ジャニー喜多川さん亡くなる

Copyright par Duc de Matsuoqua

長年、ジャニーズ事務所を率いてきたジャニー喜多川さんが亡くなりました。享年87。

父親が真言宗の僧侶で、布教のため渡米したため、ジャニーさんはロサンゼルス生まれ。ビートルズがデビューした1962年、30歳の時に芸能事務所を設立して、多くの男性アイドルを育てたことは周知の通り。熱中したアイドルの名前を言えば、女性の歳がバレてしまう、とまで言われました。

私のような古いおじさん世代は、ジャニーズからフォーリーブスぐらいまで。このあとの光GENJIだのたのきんトリオだのV6だのSMAPだの嵐だの名前を知っている程度。アイドルはオネエちやんに走ってしまいました(笑)。

ジャニーさんには、若い男の子の才能を見抜く独特の感性と鑑識眼がありました。これは天性の才能なので一代限りでしょう。タレントがさまざまなスキャンダルに見舞われても、事務所がビクともしなかったのは彼の功績です。

これだけの功績を挙げながら、「裏方」に徹して、マスコミ嫌いで知られ、殆どメディアには登場しませんでした。私も芸能記者時代、広報担当のSさんを通じてメリー喜多川さんには会えましたが、ジャニーさんとは会えませんでした。

WTナショナルギャラリー Copyright par Duc de Matsuoqua

インタビューに応じても、顔写真の撮影は厳禁。だから、野球帽をかぶりサングラスを掛けた「配り写真」ぐらいしか新聞やテレビに出てこないのです。(共同通信配信の素顔の写真はありましたが)

ザッカーバーグのフェイスブックとは真逆の人生哲学ですね。ヒトは世間に顔を晒してすぐ有名になりたがりますが、ジャニーさんは、派手な芸能界とはいえ、自分は演出家であり、プロデューサーという職業を自覚して、裏方に徹しました。その点は大変尊敬します。

僧侶だったお父さんの影響もあったのかもしれませんね。

ということで、ジャニーさんの御尊父が僧侶として修行された真言宗総本山高野山に、これから行って来ます!(羽田空港にて記憶で書きました。「ユー、やっちまいな」)

ショパンの何という曲だったか・・・?

 6月29日付のこのブログで、ポーランド映画「Cold War あの歌、2つの心」の感想文を書きました。

 実は、その中で、映画中に引用されていた、恐らくショパンだと思われるピアノ曲の題名がどうしても思い出すことができず、ブログでは「ショパンの作品」と誤魔化していたのでした。(後で、直しておきましたが=笑)

 私の趣味といえば、音楽ぐらいでして、お小遣いも本かCDばかり買っていた時期がありました。音楽のジャンルは、ロックからポップス、クラシック、ジャズ、ボサノヴァと洋楽中心でしたが、幅広く聴いて、レコードも集めていました。だから、映画に使われるクラシックやポップスなら何の曲か、大抵分かります、と書いておきます。(ついでに、「Cold War」のエンディング曲で使われたのは、グレン・グールド演奏のバッハの「ゴルドベルク変奏曲」に間違いないと思います)

 勿論、ショパンも何枚か持っています。映画を観た後、家に帰って、ショパンのピアノ曲ならタイトルぐらい簡単に分かると高を括くりながら、確認のために、自分の持っているCDをかけまくりました。当初その曲は、エチュードの「革命」か、ポロネーズの「軍隊」かと思い込んでいたのですが、どうやら違うようでした。

 そこで、ポリーニ演奏の「ポロネーズ」「エチュード」「マズルカ」、ポゴレリッチ演奏の「前奏曲」「ノクターン」、そして、ホロヴィッツ演奏の「ショパン・ピアノ曲集(ワルツ、スケルツォ、バラード、即興曲)」を何時間かかけて聴きまくりましたが、どうしても見つかりません。ブログはこうして苦労して書いているのです(笑)。

Copyright par Kyoraque-sensei

 最後の手段として、音楽大学を出て、ピアノ教師をやっていたGさんです。彼女に「この曲、タイトルは何?」と聞くことです。ものの数秒で答えが返ってくると思ったのでした。でも、どう伝えるか?

