「ポール・マッカートニー 告白」を読む

個人的なことながら、ビートルズと、その解散後にソロになった4人の音楽は、もう半世紀以上聴いてきました。発売されたレコードはほとんど全て買い揃えました。マニアックな海賊盤や、本国英国盤だけでなく、米国キャピタル盤、日本の東芝EMI盤などもです。

特に若い頃は、1日16時間も聴いていた時期もあり、彼らの音楽を聴いたり、コピーバンドで演奏したり、彼らに関する本を読んだりしたりした時間をトータルに換算すると、数年間にもなるかもしれません(笑)。

思えば、彼らには随分貴重な時間を捧げたものです。ファンというより、フリークでしょう。関連本もかなり収集したので、まあ、ほとんどのことは知ってるつもりです。

でも、さすがに、最近はたまに聴く程度になりました。本もレコードもコレクションはやめました。

だから、このポール・デュ・ノイヤー著、奥田祐士訳「ポール・マッカートニー 告白」(ディスクユニオン、2016年6月18日初版、3824円)もあまり期待していなかったのですが、読み進むうちに楽しくなり、終わり近くになると、読み終えたくない気持ちにさえなってしまいました。

著者は、音楽専門週刊誌「NME」(1960年代、「ニュー・ミュージカル・エクスプレス」と呼ばれ英国最大部数を誇る音楽誌だった。同誌が選ぶファン投票でコンサートも開催された)の音楽ライターや月刊誌「MOJO」の創刊編集長などを歴任したことぐらいしか書かれておらず、詳しいプロフィールは書かれておりませんが、彼が初めてポールと会ったのは、1979年で、「まだ23歳の若造だった」と書いております。ということは、小生と同い年になります。彼が同時代人として、子どもの時から受け入れてきたビートルズの音楽と解散してソロになった音楽を、私も同時に極東の島国で体験していたので、あの時代の雰囲気についてはよく分かります。職業としてポールにインタビューしているのに、「今、あのポール・マッカートニーに会っているのが嘘みたいだ」という舞い上がってしまう感覚を正直に書く辺りは共感できます。ただし、彼はリバプール育ちなので、歌詞の意味の深みまで理解でき、ポールと対等にリバプールの隠れ場所などの話までできるので、全然違いますが。

ポール・マッカートニーは、恐らく人類史上世界で最も成功した、巨万の富と輝かしい名声を獲得した、最も有名なアーチストでしょう。まず知らない人はいないでしょう。「イエスタデイ」を一回も聴いたこともない人も現在でも少ないかもしれません。

ポールなら、何処に行っても「顔パス」で、VIP扱いで、欲しいものなら何でも手に入る。サーの称号も受けたし、何処の国に行っても国賓級として優遇される人だと思っておりました。

そして、ビートルズ時代から、ジョン・レノンと比較されて、ジョンの「陰」に対して、ポールは「陽」。マスコミ受けが良く、グループの明るいスポークスマンでPRマン。そのせいか、逆にポールに付きまとった悪評は、「狡猾で如才がなく、計算高い」。恐らく半分は当たっていることでしょうし、私も、少し、うんざりするぐらいポールはそういう男だと思ってました。特に、純粋で皮肉屋のジョン・レノンと比べれば。

しかし、この本を読むと、そうでもない人だと少しずつ分かってくるのです。まず、決して「計算高い」人間ではないようです。まあ、堅実な宮仕えを選択せずに、芸術家になった人ですから、かなりの無鉄砲。1973年に、アルバム「バンド・オン・ザ・ラン」のレコーディングでアフリカのナイジェリアに滞在していた際、周囲から危険だからと忠告されていたのに、夜道にリンダと二人で外出して、6人の強盗に襲われ、金品、カメラからレコーディングのデモテープまで奪われてしまっていたのです。強盗は、ポールのことを知らなかったようです。

ビートルズ解散後の1970年には、ニューヨークのハーレムで、黒人の女の子が公園で歌を歌っているのを眺めていたら、黒人の男から「おまえは先生か?えっ、違う?旅行者か。それなら、このブロックから出て行け!さもなきゃ俺が追い出してやろうか。国へ帰れ!」と脅迫されたこともあったそうです。えっ?ポールを知らない人もいるんだ、と驚いた次第。同時に、天下のマッカートニー様も、いつもどこでも、決して、VIP待遇でもなかったということが初めて分かりました。

