🎬「怪物」は★★★★

 今年3月に観た米アカデミー賞作品賞「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」があまりにもつまらなくて、途中退席した話をこのブログに書きました。私は映画好きなので、結構、劇場に足を運んでいたのですが、それ以来、トラウマになってしまい、どうも映画館に行く気がしなくなってしまいました。

 でも、5月のカンヌ国際映画祭で、是枝裕和監督作品「怪物」が脚本賞(坂元裕二)、ヴィム・ヴェンダース監督作品「パーフェクト・デイズ」(11月29日公開予定)が男優賞(役所広司)を受賞したという朗報が久し振りに入り、「怪物」は公開中ということで、重い腰を上げることにしました。ハリウッド映画はこりごりですが、日本映画の是枝作品なら気心も知れているので、ま、いっかといった感じでした(笑)。

 (この後、内容に触れるので、これから御覧になる方は、この先はお読みにならない方がいいと思います。逆に言うと、御覧になっていないと、何のことを言っているのかさっぱり分からないと思います。)

有田市

 さすが、カンヌで脚本賞を獲っただけに、今や超人気脚本家の坂元さんのオリジナル・シナリオは巧みに出来ていました。特に、前半は、シングルマザー役を演じる安藤サクラの自然な演技に圧倒され、感情移入してしまいましたが、後から考えてみれば、坂元さんのあらゆる無駄を省いた研ぎ澄まされた「少ない会話」のシナリオが、観る者の想像力を喚起させ、安藤サクラを本物のシングルマザーだと錯覚させるほどの力がありました。満点です。

 ただ、あまり褒めすぎると何なので、一家言付記させて頂きますと、確かに人物像から物語の展開まで緻密に構成され尽くされてはいますが、やはり、色んなものを詰め込み過ぎている感じもしました。物語はつながってはいますが、第1話はシングルマザーの視点、第2話は、教師保利の視点、第3話は子どもの視点で描かれ、「事実」が三者三様なところは、芥川龍之介の「藪の中」か、それを翻案して映画化した黒澤明の「羅生門」を連想させます。子どもたちが親に隠れて小さな「冒険」をする場面は、スティーブン・キングの短編を映画化した「スタン・バイ・ミー」を思い起こさせます。

 しかし、そもそも映画はフィクションで、普段の日常生活では味わえないドラマの要素が不可欠だとしたら、この映画は大成功だと言えます。長野県の諏訪市と思われる所を舞台に、最初に街中のガールズバーなどが入った雑居ビルの大火事シーンで始まり、大雨で子どもたちが遭難したのではないかという「事件」も起きます。それだけでなく、この映画では、現実にもある子どものいじめや、責任逃れの学校当局と右往左往する教頭、スキャンダルを取材する週刊誌記者なども登場し、「あり得そうだなあ」と観ている者を引き込んでしまいます。

 先述した通り、物語は3話構成で、違う視点から描かれているので、何が真実か分からなくなってきてしまいます。特に、永山瑛太演じる教師保利が、第1話と第2話では全く違う人物として描かれて驚かされ、「人の噂は怖ろしい」と思わせます。全体的に緻密に構成されていて、ジグソーパズルのように、あらゆる場面に関連性があり、最後に全てのピースが嵌められる、と思わせながら、でも、真実とは何だったのか、もう一度最初から見直したいという感覚にも襲われます。こういう映画なら、日本の庶民の生活事情を知らない欧米人でもよく理解してもらえるのではないか、と思った次第です。

 くどいようですが、色んな要素を「本歌取り」した、ちょっと詰め込み過ぎでしたが、よく出来た巧みな映画でした。

奴隷を巡る内戦と債務上限引き上げ問題との関係

  昨日のブログで、奴隷狩りするアマゾンアリや奴隷取引をする人間のことを書きましたが、読売新聞を読んでいたら、国際経済欄に米国の奴隷問題の話が出てきたので、その偶然の一致に驚いてしまいました。

 それは、国際経済学者の竹森俊平氏が、デフォルト危機に陥るのではないかと不安視された米連邦債務上限引き上げ問題について解説した記事でした(2023年6月2日付読売新聞朝刊)。債務上限の決定権を何故、議会が持つようになったのか、その経緯について歴史的に説明してくれています。近年は民主党の大統領の時に、共和党が議会の過半数を握る「ねじれ状態」が生じたりすると、共和党は、歳出削減を勝ち取ろうと、この上限引き上げを拒む瀬戸際作戦を画策するといいます。最初にそれが起きたのがカーター民主党政権時代の1979年5月で、不慮の不履行(テクニカルデフォルト)となりました。当時の私は、経済音痴の不勉強な学生でしたので、あまり覚えていません(苦笑)。同じ年に起きたホメイニ師らによるイラン革命はよく覚えているのですが。。。

「隣りの席に鞄を置くな」と言われた

 竹森氏は、「もともと政治の根本理念を巡る国内対立の深刻さこそが米国史の独自性だ」ということで、その典型的な例として南北戦争(1861~65年)を挙げています。この南北戦争は、奴隷制度を「自由の侵害」と考える北部と、奴隷禁止を国民の奴隷に対する「所有権の侵害」と考える南部の理念が真っ向から衝突したものだったといいます。

 つまり、19世紀になっても人間はいまだに奴隷を巡って争いを続けていたのです。ダーウィン先生(1809~82年)の進化論が正しければ、人間はもっと進化して賢くなっていいはずなのに、です。(ダーウィンは、南北戦争は同時代の戦争として経験していました!)