 頭の中で浮かんでいる例の曲を口ずさんでみましたが、我ながら音痴で、音程が取れず駄目でした。仕方がないので、ラルゴかレントのサビの部分だけ、ギターで弾いてみて、それを録音添付してメールで送ってみました。

 で、結局、私の伝え方が悪かったのか、答えは「よく分からない。お役に立てず、ごめんなさい」でした。実は、私が送ったメールは彼女に届いたのですが、彼女からの返信はどういうわけか私には届かず、再度、電話で確かめてみたのでした。

 電話で、いろいろやり取りして、下手に口ずさんでいくうちに、彼女は「それなら『幻想即興曲』かもしれない…」と言うのです。

 その曲が入ったCDは、家になかったので、ユーチューブで確認しました。…なあんだ、その通り。ごめいさん、「幻想即興曲」でした。ショパンは39歳の若さで亡くなりますが、この曲は死後、出版された遺作でした。プロでも難曲と言われる弾くのにとても難儀する曲でした。でも、大変な名曲です。 タイトルを思い出す間、この曲は、ずっと私の頭の中を回っていました。なかなか思い出せないので、歯がゆくてしょうがありませんでした。

 Gさんから、最近、小生の書くブログは難しくて、ついていけない、なんて言われちゃったもんで、今日はこんな脱線した話で誤魔化しました(笑)。

リキー宮川と新倉美子 ジャズこそがすべて

 インターネットは、若者向きかと思いきや、意外と中高年の皆様にも役立ちます。

 私もその一人(笑)。その理由の一つが、最新流行に付いていけなくなってしまったことがあります。特に音楽なんか、今の流行歌には全くついていけません。中でもラップなんか駄目ですねえ。しっかり、メロディーがないと心に染み渡ってくれません。

 でも、最新の流行歌についていけなくても、ネットの発達のお蔭で、以前はとてもレコードが手に入らなかったり、聴けなかったりした昔の音楽が簡単に聴けるようになり、恩恵を受けてます。昔は「音」だけしか聴けなかったのに、今では、動く姿、まさに「動画」まで見ることができますからね。ネットのお蔭です。

 最近、特に熱中しているのがジャズ・ヴォーカルです。先日も、このブログで1950年代に活躍したジュリー・ロンドンを取り上げましたが(CD買っちゃいました)、この間(3月9日)、また、NHK-FMの番組「世界の快適音楽セレクション」(毎週土曜、午前9時から放送)で初めてその存在を知ったジャズ歌手、リキー宮川(1911~49 )にはまってしまいました。
 この人の経歴について、あまり詳細に分かりませんでしたが、米シアトル生まれということから、日系2世なのでしょう。昭和8年に来日し、9年にコロムビア専属として歌手デビュー。その後、ダンサーとして知られるマヌエラこと山田妙子と結婚し、その後離婚。「ダイナ」「夢見る心」など多くのジャズを吹き込んだほか、「すみれ娘」(1935年)など多くの映画にも出演したようです。戦時中は南方戦線の暗号解読に駆り出されたといわれてます。

 あるサイトを見ていたら、彼は戦後も日劇のレビューなどで活躍しますが、「昭和24年に非業の死を遂げる」とだけ書かれていました。逆算すると、享年38か39ですから、事故か事件か何かだったのかもしれません。

 その話より、私は以前から、個人的に昭和初期に興味を持っていることは、このブログの熱心な読者の皆様も御存知だと思います。昭和初期と言えば、金融恐慌に始まり、軍部の台頭、大陸進出、テロ事件の横行と、何か、不穏で不自由な暗黒時代だとばかりを連想しておりましたが、いったん、芸能に目を向けてみると、案外庶民はしたたかで、「エロ」「グロ」「ナンセンス」が流行ったり、モボ、モガたちが銀座の並木道を闊歩したり、自由を謳歌していたんですね(ただし、戦況が悪化してからは、隣組で密告したり、「欲しがりません勝つまでは」で大変な時代だったでしょう)

 敵性言語だった英語が禁止され、野球も「セーフ」が「よし」に変えられたり、敵性音楽のジャズ演奏も禁止され、ディック・ミネも三根耕一と改名させられたり、大変な時代になりますが、それ以前の昭和初期は、かなりジャズが流行っていたことが分かります。

 リキー宮川も、軍部台頭もテロ横行も知っていたのか知らずにいたのか、大変失礼ながら、 かなり「能天気」な歌唱法です。聴いているだけでホノボノしてしまいます。「世帯を持つなら」という曲の歌詞も「箱根飽きたら熱海 熱海飽きたらまた箱根」などとどうでもいいことを照れずに歌っております。後世の人間から見ると、信じられませんね。案外、平和も戦争も紙一重だということかもしれません。

 それにしても、昭和初期は、明治に開国してまだ60年しか経っていないというのに、貪欲に西洋の文物を吸収して、ジャズ演奏もホンマモンと比較しても遜色ないほどの技術力があり、驚きです。日本人って努力家というか、器用なんですね。

