マルセル・プルーストを求めて

 日仏会館は、「近代日本資本主義の父」渋沢栄一と駐日フランス大使で詩人でもあったポール・クロデールによって1924年3月7日に設立されました。(渋沢は、幕末に徳川昭武のパリ万博視察の随行員として渡仏。フランスで会社や銀行などの制度やサン・シモン主義などに影響受けました)

 私は3年ほど前にやっと、大学と会社の先輩の推薦を得て会員になりましたが、コロナ禍で、月に数回、東京・恵比寿の同会館で開催される講演会や映画会などが中止となり、オンラインになりました。が、平日はなかなか時間が取れず、やっと今回、土日に開催されたシンポジウム「プルーストー文学と諸芸術」に参加することができました。

 プルーストと言えば、「失われた時を求めて」(1906~22年執筆、1913~27年刊行)です。全7巻16冊、3000ページに及ぶ大長編小説で、「20世紀最大の世界文学」という文芸評論家もいます。

 私自身は、もう40年以上も前の大昔の学生時代に岩崎力先生の授業で最初から原語で読みましたが、たった1ページ翻訳するのに、1週間掛かり、当然のことながら挫折。日本語も読み通すことがありませんでした。悲しいことに、知っているのは、第1巻「スワン家の方Du côté  de chez Swann」、第2巻「花咲ける乙女たちの影に À l’ombre des jeunes filles en fleurs」といった巻のタイトルと、第1巻に出てくる最も有名な「無意識的想起」の場面です。お菓子のマドレーヌを紅茶に浸して食べた瞬間、主人公が幼児に過ごしたコンブレーでの出来事や幸福感などが蘇ってくるというあの場面です。

 日仏会館が主催したシンポジウムは、日本とフランスの専門家20人以上をオンラインで繋ぎ、2日間でテーマが「プルーストと音楽」「プルーストと美術」「プルーストと教会/ 建築」など6以上で、休憩時間も入れて合計で11時間にも及ぶ長丁場でした。同時通訳の皆様には「大変お疲れ様でした」。

 正直申しまして、私自身は「失われた時を求めて」を完読していないので、さっぱり付いていけず「完敗」でした。ですから、小生が理解できたことだけ少し触れます(苦笑)。

 一つは、中野知津一橋大学教授の「プルーストと料理芸術」の講演の中で、あの有名なお菓子マドレーヌは、ホタテ貝の形をしているものとばかり思っていたら、19世紀では卵型が普通だったらしいということでした(アレクサンドル・デュマ「料理大辞典」1873年)。

 ホタテ貝は、フランス語で coquille Saint-Jacquesで、サン・ジャックは、キリストの弟子、聖ヤコブのことです。スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラには、聖ヤコブ(スペイン語でサンティアゴ)の遺骸があるとされ、ローマ、エルサレムと並ぶキリスト教徒の三大巡礼地になっていることから、中野教授も、マドレーヌは巡礼の隠喩になっているかもしれない、といった趣旨の話もされていました。

◇ドビュッシーとランボーは会っていた?

 もう一つ、ピアニストで文筆家でもある青柳いづみこ氏の「プルーストとドビュッシー」も面白かったです。恥ずかしながら、私は、印象派の画家モネと音楽家ドビュッシーで学士論文を書いたのですが、不勉強でプルーストには全く触れませんでした。青柳氏によると、二人はあるサロンで知り合い、プルーストが自宅にドビュッシーを招いたのですが、ドビュッシーはどういうわけか、理由をつけてお断りしたというのです。

 ちなみに、ドビュッシーのピアノ教師はモーテ夫人でしたが、その娘マチルドと結婚したのが詩人ヴェルレーヌで、一緒に住んでいたそうです。ドビュッシーがピアノを習っていた時に、あの17歳のランボーがヴェルレーヌの自宅に押し掛けていたらしく、ドビュッシーはヴェルレーヌとランボーに会っていたのかもしれませんが、うっかりそこまで知らず、意外でした。まあ、この辺りの話に全く御興味がなければ、どうでもいい話かもしませんが…(笑)。

 一番興味深かったのは、作家水村美苗氏の「母語で書くということ」でした。御案内の通り、水村氏は御尊父の仕事の関係で、小さい頃から米国暮らしが長く、英語漬けの毎日でしたが、それに反発(?)するかのように、米国では日本の古典文学にのめり込み、帰国後は、夏目漱石最後の未完の小説「明暗」を、彼女が、漱石の文体を完璧に近い形で会得して「続明暗」を完成して脚光を浴びた人です。(一度、30年も昔に、私は水村氏にはインタビューしたことがあります。当時とほとんどお変わりないので吃驚)

 ですから、水村氏は母語に大変拘わった、今でも拘っている作家で、プルーストに関しても、「本人は”世界のプルースト”になるとは思わなかたとはいえ、一番、母語に拘った作家」と分析しておりました。「失われた時を求めて」は今でも、日本では、個人による翻訳が4件も同時に進んでいるといいます。プルーストが普遍的になったのも、フランス語という世界的な欧州文明の特権的な地位があったから。それに対して、プルーストと同世代の夏目漱石は、知性的には全く劣っていないのに、日本語のせいか、世界ではほとんど知られていないという分析もなるほど、と思いました。(他に水村氏は、作品が英訳されるとグローバル化を意識してしまう、といった本筋の話をされてましたが、省略)

 ◇若い仏人はプルーストが読めない?

