【音声】La brise du ciel bleu(青空のそよ風)

La brise du ciel bleu           Copyright musique par Keiryusai

昨日は、動画を試してみましたが、今日は音声を試してみたいと思います。

順番が逆やろ!ーと茶々を入れたくなりますが、そうなってしまったものは仕方がありません(笑)。

音声データも、著作権がありますから、他人様の音声を勝手にアップするわけにはいきません。

そこで、私は自称ミュージシャンですから(笑)、5、6年前に作曲した曲を下手くそな自分のギター演奏でアップすることにしました。

ギターは、Ovation Celebrity cc153モデル。

タイトルは、La brise du ciel bleu 日本語名は「青空のそよ風」です。

気に入ってくだされば幸いです。

I hope you like it!

シーカーズ「ジョージー・ガール」

桂林から陽朔までの、漓江川下り Copyright par MatsuokaSousumu@Kaqua

ネット社会になると、ヒトは自分の好みの我田引水のニュースしか読まなくなるので、右翼のヒトはますます極右に、左翼のヒトはますます極左になる傾向がある、としたり顔で解説してくれる評論家さんがおります。

へー、そうでしたか。

と態とらしく驚いてみせましょう(笑)。

その伝でいきますと、ヒトはますます自分の好みの音楽しか聴かない傾向にあるということですね。

私事ながら、1960年代~70年代の音楽は今でも好んで聴きますが、最新流行のラップやJ?POPはご遠慮させて頂いております。

桂林から陽朔までの、漓江川下り Copyright par MatsuokaSousumu@Kaqua

斯く言う私にも、少年時代がありまして、唯一の楽しみと言えば、安いトランジスタラジオから流れてくる海外からのポップスでした。

海外ポップスは、異様な興奮とその真逆の安らぎを与えてくれました。

当時は、情報なんて全くといっていいくらいなく、雑誌も「ミュージックライフ」か「ヤングギター」ぐらいでしたから、スターは顔写真が見られる程度で、動画なんて夢のまた夢。グループ名が分かるくらいで、ビートルズやローリング・ストーンズなど超有名バンド以外は、メンバーの名前なんか知るよしもありませんでした。

しかし、今はネット社会のお陰で、昔の情報不足をカバーしてくれるだけでなく、YouTubeなどで、動く演奏、歌唱姿まで見ることができるので、これでは夜更かししてしまいます。

先日も1960年代から70年代の全米チャートトップ30の動画を見ていたら止まらなくなってしまいました(笑)。この知ったかぶりの私でさえ知らない今では全く忘れ去られたスターがいたとは!それとも、あくまでも米国のチャートなので、日本では紹介されなかったのかもしれませんが…。

やはり、ロネッツやシュープリームスらガールズバンドやペトラ・クラークが良かったですね。

桂林から陽朔までの、漓江川下り Copyright par MatsuokaSousumu@Kaqua

昨晩ハマってしまったのは、シーカーズです。ジャンルで言えばフォークソングなんでしょうか。(嗚呼、昔はよくブラザーズフォーやPPMを聴いたものです!)1965年に「ジョージー・ガール」という曲を世界的に大ヒットさせて一躍有名になりました。

彼らは、イギリスのグループかと思ったら、オーストラリア出身だったんですね。そして、紅一点のヴォーカルが、ジューディス・ダーラムという名前だということも今回初めて知りました(苦笑)。

いまだかつて、私は、古今東西、色んなヴォーカリストを聴いてきましたが、彼女、ジューディスの声質が大好きですね。オペラやロック歌手のように技巧的であったり、無理してはり叫んだりしていない。ごくごく自然で、天使が地上に舞い降りてきたような声を聴かせてくれます。

まさに天賦の才能です。神様から与えられたような声です。大地の草原に囲まれた牧歌的な穏やかな気持ちにさせてくれます。

1943年生まれ説が有力なジューディスは、今は70歳代半ばになりましたが、テレビのインタビュー番組に出演している動画も見られ、とても良い顔で歳を重ねた感じです。

交通事故で瀕死の重傷に遭ったり、夫をゲーリック病で亡くしたりして、かなりの苦労を重ねたようですが、全てを乗り越えて最高の笑顔で唄を歌ってくれております。

これでは、ますます極右か極左になってしまいそうです。あれっ?何の話だったけ?…。

鬼才のパフォーマンス

忍城

畏友末岡武彦氏から、自作自演のパフォーマンスがSNSを通して、送られてきました。

「パフォーマンス・ナンバー1」 ??こちら

パフォーマンス・ナンバー2」 ??こちら

ちょっと、目が怖いところもありますが、彼は怖い人ではありません(笑)。

ジョークが通じる良い人です。

千鳥ヶ淵

末岡氏の短いコメントもあります。

…やっと、YouTubeの自作自演のライブラリーが充実してきました。完璧な演奏ではないですが、誤解無く、精神の共有が出来ると思います。19世紀以来のフレデリック・ショパンといった自作自演家を目指しております。貴方のブログに冷かしではなくて、真面目に宣伝して頂ければ幸いに存じまする。…

