そのまま全てを信じるな!=歴史番組も報道もかなりバイアスがかかっている

 私は、歴史好きというより、歴史から学ばなければならないという精神が他の人より異様に強いので、本や雑誌だけでなく、テレビの歴史物の番組もよく見るようにしています。

 天下のNHK-BSで放送されている「英雄たちの選択」もその一つです。いつも感心するテーマを扱って頂き本当に勉強になります。

 ですが、先日、再放送された「天平パンデミック 聖武天皇と橘諸兄 復興への葛藤」を見て、「あれっ?何か物足りないなあ」と思ってしまいました。この番組は今年4月に最初に放送され、9月2日に2回目が放送され、9月8日(水)には午前8時からまた再々放送されるようなので、御見逃しの方は、録画でもして御覧になったら宜しいかと存じます。

 今から1300年前の奈良時代、聖武天皇(701~56年)の御世の天平7年(735年)、九州の大宰府から全国に天然痘が大流行し、翌々年の737年までに当時の人口の3分1に当たる150万人が亡くなったと言われます。政権中枢に就いていた藤原不比等の4人の息子もこの天然痘で亡くなるという大惨事でした。

 この空白期に登場したのが、橘諸兄(684~757年)でした。この人、聖武天皇の光明皇后の異父兄に当たる血統の良さもあって次々と昇進し、ついには正一位左大臣となって聖武天皇の「宰相」となり、次々と改革を打ち出していきます。そのうちの三つの大きな柱が(1)農民たちへの(税)負担の軽減(2)隣国新羅からの脅威はあったものの、疫病大流行のため、国防より国内の安定を優先(3)行政のスリム化ーといったものでした。

 その最たるものが、734年に発布した「墾田永年私財法」でした。これによって、律令制の一部が崩れたものの、朝廷は農民からより安定した税収入を得ることができるようになりました。

 聖武天皇は、疫病の流行と、藤原広嗣の乱などのせいか、平城京から恭仁京、難波京、紫香楽京、平城京と5年間で次々と遷都しながらも、その間、一貫として政権を担っていたのが橘諸兄でした。聖武天皇が当初、紫香楽京に建立したかった大仏(総工費は現代の価格にすると4567億円)を平城京に建立するように勧めたのも橘諸兄で、752年(天平勝宝4年)に東大寺大仏殿で開眼供養を行った、めでたし、めでたし。聖武天皇は756年に崩御され、橘諸兄はその翌年に亡くなった、で番組は終わっていました。

 私が「物足りない」と感じたのは、まず、大仏開眼供養が行われた時の天皇は聖武天皇ではなく、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位して自らは聖武上皇になられていたことを説明しなかったこと。その孝謙天皇は、橘諸兄よりも藤原仲麻呂を寵愛したことにより、仲麻呂は、藤原家復興のために橘家排斥に動いたことを少し番組内で取り入れてほしかったなあ、と思ったのでした。

 事実、橘諸兄は聖武上皇崩御後は、酒席で継嗣(つぎつぐ)問題を取り上げたことが不敬と見なされて官位を辞職し、失意のうちに没したといわれます。しかも、橘諸兄の嫡男奈良麻呂は、藤原仲麻呂の排斥を企てたという科で、拷問の末に獄死したとも言われています。

 テレビ番組では、聖武天皇と橘諸兄の二人に焦点を当てたので、それ以外は余分だと考えたのかもしれませんが、頭が良い、とにかく非の打ち所がないほど自信満々の学者さんと作家さんが出演されていたわけですから知らないはずがない。

 フレームアップに近いのでは?とまでは言いませんけど、番組というものは、とかく、話題先行か、テーマ優先か知りませんけど、ある一つの課題に焦点を当てるために、他のことが等閑になってしまうことが往々にしてあります。この番組を見たほとんどの人は、橘諸兄は、功成り名を遂げて幸せな晩年生活の末、亡くなったと思ったはずです。私もそうでした。

◇恣意的要素が入る

 これは、他のドキュメンタリーにも、歴史書などの著作にも新聞記事等にも当てはまります。記者や編集者や演出家やプロデューサーらの何らかの「意図」が加わるわけです。

 私の経験でも、たとえ大物にインタービューした際でも、紙面や行数の関係で、書けることは、聞いた話のせいぜい6割程度でした。残りは捨てざるを得ません。その際、記事として反映される部分は、かなり恣意的な記者の裁量に左右されます。

 結局、何が言いたいのかと言いますと、テレビの番組にせよ、報道にせよ、新聞記事にせよ、それが「事実」の全てではないということです。かなりバイアスがかかっていると思って間違いありません。朝日新聞が報道しないことを産経新聞が報道することはよくありますし、NHKの報道は、いつも時の政権に斟酌していて随分偏向しているなあ、と感じるのは私だけではないことでしょう(苦笑)。

 あれ? いつの間にか、メディア論になってしまいましたね。

菅原道真は善人ではなかったのか?=歴史に学ぶ

  「努力しないで出世する方法」「10万円から3億円に増やす超簡単投資術」「誰それの金言 箴言 」ー。世の中には、成功物語で溢れかえっています。しかし、残念ながら、ヒトは、他人の成功譚から自分自身の成功や教訓を引き出すことは至難の技です。結局、ヒトは、他人の失敗や挫折からしか、学ぶことができないのです。

 歴史も同じです。大抵の歴史は、勝者側から描かれるので、敗者の「言い分」は闇の中に消えてしまいます。だからこそ、歴史から学ぶには、敗者の敗因を分析して、その轍を踏まないようにすることこそが、為政者だけでなく、一般庶民にも言えることだと思います。

 そんな折、「歴史人」(ABCアーク)9月号が「おとなの歴史学び直し企画 70人の英雄に学ぶ『失敗』と『教訓』 『しくじり』の日本史」を特集してくれています。「えっ?また、『歴史人』ですか?」なんて言わないでくださいね。これこそ、実に面白くて為になる教訓本なのです。別に「歴史人」から宣伝費をもらっているわけではありませんが(笑)、お勧めです。

 特に、10ページでは、「歪められた 消された敗者の『史料』を読み解く」と題して、歴史学者の渡邊大門氏が、史料とは何か、解説してくれています。大別すると、史料には、古文書や日記などの「一次史料」と、後世になって編纂された家譜、軍記物語などの「二次史料」があります。確かに一次史料の方が価値が高いとはいえ、写しの場合、何かの意図で創作されたり、嘘が書かれたりして鵜呑みにできないことがあるといいます。

 二次史料には「正史」と「稗史(はいし)」があり、正史には、「日本書紀」「続日本紀」など奈良・平安時代に編纂された6種の勅撰国史書があり、鎌倉幕府には「吾妻鏡」(作者不明)、室町幕府には「後鑑(のちかがみ」、江戸幕府には「徳川実記」があります。ちなみに、この「徳川実記」を執筆したのは、あの維新後に幕臣から操觚之士(そうこのし=ジャーナリスト)に転じた成島柳北の祖父成島司直(もとなお)です。また、「後鑑」を執筆したのが、成島柳北の父である成島良譲(りょうじょう、稼堂)です。江戸幕府将軍お抱えの奥儒者だった成島家、恐るべしです。成島司直は、天保12年(1841年)、その功績を賞せられて「御広敷御用人格五百石」に叙せられています。これで、ますます、私自身は、成島柳北研究には力が入ります。

