徳島城、高松城、丸亀城=四国9名城巡り初日(上)

丸亀城 すんばらしい

 しばらくブログを更新しておりませんでしたが、11月20日(日)から22日(火)まで、2泊3日で、C社が主催する「四国9名城」巡りに行っておりました。何しろ、全国で現存天守12ありますが、そのうち四国にある4天守全部回ってくださるというので、9月の新聞広告を見て、直ぐ申し込みました。一人で四国中のお城巡りをしたら、交通費、タクシー代など幾ら掛かるか分かりません。旅程計画も大変。その点、ツアーに紛れ込んでしまえば、バスで安価で運んでくれます。こんな良いお買い物はない、というわけです(ちなみに、全国旅行支援が使えて、8万5640円だったのが6万9640円となりました。このほか、3000円×2泊のクーポン券付き)。

徳島城

 でも、正直、今回の旅行で、生きていく自信を少し失いました(苦笑)。今まで出来たことが簡単に出来なくなったことが分かったからです。加齢によるもので、綾小路きみまろの世界です。重症ではありませんが、注意欠陥症みたいな感じです。ホテルの部屋の鍵を室内に忘れるやら、100名城スタンプ台の側に大切な資料ファイルを置き忘れるやら、鬼より怖い御家人からの御土産メモを失くすやら、注意力が散漫するようになっていたのです。

徳島城

 体力も落ちました。初日の第一弾は徳島城(徳島県)でしたが、かなり急勾配の山城で、階段が正確には数えていませんでしたが、500段近くあったんじゃないかと思います。途中で何度も一息いれたほどです。あの身延山久遠寺の急勾配の階段「菩提梯」を思い出しました。

 そうそう今回のツアーは、結構、自由時間が多く、決まった時間までにバスに戻れば良いというシステムでした。食事も2泊3日で、朝食2回(ホテルのバイキング)、昼食1回、夕食1回しかなかったので、同行者とはあまり顔を合わせることはなく、まるで一人で旅行している感じでした。今回の参加者は16人で、ペアが5組、一人参加が6人(男女各8人)でしたが、一人参加者の2、3人の方と少し言葉を交わした程度で、勿論お名前も何処から来られたのか最後まで分からず仕舞いでした(笑)。

徳島城 蜂須賀家政公
徳島城

徳島城は、既に南北朝時代に築城されましたが、豊臣秀吉の家臣として有名な蜂須賀小六(正勝)の嫡男家政が17万6000石の阿波の領主として天正13年(1585年)に入国し、蜂須賀家が幕末まで続きます。明治8年に城のほとんどの建物は解体され、太平洋戦争の際、米軍の空襲もあり、現在、建物は何も残っていません。

 この山城の「麓」には、現在、徳島市立徳島城博物館があり、入館しましたけど、どういうわけか何が展示されていたか覚えていないのです。ここでも、うわの空といいますか、注意力散漫を発揮してしまいました。はい、綾小路きみまろの世界です。(笑)。

 さて、バスに戻る時間が迫って来たので、戻ろうとしたところ、二又の道があり、「あれ?駐車場はどっちだっけ?」と迷ってしまいました。左の道を進むと、バラ園がありました。「あれ?来る時、バラ園なんか見なかった。もしかして、右に行かなければならなかったのか」と思い、元来た道を戻ると、C社のバッジを付けた同行者らしき女性二人連れがいたので、声を掛けたら、「この道で大丈夫ですよ」と仰るではありませんか。あれ?バラ園なんか全く覚えていません。そう言えば、来るとき、ガイドさんの旗ばかり見て、一生懸命についていき、周りの景色はあまり見ていなかったことに気が付きました。これを他山の石として、次回から、帰りに迷子にならないように、周囲の看板や景色を頭を入れておくことにしました。(とは言っても、もう一回、迷子になりそうになりました!=苦笑)

高松城

 第2弾は高松城(香川県)です。私の出身高校と同じ海城です。もっとも、こちらは「うみじろ」と読みますが、私の東京の新宿区にある高校は「かいじょう」と読みます(笑)。以前、NHKの「ブラタモリ」で放送されていたので、訪れるのを楽しみにしていました。

高松城 向こうに見えるのが二の丸から本丸に続く鞘橋(さやばし)

 山城で急勾配を登らなければならない徳島城と違い、高松城は海城(うみじろ)なので、平地です。戦さの時、大丈夫だったのかな、と心配したくなるほど散策しやすいお城です。もっとも、現在は、「玉藻公園」として公開されています。園内の総面積は約8万平方メートルもあるとか。

高松城 本丸に残る天守台 3層5階の天守は残ってません

 高松城は、天正16年(1588年)、ということは本能寺の変の6年後、豊臣秀吉の家臣生駒親正(ちかまさ)が築城し、生駒家4代54年間、水戸徳川の松平家(初代は水戸黄門の兄松平頼重)11代228年間にわたり居城した海城です。

高松城 復元された桜御門
高松城 艮(うしとら)櫓 有名な月見櫓は工事中でした

 城内には当時、天守のほか、約20もの櫓があったそうですが、空襲などで建物のほとんどが喪失しました。が、艮(うしとら)櫓などは残り、重要文化財に指定されています。他に、桜御門などが復元されました。松平藩時代に政庁・御殿として使用された被雲閣は、明治になって老朽化したため取り壊されましたが、大正6年に再建され、現在、事務所のほか、茶会、会議などで利用されているそうです。

 高松城巡りは、昼休み休憩も含み、2時間ぐらい自由時間がありましたので、この後、近くのJR高松駅に向かい、駅ビルの2階の「杵屋」で、名物の讃岐うどん(とり天、870円)を頂き、1階のコンビニ兼土産物店(高松銘品館)で上官の命令に従い、買い物をしました。

丸亀城(現存天守12)
丸亀城(現存天守12)

 初日最後の第3弾は、現存天守12のうちのひとつ丸亀城(香川県)です。高松城と同じ生駒親正が慶長2年(1597年)、築城を開始します。江戸時代となり、一国一城令により、一時、廃城となりますが、生駒家がお家騒動で所領が没収され、その後、山崎家、そして京極家が継いで、幕末まで続きます。

 大変見事な素晴らしいお城でした。高さ60メートルの日本一の高石垣を誇るそうで圧倒されました。

丸亀城(現存天守12)

 こりゃあ、凄い。(ここから、急坂を登るのに、大変つらい思いをさせられます!)

