青い歯とは何ぞや?

 CDプレーヤーを買い替えた話をこのブログに書きました。最新機種なので、まだ使い方がよく分かりません。何しろ、それまでは中古の(恐らく、15年ぐらい前に作られた)MD付CDプレーヤーを使っていたので、最新技術についていけません(苦笑)。

 まず、電気業界の勝手な方針でMDプレーヤーは生産中止に追い込まれたのですが、その代わりにSDカードかUSBで録音できるようになりました。SDカードはあんまり好きではないので、32GBのUSBを購入し、試してみたところ、一応、CDの録音はうまくいきました。私としましては、語学(フランス語)のラジオ放送の予約録音をしたいので、いつか挑戦してみたいと思っております。

 もう一つ、Bluetooth 機能が付いていることを知りました。Bluetooth? 「青い歯」って何じゃい? 遅れて来たおじさんは、最新技術についていけません。説明書(旧いおじさんはマニュアルなんて言いません)を読むと、スマホと無線で接続できる機能らしい、ということで、早速試してみました。

 そしたら、簡単。直ぐにつながり、スマホのスポッティファイの音楽を掛けたら、CDプレーヤーのスピーカーから重低音の迫力のある音が流れて来たのです。

 こりゃあ、いい!

 何でも、食わず嫌いではいけませんね。

 

名倉有一氏の「恒石重嗣年譜」とモーツァルトの曲、何だっけ?

 在野の近現代史研究家で、NPO法人インテリジェンス研究所特別研究員の名倉有一氏から「恒石重嗣年譜」の資料が、メール添付で小生にも送られて来ました。579ページという膨大な資料で、おっ魂消ました。

 恒石重嗣(つねいし・しげつぐ、1909~96年)という人は、太平洋戦争中、陸軍参謀本部参謀(宣伝主任)兼報道部員として敵の戦意喪失を目的としてラジオの宣伝放送「ゼロ・アワー」「日の丸アワー」等を担当した元陸軍中佐です。謀略放送ということで、戦後、戦犯容疑でGHQに2年間で23回も出頭したといいます。東京ローズ裁判のからみや、捕虜を強制的に謀略放送に使った容疑だったようです。その後、出身地の高知市に戻り、不動産業などで生計を立てていたようです。陸士44期ということで、あの瀬島龍三と同期ですね。

 もし、御興味が御座いましたら、インテリジェンス研究所のホームページにも掲載されておりますので、そちらをご参照ください。

 恒石重嗣と同じ1909年生まれの文学者には大岡昇平、中島敦、花田清輝、長谷川四郎、太宰治、松本清張、まど・みちお、飯沢匡らがおり、多士済々です。

 さて、先日、CDプレーヤーを買い換えた話をこのブログに書きました。しばらく聴けなかったCDがやっと聴けるということで、喜び勇んでかけようとしましたが、曲名が分かりません。

 モーツァルトの曲です。「ジャガジャガジャガ ジャガジャガジャガジャ ジャッジャ チャラララッチャチャ」というメロディだけは鮮明に思い浮かぶのに、何の曲かさっぱり出てきません。でも、最初は高を括っておりました。ディヴェルティメントの何番かではないか、という薄っすらとした確信があったからでした。そこで、持っているCDの中の全てのディヴェルティメントを聴いてみました。が、どれも違う? ディヴェルティメント15番変ロ長調でもありませんでした。

 おっかしいなあ?それなら「管楽器のための協奏曲」かな?ということで、フルート協奏曲やホルン協奏曲やオーボエ協奏曲など手当たり次第に聴いてみましたが、どれも違います。モーツァルトはわずか35年の生涯でしたが、作品は厖大です。K626と言われていますが、ジャンルも交響曲、室内楽から宗教曲、オペラまで作曲しています。まさに大天才です。

 そっかあ、もしかして、私の頭の中でグルグルと回っている「ジャガジャガジャガ ジャガジャガジャガジャ ジャッジャ チャラララッチャチャ」という旋律は交響曲39番だったかなあ?ということで聴いてみましたが、これも違いました。ああ、もう分からん、ということで奥歯に物が挟まった感覚でしたが、この日は諦めました。

 それが、一日経った本日、「もしかして、ヴァイオリン協奏曲かもしれない」と急に思い当たり、これまた持っているCDを手当たり次第に聴いてみましたら、やっと見つかりました。「ヴァイオリン協奏曲第4番ニ長調」の第1楽章アレグロでした。

 私が文字で示した「ジャガジャガジャガ ジャガジャガジャガジャ ジャッジャ チャラララッチャチャ」というメロディが出てきますよ(笑)。

 この曲を聴くと凄く元気が出ます。

【追記】2023年9月10日(日)

 渓流斎ブログの愛読者であるYさんから連絡があり、思い出せない曲があったら、グーグルの「鼻歌検索」があるので、試してみては如何ですか?と教えてもらいました。早速、チャレンジしてみましたが、あまりにも鼻歌が下手くそで音痴なのか、うまく行きませんでした。

 でも、iPhoneを使って、CDで曲をかけながら「この曲何?」と聞いたところ、曲名だけでなく、交響楽団名からヴァイオリン奏者まで提示し、そのCDが買えるサイトまで辿り着けるようになっていたのです。これには吃驚。

