「出雲を原郷とする人たち」には驚きの連続

岡本雅享著「出雲を原郷とする人たち」(藤原書店)が昨年11月に出版された時、すぐ読みたかったのですが、定価が3024円とちと高く、しばらく手が出なかったのですが、最近になって、やっと読めるようになりました。

2011年4月から16年1月まで「山陰中央新報」という地方紙に連載されていたものを単行本化したらしいのですが、レベルが高い。あまりにもの学術的、専門的過ぎて、小生のような浅学非才な人間にとっては難し過ぎて、通読できませんでした。

◇全国に移住する出雲の氏族

それでも、興味がある箇所だけは読みました。タイトルにある通り、出雲(今の島根県)の民が、全国に散らばって移住し、その集落にしっかり出雲という地名や出雲の名前が付いた神社を創建して、ちゃっかりと痕跡を残しているという驚きの学術書というよりかルポルタージュに近いのです。

その範囲は、越前、加賀、能登の国から信濃、越後、武蔵、岩代の国、筑前、周防、伊予、讃岐、山城、播磨、壱岐…と、粗末な船か歩くしかなかった古代の時代に、出雲の氏族たちはよくぞここまで踏破、制覇したものだと感服してしまいます。

出雲の国は、古事記や日本書紀では「国譲りの物語」として登場しますが、出雲の氏族は、そんな記紀が成立するはるか昔から全国に移動していたと言われています。

ということは、天皇族=大和政権が強大な権力を握る前に、彼らは出雲地方だけではなく全国的に制覇していた強力な豪族だったことは間違いないでしょう。(古代は恐らく全国ネットワークがあまりなかったので中央集権とは違ったものだと思われますが)

◇百済から大和へ、新羅、高句麗から出雲へ

なぜ、これほどの文化が出雲に栄えたのかといいますと、著者は水野祐早稲田大学名誉教授の学説を引用して、百済から瀬戸内海を通ってきた大和への文化に対して、新羅や高句麗を通して日本海ルートで出雲に入ってくる文化があったからだといいます。恐らく、海流や潮の流れで、古代でも半島や大陸から出雲に流れ着くことは容易かったのでしょう。

そして「新羅と結びつく出雲文化は、さらに日本海を北上して能登半島から越の国に伝播していき、さらに信州へ、関東の北部に入って南下していった」といいます。そういう流れだったんですね。

大和朝廷が百済系との結びつきが高かったということは、桓武天皇の母高野新笠が百済系渡来人だったという史実(「続日本紀」)と一致しますね。

◇出雲大社は本来、杵築の大社

この本を読んで一番驚いたことは、古代は今の島根半島は地続きではなく、島だったということでした。そして、今の出雲大社は、本来、杵築の大社(きずきのおおやしろ)と呼ばれていて、出雲大社と改称されたのはつい最近、明治に入った1871年だったというのです。

また、古代に遡ると、律令時代に入ると、ほとんどの国造(くにのみやつこ)は政治権力を失いますが、出雲の国造(出雲だけは「こくそう」と読むらしい)だけは権力を保持し続けたようです。

この本は全て読み切れなかったので、今たまたま御縁のある「武蔵国」(今の埼玉、東京、神奈川辺り)編だけは熟読しましたが、これまた知らないことばかりでしたね。

◇武蔵国には出雲伊波比神社と出雲乃伊波比神社の2社が

武蔵国には、出雲から最も離れた所に、二つの出雲系直轄とも言うべき神社が今でもあるといいます。それは、入間郡(埼玉県毛呂山町)の出雲伊波比(いわい)神社と男衾郡(埼玉県寄居町)の出雲乃伊波比神社の2社です。

また、武蔵国の東部にも出雲系の神社が多く、それは氷川神社、久伊豆神社、鷲宮神社群だといいます。埼玉県神社庁によりますと、氷川神社は284社(埼玉県204社、東京都77社、神奈川県3社)、久伊豆神社は54社(全て埼玉県)、鷲宮神社は100社(埼玉県60社、東京40社)に上るといいます。

