「桜」前夜祭で安倍氏側が800万円超補填したのでは、というスクープはなぜ読売だったのか?

 何で今さら? とは思いましたが、安倍晋三首相(当時)が主催した「桜を見る会」のホテルでの前夜祭を巡り、安倍氏側が参加した後援会の人たちの会費だけでは足りない金額を補填していた可能性がホテル側の領収書から浮上し、24日の朝刊各紙が一斉に一面で報じました。「全国紙」で一面で報道しなかったのは、産経新聞ぐらいです。産経は二社面扱いでしたが、その理由は、何となく分かります。

 でも、分からなかったのは、2019年までの5年間に、安倍事務所側が差額を補填した金額は、「計800万円超だった」とはっきりと具体的な金額を書いて「安倍氏側が5年間で800万円超を補填か…『桜』前夜祭、ホテル側が差額受領の領収書」と、一面トップではなく一面左方三段で見出しを取って報道したのが、読売新聞だったことです。えっ? 読売が!?です。安倍政権時代、首相自身が「私が言いたいことは読売新聞に書いてあります。読売をお読みください」といったような趣旨で喧伝したことから、「政府広報紙」とも「官報」とも揶揄されたあの読売新聞が、です。

 政権中枢から降りて、「ただの国会議員」なった安倍氏なので、今回は弓を引きやすかったからなのでしょうか?

 でも、何となくですが、この事件が政治資金規正法違反などで立件されたり、安倍前首相自身が起訴されたりすることはないんじゃないでしょうか。安倍氏は「知らぬ、存ぜぬ。秘書が知らない間にやった」などと主張し続けるでしょうから、せめて、首相公設第一秘書どまりではないでしょうか。-なぞと、あまり推測の域で語ってばかりいては駄目でしょうけど、ただ、今回の報道の仕方が何となく気になるんですよね。

 なぜ、読売がスクープしたのか?です。

 それに、「桜を見る会」などもう誰もが忘れかけていたのに、何で今頃になって、こんな話が出てきたのか、ということです。

 「既に安倍氏側は当局との司法取引ができている」と穿った見方をする人もいますが、まさか、そこまでは行ってないでしょう。

 東京地検が安倍政権時代から潜伏して地道に捜査してして、今になってやっと公表できる段階になった、という理由も信じられないことはないのですが、黒川弘務・東京高検検事長の例の賭けマージャン事件以来、国民の検察に対する信頼は根底から失っていますからね。

 いずれにせよ、今回の読売のスクープは、隔靴掻痒なのです。裏で、何かや誰かがいるのか、「陰謀論」めいた話は私自身はそれほど信じていないので、案外の裏のない淡々とした話なのかもしれません。

 裏のない話だとしたたら、そして補填したことが事実なら、収支を政治資金収支報告書に記載しなかった政治資金規正法に違反することになりますから、前首相とはいえ、検察は、有耶無耶にしてほしくないですね。

 でも、どうなることやら。

哀れ、明智光秀の最期=ムック「戦国争乱」

 コロナ禍で、結局、休日は「我慢の三連休」になってしまいました。ひたすら、家に閉じこもって勉強をしていました。何の勉強ですかって? フリーランスの個人事業主として必須の簿記関係です。訳が分からなくなって、ここ数カ月、何度も何度も匙を投げ出したくなりました。まさか、この年まで受験生のような勉強をさせられるとは夢にも思っていませんでした。今でもよく分からず、フラストレーションが溜まります。

 そんな勉強の合間、気分転換に読んでいるのが、中央公論新社のムック「戦国争乱」です。今、個人的にも戦国時代への関心、興味が深まっているので、この本は異様に面白いですね。信長、秀吉、家康を中心に「桶狭間の戦い」から「大坂の陣」までの代表的な18の合戦と60人の武将を徹底的に分析しています。何と言っても、戦国時代を日本史の狭いジャンルに閉じ込めることなく、世界史的視野で位置付けているところが、この本の醍醐味です。

 今年6~7月に放送された「NHKスペシャル 戦国~激動の世界と日本~」で、私も初めて知ったのですが、スペインの国王フェリペ二世は、宣教師を「先兵」に使って、日本をメキシコやフィリピンなどと同じように植民地化することを企んでいたといいます。この点について、この本でも詳しく触れられていて、清水克行明大教授によると、日本でのイエズス会の目的は二つあって、一つは純粋なキリスト教の布教。もう一つは、軍事大国日本を先兵にして中国・明の植民地化にあったといいます。イエズス会の創設者の一人イグナティウス・デ・ロヨラは、元々軍人でしたからね。本当は、日本を最初に植民地にする予定だったのが、自前で何万丁も火縄銃をつくってしまう世界最大級の軍事大国だった日本を攻め落とすことができないことを宣教師たちには早々に分かったようで、究極の目的の中国植民地化に切り替えたのでしょう。

 純粋な布教を目指したのは、宣教師ザビエル、巡察師バリニャーノ、司祭オルガンティーノらでした。彼らは、中国植民地化で政治利用を図った日本布教長のカブラル、日本準管区両長コエリョ、司祭フロイスらとの間で確執があったといいます。

 また、昨日22日のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」でもやってましたが、あの歴史的な織田信長による「比叡山焼き討ち」についても詳しく解説してくれています。テレビでも、主人公の明智光秀は、比叡山焼き討ちは、信長の命令で不本意にも仕方なく参戦したように描かれていましたが、この本では違っていました。光秀は積極的に参戦したというのです。

 近年、明智光秀が大津市の土豪和田秀純に送った書状(1571年9月2日付)が見つかり、光秀は内応を約束した秀純には前日の戦勝を報告する一方、敵対する仰木村の民は皆殺しにすると記していたといいます。