CDプレーヤー、また買いました

 昨日は、個人的にあまりにも色んなことがあり過ぎて、ブログの更新も出来ませんでした。またまた、個人的なことを書きますので、ご興味のない方は、この先は、無理してお読みにならなくて結構です(苦笑)。

 まず、昨日は木曜日でしたが、家族の御見舞い面会の予約が取れましたので、会社を休みました。そしたら、一緒に面会に行く予定だった親族がコロナの陽性になってしまったということで、ドタキャンです。結局、一人で行くことになりました。

 面会は午後3時でしたので、午前中空いていました。どうしようか、と思っていたところ、結局、近く、とは言っても、自転車で15分掛かるアウトレットまで、CDプレーヤーを買いに行くことにしました。

 とうとうCDプレーヤーまで壊れてしまったのです。この機器はMDプレーヤーも付いていて、もうMDプレーヤーは生産中止されて市場には出回っていないので、苦労してネットで探して前に使っていたものと同じ機種を中古で購入したものでした。2021年4月のことです。2万5980円もしました。それが、わずか8カ月後の同年12月にMDが使えなくなりました。そのまま我慢して使っていましたが、今度は、CDプレーヤーが使い物にならなくなりました。4~5日前のことですから、2023年9月のことです。修理に出してもいいのですが、中古品で保証書もないし、結局、修理代がまた高くつくことでしょう。中古とはいえ、購入してわずか2年5カ月しか持たなかったことになります。(ちなみに前のMD付CDプレーヤーは12年ぐらい持ちました)

 今回の機種は、ソニー製で結構売れている機種のようでした。残念ながらMDプレーヤーは付いていませんが、USBかSDカードでCDとラジオを録音できるようです。何と言っても、値段が2万2240円だったのです。中古のCD/MDプレーヤーより安いじゃありませんか。しかも滅法、軽いし、小型化され、音質は以前の機種より上回っておりました。

 何で急に、思い立ってCDプレーヤーを買うことにしたのかと言いますと、ローリング・ストーンズが18年ぶりにニューアルバム「ハックニー・ダイアモンズ」を10月にリリースするという記事を読んだからでした。私は旧い世代ですから、ストリーミングとかネット配信より、やはりCDでライナーノーツを読みながら聴く派です。プレーヤーが壊れていては、聴けませんからね。ストーンズのCDは、もう18年も前になる2005年の「ア・ビガー・バン」を含め、1963年のデビュー以来のアルバム殆ど全部私は持ってます。それに、アウトレットのポイントが2860円も溜まっていたので、期限切れになる前に使おうと思ったのでした。

 今回、ちょっと懲りたので、1112円をポイントで支払って、CDプレーヤーの修理保証期間を1年間から5年間に延長しました。

レモンタルト1200円

 午後3時の家族のお見舞い面会の後、自宅近くにかき氷専門店があるというので初めて行ってみました。週末はかなり人が並んで入れないという人気店ですが、さすがに平日の夕方は空いていました。人気一番の「レモンタルト」を注文しましたが、量の多さには圧倒されました。氷がまろやかで、ふわふわ、今まで食べて来た歯にジャリジャリと絡むかき氷は、何だったのか? と思わされるほどでした。でも、個人的には量が多過ぎで、夜はちょっと苦しみました(笑)。

北八ヶ岳

 最初に、個人的に昨日は色んなことがあり過ぎた、と書きましたが、それはメールが殺到していたということでした。まずは、本日金曜日、何年かぶりに飲み会を銀座の「ライオン」で計画していたのですが、台風13号が関東地方にも上陸するということで、「帰りの電車が止まったら困るんじゃないか」という反対意見で、結局延期になりました。そんなメールのやり取りが何通も続きました。

 そんなんで気を取られていて、しかも、会社を休んでいたので、会社の共通メールをチェックしていなかったら、夕方になってとんでもないメールが殺到しておりました。一つは、パソコンのプリンタを変更することになったので、明日10時にパソコンの設定も変更します、といった連絡でしたが、もう一つは、会社の同僚が、もういい年なのに、地方支局に転勤するという不可解な人事でした。そして、もう一通は、違う同僚が来月にも長期治療入院するという話でした。

 「衆人監視」のブログなので、詳細は書けませんが、「えっ?どゆこと?」という話ばかりで、頭が混乱してしまいました。

 以上、昨日、ブログを更新できなかった言い訳でした(笑)。

老兵は死なず、ただ消えゆくのみ=または余生の過ごし方

 これでも、小生、20年以上昔はマスコミの文化部の記者をやっておりましたから、最先端の文化芸術に触れ、多くの芸能人や作家、画家、文化人の皆様にインタビューもさせてもらいました。ですから、文化関係の分野でしたら、一応、何でも知っているつもりでした。某有名女優さんとは手紙のやり取りまでしておりました。いえいえ、別に自慢話をするつもりではありません。

 それが、急に文化部を離れ、テレビもほとんど見なくなってからは、全く何もかもワケが分からなくなりました。正直、情報過多もあるでしょうが、最新流行にはついていけなくなったのです。最も人気が高かったAKB48も、ジャニーズの嵐も、グループ名はかろうじで知っていても、そのメンバーとなるとさっぱり分からなくなりました。ま、覚えようとしなかったのでしょう(苦笑)。

