大阪浪華の宝、折口信夫、木津勘助

おはようございます。大阪の浪華先生です。

渓流斎さん、色々、時間をつくって、東京や小田原や埼玉周辺を探索されて居られますね。健康のためにも良いことです。

ブログでは、谷川彰英著の「埼玉 地名の由来を歩く」(ベスト新書)を読んで居られるそうで、休日は、川越まで足を運ばれた、という事ですが、色々、歴史の足跡を確認されて、教養を深められて、何よりです。


迂生は、「ウマズイめんくい村通信」の赤羽村長に対抗して、廉価で美味いものを探しに、大阪周辺を歩き回っています(笑)。
以前、「めんくい村通信」で、東京・浅草の「千葉屋」という、大学芋が美味しいとの評判記事が出ていました。
迂生も「大学芋」は大好きですが、上方には、気にいった大学芋を売っている店がほとんどありません。
もっとも、焼き芋、大学芋の店は、時代の流れで、消滅寸前です。大学芋は、デパートの総菜売り場で見かける程度ですが、小奇麗な陳列棚に並んでいる芋類はどこか気取っていていけませんね。
そんな折、京阪電車「京橋」駅の京阪百貨店の催事売り場で、美味い大学芋に出くわしました。
大阪市浪速区の「大国町(だいこくちょう)」にある、「大国屋」という大学芋の専門店で、パソコンで「大阪 大国屋」で検索するとHPが出てきます。
此処の大学芋は時間が経っても、いつまでもパリッとして、口当たりがよいことです。大体、大学芋は、時間が経つと、液状になって、飴が手にねばりついたり、ねばねばして、食べるのも面倒くさくなるものです(笑)。

そこで、暇つぶしに、地下鉄御堂筋線「大国町」駅そばの、その「大国屋」にまで行ってきました。梅田から地下鉄に乘ると「難波」から一駅先が「大国町駅」です。難波からでも、歩いて行ける便利なところでした。
そこで、ついでながら、この「大国町」周辺のぶらぶら歩きをしたところ、色々、歴史探訪になりました。


一つは、彼の有名な民俗学者で国文学者、歌人の折口信夫(釋迢空)の生誕の地を見つけたことです。
さらに、それより、はるか昔、神功皇后が、「三韓征伐」の凱旋のおりに、素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祀ったという「敷津松之宮」(大国主神社)が大国町にありました。「古代」と「現代」が入り混じった、浪華の歴史が、あちこちに散見できることです。

”歴史の玉手箱”です。


折口信夫の生誕の地は、浪速区敷津西一丁目周辺で 今は鴎町公園の中にあり、大阪市が市制70周年を記念して記念碑を建立し、昭和58年に「十日戎」の詩の一文を刻んだ文学碑も建てられました。
記念碑には「ほい駕籠を待ちこぞり居る人なかに おのづからわれも待ちごゝろなる」と刻まれてありますが、「ほい駕籠」は、渓流斎さんお分りになりますかねえ?


東京、関東の人には、なじみのない言葉でしょう。「ほい駕籠」とは駕籠かきの掛け声です。
正月、同じ浪速区にある「今宮戎神社」の「十日戎」では、芸舞妓が「寶恵駕籠」に乗ったりするので、「ほえかご」とも言ったりしますが、当時の浪華の賑わいが、この歌からも伝わってきます。


また、「敷津松之神宮」の境内にも、折口信夫の記念碑が建っています。こちらは昭和53年11月に、折口の母校である「府立天王寺高等学校同窓会(旧制府立五中)」や「近畿迢空会」、「国学院大学院友会大阪支部」、折口が一時期、教員をしていた「大阪府立今宮高校自彊会」が協賛で記念碑を建てたものです。


「敷津松之神宮」の由緒は、神功皇后の時代に遡りますが、その後、江戸時代の延享元年(1744年)になって、神託を受けて、出雲大社の摂社として「大国主神社」になったため、鳥居と神殿が二カ所あります。「大国主神社」は、今宮戎神社と並んで、大阪商人の守り神とされています。「大国主神がお父さん」、「事代主神が子供」で、両方お詣りしなければ「片詣り」とも言われるそうです。初詣や、十日戎の時は、両方に参拝するする習わしになっている、という事です。


境内には「木津勘助」の大きな銅像もあります。
またまた、渓流齋さんは「木津勘助て、一体、何者ですか?」となるでしょうね(笑)。
木津勘助は、伝説的英雄で実像は不明のようです。


通説では、本名は中村勘助。天正14年(1586年)に関東の足柄山に生まれた、と言われています。その後、大坂は木津村に住み、豊臣秀吉の配下になり、豊臣家滅亡後は、木津川の治水・堤防作りや新田開発事業に取り組んだ、と伝わっています。とくに、寛永16年(1639年)の大飢饉では、「お蔵破り」を決行して捕まり、葦島(現在の大正区三軒家付近)に流されました。その後、また、新田開発に関わり、万治3年(1660年)、75歳で亡くなったと言われています。

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「埼玉」の由来は「人を幸せにする心」、古代は東日本の中心地だった!