 「失われた時を求めて」岩波文庫全14巻(2010~19年)を、1ページごとに厖大な量の注釈と絵画や建築写真を挿入して個人訳で完成させた京大名誉教授の吉川一義氏も「今の若いフランス人は、(注釈なしで)この作品を読めるかなあ」と面白いことを言うのです。フランス語の原語を読まれたことがある方は分かると思いますが、一文がとても長ったらしく、この名詞がどこに掛かるのか、外国人は大変苦労します。

 吉川氏はフランスのソルボンヌ大学に留学して、プルーストで博士号を取った学者ですが、博士号は同然ながらフランス語で書かなければなりません。本人は謙遜されますが、自信がないので、フランス人の友人に事前に添削してもらったら、引用したプルーストの原文まで直されたという逸話を紹介しておられました。

 やはり、フランス人でもプルーストは難しいんですね。これには私も大笑いしてしまいましたが。


 

三島由紀夫の予言通りになった現代社会

 学生時代の畏友小島先生(職場でそう呼ばれているようです)からFBを通して、以下のようなコメントを頂きました。(一部改竄)

 三島由紀夫の話題の続編をブログで期待しています。我々は彼の死の年齢を既に超えているので、美化する必要はないと思います。何故、まだ振るのか?と思われるかもしれませんが、11月2日(月)から5週間に渡ってNHKラジオ第2で放送された「カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス▽声でつづる昭和人物史~三島由紀夫1~5」を聴きましたか?もし、聴き逃していれば、”らじる⭐︎らじる”の「聴き逃し」サービスで、今月中まで聴くことができます。特に第5回がお勧めです。

 正直、「急にそう言われても…」という感想でした。三島由紀夫に関しては、「没後50年」でもう当分、取り上げないつもりでした。あれだけ騒いだメディアも11月25日の命日を過ぎると、潮を引いたように話題として取り上げられなくなりましたし。

 でも、年末年始休暇に入り、少しだけ時間的余裕も出てきたので聴いてみました。この番組が聴けるのも、12月いっぱいまでらしいので急いだこともあります。

 そしたら、驚くほど面白かったので、小島先生の指令に従って、ブログに取り上げることに致しました。番組はNHKが保存している音声資料を再現し、政財界人から文化人に至るまで昭和を生きた人々を取り上げ、その人物像と歴史的意味を探るものです。解説は、昭和史に詳しい作家の保阪正康さんで、進行役は宇田川清江アナウンサー。

 長くなるので、小島先生お薦めの第5回だけを取り上げます。三島が市ヶ谷の自衛隊駐屯地で自決する1週間前の1970年11月18日に三島の東京都大田区南馬込の自宅での「最後のインタビュー」です。聞き手は、文芸評論家の古林尚(ふるばやし・たかし=1927~98)さん。これは、皆さんにも聴いてもらいたいのですが(番組にリンクを貼っておきました)、天才三島の驚愕すべき予見能力を発揮した将来像が語られるのです。

◇将来を予言

 話し言葉を分かりやすく少し書き言葉に直すと、三島はこんなことを言っているのです。

 自分は日本文化を知っている最後のジェネレーション(世代)である。古典の言葉が身体に入った人間というのはこれから(の日本には)出てこないだろう。これからは国際主義の時代で安部公房の書くような抽象主義の時代になり、世界中で同じような問題を抱え、言葉こそ違っていても、同じ精神世界でやっていくことになる。もう草臥れ果てた。(だから、俺はそんな世界になるまでは生きていたくない)

 天才にしか備わっていない鋭い予知能力であり、同時に、三島は「有言実行」の人だったと改めて思った次第です。

 なぜなら、この第5回の番組の前半で、早稲田大学の学生との討論会(1968年10月3日)を録音(新潮社)したものがあり、この中で、ある学生さんが「三島先生は、作品の中で『夭折の美学』を盛んに説き、美しく死にたいと仰っていますが、御自身はまだ生きていらっしゃるじゃありませんか」と半ば揶揄したような質問をしているのです。それに対して、三島は、戦後になってなかなかそのチャンスがなかっただけで、太宰治が心中死したようにチャンスがあれば自分もやりますよ、と示唆していたのです。これは、自決する2年前の討論会ですから、その頃からか、ずっと以前から「自死」に取り付かれていたように見えます。

 そして、何よりも、世界は三島が50年前に予言した通りになっているので慄然としてしまいました。当時はその言葉さえなかったグローバリズムであり、新自由市場主義であり、言語こそ違っても、世界が同時に同じ問題を抱えているではありませんか!特に貧富の格差拡大や経済問題だけでなく、新型コロナウイルスが問題に加わりましたからね。

◇その場しのぎと偽善に陥った日本人

 三島は自決する前に自衛隊員らに「檄文」を配りました。その中で「われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。」といった箇所は、今でも通底している日本の現状だと言っても良いでしょう。

 何しろ、国権の最高機関である国会で118回も虚偽発言しても、前総理大臣なら起訴されず、秘書だけのせいにしてお終いにするような日本という国家です。国民はスマホゲームばかりにうつつを抜かして、批判精神すら持ち合わせていません。確かに三島由紀夫のあの行動を美化するつもりはありませんが、50年経って、三島の予言に驚嘆し、少しは彼の心情と信条が分かるようになりました

 NHKラジオ第2は良い番組を放送し、しかも「聴き逃し」サービスまでやってくれます。それなのに、前田晃伸会長は、「ラジオの1本化」と称して、ラジオ第2を廃止しようと目論んでおられます。それは暴挙であり、やめてほしいです。

35年ぶりのランボー詩集

 最近、文学しています。残った夏休みの宿題を慌てて仕上げようとしている感じもします。

 文学ですから、儲かりません。はっきり言って、なくても困りません。といいますか、なくても生活に支障はきたしません。そういうものに、学生時代の一時期、命を懸けるほど熱中したことがありました。

 今でこそ堕落して、他人のこしらえたフィクションには目もくれずに、ビジネス書やブロックチェーンやMMT関連の書物にまで首を突っ込んで、不安な将来に備えていますが、かつては、経済に左右されない人生こそが美徳であると信じていた時期がありました。

 文学には社会を変革する力があると信じていたこともありました。

 それは新聞広告で目にした一冊の文庫本でした。

  中地義和編「対訳 ランボー詩集」(岩波文庫、2020年7月14日初版)です。何か見てはいけない広告を見てしまった感じでしたが、ずっと心の奥底に引っかかっていました。フランス象徴派詩人アルチュール・ランボー(1854~91)は、学生時代にかなりはまったことがありましたから尚更です。フランス語の原書は、文庫版では飽き足らず、高いプレイヤード版の全集も買いました。日本語は、小林秀雄訳、中原中也訳、鈴村和成訳などを経て、平井啓之ら共訳の「ランボー全集」(青土社)まで買い揃えました。それでも、難解過ぎて途中で挫折してしまいました。

