祝ジョン・レノン誕生日 if he was still alive80歳

 今日10月9日は、元ビートルズのジョン・レノンの誕生日です。生きていたら80歳。暗殺されたのが40歳の時でしたから、没後40年という節目の年になります。

 ということは、現在、45歳以上ぐらいじゃなければ、ジョン・レノンの現役時代を知らないということになりますか。えっ?教科書に載っていたから知っている? 英リヴァプールはジョン・レノン空港だから知っている? そうですか、そうですか。もう彼はすっかり歴史上の人物になりましたね。

 このブログに何度もジョン・レノンのことを書くのは、私の人生で最も影響を受けた人物の一人だからです。ミュージシャンとしてだけなく、英政府からMBE勲章を受けながら返還したり、反戦運動家(ジョン・シンクレアら)や黒人の人権運動家(アンジェラ・デイビスら)を支援したりして米CIAからマークされるほどの活動家だったからです。

 当時私は中学生か高校生だったので、お蔭で「お上にたてつく」ことを覚えてしまい、長じてもその習慣が身に着いてしまいました。ジョン・レノンを知らなければ、上司に反抗することなく、長い物に巻かれて今頃大出世して、世界を動かすインフルエンサーになっていたかもしれません(笑)。

 結局、左遷ばかりされて、インフルエンサーになれず、この40年間はインフルエンザに罹ってばかりいました(笑)。

 40年というのは、あっという間でしたね。ジョン・レノンが暗殺されたとき、40歳というのはかなりのおじさんにみえましたが、今では人生の半分以下でまだまだ若い。青年に近いと言ってもいいぐらいです。

 思えば、ジョンがビートルズとして活動したのは満21歳から28歳まで(1962年10月5日にデビュー、69年8月の「アビイ・ロード」のレコーディングまで)のたったの7年間ほどでした。早熟の天才だったと言えるでしょう。彼のつくった曲で好きな曲はあまりにも沢山ありますが、「ラバーソウル」の「ガール」と「ホワイトアルバム」の「ハッピネス・イズ・ウオームガン」と「イマジン」の「ギミー・サム・トゥルース」と「ダブルファンタジー」の「ウーマン」は外せないと思っています。

 ジョン・レノンが生まれたのは1940年ですから第2次世界大戦の真っ只中でした。セカンド・ネームのウィンストンは、チャーチル首相から取られたことが有名ですが、小野洋子と結婚した際、ジョン・オノ・レノンに改名したことも有名です。幼い時に、船員だった父親アルフレッドから離れて伯母のミミ夫婦に育てられ、産みの母親ジュリアは内縁関係の2人の男性との間に3人の娘をもうけ、ジョンが17歳の時に交通事故死するなど家庭的に恵まれなかったトラウマが結局、曲づくりや彼のその後の人生に反映されていました。

 巷では商魂たくましく、ジョン・レノン生誕80周年記念 ニューベストアルバム「ギミ・サム・トゥルース.」(ユニバーサ)が今日から発売されたようですね。CD2枚とブルーレイ付きのデラックス版で9350円ですか…。私ですか? いえ、もう買いませんよ。彼のCDはもう既に全て持っていますし、DVDも何枚かありますからね。

 ジョン以外のポール・マッカートニーやジョージ・ハリスンやリンゴ・スターは日本公演で見たことがありますが(リンゴだけは記者会見で同席したことがあります)、ジョンは早いうちに亡くなってしまったので、「会う」ことができず、本当に残念無念でした。

 ですから、1966年のビートルズの来日コンサートを見たという林さんや、70年代後半にジョンとヨーコを東京のホテル・オークラの近くの路地で歩いているところをすれ違ったという栗原さんには、何を差し置いても密かに尊敬しています。

1940年代のジャズ・ヴォーカルが気になる

学生時代は、音楽が趣味で、1日16時間ぐらい聴いても飽きませんでした。

聴いていたのは、主にロックで、ビートルズ、ストーンズ、ツェッペリン、クイーン、ディープ・パープル、クラプトン、イーグルスといった王道のほか、1950年代のプレスリーなどの初期ロックンロール、60年代のマージービート、70年代のプログレ、グラムロックなどです。

思い起こせば、子どもの頃は歌謡曲、10代~20代はロック、30代はモーツァルトなどクラシックばかり、40代はジャズやボサノヴァ、シャンソン、それ以降は玉石混交といった感じで色んなジャンルの音楽を聴いてきました。

 そして今は、ほとんど聴かなくなりました。(あらま)サウンド・オブ・サイレンスです。特にうるさいロックは年のせいか付いていけなくなりました(苦笑)。せめてブルーズです。BBキングはやはり素晴らしい。でも、若い頃は、高齢者が聴くものだと敬遠していたジャズなら、年を取ったせいか琴線に触れます。

 ということで、今は少しジャズにはまっています。そのジャズの中でもヴォーカルです。40代にジャズを聴いていた頃は、ビル・エヴァンスに始まり、パーカー、コルトレーン、マイルス、コールマン、フリューベック、ペッパー、ブレーキー、ウエス…といわゆるジャケット買いで色々聴きまくりました。フリージャズとなるとついていけなくなりましたが、ヴォーカルは、フイッツジェラルドやヘレン・メリル、ビリー・ホリデーぐらいしか聴いていませんでした。(昨年はジュリー・ロンドンに熱を入れましたが)

