ジョン・レノンも「パテック・フィリップ」だったとは=銀座・高級腕時計店巡り(終)

 結局、「不評」だの、何のかんのと、自分で言っておきながら、「銀座・高級腕時計店巡り」企画は4回も続いてしまいました。この辺で、お開きということにしましょうか。

 実は、この企画、私の心配をよそに結構好評で、読んでくださる方も多かったようでした。最初は、銀座をブラブラと歩いていると、やたらと高級腕時計店ばかり目に付くので、何か、このブログで特集でもやってみようか、というのがきっかけでした。下調べもせずに始めたので、世界三大高級腕時計メーカー(Vacheron Constantin、PATEK PHILIPPE、AUDEMARS PIGUET)の存在さえ知りませんでした。御粗末ですねえ。やはり、「情報」がすべてです。

 そして、やはり、人間は「情報」に左右されます。その高級腕時計そのものよりも、そのブランドをはめている有名人が気になります。そして、さらに、その自分の好きな有名人がどんな時計をしているのか気になり、自分も全く同じ時計を身に着けたくなってしまうものです。

銀座3丁目「ウブロ」1980年、スイス・ジュネーブで創業

 五輪のメダリストもパレードする銀座のメインストリート、銀座通りには高級腕時計店があるのは前回、書いた通りです。本日は3丁目の「ウブロ」に行って来ました。いや、単に、写真を撮りに行って来ました(笑)。HUBLOTと書いて、「フブロット」ではなく、「ウブロ」と読みます。フランス語の「H」(アッシュ)は発音しないことは、皆さん御存知の通りです。

  1980年、スイス・ジュネーブで創業と、他の高級腕時計メーカーと比べて歴史が浅いのに、どういうわけか、世界的に人気が高いのです。サッカーのネイマールや日本代表の長友、元大リーガーで現・楽天の田中将大投手とスポーツ選手の愛好家が多いですが、異色なのは、明石家さんまや博多華丸、アンタッチャブルのザキヤマらお笑い界でも大人気なのです。

 さらには、トヨタの豊田章男社長まで愛用しているとか。

 あまりにもメカニックなゼンマイなどが見える機種(?)もありますが、落ち着いた普通の時計もあるので、人気なのかもしれません。 

銀座3丁目「タグホイヤー」1860年、スイス・サンティミエで創業

  銀座3丁目にある「タグホイヤー」は、1860年、スイス・サンティミエで創業。私でさえ、名前を知っていました(笑)。

 米元大統領のバラク・オバマさんもこの時計の愛用者だったんですね。話は少し飛びますが、米国で最も人気が高い大統領だった若きケネディは、「ファッション・アイコン」でした。彼が愛用したスーツは「ブルックス・ブラザーズ」、スニーカーは「ニューバランス」だったとか言うので、誰かさんも真似して買ったりしています(笑)。肝心のケネディが愛用した腕時計は、この後、御紹介します。

 タグホイヤーは、ハリウッド・スター御用達といった感じです。ブラッド・ピット、キャメロン・ディアスらが愛用しています。コマーシャルだけなのか、その辺りは不明ですが。

銀座2丁目「カルティエ」1847年、パリで創業

 最後は、銀座2丁目にある「カルティエ」です。1847年、パリで創業した時計店というより宝飾店です。 何故、カルティエかといいますと、1919年に発売された長方形の「タンク」(第一次世界大戦時の戦車がモチーフだとか)がセレブの間で大流行したからです。

 先ほどのケネディ米大統領が、ジャクリーヌ夫人とともに愛用したのが、このカルティエ「タンク」でした。この他、アンディ・ウォホールやカトリーヌ・ドヌーブ、イブ・モンタン、モハメド・アリらも愛用していたといいます。

 そうそう、忘れるところでした。私の大ファンであるジョン・レノンはどんな時計をはめていたのか?ーうーむ、今は簡単に調べられますね。やはり、そうでしたか。「Patek Philippe Chronograph」でした。

 「永久カレンダー」付きの時計で、何と、私が以前から一番欲しいと思っていたほぼ同じ腕時計でした! でも、1000万円近くはします(笑)。当たり前の話ながら、ジョン・レノン氏は超お金持ちだったんですね。(ちなみに、ポール・マッカートニーもエリック・クラプトンも違うタイプのパテック・フィリップを愛用しております)

 お後がよろしいようで。

天皇陛下も御愛用された時計=銀座・高級腕時計店巡り

 あまり好評ではなかった「銀座 高級腕時計店巡り」企画でしたが、その理由が分かりました。私自身、「世界の三大高級腕時計メーカー」なるものを知らなかったからです(苦笑)。

 それは、古い順に、Vacheron Constantin(1755年)、PATEK PHILIPPE(1839年)、AUDEMARS PIGUET(1875年)でした。

 勿論、銀座ですから、高級腕時計と言われるブランドは、ほぼ全て揃っています。あまりにも沢山時計店があるので、私自身の知識が追い付かなかったのです(笑)。

銀座7丁目 銀座通り「ヴァシュロン・コンスタンタン」創業1755年

 まず、 Vacheron Constantin 。以前は「バチェロン・コンスタンチン」と呼ばれていたそうですが、今は、ちゃんとフランス語読みで「ヴァシュロン・コンスタンタン」です。1755年、ジャン・M・ヴァシュロンによって、フランス語圏のスイス・ジュネーブで創業され、「世界最古」と豪語しています。

 銀座の専門店は、銀座のメーンストリートである銀座通りの7丁目にあり、私も、しょっちゅう、この店の前を通っておりましたが、何しろ、「知識」がなかったもので、全く気が付きませんでした(笑)。よく見たら、「Genève, depuis 1755」と堂々と書かれています。

 1755年(宝暦5年)は、九代将軍徳川家重の時代。この年の11月1日、ポルトガルでリスボン大地震(M8.5~9.0、5万5000人~6万2000人が死亡)がありました。

白鶴 創業1743年

 でも、御安心を。日本には1755年より古い1743年創業の「白鶴」があるじゃないか!あ、ちょっと、ジャンルが違いましたね(笑)。

銀座7丁目「日新堂」(1892年創業)パテック・フィリップ(1839年創業)正規販売店

 次は PATEK PHILIPPE 。「パテック・フィリップ」の読みは昔から変わらず。日本には専門店はないようで、銀座では十数軒ぐらい、「正規販売店」があるようです。上の老舗時計販売店「日新堂」は銀座で1892年に創業されているので、日本でも早いうちから PATEK PHILIPPE の正規販売店になったと思われます。何しろ、明治天皇をはじめ、代々の天皇陛下が御愛用されているといいますからね。

