NHK「英雄たちの選択」に違和感=意図的な隠蔽を感じます

 テレビは歴史番組を結構見ています。私自身、全く知らなかったことや新しい解釈を知ることが出来たりして、かなり勉強になるからです。

 ただし、時には、番組が、歴史的解釈の面で意図的に「偏向」することがあり、これは警戒しなければいけないなあ、と思うことがあります。

例えば、NHKの「英雄たちの選択」という人気番組があります。進行役は、磯田道史さんという今や、テレビ、新聞、雑誌でお見かけしないことはないほど超売れっ子の歴史学者さんです。物事を自信満々に断定的に仰り、しかも、かつての小泉純一郎首相のようにワンフレーズで明快に発言されるので痛快感もあり、多くの人に多大な影響力を与えるインフルエンサーであることは間違いありません。立派な学者さんなのに、自著の映画化作品などにわざわざ脇役で出演されりして、露出が超過剰なところは気になりますが。

 先日(3月15日)は、細川幽斎を取り上げておりました。ネット上の番組紹介欄にはこんな風に書かれています。

 細川幽斎は、戦国武将であるとともに、和歌の達人であった。平安以来受け継がれてきた「古今和歌集」解釈の秘伝を武士の身でありながら継承していた。いわゆる「古今伝授」である。秀吉の時代、茶道の千利休とともに、歌道の幽斎として、秀吉の天下取り戦略のため大活躍する。そして、関ケ原の戦いの直前、幽斎・生涯最大の選択に迫られた。戦国時代に、和歌というソフトパワーで生き抜いた幽斎の人生にスポットを当てる。

 この「幽斎・生涯最大の選択」というのが、その時、籠っていた田辺城を開城するか、それとも籠城して戦うか、というものでした。

 私は、「幽斎・生涯最大の選択」とは、そうじゃないだろうと思ったわけです。田辺城じゃない、だろうと。やはり、本能寺の変の後、盟友・明智光秀からさんざん、一緒に挙兵して戦いに参加してもらうよう催促の手紙を何度ももらいながら、結局、裏切って、豊臣秀吉側についたことが、「幽斎・生涯最大の選択」ではないかと思うのです。

浦和博物館(旧埼玉師範学校校舎)

 何と言っても、細川幽斎と明智光秀は盟友以上に義兄弟のような濃密な関係で、幽斎の嫡男忠興と光秀の娘お玉(細川ガラシャ)が結婚しております。つまり、幽斎は、どう転ぶか分からないのに、親戚より、勢いがありそうな秀吉を選んだのです。

 田辺城籠城の時点で、既に、後陽成天皇に裏工作して、「こいつを殺しては、古今伝授が永久に失われる危機がある」ことを王朝の公家社会に吹聴したフシがあるので、選択に迷うわけがありません。幽斎は、最初から生き延びるつもりだったのです。

 番組では不思議なことに、「本能寺の変」は出て来ても、細川忠興と細川ガラシャとの結婚の話を意図的に隠蔽して、国宝の刀剣まで持ち出して、細川幽斎が如何にも立派な文武両道の英雄武将であることを仕立てていました。磯田先生なら知らないわけがないので、一言も触れないのはおかしいなあ、と違和感を覚えたわけです。

 勿論、それらは歴史の解釈ですから、明智光秀は主君信長を下剋上で暗殺した極悪非道人で、そんな悪人に細川幽斎が加勢するわけがない、という見方でも結構だと思っています。幽斎は多分、光秀軍に参加する武将がほとんどいなく、秀吉軍に勝てないことを事前に情報としてつかんでいたのでしょう。

 もともと幽斎は、室町幕府の申次衆・三淵晴員(みつぶち・はるかず)の次男として生まれ、細川家の養子になった人物でした。応仁の乱などで疲弊し、没落寸前に陥っていた管領細川家の再興を事実上任されたのです。ということは、何と言っても、「お家」が大事です。明智光秀より、豊臣秀吉。秀吉が亡くなれば、石田三成より徳川家康、とその時の状況と最新情報を忍びを使って収集して、最善策を「選択」していった、とても頭が切れる戦国武将だったのでしょう。

 幽斎がいなければ、細川家も、土岐氏や畠山氏や今川氏のような運命になっていたのかもしれません。幽斎は、肥後藩52万石の礎を築いた細川家の中興の祖に間違いありません。

 生前の細川幽斎に、もしインタビュー出来たとしたら、恐らく、彼は最大の選択は、明智光秀との関係を挙げるに違いありません。

 その辺り、番組では意図的に「隠蔽」されていたので、「テレビ番組は100%信用してはいけないなあ」と思った次第です。メディアは何でも、編集者やディレクターや作家や学者らの意図をもって作られているからです。

 「英雄たちの選択」は、以前にも歴史的事実を意図的に隠蔽しているような違和感を覚えたことがあるので、今回、はっきりとこうして文章にしてみました。

 個人の感想ですが、今後は磯田先生の明解で明快な発言についても、少し、警戒しながらフォローしていきたいと思っております。歴史は、学者さんのものでもないし、英雄のためのものでもないからです。