 今回、はまったジャズは、1930~40年代ジャズです。きっかけは、成瀬巳喜男や小津安二郎らの戦前の映画を観ていたら、結構、BGMや効果音としてジャズが使われていたことです(敵性音楽になる前)。また、先日観た「ミッドウェイ」は1942年を再現した戦争映画でしたが、作品の中で、当時流行のジャズが使われていました。そして、毎週日曜日の朝に、ゴンチチの司会進行でNHK-FMで放送されている「世界の快適音楽セレクション」をよく聴くのですが、その中で「えっ?この曲いい。でも、何の曲かなあ?」と思った時、大抵は、私が生まれる前の戦前の1930~40年代に流行ったジャズだったりしたからでした。

 この中で特に、気に入ったのが、女性1人、男性3人のコーラスグループThe Pied Pipersパイド・パイパーズ(The Night We Called It A Dayなど)でした。全盛期は、戦時中から戦後にかけての1940年代です。トミー・ドーシー楽団の専属コーラスグループとして活躍しました。

 トミー・ドーシー(1905~56)は、ジャズ・トロンボーン、トランペット奏者で、楽団のリーダーでもあり、若きフランク・シナトラがこの楽団に所属して飛躍したことは有名です。が、勿論、私はパイド・パイパーズもドーシー楽団も今回初めて知りました。

 パイド・パイパーズの紅一点、ジョー・スタッフォードは独立して、1952年、ソロとして「ユー・ビロング・トゥ・ミー」をヒットさせ、米国と英国のチャートで首位になり、全英シングルチャートでは女性アーティストによる初の第一位のレコードになりました。

 この「ユー・ビロング・トゥ・ミー」は、日本でも大ヒットして、江利チエミや新倉美子らがカバーしています。新倉美子(1933~)は、何と新国劇の看板俳優・辰巳柳太郎の長女で、ティーブ釜萢(かまやつひろしの父親)が設立した「日本ジャズ学校」でジャズを学び、歌手、映画女優として活躍しましたが、1957年に結婚を機に芸能界を引退してしまいます。私はまだ物心がつく前でしたから、道理で知らなかったはずです。今ではユーチューブなどで、彼女の唄う姿が見られますが、「こんな人がいたのか」と驚くほど清楚な美人で、大変魅惑的で、英語の発音もほぼ完ぺきです。(彼女の写真や動画も著作権があると思われ、このブログに引用できないのが残念です)

 パイド・パイパーズをスッポティファイで聴いているうちに、ジョニー・マーサー(1909~76)唄う「accentuate the positive」という曲を知りました。戦時中の1944年公開映画「Here comes the waves」のためにマーサー自身が書いた曲だそうで、スタンダードになっています。マーサーは作詞、作曲もする歌手で、キャピタル・レコードの共同設立者ということでジャズ界の大御所です。多くのミュージシャンがカバーしている名曲Come Rain or Come Shineなども作詞しています(作曲はハロルド・アーレン)。恥ずかしながら、最近知ったのですが…。

 あのポール・マッカートニーが1975年にマーサーと共作しようと提案しましたが、時既に遅く、マーサーは病床についていて辞退したそうです。ポールはその後、先程の「accentuate the positive」をダイアナ・クラールのピアノなどをバックに唄いましたが、その姿がユーチューブでも観られます。ビートルズ「ホワイトアルバム」に収録されている「ハニー・パイ」などを作詞作曲しているポールは、アマチュア・ジャズマンだった父親の影響で結構、1930~40年代のジャズもかなり聴いていて、曲作りに影響を受けていたのです。

 今ではもう1日16時間も音楽を聴く気力も体力もないですが、たまにはゆっくりとジャズ・ヴォーカルに浸ってみたいと思う今日このごろです(わー、陳腐な終わり方!)

映画「パヴァロッティ 太陽のテノール」は★★★★★

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 ロン・ハワード監督作品「パヴァロッティ 太陽のテノール」を観て来ました。「ダ・ヴィンチコード」や「インフェルノ」などでメガホンを取ったロン・ハワード監督には「外れ」がないですからね。音楽映画は、4年前にビートルズのツアー・ドキュメンタリーも編集してますし、何と言っても、彼が監督になる前、俳優として「アメリカン・グラフィティ」(1973年、ジョージ・ルーカス監督)に出演している時から私は観てるので親しみを感じます。この作品は、タイトルを聞いただけで、予告編も観ないでいきなり観て来ました。

 「世界三大テナー」の一人、ルチアーノ・パヴァロッティ(1935~2007)ほど世界中に知られたオペラ歌手はいないでしょう。「パスタを3人前ペロリと平らげた」といったような舞台外の日々の行動まで報道され、私生活もパパラッチに追い掛け回されていましたが、意外と彼の生い立ちやどういう教育を受けて歌手になったのか、家庭生活はどうだったのか、知られていませんでした。

 熱狂的なファンなら知っていたでしょうが、それほど興味がない私は、この映画を観るまで、彼は少し体格の良いイタリア人(笑)だということだけは知っていましたが、それ以外はこの映画で初めて知りました。彼の父親はパン焼き職人ながらアマチュアのテノール歌手で、ルチアーノは、小学校の教師になりながら、夢を諦めず、プロのテノール歌手(1961年)になった人でした。「キング・オブ・ハイC」と呼ばれる類まれなる天性の才能がありましたが、それらも人知れぬ隠れた努力の賜物だったようです。映画の中で、あるテノール歌手も言ってましたが、テノールの音域は普通に話す声とは違った不自然な声で、それを如何に自然に聴こえるようにするかが、プロの手腕で、彼の天才も相当な努力の上に花開いたものに違いないというのです。

 映画は彼の舞台映像とインタビューのドキュメンタリー形式で、最初の妻アドゥア・ベローニと3人の娘、36歳も離れた二番目の妻ニコレッタ・マントヴァーニらも登場し、プライベートな家庭生活を語っていましたが、やはり、色々と大変だったんだなあと同情するばかり。

