「渡来系移住民」とは何か少し分かりました

 吉村武彦ほか編著「渡来系移住民」(岩波書店)を読破しました。考古学と古代史が専門の5人の学者の論文です。中には大学の紀要論文を読んでいるような趣もあり、一般向けにしては結構難しかったでしたが、「古代史の現代最新知識」がよく分かりました。

 半年も経てば、内容はすっかり忘れてしまうことでしょうから(笑)、加筆しながら備忘録として書いておきます。

 ・5世紀の「宋書」倭国伝に「讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)」の倭五王の名前が見られる。彼らは宋に方物を献ずる代わりに皇帝から称号を得る。例えば、この五王最後の武王ことワカタケルは雄略天皇のことだが、彼は478年に「使持節(しじせつ)、都督倭(ととくわ)、新羅、任那、加羅、秦韓(しんかん)、慕韓(ぼかん)六国諸軍事・安東大将軍・倭王」に任じられた。(吉村武彦氏、33ページ)☞これは、宋にとって朝鮮半島は勢力範囲ではないため、倭に、朝鮮半島の支配を黙認していたということなのか?

 ・朝鮮半島の人たちが日本列島に渡ってくる大きな要因には、その時代の半島での政治的情勢があった。例えば、475年に百済が高句麗との戦いに敗れ、漢城(今のソウル)が陥落した時。532年に金官(任那)加耶、562年に大加耶、660年に百済がそれそれ滅亡した時。さらに、663年の白村江の戦い(倭・百済復興軍が唐・新羅連合軍に敗れる)、668年の高句麗滅亡、そこから676年にかけての唐と新羅との戦いなど。(亀田修一氏、320ページなど)

出雲大社

・遣外使節のメンバーには渡来系の者が多く見られる。例えば、608年の遣隋使で名前の分かる使節員や通訳、留学生など11人をみると、大使の小野妹子を除く実に10人が渡来系氏族出身者だった。ところが、時代が下ると渡来系の割合が減少する。608年の遣隋使から約200年後の804年の遣唐使は、実名の分かる20人近くの入唐者のうち渡来系はわずか4人しかいない。(田中史生氏、239ページ)

 ・越前三国(みくに)にいた男大迹王(をほどおう)は、武烈天皇の後の皇位継承者として迎えられたが、すぐには承知しないで、渡来系の河内首馬飼荒籠(かわちのおびと うまかい あらこ)の使者を通じで情勢を確認し、507年、樟葉(くずは)宮(現大阪府枚方市楠葉)で即位(継体天皇)し、荒籠を重用した。(千賀久氏、128ページなど)

 ・「日本書記」継体天皇21年(527年)条に大規模な反乱を起こした人物として「筑紫国造磐井」が登場する(磐井の乱)。福岡県八女市にある前方後円墳「岩戸山古墳」が磐井の墓と推測される。磐井は新羅人を勢力につけてヤマト王権を倒そうと目論んだ。(亀田修一氏、154ページなど)

 ・542年に百済に派遣された紀臣奈率弥麻沙(きの おみ なそつ みまさ)と物部連奈率用奇多(もののべの むらじ なそつ ようがた)は、「奈率(なそつ)」という百済第6位の官位を持っていた。(紀臣奈率弥麻沙は、倭系官人と現地の女性との間に生まれた二世だったといわれる)このほか、543年に派遣された物部施徳麻奇牟(もののべの せとく まがむ)は「施徳(せとく)」(第8位)、553年の上部徳率科野次酒(しょうほう とくそつ しなのの ししゅ)が「徳率(とくそつ)」(第4位)である。明らかに倭国の氏と姓を称しながら、百済の官位を使っていた。冠位十二階は604年だから、まだ実施されていない。(吉村武彦、55ページ)

 ・武蔵国高麗郡(現埼玉県日高市、飯能市)は「続日本紀」によると、716年(霊亀2年)5月、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7国の高句麗人1799人を移して建郡された。758年(天平宝字2年)には新羅人をうつして武蔵国新羅郡(現埼玉県新座市、志木市、和光市)が建郡された。(田中史生氏、260ページなど)

・これまでの古代史は、遣唐使史観が中心だった。そこであまり注目されてこなかった飛鳥・奈良時代における統一新羅との活発な交流を見直すべきではないか。例えば、672年から701年まで唐と日本の間で外交交渉すら全くなかった一方、新羅と日本の間には高句麗が滅亡する668年から最後の新羅使が派遣される779年まで、新羅から47回、日本から25回の使節が往来した。それに対して、遣唐使は260年間で長安に到達できたのはわずか13回で、全員が帰国できたのはただ1回しかない。(朴天秀氏、283ページなど)

 ・「帰化」とは古代においては、華夷・中華思想(漢民族の華夏が世界の中心で、周囲諸国は遅れた夷狄=東夷、西戎、南蛮、北狄=である)と密接な関係にあった。古代中国では、皇帝の教化が直接行き届く範囲を「化内(けない)」の文明世界とみなし、その外側には「化外(けがい)」の野蛮世界が広がるとして、国家の内と外を区別した。そして文明世界の頂点に君臨する中華皇帝のもとに、その威徳を慕って「化外」から未開の諸民族が集い来ると考えた。彼らが皇帝の民となることを望むと、これを「帰化」と呼び、皇帝は儒教的精神のもと哀れみをもってこれを受け入れ「化内」に編入した。(田中史生氏、205ページなど)

 キリがないのでこの辺で。

渡来系移住民について考える

 新型コロナの感染拡大で、東京、そして神奈川、千葉、埼玉といった首都圏の行政の長が次ぎ次ぎと週末の「外出自粛」を要請しました。行政の長は、コロナウイルスがオーバーシュートして、さらなるクラスターもエンラージし、このまま何もしなければロックダウンを招くようなアージェントイッシューになっている、などと懇切丁寧に説明してくださいました。

 有難う御座いました。

 29日(日)の関東地方は珍しく大雪。自宅を出られなければ、良識のある大人は、本を読むしかありません。私は3世紀から8世紀にかけての日本の古代に時間旅行することにしました。2860円と少し高かったのですが、吉村武彦編・著「渡来系移住民」(岩波書店、2020年3月17日初版)を思い切って購入しました。新聞の広告に出ていたのですが、一読しただけで、「新しく分かってきた歴史の実像を知ることの興奮と喜び」(「刊行にあたって」より)を感じることができました。