丸亀城天守 

 これが、3層3階の現存木造天守12の一つですが、意外と小さい。

 石落としや、弓や鉄砲を打つ狭間もしっかりあります。この天守は、四国の中で最も古く万治3年(1660年)に完成したそうです。

丸亀城二の丸辺りから見える瀬戸大橋

 丸亀城二の丸辺りから見える瀬戸大橋。バスガイドKさんの説明によると、瀬戸大橋は、6本の橋で出来ており、全長9368メートル。6本の橋のうち、5本香川県、1本岡山県にあるそうです。1988年に全線開通し、総工費は何と1兆1300億円だとか。

高知市のひろめ市場 四万十川の栗焼酎「ダバダ火振」

 1日目の3城の日程を消化して、バスは一路、この日に宿泊する高知市へ。北の香川県から南の高知県まで1時間40分ほど、高知高速道路を通って、その途中で四国山地(坂本龍馬が脱藩の際、登った)を突き抜けるわけですから、トンネルだらけでした。

 この日は夕食が付いていなかったので、バスガイドKさんお薦めの「ひろめ市場」に行きました。新阪急高知ホテルから歩いて7分ほどです。ホテルから高知城にも歩いて7分ほどで行けます。このホテルは、35年ぐらい昔、仕事で泊まったことがありますが、当時はお城にほとんど興味がなかったので、こんな近くにお城があったとは、灯台下暗しです。

 ひろめ市場は、大きな体育館のような建物に70軒の屋台のような居酒屋や御土産屋さんなどがひしめいています。私は見たことがありませんが、テレビの「ケンミンSHOW」という番組で何度か取り上げられたらしく、観光客でいっぱいでした。ほとんどの店が満席で、やっと「鰹処ぼっちり」という居酒屋前に相席を見つけて、座っていたおじさんに断って、座らさせてもらいました。

 鰹のたたき定食900円と土佐の地酒(名前は失念)、それに、相席のおじさんの薦めで四万十川の栗焼酎「ダバダ火振」も後で注文しました。お酒は色々と呑んで来ましたが、栗焼酎なんて初めてでした。

高知市ひろめ市場近くで 高知は坂本龍馬を始め、歴史上の偉人、有名人だらけです

 相席になったおじさんは、ちょっと変わった人で、70代前半といった感じ。三重県の四日市から来た、と言ってました。私も三重県出身の友人がいて、結構、三重県内は旅行したことがあるので話は弾みました。おじさんは、この時期、高知市で趣味の蘭の品評会があって、毎年、3日間ほど市内に泊まるそうです。高知には沢山の友人がいる、と仰ってましたが、独りで呑んでいたのは何故かしら。

 いずれにせよ、このおじさん、ご職業は何だったのか知りませんが、私が「城巡りで四国を旅行しています」と話したら、彼は異様に戦国武将に詳しいことが分かりました。私と互角に話が出来るのですから(笑)。そして、彼は三重県出身ということで、名古屋に対する尋常ならざる敵愾心を燃やしていました。

 「名古屋名物、と言われている(伊勢)海老フライもひつまぶしも味噌カツも、本当は伊勢名物なんですよ。伊勢の人間は宣伝が下手なんです。それに比べて尾張の連中は…」といった具合です。那古野(名古屋)は織田信長、豊臣秀吉、加藤清正、蜂須賀小六ら多くの戦国武将を生んでいますが、野心家さんが多いのかしら。

 三重県のおじさんが頼んだ餃子を一つだけ、あまりにも薦めるので、頂きましたが、そのうち、彼は何の挨拶もなく、プイと帰っていなくなってしまいました。

 帰りがてら、バスガイドKさんが薦めていた田野屋塩二郎のシューラスクというお菓子を買ってみました。田野屋塩二郎さんという人は東京の人で、脱サラして高知で塩づくりをしている方で、その塩は高級レストランのシェフらに大好評。もっとも、1キロ当たり100万円もするという超高級の塩で、本物の塩は買えないので、せめて、お菓子を買ってみたのでした。

(つづく)

人類と家族の起源を考察=エマニュエル・トッド著「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」

 本日、スマホを紛失してしまいました。焦りましたよ。でも、今日ランチに行った築地の「千秋」に戻ってみたら、案の定、その店で忘れておりました。もう六時です(洒落です)。でも、一瞬、命が縮む思いでしたから、見つかってよかった、よかった。

 さて、先月、ジェレミー・デシルヴァ著、赤根洋子訳「直立二足歩行の人類史」(文藝春秋)を読んで大いに感心感動したことはこのブログにも書きました。そのお陰で、文化人類学への興味が復活してしまいました。私が学生だった1970年代は、レヴィストロースを始め、文化人類学がブームでした。しかし、不勉強な私は、他の事(音楽のバンド活動でしたが)に夢中になってしまい、読書に勤しむことがなかったことを未だに後悔しております。

 その罪滅ぼしとして、先日、レヴィストロースの名著「悲しき熱帯」上下(中公クラシックス)を買い込み、早速読み始めました。それなのに、瀧井一博著「大久保利通 『知』を結ぶ指導者」(新潮選書)や松岡聡著「スパコン富岳の挑戦」(文春新書)など、次から次と読むべき本が登場してしまい、レヴィストロースさんは後回しになってしまいました。

 大方の緊急課題本は読了出来ましたので、では、レヴィストロースさんを再開しようかと思ったら、困ったことに、またまた新たに興味深い本が出現してしまいました。エマニュエル・トッド著、 堀茂樹訳の「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」(文藝春秋、2022年10月30日初版、ただし原著は5年前の2017年刊)です。今、その 上巻「アングロサクソンがなぜ覇権を握ったか」を読んでいるところです。

 デシルヴァ著「直立二足歩行の人類史」、レヴィストロース著「悲しき熱帯」といった「人類学」の一連の流れの一環です。大雑把に言えば、歴史はチマチマした人間の業の行いの記録ですが、古人類学は、話し言語や文字が生まれる前の二足歩行を始めた約1100万年前の類人猿の話から始まりますので、雄大で膨大です。人間として生まれて来たからには、誰でも「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」は気になります。この本、スラスラ読めるかと思いましたら、結構、著者特有の専門用語が多出するので、つっかえ、つっかえ読んでいます。

 著者のトッド氏と言えば、ソ連崩壊などを予言した歴史人口学者として世界的に著名ですが(親日家で、目下来日中)、私のような仏文学を昔かじった学徒としては、「ポール・ニザンの孫」というのが真っ先に思い浮かんでしまいます。恐らく日本人のほとんどの方は知らないでしょうが、ジャーナリスト、作家のポール・ニザンはサルトルの親友で、1940年5月、通訳として転属されたダンケルクの戦いで戦死しています。行年35歳。代表作「アデン アラビア」は「ぼくは20歳だった。それが人生で最も美しい時代とは誰にも言わせない」という一文で始まり、若き頃の私が大変な衝撃を受けた出だしでした。

