京都・西陣は千本釈迦堂の大根炊き

京都・西陣「千本釈迦堂」©️Kyorakusakio

京洛先生です。

最近、どういうわけか《渓流斎日乗》では、滋賀県の大津農林水産通信員とやらが、幅を利かせておられるようです。

が、「元祖」「本家本元」はこのアタシだということを、読者諸兄姉の皆々様方にはよおく御理解、御芳情、御鞭撻の程、宜しく賜わりたき次第にて存じまする。

京都・西陣「千本釈迦堂」©️Kyorakusakio

◇12月8日は臘八大接心

あ、さて、12月8日は、何の日かご存知ですか? 「米国がイスラエルの首都をエルサレムに宣言して、パレスチナで紛争が激化している?」「富岡八幡宮の女性宮司が弟(前宮司)に殺された?」。
それも大きな事件でしたが、仏教徒の始祖、お釈迦様、釈尊、仏陀が悟りをひらかれた「成道会(じょうどうえ)」(12月8日)です。禅宗では「臘八大接心(ろうはつ おおぜっしん)」と言って、12月1日から8日まで僧堂できびしい修行に勤しみます。

◇応仁の乱の舞台で大根炊き
京都・西陣の一隅にある「千本釈迦堂」では、その「悟り」にあやかり、毎年開いている「大根焚き」の日です。鎌倉時代から続いていて、今では、洛中の冬の風物詩にもなっています。
同寺は、仮寓のそばでもあり、今日はその盛況ぶりを覗いて来ました。
通称”千本釈迦堂”。正しくは「大報恩寺(真言宗智山派)」は、あの「応仁の乱」でも、唯一、焼け残った洛中の最古の建造物であり、本堂は「国宝」になっています。

京都・西陣「千本釈迦堂」©️Kyorakusakio

貴人も数年前に、大根炊きを食べに見えたでしょう。本堂の横の「宝物館」の運慶、快慶らの重文の仏像の見事さにびっくりされたりしましたが、例のあの椿事もこの境内でしたね。

◇この紋どころが見えぬか!
緋毛氈の敷かれた床几に腰を掛け、出来立ての温ったかい大根焚きを食べていると、大阪からやってきた、さる民放の報道クルーが、迂生に「取材に応じてくれませんか」と頼みに来ました。
こちらは、取材でも、インタビューでもなんでも応じても良いのですが、後で、彼らが上司から叱られたら可哀そうなので、偶々、着用していたジャンパーの胸の小さなマークをお見せしたところ、カメラマン氏は、大声を出してその場にひっくり返って、大急ぎで逃げ出しました。

何もご存知の無い貴人も、慌てて、「京洛先生!何かあったのですか」と、心配そうな表情を見せられたので、「いやいや、これを見せただけですよ」と、微苦笑しながら、ジャンパーに縫ってあった彼らのライバルのテレビ局のマークを見せたのでした。
貴人もそれを見て「ヒヤ―、それでは、カメラマンさんも驚いて逃げますよ」と大笑いになりました。

京都・西陣「千本釈迦堂」の大根炊き 1000円©️Kyorakusakio

千本釈迦堂の大根焚きは、7日と8日の2日間開かれていて、報道関係者は初日に殺到するので、8日はマスコミは何処も来ておらず、人出もそれほど多くありませんでした。
ただ、大きな大根が3切れと油揚げが一枚入った無病息災の大根焚きは千円です。
関係者によると2日間で1万人が大根焚きを食べるので、俗に言えば売り上げは1千万円はくだらないわけですね。
仕込みから料理、接遇をするのは檀信徒さんで、事実上、無料奉仕でしょうから、この売り上げはすべてお寺の収入になるわけです。ただ、お寺としては「お賽銭」のほかは、これと言った大きな収入がないだけに、この「大根焚き」は、お寺の修理維持費にとっては貴重な財源になっているのは確かです。

ちなみに、鎌倉時代、同寺の三世慈禅上人が、大根の切り口に梵字(ぼんじ)を書いて魔よけにしたのが起源の「大根焚き」は、少し辛めの出汁が、大きな大根に染みて、昼飯代わりになるくらいボリュームがあり美味かったですね。