この他、「へー」と思った点。

・英国では、ビートルズ全盛期、レコードのLPの値段は2ポンドだった。平均賃金が週20ポンド程度だったので、かなり高かった。(日本は2500円ぐらいだったので、それでも日本の方が安かったのかもしれない)

・ポールはあまり宗教について語りたがらない。熱心なカトリック(アイルランド系なので)でもプロテスタントでもないようだ。しかし、不可知的な、魔法については信じているようだ。曲づくりも、「何か天から降りてくるようなもの」といった表現さえする。

・ポールは今でも、地下鉄やバスに乗って「人間観察」するそうだ。生前のジョージ・ハリスンは「信じられない」と言ったとか。

・アヴァンギャルドと言えば、ジョン・レノンの方が印象が強いが、ポールの方が前衛的だった。シュトックハウゼンを聴いたり、前衛的な展覧会に行ったり、自宅に詩人や前衛芸術家を招いたり。

・特にベルギーのシュルレアリスト、マグリットのファンで、価格が高騰する前に手に入れた数点のコレクションがある。

・ポールがティーンエイジャーの時に、ロックンロールに夢中になり、ロックバンドを始めるが、マッカートニーの父親ジム(若い頃は消防士、中年から綿花の卸売業)はアマチュア音楽家で、自宅に親戚や友人らを集めて1930年代のジャズやムード音楽を演奏していたので、子どもの時はロックなどなく、そちらの影響が強かった。だから「ハニーパイ」などの名曲が書けた。

【音声】サン・トワ・マミー

パリ・モンマルトルのシャンソン酒場「ラパン・アジール」

この「渓流斎日乗」は、今年9月1日から世界最小の双方向性メディアとして再出発しました。

まあ、あたしゃ、ラジオのDJかナビゲーターみたいなもんです。皆様からのお葉書やメールをここでご紹介する、そんな番組を作っているようなもんです(笑)。

では早速、皆様ご存知の宮さんからのメールと【音声】をご紹介しませう。

宮さんは、もう10年前から「◯◯ウクレレサウンズ」というアマチュアのバンドを作って会長を務めております。

「ラパン・アジール」
…サークルの指導の先生がメロディ、サブメロディ、リズム、サブリズムなど楽譜を書いてくれて、それぞれのメンバーが自分の好きなパートを演奏しております。
演歌、フォークソング、ジャズ、ポップス、シャンソンなどジャンルにとらわれず、珍しいウクレレアンサンブルのサークルです。先生がウクレレで弾きやすい編曲をしてくれるので楽しく続いています。皆、ウクレレを初めて演奏する初心者だったのですが、気がついたら10年過ぎていました。
てなことです、ハイ。…

ということで送って下さったのは、アダモの「サン・トワ・マミー」です。「恋人よ、君がいない世界なんて」てな意味でせうか。アダモが19歳の時に作ったとは早熟ですね。

私もコピーを試みたら、キーはF(へ長調)でした(笑)。

芸能界裏情報

Notre Damme de Paris

竹林賢人「失対ですな…」

私「えっ?失敗?」

竹林賢人「いえ、失対です」

私「失対?」

竹林賢人「失業対策ですよ。全て失業対策で世の中回ってます」

私「???」

竹林賢人「つまりですな。渓流斎さんはテレビを見ますか?テレビを付ければ、若いあんちゃん、ねえちゃんが歌って、踊って、泣いて、笑って、愛想を振りまいてます。究極の目的は何か分かりますか?」

私「はあ…」

竹林賢人「コマーシャルに出るためですよ。テレビなら、旬のタレントなら一本5000万円とか1億円とか貰えます。全部じゃないですよ。ほとんどが事務所が経費として持って行ってしまいますが」

私「はあ…」

竹林賢人「若い子は、親や先生の言うことは聞かないでしょ?それなのに、テレビのブラウン管…あ、今はそんなテレビありませんな。とにかく、液晶画面の向こう側にいるタレントさんの言うことなら、何でも言うことを聞きます。タレントが勧めるモノなら何でも買います。企業はモノを売りたいから、番組のスポンサーになっているだけで、何もボランティアでやってるわけじゃありません。自分たちの商品に傷が付かなければ何でもオッケーです。車がスポンサーのドラマに交通事故の場面はカットされるでしょ?それが資本主義のカラクリです」