 エマニュエル・トッドの実父オリヴィエ・トッドもジャーナリスト兼作家なので、「なあんだ、彼の並外れて優れた知性は遺伝じゃないか」なんて思ってしまいます(笑)。

東銀座「むさしや」創業明治7年

 相変わらず、長々と前書きを連ねてしまいましたが、この本の要約がなかなかまとまらないからです(笑)。それに、まだ上巻の半分しか読んでいません。でも、ここまで読んできて、強引に最も印象に残ったことを茲に書くとすると、現生人類ホモ・サピエンスは元々、一夫一妻制だったということです。それが、一夫多妻や、稀に一妻多夫になったりしますが、文明が高度に発達した地域になれば、一夫一妻制に戻るというのです。

 これまで一般的に太古の家族共同体では、人類はひしめき合うように雑居し、性的に混乱し、原初的な近親相姦も頻繁に行われていた、という仮説が通説でしたが、それに意義を唱えて全面否定したのが、フィンランド人の哲学者・人類学者エドワード・ウェスターマーク(1862~1939年)でした。ウェスターマークは、近親相姦のタブーは文化事象ではなく、生存競争上の有利さをもたらすものとして自然選択された無意識の行動だと結論付けました(1891年「人類婚姻史」)。トッド氏は言います。「明らかにウェスターマークは正しい。彼より後に登場したフロイトやレヴィストロースらは近親相姦の回避の内に一つの文化事象を見ようとしたが、それは誤りだった。悲しいかな。人文科学はこうした知的後退に満ち満ちている」と皮肉交じりに叙述しています。えっ?あのレヴィストロースが間違いだったとは!?(トッド氏は、構造主義にも否定的に言述しております。)

 最新研究によると、霊長類の類人猿は今から約600万年前にヒトとチンパンジーに分かれます。だから、人間とチンパンジーの染色体はほとんど同じで、塩基配列の違いは約 2%に過ぎないと言われています。しかし、人類とチンパンジーの決定的な違いは、家族です。初期のホモ・サピエンスは一夫一妻制の核家族でしたが、チンパンジーは夫婦関係は知らない。群れでは、メスを庇護するオスが次々と変わり、オスとメスの安定した関係は認められない。第一、父子関係が確定できないというのです。野性のチンパンジーの平均寿命は15年。片や「人生100年時代」。このように、人類が霊長類、いや生物の頂点に君臨して長寿を保つことができるようになったのも、家族が関係しているのかもしれません。

(つづく)

嗚呼、夢の絶頂から敗戦へ=南満洲鉄道復刻保存会編「特急あじあ号復刻時刻表」(大洋図書)

 先日、拙宅に本が送られてきました。大洋図書というあまり聞いたことがない(失礼!)出版社の封筒に入っていて、差出人は不明。私は昔、文芸記者をやっていたことがあるので、会社だけでなく、自宅にも贈呈本や献本が送られて来ることがありますが、この出版社はあまり御縁がなかった出版社です。

 開封してみたら、その本は、南満洲鉄道復刻保存会編「特急あじあ号復刻時刻表」(2022年10月20日初版、1540円)というグラフ誌でした。「お~!」と歓声を挙げました(笑)。私の趣味というか関心に合った本です。一体、どなたが送ってくださったのか? 封筒には手紙もメモも入っていません。あら不思議。

 ということで、ページを捲ってみたら、思い当たるフシが見つかりました。知己のノンフィクション作家、斎藤充功氏が本文の中で、「『あじあ』を作った男たち」(28ページ)、「満鉄の旅」(54ページ)を執筆し、さらには、写真や資料の提供者としても名を連ねていたのです。「ははあん、斎藤さんが出版社を通じで送ってくださったのかあ」。そこで、斎藤氏に御礼のメールをしたのですが、返事なし。あれ? 御高齢なので、体調でも崩されたのでしょうか? 入院でもされているのかしら? 少し心配になりました。

大洋図書「特急あじあ号復刻時刻表」の14~15ページ

 正直、大洋図書という出版社について無知だったので、調べてみました。ノンフィクションなど硬い書籍を出している一方、漫画や成人向けの愉しそうな本もかなり出している1952年創業の老舗出版でした。出版不況と言われている中、本屋さんに行けば、コミック誌や成人雑誌のコーナーの面積が広いことから、その筋のジャンルが売れどころだということが分かります。あまり聞いたことがない出版社なのに(これまた失礼!)、都心に自社ビルらしきものを構えていることから、かなり羽振りの良い出版社だと想像されます。

 大洋図書の小出英二会長さまにおかれましては、売れなくても(またまた失礼!)、真面目なノンフィクションをどんどん出版してほしいものです。

 真面目な話、この本は歴史的資料価値が高いと断言してもいいです。当時のグラフ誌に掲載されていた貴重な写真や、鉄道マニアならたまらない当時の時刻表まで収録されています。

◇あじあ号とは?

 あじあ号は、昭和9年(1934年)11月1日、大連~新京(現長春)間約701キロを、最高速度130キロ、8時間30分で運転を開始し、「夢の超特急」と呼ばれました。勿論、当時「世界一」の列車です。その後、大連から哈爾濱まで約950キロまで延長して運行しましたが、昭和18年に休止してしまいます。あじあ号は夢の超特急ですから、現代人はディーゼル車か電気鉄道を想像してしまいますが、当時はまだ蒸気機関車だったのです。流線形のパシナ型と呼ばれていました。このパシナ型を設計した旅順工科大学卒の吉野信太郎と時代背景については、この本の「『あじあ』を作った男たち」中で、斎藤充功氏が詳しく書いております。

 日本の近現代史、特に昭和史に興味がある方にとって、好悪は抜きにして「日本の生命線」と言われた満洲問題を抜きにしては語られません。満洲の中でも満鉄のことを抜きにしては、満洲は語られません。満鉄とは、南満洲鉄道の略称で、鉄道会社と言っても間違いないのですが、大連汽船や満洲航空などの運輸交通関係、昭和製鉄所などの工業関係、日満商事などの商社関係、南満洲電気や満洲瓦斯などのインフラ関係、それに満洲日日新聞などのマスコミ関係等の会社も傘下に入れていたコングロマリットだったのです。1937年3月時点で満鉄の関連事業は80社だったといいます。

大洋図書「特急あじあ号復刻時刻表」(当時のまんまの復刻版)

 この本のタイトルになっている通り、巻末には当時発行された「満洲 列車時刻表」(昭和14年11月1日改正など)が復刻再掲されております。驚いたことに、大連から南満州鉄道とシベリア鉄道を経由して巴里(パリ)までの直行便まであったのですね。この時刻表を見る限り、大連を1日に出発するとパリには11日に到着するようなので、何と11日間の旅。東京からパリまで飛行機なら約13時間で行ける現代人から見れば気が遠くなる優雅な旅です(笑)。当時は朝鮮半島も満洲も日本の領土(つまり植民地ですが)だったので、東京から下関や門司でフェリーに乗って、釜山や大連を経て満鉄に乗れましたから、東京駅で「巴里まで、一枚!」と切符を買う富裕層もいたかもしれません。