 「悪名高い」評判の悪いプロモーターが彼を取り巻き、「異業種」のU2のボノらロックスターとの共演や、何十万人も集める野外コンサート、そして、プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラスとともに「三大テノール」としての世界的「売り込み」が、悉く成功していきます。失礼ながら、プロモーターたちはあまりにも貪欲そうで、人相が悪いので笑ってしまいました。それに、「ジョニー・カールソン・ショー」などの米人気テレビ番組や「TIME」誌の表紙を飾るなど、彼の人気も商業主義の権化であるマスコミの後押しが大きかったことでしょう。

 この映画では出てきませんでしたが、パヴァロッティは、完璧を求めるばかりに、何度も公演をキャンセルして、「キャンセルの王様」とまで言われ、シカゴのあるオペラ座では支配人から終身出入り禁止になったこともあったそうです。外見とは違い、かなり神経質で、傷つきやすい性格だったようです。

 悲しい時でもいつも笑顔を絶やさなかったパヴァロッティでしたが、それはエンタテインナーとして表向きにつくられたプロ魂に過ぎなかったこともこの映画で観て取れました。英ダイアナ妃らとともに慈善活動に精力を費やしたりしたのは、子どもの頃の戦争体験が大きかったから、というナレーションには少し納得しましたが、彼自身、大成功を遂げたとはいえ、幸福だったのか、不幸だったのか、観ていて分からなくなってしまいました。

 映像を通してでしたが、確かに鳥肌が立つほど、彼の歌声は心と腹の底に響き、素晴らし過ぎて、また、DVDを取り寄せてでも彼が出演したオペラが観たくなりました。私自身、1999年1月9日、東京ドームで行われたズービン・メーター指揮「三大テノール  ニューイヤー・コンサート」を観ているはずなのですが、その時、人の多さばかりが印象に残り、主役たちは豆粒にしか見えず、案外すぐ終わってしまい、その内容はほとんど覚えていないのです。

 1999年は特に忙しい年で、音楽担当記者として数多くの公演を観ていたのですが、変わり者の私ですから、「三大テノール」のあまりにもつくられた商業主義にうんざりしていたのかもしれません。(それほど凄かったのです)

 でも、こうして、13年前に71歳で亡くなったパヴァロッティという歴史的人物を映像を通して観ると、類まれな天才と同時代を生き、同じ空気を吸っていたんだという実感を味わうことができ、生きる勇気をもらった気がしました。

ウクレレ・トリオ「まかまか」と加藤力之輔画伯の個展

WST Nationak Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua 

 外出自粛で、皆さんもストレスが溜まっていることと、拝察致します。ということで、本日は、趣向を変えまして、このブログなどで大変お世話になっている先輩・芸術家の皆様の「作品」をアップすることにしました。

 まずは、満洲関連でお世話になっている宮さんが参加しているウクレレ・トリオ「まかまか」。その演奏セッションを音声ファイルで送ってくださいました。

 小生、ズブのIT音痴であるため、ブログに画像と動画を貼っつけることは、どうにかこうにかできるようになりましたが、「音声」となると初めてです。(そうでないかもしれませんが=笑)

 さんざん苦労して一日がかりで、やっとアップできたようですので、皆さまもお聴きください。

「まかまか」の「ホテルカリフォルニア」

 ウクレレ・トリオ「まかまか」は、がまちゃん(リーダー 編曲)と、かずえさんのリードにバックコード演奏の宮さんの3人。極秘情報ですが、平均年齢は後期高齢者年齢をはるかに超えていると噂されています。
 お聴きになればお分かり通りの、曲はイーグルスの 「ホテルカリフォルニア」。「なかなかやるじゃん」と私は、称賛の返信を送っておきました。

 宮さんは、PDFでこの編曲の楽譜も送ってくださいましたが、残念ながら、何度挑戦してもうまくアップできず。画像でも音声でもないPDFは、どうブログに貼っつけたらいいのか…うまくいきませんでした。宮さん、悪しからず。

 もう一人は、京都の泉涌寺にお住まいの加藤力之輔画伯です。一昨年のスペイン旅行の際には画伯の奥方様には、ピカソの「ゲルニカ」を鑑賞する時など、お世話になりました。スペインでは予想外にも感染者と死者が拡大して大変心配していたのですが、奥方様も、昨夏お会いした画伯と同業者である御子息とスペイン人の奥さんとお子さんたちもお元気なようで安心しました。

 加藤画伯は、最近、京都市の同時代ギャラリーで個展を開催されたということで、その「展示風景」を送ってくださいました。

YouTubeのブログへのアップの仕方は、最近覚えたので、今回も大丈夫のようです(と、思われます)。

 音楽コンサートや歌舞伎を始めとした演劇公演もほとんど全てが中止に追い込まれ、芸術家の皆様も厳しい生活に追い込まれていると思います。

 アーティストだけでなく、何ともお困りなのは、裏方さんと言われる大道具、小道具、音声、照明さんらのスタッフだと思います。

 政府の対応の遅さには、虚脱感を味わいますが、何とかこの難局を乗り切ってもらいたいものです。明けない夜はない、ということで。

【追記】

 ウクレレ・トリオ「まかまか」の「ホテルカリフォルニア」の楽譜がPDFなので、ブログに貼れない、と書いたところ、宮さんが、わざわざPDFをJPGファイルに変換して送ってくださいました。これなら画像と同じですので、ブログにアップできました。

1970年の「レット・イット・ビー」から半世紀も経つとは…

 YouTubeで「うちで踊ろう」を公開したミュージシャン星野源のサイトに、日本の最高指導者の安倍晋三首相がコラボ投稿して、自宅自粛要請を呼び掛けたことに対して、喧々諤々の論争になっています。

