物足りない「黒幕」特集

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 やはり、私のライフワークといいますか、興味のある専門分野ですからね(笑)。つい、買ってしまいました。週刊現代 別冊「ビジュアル版 昭和の怪物 日本の『裏支配者』たち その人と歴史」(講談社、980円) です。

 その前に、私の住む自宅から歩いて7、8分ほどにあった本屋さんが、とうとう潰れてしまいました。アマゾンのせいでしょうか。駅近くにあった書店2店舗は既に数年前に閉店したので、ここは「最後の砦」でした。呆然自失。この本屋だけは失いたくなかったので、なるべく、ここで買うようにしてましたが、ついに消滅してしまいました。悲しいというほかありません。

 仕方ないので、この「週刊現代 別冊」を会社の近くのコンビニで買おうかと思ったら、週刊誌は置いていても、別冊は置いてないんですよね。そもそも本屋じゃないので、種類も少ない!帰宅時に遠回りして、駅近くの大型書店で買うことができました。

 この上の写真の表紙をご覧になって頂くだけで、内容は分かると思います。

 日本の「裏支配者」たちーとありますが、吉田茂、正力松太郎、五島慶太、後藤田正晴…みんな、「表社会」の人たちじゃありませんか。フィクサー、黒幕として登場する児玉誉士夫、山口組三代目の田岡一雄組長にしても、超々有名人で、日本人ならまず知らない人はいないぐらいです。失礼ながら、初心者向きで、野間ジャーナリズムの限界を感じました。続編を期待しましょう。

 私自身、これまでいろいろな本を読んできましたから、この別冊の中で、馴染みがなかったのは矢次一夫(1899~1983年)ぐらいでした。この人については、顔写真と略歴だけ載っていましたが、岸信介との関係などもう少し掘り下げて頂きたかったですね。

 このほか、章立てして、もっと掘り下げて、取り上げてほしかった人物として、まず、玄洋社の頭山満が筆頭でしょう。次いで、黒龍会の内田良平。この別冊で取り上げられた軍人の石原莞爾は、まあ妥当だとしても、もっと土肥原賢二や影佐禎昭ら諜報活動に従事した人も取り上げてほしかったですね。そうそう、甘粕正彦は欠かせない人物です。牟田口廉也や辻政信は少し食傷気味なので、桜会の橋本欣五郎や東京裁判で寝返った田中隆吉あたりが面白いかもしれません。

 写真がちょっと出ていただけだった大物右翼の三浦義一(1898~1971年)は「室町将軍」と言われたぐらいですから、最低、略歴ぐらい必要でしょう。以前、私は、ちょっと怖い人に引き連れられて、たまたま大津市の義仲寺にある彼のお墓参りをしたこともあります。また、三浦義一の後継者である西山広喜(1923~2005年)の内幸町・富国生命内の事務所を確認したことがあります(笑)。

共産党幹部から獄中で国粋主義に転向した田中清玄(1906~93年)は章立てして大きく取り上げるべき人物でしょう。(田中家は会津藩の筆頭家老だった名門家系。早稲田大学第17代総長の田中愛治氏は、田中清玄の子息)田中清玄=田岡組長VS児玉誉士夫=東声会=岸信介との壮絶な闘いは語り継がれるべき逸話です。

 となると、11年間の獄中生活から出所後、田中清玄が師事した静岡県三島市の龍沢寺の山本玄峰禅師もマストでしょう。山本禅師は、臨済宗妙心寺派管長も歴任し、終戦の際に、鈴木貫太郎首相に「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の文言を進言して、終戦を受け入れるよう説得した功労者ですから、まず欠かせませんね。(鈴木貫太郎は関宿藩士でしたね。二.二六事件の際には侍従長で、蹶起隊に襲撃されながら、奇跡的に一命を取り留めました)

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 平成から令和の時代となり、人間が小粒になったのか、ますます、黒幕やらフィクサーといった豪快な人物が出にくくなった感があります。

でも、一般大衆には分からないように、暗躍しているのかもしれませんよ。

「特別展 三国志」と特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」=上野の東博

蜀・劉備軍の要・関羽像(明時代15~16世紀、青銅製)

 何が哀しいのか、日曜日、気温34度の猛暑の中、東京・上野の東京国立博物館の平成館で開催中の「特別展 三国志」と、本館で開催中の特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」を観に出掛けてきました。

魏の曹操

 猛暑の中を、外出するようなおめでたい人間は少ないだろうし、お盆休みなので、都心は地方出身者が帰省していて、館内は空いているだろうと予測したからでした。

しかし、外れました。何処にも行くあてがない富裕でもなさそうな層(単なる個人的な勘違い)や、外国からの観光客でごった返し、陳列物の前は、二重三重のとぐろを巻く人だかりでした。

蜀の劉備

 この特別展に限ってなのか、国内の展覧会にしては珍しく、展示物の撮影はフラッシュさえ止めれば自由でした。それらの写真は、「個人の使用」なら許可され、館内の係りの人に「ブログにアップしてもいいですか?」と聞いたところ、「大丈夫です」と答えてくれたので、こうしてアップしているのです。 