 光秀はこの時期、足利将軍家と織田家の両方に仕え、どっちつかずの状態だっため、比叡山焼き討ちに積極的に参戦して、織田家臣として手柄を立てたかったのではないかと推測されています。実際、光秀は信長からその武功を認められ、焼き討ちした坂本の領地を与えられます。

 私も、実際、「明智光秀ゆかりの地」を訪ねて、今月初めに坂本城跡や光秀の菩提寺である西教寺に行ってきたばかりなので、文字だけで想像力が湧きました。

 本能寺の変の後の天下分け目の「山崎の戦い」で羽柴秀吉軍に敗れた明智光秀は、大津の坂本城に逃げ帰る途中の京都市伏見区小栗栖の「明智藪」で、落ち武者狩りの農民によって殺害されます。秀吉は、確保した光秀の首を本能寺の焼け跡に晒し、次いで首と遺骸をつないで粟田口で大罪人を示す磔にしたと、この本に書かれていました。

 この部分を引用することはやや逡巡はしましたが、冷酷な戦国時代の実相だと思われ、敢えて引用しました。明日にも露のようにそこはかとなく消えてしまう命のやり取りをしていた戦国武将と比べれば、今のような平和な時代に生まれた現代日本人の悩みなど本当に取るに足らないものなのかもしれませんね。何度も書きますが、戦国時代に生まれなくてよかった。

変な日本語はそのうち淘汰されるのでは?

 新型コロナの感染者が昨日21日は、全国で2596人と4日連続過去最多を記録し、さすがの菅首相も急遽、「Go to キャンペーン」の一時停止を表明しました。専門家の意見と世論に押し切られた感じですね。

 先程、ニュースでやってましたが、世界最多の米国は桁違いで、私の友人も住むテキサス州では過去100万人がコロナに感染し、2万人の方が亡くなられたそうです。致死率2%ですか…。ちなみに日本を調べてみたら、21日の時点での感染者総数は13万1810人で、亡くなった方は1994人。致死率は1.5%。思っていたほど、それほど変わらないんですね。ということは、感染者数は抑えなければなりません。政府の判断は遅かったかもしれませんが、妥当でしょう。私も連休中に、紅葉狩りを兼ねて鎌倉の円覚寺などの禅宗寺院巡りを計画していましたが、中止しました。時流に乗った「我慢の3連休」になりました。

 話は変わりますが、先程の「Go to キャンペーン」ですが、「Go to トラベル」にしろ、「Go to イート」にしろ、外国人には通用しない変な和製英語だ、と通訳や翻訳家や任意団体から抗議の声が上がっています。

 正論です。でも、私なんか仕方ないんじゃないかなあ、と大目に見ています。頭脳明晰な高級官僚様らが考える言葉は、世間の一般大衆とはかけ離れたことが多いからです。「オレオレ詐欺」なんて、訳が分からない変な日本語の最たるものでしたが、百万回聞かされると、普通の日本語になってしまいましたからね。「Go to トラベル」なんかも和製英語というより、日本語、それも変な日本語、造語として受け止めるしかないんじゃないでしょうか。

 だって、これは日本人だけがやっている風習(?)というわけではなく、例えば、米国人は日本のカメラのニコンNikonを「ナイコン」と呼んでいます。また、スポーツメーカーのアシックスasics(創業者の鬼塚喜八郎さんが、帝政ローマ時代の風刺作家ユベナリスの言葉「もし神に祈るならば、健全な身体に健全な精神があれかしと祈るべきだ Anima Sana in Corpore Sano」から命名したそうです)だって、米国人はアシックスとは言わず、エイシックスと発音して、それが正式な会社名だと思い込んでいますからね。ちょっと、話のレベルが違うかもしれませんが(笑)。

 変な日本語はそのうち「死語」となって消えていきます。今の時代、「チョベリグ」とか「チェベリバ」なんて、もう誰も言わないでしょ?

岐阜城のミニチュア庭園

 それより問題は、先週の金曜日にこのブログに書いた「恥ずべき報道機関の誤訳問題=NHK、時事通信」です。この記事は、意外にも反響が御座いまして、英語の権威のK氏から、FBで長い的確なコメントを頂き、大変大変勉強になりました。

 この記事をまだお読みでない方は、是非、上をクリックしてお読みいただきたいのですが、私も幸運なことに、義理の息子が米国人なので、改めて彼に見解を聞いてみました。

 そしたら、私の書いたことは概ね合っているようでした。問題になったawkward は、私は「ぎこちない」と訳しましたが、彼は「awkwardは、 uncomfortable に近いかな」と言い、symptom(きざし、兆候)については、「symptom はsymptom だけど、鳩山元首相の個人的なことを言っているわけではなく、日本全体のpolitical climate政治的風潮のことをオバマさんは言ってると思いますよ」と援護してくれました。身近にネイティブがいると助かりますねえ(笑)。 

とにかく、英語って、結構難しいんですよ。先程の「Go to キャンペーン」ではありませんが、

 Is that for here or to go?

とはどう意味か分かりますか?中学1年生の単語ですから簡単ですね(笑)。ファストフード店でよく聞かれるフレーズですから、米国人なら知らない人はいません(当たり前か)。

 これで、「店内でお召し上がりですか?それともお持ち帰りですか?」という意味になります。

 それでは、 Give it a go. はどうでしょう?

goは行く、という動詞ではなく、 a という冠詞が付くので名詞です。「ひとつ、やってごらん」という意味になります。「食べてごらん」「飲んでごらん」は、Give it a shot.になるそうです。

 えっ? そんな簡単なこと最初から知っている?

