎌倉幕府御家人)だったのです。大江氏一族は季光の四男経光のみ残りますが、毛利氏は安芸国の国人になるわけです。

 ということは、薩長という幕末の雄藩の藩主は、武家社会の始祖である鎌倉幕府からほとんど変わっていない名門の氏族だったということになりますね。ですから、これも、鎌倉幕府を知らなければ、日本史をよく理解できないという一つの例になります。

 この後、法華堂跡を訪れました。

 源頼朝、北条義時、大江広元、島津忠久のお墓があるからです。

 彼らがいなければ、鎌倉幕府は成立しなかったわけであり、逆に言えば、彼らのお墓参りすることによって、鎌倉幕府の存在を実感することができるわけです。

源頼朝墓

 源頼朝の墓は、小高い山の中腹にあります。

 年を取ると、長い階段を昇って、ここまで辿り着くのが結構大変で、息が早くなりました。

 お墓の近くで、若いアベック(死語)がイチャイチャしていたので、「何でこんな所で?」と、嫌あな気持ちになりました。

 下に降りて、白旗神社の近くにある小さな公園に日陰になったベンチがあったので、ここでペットボトルのお水を飲んで少し休憩。さ、これから何処に行こうか?とガイドブックと睨めっこしました。無計画ですからね(笑)。

 9日に「足利氏館」に行ったばかりなので、足利氏所縁のお寺に行くしかない!ということで浄妙寺を目指しました。臨済宗建長寺派。鎌倉五山の第5位です。

 熱中症になりかねないほどの炎熱下を、車の通りが異様に多い金沢街道の狭い歩道を歩きましたが、しっかりとした道しるべがないではありませんか!!

 あまりにも遠いのでおかしいなあ、と思い、途中でガイドブックの地図で確かめたら、そこは青砥橋で、10分近く余分に歩いてました。また引き返したら、浄明寺バス停近くに浄妙寺の駐車場があり、申し訳程度に表示がありました。でも、これじゃあ、後ろを振り向かなければ分かりません。「不親切だなあ」と確信した次第。

浄妙寺 本堂 拝観料100円

 この上の写真の浄妙寺本堂の空の青さと影の濃さをご覧頂ければ、少しは炎天下の暑さが分かってもらえるかもしれません。

 浄妙寺は、足利義兼(よしかね)が1188年に創建しました。足利義兼は、「八幡太郎義家」こと源義家のひ孫で足利氏二代目。9日に行ったあの栃木県足利市の足利氏館をつくった人と言われておりますから、また会いに来た感じです。義兼は頼朝の忠臣で鎌倉幕府御家人でしたから、地元の足利市よりも鎌倉にいる方が多かったことでしょう。それとも、「いざ、鎌倉」で、あの足利からかこまで駆け付けたのでしょうか?

 本堂の裏手には、室町幕府を開いた足利尊氏の父貞氏(さだうじ)のお墓があるので、お参りしてきました。このブログの「足利氏館の巻」でも書きましたが、足利貞氏は、上杉重房の孫の清子と結婚して尊氏らをもうけ、上杉氏と縁者になるのでしたね。

 最後に訪れたのが浄妙寺の向かいにある報国寺でした。浄妙寺と同じ臨済宗建長寺派でした。

 看板にある通り、足利尊氏の祖父家時が1334年に創建し、足利、上杉両氏の菩提寺として栄えたとあります。

報国寺 孟宗竹の竹庭 拝観料300円

 本日お参りしたお寺の中で、一番、広く、落ち着いて、京都の寺院と同じような雰囲気があり、大変気に入りました。

「いざ鎌倉への歴史散歩」は、無計画だったとはいえ、大変充実したものになりました。また、鎌倉には行きます。何回も行くことでしょう。次回も楽しみです。

足利学校~「日本100名城」足利氏館・鑁阿寺漫遊記

鑁阿寺(ばんなじ)本堂(国宝)