◇氷川は出雲の斐伊川が由来

この中で、私が特に取り上げたいと思う神社は、足立郡式内氷川神社です。この神社について、文政11年(1828年)の「新編武蔵国風土記稿」には「出雲国氷の川上に鎮座せる杵築大社をうつし祀りし故、氷川神社の神号を賜れり」と記されています。この「氷の川」は古事記で「肥河」(ひのかは)、日本書紀では「簸川」(ひかは)とも書かれた斐伊川のことで、これが氷川神社の社名の由来になったといいます。

なるほど。これで、やっと長年の疑問が氷解しました。

首都圏の神社仏閣を網羅するサイト「猫の足あと」を主宰する松長社長には必読書となることでしょう。

【追記】

京都の相国寺境内では、出雲集落の遺跡が発掘されています。

また、新羅の古都だった現韓国慶州市にある古墳(5世紀末〜6世紀前半)で、国引き神話が描く新羅と出雲と越(こし=福井、石川、富山、新潟)の繋がりを象徴するかのように、出雲石の勾玉と糸魚川産翡翠の勾玉が出土しているといいます。

現代人が想像する以上に、古代では交流が盛んだったということなのでしょう。

「猫の足あと」と武蔵国の歴史

埼玉県秩父郡長瀞町の宝登山神社

IT青年実業家の松長社長にはもう一つ顔がありまして、東京・首都圏の寺社仏閣の来歴などを網羅したサイト「猫の足あと」https://tesshow.jp/ を主宰・運営していることです。

主宰・運営とは、ご自分で週末になると、一人で野山を駆け巡って、手当たり次第に神社仏閣を訪れて、バチバチと生の写真を撮影したり、沿革を調べたり、要するに取材、執筆活動もされているということなのです。ですから、異様に首都圏の神社仏閣の歴史から現代に至るまで詳しいのです。

例えば、赤坂にある日枝神社の日枝(ひえ)は比叡山の比叡から来ているので、この神社はいわば天台宗系の神社だというのです。

千葉県習志野市などにある丹生神社は紀伊国(現和歌山県)の丹生都比売神社の祭神丹生比売命を勧請して創建されたことから、真言宗の高野山系の神社だというのです。

◇氷川神社は足立郡だけ

私が驚いたのは「氷川神社」(さいたま市大宮区)です。「武蔵一宮」と頭に付きますから、武蔵国(東京、埼玉、神奈川、茨城、千葉の一部)のナンバーワンの神社ですから、武蔵国内ならどこにでもあると思っていたら、「そうではありません。埼玉県内の昔の足立郡にしか氷川神社はありませんよ」と彼は自信満々に言うではありませんか。足で稼いだ情報ですからね。(ちなみに、彼の説によると氷川神社は、出雲からの移住者が創建したらしく、出雲の斐川から名前を取ったそうです。)

おっかしいなあ。私の実家は東京都東久留米市ですが、市内に確か二,三カ所は氷川神社と名の付く神社があり、実家の近くにもありました。ですから、埼玉、東京ならどこにでもあると思っていたのです。

それが、足立郡だけだったとは!

足立郡とは、武蔵国を南北に貫く領域で、今の京浜東北線が走る区域に近いと言われています。ですから、大宮や浦和や、東京都足立区や豊島区、練馬区辺りも入ります。この辺りに氷川神社が多いというのです。

足立郡の右隣りというと東側の南北連なる領域は埼玉郡で、埼玉の名前の由来になった行田市や越谷、春日部、岩槻が含まれ、この辺りは、久伊豆神社の系列が圧倒的に多いそうです。

武蔵国埼玉郡の右隣りの葛飾郡は、北の松伏町、三郷から、南は東京都葛飾区、千葉県浦安に至るまでカバーし、この辺りは圧倒的に香取神社の勢力下にあったといいます。昔の川の交易権なんかも香取神社が抑えていたそうです。

◇高麗郡は高句麗人、新座郡は新羅人の街だった

このほか、武蔵国高麗郡(後に入間郡、今の日高市など)は、716年に大和朝廷が高句麗からの渡来人を移住させたから、そう命名されたことは歴史的事実として知ってましたが、実家の東久留米に隣接する埼玉県新座市(平林寺で有名)は、昔は新座郡(和光市、志木市なども含む)と呼ばれ、758年に朝鮮半島の新羅からの渡来人を移住させたので、最初は新羅郡と言われていたんですね。