 ソ連は昭和20年8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄して、満洲に侵攻します。終戦時、国策会社の満鉄の資本金は24億円、従業員約40万人、満鉄の営業路線は1万2500キロ、機関車、貨車、客車の総計は4万6995両。資産総額は、鉄道資産に限っただけでも今日の評価で30兆円はくだらないと言われています。

 その膨大な資産は、今はロシアとなってウクライナに侵攻しているソ連軍によって全て接収されました(34ページ)。現代の若い日本人はこの事実をほとんど知りませんが、世界史的に見ても、稀に見る蛮行です。機関車、貨車、客車は、恐らく、シベリア鉄道でソ連領まで運んだことでしょう。

童謡のおばあちゃんYouTuber逝く

 もう今年も残り1カ月半を切りました。早いなあ、あっと言う間だなあ、という感想しか思い浮かびません。

 11月半ばになり、そろそろか、と来年の年賀状を買いに、新橋の「さくらや」に買いに行きました。昨年は12月に入って買いに行ったら、売り切れていたからです。裏面カラー絵入り印刷で、1枚73円。他のショップは大体75円、有楽町では80円ぐらいしたので、茲が日本で一番安いんじゃないかと思いました(笑)。

 年賀状書きの季節ともなると、同時に、残念ながら、喪中はがきも届きます。人間の定めだからしょうがありませんが、同時代人として同じ時間を共有した人たちが、この世からいなくなってしまうと思うと、さすがに悲しみで落ち込みます。

何処? パリ? いえいえ、東京・新富町ですたい

 今年は、また宮さんから喪中はがきが届きました。今年5月に、実姉の内藤昭恵様が亡くなられたというのです。あれっ?何処かで聞いたことがある、と思ったら、直ぐに思い出しました。2018年10月1日付の《渓流斎日乗》の「あの初音ミクに童謡を歌わせているのは 88歳のおばあちゃんYouTuber」でご紹介させて頂いた宮さんの御令姉様、内藤昭恵さんでした。4年前ですから、行年92歳ということになります。

どこでマスターされたのか、自己流で覚えたのか聞きそびれましたが、ご自分で作詞作曲した曲をコンピューター上のAI初音ミクにその歌を歌わせているのです。いずれも、どこか懐かしい日常風景を童謡風にアレンジしております。

 人生100年時代ですから、もう少し長生きしてほしかったですね。というのも、宮さんからこんな返信メールを頂いたからです。

 「姉は97曲をYouTubeにアップしました。もう少しで100曲になるから、と励ましましたが叶いませんでした。…残念でなりません。自宅で亡くなったのですが、面倒を見ていた姪が『最期まで前向きに生きていた』と知らせてくれました。…渓流斎さまのブログに取り上げていただいたこと大変喜んでいました。有難うございました。」

 これを読んで、さすがの私もジーンと来てしまいました。

 そこで、勝手ながら、内藤昭恵様のご冥福をお祈り致しまして、彼女が作詞作曲された童謡「ひがんばな」を、この渓流斎ブログでアップさせて頂きたいと存じます。

内藤昭恵さんは、ハンドルネーム「kogomi88」で投稿されていますから、YouTubeで検索すれば他にも沢山出て来ると思います。

大久保さん、ごめんなさい=瀧井一博著「大久保利通 『知』を結ぶ指導者」を読了

 11月11日付渓流斎ブログ「明治の元勲は偉大だった=瀧井一博著『大久保利通 《知》を結ぶ指導者』」の続きです。やっと読了できました。同書は、「出典・註釈」を入れて520ページ以上の大作でしたので、所用にも追われ、読むのに結構時間が掛かりました。とはいえ、難解な書物ではありません。不勉強な私は「大久保利通とはそんな人物だったのか!誤解していた」と何度も何度も感心しながら読みました。

 よく知られている大久保利通(1830~78年、47歳没)という歴史上の人物の評伝だとはいえ、読後感は胸が詰まる思いです。暗殺現場は凄惨そのものです。茲では書くのは憚れますが、暗殺された大久保の遺体の致命傷が事細かく記述されています。うーん、やはり、とても書くことが出来ません。それでも、暗殺者の島田一郎(元加賀藩士、事件後、大逆罪で斬首)ら6人の不平士族は、当時でさえ英雄視されていたのです。暗殺されたのは明治11年5月14日、麹町紀尾井町です。私も訪れたことがありますが、現在の清水谷公園に「大久保利通哀悼碑」があります。その前年に、西南戦争が終結し、大久保の盟友西郷隆盛は自決しています。これで、不平武士たちは、内乱を起こすのではなく、「悪政を糺す」ことを金科玉条として「要人暗殺」に方針を切り替えます。

 当の大久保は、暗殺される当日、早朝(何と6時!)に、麹町の自宅(現ベルギー大使館)で、福島県令(今の知事)の山吉盛典と会談しています。当時の大久保は、自ら率先してつくった内務省の大臣に当たる内務卿で、山吉とは福島県安積疏水事業に関する打ち合わせなどをしていたのです。この事業とは、明治になって職を失った士族や華族らのための公共事業で、いわゆる雇用対策事業です。不平武士らは、これら雇用創出の公共事業のことを知らず、大久保のことを誤解していたことになります。

歌舞伎座(東銀座)※本文とは関係ありません

 内務省と言えば、後世の人間にとって、戦時中の内務省警保局の特高のイメージが強過ぎます。特高は、作家小林多喜二を築地警察署内でリンチ撲殺した身の毛がよだつ恐ろしいイメージです。その恐ろしいイメージが、内務省をつくった「独裁者」大久保利通に重なってしまった弊害がありました。しかし、実は、大久保が内務省を創設した第一の目的が、治安維持ではなく、「殖産興業」だったことが本書を読んで初めて知りました。大久保は、「岩倉使節団」として欧米列強を視察して来ましたから、欧米列強の植民地にならないためにも、国内産業を奨励して国力を高めることを痛感していたのです。一言で言えば、「富国」ですが、意外なことに、大久保にとって、その後の「強兵」の思想は二の次です。何しろ、大久保は、明治4年に起きた台湾に漂着した宮古島島民54人もが殺害された事件が起きた時も、台湾出兵には消極的でした。またまた意外にも大久保は、平和主義者で外交で問題を解決しようという立場で、実際、自ら北京に渡って交渉しているのです。

 大久保は、明治10年に第1回内国勧業博覧会を先頭に立って開催しますが、あくまでも国内の産業の振興と発展と奨励が目的で、海外からの出品を拒否したほどなのです。また、大久保は、これまた意外にも農本主義者でもありました。

