大晦日と「京都学派酔故伝」

鎌倉街道

◇1年間御愛読有難う御座いました

今日はもう大晦日です。今年も本当に色んなことがありましたが、1年間はアッという間でした。年を取ると、年々幾何学級数的に歳月の流れが早くなりますね。

今年も一年間、わざわざ検索して、この《渓流斎日乗》を御愛読して頂きました皆々様方には感謝申し上げる次第で御座います。

今年は何と言っても、《渓流斎日乗》が新規独立して、オフィシャルサイトが開通したことが最大のイベントとなりました。これには、東京・神保町にあるIT企業の松長社長には、大変お世話になりました。改めて御礼申し上げます。

◇戦勝国史観だけでは世の中分からない

日々のことは、毎日この《日乗》に書いた通りですが、 個人的な今年の最大の収穫は、数々の書籍を通して、物事も、歴史も、色々と多面的に眺めることができたということでしょうか。世の中は、数学のようにスッキリと数字と割り切れるわけではなく、スポーツのように勝ち負けで勝負がつくわけでもなく、哲学のように論理的でもなく、小説や映画の世界のように善悪で割り切れるわけでもなく、社会倫理のように正義と不正義に峻別されるわけでもないことがよおーく分かりました。

来年のことを言えば、鬼も笑うかもしれませんが、個人的な抱負としましては、引き続き、健康には気をつけますが、「何があっても気にしない」(笑)をモットーにやって行きたいと存じます。

あと、毎日電車の中でスマホでこの《渓流斎日乗》を更新し続けてきましたら、今年9月下旬に急に体調を崩してしまい、「これはいけない」ということで、「スマホ中毒」からの脱出を図ることに致しました。

以前のように、毎日更新できないかもしれませんが、今後とも御愛読の程、宜しく御願い奉ります。

京都にお住まいの京洛先生のお薦めで、櫻井正一郎著「京都学派 酔故伝」(京都大学学術出版会、2017年9月15日初版)を読んでいます。著者は英文学者の京大名誉教授。残念ながら、あまり読みやすい文章ではありませんが、「京都学派」という知的山脈の系譜が「酔っ払い」先生をキーワードに描かれています。

京都学派というと、私のような素人は、湯川秀樹博士のような物理学者を思い浮かべましたが、著者によると、初めて京都学派という言葉が使われたのは1932年で、戸坂潤が「西田=田辺の哲学ー京都学派の哲学」という著書の中で使ったもので、哲学の分野が最初だったといいます。

そこから、京都学派の第1期は、哲学者の西田幾多郎、田邊元、九鬼周造、東洋学者の内藤湖南、中国学者の狩野直喜らが代表となります。第2期では、中国文学の吉川幸次郎、仏文学の桑原武夫(実父は第1期の東洋学者桑原じつ蔵)、生物学の今西錦司、梅棹忠夫、作家の富士正晴、高橋和巳らとなり、本書では彼らを取り上げて詳述しています。

京洛先生は、三高と京大の名物教授だった英文学者の深瀬基博(織田作之助も三高生のとき習った)が贔屓にしていた祇園ではなく「場末」の中立売通のおでん屋「熊鷹」(今はなき)が、お近くのせいか、えらくお気に入りになって、「現場」まで足を運んだそうです。

この本の中で、赤線を引いたところはー。

・仏文学者の桑原武夫は、小林秀雄に対して厳しく、「小林君というたら無学でっせ」と言ったとか。同じ仏文学者の生島遼一も小林には厳しく、後輩の杉本秀太郎が生島の家で小林を褒めると、生島は「君たちは小林小林と言うけど、彼は僕や桑原君みたいにはフランス文学は知りませんよ」と言うなり、杉本に出していたカステラを取り上げて、窓を開けてカステラを犬に食わせたとか。

・「海潮音」の翻訳で知られる上田敏は、京大英文科の初代主任教授だった。

・中国文学者の吉川幸次郎が、東京・銀座の金春通りにあった料亭「大隈」に飾ってあった、客として来た画家の岸田劉生が書き残した画賛が読めなかった。生真面目な吉川は「これは語法に合うとらん」と言った。そこに書かれていたのは、

鶯鳴曠野寒更新

金玉瓶茶瓶茶当天下

後日店を訪れた中野好夫は、吉川とは三高時代の同期だったので「吉川はこういうもんは読めんよ」と素っ気なく言ったとか。

これは、謎かけや隠し言葉を楽しんでいた江戸文化がまだ残っていたもので、「長らくご無沙汰していた年増女の懇願する内容」ということで、後は皆様御自由に解釈くだされ(笑)。