呉の孫権

写真をバシャバシャ撮ったおかげで、一体何を撮ったのか、分からないものまでありましたが、ご勘弁ください(笑)。

「三国志」は、御案内の通り、後漢末期の2世紀に鼎立した魏・呉・蜀の三国の興亡が描かれた歴史書です。

 どういうわけか日本でも大人気で、江戸末期の忍藩の下級武士、尾崎石城さんの蔵書の中にも「三国志演義」があり、古代からほとんどの日本の知識階級は読んでいたと思われます。

赤壁の戦い(208年、曹操対劉備・孫権連合軍 劉備の諸葛亮が曹操を退却させる)

 現代では吉川英治や柴田錬三郎らが小説化したり、横山光輝が漫画化したり、テレビの人形劇やゲームにもなったりしているので、若者たちにも親しみやすいのでしょう。若者客が目立ちました。

蜀 「揺銭樹台座」 富裕層の墓に置かれた「金のなる木」の台座。3世紀、土製。2012年、重慶市で出土。

私自身は、ゲームもやらないし、「三国志」も「三国志演義」も読んでいないという体たらくで、知っているのは、劉備が諸葛孔明をスカウトするために三度も足を運んだ「三顧の礼」などエピソードぐらいですからね。見ても、知識が薄いため、今ひとつ、力が入りませんでした(苦笑)。

曹操高陵で発掘された 一級文物「魏武王(ぎのぶおう)常所用(つねにもちいるところの)挌虎大戟(かくこだいげき)」。魏武王とは曹操のこと。この発掘で、曹操の陵だと証明された。

 特別展の最大の見どころは、上の写真の石牌(せきはい)です。2009年、河南省安陽市で発掘されたもので、この石牌には「魏武王が愛用した虎をも打ち取る大きな戟」と刻まれています。魏の武王とは曹操のことで、これにより発掘された墓が「曹操高陵」である証明になったというのです。

 2009年ということは、つい最近のことです。今後も新たな新発見が出で来るのかもしれません。

 その前に、魏の勢力は、高句麗を倒して、今の北朝鮮にまで及んでいたことを知り、驚いてしまいました。

 また、この特別展のおかげで、189年に後漢より遼東太守に任命された公孫氏が、一時期独立して、満洲、いや中国東北地方の南まで勢力を伸ばしていたことや、魏呉蜀の三国は結局、どこも全国統一できず、代わって「晋」が覇者となりますが、その晋の高官の一人が、あの書聖と言われた王義之の一族だったという新知識も得ることができました。

 猛暑の東博のもう一つの目的は、本館で開催中の特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」を参拝することでした。「観覧料:一般620円」とありましたが、平成館の「三国志」の切符(前売り券1400円)を持っていたら、無料で観られました。何か得した気分です。

 でも、本館の第11室という狭い空間だけでしたので、ちょっと物足りなく、「岡寺」「室生寺」「長谷寺」「安倍文殊院」の奈良大和四寺を実際に訪れたくなりました。

 今の自分は、年を重ねたせいなのか、三国志の英雄よりも、仏像と対面した方がはるかに落ち着き、日本人として親和性を感じる気がしました。

 (本館の特別企画は勿論、写真撮影禁止でした。)

檀家制度を廃止した曹洞宗・見性院

 東京の今の気温は32度。それは許せるとしても、湿度が63%。外を歩くと汗が止まらず、とろけてしまいそうです。

◇こんな暑さでオリンピック?

こんな暑さの中、ちょうど来年の今頃、東京オリムピックなんかやるんですかねえ?富裕層向けに635万円の五輪チケットが8月下旬から売り出されるそうですが、ご苦労さまのことです。

 第一、不労所得で欲太りしたIOC貴族と、チャンス到来を喜ぶアディダス、ナイキといった多国籍スポーツメーカーの殿上人は、日本がどれだけ暑くて湿気が多いのか、知る由もありません。知っているとしても、所詮、自分たちが走ったり、投げたり、蹴ったりするわけでもなく、単なる興行として商売(ビジネス)をするだけですから、高額スポンサーとして冷房の良く効いた貴賓席にいらっしゃることでしょう。古代ローマ帝国の貴族たちがコロッセオで剣闘士が闘うのを高みの見物するような気分なんでしょうか。

 日本のメディアは新聞もテレビもラジオも、みんな五輪スポンサーですから、一言も批判しません。いや、グルですね。

 ◇皆さんのクリックのおかげでドメイン代が出ました

 こんなに暑いので、ここ数日間、暑気払いが続いてます。一昨日は、この《渓流斎日乗》ブログの技術面でお世話になっているIT会社のM社長と東京・池袋の焼き鳥店「雲吉」で一献傾けました。(皆様がこのブログの宣伝バナーをクリックしてくださったおかげで、ドメイン代等は賄うことができるようでした!)