 まず、本の題名のことですが、半島や大陸から来日してきた人を「古事記」では「帰化」、「日本書紀」では「渡来」の用語が使われています。しかし、帰化とはいっても、永住せず、途中で帰ったり、再来日したりする者がいたり、渡来といっても、そのまま居ついてしまう永住者がいたりしたといいます。ということで、本書では彼らのことをひっくるめて「渡来系移住民」と呼ぶことを提唱しています。

 彼らの代表的な集団は、東漢氏です。「やまとのあや」氏と読みます。古代史に詳しい人以外は読めないでしょう、と吉村氏は書いてますが、私は 、古典的名著である上田正昭氏の「帰化人 古代国家の成立をめぐって」(中公新書)などを読んでいたので、読めました。 645年の大化の改新の火ぶたを切った乙巳の変で、蘇我入鹿(いるか)の暗殺後にその父蝦夷(えみし)らを護衛したのが東漢氏でした。蘇我氏との関係が深かったのです。

 また、平安初期の征夷大将軍の坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)も、渡来系移住民である東漢氏でした。田村麻呂の父である苅田麻呂の上表文によると、坂上氏は「後漢の霊帝の曾孫の後裔」と称し、半島の帯方郡を経て列島に帰化したといいます。東漢氏は半島から渡来してきたので、私は、朝鮮系かと間違って覚えていました。漢民族は、楽浪郡(紀元前108年、現在の平壌付近)や帯方郡(2世紀末から3世紀初め)などを朝鮮半島に直轄地として置いていたことを忘れていました。(ただし、彼らがそう主張しているだけで、東漢氏は朝鮮系である可能性も残されています)

 同じように、本書では書いていませんでしたが、渡来系移住民である西漢(かわちのあや)氏も漢民族かもしれません。ちなみに、「東」と「西」は、生駒山脈の東を大和、西を河内と呼んだからだろう、と著者の吉村明大名誉教授は説明しています。

 もう一つ、応神紀に伝承する有力な渡来系移住民は秦氏です。「はた」と読みます。日本書紀では、弓月君(ゆづきのきみ)が百済から渡来し、秦氏の祖となったとされていますが、後に「太秦」(うずまさ)と名乗る秦氏は「秦始皇帝の三世の孫、孝武王より出ず」 (「新撰勢姓氏録」) と主張しています。この点について、吉村氏は、確かな資料がないので推測するしかない、としながらも、中国の秦(しん)と関係した人が含まれていた可能性は皆無ではない、と微妙な書き方をしています。となると、逆に、秦氏は、中国とは関係なく、朝鮮半島の百済人が自称した可能性もあるということです。渡来系のほとんどが何らかの職能技術集団ですから、秦氏は、機織りの機(はた)から来ているのではないか、という説がありますが、こちらは確かでしょう。

 秦氏、または太秦氏は、山城(京都)を地場に活動を広げた渡来系移住民で、太秦にある弥勒菩薩像で有名な広隆寺は秦氏の氏寺で、嵐山近くに秦氏の古墳もあります。京都に平安京を遷都した桓武天皇の生母である高野新笠(たかののにいがさ)は、「百済の武寧王の子純陀太子(じゅんだたいし)より出づ」(「続日本紀」)と紹介されていることから、百済人脈の流れで、桓武天皇が京都に遷都された可能性も否定できません。

 ちなみに、祇園祭で有名な八坂神社も、 幕末まで感神院、または祇園社と称し、諸説あるものの、斉明天皇2年(656年)に高句麗から来朝した使節の伊利之(いりし) が創建したといわれています。八坂神社の祭神の一人は素戔嗚尊ですが、梅原猛説では、スサノオは新羅系を取っていました。スサノオは出雲の神とはいえ、京都も半島からの影響が強かったことになります。

 渡来系技術者集団は、その職種によって、陶部(すえつくりべ)、鞍部(くらつくりべ)、画部(えかきべ)などと呼ばれました。また、5世紀になって河内で馬の生産が盛んに行われるようになり、彼ら「典馬(うまかい)は新羅人」(「日本書紀」)とされています。渡来した馬飼(うまかい)人は、恐らく、馬だけでなく、同時に鉄器も日本列島に伝えたのだろう、と私は思います。なぜなら、先日のブログ「古代史が書き換えられるアイアンロード」にも書きましたが、スキタイ人が馬の口の中に嵌める「鉄のはみ」を発明して、野生馬を自由に御すことによって、長距離の「移動革命」を成し遂げたからです。 馬と鉄のはみは、その後、匈奴と漢に伝わり、それが朝鮮半島を通って、日本列島に伝えられたことは間違いないでしょう。もちろん、農具や武器をつくる製鉄技術も同時に入ってきたと思います。

 このように、現代人が想像する以上に、渡来系移住民と日本列島との関係が濃厚だったことが分かります。

(つづく)

日本神話の神々は皇族、豪族の祖先神でした=武光誠著「『日本書紀』に描かれた国譲りの真実 成立1300年、『出雲』と『大和』」

  梅原猛著「葬られた王朝ー古代出雲の謎を解くー」(新潮文庫) があまりにも面白かったので、友人の榊原君に話したら、彼は「それならこれも読んだら?」と本を貸してくれました。

 それが、この武光誠著「『日本書紀』に描かれた国譲りの真実 成立1300年、『出雲』と『大和』」(宝島社新書、2019年12月23日初版)でした。

著者の武光氏は、東大で博士号を取得した元明治学院大学教授。日本古代史のオーソリティーです。読み応えがありました。

 「古事記」も「日本書紀」も、神話と呼ばれている部分は、かつては、根も葉もない荒唐無稽の創作物だと言われていましたが、やはり、そうじゃなかったんですね。根拠がありました。

 著者の武光氏によると、縄文人は「精霊崇拝」でしたが、紀元前1000年頃に朝鮮半島南端から稲作の技術が伝わったことにより弥生時代が始まります。この時に、日本特有の「祖霊信仰」が始まったと言われます。