 失礼致しやんした。

 お後が宜しいようで。

恥ずべき報道機関の誤訳問題=NHK、時事通信

丹波亀山城跡

 最近、ネット上で報道機関による「誤訳」が俎上に上がっています。

 オバマ前米大統領の回顧録「A Promised Land.約束の地」(仮訳)の中で、オバマ氏が鳩山由紀夫元首相のことを「硬直化し、迷走した日本政治の象徴だ」と、NHKが11月17日午前10時のニュースで放送したことと、時事通信ワシントン電が17日、同じくオバマ回顧録の中で、オバマ氏が鳩山氏のことを「『感じは良いが厄介な同僚だった』と指摘した」ことなどが主に槍玉に上がっています。

 私自身も報道機関に働く一員として、興味がある話なので、調べてみたら、やはり、情けないことに誤訳でした。しかも、このままでは、オバマ氏が鳩山元首相を悪く批判したことになり、オバマ氏としては全く心外な話であり、鳩山氏としては名誉棄損に他ならないことになります。

問題になった原文は以下の通りです。

A pleasant if awkward fellow, Hatoyama was Japan’s fourth prime minister in less than three years and the second since I’d taken office — a symptom of the sclerotic, aimless politics that had plagued Japan for much of the decade.

まず、最初に出てくる A pleasant if awkward fellowを、時事通信は「感じは良いが厄介な同僚だった」と翻訳しましたが、本来なら、せめて「ぎこちなかったとはいえ感じが良い相手だった」ぐらいの意味になります。結論は、鳩山氏は「感じが良いpleasantな人だった」ですから、時事通信の「厄介な同僚だった」訳では真逆な意味になってしまいます。awkward には「扱いにくい」という意味もありますが、人間に対して「厄介な」というような人格を否定する強い意味はなさそうです。むしろ「不器用」という意味です。fellow を「同僚」と訳すのも初歩的ミス。相手国の首相に対して、オバマさんが同僚と言うわけがないでしょう。

 NHKが「オバマ氏が鳩山由紀夫元首相のことを『硬直化し、迷走した日本政治の象徴だ』」と報じた原文は、後半の — a symptom of the sclerotic, aimless politics that had plagued Japan for much of the decade. を訳したと思われますが、これは、鳩山氏を直接指した意味ではなく、3年もたたない時期に4人も首相が代わったりして日本が10年も苦しめられた「硬直化した、これという目的もない政治のsymptom兆候の一つだ」と言ってるわけです。つまり、オバマ氏は日本の政治風土全体を批判、もしくは危惧しているのであって、鳩山氏を個人攻撃しているわけではさらさらないことが分かります。日本の政治風土が硬直化しているから、鳩山氏はawkward ぎこちなかったのだ、とオバマ氏が言いたい意味が通じることになります。

 鳩山氏は自らのツイッターで「原文に『不器用だが陽気な』との表現はあるが痛烈な批判はなかった。メディアはなぜ今でも私を叩くのか」と憤慨しておられましたが、お気持ちはよく分かります。正論です。

 でも、意図的な誤訳ではない、と思われます。はっきり言わせてもらうと、単なる知的レベルの低下です。マスコミの記事は一人で完結するわけではなく、デスクや校正、整理部記者ら複数の人間がチェックするはずですが、複数の人間が間違いを見過ごしたということになりますから。

 その背景には、まず第一に、これだけ混沌とした世の中になって、優秀な人材がマスコミに集まらなくなった、からではないでしょうか。仕事は異様にきつく、拘束時間も異様に長く、それでいて待遇が良いかと言えばそれ程でもない。優秀な人材は、ゴールドマンサックスといった外資系企業に入って、20代で年収5000万円を獲得して、超美人の女優さんと結婚するというのが、今や定石になりつつあります(笑)。

 私もよく知っている時事通信で特派員経験もあり、長らく翻訳を担当しているA氏に事情を聴いてみたら、こんな有り様でした。

 昔の外信部や外国経済部は、入社したての新人が入って3年ぐらいはみっちり、デスクに怒られたり、何度も書き直しをさせられたり、原稿を破られたり、修行僧のようにさんざん鍛えられましたが、今は新人は直接、外信部に行かず、地方に行ったり、他の部から配属されたりします。そうなると、語学力がそれほどない人もいれば、日々の鍛錬を怠る人もいます。若い時に、みっちり鍛え上げられれば、かなり語学力も進歩するのに、途中からではやはり向上しない。プロパー(生え抜き)がいなくなると、昔の鍛えるシステムも失われ、デスクになっても、些細な間違いさえ見つけられない。そういう悪循環が続き、社として全体的な語学力のレベルが低下したんじゃないでしょうかねえ。

 嗚呼、そういうことだったんですね。少し納得しました。

 

 

マスクを巡る喜遊曲

 会社のデスクに座っていたら、マスクが不良品だったせいなのか、耳にかけるゴムがすぐ取れてしまいました。やばい! でも、備えあれば憂いなし。もう一つ、予備のマスクをカバンに忍ばせていたので慌てずに済みました。用意周到でしょ?(笑)

 何が起きるか分かりませんね。昨日18日は、全国で2201人の感染が発表され、初めて1日の感染者人数が2000人を超えて過去最多となりました。東京も過去最多の493人、大阪は273人、北海道は233人です。こんな時にマスクをしないと非国民扱いされかねません。

 マスクと言えば、今日、いきなり、シャープからマスクの「ご当選のお知らせ」が飛び込んできました。「シャープマスク抽選販売事務局です。このたびは、シャープ製マスク抽選販売にご応募いただき、誠にありがとうございました。第1回~第30回までにご応募いただいた方の中から、厳正なる抽選の結果、ご当選されましたのでお知らせいたします。」とのこと。忘れてました。そう言えば、マスク大不足だった半年ぐらい前に、第1回か第2回のシャープのマスクの抽選に応募したことがありました。当然、落選。

 でも、今は、どこでもマスクを売っていますから、今さら、という感じです。遅いですよ。今回、厳選なる抽選にて当選してももう買いませんよ。

そう言えば、アベノマスクはいまだ使わず 何処へいったか?