緊張しますねえ。ついに、渓流斎ブログも、宣撫活動の一翼を担うことになりました。

まあ、世界の人気ブログ(?)ですから、多くの皆様方がアクセスして下さることでせう。

ジョージ没後15年

伊太利亜ローマ・パンテオン 「ラファエロ」

先程、ラジオを聴いていたら、ビートルズの「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」がかかり、「あれっ?何でかな?」と思ったら、今日11月29日(日本時間30日)はジョージの命日だと教えてくれました。

いやあ、すっかり忘れていました。2001年ですから、もう15年も昔です。時間の経つのは早過ぎます。

享年58ですから、日本で言えば、まだ定年退職もしていない若さです。早かったんだなあ、と今更思います。

ジョージの死因は、肺がんでした。彼は若い頃からかなりのヘヴィースモーカーでしたからね。

亡くなったのは、米ロサンゼルスで、病院とも友人宅とも言われてます。何しろオリヴィア夫人が亡くなった場所どころか、何処で埋葬されたのかさえも公表しておりません。

私は、掃苔趣味があるので、お墓が分かれば、お詣りに行きたいと思っているのですが、私が生きている間は、実現することはないでしょうから、せめて、今日は一日中、ジョージ・ハリスンの曲を聴いて供養したいと思ってます。

またまた、とてもマニアックな話ですが、ビートルズがレコードデビューする前、リバプールのキャバーンクラブで演奏していた頃、リードギタリストのジョージがかなりリードヴォーカルを担当していたことが、初期の録音で分かります。

「ヤング・ブラッド」「クライング・ウェイティング・ホーピング」「シーク・オブ・アラビー」「スリー・クール・キャッツ」などです。

まるで、初期のメインヴォーカルは、ジョージ・ハリスンだったかのようです。

先日も書きました1962年1月1日のデッカ・オーディションでも三分の一以上はリードヴォーカルを担当していました。中でも、「テイク・ケア・オブ、マイ・ベイビー」のヴォーカルが非常に光っていましたが、これまた、ヴォーカルはジョージでした。

この曲は、あのメロディーメイカー、ジェリー・ゴーフィ&キャロル・キングのコンビで作詞作曲、ボビー・ヴィーが唄い、1961年9月18日から連続2週、全米ビルボード・チャートで1位になりました。

つまり、9月のヒット曲をすぐカバーしていたわけですね。

こうしてビートルズは当時、全米の最新ヒットを常にキャッチして、最新の音楽を取り入れていたことが分かります。

「レッキング・クルーのいい仕事」読了

京都・南禅寺 by Kyoraku sensei

昨日は、都心で54年ぶりに11月に雪が降ったということで、54年前は1962年か…と考え、自他ともにビートルズ・フリークと認める私としましては、当然の如く、と言いますか、全く予期せぬ形で、ビートルズがデビューした「ラブ・ミー・ドゥー」の話にまで展開してしまったわけです。何しろ、電車の中で、スマホで記憶で書いておりますからね(笑)。

しかしながら、実は、昨日は、ケント・ハートマン著、加瀬俊訳の「レッキング・クルーのいい仕事」(2012年11月25日初版)を祝日の23日に読破しましたので、そのことを取り上げるつもりだったのです。話が横道にそれてしまったので(笑)、今日は本題に入ります。

1960~70年代に多感な年を過ごした私としましては、異様に面白くて、貪るように読んでしまいました。何しろ、初めて知る事実ばかりで、「本当?」「そうだったのかあ」と長年のアポリアが解けたような気分でした。

以前にも書きましたが、レッキング・クルーとは、スタジオ・ミュージシャン(サイドマン)のことで、レコーディングする際に、バックで演奏するプロの音楽集団のことです。ほとんど、コネで集まった、その場限りの、口約束みたいな、緩やかな集団なので、特別にリーダーがいたわけでもなく、皆が皆、独立したプロの演奏家でした。