 弥生時代は、稲作技術とほぼ同時に鉄器も伝わったのではないかと思います。となると、馬の「鉄のはみ」を発明したスキタイ人から匈奴や漢にも伝わった騎馬技術も騎馬民族もやってきたかもしれません。集団作業が必要とされる農業は、集団から氏族、豪族へと発展し、水利や領地争いなどにも発展したことでしょう。大陸や半島から技術を伝えた帰化人は、高官として優遇されたことでしょう。

 いずれにせよ、人口200人程度の村が集まって、2000人程度の小国がつくられ、弥生中期には、祖霊信仰による神は、国と呼ばれた土地を守る「国魂」(くにたま)とされます。「日本書紀」の神話に見られる天皇や貴族、地方豪族の神とされる神の多くは、国魂信仰の流れをひく神と言われています。

 となると、神話に出てくる神々は、皇族や豪族の祖先神だと分かれば、理解が早まりますね。

八坂神社 Copyright par Kyoraque-sensei

 まず、誰でも知っている通り、王家(皇族)の祖先神は、天照大神です。

 出雲氏の祖先神は、天穂日命(アマノホヒノミコト=六世紀半ばに創作された天照大神の子神である天忍穂耳命アマノオシホミミノミコトの弟神)、素戔嗚尊(スサノオノミコト)、大国主命(オオクニヌシノミコト)らがいます。

 凡河内(おおしこうち)氏の祖先神は、天津彦根命(アマツヒコネノミコト=天穂日命の弟神)だと言われています。

 中臣氏の祖先神は、天児屋根命(アマノコヤネノミコト=天岩戸神話に登場する祝詞を唱える神。日食の災いをしずめたといわれる)です。※中臣氏主導でまとめられた伝承は、素戔嗚尊と大国主命の出雲での活躍を省いたものがあった可能性は高い(102ページ)。

出雲大社

 ・素戔嗚尊の三柱の子神(五十猛神イタケルノカミ、大屋津姫命オオヤツヒメノミコト、枛津姫命ツマツヒメノミコト)は各地に木の種子を広めた。古代紀伊国は、木材が豊富で良質な船の産地として知られ、そこには大和朝廷の水軍として朝鮮半島とをしきりに行き来した航海民の紀氏がいた。紀伊の須佐神社は、素戔嗚尊を祀り、伊太祁曽(いたきそ)神社は五十猛神を祀る神社で、紀氏と関連する神社であったと考えられる(124ページなど)

・1世紀半ばの荒神谷遺跡の時代、神門氏が出雲全体の国魂である大国主命の祭祀の指導者で、神門氏の分家筋の出雲氏はその補佐役に過ぎなかった。出雲氏は素戔嗚尊を土地の神として祀っていた。ところが、4世紀半ばに、出雲氏が大和朝廷の後援で大国主命の祭祀を主宰するようになり、神門氏は出雲氏の補佐役となった。(126ページなど)

・王家は3世紀初めに三輪山の麓に広大な纏向(まきむく)遺跡を開発して大和朝廷を起こした。吉備(岡山県東部)から移住してきた集団が大和朝廷を開いた可能性が高いが、彼らは大和に来る以前から出雲の国魂信仰を取り入れていたと考えられる。三輪山の神を祭る大神(おおみわ)神社の祭神である大物主神(オオモノヌシノカミ)は、大和朝廷の王家が祀ってきた王家の祖先神であった。「日本書紀」では大物主神を大国主命と同一神としている。(138ページなど)

出雲大社

・6世紀初めに王位についた継体天皇は、有力豪族を大臣(おおおみ)や大連(おおむらじ)の地位につけ、財政関連を蘇我氏に、祭祀関連を中臣氏に、軍事関連を大伴氏に分担させた。また、継体天皇は王家の首長霊の神を大物主神から天照大神に代える思い切った改革に踏み切った(144ページなど)

・さらに継体天皇の主導で、神武天皇東征伝説も創作された。継体天皇は、大伴金村と物部麁鹿火(もののべのあらかい)の有力豪族の支援で大王になった。神話では、後に初代の大王磐余彦(神武天皇)となる彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)が降臨する前に、高天原から物部氏の祖先の饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が大和に降って、大和の一部を統一。その後、彦火火出見尊が、大伴氏の祖先である道臣命(ミチオミノミコト)を従えて降ってきた、と大伴氏と物部氏の活躍で大和朝廷が統一されたことになった。(196ページ)  

・中臣氏は、渡来人が伝えたモンゴル高原の騎馬民族の天上他界観に基づいて「高天原」という天の上の世界を構想した。この時、自分たちの祖先神を「天つ神」の中の天児屋根命だとし、「国譲り」神話を完成させた。

・「国譲り」で、大国主命が「顕」の世界から「幽」の世界に去った後、天照大神の孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が地上に君臨して「顕」の世界を治めることになった。この天孫の子孫が「日本書紀」の時代の人々の「現代」にあたる「奈良時代」の天皇である。

以上、大雑把に言うとこんなことが書かれていました。梅原猛説では、「古事記」も「日本書紀」も主導してまとめたのは中臣鎌足の子である藤原不比等でしたから、当然ながら、中臣氏の祖先神はかなり活躍して格上の神として描かれていたわけです。

神話に出てくる祖先神の末裔である大伴氏も物部氏も蘇我氏も忌部氏も紀氏ら全て排斥されるか没落してしまい、王家(天皇)以外は、中臣=藤原氏だけが、ただ一つ生き残るわけですから、神話といえども凄まじい話であることは確かです。

1300年前の「日本書紀」は今でも生きています。

古代日本をつくったのは藤原不比等だったのかも=梅原猛著「葬られた王朝ー古代出雲の謎を解くー」を読んで

出雲大社

 大手出版社の大河内氏から贈呈して頂いた梅原猛著「葬られた王朝ー古代出雲の謎を解くー」(新潮文庫)を読了していたので、この本を取り上げるのは、これで3回目ですが、改めて取り上げさせて頂きたく存じます。

 大雑把に言いまして、私なりの解釈では、古代の日本は、群雄割拠の豪族社会で、その最大級がスサノオ系の出雲王国と天孫系の大和王朝だったことです。出雲は、朝鮮の新羅と高句麗からの渡来人が農業や最新医療を伝え、影響が強かった。一方のヤマトは、朝鮮の百済系(秦氏など)の影響が強かった。

