ゴヤの「サバサ・ガルシア夫人」がお気に入り=「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 三十六肖像」改訂普及版

 

 個人的にやっと自信を回復しつつあります。長いトンネルを抜けた感じです。

 この渓流斎ブログにまつわり、友人関係で悩んでいたのですが、些末な些細なことで、ブログも友人も私の人生のほんの一部だということを悟ることができ、スッと抜ける感じがしました。

このブログをたまに(笑)、読んでくださる都内にお住まいのNさんからは「もう一人の自分をつくられることが必要ではないですか」との助言も頂きました。

 そもそも、私自身、このブログで何か悪事を働いたとでも言うのでしょうか? カルト教団のように高額な寄付を強制したり、面会を強要したりしたわけでもない。自分の意見を述べただけで、言論の自由は憲法が保障してくれます。もっと自信を持っていい、と思い直したのです。

 とにかく落ち込んでいたのですが、その間、ジョン・レノンのアルバム「心の壁、愛の橋」(1974年発表)の中のNobody loves you という曲の歌詞を真面目に聴いて驚いてしまいました。

 Nobody loves you when you’re down and out

Nobody sees you when you’re on cloud nine

 Nobody loves you when you’re old and grey

Nobody needs you when you’re upside down

 と歌っているのです。意訳すれば、こんな感じでしょうか。

 人は、君が有頂天になっている時、関心すら示さないのに

 人は、君が落ち込んでいるのを見ると離れていくんだよ

 誰も、君が年を取って白髪になると露骨に嫌悪し

 君が動転していようものなら、なおさら必要とされないんだよ

 この時、ジョン・レノンは33歳という若造なのに、既に人生を達観しています。まるで、あと7年の生命しか残されていないことを予知しているみたいです。人は、自分の都合で、落ち込んでいる人間や弱者から離れていこうとする性(さが)があることをジョンは、自分の経験から見抜いたのです。

 私は、これまで真面目に、誠実に、律儀に友人たちと付き合ってきたのに、彼らが離れていったのは、彼らのせいであり、自分が誠実過ぎたからだと思うようになりました。

 逆に、これから、グレてやりますよ(笑)。鬼になりますよ。

 さて、この渓流斎ブログで度々、登場して頂いている松岡將氏が、またまた本を出版されました。「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 三十六肖像」改訂普及版(同時代社、2022年8月9日初版、1980円)です。

 6月30日に、「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 参百景」(5280円)の「改訂普及版」(同時代社、2750円)を出されたばかりですので、かなりのハイスピードといいますか、底知れぬバイタリティーです。

 改訂普及版は、原本と中身はほとんど変わっていないので「書き下ろし」とまでは言えませんが、写真はほぼ全部入れ替わっています。これについては、ワシントン・ナショナル・ギャラリーが方針を変更して、サイト内の作品がパブリック・ドメインと判断されたものは、その「デジタル・イメージ」をダウンロードしても良く、一般利用が可能になったからだというのです。

 ということで、原本では、著者が直々にワシントン・ギャラリーで撮影した額縁付きの写真でしたが、今回はその額縁がなくなったデジタル・イメージに置き換わっております。

 著者も「あとがき」で、「額縁から抜け出してその肖像画そのままになった方が、『人』としての親しみをより強く感じさせられるような気がしてきている」と書かれております。

 また、判型がA4判からA5判と小型化したので、携行しやすくなりました。

 この36人の肖像画のうち、個人的に、再読して、迷いながら、たった1点だけ選んでみましたら、54~55ページ、スペインのフランシスコ・デ・ゴヤ作「サバサ・ガルシア夫人」(1806~11年)に決定しました。

 そしたら、あら吃驚。この本の表紙絵になっておりました。この作品を表紙に選んだ著者と感性が少し似ていたのかもしれませんね(笑)。

「歴史人」(ABCアーク)の読者プレゼントにまたまた当選してしまいました

 にゃんとまあ、またまた、また、月刊誌「歴史人」(ABCアーク)の読者プレゼントに当選してしまいました。

 「歴史人」はここ数年、毎月買い続けて、毎月、読者プレゼントに応募しているので、いつだっけ? 何月号のプレゼントが当たったのかなあ、と思ったら、やはり8月号でした。

 しかも、上記写真の通り、「徳川家康公 御家紋 御花押」入りの彫刻グラスと「葛飾北斎 富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」のクリアボトルの二つもです。

 えっ? 何で? 何かの間違いなのでは? いや、確かに間違いなんでしょうけど、開けてしまいましたし…この際、有難く拝受仕り候、ということで、そこんとこ宜しくです。

「徳川家康公 御家紋 御花押」入りの彫刻グラス

 欲しかった家康公のグラスでは、シーバスリーガルか、ジャック・ダニエルか、奄美大島の黒糖焼酎「里の曙」を家康公の気分になって、オン・ザ・ロックで飲むつもりです。

 「マイ・ボトル」は世の中に溢れていますが、「マイ・グラス」をお持ちの方はさぞかし少ないでしょう(笑)。

「葛飾北斎 富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」のクリアボトル

 意外にも当選してしまった「葛飾北斎 富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」のクリアボトルは、うーん、何にしましょう? こちらなら返品しましょうか? ただし、御社が、返送用段ボールと郵送料を持って頂くという条件付きですよ(笑)。

 もし、こちらも当選品として受け取って良いなら、冷やした麦茶か何かを入れて、会社に持って行くことにしますか。

 そう言えば、私は「歴史人」は毎月購入して、このブログに「感想文」を書き、応募葉書にはいつも、酷い誤字脱字を指摘して、切磋琢磨されるよう叱咤激励しております。もしかしたら、私は「歴史人」の回し者に見られるかもしれませんが、単なる愛読者です。内容が良いので、いつも勉強させて頂いているだけで御座います。

 いずれにせよ、私を選んでいただいたABCアーク社の編集部か広告部か販売部か分かりませんけど、皆様、誠に有難う御座いました!