 「雲吉」は、M社長の奥さんの妹の旦那さんが経営している店で、味が良いのかもう20年以上続いているそうです。飲食業界というのは傍から見ているよりかなり厳しく、経済誌「ダイヤモンド」をいつぞや読んでいたら、新規開店した飲食店の9割が3年以内につぶれてしまうと書いてありましたね。

 場所は、池袋駅東口から歩いて10分ぐらいでしょうか(3分とか書いてましたが、人混みで歩けません)。もう40年以上も昔の話ですが、池袋をフラフラしていましたが、新栄堂書店がつぶれ、キンカ堂(地下食堂)がつぶれ、すっかり変わってしまい、全く別の街になってしまい、道に迷いました。「雲吉」の近くに西武本社が所沢から池袋に移転してきたおかげで、安定したお客さんが来るようになったようです。まあまあの価格なのですか、客層の質は高いです(Mさん、宣伝しておきましたよ=笑)。

 M社長は仕事で仏教界というか、葬儀社界というか、墓石界というか、そういった業界に通じていて、裏話もたくさんありました。

高野山奥之院 島津家供養塔

 今回、裏話ではなく、現代の仏教界の改革者として、多くのメディアにも登場している僧侶として、埼玉県熊谷市にある曹洞宗見性院の橋本英樹住職の話を初めて聞きました。

 見性院は江戸時代から400年以上続く寺ですが、何と2012年に檀家制度を廃止してしまったというのです。400軒近くあった檀家とはいったん白紙に戻して、「随縁会」という会員組織にし、名称も檀家から「信徒」に変更し、葬儀代、戒名代、布施等すべて「ガラス張り」にして「明朗会計」にしたというのです。

橋本氏は駒沢大学大学院を修了し、曹洞宗の大本山永平寺で修行し、25歳で見性院の副住職になった時の月収がわずか10万円だったといいます。それが、42歳で父の跡を継いで住職となって「改革」に乗り出したところ、今では経営規模は4倍に増えたといいます。

 もちろん、宗派や国籍等に拘らず、遺骨を郵送で受け付ける「お坊さん便」を始めるなど急激な改革から、旧檀家の中から反発する声も多く、曹洞宗総本山の総持寺に訴える旧檀家もいるそうです。

 それでも橋本住職はひるみません。M社長も「僕は闘う宗教家を応援してます。檀家とか言っても、どうせナアナアでやっていただけで、仏教なんて本当に信じてないでしょう。葬儀は金が掛かります。散骨したって、かなりの金額を取られますよ。その点、3万円でお骨を郵送パックで受け付けるなんて、現代的なあまりにも現代的なですよ」と擁護するのです。

 考えてみれば、昔はよっぽどの貴族か皇族か大名か守護地頭か武士か名主か大商人でなければ、お墓なんか持てなかったものでした。無名の庶民は野垂れ死にして、犬か鳥に食われていたことでしょう。庶民が墓を持てるようになるのは明治以降かと思ったら、M氏は「いえいえ、明治は廃仏毀釈もあったし、戦後からですよ」と言うではありませんか。

 21世紀になり、日本人の信仰心が薄れ、仏教も「葬式仏教」と批判され、そもそも、従来の「家」の観念も廃れ、女房も子どもも「お父さんの墓だけには入りたくない」と言い、結婚しない男女も増えて、墓守をしてくれる子孫もなく、そういう時代になると、宗教も変わっていかざるを得なくなりました。

 でも、自分の骨が3万円でパック郵送されて、誰とも会ったことも見たこともない縁も所縁もない人と同じ骨と交じり合って共同墓地に詰め込まれることを想像すると、何とも味気ない、背中の辺りがこそばゆい感じがしてきますね。

「ホラホラ、これが僕の骨…」(中原中也)の詩が頭にリフレインしてきました。

 

「図案対象」と戦没画学生・久保克彦の青春

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8月は哀しい。

昨日6日は広島原爆忌、9日は長崎原爆と日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍による満洲侵攻(その後のシベリア抑留)。そして15日の終戦(敗戦記念日は、ミズーリ号で降伏文書を調印した9月2日)。

 あれから74年も経ち、戦争を直接体験した語り部が減り、テレビでは特集番組さえ消えつつあります。

 嗚呼、それではいけません。

 最近、ほんのちょっとしたきっかけで知り、感動し、興味を持った藝術作品として、東京美術学校(現東京芸大)を卒業し、徴兵されて中国湖北省で戦死した久保克彦が遺した 「図案対象」 という7メートルを超す大作があります。

美術作品は、何百万語言葉を費やして説明しても実物を見なければ無理なので、ちょうど2年前の2017年8月にNHKの「日曜美術館」で放送された「遺(のこ)された青春の大作~戦没画学生・久保克彦の挑戦」をまとめたブログ(?)がありましたので、勝手ながら引用させて頂きます。

 これをお読み頂ければ、付け足すことはありません。

 私は、このテレビ番組は見ていません。「図案対象」を描いた久保克彦の甥に当たる木村亨著「輓馬の歌 《図案対象》と戦没画学生・久保克彦の青春 」(図書刊行会、2019年6月20日初版)の存在を最近知り、興味を持ったわけです。

この「図案対象」はとてつもない前衛作品です。全部で5画面あり、抽象的な模様もあれば、戦闘機や大型船が描かれた具象画もあります。

久保克彦は23歳の時、東京美術学校の卒業制作としてこの作品を完成させましたが、2年後の25歳で中国大陸で戦死しており、作品についての解説は残しませんでした。

 しかし、その後、あらゆる角度から分析、解釈、照合、比較研究などの考察を重ねた結果、驚くべきことに、一見バラバラに見える事物の配置は、全て「黄金比」の法則に従って、整然と並べられていたことが分かったのです。

 黄金比というのは、人間が最も美しいと感じる比率のことで、それは、1:1.618…だというのです。

 この黄金比に沿って建築されたのが、古代ギリシャのパルテノン神殿や古代エジプトのピラミッド、パリの凱旋門、ガウディのサグラダファミリア大聖堂などがあり、美術作品としては、ミロのビーナスやレオナルド・ダビンチの「モナリザ」などがあります。