 著作権の関係がよく分かりませんので、すぐ削除してしまうかもしれませんが、リキー宮川の顔が分かるように、その代表曲「世帯を持つなら」を下に引用しておきます。

リキー宮川

 リキー宮川を検索したりして遊んでいたら、偶然、新倉美子(しんくら・よしこ、1933~)というジャズ歌手を「発見」しました(笑)。

 勿論、私より一回り先輩の世代なら御存知でしょうが、私は全く知りませんでした。英語の発音はネイティブ並み。歌もうまいし、超美人。この人、どういう人なのかと思ったら、新国劇の辰巳柳太郎(1905~89)のお嬢さんだったんですね。新東宝映画「青春ジャズ娘」「娘ごころは恥づかしうれし」など30数本に出演していました。「 昭和26年にデビューし、昭和32年に結婚を機に引退」とありましたから、道理で私は知らないはずです。物心ついた頃は引退していたからです。

 当時は絶世の人気を誇ったというのに、忘れ去れてしまうんですね。儚いですね。(私だけが知らないのかもしれませんが)

 でも、ネットが発達したおかげで、今ではこうして、彼女の姿を見ることができ、そういう意味では良い時代にまで長生きできたと言えるかもしれません(笑)。

 下は、東京キューバン・ボーイズとの「マイアミビーチ・ルンバ」を引用させて頂きます。映画の一場面のようです。当時は、日本でも「マンボ」や「ルンバ」が大流行していたんですね。

新倉美子

 今の最新流行歌を聴いても、まったくつまらないのに、ルンバやマンボなどこういう昔の曲を聴くと、ウキウキしてきて、血湧き、肉が踊ってしまいます(笑)。(こちらも、「引用」ですが、著作権の関係で削除される可能性があります)

ジュリー・ロンドンはお好き?

 最近のお気に入りの音楽番組は、毎週土曜日の午前9時からゴンチチがDJを務めているNHK-FMラジオの「世界の快適音楽セレクション」です。

 クラシック、フォーク、ジャズ、演歌、ワールドミュージックなど驚くほど幅広いジャンルの音楽を選曲してくれて、「音楽通」を自称する私も聴いたことがない曲ばかりですが、ゆったりとした気分にさせてくれます。

 これだけ幅広い音楽知識を持った選曲者は誰なのかなあ、と思ったら、藤川パパQ、湯浅学、渡辺亨の著名な音楽評論家3氏だそうです。

 先日(2日)、この番組を途中から聴いていたら、とても魅力的な女性ヴォーカルで、心がとても穏やかになりました。朝に聴くというより、夜、仕事から疲れて帰って来て、自宅でくつろいだ時に、癒されるような音楽でした。

ジュリー・ロンドン

 曲が終わって、タイトルは、ジュリー・ロンドンの「メランコリー・マーチ」という曲だと紹介されました。ジュリー・ロンドンは名前だけは聞いたことがありますが、彼女の歌はあまり聴いたことがありません。でも、レコード店で、彼女のジャケットを見て、容姿は知っていました。とても、肉感的なセクシーさを売り物にしている感じでした。

 若い頃は、ハードロックやメタルロックをジャンジャン聴いていましたが、年を取るとだんだんうるさくなって、ついて行けなくなってきました(苦笑)。今は、ボサノヴァが一番好きですし、ゆったりとした音楽の方が心が静まります。

 最初、「メランコリー・マーチ」というタイトルを耳だけで聞いて、「憂鬱な行進曲」とは変なタイトルだなあ、と思っていたら、「哀愁の3月」という意味だったんですね。番組では3月にちなんだ曲を特集していたわけです。

 ジュリー・ロンドン(1926~2000)も英国人かと思ったら、芸名で本名はゲイル・ペック。米カリフォルニア州出身で、もともとは女優さんだったようです。(1944年「ジャングルの妖女」でデビュー)道理でスタイルが良く、美貌に恵まれていたわけです。一度は芸能界を引退しますが、55年にアルバム「彼女の名はジュリー」を発表してジャズ歌手と女優業を再スタートして、この中の「クライ・ミー・ア・リバー」がヒットして一躍人気者になったようです。

 いずれも、私が生まれる前の出来事でしたので、知りませんでした(笑)。でも、「クライ・ミー・ア・リバー」はさすがに聴いたことがありました。彼女はセクシー路線で売り出したせいか、ジャケット写真が凄い。まるで、「プレイボーイ」誌のピンナップガールのようです。あの格好は、恐らく、当時の流行の最先端だったのでしょう。1926年生まれといえば、あのマリリン・モンローと同い年だったのですから。