へー、全然知りませんでした。

古代は、どうしても、九州か、大和や京都、滋賀が中心ですから、学校では関東の古代や中世の歴史は全く教えてくれないので、自分で勉強するしかありません。

この年になって、まだまだ学ぶべきことが多いということです。

【追記】

これは、いつも電車の中で記憶でスマホで書いております。そのため、よく間違えることがあります。早速、「猫の足あと」の松長主宰から、御指摘がありました。

(引用)正確性を期しますと、
>>足立郡とは、(中略)ですから、大宮や浦和や、東京都足立区や豊島区、練馬区辺りも入ります。この辺りに氷川神社が多いというのです。
「ですから」以降は誤りではありますが..
豊島区は豊島郡、練馬区は豊島郡と多摩郡に編入されています。
豊島郡及び、多摩郡の北側は、「足立氏」の勢力が及んでいたということでしょうね。
当然ながら、多摩郡の南側には氷川神社がありません。
(豊島郡とは、北区・豊島区・文京区・板橋区・練馬区の右半分・新宿区・渋谷区あたりです)
ついでに付け足すと、葛飾郡は、江戸時代前期までは下総国です。(武蔵国ではありません)
江戸城下が人が密集して、江東区・墨田区近辺に人が住み着いてしまったから、武蔵国に編入されたのです。
その証拠に墨田川(昔はこちらが荒川だった)に架かっている橋はJR両国駅の両国橋です。武蔵と下総に架かる橋ですね。(引用終わり)

「正倉院展」見聞記

奈良・東大寺 Copyright par Saidaiji sensei

奈良の西大寺先生です。

◇宝物10件が初出陳

昨日は「正倉院展(〜13日まで)」を見てきました。パリからこちらに戻ってから、毎年見て来ていますが、今年の陳列58件の宝物のうち10件は、初出陳でした。

ご案内のように写真厳禁で撮れませんので「こうだ!ああだ!」と言えませんが、初出陳のうち、蠟ミツバチの巣から作った「﨟蜜(ろうみつ)」は興味を持って見てきました。

奈良公園 Copyright par Saidaiji sensei

◇薬品を工芸に使う

「正倉院展」で検索すれば写真が出てくると思いますが、今年の目玉の出陳品は、羊木﨟纈屏風(ひつぎろうけちびょうぶ)などに使われた宝物の薬品です。この薬品を使って、屏風の模様を描く材料に使われていたそうです。

1〜2センチ程度の形状で、お餅というか円盤のような形をしていました。トウヨウミツバチの巣を溶かし圧搾してつくるということです。
中国の古代の医書にも記されていて、正倉院でも「種々薬帳」に記載されていて、古代、薬を工芸の目的に使っていたのです。

このほか、緑色ガラスの「緑瑠璃十二曲長坏(みどり るりの じゅうにきょく ちょうはい)」は色鮮やかで、人だかりが多く、ちらっと見ることしかできませんでした。ウサギの模様が描かれているのですが、「ちらっと」ですから、よく確かめられませんでした(笑)。

奈良公園 Copyright par Saidaiji sensei

◇三軒茶屋ガルーダ博士の講釈聴きたい

「伎楽面 迦楼羅(ぎがくめん かるら)」も、初出陳で、中国・江南地方が源流と言われる「仮面舞踊劇」に使われたお面です。古代インドのガルーダ(霊鳥)に由来するという事で、三軒茶屋のガルーダ博士の講釈を伺いたいところでした。

京博の「国宝」も長蛇の列ですが、「正倉院展」も舞員御礼。入場制限がありそうなので、混雑しない時間はないかと調べてみたら、「平日の昼食時12時から1時半が空いている」という事でした。
確かに12時過ぎに行きましたが、スイスイ入場出来ましたね(笑)。
帰途、「東大寺」の大仏さんも久しぶりに見てきましたが、東大寺、奈良公園の紅葉はこれからでした。