川越市

谷川彰英著「埼玉 地名の由来を歩く」(ベスト新書、2017年9月15日初版第2刷)を読んでます。

凄く楽しみにして読み始めたので、大変残念でした。誤植が多いのです。

前半に、「言明天皇」が出てきますが、明らかに「元明天皇」の間違い。1回や2回の間違いならよくあることですが、これが、4回も5回も続いて「言明天皇」とあると、確信的です。「えっ?最近の歴史教科書では名前が変わったの?」と、こちらで何度も辞典や事典で調べ直したほどです。

元明天皇は、平城京に遷都し、「古事記」「風土記」を編纂した女帝として有名です。

もっと酷いのは、79ページの地図です。新座市、和光市、志木市など埼玉県南部と練馬区など東京都北部の地図なのですが、清瀬市の隣が、何と「東村山市」と明記されているのです。「東久留米市でしょ!!!」と大声で叫びたくなりました。

東久留米市は、あの渓流斎先生がご幼少の砌、野山を駆けずり回った由緒ある土地柄です。ありえなーい。

著者は、信州松本の御出身で、筑波大学教授などを歴任された学者です。この辺りの土地勘はないでしょうが、あまりにもおそ松君です。それ以上に、出版社(KKベストセラーズ)の編集者・校正者も見抜けないんでしょうかねえ?劣化を感じます。

と、最初からかなり貶してしまいましたが、この本から教えられること多とします。著者は「地名の由来を歩く」シリーズを既に、京都、奈良など5冊も刊行されており、地名の歴史の専門家でしょう。手馴れています。新聞記者のように自分の足で歩いて取材している辺りは、感心します。

誤記以外は素晴らしい労作です。以下、いつものように換骨奪胎で。

・さいたま市大宮区に鎮座する氷川神社は、武蔵国の「一宮(いちのみや)」とされている。古代の武蔵国の国府が置かれたのは、今の東京都府中市。ここにある大国魂(おおくにたま)神社は、武蔵国の「総社」なので、一宮の氷川神社の方が格上である。(「総社」とは、当該国の格式が高い神社(多くは6社)をまとめて勧請して祀った神社のこと。)

・ということで、古代、武蔵国の中心は、府中ではなく、埼玉だったのではないか。

神の御魂(みたま)には大きく「荒(あら)御魂」と「和(にぎ)御霊」の二つに分かれる。荒御魂とは、「荒く猛き神霊」、和御魂とは「柔和・情熱などの徳を備えた神霊または霊魂」のこと。この和御魂には、さらに二つの神霊があり、一つは「幸(さき)御魂」で「人に幸福を与える神の霊魂」。もう一つは「奇(くし)御魂」で、「不思議な力を持つ神霊」のこと。

埼玉は、前玉(さきたま)から転じたもので、この前玉は、幸御魂(さきみたま=人に幸福を与える)から来たものだった。

・「続日本紀」によると、元正天皇の霊亀2年(716年)、「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7カ国にいる高麗(こま)人(=高句麗からの渡来人)1799人を武蔵国に移住させ、初めて高麗郡(こまのこおり)を置いた」とある。高麗郡は、今の日高市から飯能市にかけての丘陵地。恐らく、高句麗から亡命した若光王が朝廷に願い出て許されたからではないか。

・一方、新羅からの渡来人を移住させた地域に「新羅郡(しらぎのこおり)」を置く。今の志木市、和光市、新座市辺り。志木は、新羅から転訛されたものと言われ、新座は、新羅郡から新座(にいくら=新倉とも)郡になったことから由来すると言われる。

(上田正昭著「帰化人」によると、百済系の漢氏=あやのうじ=は、軍事=鉄器や馬なども=、土木、外交などに強く、蘇我氏と結びつき朝廷内で台頭します。法隆寺「釈迦三尊像」をつくった止利仏師や蝦夷を征伐したとして知られる坂上田村麻呂らも漢氏の子孫です。

新羅系の秦氏=はたのうじ=は、大蔵官僚となり大和朝廷の財務を司ります。聖徳太子や藤原氏との結びつきが強く、国宝第1号に指定された弥勒菩薩像で有名な広隆寺は秦河勝=はたのかわかつ=が創建したもので、御本尊様は、聖徳太子から賜っています。神奈川県秦野市も、秦氏が移住した土地です。)

・和光市は、江戸時代は、「上新倉村」「下新倉村」「白子村」と言われ、白子宿は繁栄していた。新羅はかつて、志楽木(しらぎ)と書かれ、それが転じて白木となった説がある。白子も語感的に新羅をイメージさせる。恐らく、今の和光市が、古代新羅人の移住先の中心地ではなかったか。

・朝霞市は、近世以降、膝折村と言われていた。これは、応永30年(1423年)、常陸国の小栗城を攻め落とされた城主の子息小栗助重が逃げ延びて、この地に来たとき、馬が勢い余って、膝を折って死んでしまったという伝説から付けられたという。膝折村から朝霞町になったのは昭和7年のこと。東京・駒沢にあった東京ゴルフ倶楽部をこの地に移転させ。開場日に朝香宮殿下の御臨席を賜り始球式が行われた。この朝香宮の名前を頂くことにしたが、そのままでは畏れ多いので、この地に発生する朝霞(あさぎり)にちなんで朝霞町にしたというもの。

・昭和天皇の弟宮秩父宮は、従来なら「三笠宮」など畿内の山の名から命名されていたのを、あえて、武蔵国の名山である秩父から命名された。秩父の歴史に深い理解があったものとみられる。地元民は大いに喜び、秩父宮は今では秩父神社の御祭神として祀られている。

・川越は、平安末期、桓武平氏の流れを汲む秩父氏がここに進出して荘園を開き、秩父重綱の子重隆以降は河越氏と名乗る。この重隆の孫重頼の娘「郷御前(さとごぜん)」は、源義経の正室。この史実は意外と知られていない。

蘇我氏が分かれば古代史が分かり、古代史が分かれば日本の歴史が分かる

Copyright par Matsouoqua Sausaie

先日、倉本一宏著「蘇我氏」(中公新書)を読了しましたが、1週間近く経つのに、まだ、あの感銘が消えていません。「そっかあ」「そういうことだったのかあ」と納得することばかりでした。

