本当に懐かしいサン=サーンスと「アルルの女」

 本日の読売新聞を読んでいたら、空木慈園著「サン=サーンスをもう一度」という本の広告が目に入って来ました。大変失礼ながら、この本に興味を持ったわけではなく、「サン=サーンス」の名前です。本当に懐かしい。

 今でこそ、ほとんど聴かなくなりましたが、もう半世紀以上も昔の私が小学生時代、毎日のように聴いたものです。東京郊外の小学6年生。当時、私は、代表児童委員会委員長兼放送部の部長で、お昼に2、3人と一緒にレコードを掛ける「係り」を仰せつかっていました。この時、曲を紹介するDJ役もです。放送室に給食を運んで、曲の合間に食事しますが、当時は「特権」のような感じで嬉々として楽しんだものでした。

 曲は、演歌や流行歌やジャズやロックは御法度でした(笑)。やはり、子どもの情操教育に相応しいクラシックです。その中でも、ベートーヴェンやマーラーやシュトックハウゼンのようなちょっと肩肘を張って聴くような曲ではなく、レストランのBGMのような小品です。その代表が、サン=サーンスだったのです。

 「初めにお聞かせするレコードは、サン=サーンスの『白鳥』です」

 サン=サーンスと言えば、「白鳥」。この曲を何度掛けたことでしょうか。

 他に、覚えているのは、レハールのワルツ「金と銀」、そしてエルガーの「愛のあいさつ」(チェロ演奏)、ヨハン・シュトラウス「美しき青きドナウ」、グリーク「ペールギュント」組曲「朝」…。これらも毎日のように掛けていました。今では、YouTubeで検索すれば、簡単に聴くことができますね。今の小学生諸君は、どうしているのでしょうか? やはり、ダウンロードした曲をそのまま流したりしているのかなあ?

東京・一ツ橋

  そう言えば、思い出しました。下校時刻になると、放送部員は、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」のラルゴ(家路)を掛けるのも仕事でした。

 「下校時刻になりました。用のない生徒は早く家に帰りましょう」

 それでも、帰らない生徒に対しては、

 「運動場の鉄棒近くでおしゃべりしている生徒、早く家に帰りましょう」

 などと、偉そうに注意したものです。

 私の通った小学校は廃校となり、今では影も形もありません。こうして、思い出だけが残っています。

東京・一ツ橋

【追記】

 あんりまー。下校時に掛けた音楽を「ドヴォルザークの交響曲第9番『新世界より』のラルゴ(家路)」と書きましたが、大間違いでした。これは、中学校の時の下校音楽でした!

 では、小学校の時の下校音楽は何だったのか?思い出したら、メロディーが浮かんで来ました。でも、曲名が分かりません。そこで、小学校時代の同級生Gさんに聞いてみました。私が下手なピアノでメロディーを演奏して聴いてもらいました。しかしながら、彼女も思い出せません。

 最後の手段。スマホで「クラシック、フルート、名曲」で検索してみました。その通り、フルートの名曲だったからです。そしたら、何曲か候補が出てきましたが、そのリストの中で直ぐピンと来て、やっと思い出しました。

 ビゼーの「アルルの女」組曲の「メヌエット」でした。

 サン=サーンスよりもこっちの方が胸に沁み渡り、涙が出るほど懐かしくなりました。

 音楽は童心にかえらせてくれます。

戦後ジャズブームに日本敗戦と米軍占領が欠かせない

 NHKの回し者ではありませんが、今夏のテレビの戦記物特集は、やはり、NHKが量質ともに圧倒して見応え十分でした。特に8月6日放送の「侍従長が見た 昭和天皇と戦争」(元海軍大将の百武三郎侍従長の「側近録」)と8月15日放送の「ビルマ 絶望の戦場」(牟田口廉也司令官によるインパール作戦失敗と敵前逃亡。ビルマ戦線での戦死者総計16万5000人。幹部連中のみ夜ごと芸者を揚げての宴会三昧。木村兵太郎ビルマ方面軍司令官の兵士置き去り敵前逃亡。商社日綿ラングーン支店長に「あとは宜しく」)は圧巻でした。

 それに比べ民放は…。タレントを露出して有名にして、有名を「信用」と錯覚・洗脳させ、CMに出演させてモノを売って稼ぐ「電波貸し」ビジネスに忙しく、視聴率の取れない戦記物なんぞ、やるだけ無駄といった感じでした。

東銀座「エッセンス」 アジフライ定食1200円+アイスコーヒー=1300円

 NHKはラヂオも充実していて、今、スマホアプリ「らじる★らじる」の「聴き逃しサービス」で、カルチャーラジオ 日曜カルチャー「クレイジーキャッツの音楽史」(全4回)にハマっています。お話は、音楽評論家の佐藤利明さん。この方、1963年生まれということですから、60年代のクレイジ―キャッツの全盛期をほとんど知らないはずなのに、今は音源も映画DVDもYouTubeもありますから、「遅れて来た青年」として追体験し、異様な執念でクレイジーキャッツの全てを調べあげています。(生前のメンバーにもインタビューしています)

 私は、50年代生まれですから、クレイジーキャッツ全盛期のど真ん中で、「シャボン玉ホリデー」や映画「無責任男」シリーズで育ったようなものです。それでも、佐藤さんの話を聞いていると、知らなかったことばかりで、「さすが音楽評論家」と感心したものです。

 クレイジーキャッツは、コミックバンドではありますが、もともとは正真正銘のジャズマンです。しかも、メンバーは大卒のインテリが多く、中には東京芸術大学(安田伸、64歳没)や早稲田大政経学部(桜井センリ、86歳没)出身者もいます。植木等は三重県の寺の住職の子息(父徹誠は、真宗大谷派僧侶で、戦時中、戦争反対を訴え、何度も投獄された)で東洋大卒。普段の人柄は、ニコリともしない超真面目人間だったというのは有名です。

 クレイジーキャッツは当初、キューバン・キャッツとして、1955年4月、萩原哲晶(ひろあき)とデューク・セプテットのハナ肇(工学院土木科中退、63歳没)と犬塚弘(徳川家康直参の旗本の家柄。文化学院卒、現在93歳)が中心になって結成されますが、メンバーの入れ替えを経て、1957年までにフランキー堺とシティースリッカーズの谷敬(後に谷啓、中大中退、78歳没)と植木正(等、80歳没)らも加わり、1960年には石橋エーターロー(青木繁の孫、福田蘭童の子息、東洋音楽学校卒、66歳没)が結核療養で代役となった桜井センリを加え、7人のメンバーが固定します。

 クレイジーキャッツの最大のヒット曲は「スーダラ節」ですが、作詞が青島幸男(早大卒、74歳没)、作曲がクラリネット奏者だった萩原哲晶(東京音楽学校、後の東京芸大出身、58歳没)。この名コンビが、クレイジーキャッツの名曲を生みだします。ミュージシャンの大瀧詠一が「クレイジーキャッツは日本のビートルズだ」と評したらしいですが、ロックとコミック音楽とジャンルは違っても1960年代を代表するミュージシャンとしては共通したものがあります。となると、青島幸男=萩原哲晶はレノン=マッカートニーみたいなものと言えるかもしれません。(「無責任一代男」「ハイそれまでよ」「ゴマスリ行進曲」などはこのコンビ。萩原哲晶は、前田武彦作詞で「エイトマンの唄」まで作曲していたとは!)