青山城址~小倉城址~菅谷館跡~稲荷塚古墳

国指定史跡 小倉城趾

トランプ米大統領夫妻と安倍首相夫妻は昨晩、「渓流斎日乗」が予告した通り、東京・銀座のミシュランも推薦する超高級鉄板焼料理「うかい亭」で会食しましたね。

えっ?具体的な店名は書いてなかった?そりゃ、そうでしょう(笑)。「体制護持」「党広報機関紙」ですから、そこまで書きませんよ(笑)。

で、トランプ大統領と安倍首相は昼間は、埼玉県の名門で3年後の東京五輪会場にもなる霞が関カンツリー倶楽部でゴルフをなさってました。

私たちは、ちょうどその頃、好天に恵まれて、そのゴルフ場近くの山城にエッチラホッチラ登っておりました。

都内に本部がある「山城歩き同好会」に私も参加させてもらい、全部で6人が中世の城跡を散策しました。

東武東上線の終点小川町駅(これがかなり遠かった)から、バスで愛宕公園下まで(220円)行き、そこで迷っていたら、シトロエンに乗った地元の優しいおじさんが、わざわざ登山道の入り口まで案内してくれたのです。お名前も伺いませんでしたが、この方のおかげで、幸先良いスタートが切れました。

どうも有り難うございました。

昼なお暗い細くてきつい檜と杉の山道を辿って最初に着いた所が青山(割谷)城跡でした。詳細は上の看板をご参照ください(笑)。

室町時代から南北朝時代の15世紀、城主は不明ですが、関東管領扇谷(おおぎがやつ)上杉氏の家臣上田氏が有力と言われてます。

ここからまた、30分ほど狭い急な山道を歩いてやっとのことで辿り着いた所が、今回のハイライトの一つ、小倉(おぐら)城趾です。こちらも城主は不明で、戦国時代の後北条氏の家臣の遠山氏とも上田氏とも言われています。

ここは「国指定の史跡」として登録されていますから、絶対に一見の価値ありますね。とにかく素晴らしい。苦労して登ってきた甲斐がありました。

何でこんな山奥に城が建てられたのか不思議ですが、敵から逃れて下界を探訪するのにちょうどよかったのでしょう。また、城下を流れる槻川(つきがわ)から物資を運んだり、武蔵国原産の板碑の石材を運搬したりしていたらしいです。

ここは、中世から水運業が盛んだったようです。

この小倉城の特徴が上写真のような石の平積みです。まあ、石垣ですが、いかにも中世の城らしく、武蔵国の城で見られる平積み石はここだけだそうです。

この後、ハイキングコースにもなっている嵐山町の嵐山渓谷道を散策しました。

ここは、日比谷公園や明治神宮などを設計した本多静六博士が、京都の嵐山(あらしやま)に似ているということで、武蔵嵐山(らんざん)と名付けたらしく、大正時代あたりから観光資源になったようです。

東武東上線「武蔵嵐山」駅に近付くと、国道254線近くに「菅谷館跡」があります。ここは鎌倉時代の源頼朝の右腕と言われた畠山重忠の城跡だったそうです。

本郭のほかに、二の郭、三の郭、南郭、西郭などがあり、規模は小倉城より広い。実に立派な城跡です。

ここには県立嵐山史跡博物館もあります。

詳細は→ 菅谷館跡

室町末期から戦国時代は、山内上杉氏の内紛などで戦場になりました。

畠山重忠像

鎌倉武将畠山重忠は、埼玉県深谷市畠山出身なんだそうですが、意外にも埼玉県北部は、鎌倉武将を多く輩出しているんですね。

平家物語などに登場し、歌舞伎の題材にもなった熊谷直実の熊谷市出身が一番有名かもしれませんけど、木曽義仲は、源義賢の次男で、生まれは現在の埼玉県比企郡嵐山町の大蔵館だったというのです。父義賢が兄義朝(頼朝、義経の父)と対立して、義朝の長男義平に討たれ、義仲は信濃国木曽谷に逃れたことから、木曽義仲と呼ばれるようになったんですね。

時代が下って、関東管領扇谷上杉氏の家臣で、河越城、江戸城を築城した太田道灌は、小川町のずっと先の越生町出身と言われております。

「山城歩き同好会」の最後の締めは、これまた武蔵嵐山駅に近い「稲荷塚古墳」でした。

古代にこの地に古墳をつくるほどの有力な豪族が住んでいたわけで、古代から中世、近世と脈々と歴史が続いてきたことが分かります。

特に、一番初めに出てきた小川町は、重要文化財にも指定されている「細川紙」と呼ばれる和紙が有名ですが、これは、1300年前に渡来した高麗の人たちの製造技術が伝わってきたものだそうです。