その中でも、あえて、リーダー的存在と言えば、ドラムスのハル・ベリーを筆者のハートマンは挙げています。初期のフィル・スペクターがプロデュースするタレントから、大物フランク・シナトラの「夜のストレンジャー」、フィフス・ディメンション(元々、ヴァーサタイルズとしてデビュー)の「輝く星座」、それに70年代のカーペンターズまで、ほとんど全てのヒット曲で彼がドラムを叩いていたと言っても過言ではないほどです。

英国のビートルズに対抗して米国でつくられたアイドル・グループ「ザ・モンキーズ」や、60年代の全米ナンバーワン・バンドだったビーチ・ボーイズの影武者として演奏していたのが、このレッキング・クルーだった、と以前にも書きましたが、彼らは、当時、レコードにクレジットされることがなかったので、ファンも噂では知っていても、実体は知られていなかったのです。(モンキーズの「恋の終列車」冒頭の有名なギターリフは、ルイ・シェルトン)

80年代になると、ミュージシャンは自分たちで必ず演奏してレコーディングするというスタンスになったため、レッキング・クルーのお役目は歴史的にも終えてしまいます。ですから、この本は大変史料的価値が高いので

この本で、私が一番感心した人物は、作者のハートマンがこの本を書くきっかけになったという全く同じミュージシャンで、ラリー・ネクテル(1940~2009、心臓発作で他界。享年69)という人でした。この人、何が凄いのかと言いますと、ビーチ・ボーイズの「グッド・バイブレーション」ではハモンド・オルガンを演奏し、ドアーズの「ハートに火をつけて」では、フェンダー・ベースを弾いていたというのです。まさに、天才です。

そして、もっと、おっ魂消たことは、1970年にリリースされたサイモン&ガーファンクルの超有名な「明日に架ける橋」で、ピアノを演奏していたのが、このネクテルだったというのです。私はてっきり、ポール・サイモンがピアノを弾いていたとばかり思っていましたから、本当に吃驚してしまいました。

ネクテルは、サイモンから「ゴスペル調の曲に仕上げてくれ。しかも、白人のゴスペルではなく、黒人のゴスペル調で」という細かい注文を受けて、その場で、一時間ばかり即興で試行錯誤しているうちに、E♭の音階で弾いた曲が最もサイモンのお気に入りとなり、採用されることになったというのです。

ネクテルは、その後、70年代に、私も大好きなボーカル・ロック・バンド「ブレッド」に第2期メンバーとして参加し、「二人の架け橋」「ギターマン」「イフ」などのヒット曲量産にも貢献するのです。ギター、ベース、キーボード何でもござい、です。

レッキング・クルーは確かにテクニッシャン揃いのプロ集団ですが、裏方のサイドマンから独立して、表舞台に立って成功したのは、このネクテルとグレン・キャンベルとレオン・ラッセル(元々、ラッセル・ブリッジ)ぐらいです。

私のように60~70年代好きのファンにとって、この本で出てくる逸話は、知らなかったことばかりで、本当に面白かったです。

リタ・クーリッジとレオン・ラッセルがかつての恋人同士だったことも初めて知りました。レオンと別れたリタは、ドラマーのジム・ゴードンと付き合い始めますが、ジムの薬物中毒とアル中のおかげで暴行を受けて、また破局します。

このジム・ゴードン(1945~)という才能に溢れた天才ドラマーは、21歳にして、ビーチ・ボーイズの「ペット・サウンズ」のセッションにも数曲参加し、デレク&ザ・ドミノス=エリック・クラプトンのメンバーとして、アルバム「いとしのレイラ」レコーディングにも参加します。この表題曲の「いとしのレイラ」(クラプトンの親友ジョージ・ハリズンの妻パティへの隠れた求愛曲としても有名)では、ゴードンが作曲したピアノ曲を、最終章に無理矢理挿入したおかげで、このヒット曲のクレジットが「クラプトン=ゴードン」と明記されたのでした。

彼は、スタジオ・ミュージシャンとして引っ張りだこになり、解散したビートルズのジョージ・ハリスンのソロ・デビューアルバム「オール・シングズ・マスト・パス」やジョン・レノンの「イマジン」などのレコーディングに参加するほどの栄誉と名声も得ました。

しかし、若い頃からのアル中と薬物中毒の度合いが増長し、70年代後半には統合失調症も患い、ついには自分の母親を撲殺する大事件まで起こしてしまい、現在も収監中だとこの本には書かれておりました。

いずれにせよ、ヒット曲が生まれる縁の下では、こうしたプロ技能集団が支えていたとは…!いい勉強になりました。紅一点のキャロル・ケイも、ギタリストからベーシストに転向し、ビーチ・ボーイズの「ペット・サウンズ」のライナーノーツ(英文)を読んだら、しっかり彼女の名前がクレジットされていました。彼女はビーチ・ボーイズだったんですね。写真を見ても実に美人で格好良い!

