日本人のルーツを求めて考えたら頭が混乱してしまいました

 退職金約6000万円が貰える東京高検・前検事長の黒川弘務氏は、週1~2回、多い時は週3回、遅い時は夜中の2時まで賭けマージャンに興じていたということです(「週刊文春」6月4日号)。そんなことをしていたら、本を読んだり、勉強したりする暇があるのかしら?-なんて、浅はかな私なんかは思ってしまいました。黒川氏は、超エリートのインテリですから、法律の知識は豊富でしょうが、社会常識や教養には欠けているのかもしれません。

 他人様のことですから、どうでもいいのですが、国民の税金が彼に使われているので、一言諫言を述べたかっただけです。私自身は専門知識もない、インテリでもない、ただの凡夫ですから、他人様から後ろ指を指されないように、麻雀もパチンコも競輪競馬も競艇も、博打はせずに只管、寸暇を惜しんで勉強するしかないのです。自粛生活でここ何カ月も友人たちにも会っていないし、飲みにも行かず、遊んでいないなあ~。

◇澤田洋太郎著「ヤマト国家は渡来王朝」

 さて、古代史は面白いが、むつかしい。-というのが、澤田洋太郎著「ヤマト国家は渡来王朝」(新泉社、2004年6月20日新装版第2刷)を読んだ感想です。古代大和朝廷は、朝鮮半島からの「渡来王朝」だったという大胆な結論を導きだしています。

 この1週間以上、この本に掛かりっきりでしたが、どこまで信用したら良いのか、頭が混乱してなかなか読み進むことができませんでした。そりゃそうでしょう。「文武天皇は新羅の文武王のことだった」「天武天皇は新羅の王族金多遂(キムタジュク)だった」(佐々木克明「騎馬民族の落日」)「壬申の乱は、百済・新羅の代理戦争だった」などと言われれば、「えっ?どういうこと?」になりますよ。

 1927年生まれの著者は、第一高等学校から東大法学部卒業後、都立高校の社会科教師を長年勤め、教頭を最後に定年退職し、その後、在野の古代史研究家になった人です(政治、経済関連の書籍も多く出版。2014年死去)。この本は、通説、俗説、異論、独自解釈…を集めたような感じで、学会で認められている「正史」ではなく、いわば「稗史」となるのかもしれませんが、無暗に読み捨てておけないところがありました。正直、途中で読むのが嫌になることもありましたが…(笑)。(秦の始皇帝はユダヤ人だった、という説には引っ繰り返り、源義経はジンギスカンだったという説を思い出しました)

 何しろ、日本の古代史の最も重要な文献である「古事記」や「日本書紀」(以下記紀)には、歴史的事実をそのまま叙したとは言えない創作的な神話があることはよく知られていますが、日本の歴史だというのに、やたらと朝鮮半島の百済や新羅や高句麗の情勢が登場することはあまり知られていません。(記紀を原書で通読した現代人は果たして何人いるのかしら? 私も記紀は、現代語訳でしか読んだことがありません)

 例えば、「日本書紀」では舒明天皇について、「十三年冬十月己丑朔丁酉、天皇崩于百濟宮。丙午、殯於宮北、是謂百濟大殯。」(即位13年冬10月9日。舒明天皇は百済宮で崩御された。18日、宮の北で殯(もがり=葬送儀礼)が行われた。これを百済の大殯と言う。)といったことが書かれています。何故、日本の天皇(この時代は大王と呼ばれていましたが)なのに、百済式の殯が執り行われたのでしょうか?…。

 記紀がこういう書き方だと、古代史学会による正統な歴史解釈のほかに、在野の研究者や好事家らによる独自解釈も数多あります。特に、「万世一系の天皇制」を論議することがタブーとされていたことが、敗戦後に一転して自由な研究が解放されましたからね。

 もう少し例を出すと、本書では、645年の乙巳の変(大化の改新)は、「百済系」の蘇我蝦夷・入鹿「政権」に対する「新羅系」の中大兄皇子と中臣鎌足によるクーデターだったというのです。中大兄皇子と鎌足の背後には、革命の正当化を訴えた南淵請安(みなぶちのしょうあん)らがいたといいます。彼らは、遣隋使で新羅経由で帰国して親・新羅派になったといいます。(南淵請安は、昭和初期の血盟団と五・一五事件の海軍青年将校らの精神的支柱だった農本主義者・権藤成卿が最も影響を受けた人物の一人。権藤は、大化の改新の理論的指導者だった請安に倣い、昭和維新を唱えたといいます。南淵請安は、渡来人である東漢氏=やまとのあやうじ、後漢の霊帝の末裔が帯方郡から3世紀頃に渡来=出身だといわれています)

 (新羅派のはずだった中大兄皇子は、天智天皇として即位すると、百済系渡来人を重用し、壬申の乱後に即位した天武天皇は、新羅系で二人は兄弟ではなかったと書かれていましたが、何か、よく分からなくなってしまいました)

赤は百済と平氏、白は新羅と源氏

 この本では、新羅系は白旗がシンボルで、清和源氏に受け継がれ、百済系は赤旗で、桓武平氏に受け継がれ(桓武天皇の生母高野新笠は、百済系渡来人の末裔だった=「続日本紀」)、平安以降、鎌倉幕府の源氏の源頼朝から平氏の北条氏に変わり、それが室町時代になると源氏の足利尊氏、その後、平氏の織田信長~豊臣秀吉となり、江戸幕府を開いた徳川家康は源氏と交互に政権が交代したという説を展開しています。

 肝心のタイトルにもなっている「ヤマト国家は渡来王朝」というのは、天皇族は朝鮮半島の南端に古代にあった伽耶辺りから渡来してきたという説です。ただし、彼らは、現代の北朝鮮人や韓国人の祖先ではなく、北方からスキタイ系の騎馬民族が朝鮮半島南部に住み着き倭人と呼ばれた人たちで、そこから北九州などを経由して畿内に到達したというものです。となると騎馬民族説ですね。(スキタイ人は鉄器を匈奴や漢に伝え、鉄器は、朝鮮半島南部から日本に伝えられたので、そのような倭人がいたかもしれません)また、ヤマトに国譲りをした出雲も鉄器製作が盛んでしたが、出雲族は、もともと朝鮮南部の安羅からの渡来人の子孫だとする学者もいます(朴炳植氏の説)。

 古代は、現代人が想像する以上に遥かに多くの人が、大陸から、そして半島から、日本列島へ行き来していたようですから、古代人の間では、それほど国家や民族を意識することなく、混血が進んでいたことでしょう。(神話のスサノオノミコトも、出雲と朝鮮半島の新羅を行き来していました)

 そして、ヤマトが百済の王族を人質として預かったり、百済の要請でわざわざ朝鮮半島の白村江まで遠征して唐や新羅と何故戦ったのか、などについては、朝鮮半島南部に拠点を築いて住み着いた倭人がいなければ、理由が説明がつかないことでしょう。

 私自身は、「日本人はどこからやって来たのか?」という深い疑問の原点があって、古代史に興味を持ちましたが、「日本人とは何か」となると、この本を読むと、多少、混乱してしまいました。

◇日本全国に残る新羅、百済、高句麗

 とにかく、記紀には新羅、百済、高句麗が頻繁に登場します。同書によると、まず「新羅」については、新羅神社という名の社が、青森県八戸市、静岡県浜松市、岐阜県多治見市など全国に9社あり、全国に2760社ある白山神社も新羅に起源を有する神社で、その他、白木、白子、白石、白髭などの地名は日本に移住してきた新羅人が付けた名前だといいます。

 「百済」は、大阪府枚方市に百済寺跡があり、そこの隣接地に百済王神社がある。その他、各地に多くの百済神社があり、大阪市旧鶴橋町一帯は、もともと百済郷と呼ばれていたといいます。