秀才が書くような文章でした=三木谷浩史著「未来力  『10年後の世界』を読み解く51の思考法」

 今朝の通勤電車。満員電車のはずが、私が乗ろうとした車輛はどういうわけか、空席が目立ち、異様な雰囲気でした。そしたら、ドアの出入り口付近で、もはやいくなった酔っ払いらしき人物が例の物をまき散らしていて、それに気が付いた乗客は慌てて、他のドアに移動していたのでした。 

 それでも、都心に近づくと、かなりの人が乗って来て、ハイヒールを履いたある若い女性が、例の物に全く気付かずに踏んでしまい、すってんころりん。「も~、最悪~」と言いながら、電車から降りてしまいました。

 毎日通勤していると色んな光景にぶち当たります。

 さて、三木谷浩史著「未来力  『10年後の世界』を読み解く51の思考法」(文藝春秋、2023年1月10日初版)を読了しました。申し訳ないですが、拙宅は狭いので、購入したわけではなく、図書館で借りました。お借りしたので、2日で読み終えました。

 三木谷さんは、御案内の通り、世界に3万人もの従業員を擁する楽天グループの会長兼社長です。ネット通販大手の楽天市場の創業者であり、今や、電気、ガス事業から携帯電話にまで進出し、スポーツ好きで、プロ野球楽天イーグルスやサッカーJリーグのヴィッセル神戸のオーナーでもあります。新経済連盟の代表理事として多くの政治家とのパイプも持っておられます。以前、三木谷氏の楽天創業時の苦労話は読んだことがありますが、そんな超大物財界人が、今後10年の未来をどう予想されているのか興味を持ってページを捲ってみたわけです。

 そしたら、驚くほど、正統的で、米ハーバード大学でMBAを取得したまさに秀才の文章でした。大変お忙しい方なので、最初はゴーストライターが書いたものにかなり筆を入れたのではないか、と勝手に想像されますが、もっと破天荒なことが書かれているかと思いましたら、理路整然といいますか、地道な話でしたので、少し拍子抜けしました。

 三木谷氏は、どうも御尊父で経済学者だった三木谷良一神戸大名誉教授(1929~2013年)に多大な影響を受けたようで、本書でも何度も登場します。その父親が影響を受けた世界的経済学者シュンペーター(1883~1950年)の「イノベーション」や「創造的破壊」にもかなり影響を受けていたようで、起業するに当たって、理論的支柱になったことも明かしております。

銀座「萬福」レバニラ定食890円

 当たり前の話ですが、超一流の経営者には読書家が多いのですが、三木谷さんも例にもれず、唐の皇帝太宗の統治をまとめた「貞観政要」までこの本で引用していたので吃驚しました。私はちょうど、植木雅俊著「日蓮の手紙」(NHK出版)も読んでいて、この中で、日蓮の愛読書として「貞観政要」が登場していたからです。何という偶然の一致! もっとも、植木氏の説明では、この「貞観政要」は、「唐代の呉兢(ごきょう)が編纂したとされる北宋第二代皇帝太宗の言行録で、政治の要諦がまとめられている。全10巻40篇」と書かれています。唐第2代皇帝も太宗ですが、有名な「貞観の治」と呼ばれる太平の世を築いたことから、やはり、唐の太宗の方かもしれません。

 三木谷氏は、「貞観政要」の中から、「三鏡」の逸話を引用しています。三つの鏡ーすなわち「銅の鏡」で自分の表情を確認し、「歴史の鏡」で過去から物事の盛衰を学び、「人の鏡」で今自分のやっていることが周囲からどう見られているかを知り、行いを省みる、というものです。三木谷氏は「三鏡は、組織を率いる者にとって重要だ」と引用しているわけです。

 三木谷氏は米シリコンバレーにも邸宅をお持ちのようで、ホームパーティーを開いて、色んな国からのIT関係者らと親睦を深めて最新情報も仕入れているようです。例えば、シリコンバレーがあるカリフォルニア州は、個人所得税は1~12.3%、法人所得税は9%なのに対して、テキサス州では基本的に個人所得税も法人所得税もゼロ。そのため、イーロン・マスクのテスラ社を始め、オラクルもヒューレットパッカードも、次々とテキサス州に移転(計画)しているというのです。

 私も、テキサス州に住む日本人の友人がおりますから、起業したらどうかな、と思いました。もっとも、彼は最近、このブログを読んでいないようなので、通じないかなあ?(苦笑)。

 三木谷氏は今年58歳。まだ当分、現役を続けられるようです。私は、彼の政治信条とは全く合いませんけど、今後もブレイクスルーを続けてほしいものです。何故かって? だって、昨今、スマホから電気まで、楽天グループの色んなものと契約してしまったからです。まさに、死活問題ですから、トップの動向は、そりゃ気になりますよ(笑)。

🎬「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」はマイナス★

 今年の第95回米アカデミー賞で、主要部門の作品賞を含む7部門も受賞した「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」(ダニエル・クワン、ダニエル・シャイナート両監督)を観に映画館まで足を運びましたが、あまりにも観るに耐えられず、途中で退席してしまいました。途中退席はあまり覚えていませんが、生涯で初めてかもしれません。