 また、この記事で、この奴隷を巡る南北戦争での戦死者は、米国史上最大の70万人だったことが書かれていたので、私なんか「えっ!?」と驚愕してしまいました。先日、この渓流斎ブログで、第二次世界大戦中の独ソ戦について触れ、ドイツとソ連の戦死者は、民間人も併せて3000万人だったと書いたばかりでしたので、不謹慎ながら、「えっ?70万人が最大なの?」と思ってしまったわけです。

 そこで、調べてみたところ、過去の米軍の死者数は、第2次大戦が40万5000人、ベトナム戦争5万8000人、朝鮮戦争3万6000人(米ABCニュース)でした。米国は、海外での戦争より、国内の内戦での死者数の方が多かったということになります。

 日本が先の太平洋戦争で犠牲になった戦死者数は民間人も含めて、310万人と言われています。この中には「米国の若者の犠牲を防ぐための正義の手段」と米国で教育されている原爆投下による犠牲者も含まれています。

「いらっしゃいませ」も「有難う御座いました」も言わない! ファストフード店でもない高い店なのに、食器を返却させ、制限時間まで通達する。こんな店、二度と行くかあ~!金輪際。

 もう一度書きますが、米軍の第2次世界大戦での犠牲者は40万5000人。奴隷を巡る内戦での死者数は70万人でした。ということは、米国は、海外での戦争や外交より、内政を重視しないと損害が大きいと米国史が教えてくれているようなものです。先に、バイデン米大統領が債務上限引き上げ問題で、G7会議を欠席するだの、参加してもすぐ帰国するだの、色々と話題になったのは、こうした外交より内政を重視せざるを得ない国内事情があったわけですね。

 話はダーウィンの進化論から奴隷問題、債務不履行問題にまで及び、何か、脈絡がないような話でしたが、根っ子はつながっているのです。

奴隷狩りするアマゾンアリから独裁者の末路を思う=ダーウィン「種の起源」

 相変わらず、チャールズ・ダーウィン(1809~82年)著、渡辺政隆訳の「種の起源」(光文社古典新訳文庫)を読んでいますが、この本では、同時代の多くの自然科学者の論文や観察記録等が引用されています。

 この中で、「昆虫記」で有名なジャン・アンリ・ファーブル(1823~1915年)の名前が出て来てたので、「へ~」と思ってしまいました。調べてみたところ、ファーブルはダーウィンより14歳年少ですが、ダーウィンがファーブルの観察者としての実績を評価して親交があったようです。ただし、熱心なカトリック教徒だったファーブルは進化論に関しては批判的だったといいます。これまた、「へ~」です。二人の話はかみ合っていたのかどうか、不思議です。

築地・町のパスタ屋さん「ソノコンテント」

 さて、ダーウィンは、当時、アリの研究で有名だったピエール・ユベールやF・スミスの観察記録を引用しています。ただし、本文の記述が難解ですので、そのまま引用するとよく分からないと思われるので、私が勝手に補弼編纂して引用してみます。

 アマゾンアリと呼ばれる蟻がいます。南欧とアジアの一部に自生する蟻です。この蟻は、クロヤマアリなどを奴隷として使う蟻として知られています。アマゾンアリの雄と妊性のある雌は働かず、不妊の雌である働きアリは、奴隷狩りでは勇壮活発に働きますが、それ以外の仕事はしません。自分たちの巣を作ることも、幼虫の世話もできないといいます。「それ以外の仕事」は奴隷アリがやるわけですね。

 このアマゾンアリは、完全に奴隷に依存した生活を送っていることから、「奴隷がいなければ確実に絶滅する」とダーウインは書いています。ユベールが実験で、30匹のアマゾンアリを奴隷アリなしで容器に閉じ込めたところ、多くの個体が餓死したというのです。容器には、彼らの一番好きな食べ物をたっぷり入れて、仕事の意欲をわかせようと幼虫やサナギまで一緒に入れたのにも関わらず、アマゾンアリは一切何もせず、自分で食べることさえも出来なかったというのです。

 また、ダーウィンは「アカヤマアリが奴隷狩りするアリであることを最初に発見したのもピエール・ユベールである」と紹介しています。ダーウィン自身も、アカヤマアリがクロヤマアリを奴隷化しようと闘って、撃退されている現場を目の当たりし、クロヤマアリのサナギ一塊を掘り起こして、彼らの「戦場」近くの露出した地面に置いたところ、アカヤマアリが大慌ててそのサナギをくわえて運び去ったと書いています。

 これらの記述を読むと、蟻でさえ、奴隷狩りをするぐらいですから、同じ動物界の霊長目ヒト科の人間も、同じように奴隷狩りや奴隷取引をしていたことがよく分かりました。奴隷取引の話は、古代やリンカーンによる奴隷解放の19世紀どころか、21世紀の現代でも似たような話は聞きますからね。

築地「千里浜」刺身定食950円

 そして、何と言っても、「アマゾンアリは、完全に奴隷に依存した生活を送っていることから、奴隷がいなければ確実に絶滅する」という話を読んで、どうも北の独裁国家の独裁者のことが思い浮かんでしまいました。自分たちの国民を奴隷化して、彼らが餓死しても見て見ないふりして、好き勝手に、好きなだけミサイルを飛ばして大喜びをしておりますが、実情は、独裁者は、完璧に「民主主義人民共和国民」という名の奴隷に依存して生きていて、自分一人では何も出来ないのです。アマゾンアリのように、奴隷がいなくなってしまえば、独裁者は絶滅するのはないでしょうか。

 それこそが、自然淘汰と言いますか、自然の法則の理に適う話です。

 ただし、英オックスフォード大の研究チームが運営する国際統計サイト「Our World in Data」によると、世界で民主主義を享受する割合は2017年の50%を頂点に下落し、2021年では世界人口(78.6億人)のうち23億人(29%)に下がったといいます。つまり、世界人口の71%に相当する55.6億人が「投票権」の保障を十分に受けていない、つまり独裁国家だというのです。