 佐藤利明さんの「クレイジーキャッツの音楽史」が何で面白いのかと言いますと、単なる音楽史に留まらず、戦後文化史になっているからです。何で、戦後になって、日本にジャズブームが起きたのか? 一言で言えば、日本が戦争で負け、米軍に占領されたからです。米軍は兵士の慰問のため、北海道から沖縄まで、駐留米軍基地に娯楽施設を作りました。そこでジャズを演奏すると、高額なギャラが貰えるということで、若者が楽器を習得して殺到します。その中で、メキメキと腕をあげてプロになる若者も出ます。クレイジーキャッツはその代表かもしれませんが、テナーサックスの松本英彦、原信夫とシャープ&フラットや萩原哲晶とデューク・オクテットなど米軍基地にお世話にならなかったバンドはありません。アイドルグループ「ジャニーズ」をつくったジャニ―喜多川もそうですし、後に裏方のプラダクションに回って「ナベプロ」を創業する渡辺晋(とシックス・ジョーンズ)らもそうです。

 その渡辺晋がナベプロをつくったきっかけは、1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効されたため、日本駐留の米軍基地が縮小されたためでした。同時に娯楽施設も封鎖され、日本人のジャズマンも基地での仕事を失うようになったからだというのです。

 この話を聞いて、「なるほどなあ」と思いました。日本の戦後音楽史には、敗戦と占領期の米軍進駐とジャズが欠かせなかったという話には、実に、目から鱗が落ちるような思いでした。日本は戦時中は、敵性音楽は禁止していましたからね。もし、日本が勝っていたら、浪花節と都々逸と軍艦マーチの世界だったかもしれません。

ザ・ビートルズBlu-ray「ゲットバック」セッション感想

 1週間の病気療養生活で、本は読めないし、寝てばかりいられなかったので、ちょうど購入したばかりのBlu-ray3枚組「ザ・ビートルズ:Get Back」(ウォルト・ディズニー・ジャパン、7月13日発売、1万6500円)を時間を分散して見ていました。

 1969年1月2日から31日にかけて収録された「ゲットバック」セッションで、約60時間の映像と約150時間の音声を、新たに7時間47分間のDVD3枚組に編集したものです。既に昨年、ネットで配信されて話題になりました。

 私はネットの有料会員ではないので、DVD化されればいつか買うつもりでしたが、私のようなビートルズ・フリークから言わせてもらえれば、やはり、Blu-ray3枚組1万6500円は高過ぎるし、長過ぎる。普通の人なら、映画「レット・イット・ビー」で有名になったルーフトップ・コンサートが入った3枚目(2時間18分)だけで十分だと思います(バラ売りしないでしょうが)。

 会社の同僚の勧めで、DVDセット(1万3200円)ではなく、より画質が鮮明なBlu-rayセットを選んだので、53年以上昔の映像なのに昨日撮影したばかりのような驚くべき鮮やさです。デジタル・リマスター技術の進歩のおかげでしょうが、驚嘆するしかありません。

 今更説明するまでもありませんが、「ゲットバック」セッションは当初、レコーディングの様子やライブ演奏を収録してテレビ番組のために撮影されたものでした。ライブ演奏会場は当初、古代劇場だったり、テレビスタジオだったりしましたが、中止になり、結局、ロンドンのアップル社の屋上になりました。4人は激しく意見をぶつけ合い「空中分解」となり、ジョージが途中で「脱退宣言」してスタジオに顔を出さなくなったりします。

 当初は、「ゲットバック」アルバムとして、春にも発売する予定でしたが(私は、当時中学生で、「ミュージックライフ」誌に、ニューアルバム「ゲットバック」の広告が掲載されていた事を覚えています)、「お蔵入り」となり、夏に、ビートルズとしては最期のレコーディングとなった「アビイ・ロード」の方が先に秋に発売され、お蔵入りになっていた「ゲットバック」は翌70年に映画「レット・イット・ビー」のサントラ盤(フィル・スペクターによるアレンジ)として発売され、同年4月にビートルズ解散(ポール脱退)も発表されます。

 話が前後した、随分マニアックな話でした。

 ということで、このセッションではビートルズの初期のカバー曲や新曲が完成する前のラフな状態や試行錯誤が伺えるわけです。アルバム「レット・イット・ビー」収録曲は勿論、「アビイ・ロード」に収録される「オー!ダーリン」や「マックスウェルズ・シルバー・ハンマー」のほか、後に各自ソロになってアルバムに収めることになる「テディ・ボーイ」「バック・シート」(ポール)、「ギミー・サムシング・トゥルース」(ジョン)、「オールシングズ・マスト・パス」(ジョージ)までありました。これらは大体、3年後の1971年に発表される曲でしたから、随分早い段階で試作品が出来ていたことを初めて知りました。

 もう一つ驚いたことは、この作品を撮ったマイケル・リンゼイ=ホッグ監督が大御所かと思っていたら、メチャクチャ若いのです。BBCのポップス番組「レディ・ステディ・ゴー」のディレクターだったことから抜擢されたらしいのですが、1942年生まれということでポールと同い年。当時、まだ26歳です。(髭を生やしたポールは、40歳過ぎに見えます。)

 もっとも、有名なプロデューサー、ジョージ・マーチンも1926年生まれですから、この時、まだ42歳です。実に若かったんですね。

 また、空中分解しかけたところで、辛うじて「繋ぎ役」となったオルガン奏者のビリー・プレストンは1946年生まれですから、当時まだ22歳です!(リトル・リチャードのバックで弾いていたビリーがビートルズと初めて会ったのが16歳だったとは!2006年、59歳で病死されたことは返す返すも残念です)

 扨て、やっと感想文です(笑)。これは、病身で見るべきではありませんね。気分が落ち込みます。映画「レット・イット・ビー」が公開された時、中学生だった私は、東京・新宿の武蔵野館で朝から晩まで4回も見続けた覚えがあります。当時は入れ替え制度がなく、席も「指定席」以外自由だったからです。その後も何十回もこの映画は観ているので、内容は知り過ぎてはいるのですが、ここまで酷いとは思いませんでした。

 特に、今の時代では考えられないくらい彼らもスタッフも四六時中、煙草を吸いっぱなし!神聖な職場だというのに女(とはいっても恋人や配偶者)を連れ込み、特にジョンは遅刻魔で前半はほとんどやる気なし。ポールの独裁的な態度は強引で、ジョージがついにキレて行方をくらます始末です。呆れた事に、ワインやアルコールを飲みながらのレコーディング。会話も実に下品で野卑なのです。「ゲットバック」の歌詞に出て来る「カリフォルニア・グラス」が「カリフォルニアの大麻」のことだったとは!