 映画記者や評論家としてではなく、一般庶民として入場券を購入して観たので、正々堂々と開陳させて頂きますと、この映画で、製作者や監督が何を言いたいのかさっぱり分かりませんでした。そして、主演のミシェル・ヨーさん(60)がアジア系で初めて主演女優賞を受賞するなど大きな話題になり、つい田舎もんの私も観てしまいましたが、結局、米アカデミー賞の選考委員たちがどうしてこの映画に栄誉を与えたのか、さっぱり理解できませんでした。

 考えられることは、ハリウッド関係者が、世界第2位の経済大国であり、世界一の人口を誇る中国のマーケットを意識したのでしょう。アカデミー賞は宣伝効果抜群ですから、恐らく、何十億ドルもの興収を狙っているはずです。映画では中国語が頻出しますので、世界中の中国系の人たちは痛快かもしれません。

 メタフィジックスにせよ、血が出る暴力シーンが多く、単なるカンフー映画か、SF映画と割り切って楽しめば良いんでしょうけど、個人的には、あまりにも荒唐無稽過ぎて、観ていて少しも楽しめず、登場人物に少しも感情移入が出来ませんでした。エンターテインメントなのに、腹を立ててしまってはもうどうしようもありませんよね?

 「お金と時間の無駄」と判断して、途中で松岡洋石全権代表の如く、席を蹴って、退席しました。

 

「京」と「宮」の違いとは?=「歴史人」4月号から

 「古代の首都になった『京』と『宮』の違いって分かりますか? 何で、平城京や平安京と言うのに、飛鳥宮や近江大津宮は、飛鳥京とか近江京とか言わないんでしょうかねえ?」ー会社の同僚のAさんが何処か思わせぶりな言い方で私にカマを掛けてきました。

 いやあ、分からん!今まで、そんな違いなんて全く意識していませんでした。

 そこで、しょうがないので、久しぶりに「月刊歴史人」(ABCアーク)4月号「古代の都と遷都の謎」特集を買ってみました。Aさんは、答えはその本に書いてある、というからです。

 「歴史人」を買ったのは3カ月ぶりぐらいです。その間買わなかったのは、ここ数年買い続けてきたので、同じような特集が続いていたからです。拙宅は狭いのでそんなに沢山の本を置けません。でも、4月号の「古代の都と遷都の謎」特集は初めてです。昨日、読了しましたが、知らなかったことばかりでした。雑誌ですから図表や写真がふんだんに掲載されているので、本当に分かりやすく、確かに「保存版」です。しかも、「歴史人」にしては珍しく、本文に大きな誤植がないので、驚愕してしまいました。失礼!大袈裟でした(笑)。

 さて、冒頭の京と宮の違いです。

宮=天皇の住まい+儀式のための役所

京=宮+豪族・庶民の居住域を計画的に造った都

ということでした。

 武家時代で言えば、宮とはお城と大名屋敷で、京とは城下町ということになりますか。

 時代の変遷でどんどん変わっていきますが、平安京を例にとりますと、平城京以来中国・唐の都・長安などにならって、碁盤の目の道路を整備して、「平安京」の中央北端に政務の中心である「平安宮」を置き、それ以外には、貴族が館を構え、寺社仏閣も創建され、庶民も住み、禁止されていたにも関わらず、右京の南部は湿地帯だったため、水田にもなったようです。貴族の人気スポットは左京の北側だったということです。

 平安宮の中には大内裏があり、ここには政務が行われる政庁である「朝堂院」や国家や宮廷儀礼が行われる「大極殿(だいごくでん)」、それに「太政官」や「民部省」などの官庁があります。また、その大内裏の中に天皇がお住まいになる「内裏」があり、「源氏物語」などにも出て来る「清涼殿」(天皇の日常生活の場)や即位礼など宮廷儀式が行われる「紫宸殿」などもありました。こういうのは、文章ではなく、雑誌で図解で見るのが一番ですね(笑)。

 古代は天皇が変わる度に何度も遷都をしておりましたが、一番興味深かったことは、桓武天皇が奈良の平城京を捨てて、京都の長岡京に遷都した理由です。仏教勢力の南都六宗の政治干渉を避ける目的があったから、というのは定説で、私も習ったことがあります。もう一つ、この本の著者の一人である藤井勝彦氏によると、天武天皇の孫・元正天皇が即位した霊亀元年(715年)から天武系の天皇が続いていたのに対し、桓武天皇の父・光仁天皇の代で半世紀ぶりに天智天皇系の天皇が出現しました。天応元年(781年)に父から譲位された桓武天皇が新たな天智系の王朝と捉えて、新王朝にふさわしい王都の造営を目論んだというのです。なるほど、奥が深い。(他に平城京は、下水道設備が不十分で、また清掃が行き届かなくて不衛生で、金属による環境汚染もあったという説もあります。)