 今でもそれに近い状態が続いています。テレビに出るような女優、俳優、歌手なら、昔は大抵ほとんど知っていたのに、最近では「この人、誰?」ばっかりです。文芸作家は、毎年2回の芥川賞と直木賞で量産されるので、やはり、「えっ? こんな作家さんいたの!?」です。漫画となると、何百万部、何千万部と売れているという噂は聞きますが、私は読まないので門外漢です。かろうじてタイトルだけ知っている程度です。

銀座「ひろ」1000円ランチ 前菜 「赤字覚悟でやってます」と店主。

 しかし、悲観すること勿れ。人間の頭の構造がそうなっているんでしょう。特に流行音楽なら、誰でも、10代から20代の多感な時に聴いた音楽がその人の一生の音楽になるのでは?小生が子供の頃、テレビで「懐かしのメロディー」といった番組があり、東海林太郎や三浦洸一(現在95歳!)、渡辺はま子といった往年の歌手がよく登場していました。両親は涙を流して熱心に聴き入っていましたが、少年の私はさっぱりついていけず、世代間ギャップを感じたものでした。歳をとると、今度は我々が世代間ギャップを若者たちから糾弾される番になってしまいました。

 私は洋楽派だったので、多感な時代は、ビートルズやローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリンばかり聴いていましたが、フォークソングのブームだったので、吉田拓郎やかぐや姫なども結構聴いていました。でも、今の若者は、「四畳半フォーク」なんて、辛気臭くて絶対聴かないでしょうね(笑)。逆に言わせてもらえば、今のラップやらDJやら、我々は、とてもついていけませんが。

銀座「ひろ」1000円ランチ 銀座で一番安いのでは?

 先日、久しぶりに東京・国立劇場で中村京蔵丈の舞台「フェードル」を観て、遅く帰宅したら、たまたま、天下のNHKがMISAMO(ミサモ)という三人組のガールズグループのライブショーをやっていました。勿論、見るのも聴くのも初めてです。名前から、そして顔立ちから、韓国人か中国人かと思いましたら、どうやら、韓国の9人組の多国籍グループ、TWICEの中の日本人サブユニットだということが後で分かりました。ビールを片手に少し酔って見ていましたが、「アラビアンナイト」に出て来るような、かなり性的刺激の強いダンスグループで、天下の国営放送によく出演できたなあと思ってしまいました。若い人は平気かもしれませんが、正常な性的羞恥心を害される(猥褻の定義)と言ってもいいかもしれません。それに、出演しているのが民放ではなく、NHKですからね。時代は変わったなあ、と思いました。(否定はしませんよ。皆さんと同じように、嫌いじゃありませんから=笑)

 老兵は死なず、ただ消えゆくのみ Old soldiers never die, They just fade away

 6年8カ月間、日本を占領したGHQのダグラス・マッカーサー司令官(元帥)が退任に当たって、米議会で演説した有名なフレーズです。流行について行けなくなった今、私の頭の中で、このフレーズが再三、響き渡ります。

 でも、まあ、ええじゃないか、ええじゃないか、です。今は動画サイトがありますから、無理して背伸びして若者たちに媚を売ったりせず、1960~70年代の好きなロックやボサノヴァを見たり、1950年代の黄金時代と言われた日本の全盛期の黒澤明や溝口健二や小津安二郎や成瀬巳喜男の映画を見て余生を過ごせば、それでいいじゃん。

動画に振り回されて三千里=御自分の時間を大切に

 電子情報技術産業協会(JEITA)は昨日20日に、今年1~6月の薄型テレビ出荷台数が前年同期比12.2%減の212万9000台ということで、2001年以降、上半期として過去最低となったと発表しました。

 その主な原因について、若年層を中心にスマートフォンなどでの動画視聴が主流となってきているため、と分析しておりましたが、その通りなんでしょう。ズバリ、若者たちがテレビを見なくなったということです。新聞や雑誌の部数低迷はスマホにやられましたが、メディア界天下一を享受していたテレビ業界もついにスマホ動画の軍門に降ったことになります。若い人がテレビを見なくなったということは、将来、視聴者がもっと減っていくということになります。

銀座・スペイン料理「エスペロ」

 スマホ動画というのは、YouTubeなどのことでしょうが、確かに、最近では、三流のプロデューサーがつくり、三流タレントが出演するテレビ番組より、面白い動画が増えました。動画制作者は素人だったのが、セミプロになり、何十万もアクセスを誇るプロになり、テレビに逆進出する人も増えました。

 とにかく、内容がマニアックなものが多いので、好奇心旺盛な人にとっては好都合です。私自身も先日、ピアノソナタの「新約聖書」といわれるベートーヴェンのピアノソナタ全32曲の演奏者から見た難易度ランキングの動画サイトを発見してしまい、つい見てしまいました。

 私は、かのヴィルヘルム・ケンプのベートーヴェンのピアノソナタ全集のCD(グラモフォン)を随分昔に購入し、今でもたまに聴くのですが、「悲愴」「熱情」「月光」以外はどうも難し過ぎて、触手が湧かなかったというのが正直な感想でした。でも、この動画を見ると、32曲が全て異様に魅力的になり、弾けはしませんけど、楽譜を見ながら再聴したくなるのです。