 パテック・フィリップは1839年、ポーランドの亡命貴族アントニ・パテックと時計師フランチシェック・チャペックによって、ジュネーブで創業。この後、時計師はフランス人のジャン・アドリアン・フィリップに代わり、1851年に正式に「パテック・フィリップ」社となります。

 まさに、高級腕時計の代名詞で、安くても500万円ぐらい。1000万円、2000万円は当たり前です。何しろ、文豪トルストイも、楽聖ワーグナーもチャイコフスキーもこの時計を愛用していたと言われますから…。まあ、君も僕も、庶民としては「話のタネ」として楽しむことです。もしくは、これから奮起して、一人50億円で宇宙旅行する前澤友作さんのように大金持ちになりますか?

銀座6丁目 外堀通り「オーデマ・ピゲ」1875年創業

 最後は、 AUDEMARS PIGUET。アウデマース・ピグエットではありません。これを「オーデマ・ピゲ」と読める日本人は、フランス語をかじった人ぐらいでしょう。私もフランス語をかじったので読めますが、 AUDEMARS は、「オーデマ」より「オードゥマール」と表記した方がいい気がしますが、余計なお世話ですね。1875年、ジュール・L・オーデマとエドゥアール・A・ピゲ によって、スイスのLe Brassus ル・ブラッスュ村で創業されました。

 こちらも、世界三大高級腕時計メーカーですから、「売れ筋」は500万円ぐらいです。懐に余裕のある方はどうぞ。

おまけは、銀座6丁目のみゆき通りにあるスイスの「ブライトリング」。1884年創業

 まあ、コロナ禍で職を失って、食べる物さえ困った人たちが、都内の公園で配られる「無料お弁当」に列をなして並んでいる御時世です。先日も新聞に記事が出ていたのですが、池袋の公園では20分で400食分がなくなったといいます。これは、「2008年のリーマン・ショック以来だ」と書かれていました。

 ですから、こんな「銀座 高級腕時計店巡り」という企画自体が、今のご時世では不謹慎だったのかもしれません。

 しかしながら、500万円の腕時計を販売する店がこれだけ銀座に乱立していてもつぶれないということは、それだけ顧客さんがいるということです。つまり、世の中には、500万円の腕時計を買う人がいれば、貯金もなく、公園で無料お弁当配布に並ぶ人もいる。それだけ、貧富の格差が拡大している証左がここにあると言いたい、とブログには書いておきます。

飛鳥山散策記=渋沢栄一の「青天を衝け 大河ドラマ館」に行って来ました

 東京都北区王子の飛鳥山に急ごしらえした「青天を衝け 大河ドラマ館」に行って来ました(コロナ禍でネット予約が必要ですが、平日はもう空いていて当日券が買えると思います)。どういうわけか、ここ数年、浜松市の「おんな城主 直虎」や岐阜城の麓の「麒麟がくる」(明智光秀)などNHKの大河ドラマ館に行っており、微力ながら国営放送の営業に貢献しております。

「青天を衝け 大河ドラマ館」(東京都北区飛鳥山)

 渋沢栄一の生涯を辿る「青年を衝け」も面白く拝見しているので、結構身近にある飛鳥山に出掛けてみたわけです。

 そしたら、「あれー?こんだけえー?」てな感じで、とても狭くて直ぐ見終わってしまいました。正直、「直虎」や「麒麟」と比べると見劣りがしました。

「青天を衝け 大河ドラマ館」(東京都北区飛鳥山)

 ドラマ館は、即席で建てたものではなく、「北区飛鳥山博物館」の2階を「間借り」していたので、狭いはずでした。入場券800円で、1階の歴史博物館も観ることができたので、元が取れた感じでしたが(笑)。

 あまり貶しては怒られるので、感心したことを1点挙げます。その写真は撮れませんでしたが、幕末に万国博覧会が開催されたパリのロケシーンの「メイキング映像」です。コロナ禍もあって、何と、日本の俳優陣たちはパリに行ってなかったんですね!(バラしてしもうた)パリと日本で別々に撮って、コンピューターか何かで合成していたのです。あの徳川昭武さんも、直接、ナポレオン三世に謁見していなかったのです。そう考えると、俳優さんたちの「演技」には感心してしまったわけです。

「飛鳥山の碑」 碑銘を撰したのは成島錦江(成島家三代目道筑信遍=のぶゆき=)幕末の奥儒者成島柳北はその八代目。

 さて、わざわざ、飛鳥山に足を運んだのは、もう一つ目的がありました。皆さん御存知の通り、私は「天地間無用の人」成島柳北のファンなのですが、その五代前の先祖に当たる成島錦江 (成島家三代目道筑信遍=のぶゆき=) が碑銘を撰した「飛鳥山の碑」を見に行くことでした。どちらかと言えば、こちらの方が主目的でした。

「飛鳥山碑」碑文は成島錦江(元文二年)1737年

 前田愛著「成島柳北」(朝日新聞社、1976年)によると、この「飛鳥山碑」は元文2年(1737年)に建てられたものですから、もう判読が難しいのですが、上の写真の通り、東京都教育委員会が平成23年(2011年)に「解説」の看板を建ててくれております。

 飛鳥山は「桜の名所」として有名で、浮世絵などでも描かれていますが、これは八代将軍徳川吉宗が一般庶民にも開放して始まったものでした。吉宗の在位は、享保元年(1716年)から延享2年(1745)ですから、ちょうど、この石碑も、将軍吉宗在位中に建てられたことになります。

Asukayama no HI

 碑の日本語の解説を読んでもよく分からない方は、上の写真の英語の方が分かりやすいかもしれません。

 先程の前田愛著「成島柳北」によると、成島錦江は、荻生徂徠の門に学び、元文2年(1737年)に御同朋格奥勤に抜擢されて将軍吉宗の侍講を務めたといいます。奥儒者ということで、英語では、a confucian vassal of the shogunate となっています。錦江は道筑の雅号ですが、荻生徂徠の蘐園学派独特の命名法で、鳴鳳卿とも称しました。姓の鳴(なる)は、成島から転じたものです。昔の人はおつなもんです。