この本の存在を教えてくれた松ちゃんには改めて感謝申し上げます。

この本に出てくる曲を知らない人でも、今はユーチューブがありますから、無料でその古い曲が聴けますから、参照しながら読めばいいと思います。便利な世の中になったものです。

【追記】実際レッキング・クルーが演奏していた名曲の数々!
1962年 クリスタルズ「ヒーズ・ア・レベル」
1963年 ビーチ・ボーイズ「サーフィンUSA」
ロネッツ「ビー・マイ・ベイビー」
1964年 ジャン&ディーン「パサデナのお婆ちゃん」
ディーン・マーチン「誰かが誰かを愛している」
1965年 ザ・バーズ「ミスター・タンブリンマン」
ママス&パパス「夢のカリフォルニア」
1966年 ビーチ・ボーイズ「グッド・バイブレーション」
ナンシー・シナトラ「憎いあなた」(原題は「ブーツは歩くために」)
1967年 スコット・マッケンジー「花のサンフランシスコ」
ゲイリー・パケット&ユニオン・ギャップ「ウーマン・ウーマン」
1968年 サイモン&ガーファンクル「ミセス・ロビンソン」
モンキーズ「素敵なバレリー」
1969年 フィフス・ディメンション「輝く星座」
サイモン&ガーファンクル「ボクサー」
1970年 カーペンターズ「遥かなる影」Close to you
パートリッジ・ファミリー「悲しき初恋」
1971年 カーペンターズ「雨の日と月曜日は」
ハミルトン、ジョー・フランク&レイノルズ「恋のかけひき」
1972年 カーペンターズ「パーティング・イーチ・アザー」
アルバート・ハモンド「カリフォルニアの青い空」
1973年 カーペンターズ「イエスタディ・ワンスモア」
1974年 バーブラ・ストライサンド「追憶」
1975年 グレン・キャンベル「ラインストーン・カウボーイ」
キャプテン&テニール「愛ある限り」

ビートルズのデビュー曲

京都・永観堂 by Kyoraku sensei (紅葉写真拝受賜り候)

関東地方は11月には珍しく雪が降り積もりました。

何やら、54年ぶりなんだそうですね。

54年前というと、1962年です。
1962年と言えば、ビートルズがデビューした年です。同年10月5日にデビューシングル「ラヴ・ミー・ドゥー」がリリースされました。

当時日本では全く話題になっていません。日本発売はその2年後です。

ということで、以下はビートルズ・フリークによるマニアックな話です。

1962年1月1日。日本ではお正月のお屠蘇気分でリラックスしている頃、リバプールの田舎町からロンドンに出てきた4人の若者が、デッカレコードのオーディションに臨みます。

メンバーは、ジョン、ポール、ジョージのほか、当時正式メンバーだったドラムスのピート・ベストです。このオーディションは録音され、今でも、ユーチューブで無料で試聴することができます。

其処には、多くのコメントが寄せられていますが、やはり、ピートのドラミングが全く合っていなくて、ビートに欠けています。デッカは、そのせいなのか、この四人組のバンドを落選させ、後に「世紀の大失敗」という汚名を歴史に刻んでしまいます。(これに懲りたデッカは、後にローリング・ストーンズと契約します)

そして、ビートルズは、マネジャーのブライアン・エプシュタインの奮闘で、6月6日にEMI傘下のパーロフォンという小さなレコード会社のオーディションに漕ぎ着け、漸くレコード・デビュー契約を果たすのです。

この際、やはり、プロデューサーのジョージ・マーチンは、ドラマーのピートが気に入らなかったのか、結局、同年8月に、ローリー・ストームとハリケーンズのメンバーで、リバプール一番のドラマーと評判だったリンゴ・スターを引き抜いて新生ビートルズを誕生させます。

その新メンバーによるデビュー曲「ラヴ・ミー・ドゥー」は9月4日に録音されます。それでも、ジョージ・マーチンは気に入らなかったのか、その一週間後の11日に、スタジオ・ミュージシャンのアンディ・ホワイトにドラムスを担当させ、リンゴはタンバリンしかやらさせてもらいませんでした。

9月4日に録音された「ラヴ・ミー・ドゥー」は、そのままシングル盤として発売されましたが、どういうわけか、翌年4月に発売されたアルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」に収録された「ラヴ・ミー・ドゥー」は、アンディ・ホワイトのドラムスの方が採用されました。