周恩来と日本=牧久著「転生 満州国皇帝・愛新覚羅家と天皇家の昭和」

 牧久氏の最新作「転生 満州国皇帝・愛新覚羅家と天皇家の昭和」(小学館、2022年8月1日初版、3300円)をやっと読了しました。

 後半も涙なしでは読めませんでした。前回のこのブログで、この本の主人公は清朝最後の皇帝で満洲国最初の皇帝だった溥儀だ、と書きましたが、もう一人、溥儀の実弟で日本人嵯峨侯爵の娘・浩(ひろ)と結婚した皇弟溥傑も忘れてはいけません。同格の主人公ではないか、と思いました。

 溥儀と溥傑は、日本と中国の懸け橋になることを望みながら、運命に翻弄され、日中戦争と太平洋戦争、そしてソ連軍侵攻、捕虜収容所生活、さらには文化革命での紅衛兵による突き上げという世界史上、例に見ない過酷な体験をします。王朝が崩壊すると、たとえ皇帝だったとはいっても、単なる下層庶民になだれ堕ち、地獄の人生が待ち受けていることが詳細に描かれています。

 まさに、筆舌に尽くしがたい体験です。どれもこれも、清朝の王家である愛新覚羅家に生まれてしまったという運命によるものでした。

 溥傑・浩夫妻の長女慧生(えいせい)は、実に不可解で驚愕の「天城山心中事件」(昭和32年12月)で亡くなります。行年19歳。父親の溥傑はいまだに中国の撫順戦犯管理所に収容されたまま。溥傑が、妻の浩と次女嫮生(こせい)に16年ぶりに中国で再会できたのは、それから4年後の昭和36年5月のことでした。

 いまだに日中間で国交のない時代に、家族の再会に尽力したのが周恩来首相でした。周総理はその後、元皇帝ということで病院をたらい回しにされていた溥儀の入院手続きまで面倒みたりします。

 周恩来は、若き日に日本に留学した経験があります。第一高等学校(現東大)と東京高等師範学校(現筑波大)の受験には失敗しますが、明治大学などで学び、マルクス主義などを知ったのも、日本の河上肇の著作を通してだったといいます。著者も書いている通り、周恩来は親日派とまで言えなかったかもしれませんが、知日派だったことは確かでした。でも、溥傑の日本人妻の浩さんのことを大変気に掛けたりしていたので、「日本びいき」だったかもしれません。

 私はこの本を読んで、中国人周恩来を見直すとともに、尊敬の念すら抱きました。毛沢東は大躍進運動と文化大革命で2000万人とも3000万人ともいわれる人民を殺害したと言われますから、とても比べようがありません。(周恩来は、文革の際、劉少奇粛清で毛沢東に協力したりしてますが)

 若き周恩来が日本留学時代によく通ったと言われる東京・神保町の上海料理店「漢陽楼」(1911年開業)にまた行きたくなりました。

 また、この牧久著「転生 満州国皇帝・愛新覚羅家と天皇家の昭和」(小学館)は、出来るだけ多くの人に読んでもらい、中国寄りでも日本寄りでもなく、中立的な歴史を知ってもらいたいと思いました。

銀座、ちょっと気になるスポット(5)=国旗掲揚塔

 銀座という華やかなショッピング、飲食街の一角にどういうわけか、国旗掲揚塔があります。

銀座国旗掲揚塔

 銀座4丁目の三越百貨店から東銀座の歌舞伎座に向かう途中にありますが、目立たないのでほとんどの人は気が付かないで通り過ぎてしまうと思います。

 私も今年1月に「発見」しましたが、それまで、全く気が付きませんでした。

 現在も使われていると思いますが、個人的にまだ国旗が掲揚されている場面は見たことはありません。

銀座国旗掲揚塔奉賛会

 この塔を建てたのは「銀座國旗掲揚塔奉賛会」と、土台にプレートがありました。

皇太子殿下御降誕記念 京橋旭少年団 昭和9年5月

 漢字の旧字体から見て、戦前に建てられたと思われましたが、その通りでした。

 昭和9年5月に「皇太子殿下御降誕記念」として京橋旭少年団が建立したようです。

 皇太子殿下とは、現在の明仁上皇陛下のことで、昭和8年12月23日生まれですから、その5カ月後に建てられたことが分かります。

「京橋旭少年団員」 団長:会津半治

 京橋旭少年団の団員については、会津半治団長以下の名簿がずらりと記載したプレートもありました。ざっと70人近い人の名前が刻まれています。相談役や顧問の方もいるので、全員が少年ではないのかもしれません。

 京橋~は、銀座は昭和18年まで東京市京橋区だったので、そう命名されたのでしょう。

 国旗掲揚塔はここだけかと思いましたら、都内に結構多いことが分かりました。日本橋室町などには「皇太子殿下御成婚記念碑・国旗掲揚塔」があります。この皇太子殿下とはやはり、現在の明仁上皇陛下のことで、昭和34年4月10日、美智子さまとのご結婚を祝して、各地に国旗掲揚塔が建てられていました。

 他に代々木などにも国旗掲揚塔がありますが、これは昭和39年の東京オリンピック開催を記念して建てられたものです。正確に数えておりませんが、都内に結構あります。昨年(2021年)の二度目の東京五輪は盛り下がりましたから、国旗掲揚塔の建立はなかったのでは?