この感銘もいずれ忘れてしまうので、書き留めておかなければなりません。前回書いた記事に【追記】として掲載しようかと思いましたが、稿を改めることにしたわけです。

倉本氏は、「おわりに」に梗概をうまくまとめておられました。それなどを参考に私の感想も含めて列記致したく存じます。

・「乙巳の変」は(1)舒明天皇と皇極天皇との間の皇子、中大兄王子(なかのおおえのみこ、後の天智天皇)と、舒明天皇と蘇我馬子の女(むすめ)法提郎媛との間の皇子、古人大兄王子(ふるひとのおおえのみこ)との大王位継承争い(2)中臣鎌足と蘇我入鹿との間の国際政策構想(唐からの圧力にどう対処するかの外交問題)の争い(3)蘇我氏内部における本宗家争い(4)大夫(まえつきみ)氏族層内部における蘇我氏族と非蘇我氏族との争い―など複雑な要素がからんだクーデターだった。

・その際、中大兄王子の敵対者として、その実像以上に反天皇の立場(幕末史でいうところの賊軍)に描かれたのが蘇我蝦夷・入鹿親子だが、究極的には、「日本書紀」の編者である持統天皇と藤原不比等の主張に基づくものだったと考えられる。

・中臣鎌足の子息藤原不比等は、嫡妻(ちゃくさい)として、蘇我馬子の孫で、蝦夷の甥に当たる連子(むらじこ)の女である娼子(しょうし、媼子=おんし)を迎えたのは、蘇我氏という尊貴性を自己の中に取り入れて、正統性を主張する魂胆が背景にあった。

・同時に、藤原氏の不比等は、蘇我氏が6世紀から行ってきた天皇家との姻戚関係の構築による身内氏族化という政略も同時に踏襲した。(藤原氏による天皇家との外戚関係構築は、蘇我氏の真似をしただけだったとは!)

・乙巳の変で、蘇我氏本宗家は滅亡したが、本宗家の弟、甥筋などに当たる田中氏、久米氏、小治田氏、桜井氏などは奈良時代辺りまで、石川氏や宗岳(そが)氏などとして、藤原氏独裁の中、低官位に甘んじながらも平安末まで生き抜いた。

・最近の歴史教科書は、昔と大違い。聖徳太子の名前も消えるという噂もありましたが、今は厩戸王子(うまやとのみこ=聖徳太子)と記述されているようです。何故なら、聖徳太子は、厩戸王子の死後の諡(おくりな)で、生前に一度も、聖徳太子と名乗っていなかったからだそうです。

・この聖徳太子は、父用明天皇(欽明天皇と蘇我稲目の女堅塩媛=きたしひめ=との間の皇子)と母穴穂部間人王女(欽明天皇と蘇我稲目の女小姉君との間の皇女)との間に生まれた皇子で、つまり、蘇我氏の血が半分流れていたわけです。

・蘇我馬子の孫連子(むらじこ)の子孫が石川氏を名乗るも、元慶元年(877年)に、宗岳(そが)と改姓。これが後世には「むねおか」と読むようになり、宗岡、宗丘などの字も当てられた。埼玉県志木市の宗岡も関係あるのではないかという説も。

・参議(正四位以上)。平安時代になると、蘇我氏末裔は三位以上の官人はいなくなり、多くは五位で終わってしまう。(六位以下の官人の叙位記事は原則として「六国史」には掲載されない)

・平安時代の摂関期になると、国家による正史が編纂されなくなり、その代わりに古記録と呼ばれる男性貴族や皇族による日記が現れるようになる。倉本氏は、かつて、摂関期は古代氏族としての蘇我氏は完全に終焉したと考えていたが、それが誤りだったと気づきます。古記録には、蘇我氏末裔は、六位下の下級官人として古記録に登場していた!(同様に古代の名族である安倍氏、阿部氏、紀氏、石上氏、物部氏、平群氏、巨勢氏、大伴氏、伴氏、佐伯氏、春日氏、大神氏、橘氏なども健在だったと言われてます)

ついにパソコンよ、さらば?

JR浦和駅

不動産情報サイトが実施した「住みたい街ランキング 2018関東版」で、あの吉祥寺が首位から陥落して、横浜がトップになったそうで、おめでとう御座います。

しかし、私が注目したのは、埼玉県の大宮(9位)と浦和(10位)がトップ10にランクインしたことです。

へーと思ってしまいました。

でも、昨年辺りから、東海道線などと乗り換えなしで運行されるようになり、大宮、浦和から直接、横浜や熱海、小田原、伊豆まで、直行できるようになったので、便利と言えば便利です。

以前は、埼玉と言えば「ダサいたま」と言われ、住むのが恥ずかしいイメージがありましたが、そんな偏見も無くなったようです。

これから読もうかと思っている谷川彰英著「埼玉 地名の由来を歩く」(ベスト新書)によると、古代、埼玉は、武蔵国の中心どころか、東日本の中心だったようです。そして、何と言っても、埼玉(さきたま)の由来は、幸御魂(さきみたま)から来ているらしいですね。「人に幸せを与える心」という意味らしい。武蔵国には、古代には、出雲の人たちが渡ってきて、氷川神社などを建てたり、高句麗や新羅からの渡来人が移住したり、古代からなかなかのロマンと歴史があったようです。

この本を読むのも楽しみです。

 