 「高句麗」は、「続日本紀」の霊亀2年(716年)の記事に「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の高麗人1799人を以て武蔵国に遷し、初めて高麗郡を置く」とあり、現在も埼玉県日高市に高麗若光を祀る高麗神社・聖天院がある。この高麗氏から駒井、井上、神田、武藤、金子、和田など多くの氏族が派生し、東京には狛江市や駒場、駒場、駒込、駒沢など駒(高麗)が付く地名が多い。関東地方には高句麗系の渡来者がかなり多かったといいます。今は日本人として同化したということでしょう。

 これらは「説」ですから、歴史的事実かどうか分かりませんが、日本人のルーツは、朝鮮半島や中国大陸、そしてユーラシア、東南アジア、南太平洋等から渡来した人たちということになるのでしょう。

 もっと勉強しなければいけませんね。賭けマージャンをやってる暇はありません(笑)。

庶民の歴史は「歴史」にならない

昭和30年代、あるメーカーの「コロナ」という名前の車が人気で、街中でよく見かけました。今の御時世、この名前での販売はとても難しいでしょうが、当時はコロナにネガティブな意味は全くありませんでした。むしろ、高度経済成長の象徴的な良い響きがあり、「サニー」や「カローラ」といった大衆車よりちょっと上のレベルといった感じでした。

 それが、昭和40年代になると、「コロナ マークⅡ」という名称になりバージョンアップされて、スポーティーな中級車になりました。今では知っている人は少ないでしょうが、スマイリー小原という踊りながら楽団を指揮するタレントさんがCMに出ていたことを思い出します。平成近くになると、コロナの名前が取れて、単に「マークⅡ」だけとなり、グレードアップした高級車になり、今でも続いていると思います。

 私は、何か不思議な符丁の一致を感じました。今世界中を災禍に陥れている新型コロナは、夏場に一旦、収束すると言われますが、また今秋から冬にかけて「第2波」がやって来ると言われています。初期の「武漢ウイルス」から突然ではなく、当然変異して、より強力になって、殺傷力の強いウイルスに変身すると言う専門家もいます。疫病と自動車の話とは全く関係ないのですが、何で、コロナがマークⅡに変身したのか、まるで未来を予言したかのような奇妙な符牒の適合を、私自身、無理やり感じてしまったわけです(笑)。恐らくそんなことを発見した人は私一人だけだと思いますが(爆笑)。

 さて、ここ1カ月間は、立花隆著「天皇と東大」(文春文庫・全4巻)のことばかり書いて来ました。このブログを愛読して頂いている横浜にお住まいのMさんから「圧倒的分量で流石でした。私も読んでみるつもりです」との感想をメールで頂きました。私自身は、このブログを暗中模索で書いていますから、このような反応があると本当に嬉しく感じます。

 あまりよく知らなかったのですが、Mさんの御尊父の父親(つまり彼にとっての祖父)は、終戦近くに予備役ながら召集され、小笠原の母島で戦死されたといいます。そのため、御尊父は母子家庭となり、大変な貧困の中で育つことになりますが、その母親も17歳の時に亡くし、本人は自殺すら考えましたが、周囲に助けられ、借金をしてようやく高校を卒業したといいます。当時は同じような境遇の家庭が多かったことでしょう。私の両親の父親、つまり私にとっての祖父は、2人とも戦死ではなく40歳そこそこで病死したため、両親2人とも10代で母子家庭になり、相当苦労して戦後の混乱期を切り抜けて、貧しいながら家庭をつくり我々子どもたちを大学に行かせるなど一生懸命に育ててくれました。

 「天皇と東大」は、エスタブリッシュメント階級の歴史が書かれ、読み応えがありましたが、我々のような庶民はいくら苦労しても「歴史」にもなりません。学校で教える歴史は、いつも特権階級や勝者から見た歴史だからです。

 話は変わって、先日から山岸良二監修「戦況図鑑 古代争乱」(サンエイ新書)を読んでいますが、古代は、本当に驚くほど多くの争乱があったことが分かります。その争乱の大半は「皇位継承」にからむクーデタ(未遂も)と内乱です。九州筑紫の豪族が新羅と結託して大和朝廷転覆を図った古代史最大の反乱である527年の「磐井の乱」、蘇我氏が物部氏を排斥して政権を掌握した587年の「丁未の変」(物部氏は、娘を大王に嫁がせて外戚を誇った例は見られないそうで意外でした)、中大兄皇子と中臣鎌足らによる蘇我氏を打倒したクーデタ、645年の「乙巳の変」(1970年代までに学校教育を受けた世代は、「大化の改新」としか習わず、私自身はこの名称は10年ぐらい前に初めて知りました!)、天智天皇の後継を巡る叔父と甥による骨肉争いである「壬申の乱」、奈良時代になると「長屋王の変」「藤原広嗣の乱」「橘奈良麻呂の変」「藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱」、平安時代になると「伊予親王謀反事件」「平城太上天皇の変」(従来は「薬子の変」と習いましたが、最近は名称が変わったそうです。歴史は刷新して学んでいかないと駄目ですね)「承和の変」「応天門の変」(応天門とは平安京の朝堂院に入る門だったんですね。図解で初めて確認しました=笑)…と本当にキリがないのでこの辺でやめておきます。

 古代史関係の本を読んでいて、心地良いというか、面白いというか、興味深いのは、古代人の名前です。現代人のキラキラ・ネームも吃驚です。有名な蘇我馬子とか入鹿なども随分変わった珍しい名前ですが、人口に膾炙し過ぎています。663年の有名な「白村江の戦い」(中国や韓国の史料では「白村江」ではなく「白江」なので、そのうち「白江の戦い」に変更されるかもしれません。何で日本で白村江と言い続けてきたのか理由があるのでしょうから、不思議)に出陣した将軍の名前が残っています。

 第1陣の前将軍大花下(だいけげ)・阿曇比羅夫(あずみのひらふ)、小花下・河辺百枝(かわべのももえ)、大山下(だいさんげ)・狭井檳榔(さいのあじまさ)。第2陣の前将軍・上毛野稚子(かみつけののわかこ)、間人大蓋(はしひとのおおふた)、中将軍・巨勢神前訳語(こせのかむさきのおさ)、三輪根麻呂(みわのねまろ)、後将軍・阿倍比羅夫、大宅鎌柄(おおやけのかまつら)…。「あじまさ」とか「かまつら」とか、戦国武将にも劣らない強そうな名前じゃありませんか(笑)。

 この本を読むと、丁未の変(587年)で物部氏が没落し、乙巳の変(645年)で蘇我氏が没落し、伊予親王謀反事件(807年)で藤原南家が没落し、承和の変(842年)で藤原北家(良房)の政権が台頭し、応天門の変(866年)で大伴氏と紀氏といった古代豪族が没落して、藤原北家が独占状態となり、阿衡の紛議(887~8年)で橘氏、昌泰の変(901年)菅原氏が排斥される、といった具合で、なるほど、「権力闘争」というものは、こういう流れがあったのかということが整理されていて分かりました。

支配階級にとって好都合な庶民大衆の皆様

 近現代史の深層を解剖した大作「天皇と東大」(立花隆著・文春文庫全4巻)を読了したので、再び、古代史関係の本に戻って渉猟しています。

 今読んでいるのは、山岸良二監修「戦況図解 古代争乱」(サンエイ新書)という本ですが、紀元前4世紀頃の弥生時代の戦い(狩猟・採取生活が中心の縄文時代の遺跡からは、何と、戦争の痕跡は見つかっていないとか!)から磐井の乱、乙巳の変、白村江の戦、壬申の乱など図解と系譜入りで説明してくれるので分かりやすい。たまたま本屋さんで見つけて重宝しています。