 わざわざ、この本を買ったのは「対訳」としてフランス語の原文と和訳が並列していたからでした。

 しかし、正直に告白すると、途中で挫折したように、20代の頭ではさっぱり分かりませんでした。意味はどうにか取れても、作者の意図する本意や時代的背景などを熟知していなかったせいもありました。ランボーは15歳頃から詩作をはじめ、20歳で早くも筆を折りました。ということは作品の大半は、10代の少年が書いたものです。歴史に残る大天才を前にして、異国の軽輩が何か言うのも烏滸がましいのですが、極東に住む凡夫の若者はランボーの作品を理解することを諦めました。そして、邪道ながら、彼にまつわる逸話(ファンタン・ラトゥールの絵画など)を追いかけました。

 詩作をやめたランボーは、オランダ軍傭兵としてジャカルタに行ったり(後に脱走)、キプロスの採石場の現場監督をしたりしましたが、地元シャルルヴィル高等中学校時代の級友エルネスト・ドラエー(1853~1930)から文学への関心を問われると「あんなもの、もう考えもしないさ!」と答えたといいます(1879年)。

 その後、ランボーはイエメンのアデンにあるバルデー商会に雇われ、アビシニア(現エチオピア)のハラールの代理店に勤め、交易商人になります。主に象牙やコーヒーの取引やフランスからの工業製品や武器まで扱ったようです。しかし、アデンで膝の腫瘍が悪化します。風土病だったとも性病だったとも色んな説がありますが、フランスのマルセイユに戻り、コンセプション病院で右脚を切断し、1891年11月10日に同病院で死去します。まだ37歳という若さでした。

 若い頃のランボーと言えば、詩人ポール・ヴェルレーヌ(1844~96)との不適切な関係を始め、ふしだらで酔いどれの破天荒な私生活が有名ですが、詩作を断ち切り、武器商人になった晩年の孤独で悲惨な生活とその早すぎる死が、彼の書いた難解な作品(「地獄の一季節」など)と見事に、結果的に「言行一致」してしまったことが、何百年経っても彼に惹き付けられる魅力になっていると言えるでしょう。

比類なき超天才児とその後の「没落人生」(本人は認めないでしょうが)とのギャップがあまりにも大き過ぎるので、謎が謎を呼ぶことになったのです。

プレイヤード版の「ランボー全集」。40年近い昔に買った本だが、当時7760円もした

 ということで、35年ぶりに改めて「ランボー詩集」の文庫本(1122円)を読み始めています。

 原文と対訳を熟読すると、何と1篇の詩を読むのに2~3日も掛かります。本当です。読書は主に通勤電車の中でしているので、48時間~72時間掛かるという意味ではありません。電車の中で、1篇の詩作品を読むと1日で読み切れず、2~3日掛かるという意味です。

 15~16歳の時に書かれた初期韻文詩は、見事な12音綴のアレクサンドランの定型詩になっていて、しっかり脚韻が踏まれています。アレクサンドランは、日本の短歌や俳句と同じようなものかもしれません。脚韻は、aabbだったり、 ababだったり色々ですが、韻を踏むために、主語と述語が倒置されたり、名詞と形容詞が入れ替わったり、形式を優先するために、意味は後回しで、かなりこじつけになったりして、外国人にとって理解するのに難儀することがあります。

 何と言ってもフランス語の語彙力には全く歯が立ちません。相手は15歳の少年でも、記憶力抜群の比類なき超天才ですから、異邦人の凡夫が勝てるわけがありません。

 ただ、年を取って、人生経験も豊富になり、既に世界各地を旅行し、分別も付き、大きな病気も体験し、他人からの裏切りや嘲笑も味わい、辛酸を舐めてきたお蔭で、人生経験の少ない少年には負けませんね(笑)。それに、自分で言うのも何なんですが、不断の努力による膨大な読書量で、ランボーには負けない教養なるものも身に着きましたから、怖れることはありません。

 そんな中で興味深かったことは、15歳の少年だというのに世の中の動きや時事問題にかなり関心があって、当時、普仏戦争(1870年)の最中で、スダンでプロシャ軍に降伏したナポレオン三世を揶揄、批判する詩まで書いていたことです。(15歳の自分はビリヤード場で遊び惚けていましたからえらい違いです。)この詩は、私も学生の頃に読んでいたはずですが、すっかり忘れています(苦笑)。当時のフランスは、世の中の動きや情報を知る手段として新聞ぐらいしかなかったでしょうが、15歳のランボーは「皇帝の憤激」という詩の中で、ナポレオン三世のことを「遊蕩に明け暮れた20年に酔いしれている」といった反帝政派のキャンペーンを文字ったり、「彼(ナポレオン三世)は、眼鏡をかけた協力者を思い出している」と書き、共和派から帝政派に鞍替えして首相になったエミール・オリビエのことを示唆したりしています。

 ランボーの10代は、普仏戦争とパリ・コミューンが起きた歴史的な激動期でした。当時のフランス人たちは、「遊蕩に明け暮れた」(遊蕩orgieには乱交パーティーという意味もある)だけでナポレオン三世のことを思い浮かび、「眼鏡をかけた協力者」だけで、オリビエ首相のことが何ら説明もなく分かったことでしょう。これでは、詩人というより、ジャーナリストですね。(そう言えば、19世紀のバルザックやフロベールらの小説は、例えば二月革命など当時の時代背景を忠実に再現したもので、フィクションというより、ジャーナリスティックでした)

学生時代の畏友と横浜でランボー詩集の「読書会」を開いて勉強していた20代後半の頃。1ページ読むのに1週間掛かった

 私が20代の頃に読んでさっぱり分からなかったことは、今ではネットのお蔭で、簡単に分かります。オリビエ首相だって検索すれは略歴とともに、眼鏡をかけた彼自身の肖像写真まで出てきますからね。今の若い人は羨ましい。

