「冷戦期内閣調査室の変容」と「戦後日本のインテリジェンス・コミュニティーの再編」=第35回諜報研究会

 4月10日(土)午後にZOOMオンラインで開催された第35回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催、早大20世紀メディア研究所共催)に参加しました。ZOOM会議は3回目ぐらいですが、大分慣れてきました。S事務局長様はじめ、「顔出し」しなくてもオッケーというところがいいですね(笑)。今回私は顔出ししないで、質問までしてしまいました。勿論、露出されたい方は結構なんですが、私は根っからの照れ屋ですし、失礼ながら「野次馬根性」で参加していますから丁度いい会合です。インテリジェンスに御興味のある方は、気軽に参加できますので、私は主催者でもないのにお勧めします。

 でも、研究会は、素人さんにはかなり堅い内容で、理解するのには相当厳しいと思われます。お二人の報告者が「登壇」しましたが、正直、まだお二人の著書・訳書は拝読していないので、私自身もついていくのが大変でした。まあ、長年の経験と知識を総動員してぶら下がっていた感じでした。

岸俊光ううjうじ氏氏「冷戦期内閣調査室の変容ー定期報告書『調査月報』『焦点』を手がかりにー」

◇「冷戦期内閣調査室の変容ー定期報告書『調査月報』『焦点』を手がかりにー」

 最初の報告者は岸俊光氏でした。早大、駒大非常勤講師ですが、現役の全国紙の論説委員さんです。諜報研究会での報告はこれで4回目らしいのですが、私も何回か会場で拝聴し、名刺交換もさせて頂きました。そんなことどうでもいい話ですよね(笑)。報告のタイトルは「冷戦期内閣調査室の変容ー定期報告書『調査月報』『焦点』を手がかりにー」でした。

 何と言っても、岸氏は首相官邸直属の情報機関「内閣調査室」、俗称「内調」研究では今や日本の第一人者です。「核武装と知識人」(勁草書房)、「内閣調査室秘録」(文春新書)などの著書があります。

◇内調主幹の志垣民郎

 何故、岸氏が、内調の第一人者なのかと言いますと、内調研究には欠かせない二人のキーパースンを抑えたからでした。一人は、占領下の1952年4月9日、第3次吉田茂内閣の下で「内閣総理大臣官房調査室」として新設された際、その創設メンバーの一人で20数年間、内調に関わった元主幹の志垣民郎氏(経済調査庁から転籍、2020年5月死去)です。岸氏は志垣氏の生前、何度もインタビューを重ね、彼が残した膨大な手記や記録を託され、本も出版しました。

◇ジャーナリスト吉原公一郎氏

 もう一人は、ジャーナリスト吉原公一郎氏(92)です。彼の段ボール箱4箱ぐらいある膨大な資料を岸氏は託されました。吉原氏は「中央公論」の1960年12月号で、「内閣調査室を調査する」を発表し、一大センセーションを巻き起こすなど、内調研究では先駆者です(「謀略列島 内閣調査室の実像」新日本出版社 など著書多数)。吉原氏は当時、「週刊スリラー」(森脇文庫)のデスクで、内部資料を内調初代室長の村井順の秘書から入手したと言われています。私は興味を持ったのは、この「週刊スリラー」を発行していた森脇文庫です。これは、確か、石川達三の「金環食」(山本薩夫監督により映画化)にもモデルとして登場した金融業の森脇将光がつくった出版社でした。森脇は造船疑獄など政界工作事件で何度も登場する人物で、政治家のスキャンダルを握るなど、彼の情報網はそんじょそこらの刑事や新聞記者には及びもつかないぐらい精密、緻密でした。

 あら、話が脱線してしまいました。実は今書いたことは、岸氏が過去三回報告された時の何度目かに、既にこのブログで書いたかもしれません。そこで、今回の報告で何が私にとって一番興味深かったと言えば、内調を創設した首相の吉田茂自身が、内調に関して積極的でなかったのか、政界での支持力が低下して実力を発揮できなかったのか、そのどちらかの要因で、大した予算も人員も確保できず、外務省と旧内務省(=警察)官僚との間の内部抗争で、中途半端な「鬼っ子」(岸氏はそんな言葉は使っていませんが)のような存在になってしまったということでした。岸氏はどちらかと言えば、吉田茂はそれほど熱心ではなかったのではないかという説でした。

◇保守派言論人を囲い込み

 もう一つは、内調を正当化したいがために、先程の志垣氏らが中心になって、保守派言論人を囲い込み、接待攻勢をしていたらしいことです。その代表的な例が「創価学会を斬る」で有名な政治評論家の藤原弘達で、内調主幹だった志垣民郎と藤原弘達は東大法学部の同級生で、志垣氏は約25年にわたり接待攻勢を繰り広げたといいます。他に内調が接近した学者らの中に高坂正堯や劇作家の山崎正和らがいます。

 内調が最も重視したのは日本の共産化を防ぐことだったため、定期刊行物「調査月報」「焦点」などでは、やはりソ連や中国の動向に関する論文が一番多かったことなども列挙していました。

小谷賢氏「戦後日本のインテリジェンス・コミュニティーの再編」

 もう一人の報告者は、小谷賢・日大危機管理学部教授でした。ZOOMに映った画面を見て、どこかで拝見したお顔かと思ったら、テレビの歴史番組の「英雄たちの選択」でゲストコメンテーターとしてよく出演されている方だったことを思い出しました。

◇「戦後日本のインテリジェンス・コミュニティーの再編」

 報告のタイトルは「戦後日本のインテリジェンス・コミュニティーの再編」で、岸氏の研究の内閣調査室も小谷氏の専門範囲だったことを初めて知りました。テレビでは、確か、古代から戦国、幕末に至るまで的確にコメントされていたので、歴史のオールマイティかと思っていましたら、専門は特に近現代史の危機管理だったんですね。

 テレビに出る方なので、テレビ番組を見ているような錯覚を感じでボーと見てしまいました(笑)。

 彼の報告を私なりに乱暴に整理すると、戦前戦中にインテリジェンスの収集分析の中核を担っていた軍部と内務省が戦後、GHQによって解体され、それらの空白を埋めるべき内閣調査室が設置されたが、各省庁の縦割りを打破することができず、コミュニティーの統合に失敗。結局、警察官僚の手によって補完(調査室長、公庁第一部長、防衛庁調査課長、別室長のポストを確保)されていくことになるーといったところでしょうか。