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 私は、黄金比については、映画化もされたダン・ブラウン著「ダ・ヴィンチ・コード」を2004年に読んで初めて知りましたが、結構、身近に使われていて、クレジットカードや名刺などの縦横比も「1:1.16」と黄金比になっているようです。

 それに、今何かとお騒がせのGAFAのグーグルやアップルのロゴもしっかり黄金比を使ってデザインされております。ご興味がある方は、そういうサイトが出てきますのでご参照してみてください。

 久保克彦が、黄金比を使って「図案対象」を制作したのは昭和17年(1942年)のこと。戦死しないで旺盛な創作活動を続けていたら、「ダビンチの再来」という評価を得ていたかもしれないと思うと、実に哀しい。

 

700年の歴史を誇る王子田楽

 気温34度。暑過ぎる毎日が続き、溶けそうです。

 8月4日(日)、東京・北区の王子神社で、700年もの伝統を誇る「王子田楽」が開催されるというので初めて観にいきました。

 北区教育委員会によると、「王子田楽」とは、王子神社の例大祭に伴って神前に奉納される躍りのことで、始まりは鎌倉時代にまで遡るといわれるそうです。

 一般的に田楽舞は、「五穀豊穣」を祈念するのに対し、王子田楽の躍りは「魔事災難除け」を祈願するという大きな特徴があります。

 戦前には、舞童の花笠が観衆の頭上に投げられ、それを縁起物として奪い合う「喧嘩祭り」としても知られていたそうです。

王子という土地に深く根付いていた田楽は、戦争中の昭和19年(1944年)から途絶えてしまいましたが、昭和58年(1983年)に地元の人々の熱意と努力により復興しました。その後、毎年奉納されるようになり、昭和62年(1987年)には北区の「指定無形民俗文化財」に指定されています。

 田楽を舞うのは、北区内の小学校に通う選ばれた小学生です。1年間、熱心に稽古をしたそうです。

 色鮮やかな花笠と衣装を身に着けて厳かに舞う姿を観ると、時空を越えて、700年前のご先祖さまが味わった同じ気持ちに触れる気がしました。

王子は、江戸中心から離れた郊外で、将軍様の鷹狩りの地だった飛鳥山に桜を植えて庶民に開放されたことから浮世絵にも描かれる土地でした。

 江戸中心の浅草の三社祭や神田明神の神田祭などは、数万、数十万規模の群集が押し寄せるでしょうが、王子神社の祭りは、数百人規模といった感じです。(主催者発表は取材していません=笑)

 御神輿のわっしょい、わっしょい、も凄い群集に見えますが、このように、目の前で、神輿を担ぐ人たちと同じ気分で観ることができました。

やっぱり、日本人、夏は祭りですね(笑)。

宗教サイトを検索していたらお墓の宣伝ばかり溢れる

 高野山金剛峰寺

高野山にお参りしたおかげで真言宗に興味を持ち、手始めに真言密教についてネットで検索したら、大変詳しいサイトが見つかりました。これはいい、大変勉強になる、と思いました。

 密教ですから、本来ですと、秘密の教えですから、厳しい修行を乗り越えた僧侶のみに口伝されるものなのですが、このサイトでは、密教経典である「理趣経」の詳細な解説から、印の結び方、梵語での真言の唱え方、瞑想法、聖地、そして雑学に至るまでありとあらゆることが網羅されていて、「これは凄い」とプリントアウトして読み始めたのでした。

奥之院

 そのうち、このサイトの解説の中で「空海の弟子円仁」(円仁は最澄の弟子で、第3代天台座主=慈覚大師)といった明らかな間違いが気になり始め、一番、気になったのは、あなたに取り付いている悪霊を祓う「除霊」として、「一般の人がやるのは危険で、供養法については秘伝なので、なかなか教授はできない。しかし、○○宗が、あなただけ特別に、除霊をすることができます。その際には○○宗本部宛に、実費と寸志等で計6000円をお送りください」とあるではありませんか。

 「6000円で除霊ができるなら安いもんだ」と思われる方もいるかもしれませんが、この宗派は、教祖に前科歴があり、正統派からは「邪宗」と糾弾されている宗派です。当初、「とても勉強になるいいサイトだなあ」と思っていましたが、これでいっぺんに醒めてしまい、他のページに書かれている立派なことも信頼できなくなりました。

 とにもかくにも、ネット上には色んな宗教サイトがアップされています。「邪宗」「邪教」と名指しで非難されている新興宗教も、芸能人や政財界の大物を導入し、見かけだけは素晴らしく、清廉潔白で神聖で厳かな雰囲気が漂っています。

◇宗教とメディアには親和性

 そもそも、不特定多数の信徒を相手にする宗教とメディア(ネットも含む)とは親和性があります。多くの宗教が紙媒体を発行しておりますが、ラジオの文化放送が、フジサンケイ・グループだと知っていても、もともとは、聖パウロ修道会が1951年、カトリック布教を目的に設立した「日本文化放送協会」が前身であることを知っている人は少ないと思います。聖パウロ修道会は、現在も文化放送の最大の株主で、日曜早朝に宗教番組がありますが、普段の聴衆者は、誰も気が付かないでしょう。(蛇足ながら、これは例えばの話で、決して非難しているわけではありません)