 あの大天才モーツァルトに嫉妬したと言われるサリエリだったら、こんな感想を述べるかもしれません。

 「奴らは何て、下品で野卑なのでしょう。それなのに、奴らが生み出すメロディといったら天使から遣わされたような天衣無縫の旋律。あんな下ネタ好きで、酒や煙草はのみ放題。隠れてラリッているに違いない。不良少年がそのまま大人になったようで、社会の常識に染まろうとはしない。そんな野卑で下品な人間が天上の音楽を紡ぎ出すとは、神は如何にも不公平に人間を作りたもうたことか」

 それでも最後の「ルーフトップ・コンサート」は圧巻で、全ての悪や災いを帳消しにしてくれる感じです。ビートルズの音楽は鮮明な映像とともに、これから100年後も1000年後も人類の歴史が続く限り、繰り返し聴かれることでしょう。

奇跡のような音楽セッション=ジョージさんのお導きで

 昨日は、またまた奇跡のようなことが起きました。この渓流斎ブログにかなりの頻度でコメントをお寄せ頂いている小澤譲二氏(以下ジョージさん)からお誘い頂き、初対面ながら彼の友人の自宅で行われた音楽セッションを見学して来ました。

 まずあり得ませんよね?(笑)。

 いくらブログにコメントをお寄せくださる方でも、書かれていることが真実かどうか確かめようがありません。ですから、いくら招待されたからと言っても、ノコノコとついて行くのも大胆不敵、というかマヌケです。

JR高輪ゲートウェイ駅

 でも、このジョージさんは、毎回、コメントでかなり御自分のプライベートなことを微に入り細に入りご報告くださり、そのせいか、全員が簡単に読むことが出来るブログの「コメント欄」にアップするのは憚れました。それでも、大変正直そうな方に見え、大変な音楽好きなセミプロで、一時期、一世を風靡したゴダイゴのタケカワユキヒデさんとも御関係があるというので、これも何かの御縁、ということで、出向くことにしたのです。

 人生、縁と運ですからね。

 ジョージさんの御祖父は、横浜の貿易商として来日した英国人でした。小学校から高校まで横浜のインターナショナル・スクールに通い、大学はICU(国際基督教大学)です。ICUと言えば、私の小中学校時代の友人の三由君の母校でもあり、授業は英語だったと聞いたことがあります。かなりレベルの高い大学です。

 ジョージさんの自己紹介によると、小学校から大学のICUまでクラスメートだったジョニー野村さんと大学でバンドを結成し、その際、ヴォーカルに同じ大学の奈良橋陽子さんを迎えたといいます。後にジョニーさんと奈良橋さんは結婚します。この二人は、業界では知る人ぞ知る有名人で、ジョニーさんは、音楽プロデューサー、奈良橋さんは、ハリウッド映画のキャスティング・プロデューサーなどとして活躍します。

 二人は、大学時代のESSで、後に俳優になる中村雅俊さん(慶応大学)やタケカワユキヒデさん(東京外国語大学)らと知り合います。そこで、ジョニーさんは、旧友でゴールデンカップスで活躍していたミッキー吉野さんをタケカワさんに紹介して、あのゴダイゴ結成に繋がったといいます。ゴダイゴは「銀河鉄道999」や「ガンダーラ」などヒット作を連発します。

 また、奈良橋さんの方は、トム・クルーズ主演の映画「ラスト・サムライ」(2003年)のActing Producerとして渡辺謙らを抜擢して大ヒットさせます。

 奈良橋さんは現在も演出家、劇作家、作詞家などとしてご活躍されていますが、ジョニー野村さんは、昨年(2021年)、惜しくもセブ島の自宅で亡くなりました。行年75歳。

 ゴダイゴのタケカワさんは、私の大学の先輩で、しかも、私も在籍した同じ音楽クラブの先輩だったという浅からぬ御縁がありました。もっとも、大学のキャンパスでは一度もお会いしたことがなく、見るのはテレビのブラウン管を通してでした。彼は、外語大に行かずに、ICUばかり通っていたことが分かりました(笑)。

気温35度という炎天下のため、都心なのに、人影もまばら

 さて、ジョージさんとは2020年に出来たばかりで、私も生まれて初めて降りるJR高輪ゲートウェイ駅の改札で待ち合わせしました。初対面のジョージさんは意外と小柄な方だったので驚きました(とはいえ、170センチはあると思いますが)この時、ジョージさんのICUの同級生で、C&Wバンドのプロ(キーボード)になった西村さんと、横浜のインターナショナル・スクール出身でヴォーカルのメアリーさんを紹介されました。

 西村さんは以前、吉祥寺に住んでいた時、近くにゴダイゴのタケカワさんも住んでいて、あの名曲「ガンダーラ」を、ミッキー吉野さんらと一緒に作曲している途中経過の場面に遭遇していたエピソードを後で伺い、これまた吃驚しました。

 音楽セッションをやる会場は、ジョージさんの古くからの友人の営ちゃんの自宅マンションの一室でした。もう50年近く住んでいるということでしたが、地下鉄泉岳寺駅から数分ですから、かなりの高級マンションでした。営ちゃんは、立教大学出身で、学生時代にテレビの「エレキ合戦」に出演して決勝まで進んだとかいう伝説の持ち主でした。

JR高輪ゲートウェイ駅

 マンションには、もう一人、営ちゃんの立教大学の後輩で一緒にバンドをやっていたメンバーの一人で、サックス奏者の全ちゃんもいらっしゃいました。これで全員ですが、初対面の方ばかり一気に5人ですから、こんがらがってしまいました。普通の人だったら臆するところでしょうが、私は人と会うのが仕事でしたから、辛うじて大丈夫でした。

 皆さん、私より年長の70歳代でしたから、ジョージさんのギター、西村さんのキーボードのセッションでやる曲は、ポール・アンカとかフランク・シナトラとか、エディット・ピアフとか、ディーン・マーチンとか、かなり古いのです。私の青春時代の音楽は背伸びしても1960年代の洋楽ポップスですが、先輩方の青春音楽は1950年代でした(笑)。でも、名曲ばかりで、「若造」の私でよく知っている曲で、昼間からビールを飲みながら、一緒に口ずさむことができました。

 2時間ぐらいでお暇しましたが、やはり、奇跡のような出来事でした。

 ※肖像権がありますので、渓流斎ブログではあまり顔写真はありません。

ピアノ買っちゃいました=気晴らしのためですが、何か?