 文学していると、コロナ禍の現代を忘れて19世紀に逃避行できます。何と言っても、ヴェルレーヌはともかく(二人の直接の交際はわずか4年だったとは!ランボー17歳から21歳まで。ランボーの死後、無名だった彼を蘇らせたのはヴェルレーヌの尽力によるものだった)、学生時代に親しんだジョルジュ・イザンバール(ランボーの高等中学校の教師)とかポール・デメニー(イザンバールの友人で詩人)やジェルマン・ヌーヴォー(「イルミナシオン」の清書も手伝った詩人)らの名前がこの本にも出てきて、あまりにもの懐かしさに心が動揺し、涙が出てくるほどでした。

 恐らく分かってもらえないでしょうけど、私は、彼らのことを現代人より近しく感じてしまうのです。

 20代の私は純真無垢で、純粋芸術である(と思い込んでいた)文学に憧れを抱いていたことも思い出しました。

 でも、文学の実体は、なくても支障がない絵空事です。一人の人生を変えるほどの文学に出合えた人には「おめでとう御座います」と言うしかありません。

 文学だけでなく、生活も哲学も宗教も経済学も政治学も無意味かもしれません。パスカルがいみじくも言ったように、結局、「人生は大いなる暇つぶし」だと最近とみに感じています。

英語は普遍的、中国語は宇宙的、日本語は言霊的

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 昨晩は、中部北陸地方にお住まいのT氏と久しぶりに長電話しました。T氏は、学生時代の畏友ですが、十数年か、数十年か、音信不通になった時期があり、小生があらゆる手段を講じて捜索して数年前にやっとメールでの交際が再開した人です。

 彼は、突然、一方的に電話番号もアドレスも変えてしまったので、連絡の取りようがありませんでした。そのような仕打ちに対しての失望感と、自分が悪事を働いたのではないかという加害妄想と自己嫌悪と人間不信などについて、今日は書くつもりはありません。今日は、「空白期間」に彼がどんな生活を送って何を考えていたのか、長電話でほんの少し垣間見ることができたことを綴ってみたいと思います。

 T氏は、数年前まで、何年間か、恐らく10年近く、中国大陸に渡って、大学の日本語講師(教授待遇)をやっていたようです。日本で知り合った中国人の教授からスカウトされたといいます。彼は、私と同じ大学でフランス語を勉強していて、中国語はズブの素人でしたが、私生活で色々とあり、心機一転、ゼロからのやり直しのスタートということで決意したそうです。

 彼の中国語は、今でこそ中国人から「貴方は中国人かと思っていた」と言われるほど、完璧にマスターしましたが、最初は全くチンプンカンプンで、意味が分かってもさっぱり真意がつかめなかったといいます。それが、中国に渡って1年ぐらいして、街の商店街を一人で歩いていると、店の人から、日本語に直訳すると「おまえは何が欲しいんだ」と声を掛けられたそうです。その時、彼は「サービス業に従事する人間が客に対して、何という物の言い方をするんだ」とムッとしたそうです。「日本なら、いらっしゃいませ、が普通だろう」。

 しかし、中国語という言語そのものがそういう特質を持っていることに、後で、ハッと気が付き、それがきっかけで中国語の表現や語用が霧が晴れるようにすっかり分かったというのです。もちろん、中国語にも「いらっしゃいませ」に相当する表現法はありますが、客に対して「お前さんには何が必要だ」などと店員が普通に言うのは、日本では考えられません。しかし、そういう表現の仕方は、中国ではぶっきらぼうでも尊大でもなく、普通の言い回しで、「お前は何が欲しいんだ」という中国語が、日本語の「いらっしゃいませ」と同じ意味だということに彼は気づいたわけです。

 考えてみれば、日本語ほど、上下関係に厳しく、丁寧語、敬語などは外国人には習得が最も困難でしょう。しかも、ストレートな表現が少なく、言外の象徴的なニュアンスが含まれたりします。外国人には「惻隠の情」とか「情状酌量」とか「忖度」などという言葉はさっぱり分からないでしょう。

 例えば、彼は先生ですが、学生から「先生の授業には実に感心した」といった文面を送って来る者がいたそうです。それに対して、彼は「日本語では、先生に対して、『感心した』という表現は使わないし、使ってはいけない」と丁寧に説明するそうです。また、食事の席で、学生から、直訳すると「先生、この食事はうまいだろ」などとストレートに聞いてくるそうです。日本なら、先生に対して、そんな即物的なものの言い方はしない、せめて「いかがですか?」と遠回しに表現する、と彼は言います。

 そこで、彼が悟ったのは、中国語とはコスミック、つまり「宇宙的な言語」だということでした。これには多少説明がいりますが、とにかく、人間を超えた、寛容性すら超えた言語、何でも飲み込んでしまう蟒蛇(うわばみ)のような言語なのだ、という程度でご理解して頂き、次に進みます。

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 一方、英語にしろフランス語やドイツ語にしろ、欧米の言語はユニバーサル(普遍)だと彼は言います。英語は記号に過ぎないというのです。もっと言えば、方便に過ぎないのです。これに対して、日本語は「言霊」であり、言語に生命が込められているといいます。軽く説明しましょう。

 福沢諭吉が幕末に文久遣欧使節の一員として英国の議会を視察した時、昼間は取っ組み合いの喧嘩をしかねいほどの勢いで議論をしていた議員たちが、夜になって使節団との懇親会に参加すると、昼間の敵同士が、まるで旧友のように心の底から和気藹々となって会話を楽しんでいる様子を見て衝撃を受けたことが、「福翁自伝」に書かれています。

 それで、T氏が悟ったのが、英語は記号に過ぎないということでした。英語圏ではディベートが盛んですが、とにかく、相手を言い負かすことが言語の本質となります。となると、ディベートでは、AとBの相手が代わってもいいのです。英語という言語が方便に過ぎないのなら、いつでも I love you.などと軽く、簡単に言えるのです。日本語では、そういつも簡単に「愛しています」などと軽く言えませんよね。日本語ではそれを言ってしまったら、命をかけてでもあなたを守り、財産の全てを引き渡す覚悟でもなければ言えないわけです(笑)。

 欧州語が「記号」に過ぎず、相手を言い負かす言語なのは何故かというと、T氏の考えでは、古代ギリシャに遡り、ギリシャでは土地が少なかったので、土地に関する訴訟が異様に多かったからだそうです。そのお蔭で、訴訟相手に勝つために色んなレトリックなども使って、表現法や語用が発達したため、そのようになったのではないか、というのです。