 おっ!「皇太子殿下御降誕記念・国旗掲揚塔」は他にもありました。渋谷区千駄ヶ谷、板橋区成増…。恐らく昭和9年に建立されたことでしょう。好事家でしたら、全て調べて本まで出すことでしょうけど、私はそこまで体力も気力もありましぇん。

8月9日はソ連侵攻の日=牧久著「転生 満州国皇帝・愛新覚羅家と天皇家の昭和」

 8月9日は今年77回目の長崎原爆忌ですが、忘れてはいけないのは、ソ連軍が「日ソ中立条約」を一方的に破棄して満洲(現中国東北部)に侵攻した日でもあることです。

 関東軍の精鋭部隊が南方に転戦したため、「もぬけの殻」になった満洲に、独ソ戦に勝利して勢いに乗るソ連軍兵約150万人、戦車等約5500台、戦闘機約3500機が怒涛のようになだれ込み、日本人は民間人を中心に約8万人が死亡し、シベリア抑留や「中国残留孤児」の悲劇も生みました。

 ソ連が日ソ中立条約を破棄して侵攻したのは、昭和20年2月4日、米ルーズベルト大統領、英チャーチル首相、ソ連スターリン首相の間で行われたヤルタ会談での密約によるものでしたが、国際条約を平気で反故して侵攻する様は、現在のロシア軍によるウクライナ侵攻を見るようです。77年経っても、少しもロシア人気質が変わっていないようにみえます。会談が行われたヤルタは、ロシアが2014年に併合したクリミア半島にあるというのも何か皮肉か、偶然の一致にさえ思えてきます。

 今、ちょうど、献本して頂いたジャーナリスト牧久氏の最新作「転生 満州国皇帝・愛新覚羅家と天皇家の昭和」(小学館、2022年8月1日初版、3300円)を読んでいるところです。著者牧氏にとって、「不屈の春雷 十河信二とその時代」「満蒙開拓 夢はるかなり」(ウエッジ)に続く「満洲物語」第三弾です。日本経済新聞社の副社長等を歴任された牧氏は1941年生まれですから、今年81歳。著者の筆は全く衰えず、個人的感想ながら、いまだに書き下ろしで新作を何冊も書き続ける同氏に対し、尊敬するとともに、腰を抜かすほど驚いてしまいました。

 「転生」は、巻末の年表等も入れて493ページという大作です。すぐ読めるかと思ったら、もう読み始めて10日も経っています。それだけ内容が濃いといいますか、牧氏らしい目利きの膨大な文献調査と関連証言等から引き出す的確な推論には説得力があり、読んでいて圧倒されます。

 一言で言えば、中国が言うところの「傀儡政権」満洲帝国の興亡を描いた大河ドラマです。主人公を一人挙げるとすれば、清朝のラストエンペラー(宣統帝)であり、満洲国の初代皇帝(康徳帝)に就いた愛新覚羅 溥儀ということになります。

 私もこれまで満洲国関連の書籍は結構読んできたつもりですが、溥儀が主人公の本は少なかったでした。そのせいか、中国が断定するような満洲が傀儡政権だったというのは、少し割り引いて考えなければならず、むしろ、溥儀が、日本を利用して、積極的に滅亡した清朝の復辟(ふくへき=退位した君主がまた君位につくこと)を目指していたことをこの本で初めて知ることになりました。

 何と言っても、私が一番驚いたことは、昭和10年4月に初めて来日して昭和天皇やその母である貞明皇太后らに拝謁した溥儀皇帝が、すっかり天皇制に心酔してしまい、昭和天皇の困惑にも関わらず、天照大神を満洲国の「元神」とし、帝国内に建国神廟を建立したことです。(「回鑾=かいらん=訓民詔書」)私はてっきり、関東軍の脅迫と圧力によって満洲国内に多くの日本の神社が創建されていたと思っていたのですが、史実はむしろ逆で、皇帝溥儀が率先垂範して積極的に取り入れていたのです。在留邦人でさえ、驚いたり、天照大神が異民族に祀られるのは筋違いと考えたりする者もいたというのですから。

 皇帝溥儀は、東京裁判で証人として呼ばれた際、関東軍によって脅迫されて仕方なく皇帝に即位し、単なる操り人形で何の権限もなかった、といった趣旨の証言を、ソ連の筋書き通りに繰り返しましたが、史実は、結構な部分で、清朝復活を願う溥儀が、日本を利用して自分の意志を反映させていたことがこの本を読むとよく分かります。

 この本を読む前の今年5月に、私はたまたま平山周吉著「満洲国グランドホテル」(芸術新聞社)を読んでいたので、同じ「満洲もの」では少し切り口が違うなあ、と感じました。「グランドホテル」は、満洲国(1932~45年)で活躍した人物の評伝と相関図に多く紙数を費やし、例えば、「『満洲国のゲッベルス』武藤富男」とか「『満洲の廊下トンビ』小坂正則」といったように、言わば週刊誌的な見出しが並びます。著者の平山氏は、文藝春秋の「文学界」の編集長も務めた経験があるということなので、「グランドホテル」は出版社系ジャーナリズムと言えるかもしれません。