 そうそう、16日のことでしたか、不織布のマスク約282万枚を仕入れたものの、マスクは市場に出回り転売できなくなったため、購入代金約7400万円を踏み倒そうとした広域暴力団幹部らが恐喝未遂と監禁の疑いで逮捕されましたね。本当に今の時代を象徴するタイムリーな事件でした。ニュースになるはずです。

  いやはや、今は「第3波」なのか、感染者は増加の一途です。それなのに、政府自民党は「Go to トラベル」も「Go to イート」キャンペーンも中止することなく、「イートは4人以内にしてねえ」と言うだけで、後は都道府県知事の判断に丸投げ状態。こんなんで大丈夫なんでしょうか? 米国では18日にコロナ感染による死者が25万人を超えましたし、「対岸の火事」と言ってられません。(※日本国内の死者は1934人)

 と書いていたら、今、テレビの速報で、東京都の本日19日の感染者が最多の534人と発表されました。ついに、500人の大台を超えました。若い人は無症状でも、年配者は重症化します。マスク、うがい、手洗い、消毒、三密回避と十二分、気を付けるしかありません。

 今月末の3連休は、紅葉狩りを兼ねて鎌倉の禅宗寺院巡りをしようかなと考えていましたが、自粛した方が良いかもしれませんね。…うーん、いまだ迷ってますが…。何で、コロナウイルスは、春のゴールデンウイークとか、秋の紅葉狩り連休とかに急に異様に増えるんでしょうかね? 傲慢になった人間に天罰を与えているということなんでしょうね、きっと。

通訳案内士の国家資格は風前の灯か

浅草 中華そば 600円

 昨日は会社を休んで浅草に行って来ました。遊びじゃなくて、講習を受けるためです。

 2年ほど前に観光庁が通訳案内士法を大幅に改正しましたが、その中で、全国通訳案内士は、5年ごとに講習を受けて更新しなければ、その資格は剥奪されるという項目が追加されたのです。(いや、実際は剥奪ではなくて、資格が失う恐れがある、といった丁寧な表現ですが)

 いずれにせよ、せっかく、通訳の予備校にまで通って、お金を掛けて、難関試験を突破した国家資格なので、強奪されるなんてとんでもない!(強奪ではなく、資格を失う恐れがある、ですが)ということで、仕方なく、私も所属する通訳団体が主催する講習会に参加したのでした。

 そしたら、何てことはない。外国語の講習会ではなく、「旅行業法、添乗、旅程管理」と「災害発生時の対応と危機管理」の講義でした。ぶっちゃけて言えば、通訳ガイドさんも、交通機関や宿泊先やレストランの旅程がスムーズに滞りなく進行するために、事前に予約確認したり、減員が出たら調整したりする旅程管理主任か添乗員のような業務もやりなさい、という趣旨に私は取りました。昔は、外国人観光客のツアーでも添乗員さんが付くのは当たり前で、通訳ガイドは通訳だけやっていれば済んだのですが、経費節減で、旅程管理主任者も派遣できず、通訳ガイドさんが一人で、細かく旅程管理もしなさい、ということになったということなのかもしれません。

 災害発生も、天変地異や地震などがあれば当然、通訳ガイドも適切な対応を取るのは当たり前ですが、危機管理の面では、お客様の食物アレルギーや宗教上の理由なので、食べてはいけない食べ物を把握したり、代替の食事を用意するよう事前に手筈を整えることも仕事の一つになったようです。

 事故も、事前に注意喚起することが通訳ガイドの重大な仕事で、「段差があるので気を付けてください」と言わなかったばっかりに、外国人観光客が転んで骨折して大事(おおごと)になった例なども紹介されていました。

明智光秀ゆかりの福知山城

 そう言えば、先日「明智光秀ゆかりの地」を訪ねる団体ツアーに参加しましたが、そのツアーのガイドさんと添乗員さんは、口を酸っぱくして、遠回りをしてでも「横断歩道を渡ってください」と注意喚起していました。思い出してみると、この日の講義で習った旅行業法や旅程管理などを、本当に忠実に遵守していたことが分かりました。ガイドや添乗員には個人情報の守秘義務があり、件の団体ツアーには91歳の方も参加していましたが、添乗員さんはそういった情報でさえ、曖昧に笑って胡麻化していました。見上げた旅行業法の法令順守、法の支配です。(褒めています)

 少し驚いたのは、著作権法です。通訳ガイドは、出版された地図をコピーして行先をマークしてツアー客に配布しても著作権法に違反するというのです。どうすりゃいいのでしょうか?自分で手で地図を書け、ちゅうことなんでしょうか?