ご報告迄。

英語教育よりも国語が大事

モネの庭 ©️par Hinachan

新井紀子国立情報学研究所社会共有知研究センター長といえば、現代日本を代表する国際的な数学者の一人です。

彼女は、一般社団法人「教育のための科学研究所」代表理事・所長も兼務されており、最近、新聞・雑誌など色んなところで教育について発言されていて、私も興味深く読み、「我が意を得たり」と大賛成することがあります。

そんな中で、新井教授は、こんなことを発言されております。(色んな記事からの換骨奪胎で、このような趣旨の発言をされていた、ということで御理解を)

東銀座「わにわ」日替り定食

…最近、中学生の中で「数学ができない」「分からない」といった生徒を調査したところ、例えば、「平均」といった言葉の意味が分からず、数学以前に読解力がないということが判明して衝撃を受けました。

要するに、国語力、日本語がよくできていないのです。それなのに今の教育行政では、小学生から英語の授業を必修にしたりして、ますます国語の時間が減っているわけです。

昔のように、教科書を反復熟読したり、写し取ったりしないせいなのかもしれませんが、何といっても、国語が基本です。

こんなことを数学者の口から言うのも変だと思いますが…。

いやあ、英語より国語を重視せよという新井教授の提言は大賛成ですね。

◇日本進学教室の思い出

この記事を読んで、私も自分自身の恥ずかしい過去の体験を思い出しました。もう半世紀も昔の時効の話なのですが、田舎の鈍才だった小生は、当時はさほど多くなかった難関中学校入試の予備校「日本進学教室」(日進)に通うことになりました。(嗚呼、富士山マークのバッヂが懐かしい)

日進の教室は東京・原宿にありました。当時の原宿は、まだファッションの最先端でもなく、竹の子族もなく、埼玉や茨城や千葉から出てくる若者もおらず、とにかく人通りの少ない寂れた住宅街といった雰囲気でした。

私が国立大学附属中学を目指して受験勉強を始めたのが、二学期に入ってからだったので、1年前から備えて頑張っている周囲と比べて格段の差があり、正直、授業には全くついていけませんでした。

模擬試験でも最下位集団だったことは間違いありません。(隣席の男の子の名前は忘れましたが、品川区の旗の台から来てると言い、とても優秀でした。彼は今頃どうしてるかな?)

そして、新井教授の提言を読んで、当時、自分が算数の問題が解けなかったのは漢字が読めなかったり、意味が分からなかったことを思い出したのです。

それは、算数の問題の中にあった「最も」です。小学6年の鈍才は「さいも」としか読めず、意味が取れなかったのです。恥ずかしいですね。後で父親を悲しませてしまいました。

日進の国語の漢字テストもかなり難しく、教科書に出てこない漢字ばかりでした。

例えば、「灘の生一本」の「生」は何と読むか?えっ?「き」?鈍才の小学生が読めるわけありませんでした。

現代のお受験世代は、既に幼稚園から準備しているので、私の話なんぞはお笑い草でしょうが、「英語より国語が大事」という新井教授の提言を読んで、私のような鈍才は妙に納得してしまったわけです。

正義とは一時的なもの

鴻巣市「阿部」天麩羅せいろ 1400円

広瀬ずずです。

今年は、かの世界史的出来事、ドイツのマルティン・ルターが宗教改革(1517年)を始めてちょうど500年でした。

この改革者ルターが残した言葉に素晴らしいものがあります。

 

 

人形の街・鴻巣市

 正義は一時的なものであり、いつかは終わりが来るはずだ。

 しかし、良心は永遠なるものであり、決して滅びることはないのだ。

自分は正しい。向こうが間違っている―というのは得てして自信家が口にする言葉です。

これが、個人ならまだしも、国家レベルとなりますと、相手を敵国とみなし、正義のための戦争を起こす口実にしかねません。周辺諸国と領土問題を抱えている当時国であれば尚更です。

しかし、500年前のルターは言うのです。正義とは一時的なものだ、と。常識もそうなのかもしれません。その時代、時代の社会通念で正しかったことでも、時代が変われば、価値観が180度変わることもあります。