 オウム真理教による事件が起きてから、日本人は宗教に対して一種のアレルギーができてしまった気がします。私も、全財産を教団に寄付、もしくは布施を余儀なくなれた友人の祖母の話などを聞くに付け、特に新興宗教に対して恐ろしさを感じます。

 ですから、私自身は、他人様に宗教を強要するつもりは毛頭ありません。自分自身も、ある特定宗教団体に入会することはありません。ただ、自分は弱い人間ですから、精神の安定のために、御先祖さまの供養のために、そして子孫の繁栄のために、宗教、私の場合は、仏教の力をお借りするつもりです。「お前は、頭でっかちの智識だけで修行が足らん!」と和尚さんに渇を入れられると思いますが。。。

 ということで、最近、宗教のサイトばかり検索していたら、パソコンに病的に取り付くバナー広告が、寺院のお墓や墓石の宣伝ばかりになってしまいました。

 勘弁してくれい!!

意外に多い仏教系大学

 先日、高野山にお参りした際に泊まった宿坊「天徳院」の直ぐ近くに高野山大学があり、天徳院の若い住職さんも歩いて通ったらしく、大学と宗教の関係に興味を持ちました。

 高野山大学は、もちろん、空海が開いた真言密教を学ぶ大学で、835年(承和2年)に朝廷より真言宗後継者育成制度を認定されたことに始まりを持つと言われています。世界で最も古い総合大学は、イタリアのボローニャー大学(1088年)と聞いたことがありますから、凄いですね。

 空海は、828年(天長5年)に、貴族だけでなく、庶民にも開放して京都に綜藝種智院(廃校したものの、戦後に種智院大学として継承)を創設しており、日本で最も古い教育機関かなと思いましたが、 聖徳太子が 推古元年(593年)に 、仏教を学ぶ場として創建した四天王寺敬田院(きょうでんいん)があり、これが現在の四天王寺大学に発展したとも言われています。

 さて、空海の最大のライバル(?)といえば、最澄ですが、最澄が開いた天台宗比叡山延暦寺は宗教大学の総本山みたいなところで、ここで学んだ僧侶の中には、天台宗の基礎を築いた円仁をはじめ、融通念仏宗の良忍、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮ら多くの宗派の開祖を輩出していることからも分かります。

高野山 奥之院

 しかし、現在存在するその天台宗系の大学はほとんどなく、大正大学ぐらいなのです。大正大学は、私の出身大学のすぐ近くにあったので、よくキャンパスに入ったことがあります(教室はありませんが)。 落ち着いた雰囲気で、学生数も少なく、仏教系の大学だということは知っていましたが、宗派は知りませんでした。

大正大学は大正15年(1926年)、天台宗、真言宗豊山派、浄土宗の三宗の連合大学として創立します。 昭和18年(1943年)に智山専門学校も合併して、真言宗智山派も加わります。また、最近では、時宗も加わったようです。

 初代学長は、文部官僚で、東北帝大、京都帝大の総長も歴任した澤柳政太郎。「随時随所無不楽」(随時随所楽しまざる無し) が彼のモットーでしたね。大正大学出身者に、浄土宗宗務総長も務めた作家の寺内大吉がおります。

 仏教系大学はかなり多くありますが、一番有名なのは、親鸞の浄土真宗系大学でしょう。京都にある龍谷大学は、浄土真宗本願寺派(西本願寺)、大谷大学は、真宗大谷派(東本願寺)で、全国に○○大谷大学も結構あります。

太田道灌像=芳林寺(さいたま市岩槻区)

 意外と知られていないのは、東京の駒澤大学が道元の曹洞宗系の大学だということです。起源は、天正20年(1592年)に駿河台の吉祥寺内に設けられた旃檀林学寮にまで遡ることができるといいます。この吉祥寺を創建したのが、かの太田道灌公で少し驚いてしまいました。江戸時代に入り、明暦の大火で今の駒込に移転しました。横浜の鶴見大学も、総持寺系の曹洞宗の大学です。

◇花園大学、妙心寺の算盤面

 京都の花園大学は、臨済宗の妙心寺派ですね。 明治5年(1872年)、境内に創設された旃檀林学寮にまで遡ると言われています。

 いつ誰が言ったのか定かではありませんが、京都の臨済宗の禅寺について、「妙心寺の算盤面、建仁寺の学問面、南禅寺の武家面、東福寺の伽藍面、相国寺の声明面、大徳寺の茶面」という格言(?)があります。

  妙心寺が何故「算盤面」と言われるのか、諸説あるようですが、国内にある臨済宗寺院約6000カ寺のうちの半数以上が妙心寺派の寺院で、財政的に厳しく、倹約と合理化に努めたから、らしいのです。

 日蓮宗系の大学には立正大学などがあります。

 天理大学や創価大学など、新興宗教系の大学もかなりありますが、小生の力及ばず、この辺でやめておきます。

失われた時を求めて=見つかった?高悠司

国立国会図書館

 久しぶりに東京・永田町の国会図書館に行って来ました。病気をする前に行ったきりでしたから、もう5年ぶりぐらいです。当時、ゾルゲ事件関係の人(ドイツ通信社に勤務してゾルゲと面識があった石島栄ら)や当時の新聞などを閲覧のために足繁く通ったものでした。