 安倍首相は自宅の居間で、愛犬とじゃれたり、珈琲を飲んだりしてくつろいでいるブルジョワ生活をあからさまにしてしまったせいか、派遣切りに遭った人とか、店舗休業を余儀なくされたりした人たちから、「何を呑気なことやってるんだ。そんな暇があったら、休業補償の問題を即刻解決してもらいたい」といった切実な投稿のほか、「国会議員ら特権階級は減給されることなく満額振り込まれるから羨ましい」といった皮肉な意見が殺到したようです。

 安倍さんに期待し過ぎるからいけないんですね。モリカケ問題をあやふやにし、財務省の現場職員が自殺してもまるで他人事。公金の私的流用の疑いが濃厚な「桜を見る会」を結局、なかったことにした安倍さんですからね。最初から、そういう人だと肝に銘じていれば、「裏切られた」なんて思わないはずです。

 それより、この星野源のサイトを、先週8日に逸早く教えてくれたのが、高校時代のバンド仲間の神林君でした。そんな政治的な話ではなく、全く音楽的な話で、曲のコードが普通のメジャー、マイナーではないので、「あの変なコードをコピーできるかい?」と投げかけてきたのでした。我々が、バンドをやっていた初期の頃、ロックの楽譜などほとんど発売されていなかったので、レコードが擦り切れるほど何回も何百回も聴いて、音を取ったものでした。その点、彼には「絶対音階」があるので、仲間が驚愕するほど簡単にコピーしてしまうのでした。

 ということで、早速聴いてみたら、その「うちで踊ろう」は、ボサノヴァ風と言えばボサノヴァ風で、バリバリにブルーノートとかマイナーペンタトニックのようなジャズコードをふんだんに使っていました。記号で書けば、例えば、CとかCmとかではなく、C7(♭9,13)といった複雑なコードです(笑)。

 ギター片手にそんなことをしていたら、久しぶりに自分の音楽遍歴を思い出してしまいました。全く個人的などうしようもない話ですから、ご興味のない方は、ここで左様なら(笑)。

◇◇◇

 ざっくり言いますと、子どもの頃は歌謡曲や演歌なども聴いてましたが、10代の多感な時代に入ると俄然、ロックです。それが20代まで続きます。ビートルズ(解散後のソロも含めて)、ローリングストーンズ、レッド・ツェッペリン、クイーン、エリック・クラプトンなどはほぼ全てのアルバムを買い揃えました。

 30代に入ると、一変してクラシック音楽オンリーです。特に、モーツァルトのCD全集を40万円ぐらいかけて買い揃えたほか、グレン・グールドにはまってからバッハ、ベートーベン、ブラームス(交響曲第1番は10種類近く)を中心に聴き、ショパンもルビンシュタインによる全集、ポリーニ、ホロヴィッツ、ポゴレリッチ、キーシン、ブーニンらの演奏に耳を傾けました。ドビュッシーは卒論のテーマだったので、改めて、偏屈なミケランジェリのピアノに惚れ、歌劇「ペリアスとメリザンド」まで買い、そして何と言っても、のめり込んだのが20代の時に最も感激したワグナーです。フルトベングラーよりもクレンペラーが好きでしたね。当時ブームだったマーラーもチャイコフスキーもスメタナも堪能し、バルトーク、ストランビンスキー、シェーンベルク辺りまではカバーしました。現代音楽はグバイドーリア、アルボ・ペルトらも聴きましたが、苦手でしたね。武満徹は例外ですが。

 40代になると、今度はジャズです。若い頃は「爺の音楽」として敬遠していましたが、もしかしたら、今は、ロックやクラシックよりも一番リラックスできて好きかもしれません。グレン・ミラーやベニー・グッドマンなんかは既に聴いてましたが、ジャズにはまったきっかけは、ビル・エヴァンスでした。彼のアルバムをほとんど買い占めて、セロニアス・モンク、バド・パウエル、ウィントン・ケリー、トミー・フラナガン、オスカー・ピーターソン、ジョージ・シアリングなどピアノばかし聴いてました。ラッパは、チャーリー・パーカー、ジョン・コルトレーン、マイルス・デイビス、アート・ペッパーら王道ばかりでしたが、オーネット・コールマンと晩年のマイルスあたりの前衛的になるとついていけなくなりました。

 ウエス・モンゴメリーにはまってからは、ジャズは好んでギターばかりです。ハーブ・エリス、バーニー・ケッセル、ケニー・バレル、タル・ファローらがお気に入りで今でも聴いてます。ヴォーカルは、ヘレン・メリルを端緒に、やはり、ビリー・ホリデイ、ナット・キング・コール、エラ・フィッツジェラルドの正統派でしょうが、以前にブログで書いた通り、ジュリー・ロンドンはしびれますね(笑)。

 50代になると、主にボサノヴァが中心で、シャンソンやカンツォーネもよく聴くようになりました。ボサノヴァのアントニオ・カルロス・ジョビンはレノン・マッカートニーに引けを取らない20世紀が生んだ世界最高の作曲家だと思ってます。シャンソンは、何と言ってもセルジュ・ゲンズブールです。エディット・ピアフもシャルル・トロネもいいですが、フランソワーズ・アルディ、シルビー・バルタン、イブ・モンタンというミーハー志向。カンツォーネはジリオラ・チンクエッティと極めてオーソドックスなポップスですが好んで聴きました。