 この動画に出演されている女性は、ハンドル名で登場し、略歴等も分かりませんけど、恐らく、有名音大のピアノ科を卒業された現役のピアノ教師さんだと思われます。このハンドル名を検索して他の動画を見てみると、彼女は、かなり多くの動画を制作していることが分かりました。最初の頃は、本人の「口から下」しか写されず、いわゆる「顔出しなし」でした。どんな女性が話をしているのか想像を逞しゅうされます。それが、何本か、何十本か制作するうちに、覚悟が出来たのか、堂々と「顔出し」で登場されるようになりました。かなりの美人さんでした。ただし、よおく喋る人で、服装は暗めのキッチリとしたスーツ姿です。

銀座之曽良

 そして、何カ月後なのか細かいことは分かりませんが、お召しになられる服がだんだんと明るくなり、ついにノースリーブの胸を強調した路線になっておられました。天下無敵、自信満々です。お堅いクラシックの教養講座が一転して、ラップのノリノリになった感じです(※個人的な印象です)。

 いやあ、これは、テレビには出来ない「演出」ですねえ(笑)。世の興味津々なおっさんたちが、こぞって銀蠅のようにこの動画にたかるでしょうね。そう気が付くと、何か醒めてしまいました(苦笑)。

 動画に振り回されずに、自分の残された時間を大切に生きなければいけない、と思い直しました。

作曲家村井邦彦氏と中村吉右衛門とは親友だったとは=日経「私の履歴書」

  私は音楽好きなので、今、日本経済新聞で連載中の「私の履歴書」の作曲家「村井邦彦さんの巻」を毎日楽しみに読んでおります。昨年12月の指揮者の「リッカルド・ムーティの巻」も大変興味深かったでしたね。特にムーティ若き頃、バーリ音楽院で同校の校長を務めていたニーノ・ロータと出会い、指揮を習ったことがあったことが書かれていて本当に驚きました。ニーノ・ロータは私も大好きな「太陽がいっぱい」などの映画音楽も多く作曲した人だったことは、以前このブログにも書きました。色んな人との繋がりがあり、人との御縁が成功の道に導かれることを垣間見た感じでした。

 扨て、今月の村井邦彦さん(1945~)ですが、この方も素晴らしい友人に恵まれたお蔭で大家となったことが読んでいて分かりました。大変失礼ながら、村井さんについて、私自身は、歌謡曲の作曲家というお名前程度で詳しく知りませんでした。

 歌謡曲は今では全く聴かなくなりましたが、小中学生の頃はよく聴いていたものでした。そしたら、村井邦彦氏の代表作が、ちょうどその頃に私が聴いていたヒット曲とドンピシャリ合っていたのです。テンプターズの「エメラルドの伝説」、ピーターの「夜と朝の間に」、赤い鳥「翼をください」、辺見マリ「経験」、トワエモア「虹と雪のバラード」(1972年札幌冬季五輪のテーマ)等々、みーんな、村井氏の作曲だったのです。「え?あれも?」「これも?」てな感じです。

 しかも、調べてみたら、村井邦彦氏がそれらのヒット曲を量産していたのは、まだ20歳代前半の若造(失礼!)だったのです。またまた、「しかも」と書きますが、大学は慶応の法学部と畑違いで、正式な音楽教育を受けていないような感じなのです。どこで、作曲なんか学んだのか? 色んな疑問を持ちながら読んでいくと、毎日面白い逸話にぶつかります。

銀座

 特に、2月5日(日)に掲載された連載5回目「吉右衛門こと波野君 生涯の仲」には吃驚してしまいました。村井氏は、一昨年に亡くなった歌舞伎俳優二代目中村吉右衛門こと波野久信さん(1944~2021年)とは暁星学園(フランス語必修のカトリック系中高一貫男子校)の同級生で、しかも、彼とその兄昭暁(てるあき=二代目松本白鸚)氏の3人でジャズ・トリオのバンドを組んだことがあったというのです。白鸚さんがドラム、吉右衛門がベース、村井氏は独学でマスターしたピアノだったといいます。ラジオの文化放送で演奏がオンエアされたこともあったといいますから、まさに「へー、知らなかったあ」です。村井氏と吉右衛門は生涯、家族ぐるみの付き合いだったそうです。

 私自身はかつて、歌舞伎の取材で吉右衛門丈には大変お世話になったことがあり(そして大好きな役者でした)、実兄の松本幸四郎丈(当時)とはあまり仲が良くなく、「二人は共演はしない」という噂を聞いていたので、まさに、驚いてしまったわけです。

 村井邦彦氏は、中学生時代からヌーベルバーグ映画とモダンジャズに魅せられ、「スイングジャーナル」誌を定期購読し、高校1年の時、同誌に載っていた「ジャズ演奏 生徒募集」の広告を見て応募し、そこでサックスの吉本栄さんから譜面の読み方などを学び、またそこで知り合った慶応高校生からの誘いで、慶応の「ライト・ミュージック・ソサイエティ」(ジュニア版)というジャズオーケストラに参加するようになり、音楽の基礎をみっちり学んだたようでした。

