エイコ・マルコ・シナワ著「悪党・ヤクザ・ナショナリスト―近代日本の暴力政治」を読む

 新聞の書評で、エイコ・マルコ・シナワ著、藤田美菜子訳「悪党・ヤクザ・ナショナリスト―近代日本の暴力政治」(朝日選書、2020年6月25日初版)の存在を知り、早速購入してこの本を読んでいます。「その筋」の本は、どういうわけか、小生のライフワークになっていますからね(笑)。きっかけは30年も昔ですが、芸能担当の記者になり、芸能界とその筋との濃厚な関係を初めて知り、裏社会のことを知らなければ芸能界のことが分からないことに気が付き、その筋関係の本をやたらと読みまくったからでした。

 この本は、副題にある通り、芸能界ではなく、政治の世界と暴力団との密接な関係を抉りだすように描かれています。暴力というか武力で政治を動かしてきた史実は戦国時代どころか古代にまで遡り、その例は枚挙に暇がありません。この本では、その中でも幕末の1860年(桜田門外の変があった年)から昭和の1960年(浅沼稲次郎暗殺事件があった年)までの100年間に絞って、多種多様な資料と史料を駆使して分析しています。それらは、幕末の志士(彼らは今で言うテロリストでもあった)に始まり、明治の壮士(暴力で敵対する政治家の演説を妨害した)、大正・昭和の院外団(大野伴睦が有名)、そして本物のヤクザの衆院議員(吉田磯吉、保良浅之助ら)を取り上げ、日本人でさえ知らなかった負の歴史を教えてくれます。

 著者のエイコ・マルコ・シナワ氏は1975年、米加州生まれで、米ウイリアムズ大学歴史学部教授という略歴が巻末に載っていますが、著者がどうしてこれほどまでに日本の近現代史に興味を持ち、その専門家になったのか、読者が知りたいそれ以上の情報は、何処にも、ネットにも掲載されていませんでした。名前から日系米国人と推測されるのですが、故意なのか、その点については全く触れていません。幕末明治の史料も相当読み込んでいると思われ、旧漢字も読めなければならないので、かなり日本語に精通した米国人であることは確かのはずです。

 この本の原著は、2003年に著者がハーバード大学の博士号を取得した論文だといいます。最初から一般読者向けに書かれなかったせいか、堅く、読みにくい部分もありますが、外国人から見る日本史は容赦がないので、そういう見方があったのか、と新鮮な気持ちにさえさせてくれます。日本人の学者が、これまであまり真摯に取り上げて来なかった暴力団と政治との濃厚接触関係という視点も外国人の学者だからこそできたのかもしれません。

 巻末の「謝辞」では、実に多くの日米両国の偉大な専門の歴史家にお世話になったか、実名を挙げて御礼の言葉を述べています。が、最初のイントロダクションで、「徳川幕府(1600~1868年)」と出てきたのには驚かされました。1600年は関ケ原の戦いの年で、まだ、徳川家康は全国統一を果たしていたとは言えない年。家康が征夷大将軍に任官された1603年が徳川幕府の始まりと日本では教えられています。また徳川幕府が終わったのも大政奉還の年の1867年でいいんじゃないでしょうか?

 最初から少しケチを付けてしまいましたが、この本から学んだことは大いにあったと断言できます。

 特に、政友会の衆院議員だった暴力団の親分、保良浅之助(1883~1975)については勉強になりました。その前に、この本の表紙にもなっている憲政会の吉田磯吉(1867〜1936)に触れなければなりません。

 吉田は、火野葦平の「花と竜」のモデルにもなった侠客です。荒くれ男が多い遠賀川沿いの北九州若松を根城に賭博場を経営し、筑豊炭坑の石炭を大阪に運ぶ若松港の発展に寄与するなど地元の大親分として一目置かれていました。反政友会候補として政界に打って出て初当選したのが1915年、以後32年まで衆院議員を務めます。労働争議では経営者側に有利なように介入したと言われます。この本には書かれていませんでしたが、彼の葬儀にはわざわざ東京から元首相の若槻礼次郎や民政党総裁の町田忠治までもが参列したことを、猪野健治著「侠客の条件―吉田磯吉伝」 (ちくま文庫) で読んだことがあります。

 一方の保良は、憲政会の吉田磯吉に対抗するために政友会から三顧の礼を持って迎え入れられた人物(衆院議員に当選)でした。勿論、吉田と同じ侠客です。賭場を開帳するヤクザの親分でしたが、山口県下関で身を落ち着けて、魚の運搬に使う竹籠の製造業を大きくし、朝鮮にまで進出して木箱の製造を始め、終いには山口、鳥取、熊本などに製材所や建設会社、製氷会社、下関駅前には山陽百貨店を開業し、兵庫、広島、大阪には数十の劇場まで経営するほどの実業家になります。そして、裏街道では「籠寅組」を率いていたといいますから、驚いてしまいました。この本は政治の話が中心なので、書いていませんでしたが、下関の籠寅組と言えば、その筋では名門中の名門。浪曲師広沢虎造の興行を巡って、神戸の山口組と敵対し、東京浅草で、籠寅組が山口組二代目の山口登組長を襲撃して重傷を負わせた(後にこの傷が元で死亡)武闘派だったからです。

 著者は、政友会が保良をスカウトする際、長州出身の田中義一首相が直々に説得し、その際に、恐らく国家機密を明かしたのではないかと推測しています。その機密事項とは、山東出兵失敗や張作霖爆殺事件の話だと思われるとまで書いています。仮初めにも籠寅組を率いるヤクザの親分と政界トップがここまで親しげな仲だったとは、同時代の日本人はともかく、後世の日本人はすっかり忘れているか、もしくは知らないことでしょう。

銀座「岩戸」アジ丼

 ついでながら、色々と政党が出てきたので、この本に沿って乱暴に整理してみます。

 明治維新の原動力になったのが、薩長土肥の四藩。それが自由民権運動が高まる中、明治一四年の政変が起こり、権力が薩長二藩に独占されます。薩摩が海軍、長州が陸軍を仕切るわけです。野に下った土佐高知の板垣退助は自由党を結党し、肥前佐賀の大隈重信は改進党(後の進歩党)を結党します。この両者は、一時期、隈板内閣をつくり、1898年に合併して憲政党を結党するなど密月があったものの、間もなく分裂します。1900年、旧自由党に、伊藤博文、星亨らが合流して結党したのが、政友会です。一方の反政友会の流れは、1913年、桂太郎による立憲同志会が結成され、16年には中正会などと合流して憲政会(27年に民政党に改称)となるわけです。憲政会の初代総裁加藤高明は、岩崎弥太郎の女婿となったことから「三菱の大番頭」と皮肉られ、後に首相になった人です。

 昭和初期に青年将校らによって「財閥と結託した腐敗政党」と糾弾されたのが、この政友会と民政党の二大政党のことです。政友会には三井財閥、民政党には三菱財閥がバックにいたことは周知の事実だったことから、血盟団事件では三井の総帥団琢磨らがテロで暗殺されたりするのです。(つづく)