◇「省益あって国益なし」

 戦前も、インテリジェンス活動に関しては、内務省と外務省が対立しましたが、戦後も警察と外務省が覇権争いで対立します。小谷氏によると、警察は情報をできるだけ確保しておきたいという傾向があり、外務省は、情報は政策遂行のために欲しいだけで、手段に過ぎないという違いがあるといいます。いずれも、政府に対して影響力を持ちたいという考えが見え隠れして「省益あって国益なし」の状態が続いたからだといいます。これはとても分かりやすい分析でした。将来悲観的かといえば、そうでもなく、若い官僚の中には軛と省益を超えて国益のために活躍してくれる人がいるので大いに期待したいという結論でした。

◇歴史学者の役割

 小谷氏は、明治から現代まで、日本のインテリジェンス・コミュニティー通史を世界で初めてまとめたというリチャード・サミュエルズ(米MIT政治学部教授)著「特務」(日本経済新聞出版、2020年)の翻訳者でもありました。三島由紀夫事件のことも少し触れていたので、同氏の略歴を調べてみたところ、1973年生まれで、若い(?)小谷教授にとって、1970年の「三島事件」は生まれる前の出来事だったので、吃驚してしまいました。別に驚くことはないんでしょうが、歴史学者は、時空を超えて、同時代人として経験しないことまでも、膨大な文献を読みこなしたり、関係者に取材したりして身近に引き寄せて、経験した人以上に詳細な知識と分析力を持ち得てしまうことを再認識致しました。

見つかった! 海軍兵学校の跡が

銀座・イタリア料理店「La Grotta」

ここ最近、ブログのネタに困ると、すぐ「銀座ランチ」に飛びついてしまいます。

 手頃だということもありますが、これには深い訳があります(笑)。

 まず、職場が銀座なのですが、あと、どれくらい今の職場にいられるかどうか分かりません。あと3年ぐらいは働き続けたいのですが、早ければ今秋にもクビを切られてしまいます。

銀座・イタリア料理店「La Grotta」ランチ ロイヤル三元豚肩ロースのグリルステーキ200グラム フレンチフライ添え 1100円

 となると、そう易々と銀座を闊歩していられなくなります。ということは、銀座でランチもできなくなってしまうのです。ですから、これまで高額で、「敷居が高い」と敬遠していたお店でも、無理してでも行くことにしたのです。全部自腹です。取材費も落ちません。釈正道老師が誤解している青色申告の還付金もありませんよ。

 さてさて、私の職場は、かつては日比谷にありましたが、今は銀座にあります。職場が生活の中心になると、特にランチや夜呑みの店探しで職場近辺を探索します。おかげで、日比谷、新橋、虎ノ門、銀座、有楽町、築地、新富町、八丁堀、明石町辺りは、どんな狭い路地でも、外国人に通訳案内が出来るほど詳しくなりました(笑)。

 でも、おっとどっこいです。まだまだ知らない、行ったことがない路地も沢山ありました。

 今日は、気分を変えて、普段は散策しない路地に入ったら、上の写真の「石碑」を偶然、発見しました。

「海軍兵学寮跡」と「海軍軍医学校跡」の石碑でした。

海軍兵学寮」とは、明治2年(1869年)に前身である海軍操練所が設立された翌年に「海軍兵学寮」と改称されたものです。明治9年に「海軍兵学校」となりますが、明治21年(1888年)に広島県の江田島に海軍大学校が設置されると、同時に海兵学校も移転します。

 海軍軍医学校の前身は、明治6年(1873年)に創設された海軍病院付属学舎です。一時廃止されましたが、日露戦争前に医療スタッフ増強のため、軍医学校が再度設置され、明治41年(1908年)に芝山からこの築地に移転されました。昭和20年11月の閉校まで続きます。

 場所は、築地川の畔で、采女橋の近くです。

 現在、築地川は埋め立てられて、眼下に高速道路が走っています。この石碑は、「新橋演舞場」の対岸といいますか、裏手にあるというべきか、それとも「国立がん研究センター」の裏手にあるというべきか、まあ、その辺りにひっそりと建っています。

 石碑は、あまり宣伝していないので(笑)、まず、知っている人は少ないと思います。

 以前も、このブログに書きましたが、銀座のみゆき通りとは、明治天皇が宮城(皇居のことですよ)から海軍兵学校へ視察行幸される際に通られる道として名付けられました。

 海軍将校養成のエリート学校である築地の海軍兵学校はここにあったんですね!私は、てっきり、今の築地市場場外辺りにあったと思っていました。

愉しみながら米国史が学べる=松岡將著「ドライビング・ヒストリック・アメリカ 懐かしのヴァージニアに住まいして」

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  まさに有言実行の人です。昨年末か、今年に入ってからか、かの満洲研究家の松岡將氏から「今、また本を執筆中です。内容は秘密です」との連絡が入りました。秘密とは…、何か隠したいことでも、御執筆遊ばされているのかと思いつつ、忘れかけていた数日前に、出版社から私の陋屋に「著者謹呈」で本が送られてきました。

 それがこの本「ドライビング・ヒストリック・アメリカ 懐かしのヴァージニアに住まいして」(同時代社、2021年3月26日初版)です。

 「いやあ、凄いなあ」というのが第一感想です。何しろ、本の略歴に書かれていますが、著者の松岡氏は1935年2月7日生まれ。御年86歳ではありませんか!恐ろしいほどの体力、知力です。瀬戸内寂聴さんも吃驚です。

 読み始めてみると、これがめっちゃ面白い。楽しみながら、アメリカの歴史(特に独立戦争と南北戦争)を学ぶことができ、著者ファミリー(御令室、御子息、御令嬢の一家4人)と一緒に米国の名所旧跡を回ることができるからです。

 途中で、「あれ? この話、どっかで読んだことがあったような…?」と思っていましたら、著者が30年ほど前に出版された「ドライビング・アメリカ」(ジェトロ出版部、1992年)から部分的に借用していることが分かりました。私も昨年10月3日付の渓流斎ブログで、「南北戦争と和製英語の話=松岡將著『ドライビング・アメリカ』から」のタイトルで取り上げております。

 「借用」と大袈裟に書きましたが(笑)、本人が書いたものを「引用」しているわけですから、何の問題もなし。この本では、先行の本とは違って、グーグルマップや名所旧跡を訪れた際のプライベートな家族のカラー写真がふんだんに掲載されているので、類書ながら格段の違いです。

 それにしても、86歳の著者の記憶力には驚愕します。

◇スーパー爺ちゃん

 本の巻末やネットの著者略歴に書いてあるので、書いてしまいますが、著者の松岡氏は農水省のエリート官僚で、1972年から76年まで4年間、外務省に出向し、米国の在ワシントン日本国大使館に勤務した人でした。満洲関連本以外に昨年、現地での副産物として、「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 三十六肖像」と「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 参百景」を立て続けに上梓し、そのスーパー爺ちゃんぶりを発揮しました。