 錦江は享保16年(1731年)の冬、浅草御厩河岸の賜邸の一隅に「芙蓉楼」という書室をつくり、将軍吉宗から下賜された十三経二十一史など千数百巻の書物を収めました。将軍吉宗も相当な勉強家だったんですね。芙蓉とは、富士山のことですが、楼上から富士の山容を望見することができたからだといいます。

ちなみに、成島錦江は八代将軍吉宗の侍講でしたが、幕末の成島柳北は、十三代家定と十四代家茂の侍講を務めました。しかし、幕府風刺の漢詩文を書いたため解任されました。明治になって、幕臣出身ということで新政府には出仕せず、操觚之士となり朝野新聞社長も務めました。

飛鳥山の歴史

 この上の写真の「飛鳥山の歴史」には書かれていませんが、この地には、「日本資本主義の父」渋沢栄一が建てた邸宅跡「曖依村荘」と書庫「青淵文庫」、洋風茶室「晩香廬」などがあります。

 だから、ここにNHKが 「青天を衝け 大河ドラマ館」 を臨時につくったわけですから、この碑に渋沢栄一の名前が一言も出て来ないのは不思議でした。

座ったら死ぬ?

 「銀座の高級腕時計店巡り」企画はあまり受けていなかったみたいですね(苦笑)。昨日のアクセス数は「301」。それでも、300人以上の方が御覧になってくださったのですから、本当に有難いことです。

銀座5丁目「アワーグラス」 パテック・フィリップのキャリバー240が1046万1000円とありまする

 このブログは、主宰者だけが細かいアクセス解析できるのですが、これまでの最高アクセスが2020年12月15日で、何と1日、6318アクセスもありました「この異様な数字は何じゃいな?」と思って、前日の12月14日の記事を検索したら「コメディアン小松政夫さん逝く=またお手頃の銀座ランチ発見」でした。「えっ?」失礼ながら、こんな記事にどうしてこんなアクセスがあったのか、不思議です。世の中、分からないものです。

 ゴホン、主宰者としましては、もっと真面目な堅い記事の方を読んでもらえると嬉しいです(笑)。

銀座6丁目「パネライ」1860年、伊フィレンツェで創業

 本日は、最近読んだ記事で最も衝撃的だったものを取り上げます。

 「座りすぎ 運動で帳尻合わず」と題した10月11日付朝日新聞東京本社夕刊の記事です。一言でいうと「座っている時間が長いと死亡リスクが高まる」というのです。京都府立医科大学の小山晃英講師が約6万人の調査から導き出した結果です。

銀座6丁目「チューダー」1926年、スイス・ジュネーブで創業(ロレックスの姉妹会社)

 具体的には、座っている時間が1日5時間未満だったグループを基準にして比較すると、1日7~9時間グループは約1.2倍、1日9時間以上だと約1.5倍も死亡率が高かったというのです。また、1日に座っている時間が2時間長くなるごとに、死亡リスクは15%も上がるというのです。(詳細を知りたい方は、販売店か、図書館にでも行って探して読んでみてください)

銀座6丁目「タグ・ホイヤー」1860年、スイス・サン・ティミエで創業

 えーーー、ですよ。私は少なくとも6~7時間は毎日、毎日、会社でパソコンの前で座っています。往復約3時間の通勤の電車内でも遠方なので結構座っています。

 でも、これでは、「座ったら死ぬで~」と言われているようなものです。

銀座6丁目「ゼニス」1865年、スイス・ロクルで創業

 対策としては、定期的にパソコンから離れて、少し歩いてみたりすれば良いようですが、それもなかなか…。

 お金にもならないのに、ブログなんて書いているのは、一番駄目ですよねえ?(笑)。

銀座6丁目「オメガ」 あれま、木曜日定休でした。1848年、スイス・ラ・ショー・ドゥ・フォンで創業

 そう言えば、世の中、座職(英語でsedentary work)が溢れています。日本人の大半を占めるオフィスワーカーがそうですし、陶芸家など職人さんも大抵、座って仕事します。タクシーや長距離のトラック運転手などは、1日5時間では済まないでしょう。

 立ち仕事(stand-up work)は、ハウスマヌカン(もう死語?)とか、お店や居酒屋などの店員さん。料理人さん。美容師、理容師さん。駐車場や工事現場などでの交通指導係などが思い浮かびます。

銀座6丁目 左は「ジャガー・ルクルト」というより「イエガー・ルクルトゥル」1833年、スイス・ル・サンティエで創業、右は「A.ランゲ&ゾーネ」1845年、ドイツ・グラスヒュッテで創業

 机に向かって執筆する作家さんも座職でしょうが、あのヘミングウェイは、晩年は立ってタイプライターで執筆していました。

 健康に気を遣っていたのでしょうけど、悲しいことに結局、61歳で自殺してしまいました。長い白髭を生やして、随分お爺さんに見えましたが、そんなに若かったんですね…。

銀座6丁目「ロレックス」(ここは明治から大正にかけて朝日新聞社があった所です) 日本人が一番好きなブランドでは?1905年、ドイツ人ハンス・ウィルスドルフがロンドンで創業、本拠地はスイス・ジュネーブ

 何と言っても、先ほどの記事によると、余暇に運動してもそれほど死亡率が下がらない。座る時間を減らすしかない、といった結果が出たというのです。

 やっぱり、「座ったら死ぬ」んかいなあ~!?