 あと、新聞や週刊誌などに載ったり、他人を写したりした写真も肖像権や著作権があり、それらを使用すると著作権法侵害になるので駄目だというのです。私自身、随分前に、外国人観光客を皇居前に案内した時、新聞社が写した天皇皇后両陛下のお写真をコピーしてお見せしたことがありましたが、これも違反だったんですね。皇室となると、誰でもお姿を身近で撮影できないので困ったものです。諦めろ、ということなんでしょうね。

 まあ、今はコロナ禍で、通訳ガイドの仕事はほとんどなくなってしまいましたし、通訳も、添乗員、旅程管理主任者のようなお仕事を兼任されるのでは、とても割に合わない仕事になってしまいました。

 それに、何と言っても、2年前の通訳案内士法改正で、国家資格がなくても、誰でも「有償」でガイドができるように「改悪」してしまったので、通訳ガイドの資格を持っていても何の意味も足しにもならなくなりました。

 要するに、資格がない「闇ガイド」をやっても全く法に触れないし、別に、通訳ガイドが、旅程管理業務も添乗員業務もやらなくても、罰せられることはないということです。講習会なんて矛盾してますよ。そのせいか、友人のM君は、いまだ通訳講習会を受けていないし、一緒に入った通訳団体も既に辞めてしまったといいいますからね。

 講習会では最後に試験があり、どうにか合格点をもらい、「修了書」を発行してもらいました。帰り道、久しぶりに浅草に出て来たので、神谷バーのデンキブランでも飲んで帰りたいなあ、と思いましたが、ぐっと我慢して真っ直ぐ帰宅しました。家で色々と勉強しなければならないことがあり、時間が惜しかったからです。

人生、幾つになっても勉強です。

近衛前久と佐々木道誉のこと

 コロナ禍で、cabin fever かもしれません。「サタデーナイトフィーバー」ではありませんよ(笑)。人と会わない生活から生じる精神の不安定状態のことです。cabin fever と言います。覚えておいてください(笑)。

 我ながら、何で生きているのかなあ、と毎日考えながら生きています。「どうせ死んでしまうのだから、何をやっても意味がない」という虚無感が通奏低音のように響いています。

 しかし、自裁するわけにもいかず、この世に生を受けた限り、毎日、明るく楽しく誠実に生きていくしかない、と心の奥底に秘めることにしております。

 それには、パスカル言うところの「気晴らし」は必要ですね。何か夢中になれるものが欲しいのです。

 ということで、今の私がはまっているのは、やはり、「戦国時代」かなあ。先日、このブログで、「明智光秀ゆかりの地を訪ねて」を上中下の3回も連載させて頂きましたが、知らなかったことが多く、知れば知るほど、色んなものが繋がっていたことが分かり、面白くてしょうがなくなります。

 それはどういうことかと言いますと、我々の「生」は「点」に過ぎないのですが、歴史を勉強すると、過去から現在、そして未来へと「線」で繋がっていることが分かり、現代人はその生のバトンタッチの一瞬を生きているに過ぎないことが分かるのです。

 相変わらず、随分、堅い前触れで始めてしまいましたが、今、テレビの歴史もの番組が面白くて嵌ってしまいました。

 先日、NHKの「歴史秘話ヒストリア」という番組で、「近衞前久 型破り関白 戦国と闘う」をやってましたが、1554年(天文23年)に19歳の若さで関白の座に就いた近衛前久(このえ・さきひさ)の波乱万丈の生涯が分かりました。

 近衛前久といえば、私自身、本能寺の変の黒幕の一人という認識がありましたが、織田信長による天下統一を一番願っていたのが、前久だったようで、疑心が少し晴れました。

 それより、知らなかったのは、近衛前久が1560年(永禄3年)、関白の職にありながら盟約を結んだ上杉謙信のいる越後に下向し、翌年には謙信の関東平定で一緒に出兵したりしているのです。武田信玄との戦いに備えて越後に戻った謙信がいなくなっても、前久は、公家ながら危険を承知の上で下総国古河城に籠ったりしたのです。1560年といえば、織田信長が今川義元を破った桶狭間の戦いのあった年ですから、戦国時代の真っただ中ですね。

 上の写真にある通り、古河城本丸跡(茨城県)は、昨年4月に訪れております。このブログの2019「古河公方こぼれ話=久留米藩主有馬氏」という題で色々と古河に関連した古河公方の末裔に当たる喜連川氏や、江戸初期の陽明学者熊沢蕃山らマニアックなことを書いてますが、近衛前久も古河城に関係していたとは知りませんでしたね。

 (武力(=上杉謙信)のない近衛前久は、次第に関東の武士から見限られ、結局、失意のうちに京に戻ります。)

 もう一人は、NHKBSの「英雄たちの選択」という番組でやっていた「バサラ大名 佐々木道誉 乱世を駆けぬける!」です。佐々木道誉は南北朝動乱期に、足利初代将軍尊氏から三代義満まで仕えたバサラ大名ですが、あまりよく知らず、実はあまり興味もありませんでした。

 そしたら、とてつもない人だったんですね。佐々木道誉は、後醍醐天皇側に就いたかと思えば、裏切って足利尊氏側につき、尊氏側に就いたかと思えば寝返って後醍醐天皇に就いたりして、まるで節操がない。裏切り、寝返りも、単に勝馬に乗っただけで、自分たちの生き残りのためには手段を選ばないというところが凄いですね。義理も人情もあったもんじゃありません。

 バサラ大名のバサラ(婆沙羅)とはサンスクリット語で、ダイヤモンドという意味らしいですね。大名ながら、美意識と教養があり、特に連歌会を催して、武士と公家の間の仲介者として大活躍したようです。二条良基編纂の「菟玖波集」には佐々木道誉の作品も多く採用され、彼の働きで準勅撰の連歌集になった経緯があります。

 つまり、室町幕府の政権中枢を担う数ある評定衆(細川氏、仁木氏、土岐氏、斯波氏ら)の中でも、佐々木道誉がいなければ何も始まらないという体制をつくったというのです。しかも、それは、武力によってではなく、文化の力によってです。連歌会の宗匠として、「権威」となり、「俺様」が文化の基準になります。連歌会では、武家と公家の機密情報の交換会の場になっていたとも言われ、佐々木道誉は、文部科学省大臣ながら、いわば内閣情報局のトップみたいな存在だったのかもしれません。