 一方のこの「転生」は、著者牧氏が日経社会部記者出身ということで新聞社系ジャーナリズムと言えるかもしれません。歴史学者のように、時系列に淡々と筆致を抑えて叙述し、余計な形容詞は省き、武藤富男は何度も登場しますが、「満洲国のゲッベルス」といった修飾語は出てきません。ただ、筆致が抑えられているとはいえ、内容は通化事件をはじめ、戦争の悲劇の話ですから、涙なしには読めません。

 著者の牧氏がこの本を書くきっかけになったのが、千葉市稲毛の自宅近くに、溥儀の実弟で日本の陸軍士官学校に留学した愛新覚羅溥傑と「政略結婚」した侯爵嵯峨実勝(さねとう)の長女浩が新婚時代を過ごした「ゆかりの家」があり、よく訪れ、「激しく移り変わる歴史の荒波の中で、その愛を生涯貫き通した二人の人生ドラマを書き残したいと思った」からだといいます。

 溥傑と浩との結婚や二人の娘の慧生(えいせい)、嫮生(こせい)の哀しい物語については、山崎朋子著「アジア女性交流史」(岩波書店)や本岡典子著「流転の子 最後の皇女・愛新覚羅嫮生」(中央公論新社)などを通して私自身も知っておりましたが、改めてその凄惨な波乱万丈の生涯を読んで、自分たちの意志が反映されないまま、歴史に翻弄された被害者のような気がしました。

 確かに、著者の牧氏が仰る通り、彼らの人生は、書き残して後世に伝えるべきドラマであり、本書も多くの人に読み継がれなければならないと思いました。

銀座、ちょっと気になるスポット(4)=時事通信社

 「銀座、気になるスポット」シリーズは一体、何回続くんですかねえ?

 実は昨年9月の渓流斎ブログで、「明治の銀座『新聞』めぐり」を5回に渡って連載致しました。明治から現在に至るまで、銀座は、実は新聞社街だったことを足を使って歩いて、現場検証した画期的な企画でした(笑)。5回連載は以下の通りです(クリックすれば読めます)。

 (1)「足の踏み場もないほど新聞社だらけ」=2021年9月17日

(2)「東京横浜毎日新聞社は高級ブランドショップに」=同年9月20日

(3)「尾張町交差点は情報発信の拠点だった」=同年9月22日

(4)「読売新聞は虎ノ門から銀座1丁目に移転」=同年9月24日

(5)「33社全部回ったけどまだ足りない!」(完)=同年9月25日

 以上は明治の新聞社の話でしたが、「大手3紙」と言われる新聞社も、銀座界隈に東京本社がありました。大手町に移る前の読売新聞は、現在、マロニエゲート銀座がある2丁目にありました。「2.26事件」の舞台にもなった朝日新聞社は、現在の築地に移転する前は、有楽町マリオンにあったことをまさか御存知じゃない方はいないと思います。

 現在、竹橋のパレスサイドビルにある毎日新聞東京本社は、日本外国特派員協会が入居している有楽町駅前の丸の内二重橋ビルにありました。移転したのは1966年で、私はまだ小学生でしたが、有楽町の駅のプラットフォームから、窓を通して新聞社の内部が丸見えで、忙しそうに立ち働いている記者さんたちが見えました。記憶違いかもしれませんが。

銀座「時事通信社」

 今回取り上げるのは、報道機関の時事通信社です。銀座5丁目ですが、昭和通りの向こう側ですから東銀座です。この連載の第3回にも登場した木挽町です。江戸切絵図を見ると、時事通信社ビルが建っているところは、信州の諏訪藩3万石の3000坪の上屋敷があったところでした。

 明治になって、大名屋敷は新政府に没収され、ここには「築地精養軒」が出来ました。精養軒は当初、明治5年(1872年)2月、岩倉具視らの支援で北村重威が銀座で創業しましたが、開業当日に「銀座の大火」により焼失してしまいました。そのため、同年4月にこの木挽町に移転して開業しました。(明治9年、上野公園開園と同時に支店を開設し、それが現在の上野精養軒として続いています)

 築地精養軒は、日本最初の西洋料理店の一つとして評判を呼び、岩倉具視は勿論、西郷隆盛も通ったといいます。

 また、森鴎外の小説「普請中」にも登場するように、築地精養軒は西洋料理店だけでなく、ホテルでもありました。そして、このホテル内にあったのが、「米倉」という高級理容店です。私も10年ぐらい昔に銀座の米倉本店に行ったことがあります(現在、カットとシャンプーセットで1万6500円也。ホテルオークラ内の「米倉」は司馬遼太郎先生御用達の店でした。)

 理容「米倉」は、大正7年(1918年)、米倉近により創業されました。米倉が修行を積んだ日本橋「篠原理髪店」と、義父・後藤米吉の「三笠館」の流れを汲むといいます。私もその10年ぐらい昔に米倉で散髪した時に御主人に聞いた話ですが、この三笠館というのは、日露戦争の連合艦隊の旗艦「三笠」内で営業していたといいます。