 昨日の昼休みは、久しぶりに、銀座の「山野楽器」に行って、このジュリー・ロンドンの「メランコリー・マーチ」の入ったCDを買おうと思いましたが、なかなか見つからず、結局、諦めて帰って来てしまいました。

 あとで、ウチに帰って、ネットで調べてみたら、「カレンダー・ガール」というアルバムに収録されていることが分かりました。1月から、どういうわけけか、13月までをテーマにした13曲が収録されていました。

 これを読んだ諸先輩の皆々様は「何を今さら、ジュリー・ロンドンなんて言ってるんだ!」と訝しがることでしょうが、私の親の世代が全盛期だったので、私自身はよく知らなかったのです。今聴いても、とても新鮮で癒される気分になるので取り上げさせて頂きました。

 若い頃は、ジャズは、爺むさくて、敬遠していたのですが、年を重ねるとだんだん身に染みて好きになってきました。特にヴォーカルがいいですね。以前は、チェット・ベイカーのアルバム「シング」をよく聴いていましたが、これから、女性ヴォーカル代表として、ジュリー・ロンドンを聴いてみることにします。(でも、女性ヴォーカリストは、やはり、エラ・フィッツジェラルドが最高かな?)

 

 

ジョン・レノンの靴が有名なテニス・シューズだったとは!

 皆様、御案内の通り、小生はビートルズ・フリーク、特にジョン・レノンのファンなのですが、先日の読売新聞夕刊に出ていたジョン・レノンの靴の話は、知らなかったので、とても興奮して読んでしまいました。

 ビートルズ最後の録音アルバム「アビイ・ロード」は、世界で最も有名なジャケットの一つです。英ロンドンのアビイ・ロード・EMIスタジオの前の横断歩道をビートルズの4人が歩いているカットです。あたしも若い頃、わざわざ現場に行って横断歩道を歩きました(笑)。先頭のジョンは、純白の上下スーツに白いスニーカー(運動靴)。2番目のリンゴは、黒いスーツに黒い革靴。3番目のポールは、濃紺の上下スーツに裸足。4番目のジョージは、上下紺のデニムにクリーム色の靴というイデタチです。

 「アビイ・ロード」は、日本では1969年10月21日に発売されました。確か2500円。父親に買ってもらいました。あれから50年ですか…。もう半世紀も大昔になるとは!レコードですから、針で擦り切れるほど、ソニーのインテグラという当時発売されたばかりのコンポーネント・ステレオで何度も何度も飽きずに聴いたものです。

当時、「ポール死亡説」が流れ、このアルバムのジャケットでポールが裸足で、後ろに写っている車(VWビートル)のナンバーに「26IF」とあったことから、「もしポールが生きていたら26歳だった」とこじつけられたり、先頭のジョンは牧師、リンゴは会葬者、ジョージは墓堀人の象徴と言われたりしました。

今回は、その話ではなく、ジョンの白いスニーカーの話でした。この運動靴、ただの運動靴ではなく、フランス・パリで1936年に創業されたスプリング・コートというブランドの「G2クラシック・キャンバス」というテニス・シューズだったのです。宣伝文句によると、「シンプルなデザインで、バネのように跳ねる履き心地と機能」を持つそうな。

 テニスの四大トーナメントの一つ、全仏オープン(1891年スタート)はクレイコート(赤土)ですから、そのコートに合うように開発された靴でした。

 もちろん、ジョンはその履き心地の良さと機能性を知って買ったことでしょう。何となく嬉しくなってしまいました。

 インナーに特殊クッションがあり、靴底はラバー(ゴム)。1965年に発売されたビートルズの6枚目のアルバム「ラバー・ソウル」(「ミッシェル」「ガール」など収録)は、「ゴムのようなソウル・ミュージック」rubber soulと、「ゴム底靴」rubber soleを掛けたタイトルでしたから、ジョンはもうその頃からこの靴を愛用していたかもしれない、というのは考え過ぎなんでしょうね(笑)。

 1969年1月30日のいわゆる「ルーフ・バルコニー・セッション」(映画「レット・イット・ビー」で公開)でも、ジョンは白っぽいスニーカーを履いておりますが、これもスプリング・コートだったのかどうかは不明です。