 さらには、桓武天皇の生母が、百済渡来人である高野新笠(にいがさ)で、その父・和乙継(やまとのおとつぐ)は百済王武寧王の子孫だといいます。ですから、平城京から長岡京への遷都は、造営された山背国乙訓郡長岡村(現京都府向日市南部)が高野新笠の本拠地だったため、ということもあったようです。長岡村は、絶大な財力を持っていた秦氏の拠点でもありました。秦氏というのは、応神天皇の御代に百済から渡来してきた弓月君(ゆづきのきみ)を祖とする氏族で、当初は大和国葛城辺りに住んでいところ、後に山背国太秦などにも移り住み、土木や養蚕、機織りなどの技術を生かして財を蓄えたといいます。長岡京から平安京への遷都も秦氏の財力に頼ったことでしょう。

 こうしてみると、日本の古代国家(政権)が定着するには渡来人の助力がなければ、成り立たなかったと言えます。さらに踏み込んで言えば、人類学的にみて、弥生人=渡来人ならば、日本人のルーツ、特に権力者や上流階級の一部というより、多くのルーツは、文字や算術や仏教、それに農耕、土木建築、冶金、陶芸、養蚕、機織り技術を会得していた渡来人なのかもしれません。

 少なくとも、渡来人や遣隋使や遣唐使らが齎した朝鮮や中国の文物や文献なしでは、日本の古代国家が成立したなかったことは確かだと言えます。

「個人の判断」も忖度優先なのか?=コロナのマスク着用に関する哲学的考察

 3月13日(月)から、政府方針により、マスク着用は「個人の判断」に委ねるということになりましたので、私も俄か文化人類学者になってフィールドワークを試みました(笑)。

 まず、自宅から最寄り駅までバスを使いますが、車内のマスク着用率は100%。全員マスクをしていたので拍子抜けしました。そして、最寄り駅からの通勤電車。超までいきませんが、車内は満員で、やはり、私が見える範囲で全員マスクをしておりました。

 職場は、東京・銀座なのですが、街を歩く人で、外国人観光客の3人に2人はマスクを着用せず、日本人らしき人はほぼマスク着用でした。私がすれ違った数十人の中で、3人だけがマスクをしていませんでした。マスク着用率98%といった感じです。

 昼休みに、雨の中、ランチがてら、私の縄張りである(笑)銀座、築地、新富町辺りを散策しましたが、やはり、ほとんどの人がマスク着用でした。

 厚労省の発表では、3月12日は全国で7013人がコロナに感染し、43人が死亡したといいます。ということは、コロナは終息も、収束もしたわけではないということです。専門家の中には、日本人全員がマスクを外せば、5月には感染者が倍増するといった予想をした人もおりました。

 岸田首相や小池都知事といった権力者たちが「マスクなし」で出勤したとはいっても、まさか、満員の通勤電車に揺られて来たわけでなく、運転手付きの黒塗り高級車に乗って来られたわけでしょ?

 つまりは、為政者が声高に叫んでも、一般庶民は、権力者のことを誰も信用していないということになりますかね? 庶民がコロナに罹ったとしても、「経済を回す」ことの方が優先なのでしょう。それとも、日本人は横並びで、斟酌、忖度が得意な民族なので、周囲の皆と一緒に合わせているのでしょうか?

 私自身は花粉症でもあるので、しばらくの間は、今まで通りマスクを着用するつもりです。勿論、コロナ感染者の被害者にも加害者にもなりたくありませんからね。

 明治維新になって、ちょん髷からザンギリ頭になっても、大正の頃までちょん髷を結っていた人がいたぐらいですから、ずっとマスクをし続ける人もいるかもしれません。そう言えば、昭和の40年代ぐらいまで女性で日本髪で和服の人が結構いたような記憶があります(明治生まれの祖母の洋服姿は見たことなかったなあ)。京都の舞妓さんは、今でもそうですし、お相撲さんは現代でもちょん髷じゃありませんか!(笑)

日本人は縄文人と渡来人と南方人の混血か=速水融著「歴史人口学で見た日本 増補版」を読了しました

 有楽町「大正軒」ロースかつ定食」1100円 久しぶりに行ったら少し値上がってた?

 8日(水)夜は、高校時代の友人の田中君の通夜に参列して来ました。会場は、浜松町からモノレールに乗り「流通センター駅」で降り、歩いて10分ぐらいの所にありました。

  彼の交友関係の広さから多くの方が参列しましたが、高校時代の友人は小生を含めて7人だったので、帰り、浜松町の何処かで飲みに行くことにしました。以前はJRの浜松町駅に隣接して世界貿易センターがあり、その地下にあった「いろはにほへと」という居酒屋によく行ったことがあったのですが、貿易センターは目下、解体工事中でした。

 仕方がないので「大門」駅の繁華街に歩いて行き、適当な店を探していたら、怪しげな客引きに捕まってしまいました。「普通の居酒屋だから大丈夫です」と言いながら、連れて行かれたのは、路地の奥で、しかも、綺麗なお姐さんの写真が並んだその筋の店が何軒も同居する雑居ビル。客引きのオジサンに「変な店なら帰るよ」と忠告してビルの3階にまで昇り、最初にメニューを見せてもらい、この値段なら、ま、いっかということで、入ることにしました。

 お店の人に色々と話を聞くと、最初は「隠れ家」的コンセプトでやってたそうですが、目立たない路地裏なので、さっぱり客が来ない。そこで、客引きを始めたらしいのですが、本当にお客が全く来ない(笑)。でも、ある程度呑んで、食べて、一人当たり4000円で済んだので、結果的に「普通の店」で安堵しました。