 で、今日はその話ではなく、近現代史と古代史を中心に勉強していると共通点といいますか、古代と近代とほとんど変わっていないことに気が付きます。ズバリ言って、天皇制とそれに付随する政治、経済、社会、教育制度です。何しろ、明治維新そのものが、古代の王政復古でしたから、当たり前と言えば当たり前の話なのです。(明治政府は太政官や神祁官などを復活させたりして、中世、近世の武家社会を否定してすっ飛ばしてしまいました)

 そして、今日一番強調したいことは、日本という国家は、古代から現代に至るまで、1500年間とも2000年間とも2600年間とでも言っていいのですが、エスタブリッシュメント(支配階級)は少しも変わっていないということでした。

 例えば、「天皇と東大」で多くの紙数が費やされている天皇機関説の美濃部達吉は、蓑田胸喜ら右翼国家主義者たちから反国体主義者として糾弾され、書籍も発禁処分されたりしましたが、本人は決して反体制派、つまり反天皇制主義者ではなく、立憲天皇制主義者だったことがあの本にも書かれていました。それどころか、東京帝大教授という超エリート階級で、鳩山一郎(首相など歴任)とは縁戚関係(美濃部の妻多美と鳩山の弟秀夫の妻千代子が姉妹)で、息子の美濃部亮吉(元都知事)を、信州の小坂財閥である小坂善太郎(外相など歴任)、徳三郎(運輸相、信越化学・信濃毎日新聞社長など)の妹の百合子に嫁がせて、華麗なる閨閥づくりに勤しんでいました。美濃部達吉はエスタブリッシュメントに他ならないでしょう。

 また、「天皇と東大」の2巻には、東大新人会の初期リーダーだった宮崎龍介が出てきます。この人は、孫文の友人で中国革命の支援者として有名な宮崎滔天の息子です。新人会は東京・目白にあった13室もある大邸宅を拠点に活動していましたが、それは中国人革命家の黄興という人が所有していたものでした。この邸宅を宮崎滔天が預かり、息子の龍介に活動の場として提供していたのでした。そこに柳原白蓮事件(大正10年)が起こります。若い帝大生の宮崎龍介と炭鉱王の妻との不倫事件ということで、当時は最大のスキャンダルとなって、大衆の恰好の餌食となり、新聞も大騒ぎします。

 このおかげで、宮崎龍介は、東大新人会を除名され、新人会の連中も黄興邸を出たため、活動拠点を失う羽目になります。

 この柳原白蓮は、歌人としても有名ですが、何と、柳原前光伯爵の娘で、柳原家といえば、名門中の名門です。何しろ、大正天皇の生母で、明治天皇の女官だった柳原愛子(なるこ)は、白蓮の叔母に当たる人だったのです。そこで、手元にあった古代から現代につながる藤原氏の系譜を図解した洋泉社MOOKの「藤原氏」を参照したところ、柳原家とは、藤原氏の分家で、五摂家(近衛、鷹司、九条、一条、二条)、清華家(せいがけ=三条、西園寺など)などに続く名家(めいか)と呼ばれていました。名家とは、文官の家筋で、大納言まで進むことができる家柄です。そして、柳原家は、同じ名家の日野家(儒道・和歌の家。室町将軍足利義政の室・富子は当主勝光の妹)の庶流で、文筆の家だったのです。

 まさに、柳原白蓮は歌人でしたから、藤原氏の血筋を受け継ぎ、「文筆の家」を守り抜いたことになります。いやあ、何百年経っても全く変わらないということですね。

 大正天皇の生母が柳原愛子だったことで色々気になり始めて調べてみたところ、明治天皇の昭憲皇后だった一条美子(はるこ)さまは、藤原氏の五摂家の一条家出身。大正天皇の貞明皇后だった九条節子(さだこ)さまも同じく五摂家の九条家出身。昭和天皇の皇淳皇后だった久邇宮良子(ながこ)さまは、伏見宮朝彦の孫。昭和天皇の弟宮である秩父宮妃の勢津子さまは、幕末に新選組をつくった会津藩主松平容保の孫。同じく高松宮妃の喜久子さまは、最後の将軍徳川慶喜の孫。同じく三笠宮妃の百合子さまは、河内丹南藩の最後の藩主高木正善の孫だったことが分かりました。

 なるほど、これが日本の伝統ということなのでしょうか。

 「天皇と東大」に登場する何千人という人物は、考えてみれば、右翼も左翼もほとんどがエスタブリッシュメント階級に属する人たちでした。庶民から見れば、雲の上のそのまた雲の上の殿上人たちです。そういう人たちは、自分の子どもたちには十分な教育費をかけて、最高級の教育を与えて、東大にでも入れて、そのまた子供たちが、またその子どもも東大に入れて、官僚や政治家や学者の道に進ませていくのです。(世の中、そんな単純じゃありませんが、戦前の軍人も華族も政治家も法曹界も、古代の葛城氏や蘇我氏や藤原氏と同じように、エスタブリッシュメント同士で縁戚関係をつくるのに必死でした)

 そして、いつの時代でも犠牲になるのは、無学な庶民たちで、防人(さきもり)になったり、赤紙一枚で激戦地に送られたりして、ハイ、さようならです。それが日本社会のカラクリでしょう。

 幸運なことに、と言うべきか、こうした高等教育を受けられない庶民の皆様は、渓流斎ブログを読まないし(笑)、社会のカラクリにも気づかず、有事の際は、唯々諾々と大人しい羊の群れのように為政者の命令に従うわけです。お疲れさまでした。(政府による非常事態宣言下にこのブログを書きました)

※歴史上の人物は敬称略しています。

「倭の五王」は確定できず=1600年経っても全く変わらない東アジア情勢

 このブログで4月14日(火)に書いた「1970年の『レット・イット・ビー』から半世紀も経つとは…」では、全く個人的な音楽遍歴を遠慮しながら書いたのに、コメントとメールで意外にも多くの皆様から反響を頂きましたので、吃驚です。

 音楽の話はいいですね。またマニアックな話を書きたいと思っていますが、今日は一つだけ追加しておきます。10代の頃から洋楽ばかり聴いてきた、と書きましたが、邦楽も、レコードは買いませんでしたが、結構聴きました。私が中高生の頃は、フォークソングが大ブームだったからです。吉田拓郎や井上陽水といったメジャーだけでなく、深夜放送などで、頭脳警察やNSPなど聴いている変わり者でした。当時、大人気で「フォーク界の貴公子」と呼ばれたケメこと佐藤公彦さん(1952~2017)は今どうしているのか調べたら、65歳で亡くなっていたんですね。もう若い人は誰も知らないでしょうが…。

 ニューミュージックにしろJ-POPSにしろ邦楽が厄介なのは、死んでもいいくらいという熱烈なファンがいることです。いつぞや、何かの拍子に、会社の先輩に「僕は、ユーミンとか中島みゆきとか、あまり好きじゃないんですよね」と言った途端、彼は烈火の如く怒りだし、「ファンに失礼じゃないか!」と常軌を逸した怒り方で、私も殺されるかと思いましたよ。

 前置きが長くなりましたが、今日は、昨日読破した河内春人著「倭の五王 王位継承と五世紀の東アジア」(中公新書、2018年1月25日)を取り上げます。古代史に興味を持っていることを知った会社の同僚の矢元君が貸してくれたのでした。2年前の本ですが、凄い本でした。小林秀雄の真似をすれば「頭をガツーンと殴られたような衝撃」でした。古代史は不明なことが多く、最後は推測するしかないので、この本もミステリー小説のように、「この先どうなるのだろう」とハラハラ、ドキドキしながら読めました。

 ただ、読後感がすっきりしないのは、結局、真相がまだ分からないせいかもしれません。倭の五王とは誰のことか、決定付けられないのです。しかし、逆にそれが古代史の醍醐味なのかもしれません。