 一方、稗史とは、もともと中国で稗官が民間から集めた記録などでまとめた歴史書のことです。虚実入り交じり、玉石混交です。概して、勝者は自らの正当性を誇示し、敗者を貶めがちで、その逆に、敗者側が残した二次史料には、勝者の不当を訴えるとともに、汚名返上、名誉挽回を期そうとします。

 これらは、過去に起きた歴史だけではなく、現在進行形で起きている、例えば、シリア、ソマリア、イエメン内戦、中国共産党政権によるウイグル、チベット、香港支配、ミャンマー・クーデター、アフガニスタンでのタリバン政権樹立などにも言えるでしょう。善悪や正義の論理ではなく、勝ち負けの論理ということです。

 さて、まだ、全部読んではいませんが、前半で面白かったのは、菅原道真です。我々が教えられてきたのは、道真は右大臣にまで上り詰めたのに、政敵である左大臣の藤原時平によって、「醍醐天皇を廃して斉世(ときよ)親王を皇位に就けようと諮っている」などと根も葉もない讒言(ざんげん)によって、大宰府に左遷され、京に戻れることなく、その地で没し、いつしか怨霊となり、京で天変地異や疫病が流行ることになった。そこで、道真を祀る天満宮がつくられ、「学問の神様」として多くの民衆の信仰を集めた…といったものです。

 ところが、実際の菅原道真さんという人は、「文章(もんじょう)博士」という本来なら学者の役職ながら、かなり政治的野心が満々の人だったらしく、娘衍子(えんし)を宇多天皇の女御とし、さらに、娘寧子(ねいし)を斉世親王に嫁がせるなどして、天皇の外戚として地位を獲得しようとした形跡があるというのです。

 となると、確かに権力闘争の一環だったとはいえ、藤原時平の「讒言」は全く根拠のない暴言ではなかったのかもしれません。後世に描かれる藤原時平は、人形浄瑠璃や歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」などに描かれるように憎々しい悪党の策略家で「赤っ面」です。まあ、歌舞伎などの創作は特に勧善懲悪で描かれていますから、しょうがないのですが、藤原時平は、一方的に悪人だったという認識は改めなければいけませんね。

 既に「時平=悪」「道真=学問の神様」という図式が脳内に刷り込まれてしまっていて、その認識を改めるのは大変です。だからこそ、固定概念に固まっていてはいけません。何歳になっても歴史は学び直さなければいけない、と私は特に思っています。

 【追記】

 長年この渓流斎ブログの御愛読者の皆様でしたら、お気づきだとは存じますが、今年8月6日から、「髙田信之進(たかだ・しんのしん)」を名乗っております。私自身、諱(いみな)の他に、渓流斎、清流斎、渓谿堂主人などの雅号や、朋之介、信之丞などの字(あざな)など数多くありましたが、世間に発信する操觚者としての名前は、今後、髙田信之進に統一することに致しました。今後ともどうぞ宜しくお願い奉ります。

藤原道長=傲慢、悪人説は間違い?

 先日NHK-BSで放送された「英雄たちの選択」の「藤原道長 平安最強の権力者の実像」は、これまでの通説、俗説、定説を引っ繰り返すようで実に面白かったです。

 道長と言えば、三人の娘(彰子=しょうし、あきこ、妍子=けんし、よしこ、威子=いし、たけこ)を三代の天皇(一条、三条、後一条)にわたって后として送り込み(一家三后)、「この世をばわが世とぞ思う 望月の欠けたることもなしと思へば」と歌って、天皇の外戚として権勢を振るった最高権力者というのが定説ですが、感情の起伏が激しくても、結構、神経症で寝込んだりするなど人間味があって、強運の持ち主だったことが分かりました。

 古代史の権威の倉本一宏氏も「道長は多面性を持った人物で、繊細でありながら豪放、寛容でありながら残忍、生真面目でありながらいい加減」と分析しておりましたが、意外にも、とても人間らしくて共感してしまいました。

 何しろ、藤原兼家の五男として生まれたので、最初から陣定(じんのさだめ=左大臣から参議に至る約20人で政策決定する)の要職に付ける立場ではなかったのに、兄の道隆、道兼が相次いで亡くなったことから、一条天皇の母后だった姉の詮子の推挙で「内覧」という重職に抜擢されます。これが、出世階段を昇るきっかけとなり、道長は、最後まで姉詮子に対する感謝の念を忘れませんでした。

 有名な「この世をばわが世とぞ思う 望月の欠けたることもなしと思へば」という歌は、娘威子が後一条天皇の中宮に決まった祝宴の席で詠まれたもので、権力の絶頂期とはいえ、何という傲岸不遜で、これ以上ないほど不忠とも言えます。

 しかし、この歌を書き留めたのは、道長のライバルの藤原実資(さねすけ)で(「小右記」)、道長自身は、「御堂関白日記」(国宝)に「歌を詠んだ」としか書いていないといいます(ちなみに、道長は一度も関白の職に就いていないので、題は後から付けられたもの)。道長に詳しい倉本氏によると、歌が祝賀会の二次会で詠まれたらしく、(飲み過ぎていて)本人も覚えていなかったかもしれないというのです。

 これは面白い史実ですね。

 倉本氏も、この「望月の歌」によって、藤原道長=悪人、不忠、傲慢説が広まり、これによって、残念ながら、平安貴族そのものが悪で、この後勃興する武士の方が立派だというのが日本史の通説になったのではないかと指摘しておりました。確かに、そうかもしれませんね。(当然のことながら、倉本氏は、戦国武将より平安貴族贔屓です)

 その一方で、もう少し注目しなければならないことは、教養人だった道長の文化に対する貢献です。これまで、藤原家の間で権力闘争が激しく、政権が安定していませんでしたが、道長が絶対的権力を握ることによって、国内も安定して国風文化の華が開くのです。道長は、一条天皇の后におくった彰子には、教育係の女官として、和泉式部(和歌)、赤染衛門(歌人、歴史)、そして紫式部(物語)といった後世に名を残す超一流人を付けるほどです。

 道長の最大の政争相手だった藤原伊周の姉妹の定子も一条天皇の女御(后)でしたが、その定子の女官が「枕草子」の清少納言で、紫式部と清少納言の仲が悪かったというのは頷けますね。また、一条天皇は、「源氏物語」のファンで、続きを読みたいがために、作品が手元にある彰子のもとに足繁く通ったという逸話には納得してしまいました。文化の力、畏るべしです。

 話は一挙に江戸時代に飛びますが(笑)、五代将軍徳川綱吉は、三代将軍家光の四男として生まれ、全く将軍職の芽がないので舘林藩主となります。しかし、四代家綱に後継ぎがいなかったため、予期しなかった将軍になってしまいます。綱吉には「生類憐みの令」を発した悪い将軍という後付けのネガティブなイメージがあります(内分泌異常で、身長が124センチしかなかったらしい)。この綱吉の時代に元禄文化が華開くというのは、何となく、傲慢な悪い印象がありながら、国風文化を開いた道長との共通点を連想してしまったわけです。

 元禄文化の代表人物には、美術工芸に尾形光琳・乾山、菱川師宣、文学に井原西鶴や松尾芭蕉、近松門左衛門らがいます。この時代に、こんな凄い文化人が集中して活躍していたとは、何とも不思議です。

乱読のすすぬ=家康は日本史上最高の偉人?