非常にマニアックな話でした(笑)。

ということで、ビートルズの「ラヴ・ミー・ドゥー」には3ヴァージョンあり、現在、ピート・ベスト版は「アンソロジー1」で、リンゴ版は「ビートルズ・パスト・マスターズvol.1」で、アンディ・ホワイト版は「プリーズ・プリーズ・ミー」で聴くことができます。

ビートルズ、ジェイソン・ボーン、成瀬巳喜男「旅役者」

哈爾賓西駅待合室  Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

◆過去1週間の閲覧数・訪問者数ランキングです。

《日付》     《閲覧数》 《訪問者数》 《ランキング》
2016.10.14(金)  613PV   327IP     2358位   /261万4333ブログ
2016.10.13(木)  315PV   149IP     8159位   /261万3783ブログ
2016.10.12(水)  371PV   183IP     6214位   /261万3252ブログ
2016.10.11(火)  450PV   183IP     7152位   /261万2690ブログ
2016.10.10(月)  449PV   167IP     1万109位  /261万2194ブログ
2016.10.09(日)  458PV   176IP     6513位   /261万1669ブログ
2016.10.08(土)  287PV   117IP     1万695位  /261万1173ブログ

昨日はついに2000位台にランキングされました!

消滅した「幻のブログ」は、過去800位台の3桁をマークしたことがあるので、もうすぐです(笑)。

でも、昨日は「ボブ・ディラン」という大物を見出しに取ったので、全く見ず知らずの「通りすがり」の方がアクセスしただけでしょう。

精進を重ねて、奉仕活動を続けて参りたいと存じまする。(真面目過ぎる!)

 哈爾濱西駅 和諧号  Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

渓流斎は映画好きで知られていますが、毎回見た映画を全て、このブログに取り上げているわけではありません。

例えば、ビートルズの46年ぶり公開映画「エイト・デイズ・ア・ウイーク」は、イタリア旅行から帰ってからすぐに見ました。この映画は、ビートルズがデビューした1962年からライブ公演をやめてしまう1966年8月29日の米サンフランシスコ・キャンドルスティック・パークでの最期のコンサートまでを追ったドキュメンタリーです。

私はビートルズ・フリークですから、あと2,3回は見る予定をしていますが、ちょっと、「第5のビートルズ」と言われたプロデューサーの故ジョージ・マーチンの息子のジャイルが音声の担当になっているようですが、ちょっと、いじり過ぎだと思いました。

つまり、ビートルズのライヴとして最も有名な1965年8月の米ニューヨークの「シェイ・スタジアム」公演をおまけで最後に上映してくれますが、ヴォーカルの音声が聴き取れなかったせいで、ヴォーカルの音をダビングするのは致し方ないにしても、演奏さえしていないギターの音を、恐らく他のライヴからかぶせて音をクリアにしているので、興ざめしてしまいました。あれは、違反じゃないかな…。

この映画について、若い音楽評論家が「ファンの熱狂があれほど凄いとは思わなかった」とラジオで感想を述べていましたが、「かわいそうに、何も知らないんだなあ」と哀れに思ってしまいました。(堂々と評論家を名乗っているので)。若いので無理もありませんね。ビートルズが演奏活動をやめたのは1966年、ちょうど半世紀も昔で、当時を知っている人は、今頃はもう還暦を過ぎてしまっているのですからね。

もう一つ、先週はシリーズもので9年ぶりに復活した「ジェイソン・ボーン」を観ておりました。これは、前作も前々作もシリーズ全て見ているので、愉しみにしていたのですが、今回は駄作で点数の付けようもありませんでした。

ただただ只管、拳での殴り合いとピストルでの殺し合い。そして、カーアクションと称する車の凄まじい破壊活動。筋もへったくれもあったもんじゃないです。

第一、CIA長官を殺害して何ともないという話も面妖。マット・デイモン扮するジェイソン・ボーンが何処にいようがコンピューターで突き止められるというのも陳腐で、大人の鑑賞に堪えられませんでした。

やはり、ハリウッド映画は、おこちゃま向けなんですかね?