 私が大先生に対して、「スーパー爺ちゃん」などと気安く書けるのは(怒り心頭でしょうが)、御本人とは面識があり、御自宅にも何度もお邪魔したことがあるからです。ほとんどの読者にとって、本の著者とは面識を持つ機会に恵まれることは少ないのですが、(作家が故人なら尚更!)、幸運にも私はかつて、文芸記者という仕事の関係で多くの著者本人とお会いすることができました。そうなると、本を読むとその著者の声や言い回し、時によっては笑い声や怒りの声まで活字を通して聞こえてくるのです。この本を読んでいても、松岡氏の微苦笑が何度も目に浮かび、聞こえてきました(笑)。

 「記憶力抜群」というのは、例えば、在米4年間に乗ったフルサイズ車は、GM、フォードの2台で走った総距離は6万マイル(10万キロ)とか、その間使ったガソリンが6000ガロン(2万3000リットル)とか、サンクスギビングデーで食したディナーが、スッタフドローストターキーとクランベリーソース、それにスイートポテトとパンプキンパイ…等々、もう半世紀近い出来事なのに、よく覚えていらっしゃること! …んーむ、そんなことないですね。恐らく、細かいメモや毎日、日記を付けていて、それを参照されたことでしょう。

 とにかく、逸話が満載です。

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 例えば、米大陸最初の英国人による植民は、メイフラワー号ではなく、それに先立つ13年前の1607年、スーザンコンスタント号、ゴッドスピード号、ディスカバリー号の3艘で、場所はヴァージニア州のジェームズタウンだったこと、南北戦争で南軍の総司令官になったロバート・E・リー将軍の夫人アーリントンは、初代大統領ワシントンの夫人マーサの連れ子パーク・カスティス(後にジョージ・ワシントンの養子)の娘だったことから、南部軍総司令官になるまでリー将軍は、カーティス・リー・マンションに住んでいたこと、ヴァージニア州とウエスト・ヴァージニア州の違い…等々、あまり書くとこの本を読む楽しみが減ってしまうのでやめておきます。

◇超大金持ちのR氏とは何者か?

 とは言いながら、どうしても書きたかったことは、松岡氏と大富豪R氏との交歓です。たまたま、世界一周旅行をしていた米国人のR氏夫妻と東京で知り合った二十代後半の松岡氏は、彼が大富豪だとは少しも知らずに、自分の自宅に招いたりして交際し、その後もクリスマスカードをやり取りする仲を続けていました。そして、ワシントンに赴任している際に、ニューヨークに住むR氏の自宅を訪れると吃驚。マンハッタン島の中心地に聳える1棟5階建てのマンションが、彼の自宅。あのジョン・レノンでさえ、ダコタハウスの何階かのフロアーを所有していただけですから、1棟丸ごと所有するR氏は、超大金持ちです。

 それに加えてロングアイランド島東端イーストハンプトンにある別荘が凄い。松岡氏ファミリーはこの別荘に招待され、車で駆け付けますが、ワシントンから飛ばして6~7時間かかる距離。R氏が住むニューヨークからイーストハンプトンまで2時間半。別荘の間取りの広さや絵画や彫刻が飾られた美術館のような部屋は当然のことながら、キャッチボールどころか軟式野球ができそうな広い芝生の庭。そして、何よりも、R氏一家(とそのゲスト)しか入れないプライベートビーチまで付いているのです。

 プラチナ価格のニューヨーク・フィルの年間席を持ち、冬はフロリダを越えてバハマやバミューダにまで足を伸ばし、何年かに1回は世界旅行をする超富裕層であるこのR氏の職業は何で、どんな人物なのか、最後まで書かれていませんでしたが、あのロックフェラーさんなのかなあ、と思ったりしました(笑)。多分違うと思いますが、この本のエピソードの中で、在米日本大使館勤務の松岡氏の御令室が、当時の副大統領だったロックフェラー氏とあるパーティーで出会った時、向こうから「私はバイス・プレジデントです」と名乗るので、御令室はどこかの中小企業の副社長のおっさんか何かと勘違いしたかどうか分かりませんが、「どちらのバイス・プレジデントですか?」と尋ねたそうな。そしたら、本物の副大統領だと分かって後で冷や汗をかいた、といったことも披露されてます。

 まあ、私から言うのも変ですが、面白い本なので、お読み頂ければ幸いです。

 ちなみに、プライバシーになりますが、写真と文章に頻繁に登場する松岡氏の御子息は今では有名なスーパーコンピューターの世界的権威、御令嬢は、大手国際企業の重役さんです。この本を読むと、子どもの時から好奇心旺盛のようでしたから、大物になるはずです。

知ってましたか?江戸、京都、大坂の庶民の暮らしを

Copyright par Keiryusai

 昨日、私の書斎の机の上は「つん読」状態で、まだ読んでいない本や雑誌で溢れかえっている、といったことを書きましたが、月刊誌「 歴史人」もその一つ。面白い特集ばかりやってくれるので、昨年辺りから毎月のように買うようになりました。

 このブログでも何回か取り上げましたが、情報量が多いので読むのが大変。他の本と併読しているせいか、数週間も掛かってしまいます。

 昨日はやっと、3月号の「江戸 京都 大坂 名所めぐりと庶民の暮らし」特集を読了しました。でも、机の上にはまだ4月号の「戦国武将ランキング」特集と5月号の「日本の城 基本のき」特集があります(笑)。「歴史人」は昨年までKKベストセラーズ社の発行でしたが、どういうわけか、今年1月号辺りから発行がABCアーク社に変わったようです。詳細は分かりませんけど、ABCアークを調べたら、どうも大阪のABCテレビ(朝日放送)の関連会社のようです。テレビは、歴史ものやクイズ番組を放送するので、買収したのかしら?スタッフさんはどうも変化ないようですが…。詳しい方は教えてください。

 またまた前置きが長くなりましたが、「歴史人」3月号「江戸 京都 大坂 名所めぐりと庶民の暮らし」の話でした。私が知らなかったり、へーと思ったりしたことを備忘録として箇条書きすることにします。

◇江戸

 ・享保6年(1721年)、幕府が全国調査したところによると、江戸の町方人口は50万1394人だった。これは推定だが、武家人口50万人を加えると、江戸の人口は100万人を超え、ロンドンやパリを超える大都市だった。(私が先日読んた本によると、幕末ではロンドンの人口は300万人ぐらいだったようです)

・明暦3年(1657年)1月18日、明暦大火(振袖火事)が江戸を襲い、市中の6割が灰となり、死者は10万人に達した。

・天皇は幕府の統制下に置かれ、3万石ほどの領地(禁裏御料)を貰っていた。(1万石以上が大名と言われます。3万石だと美濃・高須藩、上総・久留里藩などと同じになります。「江戸の藩の石高ランキング」による)