 なるほど、一理ありますね。フランスには「明晰ではないものはフランス語ではない」という有名な格言があります。つまり、相手に付け入るスキを与えてはいけない、ということになりますね。だから接続法半過去のような日本人には到底理解できない文法を生み出すのです。日本語のような曖昧性がないのです。言語が相手をやり込める手段だとしたら。

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 一方、日本語で曖昧な、遠回しな表現が多いということは、もし、直接的な言辞を使うと、「それを言っちゃあ、おしめえよ」と寅さんのようになってしまうことになるからです。

 ところで、幕末には、尊王攘夷派と開国派と分かれて、激しい殺し合いがありました。その中でも、西洋の文化を逸早く学んだ開明的な洋学者だった佐久間象山や大村益次郎らは次々と暗殺されます。洋学者の直接的な言葉が攘夷派を刺激したのでしょう。適塾などで学び欧米文明を吸収していた福沢諭吉も、自分の生命が狙われていることを察知して、騒動が収まるまで地元の中津藩に密かに隠れ住んだりします。

 それだけ、日本語は、実存的で、肉体的な言語で、魂が込められており、「武士に二言はなし」ではありませんが、それだけ言葉には命を懸けた重みがあるというわけです。そのため、中国語や欧米語のように軽く言えない言葉が日本語には実に多い、とT氏は言うのです。

 繰り返しますと、英語は、何でも軽く言える記号のような言語で普遍的、中国語は、寛容性を超えあらゆるものを飲み込む宇宙的、そして、日本語は命を張った言語で言霊的、ということになります。その流れで、現在の言語学は、文法論より、語用論の方が盛んなんだそうです。

 以上、T氏の説ですが、それを聞いて私も非常に感銘し、昨晩は久しぶりに味わった知的興奮であまり眠れませんでした。

文学とは実学である

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua 

新型コロナウイルス感染拡大の経済対策として、日本の国家政府は、国民1人に10万円と1世帯にマスク2枚を支給してくれるそうです。まだ届いてませんが、有難いことです。

 でも、素直に喜んでいいものやら。マスク2枚で466億円、国民1人10万円で12兆6000億円もかかるそうです。誰が立て替えてくれるのかと思ったら、新聞には「国費」と書いてましたから、結局、税金なんですね。まさか、大黒様の打ち出の小槌で、パッと現金が魔法のように現れてくれるものでもなし。

 何か、お腹の空いたタコが自分の脚を食べて、どうにか生き延びようとしているように見えます。

 うまい! これが文学です。何か、言葉に表せないモヤモヤしている感情を何とか、文字化するのが文学だとしたら、ここ数十年、厄介ものにされている大学の文学部とやらも、こういった緊急事態に何かと役に立つというものです。

 というのも、昨晩聴いたラジオで、作家の高橋源一郎さんが、現代詩作家の荒川洋治の随筆を朗読し、その中で、「文学とは実学だ。文学は、法律や医学や経済学と同じように、実社会に役立つものだ」といった趣旨のことを、孫引きの曾孫引きではありますが、強調していたからでした。(「ながら」でラジオを聴いていたので、荒川氏の本のタイトルを失念。荒川氏は何と、芸術院会員だったんですね!どうも失礼致しました)

 確かに、ここ数年、私自身も、文学の中でも小説やフィクションは、別に読まなくても良い、世の中に直接役立たないものだという思考に偏っておりました。そのため、ここ数年は、ノンフィクションか歴史書か経済書関係の本ばかり読んで来ました。

 しかし、疫病が世界中に蔓延し、アルベール・カミュの「ペスト」などの小説(結局、カミュが創作したフィクションですよ!)が改めて注目されている昨今を冷静に見つめてみると、文学の効用を見直したくなります。

Camus “La Peste”

 今、世界中で感染拡大を防止するために、経済封鎖するか、人の生命を優先するか、の究極的な二者択一を迫られています。変な言い方ですが、今、緊急事態の世の中で、実学として役に立っているのは経済学と医学ということになります。

 とはいえ、医学も経済学も万能ではありません。医学には医療過誤や副作用や、今騒がれている医療崩壊もあります。経済学も、ソ連型計画経済は歴史的にみても失敗に終わり、資本主義は、1%の富裕層に富が集中するシステム化に陥っています。

 その点、文学の弊害や副作用は、それほど劇薬ではないので、大したものではない一方、個人の生き方を変えたり、見直したりする力があります。下世話な言い方をすれば、小説を読んでもお金にはなりませんが、ヒトとしての生きる素養と指針を学ぶことができる、ということではないでしょうか。ボディーブローのようにジワジワと効いて、読んだ人の血や肉になるということです。

 昨晩はそんなことを考えていました。

コピーライターから歌人・俳人に

 一昨日24日(日)は、都内で大学の同窓会。昭和37年卒業生から令和元年院卒生まで55人も集まりました。この時季、ボージョレ・ヌーヴォー解禁に当たり、懇親会ではこれを目当てに参加される方も。

 毎回、卒業生の中で、功成り名を遂げた人の講演がありますが、今回のゲストは昭和47年卒業の吉竹純氏。講演名は「天皇陛下にお会いするまでーあるコピーライターの軌跡」でした。異様に面白いお話でしたので、私も後で大先輩の著作を購入してしまいました。

「こんな時代もあったのだ」。マイナス金利時代では信じられない。

 講演名にある通り、吉竹氏は、泣く子も黙る大手広告代理店電通の御出身でした。同氏が手掛けたカメラ会社や電気会社や石油会社や自動車会社などのコピーも紹介してもらいましたが、51歳の若さで天下の電通を退職されてしまうのです。勿体ないですね。その理由について、吉竹氏ははっきり述べませんでしたが、どうやら、独立して、作家として1本立ちする考えがあったようです。