 「倭の五王」とは、西暦421年から478年にかけて、中国南朝の「宋」に使者を派遣した讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)の5人の大和朝廷の大王のことです。当時はいまだに「天皇」の称号は使われていませんでしたが、讃は、第15代応神天皇か第16代仁徳天皇か第17代履中天皇、珍は、第18代反正天皇、済は、第19代允恭天皇、興は第20代安康天皇、武は第21代雄略天皇という説が有力です。5世紀の「宋書」夷蛮伝倭国条(そうじょ いばんでんわこくじょう)に書かれ、本書では頻繁に引用されます。

 「説が有力」と書いたのは、日本の唯一の原資料である「古事記」(712年)と「日本書紀」(720年)と照合すると、当該天皇と在位年代が合わず、矛盾を生じるからです。しかし、倭の五王から約300年後に書かれた記紀に登場する天皇についても、実在が不確かな天皇(欠史八代など)がいたり、「万世一系」となっていながらも、疑問の余地があると主張する学説(崇神天皇と応神天皇と継体天皇の三王朝交代説)もあり、話が一筋縄ではいかないのです。

 倭の五王が使者を送ったのは、宋から爵位を得るためでした。雄略天皇と見られる五王最後の武は、「使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」に任じられますが、その代わりに宋の皇帝に朝貢して冊封を受けるという形です。つまりは、宋の臣下になり、支配下に入ることで、宋皇帝の威信によってお墨付きを得ることです。(武=雄略天皇=ワカタケルとなると、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の鉄剣にワカタケルと刻まれていることから、雄略天皇のことを記述しているとされていましたが、著者は、武とワカタケルを同一人とするのは慎重に考えるべきだと主張してます)

 倭の五王は中国の臣下だったということで、天皇神聖絶対主義の国家主義体制を敷いていた戦前では、タブーであり、倭の五王研究は戦後になって本格化するのです。(中国の史料を使って日本で最初に研究したのは室町時代の禅僧・瑞渓周鳳=ずいけい・しゅうほう=1391~1473年で、その後、江戸時代の松下見林、新井白石、本居宣長らに引き継がれます)

 3世紀の邪馬台国から150年もの長い間、中国との交信が途絶えていたのに、5世紀になって急に倭の五王が中国に使者を送ることになったのは、当時の東アジアの国際情勢が背景にあります。朝鮮半島では高句麗、百済、新羅による覇権を争いが日本にも波及していたからです。大和朝廷は、朝鮮半島南部に鉄資源を確保するため任那や伽耶などを支配下に置き、百済と濃厚に結びつき、高句麗の南下攻撃で、百済の王子は日本に亡命したりしていました。中国南朝の宋は、北朝の北魏(鮮卑族)などと一触即発で対峙しており、朝鮮半島を味方につける戦略があったのでした。

 結局、宋は、高句麗を開府儀同三司(府を開く際にその儀を宰相の地位と同じくする)という最高の待遇を任じます。一方の倭は、この開府儀同三司に任じられることなく格下に甘んじることになりますが、479年の宋滅亡後は、倭は遣使を送らなくなります。

 ところで、倭の五王の名前は、何で一文字なのか気になっていたのですが、同書によると、百済の影響のようです。高句麗の長寿王は、宋に対して、高璉と名乗りましたが、姓の「高」は高句麗から取ったといわれます。百済の腆支王は餘映で、姓の「餘」は「扶余(餘)族」を標榜したことからと言われます。名の「映」は中国側の腆の書き誤りとも言われています。本当は、扶餘族は高句麗の出自で、百済とは関係ないとも言われていますが、対抗措置としてそう標榜したと言われています。

 これにより、日本の5世紀の五王の姓は「倭」ですが、名前を讃・珍・済・興・武と一文字に名乗ったわけです。本書で初めて知りました。しかも、いずれも「好字」と呼ばれる良い意味を持つ漢字を使ってます。3世紀の「邪馬台国」とか「卑弥呼」の「邪」と「卑」は、好字ではなかったことと比べると違いが分かる、という著者の指摘には目を見開かされました。

 本書では、もっともっと複雑なことが書かれています。ここまで分かりやすく書くのに大変苦労しました、と書き添えておきます(笑)。本の帯には「1600年前の『日本』の国家とは」と書かれています。宋は今の中華人民共和国、高句麗は今の北朝鮮、百済、新羅は今の韓国ですから、東アジアの国際情勢は、1600年経っても全く変わらないことが、これでよく分かるのです。

 

「渡来系移住民」とは何か少し分かりました

 吉村武彦ほか編著「渡来系移住民」(岩波書店)を読破しました。考古学と古代史が専門の5人の学者の論文です。中には大学の紀要論文を読んでいるような趣もあり、一般向けにしては結構難しかったでしたが、「古代史の現代最新知識」がよく分かりました。

 半年も経てば、内容はすっかり忘れてしまうことでしょうから(笑)、加筆しながら備忘録として書いておきます。

 ・5世紀の「宋書」倭国伝に「讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)」の倭五王の名前が見られる。彼らは宋に方物を献ずる代わりに皇帝から称号を得る。例えば、この五王最後の武王ことワカタケルは雄略天皇のことだが、彼は478年に「使持節(しじせつ)、都督倭(ととくわ)、新羅、任那、加羅、秦韓(しんかん)、慕韓(ぼかん)六国諸軍事・安東大将軍・倭王」に任じられた。(吉村武彦氏、33ページ)☞これは、宋にとって朝鮮半島は勢力範囲ではないため、倭に、朝鮮半島の支配を黙認していたということなのか?

 ・朝鮮半島の人たちが日本列島に渡ってくる大きな要因には、その時代の半島での政治的情勢があった。例えば、475年に百済が高句麗との戦いに敗れ、漢城(今のソウル)が陥落した時。532年に金官(任那)加耶、562年に大加耶、660年に百済がそれそれ滅亡した時。さらに、663年の白村江の戦い(倭・百済復興軍が唐・新羅連合軍に敗れる)、668年の高句麗滅亡、そこから676年にかけての唐と新羅との戦いなど。(亀田修一氏、320ページなど)

出雲大社

・遣外使節のメンバーには渡来系の者が多く見られる。例えば、608年の遣隋使で名前の分かる使節員や通訳、留学生など11人をみると、大使の小野妹子を除く実に10人が渡来系氏族出身者だった。ところが、時代が下ると渡来系の割合が減少する。608年の遣隋使から約200年後の804年の遣唐使は、実名の分かる20人近くの入唐者のうち渡来系はわずか4人しかいない。(田中史生氏、239ページ)

 ・越前三国(みくに)にいた男大迹王(をほどおう)は、武烈天皇の後の皇位継承者として迎えられたが、すぐには承知しないで、渡来系の河内首馬飼荒籠(かわちのおびと うまかい あらこ)の使者を通じで情勢を確認し、507年、樟葉(くずは)宮(現大阪府枚方市楠葉)で即位(継体天皇)し、荒籠を重用した。(千賀久氏、128ページなど)

 ・「日本書記」継体天皇21年(527年)条に大規模な反乱を起こした人物として「筑紫国造磐井」が登場する(磐井の乱)。福岡県八女市にある前方後円墳「岩戸山古墳」が磐井の墓と推測される。磐井は新羅人を勢力につけてヤマト王権を倒そうと目論んだ。(亀田修一氏、154ページなど)

 ・542年に百済に派遣された紀臣奈率弥麻沙(きの おみ なそつ みまさ)と物部連奈率用奇多(もののべの むらじ なそつ ようがた)は、「奈率(なそつ)」という百済第6位の官位を持っていた。(紀臣奈率弥麻沙は、倭系官人と現地の女性との間に生まれた二世だったといわれる)このほか、543年に派遣された物部施徳麻奇牟(もののべの せとく まがむ)は「施徳(せとく)」(第8位)、553年の上部徳率科野次酒(しょうほう とくそつ しなのの ししゅ)が「徳率(とくそつ)」(第4位)である。明らかに倭国の氏と姓を称しながら、百済の官位を使っていた。冠位十二階は604年だから、まだ実施されていない。(吉村武彦、55ページ)