日本で言えば、幕末か太平洋戦争の敗戦の前後ということになるでしょう。昨日まで「正義」だったことが、朝起きたら、逆賊だったり、悪者になったりするわけです。

それは、500年前も同じことで、だからこそ、ルターは、そういった正義を振りかざす人間の浅はかさを見抜いて、箴言を発したのではないでしょうか。

「猫の足あと」と武蔵国の歴史

埼玉県秩父郡長瀞町の宝登山神社

IT青年実業家の松長社長にはもう一つ顔がありまして、東京・首都圏の寺社仏閣の来歴などを網羅したサイト「猫の足あと」https://tesshow.jp/ を主宰・運営していることです。

主宰・運営とは、ご自分で週末になると、一人で野山を駆け巡って、手当たり次第に神社仏閣を訪れて、バチバチと生の写真を撮影したり、沿革を調べたり、要するに取材、執筆活動もされているということなのです。ですから、異様に首都圏の神社仏閣の歴史から現代に至るまで詳しいのです。

例えば、赤坂にある日枝神社の日枝(ひえ)は比叡山の比叡から来ているので、この神社はいわば天台宗系の神社だというのです。

千葉県習志野市などにある丹生神社は紀伊国(現和歌山県)の丹生都比売神社の祭神丹生比売命を勧請して創建されたことから、真言宗の高野山系の神社だというのです。

◇氷川神社は足立郡だけ

私が驚いたのは「氷川神社」(さいたま市大宮区)です。「武蔵一宮」と頭に付きますから、武蔵国(東京、埼玉、神奈川、茨城、千葉の一部)のナンバーワンの神社ですから、武蔵国内ならどこにでもあると思っていたら、「そうではありません。埼玉県内の昔の足立郡にしか氷川神社はありませんよ」と彼は自信満々に言うではありませんか。足で稼いだ情報ですからね。(ちなみに、彼の説によると氷川神社は、出雲からの移住者が創建したらしく、出雲の斐川から名前を取ったそうです。)

おっかしいなあ。私の実家は東京都東久留米市ですが、市内に確か二,三カ所は氷川神社と名の付く神社があり、実家の近くにもありました。ですから、埼玉、東京ならどこにでもあると思っていたのです。

それが、足立郡だけだったとは!

足立郡とは、武蔵国を南北に貫く領域で、今の京浜東北線が走る区域に近いと言われています。ですから、大宮や浦和や、東京都足立区や豊島区、練馬区辺りも入ります。この辺りに氷川神社が多いというのです。

足立郡の右隣りというと東側の南北連なる領域は埼玉郡で、埼玉の名前の由来になった行田市や越谷、春日部、岩槻が含まれ、この辺りは、久伊豆神社の系列が圧倒的に多いそうです。

武蔵国埼玉郡の右隣りの葛飾郡は、北の松伏町、三郷から、南は東京都葛飾区、千葉県浦安に至るまでカバーし、この辺りは圧倒的に香取神社の勢力下にあったといいます。昔の川の交易権なんかも香取神社が抑えていたそうです。

◇高麗郡は高句麗人、新座郡は新羅人の街だった

このほか、武蔵国高麗郡(後に入間郡、今の日高市など)は、716年に大和朝廷が高句麗からの渡来人を移住させたから、そう命名されたことは歴史的事実として知ってましたが、実家の東久留米に隣接する埼玉県新座市(平林寺で有名)は、昔は新座郡(和光市、志木市なども含む)と呼ばれ、758年に朝鮮半島の新羅からの渡来人を移住させたので、最初は新羅郡と言われていたんですね。