昨日写真が撮れなかった銀座4丁目「ベル&ロス」。1992年、カルロス・A・ロシロとブルーノ・ベラミッシュによりパリで設立。ご興味のある方は、HPでこの高級腕時計を御覧ください(笑)。

 先ほどから、ベタベタと銀座の「高級腕時計店」の写真が貼られていますが、約一名、「銀座の時計の企画、興味深く読みました」と褒めてくれた人がいたからです。

 せっかく撮った写真を死蔵するのも勿体ないですからね(笑)。

ルソーの一族は時計職人だった=銀座・高級腕時計店巡り

 このブログでは、これまで、「銀座ランチ」とか、「銀座・明治新聞街」とか、「銀座・地方物産店巡り」など色々と「銀座企画」をやって来ましたが、少し、飽きてきたので(笑)、他のものをやろうと考えてみました。

 代替案はすぐ見つかりました。「銀座・高級腕時計店巡り」です。銀座を歩いていると、やたらと高級腕時計の販売店が目立つのです。もしかして、飲食店に次ぐぐらい多いかもしれません。

 何と言っても、銀座のシンボルは、4丁目の服部時計店=セイコーですからね。世界各国から、特にスイスの高級腕時計店が銀座に集まって来るのも頷けます。何しろ、高級腕時計は安くても数十万円、パテック・フィリップともなると数千万円もする代物ですから、「信用」が肝心です。消費者は、銀座に出店しているから安心して買うのです。その点、銀座に画廊が集中しているのと同じ論理です。やはり、偽物はつかませられたらたまりませんからね。

銀座SIX「シチズン」

 最初に取り上げるのは、日本に敬意を表してシチズンです。銀座SIXにあります。

 1918年創業。関東大震災の翌24年にシチズンの前身・尚工舎時計研究所によって懐中時計が販売され、30年にシチズン時計株式会社が創立されたとのこと。シチズンの命名者は、当時、東京市長だった後藤新平です。この人、色んなところで登場しますね。本社が、今でも、私も土地勘がある西東京市田無町にあるというのがいいですねえ。

銀座SIX「アーノルド&サン」1764年創業

 このシチズンの隣りにあるのが「アーノルド&サン 1764」です。恐らく、シチズンと販売契約を提携していると思われます。英国の時計職人ジョン・アーノルド(1736~99年)に敬意を表して、その名前を冠していますが、スイスの時計店です。1764年とは、アーノルドが国王ジョージ三世に小さな2度打ち時計を塔載した指輪を献上した年なんだそうです。

銀座6丁目「IWCシャフハウゼン」1868年

 私の得意な「みゆき通り」を歩いても、何軒か、高級腕時計店を見かけます。

 上の写真の 「IWCシャフハウゼン」 は、確か、以前はここに風月堂の喫茶店があったと思います。風月堂ビルのままですし、よく、取材でも使ったので間違いありません。

 今や、スイスの高級腕時計店にリースしているということなのでしょう。IWCとは「インターナショナル・ウォッチ・カンパニー」とのこと。スイスでもドイツ語圏のシャフハウゼンが本拠地に1868年創業。パイロット・ウオッチが世界的にも有名で売れ筋のようです。安くても50万円ちょっとなので、あたしには関係ないですが。

銀座5丁目 ブランド時計販売店「エバンス」1987年創業

 みゆき通り、銀座5丁目でよく見かける「エバンス」はブランド名かと思ったら、販売店の名前のようでした。ロレックスやウブロなど高級腕時計を扱っているので、勿論、お店の中には入りずらいのです(笑)。

銀座5丁目 総代理店「シェルマン」フィリップ・デュフォー、ハブリング・ツー、クドケなど個性豊かなと時計を販売

 この 「シェルマン」 も時計のブランド名かと思っていたら、高級腕時計の総代理店名でした。(水曜日は休みのようでした)

 この店の前は、通勤でしょっちゅう通るので、馴染みになっていますが、店に入ったことはありません(笑)。日本ではあまり知られていない 「フィリップ・デュフォー」「ハブリング・ツー」「クドケ」など個性豊かなスイスの高級腕時計を販売しているようです。

銀座5丁目「センチュリー」1966年創業

 本日最後は「センチュリー」です。 1966年に創業されたサファイアを使った高級時計ブランドですが、恐らく、日本人でも知る人ぞ知るブランドだと思います。(この店も水曜日は休みでした。契約が水で流れると禁忌している日本の不動産屋さんが、水曜日を定休日にするみたいですね)

 このビルが建つ前の、取り壊された古いビルから知っていましたが、銀座にこんな立派なビルを建ててしまうことができる高級腕時計会社というものは、「儲け率」が高いのではないかと下衆の勘繰りをしてしまいました。

 「だから、何なのだ」と言われそうですが、スイスの時計というのは、草創期の17~18世紀では、今で言う超ハイテク機器だったことでしょう。世界中の王侯貴族が買い求めたと言われ、それは今でもあまり変わりありませんね。

 あの自由思想主義者のジャン・ジャック・ルソーはスイスの仏語圏のジュネーブ生まれで、ルソーの父イザークを始め、ルソー家は代々、時計職人だったことは有名です。ルソー家は、いわばエリートだったのです。

「銀座で最も評価が高い」とネットで評判のとんかつ屋さん(あえて名前は秘す)。目立たない地下にあり、やっと探し当てて、少し並んで、ロースかつランチ定食(1200円)を食しましたが、ちょっと脂身が多くて、小生の口にはちょっと…。大いに期待していたので、ネットの評判も当てにならないなあ(笑)

 このルソーの話もまた、「それがどうした」と言われそうですね。

 「いいじゃないか。だって、ブログだもん」と言い返すしかありません(笑)。

(本当は、「ベル&ロス」という1992年、パリで、カルロス・A・ロシロとブルーノ・ベラミッシュにより共同創業された異様に格好良い高級腕時計(銀座4丁目に今年5月に旗艦店がオープン)を御紹介しようと思って、今日行ってみたら、お店は改装中でした。残念)

小三治師匠、逝く…

 人間国宝の柳家小三治さんが亡くなってしまいましたね。行年81歳。先日、新聞で、今月下旬に開催される「小三治一門の会」の広告を見たばかりでしたし、今月2日も東京都府中市で高座に上がっていたので、「まだまだ大丈夫」と思っていたので、少し驚いてしまいました。

 「最もチケットが手に入らない」落語家と言われていましたから、入手困難だったでしょうが、残念です。テレビにチャラチャラ出てくるようなタレントとは一線を画した「現代落語界界の最高峰」の最後の雄姿を見ておきたかったでした。

 もう30年も昔ですが、小三治師匠とは一度、取材でお会いしたことがあります。当時、芥川賞を受賞したばかりで、落語好きで知られる荻野アンナさんとの対談企画で登場してもらったのですが、高座と全く同じで飄々とした雰囲気で飾らない人柄でした。でも、ほんの一瞬の隙に見せる人を射すくめるような表情が怖かったことを覚えています。