相も変わらず、コロナ感染者は増え続けていますが、本日(8月9日)は意を決して、城巡りの旅に出掛けてきました。家の中で本ばかし読んでいては駄目ですからね。

 鎌倉幕府の有力御家人で、尊氏の時代に室町幕府を開いた足利氏館(あしかがしやかた=栃木県足利市)が「日本の100名城」だということを知り、34度の暑さもものかは。是が非でも行きたくなってしまったのです。

 自宅の最寄り駅から片道2時間ちょっとで行けるのも魅力的でした。

JR両毛線足利駅は、生まれて初めて降りました。

 駅の時刻表を見たら、何と、1時間に1本しか運行していませんでした。北口と南口があり、どちらを降りたら目的地に行けるか確認したかったのですが、構内には目立つ看板は何処にもありませんでした。

 改札口の駅員さんに聞いて、北口で降りました。「小京都」と呼ばれているわりには、駅前商店街もなく、哀しい哉、寂れていました。

 最初に目指したのは、「日本最古の学校」と言われている足利学校です。

 駅から徒歩10分ほどで行けます。

 足利学校といえば、この写真が教科書などにも載っているし、一番有名でしょう。

 いいですねえ。

 私の世代の言葉で言えば「いけてます」。

 足利学校の創設については、諸説あります。

 奈良時代に、郡司や地方豪族の子弟の役人養成学校のためにつくられたとか、平安時代に小野篁(おのの・たかむら)によって創設されたとか、鎌倉時代に足利氏二代目の足利義兼がつくったとか(足利義兼は、この後に出てくる「足利氏館」を創建したという説もあり)色々ありますが、歴史的に明らかになっているのは、室町時代、関東管領上杉憲実(のりざね)が再興したことです。

 憲実は、現在国宝に指定されている書籍を寄進し、鎌倉五山派の僧快元を初代の痒主(しょうしゅ=学長)として招聘します。

孔子像

 天文18年(1549年)、フランシスコ・ザビエルによって「日本国中最大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介され、「学徒三千」とまで言われたそうです。

 ついでながら、足利学校を再興した上杉憲実は、室町時代の関東支配トップの「鎌倉公方」を補佐する「関東管領」でした。それが、将軍足利義教(よしのり)と鎌倉公方の足利持氏(もちうじ)が対立するようになり、当初は憲実は調停に努力しますが、結局、幕命により持氏を討伐します(永享の乱、1438~39年)。その後、憲実は出家し、足利学校を再興します。もともと、学問を好む人で、諸国行脚して西国で没したと言われます。

 また、ついでながら、上杉氏が何で関東支配のナンバー2になれるほどの権力者になれたかというと、室町幕府を開いた足利尊氏の生母清子が上杉重房の孫だったからでした。

 この上杉重房という人は、もともと藤原氏の分家である観修寺家でしたが、丹後の上杉荘(現在の京都府綾部市)を支配していたことから、上杉氏を称することになります。

 観修寺重房から上杉重房になった彼は、1252年に、当時の都・鎌倉に移り住みます。そして、重房の孫清子が足利貞氏に嫁ぎ、尊氏を生むわけです。

 関東管領になった上杉氏はその後、山内(やまのうち)、扇谷(おおぎがやつ)など四家に分裂し、先日、このブログの「川越城の巻」で取り上げた河越合戦(1545年)で、小田原の北条氏康によって扇谷上杉氏は滅亡し、越後に逃れた山内上杉氏も長尾景虎(後の上杉謙信)に上杉姓と関東管領を譲り、滅亡してしまうのです。

足利学校 南庭園

 滅亡させられた上杉氏にとっては皮肉なことに、火災などによって荒廃した足利学校は、この北条氏康によって、また再興されるわけです。でも、弱肉強食の戦国時代ですから、私なんか、もっと小田原の北条氏康は再評価されるべきだと思っています。