 何で当時の人も、そうして後世の人間も、大久保利通とは所詮、盟友を排除してのし上がった権謀術策に長けた冷酷非情な独裁者だというイメージが定着してしまったのでしょうか? 同時代人の岩倉具視でさえ、大久保のことを「才なし、史記なし、只確乎と動かぬが長所なり」と評したことから、大久保利通には思想も学才もない印象が持たれた要因になったようです。こんなんでは、大久保は二度も殺されたようなものです。

歌舞伎座(東銀座)

 しかし、大久保には岸田首相よりも「聞く耳」を持ち、知識を吸収し、著者の言葉を借りれば、「知と知を結び付け、人と人を結び付ける」才能があり、それらはとてもつもなく非凡な才能だったと言えます。「志半ば」で倒れた大久保利通ですが、維新の英傑の中で最重要人物だったということを本書で認識しました。また、この本では触れられていませんでしたが、大久保は公共事業に私費を投じるなど、多額の借金を残して亡くなったと言われます。大久保の後継者となった次の世代の、汚職事件にまみれた井上馨や、「椿山荘」「無鄰菴」など豪壮な別荘を構えた山縣有朋らと比べるとえらい違いです。

 泉下の大久保利通さんには「ごめんなさい。誤解していました」と謝りたいほどです。いつか、東京・青山霊園に墓参したいと思いました。

明治の元勲は偉大だった=瀧井一博著「大久保利通 『知』を結ぶ指導者」

  このブログでも何度か取り上げました「『大名家』の知られざる明治・大正・昭和史」(ダイアプレス、1430円)を読んでいたら、もっと幕末史や明治の新制度のことを勉強したくなりました。そしたら、ちょうどお手頃の本が見つかりました。瀧井一博著「大久保利通 『知』を結ぶ指導者」(新潮選書、2022年7月25日初版、2420円)です。

 歴史上の人物としての大久保利通は、個人的に、どちらかと言えば、あまり好きになれない人物でした。いや、大嫌いな人物でした。主君の島津久光を裏切るやら、何と言っても、大親友であった盟友西郷隆盛を結果的に追い詰めて死に至らしめた張本人です。変節漢、裏切り者、冷徹、冷酷無比、独裁者といった言葉は、常に彼に付きまとっていた修辞でした。

 しかし、そういった定説を根本的に覆したのが、本書だったのです。この本のキャッチコピー曰く、「独裁と排除の仮面の裏には、人の才を見出し、それを繋ぎ、地方からの国づくりを目指した素顔があった」です。私も新聞各紙が取り上げた書評を読むうちに、「あれっ?自分の考え方は間違っていたのかもしれない」と思い直し、正直、ちょっと高い本だな、と思いつつ、いわば罪滅ぼしのつもりで購入したのでした。

 それで、どうだったのか、と言いますと、すっかり見直しました(笑)。「大久保利通とは、こんな人だったのかあ」と自分の不勉強を恥じました。勿論、この本は、大久保利通を主人公にした物語なので、彼が敵対した徳川慶喜や幕臣たちに対する評価が異様に低く、少しは割り引いて読まなければなりません。でも、著者は、残された大久保日記や書簡などを丁寧に渉猟し、なるべく、ほんの少しですが、距離を置いて客観的に人物像を造形した努力の跡が見られます。

 そんなお堅い話は抜きにしても、幕末明治に関心がある人なら誰でも、十分、面白く拝読できます。薩長土肥の雄藩が如何にして明治維新という大業を成し遂げることができたのか。新政府は、どうやって、征韓論や佐賀の乱、西南の役などの国難を乗り切って、如何にして政治制度を築き上げていったのかー。全てこの本に書かれています。まだ、3分の1近く残っていますが、その途中で、この本が、「第76回毎日出版文化賞」を(11月3日に)受賞したことを知りました。確かに賞に値する良書なので、選考委員の皆さんの千里眼には感心しました。

東銀座

 私が不勉強を恥じた一番大きな点は、てっきり、大久保利通は唯我独尊の独裁者かと思っていたことです。実は、彼は気配り、心配りがある人で、事前の根回しをし、うまくいかないと心を痛めたり、(手紙の中で)落涙したり、辞表を提出したりする人間的側面があったことです。勿論、根回しというのは、政治的駆け引きであり、目的のためには手段を選ばない冷徹さがありますが、それは合理主義でもあり、嫌らしい権謀家の大久保らしいと言えば、大久保らしいのです。

 根回しのカウンターパートナーは、主に、同郷の薩摩藩なら島津久光と西郷隆盛、長州藩なら木戸孝允、そして、宮中工作なら岩倉具視といった具合です。それに大久保は、分け隔てなく、優秀な人材なら、福沢諭吉、西周といった幕臣まで重職に採用しようとしたりしました。

 その政治の目的とは何だったのか? と聞かれると、即座に単純にお答えすることはできませんが、少なくとも大久保を代表する明治の為政者にとっては、私利私欲を廃して公に尽くすことが第一義だったようです。それは、五箇条の御誓文の最初の「広ク会議ヲ興シ,万機公論ニ決スヘシ。」にも表れています。

 明治政府首脳たちは、王政復古の大号令を経て、天皇中心の君主国家をつくろうとしたことは間違いないのですが、特に大久保は、「君民共治」(後にいう立憲君主制)の政体を目指していたことです。独裁的な天皇君主制ではなかったのです。明治4年に参議に就任するに当たり、有名な「定大目的」(政権の大目的)を提出しますが、この中ではっきりと、天皇親政と言えども、決して独裁とならず、御誓文にあるように公論に則ったものでなければならない、と主張しているのです。しかも、華族や士族といった差別なき世を創りだす、とまで宣言しているのです。大久保がこんな革新的な人だったとは。。。

 私にとって、意外だったことは、あの岩倉具視でさえもが、幕末の慶応元年(1865年)6月に執筆した政治意見書「叢裡鳴虫」の中で、「国政の大綱は、天皇一人が決してよいものではない。幕府が専断してよいものではない。君臣が相共に討議して、その結果を天皇が裁決すべきものなのである」と力説していたことです。公家でありながら、天皇独裁を暗に否定しているのです。大久保も影響を受けていたのでしょう。

東銀座

 また、維新三傑の一人、長州藩の木戸孝允も同年、旧知の対馬藩士への書簡の中で、自分は長州の人でも日本の人でもない。(そういったものから離れて、)日本という国の現状を天の高みから見てみようと語っているのです。この話は、維新後の木戸が、版籍奉還と廃藩置県という新政府最大の「一大難事業」を一刻も早く断行するべきだという急進派で、時間を掛けてゆっくりと改革するべきたと主張する大久保としばしば対立したという話につながるわけです。