・江戸には日銭が3000両落ちるとされた。そのうち千両ずつ落ちるのが、朝の魚市場、昼の芝居町、夜の吉原だった。

・忠臣蔵、赤穂浪士で有名な泉岳寺は、もともと徳川家康が幼年時代に身を寄せた今川義元の菩提を弔うために、慶長17年(1612年)に外桜田の地に創建したものだった。しかし、寛永18年(1612年)の大火で喪失し、三代将軍家光の命により今の地に移設・再建された。

・江戸四宿とは、品川、千住、、板橋、内藤新宿のことを指す。

ソメイヨシノとは違う変わった種類の桜 色まで違う! Copyright par Keiryusai

◇京都

・京都の三条大橋は、天正17年(1589年)、小田原征伐が決まった直後、豊臣秀吉が増田長盛に命じて修復・架橋させた。この三条大橋の河原では、石川五右衛門をはじめ、豊臣秀次、石田三成らが処刑された。

・京都・妙心寺は臨済14派の中でも最大宗派で、全国の臨済宗寺院約6500のうち約3500を有する。

◇大坂

・人口の約半分が武士だった江戸に対して、大坂の人口40万人のうち武士はわずか8000人だった。

・元禄年間の地図に描かれた大坂は、現代の北区、西区、中央区の3区に当たる範囲だった。東西約8キロ、南北約6キロと歩いて回れるサイズの街に、最盛期に40万人以上の人が暮らした。

・大坂も、大地震や火災が多く、「坂」は土に返るに通じて縁起が悪い、ということから、大「阪」に変更したという説がある。

江藤淳を再評価したい=「閉ざされた言語空間 占領軍の検閲と戦後日本」を読んで

 山本武利一橋大学・早稲田大学名誉教授が書かれた「検閲官 発見されたGHQ名簿」(新潮新書)の中で、江藤淳著「閉ざされた言語空間 占領軍の検閲と戦後日本」(文藝春秋、1989年8月15日初版)がよく出てきて、自分自身は未読だったため、今さらながらでしたが探し求めて、やっと読了しました。なかなかの労作でした。この一冊を以って江藤淳(1932~99年)の代表作とする識者はいないのですが、私は代表作にしてもいいと思いました。

 何と言っても、今ではかなりGHQによる検閲の研究は進んでおりますが、江藤淳がこの本を上梓するまで、秘密のヴェールに包まれ、占領軍による検閲の実態を知る人はほとんどいなかったからです。著者もあとがきでこう記しています。

 敢えて言えばこの本は、この世の中に類書というものの存在しない本である。日本はもとよりアメリカにも、米占領軍が日本で実施した秘匿された検閲の全貌を、一次史料によって跡付けようと試みた研究は、知見の及ぶ限り今日まで一つも発表されていないからである。

 本書は、著者が1979年から80年にかけて9カ月間、米ワシントンの国立公文書館などに籠って、米占領軍が日本占領中に行った新聞、雑誌等の検閲の実態を調査し、雑誌「諸君!」に断続的に発表したものをまとめたもので、米国における検閲の歴史から、日本で実行した検閲の事案まで事細かく、微に入り細に入り詳述されています。

 全てを網羅することは出来ないので、私が不勉強で知らなかったことを少しだけ特筆したいと思います。

 ・ルーズベルト大統領から直接、検閲局長官に任命され、日本の検閲のプランを作って実行し、その総責任者だったバイロン・プライスは、AP通信専務取締役・編集局長だったこと。(肩書こそ立派ですが、「新聞記者あがり」が検閲のトップだったという事実は、同じように取材と原稿執筆を経験した同業記者として、苦々しい思いを感じました。)

 ・昭和16年12月19日に成立した日本の言論出版集会結社等臨時取締法は、戦後GHQ指令によって廃止を命じられたため、自由を抑圧した悪法の世評が定着しているが、罰則は最高刑懲役1年に過ぎない。これに対して、米国の第一次戦時大権法第303項が規定している検閲違反者に対する罰則は、最高刑罰金1万ドルまたは禁錮10年、あるいはその双方である。江藤淳も「罰則を比較するなら、米国は日本よりはるかに峻厳な戦時立法を行っていたと言わなければならない」と怒りを込めて(?)記述しています。

 こういった自国の検閲の歴史を持つ米国が、占領国の検閲をするわけですから、苛烈を極めたと言っても過言ではありません。

 ◇「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の断行

 それだけではなく、占領軍は、日本の軍部が如何に国民をだまして、戦争を遂行して犠牲を強いてきたかということを強調するために、「ウォー・ギルト(戦犯)・インフォメーション・プログラム」を断行します。その最たるものが、GHQのCI&E(民間情報教育局)がつくった「太平洋戦争史」と題する連載企画で、ほとんどあらゆる日本の日刊紙に連載させます。その一環として、GHQは、1945年12月15日付の「指令」で、「大東亜戦争」という呼称を禁止し、公文書では「太平洋戦争」の名称を使用するように命じます。このほか、「八紘一宇」など国家神道、軍国主義、過激な国家主義を連想させる用語の使用まで禁止します。

 よく知られているように、占領軍に歯向かう思想に通じるような「仇討ち」はもってのほかで、「忠臣蔵」などの上演、上映が禁じられました。

 このような検閲は、敗戦国だから甘んじて受け入れなければならなかったかもしれませんが、同じ敗戦国であるドイツはここまで酷くなかったことを著者は実証しています。

 実際の検閲例や組織など詳しいことを知りたい人は是非、本書を手に取ってください。

 ところで、私の世代は、このような米占領軍であるGHQが指導したプログラムの影響を色濃く反映された「戦後民主主義教育」を受けてきました。そのせいなのか、保守派論客だった江藤淳は、戦後民主主義に反動する右翼の巨魁という怖いイメージが少なからずあったことは否めません。

 しかし、私自身は、もう30年も昔に、彼が日本文藝家協会の会長を務めていた頃、2年近く、何人かの文藝記者と一緒に毎月のように懇談して、江藤淳の人間的側面に触れた経験があります。一言でいえば、真摯で誠実な人柄で、年少だろうが、人の話をよく聞いてくれる方でした。私は初めてお会いした時は拍子抜けしたことを覚えています。

 これはその後の話ですが、江藤淳(本名江頭敦夫)は、私が卒業した東京の海城学園の創設者である古賀喜三郎(海軍少佐)の曾孫に当たる人で、文藝家協会会長の後は、同学園の理事も務めました。事前に知っていたら、その話もできたのになあと残念に思いました。