ちなみに、日本では2015年からカメイ・プロアクトが総代理店契約を結んでいるそうで、価格は1万800円ぐらいで販売されているようです。いや、別に宣伝するために書いたわけではなく、この会社をよく知っていたので驚いてしまったからです。私の親族が一昨年、この会社に入社しましたが、理由があって、1年も経たないうちに辞めてしまったのです。銀座にも直営店舗があるので見に行ったりしました。どんな会社なのか調べたりもしました。

 何か、色んな繋がりがあったので、ついつい興奮して書いてしまいました。

「私は、マリア・カラス」は★★★★

 映画「私は、マリア・カラス」(トム・ヴォルフ監督)を観てきました。彼女が出演した過去の公演フィルムや本人のテレビ・インタビューなどを繋げて編集したドキュメンタリー映画でしたが、見終わって、哀しい気持ちになりました。

 マリア・カラス(1923~77)は、説明するまでもなくオペラ歌手で、「世紀のディーバ」「20世紀最高のソプラノ歌手」などと称賛される一方、「気位が高い」「気分屋ですぐ公演をキャンセルする」などの悪評もあり、毀誉褒貶の多い人だった気がします。

 私の親の世代なので、彼女の現役時代は、ちょうど私が子どもの頃から大学生の頃だったので、海運王オナシスとのスキャンダルなども極東に住む異国の子どもの耳に入っておりました。でも、まだ53歳の若さでパリで急死したことは、私は大学生だったのに、フォローしていなくて、あまり覚えていないんですよね。

莫大な富と揺るぎのない名声を獲得しても、あっけないものです。いずれにせよ、若い頃はオペラ鑑賞など高くて観に行けるわけがなく、レコードも高くて手に届きませんでした。つまり、マリア・カラスの名声だけは聞こえてきても、私にとっては雲の上のそのまた上の存在で、たまに、NHK-FMラジオで、彼女のアリアを聴くぐらいでした。

 でも、この映画を観て、初めて彼女の苦悩が分かりました。ドタキャンも、心因性にせよ、身体性にしろ、体調不良でまともに声が出なくなったことが原因だったらしく、事情を知らない音楽記者や評論家らの非難や激しいバッシングに彼女はどんなに心に傷を負って、耐えてきただろうかと同情してしまいました。

 人間ですから当然かもしれませんが、若い頃から中年、壮年になるにつれて、まるで別人のように彼女の人相がどんどん変わっていくのには驚かされました。晩年になり、高音域がだんだん出にくくなって、発声練習に時間を掛けなくてはならなくなった焦りみたいなものまで顔に表れていました。

 彼女は確かに天才でしたが、この映画を観ると、芸術家というものは何と不幸なんだろう、と思ってしまいました。こうして、彼女の暗い面ばかり見てしまいましたが、「トスカ」の「歌に生き、恋に生き」にせよ、「ジャンニ・スキッキ」の「私のお父さん」にせよ、映像を見ただけでも彼女の最盛期の歌声はまさに比類なきもので、その巧さは空前絶後という感じがしました。それだけが唯一の救いといえば、救いでした。

10年ぶりに旧友と再会できました

 今年のお正月の初詣は、自宅近くと実家近くなど3社もお参りしてきました。そのうち、自宅近くで引いたおみくじは「小吉」。吉だから良かったと思って、読んでみたら、「過信禁物」だの、「慎重に行動せよ」だの、「謙虚になれ」だのと、まるで「凶」に近いようなお達しを受けてしまいました(苦笑)。

 さて、1月5日の土曜日のことでしたが、都内某所で、実に10年ぶりに旧友の上森君と再会することができました。

 何でそれまで会わなかったのかについては、すべて向こうの都合でした。こちらが一生懸命に会う機会をつくっても、当日の朝になって急に、電話が掛かってきたり、メールが来たりして、色々な理由でドタキャンになってしまうのでした。その理由とは、自分自身の体調不良やインフルエンザ、親戚の病気見舞い、家族の急病、その他諸々です。

バルセロナ・サグラダファミリア教会

 10年間会わなかったということは、その驚異のドタキャンが5回や10回どころか、50回ぐらいはあったということです(笑)。これだけドタキャンが続けば、普通なら呆れて諦めますね。「何か、自分は悪いことでもしたのだろうか」などと猜疑心も起こります。でも、私は辛抱強く連絡を取り続けました。が、とうとう限界が来ました。昨年になってもうすっかり冷めてしまったのです。「もういいや。やめにしよう。いくら約束してもドタキャンされる。彼とはもうこのまま一生会うことはないだろう」と心の中で決めました。他の友人たちの中には、彼のことを「引き籠り」だの「対人恐怖症になった」と言う者もおりました。

