山田耕筰、豊富な人脈を持つ巨人

一昨日10月8日に「山田耕筰 歌曲集」を取り上げたところ、不思議なことに、ブログに書けるほど(笑)の情報が集まってきました。

まずは、山田耕筰の人となりはー。

山田耕筰(1886〜1965年・明治19年〜昭和40年)

【作曲家・指揮者】日本西洋音楽史上の巨人。「赤とんぼ」など美しい童謡は、今も愛唱される。大正・昭和期の作曲家・指揮者。東京都出身。1908年(明治41)東京音楽学校卒。1910年ベルリンに留学。1914年(大正3)帰国して、精力的にオペラやオーケストラ作品を創作する一方、東京フィルハーモニー会に管弦楽部を創設、日本楽劇協会・日本交響楽協会を設立。日本の洋楽普及に多大な貢献をした。北原白秋と出会い、今も親しまれる童謡の名作を多く残した。作品は、交響曲「かちどきと平和」、歌劇「夜明け」、歌曲「赤とんぼ」「からたちの花」「この道」など。

 この出典は、(財)まちみらい千代田「江戸・東京人物辞典」からなのですが、この辞典の執筆者によると、何しろ、山田耕筰は「巨人」ですからね。今では少し忘れられてしまいましたが、とてつもない人です。

 まず、個人的なことながら、静岡県の義母(故人)が、山田耕筰の似顔絵入りのサインを持っていたのです。義母は若い頃、浜松市にある河合楽器の社長秘書を務めていたことがありました。その関係で、河合楽器に所用で訪れた山田本人から直接頂いたようですが、当時私は山田耕筰に熱烈な関心があったわけではなかったので、詳細について聞き忘れてしまいました。

とにかく、似顔絵はご自分で書かれたのかどうか分かりませんが、大僧正のような堂々とした禿頭(とくとう)で風格がありました。

はい、このような感じです。若い頃とは全然違いますね。

写真はいずれも、山田耕筰 十七回忌記念出版「この道 山田耕筰伝記」(恵雅堂出版)の編集を担当されたM氏からお借りしたものです。(従って、写真等の著作権は恵雅堂出版社に帰属します

M氏は「この本は、入社当初の私が編集を担当しました。実際に執筆したのは、社団法人 日本楽劇協会の皆さんですが、その中には山田耕筰の秘書をしていた方もいらっしゃいました。編集作業で1年間程、皆さんと接することができ、耕筰をめぐる大きな人脈の渦を感じたりして貴重な体験でした」と振り返っておりました。
同書は昭和57年発行で、 A4判カラー42ページ、本文中にモノクロ写真を多数掲載した総 305ページの豪華本ながら、残念ながら、現在は絶版だとか。

それでも、M氏は、この「この道 山田耕筰伝記」の一部コピーしたものをメールに添付して送ってくださいました。

この中で、先日、大阪音大の井口教授が講演された「原善一郎」の名前も出てきました。原が大正11年頃、突然、山田を訪ねてきて「ハルビン交響楽団の指揮をしてもらいたい」と要請した話などが出てきます。

また、大正15年夏、日本交響楽協会の分裂騒動が起き、30余人が脱退。山田側の残留者はわずか5人だったといいます。脱退組は近衛秀麿(指揮者で、近衛文麿の実弟)を中心に「新交響楽団」を結成、これが今日のNHK交響楽団の前身となった、と書かれています。私は不勉強で知りませんでしたが、あんなに仲の良かった山田と近衛は仲違いしたということなのでしょうか。

エピソードも満載です。占い好きの山田は昭和14年、実業之日本社から「生れ月の神秘」という占い本を出版して20版以上版を重ねるベストセラーになりました。山田は自分の名前を「耕作」から「耕筰」に改名し、戸籍まで変えてしまったというのです。

もう一つは、下の朝日新聞の記事(1981年11月25日付)にあるように、山田耕筰の未完の遺作オペラ「香妃」を山田の高弟である団伊玖磨によって完成され、東京と大阪で公演されるという内容です。