 ここしばらく、(とは言っても2日ほど)どうもブログが書けない状態でした。気の向くまま、興味の赴くまま、乱読していたので、頭がごった煮状態になっていたのです。本に登場する人物は、いつの間にか身近な親しい友人となり、時間と空間を超えてしまっていたのです。

 例えば、越前三国から継体天皇を擁立して磐井の乱(528年)を平定した物部麁鹿火(もののべの あらかい)や白村江の戦(663年)の司令官狭井檳榔(さいの あじまさ)、安曇比羅夫(あずみの ひらふ)らが私の頭の中で右往左往しています。でも、彼らの方が、コロナ禍で最近滅多に会えない現代の友人たちより近しく感じでしまうのです。古代人は、檳榔(あじまさ)とか比羅夫(ひらふ)とか、名前が格好良くていいじゃないですか(笑)。

 重症ですね。

 とはいえ、誰しもが、いずれ、三途の川を渡って彼岸の世界に逝くわけです。遥か遠い昔に亡くなった歴史上の人物と、今を生きている現代人と区別することもないんじゃないかと私なんか思ってしまいます。

 だって、現代人はメールを送っても「既読スルー」して返信もしない輩ばっかじゃありませんか。O君、H君、K君よ。これでは、古代人と会話していた方がよっぽど精神衛生上、健康に良い。

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 歴史が面白いのは、遺跡や古文書などの「新発見」が出てきて、新しい解釈が生まれることだけでなく、自分自身も歳を取ると歴史観が全く変わっていくことです。私なんか、戦国武将といえば、若い頃は、「太く短く生きた」その潔さから圧倒的に織田信長の大ファンで、小賢しい策士の秀吉や「たぬき親父」の家康は、とても好きになれませんでした。が、今は断然、徳川家康に軍配を上げます。調べれば調べるほど、こんな凄い日本の歴史上の人物はいない、と確信しています。

 家康ほど頭脳明晰の人もいないと思います。何しろ、全国、300藩と言われる大名から京都所司代などに至るまで重職者は全員覚えて差配して配置させ、彼らの政所や家臣などの人間関係、係累は全て頭に入っているんですからね。凡夫の私は100人でさえ顔と名前と係累が一致しません(苦笑)。

 最近、感心したのは、家康の腹心で「徳川四天王」と言われた武将たちは関ケ原の合戦以降、驚くほど優遇されていなかったことです。四天王筆頭の酒井忠次は関ケ原の前に亡くなり、家督は嫡男家次に譲られましたが、徳川秀忠に従い、関ケ原の本戦に参戦しなかったせいか、高崎5万石に移封。猛将本多忠勝は、上総国大多喜に10万石(関ケ原後は、伊勢国桑名10万石)、三河以来の武功派の榊原康正も上野国舘林10万石、新参ながら側近に大抜擢の井伊直政は上野国箕輪12万石(関ケ原後は近江国佐和山18万石)ですからね。命を懸けて最前線で戦ってきたというのに、加賀100万石、薩摩90万石といった外様大名と比べると、いかにも見劣りします。(勿論、家康は身内には甘く、関ヶ原の後、家康の次男の結城秀康を下総結城10万石から越前北庄=かつての柴田勝家の領地=68万石に加増移封します)

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 これは、ある程度、意図的で、家康は慶長8年(1603年)に征夷大将軍になって江戸幕府を開いてからは武闘派は遠ざけ、代わって本多正信、正純親子(後に失脚)や大久保忠隣といった文治派に近い行政官僚を重用し、天台宗の南光房天海大僧正や臨済宗南禅寺の金地院崇伝ら僧侶をブレーンとして登用したりします。僧侶といっても、毛利の安国寺恵瓊(えけい)のような軍師ではなく、行政官、外交官、立法官のような知性派です。

 天海上人は、風水を採用して江戸城の鬼門(北東)に寛永寺、裏鬼門の方角(南西)に増上寺を置き、八方に目白、目黒、目赤、目青、目黄不動尊などの寺院を建立させた人だと言われます。家康の日光東照宮も造営。家康、秀忠、家光の三代に仕え、108歳の長寿を全うしました。

 崇伝は、諸宗寺院法度、禁中並公家諸法度、武家諸法度などを起草したと言われ、「黒衣の宰相」とも呼ばれました。

 家康自身も「もう武装闘争は終わった」とばかりに、天下普請の城づくりだけでなく、上水や治水、日比谷干拓など「元和偃武」を見越して平和になった江戸百万都市の街づくりに着手しますから、とてつもなく先見の明がある大将軍だと言えます。

 乱読していると、頭が混乱しますが、現代だけでなく過去にも同時に生きている感じで、人生二倍楽しめます。

(実は今、戦後GHQに日本人の魂を売っって諜報機関をつくった有末精三、河辺虎四郎、服部卓四郎といった旧帝国陸軍最高幹部のことで頭がいっぱいなので、こんな文章を書いていても頭が全く整理されていません。)

 

「古代天皇と古墳の謎」に迫る

 「歴史人」6月号の「古代天皇と古墳の謎」は、恐らく、現代の古代史学の最先端の学術を取り入れた「完璧版」に近いものではないかと思っています。(読み通すのに1カ月近く掛かりました)

 勿論、反対意見もあると思います。例えば、18ページの「ヤマト政権の真実」の中で、安田清人氏はこんな風に記述しています。

  かつて、(大和盆地の纏向=まきむく=遺跡の)箸墓(はしはか)古墳を邪馬台国の卑弥呼、あるいは後継者の台与(とよ)の墓とする説もあったが、邪馬台国は、北部九州にあった約30国からなる倭国連合の盟主であるクニ、すなわち地方王権のひとつに過ぎず、ここでいう倭王権とは無関係である。

 あれっ? こんなにキッパリと邪馬台国を九州と断定してしまっていいんですか? あれほど、「畿内説」と「北九州説」が長い間、侃々諤々、喧々囂々と論争され、確か、今でも決着ついていないはずなんですが、大丈夫なんでしょうか?