◇「14歳の法則」を発見

 今は、昔のCDを引っ張り出して色んなジャンルの曲を聴いています。正直、今流行のラップにはついていけません。分かったことは、人間は、14歳の時に聴いた音楽がその後の人生を決定づけることでした。大袈裟な言い方ですが、人生で最も多感な14歳前後に聴いた音楽が、その人の「懐メロ」になるということです。14歳と言えば中学生ですから、お小遣いも少なく、そんなにレコードなんて買えません。私の場合は、「ミュージック・ライフ」などの音楽雑誌を買って、レコードのジャケット写真を何度も何度も穴があくほど眺めて「欲しいなあ、お金があったらなあ」と思っていました。それが、長じて金銭的に余裕ができると、その反動で、昔買えなかったCDレコードを次々と買い集めることになってしまったのです。

 個人的ながら、私の場合は、写真でアップした通り、S&G「明日に架ける橋」、サンタナ「天の守護神」、CSN&N「デジャ・ヴ」、CCR「コスモズ・ファクトリー」、EL&P「展覧会の絵」、フェイセズ「馬の耳に念仏」、ジャニス・ジョプリン「パール」などです。いずれも1970年か71年に発売されたものだったことが後になって分かり、この「14歳の法則」を新発見したのです(大袈裟ですが、商標登録申請中=冗談です)。記憶していた耳が自然と当時流行った音楽を求めたのでしょう。嗚呼、当時聴いていたシカゴ、BS&T、チェイス、クリスティー、カーリー・サイモン、ジェームズ・テーラー、カーペンターズなんかも本当に懐かしい。

 1970年は、4月にビートルズか解散し、最後のLP「レット・イット・ビー」が発売され、映画も公開された年でした。私は、朝早くから夜遅くまで、3本も4本も、この同じ映画「レット・イット・ビー」を新宿の武蔵野館で何回も見続けたものでした。当時は、入れ替え制ではありませんでしたからね。よく飽きなかったものです(笑)。

 あれから半世紀もの年月が過ぎてしまったとは、とても信じられません。振り返ると、邦楽はほとんど聴かず、洋楽ばかり聴いていたことになります。

 この私が発見した「14歳の法則」、きっと貴方にも当てはまると思いますよ!

「アビイ・ロード」50周年記念盤に関する私的考察

 僕が生まれて初めて買ったLPレコードは、ビートルズの「アビイ・ロード」です。今からちょうど50年前の1969年10月21日。今はなき、東京郊外のひばりが丘の「ひばり堂」というレコード店でした。価格は2500円、だったと思います。

 今の価格では5000円ぐらいの感覚です。まだティーンエージャーだった僕にとって、2500円はかなり高額。お小遣いを貯めていたか、父親に買ってもらったか忘れましたが、後者の可能性が高い。当時、我が家では、初めてのセパレート・ステレオ、ソニーのインテグラを買ったばかりで、レコード収集に勤しんでおりました。当時、庶民にとって高嶺の花だったこのステレオ機器は、安月給の父親が、近くの「十一屋」という漬物屋工場で、重い樽運びをするアルバイトして買ったもので、過労で倒れて救急車で運ばれたことを覚えています。

 まあ、そんな個人的な思い出は置いといて、その「アビイ・ロード」の「50周年記念エディッション」CD(2枚組=3960円)が発売されたということで、やっと昨日、東京・銀座の山野楽器で買って来ました。LPレコードは、何万、何十万回も擦り切れるほど聴いて、針が飛んでしまうほどになったので、とうの昔に処分してしまいました。1987年に発売されたCDは当然持っていましたが、2枚組の50周年記念盤にはマニア向けのトラックが収録されているので、フリークとしては買わないわけにはいきません(笑)。

 今さらの話ではありますが、アルバムのタイトルになった「アビイ・ロード」は、ロンドンにあるビートルズがレコーディングする「 EMIスタジオ 」の建物入り口前を走る道路で、4人が歩く横断歩道は世界的な観光名所になりました。私も若き頃、1979年8月にここを訪れ、写真を撮って来ました。写真が残っていたら、貼り付けましょう(笑)。(このアルバム・ジャケットから「ポール死亡説」が生まれましたが、長くなるので茲では触れません。)

ビートルズ「アビイ・ロード」

 LPレコードはA面とB面があり、A面には「カム・トゥゲザー」や「サムシング」(両方ともポールのベースラインが秀逸で、「サムシング」のリードはエリック・クラプトンが弾いているのではないか、と当初噂された)などシングルカットされた名曲ぞろい。B面は、クラシックのように、後半に前半のモチーフが再現されたり、カデンツァみたいな曲もあり、一日に何回聴いても飽きませんでした。高校時代からバンドを組み、この難しい「B面(コピー)をやろう」ということで、コピーのために、また何万回聴き直したか分かりません。

 それでいて、歌詞は何度聴いても理解できませんでした(苦笑)。特に「カム・トゥゲザー」は、ジョンが韻を踏むための単語を並べたせいか、今でもさっぱり分かりません。「ユー・ネヴァー・ギヴ・ミー・ユア・マネー」の中に出てくるstep on the gas が「ガスの上に乗る」ではなく、「アクセルを踏む」ということ、「ミーン・ミスター・マスタード」に出てくるgo-getter が「やり手」という意味だと分かったのは、聴き始めてから30年以上経ってからでした。

  「ユー・ネヴァー・ギヴ・ミー・ユア・マネー」 が終わって、「サン・キング」に入る直前に鈴虫が鳴く声のような音が聴こえます。アルバムを買ったばかりの時はちょうど秋だったので、外で本当に虫が鳴いていると錯覚した覚えがあります。

 「アビイ・ロード」にまつわる話となると、一晩かかってしまいますが、最後に付け加えておかなければならないのは、この「50周年エディッション」が49年252日ぶりに全英アルバムチャートで1位に復帰したというニュースです。(英国では1969年9月26日にリリースされ、アルバム・チャートでは17週連続で1位、米ビルボードのアルバム・チャートでは11週連続で1位を獲得)今では、音楽の聴き方がネット配信時代になり、レコードが売れなくなったとはいえ、信じられませんね。