さて、長年使っていたパソコンを処分することに決めました。メーカーが無料で引き取ってくれるという記事を新聞で読んだからです。

私の個人パソコンは、ウインドウズ7で、どうやら昨秋あたりから、マイクロソフトさんの戦略でサポートをやめたらしく、潮時となりました。

保証書と一緒に保管していた領収書を見たら、購入は2011年3月6日でした。東日本大震災の直前だったんですね。ちょうど、7年経ちますが、途中、入院したりして1年間殆ど全く使わない時もありました。

まだ、使えそうですが、バッテリーが劣化して、途中で電源が落ちたりして困ったことがありました。それに、動作が遅くてイライラしたりします。

もうパソコンも文房具みたいなもんですね。これが何台目だったのか、もうすっかり忘れてしまいました。

それに、今は、iPhoneとiPadがあるので、自宅でパソコンを使わなくても済んでしまいます。何しろ、iPhoneの最新機種のiPhoneⅩなんか、10万円以上するのに、パソコンは7万円ぐらいでも新品が買えるんですからね。パソコンもどうせ、5、6年持てばいいでしょうから、そして、ソフトもハードもそのように作られているのですから、それで十分です。

ただ、今のところ、この《渓流斎日乗》を執筆するにしろ、自宅ではパソコンを使わなくても用が済んでしまいますので、また新たに買い換えるかどうか迷ってしまってます。

ハムレットの心境です。

倉本一宏著「蘇我氏 古代豪族の興亡」は悲運一族の名誉回復書か?

倉本一宏著「蘇我氏 古代豪族の興亡」(中公新書、2015年12月20日初版)。この本は面白い。実に面白かった。

著書は1958年、津市生まれ。国際日本文化研究センター教授。昨夏(2017年8月29日配信)に「戦争の古代史 ―好太王碑、白村江から刀伊の入冠まで」(講談社現代新書)を読んで、大興奮しましたが、その同じ著者でした。はずれがありませんね、一般向けにこの学者の書くものは。今度は、目下発売中の「藤原氏―権力中枢の一族」(中公新書、2017年12月20日初版)も読んでみようかなと思ってます。

倉本氏は恐らく、現代日本を代表する古代史の泰斗ではないでしょうか。

最近、ネット上では、古代史については、誰も分からないだろうからということで、「講釈師、見てきたような嘘をつき」といった内容の素人によるいい加減な記述投稿が目立ち、腹が立っていたのですが、倉本氏の著作は信頼できます。「古事記」「日本書紀」はもちろん、国内の「藤氏家伝」「元興寺伽藍縁起 流記資材帳」から、「呉志」「礼記」「晋書」といった漢籍、朝鮮の「三国史記 百済本紀」などに至るまで多くの原資料に当たって執筆しているので、国際的な視野も広く、敵対する両方の立ち位置まで俯瞰して、できる限り公平性を保っています。

この本は、いわば、これまで天皇絶対史観によって、「蘇我氏=専横=悪玉」「討伐されて当然」として歴史的に決定付けられていた悲運の一族の名誉回復書と言えるかもしれません。

また、大塚ひかり著「女系図でみる驚きの日本史」(新潮新書)で初めて知った(2018年1月17、18日配信)のですが、蘇我稲目ー馬子ー蝦夷ー入鹿の蘇我本流の宗家は滅んでも、いわゆる傍流、分家は、あの藤原氏よりいち早く、天皇家の外戚になったりして、現代の皇室に血脈がつながっていたんですね。

この本の大団円は、やはり、蘇我本宗家が滅んだ皇極4年(645年)6月12日の「乙巳(いつし)の変」でしょう。乙巳の変といっても、半世紀もの昔に学生だった私の世代は誰も知らないと思います。教科書にも参考書にも出てきませんでした。ただ単に「645年 大化の改新」のみです。

しかし、乙巳の変というのは、血生臭いクーデター事件のことで、その後、実権を握った中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が中心となって行った、公地公民制などによる中央集権国家建設を目的とした一連の政治改革のことを大化の改新と言うのが歴史的にも正確な言い方でした。

天皇王権の正統性を詳述した「記紀」によると、乙巳の変は、天皇家から実権を奪って独裁政権を樹立しようとした専横な蘇我一族を天誅により罰したというもので、それがこれまでの「正義」「正当」であり、「歴史」でしたが、この本によると違います。乙巳の変は、複雑な政争だったということです。

当時は、ちょうど唐の覇権主義が朝鮮半島から日本列島にまで及ぼうとしている東アジアの激動期でした。これを向かい討つには、高句麗のように権力集中を目指して、傀儡王を立ててでも独裁権力を振るおうとする蘇我入鹿。(この時、合議制のマエミツキ会議のトップである大臣=オオマエミツキでした)彼は、厩戸王子(聖徳太子)と蘇我蝦夷の妹である刀自古郎女の間の皇子、山背大兄王子を亡きものにしてしまいます。

その代わり、舒明天皇と蘇我蝦夷の妹法提郎媛との間の皇子、古人大兄王子を次期天皇に祭り上げようと画策します。

これに対抗したのが、蘇我一族の血が一滴も入っていない舒明天皇と宝女王(皇極天皇)との間の皇子、葛城王子(=中大兄皇子、後の天智天皇)でした。彼は、唐から最新の統治技術を学んだ留学生や学問僧からの意見を取り入れ、官僚的な中央集権国家建設を目指します。

中大兄皇子の側には、中臣鎌足が付き、鎌足は、蘇我一族の内紛に目に付け、蘇我氏の氏上(うじのかみ)と大臣(おおまえみつき)の座を餌に、蘇我倉氏の石川麻呂と阿倍氏の内麻呂を誘い込んだのではないかというのが、倉本氏の説です。