 この章の監修者に倉本一宏氏が立てられています。「なあんだ」。私自身は、倉本氏の「蘇我氏」「藤原氏」「白村江の戦」など結構、著書を愛読して彼の説を信頼し、私も「邪馬台国=九州説」なので、大賛成で、文句ありませんけど(笑)。

 それにしても、私が学生時代に古代史を習ったのは1970年代初めですからもう半世紀近い大昔です。その間の学問の進歩は目を見張るばかりです。第一、纏向遺跡も箸墓古墳も全く習ったことはありません。今は「倭王権」とか「ヤマト政権」とか言うようになりましたが、昔は「大和朝廷」と教えられていました。ついでに言えば、645年の「乙巳の変」なんか全く習っていません。「大化の改新」だけです。恐らく、「乙巳の変」を知っているか、知っていないかで、世代が分かると思います(笑)。(おっ!頷いている方がいらっしゃいますね)

 天皇についてもそうです。戦後になって昭和天皇が「人間宣言」され、ある程度のタブーから解放されて自由に研究されることができるようになりました。私の親の世代は戦前の昭和初期に教育を受けましたが、大正生まれの父親は「天皇陛下は神様で、学校では神武天皇から綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化、崇神…と全て覚えさせられた」と話していましたからね。

◇「三王朝交替説」

 これまで、天皇は「万世一系」で神武天皇以来現在に至るまで、血統が同じだということが戦前までは常識でしたが、1952年に水野祐博士が「三王朝交替説」を唱え、82ページに紹介されています。初代神武天皇をはじめ、二代綏靖天皇から九代開化天皇までの「欠史八代」まではフィクションで、実在する最初の天皇を十代崇神天皇とし、この王朝は十四代仲哀天皇まで続く。次に十五代応神天皇からは別の王朝で(大和の豪族葛城氏との縁戚関係が強い)、「残虐と記紀に書かれた」二十五代武烈天皇まで続く(この間、「倭の五王=讃、珍、済、興、武」が大陸から冊封を受ける)。最後は、近江の豪族息長(おきなが)氏出身と言われ、母方の越前育ちで、尾張の豪族の目子媛(めのこひめ)を妃として娶っていた二十六代継体天皇からで(継体天皇は、後に二十四代仁賢天皇の皇女手白香皇女=たしらかのひめみこ=を皇后とするので、自身が十五代応神天皇の末裔であるとの主張がフィクションなら、継体天皇は女系天皇だという見方をする学説もあります)この王朝が現在の天皇家まで続いているという説です。

 私はこの「三王朝交替説」には十分に納得します。いずれにせよ、畿内だけでなく、全国(特に毛野=けぬ=、吉備、出雲、筑紫など)に大きな古墳が存在するということは、地方にも天皇家に匹敵するような権力を持った豪族が存在していたということになります。(そもそも、天皇はもともと大王=おおきみ=呼ばれ、初めて天皇と称するようになったのは第四十代天武天皇からでした)

 大和の一豪族に過ぎなかった天皇家が、「倭王権」として全国統一するようになった背景には、やはり、高句麗や唐、新羅といった敵対する外国勢力に対抗するために中央集権的な強い国家を存立させる必要に迫られたのではないかと考えられます。その間に、出雲や吉備、筑紫(磐井の乱)といった豪族が倭王権に服属(もしくは同化)するようになったと考えれば、分かりやすい気がします。

 「歴史人」では古墳の話も多く図解入りで記述されています。日本最大の古墳は、世界遺産にもなった百舌鳥古墳群の仁徳天皇陵ですが、全長486メートル、高さ33.9メートルの3段もあり、秦の始皇帝陵、エジプトのクフ王のピラミッドと並び「世界三大墳墓」だったんですね。知らなかった(苦笑)。「日本は凄い!」と右翼の人でなくても嬉しくなります。

 仁徳天皇陵は、5世紀中ごろに建設されましたが、大林組の1986年の試算によると、680万人日(一人一日分の労働量)を必要とし、工期は15年8カ月、工費796億円だといいます。それだけ、天皇家には絶大なる権力があったということになります。

 しかし、現在、天皇陵は宮内庁が厳重に管理し、学術研究でさえ禁止されているので、いまだに解明されていない謎だらけだとも言えます。何故なら、現在、天皇陵と比定されている所は、幕末の文久2年(1863年)、宇都宮藩の家老戸田忠至(ただゆき)が朝廷から山稜奉行を命じられ、修陵に当たり10人の研究顧問団が選ばれ、その筆頭格の谷森善臣(たにもり・よしおみ、1818~1911)が決定したものだからです。谷森は、天皇の近侍である舎人家出身ながら、現在の学問から見て必ずしも正しくない場所が散見されるといいます。(例えば、継体天皇陵は、大阪府茨木市の三嶋藍野陵と比定されていますが、実は、大阪府高槻市の今城塚古墳ではないか、という説が有力で、神武天皇陵を本居宣長らの丸山説を否定してかなり強引に白橿村山本の地として押し通したことなど)

 いつになるか分かりませんが、天皇陵の学術調査が認可されれば、古代史がまた大幅に変わっていくのではないかと、私なんか期待を込めて考えています。が、私が生きている間は難しいかなあ…?

大王の外戚、葛城氏と和邇氏は意外と知られていない

群馬県高崎市の保渡田古墳群 Copyright par O,T

 週刊朝日ムック「歴史道」の「古代史の謎を解き明かす!」を読了しました。この本については、既に色々書きましたが、最後に一つだけ備忘録のため、付け加えておきたいと存じます。

 倭王権(大和朝廷)の大王が、たった一人で強大な権力を獲得して独裁的な政治を行っていたと考えるのは誤りで、地方豪族と協同の連合王国みたいなものだったことがよく分かりました。何と言っても、後の江戸時代の参勤交代のような上番制度(地方豪族が上京して当番勤務に就くこと)があったことを知ったのは大収穫でした。以前にも書きましたが、地方豪族の人身管理と、彼らの勢力を削ぐことが目的だったのでしょう。

 日本史を見ると、どうも一人の独裁者が莫大な権力を振るっていたというのは、藤原道長や平清盛や織田信長や豊臣秀吉らを除けば例外で、天皇は、独裁者とは言い難いのです。何しろ、大王から初めて天皇の呼称を使うようになった天武天皇から大臣、大連ら数人の有力豪族らによる「合議制」になったので、天皇一人だけで物事を決められなかったようです。(勿論、巨大な古墳を作るほど大王に権力が集中していたことは確かですが)

 平安時代になると、天皇以上に権力を振るうようになったのは摂関家の藤原家で、段々、天皇はお飾りのような存在になっていくことは皆様もご案内の通りですが、それ以前にもっと古代から外戚関係の有力豪族が権力を振るっていたんですね。

 藤原氏の前は、蘇我氏であることは教科書にも出てくるのでよく知られていますが、その前に葛城(かずらき)氏がいて、5世紀に葛城襲津彦(おつひこ)が大王家の外戚として大きな力を持ち、その娘の磐之媛(いわのひめ)は、大王仁徳の正妻となり、履中、反正、允恭の3人の大王を生みます。しかし、5世紀後半の大王雄略の御世に、葛城円(つぶら)が大王安康を暗殺した眉輪王(まゆわのおおきみ)を匿ったかどで焼き殺されて、これを機に葛城氏は没落します。とはいえ、その後に大王以上の権力を振るった蘇我氏は、実は葛城氏から分立した氏族だったいう説が近年注目されているというのです。

 蘇我氏本家は乙巳の変で滅亡しますが、分家の蘇我石川麻呂の子孫は石川氏と改名して後代にも残ります。また、藤原氏の祖である中臣鎌足の嫡男藤原不比等の正妻娼子(しょうし)は蘇我馬子の曾孫に当たり、2人の子息房前の子孫から摂関政治の最盛期を築いた藤原道長が出ています。

 となると、何らかの形で、葛城氏の血統は、蘇我氏、藤原氏を経て、少なからず、ずーと続いてきたことになりませんか?