 あんりまあ、です。でも、人間も自然界の動物ですから、ほとんどが、奴隷アリや働きバチに似た同じようなもので、独裁国家の方が自然の理にかなっている、と言えないこともありません。何だか、よく分からなくなってきますが、そう考えると、自然の法則と実体が見事に一致します。あくまでも、私の意見ですが、インドはカースト制のある身分社会と批判されますが、先進国の欧州やアジア諸国でさえ、王政や貴族がいまだに残っている国が多くあります。

 自然界が生存闘争の末の適者生存で自然淘汰されるとしたら、身分社会は自然の理に適うということになってしまうことに気付かされます。語弊を恐れずに言えば、エジプトのピラミッドにせよ、姫路城にせよ、身分社会から生み出された世界遺産であり、逆に言えば、身分社会でなければ生み出せなかった世界遺産だからです。(私は身分社会を是認しているわけではなく、結果的に、世界は独裁国家と身分差別社会が大半を占めているという現状を暴露したかったのです。)

自然界は生存闘争だけの世界なのか?=真の自己に目覚め生き延びる

  相変わらず、ダーウィンの「種の起源」を読んでおります。先日は「自然淘汰」が頭にこびりついて離れない、とこのブログに書きましたが、まだまだありました。「生存闘争」もそうでした。struggle for existence の訳ですが、私の世代は「生存競争」と習い、そう覚えていました。かつての「競争」より新訳の「闘争」の方がどこか熾烈な争いの印象があります。

 生存闘争とは、自然界で、動物も植物も、弱肉強食のジャングルの中で、生き残りを懸けて、熾烈な闘いを繰り広げるということです。それによって、弱者は自然淘汰され、絶滅していくのです。勝ち残った強い者だけが生き残るのです。そこには、ダーウィンの造語ではありませんが、「適者生存」という法則で絶滅を免れたものだけが子孫を残すことが出来て、生き延びていくわけです。

 同じ種や仲間同士でも、雌(もしくは雄)を巡っての闘争があります。勝ち抜いた強者しか自分の子孫が残せないのです。

 このように、自然界は、動物も植物も、絶滅せずに、生存闘争に勝ち抜いて生き延びることが、唯一の目的であり、意味のように見えてきます。それは、動物界霊長目ヒト科ヒト属の人間にも同じことが言えるのかもしれません。つまり、人生には目的も意味もない、ということです。もし、唯一、人生に意味と目的があるとしたら、それは、「生き延びる」ということになります。

 人生に意味も目的もない、と言われれば、誰でも戸惑い、ニヒリズムに陥りますね。しかし、それは現実です。一生には限りがありますから、何をやっても一緒です(個人的にはひたすら善行を積みたいと思っていますが)。人間はニヒリズムに陥って絶望したくはないからこそ、芸術や制度をつくったり、宗教や神を創造したりしているのではないでしょうか。

 個人的にそういう思想といいますか、考えに到達しましたので、「迷える子羊」の友人から悩み事の相談メールがあったので、以下のような話に転化してお応えしておきました。

築地本願寺

 ところで、小生は最近、宗教書を乱読しておりましたが、宗教とは「壮大なフィクション」だということを確信しました。

 キリスト教の場合、イエス・キリストが人間として存在したことは歴史上の事実ですが、イエスが神の子であり、磔刑されて死んだのに復活し、最後の審判が下されるということは、壮大なフィクションです。それらを信じることが出来る人だけが、信者です。

 つまり、信仰とは壮大なフィクションを信じることなのです。そして、「信じれば救われる」という教えです。(確かに法悦の中で救済を得た人もいます)

 仏教も同じことが言えます。

  紀元前5世紀のインド(今のネパール)に釈迦という王子がいて、出家して覚りを開いたことは歴史的事実です。ただし、釈尊は「真の自己に目覚めよ」と覚りを開くことを説いただけで、それ以上の話は壮大なフィクションです。「阿弥陀様を拝めば救済され、極楽に行ける」というのも壮大なフィクションです。特に日本では法然を中心に西方浄土に住む阿弥陀如来を(「選択本願念仏集」などの著作で)「選択」しました。となると、東方妙喜世界にいる阿閦(あしゅく)如来や薬師如来を切り捨てたわけです。同時に北の不空成就如来と南の宝生如来も切り捨てたのです。だから日本人は、阿弥陀如来以外の切り捨てられた仏様についてはほとんど何も知らないのです。しかし、その一方で、阿弥陀如来の脇侍に過ぎなかった観音菩薩も独立して、日本では多くの像が作られるようになりました。広大無辺の慈悲を持つ「観音様」は、「救いの神」として広く信仰されるようになったのです。観音信仰がこれほど篤いのは世界でも日本ぐらいではないでしょうか。

 ただし、阿弥陀如来も観音菩薩も、それに加えて、釈迦入滅後、56億7000万年後に現れるという弥勒菩薩も、もともとペルシャ(イラン)の神様だったと言われます。ゾロアスター教の神ともいわれます。

 仏教は、うわばみのように、あらゆる宗教を取り入れて変容していきます。ジャイナ教、バラモン教、ヒンズー教…等です。挙句の果てには、後期密教では人間の煩悩まで肯定します。性欲も肉食妻帯もライバル同士の仲違いも殺人までも呪術として容認します。とてもついていけません。(後期密教は、日本には伝わらず、チベットに残っているだけです)