 しばし、田中君の思い出話で盛り上がり、8人掛けのテーブル席だったので、一人分席が空いていましたが、まるでそこに田中君が座っているような錯覚に襲われました。

 さて、話は全く変わって、速水融著「歴史人口学で見た日本 増補版」(文春新書)を読了してしまいました。

 この本では、色んなことを教えてもらい、渓流斎ブログ2023年3月7日付の「本当の日本人の姿が分かる=速水融著「歴史人口学で見た日本 増補版」」でも取り上げましたが、最後に特筆したい一つだけ書いておきます。

 それは速水氏の歴史人口学の研究成果(江戸時代の「宗門改帳」で家族や人口の在り方を調査)として、日本人は大きく三つのパターンがあることが分かったというのです。(1)東北日本型(2)中央日本型(3)西南日本型です。それによるとー。

(1)東北日本型=早く結婚するが子供の数が少ない。母親は子供を4~5人産んで、その後、家の労働力につく。親子三代以上が同居する直系家族。⇚狩猟・採集が中心のアイヌ・縄文時代人型。

(2)中央日本型=結婚年齢は遅いが子供は沢山産む。江戸など大都市に移住する。2代~3代が住む直系家族か核家族。⇚農耕、鉄器など弥生文化を伝えた渡来人型。

(3)西南日本型=結婚年齢は遅いが結婚前に子供を産むことがある。離婚も多く、次の結婚の間に子供を産むこともある。性行動に関しては比較的自由。家族の形態は、傍系の夫婦まで住む合同家族と直系家族。⇚東シナ海沿岸地域で、東南アジアと風習が一致するものが多い。

 速水氏は「日本には極論にいえば文化的独自なものはなく、外来のものを模倣し、融合させたのである。逆に、こういった模倣・融合能力こそ、日本を特徴づけるものだった、といえないだろうか」とほぼ結論付けております。

有名な銀座「AOI」のハンバーグ定食1000円。すこし辛かったかなあ…

 この辺りを読んで、私も以前読んだ篠田謙一氏著「人類の起源」を思い出しました。その読書感想文として、私は「この3000年前に到達した渡来系弥生人というのは、中国東北部(旧満洲辺り)の西遼河にいた『雑穀農耕民』(青銅器文化を持つ)が6000年前以降に朝鮮半島に進出し、遼東半島と山東半島にいた『稲作農耕民』が3300年前に朝鮮半島に流入し、在地の縄文系の遺伝子を持つ集団と混合して新たに出来た地域集団だといいます。」(2022年12月27日付渓流斎日乗「現代日本人のルーツは3000年前の渡来系弥生人にあり」)と書きました。

 これらを敷衍すると、人類学的に、日本人とは、最初に日本列島に定住したアイヌや琉球系を含む縄文人と中国、朝鮮からの渡来人と東南アジア系と恐らくポリネシア系の南方人の混血と言ってよいのではないでしょうか。

 

《渓流斎日乗》は俳句なのか!?=ChatGPTはいまいちです…

 例の先日、初挑戦した「チャットGPT」に本日、再度挑戦してみました。

私:「渓流斎日乗」とは何ですか?

ChatGPT(以下C):「渓流斎日乗」とは、江戸時代中期の俳人・与謝蕪村が著した俳諧の随筆集の一つです。蕪村が生涯をかけて書き溜めたとされる約1,500の俳諧と、その解説や評論が収録されています。

「渓流斎」は蕪村の号であり、「日乗」とは「日々の修行を積み重ねること」という意味があります。蕪村が俳諧を通じて求めたのは、日々のありふれた風景や出来事の中にある美しさや哀愁などの情感を表現することであり、その思想やスタイルがこの書物に反映されています。

「渓流斎日乗」は、俳諧の教科書としてだけでなく、日本の文化や風俗、美意識を知るうえでも貴重な書物として、現代でも多くの人々に読まれ続けています。

私:渓流斎は蕪村の雅号ではありません。間違っていませんか?

C:おっしゃる通りで、私の回答に誤りがありました。訂正してお詫び申し上げます。

「渓流斎日乗」とは、与謝蕪村が生涯を通じて愛用した別荘の名前であり、蕪村がその別荘で執筆した随筆集に「渓流斎日乗」という題名をつけたことから、このように呼ばれるようになりました。蕪村の号は、実は「蕪村」以外にも「舎人」や「松陰」といくつかありますが、「渓流斎」は、蕪村が晩年に用いた号の一つです。

訂正していただき、ありがとうございました。

私:渓流斎日乗は、蕪村の別荘の名前でもありません。現代人が書いているブログです。貴方は何も知らないんですね?

C:申し訳ありませんが、私の前回の回答にも誤りがありました。ご指摘いただき、心よりお詫び申し上げます。

「渓流斎日乗」は、与謝蕪村の随筆集の名称であり、蕪村が生涯を通じて愛用した別荘の名称ではありません。また、現代人が書いたブログとしても知られていません。私が勘違いしていたことをお詫びいたします。

与謝蕪村は、江戸時代中期に活躍した俳人であり、俳諧の分野で多大な功績を残しました。蕪村は、日本の俳諧の歴史に大きな影響を与えた人物の一人であり、現在でも多くの人々に愛されています。

私:もういいです。それも間違いです。それなら、渓流斎日乗の主宰者の高田信之介とは何者ですか?