詳細は→ 細川紙

恐らく、高麗人たちは、技能職人として、また土地の有力者として政治的発言権も持っていたのかもしれません。

万歩計を見ると、この日に歩いたのは、2万5000歩以上にも及びました。意外と知らなかった歴史散歩ができ、昨日は少し疲れましたが、非常に有意義な時間を過ごすことができました。

宝登山神社ご参拝(続 長瀞紀行)

宝登山神社本殿

9月3日(日)午後3時、埼玉県立自然博物館を後にして、宝登山(ほどさん)神社を目指して歩きました。

約2キロの旅程。結構歩きました(笑)。その途中で、名古屋にお住まいの篠田さんから急に電話がありました。

「渓流斎さん、北朝鮮が水爆実験やったの御存知ですか?」

「えっ?今、あたしは長瀞にいるもんで知りませんでした」

「そんなことだろうと思ってましたよ。3時半から記者会見があるようですよ」

「はあ、貴重な情報有難う御座いました」

宝登山神社二の鳥居

途中に踏切がありましたが、大変幸運なことに観光用のSL機関車を見ることができました。

というわけで、程なくして宝登山神社に着きました。

社伝によると、創建は景行天皇41年(西暦111年)というとてもとても古い神社でした。神武天皇らを祀っておりますが、特に防火守護の神様を祀っており、その御利益があるらしいです。

日本武尊を祀る祠

というのは、記紀にも書かれておりますが、景行天皇の皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の際、この辺りに立ち寄り、山頂に向かっていると巨犬が出てきて道案内をしたといいます。

その途中で猛火に遭い、日本武尊が難儀をしていると、巨犬が猛火の中に飛び込んで火を消し止め、そのおかげで、日本武尊は無事頂上へ登ることができたそうです。

この山は「火止(ほど)山」と呼ばれるようになり、時代が下って「宝登山」となったそうです。

また、巨犬は大山祇神の神犬であったことから、防火守護のため火産霊神として社殿が建てられ、このような立派な宝登山神社となったそうです。

宝登山神社本殿

本殿にはこのように、中国の「二十四孝」を題材に取った見事な彫刻を見ることができます。

関東首都圏の神社仏閣を紹介する松長会長主宰の「猫の足あと」には、どういうわけか、この宝登山神社について詳細情報がなかったので、僭越ながら、「渓流斎日乗」に紹介させて頂いた次第です。

家に帰って、北朝鮮の核実験のことが気になっていたので、ラジオの夕方のNHKニュースを聴いたところ、トップニュースは、「タッキー&翼さん、活動を一時休止」でした。

以上

【北朝鮮ミサイル関連】「白村江の戦い」がそんな戦争だったとは…

「戦争の日本古代史」

北朝鮮が今朝、ついに日本の領空を侵犯してミサイルを飛ばしました。

グアムを目指していたはずなのに、北海道ですか。世界最強の米国の怒りを怖れてのことでしょうけど、やはり、北朝鮮の真意は図りかねますね。

東アジア情勢で、最大の不安定要素は朝鮮半島であることは、今に始まったわけではありません。実は、東アジアに人類、いや霊長類が住み着き始めた古代から、何らかのいざこざ、闘争、紛争、戦争があったことを最近知りました。

今読んでいる倉本一宏著「戦争の古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入冠まで」(講談社現代新書)のことです。この本ほど、そんな東アジア情勢の歴史の謎を解き明かしてくれる本は、私は未だ嘗て読んだことはありませんでした。

実に面白い。目から鱗が落ちる逸話ばかり満載されてます。この3年、いや5年間に読んできた本の中で一番面白いと言っても過言ではありません!

古代史の中で私が最も興味があるのは、西暦663年の白村江の戦いなのですが、何で負けると分かっているようなあんな無謀な戦をしたのか後世の人間としては大変疑問に感じていました。

因みに、白村江の戦いとは、天智2年(663年)、百済の救援として出兵した倭・百済連合軍が、今の韓国忠清南道の白村江(いまだ、定説がないらしく、錦江河口から東津江河口までの間の海上が最有力)で、唐・新羅の連合軍に大敗を喫した戦争のことです。

 この本では、この白村江の戦いの一部始終からその戦後のことまで明らかにされ、あっと驚かされます。

 まず、無謀な戦について、後世の人間は単純にそう思うかもしれませんが、実は当時の最高支配者だった中大兄皇子と中臣鎌足が練りに練った深謀だったのではないか、と著者の倉本氏は大胆な仮説を立てます。