へー、全然知りませんでした。

古代は、どうしても、九州か、大和や京都、滋賀が中心ですから、学校では関東の古代や中世の歴史は全く教えてくれないので、自分で勉強するしかありません。

この年になって、まだまだ学ぶべきことが多いということです。

【追記】

これは、いつも電車の中で記憶でスマホで書いております。そのため、よく間違えることがあります。早速、「猫の足あと」の松長主宰から、御指摘がありました。

(引用)正確性を期しますと、
>>足立郡とは、(中略)ですから、大宮や浦和や、東京都足立区や豊島区、練馬区辺りも入ります。この辺りに氷川神社が多いというのです。
「ですから」以降は誤りではありますが..
豊島区は豊島郡、練馬区は豊島郡と多摩郡に編入されています。
豊島郡及び、多摩郡の北側は、「足立氏」の勢力が及んでいたということでしょうね。
当然ながら、多摩郡の南側には氷川神社がありません。
(豊島郡とは、北区・豊島区・文京区・板橋区・練馬区の右半分・新宿区・渋谷区あたりです)
ついでに付け足すと、葛飾郡は、江戸時代前期までは下総国です。(武蔵国ではありません)
江戸城下が人が密集して、江東区・墨田区近辺に人が住み着いてしまったから、武蔵国に編入されたのです。
その証拠に墨田川(昔はこちらが荒川だった)に架かっている橋はJR両国駅の両国橋です。武蔵と下総に架かる橋ですね。(引用終わり)

ついに特賞当選!めでたいめでたい

◇笑いを求めて三千里

《渓流斎日乗》は、基本的に読者の皆様のお笑いを目標に毎日せっせと作成しております。

笑いにも色々ありまして、爆笑、苦笑、微苦笑、嘲笑、大笑、哄笑、談笑、一笑、冷笑、失笑、含笑…

笑いは、権力者に立ち向かう庶民の最後の砦ー。そう生真面目に捉えておりまする(笑)。

で、昨日の勤労感謝の日。天気が良いので散歩に出掛け、駅近くのお茶屋さんで、美味すぎると評判の海苔3帖×2を買ったところ、「『福引き』を引いてください」と美人の女将さんが仰るではありませんか。

私は、日頃の行いが悪いですから、クジ運も悪く、これまで大したものに当たったことはありません。なので、あんまし期待しないでガラガラを回したところ、何と、金玉の特賞が当たり、現金500円が当たったのです。

これは春から縁起が良い(笑)。

500円もあれば、文藝春秋の社長さんが図書館に猛然と抗議した文庫本が一冊買えますし、駄菓子屋さんに行けば、飴玉が何十個も買えますねえ。

嬉しい、嬉しいですね。

小躍りして、スキップして家路に着きました。

永源寺 滋賀紅葉狩りの旅

滋賀・永源寺 ©️Ohtsu–tsushinin

滋賀の大津農林水産通信員です。

最近、奈良の西大寺先生や京都の京洛先生が世界的にも有名になられ、盛んに紅葉狩りのレポートを投稿されております。

わたしも同じ関西の人間として、これは負けじと、日本の歴史の故郷の魅力は、奈良や京都だけではない。滋賀にこそある、と孤軍奮闘でこれまで頑張ってきたわけです。

滋賀・永源寺 ©️Ohtsu–tsushinin

西大寺先生や京洛先生だけに、”紅葉便り”を任せるわけにはいきませんからね(笑)。

◇意外に知られていない湖東古刹の紅葉

関西で意外に知られていないのが、湖東(琵琶湖の東側)の古刹の紅葉です。
東近江市には、「永源寺(えいげんじ、臨済宗永源寺派大本山)」や「西明寺(さいみょうじ)」「金剛輪寺(こんごうりんじ)」「百濟寺(ひゃくさいじ)」といった本堂が「国宝」で、千五百年前に建てられた古刹があります。今の時季、紅葉、楓の色合いが、実に鮮やか、綺麗ですね。

滋賀・永源寺 ©️Ohtsu–tsushinin

また、湖東あたりに来ると、京都、奈良、大阪のような「インバウンド」なんて、無粋で、俗臭ぷんぷんな行儀の悪い異国の観光客は、まだ訪れていませんね(笑)。

しかも、どのお寺も、「本堂」に上がるまでの、静寂で、石段の数がそれなりにあり、足腰の鍛錬にもなります。
今回は、”乗合バスツアー”で、急いで、ぐるっと一巡してきましたので、《渓流斎日乗》農林水産通信員として、まず、「永源寺」の紅葉を御報せ致します。 

滋賀・永源寺 ©️Ohtsu–tsushinin

永源寺は紅葉、楓の樹木が多く、総門から山門に向かって、頭の上に広がる紅葉は実に見事です。また、この界隈は、水が豊かで、豆腐、こんにやくなどが名産品で、水は信仰にも深くかかわっています。