 番組に出演していた脳科学者の中野信子さんは「相手に『私のどこが悪かったの?』と思わせた方が勝ちなんですよね。佐々木道誉は、相手にそう思わさせる人で、まさに『天魔』でしたね」と発言していたので妙に納得してしまいました。ここ半年間、私も全く同じような体験をしましたからね。

 彼は、どんな映画や美術展を見るべきなのか、文化の基準をつくる「俺様」であり、政界の裏から旬の味まで知る情報通で、相手に「私は何か悪いことをしたのだろうか?」と思わせる佐々木道誉のような人だったのかもしれません。

 こういうことを発見するのは、歴史を学ぶ面白さですね。

伊達政宗の祖先は茨城県人だった=「歴史人」11月号「戦国武将の国盗り変遷マップ」

 「歴史人」11月号(KKベストセラーズ)「戦国武将の国盗り変遷マップ」特集をやっと読了しました。

 不勉強のせいか、知らなかったことばかりです。特に、東北地方の戦国時代の武将は、伊達政宗と上杉景勝と最上義光ぐらいしか知りませんでしたが、まさに群雄割拠で、他にも有象無象の大名がのし上がっては消える弱肉強食の時代だったんですね。

 知っていたはずの伊達政宗にしても、仙台の青葉城の印象が強すぎて、伊達氏は元々の東北人かと思っていましたら、常陸国伊佐庄中村(茨城県筑西市)出身で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の関東御家人として、奥州藤原氏征伐に参戦し、武功として伊達郡を与えられたため、伊達氏を称したというのです。本姓は「中村」だったといいます。伊達者が絢爛豪華な数寄者の代名詞になっているぐらいですから、他の苗字だとピンときませんね(笑)。

 もう一人、「福島」の地名をつくった木村吉清という人物がおります。この人、元々、丹波亀山の足軽か雑兵出身だったといわれ、俄か大名の典型です。信長に謀反を起こした荒木村重に仕え、彼が失脚した後、明智光秀の家臣となり、本能寺の変にも参戦したといいます。山崎の合戦では羽柴秀吉につき、その戦功により5000石を与えられた、と、サラリとこの本に書かれています。でも、よくよく考えてみれば、本能寺の変から山崎の合戦までわずか11日です。こんな短時間で光秀を見限って寝返ったということになりますが、まさに戦国時代だからこそあり得る話なのかもしれません。もしかして、彼は、相当な忍びの間者を擁していて、秀吉の「中国大返し」のことも、細川幽斎・忠興親子が光秀を見捨てたという情報も得ていたのかもしれません。

 木村吉清は、秀吉による「奥州仕置き」で遠征し、「抜群の功があった」としてその60倍も加増されて東北の大大名になりますが、家臣団は浪人・無頼者出身が多く、暴政を敷いたため、地元の葛西氏や大崎氏の残党も加わった一揆で失脚します。一揆の背後で、伊達政宗が糸を引いていたとも言われています。その後、吉清は、嫡男清久とともに、蒲生家の与力として遇されて、信夫郡杉目5万石を与えられ、吉清は、この杉目の地を福島と改名したといいます。

 ちなみに、吉清の嫡男木村清久は、最期まで秀吉の恩を忘れなかったのか、大坂の夏の陣で討死しています。

 ◇尼子の悲劇

 このほか、中国地方で毛利元就・輝元に滅ぼされた出雲地方の大名だった「尼子の悲劇」があります。尼子義久・勝久に仕えた重臣で「尼子三傑」の一人、山中鹿介(やまなか・しかのすけ)は、尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話が有名ですが、今では知る人は少ないでしょう。

 また、戦前の修身などの教科書では、楠木正成・正行父子が訣別する「桜井の別れ」が必ず取り上げられ、知らない人はいなかったと思われますが、「忠君愛国」思想を教育するのにちょうどよかったのかもしれません。このように、歴史の常識というのは、解釈の面で、時代によって変わっていくものだということを思い返し、この本を興味深く拝読致しました。

 それにしても、戦国史ですから、人間の本性が剥き出しです。疑心暗鬼から、離合集散あり、裏切り、寝返り、下剋上ありの何でもあり、しかも殺戮の仕方があまりにも残酷で、つくづくこの時代に生まれなくてよかった、と改めて天に感謝しております。

スマホの写真保存で右往左往=ハッセルブラッドも知らなかった私

 写真や動画は、自前のスマートフォンで撮ったり、保存したりしています。でも、寺社仏閣やお城巡りが重なり、それに海外旅行や、家族の写真・動画を撮っているうちに、1000枚以上となってしまいました。

 SDカードなど、どこか外部に保存したいなあ、と思い、色々と調べてみましたが、あまりにもの多くの種類があり、値段も千差万別でわけが分からなくなってしまいました。

 実は、SDカードと書いておきながら、その違いもよく分かっていないのです。何しろ、自宅のオーディオは、いまだにMDを使っていますからね。主にラジオの語学番組を録音しています。MDといっても、今使っている人は世の中にほとんどいないでしょうが、私のようなカセットテープ世代は、MDが登場したとき、本当にびっつらこいたものです。

 そこで、いつものようにIT博士の志田先生に聞いてみました。そしたら、「何でそんなにSDに拘るんですか?」と逆質問されてしまいました。小生のスマホはiPhoneなのですが、SDカード(マイクロSDカード)は、androidなら内蔵して使えるが、iPhoneではそれが出来ないというのです。わざわざ外付けのSDカードリーダーを買ってくるなんて意味がない、とまで先生は仰るのです。

 写真を保存したいのなら、iPhoneならiCloudやパソコンにそのままコピーするか、どうしても外付けで保存したいなら、専用のUSBがあるので、そちらの方が良いのではないか、というのが先生のアドバイスでした。