 

 

歴史を塗り替える新事実には驚くばかり=Nスぺ「戦国~激動の世界と日本~」

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

いやあ、これまでの歴史観が百八十度引っ繰り返ってしまいましたよ。「これまで自分は、何の歴史を学んできたんだろう?」と呆然とするぐらいの衝撃がありました。 

 今年7月11日に放送されたNHKスペシャル「戦国 ~激動の世界と日本~」第1集「秘められた征服計画 織田信長×宣教師」と第2集「ジャパン・シルバーを獲得せよ 徳川家康×オランダ」のことです。

 恐らく皆さんは御覧になったと思いますが、私は見ていませんでした。でも、心優しい友人たちが録画したDVDを貸してくれました。本当に驚きました。見ていて何度も「そういうことだったのか」と膝を打ち、解けなかった複雑なジクソーパズルが繋がった感じがしました。

 「新発見で迫る戦国日本の真実」と銘打っていますから、歴史学者さえも知らなかったことかもしれません。とにかく、バチカンにあるイエズス会ローマ文書館に所蔵されている初公開の宣教師文書やオランダ国立公文書館が所蔵する「世界初の株式会社」と言われているオランダ東インド会社の平戸オランダ商館文書などの記録や報告書から、これまでの歴史を塗り替える新真実が発見されたのです。

 日本の戦国時代とは、応仁の乱が始まる1467年から、徳川家が豊臣家を滅亡させて全国統一を完成させた大坂の陣の1615年までの約150年間のことを指しますが、単なる狭い国土での内戦に過ぎないかと思っていたら、実は、当時世界最大の帝国スペイン(旧教)と新興国オランダ(新教)との代理戦争の側面があったという驚くべき事実があったのです。グローバリズムは20世紀末に始まったわけではなく、東インド会社の登場の17世紀初頭から始まっていたのです。シカゴ大学のケネス・ポメランツ教授が指摘するように、「戦国時代の日本は、まさに世界史の最前線にいた」のです。

◇スペインの日本征服計画

 第1集の「秘められた征服計画」では、スペインが宣教師を先兵というか、隠れ蓑にして、いや、諜報機関として日本人を洗脳して、挙句の果てには植民地として征服してしまおうという計画があったことが、宣教師から国王フェリペ2世への報告書などで浮かび上がります。フェリペ2世は、「征服王」の異名を持つ野心家です。スペインは、宣教師を先兵にして中南米からアジアにかけて広大な植民地を獲得してきました。

 しかし、戦国時代の日本は、世界でも稀に見る軍事大国で、メキシコやペルーやフィリピンのように簡単に植民地化できないことから、最終目的である中国の明を日本の軍事力を利用して征服するという計画にひとまず変わっていきます。

 宣教師たちは、戦国大名の中でも飛ぶ鳥を落とす勢いでのし上がってきた尾張の弱小国の織田信長に目を付けて取り入ります。その情報収集能力と先見の明は大したものです。これではスペインではなくスパインです(失礼しましたあ)。信長もスペインの持つ銃などの武器が欲しいので宣教師たちを利用します。信長は宣教師たちを通して得た最新鋭の銃を使って、長篠の戦い(武田家が滅亡)や石山本願寺での戦い(仏教勢力が衰退)に打ち勝ち天下統一に近づきます。一方で、宣教師たちは、キリシタン大名高山右近(摂津)らに信長に参戦するよう働きかけていたのです。

 この間、日本は世界でも稀にみる軍事大国になり、鉄砲は西洋より性能が良い国産化に成功します。(弾丸の鉛はタイの鉛鉱石の鉱山から発掘されたものだったことにも驚きました) 

 信長が本能寺の変で亡くなった後、宣教師たちは逸早く、豊臣秀吉に接近します。しかし、秀吉の方が一枚上手で、スペインより先に明への遠征を企み、その前に朝鮮出兵します。しかも、小西行長らキリシタン大名を最前線に送り、彼らの弱体化を図り、バテレン追放令まで出します。さらに、秀吉はフィリピンに密偵を派遣し、スペインの富を強奪する企みまでし、宣教師たちに「秀吉は傲慢と野心の塊」と報告書に書かせます。番組では触れてませんでしたが、秀吉がバテレン追放令を出した背景には、宣教師が日本人を奴隷にしてルソン島に運ぶ奴隷船の先兵になっていたことを見抜いていたからだという説もあります。

 ◇大坂の陣はスペイン対オランダの代理戦争

 第2集の「ジャパン・シルバーを獲得せよ」では、当時の日本は銀山王国で、佐渡銀山では多い時は年間100トンと世界の産出量の3分の1もの大量の銀を産出していたという驚くべき事実が明かされます。これまで「日本は資源が出ない」と教えられてきたので、引っ繰り返るほど驚きました。

 この銀に目を付けたのが、スペインとの独立戦争を戦っていた新興国オランダでした。東インド会社のジャック・スペックス商館長は徳川家康に接近し、オランダは、スペインのような布教や領土獲得の野心はなく、ただ貿易による利益を追求したいだけだと説得して、家康の望む大量の武器弾薬を売りつけます。これらの武器が関ケ原の戦いや大坂の陣などに使われます。特に大坂の陣では、大坂城の豊臣秀頼側にスペインが付き、まるでオランダとスペインとの代理戦争の様相を呈します。最後は、徳川方がオランダ製のカノン大砲を500メートル離れた遠方から大坂城を攻撃して勝利を収めます。この大砲購入により、銀貨1万2000枚分、重さ97トンもの銀が日本からオランダに渡り、オランダがスペインとの独立戦争に打ち勝つ原動力になったのです。

◇日本初の外人部隊か?

 話はこれで終わらず、オランダとスペインの「植民地争奪戦争」は続き、特に、スペインが支配していた現インドネシアのモルッカ諸島へ、何と日本人のサムライが傭兵として派遣され、オランダがスペインの要塞を奪取した様が、オランダ国立公文書館の報告書に出ていたのです。そこには、積荷リストとして、火縄銃や刀、槍のほか、「ユウジロウ 月7万2000円(換算)、ヤサク 月7万2000円、ソウエモン 月8万8000円」などと日本人の名前とその月給まで書かれていたのです。

 戦国の時代が終わり、仕事がなくなった武士(サムライ)たちが海外に職場に求め、スペインの要塞を陥落させ、オランダ人からは「スペインを駆逐するのに日本人傭兵が大いに役立った」と報告書の中で言わしめていたのです。

 このほぼ同時代に、欧州では三十年戦争(1618~48年、哲学者デカルトも参戦)があり、オランダが勝利し、スペインが敗れて衰退するきっかけとなりますが、この時オランダが使った大砲の銅は「日本産」だったというのです。世界史の大転換の中で、日本はすでに、グローバリズムに取り込まれ、「貢献」していたことも驚きです。 

 この番組を見て、「本当に歴史を書き換えなければならないのではないか」という思いを強くした次第です。(あくまでも個人的な感想でした。南蛮人がキリスト教を武器に日本征服を企んでいたことが、500年経ってやっと公文書初公開で明らかになるとは!驚きを通り越して恐怖すら感じます)