このオペラ「香妃」について、M氏は「私は幸運にもリハーサルから見ることができました。團伊玖磨先生が女性の声楽家に声を荒げて指示していた場面も見ています。いやはや、オペラひとつ公演するのには大変な財源と人材、エネルギーがいるもののだと若かった私はビックリしました」との感想を漏らされておりました。

オペラ「香妃」説明

オペラ「香妃」の一場面

繰り返しになりますが、これら貴重な写真は、いずれも山田耕筰 十七回忌記念出版「この道 山田耕筰伝記」(恵雅堂出版)の中で掲載されたものをお借りしたものです。ついでながら、昭和17年、山田耕筰に、満洲の皇帝愛新覚羅溥儀から贈られた「乾隆の壷」までありました。

山田耕筰は明治、大正、昭和という時代を代表する文化人であり、その時代の証言者でもあったことが、これでよく分かります。

ニキータ山下のディナー・コンサートと「山田耕筰歌曲集 傑作選100曲」

先程、哈爾浜学院にまつわる話題を《渓流斎日乗》に取り上げさせて頂きましたが、その「関係者」(笑)の方から、是非とも取り上げてほしいというコンサート等がありましたので、乗り掛かった舟ですから、茲でもお報せすることに致しました。

ご興味のある方は、是非、ご参加ください。

ポスターにある通り、ニキータ山下によるロシア民謡などのディナー・コンサートです。アコーディオンは、後藤ミホコ。

2018年11月1日(木)と6日(火)開場18時15分。場所は、東京・高田馬場駅前にあるロシア・レストラン「チャイカ」(電話03-3208-9551)です。

ニキータ山下は、ハルビンで日本人の父親と白系ロシア人の母親との間で生まれ、東京芸大声楽科を卒業。男性ボーカルグループ「ロイヤルナイツ」にリードボーカルとして参加して、旧ソ連で一躍人気グループとなり、その後ソロでも活躍している歌手です。

もう一つは、大阪音楽大学の井口淳子教授の講演会の「原善一郎」関係で、何度も山田耕筰が出てきましたが、その関連として、「山田耕筰歌曲集 傑作選100曲」(恵雅堂出版CD)をご紹介します。関定子ソプラノ、塚田佳男ピアノで「この道」「からたちの花」「赤とんぼ」などが収録されています。

1994年度レコード・アカデミー賞を受賞しております。不朽の名盤ですね。

えっ?何か、宣伝臭いですって?

いや、広告じゃありませんよ。あくまでも、ご紹介です。

東方社と原善一郎について御教授賜りました

一昨日6日に開催されたインテリジェンス研究所(山本武利理事長)主催の午後の講演会では、新たにお二人の研究者の発表がありました。

◇東方社研究のこれまでとこれから

お一人は、京都外国語大学非常勤講師・政治経済研究所主任研究員の井上祐子氏による「東方社研究のこれまでとこれから―井上編著『秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争―東方社が写した日本と大東亜共栄圏―』の紹介を兼ねて―」というお話でした。

タイトルが異様に長いのですが(笑)、井上氏が今年7月にみずき書林から出版された同名書の紹介を兼ねた東方社研究発表でした。同書の内容紹介として「戦時下の日本とはどういう場だったのか。そして大東亜共栄圏のもとで各国の人びとはどのように暮らしていたのか―。陽の目を見ることなく眠っていた写真2万点のなかから200点を精選し、詳細な解説とともに紹介」とあります。

私は不勉強で東方社を知りませんでしたが、かろうじて、戦時中に戦意高揚のプロパガンダのために発行された写真雑誌「FRONT」は知っておりました。東方社は、この「FRONT」などを発行していた陸軍参謀本部傘下の写真工房だったのです。

東方社で活躍し、戦後、特に有名になったカメラマンとして、木村伊兵衛、濱谷浩、菊池俊吉らがいますが、理事として、ヴァレリー研究家でフランス文学者の中島健蔵がかかわっていたとは知りませんでしたね。(彼の経歴ではあまり触れられていません)もちろん、評論家の林達夫が第3代理事長で、岩波書店社主の岩波茂雄に資金面で援助してほしい旨の書簡まで送っていたことも知りませんでした。

井上氏の編著書は労作です。2万点のネガから200点を精選したということですが、キャプションがないので、本当に大変だったと苦労話を披歴しておりました。写真に写っている背景の看板や標識などから、場所や時代を特定したり、写っている人物が分からないので、戦時中の新聞を何時間もかけて照合してやっと特定するという作業をやってきたそうです。

講演会後の懇親会で、井上氏本人に伺ったところ、膨大なネガは、旧所蔵者の遺族の皆さんだけでは、維持・管理が難しいため、政経研で受け入れることになったそうです。

歴史的に貴重な遺産がこうして陽の目をみたのは、井上氏らの功績でしょう。

◇原善一郎とは何者か?