乙巳の変の刺客に選ばれたのは、中臣鎌足が推挙した佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田(かつらぎのわかいぬかいのあみた)。

「石川麻呂が上奏文を読み上げ終わりかけていた頃、中大兄皇子が入鹿に突進し、剣で頭と肩を斬り割いた。入鹿が立ち上がると、子麻呂が片脚を斬った。皇極天皇が宮殿に入った後、子麻呂と網田が入鹿を斬り殺し、入鹿の屍は雨で水浸しになった前庭に置かれ、蓆や障子で覆われた」と書かれています。

とても今から1373年前の大昔に起きた出来事とは思えないほど生々しい描写です。

「唐代 胡人俑(こじんよう)」特別展

大阪の浪華先生です。ご無沙汰しております。

東京は此処へきて気温が上昇、暖かくなっているようですが、関西は寒さがおさまりそうではありませんね。少し温かくなったか、と思うと、すぐ、小雪が舞い散り、春はやはり奈良の「お水取り」が終わらないとやはりダメです。「梅は咲いたか、桜は、まだ、かいなあ!」とは、よく言ったものです。

東京は東京国立博物館で「仁和寺」特別展が開かれているようですが、こちらは、大阪・中之島の大阪市立東洋陶磁美術館で、日中国交正常化45周年記念と開館35周年記念と題して「唐代 胡人俑(こじんよう)」特別展(3月25日まで)が開催中です。

2001年に甘粛省慶城県で、唐の時代の遊撃将軍と言われた穆秦(ぼくたい)のお墓(730年)が発見されました。お墓から出土、発見されたのは、極めてリアルでエキゾチックな、胡人や交易に使われたラクダ、馬などを描いた陶製の副葬品で、今回、それらのうち、慶城県博物館所蔵の貴重な、60点が中国から運ばれて、特別展として展示されています。

「胡人(こじん)」は、漢民族にとっては異民族であり、中央アジアを中心に活躍したソクド人らを指します。
唐(618年~907年)の時代、シルクロードを使って、唐の都である長安と、西方文化の交易に大きな影響を与えたわけですが、これらの作品を見ると胡人が漢人からどう見られていたか、よく分かります。

実物を直かに見ると、何とも言えない、ユーモアや人間味が感じられ見惚れました。大胆に異民族をデフォルメして、今、見ても、唐代の人が、胡人に感じた怖れや違和感、彼らのバイタリティを巧みに表現、それらをひしひしと感じ取れました。人物だけでなく、駱駝や馬も、活き活きと描かれていて、渓流斎さんも、ご覧になると、きっと「極端に誇張されているようにみえて、本質を迫っていますね」と礼賛されると思います。

残念ながら、東京では開催されません。もし、ご興味があれば「大阪市立東洋陶磁美術館」のホームページを検索されて、その中で動画の「黄土の魂 唐代 胡人俑の世界~生を写して気満ちる」(約15分)をご覧になると歴史的な経過などが分かることでしょう。

この展覧会では、フラッシュさえ使用しなければ、写真撮影もOKでした。珍しいですね。
小生は、紅色が鮮やかな「加彩女俑(唐 開元18年 西暦730年)」と、泣いているようにも見え、両手、両膝を地面に付けている「加彩跪拝俑」(同)の二点をデジカメで寫してきました。ご覧ください。

川越、かわごえ、カワゴエ

埼玉県川越市の喜多院

ちょっと御縁があり、思いついて、「小江戸(こえど)」の川越を散策してきました。

小江戸とは、江戸時代の雰囲気を残した城下町のことで、小江戸と名前が付くところは、全国には他に彦根市ぐらいしかないようです。

単なる江戸情緒を残した城下町なら、全国にはかなりあるかもしれませんが、「小江戸」となると、他に、「伝統的な祭りがあること」などといった条件があるようです。(川越祭りを、川越氷川神社を祭神として始めたのは、「知恵伊豆」こと、川越5代藩主松平伊豆守信綱です。新座市の平林寺にお墓がありますね。)

さて、このように、川越市は、皆さまご存知の通り歴史のある町です。15世紀に扇谷(おおぎがやつ)上杉氏の家宰太田道灌が江戸城、岩附城とともに、河越城をつくったことで発展しましたが、平安時代初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で慈覚大師円仁が、天台宗の星野山無量寿寺を建立し、その後、関東天台宗の本山となったことから、中世は寺町として栄えていたことでしょう。

天海上人像

この無量寿寺は、北院、中院、南院と分かれており、中院が中心でしたが、江戸時代になると、あの江戸の町を風水等による都市計画(魔除けの方角に目黒、目赤、目黄、目白不動尊などを配置し、江戸城本丸の鬼門の方角に上野寛永寺、裏鬼門に増上寺を建立した)で名を馳せることになる天海上人が家康の招きで、1599年に住職に就き、北院を中心にして、北院を喜多院に改名します。中院は南に移転して、そこに仙波東照宮を建てます。そして、南院は廃院となります。(天海上人は、その後、2代秀忠、3代家光にまで使えて、108歳まで生きたとか)

仙波東照宮は、日本の三大東照宮の一つなんだそうです。(他の二つとは、日光と久能山。家康は、久能山で亡くなった後、日光に祀られる前に、家康の遺体は、仙波東照宮でしばらく留め置かれたそうです)

話は遡りますが、慈覚大師円仁は、無量寿寺を建立する際に、大津市坂本の日吉神社の御神体をお運びして、近くに日枝神社も建立します。上の写真でも看板が見えますね(笑)