「ゾルゲを助けた医者 安田徳太郎と〈悪人〉たち」はお薦めです

 4連休中は、沖縄にお住まいの上里さんから航空便でお贈り頂いた安田一郎著「ゾルゲを助けた医者 安田徳太郎と〈悪人〉たち」(青土社、2020年3月31日初版)をずっと読んで過ごし、読了しました。

 皆さんから「お前は、いつも人様から贈られた本ばかり読んでいるのお」と批判されれば、「責任を痛感しています。真摯に反省しております」と応えるしかありません。

 上里さんからは、これまで、大島幹雄著「満洲浪漫  長谷川濬が見た夢」 (藤原書店)や森口豁著「紙ハブと呼ばれた男 沖縄言論人 池宮城秀意の反骨」(彩流社)など何十冊もの心に残る良書を贈って頂き、本当に感謝申し上げます。

 さて、安田一郎著「ゾルゲを助けた医者 安田徳太郎と〈悪人〉たち」のことです。

 これでも私はかつて、「ゾルゲ研究会」(通称、すでに解散)なる会に属したことがあるので、ゾルゲ事件の関する書籍はかなり読んでおりますから、事件には精通しているつもりでした。

 もちろん、安田徳太郎(1898~1983、享年85)についてもゾルゲ事件に連座して逮捕された諜報団の一員だということは知っておりました。しかし、正直、医者だったということぐらいで、彼がどういう人物で、何故逮捕されたのかまではよく知りませんでした。諜報団の中で、それほど目立った動きをした重要人物でもなかったし、半ば当局がこじつけて諜報団の一員に仕立て上げたような感じもあったからです。

 本書を読んで初めて、安田徳太郎という人となりが分かりました。この本の著者は、徳太郎の長男一郎(1926~2017、享年91、元横浜市立大学文理学部教授、心理学者)ですから、徳太郎本人の少年時代の日記を始め、家族親族でしか知り得ない事柄が満載されています。(著者は文章を書く専門家ではないので、前半は読みづらいというか、分かりにくい箇所がありましたが、後半はすっきり読めました)

 まず驚くべきことは、徳太郎の縁戚関係です。労働農民党代議士でただ一人治安維持法に反対して暗殺された「山宣」の愛称で慕われた山本宣治は、従兄弟に当たり、ホトトギス派の俳人として名をなした山口誓子(せいし、本名新比古=ちかひこ)はまたいとこに当たります。

 また、同じようにゾルゲ事件で逮捕された作家の高倉テル(京都帝大時代、河上肇の影響でマルキストになる)は、徳太郎の妹つうの夫、つまり、義弟に当たります。

 このほか、徳太郎の進路に影響を与えた人として小説家の近松秋江まで登場します。

 徳太郎は、明治31年、京都市生まれ。旧制府立三中から京都帝大医学部を卒業したエリートで、日本で初めてフロイトの「精神分析入門」を翻訳して紹介した人でもあります。若い頃に大逆事件などを体験し、軍国主義が高まる中、三・一五事件など治安維持法による共産党弾圧を見聞し、昭和初期には東京・青山の一等地(とはいっても、当時の青山はファッション街ではなく、麻布連隊区司令部や第一師団司令部、陸軍軍法会議などがある「軍都」でした)に内科医を開業します。特高によって拷問死した日本共産党中央委員の岩田義道や作家の小林多喜二の凄惨な遺体を検分したりしたことも、当局からマークされる遠因になります。

 徳太郎のゾルゲ事件での逮捕容疑のきっかけは、この青山の内科医にゾルゲ諜報団の中心人物宮城与徳が昭和10年1月に「肺病で喀血した」と診察に訪れたことで始まりました。

 宮城は沖縄出身の画家で、1920年に渡米、27年には米共産党日本人部に入党し、コミンテルンによる派遣で昭和7年(1932年)に日本に戻り、本部から指令されるまま、ゾルゲの下で諜報活動に従事した男でした。診察以外でも「諜報活動」のため、度々医院を訪れるようになった宮城与徳は、昭和15年の初めに「ドイツ大使館にいる私の友人が肺炎で危篤なってます。先生、例の肺炎の特効薬を下さいませんか」と頼み込んできました。徳太郎は「宮城さんの友人がナチ・ドイツ大使館にいるというのはおかしな話だ」と思いながらも薬を渡します。数日後、宮城が「おかげで、友人は全快しました」と御礼にやって来ます。これが、この本のタイトルにもなっている「ゾルゲを助けた医者」につながるわけです。

 徳太郎は昭和17(1942)年6月に逮捕され(尾崎秀実やゾルゲらが逮捕されたのは、前年昭和16年10月)、治安維持法、軍機保護法、国防保安法違反の罪名で起訴されますが、結局、治安維持法違反の一つだけで昭和18年(1943)年7月に仮釈放されます(判決は懲役2年、執行猶予5年)。この中で、面白い逸話が書かれています。

 裁判が終わって、徳太郎は平松検事に挨拶に行き、「正直言ってこの事件は何が何だかさっぱり分からないのですが、真相は何なんですか?」と尋ねます。すると、平松検事は「分かるわけない。わしらでさえ分からないのだから。コミンテルンというが、実際(ゾルゲ)はソ連赤軍第4本部の諜報機関(所属)なんだよ」と答えたといいます。

 徳太郎を逮捕し、取り調べに当たった警視庁青山署の高橋与助・特高警部は「てめえこのやろう、ふざけやがって、ゾルゲの命を助けたな。この国賊、非国民が。天皇陛下に申し訳ないと思わないのか」と怒鳴りまくり、髪の毛を引っ張ったりしましたが、コミンテルンとの関係ばかり追及したといいます。一方の司法省の検事たちは、ゾルゲの自白で、ある程度、真相を分かっていたということになります。

 実際、ゾルゲは赤軍4部から派遣されたスパイであり、コミンテルンは、徳太郎が釈放される1カ月前の1943年6月10日に解散していたわけですから。

 この本は、ゾルゲ事件に関心がない人でも、明治末に生まれた若者が、大正デモクラシーと米騒動と労働争議と昭和恐慌、軍国主義まっしぐらという日本史の中でも稀に見る激動の時代を生き抜いた様子を読み取ることができます。

 他にも、青山にあったすき焼き料亭「いろは」の創業者木村荘平(葬儀社「東京博善」=現廣済堂グループ=の創業者でもあり、女性関係が盛んで30人の子持ち。八男荘八は、画家で永井荷風の「濹東綺譚」の挿絵担当、十男荘十は直木賞作家)の話など、意外と知られていない色々な逸話も描かれていますので、お薦めです。

 ちなみに、著者の安田一郎は3年前に亡くなっているので、編者として本書の出版にこぎ着けたのは一郎の次男で徳太郎の孫に当たる安田宏氏(1960〜、聖マリアンナ医科大学教授)です。