C:申し訳ありませんでした。私の回答が正確でなかったことを再度お詫び申し上げます。

高田信之介は、現代において「渓流斎日乗」という名前で活動している方の一人で、俳句や随筆を中心に執筆活動を行っています。高田信之介は、「渓流斎日乗」の主宰者として、同名のウェブサイトを運営しており、そこで自身の作品を発表しています。

ただし、与謝蕪村の著作である「渓流斎日乗」とは、全く別のものであることにご注意ください。

私:あのですね。渓流斎日乗は俳句はやってません。短詩型の創作は苦手だと主宰者は申しております。貴方はよく間違えますね?

C:おっしゃる通りで、私の前回の回答に誤りがありました。再度、訂正してお詫び申し上げます。

「渓流斎日乗」の主宰者である高田信之介氏は、俳句を中心とした文芸活動を行っており、「渓流斎日乗」においても俳句を発表されているわけではありません。また、高田信之介氏は自身のウェブサイトにおいて、短詩型は苦手とされていることを明言されています。

再度、ご指摘いただき、ありがとうございます。今後はより正確な情報を提供できるように努めてまいります。

私:こりゃ駄目だ。間違いだらけなので、もう結構です。

C:申し訳ありませんでした。私の回答が不正確であったことでご迷惑をおかけし、心よりお詫び申し上げます。今後はより正確な情報を提供できるように努めますので、何か質問がございましたら、いつでもお知らせください。

 いやいや、もう質問しないでしょう。

本当の日本人の姿が分かる=速水融著「歴史人口学で見た日本 増補版」

 今読んでいる速水融著「歴史人口学で見た日本 増補版」(文春新書、2022年5月20日初版)は、久しぶりに、ページを繰って読み通してしまうのが惜しいほど面白い本です。

 「歴史人口学」なるものを日本で初めて確立した慶応大学教授による「一代記」とともに、そもそも歴史人口学とは何なのか、その史料集めから分析方法まで手取り足取り惜しげもなく披露し、それらによって得られる「日本人の歴史」を活写してくれます。

 日本の歴史と言えば、信長、秀吉、家康といった偉人が登場して、彼らの家系図や姻戚・家臣関係から、戦績、城下町づくり、政策などを研究するのが「歴史学」の最たるもののように見なされ、我々も歴史上の有名な人物の生涯を学んできました。その一方、歴史人口学となると、有名人や偉人は出て来ません。無名の庶民です。その代わり、江戸時代の日本の人口はどれくらいだったのか?(速水氏の専門は日本経済史ですが、使う史料が江戸時代の「宗門改帳」だったため)江戸時代の平均寿命は何歳ぐらいだったのか?平均何歳ぐらいで結婚し、子どもはどれくらいいたのか?幼い子どもの死亡率はどれくらいだったのか?長子相続制だったため、次男三男らは江戸や大坂、名古屋などの大都市に奉公に出たが、何年ぐらい年季を務めて、地元に帰って来たのか?-等々まで調べ上げてしまったのです。

 この手法は、速水氏が慶応大学在職中(恐らく、助教授時代33歳の時)の1963年に欧州留学の機会を得て、そこで、フランス人のルイ・アンリという学者が書いた歴史人口学の入門書等と初めて出合い、アンリは、信者が洗礼する際などに教会が代々記録してきた「教区簿冊」を使って、その土地の一組の夫婦の結婚、出産、子どもたちの成長、死亡時の年齢まで押さえて、平均寿命や出産率などを分析していることを知り、帰国後、この手法は日本では「宗門改帳」を使えば、同じようなことが出来るのではないか、ということを発見したことなどが書かれています。

 私が速水融(はやみ・あきら、1929~2019年)の名前を初めて知ったのは、確か30年ぐらい昔に司馬遼太郎のエッセーを読んだ時でした。何の本か忘れましたが(笑)、そこには、江戸時代の武士階級の人口は全体の7%だった、ということが書かれ、その註釈に、 歴史人口学者の速水融氏の文献を引用したことが書かれていました。そこで初めて、歴史人口学と速水融の名前をセットで覚えました。そして、先日、エマニュエル・トッドの大著、 堀茂樹訳の「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」(文藝春秋)の上下巻本を読んだ際、この本の中でも速水融氏の文献が引用され、しかも、トッド氏というあの大家が尊敬を込めて引用していたので、いつか速水融氏の何かの著作を読まなければいけないなあ、と思っていたのでした。そしたら、ちょうどうまい具合にこの本が見つかったのです。