◇近江守護職佐々木六角が創建

永源寺の専門道場(僧堂)に参禅する禅僧も多く、こうした地下から湧き出る水を使って修行に勤しんでいる、という事です。
同寺の歴史は興安元年(1361年)、近江の守護職、佐々木六角が入唐求法の寂室元光禅師に帰依して、創建されました。
応仁の乱では、京都の兵火から避けた洛中の有名な僧侶が永源寺にも続々やって来て修行に打ち込み、寺勢は活気づいたそうです。

◇別峰紹印禅師が尽力
しかし、その後の相次ぐ戦乱は、永源寺にも及び、同寺も荒廃しました。江戸時代中期になりようやく、妙心寺から来た別峰紹印禅師が尽力し、後水尾天皇はじめ、東福門院、彦根藩(井伊家)ら有力者のバックアップを得て、興隆してきました。
明治になり、それまでの「臨済宗東福寺派」から離れて、新たに「永源寺派」として独立し、臨済宗の総本山の一つになり、今では末寺が全国に100カ寺もあるそうです。

滋賀・永源寺 ©️Ohtsu–tsushinin

◇臨済宗の総本山はいくつ?

ところで、《渓流斎日乗》御愛読の皆さんに質問ですが、日本に伝えられた「臨済宗」の総本山は今いくつあると思いますか?

答えは、下記の通りで14です。たくさんありますね。

(1)臨済宗妙心寺派 大本山妙心寺(京都市右京区)
(2)臨済宗建長寺派 大本山建長寺(鎌倉市)
(3)臨済宗円覚寺派 大本山円覚寺(鎌倉市)
(4)臨済宗南禅寺派 大本山南禅寺(京都市左京区)
(5)臨済宗方広寺派 大本山方広寺(静岡県浜松市引佐町)
(6)臨済宗永源寺派 大本山永源寺(滋賀県東近江市)
(7)臨済宗佛通寺派 大本山佛通寺(広島県三原市)
(8)臨済宗東福寺派 大本山東福寺(京都市東山区)
(9)臨済宗相国寺派 大本山相国寺(京都市上京区)
(10)臨済宗建仁寺派 大本山建仁寺(京都市東山区)
(11)臨済宗天龍寺派 大本山天龍寺(京都市右京区)
(12)臨済宗向嶽寺派 大本山向嶽寺(山梨県甲州市)
(13)臨済宗大徳寺派 大本山大徳寺(京都市北区)
(14)臨済宗國泰寺派 大本山國泰寺(富山県高岡市)

南禅寺「天授庵」 京都紅葉狩りの旅

京都・天授庵 ©️par kyoraku sensei

京都にお住まいの京洛先生から「紅葉狩り」便りが届きました。

この「渓流斎日乗」で、よく読まれる人気サイトの上位だけが、パソコンだと右手に、スマホだと一番下に掲載されておりますが、第1位が京洛先生の記事、第2位が西大寺先生の記事なんですからね。

嫌になっちゃいますよお(笑)。

京都・天授庵 ©️par kyoraku sensei

(京洛先生のお手紙)

…今日は昼過ぎからデジカメをぶら下げ、南禅寺境内の塔頭「天授庵」に出かけて、綺麗な紅葉を写してきました。
この「天授庵」のあった南禅寺の場所は、大昔の文永元年(1264年)に、亀山上皇の離宮(禅林寺殿)があったところです。
その後、正応4年(1291年)、禅寺になり、それが、南禅寺のルーツです。その後、1339年(暦応2)光厳天皇の勅許により、虎関師錬が、南禅寺の開山に関わった無関普門(大明国師)の塔所として、この天授庵を建立、南禅寺の塔頭の中でも、由緒正しい塔頭という事です。…

知りませんでしたね。それにしても、よくご存知だこと。

京都・天授庵 ©️par kyoraku sensei

…しかし、この天授庵も、文安4年(1447年)の「南禅寺の大火」で類焼、さらに、今話題になっている「応仁の乱」でも兵火に見舞われ、およそ130年間、荒廃したままになっていたそうです。
ようやく、1602年(慶長7)細川幽斎が再興、境内には、池泉を主にした庭や枯山水の二つも作られました。
京都の寺社は、何処も、時の権力者の手によって焼失されたり、時代が変わると、新しい権力者によって、再興されたり、栄枯盛衰が激しいことがよく分かります。…