 やはり、村井氏も人との出会いと御縁で、運が開けていった感じです。(この先を読むのが楽しみです。)

本当に懐かしいサン=サーンスと「アルルの女」

 本日の読売新聞を読んでいたら、空木慈園著「サン=サーンスをもう一度」という本の広告が目に入って来ました。大変失礼ながら、この本に興味を持ったわけではなく、「サン=サーンス」の名前です。本当に懐かしい。

 今でこそ、ほとんど聴かなくなりましたが、もう半世紀以上も昔の私が小学生時代、毎日のように聴いたものです。東京郊外の小学6年生。当時、私は、代表児童委員会委員長兼放送部の部長で、お昼に2、3人と一緒にレコードを掛ける「係り」を仰せつかっていました。この時、曲を紹介するDJ役もです。放送室に給食を運んで、曲の合間に食事しますが、当時は「特権」のような感じで嬉々として楽しんだものでした。

 曲は、演歌や流行歌やジャズやロックは御法度でした(笑)。やはり、子どもの情操教育に相応しいクラシックです。その中でも、ベートーヴェンやマーラーやシュトックハウゼンのようなちょっと肩肘を張って聴くような曲ではなく、レストランのBGMのような小品です。その代表が、サン=サーンスだったのです。

 「初めにお聞かせするレコードは、サン=サーンスの『白鳥』です」

 サン=サーンスと言えば、「白鳥」。この曲を何度掛けたことでしょうか。

 他に、覚えているのは、レハールのワルツ「金と銀」、そしてエルガーの「愛のあいさつ」(チェロ演奏)、ヨハン・シュトラウス「美しき青きドナウ」、グリーク「ペールギュント」組曲「朝」…。これらも毎日のように掛けていました。今では、YouTubeで検索すれば、簡単に聴くことができますね。今の小学生諸君は、どうしているのでしょうか? やはり、ダウンロードした曲をそのまま流したりしているのかなあ?

東京・一ツ橋

  そう言えば、思い出しました。下校時刻になると、放送部員は、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」のラルゴ(家路)を掛けるのも仕事でした。

 「下校時刻になりました。用のない生徒は早く家に帰りましょう」

 それでも、帰らない生徒に対しては、

 「運動場の鉄棒近くでおしゃべりしている生徒、早く家に帰りましょう」

 などと、偉そうに注意したものです。

 私の通った小学校は廃校となり、今では影も形もありません。こうして、思い出だけが残っています。

東京・一ツ橋

【追記】

 あんりまー。下校時に掛けた音楽を「ドヴォルザークの交響曲第9番『新世界より』のラルゴ(家路)」と書きましたが、大間違いでした。これは、中学校の時の下校音楽でした!

 では、小学校の時の下校音楽は何だったのか?思い出したら、メロディーが浮かんで来ました。でも、曲名が分かりません。そこで、小学校時代の同級生Gさんに聞いてみました。私が下手なピアノでメロディーを演奏して聴いてもらいました。しかしながら、彼女も思い出せません。

 最後の手段。スマホで「クラシック、フルート、名曲」で検索してみました。その通り、フルートの名曲だったからです。そしたら、何曲か候補が出てきましたが、そのリストの中で直ぐピンと来て、やっと思い出しました。

 ビゼーの「アルルの女」組曲の「メヌエット」でした。

 サン=サーンスよりもこっちの方が胸に沁み渡り、涙が出るほど懐かしくなりました。

 音楽は童心にかえらせてくれます。

戦後ジャズブームに日本敗戦と米軍占領が欠かせない

 NHKの回し者ではありませんが、今夏のテレビの戦記物特集は、やはり、NHKが量質ともに圧倒して見応え十分でした。特に8月6日放送の「侍従長が見た 昭和天皇と戦争」(元海軍大将の百武三郎侍従長の「側近録」)と8月15日放送の「ビルマ 絶望の戦場」(牟田口廉也司令官によるインパール作戦失敗と敵前逃亡。ビルマ戦線での戦死者総計16万5000人。幹部連中のみ夜ごと芸者を揚げての宴会三昧。木村兵太郎ビルマ方面軍司令官の兵士置き去り敵前逃亡。商社日綿ラングーン支店長に「あとは宜しく」)は圧巻でした。

 それに比べ民放は…。タレントを露出して有名にして、有名を「信用」と錯覚・洗脳させ、CMに出演させてモノを売って稼ぐ「電波貸し」ビジネスに忙しく、視聴率の取れない戦記物なんぞ、やるだけ無駄といった感じでした。

東銀座「エッセンス」 アジフライ定食1200円+アイスコーヒー=1300円

 NHKはラヂオも充実していて、今、スマホアプリ「らじる★らじる」の「聴き逃しサービス」で、カルチャーラジオ 日曜カルチャー「クレイジーキャッツの音楽史」(全4回)にハマっています。お話は、音楽評論家の佐藤利明さん。この方、1963年生まれということですから、60年代のクレイジ―キャッツの全盛期をほとんど知らないはずなのに、今は音源も映画DVDもYouTubeもありますから、「遅れて来た青年」として追体験し、異様な執念でクレイジーキャッツの全てを調べあげています。(生前のメンバーにもインタビューしています)