 最初は、出雲が大和や近畿まで制圧して一大王国を築き上げましたが、オオクニヌシの後継者争いの内紛につけこんだ大和が勢いを増して、出雲を「国譲り」の形で征服して全国統一を果たす。

 「古事記」「日本書紀」は、天孫系の大和朝廷の正統性を伝える書で、国の成り立ちを神話の形で暗示しましたが、その神々は、実在の豪族をモデルにした可能性が高い。両書は、出雲王国の神話も取り入れていますが、記紀の最高編集責任者は、実は大和朝廷の礎をつくった藤原不比等だったというのが梅原説です。それによると、「古事記」を太安万侶(その父、多品治=おおのしなじ=は壬申の乱で功績を挙げた渡来人だった)に口承して語ったと言われる稗田阿礼は、アメノウズメの子孫で、誰一人として五位以上になったことがない猨女(さるめ)氏出身だったという説もありますが、全く謎の人物で、梅原氏は、稗田阿礼は、藤原不比等ではないかと主張しています。

 梅原氏は、144ページなどにはこう書いています。

 出雲のオオクニヌシ王国を滅ぼしたのは、物部氏の祖先神であるという説がある。その点について、はっきりしたことは言えないが、「古事記」では国譲りの使者はアメノトリフネを副えたタケミカヅチであるのに対して、「日本書紀」では主なる使者は物部の神を思わせるフツヌシであり、タケミカヅチは副使者にすぎない。「出雲風土記」にも、ところどころにフツヌシの話が語られているのをみると、出雲王国を滅ぼしたのは、ニニギ一族より一足先にこの国にやって来た物部氏の祖先神かもしれない。

出雲大社

 そうですか。出雲を征服した先兵は物部氏でしたか。ちなみに、フツヌシを祀っていたのは香取神宮ということで、物部氏は今の千葉県香取市の豪族か神官だったかもしれません。タケミカヅチを祀っているのは鹿嶋神宮で、タケミカヅチは、今の茨城県鹿嶋市から神鹿に乗って大和にやって来て、藤原氏の興福寺や春日大社に祀られるようになったと言い伝えがあります。つまり、鹿嶋神宮の神官だった中臣氏が、出雲王国の征服で一翼を担い、大化の改新では、蘇我氏を滅ぼして、中臣鎌足が藤原姓を賜って異例の出世を遂げた史実を、記紀は暗示したかったかもしれません。

出雲大社

 梅原氏は295ページでこう書きます。

 中臣氏はどんなに贔屓目に見ても、せいぜい舒明朝の御世に朝廷に仕えた中臣御食子(みけこ)の時代に初めて歴史に姿を現したにすぎない。(乙巳の変後)天才政治家、藤原鎌足が現れ、一挙に成り上がった氏族なのである。そのような氏族がアマテラスの石屋戸隠れ及び天孫降臨の時に活躍するはずがない。これは明らかに、神話偽造、歴史偽造と言わざるを得まい。

 厳しい言い方ですが、石屋戸に隠れたアマテラスを引き出す妙案を考えたのはオモイカネで、藤原氏の祖神とされているからです。中臣=藤原氏は、この時に活躍したフトダマを祖神に持ち、(現実世界では)宮廷の神事を司っていた忌部氏を排斥して、天智帝の下で神事を独占するわけです。

 こうして、藤原氏は天皇の外戚の地位を独占して政をし、近現代の近衛氏に至るまで1300年以上も日本の歴史に影響を与え続けます。その礎を創った藤原鎌足と、律令制を確立し、史書までつくった藤原不比等の功績は図抜けています。特に、不比等は、実務、実働部隊の最高責任者なのに記紀の編纂者として明記せず、黒子に徹した辺りは、まるで「黒幕」のようです。恐らく、不比等は、父鎌足の代で急に成り上がった氏族であることを骨身に染みて分かっており、他の有力豪族からの嫉妬や、やっかみや 、反発や反抗を怖れて、「影武者」に成りきっていたのでしょう。

 このような梅原氏の説は、古代史学会では正式に認知されていないのかもしれませんが、面白い本でした。大河内さん、有難う御座いました。

 

古代史が書き換えられるアイアンロード=そして、デマ情報に騙されるな

 「世界史の概念が根底から覆されるよ」と言いながら、会社の同僚川本君が貸してくれたDVDは、今年1月に放送されたNHKスペシャル「アイアンロード~知られざる古代文明の道~」を録画したものでした。

 「随分、大袈裟だな」と半信半疑でしばらく放っておいて、時間が空いた週末に見てみると、これは吃驚。宇宙考古学と呼ばれる人工衛星からの探索で、ユーラシア大陸のアルタイ地域に鉄器文明で栄えたスキタイ人の古代遺跡や50以上の古墳が次々と見つかり、確かに、歴史的大発見!異様に興奮してしまいました。これでは古代史が変わります。

 人類が初めて鉄を生産する技術を獲得したのは、今のトルコのアナトリアに王国を建てたヒッタイト人です。紀元前17世紀前半にムルシリ1世が、バビロン第1王朝を滅ぼして古王国を樹立します。でも、最近になってその遥か昔の紀元前23世紀頃のカマン・カレホユック遺跡から世界最古の人工鉄(直径3センチ)が発掘されたのです。(中近東文化センター考古学研究所・大村幸弘所長ら)

 紀元前23世紀ですよ!今は紀元21世紀ですから、イエス・キリストの時代が随分、つい最近のことのように思えてきます。

 ヒッタイト王国は、鉄を武器に大国エジプト(ラムセス2世)と対等に戦って世界初の平和条約を結んだりしますが、隣国アッシリアなどの勢いに押され、紀元前12世紀に世界史から忽然と消えてしまいます。その後の鉄器文明は、前10世紀にコーカサス地方(ウクライナ・ビルスクヒルフォート遺跡)、前8世紀にはユーラシア・アルタイ地域に伝わり、スキタイ人が広大な領土を持った王国を築いていたことが最近になって遺跡発掘から分かりました。(愛媛大学アジア古代産業考古学研究センター長・村上恭通教授ら)これでは、古代史を書き換えるしかありませんね。