・古代ローマで一般教育「リベラルアーツ」の習得は自由民だけに限られ、奴隷、職人はタテ社会の一員として親方から専門教育だけを伝授された。リベラルアーツの初級は、「文法」「修辞学」「論理学」の3科目。上級は、「算術」「天文学」「地理学」「音楽」の4科目だった。

・筑摩書房の創業者古田晃は、東大出だったが、国文学の唐木順三、独文学の大山定一ら京都学派の本をよく出版した。かなりの酒豪で、最期は東京・神保町の「ラドリオ」で酔い潰れ、帰りのタクシーの中で帰らぬ人となった。

荷風の日常


ウチにやっとマイナンバーなるものが来ました。ウチには来ないものと思っていたのですが…。

これで、国家は、番号一つで、国民を管理し、税金を絞るだけ絞って、脱税なんぞはもうあり得ない現象になるかもしれません。
何しろ、この番号はその人に一生涯、付きまとわりつくというではありませんか。詳しいことは分かりませんが、今は、年金や納税用かもしれませんが、そのうち、戸籍代わりになり、出身地から学歴、職歴、そして、犯罪歴まで一目瞭然で分かるようになるかもしれませんね。

あ、そうそう、安保法案も可決したことですし、将来、徴兵しやすくなるかもしれません。政治犯や囚人になったら、マイナンバーの番号で呼ばれるのかしら。ま、12桁もあるので覚えられないと思いますが…。

扨て、最近、ちょくちょく、永井荷風が出てくるのは、今、少しずつではありますが、川本三郎著「荷風と東京ー『断腸亭日乗』私注」(都市出版)を読んでいるからでした。索引を入れて600ページ以上の大冊です。平成8年9月5日が初版なので、もう20年近く前の出版。既に読んでおられる方が多いことでしょう。

この本では実に多くのことを教えてもらいました。漢字が読めないので、久しぶりに「漢和辞典」を横に置いて読んでいます。何しろ、荷風散人は、英語、フランス語だけでなく、漢籍の素養が豊富にあったからでしょうね。こういった教養面では、戦後の日本人は駄目になりましたね。

湯灌場(ゆかんば)、◇(草かんむりに兼)◆(草かんむりに暇のつくり)=けんか、俗累(ぞくるい)なんて、読めないし、意味も分かりませんでしたね。何しろ、フリガナさえふっていないのです。

荷風が自宅にした東京・麻布の偏奇館は「偏屈な変わりもの」だから、命名したのかと思いましたら、洋館に水色のペンキを塗ったからだそうですね。ま、両方をかけているんでしょうが。

断腸亭も、持病の腸が悪いことから断腸の思いで付けた雅号かと思いましたら、花の好きな荷風が断腸花(秋海棠)から付けたそうです。もっともこれも、両方をかけているのでしょう。秋海棠と言えば、中原中也が小林秀雄と鎌倉で散歩している時に、この花を見て「ぼーよー、ぼーよー」とうめき、後で小林が「ぼーよーってどういう意味なんだ」と聞いたところ、中也は「前途茫洋ということだよ」と言った話は有名ですが、私はてっきり、秋海棠だと思って調べてみたら、実際は「海棠」の花でした。

この本は何処の章から読んでも面白いです。都市出版ですから、恐らく雑誌「東京人」に連載されていたのでしょう。

日本で最初の地下鉄は、昭和2年に浅草―上野間を開通した今の「銀座線」ですが、どんどん延長されていくことが「断腸亭日乗」に書かれています。荷風は懐古趣味だけでなく、最先端をいくジャーナリストでもあったのですね。

実は、この路線は、浅草の松屋、上野の松坂屋、日本橋の三越、白木屋、高島屋、銀座の松屋、三越、松坂屋を結ぶ「デパート線」だったことがこの本で初めて知りました。

何しろ「三越前」は、三越が駅名に「三越前」を採用してもらう条件で、工事費のほぼ全額を三越が負担したそうです。日本橋駅は白木屋と高島屋、銀座駅は、松屋が駅建設費の多くを負担したそうです。

久しぶりに「知的好奇心」が満たされました(笑)。

滝乃不動明王

その不動明王は小高い河岸段丘の緩やかな崖の麓にありました。

角川春樹氏が30年以上前に夢のお告げで訪れ、「これから出版だけでは駄目だ。映画界に進出せよ」との啓示を受けた所だそうです。

音更町の人里離れた十勝川の河岸に、とても立派とは思えない草庵ともいうべき粗末な庵の中に小さな不動明王は鎮座していました。その草庵の横に湧き清水が流れ、地元の人がひっきりなしにお水取りにやってきました。

私も浄財箱に幾ばくかの小銭を入れて、手を合わせて、何かの啓示を待ちました。

あるがままに…。
まだ春遠き十勝の広大な原野に葉風の音がそう囁きました。