 私は、50年代生まれですから、クレイジーキャッツ全盛期のど真ん中で、「シャボン玉ホリデー」や映画「無責任男」シリーズで育ったようなものです。それでも、佐藤さんの話を聞いていると、知らなかったことばかりで、「さすが音楽評論家」と感心したものです。

 クレイジーキャッツは、コミックバンドではありますが、もともとは正真正銘のジャズマンです。しかも、メンバーは大卒のインテリが多く、中には東京芸術大学(安田伸、64歳没)や早稲田大政経学部(桜井センリ、86歳没)出身者もいます。植木等は三重県の寺の住職の子息(父徹誠は、真宗大谷派僧侶で、戦時中、戦争反対を訴え、何度も投獄された)で東洋大卒。普段の人柄は、ニコリともしない超真面目人間だったというのは有名です。

 クレイジーキャッツは当初、キューバン・キャッツとして、1955年4月、萩原哲晶(ひろあき)とデューク・セプテットのハナ肇(工学院土木科中退、63歳没)と犬塚弘(徳川家康直参の旗本の家柄。文化学院卒、現在93歳)が中心になって結成されますが、メンバーの入れ替えを経て、1957年までにフランキー堺とシティースリッカーズの谷敬(後に谷啓、中大中退、78歳没)と植木正(等、80歳没)らも加わり、1960年には石橋エーターロー(青木繁の孫、福田蘭童の子息、東洋音楽学校卒、66歳没)が結核療養で代役となった桜井センリを加え、7人のメンバーが固定します。

 クレイジーキャッツの最大のヒット曲は「スーダラ節」ですが、作詞が青島幸男(早大卒、74歳没)、作曲がクラリネット奏者だった萩原哲晶(東京音楽学校、後の東京芸大出身、58歳没)。この名コンビが、クレイジーキャッツの名曲を生みだします。ミュージシャンの大瀧詠一が「クレイジーキャッツは日本のビートルズだ」と評したらしいですが、ロックとコミック音楽とジャンルは違っても1960年代を代表するミュージシャンとしては共通したものがあります。となると、青島幸男=萩原哲晶はレノン=マッカートニーみたいなものと言えるかもしれません。(「無責任一代男」「ハイそれまでよ」「ゴマスリ行進曲」などはこのコンビ。萩原哲晶は、前田武彦作詞で「エイトマンの唄」まで作曲していたとは!)

 佐藤利明さんの「クレイジーキャッツの音楽史」が何で面白いのかと言いますと、単なる音楽史に留まらず、戦後文化史になっているからです。何で、戦後になって、日本にジャズブームが起きたのか? 一言で言えば、日本が戦争で負け、米軍に占領されたからです。米軍は兵士の慰問のため、北海道から沖縄まで、駐留米軍基地に娯楽施設を作りました。そこでジャズを演奏すると、高額なギャラが貰えるということで、若者が楽器を習得して殺到します。その中で、メキメキと腕をあげてプロになる若者も出ます。クレイジーキャッツはその代表かもしれませんが、テナーサックスの松本英彦、原信夫とシャープ&フラットや萩原哲晶とデューク・オクテットなど米軍基地にお世話にならなかったバンドはありません。アイドルグループ「ジャニーズ」をつくったジャニ―喜多川もそうですし、後に裏方のプラダクションに回って「ナベプロ」を創業する渡辺晋(とシックス・ジョーンズ)らもそうです。

 その渡辺晋がナベプロをつくったきっかけは、1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効されたため、日本駐留の米軍基地が縮小されたためでした。同時に娯楽施設も封鎖され、日本人のジャズマンも基地での仕事を失うようになったからだというのです。

 この話を聞いて、「なるほどなあ」と思いました。日本の戦後音楽史には、敗戦と占領期の米軍進駐とジャズが欠かせなかったという話には、実に、目から鱗が落ちるような思いでした。日本は戦時中は、敵性音楽は禁止していましたからね。もし、日本が勝っていたら、浪花節と都々逸と軍艦マーチの世界だったかもしれません。

ザ・ビートルズBlu-ray「ゲットバック」セッション感想

 1週間の病気療養生活で、本は読めないし、寝てばかりいられなかったので、ちょうど購入したばかりのBlu-ray3枚組「ザ・ビートルズ:Get Back」(ウォルト・ディズニー・ジャパン、7月13日発売、1万6500円)を時間を分散して見ていました。

 1969年1月2日から31日にかけて収録された「ゲットバック」セッションで、約60時間の映像と約150時間の音声を、新たに7時間47分間のDVD3枚組に編集したものです。既に昨年、ネットで配信されて話題になりました。

 私はネットの有料会員ではないので、DVD化されればいつか買うつもりでしたが、私のようなビートルズ・フリークから言わせてもらえれば、やはり、Blu-ray3枚組1万6500円は高過ぎるし、長過ぎる。普通の人なら、映画「レット・イット・ビー」で有名になったルーフトップ・コンサートが入った3枚目(2時間18分)だけで十分だと思います(バラ売りしないでしょうが)。