もう一人は、大阪音楽大学音楽学部教授の井口淳子氏で、講演タイトルは「戦時上海の文化工作―上海音楽協会と原善一郎(オーケストラ・マネージャー)」でした。

井口氏によると、上海音楽協会とは、 1942年6月、外務省、興亜院、陸海軍の監督の下、上海在住の民間人によって設立された文化工作を目的とした財団法人で、その中核は、上海交響楽団による公演活動でした。戦時中、日本国内では、「敵性音楽」演奏は禁止されていたと思いますが、外地ではかなり頻繁に公演会が催されていたようです。

私は全く存じ上げませんでしたが、原善一郎(1900〜51)という人は、同年10月頃からこの上海音楽協会の主事(オーケストラ・マネジャー)になった人で、戦後は音楽プロモーターとしても活躍します。

原は、経歴が大変変わった人で、長野県の貧しい農家に生まれ、旧制中学校を中退せざるを得なくなり、横浜の貿易会社松浦商会に入社します。同商会の哈爾浜(ハルビン)支店に派遣されたことが、彼のその後の人生を大きく変えます。哈爾浜学院でロシア語を習得したお蔭で、その語学力が認められて、1925年、山田耕筰と近衛文麿による「日露交歓交響管弦楽演奏会」のマネジャーに抜擢されます。翌26年から35年にかけて、新交響楽団のマネジャーを務める一方、上海在住のユダヤ系ラトヴィア人音楽プロモーター、ストロークの片腕となり、海外演奏家のマネジメントやラジオ放送出演などを協力したりします。

42年から上述通り、上海音楽協会の主事を務め、上海交響楽団プロデュース。その後、ハルビン交響楽団(朝比奈隆指揮)にも関わります。戦後は、その朝比奈に請われて、関西交響楽団の専務理事を務めることになります。

1951年、世界的なバイオリニスト、メニューヒンの日本公演を興行主ストロークとともに、東奔西走しているうちに過労のため朝日新聞社内で心臓発作を起こし、そのまま帰らぬ人となりました。享年50。以上、これらは井口教授の調査によるものです。

敗戦後の哈爾浜学院

皆様御案内の通り、私は個人的に、哈爾浜学院には思い入れがありますので、関係者にこの「原善一郎」について、学院の卒業者名簿に当たってもらったところ、本科の正規生として「該当者なし」ということでした。ただ、哈爾浜学院には、本科以外に、軍部や外務省、満鉄などから派遣された特修科(専攻科)生がおり、こちらは故意なのか、名簿を残さなかったか、散逸したか、なので、原善一郎はそちらに所属していた可能性があるようです。

なぜなら、原善一郎は「参謀本部の嘱託として宣伝の仕事をしていた」という土居明夫(元陸軍中将)の証言があるからです。

最後に、井口教授は「戦争がなかったら、原善一郎は山田耕筰や近衛秀麿らと知り合っていなかったことでしょう。音楽マネジメントには『記録は残さない』という不文律があるため、詳細について残っていない。まだまだ原善一郎に関しては謎が多い」と結んでおりました。

私も文化記者時代の25年ほど前に、東京のホテルオークラで朝比奈隆にインタビューしたことがありましたが、上海やハルビンの話も原善一郎の話も全く耳にしませんでした。

いずれにせよ、お二人の意欲的な研究には頭が下がる思いで拝聴しました。

📖中島健蔵「昭和時代」(岩波新書、1957年)

📖多川精一「戦争のグラフィズムー回想の『FRONT』-」(平凡社、1988年)

📖岩野裕一「王道楽土の交響楽ー満洲知られざる音楽史」(音楽之友社、1999年)

クールベ「世界の起源」のモデルをついに発見!