 人間を右翼とか左翼とかイデオロギーで判断してはいけませんね。国際的な文学賞を受賞しながら、文化勲章を辞退した著名作家は「反日左翼」とか言われたりします。それは的外れの言い過ぎだと思いますが、もう30年も昔、この大作家とは何度も取材でお世話になったことがありました。ただ、自分の家族の売り出しには積極的なものの、短い随筆にせよ、作品発表に関してはメディアを選別したりするので、色んな意味でがっかりしたことを覚えています。勿論、作家としては当然の権利なのですが、偉大な思想家のイメージが崩れ、違和感を覚えました。

 今から振り返ると、江藤淳は生前、あれだけ孤軍奮闘したというのに、最晩年に不幸に見舞われ、気の毒な最期を遂げてしまいました。今年で没後22年にもなりますか…。若い人はもう知らないかもしれません。30年前に毎月のようにお会いした時は、70代の老人に見えましたが、実際は50代後半で、亡くなった時も66歳と、随分若かったことに今さらながら驚かされます。(早熟の秀才でした)

 私は、アメリカ仕込みの戦後民主主義教育を受けてきたせいで、正直に言えば、かつては少なからぬ反対意見を抱いていましたが、江藤淳を改めて再評価して、彼の著作を読んでいきたいと思っています。

【後記】

 「『新聞記者あがり』バイロン・プライスが検閲のトップだったという事実は、苦々しい思いを感じました」と書きましたが、再考すると、「新聞記者あがり」が、検閲担当に一番相応しいと思い直しました。前言を撤回するようで節操がないですが、メディアは、放送禁止用語や差別用語に敏感です。読者から訴えられないように言葉遣いに細心の注意を払って自主規制し、校正には念には念を入れます。この「自主規制」と「校正」を「検閲」に置き換えれば、そっくりそのまま通用するわけです。

「源平藤橘」以外にも伝統ある名前が=名字の歴史

 「歴史人」(ABCアーク)2月号の特集「名字と家紋の真実」は大変読み応えがあり、端から端までゆっくり読んでいたら1カ月以上も掛かってしまいました。

ある程度は知っているつもりでしたが、まさに知らなかったことばかりでした。名前に歴史あり、です。

 この本ではあまりにも多くことが書かれているので、大雑把なことしかこのブログでは書けないことを御勘弁ください。

 まず、古代には氏姓制度があり、地位身分を表す「姓」(かばね=真人、朝臣など)、血筋を表す「氏」(うじ=阿倍、紀、橘、源などの「皇別」と、藤原、大伴、弓削などの「神別」、渡来人の子孫である秦、丹波、武生、高麗などの「諸蕃」)と、職業などで所属する「部」(べ=服部<機織り>、久米<軍事的役割>、犬養<番犬で守衛>)などがありました。

松浦佐用姫 Copyright par Y Tamano

 平安時代になると摂関政治の藤原氏が絶大なる権力を握り、京都の中央政府(という言い方はありませんけど)では有り余ってしまい、地方の国司とか後の守護とかになって荘園領主となり、名前を変えます。

 加藤=加賀の藤原

 伊藤=伊勢の藤原

 後藤=備後、もしくは肥後の藤原

 近藤=近江の藤原

 遠藤=遠江の藤原

まあ、この辺は初級です。日本で一番多い「佐藤」は左衛門尉(左衛門府の判官で検非違使を兼ねたりした)の藤原です。意外と難しい。

  私が知らなかったのは、尾藤と工藤と武藤でした。

 尾藤は尾張の藤原。 なあんだ、でした。

 工藤は、宮殿の造営に関わる「木工助(もくのすけ)」の藤原。現代は、青森県に多い名前です。

 武藤は、武者所の藤原、もしくは武蔵国の藤原でした。

 あ、もう一つ、斎藤は、斎宮(伊勢神宮に奉仕した斎王の御所)の藤原でした。こちらは中級ですね。

 「藤」が入らない藤原氏の末裔には、皆川(下野国皆川荘の藤原)、薬師寺(下野河内郡薬師寺の藤原)、宇佐美(伊豆の荘園で栄えた工藤氏の末裔)、狩野(遠藤氏から分かれた) などがあります。これは全く知らなかった!

 奈良平安から栄えた、もしくは生き残った貴族に藤原氏の他に、「源平藤橘」といって、武士化した源氏と平氏、橘氏があります。このほか、天神様こと菅原道真の子孫には、菅原以外では、今の首相の菅(すが)や元首相の菅(かん)や唐橋、高辻などがあります。

Turtle Copyright par Y Tamano

 戦国時代ともなると、武将たちは大抵、武家の棟梁である源氏か平氏の子孫を名乗ります。例えば、織田信長は、平清盛の末裔と言われ、徳川家康は、清和源氏の新田氏の末裔で、三河に定着した親氏(ちかうじ)から松平姓を名乗り、その九代目の家康が徳川に改めたといいます。

 意外と知られていないのは、毛利(元就)氏です。鎌倉時代の幕府政所初代別当だった大江広元の子孫と言われています。

 長州藩毛利氏が出たので、薩摩藩島津氏の話も付け加えなければいけませんね。一説には、初代島津忠久は、鎌倉幕府の御家人で、源頼朝から薩摩の地頭に任じられたことで島津姓を称したいいます。彼は、渡来人の秦氏の流れを汲む子孫貴族・惟宗広言(これむね の ひろこと)と言われる一方、源頼朝の落胤とする説もあるようです。

 この他、著名武将である伊達(政宗)氏、斎藤(道三)氏、蒲生(氏郷)氏はそれぞれ藤原氏、楠木(正成)氏は橘氏、武田(信玄)氏は常陸那賀郡の武田郡から甲斐に移った甲斐源氏の末裔といわれております。

 あと、名字とは全く関係ないのですが、織田・徳川連合軍が鉄砲部隊を使って武田勝頼の騎馬隊を撃破した「長篠の戦い」は有名ですが、この合戦で、武田の家臣で真田幸村(信繁)の伯父に当たる真田家の嫡男の信綱と次男の昌輝が戦死していたんですね。そのため、幸村の父である三男の昌幸が真田家の当主になったわけです。嫡男信綱が長篠の戦いで討ち死にしないで生き延びていれば、真田幸村がこれほど歴史上有名になっていなかったかもしれません。

 他にも色んなことが書かれていますが、ここでは書き切れないので、ご興味のある方はこの本をご参照ください。

銀座みゆき通りに関する考察=灘の清酒からスティーブ・ジョブズまで

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 東京・銀座のみゆき通り。この通りは、江戸時代、築地周辺に屋敷を構えていた諸大名が、江戸城登城の際に利用したといいます。 明治になると、明治天皇が築地にあった海軍兵学校や海軍大学校などを御視察される際、行幸路とされたため、「みゆき(御幸)通り」と呼ばれるようになったと言われております。

 私はいつも出勤の行き帰りに、よくこのみゆき通りを通るのですが、築地から日比谷方面に向かって昭和通りを渡る横断歩道の辺りで、いつも上記写真の屋上広告が目に飛び込んできます。