日枝神社の「ひえ」は、天台宗の比叡山延暦寺の比叡(ひえい)から来たという説があり、日枝神社は、天台宗系ということで辻褄が合います、

多宝塔

喜多院の境内には、多宝塔があります。規模は小さいですが、高野山の塔に似ています。

大正浪漫通り

川越市は、36万人の人口(北海道十勝地方と同じですが、十勝は岩手県ほどの面積があります)ながら、年間650万人もの観光客を誇るそうです。その理由は、東京都心に近いことと、色んな時代の「観光資源」をうまく保存しているからに他ありません。

川越は、恐らく、古代、中世から火災が多い街で、江戸時代は織物業が盛んで、染料を煮詰めたりするのに使う藁の火が、残り火として風に煽られて引火して、町中に広まる大火事になったという説が一つあります。

寛政4年(1792年)に建てられた呉服店「大沢家」(現在、民芸品店)。国指定重要文化財。個人の住宅が重文となるのは、全国でもここだけ。唯我独尊(笑)です。

明治に入ってからも、大火災は続き、特に明治26年(1893年)の大火では、川越の町の3分の2が灰燼になったと言われています。

そこで、街の商人は、盛んに防災用の蔵をつくるようになり、それが、今でも商店として使われ、大切な観光資源に発展したわけです。

加えて、川越は、あの憎き米軍による空襲がなかったので、奇跡的に古い歴史的建造物が生き残ったわけです。

川越の町のシンボル「時の鐘

川越城主酒井忠勝が約400年前に、藩の民に時を知らせる為に作り、その後、大火で何度も消失し、これは四代目。

現在のものは、明治26年の大火後再建されたもので、明治天皇からも寄付が寄せられたそうです。

毎日、午前6時と正午と午後3時と午後6時の4回、鐘が鳴ります。

高さは約16メートルで、江戸時代は、これ以上高い建物の建設は禁止されたそうです。

菓子屋横丁で最も古い松陸

寛政8年(1796年)創業で、菓子屋横丁で一番の老舗。

かつては、横丁には70軒ほどの菓子屋があったそうですが、今22軒。

それでも、かなりの観光客が押し掛けておりました。

着物着ている、2〜3人一組の若い女性も多く見かけましたが、彼女たちが話している言葉は、中国語でした。

残念なことに、川越城本丸跡に今回は行く時間がなかったので、次回挑戦したいと思います。

最近の渓流斎、「城博士」を自称してますから(笑)。

天橋立の歌はそういうことでしたか…大塚ひかり著「女系図でみる驚きの日本史」続編

大塚ひかり著「女系図でみる驚きの日本史」(新潮新書)は、読了するのに結構時間がかかりました。普通、新書なら1~2日で読めてしまうんですが、これは6日ほどかかりました。読みながら、丁寧に、著者がつくった「女系図」を参照していたからでしょう。

でも、これが決め手です。著者の大塚氏も、あとがきで「女系図は作ってびっくりの連続でした」と本人も大発見したことが結構あったようです。

この本を取り上げるのは2回目ですが、今日は前回取り上げたかったことを引用してみます。

流動的だった天皇の地位

…天皇というと現代人は絶対的なものと考えがちだが、「大王」と呼ばれていた天武天皇以前の彼らの地位は流動的だった。「古事記」「日本書紀」では天皇とされていない人物も、古くからの伝承を伝えた「風土記」では天皇とされていたりする。…

ということで、古代は、大王=天皇になるための権力闘争が凄まじかったようです。例えば、記紀によると、第21代雄略天皇は二人の兄や従兄弟らを含む6人も殺害させたようです。当時は、武内宿禰を祖とする葛城氏の方が権力を持っていて、葛城氏の血を引くツブラノ大臣らが最有力候補でしたが暗殺されました。

井上満郎著「古代の日本と渡来人」によると、7世紀の畿内の人口のほぼ30%は渡来人だったという。京都=山城国は、もともと「渡来人の里」だった。(京都平安京を開いた桓武天皇の生母高野新笠は、百済出身でしたね=「続日本紀」による)

※著者は、渡来人の秦氏は、中国の秦の始皇帝に祖を持つ、という見解でしたが、小生は古代史の泰斗上田正昭氏が主張する「秦氏は、秦の始皇帝とは無関係で、朝鮮の新羅系の渡来人」という説に賛同します。

天橋立 Copyright par  Mori Kawsaki

大江山いくのの道の遠ければ まだふみも見ず天橋立

という百人一首にも載る有名な歌があります。

作者は小式部。母親はあの「和泉式部日記」で知られる和泉式部です。誰に宛てた歌かといいますと、当代一のプレイボーイ、著者の大塚氏に言わせると、「インテリ女喰い」の藤原定頼という貴人です。

この定頼。光源氏のように輝き、モテててモテてしょうがない、といった感じです。大塚氏が、歌集を読むだびに系図をつくっているうちに、「こいつ、よく出てくるなあという奴がいる」。それが、この藤原定頼だったのです。

何しろ、お相手した方々が半端じゃない。先ほどの小式部のほかに、紫式部の娘大弐三位、相模、大和宣旨といった当代一流のインテリ女性だったのです。

もちろん、定頼も出自はピカイチ。父親は、四納言の一人と言われた知識人の藤原公任、母親は、昭平親王(村上天皇の子)の子で、しかも、藤原高光(父師輔、母雅子内親王)の娘の「腹」でした。(ただし、天皇家の外戚になりそこねて、公任は権大納言、定頼は権中納言止まりで終わる)