 一番気の置けない友人なのに、しかも、仕事でもなく、ただ遊びで会うだけなのに、理由がさっぱり分かりませんでした。彼に余程の事情があるのだったら、もう無理強いする必要はないのではないか、と諦めたのでした。

バルセロナ市街

 それが、昨年末から急に潮目が変わってきました。ようやく、彼の口からプライベートな悩みについてほんの少しずつだけ打ち明けてくれるようになったのです。その中でも最大の肝になっている家族が抱えている借金問題の核心についてまで告白してくれたのです。

そのことについて話したせいか、彼は、今度、彼の自宅近くの居酒屋兼レストランで会ってもいいという話になったのです。勿論、もう50回もドタキャンされ続けてきたので、どうせ今回も直前になって連絡してきてドタキャンするのだろう、と覚悟していました。

 そしたら、珍しく、当日朝になっても電話もメールもないのです。彼の自宅近くまで、電車とバスを乗り継ぎましたが、車内でも半信半疑でした。

このブログの1月3日にも「今年は個人的にも色々ありそうで、旧友との交際が復活しそうだ」といったようなことを書きましたが、長らく音信不通だった根岸君と連絡が取れるようになったことに続いて、やっと上森君とも再会することができたのです。

バルセロナ・サグラダファミリア教会

10年ぶりに再会した彼はすっかり、顔の筋肉が弛み、色白で、やつれてしまっておりました。自身が病気を抱えているせいもありますが、ほとんど運動どころか歩いたりもしていないので、脚力は衰え、お婆さんのように、小さな簡易乳母車のようなものを曳いてやって来ました。

居酒屋兼レストランで、ビールやワインを飲みながら3時間ぐらい話をしたでしょうか。上森君は、自身の病気と親の介護、そして莫大な借金という三重苦を抱えて地獄の苦しみだという話を告白してくれました。特に、莫大な借金については、親御さんが認知症になる寸前に契約してしまった甘い投資話で、養護施設に投資すれば、社会貢献にもなり、1年で最低10%の還元もでき、一石二鳥だという神奈川県藤沢市の詐欺師に騙されたというのです。

冷静に考えれば、今時、マイナスの低金利時代、10%のリターンなど、ほとんどありえる話ではなく、本当に冷静に考えれば、そんな詐欺話に引っかかることはないのですが、親御さんは認知症気味で判断力も落ち、口八丁手八丁の男に騙されてしまったというのです。当然ながら、民事裁判にもなったらしいのですが、結局、昨年、彼の親御さんの方が敗北してしまったようでした。

バルセロナ市街

まあ、こういうイザコザを抱えていたので、彼も水臭いですが、友人と会う気がしなかったのかもしれません。こちらも、カルロス・ゴーンではないので、彼の親御さんの借金の肩代わりをすることを出来るわけでもなく、黙って話を聞いてあげるしかありませんでした。

上森君とは高校時代のバンド仲間で、一緒にビートルズの曲などを演奏したり、酒を飲んだりして楽しんでいた仲でした。そのビートルズですが、彼らがロンドン・アップル本社の屋上で、バンドとして最期のライブ演奏した「ゲットバック・セッション」(この模様は、翌1970年公開の映画「レット・イット・ビー」で披露されました)が行われたのが、1969年1月30日のことでした。ということは、あれから、ちょうど50年、半世紀もの歳月が流れたわけですね。

えーーー、本当かあ???です。半世紀なんてあっという間だったんですね。同時代を生きてきて、その時間の流れの速さに圧倒されるとともに、全く信じられない気持ちです。「10年ひと昔」と言い、上森君とも10年ぶりに再会しましたが、この10年も一瞬前の出来事のように速かった気がします。

 私自身もこの10年の間、大病したりして色んな事がありましたが、時の流れの速さには今さらながら、驚愕せざるを得ませんでした。

「ボヘミアン・ラプソディ」は★★★★★

 久し振りに映画を観てきました。伝説のバンド、クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」(ブライアン・シンガー監督作品)です。

当初は全く観るつもりはなかったのですが、あまりにも話題が先行したため、つい、観ざるを得なくなってしまったのです。それに、やっと昨日、仕事納めで解放され、気晴らしに映画でも観ようかと思ったら、ほとんどお子ちゃま向けで、他に観るのがなかったからでした(苦笑)。