アルハンブラ宮殿

ギュスターヴ・クールベ(1819〜77)は、19世紀フランスを代表する写実主義の画家です。代表作「オルナンの埋葬」「画家のアトリエ」などはよく知られています。詩人ボードレールの肖像画も残しています。

私自身は、大学の卒論に「印象派」(モネとドビュッシー)を選んだくらいですから、フランス史の中では、19世紀の文化や、革命を挟んだ帝政、王政復古、共和制、帝政、共和制とコロコロ変わる政治体制などにも関心があり、今でも興味を持ち続けております。

さて、クールベですが、パリのオルセー美術館に行かれると、クールベ・コーナーがありますが、そこに、ほぼ等身大の女性のgenitalsのクローズアップが展示されていて、まず大抵の人は度肝を抜かされます。タイトルの「世界の起源」(46×55センチ)とは言い得て妙で、よく名付けたものです(笑)。顔は描かれていません。局部だけです。

あまりにもリアル過ぎて「これ、ゲージュツなの?」と東洋から来たおじさんは圧倒されますが、これを見る前に、2人の若い裸婦がベッドで絡むようにまどろんでいる姿を描いた有名な、あの官能的な、想像以上に巨大な「眠り」(135×200センチ、プティ・パレ美術館)を事前に見ていれば、そのドギマギ感は少し薄れるかもしれませんが(笑)。

勿論、19世紀のサロンでは、このgenitals作品は大スキャンダルとなり、すぐさま隠匿され、オルセー美術館で一般公開されるようになったのは、つい最近の1995年からでした。その前は、著名な精神科医のジャック・ラカン(1901~81)がオークションで落札して何年間も、秘蔵していたようです。

「世界の起源」は検索すればその画像が出てきますが(18歳未満お断り。ここでは載せられません!)、そのモデルは誰なのか150年以上も不明で、一時はクールベお気に入りのモデル、ジョアンナ・ヒファーナン説もありましたが、謎に包まれていました。

それが、このほど、ついにその「正体」が分かったというのです。歴史家のクロード・ショップ氏が、仏国立図書館の司書部長で美術史家のシルビー・オーブナ氏の手を借りて、小説家のアレクサンドル・デュマと閨秀作家ジョルジュ・サンド(ショパンとの関係は有名)との往復書簡に注釈を付ける作業をしているうちに、そのモデルの名前が出てきて、偶然にも発見したというのです。

写真左がモデルのコンスタンス・ケニオー、右が画家クールベ

10月2日付のニューヨーク・タイムズ紙によると、そのモデルは、コンスタンス・ケニオー(Constance Quéniaux 1832~1908)という人物でした。パリ郊外で私生児として生まれ、オペラ座バレー団の踊り子として活躍した後、膝の故障で引退し、その後、高級娼婦になります。今ではすっかり忘れ去られましたが、当時は、あの楽聖ワーグナーと並び称されたオペラ作曲家のダニエル・フランソワ・エスプリ・オーベール(1782~1871)(現在は、パリ高速地下鉄オーベール駅にその名を残しています)の愛人となり、晩年はロワイヤル通りの豪邸に住み、彼女の死後は、その財産目録がオークションにかけられるほど裕福な後半生を送った人でした。

彼女がモデルになったのは1866年で、34歳ごろだったことが分かります。クールベは47歳でした。(依頼主は、当時コンスタンスを愛人にしていた元オスマントルコの外交官で超お金持ちのハリル・ベイ)その後、クールベは1870年のパリ・コミューンに参加してスイスに亡命せざるを得なくなり、不遇のうちに亡命先で57歳で亡くなります。

コンスタンスは、オペラ座の踊り子としてはかなり才能があったらしく、1854年の新聞の批評欄でも「優美で気品がある」と褒められています。詩人で批評家のテオフィル・ゴーティエも注目したようでした。

時は、日本で言えば、幕末の話です。現代人の感覚では、娼婦から愛人という遍歴は、眉をひそめるかもしれませんが、150年前は、田舎出の、しかも、私生児として生まれた女の子が、社交界にデビューするなり、それなりの地位に昇る手段の一つだったのかもしれません。富裕層は、劇場などに出かけては踊り子や女優らを自分の愛人にする時代でした。