  暗い個人的な話ではありますが、昨年は、長年親しかった友人に先立たれてしまったり、理由も分からず没交渉になった友人もいたりして、心に穴が開いてしまいました。正直、何か悪いことしたのかなあ、と自分自身を責めてばかり。心が不安定でずっと落ち込んでおりました。

 少年だったら非行に走れることでしょうが、気の弱い小市民としては、ひたすら、この難局を耐えるか、馬鹿なことをするしかありません(笑)。

 馬鹿なことというのは、今はコロナで旅行もできないし、友人たちと酒盛りも出来ないので、たった一人で、上野の洋食「黒船亭」とか銀座の仏料理「ポール・ボキューズ」とか、目の玉が飛び出そうな高級料理店に行って散財する程度の話ではありますが。

 でも、このまま、ずっと、暗く沈んだ生活を送っていくわけにはいきません。

 そこで、思い切って、電子ピアノ(ヤマハ Pー45)を買ってしまいました。

 ネット通販を見ていたら、急に欲しくなってしまったのです。しかも、天下のヤマハの88鍵なのに3万9700円と実に安い!私が使っている「TUMI」のバックパックが4万円もしましたから、「えっ?バッグよりピアノの方が安いの!?」と思わず、クリックしてしまいました。

 そのピアノは、写真で見ただけなので、大きさも重さも分かりませんでした。安いので、膝にも載せても弾けるおもちゃのようなシンセサイザーかと思っていました。

 そしたら、送られてきて吃驚。幅132.6センチ、高さ15.4センチ、奥行き29.5センチ、重さ11.5キロ。私の書斎の机は結構大きいので、楽勝かと思ったら、とても収まり切れません。箱の大きさだけでも部屋に置けば寝ていられません。

 仕方がないので、専用スタンド(Lー85)も買いました。これが8770円。ついでに、夜間に心置きなく弾けるように、ヤマハの専用ヘッドホン(HPHー50B)も買いました。これが2980円。付属のペダルがとてもチャチで使いにくいので、ハーフペダル機能に対応した専用ペダル(FC3A)も奮発しました。これが3645円。

 これらを合算すると、結局、5万5095円。…あれっ? ネット通販を事細かく見ると、これらのセット料金で5万円以下のものもありました。なーんだ。最初からセットで買えば、安くついたんだあ、とガッカリです。

ジョンとヨーコ(1979年8月、上野・洋食「黒船亭」) ※お店から特別の許可を得て撮影しております

 自宅にピアノがあるのは、20年ぶりぐらいです。最初は、学生の頃、実家に住んでいた時、私はお坊ちゃまですから、両親にお願いして買ってもらいました。ヤマハの「電気ピアノ」でしたが、確か、30万円ぐらいでした。今の価格なら50万円以上の感覚です。学生の身分ではとても買えません。

 ピアノは、幼児ではなく、学生時代から始めた上、独学でしたから全く上達しません。35歳を過ぎてから、先生について習いました。それまで主にビートルズの曲でしたが、今度はクラシックです。ソナチネから始め、モーツァルトの「トルコ行進曲」とかバッハの「インヴェンション第1番」など弾けるようになりましたが、ショパンやリストやドビュッシーともなると、#と♭があまりにも多くて(笑)、全くお手上げ。先生のところには2~3年通ったでしょうか、途中で挫折してしまいました。先生も家庭内の愚痴が多く、あまり情熱がなかったので、少し醒めてしまいました。

 となると、私の家には鬼が棲んでいますから、いつの間にか、ピアノはなくなり、何冊もあった楽譜も消えてなくなってしまいました。

 あれから20年。ついに念願のピアノを再び手に入れたのです!

 しかし、年を取ったせいか、指が動かん!! 

 それでも、今は、楽譜がないので、ジョン・レノンの「イマジン」とか、サイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」とか、バッハの「インヴェンション」とかを一生懸命に思い出しながら弾いて遊んでおります(笑)。

 3万9700円の電子ピアノですが、デモ曲が入っていたり、「グランドピアノ」だけでなく、「ハープシコード」や「ビブラフォン」「オルガン」など音色も変えられたり、どういうわけかスマホのiPhoneに接続して、何か出来たりするようなのです。

 年を重ねると、もうロックはキツイので、これからは、何かジャズ風の曲を勝手に作って、遊ぼうかと思ってます。

 これで少しは気が晴れるのではないかと思っています。

【追記】2022.3.5

「明日に架ける橋」はもう少しで思い出せそうです(笑)。このピアノは、ポール・サイモンが弾いているかと思っていたら、ラリー・ネクテルという天才ミュージシャンだったことが分かったことを2016年11月25日付渓流斎ブログ「レッキング・クルーのいい仕事」に書いております。併せてお読みください。

 会ったことがない私の祖父髙田正喜は昭和19年9月に40歳の若さで病死しましたが、音楽教師でした。朝から晩までベートーヴェンのソナタなど毎日のように弾きまくっていて、祖母が「ご飯ですよ」と呼び掛けても、「うるさい」と言って聞かなかったそうです。

 ピアノは私ではなく、祖父が弾いているような気がします。

A four of fish に新たな解釈!=ビートルズ「ペニー・レイン」の歌詞

 時間が経つのがあまりにも速すぎます。60歳の1年は、20歳の頃の1年の3倍速く幾何学級数的に過ぎ去っていくと聞いてはいましたが、3倍どころか、30倍速く経過する気がします。

 昨日は2月26日。「キング・カズ」の誕生日かもしれませんが、やはり「2・26事件」の日でしょう。昭和11年(1936年)の事件ですから、もうあれから86年も経ったのです。先日、過去に放送された「NHK特集」の「2・26事件」を再放送していましたが、これが、何と1979年に放送されたものでした。今から43年前に放送されたものです。1979年の43年前は1936年ですから、ちょうど中間点になるのです。