 なぜ、クイーンの映画を最初観るつもりはなかったのかと言いますと、その理由の第一が、クイーンは、1970年代、私が学生の頃に全盛期だったため、新譜が出る度にLPレコード(CDさえなかった)を買い集めて熱中したからでした。1974年頃に、ラジオで「キラー・クイーン」を初めて聴いて、「何て、洗練された面白い曲なんだ」と感動してすっかりファンになってしまいました。この曲は、彼らの3枚目のアルバム「シアー・ハート・アタック」に入ってましたから、それ以降の新譜を発売の度に買っていたのですが、その前の彼らの2枚目のアルバム「クイーンⅡ」は、大学の同級生の熱烈なファンの女の子から借りたことを思い出しました。(その後、CDを買い揃えましたが)

 さすがに、バンドでコピーするのはとてもレベルが高すぎて、あのフレディ・マーキュリーの美声は誰にも真似できるものではなかったでしたね。

だから、ドキュメンタリーならともかく、どんなそっくりさんが演じようが、作り物の映画は観る気がしなかったのです。フレディがバイセクシュアルで、最期にエイズで45歳の若さで亡くなってしまう「物語」は、同時代人として共有してきましたし、当時の私は、クイーンに関しては音楽誌や評伝なども読んでましたから、自分の知らない物珍しい話などないと思ったからでした。それは、ブライアン・メイのギターは手作りのカスタムメイドだといった類の話ですが、随分傲岸不遜でしたね(苦笑)。

富士山 Copyright par Duc de Matsuoqua

 しかし、観た途端、すっかり40数年前の昔の若い頃に戻ってしまい、鳥肌が立って、年甲斐もなく感涙してしまいました。映画では、フレディ・マーキュリーを中心に回ってましたが、フレディ役のエジプト系米国人俳優ラミ・マレックがなかなか健闘し、魂が入ってましたね。もう、そっくりさんとは言わせないとばかりの迫真の演技で、フレディ本人にさえ見えてきてしまいました。

スペイン・バルセロナ・サグラダファミリア教会

大変失礼致しました。クイーンを全く知らない若い世代が競って観ているというのは、やはり、時代を超えた共通の何かがあり、映画作品としても完成度が高かったということなんでしょうね。

でも、最後まで見てて、辛くなってしまいましたね。フレディは、若い頃から容姿で「パキスタン野郎」と差別され、何と孤独で不幸だったんだ、と単純に思ってしまいました。それが、スーパースターになってしまった代償だとすれば、あまりにも厳しくて切ない話です。

家に帰って、手元にあったクイーンのアルバムを久しぶりに聴きまくりました。最近は、落ち着いたベートーベンの弦楽四重奏曲ばかり聴いていたので、ロックはもう重くて聴けなくなっていたのですが、映画を観たせいで、激しいリズムとビートが心の奥深くに染み渡ってしまいました。

山田耕筰、豊富な人脈を持つ巨人

一昨日10月8日に「山田耕筰 歌曲集」を取り上げたところ、不思議なことに、ブログに書けるほど(笑)の情報が集まってきました。

まずは、山田耕筰の人となりはー。

山田耕筰(1886〜1965年・明治19年〜昭和40年)

【作曲家・指揮者】日本西洋音楽史上の巨人。「赤とんぼ」など美しい童謡は、今も愛唱される。大正・昭和期の作曲家・指揮者。東京都出身。1908年(明治41)東京音楽学校卒。1910年ベルリンに留学。1914年(大正3)帰国して、精力的にオペラやオーケストラ作品を創作する一方、東京フィルハーモニー会に管弦楽部を創設、日本楽劇協会・日本交響楽協会を設立。日本の洋楽普及に多大な貢献をした。北原白秋と出会い、今も親しまれる童謡の名作を多く残した。作品は、交響曲「かちどきと平和」、歌劇「夜明け」、歌曲「赤とんぼ」「からたちの花」「この道」など。

 この出典は、(財)まちみらい千代田「江戸・東京人物辞典」からなのですが、この辞典の執筆者によると、何しろ、山田耕筰は「巨人」ですからね。今では少し忘れられてしまいましたが、とてつもない人です。

 まず、個人的なことながら、静岡県の義母(故人)が、山田耕筰の似顔絵入りのサインを持っていたのです。義母は若い頃、浜松市にある河合楽器の社長秘書を務めていたことがありました。その関係で、河合楽器に所用で訪れた山田本人から直接頂いたようですが、当時私は山田耕筰に熱烈な関心があったわけではなかったので、詳細について聞き忘れてしまいました。

とにかく、似顔絵はご自分で書かれたのかどうか分かりませんが、大僧正のような堂々とした禿頭(とくとう)で風格がありました。

はい、このような感じです。若い頃とは全然違いますね。

写真はいずれも、山田耕筰 十七回忌記念出版「この道 山田耕筰伝記」(恵雅堂出版)の編集を担当されたM氏からお借りしたものです。(従って、写真等の著作権は恵雅堂出版社に帰属します