 ・武蔵国高麗郡(現埼玉県日高市、飯能市)は「続日本紀」によると、716年(霊亀2年)5月、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7国の高句麗人1799人を移して建郡された。758年(天平宝字2年)には新羅人をうつして武蔵国新羅郡(現埼玉県新座市、志木市、和光市)が建郡された。(田中史生氏、260ページなど)

・これまでの古代史は、遣唐使史観が中心だった。そこであまり注目されてこなかった飛鳥・奈良時代における統一新羅との活発な交流を見直すべきではないか。例えば、672年から701年まで唐と日本の間で外交交渉すら全くなかった一方、新羅と日本の間には高句麗が滅亡する668年から最後の新羅使が派遣される779年まで、新羅から47回、日本から25回の使節が往来した。それに対して、遣唐使は260年間で長安に到達できたのはわずか13回で、全員が帰国できたのはただ1回しかない。(朴天秀氏、283ページなど)

 ・「帰化」とは古代においては、華夷・中華思想(漢民族の華夏が世界の中心で、周囲諸国は遅れた夷狄=東夷、西戎、南蛮、北狄=である)と密接な関係にあった。古代中国では、皇帝の教化が直接行き届く範囲を「化内(けない)」の文明世界とみなし、その外側には「化外(けがい)」の野蛮世界が広がるとして、国家の内と外を区別した。そして文明世界の頂点に君臨する中華皇帝のもとに、その威徳を慕って「化外」から未開の諸民族が集い来ると考えた。彼らが皇帝の民となることを望むと、これを「帰化」と呼び、皇帝は儒教的精神のもと哀れみをもってこれを受け入れ「化内」に編入した。(田中史生氏、205ページなど)

 キリがないのでこの辺で。

渡来系移住民について考える

 新型コロナの感染拡大で、東京、そして神奈川、千葉、埼玉といった首都圏の行政の長が次ぎ次ぎと週末の「外出自粛」を要請しました。行政の長は、コロナウイルスがオーバーシュートして、さらなるクラスターもエンラージし、このまま何もしなければロックダウンを招くようなアージェントイッシューになっている、などと懇切丁寧に説明してくださいました。

 有難う御座いました。

 29日(日)の関東地方は珍しく大雪。自宅を出られなければ、良識のある大人は、本を読むしかありません。私は3世紀から8世紀にかけての日本の古代に時間旅行することにしました。2860円と少し高かったのですが、吉村武彦編・著「渡来系移住民」(岩波書店、2020年3月17日初版)を思い切って購入しました。新聞の広告に出ていたのですが、一読しただけで、「新しく分かってきた歴史の実像を知ることの興奮と喜び」(「刊行にあたって」より)を感じることができました。

 まず、本の題名のことですが、半島や大陸から来日してきた人を「古事記」では「帰化」、「日本書紀」では「渡来」の用語が使われています。しかし、帰化とはいっても、永住せず、途中で帰ったり、再来日したりする者がいたり、渡来といっても、そのまま居ついてしまう永住者がいたりしたといいます。ということで、本書では彼らのことをひっくるめて「渡来系移住民」と呼ぶことを提唱しています。

 彼らの代表的な集団は、東漢氏です。「やまとのあや」氏と読みます。古代史に詳しい人以外は読めないでしょう、と吉村氏は書いてますが、私は 、古典的名著である上田正昭氏の「帰化人 古代国家の成立をめぐって」(中公新書)などを読んでいたので、読めました。 645年の大化の改新の火ぶたを切った乙巳の変で、蘇我入鹿(いるか)の暗殺後にその父蝦夷(えみし)らを護衛したのが東漢氏でした。蘇我氏との関係が深かったのです。

 また、平安初期の征夷大将軍の坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)も、渡来系移住民である東漢氏でした。田村麻呂の父である苅田麻呂の上表文によると、坂上氏は「後漢の霊帝の曾孫の後裔」と称し、半島の帯方郡を経て列島に帰化したといいます。東漢氏は半島から渡来してきたので、私は、朝鮮系かと間違って覚えていました。漢民族は、楽浪郡(紀元前108年、現在の平壌付近)や帯方郡(2世紀末から3世紀初め)などを朝鮮半島に直轄地として置いていたことを忘れていました。(ただし、彼らがそう主張しているだけで、東漢氏は朝鮮系である可能性も残されています)

 同じように、本書では書いていませんでしたが、渡来系移住民である西漢(かわちのあや)氏も漢民族かもしれません。ちなみに、「東」と「西」は、生駒山脈の東を大和、西を河内と呼んだからだろう、と著者の吉村明大名誉教授は説明しています。

 もう一つ、応神紀に伝承する有力な渡来系移住民は秦氏です。「はた」と読みます。日本書紀では、弓月君(ゆづきのきみ)が百済から渡来し、秦氏の祖となったとされていますが、後に「太秦」(うずまさ)と名乗る秦氏は「秦始皇帝の三世の孫、孝武王より出ず」 (「新撰勢姓氏録」) と主張しています。この点について、吉村氏は、確かな資料がないので推測するしかない、としながらも、中国の秦(しん)と関係した人が含まれていた可能性は皆無ではない、と微妙な書き方をしています。となると、逆に、秦氏は、中国とは関係なく、朝鮮半島の百済人が自称した可能性もあるということです。渡来系のほとんどが何らかの職能技術集団ですから、秦氏は、機織りの機(はた)から来ているのではないか、という説がありますが、こちらは確かでしょう。

 秦氏、または太秦氏は、山城(京都)を地場に活動を広げた渡来系移住民で、太秦にある弥勒菩薩像で有名な広隆寺は秦氏の氏寺で、嵐山近くに秦氏の古墳もあります。京都に平安京を遷都した桓武天皇の生母である高野新笠(たかののにいがさ)は、「百済の武寧王の子純陀太子(じゅんだたいし)より出づ」(「続日本紀」)と紹介されていることから、百済人脈の流れで、桓武天皇が京都に遷都された可能性も否定できません。

 ちなみに、祇園祭で有名な八坂神社も、 幕末まで感神院、または祇園社と称し、諸説あるものの、斉明天皇2年(656年)に高句麗から来朝した使節の伊利之(いりし) が創建したといわれています。八坂神社の祭神の一人は素戔嗚尊ですが、梅原猛説では、スサノオは新羅系を取っていました。スサノオは出雲の神とはいえ、京都も半島からの影響が強かったことになります。

 渡来系技術者集団は、その職種によって、陶部(すえつくりべ)、鞍部(くらつくりべ)、画部(えかきべ)などと呼ばれました。また、5世紀になって河内で馬の生産が盛んに行われるようになり、彼ら「典馬(うまかい)は新羅人」(「日本書紀」)とされています。渡来した馬飼(うまかい)人は、恐らく、馬だけでなく、同時に鉄器も日本列島に伝えたのだろう、と私は思います。なぜなら、先日のブログ「古代史が書き換えられるアイアンロード」にも書きましたが、スキタイ人が馬の口の中に嵌める「鉄のはみ」を発明して、野生馬を自由に御すことによって、長距離の「移動革命」を成し遂げたからです。 馬と鉄のはみは、その後、匈奴と漢に伝わり、それが朝鮮半島を通って、日本列島に伝えられたことは間違いないでしょう。もちろん、農具や武器をつくる製鉄技術も同時に入ってきたと思います。

 このように、現代人が想像する以上に、渡来系移住民と日本列島との関係が濃厚だったことが分かります。

(つづく)

日本神話の神々は皇族、豪族の祖先神でした=武光誠著「『日本書紀』に描かれた国譲りの真実 成立1300年、『出雲』と『大和』」

  梅原猛著「葬られた王朝ー古代出雲の謎を解くー」(新潮文庫) があまりにも面白かったので、友人の榊原君に話したら、彼は「それならこれも読んだら?」と本を貸してくれました。