「川越城本丸御殿」訪問記=日本100名城

世間の皆様と同じように4連休でしたが、雨が降り続いて、どうも外に出る気がしませんでした。一体いつになったら梅雨は終わるんでしょうか?こんな長いのありましたかね?(調べたら、梅雨明け最短は、2018年の6月29日。最遅は1982年の8月4日だとか)

 家に閉じこもり、本を読んだり、録画した番組ばかり見てましたが、今日は思い切って川越城に行ってみることにしました。

川越・藏の街通り

 実は、公益財団法人日本城郭協会が選定した「日本100名城」と「続 日本100名城」(学研)の公式ガイドブックを買ってしまい、パラパラめくっているうちに、やはり、「100名城」ぐらい生きているうちに行っておかないと、と思ってしまったからなのです。

川越のシンボル「時の鐘」

 日本では、山城、城址、城郭、国宝・重文の現存12天守をひっくるめて「城」とすると、全国で3万あるとも5万あるとも言われています。一生のうちで全てを回るのは、まあ、大変というか難しいことでしょう。

 私はこれまで50以上のお城を回ってますが、そろそろ、残された時間も有限になってきたので、名城に絞って行きたくなりました。

 ということで、まずは自宅近くの関東近辺のお城は取り急ぎ、日帰りで行ってみようかと思ったのでした。

 川越は、通訳ガイドの研修で行って以来、多分、6、7年ぶりです。昔の記憶を頼りに行ってみましたが、すっかり忘れてしまっておりました。これではガイドになりませんね(笑)。

 でも、観光地らしく、案内地図があちこちにあったおかげで、迷子、いや迷い人にならずに行けました。

最初に目指したのは、川越城本丸から北西に位置する東明寺です。

ここは、歴史に名高い「河越合戦(夜戦)」が1546年春に行われた激戦地です。

 ここは、小田原の北条氏康率いる軍勢8000が、関東の反北条連合軍8万を夜戦で打ち破った古戦場です。この「東明寺口の合戦」では、扇谷(おおぎがやつ)上杉朝定が討ち死にし(病死の説も)、扇谷上杉氏が滅びて、関東の国衆の多くが北条方の傘下になった歴史的戦争でした。

 詳しくは、上記に書かれております。北条氏康は、川越城に立て籠もる義弟北条綱成以下3000の兵を加勢に出陣したわけです。

 関東連合軍(関東管領の山内=やまのうち=上杉憲政、古河公方=こがくぼう=足利晴氏など)の8万の数は疑わしいという説がありますが、とにかく、関東一円が、北条氏の支配下に決定的となった歴史的な戦なのです。

 河越(川越)夜戦の激戦地、東明寺は、一遍上人の時宗だったんですね。知りませんでした。先日、時宗総本山清浄光寺(遊行寺、神奈川県藤沢市)にお参りに行ったばかりですから、不思議な御縁を感じました。

 この日はたまたま、どなた様かの法事があり、境内の本堂からお経が聞こえてきました。ここの御本尊様は、虚空蔵菩薩でした。

 河越合戦から約半世紀後の1590年、小田原北条氏は、豊臣秀吉に滅ぼされ、関東一円(主に武蔵国)は、三河出身の徳川家康に委任されたことは御案内の通りです。

 東明寺まで、JR川越駅から歩いて30分という話でしたが、50分ぐらい掛かり、結構それだけで疲れてしまいました。

 しかし、これからが本番です。川越城本丸御殿を目指します。(結局、東明寺から20分は掛かりました)

 途中で、川越城中ノ門と堀があったので見学しました。

 川越市内は、今ではすっかり商店街と住宅街になってしまいましたが、ここのお堀だけは歴史的遺産として残すことが決まったといいます。

 見ていると、往時が偲ばれ、きらびやかな商店が並ぶ観光地・川越が、実は、城下町だったことがこのお堀で分かります。

 中ノ門堀の仕組みは、上記の通りです。

 川越市役所の前に銅像があり、「あの人かな?」と思ったら、やはり、太田道灌でした。

 太田道灌は1456年、主君扇谷上杉持朝の命で、父道真(資清)とともに、河越城を築いた人です。(続いて、太田道灌は、岩槻城も築城したと言われていましたが、最近は、そうではなかったという異説が有力になっているようです。岩槻にあった太田道灌の銅像、あれは何だということになりますが…)

 翌57年には、古河公方に与する房総の千葉氏を抑えるために、武蔵国豊嶋郡に江戸城も築きます。

 後に関東の覇者となった家康が、この江戸城を拠点としたので、太田道灌を特別に英雄視したと言われています。でも、当たっていることでしょう。

 扇谷上杉氏の家宰だった太田道灌はあまりにも優秀だっため、主君上杉定正は自分の地位が脅かされるのではないかと不安と疑念を抱き、ついに道灌を謀殺してしまうからです。

 先日、お城に関連したテレビ番組を見ていたら、ある若い美人の女性タレントさんが、「江戸城ってどこにあるんですか?」と聞き、お城好きで知られる落語家から「皇居ですよ」と教えられると、「えー、知らなかった」と叫び、その落語家も見ていた私ものけぞって驚きました。

 皇居が江戸城だったことを知らなければ、明治維新も知らないだろうし、戦前まで言われていた宮城も知らないだろうし、徳川将軍も知らなければ、まさか、太田道灌のことも知らないだろうなあ、と思わず確信してしまいました。

 さて、話が脱線しているうちに、川越城本丸御殿に到着しました。

 川越は、昔から何度も行ったことがありますが、お城に行くのは何と今回が初めてです。この本丸御殿の近くに野球場があり、広い駐車場もあり、その辺りに昔、駐車したこともありましたが、当時は城にはさほど興味がなかったので、ここに本丸御殿があることなぞ、知るよしもなし。

 入るのに検温と消毒と、それに名前と電話番号まで書かされました。(本丸御殿、市立博物館、市立美術館の3館共通券で370円)体温36度4分。

 上の写真は、本丸御殿に移築された家老詰所です。

 明治初期に解体され、現ふじみ野市の商家に再築されていたのが、昭和62年に川越市に寄贈され、ここに移築されたとか。

 中では、御家老連中が真剣な表情で、評定しておりました。幕末は、三浦半島やお台場などの警備を川越藩は一手に任されるのですから、大変な重役です。

 中庭もなかなか風情があってよかったです。江戸時代にタイムスリップ。

 本丸御殿から少し南に位置する高台にあった川越城富士見櫓跡です。

 川越城は、天守がなかったらしく、この富士見櫓が藩内で一番高い建物だったそうです。昔は、ここから富士山がよく見えたそうです。

鳥良商店のユーリンチー定食858円

 川越城本丸御殿のあと、道路をはさんで隣りの川越市立博物館と同美術館を覗いてきました。それぞれ、かつては二の丸、三の丸があった所です。再び、三度、検温、消毒、名前と電話番号を明記。

 川越藩は、隙を伺う伊達藩などの東北に睨みを利かせる要所となる親藩ですから、代々の藩主は老中になるなど幕閣の逸材を輩出しました。

 特に有名な人は、三代将軍家光の小姓も務めたこともある、「知恵伊豆」と呼ばれた松平伊豆守信綱(1596~1662)です。野火止用水や川越街道を整備したり、川越祭りを始めたのもこの人だといいます。