 私は大久保の方がもっと急進的な過激派だったと誤解していました。

 いずれにせよ、国家の根本となる政治制度を構築するには、理想だけでは済まされず、明治の元勲たちは確固とした思想があり、中でも特別に、大久保利通には広い視野を持った、他人の意見には耳を傾ける(西郷隆盛以上に)「知」の人だったことが、この本を読んで初めて知りました。

(つづく)

織田信長も見たのか「皆既月食+惑星食」?=442年ぶりの「天体ショー」

  昨日(11月8日)の夜は、皆既月食の最中に、天王星が月でその姿が隠れる惑星食も442年ぶりに起こる「天体ショー」が奏でられ、世間は大騒ぎでした。

2022年11月8日午後6時56分

 野次馬の私も勿論、自宅で観覧致しました。

2022年11月8日午後7時15分

 私は、都心から離れた高層長屋に住んでおりますが、空気は都会より澄んでおり、しかも、自宅の天守閣では群衆から誰にも邪魔されず、悠々と眺めることが出来ました(笑)。

2022年11月8日午後7時16分

 マスコミは、「皆既食中に、天王星食のような惑星食が見られるのは442年ぶり」「天王星食は4000年以上なかった」「次回は322年後の2344年の土星食」(国立天文台)などと報じていました。

 322年後に生きている今の人類は確実にいないと思われますから、茲では442年前の話をー。

 前回は、1580年7月26日(土星食)だったというのです。日本は天正8年、安土桃山時代です。この2年後の1582年に「本能寺の変」が起きるので、織田信長の全盛期と言えます。信長拠点の安土城は4年前の1576年に完成しているので、もしかしたら、信長は安土城の天守から見たかもしれません。この時、信長46歳。羽柴秀吉は43歳。徳川家康は37歳(いずれも満年齢)となります。

 当時の史料が残っているのかどうか、分かりませんが、信長は安土城下に家臣を住まわせていたので、もしかして、家臣と一緒に眺めたかもしれません。

2022年11月8日午後7時16分

 でも、当時は、予告してくれるメディアもなかったし、望遠鏡も南蛮から手に入ったのかどうか…。そもそも、望遠鏡は、1608年にオランダのリッペルスハイによって発明されたと言いますから、1580年の時点では存在していなかったことになりますね。

 とはいえ、偶然に、月の満ち欠けに遭遇して、色が赤っぽく変色する月を「何じゃ、こりゃあ~」と見ていたかもしれません。ま、そういうことにしましょう(笑)。

2022年11月8日午後8時43分

 ちなみに、1580年は、スペイン国王フェリペ2世がポルトガルを併合した年です。この8年後の1588年にスペイン無敵艦隊が、アルマダの海戦で英蘭連合艦隊に大敗したことで徐々に国力が衰えていきますから、この年はスペインが世界一の覇権大国だったと言えます。でも、「皆既月食+土星食」は日本でしか見られなかったのかしら?

2022年11月8日午後8時31分

 何もよく分かっていないのに、ブログを書くべきではありませんね。このブログを読んだ322年後の人類に笑われてしまいますよね。(東京~新潟より東、つまり東北、北海道辺りでは、天王星食までは見られなかったようです。)

 ともかく、いずれにせよ、私は、今回、442年ぶりの歴史的瞬間の現場に立ち合った気分になれました。

ゾルゲは今でも生きている?=「尾崎=ゾルゲ研究会設立第一回研究会」に参加して来ました

 11月7日(月)は、戦前の上海と東京で大掛かりな諜報活動を行ったソ連軍参謀本部情報総局(GRU)所属の大物スパイ、リヒアルト・ゾルゲとその協力者の元朝日新聞記者で近衛内閣嘱託だった尾崎秀実が国防保安法違反などで処刑されて78周年の日でした。この日に合わせて、「尾崎=ゾルゲ研究会設立第一回研究会」が東京・霞ヶ関の愛知大学東京霞ヶ関オフィスで開催されるというので、仕事をサボタージュする顰蹙を買いながらも、参加してきました。

尾崎=ゾルゲ研究会設立第1回研究会での名越健郎氏

 なぜ、参加したのかと言いますと、10月に刊行されたゾルゲ研究家のアンドレイ・フェシュン・モスクワ国立大学准教授編の「ゾルゲ・ファイル 赤軍情報本部機密文書 1941~45年」(みすず書房、7040円)を翻訳した名越健郎拓殖大学教授が、小生の大学と会社の先輩に当たる周知の人だったからです。

 それに、小生は、かつて元朝日新聞記者の白井久也氏と社会運動研究家の渡部富哉氏が創設したゾルゲ研究会の「日露歴史研究センター」(現在解散)の幹事会員として活動し、途中で不愉快なトラブルがあって辞めましたが、ゾルゲ事件に関する書籍は50冊は読破し、ある程度の基礎知識があったからでした。

 「尾崎=ゾルゲ研究会」は、前述の日露歴史研究センターの解散を受け、私もお世話になった加藤哲郎一橋大・早大名誉教授が代表、鈴木規夫愛知大学教授が事務局長を務めて新たに発足したものです。加藤氏は今年に入って大病を患い、入退院を繰り返しておられたので、大層心配しましたが、今回、一応元気そうなお姿で登壇されたので少し安心しました。

 最近の日本でのゾルゲ事件研究者は年々減少傾向にあり、「何故、今更、ゾルゲ事件なの?」という人が多いのですが、ロシアでは反比例するかのように、最近は異様なゾルゲ・ブームで、国内で数十冊の本が刊行されたり、ゾルゲを主人公にしたドラマが放送されたり、モスクワ市内にゾルゲ駅が出来たり、ロシア国内でゾルゲ通りや、50個以上ものゾルゲの銅像が建てられたりしたというのです。

 先述したフェシュン・モスクワ国立大学准教授編の「ゾルゲ・ファイル」も、フェシュン氏が、GRUがやっと公開した1930~45年に掛けてのゾルゲの650通の電報などを「新発見」として出版したものです(今回、名越氏らが邦訳したのは1941~45年分のみで、1930~40年分は未邦訳。皆さんのお力で本が売れたら未邦訳分は改めて出版されるようです)。日本でも、ゾルゲ事件の捜査に関わった司法省の思想検事太田耐造の「ゾルゲ事件史料集成 太田耐造関係文書」(加藤哲郎編・不二出版)が出版されるなど、本来なら新たなゾルゲ研究が日本でもブームになってもおかしくない状況なのです。

久しぶりに新橋「末げん」へ。かま定食1200円 、明治42年創業。原敬、六代目菊五郎、三島由紀夫らがこよなく愛した味と店

 さて、会場には、日露歴史研究センターの事務局長だった川田博史氏や理事だった今年御年92歳の渡部富哉氏(頗るお元気!)、それにインテリジェンス研究所理事長の山本武利氏まで参加されていたので、まるで同窓会のような雰囲気でした。