 このCDのリーフレットによると、ビートルズの4人が勢ぞろいするのは、「アビイ・ロード」のマスター・テープ編集をするために行われた1969年8月20日夜のセッションが最後だったといいます。ビートルズは、翌1970年に解散し、アルバム「レット・イット・ビー」が発売されますが、このレコーディングは1969年1月に行われたものでした。事実上、「アビイ・ロード」がビートルズ最期のアルバムとなり、この時、ジョン・レノン28歳、ポール・マッカートニー27歳、ジョージ・ハリスン26歳、リンゴ・スター29歳という若さでした。髭を生やして随分お爺さんに見えましたが、まだ全員20代だったんですね。

 20代にして既に歴史の残る偉業を成し遂げた彼らは、まさに天才でした。

【後記】

 50周年記念盤をじっくり聴いてみましたが、駄目ですね。がっかりしました。

 ジョージ・マーチンの息子のジャイルズらがリミックスしてますが、昔のオリジナルを台無しにしています。特に、「ユー・ネヴァ・ギヴ・ミー・ユア・マネー」は、1969年発売のオリジナル盤では、ポールのヴォーカルが、右から中央、左へと移って行き、「ステレオ」としての醍醐味を感じたものでした。これは、何も手を入れていない1987年発売のCD盤でも踏襲されましたが、50周年記念盤では、ポールのヴォーカルを中央で固定してしまって、本当に興醒めです。また、無駄なリードとして音源を落としていたギターのフレーズを大きく復活して、余計な音に感じます。

 いやあ、もうこの50周年記念盤は、愛聴しないでしょう。ポールはともかく、ジョン・レノンがこんなリミックスを聴いたら、絶対怒るでしょう。

ジャニー喜多川さん亡くなる

Copyright par Duc de Matsuoqua

長年、ジャニーズ事務所を率いてきたジャニー喜多川さんが亡くなりました。享年87。

父親が真言宗の僧侶で、布教のため渡米したため、ジャニーさんはロサンゼルス生まれ。ビートルズがデビューした1962年、30歳の時に芸能事務所を設立して、多くの男性アイドルを育てたことは周知の通り。熱中したアイドルの名前を言えば、女性の歳がバレてしまう、とまで言われました。

私のような古いおじさん世代は、ジャニーズからフォーリーブスぐらいまで。このあとの光GENJIだのたのきんトリオだのV6だのSMAPだの嵐だの名前を知っている程度。アイドルはオネエちやんに走ってしまいました(笑)。

ジャニーさんには、若い男の子の才能を見抜く独特の感性と鑑識眼がありました。これは天性の才能なので一代限りでしょう。タレントがさまざまなスキャンダルに見舞われても、事務所がビクともしなかったのは彼の功績です。

これだけの功績を挙げながら、「裏方」に徹して、マスコミ嫌いで知られ、殆どメディアには登場しませんでした。私も芸能記者時代、広報担当のSさんを通じてメリー喜多川さんには会えましたが、ジャニーさんとは会えませんでした。

WTナショナルギャラリー Copyright par Duc de Matsuoqua

インタビューに応じても、顔写真の撮影は厳禁。だから、野球帽をかぶりサングラスを掛けた「配り写真」ぐらいしか新聞やテレビに出てこないのです。(共同通信配信の素顔の写真はありましたが)

ザッカーバーグのフェイスブックとは真逆の人生哲学ですね。ヒトは世間に顔を晒してすぐ有名になりたがりますが、ジャニーさんは、派手な芸能界とはいえ、自分は演出家であり、プロデューサーという職業を自覚して、裏方に徹しました。その点は大変尊敬します。

僧侶だったお父さんの影響もあったのかもしれませんね。

ということで、ジャニーさんの御尊父が僧侶として修行された真言宗総本山高野山に、これから行って来ます!(羽田空港にて記憶で書きました。「ユー、やっちまいな」)

ショパンの何という曲だったか・・・?

 6月29日付のこのブログで、ポーランド映画「Cold War あの歌、2つの心」の感想文を書きました。

 実は、その中で、映画中に引用されていた、恐らくショパンだと思われるピアノ曲の題名がどうしても思い出すことができず、ブログでは「ショパンの作品」と誤魔化していたのでした。(後で、直しておきましたが=笑)

 私の趣味といえば、音楽ぐらいでして、お小遣いも本かCDばかり買っていた時期がありました。音楽のジャンルは、ロックからポップス、クラシック、ジャズ、ボサノヴァと洋楽中心でしたが、幅広く聴いて、レコードも集めていました。だから、映画に使われるクラシックやポップスなら何の曲か、大抵分かります、と書いておきます。(ついでに、「Cold War」のエンディング曲で使われたのは、グレン・グールド演奏のバッハの「ゴルドベルク変奏曲」に間違いないと思います)

 勿論、ショパンも何枚か持っています。映画を観た後、家に帰って、ショパンのピアノ曲ならタイトルぐらい簡単に分かると高を括くりながら、確認のために、自分の持っているCDをかけまくりました。当初その曲は、エチュードの「革命」か、ポロネーズの「軍隊」かと思い込んでいたのですが、どうやら違うようでした。

 そこで、ポリーニ演奏の「ポロネーズ」「エチュード」「マズルカ」、ポゴレリッチ演奏の「前奏曲」「ノクターン」、そして、ホロヴィッツ演奏の「ショパン・ピアノ曲集(ワルツ、スケルツォ、バラード、即興曲)」を何時間かかけて聴きまくりましたが、どうしても見つかりません。ブログはこうして苦労して書いているのです(笑)。

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 最後の手段として、音楽大学を出て、ピアノ教師をやっていたGさんです。彼女に「この曲、タイトルは何?」と聞くことです。ものの数秒で答えが返ってくると思ったのでした。でも、どう伝えるか?