 私も知らなかったのですが、葛城氏と並んで大王と外戚関係を結んでいた豪族に和珥(和邇、丸邇=わに)氏がいます。5世紀から6世紀後半にかけて、応神、反正、雄略、仁賢、継体、欽明、敏達の7大王に対して、9人の后妃を入れたといいます。和邇氏は後に北方の春日に拠点を移して、姓を春日と改めたといいます。

 大王家が続くためには子孫が必要で、そのためには女性の外戚が必要なのは当然な話ですが、古代の研究には、大王家だけでなく、葛城氏や和邇氏などの豪族の知識も必要なことがよく分かりました。

古代史の魅力を再発見=古墳巡りもライフワークになるかもしれません

 近年、戦国時代と江戸幕藩体制にハマっておりましたが、最近ではまた古代史への興味が復活してきました。”罪作り”なのが、週刊朝日ムック12号「古代史の謎を解き明かす!」です。考古学の最新の研究成果が反映されていて、私が中学高校時代に習った古代史とは「飛躍的」に違うので、「ああ おまえはなにをして来たのだ」と中原中也のように呟きたくなります。

 一番大きな成果は、断定してはいけませんが、奈良県桜井市で1971年から本格的な発掘調査が始まり、大宮殿の遺構などが発見された纏向(まきむく)遺跡でしょう。3世紀の弥生時代末期から6世紀の古墳時代前期にかけての遺跡で、ここを邪馬台国の拠点で、同遺跡内の箸墓(はしはか)古墳が卑弥呼の墳墓だったとする学説もありますが、私自身は形勢不利の「邪馬台国=九州説」派なので、そうは取りません。でも、考古学者の間ではほぼ一致している、天皇家につながる大王(おおきみ)の都だったのではないかという説には与します。

 もし、大王の都だとしたら、第15代応神天皇(在位270~310年)か、その前の実在が実証されていない神功皇后(同201~269年)辺りから、第28代宣化天皇(535~539年)辺りが想定されますが、これはあくまでも素人の私の想定です。倭は古代から地方豪族の群雄割拠の時代だったので、纏向遺跡はこれら全国の首都のような王都だったという説もありますが、確かにその可能性の方が高いでしょう。同遺跡では、出雲や吉備で生産された土器なども多数見つかっているそうです。そもそも古墳の前方後円墳も、もともとは吉備から始まったという説があり、言ってみれば、この王宮も奈良県人だけではなかったということなのでしょう。考古学の権威・武光誠氏は「私は吉備から来た移住者が奈良盆地の纏向に王権を開いたと考えている」と書いているほどです。現代人が想像する以上に古代では、今の九州や関東甲信越、東北から大和に集まって来ていたのでしょうし、大陸や半島からの渡来人がかなり多かったとも言われてます。

 この大和の王権は、私の学生時代は「大和朝廷」と習っていましたが、今の教科書では「ヤマト王権」というのが大半だそうですね。奈良県桜井市に大王の都があったということはほぼ確実でしょう。他の本で読んだのですが、その大王(おおきみ)が天皇と呼ばれるようになったのは、第40代天武天皇(在位673~686年)が初めてだと言われています。(他に諸説あり)それでも、天皇を漢字二文字の漢風謚号(かんぷうしごう)の呼称となったのは、それから100年後の8世紀後半で、淡海三船(おおみのみふね)という学者が一括して付けるまでなかったといいます。つまり、例えば第16代仁徳天皇は、大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)、第21代雄略天皇は、大泊瀬幼武尊 (おおはつせわかたけるのみこと)と呼ばれていたわけです。8世紀後半といえば、奈良時代後半か平安遷都の頃です。そんな最近の(笑)時代まで天皇の漢風二文字の呼称がなかったとは全く知りませんでした。

 言わずもがなですが、縄文時代、弥生時代は、日本語があったかもしれませんが、文字はありませんでした。日本で文字が広まったのは、古墳時代の第15代応神天皇(在位270~310年)が百済王に対して、中国の学問に通じた漢文が使いこなせる学者の招聘を要請し、これに応じて王仁が来日して以来だと言われています。となると、文字がなかった縄文、弥生時代は、遺跡から発掘された土器や装飾品や祭祀品や武器などからその生活や精神性や風習を想像するしかありません。が、縄文土器や土偶などを見ても、彼らはかなり知的水準が高く、巧みな職人技を持ち、現代人と全く遜色ない精神性を持っていたことが伺われます。知識はなくても知能は高かったということです。(縄文人の脳の容量は現代人より多かったそうです。威張っている現代人は、ろくでもない下らない知識しか脳に詰め込んでいないのかもしれませんよ)

 先日、NHKテレビの「英雄たちの選択」という番組で、「古代人のこころを発掘せよ!」を特集しておりましたが、縄文人、弥生人、古墳の魅力を十分に伝えてくれました。特に、北九州にある古墳の玄室が実物大で復元している博物館があり、天井には星座が散りばめられ、壁面には三角や渦巻の抽象的な幾何学模様がぎっしり描かれていました。こうした煌びやかな不可思議な模様は近畿地方の古墳には見られず、九州だけだと番組では言っていましたが、天皇陵は学術調査さえ禁止されているので、もしかしたら、あのような模様が描かれた玄室が近畿でも発掘されるんじゃないかと私なんか思ってしまいました。

保渡田古墳群 Copyright par O,T

 私は関東地方に住んでいるので、番組に出てきた群馬県高崎市にある保渡田古墳群(5世紀後半から6世紀にかけて築造)に行ってみたくなりました。実に見事な前方後円墳です。UFOに乗った宇宙人が空から全景を見たら腰を抜かすかもしれません。そんなこんなで色々調べていたら、「古墳マップ」という素晴らしいサイトが見つかりました。どなたがお作りになったサイトか分かりませんが、精緻、詳細を極めて、全国の古墳をカバーしています。これで関東地方を検索してみたら、意外にも私の自宅近くと言えば近い距離に古代の古墳があるというので吃驚してしまいました。古墳といえば、九州と近畿が中心かと思ったら、関東にもかなり多くの古墳が点在しています。地方豪族社会だったという証明なのかもしれません。

 何しろ、全国には大小合わせて15万基もの古代古墳があると言われてますから、その多さに、これまた驚きです。お城(跡)やコンビニよりもあるんじゃないでしょうか?こうなったら、ライフワークの「全国城巡り」に、「全国古墳巡り」も趣味として加えようかなあ、と思った次第です。

【参照】

サイト:「歴代天皇データ

【追記】

 倉本一宏国際日本文化研究センター教授によると、ヤマト王権(継体天皇)に対抗し、新羅と結びついて磐井の乱を起こした筑紫磐井(今の福岡県八女市、久留米市などを支配し、岩戸山古墳が磐井の墓だと言われてます)は、若年期に上番(じょうばん)に就いた可能性が高いといいます。上番というのは、上京して当番勤務に就くことで、九州の八女市から奈良県にまで上京して、警護勤務か文書管理勤務か分かりませんが、何かの当番勤務に就いていたことになります。まるで江戸時代の参勤交代みたいじゃありませんか(笑)。古代のヤマト王権も、地方豪族を上京させて人身を管理したり、その勢力を削いだりしていたということなのでしょうね。

邪馬台国は何処にあったのか?=「永遠に謎」でもいいのでは?