銀座「新橋演舞場」

 床屋さんの話は長くなるので、これぐらいにして、築地精養軒は大正12年の関東大震災で焼失してしまいます。(それで、精養軒は上野に本社を移すわけです)。その後、敷地はどうなったのか不明ですが、戦後の昭和35年(1960年)に、東急グループのホテル第一号店として「銀座東急ホテル」が開業します(2001年まで)。ここは歌舞伎座と新橋演舞場の中間点に当たることから、地方から観劇に訪れる人たちの定宿になりました。

 また、銀座東急ホテルは、歌舞伎や新劇の「新派」の俳優の記者会見場としても知られ、私もよく取材に行ったものです。ただ、会場が狭く、太い柱で俳優の姿が見えにくい席が多かった記憶があります。つまり、新高輪ホテルのように、大人数の宴会が開けるような会場がなかったと思います。銀座の超一等地ですから、仕方ないでしょう。

新橋演舞場

 歌舞伎がはねた後、演劇評論家の萩原雪夫さんからホテルの地下のバーでよくビールやスコッチの水割りを驕ってもらった思い出があります。萩原先生からは、長唄と清元の違いや歌舞伎鑑賞の基礎を習い、本当によくしてもらいました。

 2003年から時事通信社の東京本社が日比谷公園から移転してきます。時事通信は戦前の国策通信社「同盟通信社」の流れを汲む報道機関です。明治時代の三井の番頭益田孝が創業した時事通信社と名称は全く同じですが、無関係です。同盟通信は戦後、GHQの顔色を伺って自主解散し、時事通信と共同通信と電通の3社に分かれて再スタートします。

 ちなみに、益田孝が創刊した三井物産の社内報「中外物価新報」(1876年)が、現在の日本経済新聞になったわけです。

銀座、ちょっと気になるスポット(3)=木挽町界隈

  「銀座、気になるスポット」と題しながら、前回は有楽町でした。今回も銀座のど真ん中とは言えない、ちょっと外れた東銀座の木挽町界隈を取り上げます。ここは、結構、意外と知られていない史跡があるからです。

 有楽町から南下して晴海方面に向かうと東西を走る大きな幹線道路に当たります。昭和通りです。港区新橋交差点から台東区の三ノ輪駅前までの8キロの道路です。大正12年(1923年)9月の関東大震災で帝都東京は壊滅的な被害を受けたため、当時、内務相兼帝都復興院総裁だった後藤新平の提唱で、幅108メートルの大道路が計画されました。しかし、財界等からの反対もあり、最終的には昭和3年(1928年)(張作霖爆殺事件があった年)に幅44メートルの道路が完成したわけです。

 銀座からこの昭和通りを横切ると、歌舞伎座などがある東銀座になります。そして、この辺りは、江戸時代は木挽町と呼ばれていました。歌舞伎通の方なら御存知でしょうが、木挽町と言えば、芝居小屋の町で、山村座(絵島生島事件で廃座)、河原崎座(後に森田座に吸収合併される)、森田座(休座するも、守田座と改め猿若町から新富町に移転)と三座もありました。

 もっとも、木挽町は、江戸初期に江戸城建設のために多くの木挽き(のこぎり)職人を住まわせたことからその名が由来します。ただ、江戸城の天守は、徳川家康、秀忠、家光の三代将軍がつくりましたが、明暦の大火(1657年)で焼失して以来、天守はつくられませんでした。城の修繕だけになってしまえば、かなりの木挽き職人も失職したのではないかと思われます。

ホテルグランバッハ東京銀座 2021年11月30日開業

 と、ここまでは全部「前触れ」でして、ご紹介したかったスポットは、江戸中後期の老中だった田沼意次邸跡です。今は、「ホテルグランバッハ東京銀座」(2021年11月30日開業)というホテルが聳えだっています。

 このホテルの敷地内に中央区教育委員会による「案内板」がありますが、タイトルは「田沼意次邸跡」ではなく、「狩野画塾跡」となっています。江戸幕府御用絵師である狩野派は四派ありまして、そのうちの木挽町狩野家六代目典信(みちのぶ)が、田沼意次の知遇を得て、ここ田沼邸の西南角に画塾を開いたといいます。つまり、田沼意次は芸術家のパトロンだったということになります。

 田沼意次と言えば、賄賂政治の親玉で悪の権化みたいに歴史の教科書に描かれていますが、幕府の財政改革に踏み切り、株仲間を育成して商工業者から初めて税を徴収するなどの功績もありました。また、前野良沢、杉田玄白らによって「解体新書」が翻訳されたり、エレキテルの平賀源内が活躍したりした時代でもありました。

 田沼は、後に寛政の改革を進めた松平定信らを中心とした反田沼派の保守層によって失脚させられます。老中として改革の先頭に立っていた頃は、神田の上屋敷に住んでおりましたが、天明6年(1786年)、彼が68歳で失脚した以降に蟄居したところがこの木挽町の下屋敷でした。

1852年

 田沼意次が晩年を送った下屋敷と狩野画塾があった所から66年後の幕末、今のみゆき通りを挟んだ真向かいに信州松代の真田藩士で兵法学者の佐久間象山の塾がありました。

中央区役所 (新富町)

 中央区教育委員会の案内板によると、塾は20坪程度の規模で、常時30~40人が学んでいたといいます。門下生には、勝海舟、吉田松陰、橋本佐内、河井継之助、坂本龍馬ら錚々たる顔ぶれです。