 クールベも依頼主のベイの2人とも不遇のうちに亡くなりました。でも、コンスタンスの場合は、美貌と才覚に恵まれたおかげか、「成功者」として穏やかな晩年を過ごしたようでした。享年75。

あの初音ミクに童謡を歌わせているのは 88歳のおばあちゃんYouTuber

アルハンブラ宮殿

皆様ご存知、あの宮さんのご令姉様には特別な御才能が満ち溢れており、ユーチューブ上で、初音ミクに童謡を歌わせた作品を発表し続けております。

2週間前には、最新作?の童謡「オイラはのら猫」を発表されております。

投稿者は「kogomi88」こと、群馬県在住の88歳の普通のおばあちゃん内藤昭恵さん。宮さんの御令姉さまです。

作品は、ご自分で作詞作曲したものや、知人や童謡仲間の詞に御令姉さまが作曲したものなどがあります。この「オイラはのら猫」のクレジットは「小阪百合子作詞 内藤昭恵作曲 小林登編曲 初音ミク歌」となっております。編曲家の方もいらっしゃるようですね。

実は、このスーパーおばあちゃんの童謡については、以前に一度、この《渓流斎日乗》で取り上げたことがあります。が、皆様ご案内の通り、事情があって、それらの記事は「消滅」してしまいました。

当時、取り上げさせて頂いた時は、確か、まだ作品は4~5曲だったと思いますが、今では、何と91曲(2012年10月11日 ~ 2018年9月12日 )までにもなったというのです。

まさに、大作曲家並みです!ただ者ではありません。

宮さんは「姉は、音楽の打ち込みからイラスト・動画作成、投稿まですべて一人でやっております。とはいっても、黒字経営の渓流斎さんのブログのようなわけにはいかず、収入はゼロです」と謙遜されておりますが、動画のかわいいイラストも御令姉さまのオリジナルとは、吃驚仰天。実に瞠目ものです。

(それにしても、「黒字経営のブログ」と言われると実におもわゆい=笑)

皆様も、ユーチューブで「kogomi88」と検索すれば、ほかに90曲出てきますから、是非とも御覧ください。

この中で、「かみなりゴロちゃん」という作品が、私が検索した現在、2591回視聴されており、一番人気が高いようです。

皆さん、是非とも応援してくださいね!

また、節目になったら、次回もまた取り上げさせて頂きたいと思っております。

「拡散」をお願いしているクラシック・コンサート

アルハンブラ宮殿

私の音楽遍歴ですが、子どもの頃はよく歌謡曲を聴いていました。城卓矢の「骨まで愛して」なんか好きでしたね(笑)。

10代からバンド遊びをやり始めたので、20代まで専らロックです。ビートルズ、ローリング・ストーンズ、クリーム、レッド・ツェッペリン、クイーン、ポリスなど主にブリティッシュ・ロックを聴いてました。

アルハンブラ宮殿

30代になると、一転してクラシックばかり聴いてました。特に、バッハ、ベートーベン、ブラームスの「三大B」とモーツァルト、マーラー、それにドビュッシー辺りをよく聴きました。エンターテインメントというより、教養として、モーツァルト以外はしかめっ面しながら聴いてました(笑)。

40代になると、専ら、ジャズやボサノヴァです。王道のマイルス・デイビスとコルトレーンにはまり、ピアノはビル・エバンスとウインストン・ケリー、ギターはウエス・モンゴメリー、ボーカルはヘレン・メリルとチェット・ベイカーの「遅れてきたファン」になりました。

ボサノヴァのアントニオ・カルロス・ジョビンは、レノン=マッカートニーと並ぶ作曲家でしょう。ジョアン・ジルベルトも最高です。

とにかく、レコードやCDを買いまくりました。

アルハンブラ宮殿

で、今、自宅の特別オーディオルームという名のラジカセで、モーツァルトの交響曲第29番を聴きながら、このブログを書いております。

この曲は、意外と知られていませんが名曲です。1774年、モーツァルトが18歳の時に作曲した傑作です。さすが大天才です。この曲は、随分前から自分の頭の中でよく回っているのに、どうしてもタイトルが思い出せず、「何だっけ?何だっけ?室内楽だっけ?ディベルティメントだったっけ?」などと数週間、膨大なレコードコレクションの前で頭を悩ませておりました。