 インドは複雑で、とても、一言で言えませんが、根っ子には、インダス文明を築いた南インドのドラヴィタ人を征服したアーリア人がバラモン教を創始し、現在、カースト制度を含めヒンズー教に引き継がれていることがあります。このアーリア人というのは、諸説ありますが、イラン系という説が有力です。嗚呼、それでインドなのにイラン神の影響があったのか、と小生は納得しました。

築地本願寺

 話が長くなるので、一つだけ補足します。

 釈迦は、衆生を救済する神を創造したわけではありません。釈尊はただ「真の自己に目覚めよ」と説いたのです。それは、究極的に、「他者に依存せず、独立して生きよ」ということなのです。釈迦入滅間際に、不安になった弟子のアーナンダが、「師がいなくなったら、我々はどうやって生きていったら良いのですか?」と尋ねた時に、釈尊がそう答えたといいます。

 「他者に依存せず、隷属せず」ということは法華経の思想ですが、小生はそれに「他者を支配せず」を付け加えたいと思います。

 後期密教は、とても信仰出来ませんが、この「他者に依存せず、隷属せず、他者を支配せず、独立独歩で生き延びる」という仏教から派生した思想だけは、私自身、信仰したいと思っています。

 不安や悩みは、六波羅蜜の忍辱(にんにく)や諦念などのメンタルヘルス・ケアで克服出来ます。性悪説に近いかもしれませんが、他者に隷属せず、他者を支配せず、「真の自己」を目指して、小生は残りの人生を生き延びていくつもりです。

自然淘汰で《渓流斎日乗》は要らない?

 ダーウィンの「種の起源」を読んでいると、妙に「自然淘汰」という言葉が頭にこびりついて離れなくなってしまいました。

 自然淘汰は、natural selection の訳で、「自然選択」と訳してもいいのですが、今読んでいる本の訳者である渡辺政隆氏は、選択ではなく淘汰にしたことについて、「生物の変異個体を篩(ふるい)にかけるという意味を強調したいという意図がある」と説明しています。

 やはり、「淘汰」の方が、何か、目に見えない何かが、故意的に働きかけて個体を変異させたり、絶滅させたりしている雰囲気が伝わります。「目に見えない何か」となると、学問的ジャンルが全く違いますが、どうもアダム・スミスの「国富論」で出て来る「見えざる手」を連想してしまいますね。

 また、サンテグジュペリの「星の王子さま」に出て来る「いちばん大切なことは目にみえない」という言葉も浮かんで来ます。そんな目に見えないものとは、山本七平さんに言わせれば、日本人なら忖度したがる「空気」というものかもしれません。

 街を歩いていて、シャッターを下ろして閉店した何十年も歴史のある老舗店に出食わすと、大変失礼ながら、「自然淘汰かな」と思ったりしてしまいます。

新富町「TRAM ST. CAFE」ガパオライス 今どき750円です!

 20世紀の終わりにソ連邦や東欧の共産主義国が崩壊しましたが、あれも、「自然淘汰」だったのかしら? 私自身の小さな経験では、ソ連時代はモスクワ空港にトランジットで行ったことしかないのでよく分かりませんが、薄暗くて活気がなく陰気な感じがしました。他に、社会主義国は、貧乏旅行をした際、旧ユーゴスラビアの首都ベオグラード駅の売店で、まだサンドイッチなど豊富にあるのに、「もう時間だ」と言って、目の前でカウンターをバタンと閉められてしまい、空腹を抱えたまま、また列車に乗り込んだ鮮烈な想い出があります。食べ物の恨みは恐ろしい。共産主義国なんかには住みたくないと思いましたよ。

 キューバに旅行した時もそうでした。平等をうたう社会主義国のはずなのに、首都ハバナでさえ、物乞いするストリート・チルドレンに溢れ、黒人ともなると特別な許可証がない限り、自分の住む区域の外には勝手に出られないことも知りました。理想と現実は別物だということを実感しました。

 そうそう、創刊101年と日本最古の歴史を誇る「週刊朝日」が本日発売号で、休刊になるというニュースには驚きました。週刊誌というメディアが、もう時代についていけなくなって「自然淘汰」されたのでしょうか?いえいえ、週刊誌には、新聞では書けないディープな情報が某筋から垂れ込んで来るので欠かせないはずです。昨日、更迭された岸田首相の御令息のスキャンダルも、報道したのは週刊誌メディアでした。 えっ? それでも週刊誌はいらない、ネット情報で十分ですか? でも、ネット情報はどこまで信用できますかねえ? 結局、ネット情報は、ニュースソース不明の「要らない情報」に溢れ、アクセスするだけ時間の無駄遣いではないんでしょうか。

 えっ?何々? 《渓流斎日乗》もネット情報だから、要らない情報ですか? う~ん、勘弁してくださいよ。そこんとこ、どーか、ひとつ!

研究者生活も裕福でなければ続かない?=ダーウィン「種の起源」を読みながら

 チャールズ・ダーウィン(1809~82年)の名著「種の起源」(1859年)の渡辺政隆氏による古典新訳(光文社文庫、2009年9月20日初版)を3月に購入(2021年6月20日第13刷)しましたが、色々と御座いまして、途中で中断し、法華経や密教などの仏教書を優先して読んでおりました。

 先日、仏教書に関しては一区切りを付けましたので、今再読しております。(何か日本語が変?)「種の起源」といえば、超有名な古典です。ちょっと身構えて読み始めたのですが、拍子抜けするほど常識的な当たり前のことが書かれているのです。