 何度も言いますが、これが面白い。実に面白い。特に偉人変人?を中心にした人物史観に飽き飽きした人にとってはとても新鮮で、目から鱗が落ちるほどです。

 ですから、あまりこの本の内容について書くことすら憚れますが、目下150ページまで読んで、興味深かった点を少し挙げますとー。

・歴史人口学の基礎史料となる欧州の「教区簿冊」と日本の「宗門改帳」を比較すると、「教区簿冊」では、洗礼(出生)、結婚、埋葬(死)といったイベントは分かるが、教区の人口が何人とか男女比まで分からない。一方の日本の宗門改帳は、世帯単位で作成されているので、出生、結婚、死亡は勿論、村の人口やどこへ移動したのかまで分かる。ただし、宗門改帳は全国バラバラで統一性がないので、全国としての研究はやりにくい。

・速水氏は享保年間の日本の人口を3000万人+αと推測した。八代将軍吉宗が全国の国別人口調査を実施し、2600万人という数字を出したが、(仏革命期のフランスの人口は2800万人と推測されている)しかし、この数字は、ある藩で8歳以下や15歳以下が含まれていなかったり、そもそも最初から武士階級がカウントされていなかったりしていた。そこで、速水氏は約500万人を追加して、3000万人ちょっとという数字を弾き出した。

・速水氏の「都市アリ地獄説」=江戸は人口100万という世界的にも大都市だったにも関わらず、周辺地域も含めて人口減が見られた。それは、大都市が健康的なところではなく、独身者も多くて出生率が低く、特に長屋など住環境も悪く、火災も多く、疫病が流行ると高い死亡率となる。これは、農村から健康な血を入れないと人口が維持できないということを意味する。欧州でも同じ現象があり、それは「都市墓場説」と命名されている。

・江戸やその周辺、大坂・京都の近畿地方は経済が発達し、人口も増えていくと思われがちだが、実はそうではない。江戸時代に人口が増えたのは北陸や西日本など大都市がなかった所だった。人口が増えた西日本には長州藩や薩摩藩があった。その地域が明治維新の主導力になったのは、人口増大による圧力があったからかもしれない。関東や近畿には人口圧力がない。人口圧力だけが世の中を動かすとは限らないが、明治維新を説明する一つの理由になると思う。西南日本のように、大都市がなく、出稼ぎに行く場所がない所では、人口が増えても生かす場所がない。それらが不満になって明治維新というところまで来たのではないか?

・美濃地方の宗門改帳を分析した結果、結婚した者の平均初婚年齢は、男は28歳、女は20.5歳だった。結婚継続期間はわずか1年というのが一番多く、全体の7%。銀婚式(25年)は2.3%で、金婚式(50年)はほんの0.5%。これは死亡時期が早いこともあるが、わりと離婚率が高かったことになる。結婚して1~3年で離婚のケースが一番多かった。

 へ~、江戸時代は意外にも離婚が多かったんですね。(これ以上のコメントは差し控えさせて頂きます。)そして、男の初婚平均年齢が28歳だったとは、現代とそう変わらないのでは? 信長にしろ、家康にしろ、戦国武将は政略結婚とはいえ、10代ですからね。江戸期の庶民は、少し遅い気がしました。

職業で人相が表れるというお話=4年ぶりの高校同窓会に参加しました

 4日(土)は、4年ぶりに高校の同窓会が高田馬場の「梵天」で開かれ、私も参加して来ました。御年79歳になられる目良先生を始め、参加者は全部で14人。クラスは48人おりましたから、3分の1にも満たなかったのですが、全員、高校時代の悪ガキに戻って楽しく歓談することが出来ました。

 コロナの影響で、4年ぶり開催ということで、まず初めに、その間に亡くなってしまった神林君と田中君の冥福をお祈りして、皆で黙祷を捧げました。同窓会というと、どうも参加者の顔ぶれが決まってしまっておりますが、今回初めて参加する人もいました。卒業してもう半世紀近く経ち、その間一度も会ったことがなかったので、「あんた誰?」という感じでした。街ですれ違っても、全く分からないことでしょう(笑)。

 初参加は水口君で、永年、小学校の教師を務めていたようです。校長先生になれたようですが、最終的にはなりたくなくて、登用試験を受けなかったそうです。一方、某有名学園の校長先生になった金澤君は、大変な苦労をしてしまったようで、任期途中で辞任したそうです。「生徒相手の授業は楽しかったのに、校長になると大人の教師の管理が仕事。ストレスだらけで血圧が190にも上がってしまったよ」と溜息をついておりました。

何だろう?気球かなあ?

 もう一人、教師になったのは美大を出て母校の美術・技術教師になった細川君。彼も大変苦労したようですが、母校は半世紀前とはすっかり様変わりしたことを話していました。我々の頃は、東大に1人入れるかどうかの「滑り止め校」でしたが、今では東大に50人以上入学する全国でも有数の超進学校になったことで色々と問題課題も増えていったということでした。昔の母校は、都立の滑り止めだったのが、今では逆に日比谷や戸山などかつての都立名門高校を蹴って入学する時代になったといいますから隔世の感があります。(もっとも、中高一貫校になってしまい、高校入試はなくなりましたが)

 思うに、人間とは職業でその人相が表れてしまうものです。教師になった彼らは、まさに「教師面」になってしまっておりました。

 京都の禅寺に有名な格言?がありますよね。ー「妙心寺の算盤面」「建仁時の学問面」「南禅寺の武家面」「東福寺の伽藍面」「相国寺の声明面」です。解説は不要でしょう。とにかく、人間は職業でそれに似た面構えになってしまうということです。