そしたら、やっと、色々と自分のコレクションを視聴して、「交響曲29番」だということが分かったのです。演奏は、カラヤン指揮、ベルリンフィル。

ルハンブラ宮殿 後宮のお風呂だとか

そして、昨日、ユーチューブでこのモーツァルトの交響曲29番を検索してみたら、カール・ベーム指揮ウイーンフィルの動画が出てきたので、聴いてみましたら、実に演奏が遅い、遅い(笑)。よく「疾走するモーツァルト」と音楽評論家たちは表現しますが、鈍足、牛足そのもの。まるで別の曲に聴こえてしまいました(笑)。

しかし、こんな名曲なのに、カール・ベームのユーチューブの視聴回数はわずか2900回程度。今、世界で最も売れていると言われながら、私はよく知らない(笑)アリアナ・グランデの「ブレイク・フリー」という曲なんか、現在、9億6000万回も視聴されているではありませんか!残念ながら、クラシックって、世界的にはマイナーな音楽なんだなあと痛感してしまいました。

それを証明する「事案」がありました。

アルハンブラ宮殿

私自身、最近は、昔のようにほとんど全くクラシックのコンサート会場に足を運びませんが、噂によると、このごろは会場に行くとパンフレットが配られ、そこには「聴衆の皆様へのお願い」として「どうか、この公演の内容やご感想をフェイスブックやツイッターなどのSNSでアップしてください」などと書かれているそうですね。

つまり、大手メディアや音楽雑誌だけでは、クラシックファンを獲得することができないので、お客さんにまで宣撫活動の協力を求めているわけです。

著作権がありますので、音声や動画まで拡散するよう要請しているかどうか分かりませんが、今やインスタグラムやユーチューブが大流行ですから、主催者やプロモーターやクラシックの演奏家としては、猫の手も借りたいほど切羽詰まっているということなんでしょうね。

それにしても、時代は変わったものです。

「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ★アディオス」は★★★★

気温37度、体感温度45度。これでは何もする気が起きませんねえ。本を読んでも頭に入らず。外に出かけるなんぞはもってもの他。

ところが、急に、映画を見たくなってしまい、猛暑の中、自転車で近くの映画館に走ってました(笑)。

「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ★アディオス」(ルーシー・ウォーカー監督、ヴィム・ヴェンダーズ製作総指揮)です。

18年前に日本でも公開されて大ヒットした映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」のいわば続編です。1940~50年代に活躍しながら、当時はすっかり忘れ去られた70~90歳代の老ミュージシャンにスポットライトを当てた作品でしたから、今では、ほとんど他界してしまいました。

「第一弾」の日本公開は2000年1月15日になっていますが、私も恐らくその年の1月に劇場で観たと思います。心の奥底から感動してしまい、CDは勿論買い求め、すっかりはまってしまい、その年の夏休みにキューバに旅行に行ってしまったほどです。キューバ大使館までビザを申請に行ったことを覚えています。当時は、ヘミングウエイにもはまていましたから、音楽と文学散歩でした。

でも、行ってみたら、街中は、物乞いの少年と売春婦が溢れ、アフリカ系の市民に対する差別は相変わらずで、キューバという社会主義体制に失望した覚えがありますが、今日は映画の話なのでこれ以上触れません。。。

CDジャケット写真は、スタジオに入るイブライム・フェレールでした

コンパイ・セグンド(G,Vo、1907~2003、95歳)、イブライム・フェレール(Vo、1927~2005、78歳)、ルベーン・ゴンサーレス(P、1919~2003、84歳)、オマーラ・ポルトゥオンド(Vo、1930~)、マヌエル・”グアヒーロ”・ミラバール(Tr 1933~)、エリアーデス・オチョーア(G・Vo、1946~)ら懐かしい名前がたくさん出てきて、目頭をあつくしてしまいました。