 海の向こうは樺太  Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

昨夜は、本棚の奥から、「日本映画ベスト200」(角川文庫)が出てきてしばらく熱中してしまいました。1990年初版発行なので、もう26年も昔の本。映画人・著名人1000人のアンケートによる「わが青春の1本」を集計したものです。戦前の映画も挙げられていますが、その映画人・著名人は今では他界してしまった人ばかりです。時代を感じる本でした。

ベスト200作品の監督の上位は、黒澤明(「七人の侍」「生きる」など)と小津安二郎(「東京物語」「晩春」など)の二人が独占している感じでした。この二人を追うようにして健闘していたのが溝口健二(「雨月物語」「西鶴一代女」など)。以下、木下恵介(「二十四の瞳」「野菊の如き君なりき」など)、今井正(「また逢う日まで」「青い山脈」など)、今村昌平(「復讐するは我にあり」「黒い雨」など)が続き、私の好きな成瀬巳喜男(「浮雲」「流れる」など)は第10位でした。

(この成瀬監督について、溝口監督は「あの人のシャシンはうまいことはうまいが、いつも○○○○が有りませんね」と断定していたらしいので、椅子から落ちてしまうほど、ずっこけてしまいました=笑)

日本映画が黄金時代でカンヌやヴェネチアなどの国際映画祭で、数々の賞を受賞していたのが昭和20年代後半から30年代です。特に、黒澤・小津・溝口・成瀬は「四代巨匠」として名を馳せましたが、今見ても面白いですね。くだらないハリウッド映画を観る時間があれば、まだ見ていない彼らの映画を観てみたいと思いました。

そしたら、今はとてもいい時代になりました。ユーチューブで、著作権の切れた彼らの戦前の作品などが無料で観られるのです。

昨晩は、成瀬巳喜男監督の昭和15年の作品「旅役者」(藤原鶏太=釜足=主演)を観てしまいました。ある田舎町に「六代目菊五郎」が巡業に来るというので、山っ気のある床屋が興行師に投資したところ、「六代目菊五郎」は尾上でなく、中村菊五郎を名乗るドサ周りの田舎芝居の一座で、騙されたという話。主役の藤原鶏太は、一座で「馬の脚」役という設定で、ドタバタ喜劇といいますか、ドタバタ悲劇といった風合いで、ついiPhoneの狭い液晶画面なのに、1時間15分の映画を全部観てしまいました(笑)。

何と言っても、支那事変が始まっているとはいえ、太平洋戦争前夜の昭和15年。皇紀2600年。戦闘機「零線」がつくられた年に、こんな映画が公開されていたとは! 当時から、役者と言えば、「六代目」の名前が全国津々浦々に鳴り響いていたことが分かります。

76年前の映画なのに、画像が実に鮮明で、台詞がきれいですね。ヤクザ言葉でさえ、妙に格調があり、当時の日本人がこんな言葉遣いしていると思うと非常に感心してしまいました。(それに比べて、21世紀の現代若者は「disる」とか訳の分からない汚い言葉のオンパレードです)

ユーチューブで、日本の巨匠の映画鑑賞はお勧めですよ。

ウッドストックでは行われなかった!

Tokyoit

今、電車の中で、スマホで、うろ覚えで書いてますので、多くの記憶違いがあるかもしれませんが、その場合、後からドシドシ訂正、修正、改訂して直していくつもりです(笑)。

私の人生で最も輝かしい黄金時代の年を一つだけ挙げろ、と言われれば。そんなこと、後にも先にも誰にも聞かれませんが、私は躊躇なく、1969年を挙げます。

今、年表がないので詳しくは分かりませんが、この年は、東大安田講堂事件の年であり、米アポロ11号が人類史上初めて月面に着陸した年でもあります。(そんなことなかった、と為五郎さんは主張してましたが…)

また、私のフリークであるビートルズが最期のレコーディング・アルバム「アビイ・ロード」を発表した年です。(LPは擦切れるほど聴きました)

そして、何と言っても音楽史上に残るウッドストック・フェスティバルが開催された年でもあるからです。

このフェスティバルは映画化されて、私もその後、テレビか弐番館か、何処で見たか忘れましたが、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリンらの動く姿を初めて見て感動したものです。

ということで、最近、このウッドストックの「ディレクターズ・カット 25周年エディッション」の4枚組のDVDを、とうとうネット通販で買ってしまい、毎日少しずつ見ているのです。

25周年エディッションというと、1994年で今から22年も昔になります。当時、この4枚組DVDは、1万5000円ぐらいしましたが、今ネット通販では、その4分の1以下で買えましたので、知らぬ間に欲望がクリックしていたのです。おかげで、ネット通販の「ダイヤモンド会員」になりましたよ(笑)。

さて、このウッドストック・フェスティバルですが、私は知っているつもりでしたが、このDVDを見て、何も知らなかったことが分かりました。最初の2枚は、ワーナーが製作公開した映画をDVD化したものです。私がテレビか弐番館で見たやつです。当時としては破格の4時間ぐらいの映画でした。ザ・フーの「サマータイム・ブルース」なんか、この映画に触発されて、シングル盤(400円)を買ったと思います。

3枚目は、映画で公開できなかったグループの演奏などが収録されていました。当時、私の大好きだったクリーデンス・クリアーウォーター・リバイバル(CCR)がしっかり出演して「ボーン・オン・ザ・バイヨー」なんかやっていたんですね。映画ではカットされていて、出演していたこと自体知りませんでした。(このほか、ブラッド・スウェット&ティアーズ=BS&T=なども出演したらしいですか、このDVDにさえ収録されていませんでした)

そして、最後の4枚目が「メイキング」映像で、スタッフや出演者の証言集です。これが見ものでした。

◇ウッドストックの名前が欲しかった?