 頭の中で浮かんでいる例の曲を口ずさんでみましたが、我ながら音痴で、音程が取れず駄目でした。仕方がないので、ラルゴかレントのサビの部分だけ、ギターで弾いてみて、それを録音添付してメールで送ってみました。

 で、結局、私の伝え方が悪かったのか、答えは「よく分からない。お役に立てず、ごめんなさい」でした。実は、私が送ったメールは彼女に届いたのですが、彼女からの返信はどういうわけか私には届かず、再度、電話で確かめてみたのでした。

 電話で、いろいろやり取りして、下手に口ずさんでいくうちに、彼女は「それなら『幻想即興曲』かもしれない…」と言うのです。

 その曲が入ったCDは、家になかったので、ユーチューブで確認しました。…なあんだ、その通り。ごめいさん、「幻想即興曲」でした。ショパンは39歳の若さで亡くなりますが、この曲は死後、出版された遺作でした。プロでも難曲と言われる弾くのにとても難儀する曲でした。でも、大変な名曲です。 タイトルを思い出す間、この曲は、ずっと私の頭の中を回っていました。なかなか思い出せないので、歯がゆくてしょうがありませんでした。

 Gさんから、最近、小生の書くブログは難しくて、ついていけない、なんて言われちゃったもんで、今日はこんな脱線した話で誤魔化しました(笑)。

【後記】

自宅にアルトゥール・ルビシュタイン演奏の「ショパン全集」(RCA Victor)があり、当然ながら「幻想即興曲」はディスク10に収録されておりました。原題は、Impromptus No.4 Op66 in C-sharp mionor “Fantasie Impromptu”

何度聴いてもいいですね。

リキー宮川と新倉美子 ジャズこそがすべて

 インターネットは、若者向きかと思いきや、意外と中高年の皆様にも役立ちます。

 私もその一人(笑)。その理由の一つが、最新流行に付いていけなくなってしまったことがあります。特に音楽なんか、今の流行歌には全くついていけません。中でもラップなんか駄目ですねえ。しっかり、メロディーがないと心に染み渡ってくれません。

 でも、最新の流行歌についていけなくても、ネットの発達のお蔭で、以前はとてもレコードが手に入らなかったり、聴けなかったりした昔の音楽が簡単に聴けるようになり、恩恵を受けてます。昔は「音」だけしか聴けなかったのに、今では、動く姿、まさに「動画」まで見ることができますからね。ネットのお蔭です。

 最近、特に熱中しているのがジャズ・ヴォーカルです。先日も、このブログで1950年代に活躍したジュリー・ロンドンを取り上げましたが(CD買っちゃいました)、この間(3月9日)、また、NHK-FMの番組「世界の快適音楽セレクション」(毎週土曜、午前9時から放送)で初めてその存在を知ったジャズ歌手、リキー宮川(1911~49 )にはまってしまいました。
 この人の経歴について、あまり詳細に分かりませんでしたが、米シアトル生まれということから、日系2世なのでしょう。昭和8年に来日し、9年にコロムビア専属として歌手デビュー。その後、ダンサーとして知られるマヌエラこと山田妙子と結婚し、その後離婚。「ダイナ」「夢見る心」など多くのジャズを吹き込んだほか、「すみれ娘」(1935年)など多くの映画にも出演したようです。戦時中は南方戦線の暗号解読に駆り出されたといわれてます。

 あるサイトを見ていたら、彼は戦後も日劇のレビューなどで活躍しますが、「昭和24年に非業の死を遂げる」とだけ書かれていました。逆算すると、享年38か39ですから、事故か事件か何かだったのかもしれません。

 その話より、私は以前から、個人的に昭和初期に興味を持っていることは、このブログの熱心な読者の皆様も御存知だと思います。昭和初期と言えば、金融恐慌に始まり、軍部の台頭、大陸進出、テロ事件の横行と、何か、不穏で不自由な暗黒時代だとばかりを連想しておりましたが、いったん、芸能に目を向けてみると、案外庶民はしたたかで、「エロ」「グロ」「ナンセンス」が流行ったり、モボ、モガたちが銀座の並木道を闊歩したり、自由を謳歌していたんですね(ただし、戦況が悪化してからは、隣組で密告したり、「欲しがりません勝つまでは」で大変な時代だったでしょう)

 敵性言語だった英語が禁止され、野球も「セーフ」が「よし」に変えられたり、敵性音楽のジャズ演奏も禁止され、ディック・ミネも三根耕一と改名させられたり、大変な時代になりますが、それ以前の昭和初期は、かなりジャズが流行っていたことが分かります。

 リキー宮川も、軍部台頭もテロ横行も知っていたのか知らずにいたのか、大変失礼ながら、 かなり「能天気」な歌唱法です。聴いているだけでホノボノしてしまいます。「世帯を持つなら」という曲の歌詞も「箱根飽きたら熱海 熱海飽きたらまた箱根」などとどうでもいいことを照れずに歌っております。後世の人間から見ると、信じられませんね。案外、平和も戦争も紙一重だということかもしれません。

 それにしても、昭和初期は、明治に開国してまだ60年しか経っていないというのに、貪欲に西洋の文物を吸収して、ジャズ演奏もホンマモンと比較しても遜色ないほどの技術力があり、驚きです。日本人って努力家というか、器用なんですね。