 と、いけしゃあしゃあと言えるのは、実は、我々がダーウィンから見て150年後の未来人だからなのです。 「生存競争」(この本では「生存闘争」)、「適者生存」、「自然淘汰」、「用不用説」…。現代社会では、極めて常識になっておりますが、ダーウィンが生きていた当時は、極めて異様な危険思想だったようです。特に、いまだにキリスト教会勢力が権勢を誇っていた当時は、天地やヒトは「神が創造したもうた」ことが真実で常識であり、進化などという世迷言はあり得なかったのです。高貴で叡智に富んだ人類があの野蛮な猿から進化したなど、当時の人々にはとても受け入れがたい「不都合な真実」だったのです。それに、21世紀の現代でさえも、キリスト教原理主義者の人々は、いまだに進化論を受け入れていませんからね。

 1960年代後半、極東の島国の中学生だった私は、生存競争や自然淘汰などについて理科の授業で習ったと思います。考えてみれば、「種の起源」が出版されてまだ100年しか経っていなかったのに、極東国では既に常識として教えられました。特に、使わなかったらなくなってしまうという「用不用」説に関しては、先生が「人間の尻尾だって、昔はあったのに、今はないだろう?尻尾の跡はあるけど」といった例を出されたことを覚えています。

 ついでに、「頭だって、使わないとバカになるぞ」と脅された気がしますが、それは、理科の先生ではなかったかもしれません(笑)。

 最初に、この本は「拍子抜けするほど常識的な当たり前のことが書かれている」と記述しましたが、そのせいか、読むのがしんどくない、と言えばウソになります。それに、翻訳者の渡辺氏の方針で、註釈もしくは訳注は、最小限に留めた、ということですので、例えば、「マディラ島の甲虫は、ウォラストン氏が観察したように風が吹き止んで日が差すまで隠れていることが多い」(238ページ)と書かれていても、「あれ? マディラ島って何処にある島だろう?」とか「ウォラストン氏って前に少し出てきたかもしれないけど、誰だっけ?」となってしまうのです。そんな細かいことに拘らず、どんどん読み進んでいけば、それで済んでしまう話ではありますが。

 私は変わった人間なのか、本書(文庫本上巻)で一番興味深く読んだのは、ダーウィンの文章ではなく、訳者の渡辺氏が巻末に書いた「本書を読むために」という解説でした。駄目ですね(笑)。私自身、ダーウィンについて知っていたことは、この「種の起源」と、若き頃、ビーグル号に乗船して、特に南米の知られざる動植物の標本を収集して、「ビーグル号航海記」などの本を出版したことぐらいで、ダーウィンの人となりについてはほとんど知らなかったので、「へー、そうだったの!?」と驚いてしまったわけです。つまるところ、英国人ダーウィンは、あの世界的に有名な陶磁器メーカー「ウエッジウッド」の創業者の孫に当たり、父親も開業医というかなり裕福な家庭に生まれ育ち、生涯、仕事をしなくても自分の好きな研究に没頭する余裕があったということでした。

 22歳でビーグル号に乗船できたのも、父親から500万円もの支度金を融通してもらったからでした。

 昨今、我が国では、世襲政治の弊害が叫ばれ、バカ息子が首相官邸でどんちゃん騒ぎパーティーを開いても、何のお咎めなしですが、我が国の学者の世界もやはり、世襲の趣がなきにしもあらずです。ある程度、裕福でなければ研究生活が続かないことをダーウィン先生は教えてくれているような気がします。

 目下視聴率ナンバーワンのNHK連続テレビ小説「らんまん」は、植物学者・牧野富太郎の人生をモデルにしたドラマですが、牧野も土佐の酒蔵の跡取りの息子という資産家出身で、生活費を稼ぐ必要もなく、子どものように天真「らんまん」に自分の好きな植物研究に没頭しています。

 牧野富太郎とダーウィンが重なって見えるのは私だけではないと思います。

【追記】

 あらまあ驚きです。このブログを書いた5月29日の夜になって、極東国の首相が、御令息の首相秘書官(政務担当)の職を更迭しました。まさか、首相はこのブログをお読みになったわけではないでしょうが、「バカ息子にお咎めなし」と書いたことはお詫びして訂正します。「御令息を解任」の誤りでした。

世の中には漫画が読めない人も

 「宗教は大衆の阿片である」と言ったのはマルクスだったか…。

 ここ数カ月、私自身は、宗教関係の書籍にはまっておりましたが、先日読了した松長有慶著「密教」(岩波新書)で、宗教書は一区切りにするつもりでした。そこで、今は、ダーウィンの「種の起源」を読んでおりますが、どうも心の片隅にぽっかり穴が開いたような気分で、もっと宗教書(特に仏教書、中でも禅関係)を読みたいなあ、と思ったりしております。

 一区切り付けるつもりだったのに、です。そこで、「宗教は阿片である」という言葉が浮かんできたわけです。

 人間はもともと裸で自分の意思に関わらず、この世に生まれてきたので、誰にも「不安」と「恐怖」は付き物です。700万年前に人類が誕生した頃のように、常に猛獣の捕食者によって襲われる「恐怖」はなくなりましたが、独裁者による戦争や地震、噴火、洪水などの天災、それに感染症、さらには最近頻発している強盗殺人の「恐怖」は21世紀になってもあります。また、生きている限り、「不安」に関しては、どうしてもなくなりません。だからこそ、日本人は、古代から神仏に縋ってきたのだと思います。どんな辺鄙な田舎に行っても、必ずと言っていいぐらい、寺社仏閣があります。そこまで豪勢ではなくても、ほんの小さな祠(ほこら)やお地蔵様や不動明王像ぐらいはあります。

 科学が進歩して色々な自然現象が解明されても、霊魂や神の存在などエビデンスで証明されないのに、いまだに人類は、目に見えない何かを信じるように出来ているのかもしれません。

 さて、話はガラリと変わりますが、会社の同僚のAさんから、急に脈絡もなく、「僕は漫画が読めないんですよ」と言われ、一瞬、ポカンとしてしまいました。漫画・アニメと言えば、今や日本の最大輸出産業のはずです。漫画を読んだことがない日本人なんていないはずです。アニメの聖地を訪れるために来日する外国人観光客も増えているとも聞きます。

 漫画が読めないって、どうゆうこと?