なおるほど。栄枯盛衰、諸行無常ですね。

京都・天授庵 ©️par kyoraku sensei

…この時期は、色艶やかな、紅葉を見ようと、昼間は勿論、夜はライトアップで、「天授庵」も、大勢の観光客でごった返しています。
小生も拝観料500円を払って紅葉を愛でましたが、本堂前の庭や書院南庭での紅葉が特に見事でした。…

いやあ、ご苦労様のことでありました。

「圓光寺」〜「詩仙堂」京都の旅

京都・圓光寺

天才IT技術者松長社長の尽力で、皆様のコメント欄を分かりやすく設けました。

さらなる皆様方からのコメントをお待ちしております。

京都・圓光寺

奈良の西大寺先生の最大のライバルである京都の京洛先生から、西大寺先生の投稿を御覧になって、早速、飛脚便を飛ばしてきました(笑)。

…東都の紅葉は色づきましたか? こちらは、まだこれからですね。
11月中旬からが、紅葉狩りの本番でしょう。一気に、観光客も増えて、洛中、洛外は大変な賑わいになると思います。
貴人が、過日、上洛されて、鑑賞された京博の特別展覧会「国宝」(今月28日まで開催)ですが、第Ⅲ期展示が始まっていますが、志賀島出土の「金印(漢委奴国王印)」(12日まで展示、福岡市立博物館所蔵)は、最前列で見るには、40分~1時間くらいかかるそうですよ。凄い人気ですね。これに、これからの紅葉シーズンが重なるのですから、京博の前は長蛇の列が予想出来ます。

◇徳川家康開基の圓光寺

迂生は、今日、ちょっと早めに、徳川家康が開基した、京都市左京区の一乗寺にある紅葉の名所、臨済宗南禅寺派「圓光寺」に出かけて来ました。
家康が慶長6年(1601年)に教学を普及するため「足利学校」の学頭だった三要元佶(さんよう・もときつ)という禅僧を招いて、京都伏見に「圓光寺」を建てたのですが、その後、相国寺境内に移ったりしたこともあり、寛文7年(1667年)に、此処、一乗寺に移転しました。お寺も、あちこち引っ越したり、廃寺になったり、栄枯盛衰があるわけです。

京都・圓光寺

◇家康のブレーン

家康に請われて、下野国の足利学校から、「圓光寺」の開基に関わった元佶禅師は、彼の有名な「家康のブレーン」で、事実上、幕政を差配した金地院崇伝や天海上人と同じく、「黒衣の宰相」と呼ばれた実力者だった、と言われています。

◇「貞観政要」を刊行

家康は、圓光寺を教学普及の場にするため、お坊さんだけでなく、俗世間からも、向学心のある人間の入学を許したそうで、聖俗合わせての学問所にしようと考えたわけですね。そして、「貞観政要」などの書物を刊行しました。活字と言っても「鉛」でなく、「木活字」による印刷です。圓光寺の宝物館には、その「木活字」が展示されています。文字通り、出版文化の草分け、嚆矢といえます。
木活字をじっくり見てきましたが、保存状態も、よく、この「木活字」を使った印刷物は、「伏見版」、「圓光寺版」と呼ばれています。
また、同寺には、家康の「歯」も埋葬した東照宮もあります。、家康ゆかりのお寺がこんなところにあったとは、貴人も知らなかったでしょう(笑)。
迂生も徳川家康が、そんな、お寺を、京都に建てたとは知りませんでした。

◇近くに石川丈山の詩仙堂

「圓光寺」の、紅葉は、まだ、色づき始めたばかりです。観光客もそれほど多くいませんでした。
近くには、石川丈山(先祖代々「徳川家」譜代で、丈山は家康に仕え、「大坂夏の陣」でも功名を建てたのですが、この後、武士を棄て、文人になり、50才過ぎに「詩仙堂」を建て、朱子学、詩、煎茶道に勤しみ、90歳の生涯を終えました)の建てた「詩仙堂」もあります。