 「SINCE 1743」ー。何の変哲もないお酒の看板広告なのですが、これを見る度に、日本人として誇らしくなってしまいます。普段は「自由平等主義者」を自称しておきながら、この時ばかりは極右の国家主義者になってしまいます(笑)。

 「なあんだ。日本も捨てたもんじゃないなあ」

 灘の清酒「白鶴」は、「寛保3年(1743年)、材木屋治兵衛が酒造業開始」と同社の沿革に書かれています。創業1743年ということは、あの世界史のエポックメイキングとなった1789年のフランス革命より46年も前ではありませんか。八代将軍徳川吉宗の時代です。

 逆に言うと、仏革命なんて、随分最近の身近な出来事のようにさえ感じるのです。1743年となると、1776年のアメリカ独立宣言より古いんですからね。どーだ!です。

 灘の清酒といえば、東大進学率で全国的に名高い昭和3年に開校した灘学園の創設者であることは良く知られています。「菊正宗」の嘉納治郎右衛門、「白鶴」の嘉納治兵衛、宮内庁御用達「桜正宗」の山邑太左衛門によって設立されたということですが、顧問になったのが柔道の講道館の創始者で、東京高等師範学校校長、国際オリンピック委員会(IOC)委員などを歴任した嘉納治五郎です。名前から分かるように、彼は、白鶴嘉納家の縁戚だったのです。

 ま、白鶴の看板を見上げて、いつもこんな歴史的、哲学的考察をしながら歩いています。

◇「みゆき族」と加賀まりこ

 みゆき通りは、1960年代はファッション文化の発信地で、VANやJUNなどのアイビールックに身を包んだ「みゆき族」が闊歩していました。女優の加賀まりこさんなんかはその代表的アイコンだったことを覚えています。

 そのみゆき通りに店舗を構えている数多のファッションブランドの中で、ひと際目立つのが、この「ジョン・スメドレー」です。店舗の2階上辺りに同社の鷲か鷹のようなアイコンと小さく「1784」の文字が読み取れます。同社の沿革によると、1784年、ジョン・スメドレーと彼の共同経営者であるピーター・ナイチンゲールによって、イングランドのダービーシャー州マットロックのリーミルズに設立されたということです。 「世界最古の製造工場」とも書かれています。

 おお!こちらも1789年のフランス革命より古い!1743年創業の白鶴には負けますけどね(笑)。

 「ジョン・スメドレー」といえば、やはり、アップル共同創業者のスティーブ・ジョブズを思い出します。iPhoneの新製品発表会の際に、いつも黒っぽいタートルネックの薄いセーターを着て登場していましたが、あれが「ジョン・スメドレー」の「レノルド」と呼ばれるモデルです。1着3万1000円ぐらいするそうですよ。そんなに高いものだったとは!

 いつも同じような格好に見えますが、彼は同じ黒のレノルドを何枚も何十枚も持っていたといわれます。ちなみに、履いているジーズンはリーバイス501、スニーカーは、ニューバランスのM991。彼は禅に興味がある(曹洞宗の僧侶、乙川弘文=故人=を「生涯の師」としして仰いだ)など日本びいきで、たびたびお忍びで京都を訪れていました。

 これも、以前このブログに書いたのですがスティーブ・ジョブズが贔屓にした京都の寿司屋は下京区の「すし岩」、蕎麦は中京区の「河道屋」…まあ、いまだに熱狂的な彼のファンがいて、色んなサイトがありますから、ご興味のある方はそちらをご参照ください。

商業発展に注力した戦国武将・蒲生氏郷=近江商人や伊勢商人までも

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 戦国時代の大名蒲生氏郷(がもう・うじさと、1556~95年)は、その知名度といい、人気度といい、残念ながらトップ10には入らない知る人ぞ知る武将なのですが、これがとんでもなく凄い戦国武将だったことを最近知りました。

 渋沢栄一が「日本近代資本主義の父」なら、蒲生氏郷は「日本の商業の父」と言えるかもしれません。

 私は会津贔屓ですから、蒲生氏郷といえば、織田信長、豊臣秀吉に仕え、会津若松城(福島県)を築城したキリシタン大名だという認識が大きかったのですが、もともとは、近江蒲生郡(滋賀県)の日野城主だったんですね。

 近江日野といえば、近江日野商人の所縁の地として有名です。

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 滋賀県日野町のHPによると、「近江商人」の中でも日野地方出身の商人は特に「日野商人」と呼ばれ、日野で造られた漢方医薬や上方の産物を天秤棒一本で地方へ行商して財をなしたといいます。他の近江商人と比べ出店数においては群を抜き、この形態は今の総合商社の始まりだとも言われています。近江商人の心得である「三方よし」(「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」の三つの「良し」)は有名ですね。

 近江商人の流れを汲むと言われる現代の企業に、武田薬品工業や東レや伊藤忠商事、双日、西武グループ、高島屋などがあることは皆様ご案内の通りです。蒲生氏郷が移封された後、近江日野は衰退してしまい、新しく日野商人が独自で切り開いたという説もありますが、蒲生氏郷が近江日野に商業の種を蒔いたことは間違いないことでしょう。

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 信長の死後、羽柴秀吉の家臣となった蒲生氏郷は、小牧・長久手の戦いや九州征伐などで戦功をたて、天正16年(1588年)に伊勢・松ヶ島12万石に移封され松坂城を築城します。松ヶ島の「松」と秀吉の大坂の「坂」から字を取って「松坂」(後に松阪)と命名したのは蒲生氏郷です。この時、城下町に移住してきたのが、蒲生氏郷の地元の日野商人で、これが名高い「松阪商人」になったというのです。半ば強制的に移住させられた商人もいましたが、大半は、商業の発展に力を注いだ武将の蒲生氏郷を慕って移住してきたと言われています。

 松阪商人で最も有名な人物は三井グループの祖である三井高利です。高利の祖父である三井高安は、もともと近江の守護大名六角氏に仕える武士でしたが、織田信長との戦いに敗れて伊勢の地に逃れてきたといいます。蒲生氏郷が松阪に移封される20年も前のことですが、三井高安は越後守を名乗っていたため、「三井越後屋」(今の三越)の屋号が生まれたと言います。

 松坂城主蒲生氏郷は、楽市楽座を進め、街道を整備して商業発展に力を入れたといいます。伊勢商人の流れを汲む現代の企業には、イオンや伊藤ハムや岡三証券などがあります。

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 蒲生氏郷は、天正18年(1590年)の小田原征伐の後、陸奥会津42万石(後の検地加増で91万石)に移封されます。黒川城(城主伊達政宗は、小田原遅参などを理由に会津を没収され、米沢72万石に減封)を蒲生家の舞鶴の家紋ににちなんで「鶴ヶ城」と改名し、黒川の地名も出身地の近江日野の「若松の森」から会津「若松」と変更します。