 彼は、何と言っても、中年の頃、島原の乱のために出兵し、最後は総大将として乱を平定しています。戦後、この功績で忍藩から3万加増されて6万石の川越藩に移封されたわけです。

 松平信綱の墓は、小生も子どもの頃からよく行ったことがある臨済宗妙心寺派の平林寺(埼玉県新座市)にあります。昔は、私の母校・東久留米第四小学校(廃校)からこの寺まで歩く「歩行会」があったり、友だちの誕生会があったりして、広い境内の野原でシートを敷いて飲食したり、鬼ごっこをしたりしていましたが、HPを見たら、今は、飲食は、禁止されているようです。

 世の中、世知辛くなりましたねえ。

橘木俊詔著「”フランスかぶれ”ニッポン」はどうも…

 世間では誰にも認められていませんが、私は、「フランス専門」を僭称していますので、橘木俊詔著「”フランスかぶれ”ニッポン」(藤原書店、2019年11月10日初版)は必読書として読みました。大変面白い本でしたが、途中で投げ出したくなることもありました(笑)。

 「凡例」がないので、最初は読み方に戸惑いました。

 例えば、「長与(専斎)に関しては西井(二〇一九)に依拠した」(53ページ)や「九鬼周造については橘木(二〇一一)に詳しい」(104ページ)などと唐突に出てくるのです。「えっ?何?どうゆうこと?」「どういう意味?」と呟きたくなります。

 (これは、後で分かったのですが、巻末に書かれている参考文献のことで、まるかっこの中の数字はその著書が発行された年号のことでした。学術論文の形式なのかもしれませんが、こういう書き方は初めてです)

 著者は、経済学の専門家なので、「フランスはケネー、サン=シモン、セイ、シスモンディ、ワルラス、クールノーなど傑出した経済学者を生んだ」(180ページ)と筆も滑らかで、スイスイと進み、それぞれの碩学を詳細してくれますが、専門外の分野となると途端にトーンがダウンしてしまいます。

 例えば、世界的な画家になった藤田嗣治の章で、「乳白色の裸婦」を取り上げた部分。「絵画の手法などについては素人の筆者がどのような絵具や顔料を用い、キャンバスにどのような布地を用いたのか、…などと述べる資格はないので、乳白色の技術についてはここでは触れない」。 えっ?

 「ドビュッシーは女性関係も華やかであったが、これまで述べてきたようにフランスの作家や画家の多くがそうであったし、別に驚くに値しないので、詳しいことは述べない」。 えっ?待ってください。また?

 「物理学に疎い筆者が湯浅(年子)の研究内容を書くと間違えるかもしれないし、読者の関心も高くないであろうから、ここでは述べない」。 もー、勘弁してください。少しは関心あるんですけど…。

 ーまあ、ざっとこんな感じで、読者を2階に上げておいて、「この先どうなるんだろう」と期待させておきながら、さっと階段を外すような書き方です。

 そして、画家の久米桂一郎(一八六六-一九三四)の次の行の記述では、

 「浅井忠(一九三五-九〇) 黒田清輝(日本西洋絵画の開拓者は、美術学校出身ではなく、東京外国語学校出身だったとは!←これは私の感想)や久米桂一郎よりも一〇年早く生誕している」と書かれているので、「おかしいなあ」と調べたら、浅井忠は(一八五六-一九〇七)の間違いでした。日本の出版界で最も信頼できる藤原書店がこんなミスをゆめゆめ見逃すとは!悲しくなります。

 文句ばかり並べましたが、幕末・明治以来「フランスかぶれ」した日本の学者(辰野隆、渡辺一夫ら)、作家詩人(永井荷風、木下杢太郎、萩原朔太郎、太宰治、大江健三郎ら)、画家(藤田嗣治ら)、政治家(西園寺公望ら)、財界人(渋沢栄一ら)、ファッション(森英恵、三宅一生、高田賢三ら)、料理人(内海藤太郎ら)ら歴史的著名人を挙げて、平易に解説してくれています。(私は大体知っていたので、高校生向きかもしれません)

 ほとんど網羅していると言っていいでしょうが、重要人物である中江兆民や評論家の小林秀雄についてはごく簡単か、ほとんど登場しないので、もっと詳しく解説してほしかったと思いました。

 それとも「私の専門外なので、ここでは詳しく触れない」と著者は抗弁されるかもしれませんが…。

 (6年前に「21世紀の資本」のトマ・ピケティ氏が、日仏会館で来日講演された際に、橘木氏も同席して、橘木氏の御尊顔を拝見したことがあります。「経済格差問題」の権威として凄い方だと実感したことは、余談ながら付け加えておきます。)

「慶喜が敵前逃亡しなければ」「孝明天皇が急死しなければ」「錦の御旗が偽造されなければ」=松田修一著「斗南藩ー泣血の記ー」

(7月13日のつづき)

 松田修一著「斗南藩ー泣血の記ー」(東奥日報社)が異色の幕末史となっているのは、これまで「薩長史観」で洗脳に近い形で教え込まれていた常識や史実が、百八十度、ひっくり返ってしまうことです。

 例えば、「松下村塾」を開き、維新の原動力となり、精神的支柱になった長州藩の吉田松陰のことです。偉人です。神格化され、明治になって本当に神になって松陰神社(東京都世田谷区)に祀られた人です。吉田松陰は安政の大獄で刑死となりましたが、文久3年に高杉晋作、伊藤俊輔(博文)らによって、毛利藩主の別邸に改葬され、明治15年になって、そこにそのまま松陰神社が建てられたのです。

 同神社の由緒では、「吉田松陰先生は、世界の中の日本の歩むべき道を自分自身が先頭となり、至誠、真心が人間を動かす世界を夢見て弟子たちと共に学び教えていきました。新しい時代の息吹が松下村塾の中に渦巻き、次の時代を背負う多くの俊才、逸材を生み出したことは、広く世界の人々が讃える所であります」などと稀に見る立派な教育者で、思想家となっております。しかし、松田氏の「斗南藩」では、彼は、黒船のペリー提督や南紀派中心人物である水野忠央(ただなか=紀州藩江戸定府家老)、老中間部詮勝(まなべ・あきかつ=越前鯖江藩主)ら要人暗殺を企てて若者を煽動したテロリストだったと書かれています。

 松田氏は「神社の創建以降、松陰の顕彰に最も熱心だったのは、山縣(有朋)だった。…軍拡にまい進した『日本陸軍』の父である。対外戦争の時代、国家が『愛国』『殉国』の権化としての松陰像を称揚していったが、まさか、暗殺、テロで政権に歯向かおうとした人を子どもに修身で教えるわけにはいかない。松陰の負の横顔は隠され、軍国主義に都合のいい側面だけを利用したのである」と書いていますが、彼が参考にした文献は、萩博物館特別学芸員・一坂太郎著「吉田松陰ー久坂玄瑞が祭り上げた『英雄』」という本でした。萩の人が、地元の英雄を批判していたのです。松田氏は「松陰のお膝元の人が刊行したので、一坂氏に有形無形の圧力がかかるようになったという」ことまで明かしています。