 1989年度日本推理サスペンス大賞(新潮社主催)の最終候補作の4作の中に吉竹氏の作品「もう一度、戦争」が残ったのです。この大賞がいかに凄いかと言いますと、最終的に大賞を受賞したのが、宮部みゆきの「魔術はささやく」。 もう一人、最終候補作に残ったのが、幸田精「リヴィエラを撃て」と現在、大御所として大活躍している大作家ばかりだったのです。えっ? 幸田精を知らない?高村薫の前の筆名だったのです。 高村さんは、その翌年、「黄金を抱いて翔べ」(高村薫名義)で見事、大賞を受賞しています。

 そんな凄い賞の最終候補作に残ったのですから、吉竹氏が筆一本で人生を懸けようとしたことはよく分かります。でも、結局、サスペンス作家ではなく、短歌や俳句の短詩形の専門家になるんですんね。恐らく、広告のコピーと相似形があり、仕事の延長に近かったのかもしれません。

 そんなこんなで、吉竹氏は朝日、日経など多くの新聞に短歌や俳句を投稿しまくり、2002年に毎日歌壇賞、06年に与謝野晶子短歌文学賞、08年に読売俳壇年間賞などを受賞し、11年にはついに歌会始に入選し、天皇陛下にまで拝謁する栄誉まで得たというのです。頂点を極めたわけです。ちなみに、歌会始の入選作は、

  背丈より百葉箱の高きころ四季は静かに人と巡りき

 お題は「葉」でしたが、多くの人が、「落ち葉」や、「葉桜」などといった葉に関係する無難な言葉を選ぶだろうし、選者は読み疲れるだろう。それなら、誰も思いつかない「百葉箱」ならどうだろか、と奇をてらったところが大成功に結び付いたようです。

 先月10月30日には、「出版界の東大」(本人談)岩波新書に企画書を売り込んで、「日曜俳句入門」を刊行するという大技を成し遂げました。何にでもエビデンスを要求する岩波書店の校正の厳格さで鍛え上げられた労作だそうです。小生も感動して、1冊購入させて頂きました。帯に「こんな近くに投句のたのしさ」とあるように、吉竹氏は、ダジャレ精神に満ち溢れています。タイトルの「日曜俳句」も「日曜大工」にちなんだものだといいます。 私も片意地を張らない、そういうところが好きですね。

 コピーライターとして練り上げられた文章力です。この本が好評を博せば、続編「日曜短歌入門」も出版されるかもしれません。吉竹氏が凄いところは、彼自身がどこの結社や同人誌にも属さないで独立独歩でやっていることです。さて、読み始めますか。

近代三大茶人と「佐竹本三十六歌仙絵」

 京洛先生です。

 ああたねえ、お城なんかに行って喜んでおられるようですけど、日本人の究極の趣味は、歴史的に見ても、茶ですよ、茶。そんじょそこらの100円ショップで買ってきた安物茶碗で飲む出涸らしの茶のことではなくて、茶道の茶のことです。

 道具も超々一流のものを揃えなければなりません。そもそも、茶碗は、ああたが好きな城一つが、かるーく買える曜変天目でなければいけませんなあ。茶は、せめて宇治抹茶の「天の原」。お供は上菓子屋「松寿軒」の薯蕷饅頭(笑)。お香は、中村宗匠も嗜まれる志野流。志野焼茶碗じゃありませんよ(笑)。生け花は「表」から調達してもらい、掛け軸は「佐竹本三十六歌仙絵」に決まってます。

 えっ?何?「佐竹本」を知らないとな? 旧秋田藩主佐竹侯爵家に代々伝わってきた鎌倉時代の三十六歌仙の肖像画です。えっ? 三十六歌仙も知らない? 藤原公任(きんとう)が、飛鳥時代から平安時代にかけて活躍した歌人たちの中から選んだ柿本人麻呂、小野小町、在原業平ら三十六人の歌詠みのことです。

 今、京都国立博物館で「佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」が開催されていることを知らないでしょう(11月24日まで)。近代三大茶人の一人、益田鈍翁(どんおう)が大正8年(1919年)12月、東京・品川の自邸「応挙館」に当代一流の茶人と財界人と古物商らを集めて、絵巻を切断してバラバラにして、籤引きで、買い手を差配したのでした。

 佐竹本は大正6年にある実業家に売却されましたが、その実業家も経営に失敗して、再び売却せざるを得なくなり、海外流出を恐れた数寄者(すきしゃ)たちが、まとめて買うには高額過ぎるため、分割購入することにしたという背景があります。

 主催者鈍翁こと益田孝は、三井物産初代社長、物産の社内誌だった「中外物価新報」が今の日本経済新聞になったことは知る人ぞ知る話。その趣味、茶の腕前は「千利休以来の大茶人」と言われるほどですよ。

 近代三茶人とは、他に、「電力の鬼」松永耳庵と横浜の生糸商、原三渓でしたね。

 著作権の関係で「佐竹本」などの写真を渓流斎ブログに掲載できないのが残念です。せめても、ということで、京都国立博物館のサイト 「佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」のリンクを貼っておきます。

そうそう、今、思い出しました。三十六歌仙の一人に平安時代後期に活躍した坂上是則(さかのうえのこれのり)がおります。あの坂上田村麻呂の子孫とも言われてます。

 この坂上是則を題材にして、江戸時代の浮世絵師鈴木春信が「坂上是則 障子切張」を描いているんですよね。これも知る人ぞ知る話。

 そして残念ながら、これも著作権の関係で、渓流斎ブログに写真を掲載できませんので、貼ってあるリンクをご覧ください。

?「人間失格 太宰治と3人の女たち」は★★★☆

 太宰治に関しては、誰でも麻疹(はしか)のように一度は罹って、若い頃に熱中するものです。

 小生の場合は、ちょっと度が過ぎていて、高校生にして、既に、全集収録の全作品と書簡まで読破し、それでももの足りず、山岸外史「人間 太宰治」、坂口安吾「不良少年とキリスト」、檀一雄「小説 太宰治」、野原一夫「回想太宰治」…等々、評伝まで読破する始末でした。

 ということで、昨日から全国公開された蜷川実花監督作品「人間失格 太宰治と3人の女たち」は見逃せませんでした。しかし、私が映画を観る際に最も参考にする日経新聞の映画評では、★がたったの二つ!「つまらないから、観るな」と言われているようなものですから、躊躇しましたが、時、既に遅し。ネットで切符を買ってしまいました。