 つまり、「中大兄らの起こした」対唐・新羅戦争というのは、負けることが分かって参戦し、実際に大敗したことによって、国民(という概念は当時ないが)に対して、中央主権の軍事国家を作らなければ、周辺の大国から滅ぼされてしまうという危機感を煽り、全国統一することができたというのです。

しかも、日頃から倭王朝の言うことを聞かずに、土地の私有権を独占してきた地方豪族から徴兵したお陰で、大敗によって地方豪族の力が衰え、倭政権に刃向かうことをできないようにしたのではないか、と著者の倉本氏は大胆過ぎるほどの可能性を示唆するのです。

外敵を利用して結束を図るというやり方ですね。これは参った!

この本で非常に感心したことは、白村江の戦いの後の状況まで詳述してくれていることです。百済から亡命した人が、続々と日本にやって来て色んな地方の土地を充てがわれたりします。

(続日本記には、桓武天皇の母親が百済出身の高野新笠だったなどと書かれているように、半島からの渡来人は、高位高官から職能集団に至るまで現代人が想像するよりかなり多かったようです。その反対に、任那に日本府があったように、早い時期からかなりの倭人が半島に進出していたようです。)

また、白村江の戦いに敗れて唐に捕虜になった築紫の兵士が実に44年振りに帰国したという記述があることには驚かされました。

先の太平洋戦争では、グアム島の横井庄一さんが28年振り、比ルバング島の小野田少尉が29年振りに日本に帰国して、度肝を抜かされましたが、それよりも長く、古代に44年間も捕虜になって帰国した兵士がいたとは驚きです。しかも、古代人ですから、寿命だって60歳そこそこだったことでしょう。ただただ驚くばかりです。

まだまだ色々と書きたいのですが、古代の人の名前が随分と粋で通好みなので笑ってしまいました。教科書にも載っている遣隋使の小野妹子の曽孫が、後に新羅使や渤海使になりますが、その名前が小野田守、つまりタモリさんなんです(笑)。

蘇我馬子や入鹿、蝦夷も随分変わった名前だと思ってましたが、例えば、第一次百済救援軍の将軍として、物部熊(もののべのくま)、阿倍比羅夫(あべのひらふ=東北の蝦夷征服)、守大石(もりのおおいわ)などと、当時としては普通でしょうが、今では随分変わった名前の人がいました。また、日本に滞在していた百済の王族豊璋(後の百済王)の護衛として百済に渡った武将に狭井(さいの)あじまさ、秦田来津(はだのたくつ)などという人もいました。現代のキラキラネームもビックリです。

そうそう、忘れるところでしたが、5~6世紀頃の三国時代(高句麗、新羅、百済)。朝鮮半島南部の新羅、百済が韓族だったのに対して、今の北朝鮮の高句麗は、北方ツングース系民族のはく族だったというのです!これは、全く知らなかったことでした。

高句麗は、今の中国東北部からロシアのハバロフスク辺りまで勢力を伸ばしていたようです。

今の北朝鮮にどれくらいの高句麗の子孫が残っているのか知りませんが、これでは、北朝鮮が韓国(新羅)や日本(倭)と対立するのは、今に始まったわけではない、1500年以上昔からの因縁ではないかと、勘繰ってしまいたくなりました。

本書にも少し出てきましたが、現代韓国では、白村江の戦いも任那も、古代に滅亡した百済も教えられていないので、殆どの韓国人は知らないそうです。況や北朝鮮をや。

古代出雲は国際交流の拠点だった

バーボンストリート Copyright parDuc de MatsuokaSousumu

「古事記」「日本書紀」に出てくる「国譲りの物語」。出雲のオオクニヌシ ノミコトが、アマテラス オオミカミの派遣したタケミカヅチの軍門に下り、国を譲るという話です。

私はこの神話に大変興味があり、恐らく、この話は史実であり、もともと日本列島には大名のような豪族が群雄割拠していて(だから全国に古墳が点在する)、奈良飛鳥辺りの豪族の一つだった天皇家=大和朝廷が、全国統一の最後の牙城だった出雲を平定した話ではないかと勝手に解釈しております。