M氏は「この本は、入社当初の私が編集を担当しました。実際に執筆したのは、社団法人 日本楽劇協会の皆さんですが、その中には山田耕筰の秘書をしていた方もいらっしゃいました。編集作業で1年間程、皆さんと接することができ、耕筰をめぐる大きな人脈の渦を感じたりして貴重な体験でした」と振り返っておりました。
同書は昭和57年発行で、 A4判カラー42ページ、本文中にモノクロ写真を多数掲載した総 305ページの豪華本ながら、残念ながら、現在は絶版だとか。

それでも、M氏は、この「この道 山田耕筰伝記」の一部コピーしたものをメールに添付して送ってくださいました。

この中で、先日、大阪音大の井口教授が講演された「原善一郎」の名前も出てきました。原が大正11年頃、突然、山田を訪ねてきて「ハルビン交響楽団の指揮をしてもらいたい」と要請した話などが出てきます。

また、大正15年夏、日本交響楽協会の分裂騒動が起き、30余人が脱退。山田側の残留者はわずか5人だったといいます。脱退組は近衛秀麿(指揮者で、近衛文麿の実弟)を中心に「新交響楽団」を結成、これが今日のNHK交響楽団の前身となった、と書かれています。私は不勉強で知りませんでしたが、あんなに仲の良かった山田と近衛は仲違いしたということなのでしょうか。

エピソードも満載です。占い好きの山田は昭和14年、実業之日本社から「生れ月の神秘」という占い本を出版して20版以上版を重ねるベストセラーになりました。山田は自分の名前を「耕作」から「耕筰」に改名し、戸籍まで変えてしまったというのです。

もう一つは、下の朝日新聞の記事(1981年11月25日付)にあるように、山田耕筰の未完の遺作オペラ「香妃」を山田の高弟である団伊玖磨によって完成され、東京と大阪で公演されるという内容です。

このオペラ「香妃」について、M氏は「私は幸運にもリハーサルから見ることができました。團伊玖磨先生が女性の声楽家に声を荒げて指示していた場面も見ています。いやはや、オペラひとつ公演するのには大変な財源と人材、エネルギーがいるもののだと若かった私はビックリしました」との感想を漏らされておりました。

オペラ「香妃」説明

オペラ「香妃」の一場面

繰り返しになりますが、これら貴重な写真は、いずれも山田耕筰 十七回忌記念出版「この道 山田耕筰伝記」(恵雅堂出版)の中で掲載されたものをお借りしたものです。ついでながら、昭和17年、山田耕筰に、満洲の皇帝愛新覚羅溥儀から贈られた「乾隆の壷」までありました。

山田耕筰は明治、大正、昭和という時代を代表する文化人であり、その時代の証言者でもあったことが、これでよく分かります。

ニキータ山下のディナー・コンサートと「山田耕筰歌曲集 傑作選100曲」

先程、哈爾浜学院にまつわる話題を《渓流斎日乗》に取り上げさせて頂きましたが、その「関係者」(笑)の方から、是非とも取り上げてほしいというコンサート等がありましたので、乗り掛かった舟ですから、茲でもお報せすることに致しました。

ご興味のある方は、是非、ご参加ください。

ポスターにある通り、ニキータ山下によるロシア民謡などのディナー・コンサートです。アコーディオンは、後藤ミホコ。

2018年11月1日(木)と6日(火)開場18時15分。場所は、東京・高田馬場駅前にあるロシア・レストラン「チャイカ」(電話03-3208-9551)です。

ニキータ山下は、ハルビンで日本人の父親と白系ロシア人の母親との間で生まれ、東京芸大声楽科を卒業。男性ボーカルグループ「ロイヤルナイツ」にリードボーカルとして参加して、旧ソ連で一躍人気グループとなり、その後ソロでも活躍している歌手です。

もう一つは、大阪音楽大学の井口淳子教授の講演会の「原善一郎」関係で、何度も山田耕筰が出てきましたが、その関連として、「山田耕筰歌曲集 傑作選100曲」(恵雅堂出版CD)をご紹介します。関定子ソプラノ、塚田佳男ピアノで「この道」「からたちの花」「赤とんぼ」などが収録されています。

1994年度レコード・アカデミー賞を受賞しております。不朽の名盤ですね。

えっ?何か、宣伝臭いですって?

いや、広告じゃありませんよ。あくまでも、ご紹介です。