 著作権の関係がよく分かりませんので、すぐ削除してしまうかもしれませんが、リキー宮川の顔が分かるように、その代表曲「世帯を持つなら」を下に引用しておきます。

リキー宮川

 リキー宮川を検索したりして遊んでいたら、偶然、新倉美子(しんくら・よしこ、1933~)というジャズ歌手を「発見」しました(笑)。

 勿論、私より一回り先輩の世代なら御存知でしょうが、私は全く知りませんでした。英語の発音はネイティブ並み。歌もうまいし、超美人。この人、どういう人なのかと思ったら、新国劇の辰巳柳太郎(1905~89)のお嬢さんだったんですね。新東宝映画「青春ジャズ娘」「娘ごころは恥づかしうれし」など30数本に出演していました。「 昭和26年にデビューし、昭和32年に結婚を機に引退」とありましたから、道理で私は知らないはずです。物心ついた頃は引退していたからです。

 当時は絶世の人気を誇ったというのに、忘れ去れてしまうんですね。儚いですね。(私だけが知らないのかもしれませんが)

 でも、ネットが発達したおかげで、今ではこうして、彼女の姿を見ることができ、そういう意味では良い時代にまで長生きできたと言えるかもしれません(笑)。

 下は、東京キューバン・ボーイズとの「マイアミビーチ・ルンバ」を引用させて頂きます。映画の一場面のようです。当時は、日本でも「マンボ」や「ルンバ」が大流行していたんですね。

新倉美子

 今の最新流行歌を聴いても、まったくつまらないのに、ルンバやマンボなどこういう昔の曲を聴くと、ウキウキしてきて、血湧き、肉が踊ってしまいます(笑)。(こちらも、「引用」ですが、著作権の関係で削除される可能性があります)

ジュリー・ロンドンはお好き?

 最近のお気に入りの音楽番組は、毎週土曜日の午前9時からゴンチチがDJを務めているNHK-FMラジオの「世界の快適音楽セレクション」です。

 クラシック、フォーク、ジャズ、演歌、ワールドミュージックなど驚くほど幅広いジャンルの音楽を選曲してくれて、「音楽通」を自称する私も聴いたことがない曲ばかりですが、ゆったりとした気分にさせてくれます。

 これだけ幅広い音楽知識を持った選曲者は誰なのかなあ、と思ったら、藤川パパQ、湯浅学、渡辺亨の著名な音楽評論家3氏だそうです。

 先日(2日)、この番組を途中から聴いていたら、とても魅力的な女性ヴォーカルで、心がとても穏やかになりました。朝に聴くというより、夜、仕事から疲れて帰って来て、自宅でくつろいだ時に、癒されるような音楽でした。

ジュリー・ロンドン

 曲が終わって、タイトルは、ジュリー・ロンドンの「メランコリー・マーチ」という曲だと紹介されました。ジュリー・ロンドンは名前だけは聞いたことがありますが、彼女の歌はあまり聴いたことがありません。でも、レコード店で、彼女のジャケットを見て、容姿は知っていました。とても、肉感的なセクシーさを売り物にしている感じでした。

 若い頃は、ハードロックやメタルロックをジャンジャン聴いていましたが、年を取るとだんだんうるさくなって、ついて行けなくなってきました(苦笑)。今は、ボサノヴァが一番好きですし、ゆったりとした音楽の方が心が静まります。

 最初、「メランコリー・マーチ」というタイトルを耳だけで聞いて、「憂鬱な行進曲」とは変なタイトルだなあ、と思っていたら、「哀愁の3月」という意味だったんですね。番組では3月にちなんだ曲を特集していたわけです。

 ジュリー・ロンドン(1926~2000)も英国人かと思ったら、芸名で本名はゲイル・ペック。米カリフォルニア州出身で、もともとは女優さんだったようです。(1944年「ジャングルの妖女」でデビュー)道理でスタイルが良く、美貌に恵まれていたわけです。一度は芸能界を引退しますが、55年にアルバム「彼女の名はジュリー」を発表してジャズ歌手と女優業を再スタートして、この中の「クライ・ミー・ア・リバー」がヒットして一躍人気者になったようです。

 いずれも、私が生まれる前の出来事でしたので、知りませんでした(笑)。でも、「クライ・ミー・ア・リバー」はさすがに聴いたことがありました。彼女はセクシー路線で売り出したせいか、ジャケット写真が凄い。まるで、「プレイボーイ」誌のピンナップガールのようです。あの格好は、恐らく、当時の流行の最先端だったのでしょう。1926年生まれといえば、あのマリリン・モンローと同い年だったのですから。

 昨日の昼休みは、久しぶりに、銀座の「山野楽器」に行って、このジュリー・ロンドンの「メランコリー・マーチ」の入ったCDを買おうと思いましたが、なかなか見つからず、結局、諦めて帰って来てしまいました。

 あとで、ウチに帰って、ネットで調べてみたら、「カレンダー・ガール」というアルバムに収録されていることが分かりました。1月から、どういうわけけか、13月までをテーマにした13曲が収録されていました。

 これを読んだ諸先輩の皆々様は「何を今さら、ジュリー・ロンドンなんて言ってるんだ!」と訝しがることでしょうが、私の親の世代が全盛期だったので、私自身はよく知らなかったのです。今聴いても、とても新鮮で癒される気分になるので取り上げさせて頂きました。

 若い頃は、ジャズは、爺むさくて、敬遠していたのですが、年を重ねるとだんだん身に染みて好きになってきました。特にヴォーカルがいいですね。以前は、チェット・ベイカーのアルバム「シング」をよく聴いていましたが、これから、女性ヴォーカル代表として、ジュリー・ロンドンを聴いてみることにします。(でも、女性ヴォーカリストは、やはり、エラ・フィッツジェラルドが最高かな?)