土佐藩築地邸跡(現中央区役所)

 ちなみに、龍馬は当時、土佐藩中屋敷を拠点としていました。土佐藩中屋敷は現在、東京都中央区役所になっていますから、距離にして800メートル。佐久間象山塾まで歩いても10分という近い場所にあったわけです。

J-POWER電源開発 

 この佐久間象山塾は現在、何になっているかといいますと、「J-POWER 電源開発」の敷地の一部でした。

 電源開発は知る人ぞ知る会社です。昭和40年(1965年)の九頭竜川ダム汚職事件の舞台になった会社で、石川達三が、この汚職事件や吹原産業事件をモデルにして「金環触」という小説を発表しました。

 この小説は、1975年に山本薩夫監督によって映画化されました。金融王・森脇将光がモデルの石原参吉役が宇野重吉、代議士田中彰治がモデルの神谷直吉役が三國連太郎、藤井崇治・電源開発総裁がモデルの電力開発総裁・財部賢三役が永井智雄、官房長官の黒金泰美がモデルの星野康雄役が仲代達矢、とまさに役者がそろった名作でした。 (お見逃しの方は是非とも御覧ください)

 勿論、あの「金環蝕」の舞台になった電源開発の本社がここにあったとは、つい最近まで気が付きませんでした。佐久間象山先生も吃驚です。

銀座、ちょっと気になるスポット(2)=南町奉行所

 銀座と言いながら、第2回で取り上げる気になるスポットは、有楽町です。地下鉄ではなく、JRで銀座に行くには、駅は有楽町か新橋になりますので、有楽町も銀座と言えば、銀座なのですが、正確に言えば違います。

有楽町「交通会館」

 何と言っても、有楽町駅の住所は東京都千代田区です。三省堂書店や北海道物産店などが入っている交通会館も千代田区ですが、駅前広場をもう少しだけ南下して、銀座インズの首都の速の下をくぐると、やっと中央区銀座になります。ものの数分ですが。(首都高の下は、数寄屋橋下にしろ、大抵、川が埋め立てられた所です)

有楽町駅前広場

 有楽町の名称は、皆様ご案内の通り、茶人としても知られた織田信長の実弟、織田長益こと織田有楽斎(うらくさい)から由来するものです。有楽斎が、関ヶ原の戦いの後、徳川家康から数寄屋橋御門の周辺に屋敷を拝領し、その屋敷跡が有楽原と呼ばれていたことから、明治時代に「有楽町」と名付けられたのです。江戸城からかなり近いので、家康の有楽斎に対する信任が篤かったと思われます。家康はかつて信長に仕えていましたから、織田家に対する御恩返しかもしれませんが。

有楽町駅前広場にある南町奉行所跡

 江戸切絵図を見ると、今の有楽町駅辺りは、主に阿波徳島の蜂須賀藩の上屋敷だったようです。その隣接する今の駅前広場辺りが、何と、あの名奉行・大岡越前守忠相が活躍した「南町奉行所」があったところでした。

 奉行所は、江戸の行政、司法、警察などの職務を担っていた組織で、老中の支配下にありました。ということは、奉行が全ての権限をもって裁定したわけではなく、特に重罪などの最終判断は老中や将軍に仰いでいたともいわれます。

 白洲でのお裁きも本当にあったのかどうか…。ま、それらしきものはあったことでしょう。

有楽町駅前広場にある「南町奉行所跡」

 「南町奉行所」の御奉行は、八代将軍吉宗の時代に活躍した大岡越前が有名ですが、現在の東京駅八重洲北口にほど近い所には「北町奉行所」があり、こちらは、天保改革の頃に、「遠山の金さん」こと遠山景元という名奉行がおりました。「遊び人金さん」はかなり脚色された話ではありますが、景元自身は、水野忠邦や鳥居耀蔵らとの政争で一時失脚しますが、後に南町奉行に返り咲いたといいます。

 また、元禄期から享保年間にかけて、17年間という短い期間に南北奉行所の中間点に「中町奉行所」がありましたが、それほど詳しいことは分かっていないようです。

 南町奉行所は、2005年の発掘調査で、奉行所表門に面した下水溝や、奉行所内に設けられた井戸などが発見されました。この写真の「南町奉行所跡」の碑もその記念?で出来たと思われます。ということは、2005年以前は、こんな碑はなかったと思います。

 私自身は、よく有楽町駅を利用するのですが、この碑を初めて見つけた時(恐らく2005年頃)は本当に驚いたものです。テレビの時代劇のヒーローが、実在人物だったという証拠みたいなもんですからね(笑)。

 南北町奉行所の奉行は、月番制で、3000石程度の旗本が任命されたようです。実働部隊の幹部である与力は南北奉行所に各25人、その配下の同心は各100人しかいなかったというので、これまた驚きです。彼らのポケットマネーで御用聞き(岡っ引き)を何人も抱えていましたが、江戸町人の人口は50万人だったと言われ、こんなに少ない人数で警察・治安維持や行政、防災に当たっていたわけですから、本当に驚くばかりです。

南町奉行所跡から発見された穴蔵

 ちなみに、時代劇などでよく出て来る「八丁堀」は、与力・同心の組屋敷があったところです。八丁堀から有楽町までの距離は2キロちょっと。与力は馬かもしれませんが、同心は組屋敷から歩いて奉行所まで通ったことでしょう。