つまり、出雲豪族は、天皇家と同等かそれ以上の勢力と財力を持っていたのではないかと想像します。

 よく知られているのは、埼玉県の大宮氷川神社で、「武蔵国の一の宮」と言われていますが、祭神はスサノオノミコト(オオクニヌシの六代祖先)で、出雲系と言われています。はるばる遠く離れた関東にまで出雲系は進出していたことになります。相当な財力と勢力があったという証左です。

そんな疑問を解消してくれるようなシンポジウムが昨日、東京・有楽町で開催され、私もクジで入場券が当たったので、いそいそと出かけていきました。午前中は、大宮盆栽美術館で研修があった後に出かけたので、昨日は大忙しでした。

シンポジウムは「日本海交流と古代出雲」で、直接は、いや全く神話とは関係ありませんでしたが、古代の出雲ではいかに中央政府=大和朝廷とは別に、独自に近隣諸国と国際交流していたか、大変よく分かりました。

前漢の武帝が朝鮮半島に楽浪郡を設置した紀元前108年辺り(弥生時代中期)から10世紀の平安時代にかけて、朝鮮半島や今の中国東北地方にあった渤海という国などから本当にひっきりなしに北九州を通って間接的に、もしくは直接出雲にやって来て交易をしていたのです。

邪馬台国が畿内説が有力だという前提なら、投馬(とうま)国が、出雲ではないかと言われているそうです。

7世紀になると、新興国渤海は当初、北西風に乗って男鹿半島を目指して顎田(あぎだ)浦に行きます。顎田とは今の秋田市のことで、斉明朝が派遣した阿倍比羅夫が平定した北の要所でした。人間文化研究機構の平川南理事によると、当時、外交団使節を迎え入れるために、立派な迎賓館を建て、道路を整備し、あの時代で既に水洗トイレまであったというのですから驚きです。

時代が経ると、渤海使節は南、南へと交易地を変えて行きます。

9世紀になると、能登半島を目指して、越前に行きます。そして、隠岐の島を目印に中継して出雲を目指すようになるのです。

 関東学院大学の田中史生教授によると、律令制国家を樹立した大和朝廷は、中国の中華思想をモデルに天皇中心国家を建設します。天皇の勢力内を「化内」、その外にいる野蛮人を「化外」という位置付けにし、海外から入ってくる人間を(1)蕃(蛮)客と(2)帰化の2種類に分け、大宰府をつくり、博多に鴻臚館を設置して、彼らに食事と宿泊無料で待遇したといいます。

 半島や大陸からの「化外」の政府関係者らはほとんどこの九州に入ってきますが、それ以外の国際民間商人らは出雲に直接向かうことが多かったといいます。

 つまり、古代は歴史書には書かれることがほとんどなかった民間の商人が大活躍していたというわけです。

 何しろシンポジウムは、3時間半以上もありましたから、一言でまとめるのは不可能ですが、やはり古代の出雲は、多くの人が想像している以上に、交易の拠点で莫大な力があったことが分かりました。

 古代出雲に関して詳しい方は、補足訂正してくださると大変有難いのですが…。

辛い時間など取るに足りぬ

1990年8月、米サウスダコタ州で、恐竜ティラノサウルス「スー」の化石を発見したスーザン・ヘンドリクセンさん(55)の言葉。

「スーは6500万年も地中に眠っていた。短い人生の、さらにその中の辛い時間など取るに足らない」(出典は3月16日付朝日新聞「ひと」欄)。

目下、逆境にいてその生活を楽しんでいる小生にとって、この言葉は後ろからいきなりハンマーでガツンと殴られたように衝撃的でしたね。この女性冒険家スーザンさん。もちろん、発見者として永久に「スー」の名前は語り継がれることでしょうが、その生涯も凄まじい。何と、50歳まで定まった家を持たず、発掘現場のテントやボートで暮らしていたということです。世紀の発見は決して偶然ではなかったのですね。納得しました。
ところで人類の文明が始まってたかが1万年。人間は、どれくらい賢くなったことでしょうか?
我田引水、自画自賛、牽強付会…。そんなことばかりではないでしょうか。周囲を見渡して御覧なさい。常識など、時、場所、雰囲気によってコロコロ変わる。共同幻想とも言うべき社会通念しかないことが分かるはずです。