前述の「大江山…」の歌の背景は以下の通りです。

小式部の母和泉式部が、夫藤原保昌について丹後国に下ったとき、京で歌合があり、その時、定頼がふざけて小式部に「丹後の国にやった使いはもう帰ってきましたか?どんなにハラハラしているでしょう」と声を掛けた。和泉式部は名高い歌詠みです。その娘の小式部はどうせ、母親に歌を代作してもらっているだろう。その使者はもう帰ってきたのかい?とからかったというのです。

それに対する答えが、「大江山…」。意味は、「大江山を越えて行く生野の道は遠いので、まだ踏んでみたことがないの、天橋立は。まだ文も見ていません」。

なるほど、そういう意味で、そういう返歌だったんですか!勉強になりました。

(私も天橋立の写真を現代の小式部さんにお借りしました=笑)

江戸時代は正妻率がわずか20%

平安時代は父親より、母親が誰かによって身分が決まってしまいます。「胤(たね)より腹が大事」と前回書きました。しかし、それは、平安中期まで。平安後期になると、院政時代となり、父権が強大となり男系社会になります。

著者は、平安から江戸時代までの権力者の母親がどういう出自か全て調べあげ、母親が正妻である比率を割り出します。それによると、平安時代の摂関藤原家は、正妻率が77%、鎌倉時代の将軍源氏の正妻率は67%、執権北条家は56%、室町時代の将軍足利家は、47%。そして、江戸時代の将軍徳川家は何と20%にまで急落するのです。徳川将軍の母になった側室の中には、八百屋や魚屋といた平民の娘までいるらしいのです。

これはどうして?

平安時代は、天皇家に代わって外戚の藤原氏が権力を握り、鎌倉時代は源氏に代わって、北条氏が実権を掌握。室町の足利将軍も外戚の日野家に左右されていた。「吾妻鏡」の愛読者だった徳川家康が、こうした歴史を読み、外戚に権力を握らせないように、徳川家の政権が未来永劫続くよう願いを込めて、「暗に正妻や外戚を重視しないようにしたのではないか」という著者の洞察。誠に見事でした。

嗚呼、残念。他にも書きたいことがあるのですが、この辺で。

大塚ひかり著「女系図でみる驚きの日本史」は凄過ぎる

大塚ひかり著「女系図でみる驚きの日本史」(新潮新書、2017年9月20日初版)を数日前から読んでおりますが、これまた図抜けて面白い。目から鱗が落ちるといいますか、まさに驚きの逆転の発想で、いまだかつて、偉い歴史学者がとらえたことがない画期的な野心作です。

つまり、これまでの歴史は、天皇家にしろ、藤原氏にしろ、源氏や平氏にしろ、ほとんど全て男系、つまりは父親中心で、息子に政権や家督が継がれていくといった流れの発想で、描かれてきました。

となると、平氏は、壇ノ浦で滅亡した、ということになります。

ところが、おっとどっこい。

女系、つまりは母親の系図をたどっていくと、平氏は滅亡したわけではなく、平清盛の血筋は、何と今上天皇にまで繋がっているのです。

一方の鎌倉幕府を開いた源頼朝の直系子孫はほどなくして途絶えてしまうのです。

皇居

著者の大塚氏(1961~)は、歴史学者ではありませんが、中学生の頃から古典文学を読むことが大好きで、個人訳の「源氏物語」全6巻まで出版しているようです。大学では、文学ではなく、日本史学を専攻してます。

そして、何と言っても、複雑な人間関係が数多出てくる古典文学や歴史上の人物には、系図がないとなかなか理解できません。しかし、男系だけで追っていては行き詰る。そこで、自分で好きが高じて、女系の系図をつくったところ、これまで見えなかった人物の系列関係が一目で分かるようになったといいます。

著者は言います。「胤(たね)よりも腹(はら)が大事―母親が誰かに注目した女系図でたどると、日本史の見え方が一変する」

確かにその通り。

驚くべき史実です。

例えば、天皇家。一部の右派の皆様は、「女系天皇」どころか、「女性天皇」も否定されておられますが、この本によると、「万世一系」と言われている天皇家は、既に、「女系」の時代があったんですね。

同書のように、家系図をここに書かないと理解しにくいかもしれませんが、43代元明天皇(女性)は、41代持統天皇(女性、40代天武天皇の皇后)の異母妹で、42代文武天皇の母親であり、草壁皇子の妻でありました。

草壁皇子は、皇太子(次期天皇)でしたが、即位の前に亡くなってしまい、その妻だった元明は「皇后を経ずにして即位した初の女帝」となります。

そして、この後、元明天皇と草壁皇子との間の娘が、独身のまま44代元正天皇(女性)として即位します。

「草壁皇子は天皇ではない。母元明天皇の娘であるため、即位した形である。これって『女系天皇』ではないのか?」と、著者は疑問を投げかけているのです。

東京・水天宮

著者も得意とする紫式部の「源氏物語」の世界。実際の平安時代は、男性が女性のもとに行く「通い婚」が普通だったので、父親が誰か、以上に母親が誰なのかの方が重要で、子どもの出世は母親で決まってしまったことが多かったようです。

まさに、胤より腹が大事です。

実際、天皇の寵愛を受ける女性には、中宮(皇后)、女御、更衣といった序列があり、正妻以外から生まれた子どもは「外腹」(ほかばら)、劣った身分の母親から生まれた子どもは「劣り腹」などという隠語があり、「源氏物語」や「栄華物語」「大鏡」などにも堂々と登場します。(正妻の子は、嫡妻腹=むかひばら=というそうな)