 勿論、城下町には日野商人や松坂商人も移住させて商業発展に力を入れますが、どういうわけか、あまり「会津商人」は全国的に有名ではありませんね? でも、近江日野の漆器を、「会津塗」として名産にしたのが蒲生氏郷だと言われています。

 蒲生氏郷は1592年、秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)の際、前線部隊が集結した肥前名護屋城(佐賀県唐津市)にまで参陣しますが、ここで病を得たのが遠因で、この3年後に伏見で39歳の若さで亡くなります。

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 蒲生氏郷が会津に移封されたのは、表向きは伊達政宗ら東北の有力大名を抑えるためという理由ですが、秀吉が氏郷の武勇と領地経営の才覚を恐れたためだとも言われ、毒殺されたのではないかという噂さえあります(病死説が有力)。

 現代の最優良企業である伊藤忠や武田薬品や三井財閥やイオンなどの祖が、蒲生氏郷が種を蒔いて発展させた近江商人や伊勢商人だったと思うと、改めて蒲生氏郷の偉大さを感じませんか?

スパイ・ゾルゲも歩いていた銀座=ドイツ料理店「ケテル」と「ローマイヤ」

 東京・銀座の電通ビル(1933年、横河工務所=三越本店、旧帝国劇場なども=設計、大林組の施工で建てられた電通本社二代目)

 《渓流斎日乗》TMは、ほとんど誰にも知られていないのですが、「世界最小の双方向性メディア」と銘打って、ほぼ毎日更新しております。

 でも、たまに、大変奇特な方がいらっしゃいまして、コメントを寄せてくださいます。洵に有難いことです。昨晩も小澤譲二さんという方から嬉しいコメントを頂きました。まだ面識はありませんが、かなり熱心にお読み頂いていらっしゃるようで、私の心の支えになってくださっております。

 「コメント欄」を御覧になる方はあまりいらっしゃらないと思いますので、重複になりますが、本日は、小澤氏のコメントを引用させて頂くことから始めます。一部省略致しますが、小澤氏は昨晩、こうコメントして頂きました。(一部、捕捉し、誤字等改めています)

かつて「ケテル」があった所(銀座並木通り) 今は、高級ブラント「カルチェ」の店になっています

 もうかれこれ20年も前ですが、私の友人ヘルムートが80年近く祖父の時代から続くドイツレストラン「ケテル」を銀座で経営していましたが、家賃高騰とイタリア飯ブームに押されて、やむなく店を閉めました。私の叔母や母も戦前、Mobo、Mogaの時代の頃に勤めていた朝日新聞社から近かったのでよくこの店に通っていた、と聞いています。

 えーーー!ですよ。

 私もこのコメントに返信したのですが、この「ケテル」は戦前、「ラインゴールド」という名前のドイツレストラン兼酒場で、ここでホステスとして働いていた石井花子(1911~2000年)が、客として通ったスパイ・ゾルゲ(1895~1944年)と知り合った所だと聞いたことがあったからです。石井花子は、ゾルゲの「日本人妻」とも言われ、「人間ゾルゲ」の著作もあり、私も読んだことがあります。(彼女には文才があり、とても面白かった。)ちなみに、「ケテル」は、閉店する前の1980年代~90年代に私は何度かランチしたことがあります。

 石井花子は戦後、処刑されたゾルゲの遺体を探し当てて(雑司ヶ谷の共同墓地に埋葬されていた)、改めて多磨霊園に葬って非常に立派なお墓を建てました。2000年に彼女が亡くなった後、彼女の縁者がこの墓を管理していましたが、今年1月になって、墓所の使用権を在日ロシア大使館が譲り受けることになり、久しぶりにニュースになったことは皆さまご案内の通りです。ゾルゲは、ソ連の「大祖国戦争」を勝ち抜くことができた、今ではロシアの英雄ですからね。

銀座電通ビル 1936年、日本電報通信社(電通)は聯合通信社と合併させられ、同盟通信社となった。戦前は、同盟通信の一部(本体は日比谷の市政会館)と外国の通信社・新聞社が入居 ドイツ紙特派員ゾルゲと、諜報団の一員アヴァス通信社(現AFP通信)のブーケリッチもこのビル内で働いていた

 その石井花子をネットで検索してみたら、そこには「1941年10月4日のゾルゲの誕生日に銀座のドイツ料理店『ローマイヤ』で会食したのが最後の面会だった(ゾルゲ逮捕はその2週間後の10月18日!)」と書かれていたので、これまた吃驚。ローマイヤは、何も知らずに今年1月に初めて行った店じゃありませんか。

ということで、本日は再度、銀座のドイツ料理店「ローマイヤ」に足を運びました。

 銀座並木通りの対鶴ビルにあった「ローマイヤレストラン」の店頭に立つローマイヤさん(「ローマイヤレストラン」の公式ホームページから)※安心してください。お店の店長さんからブログ転載を許諾してもらいました!

 全く知らなかったのですが、そもそも、この店は、第一次世界大戦後にドイツ人捕虜として日本へ連行され、その後、祖国では食肉加工の仕事をしていた縁で帝国ホテルでの職を得てロースハムなどを生み出したアウグスト・ローマイヤ(1892~1962年)が1925年に銀座並木通りの対鶴ビルに開いたドイツ・レストランで、谷崎潤一郎の「細雪」などにも登場。ゾルゲやドイツ大使館員らが足繁く通った店でした。1991年、ビルの改装に伴い日本橋にビアレストランとして移転していましたが、2006年に別の経営者によって銀座8丁目に店舗が復活したというのです。(「ローマイヤレストラン」の公式ホームページによると、現在の銀座あづま通りにある店舗は、2019年3月22日に新装開店したようです)

「ローマイヤ」は1921年に東京・大崎にハム・ソーセージ工場を建設し、製造開始したことから今年で創業100周年。

 ソ連赤軍(現ロシア軍参謀本部情報総局=GRU)のスパイだったドイツ人リヒャルト・ゾルゲがフランクフルト・ツアイトウング紙の特派員などとして勤務していた銀座電通ビルから「ラインゴールド」も「ローマイヤ」も歩いてほんの数分です。今も昔も、世界的な名声から(笑)、ドイツレストランはそう多くありませんから、恐らく、ゾルゲは週に何度もこれらの店に通ったことでしょう。