 それが、この武光誠著「『日本書紀』に描かれた国譲りの真実 成立1300年、『出雲』と『大和』」(宝島社新書、2019年12月23日初版)でした。

著者の武光氏は、東大で博士号を取得した元明治学院大学教授。日本古代史のオーソリティーです。読み応えがありました。

 「古事記」も「日本書紀」も、神話と呼ばれている部分は、かつては、根も葉もない荒唐無稽の創作物だと言われていましたが、やはり、そうじゃなかったんですね。根拠がありました。

 著者の武光氏によると、縄文人は「精霊崇拝」でしたが、紀元前1000年頃に朝鮮半島南端から稲作の技術が伝わったことにより弥生時代が始まります。この時に、日本特有の「祖霊信仰」が始まったと言われます。

 弥生時代は、稲作技術とほぼ同時に鉄器も伝わったのではないかと思います。となると、馬の「鉄のはみ」を発明したスキタイ人から匈奴や漢にも伝わった騎馬技術も騎馬民族もやってきたかもしれません。集団作業が必要とされる農業は、集団から氏族、豪族へと発展し、水利や領地争いなどにも発展したことでしょう。大陸や半島から技術を伝えた帰化人は、高官として優遇されたことでしょう。

 いずれにせよ、人口200人程度の村が集まって、2000人程度の小国がつくられ、弥生中期には、祖霊信仰による神は、国と呼ばれた土地を守る「国魂」(くにたま)とされます。「日本書紀」の神話に見られる天皇や貴族、地方豪族の神とされる神の多くは、国魂信仰の流れをひく神と言われています。

 となると、神話に出てくる神々は、皇族や豪族の祖先神だと分かれば、理解が早まりますね。

八坂神社 Copyright par Kyoraque-sensei

 まず、誰でも知っている通り、王家(皇族)の祖先神は、天照大神です。

 出雲氏の祖先神は、天穂日命(アマノホヒノミコト=六世紀半ばに創作された天照大神の子神である天忍穂耳命アマノオシホミミノミコトの弟神)、素戔嗚尊(スサノオノミコト)、大国主命(オオクニヌシノミコト)らがいます。

 凡河内(おおしこうち)氏の祖先神は、天津彦根命(アマツヒコネノミコト=天穂日命の弟神)だと言われています。

 中臣氏の祖先神は、天児屋根命(アマノコヤネノミコト=天岩戸神話に登場する祝詞を唱える神。日食の災いをしずめたといわれる)です。※中臣氏主導でまとめられた伝承は、素戔嗚尊と大国主命の出雲での活躍を省いたものがあった可能性は高い(102ページ)。

出雲大社

 ・素戔嗚尊の三柱の子神(五十猛神イタケルノカミ、大屋津姫命オオヤツヒメノミコト、枛津姫命ツマツヒメノミコト)は各地に木の種子を広めた。古代紀伊国は、木材が豊富で良質な船の産地として知られ、そこには大和朝廷の水軍として朝鮮半島とをしきりに行き来した航海民の紀氏がいた。紀伊の須佐神社は、素戔嗚尊を祀り、伊太祁曽(いたきそ)神社は五十猛神を祀る神社で、紀氏と関連する神社であったと考えられる(124ページなど)

・1世紀半ばの荒神谷遺跡の時代、神門氏が出雲全体の国魂である大国主命の祭祀の指導者で、神門氏の分家筋の出雲氏はその補佐役に過ぎなかった。出雲氏は素戔嗚尊を土地の神として祀っていた。ところが、4世紀半ばに、出雲氏が大和朝廷の後援で大国主命の祭祀を主宰するようになり、神門氏は出雲氏の補佐役となった。(126ページなど)

・王家は3世紀初めに三輪山の麓に広大な纏向(まきむく)遺跡を開発して大和朝廷を起こした。吉備(岡山県東部)から移住してきた集団が大和朝廷を開いた可能性が高いが、彼らは大和に来る以前から出雲の国魂信仰を取り入れていたと考えられる。三輪山の神を祭る大神(おおみわ)神社の祭神である大物主神(オオモノヌシノカミ)は、大和朝廷の王家が祀ってきた王家の祖先神であった。「日本書紀」では大物主神を大国主命と同一神としている。(138ページなど)

出雲大社

・6世紀初めに王位についた継体天皇は、有力豪族を大臣(おおおみ)や大連(おおむらじ)の地位につけ、財政関連を蘇我氏に、祭祀関連を中臣氏に、軍事関連を大伴氏に分担させた。また、継体天皇は王家の首長霊の神を大物主神から天照大神に代える思い切った改革に踏み切った(144ページなど)

・さらに継体天皇の主導で、神武天皇東征伝説も創作された。継体天皇は、大伴金村と物部麁鹿火(もののべのあらかい)の有力豪族の支援で大王になった。神話では、後に初代の大王磐余彦(神武天皇)となる彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)が降臨する前に、高天原から物部氏の祖先の饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が大和に降って、大和の一部を統一。その後、彦火火出見尊が、大伴氏の祖先である道臣命(ミチオミノミコト)を従えて降ってきた、と大伴氏と物部氏の活躍で大和朝廷が統一されたことになった。(196ページ)  

・中臣氏は、渡来人が伝えたモンゴル高原の騎馬民族の天上他界観に基づいて「高天原」という天の上の世界を構想した。この時、自分たちの祖先神を「天つ神」の中の天児屋根命だとし、「国譲り」神話を完成させた。

・「国譲り」で、大国主命が「顕」の世界から「幽」の世界に去った後、天照大神の孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が地上に君臨して「顕」の世界を治めることになった。この天孫の子孫が「日本書紀」の時代の人々の「現代」にあたる「奈良時代」の天皇である。

以上、大雑把に言うとこんなことが書かれていました。梅原猛説では、「古事記」も「日本書紀」も主導してまとめたのは中臣鎌足の子である藤原不比等でしたから、当然ながら、中臣氏の祖先神はかなり活躍して格上の神として描かれていたわけです。

神話に出てくる祖先神の末裔である大伴氏も物部氏も蘇我氏も忌部氏も紀氏ら全て排斥されるか没落してしまい、王家(天皇)以外は、中臣=藤原氏だけが、ただ一つ生き残るわけですから、神話といえども凄まじい話であることは確かです。

1300年前の「日本書紀」は今でも生きています。

古代日本をつくったのは藤原不比等だったのかも=梅原猛著「葬られた王朝ー古代出雲の謎を解くー」を読んで

出雲大社

 大手出版社の大河内氏から贈呈して頂いた梅原猛著「葬られた王朝ー古代出雲の謎を解くー」(新潮文庫)を読了していたので、この本を取り上げるのは、これで3回目ですが、改めて取り上げさせて頂きたく存じます。

 大雑把に言いまして、私なりの解釈では、古代の日本は、群雄割拠の豪族社会で、その最大級がスサノオ系の出雲王国と天孫系の大和王朝だったことです。出雲は、朝鮮の新羅と高句麗からの渡来人が農業や最新医療を伝え、影響が強かった。一方のヤマトは、朝鮮の百済系(秦氏など)の影響が強かった。

 最初は、出雲が大和や近畿まで制圧して一大王国を築き上げましたが、オオクニヌシの後継者争いの内紛につけこんだ大和が勢いを増して、出雲を「国譲り」の形で征服して全国統一を果たす。

 「古事記」「日本書紀」は、天孫系の大和朝廷の正統性を伝える書で、国の成り立ちを神話の形で暗示しましたが、その神々は、実在の豪族をモデルにした可能性が高い。両書は、出雲王国の神話も取り入れていますが、記紀の最高編集責任者は、実は大和朝廷の礎をつくった藤原不比等だったというのが梅原説です。それによると、「古事記」を太安万侶(その父、多品治=おおのしなじ=は壬申の乱で功績を挙げた渡来人だった)に口承して語ったと言われる稗田阿礼は、アメノウズメの子孫で、誰一人として五位以上になったことがない猨女(さるめ)氏出身だったという説もありますが、全く謎の人物で、梅原氏は、稗田阿礼は、藤原不比等ではないかと主張しています。