「源氏物語」の主人公光源氏(醍醐天皇の子息源高明がモデルの一人とされている)が、桐壺帝の子息で、あれほど優れているのに、臣下として「源氏」を名乗ったのは、「更衣腹」と世間で言われたせいではないか、と著者は推理していますが、随分説得力がありますね。

著者によると、紫式部(当時の最高権力者藤原道長の愛人でもあったらしい)の娘賢子の女系を丹念にたどっていくと、今上天皇にまでいくというので、これまた驚きです。

この本については、また次回書きます(笑)。

「出雲を原郷とする人たち」には驚きの連続

岡本雅享著「出雲を原郷とする人たち」(藤原書店)が昨年11月に出版された時、すぐ読みたかったのですが、定価が3024円とちと高く、しばらく手が出なかったのですが、最近になって、やっと読めるようになりました。

2011年4月から16年1月まで「山陰中央新報」という地方紙に連載されていたものを単行本化したらしいのですが、レベルが高い。あまりにもの学術的、専門的過ぎて、小生のような浅学非才な人間にとっては難し過ぎて、通読できませんでした。

◇全国に移住する出雲の氏族

それでも、興味がある箇所だけは読みました。タイトルにある通り、出雲(今の島根県)の民が、全国に散らばって移住し、その集落にしっかり出雲という地名や出雲の名前が付いた神社を創建して、ちゃっかりと痕跡を残しているという驚きの学術書というよりかルポルタージュに近いのです。

その範囲は、越前、加賀、能登の国から信濃、越後、武蔵、岩代の国、筑前、周防、伊予、讃岐、山城、播磨、壱岐…と、粗末な船か歩くしかなかった古代の時代に、出雲の氏族たちはよくぞここまで踏破、制覇したものだと感服してしまいます。

出雲の国は、古事記や日本書紀では「国譲りの物語」として登場しますが、出雲の氏族は、そんな記紀が成立するはるか昔から全国に移動していたと言われています。

ということは、天皇族=大和政権が強大な権力を握る前に、彼らは出雲地方だけではなく全国的に制覇していた強力な豪族だったことは間違いないでしょう。(古代は恐らく全国ネットワークがあまりなかったので中央集権とは違ったものだと思われますが)

◇百済から大和へ、新羅、高句麗から出雲へ

なぜ、これほどの文化が出雲に栄えたのかといいますと、著者は水野祐早稲田大学名誉教授の学説を引用して、百済から瀬戸内海を通ってきた大和への文化に対して、新羅や高句麗を通して日本海ルートで出雲に入ってくる文化があったからだといいます。恐らく、海流や潮の流れで、古代でも半島や大陸から出雲に流れ着くことは容易かったのでしょう。

そして「新羅と結びつく出雲文化は、さらに日本海を北上して能登半島から越の国に伝播していき、さらに信州へ、関東の北部に入って南下していった」といいます。そういう流れだったんですね。

大和朝廷が百済系との結びつきが高かったということは、桓武天皇の母高野新笠が百済系渡来人だったという史実(「続日本紀」)と一致しますね。

◇出雲大社は本来、杵築の大社

この本を読んで一番驚いたことは、古代は今の島根半島は地続きではなく、島だったということでした。そして、今の出雲大社は、本来、杵築の大社(きずきのおおやしろ)と呼ばれていて、出雲大社と改称されたのはつい最近、明治に入った1871年だったというのです。

また、古代に遡ると、律令時代に入ると、ほとんどの国造(くにのみやつこ)は政治権力を失いますが、出雲の国造(出雲だけは「こくそう」と読むらしい)だけは権力を保持し続けたようです。

この本は全て読み切れなかったので、今たまたま御縁のある「武蔵国」(今の埼玉、東京、神奈川辺り)編だけは熟読しましたが、これまた知らないことばかりでしたね。

◇武蔵国には出雲伊波比神社と出雲乃伊波比神社の2社が

武蔵国には、出雲から最も離れた所に、二つの出雲系直轄とも言うべき神社が今でもあるといいます。それは、入間郡(埼玉県毛呂山町)の出雲伊波比(いわい)神社と男衾郡(埼玉県寄居町)の出雲乃伊波比神社の2社です。

また、武蔵国の東部にも出雲系の神社が多く、それは氷川神社、久伊豆神社、鷲宮神社群だといいます。埼玉県神社庁によりますと、氷川神社は284社(埼玉県204社、東京都77社、神奈川県3社)、久伊豆神社は54社(全て埼玉県)、鷲宮神社は100社(埼玉県60社、東京40社)に上るといいます。

◇氷川は出雲の斐伊川が由来

この中で、私が特に取り上げたいと思う神社は、足立郡式内氷川神社です。この神社について、文政11年(1828年)の「新編武蔵国風土記稿」には「出雲国氷の川上に鎮座せる杵築大社をうつし祀りし故、氷川神社の神号を賜れり」と記されています。この「氷の川」は古事記で「肥河」(ひのかは)、日本書紀では「簸川」(ひかは)とも書かれた斐伊川のことで、これが氷川神社の社名の由来になったといいます。

なるほど。これで、やっと長年の疑問が氷解しました。

首都圏の神社仏閣を網羅するサイト「猫の足あと」を主宰する松長社長には必読書となることでしょう。

【追記】

京都の相国寺境内では、出雲集落の遺跡が発掘されています。

また、新羅の古都だった現韓国慶州市にある古墳(5世紀末〜6世紀前半)で、国引き神話が描く新羅と出雲と越(こし=福井、石川、富山、新潟)の繋がりを象徴するかのように、出雲石の勾玉と糸魚川産翡翠の勾玉が出土しているといいます。

現代人が想像する以上に、古代では交流が盛んだったということなのでしょう。