 会社の同僚の勧めで、DVDセット(1万3200円)ではなく、より画質が鮮明なBlu-rayセットを選んだので、53年以上昔の映像なのに昨日撮影したばかりのような驚くべき鮮やさです。デジタル・リマスター技術の進歩のおかげでしょうが、驚嘆するしかありません。

 今更説明するまでもありませんが、「ゲットバック」セッションは当初、レコーディングの様子やライブ演奏を収録してテレビ番組のために撮影されたものでした。ライブ演奏会場は当初、古代劇場だったり、テレビスタジオだったりしましたが、中止になり、結局、ロンドンのアップル社の屋上になりました。4人は激しく意見をぶつけ合い「空中分解」となり、ジョージが途中で「脱退宣言」してスタジオに顔を出さなくなったりします。

 当初は、「ゲットバック」アルバムとして、春にも発売する予定でしたが(私は、当時中学生で、「ミュージックライフ」誌に、ニューアルバム「ゲットバック」の広告が掲載されていた事を覚えています)、「お蔵入り」となり、夏に、ビートルズとしては最期のレコーディングとなった「アビイ・ロード」の方が先に秋に発売され、お蔵入りになっていた「ゲットバック」は翌70年に映画「レット・イット・ビー」のサントラ盤(フィル・スペクターによるアレンジ)として発売され、同年4月にビートルズ解散(ポール脱退)も発表されます。

 話が前後した、随分マニアックな話でした。

 ということで、このセッションではビートルズの初期のカバー曲や新曲が完成する前のラフな状態や試行錯誤が伺えるわけです。アルバム「レット・イット・ビー」収録曲は勿論、「アビイ・ロード」に収録される「オー!ダーリン」や「マックスウェルズ・シルバー・ハンマー」のほか、後に各自ソロになってアルバムに収めることになる「テディ・ボーイ」「バック・シート」(ポール)、「ギミー・サムシング・トゥルース」(ジョン)、「オールシングズ・マスト・パス」(ジョージ)までありました。これらは大体、3年後の1971年に発表される曲でしたから、随分早い段階で試作品が出来ていたことを初めて知りました。

 もう一つ驚いたことは、この作品を撮ったマイケル・リンゼイ=ホッグ監督が大御所かと思っていたら、メチャクチャ若いのです。BBCのポップス番組「レディ・ステディ・ゴー」のディレクターだったことから抜擢されたらしいのですが、1942年生まれということでポールと同い年。当時、まだ26歳です。(髭を生やしたポールは、40歳過ぎに見えます。)

 もっとも、有名なプロデューサー、ジョージ・マーチンも1926年生まれですから、この時、まだ42歳です。実に若かったんですね。

 また、空中分解しかけたところで、辛うじて「繋ぎ役」となったオルガン奏者のビリー・プレストンは1946年生まれですから、当時まだ22歳です!(リトル・リチャードのバックで弾いていたビリーがビートルズと初めて会ったのが16歳だったとは!2006年、59歳で病死されたことは返す返すも残念です)

 扨て、やっと感想文です(笑)。これは、病身で見るべきではありませんね。気分が落ち込みます。映画「レット・イット・ビー」が公開された時、中学生だった私は、東京・新宿の武蔵野館で朝から晩まで4回も見続けた覚えがあります。当時は入れ替え制度がなく、席も「指定席」以外自由だったからです。その後も何十回もこの映画は観ているので、内容は知り過ぎてはいるのですが、ここまで酷いとは思いませんでした。

 特に、今の時代では考えられないくらい彼らもスタッフも四六時中、煙草を吸いっぱなし!神聖な職場だというのに女(とはいっても恋人や配偶者)を連れ込み、特にジョンは遅刻魔で前半はほとんどやる気なし。ポールの独裁的な態度は強引で、ジョージがついにキレて行方をくらます始末です。呆れた事に、ワインやアルコールを飲みながらのレコーディング。会話も実に下品で野卑なのです。「ゲットバック」の歌詞に出て来る「カリフォルニア・グラス」が「カリフォルニアの大麻」のことだったとは!

 あの大天才モーツァルトに嫉妬したと言われるサリエリだったら、こんな感想を述べるかもしれません。

 「奴らは何て、下品で野卑なのでしょう。それなのに、奴らが生み出すメロディといったら天使から遣わされたような天衣無縫の旋律。あんな下ネタ好きで、酒や煙草はのみ放題。隠れてラリッているに違いない。不良少年がそのまま大人になったようで、社会の常識に染まろうとはしない。そんな野卑で下品な人間が天上の音楽を紡ぎ出すとは、神は如何にも不公平に人間を作りたもうたことか」

 それでも最後の「ルーフトップ・コンサート」は圧巻で、全ての悪や災いを帳消しにしてくれる感じです。ビートルズの音楽は鮮明な映像とともに、これから100年後も1000年後も人類の歴史が続く限り、繰り返し聴かれることでしょう。

奇跡のような音楽セッション=ジョージさんのお導きで

 昨日は、またまた奇跡のようなことが起きました。この渓流斎ブログにかなりの頻度でコメントをお寄せ頂いている小澤譲二氏(以下ジョージさん)からお誘い頂き、初対面ながら彼の友人の自宅で行われた音楽セッションを見学して来ました。