 考えてみれば、記者になったお蔭で、昭和平成を代表する三人の天才、古今亭志ん朝にも立川談志にも私はお会いしているんですよね。我ながら幸運でした。

Mt Fuji Copyright par Duc de Matsuoqua

 ところで、「『知の巨人』立花隆のすべて」(文春ムック)を読んでいたら、哲学者の梅原猛氏(1925~2019年)がこんなことを書いていました。

 私は若き日、ニーチェの本を読んで、その論争の仕方に深い共鳴を覚えた。…私はこういうニーチェの論争の教訓に従って、小林秀雄を、丸山真男を、三島由紀夫をこてんぱんに叩いた。私から見れば、彼らは何ら普遍的価値を持たず、いたずらに時流に乗って驕り高ぶっている人間のように思われたからである。この論争の相手はいずれも私に対して直接答えなかったが、後から色々な所で陰湿な嫌がらせを受けていたことを最近ある編集者から聞いた。

 いやあ、梅原さんって随分、反骨精神旺盛で、気骨がある人だったんですね。小林秀雄も丸山真男も三島由紀夫も、斯界では神さまのように崇め奉られている信奉者の多いオーソリティーではありませんか。それをドン・キホーテのように立ち向かい、「裸の王様」に声を掛ける少年のように振舞う梅原氏には、私も「非・権威主義者」なので拍手喝采したくなりました。同時に愉快になりました。

 相手が総理大臣だろうが、教祖だろうが、財界の大物だろうが、芸能界の大御所だろうが、そして立花隆であっても、「ナンボのもんじゃい」と思ってかかからないと取材なんかできませんからね。ただし、例外はジョン・レノンです。会えたとしたら卒倒してしまいます(笑)。

立教大学、聖路加国際病院、ポール・ラッシュのこと

 先週9日(土)にオンラインで開催された第38回諜報研究会のことを前回書きましたが、一つだけ書き忘れたことがありました。武田珂代子立教大学教授による「太平洋戦争:情報提供者としての離日宣教師」の中で、ほんの少しだけ触れられていた立教大学教授を務めたポール・ラッシュ(1897~1979年)のことです。宣教師関係では、恐らく、駐日米大使を務めたエドウイン・ライシャワーに次ぐくらい有名な重要人物と思われるからです。

 ポール・ラッシュは、専門家の皆さんの間では、あまりにも有名すぎるので、説明が少なく、「素通り」された感じでしたが、武田教授は「ポール・ラッシュは、大学は出ていないし、宣教師でもない。それなのに、立教大学の教授になりました」と、チラッと発言されていたと思いますので、「えっ?」と、ちょっと驚いてしまいました(多分、聞き間違いだったかもしれませんが…)。

 米ケンタッキー州ルイビルの教会の熱心な活動家だったポール・ラッシュは、関東大震災で荒廃したYMCAを立て直すために1925年に来日したといいます。第1次世界大戦中、フランスで従軍した経験があり、来日前はホテルマンだったという説もあります。9日の諜報研究会で話題になった、56歳で海兵隊に志願して言語官になったシャーウッド・F・モーランも、1925年に来日しているので、二人は顔なじみだったかもしれません。

銀座「吟漁亭 保志乃」さんま定食ランチ1050円

 ポール・ラッシュを語るに欠かせない枕詞は、「清里開拓の父」そして、「日本アメフトの父」です。前者は、山梨県の清里高原に清泉寮を設けて、酪農や野菜栽培地などを開拓し、清里を一大リゾート地として発展させる基礎をつくった人として、同地に記念館もあります。後者は、立教大学在職中の1934年に東京学生アメリカンフットボール連盟を創立して日本にアメフトの普及に努めた功績が認められ、アフリカンフットボール日本一を決める「ライスボウル」の最優秀選手(MVP)には、「ポール・ラッシュ杯」が贈られることで名を残しています。(私も昔、ライスボウルを取材したことがありますが、「ポール・ラッシュ杯」のことなど気にも留めていませんでした=笑)

 このほか、関東大震災で崩壊した聖路加国際病院再建の募金活動や、戦後、澤田美喜が設立した孤児院「エリザベス・サンダースホーム」の支援者などとしても知られます。

 ポール・ラッシュは来日以来、日本聖公会と深いつながりがあったため、自然の成り行きで聖公会系の大学である立教大学や聖路加国際病院などと関係したのでしょう。余談ですが、私は聖路加病院系の築地のクリニックに今でもかかっているのですが、診察券は聖路加国際病院と同じです。その先生から聞いた話では、立教大関係者は聖路加の入院費等が優遇されるそうです。英国教会に属する聖公会系の大学は、他に桃山学院、松蔭女学院などもあります。(ちなみに青山学院大学、関西学院大学などは、米メソジスト監督教会系。明治学院大学、東北学院大学などは長老派教会系。カトリック系の代表はイエズス会の上智大学です。)

 ま、これがポール・ラッシュの表の「正」の部分で、ネット上では彼の功績を讃えるサイトで溢れています。

◇戦犯リスト作成と731石井免責工作

 もう一つ、裏の「負」の部分は、彼が戦後、日本占領期にGHQ・G2の民間情報局(CIS)に採用され、陸軍中佐として日本人の戦犯リストを作成したり、731細菌部隊の石井四郎の免責工作に関わったり、G2のウイロビー部長の指示で、反共赤狩り政策の一環として、中国革命賛美派のアグネス・スメドレーらを標的にしたゾルゲ事件の再調査(ウイロビー報告書)の一躍を担ったことです。ゾルゲ関係者生き残りの川合貞吉らに訊問したりしました(二人一緒に写っている写真が米国立公文書館のファイルに保存されています)。これらは、加藤哲郎一橋大名誉教授の研究で本(平凡社新書「ゾルゲ事件」)も出版されて公になっているので、「裏」ではないかもしれません。しかも、ポール・ラッシュ自身としては、米国市民として本国に忠誠を尽くしたので、「負」の側面でも何でもないのかもしれません。とはいえ、教会の牧師さんが一転して軍服を着た中佐になるとは日本人的感覚なのか、随分異様です。