 で、仕方なく重い腰を上げて観に行ったのですが、やはり「★★」は酷過ぎる。とはいえ、映画史上の名作かと言えば、そこまで行かないので、「★★★☆」と中途半端な採点をしてしまいました。監督の蜷川実花さんは、あの「世界のニナガワ」演出家の蜷川幸雄の娘さんですから、斬新な映像美は確かにDNAとして受け継がれているようです。

 最初の方の真っ赤な曼殊沙華の花々の中での太宰と子どもたちとの散歩、太田静子との伊豆の満開の桜の中での密会場面などは、映像美術として見事でした。しかし、後半の太宰の雪上での喀血シーンなどは興醒めするほど長過ぎて、目をつぶってしまい、カットしたくなりました。後半を15分ぐらいカットすれば、満点に近い作品でした。

 どうせ配役は忘れてしまうので、書き記しておきますと、太宰治役が小栗旬、放縦な太宰を支える妻・津島美知子役が宮沢りえ、「斜陽」のモデル太田静子役が沢尻エリカ、入水自殺をする最後の愛人山崎富栄役が二階堂ふみでした。他に、坂口安吾が 藤原竜也、伊馬春部が瀬戸康史、三島由紀夫が高良健吾。

 太宰の文学研究者は奥野健男ら数多おりますが、人となりの研究者としては、「山崎冨栄の生涯ー太宰治・その死と真実」などの著書がある長篠康一郎氏がピカイチでしょう。この人は長年、太宰治研究会の世話役をやっていて、毎年6月19日の太宰の命日に東京・三鷹の禅林寺で行われる「桜桃忌」で、18歳だった私もお会いして、太宰の旧宅を案内してくれるなどお世話になったことがあります。(2007年に80歳で亡くなられたようですから、当時はまだ48歳だったんですね。)当時は私も若かったので、その時に出会った明治大学文学部の学生の下宿で、男性4人、女性2人が夜明けまで飲み明かしたことを覚えています。名前は忘れてしまいましたが、その時に会った若尾文子に似た1歳年上の美しい女性が今でも忘れられませんね(笑)。2人だけでそっと下宿の外に抜け出して、太宰作品について、立ち話をしたことを覚えています。翌朝、池袋駅で、彼女は赤羽線に乗るというので、連絡先も聞かずに別れてしまいました。大変懐かしい思い出です。

 蜷川実花監督は、当然、長篠康一郎さんの作品も読んで映画に参考にしていることでしょう。でも、概ね事実に沿って映画化したというのでしたら、山崎冨栄の愛称が「スタコラサッチャン」だったことや、太宰を囲んだ飲み会では「ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュー」なんていう戯れ歌を唄っていたことは初歩的知識として知っていたはずですから、映画に反映していなかったのが残念でした。

 残念といえば、太宰の遺作は「人間失格」ではなく、未完の「グッド・バイ」なので、妻への遺書として「人間失格」の原稿を添えたことは本当かなあ、と思ってしまいました。単行本になった「人間失格」の生原稿は出版社にあったわけですから、嘘くさく感じましたが、これは、現実とは違う映画の話でしたね。

 太宰に関しては、なまじっか、知識があるものですから、「人間失格」を主に執筆したのは、三鷹ではなく、埼玉県の大宮なので、何で、大宮のシーンを出さなかったのか、とか、出てくる子どもたちで、太宰の長女園子さんは、後に婿養子を取った津島雄二元厚生相の妻で、長男正樹君は知的障がいがあり、若くして亡くなったとか、次女里子さんは作家津島祐子になる、とか、太田静子の娘も現在作家の太田治子だなあ、とか、映画を観ていても、深読みして頭の中にごちゃごちゃと出てくるので、困ったものでした。

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 でも、全く、太宰治の小説を読んだことがなく、人間関係もほとんど知らない人がこの映画を観たら、単なる、我儘な小説家が主人公のエログロナンセンス程度しか思えないかもしれません。

晩年、流行作家になり、「人間失格」や「斜陽」は、今の若い人の間でも、太宰が「敵視」した文壇大御所の志賀直哉や川端康成よりも多く読まれていると聞きます。でも、晩年の頃の作品よりも、「富嶽百景」や「お伽草紙」などの中期の作品の方が明るくて個人的には好きですね。

太宰自身はわずか38歳で亡くなってしまいましたが、彼の作品はこれからも読み継がれていくことでしょう。三島由紀夫のように反発する人もいますが、「あなただけに」内緒で語り掛けるような文体は、誰も書けないでしょう。だから、他の多くの作家は死後すぐ忘れ去られてしまうのに、太宰だけはこうして没後70年以上経っても映画化されるような作家として残っているのです。

 

 

「青年の樹」のモデルの藤木氏

これでも私は昔、映画に出演したことがあります。長身痩躯で美男子でしたからねえ(笑)。

でも、出演と言っても端役、いや、これも言い過ぎで、台詞もない単なるエキストラを学生時代にアルバイトで何本かやっただけでした。

その中に「青年の樹」という作品がありました。1977年公開の東宝映画(西村潔監督)で、主演は、三浦友和と檀ふみ。後から知ったのですが、原作は石原慎太郎の同名の小説(1959~60年、「週刊明星」連載)で、既に60年に石原裕次郎と北原三枝のコンビで日活で映画化されており、これが二度目でした。

横浜の港を舞台にした作品で、ヤクザ和久組の跡取りとして生まれた主人公が東京の大学に入学し、「苦闘の末、二代目となる青春怒号篇」ということですが、もう40年以上も昔なので、内容はすっかり忘れてしまっております(笑)。学生役でしたから、衣装も私服で、そのまんまでした。

撮影現場は、立教大学だったかなあという程度の記憶ですが、主役の三浦友和さんが学食で食事する場面で、彼が箸を口元に持って行くと「カット」。食べようとすると「カット」。それをアップで撮ったり、少し離れて撮ったり、右から撮ったり、左から撮ったり、そのたんびに、「カット」の連続。「えっ?これで演技できるの?」という感じでした。