 今回、足を運んだのは、自分のルーツ探しの一環です。私の大叔父に当たる「高悠司」という人が、東京・新宿にあった軽劇団「ムーラン・ルージュ新宿座」で、戦前、劇団座付き脚本家だったらしく、本当に実在していたのかどうか、確かめたかったのです。

 高悠司の名前は、30年ほど前に、亡くなった一馬叔父から初めて聞きましたが、資料がなく確かめようがありませんでした。正直、本当かどうかも疑わしいものでした。

表紙絵は松野一夫画伯

 それが、最近、ネット検索したら、やっと「高悠司」の名前が出てきて、昭和8年(1933年)5月に東京・大阪朝日新聞社から発行された「『レヴュウ號』映画と演藝 臨時増刊」に関係者の略歴が出ていることが分かったのです。今回は、その雑誌を閲覧しようと思ったのです。

 最初は、雑誌ですから、「大宅壮一文庫」なら置いてあるかなと思い、ネット検索したらヒットしなかったので、一か八か、国会図書館に直行してみました。 

 何しろ5年ぶりでしたから、パスワードを忘れたり、利用の仕方も忘れてしまいましたが、「探し物」は、新館のコンピュータですぐ見つかりました。何しろ86年も昔の雑誌ですから、実物は手に取ることができず、館内のイントラネットのパソコン画面のみの閲覧でしたが、申請したら、コピーもしてくれました。カラーが36円、白黒が15円でした。

 国会図書館内では、一人で何やらブツブツ言っている人や、若い係の人に傲岸不遜な態度を取る中年女性など、ちょっと変わった人がおりましたが、税金で運営されているわけですから、多くの国民が利用するべきですね。

「 レヴュウ號」目次

 7月26日に発売され、同日付の産経新聞に全面広告を打っていた「月刊 Hanada」9月号には「朝日新聞は反社会的組織」という特大な活字が躍り、本文は読んでませんが、これではまるで朝日新聞社が半グレか、反社集団のようにみえ、驚いてしまいました。右翼国粋主義者の方々なら大喜びするような見出しですが、戦前の朝日新聞は、こうして、政治とは無関係な娯楽の芸能雑誌も幅広く発行していたんですね。

 とはいえ、この雑誌が発行された昭和8年という年には、あの松岡洋石代表が席を立って退場した「国際連盟脱退」がありましたし、海の向こうのドイツでは、ヒトラーが首相に就任した年でもありました。前年の昭和7年には、血盟団事件や5・15事件が起こっており、日本がヒタヒタと戦争に向かっている時代でした。

 そんな時代なのに、いやそういう時代だからこそ、大衆は娯楽を求めたのでしょう。このような雑誌が発売されるぐらいですから。

 目次を見ると、当時の人気歌劇団がほとんど網羅されています。阪急の小林一三が創設した「宝塚少女歌劇」は当然ながら、それに対抗した「松竹少女歌劇」も取り上げています。当時はまだ、SKDの愛称で呼ばれなかったみたいですが、既に、ターキーこと水ノ江滝子は大スターだったようで、3ページの「二色版」で登場しています。

 残念ながら、ここに登場する当時有名だった女優、俳優さんは、エノケン以外私はほとんど知りません。(先日亡くなった明日待子はこの年デビューでまだ掲載されるほど有名ではなかったみたいです)むしろ、城戸四郎や菊田一夫といった裏方さんの方なら知っています。

 面白いのは、中身の写真集です。(「グラビュア版」と書いてます=笑)「悩ましき楽屋レヴュウ」と題して、「エロ女優の色消し」とか「ヅラの時間」などが活写されています。それにしても、天下の朝日に似合わず、大胆で露骨な表現だこと!

 43ページからの「劇評」には、川端康成やサトウハチロー、吉行エイスケら当時一流の作家・詩人も登場しています。

レヴュウ関係者名簿

 巻末は、「レヴュウ俳優名簿」「レヴュウ関係者名簿」となっており、私のお目当ての「高悠司」は最後の54ページに掲載されていました。

 高悠司(高田茂樹)(1)佐賀縣濱崎町二四三(2)明治四十三年十一月三日(3)ムーラン・ルージュ(4)文藝部プリント(6)徳山海軍燃料廠製圖課に勤め上京後劇團黒船座に働く(7)四谷區新宿二丁目十四番地香取方

 やったー!!!ついに大叔父を発見しました。

 一馬叔父からもらった戸籍の写しでは、大叔父(祖父の弟)の名前は、「高田茂期」なので、ミスプリか、わざと間違えたのか分かりませんが、出身地と生年月日は同じです。(4)の文藝プリントとは何でしょう?同じムーラン・ルージュの伊馬鵜平(太宰治の親友)はただ文藝部とだけしか書かれていません。(5)は最終学歴なのですが、大叔父は、旧制唐津中学(現唐津西高校)を中退しているので、わざと申告しなかったのでしょうか。

 (6)は前歴でしょうが、徳山海軍燃料廠の製図課に勤めていたことも、劇団黒船座とかいう劇団に所属していたことも今回「新発見」です。 確か、大叔父は、旧制中学を中退してから佐賀新聞社に勤めていた、と一馬叔父から聞いていたのですが、その後、「職を転々としていた」一部が分かりました。

 (7)の香取さんって誰なんでしょうか?単なる大家さんなのか、知人なのか?新宿2丁目も何か怪しい感じがしますが(笑)、ムーラン・ルージュまで歩いて行ける距離です。想像力を巧みにすると面白いことばかりです。