 CISの本部は、麹町にあった外交官の澤田廉三・美喜夫妻の自宅を摂取したそうですが、美喜が聖公会教会の信者だった関係もあったようです。(夫妻の次男久雄も外交官で、二番目の妻は由紀さおりの姉で歌手の安田祥子)

 いずれにせよ、滞日経験のあった宣教師が日本占領活動の重職を担っていたことは、今の殆どの日本人は知らないことでしょう。私の周囲にいる立教大学のOBに、立教大と聖路加病院との関係を聞いても、ポール・ラッシュの名前を出しても知りませんでした。そんなわけで、こんなことを書いてみたのです。

 聖路加国際病院を含む築地・明石町辺り(福沢諭吉の中津藩中屋敷があった所でしたね)は、戦後占領期を見越して、米軍は空爆せずに温存しました。これも、ポール・ラッシュが、東京大空襲の司令官カーティス・ルメイ将軍に進言、助言したのかしら、と思いましたよ。聖路加病院は占領期、米陸軍病院と呼ばれました。

「母国へのインテリジェンス協力の諸相」=第38回諜報研究会

10月9日(土)午後、誰でも自由に参加できるオンラインで開催された第38回諜報研究会(NPOインテリジェンス研究所主催、早稲田大学20世紀メディア研究所共催)に馳せ参じて来ました。

 先月参加した第37回研究会で、恫喝まがいの炎上事件がありましたから、今回もどうなることやら、とヤキモキしておりましたが、件の怖そうなインテリの方は、きこしめていなかったせいなのか、大人しくて、無事平和に終わり、良かったでした。

 しかし、新たな問題(笑)。

 最初に「『インテリジェンスは剣より強し!』-『対ソ』情報戦にヒュ-マニズムを貫いた父・勝野金政-生誕120年にあたり」という演題で報告された稲田明子氏(NPOインテリジェンス研究所特別研究員)の講演が、要領を得なくて、個人的には全く理解できなかったことでした。マスコミの取材記者として言わせてもらうとしたら、「字にならなかった」(つまり、記事にはできなかった)でした。

 自分の不勉強を棚に上げて文句を言っているようで恐縮ですが、本題とは全く関係ない「前置き」が長過ぎて、恐らく、核心の部分に入れず尻切れトンボで終わってしまったようでした。

 講演者の御尊父に対する尊崇の念と思い入れが強いことは分かりましたが、残念ながら勝野金政と聞いて、どんな方なのか直ぐ分かる方は世間ではそれほど多くはないと思います。(先日、若い人と話をしていて、城山三郎を知らないと聞いて腰が抜けました)「前置き」など端折って、ごく簡単に人物像の前知識を入れてくだされば良かったのではないか、と思いました。

  でも、この後、補足的に報告された山本武利インテリジェンス研究所理事長(早稲田大学・一橋大学名誉教授)による「陸軍参謀本部の協力者 勝野金政-リシュコフー中田光男の人間関係」と、加藤哲郎一橋大学名誉教授の補足説明を聴いて、少し理解することができました。またまたマスコミ記者風に言えば、今回「何がニュースか」分かったような気がしました。

  勝野金政とは、大雑把な言い方で語弊があるかもしれませんが、「日本のソルジェニーツィン」と呼ばれた左翼作家・思想家です。1924年にパリ大学に留学し、仏共産党に入党。28年にモスクワに潜入し、片山潜の秘書や東方学院の教師なども務めていましたが、30年に国家保安本部によりスパイ容疑で逮捕(1989年に名誉回復)、3年半もラーゲリで重労働を科せられますが、減刑釈放され、ほぼ奇跡的に日本に帰国します。帰国後、「ソヴィエト滞在記」などを発表し、ソルジェニーツィンよりもいち早くスターリンの粛清の真実を明かしたことから、文化人類学者の山口昌男から 「日本のソルジェニーツィン」 と呼ばれるようになったといいます。

 今回、何がニュースかと言えば、山本武利理事長も指摘されておりましたが、勝野は一転して37年に大本営参謀本部に招聘され、対ソ戦に備えるための「軍部の協力者」になります。その翌38年に、スターリン粛清を逃れてソ連から日本に亡命してきたリュシコフ三等大将と勝野が43年にソ満国境視察した際に一緒に写っている貴重なマル秘写真があったことでした。

 加藤哲郎一橋大名誉教授によると、亡命したリシュコフの軍事情報は、ソ連側が改めて、シベリアでの軍事配置や作戦等を全て変更したため、直接的にはほとんど役に立たなかったといいます。そして、リシュコフは45年8月に満洲の大連で陸軍中野学校出身の将校によって暗殺されますが、その背後に、ソ連共産党員、コミンテルン極東部員から転向して陸軍参謀本部に勤務していた高谷覚蔵らがいたことなどを指摘していました。

 続く、2人目の報告者、武田珂代子立教大学教授による「太平洋戦争:情報提供者としての離日宣教師」は、講義にこなれている大学教授だけあって、非常に分かりやすく、頭にスッと入りました。

 武田教授は、アジア太平洋戦争・日本占領期の翻訳通訳事象の研究がご専門のようですが、私自身も関心があるので非常に興味深かったでした。米スタンフォード大学フーバー研究所の資料を苦労して渉猟してでの研究発表でした。

 私が驚いたのは、米海軍は、対日戦争の準備のために、早くも1936年に日本語通訳・翻訳者候補のリストを作成していたことでした。1936年は「二・二六事件」があった年ではありますが、真珠湾攻撃の5年も前。しかも、大日本帝国は、真逆に英語は敵性語として禁止したほどではありませんか。まさに、インテリジェンスの情報戦という意味では、既に5年前に日本は敗北していたことになります。

◇ライシャワー、モーア、そしてモーラン

  太平洋戦争・日本占領期で活躍した米国人の通訳・翻訳者は、来日宣教師や日本生まれのその子息が多かったんですね。戦後、駐日大使になったエドウイン・ライシャワーもその一人で、最も有名ですが、東京裁判で言語裁定官を務めたラードナー・W・モーアも日本生まれの宣教師だったのです。モーアは、交換船で帰米後、陸軍情報機関の翻訳指導をし、戦後、再来日し、陸軍言語部長として占領活動。除隊後、宣教活動を再開し、四国基督教学園(現四国学院大学=香川県善通寺市)の初代学長になった人です。この人の実弟が、ウォーラス・H・モーアで、陸軍情報将校となり、当時敵視されていた日系二世の活用を主張し、戦後は、収容所から帰還した日系人を支援した人と知られています。