 よくよく話を聞くと、彼は子ども時代に漫画を読まなかったから、だと言うのです。だから、大人になっても漫画が読めないというのです。でも、子どもの時に「読まなかった」というより、「読めなかった」「読みたくても読むことが出来なかった」というのが正確です。貧困家庭だったからです。彼の父親は物心付く前に病死されていて母子家庭で育ったというのです。彼とは随分長い職場での仕事付き合いですが、初めて聞きました。子ども時代は狭い薄暗い長屋で福祉の援助を受けて生活し、着る物は同じ長屋の近所の人たちのお下がりです。当然、お小遣いもなく、漫画なんか買ってもらえるわけがありません。

 私は、中学生の頃まで漫画は結構読んでいましたが、高校生からほとんど読まなくなりました。そのうち、大人になると、活字の本はスラスラ読めますが、漫画は読むのが大変になりました。絵と「吹き出し」を交互に読む行為がはっきり言って面倒臭くてたまらないのです。それで、彼の言っている「漫画が読めない」ということが私には理解できました。

 つまり、子どもの時に漫画を読む習慣を身に付けないと、大人になってからでは「しんどい」のです。私自身は中学時代まで漫画を読んでいたので、今でも無理をすれば何とか読めますが、もし、小学生の時に読んでいなかったら、恐らく、今は読めないと思います。

 それにしても、彼が漫画が読めないほど大変な家庭に育ったことを全く知りませんでした。他にも大変な逸話を聞きましたが、もう茲では書かないことにします。

 その点、自分は、それほど裕福ではなくても両親が揃った中流家庭で育ち、大学まで行かせてもらいました。それが当たり前だと思っていた若き頃の自分を改めて恥じ入るばかりです。それと同時に、会社の現役時代は、左遷と塩漬けの連続で、人から足をすくわれたり、今でも多くの人から裏切られたりしたので、「自分は何て不幸な人生なんだ」とずっと思い続けて来ました。でも、彼に対して大変失礼ではありますが、自分は、随分マシな、いや相当幸せな人生だったことに気付かされたのです。

 ある意味で、漫画が読めることは一種の才能であり、幸福なことです。そして、自分の幸福は、ささやかだと気が付かないものです。

 生きていて、十のうち、二つか三つ幸運だったことがあれば、その人の人生は幸福なのです。プロ野球選手でさえ、打率3割も打てれば首位打者になれるくらいですから。

NHK「映像の世紀 バタフライエフェクト」の「独ソ戦 地獄の戦場」は必見です

 先日見たNHKの「映像の世紀 バタフライエフェクト」の「独ソ戦 地獄の戦場」は、かなり衝撃的な内容で、頭にこびりついてなかなか離れてくれません。(5月31日に再放送があるようですから、お見逃しの方はどうぞ)

 1941年6月から45年5月にかけて、ヒトラー率いるナチス・ドイツとスターリン率いる共産主義国ソ連との全面戦争で、両軍(民間人も含めて)合わせて3000万人以上の死者を出したという人類史上最悪・最大の戦争です。最初に仕掛けたのはドイツでしたが、復讐が復讐を呼ぶ殺戮・殲滅合戦となり、反転攻勢したソ連が、逆にドイツ軍の捕虜を虐殺したりして、想像もつかない程の犠牲者を生みました。(嗚呼、だからソ連軍はシベリア抑留した日本人捕虜を奴隷以下に扱っても平気だったんですね。日露戦争の復讐です!)

 「この世の地獄だった」という生存者の証言もありましたが、まさに、地獄はあの世にあるのではなく、この世にあると思わせました。

 諸説ありますが、第二次世界大戦では、ソ連(1939年の総人口1億8879万人)は、民間人も含めて2700万人が戦病死したと言われ、ドイツ(同6930万人)では800万人以上が犠牲となったと推計されています。日本(同約7138万人)は310万人の戦病死者が推計され、日本全国津々浦々、何処の家庭でも犠牲者を出していたので、あまりにも多過ぎると思っていましたが、独ソ戦を含め、戦場になった欧州での犠牲者の数は、日本人が想像も出来ないぐらい桁違いです。

牧野富太郎先生に何の花か聞きたい

 スターリンは、19世紀のナポレオン戦争の「祖国戦争」になぞらえて、特に独ソ戦を「大祖国戦争」と銘打ちました。勝利を収めたソ連ですが、その陰には2700万人の莫大な死者の犠牲があったということになります。そのソ連の血を引くロシアのプーチン大統領がウクライナ戦争を仕掛けたということは、この大祖国戦争の延長で思考しなければなりません。つまり、今のウクライナ戦争は、独ソ戦争に抜きにしては語れないということです。プーチンも演説の中で、ウクライナのことを「ネオナチ」と呼んだり、大祖国戦争のことを持ち出したりしていますから。

 ということは、ロシア人は2700万人だろうが、考えられないほどの大量の犠牲者を出しても戦争を完遂する民族であるということです。イデオロギーだろうが、領土的野心だろうが、正義だろうが、名目は何でも良いのです。「戦争犯罪」何のその。勝てば官軍、勝てば責任なんか問われない免罪符です。そして、この分だと、戦争は短期間で終わらず、あと数年は続きそうだということです。