 梅原氏は、144ページなどにはこう書いています。

 出雲のオオクニヌシ王国を滅ぼしたのは、物部氏の祖先神であるという説がある。その点について、はっきりしたことは言えないが、「古事記」では国譲りの使者はアメノトリフネを副えたタケミカヅチであるのに対して、「日本書紀」では主なる使者は物部の神を思わせるフツヌシであり、タケミカヅチは副使者にすぎない。「出雲風土記」にも、ところどころにフツヌシの話が語られているのをみると、出雲王国を滅ぼしたのは、ニニギ一族より一足先にこの国にやって来た物部氏の祖先神かもしれない。

出雲大社

 そうですか。出雲を征服した先兵は物部氏でしたか。ちなみに、フツヌシを祀っていたのは香取神宮ということで、物部氏は今の千葉県香取市の豪族か神官だったかもしれません。タケミカヅチを祀っているのは鹿嶋神宮で、タケミカヅチは、今の茨城県鹿嶋市から神鹿に乗って大和にやって来て、藤原氏の興福寺や春日大社に祀られるようになったと言い伝えがあります。つまり、鹿嶋神宮の神官だった中臣氏が、出雲王国の征服で一翼を担い、大化の改新では、蘇我氏を滅ぼして、中臣鎌足が藤原姓を賜って異例の出世を遂げた史実を、記紀は暗示したかったかもしれません。

出雲大社

 梅原氏は295ページでこう書きます。

 中臣氏はどんなに贔屓目に見ても、せいぜい舒明朝の御世に朝廷に仕えた中臣御食子(みけこ)の時代に初めて歴史に姿を現したにすぎない。(乙巳の変後)天才政治家、藤原鎌足が現れ、一挙に成り上がった氏族なのである。そのような氏族がアマテラスの石屋戸隠れ及び天孫降臨の時に活躍するはずがない。これは明らかに、神話偽造、歴史偽造と言わざるを得まい。

 厳しい言い方ですが、石屋戸に隠れたアマテラスを引き出す妙案を考えたのはオモイカネで、藤原氏の祖神とされているからです。中臣=藤原氏は、この時に活躍したフトダマを祖神に持ち、(現実世界では)宮廷の神事を司っていた忌部氏を排斥して、天智帝の下で神事を独占するわけです。

 こうして、藤原氏は天皇の外戚の地位を独占して政をし、近現代の近衛氏に至るまで1300年以上も日本の歴史に影響を与え続けます。その礎を創った藤原鎌足と、律令制を確立し、史書までつくった藤原不比等の功績は図抜けています。特に、不比等は、実務、実働部隊の最高責任者なのに記紀の編纂者として明記せず、黒子に徹した辺りは、まるで「黒幕」のようです。恐らく、不比等は、父鎌足の代で急に成り上がった氏族であることを骨身に染みて分かっており、他の有力豪族からの嫉妬や、やっかみや 、反発や反抗を怖れて、「影武者」に成りきっていたのでしょう。

 このような梅原氏の説は、古代史学会では正式に認知されていないのかもしれませんが、面白い本でした。大河内さん、有難う御座いました。

 

古代史が書き換えられるアイアンロード=そして、デマ情報に騙されるな

 「世界史の概念が根底から覆されるよ」と言いながら、会社の同僚川本君が貸してくれたDVDは、今年1月に放送されたNHKスペシャル「アイアンロード~知られざる古代文明の道~」を録画したものでした。

 「随分、大袈裟だな」と半信半疑でしばらく放っておいて、時間が空いた週末に見てみると、これは吃驚。宇宙考古学と呼ばれる人工衛星からの探索で、ユーラシア大陸のアルタイ地域に鉄器文明で栄えたスキタイ人の古代遺跡や50以上の古墳が次々と見つかり、確かに、歴史的大発見!異様に興奮してしまいました。これでは古代史が変わります。

 人類が初めて鉄を生産する技術を獲得したのは、今のトルコのアナトリアに王国を建てたヒッタイト人です。紀元前17世紀前半にムルシリ1世が、バビロン第1王朝を滅ぼして古王国を樹立します。でも、最近になってその遥か昔の紀元前23世紀頃のカマン・カレホユック遺跡から世界最古の人工鉄(直径3センチ)が発掘されたのです。(中近東文化センター考古学研究所・大村幸弘所長ら)

 紀元前23世紀ですよ!今は紀元21世紀ですから、イエス・キリストの時代が随分、つい最近のことのように思えてきます。

 ヒッタイト王国は、鉄を武器に大国エジプト(ラムセス2世)と対等に戦って世界初の平和条約を結んだりしますが、隣国アッシリアなどの勢いに押され、紀元前12世紀に世界史から忽然と消えてしまいます。その後の鉄器文明は、前10世紀にコーカサス地方(ウクライナ・ビルスクヒルフォート遺跡)、前8世紀にはユーラシア・アルタイ地域に伝わり、スキタイ人が広大な領土を持った王国を築いていたことが最近になって遺跡発掘から分かりました。(愛媛大学アジア古代産業考古学研究センター長・村上恭通教授ら)これでは、古代史を書き換えるしかありませんね。

 スキタイ人は文字を持たなかったため、謎の民族で、同時代のギリシャの文献から「敵の血を飲む野蛮人」という扱いでしたが、実は高度な製鉄技術を持ち、短剣のほか、鉄で加工した黄金のネックレスなどもつくることができ、35キロの城壁に囲まれたアテネの4倍もの広大な首都を持った文明国だったことが、発掘調査から分かりました。

 スキタイ人は、馬の口の中に嵌める「鉄のはみ」を発明して、野生馬を自由に御すことによって、長距離の「移動革命」を成し遂げ、広大な領地を広げ、騎馬軍団で、ギリシャやペルシャ帝国を撃退しました。(スキタイ人はイラン系遊牧民という説があり、ペルシャ帝国はイランですから、今後の民族的研究も俟たれます)

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 このスキタイ人の製鉄技術を受け継いだのが、モンゴル地方の遊牧民だった匈奴です。匈奴の侵攻に度々悩まされた秦など古代中国は、万里の長城を築きます。中国の史書では、敵の匈奴は、野蛮で狂暴で悪者扱いですが、実は、高度の製鉄技術を持った文明国で、特に、鎧を打ち抜くほど強力な「鉄の矢じり」を発明して、匈奴の単于(ぜんう=君主)冒頓(ぼくとつ)は、漢の高祖劉邦を苦しめます(紀元前200年の白登山の戦い)。

 ヒッタイト人からコーカサス~アルタイのスキタイ人、そしてモンゴルの匈奴、さらに南下して中国の漢(特に、鉄が農具に使われ農業革命を起こす)にも伝わった製鉄技術は「アイアン・ロード」と命名されます。今のトルコから最後は日本列島(弥生時代)にまで到達するわけです。あのシルクロードより遥かに古いのです。

 いやあ、凄いドキュメンタリーでした。

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 さて、話は少しだけ変わります(笑)。新型コロナウイルスの感染は、ついに世界的な大流行(パンデミック)になりましたが、3月13日付読売新聞に掲載された「世界動かしてきた感染症 『パンデミック』も運んだ交易」と題した山崎貴史編集委員の記事は実に興味深く拝読させて頂きました。