まず最初に、明確にしなければならないことは、歴史的事実として、約40万人もの大観衆を集めたといわれる「ウッドストック・フェスティバル」は、ニューヨーク市郊外のウッドストックで行われていなかったということです。(二転三転して、最後は49歳の酪農家マックス・ヤスガーのベッセルにある牧場で開催されます。ヤスガーは、周囲の反対を押し切って主催者に土地を貸したため、フェスティバル後は、村八分に遭い、やむを得ずその土地を売却し、その僅か4年後の53歳でフロリダ州で急死します)

私には、ニューヨーカーどころか米国人の友達がいないので分かりませんが、ウッドストックといえば、ニューヨーカーにとっては特別な響を持つようです。お金持ちの別荘がある避暑地であり、各国から画家や詩人らが集まる芸術村として。

日本で言えば、軽井沢か、清里(GHQのポール・ラッシュが開発)か、那須辺りだと言えば分かりやすいかもしれません。

しかも、ウッドストックは、池袋モンパルナスのような芸術村です。ボブ・ディランやジミ・ヘンドリックスらの別荘があり、画家の国吉康雄らも住んでいたとか。

さらに言えば、ウッドストックは、既に19世紀から開発されていた由緒ある避暑地で、ニューヨーカーなら誰でも知っているのでしょう。だから、主催者は会場がベッセルに変更されても、最後までウッドストックの知名度にこだわったのです。

「無言館」の館長でもある窪島誠一郎さんの最新著作にも、このウッドストック芸術村が出てきます。戦前に活躍した日系二世の画家の話で、彼は、米国共産党に入党し、諜報活動もしたと言われます。

彼の経歴は、まるで米国共産党から日本に派遣されゾルゲ諜報団で活動した沖縄出身の日系人宮城与徳と同じではないですか!

このウッドストック芸術村には、1929年の恐慌によって、街中に失業者が溢れる不景気の30年代、平等社会を目指すと言われた理想的なユートピアの共産主義思想にかぶれた芸術家もたむろしていたわけです。(実際は、粛清の嵐だったのですが)

◇伝説になったウッドストック

そもそも、主催者代表で総合プロモーターのマイケル・ラングは当時25歳の青年で、フェスティバルの収益でウッドストックにレコーディング・スタジオをつくるつもりで、はじめたらしいのです。

1969年当時、第二次大戦直後のベビーブーマーが20歳前後の青春真っ盛りで、ベトナム反戦運動やヒッピー文化やフラワームーブメントが頂点に達していました。

結局、世の中は変わることはありませんでしたが、「ラブ&ピース」を主張する若者たちの異様な熱気が伝説として残り、その後の社会や文化に影響を与え続けました。まさに、60年代の総決算に相応しい年でした。

ホセ・ラミレス欲しいなあ(笑)

こんにちは

暫行懲治叛徒法違反容疑で検挙された情野義秀です。

私は、多感な少年の頃、あまりイデオロギーだの政治思想だの、経済論だのといったものに興味がなく、只管、夢中になったのは音楽でした。

特に、レノン・マッカートニーやハリスンの名曲には、打ちのめされたといった表現がピッタリで、彼らに影響されてギターも独習し始めました。

最初に、ギターを手にしたのは13歳ぐらいの時で、安い1万円ぐらいのクラシックギターを両親から買ってもらったと思いますが、記憶が定かではありません(笑)。

とにかく、イヌ・アッチ・イケー教育テレビ「ギター教室」を見ながら、独習して、どうにか、「禁じられた遊び」は弾けましたが、「アルハンブラ宮殿の想い出」ともなりますと、最後まで弾けず、クラシックはギブアップしてしまい、フォークやロックギターに転向してしまいました。

しかし、最近になって、またまた、クラシックギターに懲りだしました。ボサノヴァが大好きで、見よう見真似でやっているだけですが、つい最近、驚くべき事実(私だけかもしれませんが)を発見しました。

ビートルズの最初の映画「ア・ハードデイズナイト」(1964年)の中で「アンド・アイ・ラブ・ハー」という名曲がありまして、ベースを弾きながら歌うポールの側で、ジョージがクラシックギターを弾いていますが、このギターが、スペインの世界的に有名な名器「ホセ・ラミレス」だったのです!