 私からすれば、1979年は結構最近ですが、1936年は生まれていないので遠い歴史の彼方の出来事だと思っていましたが、なあんだ、つい最近と言えば最近だったのです。その通り、1979年の時点では、事件当時の生き残りの方が多くいらして証言されていました。反乱青年将校を説得した上官の奥さんとかでしたが、一番驚いたのは、東京裁判でA級戦犯となった鈴木貞一(陸軍中将・企画院総裁、1888~1989年)が当時健在で、山下奉文らと一緒に反乱軍鎮圧のための策を練ったり、説得したりしたことを証言していました。彼は100歳の長寿を全うしたので、当時91歳。千葉県成田市に隠遁していましたが、とても矍鑠していて肉声まで聴けたことで大いに感動してしまいました。

銀座・ドイツ料理店「ローマイヤー」本日のランチ(鱈のムニエル)珈琲付1100円

 さて、渓流斎ブログ2022年2月25日付「『ペニー・レイン』のA four of fishの意味が分かった!=ポール・マッカートニー『The Lyrics : 1956 to the Present』」で書いた通り、一件落着かと思っていたら、「英語博士」の刀根先生から、新たな解釈のご提案がありました。

 「ペニー・レイン」の a four of は、4人のグループのことでしょう。fish は『新入り』とか『その場に不馴れな者』『餌食』。そういう女の子たちが頻繁にやって来る。『4人』は無論ビートルズの面々に対応しての4人。fishがfish and chips を表しているというより、chipsの代わりにpies を置いている言葉遊び。言うまでもなくジョン・レノンのひらめきでしょう。in summer はどうなんでしょう。開放的で放埒だった女の子(4人が一組の)や自分等4人のその頃の姿、振る舞い…そこに力点があるような…自分はそんなふうに受けとめています。

 fish and chips がどこまでも安直な食べ物であったように、その頃の自分たち4人と女の子たち(の交渉)=fish and finger pies が一種安直であったように思えます。

 ひょっええー、全く想像もしなかった解釈でした。finger pies がリヴァプールのスラングで、「女の子とのペッティング」を意味するとしたら、十分にあり得ます。

 ただ一つ、難点があるのは、この曲がポールの子ども時代の回想だったとすると、まだ4人のグループは出来ていなかったことです。ジョンとジョージは幼馴染ですが、リンゴとはセミプロになった1960年ぐらいからの知り合いですから。

 恐らく、fish and finger pies は食べ物であることは確かでしょうが、歌詞ですから、二重の意味が込められていることでしょう。となると、four が「4人」なのか、それとも「4ペンス分」なのか解釈が別れます。前回書きましたが、4ペンス=17円ではあまりにも安過ぎるので、「4人分」と解釈する可能性も否定できません。

 ポールさん、どっちが本当か教えてください。

「ペニー・レイン」のA four of fishの意味が分かった!=ポール・マッカートニー「The Lyrics : 1956 to the Present」

 2月24日早朝、ついにロシア軍によるウクライナ侵略が始まってしまいました。

 あれだけ、銀座のロシア料理店のロシア人の女将さんに「戦争はしないようにプーチン大統領に伝えてください」と念を押したのに、ルビコン川を渡ってしまいました。

 プーチンは、最近、歴史書を読み漁っていたといいますから、自分がカエサルになったつもりなんでしょうか。まさに、意図的、計画的で、まず新ロシア派が実効支配するウクライナ東部ドネツク州とルガンスク州の南部「独立」を承認し、ミンスク合意を一方的に破棄。これは、先の大戦で日ソ中立条約を一方的に破棄して満洲(現中国東北部)に侵攻したソ連軍の手口に習っています。

 何よりも、プーチン大統領は、戦争とも侵攻とも呼ばず、あくまでも自存自衛のためのやむを得ない処置で、領土的野心はなく、ウクライナの「非軍事化」「無力化」が目的だと主張しています。

 事態は分刻みで変化しており、チェルノブイリ原発をロシア軍が占拠したという未確認情報まで流れ、予断を許されません。

 ブラジルのモウラン副大統領は24日、ウクライナ侵攻を、ヒトラーのやり方と同じだと非難しましたが、プーチン氏は、中国以外の全世界から非難される歴史に残る悪者になってしまいました。

 さて、本日書きたかったことは、ビートルズの「ペニー・レイン」の歌詞のことです。

 ポール・マッカートニー初の自叙伝とも言える新刊「The Lyrics : 1956 to the Present」(Penguin Books Ltd.)を私は「衝動買い」で買ってしまったのです。今年6月に80歳になるポールは人類史上最も成功した有名な音楽家だと思いますが、これまで自叙伝の執筆に関しては頑なに断ってきたといいます。

 その代わりに出版されたのがこの本で、1951年生まれのアイルランドの詩人でピュリッツァー賞も受賞しているポール・マルドゥーンを相手に、ビートルズ、ウィングス、ソロを含めた現在に至るまで作曲した154曲に関しての思い出と自分の人生を彼は語っています。通販で購入したこの本は、送料込みで何と1万3071円もしました。国際郵便の直輸入で3週間近く掛かり、上下2巻のハードカバー本で、これまた何と960ページもありました。

 この本を衝動買いしたのは、何と言っても、「ペニー・レイン」の歌詞のことが一番気になっていたからでした。実は、この曲に関しては、渓流斎ブログ2021年2月11日付で書いた「ビートルズ『ペニー・レイン』にはエッチな歌詞も?」で取り上げたことがあります。

 お手数ですが、リンクを貼った上の記事をもう一度読んでほしいのですが、はい、読まれましたね? ということで次に進みます(笑)。

 私が最も不可解だった歌詞「Full of fish and finger pies」は、この本では「A four of fish and finger pies」となっていました。作曲者のポールの本ですから、こちらが正解なのでしょう。となると、A four of fish とはやはり、「4ペンス分のフィシュ&チップス」という意味なのでしょうね。残念ながら、この箇所について、ポールは一言も触れていません。

 日本人として分からないのは、four という複数なのに、何故、a という単数の不定冠詞が付くのかということです。マニアのサイトの中には、A four pennyworth of fish (4ペンス分のフィシュ&チップス」と説明する人もいます。これなら、He is a four-year-old boy. と同じような使い方だったのかな、と外国人でも想像できます。

 さて、「4ペンス分のフィシュ&チップス」とは日本円で幾らぐらいか気になりました。この曲が発表された1967年時点での英国の物価はよく分かりませんが(笑)、為替レートなら分かります。

 当時はまだ固定相場制で、1ポンド=1008円でした。そして、1971年2月15日以前は、1ポンド=20シリング=240ペンス(ペニーの複数)でした。ということは、1ペニー=1008円÷240=4.2円となります。ということは、4ペンスなら16.8円。当時、フィシュ&チップスがそんな安く買えたんでしょうか?