 スキタイ人は文字を持たなかったため、謎の民族で、同時代のギリシャの文献から「敵の血を飲む野蛮人」という扱いでしたが、実は高度な製鉄技術を持ち、短剣のほか、鉄で加工した黄金のネックレスなどもつくることができ、35キロの城壁に囲まれたアテネの4倍もの広大な首都を持った文明国だったことが、発掘調査から分かりました。

 スキタイ人は、馬の口の中に嵌める「鉄のはみ」を発明して、野生馬を自由に御すことによって、長距離の「移動革命」を成し遂げ、広大な領地を広げ、騎馬軍団で、ギリシャやペルシャ帝国を撃退しました。(スキタイ人はイラン系遊牧民という説があり、ペルシャ帝国はイランですから、今後の民族的研究も俟たれます)

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 このスキタイ人の製鉄技術を受け継いだのが、モンゴル地方の遊牧民だった匈奴です。匈奴の侵攻に度々悩まされた秦など古代中国は、万里の長城を築きます。中国の史書では、敵の匈奴は、野蛮で狂暴で悪者扱いですが、実は、高度の製鉄技術を持った文明国で、特に、鎧を打ち抜くほど強力な「鉄の矢じり」を発明して、匈奴の単于(ぜんう=君主)冒頓(ぼくとつ)は、漢の高祖劉邦を苦しめます(紀元前200年の白登山の戦い)。

 ヒッタイト人からコーカサス~アルタイのスキタイ人、そしてモンゴルの匈奴、さらに南下して中国の漢(特に、鉄が農具に使われ農業革命を起こす)にも伝わった製鉄技術は「アイアン・ロード」と命名されます。今のトルコから最後は日本列島(弥生時代)にまで到達するわけです。あのシルクロードより遥かに古いのです。

 いやあ、凄いドキュメンタリーでした。

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 さて、話は少しだけ変わります(笑)。新型コロナウイルスの感染は、ついに世界的な大流行(パンデミック)になりましたが、3月13日付読売新聞に掲載された「世界動かしてきた感染症 『パンデミック』も運んだ交易」と題した山崎貴史編集委員の記事は実に興味深く拝読させて頂きました。

 特に、「感染症は人の移動や交易の活発化で拡大した」という世界史的分析は秀逸でした。例えば、グローバリズムは今に始まったわけではなく、5~8世紀は、シルクロードを経由して交易が国境を越えて大いに盛んとなり、その間にインドが起源とみられる天然痘が西は中東、欧州へ、東は日本にまで拡大します。この記事には詳しく書かれていませんでしたが、当時の日本の奈良時代、「古事記」「日本書紀」を編纂した中心人物と目され、絶大な権力を誇っていた藤原鎌足の次男不比等も、その子ども藤原四兄弟(武智麻呂=南家、房前=北家、宇合=式家、麻呂=京家 )も若くして病で亡くなっています。それは、天然痘だった説が有力です。ですから、私なんか「そうだったのか!」と相槌を打ってしまいました。

 また、14世紀には、欧州では人口の3分の1が死亡し、黒死病と恐れられたペストが大流行します。これは、中央アジアが発生源と言われ、モンゴル帝国が西へ拡大する中、伝わったと言われています。領土拡大の帝国主義と病気拡散はセットだったことが分かります。この黒死病による人口減で、欧州は農奴が急減し、中世の封建的身分制度が崩壊し、ペストを防げなかった教会の権威も失墜し、人々の意識に「国家」の概念が生まれ、近代的な主権国家の誕生に結び付くという分析も、目から鱗が落ちるようでした。つまり、パンデミックが社会を変革したのですからね。

 その点、現在のパンデミックは、貧富の格差拡大など社会の矛盾の現れなのかもしれません。果たして、この現在のパンデミックが、世界を変えるほどの社会変革をもたらすのか? 私自身は、デマ情報に惑わされず、パニックにならず、世界史的視野で、大いに注目していきたいと思っています。

出雲王朝の興亡=記紀神話は史実に近いのでは?

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

(昨日のつづき)

梅原猛著「葬られた王朝」の出雲の物語は続きます。

 スサノオと兄弟神から命を奪われるほどの煉獄を克服して、再生した(文字通り、何度も死んで甦った)オオクニヌシは、めでたく出雲という大国の王を継承します。オオクニヌシはそれだけでは満足せず、越の国を征服しに行きます。 越の国とは、古代北陸地方の国名で、北陸道の越前(福井県)から越中(富山県)を経て、越後(新潟県)に至る広大な領域で、古志、高志とも書かれました。 ここでは、呪力を持つと言われる翡翠(ひすい)が採れ、三種の神器の一つである勾玉などになりました。「越は、縄文時代以来、大いに栄えていたに違いない。…出雲は長い間、越の支配を免れなかった」と梅原氏も書きます。となると、越の被支配国だった出雲が、逆に越を征服したことになりますね。

 出雲による越の征服は、古事記では、一種の恋物語として描かれています。

 すなわち、八千矛神(やちほこのかみ)、すなわち大国主神が、越の国の沼河比売(ぬなかわひめ)に求婚して結ばれるという話です。二人の間に生まれた子どもが、「国譲り」の際に最後まで抵抗して、ついに諏訪に追いやられ、諏訪神社の祭神となったタケミナカタだったといいます。(103ページなど)

 越を征服して日本海側に広大な王国を築き上げたオオクニヌシは、今度はヤマト征服を目論みます。ところが、出雲がヤマトとどのように戦ったか、「古事記」にも「日本書紀」に書かれていないので分からないといいます。

 しかし、その戦いは幾多の困難があったにせよ、オオクニヌシの大勝利に終わったことはほぼ間違いないと思われる。関西周辺の地域には、オオクニヌシおよび彼の子たちを祀る神社や「出雲」の名前を伝える場所がはなはだ多い。例えば、オオクニヌシと同神といわれるオオモノヌシを祀った大神(おおみわ)神社(奈良県桜井市)、オオクニヌシの子コトシロヌシを祀った河俣神社(奈良県橿原=かしはら=市)、同じく子アヂスキヤカヒコネを祀った高鴨(たかかも)神社(奈良県御所=ごせ=市)など、ヤマトにある古社はほとんど出雲系の神を祀った神社であると言ってよかろう。また、京都、すなわち山城の亀岡には出雲大神宮という神社があり、それは実に丹波国の一之宮の神として信仰されてきた。…そういえば、京都には出雲路というところもある。…こう考えると、古くはヤマトも山城も出雲族の支配下にあり、この地に多くの出雲人が住んでいたとみるのが最も自然であろう。(110ページなど)