 ZOOMを使ったオンラインで、先述の「ゾルゲ・ファイル」の編著者で、モスクワ在住のフェシュン氏まで参加し(本来は東洋学者で、仏教思想が専門。日本語がペラペラでした)、大変実りの多い第1回研究会だったと思います。内容については、このブログでは書き切れないので、私が注目した2点だけこのブログに書きたいと思います。

 ◇ゾルゲ以外に東京でスパイがわんさか

 一つは、翻訳した名越氏によると、「ゾルゲ・ファイル」で今回初めて明らかになった新事実のトップが、東京にはゾルゲ諜報団以外に、ソ連による非合法のスパイが5人もいたというのです。コードネームだけ分かっていて、イスパリン、イバ、イリアダ、イーラ、マロンの5人です。いずれも正体不明で恐らく、誰にも気づかれず、成果を挙げて、各々、母国に帰国したと思われます。このうち、イリアダはドイツ大使館にいた女性だといいます。この他、ユダヤ系米国人カルメン(26歳、女性)も雇っていたというので驚きです。まあ、これこそが正真正銘のスパイなんでしょう。ゾルゲ事件のように、正体が解明されてしまったスパイ事件の方が、歴史上に非常に稀なのです。

 ところで、スターリンは猜疑心が非常に強く、周囲の誰も信用せず、粛清を繰り返していたと言われていましたが、何故、ゾルゲの貴重な超機密情報まで信じなかったのか、私自身、よく分からなかったのですが、今回、話を聞いて、考えられることは、スターリンは、ゾルゲ以外にこれだけのスパイを東京に放っていたので、ゾルゲ一人だけを信用する必要がなかったからかもしれません。

 もう一つ、スターリンがゾルゲを信用しなかった理由が、ゾルゲがコミンテルン(国際共産主義運動)の一員だったので、スターリンは、ゾルゲのことを権力闘争で敵対したトロツキー派とみなしたのではないかという名越氏らの説明には十分納得し、長年の疑問が氷解するようでした。スターリンは「一国社会主義」であり、「世界社会主義革命」のトロツキー派とは相容れないわけです。

 ゾルゲがソ連国内で名誉回復をしたのはフルシチョフ首相時代の1964年で、フルシチョフはスターリン批判をした反スターリン派だったということも整合性がつきます。そして、現在のロシア・プーチン大統領も「高校生の頃、ゾルゲのようなスパイになりたかった」(2020年10月7日の68歳の誕生日、タス通信)と発言したことがあり、大祖国戦争を勝ち抜いた英雄としてゾルゲを利用して国粋的な覇権主義を煽り、それが今のロシア国内でのゾルゲ・ブームにつながったのではないでしょうか。

 何と言っても、今年2月のロシアによるウクライナ侵攻です。いつまでたっても休戦しないのは、厄介なスパイ・ゾルゲの亡霊が今でも生きているような感じがします。

意外に知らなかった史実=「『大名家』の知られざる明治・大正・昭和史」

 「『大名家』の知られざる明治・大正・昭和史」(ダイアプレス、2022年9月21日発売、1430円)を読了しました。

 残念ながら、ちょっと誤植が多い本でしたが、執筆・監修がよくテレビに出演されている著名な河合敦先生ということですから、版を重ねれば修正されると思われます。何しろ、百科事典のような情報量が満載の本ですから、書斎の手近に置いて、時たま参照したいと思うのです。

 昨日も自宅からちょっと離れた紀伊國屋書店に自転車で行ったところ、この本が山積みになって売られていたので、巷では結構、評判を呼んでいることでしょう。是非とも、もう一度、校正・修正してほしいものです。

 この本を渓流斎ブログで取り上げるのは三度目です。(2022年11月1日付「維新後、お殿様たちはどうなったの?」、11月4日付「江戸三百藩のはじめとおわり」)。そろそろ、ネタも尽きかけましたが(笑)、最後に感想めいた終わり方にしたいと思います。つまり、意外に知らなかった史実がこの本から読み取ることが出来たのです。

 まず、大名とは何ぞや?ということですが、簡単に言えば、1万石以上の城主のことです。分家筋の支藩には、お城がなく、陣屋だけのところもありますが、それでも、石高は1万石以上が相場です。では、その大名は誰がなれるのか?と言えば、江戸三百藩で一番多いのは、当然のことながら、徳川家の血筋でしょう。江戸と御三家(尾張、紀州、水戸)は徳川家なのですぐ分かりますが、家康が徳川と名乗る前は、松平元康でしたから、松平家の藩もかなりあります。

 一番有名なのが、越前福井藩で、家康の次男結城秀康が松平に改姓して越前に移封されました。幕末には、四賢侯の一人、松平春嶽(慶永)を輩出します。次に有名な藩主は、最後まで新政府軍と戦った会津藩の松平容保でしょう。容保はもともと高須四兄弟の一人で、尾張藩の支藩高須藩(松平尾張家)から養子として入った藩主です。会津藩は、二代将軍徳川秀忠の庶子である保科正之が、三代将軍家光によって配されたもので、代々松平保科家が継いでいました。

 この他、松平家が藩主になっているのは、山形県の上山藩、福島県の守山藩(水戸藩の支藩)、茨城県の常陸府中藩(水戸支藩)、群馬県の前橋藩(越前支藩)、高崎藩(大河内家)、小幡藩(家康の女婿奥平家)、千葉県の多古藩(久松家)、埼玉県の忍藩(奥平家)、川越藩(松井家)、愛知県の三河吉田家(大河内家)、岐阜県の岩村藩(大給家)、長野県の松本藩(戸田家)、上田藩(藤井家)、三重県の桑名藩(久松家、幕末は高須四兄弟の一人で、会津藩の松平容保の実弟定敬が藩主に)、兵庫県の尼崎藩(桜井家)、愛媛県の伊予松山藩(久松家)と今治藩(同)、西条藩(紀伊支藩)、岡山県の津山藩(越前松平家)、島根県の広瀬藩(越前松平家)、大分県の杵築藩(能見家)など多数あります。

 山形藩、茨城県の結城藩、千葉県の鶴牧藩、和歌山県の新宮藩など水野家の藩主大名が多い。この水野家というのは、家康の生母於大の方の実家で、家康の従兄弟に当たる水野家の武将が大名に封じられていたわけでした。

 こうして、家康の縁戚関係と「徳川四天王」など家臣団の有力者から大名が選ばれていた場合が多かったことが分かります。

 本能寺の変で織田信長と嫡男の信忠が討ち死にしたため、織田家の大名はいないと思っていましたら、おっとどっこい、失礼ながら、しぶとく生き残っていました。山形県の天童藩は、信長の次男信勝の家系、奈良県の芝村藩は、信長の弟有楽斎(長益)の家系、兵庫県の柏原藩は、信長の弟信包の家系が立藩して繋がっています。