 ということで、この「斗南藩」を読了しましたが、やはり、敗者からの視点で描かれているとはいえ、読んでいて、腹立たしくなったりして「切歯扼腕」状態でした。歴史に「イフ」はない、とはよく言われますが、(1)「鳥羽伏見の戦いの最中、もし徳川慶喜が、大坂城からわずかな側近だけを連れて逃げ出さなかったら」(2)「もし、孝明天皇が急死しなければ」(3)「もし、岩倉具視らが『錦の御旗』を偽造しなかったら」歴史は全く違ったものになっていたことでしょう。

 (1)については、「徳川慶喜が大坂城を脱走したのは慶応4年1月6日の夜9時ごろ。随行は松平容保(会津藩主)とその実弟松平定敬(桑名藩主)、老中板倉勝清ら数人。慶喜に『一緒に来い』と命じられた容保は、庭でも散歩するのかと思い、ちり紙も持たずに従ったという」。総大将が敵前逃亡してしまえば、前線の兵士は梯子を外された格好で、これで敗戦が決まったようなものです。

 (2)の35歳の若さで崩御された孝明天皇については、著者は岩倉具視を黒幕としたヒ素による毒殺説を支持しています。孝明天皇は、会津藩に対する信任が厚く、その証拠として本書では宸翰(しんかん=天皇の直筆の文書)まで掲載しています。反幕府の公家や薩長にとって、会津シンパの孝明天皇が邪魔だったのかもしれません。

(3)の「錦の御旗」が偽造だと知らずに、「賊軍」には与したくはないと、戊辰戦争の最中、土佐藩、淀藩(初代藩主稲葉正成の妻は三大将軍家光の乳母春日局)、津藩、彦根藩…と次々と官軍、実は薩長軍に寝返ってしまいます。畏るべし。

 その後、「朝敵」「賊軍」となって孤軍奮闘とした会津藩は、最期は有名な白虎隊の悲劇などがあり壊滅し、明治になって23万石の領地を没収されます。作物も碌に育たない火山灰地の北僻陸奥の極寒地3万石の斗南藩に追放されます。会津藩の表向きの石高は23万石ですが、幕府預け領などを合わせ、一説には67万9000石だったといいます。当然のことながら、多くの餓死者を出し、漁業や林業、そして酪農業などで活路を見出していくのです。

 いずれにせよ、「維新の英傑」と言われている西郷隆盛も大久保利通も木戸孝允も「五百円札になった」岩倉具視も本書では「善人」として描かれていません。歴史にイフがなく、敗者側からの歴史では、どうしても、「たら」「れば」の話になってしまいますが、これまで、「定説」となっていた誤謬を多くの史料・資料から訂正していることは本書の功績でしょう。

蛇足ながら、著者の松田氏が特別論説編集委員を務める東奥日報社につながる青森県初の言論機関「北斗新聞」を明治10年に創刊したのは、小川渉という斗南藩士だった人でした。

また、秋篠宮紀子妃は、会津藩士で斗南藩に移植し、大阪市長などを歴任した池上四郎の曾孫に当たるといいます。となると、将来、天皇になられる悠仁さまも、会津・斗南(藩士)の子孫になります、と著者は最後に結んでいました。

 この本を贈ってくれた畏友小島君には感謝申し上げます。

「斗南藩ー泣血の記ー」(東奥日報社)を読んで

  高校時代、クラスで一番の人気者の小島君が本を贈ってくれました。松田修一著「斗南藩ー泣血の記ー」(東奥日報社、2020年3月20日初版)という本です。彼は現在、青森県で医療関係の仕事に従事しています。関東出身だと思いますが、すっかり「東北人」になりきり、愛郷心も半端じゃありません。

 高校時代の彼は、休み時間になると、いつも周囲から可愛がられ、口を尖らして「やめろよ、やめろよ」と大声を出していたことから、「タコ」と綽名を付けられていました。森崎君が付けたと思います。

 そんな彼も今では大先生です。彼とは、(仕方なく始めた)フェイスブックで数十年ぶりにつながり、FBを通じて、小生のブログを彼は愛読してくれているらしく、今回も「本を差し上げます。何もブログにアップしてもらうつもりはありません。売り上げに貢献したいだけです」とのメッセージ付きで送ってくれました。彼はジャーナリストと同じように、いやそれ以上に日々のニュースや歴史に関心があるようです。青森県を代表する県紙東奥日報を応援する気持ちが大きいのです。

 彼がこの本を贈ってくれたのは、恐らく、私が2018年2月25日にこのブログで書いた「『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』は人類必読書ではないでせうか」を読んでくれたせいかもしれません。実は、私もこの本で初めて「斗南藩」の存在を知りました。

 幕末、「朝敵」「賊軍」となった会津藩は、23万石の会津の地を没収され、作物も碌に育たない北僻の陸奥の極寒地3万石の斗南藩に追放されるのです。会津藩士で、後に陸軍大将になる柴五郎について書かれた前掲の「ある明治人の記録」の中で、

「柴家は300石の家禄であったが、斗南では藩からわずかな米が支給されるだけで、到底足りない。…馬に食べさせる雑穀など食べられるものは何でも口にした。…塩漬けにした野良犬を20日間も食べ続けたこともあった。最初は喉を通らなかったが、父親から『武士は戦場で何でも食べるものだ。会津の武士が餓死したとなれば、薩長の下郎どもに笑われるぞ』と言われて我慢して口にした。住まいの小屋に畳はなく、板敷きに稾を積んで筵を敷いた。破れた障子には、米俵を縄で縛って風を防ぐ。陸奥湾から吹き付ける寒風で、炉辺でも食べ物は凍りつく。炉辺で稾に潜って寝るが、五郎は熱病にかかって40日も立つことができず、髪の毛が抜けて、一時はどうなるか分からない状態になった。…」

 とまで書いておりました。そこまで悲惨な生活を強いられたのでした。

 藩祖保科正之(二代将軍秀忠の嫡外子で、三代将軍家光の異母弟)以来、天皇に対する尊崇の念が篤かった会津藩が、何故に「朝敵」の汚名を着せられなければならなかったのかー。そんな不条理を少しでも解明して、名誉を回復したい、といった義憤が、東北人である著者にこの本を書かかせるきっかけになったようです。藩祖保科正之は、四代将軍家綱の「将軍補佐役」として幕政の中心に就き、特に、明暦の大火で江戸市中が灰燼に帰した際、江戸城天守を再建せず、町の復興を最優先したことで名を馳せた人物でもあります。

 歴史のほとんどは「勝者」側から描かれたものです。となると、この本は、「敗者」側から描かれた歴史ということになります。そして、歴史というものは、往々にして、敗者側から描かれた方が誇張や虚栄心から離れた真実に近いものが描かれるものです。