銀座「ローマイヤ」ランチ「豚ばら肉のロースト~中華風BBQソース~」コーヒー付で1100円

 あれから80年以上経って、ゾルゲも歩いたであろう同じ銀座の歩道を歩いたり、同じように食べたであろうドイツ料理を食したりすると、大変感慨深いものがあります。

 私はいつも歴史を身近に感じ、普通の人には見えない、現実には消え去ってしまったモノを想像することが好きなのです。

闇が深い占領期の検閲の史実=山本武利著「検閲官 発見されたGHQ名簿」

 山本武利著「検閲官 発見されたGHQ名簿」(新潮新書、2021年2月20日初版)を読了しました。

 実は、2月28日の渓流斎ブログで「占領期の検閲問題=三浦義一論文も削除、木下順二は検閲官だった?-第34回諜報研究会」という記事を書きました。この中で、この諜報研究会を主催するインテリジェンス研究所理事長の山本武利一橋大学・早稲田大学名誉教授が最近上梓された「検閲官」(新潮新書)を未読だったため、オンライン講演会で質問もできなかった、といった趣旨のことを書いたところ、この記事に目を留めて頂いた山本先生御本人から「まだ購入されていなかったら献本致しますよ」と、声を掛けて頂いたのです。

 一瞬、自分自身が、GHQ占領下の日本人検閲官か、総務省の高級官僚になったような気分に陥りましたが、せっかくの御厚意ですからお言葉に甘えてお願いしてしまいました。

梅は咲いたか、桜はまだかいな

 いつもながら、前置きが長くなりましたが、これはかなりの労作です。新書のスタイルですが、中身はかなり濃厚です。著者略歴で公表されている通り、山本氏満80歳の著作ですから、本当に頭が下がります。「GHQの検閲・諜報・宣伝工作」など長年にわたってライフワークとして取り組んできたインテリジェンス(諜報)研究の最新の成果が表れています。

 戦後、GHQによる検閲に関しては、江藤淳による先行研究がありますが、山本氏は江藤説を止揚(アウフヘーベン)している格好です。例えば、江藤説では、日本人検閲官は約1万人だった、としていたのに対して、山本氏は2万人余と訂正。また、長洲一二元神奈川県知事(1919~99年)ら東京裁判の検察側証人の事務所雇員を、江藤が検察官グループに入れてしまった誤りなどを山本氏は指摘しています。

 何しろ、GHQによる検閲を主導したCCD(民間検閲局)が閉鎖された時点(CCDは1949年10月31日廃止)での全国の本部・支部の所在地について、山本氏は長年追求してきましたが、ようやく資料が発見できたのが、アメリカ公文書館で、何と2019年11月のことだった、というのです。つい、最近ではありませんか!!江藤淳が「閉された言語空間 占領軍の検閲と戦後日本」(文藝春秋、1989年)を発表した当時は、日本人検閲官だった人は誰一人証言する人はなく、メリーランド大学のプランゲ文庫などが全面的に公開されていなかった時代だったかもしれませんが、もしかしたら、今後も新資料が見つかるかもしれません。(本書では日本人検閲官の体験談がかなり採用されています)

ミモザ

 さて、私自身が、GHQによる検閲という史実を初めて知ったのはいつだったのか忘れてしまいましたが、少なくとも若い頃は、新聞雑誌の検閲や仇討映画や演劇の上映、上演禁止といったこと以外は、あまりよく知りませんでした。特に日本人のインテリによって電話が盗聴されたり、庶民の私信が開封されて英訳されたりしていたことなど、これは超機密の極秘事項だったので、多くの国民が知る由もなかった、というのが実情でしょう。

 本書では、その実体について、的確に教授してくれます。まず、敗戦後の日本を支配下占領軍GHQ(General Headquarters、連合国軍最高司令部)内で諜報、検閲を扱う総本部はG-2(参謀第2部)と呼ばれ、そのトップは、マッカーサーの忠臣チャールズ・ウィロビーでした。そのG-2の傘下には民事を扱うCIS(民間諜報部)と軍事・刑事を扱うCIC(対敵諜報部)が置かれ、このCISに属していたのがCCD(Civil Censorship Detachment、民間検閲局)でした。

 CCDには、郵便、電信、電話の検閲を行う通信部門(Communications)と、新聞、出版、映画、放送等を検閲するPPB(Press, Pictorial &Broadcasting)部門がありました。検閲対象については、例えば、1948年6,9月のリストでは郵便部門が75%と全体の4分の3を占めていました。つまり、GHQは、右翼、左翼の大物も含めて、日本国民の占領軍に対する「庶民感情」を一番知りたかったことになりますね。支配者として、統治の基準を暗中模索で探っていたか、問題人物は刑務所にぶち込むなどしていたのでしょうね。

 日本人検閲官は、かなりの高給で採用されたことを本書で初めて知りましたが、GHQのポケットマネーで給与が支払われたわけではなく、日本政府が賠償金代わりに負担させられていたというのです。まさに、踏んだり蹴ったりですね。

 江藤淳が追及していた当時は分からなかった日本人検閲官については、ほんの一部ながら、本人による手記などで分かってきています。2月27日の諜報研究会のオンライン講座で話題になった進歩派知識人の代表である劇作家の木下順二もその可能性大ですが、後に推理小説の大家となる鮎川哲也(1919~2002)は、「うしろめたい仕事だった」と回想し、ロッキード事件などの追及で「国会の爆弾男」の異名を持った楢崎弥之助(1920~2012、元衆院議員)も、福岡のCCDで検閲に携わった体験談を残しています。

 日本人検閲官は、英語の出来る東大や津田塾大などの若い学生が多かったようですが、興味深かったのは高齢者雇用です。例えば、斎藤玉男という人は、東大医学部を卒業した精神科医で、「智恵子抄」の高村智恵子が入院したゼームス坂病院を開設したり、東京府立松沢病院副院長などを歴任しながら、戦後は職がなく、猛烈な食糧難とインフレに悩まされていたことから、1948年にCCDに採用されます。斎藤は1880年生まれなので、この時、68歳です。他にも高齢者採用の中に、元大学教授や元外交官らエリート層がいましたが、著者の山本氏は「人生50年と言われた当時の60歳代は現在の90歳代に相当するだろう」と書いています。

参謀本部の高級幕僚は売国奴に

 検閲以外で、著者の山本氏が最も糾弾しているのが、有末精三中将や服部卓四郎大佐といった戦時中の参謀本部の高級幕僚だった元軍人で、彼らは専門知識を旧敵国に最高値で売り込み、占領の手助けをしたというのです。山本氏は「売国奴以外の何者でもない」と書いてますが、その通りですね。戦後直後の占領期には、帝銀事件、下山国鉄総裁事件、三鷹事件、松川事件などといった「陰謀事件」が多発し、キャノン機関による工作などGHQの影もちらついています。

 私自身、最近、戦国時代に夢中になって、少しだけ近現代史から遠ざかっていましたが、まだまだ勉強が足りないと実感しました。