京都・圓光寺

圓光寺の拝観料は500円ですが、一乗寺周辺には、この「詩仙堂」や宮本武蔵の”一乗下り松の決闘”があった、という場所もあります。もっとも、決闘の地は、このほか、拙宅傍にも、「決闘の場所跡」があり、「決闘の地」は複数で真偽不明ですが、一乗寺界隈は見るところが沢山あります(笑)。今度、ご上洛された折ご案内します。

◇丁稚羊羹、鳩餅、武蔵饅頭

また、あの赤羽彦作村長が涎を垂らしそうな「丁稚羊羹」「鳩餅」、それに「武蔵饅頭」などの甘い「名物」が売られています(笑)。
彦作村長が同行されていたら、パチパチ、写真撮影されていたことでしょうね(笑)。この近くには「修学院離宮」もあります。…

なるほど、圓光寺と詩仙堂は私もいつか行きたいと思っております。

青山城址~小倉城址~菅谷館跡~稲荷塚古墳

国指定史跡 小倉城趾

トランプ米大統領夫妻と安倍首相夫妻は昨晩、「渓流斎日乗」が予告した通り、東京・銀座のミシュランも推薦する超高級鉄板焼料理「うかい亭」で会食しましたね。

えっ?具体的な店名は書いてなかった?そりゃ、そうでしょう(笑)。「体制護持」「党広報機関紙」ですから、そこまで書きませんよ(笑)。

で、トランプ大統領と安倍首相は昼間は、埼玉県の名門で3年後の東京五輪会場にもなる霞が関カンツリー倶楽部でゴルフをなさってました。

私たちは、ちょうどその頃、好天に恵まれて、そのゴルフ場近くの山城にエッチラホッチラ登っておりました。

都内に本部がある「山城歩き同好会」に私も参加させてもらい、全部で6人が中世の城跡を散策しました。

東武東上線の終点小川町駅(これがかなり遠かった)から、バスで愛宕公園下まで(220円)行き、そこで迷っていたら、シトロエンに乗った地元の優しいおじさんが、わざわざ登山道の入り口まで案内してくれたのです。お名前も伺いませんでしたが、この方のおかげで、幸先良いスタートが切れました。

どうも有り難うございました。

昼なお暗い細くてきつい檜と杉の山道を辿って最初に着いた所が青山(割谷)城跡でした。詳細は上の看板をご参照ください(笑)。

室町時代から南北朝時代の15世紀、城主は不明ですが、関東管領扇谷(おおぎがやつ)上杉氏の家臣上田氏が有力と言われてます。

ここからまた、30分ほど狭い急な山道を歩いてやっとのことで辿り着いた所が、今回のハイライトの一つ、小倉(おぐら)城趾です。こちらも城主は不明で、戦国時代の後北条氏の家臣の遠山氏とも上田氏とも言われています。

ここは「国指定の史跡」として登録されていますから、絶対に一見の価値ありますね。とにかく素晴らしい。苦労して登ってきた甲斐がありました。

何でこんな山奥に城が建てられたのか不思議ですが、敵から逃れて下界を探訪するのにちょうどよかったのでしょう。また、城下を流れる槻川(つきがわ)から物資を運んだり、武蔵国原産の板碑の石材を運搬したりしていたらしいです。

ここは、中世から水運業が盛んだったようです。

この小倉城の特徴が上写真のような石の平積みです。まあ、石垣ですが、いかにも中世の城らしく、武蔵国の城で見られる平積み石はここだけだそうです。

この後、ハイキングコースにもなっている嵐山町の嵐山渓谷道を散策しました。

ここは、日比谷公園や明治神宮などを設計した本多静六博士が、京都の嵐山(あらしやま)に似ているということで、武蔵嵐山(らんざん)と名付けたらしく、大正時代あたりから観光資源になったようです。