 富岳 Copyright par Duc de Mtsuoqua

  年末年始は、コロナ禍で自宅待機を半ば強制され、朝から酒を呑んでいるので活字が頭に入らず、となると、テレビを見ることになります。しかし、現代人なのに最先端の流行ものに興味を持てず、というか、全く付いていけず(苦笑)、恒例の紅白歌合戦も5分見てギブアップしてしまいました。

 以前はよく見ていたお笑い番組も、流行の笑いに付いていけず、むしろ、馬鹿らしさと空虚さと怒りを感じてしまう始末でした。いけませんね。

 でも、その代わり、大収穫がありました。正月の夜にNHKで放送された「邪馬台国サミット2021」です。女王・卑弥呼の都「邪馬台国」の所在地を巡り、江戸時代から続く「九州説」と「近畿説」の大論争で、侃侃諤諤の議論はひじょーに面白かったでした。恐らく、多くの方もご覧になったかと思いますが、御覧になっていなかった皆さんは、「九州と近畿、どっちなんだあ」とせっかちに身を乗り出すと思われます。(戦前は、東京帝大の白鳥庫吉教授の「九州説」と京都帝大の内藤湖南教授の「近畿説」が有名ですが、エジプト説もあったりして吃驚しました)

 結論を先に言いますと、有力な「九州説」も「近畿説」も決定的な「証拠」に欠けて、まだ「分からない」というのが正解でした。でも、九州説では、例えば、佐賀県神埼市・吉野ケ里町で発掘された有名な吉野ケ里遺跡には、「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に記された楼観(ろうかん)跡と推定される物見やぐらや大壕などがあったことから、北九州に邪馬台国があったという有力説になってます。(近畿には物見やぐらや大壕などの古代遺跡がない!ただし、吉野ケ里は邪馬台国に先立つ50~100年前の大集落だったらしいので、ここが邪馬台国跡ではないようです)

 近畿説は、奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡が有力のようでした。纏向遺跡内の箸墓(はしはか)古墳が卑弥呼の墓ではないか、とも言われていますが、古墳は宮内庁が管理して学術調査もできないので、まだ決定的証拠が見つかっていません。纏向遺跡には柱跡からかなり大きな宮殿のような巨大建築物が見つかり、ここで卑弥呼が「鬼道」(呪術)を使っていたのではないかと推測されていますが、魏志倭人伝の記述にあるような物見やぐら大壕などは発掘されていません。少なくとも、これだけ広大な宮殿跡は、初期天皇である大王の都跡、もしくは、出雲や吉備などの地方豪族の集合体の王都ではないかという説には私は惹かれました。(卑弥呼は、天照大神だった、卑弥呼は神功皇后だった、という説もあります)

 しかし、私もその御著書を愛読している倉本一宏・国際日本文化研究センター教授は「(正史である)『日本書紀』に邪馬台国も卑弥呼も出て来ない。天皇家とは別の政権だからではないか。となると近畿というより九州ではないか」といった趣旨の発言をしておられましたが、私もどちらかと言えば、分が悪い「九州説」派です。(魏志倭人伝には、「倭人は鉄の矢じりを使っている」と書かれていて、これまで福岡で1740点、熊本で1891点の鉄の矢じりが発掘されていますが、大阪では153点、奈良では13点しか出土していないそうです。おっ!九州説、有利か?)

番組はきこしめながら見たので、このムックで捕捉しました。最新研究成果の書かれた良書です。

 話は脱線しますが、纏向遺跡も箸墓古墳も1970年代から発掘が始まり、その成果は20世紀末から21世紀になって徐々に明らかになったということですから、私の世代の学生時代は全く習いませんでした。古代史は日進月歩、新たな発掘で書き換えられているということですね。

 近畿説を取る福永伸哉・大阪大学文学部研究科教授は「自虐的九州説」と一刀両断しておられました。同教授は、魏志倭人伝に邪馬台国には7万戸あったということは人口は30万人いたことになる。しかし、927年の「延喜式」によると、筑後の人口は7万3300人、肥前は8万1400人しかいない。とても、九州とは思えない、といった論陣を張っておられました。

 これに対して、中国古代史が専門の渡辺義浩・早稲田大学文学学術院教授は「中国の場合、人口などの数字は正確ではありません」と説明していました。さすが「白髪三千丈」と、数字は桁違いにオーバーに言うお国柄です。こちらの分が高いようです。もっとも、渡辺教授は、邪馬台国が九州にあろうが、近畿にあろうが、どっちでもいい、三国志に興味があっても、そんなもん興味ない、というスタンスだったので笑ってしまいました。

 渡辺教授によると、邪馬台国の第一次資料である陳寿著「魏志倭人伝」は、日本人のために書かれたものではないことをもっと注目すべきだと強調していました。魏呉蜀の三国が覇権を争っていた時代に、天下国家を取るために、自国に都合の良いように脚色した部分もあり、全面的に信用できないといいます。だから、魏志倭人伝に書いた通りに邪馬台国の場所を探して辿っていくと九州の南の海の中になければならなくなってしまいます。

 これは、他の本で読んだのですが、卑弥呼に「卑しい」を使い、、邪馬台国に「邪(よこしま)」の文字を当てたこと自体が、明らかに中国側から見た倭人に対する蔑称です。(日本では、卑弥呼は、姫子と呼んでいたという説もあり)

 邪馬台国は何処にあったのか?-は確かに「古代のロマン」として好奇心をくすぐられます。でも、なぜ、明智光秀が、主君織田信長を裏切って本能寺の変を起こしたのか、諸説あって理由が定かでないように、「よく分からない」「ミステリー」が、日本史の魅力にもなっているのではないでしょうか。

 また、新たな発掘調査で真相が明らかになるかもしれませんが、「永遠に謎」でも私は構わないと思ってます(笑)。

 【後記】

 写説に書いた通り、きこしめながら、番組を見ていたので、書いた数字は正確ではないかもしれません。もし、事実誤認がありましたら、訂正致します。また、番組と同じぐらい週刊朝日ムック「歴史道」(「古代史の謎を解き明かす!」特集号)を参照しました。

 ところで、今朝(1月4日付)朝日新聞によると、本能寺の変の際、明智光秀が直接、本能寺を急襲したのではなく、家臣の斎藤利三(としみつ=春日局の父)に任せて、自分は京都市南部の鳥羽にいた、という説には驚きました。これだから歴史は面白いのです。

日本人のルーツを求めて考えたら頭が混乱してしまいました

 退職金約6000万円が貰える東京高検・前検事長の黒川弘務氏は、週1~2回、多い時は週3回、遅い時は夜中の2時まで賭けマージャンに興じていたということです(「週刊文春」6月4日号)。そんなことをしていたら、本を読んだり、勉強したりする暇があるのかしら?-なんて、浅はかな私なんかは思ってしまいました。黒川氏は、超エリートのインテリですから、法律の知識は豊富でしょうが、社会常識や教養には欠けているのかもしれません。