これが、今、「ジョージ・ハリスン・モデル」として、販売されているんですね。何と、44万8000円ですって!しかし、こんなんで驚いてはいけませんよ。「ホセ・ラミレス工場生誕125年記念エディッション」ともなりますと、な、な、何と400万円(税抜)もするのです。ギター1本の値段がでっせ、親分!

ホセ・ラミレスは、創業者のⅠ世(1858~1923)から、Ⅱ世、Ⅲ世、Ⅳ世と受け継がれ、現在5代目のアマリア・ラミレス(1955~)が女性頭領さんのようです。

こんな高価なギターは、勿論、買えませんけど、かつての「ギター小僧」だった私は、カタログを見ているだけで涎が出てきてしまいます(笑)。

「ノルウェーの家具」に決定!

JICAでお仕事をしていたANさんが今お住まい近くの「フランスの森」。バングラデシュで亡くなった日本人の方々は直接知らなくても、亡くなった方々が勤めていた会社の方はよく知っていたので、大変衝撃を受けたそうです。

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賢明なる読者諸兄姉の皆々様方におかれましては、私こと渓流斎が、にんどすさんという方と、コメント欄で、大論争を繰り広げていたことは、まさか、知らないとは言わせまい(笑)。

ビートルズが1965年に発表したアルバム「ラバーソウル」に収録されている「ノーウェッジアン・ウッド」という名曲にまつわる世紀の大誤訳の話です。(ジョージ・ハリスンが、師事したラヴィ・シャンカールにシタールを習い、ポピュラー音楽史上初めて、シタールが使われた名曲としても知られています)

当時の東芝EMIレコード宣伝部さんが「Norwegian wood」を「ノルウェーの森」というタイトルで売り出したおかげで、この誤訳のタイトルが日本では定着してしまい、その後、日本のベストセラー作家が、わざわざ同名タイトルで作品を発表し、映画化もされて、世界中でボチボチのヒット作になりました。

コメント欄では、歌詞の内容について、詳しく触れておりますので、ご興味ある方はご参照下さい。

で、私も、あれから、新たに調べてみたところ、偶然に以下のサイトにぶち当たりました。

「北欧インテリアは、ビートルズの時代がベストかも。」 ←こちらをクリック

これで、決定です。「ノーウェッジアン・ウッド」とは「ノルウェー家具」のことでした。このサイトにあるように、1950年代から70年代に掛けて、ノルウェー家具は、全盛期で英国にも輸入され、大人気だったようですね。

70年代以降は、北海で発見された油田の影響で、手作りの家具産業がノルウェーでは廃れてしまい、北欧家具のシンボルがスウェーデンやデンマークに移行してしまった、という話も説得力があります。

私も大好きなドイツのバウハウスに影響を受けたノルウェー人のハンス・ブラットルがデザインした木製椅子は、世界中でかなりヒットしたようです。

でも、「ノルウェーの家具」を作詞作曲したジョン・レノンの歌詞には「(部屋を)見回したら、椅子はなかった」と唄ってますね(笑)。恐らく、ジョンは「あの有名なハンス・ブラットルの木製椅子さえないじゃないか!」ということを言いたかったのかも?

世界中を旅している渓流斎ですが、残念ながら、ノルウェーには行ったことがありません。でも、先ほどのサイトには、日本に居ても、ノルウェーの雰囲気が味わえるカフェがあることが紹介されています。「フグレン・トウキョウ」です。本店は、ノルウェーの首都オスロにあり、ここは日本支店に当たるようです。

場所は、東京都渋谷区の代々木公園近く、昔よく通っていた天下の国有放送局イヌ・アッチ・イケーのそばです。地図を拡大して住所を見たら、何と、現在日本の最高権力者であらせられる方のご自宅そばなんですね。付近は、24時間警戒態勢を引いていることでしょうから、私のような体制に反感を持っている怪しいおじさんが行くと誰何されることでしょうね(笑)。

「フグレン・トウキョウ」には、もちろん、ノルウェー家具や調度品が供えられているようで、ノルウェー・コーヒーもあるそうです。ノルウェー料理もあるのかしら?いずれにせよ、行けば、ノルウェーに行ったような気分になれるのかもしれません。

いつかこの店に、ジョン・レノンのように下心を持って可愛いヘテロさんを誘ってみたいですねえ(笑)。