東武東上線「武蔵嵐山」駅に近付くと、国道254線近くに「菅谷館跡」があります。ここは鎌倉時代の源頼朝の右腕と言われた畠山重忠の城跡だったそうです。

本郭のほかに、二の郭、三の郭、南郭、西郭などがあり、規模は小倉城より広い。実に立派な城跡です。

ここには県立嵐山史跡博物館もあります。

詳細は→ 菅谷館跡

室町末期から戦国時代は、山内上杉氏の内紛などで戦場になりました。

畠山重忠像

鎌倉武将畠山重忠は、埼玉県深谷市畠山出身なんだそうですが、意外にも埼玉県北部は、鎌倉武将を多く輩出しているんですね。

平家物語などに登場し、歌舞伎の題材にもなった熊谷直実の熊谷市出身が一番有名かもしれませんけど、木曽義仲は、源義賢の次男で、生まれは現在の埼玉県比企郡嵐山町の大蔵館だったというのです。父義賢が兄義朝(頼朝、義経の父)と対立して、義朝の長男義平に討たれ、義仲は信濃国木曽谷に逃れたことから、木曽義仲と呼ばれるようになったんですね。

時代が下って、関東管領扇谷上杉氏の家臣で、河越城、江戸城を築城した太田道灌は、小川町のずっと先の越生町出身と言われております。

「山城歩き同好会」の最後の締めは、これまた武蔵嵐山駅に近い「稲荷塚古墳」でした。

古代にこの地に古墳をつくるほどの有力な豪族が住んでいたわけで、古代から中世、近世と脈々と歴史が続いてきたことが分かります。

特に、一番初めに出てきた小川町は、重要文化財にも指定されている「細川紙」と呼ばれる和紙が有名ですが、これは、1300年前に渡来した高麗の人たちの製造技術が伝わってきたものだそうです。

詳細は→ 細川紙

恐らく、高麗人たちは、技能職人として、また土地の有力者として政治的発言権も持っていたのかもしれません。

万歩計を見ると、この日に歩いたのは、2万5000歩以上にも及びました。意外と知らなかった歴史散歩ができ、昨日は少し疲れましたが、非常に有意義な時間を過ごすことができました。

最高のものを味わうということ

先日、NHK古典芸能鑑賞会に行って、文楽の三味線の芸術院会員・人間国宝の鶴澤清治にえらい感動して、「他の三味線が聴けなくなってしまった」との感想を書きました。

そのお話を京都にお住まいの京洛先生にしたところ、「そりゃ、そうですよ。当然の話ですよ。何でも、音楽でも美術でも、食べ物でもお酒でも最高のものを知らなければならないのです。だから、毎日、回転寿司ばかり食べていては駄目なのですよ。たまには奮発して銀座の久兵衛やすきやばし次郎なんかに行って、最高の味を味わなければならないのです。最高のものを知らなければ、何も分からないのです。最高のものを知らなければ、本質というものが分からないのです」と何度も繰り返して仰るではありませんか。

まあ、それはそうでしょうが、先立つものがなければ何も始まりませんが(笑)。

とはいえ、昨日、新富町の「うおがし銘茶」(創業昭和6年)という御茶屋さんから「試飲会」があるという御手紙を頂いたので、昼休みを利用して出掛けてみることにしました。

築地小劇場跡

場所は、新劇の日本の歴史をつくった築地小劇場跡近くにある築地の「茶の実倶楽部」というところでした。

実はあまり期待していなかったのですが、「たまには、独り離れて暮らす老母に何か贈り物でもしなければ」と思っていたので、「参考になるかな」と出掛けてみたのです。

写真にある通り、御茶菓子までつけてくれました。「茶遊会」と称する試飲会では「501」「502」「503」という3種類の蔵出し茶を出してくれました。なんじゃい、まるで、諜報秘密機関の「007」みたいじゃないか、と内心吹き出しそうになりました。

私は「御茶なんか何を飲んだって一緒だろう」という浅はかさがありました。

しかし、最初に501を飲み、次に502、503と飲むとあまりにもの味の違いに「まいった」と言わざるを得ませんでした。

「501」が抜群にうまいのです。これが、京洛先生が指南するところの「最高のものを味わいなさい」ということか、と思いましたねえ。試飲会で比べてみて、初めて味の違いが分かったわけです。

鶴澤清治以外の三味線が聴けなくなったように、こんなに旨い御茶を飲むと、今度は舌が肥えて他の御茶が飲めなくなってしまう心配が起きました。