私「そんなこと言ったら身も蓋もないですね」

ニラもやし蕎麦 700円

竹林賢人「身も蓋もないのが世の中です。タレントは『一日警察署長』や『一日税務署長』になって公安や行政当局と結託します。数年前に、覚醒剤撲滅キャンペーンに採用した有名タレントが、本当に覚醒剤をやっていたという笑えないブラックジョークがありましたが、もともとタレントになるような人間は聖人君子じゃないんですよ。普通のサラリーマンや公務員生活ができない、一攫千金狙いが多いのです。暴走族あがり、半グレあがり、ヤンキーあがりのタレントが少なからずいるわけですよ。それに大概のタレント志望者は、就職を差別されている人や半島や大陸出身者。日本人なら、片親なくした人とか、母子家庭で育ったとか、とにかく、底辺から這い上がっていきたいという連中です。逆に言えば、厳しい芸能界で生き残るためにはそれだけの不幸を抱えたハングリー精神がなきゃ駄目だということなのですよ」

私「そ、そ、そんなことまで言っていいんですか?」

竹林賢人「あたしゃ、関係ない。渓流斎さんに責任を取ってもらうだけですから(笑)。で、不祥事を起こす御し難いタレントを扱うのには、普通の9時5時勤務のサラリーマンができるわけがない。それに、公演切符を買ってもらうにしろ、地方で興行を打つにしろ、地元の名士、つまり、顔役にお世話にならなきゃならない。えっ?顔役が分からない?要するにタレント事務所を仕切っているのが裏社会の人々が多いということですよ」

私「ちょっと、ちょっと待ってくださいよ。あまり具体的な名前出さないでくださいよ」

竹林賢人「ハハハ、ビビってますな。お互いあと何年生きられるか分からない人生。筋を通していきましょうよ、筋を。で、当のタレントさんたちは売れている時は良いですが、山があれば谷もある。今売れてても明日は分からない浮世稼業。となると、神頼み、宗教団体に縋りますな。某広域宗教団体は、結婚相手の世話もしてくれる。売れなくなったら、音楽事務所を持ってますから、地方巡業のスケジュールも入れてくれる。たった一曲ヒット曲がありゃ、一生食っていけますからな」

私「ほーなるほど。そういうカラクリで世の中回ってるわけですか」

竹林賢人「感心している暇ありませんよ。あまり筋を通すとその筋の人が追いかけてきますよ。今のうちに荷物をまとめてサッサと逃げた方がいいんですよ」

【音声】La brise du ciel bleu(青空のそよ風)

La brise du ciel bleu           Copyright musique par Keiryusai

昨日は、動画を試してみましたが、今日は音声を試してみたいと思います。

順番が逆やろ!ーと茶々を入れたくなりますが、そうなってしまったものは仕方がありません(笑)。

音声データも、著作権がありますから、他人様の音声を勝手にアップするわけにはいきません。

そこで、私は自称ミュージシャンですから(笑)、5、6年前に作曲した曲を下手くそな自分のギター演奏でアップすることにしました。

ギターは、Ovation Celebrity cc153モデル。

タイトルは、La brise du ciel bleu 日本語名は「青空のそよ風」です。

気に入ってくだされば幸いです。

I hope you like it!

おめでとう!Felicitation! Congraturations!恭喜!

マーチンD-28

2006年7月18日(火)

今日は世界中の誰が何と言おうと、おめでたい日でーす。

ついにこの日を迎えてしまいました。

☆歳の誕生日。

若い頃はこんなに長生きするとは思いませんでした。

でも、なってみると、あっと言う間でした。

たとえ、100歳になってもそう感じることでしょうね。

残された人生。これから私は不良になりまあ~す。

人の目は気にしません。

もう我慢しないで自分を楽しませます!

余った分、幸せは皆さんに御裾分け致します!

これは、私のブログです。

文句あっか、てか!

でも、せっかくアクセスして頂いた方の皆さんのために、また、「サラリーマン川柳」をお送りします。

●駅まで25分 子供は送迎 旦那は歩き

●人生の 第二の職場は 妻の部下

●受け取りが 俺はおまえで おまえは子

●アラッ居たの? 今日行かないの? やだぁ父さん!