 プーチン大統領をウクライナ侵略に駆り立てた独ソ戦から引き出せる教訓は、やはり、全人類がもう一度、学び直すべきです。その点、この番組は最適です。

嗚呼〜やっちまっただ=香川県の「四国新聞」

 旧聞には属しますが、「日付を間違えちゃった」という5月19日付の香川県の地元紙「四国新聞」(本社高松市)の現物を会社で見ることが出来ました。上の写真です。

 新聞枠上部の日付は、ちゃんと2023年(令和5年)5月19日(金曜日)となっているのに、右方の「四国新聞」の題字の左横の日付は、大きく「4月19日」となってます。一面トップは「G7サミットきょう開幕」ですから、「5月19日」の間違いであることは確かです。

 あれっ? こんな大間違いするんですかねえ。 大変なことなので整理部長のレベルではなく、編集局長の更迭もあり得るかもしれません。

 ライバルの全国紙の朝日新聞は早速取材して、「単純な作業ミス、チェックミスが原因だった」との言い訳を引き出し、まるで鬼の首を取ったかのように報道をしておりました。ちなみに、香川県での四国新聞の販売部数は約22万部、朝日は約6万部です。

 四国新聞は、明治22年(1889年)4月10日に創刊された立憲改進党系の「香川新報」の流れを汲むといいますから、かなりの歴史があります。

 もし、日付を間違えたのは今回が同社史上初めてだとしたら、案外、この新聞は「お宝」になって何年か経てば、高額で売れるかもしれませんね。(ただし、未使用、箱入り?)

 写真の現物は、会社のものなので、小生の手には入りません。残念!(笑)

 

現世利益を否定しない仏教=松長有慶著「密教」を読んで

 ここ何日もブログ更新出来ず、週末も、天気が良いのに、家に閉じこもって本ばかり読んでおりました。若者でなくても、「書を捨て街に出よ」ですから、あまり、健康的ではありませんよね…。

 松長有慶著「密教」(岩波新書)を読んでおりました。どうしても密教のことが知りたくなったからです。著者は有名な大家であり、入門書として手頃なのかなと思って、この本を選んだのですが、結構難解でした。密教そのものが、「秘密の教え」ということですから、修行するわけでもなく、灌頂を受けるわけでもなく、本を読んだだけで理解しようとするその心構えがまず間違っておりました。密教は「実践」を重視するからです。密教では、人はそれぞれ皆、仏性という宝を自らの内に秘めているのに、平常は煩悩という雲に覆われて自覚することは少ない。そのため「即身成仏」(行者が肉身を持ったまま現世において悟りを得て仏となる)するための最も有効な方法として瑜伽(ヨーガ)の観法を実践することなどを説いております。

 このほか、本書では「月輪観」や「阿字観」、「五字厳身観」や「五相成身観」、さらには護摩業や陀羅尼真言などの実践が紹介されていますが、素人が自分勝手にやっても効き目がないと思われますので、「師資相承」で正式に師匠から秘伝を授けられることが一番だと思います。

 さて、著名な著者の松長有慶氏は、高野山真言宗総本山金剛峯寺第412世座主で、高野山大学の学長まで務めましたが、先月4月に93歳で亡くなられました。(それなのに、5月の叙位叙勲で、中学、高校長レベルの「正五位」だったことは聊か意外でした。)日本の仏教には色々な宗派があり、空海が開いた同じ真言宗でも弟子が分派して古義真言宗系や真義真言宗系などがあり大変複雑ですが、この本は、その中でも「高野山真言宗」の教えが説かれているということは間違いないでしょう。ということで他宗派に対する批判や優越感? が本書では垣間見えたりします。例えば、60~61ページにはこんな記述が見られます。

 それは「華厳経」とか「法華経」という経典が、釈尊の生涯の中で最晩年のもので、内容がもっともすぐれているというひとりよがりの見解でもあった。

 「ひとりよがり」なんて、書かれたりすれば、サンスクリット語の「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ(妙法蓮華経)」を「白蓮華のように最も優れた正しい教えのお経」と大変苦労して翻訳された植木雅俊氏なんか怒るんじゃないかなあ、と思ったりしました。

 法華経だけかと思ったら、他力本願を主旨とする浄土真宗や親鸞に対する揶揄も117ページにあります。

 即身成仏は、行者の力だけによって達成できるものではない。といっても他力を説く仏教のように、如来の救済力だけに頼るわけではない。

 如来とは、阿弥陀如来のことだと思われます。素直に読めば、浄土真宗の念仏よりも真言密教の方が効果ありそうに見えます。

 また、禅宗に対する批判も120~121ページにあります。

 密教の観法は、…行者が仏と一体化するように組織されている。この点、禅宗系の禅定が、…具体性を持たぬ空間とか壁に向かって、一切の現象界の事物を否定し、捨離することによってなりたつのとは対照的である。

 うーん、これを読むと禅では駄目ですよ、と読めなくはありませんね。そう言えば、本書には空海や攪拌、最澄ら密教に関係した人の具体名は当然出てきますが、比較として、道元も栄西も、いや法然も親鸞も日蓮も一切出てきませんでした。なきが如くに。

 それでは、何よりも「一番良いのは密教だ」という話になるかと思ったら、128ページで少し密教批判も出て来たので驚きました。

 日本密教の修法の方法は、密教観法を形式化し、密教的な生命を弱体化させる方向に進まざるをえなかった。

 ここでは、金剛峯寺の座主としてではなく、学者としての中立的立場を通していたので安心しました。この本の初版は、1991年7月19日で、私が購入したこの本は2022年1月17日発行の第33刷なので、実に30年以上もの年月が経過していたことになります。つまり、1991年の記述ですから、その4年後に起きたオウム真理教事件などは一切触れていないので、ジャーナリスティックという意味で、内容が古びていますが、密教の根本思想は変わっていないということでロングセラーになっているのでしょう。