 他人様のことですから、どうでもいいのですが、国民の税金が彼に使われているので、一言諫言を述べたかっただけです。私自身は専門知識もない、インテリでもない、ただの凡夫ですから、他人様から後ろ指を指されないように、麻雀もパチンコも競輪競馬も競艇も、博打はせずに只管、寸暇を惜しんで勉強するしかないのです。自粛生活でここ何カ月も友人たちにも会っていないし、飲みにも行かず、遊んでいないなあ~。

◇澤田洋太郎著「ヤマト国家は渡来王朝」

 さて、古代史は面白いが、むつかしい。-というのが、澤田洋太郎著「ヤマト国家は渡来王朝」(新泉社、2004年6月20日新装版第2刷)を読んだ感想です。古代大和朝廷は、朝鮮半島からの「渡来王朝」だったという大胆な結論を導きだしています。

 この1週間以上、この本に掛かりっきりでしたが、どこまで信用したら良いのか、頭が混乱してなかなか読み進むことができませんでした。そりゃそうでしょう。「文武天皇は新羅の文武王のことだった」「天武天皇は新羅の王族金多遂(キムタジュク)だった」(佐々木克明「騎馬民族の落日」)「壬申の乱は、百済・新羅の代理戦争だった」などと言われれば、「えっ?どういうこと?」になりますよ。

 1927年生まれの著者は、第一高等学校から東大法学部卒業後、都立高校の社会科教師を長年勤め、教頭を最後に定年退職し、その後、在野の古代史研究家になった人です(政治、経済関連の書籍も多く出版。2014年死去)。この本は、通説、俗説、異論、独自解釈…を集めたような感じで、学会で認められている「正史」ではなく、いわば「稗史」となるのかもしれませんが、無暗に読み捨てておけないところがありました。正直、途中で読むのが嫌になることもありましたが…(笑)。(秦の始皇帝はユダヤ人だった、という説には引っ繰り返り、源義経はジンギスカンだったという説を思い出しました)

 何しろ、日本の古代史の最も重要な文献である「古事記」や「日本書紀」(以下記紀)には、歴史的事実をそのまま叙したとは言えない創作的な神話があることはよく知られていますが、日本の歴史だというのに、やたらと朝鮮半島の百済や新羅や高句麗の情勢が登場することはあまり知られていません。(記紀を原書で通読した現代人は果たして何人いるのかしら? 私も記紀は、現代語訳でしか読んだことがありません)

 例えば、「日本書紀」では舒明天皇について、「十三年冬十月己丑朔丁酉、天皇崩于百濟宮。丙午、殯於宮北、是謂百濟大殯。」(即位13年冬10月9日。舒明天皇は百済宮で崩御された。18日、宮の北で殯(もがり=葬送儀礼)が行われた。これを百済の大殯と言う。)といったことが書かれています。何故、日本の天皇(この時代は大王と呼ばれていましたが)なのに、百済式の殯が執り行われたのでしょうか?…。

 記紀がこういう書き方だと、古代史学会による正統な歴史解釈のほかに、在野の研究者や好事家らによる独自解釈も数多あります。特に、「万世一系の天皇制」を論議することがタブーとされていたことが、敗戦後に一転して自由な研究が解放されましたからね。

 もう少し例を出すと、本書では、645年の乙巳の変(大化の改新)は、「百済系」の蘇我蝦夷・入鹿「政権」に対する「新羅系」の中大兄皇子と中臣鎌足によるクーデターだったというのです。中大兄皇子と鎌足の背後には、革命の正当化を訴えた南淵請安(みなぶちのしょうあん)らがいたといいます。彼らは、遣隋使で新羅経由で帰国して親・新羅派になったといいます。(南淵請安は、昭和初期の血盟団と五・一五事件の海軍青年将校らの精神的支柱だった農本主義者・権藤成卿が最も影響を受けた人物の一人。権藤は、大化の改新の理論的指導者だった請安に倣い、昭和維新を唱えたといいます。南淵請安は、渡来人である東漢氏=やまとのあやうじ、後漢の霊帝の末裔が帯方郡から3世紀頃に渡来=出身だといわれています)

 (新羅派のはずだった中大兄皇子は、天智天皇として即位すると、百済系渡来人を重用し、壬申の乱後に即位した天武天皇は、新羅系で二人は兄弟ではなかったと書かれていましたが、何か、よく分からなくなってしまいました)

赤は百済と平氏、白は新羅と源氏

 この本では、新羅系は白旗がシンボルで、清和源氏に受け継がれ、百済系は赤旗で、桓武平氏に受け継がれ(桓武天皇の生母高野新笠は、百済系渡来人の末裔だった=「続日本紀」)、平安以降、鎌倉幕府の源氏の源頼朝から平氏の北条氏に変わり、それが室町時代になると源氏の足利尊氏、その後、平氏の織田信長~豊臣秀吉となり、江戸幕府を開いた徳川家康は源氏と交互に政権が交代したという説を展開しています。

 肝心のタイトルにもなっている「ヤマト国家は渡来王朝」というのは、天皇族は朝鮮半島の南端に古代にあった伽耶辺りから渡来してきたという説です。ただし、彼らは、現代の北朝鮮人や韓国人の祖先ではなく、北方からスキタイ系の騎馬民族が朝鮮半島南部に住み着き倭人と呼ばれた人たちで、そこから北九州などを経由して畿内に到達したというものです。となると騎馬民族説ですね。(スキタイ人は鉄器を匈奴や漢に伝え、鉄器は、朝鮮半島南部から日本に伝えられたので、そのような倭人がいたかもしれません)また、ヤマトに国譲りをした出雲も鉄器製作が盛んでしたが、出雲族は、もともと朝鮮南部の安羅からの渡来人の子孫だとする学者もいます(朴炳植氏の説)。

 古代は、現代人が想像する以上に遥かに多くの人が、大陸から、そして半島から、日本列島へ行き来していたようですから、古代人の間では、それほど国家や民族を意識することなく、混血が進んでいたことでしょう。(神話のスサノオノミコトも、出雲と朝鮮半島の新羅を行き来していました)

 そして、ヤマトが百済の王族を人質として預かったり、百済の要請でわざわざ朝鮮半島の白村江まで遠征して唐や新羅と何故戦ったのか、などについては、朝鮮半島南部に拠点を築いて住み着いた倭人がいなければ、理由が説明がつかないことでしょう。

 私自身は、「日本人はどこからやって来たのか?」という深い疑問の原点があって、古代史に興味を持ちましたが、「日本人とは何か」となると、この本を読むと、多少、混乱してしまいました。

◇日本全国に残る新羅、百済、高句麗

 とにかく、記紀には新羅、百済、高句麗が頻繁に登場します。同書によると、まず「新羅」については、新羅神社という名の社が、青森県八戸市、静岡県浜松市、岐阜県多治見市など全国に9社あり、全国に2760社ある白山神社も新羅に起源を有する神社で、その他、白木、白子、白石、白髭などの地名は日本に移住してきた新羅人が付けた名前だといいます。