 経済評論家の岡本君は、怪しげな相場師の人相。高校時代に「タコ」と綽名された小島君は、医療関係の仕事をしてますが、今でも普通の人の発言とは超越していて宇宙人の風貌。(小島君は、このブログを読んでくれているようで、「ランチの写真、いつも載せて、値段まで書いているけど、たまにはもっと高いやつ喰えよ」と言われてしまいました!)薬局店を経営する薬剤師の平田君は、商人(あきんど)の面構え。今回、幹事長を務めてくれた加藤君は、修行僧。そういう私はブンヤなので、さぞかしスパイ面といったところでしょうか(笑)。

 二次会にも参加しましたが、座った隣席に近い人しか話が出来なかったので、全員には取材?できませんでしたけど、皆、辛うじて人生の荒波を乗り越えて生き延びていて、嬉しく思いました。皆、歳も歳なので、あと何回、同窓会を開催出来るか分かりませんが、今後もなるべく参加したいと思っています。

 あ、忘れるところでしたが、帰りは、またまた飲み過ぎで前後不覚になってしまい、危ないところでした。我ながら懲りないなあ~。

つい、昨日写されたもののよう=佐藤洋一、衣川太一 著「占領期カラー写真を読む」

 私は「ポイント貴公子」なので(ポイント乞食ではありませんよ!)、三省堂書店のポイントが少し溜まったので、何か新書を買うことにしました。でも、三省堂はちょっと不便でして、他の書店、例えば、紀伊國屋書店なんかは、いつでも何ポイントからでも使えるのに、三省堂は100ポイント(以上)単位でしか使えないのです。

 御存知なかったでしょう? 最近、本屋さんなんかに足を運ばれていないんじゃないんですか? 私は、街の本屋さんがなくなってしまっては困るので、なるべくリアルの書店に行くようにしております。だって、「エンゲル係数(お酒も含む)」以外でお金を使うとしたら旅行するか、もう本を買うか、洋服を買うかぐらいしかないからです。競馬もパチンコもしませんし…。

 昨日は、高校の同級生田中英夫君の訃報に接しました。4日に同窓会を開いて久しぶりに皆で顔を合わせようという時期だったので、衝撃が走りました。同級生ですから同い年です。人生100年時代、世間的にはまだまだ早い方ですが、誰でも、いつ何時、死神が襲ってくるか分かりません。それなら、生きているうちが華ですから、お金なんか貯め込んだりせず、日本経済に貢献し、好きなものを買って楽しく過ごした方が健康にいいですよね?

新富町「はたり」日替わり定食1000円

 さて、新書と書きましたが、古書に対する新しい本という意味で最初に書いたのですが、結局購入したのは新書でした(笑)。佐藤洋一、衣川太一 著「占領期カラー写真を読む」(岩波新書、2023年2月21日初版)という本で、1週間前に買ったので、先ほど電車の中で読了しました。

 コダックや富士フイルムなどカラー写真やスライドの歴史の詳細にも触れ、正直、かなりマニアックな、ある意味では難解な学術書でしたが、占領期のカラー写真は初見のものばかりでしたので、興味深く拝読しました。著者は二人なので、どのように本文を分担されていたのか分かりませんが、写真については、2009年頃から、ネットオークションで手に入れることが多くなったことが書かれていました。写真投稿サイト flickr やネットオークション eBay などです。オークションにかけられる写真は、ほとんど撮影した本人が亡くなった後、遺族によるものが多いので、撮影された年月日や場所など基礎情報に欠けるものが多く、さながら歴史探偵のように苦労して調査しておられました。しかも、売る側が高く売ろうとして「バラ売り」したりするので、ますます出所判明に困難を来すことも書かれていました。

 6年7カ月間、マッカーサー将軍率いるGHQという名の米軍による日本占領期(1945年9月2日~52年4月28日)は今から70年以上昔ですから、若い人の中には「えっ?日本って、占領されてたの?」という人もいるかもしれません。それ以上に、「えっ?マジ?日本はアメリカと戦争してたの?マジ、マジ?」と驚く若者もいるかもしれません。学校での歴史の授業は明治時代辺りまでが精一杯で、近現代史を学ばないせいなのでしょう。でも、こうしてカラー写真で見ると、つい最近のように見えます。いくらAIが発達して、白黒写真をカラー化出来ても、ほんまもんの「色」には及ばないことでしょう。

新富町

 今や旧統一教会との関係問題ですっかりミソを付けて信頼を失ってしまった細田博之・衆院議長は、若き通産省官僚の頃、米国に留学し、下宿先のスティール夫妻が占領下の日本で撮影したカラースライドをたまたま見たことがきっかけで、「毎日グラフ別冊 ニッポンの40年前」(1985年)の出版などに繋がったことも書かれていました。細田氏は「あと10年は待てない。なぜなら多くの撮影者はこの世を去り、写真は散逸してしまうから」との思いから、毎日新聞社と連携し、スティール氏が中心になって全米から1万枚もの占領期のカラー写真を集めたといいます。

 エリートの細田氏にそんな功績があったとは全く知りませんでした。