 そうでしたか。(ただし、記紀には書かれていないので、あくまでも、梅原氏の説です)

出雲大社

 オオクニヌシはこのように広大になった出雲王国を、朝鮮から渡来してきたといわれるスクナヒコナとともに治めることにします。スクナヒコナは、最先端の医療技術と酒の醸造法などを日本に伝えたといいます。スクナヒコナは、国造りが一段落したところで何処ともなく去っていきます。その時を同じくして、国造りを手助けをする神が現れます。その神はオオモノヌシといいました。あれっ?さっきの話では、オオモノヌシはオオクニヌシの同神ではなかったでしたっけ?

 日本書記では、オオクニヌシがオオモノヌシに「あなたは誰か」と尋ねると、オオモノヌシは「私はあなたの幸魂奇魂(さきみたま・くしみたま)である」と答えたといいます。「私の魂とあなたの魂は同じである。あなたの最も美しい魂のみを持っている」という意味なのだそうです。同神とはそういうことでしたか。

  ということで、出雲王国はオオクニヌシの下で大きな繁栄を遂げます。しかし、次第に崩壊の道に進みます。その理由については記紀には記されていませんが、梅原氏は、オオクニヌシにはたくさんの子どもがいたので、後継者争いを巡る内部分裂が原因だったのではないかと推測しています。

 この内乱につけこまれて、最後は「国譲り」の形で、出雲はヤマトに征服されたということなんでしょう。

 私は2017年12月11日付の渓流斎ブログで「『出雲を原郷とする人たち』には驚きの連続」と題して、出雲の不思議を色々と書き連ねています。そのうちのいくつかを少し表現を変えて再録しますとー。

なぜ、これほどの文化が出雲に栄えたのかといいますと、天皇族の大和の文化が百済から瀬戸内海を通ってきたのに対して、新羅や高句麗を通して日本海ルートで出雲に入ってくる文化があったからだといいます。

◇武蔵国には出雲伊波比神社と出雲乃伊波比神社の2社が

 武蔵国には、出雲から最も離れた所に、二つの出雲系直轄とも言うべき神社が今でもあるといいます。それは、入間郡(埼玉県毛呂山町)の出雲伊波比(いわい)神社と男衾郡(埼玉県寄居町)の出雲乃伊波比神社の2社です。

また、武蔵国の東部にも出雲系の神社が多く、それは氷川神社、久伊豆神社、鷲宮神社群だといいます。埼玉県神社庁によりますと、氷川神社は284社(埼玉県204社、東京都77社、神奈川県3社)、久伊豆神社は54社(全て埼玉県)、鷲宮神社は100社(埼玉県60社、東京40社)に上るといいます。

◇氷川は出雲の斐伊川が由来

この中で、私が特に取り上げたいと思う神社は、足立郡式内氷川神社です。この神社について、文政11年(1828年)の「新編武蔵国風土記稿」には「出雲国氷の川上に鎮座せる杵築大社をうつし祀りし故、氷川神社の神号を賜れり」と記されています。この「氷の川」は古事記で「肥河」(ひのかは)、日本書紀では「簸川」(ひかは)とも書かれた斐伊川のことで、これが氷川神社の社名の由来になったといいます。なるほど。これで、やっと長年の疑問が氷解しました。

大国主命

以上、再録しました。出雲から諏訪に逃れたオオクニヌシの子のタケミナカタが祭神として諏訪神社に祀られたことを梅原氏の本で教えられましたが、このほか、武蔵国まで逃れた出雲の人たちもいたということになります。

 その一方で、梅原氏の説では、出雲が内乱でヤマトに征服される前の最盛期に、強大な出雲王国の方がヤマトを征服していた。その証拠に、大和の各地には出雲系の古社がある、というわけです。

 うーん、どうも、神話は、全くでたらめのフィクションではなく、史実に近いことを書いていたことになりますね。

古代出雲の謎を解く=梅原猛著「葬られた王朝」

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 大手出版社に勤務する大河内先生から、本が送られてきました。本は1000円以上もする高価なカラー写真付きの文庫本です。大河内先生は、新書を担当する編集者なので、おかしい?

 今から1カ月以上前の話。新年会で同席した大河内氏が、酔った勢いなのか、急に「渓流斎さん、本をお送りしますから、名刺をください」と言うではありませんか。てっきり、自分が担当しているどなたか偉い先生の新書で、書評用にマスコミ等に配布する余った「献本」かと思い、楽しみにしていました。

 しかし、待てど暮らせど送って来ません。会社に送るというので、紛れ込んでしまうことが多いので、一応、彼に「『届いたのに挨拶がない』と言われるのは心外なので、もし、お送りしていなかったら、もう送らなくて結構ですよ」とメールしたのでした。

 そしたら、彼から追って連絡があり、「まだ送ってません。これからお送りします」と言うのです。あまり、恩に着せられても困るので(笑)、「それなら結構です」と丁重にお断りしたのですが、結局、大河内先生は、社員割引とはいいながらも、実費で購入して、自分の担当外である文庫本を送ってくださったのです。後で倍返しで請求されそうですねえ(笑)。

 その文庫本が、これ、平成24年11月1日に発行された梅原猛著「葬られた王朝ー古代出雲の謎を解く」(新潮文庫)でした。あら、大手出版社名がバレてしまいましたね。それでは、大河内先生のお名前は仮名とさせていただきましょう。

 何でこの本なのか?しかも新刊でもない。わざわざ、社員割引とはいえ、買って頂いて送ってくださる価値がある本なのか?「お前は教養がないから、もっと勉強しろ」との叱咤激励なのか?-それこそ謎です。

 幸い、この本は未読だったこと。恐らく、小生が古代史、特に出雲の歴史に興味があること等を忖度して、大河内氏は送ってくださったと思います。倍返しはともかく、有難く拝読させて頂くことにしました。