いずれにせよ、この雑誌に掲載されている当時あったレビュー劇団として、他に「ヤパン・モカル」「河合ダンス」「プペ・ダンサント」「ピエル・ブリヤント」などがあったようですが、詳細は不明(どなたか、御教授を!)。「ムーラン・ルージュ」の関係者として6人だけの略歴が掲載されています。そのうちの一人として、天下の朝日新聞社によって大叔父高悠司が選ばれているということは驚くとともに、嬉しい限りです。

繰り返しになりますが、大叔父高悠司こと高田茂期は、ムーラン・ルージュを辞めて、満洲国の奉天市(現瀋陽市)で、阿片取締役官の職を得て大陸に渡り、その後、徴兵されて、昭和19年10月にレイテ島で戦死した、と聞いています。33年11カ月の生涯でした。

遺族の子息たちはブラジルに渡り、その一人はサンパウロの邦字新聞社に勤めていたらしいですが、詳細は分かりません。

この記事を読まれた方で、高悠司について他に何かご存知の方がいらっしゃっいましたら、コメントして頂けると大変嬉しいです。ここまで読んで下さり感謝致します。

元祖アイドル明日待子さんの訃報に接して

 本日、戦前から戦後にかけて「元祖アイドル」と言われた女優明日待子(あした・まつこ、本名須貝とし子、1920~2019年)さんの訃報に接しました。享年99。

 何よりも、まだご健在だったことに驚き、叶わぬことでしょうが、もしその事実を知っていたなら、生前にお話を伺いたかったなあ、と思いました。

 私が彼女の名前を初めて聞いたのは、30年ほど前です。戦前から戦後にかけて新宿にあった大衆劇場「ムーランルージュ新宿座」(1931~51年)の看板女優だったという話を佐賀の一馬叔父(父親の弟)から聞いたことでした。最初聞いた時は、随分変わった分かりやすい芸名だなあ、ということぐらいで、それ以上はどんな女優だったのか知る由もありませんでした。

 当時、一馬叔父さんは自分の九州の高田家のルーツ探しに非常に熱心で、戸籍やら曾祖父が残した書き物などを元に系図を作ったりして、コピーも送ってくれました。その中で、叔父の叔父に当たる高田茂期(私から見て祖父の弟に当たる大叔父)が、昭和7~8年に、このムーランルージュで座付き脚本家として活動したことがあり、ペンネームとして「高悠司」という名前を使っていたという話を聞いたのです。

 しかし、当時は今ほどネットに情報が溢れていたわけではなく、知る由もなく、「高悠司」という人がいたかどうかも不明でした。当時、私は演劇担当の記者をしていたため、その折に知遇を得た演劇評論家の向井爽也氏(古い民家の絵を描く著名な向井潤吉画伯の長男で元TBSのディレクター)に、高悠司について伺ってみると「聞いたことないなあ」と一言。その代わり、ムーランルージュ関係の本を1冊紹介してもらいました。その本のタイトルは忘れましたが(笑)、勿論、高悠司の名前などありませんでした。

WT National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua  明日待子さんの写真が著作権の関係で使えないので、リンク先でご参照ください。

 それが、最近、ネットで検索したところ、高悠司の名前が2件ヒットしたのです。1件は、大恥を晒しますが、私が2006年5月28日の《渓流斎日乗》に書いた記事(笑)。もう1件は、1933年に東京朝日新聞社から発行された「レヴュウ號」映画と演芸・臨時増刊(54ページ、50銭・26x38センチ判)の索引の中に出てきたのです。名前だけですが、有馬是馬 、春日芳子といった俳優のほかに、関係者(座付き作家?)として伊馬鵜平(太宰治の親友としても有名)、斉藤豊吉らとともに高悠司の名前が並んでいたのです。

 嗚呼、今は亡き叔父の言っていたことは本当だったんだ!実在していたんだ!と感激しました。いつか、この雑誌を国会図書館が何処かで閲覧させてもらおうかと思いました。

 さて、ウイキペディアの「ムーランルージュ新宿座」によると、明日待子さんは、上に出てきた俳優の有馬是馬に発掘されて1933年に入団、とあります。昭和7(1932)~同8(1933)年頃に在籍した大叔父高悠司と接点があったかもしれません。明日待子さんが存命と知っていたら、その辺りを聞いてみたかったのです。(一馬叔父の記憶では、高悠司は当時、湘南地方で起きた事件を題材に脚本を書いたところヒットして、二カ月のロングランになったらしい。また、彼はヴァイオリンも演奏したらしいですが、真相は不明です)

 明日待子さんは、デビューすると瞬く間に人気アイドルとなり、カルピスや花王石鹸、ライオン歯磨きなどの宣伝ポスターに引っ張りだこ。原節子、李香蘭と並ぶ「元祖アイドル」と言われる所以です。

 ムーランルージュには、座付き作家として、吉行淳之介のご尊父吉行エイスケや龍胆寺雄ら、俳優歌手には、左卜全、益田喜頓、由利徹らも関わっていたんですね。戦後生まれの私は勿論知りませんが、ボードビル風の軽喜劇もやっていたことでしょう。