 特に、「感染症は人の移動や交易の活発化で拡大した」という世界史的分析は秀逸でした。例えば、グローバリズムは今に始まったわけではなく、5~8世紀は、シルクロードを経由して交易が国境を越えて大いに盛んとなり、その間にインドが起源とみられる天然痘が西は中東、欧州へ、東は日本にまで拡大します。この記事には詳しく書かれていませんでしたが、当時の日本の奈良時代、「古事記」「日本書紀」を編纂した中心人物と目され、絶大な権力を誇っていた藤原鎌足の次男不比等も、その子ども藤原四兄弟(武智麻呂=南家、房前=北家、宇合=式家、麻呂=京家 )も若くして病で亡くなっています。それは、天然痘だった説が有力です。ですから、私なんか「そうだったのか!」と相槌を打ってしまいました。

 また、14世紀には、欧州では人口の3分の1が死亡し、黒死病と恐れられたペストが大流行します。これは、中央アジアが発生源と言われ、モンゴル帝国が西へ拡大する中、伝わったと言われています。領土拡大の帝国主義と病気拡散はセットだったことが分かります。この黒死病による人口減で、欧州は農奴が急減し、中世の封建的身分制度が崩壊し、ペストを防げなかった教会の権威も失墜し、人々の意識に「国家」の概念が生まれ、近代的な主権国家の誕生に結び付くという分析も、目から鱗が落ちるようでした。つまり、パンデミックが社会を変革したのですからね。

 その点、現在のパンデミックは、貧富の格差拡大など社会の矛盾の現れなのかもしれません。果たして、この現在のパンデミックが、世界を変えるほどの社会変革をもたらすのか? 私自身は、デマ情報に惑わされず、パニックにならず、世界史的視野で、大いに注目していきたいと思っています。

出雲王朝の興亡=記紀神話は史実に近いのでは?

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

(昨日のつづき)

梅原猛著「葬られた王朝」の出雲の物語は続きます。

 スサノオと兄弟神から命を奪われるほどの煉獄を克服して、再生した(文字通り、何度も死んで甦った)オオクニヌシは、めでたく出雲という大国の王を継承します。オオクニヌシはそれだけでは満足せず、越の国を征服しに行きます。 越の国とは、古代北陸地方の国名で、北陸道の越前(福井県)から越中(富山県)を経て、越後(新潟県)に至る広大な領域で、古志、高志とも書かれました。 ここでは、呪力を持つと言われる翡翠(ひすい)が採れ、三種の神器の一つである勾玉などになりました。「越は、縄文時代以来、大いに栄えていたに違いない。…出雲は長い間、越の支配を免れなかった」と梅原氏も書きます。となると、越の被支配国だった出雲が、逆に越を征服したことになりますね。

 出雲による越の征服は、古事記では、一種の恋物語として描かれています。

 すなわち、八千矛神(やちほこのかみ)、すなわち大国主神が、越の国の沼河比売(ぬなかわひめ)に求婚して結ばれるという話です。二人の間に生まれた子どもが、「国譲り」の際に最後まで抵抗して、ついに諏訪に追いやられ、諏訪神社の祭神となったタケミナカタだったといいます。(103ページなど)

 越を征服して日本海側に広大な王国を築き上げたオオクニヌシは、今度はヤマト征服を目論みます。ところが、出雲がヤマトとどのように戦ったか、「古事記」にも「日本書紀」に書かれていないので分からないといいます。

 しかし、その戦いは幾多の困難があったにせよ、オオクニヌシの大勝利に終わったことはほぼ間違いないと思われる。関西周辺の地域には、オオクニヌシおよび彼の子たちを祀る神社や「出雲」の名前を伝える場所がはなはだ多い。例えば、オオクニヌシと同神といわれるオオモノヌシを祀った大神(おおみわ)神社(奈良県桜井市)、オオクニヌシの子コトシロヌシを祀った河俣神社(奈良県橿原=かしはら=市)、同じく子アヂスキヤカヒコネを祀った高鴨(たかかも)神社(奈良県御所=ごせ=市)など、ヤマトにある古社はほとんど出雲系の神を祀った神社であると言ってよかろう。また、京都、すなわち山城の亀岡には出雲大神宮という神社があり、それは実に丹波国の一之宮の神として信仰されてきた。…そういえば、京都には出雲路というところもある。…こう考えると、古くはヤマトも山城も出雲族の支配下にあり、この地に多くの出雲人が住んでいたとみるのが最も自然であろう。(110ページなど)

 そうでしたか。(ただし、記紀には書かれていないので、あくまでも、梅原氏の説です)

出雲大社

 オオクニヌシはこのように広大になった出雲王国を、朝鮮から渡来してきたといわれるスクナヒコナとともに治めることにします。スクナヒコナは、最先端の医療技術と酒の醸造法などを日本に伝えたといいます。スクナヒコナは、国造りが一段落したところで何処ともなく去っていきます。その時を同じくして、国造りを手助けをする神が現れます。その神はオオモノヌシといいました。あれっ?さっきの話では、オオモノヌシはオオクニヌシの同神ではなかったでしたっけ?

 日本書記では、オオクニヌシがオオモノヌシに「あなたは誰か」と尋ねると、オオモノヌシは「私はあなたの幸魂奇魂(さきみたま・くしみたま)である」と答えたといいます。「私の魂とあなたの魂は同じである。あなたの最も美しい魂のみを持っている」という意味なのだそうです。同神とはそういうことでしたか。

  ということで、出雲王国はオオクニヌシの下で大きな繁栄を遂げます。しかし、次第に崩壊の道に進みます。その理由については記紀には記されていませんが、梅原氏は、オオクニヌシにはたくさんの子どもがいたので、後継者争いを巡る内部分裂が原因だったのではないかと推測しています。

 この内乱につけこまれて、最後は「国譲り」の形で、出雲はヤマトに征服されたということなんでしょう。

 私は2017年12月11日付の渓流斎ブログで「『出雲を原郷とする人たち』には驚きの連続」と題して、出雲の不思議を色々と書き連ねています。そのうちのいくつかを少し表現を変えて再録しますとー。

なぜ、これほどの文化が出雲に栄えたのかといいますと、天皇族の大和の文化が百済から瀬戸内海を通ってきたのに対して、新羅や高句麗を通して日本海ルートで出雲に入ってくる文化があったからだといいます。

◇武蔵国には出雲伊波比神社と出雲乃伊波比神社の2社が

 武蔵国には、出雲から最も離れた所に、二つの出雲系直轄とも言うべき神社が今でもあるといいます。それは、入間郡(埼玉県毛呂山町)の出雲伊波比(いわい)神社と男衾郡(埼玉県寄居町)の出雲乃伊波比神社の2社です。

また、武蔵国の東部にも出雲系の神社が多く、それは氷川神社、久伊豆神社、鷲宮神社群だといいます。埼玉県神社庁によりますと、氷川神社は284社(埼玉県204社、東京都77社、神奈川県3社)、久伊豆神社は54社(全て埼玉県)、鷲宮神社は100社(埼玉県60社、東京40社)に上るといいます。

◇氷川は出雲の斐伊川が由来

この中で、私が特に取り上げたいと思う神社は、足立郡式内氷川神社です。この神社について、文政11年(1828年)の「新編武蔵国風土記稿」には「出雲国氷の川上に鎮座せる杵築大社をうつし祀りし故、氷川神社の神号を賜れり」と記されています。この「氷の川」は古事記で「肥河」(ひのかは)、日本書紀では「簸川」(ひかは)とも書かれた斐伊川のことで、これが氷川神社の社名の由来になったといいます。なるほど。これで、やっと長年の疑問が氷解しました。

大国主命

以上、再録しました。出雲から諏訪に逃れたオオクニヌシの子のタケミナカタが祭神として諏訪神社に祀られたことを梅原氏の本で教えられましたが、このほか、武蔵国まで逃れた出雲の人たちもいたということになります。

 その一方で、梅原氏の説では、出雲が内乱でヤマトに征服される前の最盛期に、強大な出雲王国の方がヤマトを征服していた。その証拠に、大和の各地には出雲系の古社がある、というわけです。

 うーん、どうも、神話は、全くでたらめのフィクションではなく、史実に近いことを書いていたことになりますね。