溝口健二監督らが映画のことをよく「シャシン」と言ってましたが、本当に映像ではなく、写真を撮っている感じでした。そう言えば、昔は映画のことを活動写真と言ってましたからね。「あー、こうして映画が撮影されているのかあ」と思うのと同時に、「俳優って、あまり面白くないなあ」と生意気に思ってしまい、それ以来、俳優志望をやめてしまいました(笑)。

檀ふみさんは、憧れの女優で、私も大ファンの檀一雄先生のお嬢様ですからね。サインをもらいたかったのですが、彼女は勉強家でいつもロケバスの中で本ばかり読んでいて近づけない雰囲気でした。

気張った私は、単なる主役の背景になる学生なので、目立ってはいけないのに、カメラを見てしまったりして、「おい!そこの! エキストラなんだから、目立っちゃ駄目なんだよ。何やってんだよ!」と助監督に大声で怒られたことを覚えています。それで、エキストラも嫌になって、アルバイトもやめた気がします。

さて、この石原慎太郎著「青年の樹」にはモデルがいました。横浜港運協会会長で、藤木企業会長・横浜エフエム社長の藤木幸夫氏です。少し、毀誉褒貶のある方で、陰では全国的に有名な「横浜のドン」と呼ばれ、地元政財界を仕切っているという噂の持ち主です。これもまた、噂の領域を出ませんが、菅官房長官のパトロンとも言われ、横浜市がカジノを誘致した場合、一番の顔役になる人とも言われています。

その彼の半自叙伝「ミナトのせがれ」(神奈川新聞社、2004年8月18日初版)を読むように、と名古屋にお住まいの篠田先生が貸してくれました。その本の帯に石原慎太郎氏が「私はかつて、若き日の著者をモデルに『青年の樹』を書いたことがある…」と推薦文を書いていたので、自分も上述したことを思い出したわけです。

藤木氏は、早稲田大学政経学部卒のインテリながら、父親の藤木幸太郎が一代で築き上げた港湾荷役業会社を継いだ二代目です。腕力だけが頼りのかつての荷役業者には「酒と女とバクチ」にはまるヤクザな荒くれ者が多かったのです。それを父親は、自分の腕力と交渉力と良き先輩に恵まれ、カタギだけを育てたことで、全国船内荷役協会の会長まで昇り詰めます。同協会副会長が神戸の田岡一雄甲陽運輸社長だったことから、「田岡のおじさん」とは公私にわたる家族ぐるみの付き合いで、そこから世間の誤解も招いたります。

藤木氏は、中国に何度も何度も渡り、大連港の荷役業務を整備して中国政府から表彰されたり、横浜オランダの名誉領事に選ばれたりする逸話は読み応えがありました。

和田芳恵著「ひとつの文壇史」を読んで

石川県にお住まいの小松先生のお勧めで、和田芳恵著「ひとつの文壇史」(新潮社、1967年7月25日初版)を読了しました。もう半世紀以上昔の本なので、図書館で借りましたが、私の大好きな昭和初期の風俗が手に取るように分かりました。

和田芳恵(1906〜77年)は、樋口一葉研究者で直木賞作家としても著名ですが、知らない方は名前から女性ではないかと思うことでしょう。そういう私も、彼が戦前に、新潮社の編集者として活躍していたとは知りませんでした。

本書は、その新潮社編集者時代の思い出を綴ったノンフィクションです。昭和6年から16年までのちょうど10年間の話です。昭和6年=1931年は、満洲事変の年、16年=1941年は真珠湾攻撃の年ですから、まさに我国は、軍部が台頭して戦争に真っしぐらに進んだ時代でした。

でも、文学の世界、それも、大衆文学の世界ですから、戦況や戦時体制に影響されるとはいえ、締め切りを守らないで雲隠れする作家や、原稿料を前借りする作家らの逸話が中心です。

昭和6年は就職難で、小津安二郎監督作品「大学は出たけれど」(1929年公開)の時代が続いておりました。和田芳恵は、同年3月に中央大学法学部を卒業しますが、その壁にぶち当たり、あらゆる手を尽くして就職先を探します。卒業生27人のうち、司法試験に合格して弁護士を目指す者が一人。この他、何とか就職できたのは和田を含めてわずか3人だったというのですから、就職氷河期どころではなかったわけです。

和田の場合、伯父が府立一中出で、その中で秋田県出身の同窓会の幹事が東京朝日新聞の学芸部長だった石川六郎(作家石川達三の叔父)だったので、その伝で朝日新聞に入社するか、和田の父親が、秋田師範の予備校のような学校だった積善学舎で、新潮社の創業者の佐藤義亮と同窓だったことから、そのコネで新潮社に入社する希望を持っていましたが、断り続けれられた末、漸く、新潮社に入ることができた話からこの本は始まっています。

入社して3年ほどは辞典編集部に配属されますが、昭和9年6月から「日の出」という大衆雑誌の編集部に移ります。この雑誌は、ライバル講談社の「キング」に対抗して創刊されたらしいですが、私自身は聞いたことがありませんでした。

和田芳恵が最初に担当したのが、鎌倉に住む長谷川四兄弟の長兄長谷川海太郎でした。一人で牧逸馬、林不忘、谷譲次と三つのペンネームを持つ流行作家です。「日の出」に谷譲次の筆名で「新巌窟王」を連載中だったのです。ちなみに、林不忘としての代表作は「丹下左膳」など時代小説、牧逸馬では「この太陽」や「めりけんじゃっぷ」物などがあります。しかし、それだけ無理したことで過労のため35歳の若さで亡くなります。(ちなみに、長谷川四兄弟の二男潾二郎は画家、作家、三男濬は、満洲で甘粕正彦満映理事長の最期を見届けたロシア文学者、四男四郎も作家)

この他、和田芳恵が編集者として会った作家はかなりの数に上ります、大佛次郎、武田麟太郎、吉川英治、山岡荘八、丹羽文雄、川口松太郎ら今でも読まれている作家が多く登場しますが、今ではすっかり忘れ去られた作家もかなりおりました。

昭和初期は、今のように娯楽が何でもあり、趣味が多岐に渡る時代ではありませんから、文学が大衆の楽しみの柱の一つだったことでしょう。そういった意味では本書は貴重な歴史の証言です。