 もう一人だけ、重要人物は、シャーウッド・F・モーランで、1925年に日本で宣教活動を始め、41年に帰米。56歳で海兵隊に志願して言語官になった人です。日本人捕虜を「人間的アプローチ」で尋問したことから、アフガニスタン・イラク戦争で再注目されました。その日本生まれの息子が シャーウッド・R・モーランで、海軍の言語官となり、暗号解読などに従事し、戦後は原爆調査にも参加したといいます。海軍情報士官として日本人捕虜を尋問した経験のある世界的な日本文学者のドナルド・キーン氏の著作の中にも、このモーランがしばしば登場します。

お世話になりました「『知の巨人』立花隆のすべて」

 昨日10月7日夜10時41分に、東京都足立区と埼玉県南部で震度5強の地震がありましたが、吾人は熟睡中で、揺りかごかメリーゴーランドに乗っている感じで、夢見心地でした。でも、幸いにも、本棚から本が落ちてくることもなく、被害はなし。ただし、本日は電車が間引き運転となり、朝は、駅のホームで何十分も待たされた上、猛烈な通勤・通学ラッシュで長時間の「押しくら饅頭」状態で閉口しました。

 電車内では、捕まり棒に捕まっていましたが、後ろから押されても、筋力が低下していて、腕がブルブルと震えてヘナヘナと倒れてしまいそうでした。我ながら、立派な「老力」がついたものです…。

 大変有難いことに、今朝は、心配してメールをしてくださる方がいらっしゃいました。この場を借りて御礼申し上げます。「この場」といっても、個人的なブログなのですから、「あに、言ってるんだか」ですけどね(笑)。

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 さて、最近読んでいるのは文春ムック「『知の巨人』立花隆のすべて」(文藝春秋、2021年8月16日発行、1650円)です。今年4月に80歳で亡くなった「知の巨人」の追悼本ですが、電車内で読んでいるのが、何となく恥ずかしい気がして隠れて読んでいます。何と言っても「知の巨人」というキャッチコピーが、本人は恥ずかしくなかったのか、訝しく思っていたら、この本の中で、読書猿という人が「『知の巨人』という言葉には違和感がある。個人的には、ほとんど蔑称ではないかとさえ感じられる」と書いておりました。私も同感です。

 何と言いいますか、知識を商業化するようで、違和感というより、嫌悪感を味わいます。確かに、彼は「知の巨人」かもしれませんけど、本人や信奉者やその取り巻き連中が「ニッヒッヒ」と密かに味わっているだけで十分で、日本的繊細さに欠けますね。

 その追悼本ですが、橘隆志(本名)という大秀才が、如何にして立花隆という評論家になったのかといった「人となり」を分析した、その集大成のような本です。本人も対談の中で語っていますが、やはり、5歳の時の「戦争体験」がその後の人生に最も大きな影響を与えたようです。橘家は、どうも「放浪癖」がある人が多かったらしく、立花隆の父橘経雄は、早稲田大学の国文科を出た人で、長崎のミッション系の女学院の教師になったかと思ったら、「勝手に」北京の師範学校の副校長として大陸に渡ります。立花隆は1940年生まれですから、1945年の日本敗戦時は5歳。この大陸からの引き揚げでは混沌状態の中、相当苦労したようで、まかり間違えば、自分も残留孤児になっていたかもしれない、と振り返るほどです。

 父橘経雄の従兄弟が、血盟団事件、五・一五事件で理論的支柱となった右翼思想家の橘孝三郎というのは有名な話ですが、父親の長兄が「山谷のおじさん」と呼ばれた放浪者だったいう話は興味深い。一方、母親の龍子は、自由学園と雑誌「婦人之友」をつくった羽仁もと子(日本人女性初のジャーナリスト)が、戦時色が強くなった1938年に日本に居たたまれなくなって、北京に自由学園北京生活学校をつくって以来、彼女の「信者」となり、最後まで「友の会」の会員として活動したといいます。父親の経雄は戦後、日本に引き揚げてから、その後、「週刊読書人」の専務を務めるなどした人ですから、まあ、家庭内でも蔵書に恵まれたインテリ一家育ちということになります。

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 この本では、色んなことが書かれていますが、102頁の「東大生たちに語った特別講義」が個人的には面白かったでした。知識の塊の「天下無敵」で、自信満々にしか見えない立花氏ですが、若い頃は何度も自殺しようと思った、と告白しているところに親近感を覚えました。しかも、その原因は「深刻な失恋」だと言うではありませんか。私自身にも「覚え」がありますから、雲の上の人に見えた巨人も、一気に身近に感じてしまいました(笑)。

 もう一つ、一冊の本を書くには100冊以上読まなければ、読むに値するロクなものは書けないという彼の信念には感服してしまいました。できれば、1000冊読むのが望ましい、という彼の格言には卒倒しましたが(笑)。私自身は、普通の人よりほんの少し本は読んでいると思っているのですが、それでも、1カ月に多くても10冊か15冊程度です。文芸担当記者をやっていた若い頃は、月に30~40冊読んでいましたが、2年未満で限界でした。1日1冊以上読むというのは、就寝と風呂に入っている時間以外、歩いていても、トイレの中でも、食事をしていても、全ての時間、読書に費やすことになりましたからね。もう、そんな体力も精神力もありません。もし、今から1000冊読むとなると、10年ぐらい掛かるでしょうね。

 いずれにせよ、立花隆先生にはお会いしたことはありませんでしたが、著作で大変、お世話になりました。途中で「臨死体験」や「脳死」に関する著作に傾いた時、ついていけなくなって離れた時期もありましたが、恐らく、彼の膨大な全著作の5割は読んでいると思います。

 印象に残っている著作は、アトランダムで「『知』のソフトウェア」「日本共産党研究」「宇宙からの帰還」「サル学の現在」「精神と物質」「インターネットはグローバル・ブレイン」「東大生はバカになったか」「武満徹 音楽創造への旅」…などですが、やはり、たった1冊、ナンバーワンに挙げたいのは、「田中角栄研究」ではなく、「天皇と東大」ですねこの本で初めて日本の右翼思想の源流と支流と河口を一気に知ることができ、眩暈がするような知的興奮を味わうことができました。

「明治十四年の政変」がなければ海城はなかった?