 ちなみに、現在1ポンド=154円ぐらいです。目下、英国ではフィシュ&チップスは、安い屋台売りから高級レストランまでピンからキリまであり、大体400円~3000円といった感じらしいです。となると、いくら1967年でも17円は安過ぎます。

 恐らく、ポールは子ども時代の思い出を唄っているので、4ペンスは1950年代の値段なのでしょう。そして、子供用に小量の4ペンス分のフィシュ&チップスが売られていたのでしょう。私が子どもの頃の1960年代、駄菓子屋さんでデッカイ飴玉が5円で買えましたからね。

 この本でポールが「ペニー・レイン」の歌詞の中で触れていることは、「Penny Lane is in my ears and in my eyes」の箇所です。in my eyes は今でも目に浮かぶ、といった感じですが、in my ears というのは、当時、ポールはこのペニー・レイン(という名の通り)にあった聖バーナバス教会の少年合唱団に参加していて、当時歌った讃美歌などを思い出すといった意味だったのです。

◇英霊記念日

 もう一つ、A pretty nurse is selling poppies from a tray の箇所。「可愛らしい看護師がお盆に載せたポピー(ケシ)の花を売っている」といった意味です。このポピーがpoppiesではなく、アメリカ人はpuppies(子犬) だと勘違いしている、とポールは発言しています。そして、このpoppies とは生花ではなく、paper poppies and badgesのことで、紙で出来たポピー、つまり造花だと説明しています。英国では11月11日は、rememebarance day(英霊記念日)と呼ばれ、第1次、第2次世界大戦で戦死した兵士を慰霊する日です。(1918年11月11日、第1次世界大戦終結を記念して英国王ジョージ5世によって定められた。)

 この日は、英国ではヒナゲシの造花のバッジを胸に付ける風習があるのです。看護師さんがペニー・レインのバス停の待合所近くでその造花バッジを売っているのをポールが子どもの頃見ていたので懐かしい思い出として振り返っていたのです。恐らく、日本の赤い羽根運動みたいで、売上は慈善団体に寄付されていると思われます。

 なあるほど。そうでしたかあ。実に奥が深い!

ATM(明るく、楽しく、前向きに)をモットーに=2021年大晦日所感

 2021年も暮れようとしています。この時期になると、いつも頭にこだまのように聞こえてくるのが、中原中也の詩「帰郷」の中にある「ああ おまえはなにをして来たのだと…吹き来る風が私に云う」というフレーズです。

 本当に一体、自分はこの年齢(とし)まで、何をして来たんだろう、という感慨です。随分、青臭い話じゃありませんか(苦笑)。少年の頃、年を取れば、落ち着いて、物事を達観して、日向ぼっこでもして、平穏な日々が送れるものとばかり思っておりましたが、真逆ですね。自分は、生臭坊主ということなんでしょうか(本物のお坊さん、失礼!)。人間、恐らく、誰でも未完成、未熟のまんまで死んでいくことでしょうね。

焼き鳥店「もりのした」佐賀名産のみつせ鶏

 さて、師匠さんも走る「師走」ということで、私も、ここ数日、ブログ執筆はほんの少しお休みさせて頂いて、他人様と同じような日常作業を行っておりました。年末は、いつも通り、年賀状書きとお買い物の付き合いとお掃除整理に追われた、といったところでしょうか。

 年賀状は、かつて一番多い時は300枚ぐらい出しておりましたが、年々減っていき、それが200枚となり、150枚になり、ここ最近では120枚ぐらいが続いておりました。が、今年はついに100枚を切りました。先方から「70歳になり、これを節目に賀状は取りやめることに致しました」との御連絡が届くようになり、私としても、「気づかないうちに減っていった」という感じが理想的です。先方から来なくなったら、こちらからもう返信しませんから、いずれ50枚ぐらいにしたいと思っております。

 年賀状が減っていった理由は、やはり、相手様が亡くなってしまったことが大きいですね。今年も高校時代の親友を始め、会社の70歳代のまだ若い先輩(出してから、後で訃報を知った方もおられました)ら5人も亡くなってしまいました。メメントモリです。

焼き鳥店「もりのした」

 最初から暗いことばかり書いてしまいましたが、来年以降の私のモットーとして挙げたいのが、「ATM」です。いえいえ、Automatic Teller Machine(現金自動預け払い機)のことではありません。「明るく、楽しく、前向きに」の頭文字を取った造語です(笑)。

 私にとって、今年最大の出来事は高校時代からの親友の急死でしたが、それにまつわり、想像もしていなかった人間関係のこじれに巻き込まれてしまい、落ち込んでいたら、ある方から、私の性格をズバリ見抜かれてしまい、これからは「明るく、前向きに」生きることを勧められたのでした。

 この「明るく前向きに」に「楽しく」を入れたのは私の考えです(笑)。もともと「お笑い」は大好きで、「エンタツ・アチャコ」や「あきれたぼういず」はさすがに知りませんが、クレイジーキャッツやドリフターズ、「コロンビア・トップ&ライト」「Wけんじ」、漫才ブームの「横山やすし・西川きよし」らずっと見聞きしてきました。

 この中で、「ビッグスリー」と呼ばれる「たけし」「さんま」「タモリ」の三羽烏がまだ健在なことが凄いですね。ビートたけしさんの場合、ギャラが高いせいなのか、ある番組を降板させられたり、最近人気に陰りが出てきてしまいましたが、タモリは、NHKの「ブラタモリ」などでその隠れたインテリぶりを発揮していまだに絶好調です。

 でも、3人の中でいまだに現役でお笑いの第一線を張っているのは、現在66歳の明石家さんまかもしれません。バラエティー番組のレギュラーに何本出ているか知りませんけど、若手芸人を押しのけて、40年以上もいまだにトップを走っています。私は、一番最初は、この人のことを「落語も出来ないのに、何処が面白いのか」分からなかったのですが、その当意即妙な司会進行ぶりや、常人ではとても考えられないギャグの連発には、誰かの好きな言葉でもある「余人に代え替え難い」お笑いのチャンピオンだと納得するようになりました。

 「お笑い」ながら、彼が時々垣間見せてくれる「人生訓」には、鋭利な刃物のように胸に突き刺さります。彼の娘に「いまる」と命名したのは、「生きているだけで丸儲け」から取ったことは有名です。確かに、地位も名誉も人気もお金も死んでしまったら、何も必要のない霞みたいなもんです。本当に、生まれてきて、生きているだけでも、丸儲けです。この世に生まれて来られなかった人も沢山いることでしょうから…。

最近、ジャズギターにはまって、CDを買い揃えました。ケニー・バレル、タル・ファーロウなんかいいですね

 もう一つ、先日、見ていた番組で、「さんまさんに悩みはないんですか?」との質問に、彼は、25歳まで悩みはたくさんあったが、25歳以降はもう悩むのはやめようと決めた、と言うのです。「自分は悩むような大した人間ではない。反省もしない」と達観したようですが、これまた凄い。人間ですから、色々と悩みは尽きないはずですが、「悩むことをやめた」とはなかなか出来ないことです。(考えてみると、皆、一人で好きで悩んでいるのかもしれませんぜよ?)