 そこで、私も色々調べてみたら、iCloudなら5GBまで無料、このほか、Googleフォトというアプリに保存すれば、今なら無制限、来年から17GBまで無料だということが分かりました。それ以上のGBは有料になります。うーん、なるほどね。

 でも、私のような古い世代は外付けにも保存して安心したいので、iPhone専用のUSBを買うことにし、通販で注文しました。

Notre-Dame de Paris Copyright par Duc de Matsuoqua

 その後、会社の同僚の挾本君とランチした際、スマホの写真の保存法の話を聞いたら、彼は「SDカードに決まっとるやんけ」と言うのです。「あらま」です。私はもうUSBを買ってしまいましたからね。

 カメラ好きの挾本君は、スマホのカメラをほとんど使わず、自慢の一眼レフのデジカメを使い、それにはSDカードが欠かせないというのです。「もうSDカードは、家では山積みになってるよ」と鼻高々です。

 「ところで、今、報道関係のカメラはどこのメーカーが一番使われてるか知ってるか?」と彼は偉そうになぞかけるのです。「ニコンやキヤノンはもう古いんだよ。今やソニーカメラなんだよ」。また、「あらま」です。「何でソニーかというと、デジカメは、今やミラーレスが主流で、電子機器だから、電気屋さんのカメラの方が良く出来ているんだよ。ソニーは、ミラーレスを開発したコニカミノルタのカメラ事業を引き継いだわけだし、元々ムービーカメラでは主流だったしね」。…なるほど、そうでしたか。

 でも、彼の自慢の一台は、ソニーではなくて、ハッセルブラッドだというのです。「何、それっ?」と言うと、彼は「えーーー、ハッセルブラッドも知らんのかあーーー。ハッセルブラッドは、米アポロ宇宙計画でもニコンとともに採用された世界の名機じゃないかあーー。君はそんなことも知らんのかあ?ースウェーデン製だぞおーー」と、急に興奮してまくし立てるのです。

 いやあ、初耳ですね。ハッセルブラッド? 知らないものは知らないなあ。恐らく、カメラマニア以外、ほとんどの人は知らないんじゃないでしょうか。えっ?そうでもない? 常識? 是非皆さんの意見も聞きたいものです。

 挾本君が愛用するハッセルブラッドは、200万円ぐらいはするらしいですよ。

明智光秀ゆかりの地を訪ねて(下)=本能寺跡~勝竜寺城~明智藪~関ケ原合戦地跡

関ケ原古戦場で甲冑姿で身を包む若武者たち

2020年11月8日(日) 「明智光秀ゆかりの地を訪ねて」の三日目、最終日です。よくぞ茲までついてきて下さいました。読む方は大変でしょうが、書く方はもっと大変なのです(笑)。

 京都市西院のホテルを朝8時半にバスで出発し、10分ほどで「本能寺の跡」(京都市中京区山田町油小路通)に到着しました。

 御池通りを挟んで、京都市役所の真向かいにある本能寺(京都市中京区寺町通御池通下ル)には、私も中学校の修学旅行以来、何度も訪れていますが、ここは初めてです。

 でも、こちらの方が、実際に「本能寺の変」があった本物なのです。

 2005年に出版され、時の小泉首相も感動したということでベストセラーになった加藤廣著「信長の枷」でも詳述されていましたが、ここから西へ歩いて4~5分のところに南蛮寺という伴天連の寺があり、本能寺から南蛮寺に行くことができる秘密の抜け穴があったといわれます。

 この抜け穴は、本能寺の変の時、塞がれていて、信長は脱出できなかったといいます。そして、この秘密の抜け穴の在り処を知っていたのは、羽柴秀吉と徳川家康ぐらいだったことから、本能寺の変の黒幕説として、秀吉と家康の名前も挙がっているのです。(ほかに、光秀怨恨による単独説、四国の長曾我部元親黒幕説、将軍足利義昭黒幕説、朝廷黒幕説などあり、何冊も本が書けます)

 この本能寺は、変の後に、秀吉らによって今の京都市役所向かいの地に移転・再建され、南蛮寺は、秀吉の伴天連追放令で廃寺となります。

 今、「本能寺の跡」地には介護の「デイケアセンター」が建っておりました。碑の本能寺の「能」のつくりは、ヒ(火)が二つではなく、「火よ去れ」という意味を込めて、「去」になっています。

 本物の「本能寺跡」(京都市中京区山田町油小路通)を後にして、現在ある「本能寺」(京都市中京区寺町通御池通下ル)に移動しました(バスで10分ほど)。法華宗大本山です。中学生の頃は、無邪気にも、ここで「本能寺の変」があったと思っていました。

  境内には「信長公廟」がありますが、本能寺の変後、信長の遺骸は見つかっていません。だから、小説などで、信長は、抜け道を通って逃れた、などといった話が描かれるのです。

 本能寺からバスで40分ほど掛けて南西に向かったのは勝竜寺城跡(京都府長岡京市勝竜寺)です。「明智光秀 最期の城」と言われています。

 備中高松城で毛利軍と戦っていた羽柴秀吉は、1582年(天正10年)6月2日の本能寺の変の報せてを受けて、急遽、毛利軍と和睦して「中国大返し」で京に戻ります。これを受けて、光秀は6月13日に摂津国と山城国の境に位置する天王山の麓の山崎での合戦に挑みましたが、兵力に劣り、敗退します。信頼する盟友細川藤孝(幽斎)や筒井順敬らの積極的な支援を得ることができなかったことが光秀にとっての痛恨の極みでした。(明智光秀は「三日天下」と習ったことがありましたが、実際は「十一日天下」でしたね)