 江戸時代になると、全国から青雲の志を持った心ある多くの若者が足利学校を訪れます。主な著名人は、林羅山、谷文晁、渡辺崋山、吉田松陰、高杉晋作らです。

 足利学校から今回の主目的である「足利氏館」に向かいました。

 途中で、いわゆる茶店や有名蕎麦店(長い行列が並ぶ相田みつをゆかりの「なか川」)などが並び、ほんの少し観光地らしい雰囲気です。

 戦前の皇国史観では、足利尊氏は賊軍の象徴のような悪者扱いでしたが、戦後になってようやく、次第に、中立に歴史的にも判断されるようになりました。良いことだと思っています。

 大変失礼ながら、よくぞこのような寂れた所から全国を統一する野心家というか偉人が出現したものだと感心してしまいました。言い過ぎでした。当時は栄えて華やかだったことでしょう。地元の皆様ゴメンナサイ!

 そもそも、足利氏は、「八幡太郎義家」で知られる清和源氏、源義家の孫義康が足利に本拠地を置いたと言われますから、血統は申し分ないのです。(山川出版「日本史小辞典」)

 さあ、いよいよ、その足利氏が本拠地を置いた「足利氏館」です。

 でも、あれっ?お寺みたいですね。

 金剛山鑁阿寺ですか…。鑁阿寺? 「ばんなじ」なんてとても読めませんね。

 案内の看板には、「平安後期、八幡太郎義家の子、義国、その子足利義康(足利氏祖)の二代にわたって堀と土手を築いて邸宅としました」と書かれています。

 が、私の持っている「日本100名城 公式ガイドブック」では「創築者は、足利氏二代目義兼説が有力である」と書かれています。

 何だか分からない。。。

 建久7年(1196年)、義兼が館内に持仏堂をつくり、これが鑁阿寺という足利氏一門の氏寺となって現在に至るわけです。

 真言宗大日派なので、弘法大師空海像が館内にありました。

 はい、この通り、本堂は国宝でした。

 こちらに足を運んでお参りしないと、実物にお目にかかることはできません。

 御本尊様は大日如来のようですが、残念ながら、特別な人しか本堂の内部に入れないので、よく見えませんでした。

 真言宗なので、「南無大師遍照金剛」と唱え、コロナの逸早い終息をお祈りしました。

 本堂の西にある経堂です。重要文化財に指定。万巻のお経が収められていると思われます。

 こちらは、多宝塔です。

 2年前に、真言宗の総本山、高野山金剛峰寺の根本中堂をお参りした時、このような多宝塔を多く拝見したので、少し懐かしくなりました。

 上の看板をよくお読みください。

 「徳川氏は新田氏の後裔と称し」たとありますね。武家社会の始まりである鎌倉幕府と足利氏や新田氏らを含めた東国武士団とも呼ばれた鎌倉の御家人のことをもっと勉強しなければ、日本史は何も分からないと思いました。

 いざ、鎌倉に行かなければ、と気がせきました。夏休みになったので、後日、鎌倉巡りを計画しています。

 鑁阿寺の鐘楼。建久7年(1196年)建立とありますが、本当ですかね?一度も火災に遭っていなければ、重文でなく、国宝でなければおかしい気がします。

 まあ、何処から見ても、ここは「弘法大師御霊場」であるお寺ですね。城巡りに来たつもりなんですが…。

 東門にありました、ありました。「史蹟 足利氏宅址」ですか…。館(やかた)でなくて宅でいいんでしょうか…(笑)。

 やはり、こちらも足利氏宅跡ですね。何か、足利さんちのお家って感じなんですが…。

 ひ、ひ、控えよ、何と心得ておる。天下の征夷大将軍足利氏の館であるぞよ、と怒られそうです。

 最後にやっと、城址らしい雰囲気を見つけました。

 お堀と土塀…中世の城らしい雰囲気です。石垣は後世になってつくられたような気がしますが、あまり自分の意見を勝手に言うと専門家に怒られるのでやめておきます(笑)。

 旅の途中で、有名な釈正道和尚から「無事帰還」を案ずるメールを頂戴仕りました。有難いことです。熱暑の中、無事に帰宅でき、こうしてブログを書くこともできました。