  「明治十四年の政変」と呼ばれる事件は、教科書ではサラッと触れられる程度で、ほとんんどの人が歯牙にもかけません。しかしながら、実は、後世に多大な影響を与えた日本の歴史上、重要なターニングポイントになった政変でした。議会開設と憲法制定のきっかけにはなりましたが、最大のポイントは、明治維新の功労藩と呼ばれた薩長土肥の四藩のうち、この政変によって、肥前が追放され、その前に土佐が脱落し、薩長二藩の独裁体制に移行したことでした。

 結果的に、この政変で中央政府から弾き飛ばされた肥前(大隈重信)と、明治六年の政変で政権から脱落した土佐(板垣退助)は自由民権運動に走り、それぞれ立憲改進党や自由党などを創設します。こんなに歴史上重要な政変だったのにも関わらず、あまり人口に膾炙しなかった理由は、この事変があまりにも複雑怪奇で、憶測の域を出ないことが多く、先行研究が少なかったからということに尽きるかもしれません。

銀座アンテナショップ「まるごと高知」

 恐らく、現在手に入る一般向けの研究書で最新資料が盛り込まれ、最も充実した関連書は、久保田哲(1982~)武蔵野学院大学教授著「明治十四年の政変」(集英社インターナショナル新書、2021年2月10日初版)だと思われますが、この本を読んでも、結局、あまりよく分かりませんでした(笑)。なぜなら、本当に複雑怪奇な政変で、この政変を境に薩長独裁政権ができたわけではなく、政変後でも政府内には大隈に近い副島種臣や佐野常民らが留まったりしていたからです。(「開拓使官有物払い下げ」を沼間守一の「東京横浜毎日新聞」に誰がリークしたのかさえ分かっていません)

 ただ、肥前の大隈重信が参議の職を剥奪されて追放された背景には、議会開設と憲法制定問題があり、大隈が進めたかった英国型議員内閣制と長州の伊藤博文ら(フィクサーは肥後の井上毅)が推し進めようとしたプロシア(ドイツ)型立憲君主制が対立していたこと。同時に、薩摩の黒田清隆(バックに政商の五代友厚がいた)が関わっていた北海道の開拓使官有物払い下げ事件があったという構図だけは理解できました。

 また、政変の主役の一人である大隈重信の背後では、「福沢諭吉と三菱が裏で糸を引いて操っている」といった噂が宮中・元老院グループや中央政府の薩長出身者の間で、真面目に信じられていたことをこの本で知りました。後に早稲田大学と慶應義塾の創立者としても知られる大隈と福沢は肝胆相照らすところがあり、 英国型議員内閣制を日本に導入する考えで一致し、日本で初めて外国為替業務が出来る横浜正金銀行(戦後、東京銀行、現在、三菱UFJ銀行)が設立されたのは、この2人の尽力によるものだったこともこの本で初めて知りました。(政変の「敗者」となった福沢諭吉は、その翌年、「時事新報」を創刊します)

「まるごと高知」カツオのたたき定食1500円

 私自身が、明治十四年の政変の重要さを認識したのは、4年ほど前の高校の同窓会で、恩師の目良先生から御教授を受けたからでした。我々の高校の創立者は、古賀喜三郎(評論家江藤淳の曽祖父)という肥前佐賀藩出身の海軍少佐でした。この明治十四年の政変をきっかけに、政官界だけでなく、軍人の世界でも肥前出身者はパージされ、陸軍は長州、海軍は薩摩出身者が優遇されるようになります。古賀喜三郎少佐も、限界を感じて、海軍を去り、教育界に身を投じて、明治24年に海軍予備校(海城高校の前身)を創立します。ということは、明治十四年の政変がなければ、古賀喜三郎はそのまま海軍軍人として生涯を終えていたかもしれません。

 そんなわけで、私はこの政変には人一倍興味を持ち、先ほどご紹介した 久保田哲著「明治十四年の政変」を読んだわけです。 久保田教授は学者さんにしては(失礼)、文章が非常に上手く、名文家で、大変読みやすい。あれだけ複雑怪奇な政変をよくここまでまとめ上げたものだと感心しました。「維新三傑」と呼ばれた木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通がそれぞれ、病死、戦死(自決)、暗殺という形で亡くなり、混沌とした中で、政変は、権力争いで勃発した内紛と言えるかもしれません。

◇井上毅は日本のキーパースン?

 この内紛で勝利を収めた伊藤博文のバックには肥後の井上毅が暗躍していたこともこの本では描かれていました。司法官僚の井上毅は、法制局長官などを歴任し、明治憲法を始め、軍人勅諭、教育勅語、皇室典範などを起草した人として知られています。結局、明治という国家、と言いますか、日本の国のかたちをつくったのは、この井上毅ではないかと、私なんかは一人で思い当たってしまいました。官僚として優秀ながら、「反・福沢諭吉」の闘士として、最高権力者である岩倉具視や伊藤博文らに取り入り、かなり政治力を使って暗躍したようです。暗躍といっても常套手段であり、悪いイメージを帳消しにするほどの功績があるので大したものです。

 井上毅こそ日本史上で欠かせない、とてつもない人物だという認識を私は新たにしました。

【追記】

 ・伊藤博文は1885年の内閣制度創設により、初代首相に就任しますが、大日本帝国憲法には首相について、特に規定はなく、行政権も国務大臣の輔弼によって天皇が行使するのが原則でした。ということで、首相とはいっても、他の国務大臣と同格の「同輩中の首席」に過ぎなかった。

 戦後、日本国憲法は、首相を国会議員の中から国会の議決で指名する議員内閣制を採用し、首相に国務大臣の任免権を付与したため、「最高権力者」となった。

 ・大隈と福沢が設立した横浜正金銀行の本店ビル(現神奈川県立歴史博物館、重文)を設計したのは、明治建築界の三大巨匠の一人、幕臣旗本出身の妻木頼黄(よりなか)。他に、東京・日本橋、半田市のカブトビール工場などを設計。三大巨匠の残りの2人は、辰野金吾(唐津藩、「東京駅」「日銀本店」など)と片山東熊(長州藩、「赤坂離宮」など)。