 残りの手勢とともに、この勝竜寺城に戻った光秀は、密かに裏門が逃れ、再起を懸けて、自分の城である坂本城(滋賀県大津市)に戻ろうとします。しかし、後からもう一度出てきますが、その途中の明智藪(京都市伏見区小栗栖)で、落ち武者狩りの農民らによって殺害されてしまいます。

 勝竜寺城は1571年(元亀2年)、織田信長の命を受けた細川藤孝が、それまであった臨時的な砦を本格的な城郭につくり替えたものです。

 1578年(天正8年)、細川藤孝の嫡男忠興と、明智光秀の娘玉(細川ガラシャ)との婚礼がこの城で行われたということで、二人の像も城内にありました。

 幽斎と号して文化人でもあった細川藤孝は、この城で、茶会や連歌会、能、囲碁会などを催したと言われます。

 また、これまでの中世の城とは一線を画し、天守や石垣、瓦葺などは後世の城郭づくりに関して、諸国の大名に大きな影響を与えたといいます。

 話は遡りますが、光秀が本能寺の変を起こす一週間ほど前の5月28日、丹波亀山城近くの愛宕神社での連歌会に参加し、

 ときは今 あめが下知る 五月かな

 という意味深な歌を詠みます。

「とき」とは光秀出身の美濃守護土岐氏のこと、「あめが下知る」とは天下に命じる、と解釈する人もいます。しかし、これから自分が謀反を起こすことを連歌会で示唆するわけがなく、こじつけに過ぎないという識者もおります。

 ところで、石垣といえば、大津市坂本の石工集団・穴太衆が有名です。穴太衆と書いて「あのうしゅう」と読みます。もし、御存知なら貴方もかなりのお城通です。粋ですね。

 穴太衆が手掛けた石垣は、安土城、彦根城、竹田城、姫路城などがありますが、現在も、その子孫が「粟田建設」(大津市坂本)として存続しているといいますから驚きです。中国や米国など海外でも石垣づくりや修復を手掛けているそうです。

勝龍寺本堂

 ついでに、勝竜寺城から歩いて数分のところにあり、お城の名前の発祥ともなった勝龍寺にもお参りしました。

 806年(大同元年)、空海(弘法大師)が開基したといわれる真言宗の古刹でした。山崎の合戦(もしくは天王山の戦い)で、この辺りは多くの戦死者が出ていたわけですから、彼らのご冥福をお祈り致しました。

 勝竜寺城(京都府長岡京市勝竜寺)から明智藪(京都市伏見区小栗栖)と呼ばれる明智光秀最期の地を訪れました。バスで1時間ぐらいでしたから、馬なら2~3時間ぐらいだったかもしれません。

 光秀が無念の最期を遂げたのがこの辺りだったと言われます。

 ここは、京都市地下鉄東西線「醍醐駅」から住宅街の狭い道を通って、歩いて20分ぐらい掛かると思います。醍醐といえば、豊臣秀吉が全盛期で最晩年の1598年(慶長3年)4月に豪勢な花見会を開いた醍醐寺があります。何か不思議な縁ですね。

日蓮本宗 本経寺

 実は「明智藪」を450年近くも管理してきたのが、この近くの本経寺さんでした。日蓮本宗で1506年に創建されました。上の写真の通り、境内には「明智日向守光秀公」の供養塔がありました。

 主君信長の逆臣とはいえ、明智光秀は「ゆかりの地」では大変尊崇されていることがよく分かりました。

 でも、光秀の暗殺者たちは、どうやって情報をつかんだんでしょうか?インターネットやスマホがない時代です。当時は、文(ふみ)と立札と口コミぐらいしかないはずですが、情報伝播の素早さには驚くばかり。秀吉軍も光秀軍もお互い間者(スパイ)を養成して相手の動きを探っていたことは確かでしょうが、現代人以上に優秀だったのかもしれません。とにかく命懸けですから。

「明智藪」からバスで1時間ほど、山科から近江へ東を走り、最後の目的地、美濃の「関ケ原合戦地跡地」(岐阜県不破郡関ケ原町)に到着しました。一度は訪れてみたいと思ってましたが、やっと実現しました。

 光秀公暗殺から18年後の1600年10月21日(慶長5年9月15日)、徳川家康軍(東軍)と石田三成軍(西軍)が激突した「天下分け目」の戦場です。

 東軍8万、西軍10万(諸説あり)。わずか半日で決着がついたと言われてますが、もっともっとだだっ広い原野を想像していました。

石田三成陣跡
三成の軍師島左近の陣地跡
家康が敵の大将の首実検をした所

 関ケ原の合戦については、多くの書物が書かれ、ドラマや映画にもなっているので、御説明はいらないかと存じます。

 上の写真の「あらまし」をお読みください。

 歴史にイフはありませんが、「もし西軍の小早川秀秋が裏切らなければ…」「もし西軍の島津義久が薩摩に敵前逃亡せず、最後まで戦っていたら…」などと考えたくなります。

 でも、石田三成が天下を取った政権は想像もつきませんね。三成は、家康のように狡猾ではないので、秀頼公を奉じて豊臣政権を長く続けさせたかもしれません。

 そうなると、首都は大坂で、大坂城が日本の中心。日本の植民地化を狙うスペインや交易で国威発揚を狙うオランダ、幕末に米国の黒船が襲来したらどう対処いたのでしょうか。うーむ、創造力がないのか、やはり、徳川江戸幕府しか想像できませんね。

 以上、3回にわたって「明智光秀ゆかりの地を訪ねて」を報告してきました。歴史物語とも旅行記とも随筆とも、何にも当てはまらない中途半端なリポートでしたが、最後までお読み頂き、誠に有難う御座いました。

関係者や御協力者の皆様にはこの場を借りて、改めて感謝申し上げます。