あの葉巻をいつもくわえて、90歳を超えても旺盛だったコンパイ・セグンドはもう亡くなって15年も経つんですね。「黄金の声の持ち主」と言われたイブライム・フェレールは、1990年代には既に引退していて、靴磨きで生計の足しにしていたことが語られていました。

古いキューバ音楽に魅せられた米ミュージシャンのライ・クーダーが「失われた音楽を求めて」キューバを旅する物語が、発端でした。キューバ側で、コーディネーター役だったのが、バンドマスターだったファン・デ・マルコス・ゴンザレス(1954~)で、彼が当時を回想する形で、この映画は進行します。

この映画は「アディオス」ですから、老ミュージシャンが次々と亡くなり埋葬されるシーンも出てきます。

けど、若い頃のフィルムも残っていて、オマーラ・ポルトゥオンドが女性4人グループの一人として溌剌と歌って踊り、若きイブライム・フェレールとも共演していたので、感慨深かったですね。

音楽は素晴らしい。夏は特にキューバ音楽を聴きたくなります。

「ポール・マッカートニー 告白」を読む

個人的なことながら、ビートルズと、その解散後にソロになった4人の音楽は、もう半世紀以上聴いてきました。発売されたレコードはほとんど全て買い揃えました。マニアックな海賊盤や、本国英国盤だけでなく、米国キャピタル盤、日本の東芝EMI盤などもです。

特に若い頃は、1日16時間も聴いていた時期もあり、彼らの音楽を聴いたり、コピーバンドで演奏したり、彼らに関する本を読んだりしたりした時間をトータルに換算すると、数年間にもなるかもしれません(笑)。

思えば、彼らには随分貴重な時間を捧げたものです。ファンというより、フリークでしょう。関連本もかなり収集したので、まあ、ほとんどのことは知ってるつもりです。

でも、さすがに、最近はたまに聴く程度になりました。本もレコードもコレクションはやめました。

だから、このポール・デュ・ノイヤー著、奥田祐士訳「ポール・マッカートニー 告白」(ディスクユニオン、2016年6月18日初版、3824円)もあまり期待していなかったのですが、読み進むうちに楽しくなり、終わり近くになると、読み終えたくない気持ちにさえなってしまいました。

著者は、音楽専門週刊誌「NME」(1960年代、「ニュー・ミュージカル・エクスプレス」と呼ばれ英国最大部数を誇る音楽誌だった。同誌が選ぶファン投票でコンサートも開催された)の音楽ライターや月刊誌「MOJO」の創刊編集長などを歴任したことぐらいしか書かれておらず、詳しいプロフィールは書かれておりませんが、彼が初めてポールと会ったのは、1979年で、「まだ23歳の若造だった」と書いております。ということは、小生と同い年になります。彼が同時代人として、子どもの時から受け入れてきたビートルズの音楽と解散してソロになった音楽を、私も同時に極東の島国で体験していたので、あの時代の雰囲気についてはよく分かります。職業としてポールにインタビューしているのに、「今、あのポール・マッカートニーに会っているのが嘘みたいだ」という舞い上がってしまう感覚を正直に書く辺りは共感できます。ただし、彼はリバプール育ちなので、歌詞の意味の深みまで理解でき、ポールと対等にリバプールの隠れ場所などの話までできるので、全然違いますが。

ポール・マッカートニーは、恐らく人類史上世界で最も成功した、巨万の富と輝かしい名声を獲得した、最も有名なアーチストでしょう。まず知らない人はいないでしょう。「イエスタデイ」を一回も聴いたこともない人も現在でも少ないかもしれません。

ポールなら、何処に行っても「顔パス」で、VIP扱いで、欲しいものなら何でも手に入る。サーの称号も受けたし、何処の国に行っても国賓級として優遇される人だと思っておりました。

そして、ビートルズ時代から、ジョン・レノンと比較されて、ジョンの「陰」に対して、ポールは「陽」。マスコミ受けが良く、グループの明るいスポークスマンでPRマン。そのせいか、逆にポールに付きまとった悪評は、「狡猾で如才がなく、計算高い」。恐らく半分は当たっていることでしょうし、私も、少し、うんざりするぐらいポールはそういう男だと思ってました。特に、純粋で皮肉屋のジョン・レノンと比べれば。