今村君も言ってました。

「やっと、この年になって『家内安全』の意味が深く分かるようになった。若い頃はさっぱりわかんなかったんだよなあ…」

iPod体験

帯広・紫竹ガーデン

半世紀も生きていると、音楽の再生、録音機に関しては「歴史の証人」のような体験をしてきました。

まず、小学校に入る前の幼児の頃でしたが、家には78回転のSPレコードがありました。昭和三十年代の半ばです。ほとんど覚えていないのですが、クラッシックと童謡でした。ちょっと手が滑って落としたりすると、あっけなく粉々に割れてしまったことはよく覚えています。

小学校の頃は、ソノシートでした。もう、知っている人は少ないかもしれません。ビニールのペラペラのレコードです。漫画本の付録についている代物です。これで、「忍者部隊月光」や「サスケ」などを聴いていました。

私が生まれて初めてレコードを買ったのは、小学校4年の時で、ビージーズの「ジョーク」という45回転のシングル盤でした。400円でした。

再生機は、いわゆる小さなポータブルで、借りてきたローリング・ストーンズのLP「スルー・ザ・パースト・ダークリー」をかけると、再生機からレコードからはみ出ていました。

テープレコーダーは、もちろん、最初はソニー製のオープンリールでした。まだ、カセットは出回ったばかりか、庶民には高値の花だったようです。

中1の時、父が初めてステレオを買いました。これで、一気にレコード収集が加速しました。

以下中略で、LPからCDの時代になり、MDの時代になったと思ったら、いつの間にか、iPodの時代です。

私はウォークマンの走りの世代ですが、iPodには本当に脱帽です。その小さくて軽いコンパクトさ。その中に、最大1万5千曲も入ってしまうから驚きです。

自分の持っているCDを十数秒で簡単に録音できますし、Podcastといって、無料の「ラジオ放送」もインストールできました。試しにCNNとBBCのニュースを「録音」しました。CDウォークマンのように「針」が飛ぶようなことはないし、音質も非常にいいです。世界中で大ヒットし、一時は追放されたアップル創業者が復活したのは頷けます。

今の若い人はSPだけでなく、LPも見たことがない人がいるかもしれません。レコード会社の人も「CDが売れなくなった」と嘆いていましたが、私も、若かったら嵩張るレコードより、iPodで満足できたでしょう。

つまり、若くないので、やはり、LPの時代が無性に懐かしいです。これ以上書くと長くなるので、今日はこの辺で。

 

 

 

iPod

ついに買ってしまいました。

i Pod

使い方がまだよく分かりません。

楽しみではなく、語学の勉強のためです。

宝の持ち腐れにならないようにします。

でも、驚きですね。こんな小さくて軽い薄い板にいっぱい情報が詰まっているなんて。CD19枚分の資料が入っていて、この他200曲以上インストールできるそうです。

長生きしてよかった。

千住真理子のコンサートで本を売る

音更町文化センターで開かれた千住真理子コンサートで、生まれて初めて本を販売する体験をしました。

全く初めての経験ですので、一体、何冊売れるのかさっぱり分からない。果たして一冊も売れないのではないか、という心配もありました。

会場の大ホールは満員だと1500人くらい入れます。

で、結局、本部から送ってきたのは、160冊。

「50冊も売れれば大成功かな」と思っていたのですが、結局、何冊売れたと思いますか?

全部で38冊でした。

一冊税抜きで1600円で販売したので、総額6万800円の売り上げでした。

これに、会場の手数料が総売上の5%だったので、3040円を支払いました。

臨時バイト代が5000円。タクシー代が往復3460円。

差し引き4万9300円。

あと、本の在庫の返送の宅急便代を差し引くと、純売り上げが4万円というところでしょうか。

結局、儲かったのか、儲からなかったのか、さっぱり分かりませんでした。

それでも、大変面白い貴重な体験をすることができました。

音更町文化センターは生まれて初めて行ったのですが、「売り子」として立っていると、「道」を聞かれます。「事務所はどこですか」「自販機はどこですか」といった類です。

わかるわけないっしょ!

コンサートが終わった後、千住真理子さんのサイン会がありました。

ここで、一気に15冊ほど売ることができたのです。それまで、真向かいのCDは売れているのに、本はさっぱり売れなかったのです。

「本を買って、千住さんにサインしてもらいましょう」と呼びかけると殺到するように売れました。

本当に貴重な体験だったと思います。人間、ほとんど物を買う立場なのですが、一生に一回、売る立場になると、コペルニクス的転回を味わうことができます。

それは、案外、「お客さんの顔を忘れない」ということでした。

皆さん、有難う!