◇ルーツ探し

 大叔父高悠司こと高田茂期の消息については不明な部分が多いのですが、旧制佐賀県立唐津中学(現唐津東高校)を中退し、佐賀新聞社に勤務。その後、兄である私の祖父正喜(横浜で音楽教師をやっていた)を頼って上京し、職を転々とした挙句にムーランルージュで脚本家の職を得たようです。そして、何かのツテがあったのか、そのムーランルージュも辞めて満洲に渡り、奉天市(現瀋陽市)で阿片取締役官の職に就き、その後、徴兵され、昭和19年10月のフィリピン・レイテ島戦役(フィリピンで俘虜となり、レイテ島に収容された大岡昇平の「レイテ戦記」に詳しい)で戦死したと聞いています。享年33。

 長らく自分の「ルーツ探し」はサボって来ましたが、また復活したいと思っています。

岩槻大師~浄国寺~芳林寺=岩槻の英雄太田道灌

太田道灌公像

 最近、週末に時間があれば、関東近辺の「城巡り」を日帰りで蛮行していることは、このブログの熱心な愛読者の皆様には御案内の通りです。

 でも、先日、高野山に行ったおかげで、スイッチが入り、「寺社仏閣巡り」がそれに加わりました。お城と寺社は切っても切れない縁がありますから、まるっきり唐変木な話ではないのですが…(笑)。

岩槻大師

 そこで目指したのが、武蔵国岩付(現さいたま市岩槻区)にある「岩槻大師」です。大師が付きますから、当然、空海の真言宗の寺院です。ここの地下にある仏殿をお参りすると、四国八十八カ所お遍路参りと同じ功徳が得られるという噂を小耳にはさんだので、行かないわけにはいきません(笑)。

岩槻大師

 この寺の正式名称は「光岩山釈迦院岩槻大師弥勒蜜寺」。パンフレットには「くしくも真言宗の宗祖弘法大師空海さまご誕生の年、光仁天皇の宝亀5年(774年)の草創と伝えられる」と書かれています。

 あれっ?真言宗とは、唐に留学した空海が恵果和尚(けいか・かしょう)に灌頂された密教を806年に日本に帰国して伝えたのではなかったのでしょうか?真言宗が成立したのも、高野山を開祖した816年という説が有力です。

 ま、堅いことは抜きにして、例の四国八十八カ所お遍路参りと同じ功徳が得られるという「地下仏殿」にお参りしようとしたら、ちょうどその日に「得度式」なるものが本堂で行われていたため、お参りできませんでした。残念。

 そこで、前回書けなかった高野山のことを付記します。空海(774~835年)は60歳9カ月で入定しますから、高野山の壇上伽藍は、金堂や大塔などを建てただけで、未完成のままでした。そこで、壇上伽藍を完成させたのが、弟子の真然(804~891年)でした。真然は、空海の甥に当たり、空海の実弟である真雅(801~879年)から灌頂を受けました。

 東寺長者だった真雅は、清和天皇の信任が篤く、摂政藤原良房と結び貞観寺を創建し、死後、法光大師の諡号(しごう)を受けています。古代中世近世の政治史は、天皇、藤原家、武士だけでなく、仏法僧の世界が分からなければ理解できないことがこれで分かります。

  真然は、貞観18年(876年)、東寺長者真雅から「三十帖冊子」(空海が密教の典籍を書写した冊子)を借覧し、高野山に持ち帰ったので、これが後に、高野山と東寺との間に紛争が生じ、高野山が荒廃する原因となりました。

 真言宗を復興した中興の祖の一人と言われるのが平安中期から後期にかけて活躍した蓮待(れんたい=1013~1098年)で、全国を行脚した高野聖の先駆とみられ、「南無大師遍照金剛」という大師宝号を最初に唱えた僧侶だとも言われてます。

 ということは、真言宗の宝号である 「南無大師遍照金剛」は、空海が唱えたのではなく、空海入定後200年も経って生まれたことになります。

 ま、細かいことはこの辺にしておきます。。。

浄土宗 浄国寺

 次に訪れたのは、浄国寺です。

 実は、東武野田線岩槻駅の観光案内所で頂いた地図を手掛かりに岩槻大師を探したのですが、方向音痴の私は、道を間違えて、かなり時間をロスしてしまいました。

 が、岩槻大師から浄国寺への道順は迷わず行けました。境内はなかなか広かったです。

 何で、このお寺を訪れたかと言いますと、関東の寺社仏閣の来歴について、こと細かく書かれているネットサイトの「猫の足あと」に「関東の名刹寺院」として紹介されていたからです。

 浄国寺は「関東十八檀林」の一つのようですが、詳細は上の写真をお読み下さい。岩槻藩主を務めた阿倍家の墓もあります

曹洞宗 芳林寺

次に向かったのは芳林寺。岩槻駅の観光案内所で、「是非行かれるといいですよ」と勧められたのが、この芳林寺でした。

太田道灌ゆかりの寺だというのです。

太田道灌公像

 太田道灌は、この岩槻城だけでなく、河越(川越)城、江戸城を建てた戦国武将(扇谷上杉氏の家宰)で、特に江戸城を引き継いだ徳川家康らによって神格化されました。

太田道灌御霊廟

 太田道灌像は、東京の日暮里にもありますが、岩槻にもあるとは知りませんでした。

 岩槻市民も太田道灌への思慕が強かったですね。

 道灌の事績については、上の碑文によくまとめられています。

 今回は、ちゃんと「城巡り」と「寺社仏閣巡り」が一致しました。