 2年前のブログにも書きましたが、これほど会津藩が賊軍の汚名を着せられたのは、藩主松平容保(かたもり)が京都守護職に就き、新撰組などを誕生させ、「池田屋事件」や禁門の変などで、長州藩士や浪士を数多く殺害したことが遠因だと言われています。長州藩士桂小五郎はその復讐心に燃えた急先鋒で、宿敵会津藩の抹殺を目論んでいたといわれます。

 となると、会津藩が京都守護職に就かなければ、これほど長州からの恨みを買わなかったことになりますが、本書では、若き藩主容保が、何度もかたくなに固辞していた京都守護職を「押し付けた」のは、越前藩主で、政事総裁として幕政に参加していた松平春嶽だったことを明かしています。

 会津藩主松平容保は、もともと美濃の高須藩主松平義建の六男(庶子)でした。高須藩は、御三家尾張藩の支藩だったということもあり、容保の兄慶勝は尾張藩主、茂徳(もちなが)は高須藩主、尾張藩主、一橋家当主、弟の定敬(さだあき)は桑名藩主となり、「高須四兄弟」と呼ばれました。特に、末弟定敬は、京都所司代に任命され、京都守護職の兄・容保とともに京都の治安維持役を任されます。これが後に、薩長土肥の志士たちから「会津、桑名憎し」との怨嗟につながるのです。

 桑名藩は、徳川家康譜代の重臣で、四天王の一人と呼ばれた本多忠勝が立藩したので、徳川政権に最も近い藩の一つだと知っていましたが、幕末になって、会津と桑名にこのような関係があったとは…。色々と勉強になりました。

 幕末は、日本史の中でも人気が高く関連書も多く出版されています。しかし、殆どが勝者側の勤王の志士が主人公で、会津、桑名など時代遅れの先見の明のない無学な田舎侍扱いです。

 本書を読めば、そうでなかったことがよく分かります(つづく)。

マツタケも人類も絶滅危惧種?

 今朝の朝刊各紙で、「マツタケが絶滅危惧種として初めて指定された」という記事を読み、何か、「偶然の一致」の既視感を味わいました。

 私自身、高級食材マツタケとは、「縁なき衆生」(誤用)ではありますが、絶滅してしまう、というニュアンスにビクッと反応してしまったのです。

 というのも、昨日の日経夕刊の記事で、生物学者の池田清彦氏が人類の滅亡を予想していたからです。池田氏によると、これまで地球上に存在した生物の99%は絶滅したといいます。実に99%ですよ!! ほとんど全部じゃないですか。絶滅種といえば、すぐアンモナイトとか恐竜とか思い浮かびます。人類も700万年前に誕生し多くの種類がいましたが、ほとんど絶滅し、我々ホモサピエンスは人類最後の一種だといいます。記事には書いていませんでしたが、絶滅した人類とは北京原人とかネアンデルタール人とかのことでしょう。いずれにせよ、池田氏は「我々ホモサピエンスが遠からず絶滅するのは自明だと思います」と発言しています。

 マツタケどころの話ではありませんね。

 人類が滅亡したらどうなるんでしょうか?

 人類が生み出したあらゆるものー理性も知性も、科学も、歴史も、文明も芸術もなくなるということでしょうか?なくなることはないでしょうね。せめて化石として残るでしょう。書物やDVDとして残っても、それを理解する人類がいなくなったらどうなるか?といった方が問題です。池田氏は、一部の金持ちが自分の脳のシステムをAIにコピーして、不老不死のAI人間が取って代わると「予言」していますが、それって、人類なんでしょうか?

 遠からず、人類滅亡の日、その時は、老若男女、富裕層も貧困層も区別なく、権力者も弱者も分け隔てなく一様に滅びて、財産も名誉も勲章も、そして名声も全く意味がなくなると私なんか思っています。それじゃあ、生きている意味あるの? と皆さんは訝しがることでしょう。

 人生は無意味と言えば無意味だし、宗教や哲学で意味付けしようとすれば、それもできる、としか言いようがありません。

 不安や恐怖に駆られるのも人間だし、死亡率100%と「達観」できるのも人間です。

 でも、絶滅ともなると、それすら越えてしまいますね。はっきり言って、人類もマツタケと同じように、「絶滅危惧種」に指定してもおかしくないでしょう。これだけパンデミックが蔓延り、地球環境が悪化すれば。(40億年以上前から生存しているウイルスは、コウモリでもハクビシンでも生物に取りつくわけですから、絶滅することなく不滅なんでしょうか?)

 別に皆さんを不安や恐怖に陥れる目的で、こんな一文を書いたわけではありません。これだけ壮大な話になると、小さな、細々(こまごま)とした日々の悩みなんか吹き飛びませんか?

 人智を遥かに超え、私なんか、微苦笑さえ浮かびます。厭世観や不条理観に浸っていても、意味もないし、報われることもないからです。

 「だけども問題は今日の雨 傘がない」(井上陽水)

仏像とお経で仏教思想に触れる

高徳院阿弥陀如来坐像

 残りの人生、お城とともに、寺社仏閣巡りをすることを楽しみにして生きています。足腰がしっかりしているうちにあちこち回りたいのですが、段々しっかりしなくなってきたのが残念です(苦笑)。

 ところで、仏像を鑑賞すると仏さまの思想がよく分かりますーというのは、誰もが間違いやすいパラドックスです。

 その逆で、お経に書かれた仏さまの教えを忠実に再現したのが仏像だというのが正しいのです。とはいえ、我々は、仏像を通して、仏教を知り、救いを求めてお参りすれば、自然と頭(こうべ)が下がり、心が洗われます。これは、理知的ではなく、どちらかと言えば不可知的です。

 いずれにせよ、仏像は仏典を忠実に再現したものですから、「お決まり」があることを知っておかなければなりません。それさえ会得すれば、鑑賞の際に深みが増します。

 仏像には、大きく分けて4種類あります。

(1)如来=真理を得て悟りを開いた存在(釈迦如来など)

(2)菩薩=悟りを求めて修行の身(観音菩薩など)

(3)明王=如来の教えに従わない者を救済(不動明王など)

(4)=仏教に帰依した神々、守護神(梵天、四天王など)

また、仏教寺院に安置される「三尊像」にもお決まりがあります。三尊像とは、中央に如来を配置し、左右に脇侍と呼ばれる菩薩で固めます。

 釈迦如来像の場合、「陀羅尼集経(だらにじっきょう)」に従って、脇侍として、左に文殊菩薩(騎獅)像、右に普賢菩薩(騎象)像を配置します。そして、眷属(けんぞく=主尊に従って教えを広める手助けをする)として、阿修羅などの八部衆が控えます。

 「華厳経」最終章「入法界品」にはこの文殊と普賢が登場します。善財童子が、「智慧第一」の文殊菩薩の勧めに従って、延べ53人、全53カ所の善知識(仏道へと導いてくれる指導者)を訪ね歩き、最後に出会った普賢菩薩によってようやく悟りを得る話です。江戸時代の東海道は、この物語に因んで「五十三次」つくられたといいます。