もちろん、後から千住さんからも感謝されました。

今日は良い仕事をしました。

ジョン・レノンのノレン 

12月8日は、本来なら、という言い方も変ですが、「真珠湾攻撃の日」なのですが、私にとっては、ジョン・レノンが暗殺された日、といった方がしっくりします。

1980年のことでしたから、もう四半世紀も経つのですね。

当時をはっきりと思い出します。私はまだ20代の若者でした。
暗殺者のマーク・チャップマンとほとんど年齢は変わりませんでした。

しかし、その衝撃といったら、何物にも変えがたい深さと重さがありました。

25年前のその日。今の時代のように、インターネットや携帯などが発達していない時代です。それでも、一般の人より、比較的というより遥かに早く、その「事実」を知ることができました。

当時、私はあるマスコミに勤めていました。私が熱狂的なビートルズ・ファンであることを知っているある人が、速報をみて、私にそっとではなく、大声で知らせてくれたのです。

「大変、ジョンが暗殺されたわよ!」

時間は覚えていませんが、昼ごろでした。夕刊帯に入らなかったので、2時ごろだったのかもしれません。まだ、どこのテレビもラジオもニュースとして報じていませんでした。

最初、聞いた時、半信半疑でした。しかし、時間が経つにつれて、事実関係が刻々と報じられ、それが事実だと、認めざるをえなくなりました。

その日、どうやって家に帰ったのか覚えていません。

いや、家に帰りませんでした。
当時、つきあっていた彼女の自由が丘のアパートに直行しました。その彼女が第一報を伝えてくれたのです。その夜は、記憶がなくなるくらい酔いつぶれました。

しかし、翌朝はちゃんと起きて、スポーツ新聞からジャパン・タイムズまで、駅のキオスクに売っていたすべての新聞を買いました。

元ビートルズのジョン・レノン暗殺されるー享年40歳
ニューヨークの自宅前で
狂信的なファンの犯行か?

新聞はスクラップブックに貼り、今でもあると思います。

今でも覚えているのは、オノ・ヨーコさんに手紙を出したことです。
「私をベースギタリストとして、ジョンのバンドに入れてください」などと書いたのです。ということは、ジョンが暗殺される前に書いたのかもしれません。
当然、その手紙は封も切られずにゴミ箱入りだったでしょが、若気の至りで、今から考えると馬鹿なことばかりやっていたものです。しかも、真顔で。

当時の時代背景を思い出すと、ジョンは1975年2月発売の「ロックンロール」以来、音楽活動から遠ざかっていたのでした。その年のジョンと同じ誕生日である10月9日に息子ショーンが生まれてからは尚更でした。「ハウスハズバンド」を宣言して育児に専念し、表舞台から去ってしまっていたのです。当時、私は学生でしたが、先輩の友人が軽井沢のホテルでアルバイトしていたら、目の前にお忍びで来日したジョン・レノンが通り過ぎ、思わず直立不動してしまった、という話を聞いたことがあります。

音楽活動に復帰したのは1980年。アニメ「イエローサブマリン」を見たショーンが「パパはビートルズだったの?」と聞いたのが、きっかけだったというのはあまりにも有名です。

1980年11月17日にアルバム「ダブル・ファンタジー」をリリース。私はもちろん、出たその日に買いました。「ついに復活したのか」と、感極まりました。正直、ヨーコの「叫び」はいただけなく、いつも、ジョンの曲ばかり、針を飛ばして聴いていました。(そういえば、まだLPの時代でした)荘厳な鐘の音で始まる「スターティング・オーバー」は最初のシングルカットされ、みるみるベストテンのトップに上がりましたが、私は「ウーマン」が一番好きでした。

そんな矢先での唐突な暗殺ですから、ショックは大きかったのです。

私の口から最初に出てきた言葉は「ジョンは、たかが芸能人なのに…」でした。
もちろん、馬鹿にした言葉ではありません。60年代はジョン・F・ケネディを筆頭にキング牧師、マルコムX、ロバート・ケネディ…と暗殺といえば政治がらみでした。

もちろん、ジョンは政治活動をしていましたが、本質的には人を楽しませるエンターテイナーでした。

人から怨みを買うような仕事ではなかったのです。
暗殺者のチャップマンが洗脳されていたとか、CIA暗殺説など、いろいろとトンデモ本が出ていますが、同じ狂信的なジョン・レノンファンとして、チャップマンの気持ちを私なりに斟酌してみると、要するに、彼はジョンの「復活」が許せなかったのです。チャップマン一人のためのジョンとして独占したかったのです。復活してまた「万人のための」ジョンになることが許せなかったのです。
根底に嫉妬心があるのです。

今日は、長々と御託を並べてしまいました。