 まずあり得ませんよね?(笑)。

 いくらブログにコメントをお寄せくださる方でも、書かれていることが真実かどうか確かめようがありません。ですから、いくら招待されたからと言っても、ノコノコとついて行くのも大胆不敵、というかマヌケです。

JR高輪ゲートウェイ駅

 でも、このジョージさんは、毎回、コメントでかなり御自分のプライベートなことを微に入り細に入りご報告くださり、そのせいか、全員が簡単に読むことが出来るブログの「コメント欄」にアップするのは憚れました。それでも、大変正直そうな方に見え、大変な音楽好きなセミプロで、一時期、一世を風靡したゴダイゴのタケカワユキヒデさんとも御関係があるというので、これも何かの御縁、ということで、出向くことにしたのです。

 人生、縁と運ですからね。

 ジョージさんの御祖父は、横浜の貿易商として来日した英国人でした。小学校から高校まで横浜のインターナショナル・スクールに通い、大学はICU(国際基督教大学)です。ICUと言えば、私の小中学校時代の友人の三由君の母校でもあり、授業は英語だったと聞いたことがあります。かなりレベルの高い大学です。

 ジョージさんの自己紹介によると、小学校から大学のICUまでクラスメートだったジョニー野村さんと大学でバンドを結成し、その際、ヴォーカルに同じ大学の奈良橋陽子さんを迎えたといいます。後にジョニーさんと奈良橋さんは結婚します。この二人は、業界では知る人ぞ知る有名人で、ジョニーさんは、音楽プロデューサー、奈良橋さんは、ハリウッド映画のキャスティング・プロデューサーなどとして活躍します。

 二人は、大学時代のESSで、後に俳優になる中村雅俊さん(慶応大学)やタケカワユキヒデさん(東京外国語大学)らと知り合います。そこで、ジョニーさんは、旧友でゴールデンカップスで活躍していたミッキー吉野さんをタケカワさんに紹介して、あのゴダイゴ結成に繋がったといいます。ゴダイゴは「銀河鉄道999」や「ガンダーラ」などヒット作を連発します。

 また、奈良橋さんの方は、トム・クルーズ主演の映画「ラスト・サムライ」(2003年)のActing Producerとして渡辺謙らを抜擢して大ヒットさせます。

 奈良橋さんは現在も演出家、劇作家、作詞家などとしてご活躍されていますが、ジョニー野村さんは、昨年(2021年)、惜しくもセブ島の自宅で亡くなりました。行年75歳。

 ゴダイゴのタケカワさんは、私の大学の先輩で、しかも、私も在籍した同じ音楽クラブの先輩だったという浅からぬ御縁がありました。もっとも、大学のキャンパスでは一度もお会いしたことがなく、見るのはテレビのブラウン管を通してでした。彼は、外語大に行かずに、ICUばかり通っていたことが分かりました(笑)。

気温35度という炎天下のため、都心なのに、人影もまばら

 さて、ジョージさんとは2020年に出来たばかりで、私も生まれて初めて降りるJR高輪ゲートウェイ駅の改札で待ち合わせしました。初対面のジョージさんは意外と小柄な方だったので驚きました(とはいえ、170センチはあると思いますが)この時、ジョージさんのICUの同級生で、C&Wバンドのプロ(キーボード)になった西村さんと、横浜のインターナショナル・スクール出身でヴォーカルのメアリーさんを紹介されました。

 西村さんは以前、吉祥寺に住んでいた時、近くにゴダイゴのタケカワさんも住んでいて、あの名曲「ガンダーラ」を、ミッキー吉野さんらと一緒に作曲している途中経過の場面に遭遇していたエピソードを後で伺い、これまた吃驚しました。

 音楽セッションをやる会場は、ジョージさんの古くからの友人の営ちゃんの自宅マンションの一室でした。もう50年近く住んでいるということでしたが、地下鉄泉岳寺駅から数分ですから、かなりの高級マンションでした。営ちゃんは、立教大学出身で、学生時代にテレビの「エレキ合戦」に出演して決勝まで進んだとかいう伝説の持ち主でした。

JR高輪ゲートウェイ駅

 マンションには、もう一人、営ちゃんの立教大学の後輩で一緒にバンドをやっていたメンバーの一人で、サックス奏者の全ちゃんもいらっしゃいました。これで全員ですが、初対面の方ばかり一気に5人ですから、こんがらがってしまいました。普通の人だったら臆するところでしょうが、私は人と会うのが仕事でしたから、辛うじて大丈夫でした。

 皆さん、私より年長の70歳代でしたから、ジョージさんのギター、西村さんのキーボードのセッションでやる曲は、ポール・アンカとかフランク・シナトラとか、エディット・ピアフとか、ディーン・マーチンとか、かなり古いのです。私の青春時代の音楽は背伸びしても1960年代の洋楽ポップスですが、先輩方の青春音楽は1950年代でした(笑)。でも、名曲ばかりで、「若造」の私でよく知っている曲で、昼間からビールを飲みながら、一緒に口ずさむことができました。

 2時間ぐらいでお暇しましたが、やはり、奇跡のような出来事でした。

 ※肖像権がありますので、渓流斎ブログではあまり顔写真はありません。