 そしたら、めっちゃ面白い。めたらやったら面白いのです。もともと、「学界の異端児」と言われた梅原猛氏の著作には興味があり、何冊か読んだことがあります。以前、梅原氏が書いた「歴史上、日本が生んだ最大の思想家は法然だ」という一文を読んだことがきっかけで、法然に興味を持ち、日本の浄土教思想を勉強するようになったことも告白しておきます。梅原氏のおかげです。

 随分、前置きが長くなりました(笑)。少し引用させて頂きます。

・「古事記」を素直に読む限り、アマテラスを開祖とするヤマト王朝の前に、スサノオを開祖とする出雲王朝が、この日本に君臨していたと考えねばならない。(34ページ)

・「古事記」では、阿波の国は、「粟(あわ)の国」と書かれている。…日本は、稲作農業以前に粟、稗(ひえ)、黍(きび)、麦、小豆、大豆などの雑穀農業が行われていたと思われるが、徳島県、すなわち阿波は、この雑穀農業のうち粟農業が日本で最初に行われた国ではなかろうか。また、(黍農業が行われた)岡山県、すなわち吉備も、出雲王朝の権力が及ぶところであった。(43ページ)

・スサノオがヤマタノオロチを斬った刀は「韓鋤(からさい)の剣」であるという。韓鋤の剣とは韓国(からくに)から伝来した小刀のことを指す。その韓鋤の剣でヤマタノオロチを斬ったとすれば、スサノオ自身も韓国から来たと考えるのが自然であろう。(48ページ)

 いやあ、凄い大胆な推理ですね。いや、推理なんて言ったらいけないのかもしれません。ただ、私自身の勉強不足で定かではありませんが、これらは、古代史家からは定説として認められていないかもしれません。もう8年以上前に出版された本ですが、学会では無視されたのか、論争になったという記憶もありません。私が知らないだけなのでしょうが…。

 確かに、出雲の国は、大陸や半島との交流・貿易が盛んで一足先に文明が進歩した所だったのでしょう。別の本で読んだのですが、出雲は、タタール人から伝えられた製鉄法で鉄器を生産し、農業や船つくり、そして巨大な神殿づくりが発展した国でもありました。それがオオクニヌシの時代になって「国譲り」の形で、大和朝廷に併合されてしまうのが神話ですが、これは史実に近いのではないでしょうか。

民俗学から藝能へのつながり転移=大阪・難波の国立文楽劇場で「みやざき神楽」を開催

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今晩は、浪速先生です。

今日は全国的に雨模様で気温はかなり上がって、もう春の陽気でしたね。

新型肺炎騒ぎは日本列島全体に益々広がり、畿内は和歌山で済生会有田病院の50代の男性医師が感染、同病院及びその周辺は大騒ぎです

日ごろ、どんなことがあっても能天気な日本人も、伝染病となるとマスクや消毒液を買い溜めしたりして、昔のオイルショック時のトイレットペーパー買い占め騒ぎの反省、教訓は全く生かされていません。

そんな日本の国内事情をいち早く察知した米国政府は「こんな危ない日本に米国人を任せられない!」と、米国民救出のため急遽チャ-ター機を日本に派遣しますが、つまり、これは「シンゾウ、アベは信頼できない!」の証拠です。

ところが”安倍親衛隊”の日本のマスコミは、その内実は報じません。こちら大阪も一時に比べ中国人観光客がガタ減りです。道頓堀周辺も一時は中国人で占拠されていましたが、今は人通りが少なく歩きやすくなり、商売人は大変でしょうが、遊びに来る日本人は気持ちが良いと思いますね。

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そんな中、ワタシは2月15日(土)の昼下がり。「無料」ということもあって神話の故郷、宮崎の「みやざき神楽」を大阪・難波の国立文楽劇場の舞台で開催されるというので見てきました。

去年10月、東京の国立能楽堂でも開催されたそうですが、ご存知でしたか?恐らく、知らないままで過ごされたと思いますが、国立能楽堂HPを日頃からチェックしていないとダメですね(笑)。

国の「重要無形民俗文化財」に指定されている日本三大秘境の一つ宮崎県椎葉村で毎年11月~12月に夜通し行われる「椎葉神楽」です。

宮崎から国立文楽劇場に河野俊嗣県知事も駆けつけ、天孫降臨神話の高千穂周辺の神楽のPRの挨拶をしましたが、確かに宮崎県の県央、県南は神楽が盛んだそうです。

この日、同劇場の舞台では「不土野神楽」で椎葉村に太鼓と鈴に合わせて、刀を振って火の神への祈祷、唱教をあげたり、鬼神面(きじんめん)や山の神面をかぶって力強く舞う「神楽」が舞台につくられた神域の中で行われました。

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河野知事は、昨年10月に国立能楽堂での同じ「神楽」公演では、鈴木健二氏(元NHKアナウンサー)から「神楽は舞台でするものではありません。やはり現地で闇夜の中で繰り広げられるのを、直かに接しないと神楽の持つ神秘性や神とのつながりは分かりません」と厳しい指摘があったそうです。しかし、現地に行く機会が容易でない都会人には、罰当たりかもしれませんが、希少な機会です。

貴人も「神楽」の謂れ、歴史、その系統を調べると民俗学から藝能へのつながり転移の視点から、屹度、ご興味を持たれると思います。この日は無料であることもあってか劇場は満員で特に青い目の外国人が目立ちました。

以上

古代史の新発見が望まれる=東博で「出雲と大和」展

 新型コロナウイルスが猛威を奮う中、「よゐこは不特定多数の人が集まる所に行ってはいけません」と一国の総理大臣から通告されていたにも関わらず、上野の東京国立博物館に行って来ました。「出雲と大和」が開催されていたからです。

 週末なので混むはずでしたが、空いていたわけではありませんが、近くで見られました。けど、中国語が聞こえると(彼らは何処にいようが我が物顔で声がデカい!)、ドキッと緊張している自分を発見しました。

出品目録をざっと見ただけですが、出品111点中、国宝が23点、重要文化財75点という豪華絢爛さです。失礼、太古の発掘物ですから、絢爛さまではいかず、正直、余程、古代に関心があり、ある程度の知識がないとつまらないかもしれません。