 密教は大乗仏教から5~6世紀頃に派生し(初期密教=雑密)、7~9世紀に隆盛期(中期密教)を迎え、9世紀以降は、特殊な後期密教が起こり、本国インドではイスラム教徒の侵入により13世紀初めに滅亡します。その間、中国にも密教が伝えられますが、9世紀中ごろ唐の18代皇帝武宗による廃仏政策で衰退し、10世紀後半に消滅します。日本には、最新研究では、密教は既に飛鳥時代には入り、平安時代に留学した空海が長安で恵果から直々両界曼荼羅の伝授と灌頂を受けて本格的に入り(東密)、その後、最澄の弟子の円仁(第3代天台座主)や園城寺の別当になった円珍(最近、彼が唐から持ち帰ったパスポート「過所」などが「世界の記憶」遺産に指定されました!)らも入唐し、密教(台密)を伝授され、現在に至ります。後期密教は中国や日本には伝わらず、チベット仏教として受け継がれ現在に至っています。

 ということは、密教は本国のインドと中国では消滅したのに、日本とチベットだけに残っているわけです。

 ただし、後期密教(左道密教という蔑称も)のタントラ(行者の思想、儀礼、生活習慣など)には、わびさびを愛好し、心の平安と清潔感を求める日本人にはそぐわないものがあります。行者たちは、人々が避ける墓場に集まり、禁断の人肉を食らい、人間の排泄物や〇〇(伏字)まで飲食し、女性の行者と交わることを修法と称して実践したりするのです。ここまでいくと、宗教か?という疑問が生まれ、まるでタチの悪い新興宗教のようにも見えます。これも仏教の一派だとしたら、仏教とは何と恐ろしい宗教だと私なんか思ってしまいます。

 著者は、このような非倫理的、反道徳的タントラ主義=タントリズムには、徹底して自己の本源に帰ろうとする、言い換えれば、有限の人間の中に無限の絶対を見つけ出そうとする神秘主義的な宗教の一つの極端な姿を示している(26ページ)とまで言います。インドの後期密教(チベット密教)には、呪術などを使って、人を殺す「呪殺法」や仲間割れを起こさせる「離間法(りげんほう)」も行われ、経典には6種以上の護摩法が記されているといいます。人を救済するのが宗教だとすれば、後期密教は本当に宗教なのか?という疑問も生まれます。

 呪殺なんて、オウム真理教の連中が使っていた「ポア」じゃありませんか。

 以上は、あくまでも極端な例なので、これで密教の習得から遠ざかってしまっては勿体ない気がします。驚くべきことに、密教は、欲望(煩悩)を否定しないといいます。密教では人間的な欲望もまた宇宙生命と繋がっているものなので、これらを全面的に否認せねばならぬと考えません。欲望を肯定することと、断ち切ることは矛盾しないとまでいうのです。つまり、我々の弱点を含んだこの現実世界を全面的に肯定し、その中に理想形態を見出し、現実世界の中に絶対の世界を実現することが密教の理想だというのです。(曼荼羅はまさに宇宙論です。曼荼羅では大日如来が中心で、仏教開祖の釈迦如来は、端っこに追いやられているか、多くの如来の中の一つとして影が薄くなっています。)

 ということで、密教は、現世利益の追求も否定しません。現世利益とは、資本主義的金儲けという意味だけでなく、病気治癒や健康長寿、受験合格、出世、名声、尊敬(「いいね!」ボタン)獲得、除災招福、家内安全といった実に日本人的願望も多く含まれています。

 もともと、密教に異様な興味と関心を抱くようになったのは、東京・新橋の奈良県物産館で、運慶作の「国宝 大日如来坐像」のモデルを購入し、色々と大日如来の意味や意義などを知りたいと思ったからでした。お蔭で金剛界の大日如来には「オン・バサラダト・バン」、胎蔵界の大日如来には「ノウマクサンマンダ・ボタナン・アビラウンケン」と唱えることも知り、毎日のように礼拝していたら、驚きべきことに、ある程度「霊験あらたかなり」の現象が起きたのでした。(この本には陀羅尼の呪文の例が出てきませんでしたが)

 仏教は、開祖の釈迦が真の自己に目覚める悟りを開くという修行の教えから始まり、釈尊を神格化して、出家した声聞、独覚の男性しか成仏できないという小乗仏教となり、そのアンチテーゼで出家在家問わず、そして男女の区別なくあらゆる衆生が覚りを開くことができるという大乗仏教が起こり、さらには、宇宙生命と繋がる自己の仏性に目覚める密教にまで行きついたことになります。その間、インドのバラモン教やヒンドゥー教や、ペルシャ(イラン)のゾロアスター教まで取り入れて、仏教が七色変化していった過程も少し分かりました。

 仏前で、供花したり香をたいたりする行為は、仏教の儀式ではなく、バラモン教から取り入れたものだったことは、この本で知りました。また、この本には書かれていませんでしたが、弥勒菩薩も阿弥陀如来も観音菩薩も、もともとはイランの神で、梵天や帝釈天や不動明王などは、ヒンドゥー教の神々を参考にして取り入れられたものだというので、仏教はうわばみのように周囲の宗教を飲み込んで、発展したいったことも分かります。

 そして、ついに反道徳的な後期密教となり、本国インドでは滅亡したことも何となくですが、薄っすらと分かる気がしました。