 与力の平均禄高は200石、諸大名や豪商からの付け届けなどの別途収入があれば良いのですが、ない人は家計は火の車です。何世代にもわたって、禄高は上がらないので、屋敷を人にまた貸ししていた与力もいたようです。与力の配下の同心ともなると、禄高は30石程度だったといいますから、さらに生活が厳しかったことでしょう。

 江戸時代は、火付け盗賊が多く、治安が悪かったイメージが時代小説で我々は植え付けられていますが、案外、現代よりも治安が良かったのではないかと思ったりしています。「南町奉行所跡」碑の前に立つと、与力・同心たちの「こんな安月給で、やってられないよ」と言う声が聞こえてきました(笑)。

銀座、ちょっと気になるスポット(1)=ジョン・レノンの「樹の花」

 《渓流斎日乗》のブログは2005年3月に始めたので、今年でもう17年になります…中途半端ですね(笑)。この17年間、どういうわけか、このブログが原因でかつては親しかった友人たちが、疎遠になってしまう事案が複数回、起きています。このままブログを続けて良いものか迷い道にはまり、正直、かなり落ち込んでおります。

 ある友人の非難の理由は、このブログが「衒学的過ぎる」ということでした。ま、小難しいことばかり書いていて、気取っている、ということなのでしょう。生意気だ、気に喰わないということなんでしょう。本人は全くペダンチックだとは思ってはおりませんが、預言者というものは、お里が知れた故郷では受け入れられないものです。

 「賢い読者からの指摘があれば、問題になりそうな箇所はすぐ削除する。まるで自民党の手口だね。男気がない」などという批判もありました。

 「どうしようもない三流のマスコミに何十年もしがみついてきた三流のジャーナリストの書くものは、読むに値しない」と直球を投げて来る友人もおりました。

 読みたくなければ、読まなければいいのですよ。わざわざ、アクセスする必要もないでしょう。と、言わなくても友人たちはとっくに離れて、このブログはもう読んでいないと思いますが(笑)。

 それにしても、世間に影響も与えないこんな小さな無名のブログが、何でそこまで、見ず知らずの赤の他人からではなく、親しかった友人たちから非難されなければいけないのか、理解に苦しみます。欧米では食事中に政治や贔屓チームの話をすることはタブー視されていますが、私自身もなるべく現在の世論を二分にするような政治的イッシューを取り上げることはわざと避けて来ました。炎上してもその場限りです。実にくだらない。わざとらしいし、恥ずかしい。わざわざ火中の栗を拾うこともないでしょう。

 もう、生身の現代人を扱うことは嫌になったので、最近のブログでは、なるべく歴史上の人物を取り上げるようにしていたのですが、それでも、やはり、衒学的ですかねえ?

 まあ、好きにしてくださいな。嫌ならアクセスしなければ良いだけの話です。こちらは、お読み頂ける読者の皆様がいらっしゃる限り続けていくだけです。勿論、感謝を込めて。

 さて、そんな中で、考えた企画は「銀座、ちょっと気になるスポット」シリーズです。飲食店だけでなく、気になった史跡なども取り上げて、お茶を濁そうかと思ったわけです。実は、これまでこのブログに登場したサイトも重ねて取り上げるかもしれませんが、その点はどうか御勘弁ください。

 記念すべき第1回は「樹の花」という喫茶店を取り上げることに致しました。失礼ながら、ランチにカレーライスを出すような何の変哲もない喫茶店ですが、あのジョン・レノンとオノ・ヨーコが利用したお店でした。

 1979年夏のことです。何とこの店が開店して4日目だったそうです。東銀座の歌舞伎座の「横」にありますから、てっきり、ジョンとヨーコが歌舞伎を見た帰り、たまたま立ち寄った喫茶店かと思っていたら、お店にしっかり説明書きがありました。

 ジョンとヨーコはハイヤーで築地の映画館に来ると、子どもたちだけを降ろして「スーパーマン」が終わる時間までどこかゆっくり過ごせる場所を探して銀座4丁目の方へ歩き始めた。…少し歩いた所で、偶然、樹の花という看板を見つけた。…二人は入り口に近い窓際のテーブルに向かい合って座った。コロンビアコーヒーとダージリンティーを注文すると互いの目を見つめながら静かに語り合う。…

 築地の映画館とは恐らく「東劇」のことでしょう。このビル(松竹本社)は改修(建て替え)されることが決まっており、間もなく閉館されます。

 「樹の花」は、ビートルズ・フリークの私ですから、一度、ジョンとヨーコが座った同じ席に座ったことがあります。今はどうなっているのか知りませんが、10年ぐらい昔、私が利用した時は、席の壁に二人の写真が飾られていました。

上野・洋食「黒船亭」1979年8月 ジョン・レノン(前列右から2人目)とオノ・ヨーコ ※お店の人に許可を得て撮影しております

 そう言えば、今年2月28日に行った上野の老舗高級洋食店「黒船亭」にも、訪れたジョンとヨーコの写真が店内に飾られていました。撮影日が1979年8月とありますから、ちょうど銀座の「樹の花」を訪れた時と同じような頃です。偶然の一致に少し驚いてしまいました。

 それにしても、「樹の花」が開店して4日目にジョンとヨーコが偶然、訪れ、この店は、それ以来今日まで43年間も続いているとは…。残念ながら、ジョン・レノンはそれから1年半後の1980年12月8日にニューヨークの自宅前で暗殺されてしまいます。行年40歳。