 「百済」は、大阪府枚方市に百済寺跡があり、そこの隣接地に百済王神社がある。その他、各地に多くの百済神社があり、大阪市旧鶴橋町一帯は、もともと百済郷と呼ばれていたといいます。

 「高句麗」は、「続日本紀」の霊亀2年(716年)の記事に「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の高麗人1799人を以て武蔵国に遷し、初めて高麗郡を置く」とあり、現在も埼玉県日高市に高麗若光を祀る高麗神社・聖天院がある。この高麗氏から駒井、井上、神田、武藤、金子、和田など多くの氏族が派生し、東京には狛江市や駒場、駒場、駒込、駒沢など駒(高麗)が付く地名が多い。関東地方には高句麗系の渡来者がかなり多かったといいます。今は日本人として同化したということでしょう。

 これらは「説」ですから、歴史的事実かどうか分かりませんが、日本人のルーツは、朝鮮半島や中国大陸、そしてユーラシア、東南アジア、南太平洋等から渡来した人たちということになるのでしょう。

 もっと勉強しなければいけませんね。賭けマージャンをやってる暇はありません(笑)。

庶民の歴史は「歴史」にならない

昭和30年代、あるメーカーの「コロナ」という名前の車が人気で、街中でよく見かけました。今の御時世、この名前での販売はとても難しいでしょうが、当時はコロナにネガティブな意味は全くありませんでした。むしろ、高度経済成長の象徴的な良い響きがあり、「サニー」や「カローラ」といった大衆車よりちょっと上のレベルといった感じでした。

 それが、昭和40年代になると、「コロナ マークⅡ」という名称になりバージョンアップされて、スポーティーな中級車になりました。今では知っている人は少ないでしょうが、スマイリー小原という踊りながら楽団を指揮するタレントさんがCMに出ていたことを思い出します。平成近くになると、コロナの名前が取れて、単に「マークⅡ」だけとなり、グレードアップした高級車になり、今でも続いていると思います。

 私は、何か不思議な符丁の一致を感じました。今世界中を災禍に陥れている新型コロナは、夏場に一旦、収束すると言われますが、また今秋から冬にかけて「第2波」がやって来ると言われています。初期の「武漢ウイルス」から突然ではなく、当然変異して、より強力になって、殺傷力の強いウイルスに変身すると言う専門家もいます。疫病と自動車の話とは全く関係ないのですが、何で、コロナがマークⅡに変身したのか、まるで未来を予言したかのような奇妙な符牒の適合を、私自身、無理やり感じてしまったわけです(笑)。恐らくそんなことを発見した人は私一人だけだと思いますが(爆笑)。

 さて、ここ1カ月間は、立花隆著「天皇と東大」(文春文庫・全4巻)のことばかり書いて来ました。このブログを愛読して頂いている横浜にお住まいのMさんから「圧倒的分量で流石でした。私も読んでみるつもりです」との感想をメールで頂きました。私自身は、このブログを暗中模索で書いていますから、このような反応があると本当に嬉しく感じます。

 あまりよく知らなかったのですが、Mさんの御尊父の父親(つまり彼にとっての祖父)は、終戦近くに予備役ながら召集され、小笠原の母島で戦死されたといいます。そのため、御尊父は母子家庭となり、大変な貧困の中で育つことになりますが、その母親も17歳の時に亡くし、本人は自殺すら考えましたが、周囲に助けられ、借金をしてようやく高校を卒業したといいます。当時は同じような境遇の家庭が多かったことでしょう。私の両親の父親、つまり私にとっての祖父は、2人とも戦死ではなく40歳そこそこで病死したため、両親2人とも10代で母子家庭になり、相当苦労して戦後の混乱期を切り抜けて、貧しいながら家庭をつくり我々子どもたちを大学に行かせるなど一生懸命に育ててくれました。

 「天皇と東大」は、エスタブリッシュメント階級の歴史が書かれ、読み応えがありましたが、我々のような庶民はいくら苦労しても「歴史」にもなりません。学校で教える歴史は、いつも特権階級や勝者から見た歴史だからです。

 話は変わって、先日から山岸良二監修「戦況図鑑 古代争乱」(サンエイ新書)を読んでいますが、古代は、本当に驚くほど多くの争乱があったことが分かります。その争乱の大半は「皇位継承」にからむクーデタ(未遂も)と内乱です。九州筑紫の豪族が新羅と結託して大和朝廷転覆を図った古代史最大の反乱である527年の「磐井の乱」、蘇我氏が物部氏を排斥して政権を掌握した587年の「丁未の変」(物部氏は、娘を大王に嫁がせて外戚を誇った例は見られないそうで意外でした)、中大兄皇子と中臣鎌足らによる蘇我氏を打倒したクーデタ、645年の「乙巳の変」(1970年代までに学校教育を受けた世代は、「大化の改新」としか習わず、私自身はこの名称は10年ぐらい前に初めて知りました!)、天智天皇の後継を巡る叔父と甥による骨肉争いである「壬申の乱」、奈良時代になると「長屋王の変」「藤原広嗣の乱」「橘奈良麻呂の変」「藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱」、平安時代になると「伊予親王謀反事件」「平城太上天皇の変」(従来は「薬子の変」と習いましたが、最近は名称が変わったそうです。歴史は刷新して学んでいかないと駄目ですね)「承和の変」「応天門の変」(応天門とは平安京の朝堂院に入る門だったんですね。図解で初めて確認しました=笑)…と本当にキリがないのでこの辺でやめておきます。

 古代史関係の本を読んでいて、心地良いというか、面白いというか、興味深いのは、古代人の名前です。現代人のキラキラ・ネームも吃驚です。有名な蘇我馬子とか入鹿なども随分変わった珍しい名前ですが、人口に膾炙し過ぎています。663年の有名な「白村江の戦い」(中国や韓国の史料では「白村江」ではなく「白江」なので、そのうち「白江の戦い」に変更されるかもしれません。何で日本で白村江と言い続けてきたのか理由があるのでしょうから、不思議)に出陣した将軍の名前が残っています。

 第1陣の前将軍大花下(だいけげ)・阿曇比羅夫(あずみのひらふ)、小花下・河辺百枝(かわべのももえ)、大山下(だいさんげ)・狭井檳榔(さいのあじまさ)。第2陣の前将軍・上毛野稚子(かみつけののわかこ)、間人大蓋(はしひとのおおふた)、中将軍・巨勢神前訳語(こせのかむさきのおさ)、三輪根麻呂(みわのねまろ)、後将軍・阿倍比羅夫、大宅鎌柄(おおやけのかまつら)…。「あじまさ」とか「かまつら」とか、戦国武将にも劣らない強そうな名前じゃありませんか(笑)。

 この本を読むと、丁未の変(587年)で物部氏が没落し、乙巳の変(645年)で蘇我氏が没落し、伊予親王謀反事件(807年)で藤原南家が没落し、承和の変(842年)で藤原北家(良房)の政権が台頭し、応天門の変(866年)で大伴氏と紀氏といった古代豪族が没落して、藤原北家が独占状態となり、阿衡の紛議(887~8年)で橘氏、昌泰の変(901年)菅原氏が排斥される、といった具合で、なるほど、「権力闘争」というものは、こういう流れがあったのかということが整理されていて分かりました。