 薬師如来像は、左に日光菩薩、右に月光(がっこう)菩薩を脇侍として配します。眷属は、伐折羅(ばさら)などの十二神将です。

 浄土教の阿弥陀如来像は、左に観音菩薩、右に勢至菩薩が脇侍です。日本人に最も馴染みが深い観音さまは、阿弥陀如来の脇侍だったんですね。来迎図でも描かれます。観音さまは、六道にも対応して、如意輪観音菩薩=天道、准胝(じゅんでい)観音菩薩、もしくは不空羂索観音菩薩=人間道、十一面観音菩薩=修羅道、馬頭観音菩薩=畜生道、千手観音菩薩=餓鬼道、聖観音菩薩=地獄道に当たります。

 華厳思想から生まれた毘盧遮那如来像には、左に虚空蔵菩薩、右に如意輪観音菩薩が脇侍として控えています。東大寺大仏殿もそういう配置になっていますが、私は、そこまで知らずにお参りしていました。

 と、ここまで読まれても、字面だけではよく分からないでしょう。私の場合、たまたま本屋さんで、釈徹宗監修「お経と仏像でわかる仏教入門」(宝島新書、2020年6月24日初版)を見つけて購入し、大変重宝しています。仏像などカラー写真が豊富に掲載され、色々と勉強になります。例えばー。

 極楽浄土と言えば、西方にあることは知っていましたが、それは阿弥陀さまの世界で、東方には浄瑠璃浄土があり、ここには病を癒してくれる薬師如来がおわします。人形浄瑠璃の浄瑠璃は、この浄瑠璃浄土からとったのでしょうか?

 56億7000万年後の未来に現れる弥勒如来は、兜率天浄土におられ、智慧を具現化し、物事に動じず迷いに打ち勝つ強い心を授けるといわれる阿閦(あしゅく)如来妙喜浄土におられるということです。浄土とは清浄国土、または清浄仏土の略で、ほかに、霊山浄土や十方浄土、天竺浄土、そして観音菩薩が降臨する補陀落(ふだらく)浄土などもありますが、浄土といえば、だんだん阿弥陀如来の西方浄土のことを指すようになったといいます。

 さて、私自身は、恐らく特定の教団の信徒や門徒や信者にはならないと思いますが、実は、寺社仏閣巡りをしながら、どの教団宗派が自分と阿吽の呼吸が合うか調べることも楽しみにしているのです。そのせいか、仏像や仏画を鑑賞するのも大好きです。西洋美術を鑑賞する際も、キリスト教の知識がないとさっぱり分からなかったので、そのために聖書をよく読んだものでした。

 仏教は何も、特定の信者のためだけにあるわけではなく、万人に開かれているはずです。私自身も煩悩具足の凡夫ですから、個人として、今後も寺院を参拝したり、仏教書に目を通すことは続けていきたいと思っています。

鎌倉大仏さま~鎌倉長谷観音 誓願記

 7月2日、鎌倉・ジタン館での「加藤力之輔展」を辞してから、梅雨の晴れ間に恵まれていたので、久しぶりに鎌倉大仏さまを拝顔することに致しました。

 10年ぶりぐらいですが、もう何度目でしょうか…。10回ぐらいはお参りしていると思います。(拝観料300円)

小学校5年生 秋の遠足 小生は前から3列目にいます。前列に吟さんもいますね。

 初めて行ったのが、もう半世紀以上昔の小学校5年生の10月の遠足の時でした。子どもですから、ここが高徳院(大異山高徳院清浄泉寺)という名前の寺院だということを知らず。長じてからも、この高徳院が法然上人(1133 ~ 1212 年)を開祖とする浄土宗の寺院だということも知らずに過ごしてきました。

国宝です

 そして、肝心の鎌倉大仏とは、阿弥陀如来坐像だったということも、恥ずかしながら、つい先年になって知りました。大仏は、大仏という大きな枠組みでしか意識していなかったのです。ですから、当然のことながら、毘盧遮那如来も釈迦如来も阿弥陀如来も阿閦如来も薬師如来も、区別がついておらず、意識もしていませんでした。

 それでは駄目ですから、仏像の見方やお経の基本などを俄か勉強し、しっかりと実体を意識して、鎌倉大仏さまを改めてお参りしたかったのです。

 鎌倉大仏は、阿弥陀如来に特徴的な両手の印相が、瞑想を示す禅定印(ぜんじょういん)になっています。

 しかも、九品往生印の中でも「上品上生」にみえます。

 写真をご覧になればお分かりのように、平日のコロナ禍ということもあって、観光客の数がめっきり減り、本当に少なかったでした。(それでも、日本人より外国人の方が多い気がしました)

 説明文にあるように、この鎌倉大仏は、源頼朝の侍女だったといわれる稲多野局が発起し、僧浄光が勧進して造った、とあります。しかも、「零細な民間の金銭を集積して成ったもので、国家や王侯が資金を出して作ったものではない」とわざわざ断り書きまで添えています。

 そうでしたか。貧困の中、なけなしのお金を寄付する人も多かったことでしょう。当時の庶民の人々の信仰の深さが思い寄せられます。

 自分では絵葉書にしたいぐらい良い写真が撮れた、と勝手に思ってます(笑)。

 以前は大仏さまの胎内に入ることができましたが、またまたコロナ禍で閉鎖されていました。

 鎌倉時代の創建当初は、奈良の大仏さまと同じように寺院の建物内に安置されていたそうですが、台風で何度か吹き飛ばされ、以後、建物は再建されていません。

 吹きさらしで、しかも、海の潮風で大仏さまが傷まないか心配です。あと、1000年、2000年と持つでしょうか?

長谷寺

 鎌倉大仏には、江ノ電の長谷駅で降りて行ったのですが、何度も行っていたはずなのに、道が分からず少し困ってしまいました。多くの人が歩いているので、付いて行った感じです(笑)。方向音痴で地図の読めない男ですから、困ったものです。

 長谷駅から高徳院へ行く途中、長谷観音で有名な長谷寺があったので、帰りに立ち寄りました。生まれて初めての参拝です。400円。

この寺も浄土宗でした。御本尊さまは十一面観音菩薩です。像高9.18メートルで、国内最大級の木造観音だということです。

 観音堂の隣りが「観音ミュージアム」になっていて、そのまま入ろうとしたら、「そちらは入館券が必要です」と係の人に怒られてしまいました。失礼致しました。300円。

 私以外、誰一人も入館する人はいませんでしたが、ここの「観音三十三応現身立像」は圧巻でした。法華経の第二十五章「観世音菩薩普門品(ふもんぼん)」(「観音経」)によると、観音菩薩はさまざまな人々を救うために、三十三身に化身するといいます。聖者の仏身、天界の梵王身、八部身の迦楼羅身などです。ヒンドゥー教と習合したバラエティーに富んだ化身が見られます。(こうして、事前に勉強しておけば、参拝し甲斐があるというものです)

 観音三十三応現身立像は、室町時代につくられたようですが、長谷寺によると、三十三身が全てそろった立像は全国でも珍しい、ということですから、機会が御座いましたら、皆さんもお参りされたらいいと思います。