 国宝「銅剣、銅鐸、銅矛」(出雲市荒神谷遺跡出土、弥生時代、前2〜前1世紀、文化庁蔵)や日本書記にも記された国宝「七支刀(しちしとう)」(古墳時代、4世紀、奈良・石神神宮像)など眼を見張るものが沢山ありました。でも、私自身は、ある程度の知識はあるつもりでしたが、はっきり言って難しかったですね。

 銅鐸一つ取っても、祭司用だと言われてますが、実際にどのように使われたのか諸説あります。

 また、考古学や古代学は、大半は文字がない時代ですから発掘された出土品から想像しなければなりません。専門家なら勾玉一つ見ただけで、色んなことが分かるでしょうが、悲しい哉、素人には限界があります。

 個人的には古代には48メートルの高さを誇ったと言われる出雲大社本殿の縮小版の模型が良かったですね。昨年は、実際に初めて出雲大社をお参りする機会に恵まれたので、感激も一入です。巨大本殿が存在したという証明になる鎌倉時代の宇豆柱(うづばしら)も展示されていました。

 出雲では博物館に立ち寄らなかったので、今回、初めて色んなお宝を見ることができました。

 3世紀になって大和に王権が成立し、巨大な前方後円墳がつくられます。しかし、多くの古墳は文化庁と宮内庁の管轄で、学者でさえ立ち入り禁止されているので、まだまだ未解明な所が多いのです。

◇国譲りで大和が出雲を征服したのか?

 最後のコーナーの年譜を見ていたら、大陸との交流が盛んだった出雲の勢力というか文明圏は弥生時代初期からあり、その一方で、後から大和政権は成立して、「国譲り」で大和が出雲を併合したのは明白に思えました。

 「古事記」は、敗れた出雲の側の立場を描き、出雲のことはあまり触れていない「日本書記」は、大和の側から叙述したものだということをある学者さんは言ってましたが、そう考えると分かりやすいですね。

 いずれにせよ、古墳が考古学者に公開されて、新史実が発見されれば、素晴らしいと思っております。

 この後、遅ればせの新年会が根津駅近くの「駅馬車」という店であるので、地下鉄で行こうとしたら、博物館のチケットの裏を見たら地図が載っていて、歩いて行けそうな距離だと分かり、徒歩で行きました。

 そしたら、参加した赤坂さんも東博を見て歩いて根津まで来たという小生と同じコースだったので笑ってしまいました。

 新年会では赤坂さんは、ピントが外れた唐変木なことばかり発言するので皆の笑い者、いや人気者でした(笑)。

継体天皇は新王朝なのか?

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

「今、東博で『出雲と大和』展をやってますね。『芸術新潮』の今月2月号が、日本書紀を特集していますから、それを読んで展覧会に行かれたら分かりやすいんじゃないですか」との京洛先生からのお薦めがあったものですから、万難を排して本屋さんに行って買い求めて来ました。

 何しろ、今年2020年は「日本書紀」が編纂されてちょうど1300年という記念の年ですからね。

 で、読み始めたのですが、「嗚呼、こりゃあ駄目だあ~」となりました。特集「ラノベ日本書紀」のラノベの意味も分からず買ってしまったのですが、これは、どうやらライトノベルの略らしく、恐れ多くも畏くも天皇陛下の歴代記録をライトノベルにアレンジしてしまっていたのです。ライトとは若者向きの「軽い」読み物ということになるんでしょうけど、「軽妙」ならまだしも、「軽薄」気味で、2~3行読んですぐ嫌になりました。推測に過ぎませんけど、戦前なら不敬罪になりかねない、かもしれませんよ。とにかく、買って損しました(苦笑)。

 新潮社の編集者のレベルとまでは言いませんけど、センスが落ちた気がしました。いや、真相は、現代人である読者のレベルが落ちたのでしょう。岩のように堅くて難解な教養主義では、雑誌は売れないんですからね。

 これらはあくまでも個人的な見解ですが、もう一つ、この特集で波長が合わなかったのが編集者の質問に答える形で、「ここが知りたい!日本書紀」で「解説」を担当している遠藤慶太皇學館大学教授(1974~)です。 例えば、第26代継体天皇について。後継ぎのなかった武烈天皇が崩御したため、 大連(おおむらじ)の大伴金村と物部麁鹿火(もののべのあらかび)らによって、近江生まれで(母親の実家の)越前育ちの男大迹(おおど)王 が推挙されて即位したことから、学問研究が自由に解放された戦後になって、「それまでの王朝とは血縁関係のない新王朝」とか「越前王朝」といった新説が出ました。

 侃々諤々の論争が続いているのに(いまだ決着せず)、 遠藤教授は「(日本書記では継体天皇の)出自は応神天皇から5世の孫、彦主人王(ひこうしのおおきみ)の子とあるだけ。…それ以前の王朝とは血縁関係を否定する意見が多数派ですが、裏付けに乏しく、 私などは、あえて主張するほどの近さでもないのに、わざわざそう書くのだから、素直に5世の孫と受け止めていいのではと思っています」と、アッサリとまとめてしまっています。

 それなら、「5世の孫」とはいっても、系図が失われているので裏付けがなく、この論争は史料がみつからない限り、決着がつかないでしょう。でも、そこが古代史の面白さとも言えます。

 他にもありますが、長くなると、文句が百出して、読まれませんのでこの辺で(笑)。

 【後記】

 三浦佑之・千葉大名誉教授による「神話でくらべる古事記と日本書記」は大変勉強になる論考でした。この論文を読めるだけでこの雑誌の価値はありました。簡単に要約すると、古事記は、出雲の神々の滅びに対する哀悼や鎮魂を語ろうとしている印象を受けるのに対して、日本書記は、国家の正史として、王権の側の視点で出来事を叙述しようとする意図を強く感じるといいます。日本書記では、古事記で大きな分量を占めていた地上の王オオクニヌシの物語を意図的に削除したのが丸見えで、いびつな流れになっている、とまで指摘するのです。なるほど、そういうことだったのですか。「国譲りの物語」とは、やはり、大和朝廷が最後の強大な豪族「出雲」を征服する物語だったということなのでしょうね。