 それに比べて、秀吉の豊臣家は、大坂の陣で滅亡させられてしまい、(淀君と秀頼は自害)、江戸になって大名は一人もいません、と思っていたら、秀吉の妻である北政所の兄木下家定が、関ケ原の戦いで東軍で武功を立て、大分県の日出藩を立藩し、幕末まで木下家が藩主として続ていました。木下家の19代当主木下崇俊氏は学習院時代、明仁上皇さまと御学友で、演劇部に所属し、オノ・ヨーコと演劇仲間だったそうです。1934年生まれで、惜しくも今年(2022年)亡くなられたようです。

 長州藩の毛利家は、鎌倉幕府初代政所別当の大江広元を祖とし、薩摩藩の島津家は、鎌倉幕府の御家人島津忠久を祖とすることはよく知られていますが、長崎県の五島藩は、平清盛の異母弟平家盛が祖、宮崎県の高鍋藩は平安時代から筑前国秋月を領した名族秋月氏が祖だということは知る人ぞ知る史実でしょう。

 最後に、私は北海道の帯広に赴任したことがありますので、同じ十勝の池田町というのは大変馴染みがある町です。戦後、葡萄を栽培してワインを町の名産にし、池田町のワイン城は有名になりました。ポップスのドリカムのボーカル吉田美和さんの出身地としても知られています。その池田町は、維新後、北海道開拓に力を入れて「池田農場」を開いた旧鳥取藩の当主・池田仲博や「池田牧場」を開いた鳥取藩の支藩である鹿野藩の池田家から付けられたようです。知らなかったので、へーと思ってしまいました。また、釧路市にも鳥取町がありましたが、これも、明治17~18年に旧鳥取藩士が移住したことから付けられました。これは知っておりました(笑)。

【追記】

 もう知らない方も多いかもしれませんけど、映画「ゴジラ」やドラマ「渡る世間は鬼ばかり」などに出演された女優の河内桃子(こうち・ももこ、1932~98年、病気のため66歳没)は、三河吉田藩主の大河内松平家の末裔だったんですね。清楚な美人で、やはり、どこか気品と華がある女優さんでした。彼女の御主人のテレビプロデューサー久松定隆氏は、今治藩主の久松松平家の末裔ということで、お似合いの夫婦だったことになります。

見逃せません「創立150年記念特別展 国宝」=東京・上野の東京国立博物館

 東京・上野の東京国立博物館で開催中の「創立150年記念特別展 国宝」(12月11日まで)を観に行って参りました。

上野「東京国立博物館」

 未だコロナ禍のため、インターネットで、日時指定の「事前予約」でしか入れないので、申し込みサイトにアクセスしたところ、まず、土日の週末はあっという間に、既に完売、祝日も駄目。平日は、一応仕事に行っているので、仕方がないので、仕事が終わった金曜日の夜に予約し、その通り、行って参りました。(金、土は午後8時まで開館)

 随分、人気あるんですね。メディアはNHKと毎日新聞が主催なんですけど、大衆の情報収集能力は凄いものです(笑)。でも、庶民から言わせていただくと、観覧料一般2000円は高過ぎますよね。どなたかが新聞に投書してましたけど、東京国立博物館が所蔵する国宝を展示するわけですから、作品を運搬する運送料もそれ程かからない。第一、輸送で保険をかけることもない。どうしてそんなに高いのか?といった疑問は、私も同感してしまいました。

 「国宝展」の触れ込みは、「史上初 所蔵する国宝89件を全て展示」と「明治から令和までの東博150年の歩みを追体験」です。まず、前者の「国宝89件」は日本中の博物館の中で最大のコレクションです。(うち19件が刀剣)国宝は全国で1131件ありますが、東博でしか観られないのなら、この機会は逃せません(途中入れ替えあり)。

上野「東京国立博物館」金剛力士立像

 もう一つの「東博150年」ということは、「鉄道150年」と全く同じ明治5年に歴史が始まったということになります。薩長土肥の新政権が明治維新を起こしてわずか5年で鉄道を新橋~横浜間に敷設したことは驚愕的ですが、同じように、わずか5年で、身分の差がなく一般市民に美術工芸品を公開する「ハコ」をつくるという思想を現実化させたということも感心すべきだと思います。これは、初代館長を務めた元薩摩藩士で、幕末に英国留学して大英博物館などを体験した町田久成の功績が大きかったことでしょうが、町田一人だけでなく、当時の廃仏毀釈令によって仏像や仏具などが破壊されたり、海外に二束三文で売られたりした時代背景もあったかもしれません。同時に、幕末から明治にかけてパリやウイーンなどで開催された万国博覧会をきっかけにジャポニスムがブームになり、全国から日本文化の粋を集める博物館創設が喫緊の課題だったことでしょう。これも、背景には、欧米列強に負けないように、もっと好意的に言えば、欧米列強の植民地にならないよう「富国強兵」の国家主義思想があったかもしれません。

上野「東京国立博物館」金剛力士立像 12世紀・平安時代

 さて、「国宝展」です。事前にネット予約したのに、「平成館」の入り口付近で雲霞の如く人が並んでいるのには吃驚しました。そして、人が列をつくって並んでいるのに、「優先券」か「スポンサー招待券」でも持っているのか知りませんけど、脇からスイスイ入場する輩が何人も何人もいて、少し腹が立ちました。

 10分ぐらい並んでやっと入場できましたが、会場内も空いているとは言えず、とぐろを巻く程ではありませんでしたが、やっと二列目の遠くから拝見できる程度でした。小生は背が高いので何の苦も感じませんでしたが。

上野「東京国立博物館」 菱川師宣「見返り美人図」11月13日まで展示

 写真を使わせて頂いている「金剛力士立像」と「見返り美人」は撮影オッケーのものですから、盗み撮りしたものではありません(笑)。

 私は東博にはかつて何度も足を運んでおりますので、何点かの「国宝」は何度も拝見しておりますが、改めて感心したのは、法眼円伊筆「一遍聖絵 巻第七」(1299年)(※鎌倉時代なのに、ほとんど劣化せず色彩が鮮やかで描写も緻密でした)と渡辺崋山の「鷹見泉石像」(1837年)(※鷹見泉石は古河藩家老。以前、古河市の城下町址を散策したので懐かしい。渡辺崋山は、冤罪の「蛮社の獄」で切腹。「門下生3000人」と言われた儒者の佐藤一斎も、「南総里見八犬伝」の滝沢馬琴も崋山を擁護しなかったとドナルド・キーン著「渡辺崋山」に書かれていたことを思い出しました)でした。

 写楽の「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」などは重要文化財に指定されていましたが、浮世絵では最も有名な北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」が国宝にも重文にも指定されていなかったことは意外でした。