「気分の落ち込みから守ってくれるのは歩数」=アンデシュ・ハンセン著「ストレス脳」を読んで

 徐々に健康も回復し、やっとビールも飲めるようになりました。さらには、恐々ながら高級アイスのハーゲンダッツも食べましたが、翌日、何ともありませんでした(笑)。

 これで、少しは生きる自信を取り戻しても良さそうなものですが、またまた、色々と御座いまして、すっきりしない毎日を送っています。

 それではいけないので、アンデシュ・ハンセン著、久山葉子訳「ストレス脳」(新潮新書、2022年7月20日初版、1100円)を読むことにしました。まさに、読むクスリです。ハンセンは、ちょうど1年ほど前に「スマホ脳」を読んで、大いに感心して、私がFacebookをやめるきかっけをつくってくれたスウェーデンの精神科医です。

 間違いないだろう、と、迷わず購入したのですが、体調の関係で読むのに少し時間が掛かってしまいました。でも、目から鱗が落ちると言いますか、逆説的ながら、脳の仕組みを明瞭に解明してくれて、生きる自信も回復しそうです。

 それほど難しいことは書かれていません。約20万年前に霊長類から進化した現生人類(ホモ・サピエンス)は、約1万2000年前に農業革命が起こして定住生活するまでに、狩猟採集生活を続けてきました。ですから、99%近く、現代人の脳には、狩猟採集生活時代の進化がそのまま残っているというわけです。それは、一言でいうと、脳は「生き延びる」ことを第一に進化していったということです。そのためには、ライオンや狼などの捕食者から一刻も早く逃げること、死に至る感染症に罹らないようにすること、餓死しないよう食物を確保すること、雨露を凌ぎ、暑さ寒さから身を守るーといったことを最優先に脳が進化していったというのです。

 「生き延びる」ことが最優先ということは、幸福感とは無関係で、残念ながら、脳は幸せになるように出来ていないというのです。これには驚きです。例えば、好きな人と結婚できても、直ぐに現実に直面して離婚したくなったり、豪華なプレゼントを貰っても、すぐその喜びは消え、もっと欲しい、と欲望にキリがないように脳がつくられているということか?

 著者によると、現代人の4人に1人がウツや強い精神的不安を経験しているといいます。とはいえ、人が不安になったり、気分が落ち込んでウツ状態になる、というのは、脳が正常に機能している証拠だと言える、とまでいうのです。不安信号は、これから何か危険が迫っているので警戒するように注意しているということ。ウツ状態になって外出を控えたくなるのも、感染症が蔓延していて、他人と接触を避けようとしていること、だと言うのです、ただし、これら危険信号は、狩猟採集生活時代の脳が過剰反応しているだけで、現代のような安心・安全世界ではあり得ず、まず当てはまりません(今の新型コロナやウクライナ戦争の話はおいといて)。つまり、免疫系の過剰反応や誇大妄想などが、精神疾患を引き起こしてしまう。脳はそういうメカニズムになっているというわけです。

 以上は私がこの本を読んで勝手に斟酌したものですが、著者の言葉をそのまま引用すると、以下のようなものがあります。

 ・脳は精神的に元気でいるように進化せず、常に最悪の事態に備え(不安)、場合によっては自分を守るために引きこもらせる(ウツ)ようにした。

 ・過去に体験したトラウマをわずかでも思い出せるものは何であれ、脳に記憶を取り出させてしまう。…あなたにも時々思い出すような辛い記憶があるかもしれない。それは脳が、同じようなことが起きないようにあなたを守ろうとしているのだ。時々再体験させることで、前回どのように対処したのかを思い出させる。思い出すことで精神が悪くなったとしても、脳にしては大したことではない。脳は生き延びるために進化したのであって、幸福を感じるためではないのだから。

 ・なぜ孤独はリスクなのか? 長く孤独でいると睡眠も途切れがちになる。…独りで寝ている人は危険が近づいても誰にも教えてもらえない。だから、深く眠り過ぎず、直ぐに目が覚めることが重要だったのだ。

 さてさて、現代人がウツにならないようにするにはどうしたらいいのか?ー著者はあっけなく、回答を出しています。「運動すれば良い」というのです。精神科医として多くの患者を診察した結果、運動をしていた人がウツになる例はあまり見られなかったというのです。「毎日じっと座っている代わりに15分間ジョギングするだけで、ウツになるリスクが26%減る。1時間、散歩しても同じだけリスクが下がる。つまり、ジョギングのように心拍数の上がる運動は散歩の約4倍も効率的だということだ。15分以上走ったり、1時間以上散歩したりすると、さらに防御効果が高まる。」(175ページ)

 著者のハンセン氏は「最終的に、あなたを気分の落ち込みから守ってくれるのは歩数なのだ」とまで言い切ります。狩猟採集時代、人間は1日平均、1万5000~1万8000歩は歩いていましたが、今の西洋諸国の現代人の平均は5000~6000歩と、昔の人のわずか3分の1しか歩いていないというのです。 

 世界はパンデミックとなり、私も映画館や博物館に行くことは減り、部屋に引き籠って、本ばかり読んでおりました。そして、いつの間にか、心身ともに不調になっておりました。

 これからは、一日平均8000歩は歩くことを目標にして、免疫系の「過剰反応」から我が身を守ることにしますか。