しかし、この本を読むと、そうでもない人だと少しずつ分かってくるのです。まず、決して「計算高い」人間ではないようです。まあ、堅実な宮仕えを選択せずに、芸術家になった人ですから、かなりの無鉄砲。1973年に、アルバム「バンド・オン・ザ・ラン」のレコーディングでアフリカのナイジェリアに滞在していた際、周囲から危険だからと忠告されていたのに、夜道にリンダと二人で外出して、6人の強盗に襲われ、金品、カメラからレコーディングのデモテープまで奪われてしまっていたのです。強盗は、ポールのことを知らなかったようです。

ビートルズ解散後の1970年には、ニューヨークのハーレムで、黒人の女の子が公園で歌を歌っているのを眺めていたら、黒人の男から「おまえは先生か?えっ、違う?旅行者か。それなら、このブロックから出て行け!さもなきゃ俺が追い出してやろうか。国へ帰れ!」と脅迫されたこともあったそうです。えっ?ポールを知らない人もいるんだ、と驚いた次第。同時に、天下のマッカートニー様も、いつもどこでも、決して、VIP待遇でもなかったということが初めて分かりました。

この他、「へー」と思った点。

・英国では、ビートルズ全盛期、レコードのLPの値段は2ポンドだった。平均賃金が週20ポンド程度だったので、かなり高かった。(日本は2500円ぐらいだったので、それでも日本の方が安かったのかもしれない)

・ポールはあまり宗教について語りたがらない。熱心なカトリック(アイルランド系なので)でもプロテスタントでもないようだ。しかし、不可知的な、魔法については信じているようだ。曲づくりも、「何か天から降りてくるようなもの」といった表現さえする。

・ポールは今でも、地下鉄やバスに乗って「人間観察」するそうだ。生前のジョージ・ハリスンは「信じられない」と言ったとか。

・アヴァンギャルドと言えば、ジョン・レノンの方が印象が強いが、ポールの方が前衛的だった。シュトックハウゼンを聴いたり、前衛的な展覧会に行ったり、自宅に詩人や前衛芸術家を招いたり。

・特にベルギーのシュルレアリスト、マグリットのファンで、価格が高騰する前に手に入れた数点のコレクションがある。

・ポールがティーンエイジャーの時に、ロックンロールに夢中になり、ロックバンドを始めるが、マッカートニーの父親ジム(若い頃は消防士、中年から綿花の卸売業)はアマチュア音楽家で、自宅に親戚や友人らを集めて1930年代のジャズやムード音楽を演奏していたので、子どもの時はロックなどなく、そちらの影響が強かった。だから「ハニーパイ」などの名曲が書けた。

【音声】サン・トワ・マミー

パリ・モンマルトルのシャンソン酒場「ラパン・アジール」

この「渓流斎日乗」は、今年9月1日から世界最小の双方向性メディアとして再出発しました。

まあ、あたしゃ、ラジオのDJかナビゲーターみたいなもんです。皆様からのお葉書やメールをここでご紹介する、そんな番組を作っているようなもんです(笑)。

では早速、皆様ご存知の宮さんからのメールと【音声】をご紹介しませう。

宮さんは、もう10年前から「◯◯ウクレレサウンズ」というアマチュアのバンドを作って会長を務めております。

「ラパン・アジール」
…サークルの指導の先生がメロディ、サブメロディ、リズム、サブリズムなど楽譜を書いてくれて、それぞれのメンバーが自分の好きなパートを演奏しております。
演歌、フォークソング、ジャズ、ポップス、シャンソンなどジャンルにとらわれず、珍しいウクレレアンサンブルのサークルです。先生がウクレレで弾きやすい編曲をしてくれるので楽しく続いています。皆、ウクレレを初めて演奏する初心者だったのですが、気がついたら10年過ぎていました。
てなことです、ハイ。…

ということで送って下さったのは、アダモの「サン・トワ・マミー」です。「恋人よ、君がいない世界なんて」てな意味でせうか。アダモが19歳の時に作ったとは早熟ですね。

私もコピーを試みたら、キーはF(へ長調)でした(笑)。