 やはり、お笑いを仕事にしている限り、自分がハッピーでなければ、他人を笑わせることはできません。お笑いの王者は、天賦の才なのか、計算づくなのか分かりませんが、打算や計算ぐらいでは大した人気者にはなりません。やっぱり天才なんでしょうね。

 私もシニアになったことですから、これからは「明るく、楽しく、前向きに」をモットーに、無理はせず、背伸びもせず、某局の紅白はもうついていけないので、好きなタル・ファーロウ(米ジャズギタリスト、1921~98年)でも聴いて、年を越したいと思っています。

iPhone音楽しか生き残れない?=音楽プロデューサー木崎賢治氏

 21日(日)は、東京外国語大学の同窓会の懇親会(講演会)にオンラインで参加しました。大学の同窓会、もう少し細かく言いますと、「仏友会」といってフランス語を専攻した大学の同窓会は、春と秋の年2回開催されていますが、同じ大学でも他の語学科にはないようです。別に仏語科の卒業生の結束が固いわけでもないし、どちらかと言えば、仏語出身者は個人主義者が多く、特に、私と同時期にキャンパスで過ごした学友は関心がなく殆ど参加していません。昭和初期に設立されたこの会が100年近く続いているのは七大不思議の一つになっております。

 今回のゲストスピーカーは、木崎賢治(きさき・けんじ)さんという1969年に卒業された今でも現役の音楽プロデューサーです。会に参加する度に思うのですが、本当に色々な優秀で素晴らしい先輩方がいっらしゃるものだと感心します。 

 木崎氏は、大学卒業後、芸能プロ「ナベプロ」の渡辺音楽出版に入社し、最初は、洋楽の音楽著作権管理の仕事で、海外の著作権者とのやり取りや翻訳等に従事していましたが、そのうち、ピアノも弾けるので、音楽プロデューサーに向いているという社内の人からの推薦もあって転向し、沢田研二、アグネス・チャン、山下久美子、大澤誉志幸、吉川晃司らの制作を手掛け、その後、独立して槇原敬之、福山雅治らのヒット曲も手掛けた人でした。

 話がうまくて落語家の噺を聞いているようで大変面白かったのですが、逆に言うと、この面白い話を活字に起こすとなると難行中の難行になります。話が飛んだり、文語にするには言葉足らずだったり、面白いニュアンスを伝えるのが難しいので、これは私(我)があくまでも聞いた=如是我聞=ということで、色々勝手に捕捉しながら皆さんにもお伝えしたいと思います。

 木崎氏は、小学校の頃は歌謡曲を聴いていましたが、中学生になると、当時の米軍放送FEN(現AFN)から流れる「ビルボード・トップ20」に夢中になり、ニール・セダカやポール・アンカ、エルビス・プレスリーらにはまります。でも、どちらかと言うとアーティストよりもその作詞作曲者(「ハウウンド・ドッグ」をつくったリーバー&ストーラーやゴフィン&キャロル・キングなど)やプロデューサー、エンジニアら裏方の方に興味があったといいます。

 というのも、本人も中学生の頃からギターを、高校生の頃から本格的に作曲を始め、NHKの番組「あなたのメロディー」に応募したら見事合格し、ペギー葉山さんが唄ってくれたといいます。

 高校の時にカントリーやハワイアンをやり、大学ではフォークソングをやりながら、週に1,2回も新宿のディスコで、黒人中心のR&Bを聴きながら踊り、メロディーと和音だけでなくリズムも身体で覚えたといいます。そんな音楽の素養があったのです。

 ピアノは大学生の頃から始めたとはいえ、彼の特技は採譜、つまり、楽曲を譜面に書けることでした。歌手出身の作曲家平尾昌晃さんは、五線譜が書けなかったので、担当した曲は木崎氏が採譜したといいます。

◇沢田研二「許されない愛」が大ヒット

 プロデューサーになって最初の1年ほどはヒット作に恵まれませんでしたが、沢田研二の「許されない愛」(1972年)が大ヒットします。この時、まだ25歳の若さでしたが、この曲によって自分の感性に自信が持てるようになり、その後は、著名な作詞作曲家の大先生に対しても、自分の意見を言えるようになったといいます。

 普通の人は、”音楽プロデューサー”といっても何の仕事をするのか分からないでしょうが、木崎氏の裏話を聞いて、「なるほど、そういうことをする仕事か」と分かりました。

 乱暴に言えば、歌手に合った「売れる曲」を作詞作曲家につくってもらうことです。そのためには、大先生に対して「ここを直してくれ」と直接あからさまには言えませんが、「このフレーズを繰り返して欲しい」とか「とてもいいんですが、サビがもう一つ…」などと怒られながらも提案してみたり、なだめすかしたり、ご機嫌を取ったりして、自分の感性を信じて、原曲とはかなり違っても完成させていく監督のような協力者のような助言者のような、要するに、製品として売り出していく最終的な責任者であり、製作者ということになります。

◇アグネス・チャン秘話

 アグネス・チャンのデビュー作にまつわる秘話も面白かったでした。アグネス・チャンは平尾昌晃さんが香港からスカウトしてきた歌手でしたが、平尾さんがつくった曲は、小柳ルミ子調の曲で木崎氏にはどうしても気に入らない。そこで、ヒット曲の極意が分かってきた木崎氏は森田公一さんに作曲を依頼し、それが、あのデビュー曲「ひなげしの花」(1973年)だったのです。デビュー曲が大ヒットしたのは良いのですが、怒り心頭なのは平尾昌晃さんです。「自分が見つけて来たのにどういうことか」と怒られます。そこで、木崎氏はアグネス・チャンの3枚目のシングルとして平尾氏に依頼します。それが、100万枚のヒットとなった「草原の輝き」ですが、この曲が出来上がるまでに、何度も手を変え品を変えて懇願し、怒られたり、逆に奥の手を使って勝手にフレーズを繰り返したりして、編曲者から「こんなことしたら、平尾さん、怒っちゃうんじゃないの?」と言われても「自分の感性」を強行してしまったようなのです。

◇前世代がつくったものの組み合わせ

 この後、沢田研二の「危険なふたり」(安井かずみ作詞、加瀬邦彦作曲)や「勝手にしやがれ」(阿久悠作詞、大野克夫作曲=レコード大賞、作詞家の阿久悠さんとの大喧嘩の話も面白かった)など次々とヒット曲を生み出した木崎氏は、あるヒットの法則を発見したといいます。新しいものは世の中になく、前世代がつくったものを足したり、組み合わせたりしたりしているに過ぎない。それは、バッハでもベートーベンにも言えること。大リーグでMVPを獲得した大谷翔平選手も、打つ、投げるの組み合わせでやっている。周囲から「そんなもの無理だよ」と疑いの目を見られながら二刀流の実績が残せたのもよっぽど精神力がないとできない。音楽も周りにある常識的なものを見直すことしかヒット作に導かれないのではないかー、と。

 木崎氏は最近、「プロデュースの基本」(集英社インターナショナル)という本を出版しましたが、「本人に会ってお話を伺いたい」とアプローチして来た人は、音楽関係者ではなく、IT関連の人ばかりだったといいます。

 木崎氏は「今や音楽でもiPhoneでやらなければ駄目な時代になってきた。今や若者はCDも買わず、CDはもはや絶滅危惧種に近い。こうなると、iPhoneで聴ける音楽しか生き残っていけなくなる。最近、ロックバンドが流行らなくなったのも、エレキギターのひずんだ音楽がiPhoneでは聴きづらいからでしょう」などと分析していました。「なるほど、ヒットメーカーが着目することは凡人とは違うなあ」と感心した次第です。

4人が影響受けたワールド・ミュージック=北中正和著「ビートルズ」

 私は自他ともに認めるビートルズ・フリークなので、「ビートルズに関して知らないことはない」とまで自負しておりましたが、最近話題の北中正和著「ビートルズ」(新潮新書、2021年9月20日初版)を読んで、そのあまりにものマニアックぶりには脱帽してしまいました。

 著者の北中氏は、著名な音楽評論家で、御本人はこういう言い方されると困るかもしれませんが「ワールド・ミュージックの大家」です。実は、この大家さんとは、個人的によく知っている方で、取材でお世話になったり、酒席で何度も同席させて頂いたりしております。ですから、北中氏というより、普段通り、北中さんと呼ばさせて頂きます。

 著者を知っていると、この本を読むと、北中さんの声や身振りが聞こえたり、思い浮かんだりします。博覧強記とも言うべき北中さんのワールド・ミュージックに関する博学な知識をこれでもか、これでもか、といった具合で披露してくれます。(ただし、御本人は「押し」が強い性格ではなく、真逆の静かで穏やかな方です)

 ということで、この本では、ビートルズを語っているようで、ビートルズを語っていないような、ビートルズの4人が影響を受けた世界の音楽の歴史を語った本と言えるかもしれません。まさに、北中さんの真骨頂です。4人が最も影響を受けた音楽は、エルヴィス・プレスリーやリトル・リチャードらのロックン・ロールであることは確かなのですが、そんな単純なものではありません。彼らの親の世代が聴いていたジャズを始め、カントリー、ブルース、フォーク、スキッフル、彼らのルーツであるアイルランド民謡、R&B、ラテン、はたまたキューバのソンやジャマイカのスカ、そして、ラヴィ・シャンカールを通してのインド音楽やシュトックハウゼンらの現代音楽まで取り入れていたのです。

 つまり、ビートルズはロック一辺倒ではなく、例えば、「ハニーパイ」などは1930年代のジャズ風ですし、「オブラディオブラダ」はスカのリズムの影響を受けて導入しています。(今流行りのラップは、ジョン・レノンの「平和を我等に」が魁になったと私は思っています)

 私もビートルズ・フリークを自称しているので、ある程度のことは既に知っておりましたが、例えば、ビートルズがハンブルク時代にトニー・シェリダンのバックバンドとして最初にレコーディングした「マイ・ボニー」が、英国の17世紀の名誉革命後の王権争いの伝説が元になっていたことまでは、流石に知りませんでしたね。

 驚いたことは、BBCテレビ放送の「マジカル・ミステリー・ツアー」の中で、リンゴの音頭で観光バスの中で老若男女の乗客が一緒に歌ったり、ハミングしたりする場面があります。「分かる範囲でその曲名を挙げておくと『アイヴ・ガット・ア・ラヴリー・バンチ・オブ・ココナッツ』『トゥ・トゥ・トゥツィ』「アイルランド娘が微笑めば』『レッド・レッド・ロビン』『日曜日はダメよ』『地獄のギャロップ』などで、ロック系の局がひとつも含まれていないことに注目してください」(111頁)とまで北中さんは飄々と書くのです。今は、DVDなどがあるので、ゆっくり確かめることができますが、こんなところまで注目する著者のマニアックぶりには恐れをなすほどです(笑)。

 いやあ、題名を言われてもほとんど知らない曲ばかりですね。でも、今は大変恵まれた世の中になったもので、ユーチューブなどで検索すれば、「ああ、あの曲だったのかあ」と分かります。恐らく、この本では、皆さんも知らない曲が沢山出てくると思いますが、ユーチューブを参照しながら読む手があります(笑)。

「モヤモヤさまぁ~ず」が3回も訪れた東京・王子「カレーハウス じゃんご」(ロースカツカレー 950円 ルーも御飯も超極少でした)

 最近、画家の生涯やモデル、時代背景などをマニアックに解説した「名画の見方」のような本がよく売れているようです。そういった意味で、この本も一風変わった「ビートルズの聴き方」の教則本になるのかもしれません。知識があるのとないのとでは、格段の違いです。

 ビートルズは解散して半世紀以上も経つというのに、いまだに聴かれ続け、ラジオ番組でも特集が組まれたり、関連本も世界各国で出され続けています。そろそろ、もうないのではないかと思われたのに、北中さんの本はやはり異彩を放っており、逆に、半世紀経たないと書けない本だったかもしれません。

 話は飛びますが、業界と癒着する評論家が多い中、北中さんは、そんな人たちとは一線を画し、操觚者から見ても、見事にクリーンで清廉潔白な音楽評論家です。京大卒の学究肌だからかもしれません。

 ビートルズ・フリークの私が脱帽するぐらいの内容です(笑)。勝手ながら「年長の友人」と思っている北中さんの書いたこの本を多くの人に読んでもらいたいと思っております。

 あ、書き忘れました。この本を企画した新潮新書の編集者安河内雄太さんは、「年下の友人」でした(爆笑)。