東京横浜毎日新聞社は高級ブランドショップに=明治の銀座「新聞街」めぐり

 9月17日の「明治の銀座『新聞街』めぐり」の第2弾です。(前回の記事をまだお読みでない方にはリンクを貼っておきました)

 江戸東京博物館に行って、明治の銀座は新聞社だらけだったことに驚き、個人的に、銀座で今でも仕事をしている機会を利用して、出来る限り回ってみようとしたのが今回の企画です。

銀座「とんかつ不二」ミックス定食ランチ600円(15食限定)

 今回は、それより、銀座ランチの企画を優先してしまいました(笑)。例の昭和2年(1927年)創業の「とんかつ不二」です。時事新報社があった交詢社ビルの斜め前ぐらいにあります。以前にもこのブログで書きましたが、午後1時を過ぎると、ミックス定食ランチがわずか600円で食すことができるのです。15食限定ですが。

 どうでも良い話ですが、私は病気をした関係で非常に規則正しい生活を送っており、大抵は、毎日午後12時半に会社を出てランチを取っていますので、どうしても、銀座は一番遠くても徒歩で15、6分圏内なので、食事は1時前になってしまい、この時間だと外で待たなければなりません。でも、金曜日はたまたま仕事で遅くなったので、ちょうど1時3分過ぎに到着することができたのです。

 ミックス定食は、上の写真の通りです。ヒレかつ、ロースかつ、エビフライ、魚のキスフライが付いて600円ですよ! しかも銀座です! 半信半疑で食べ、食べ終わってから申し訳ない気持ちで料金を払いました。

銀座7丁目毛利ビル=⑧絵入日曜新聞(1877年6月~10月)跡

 さて、この「とんかつ不二」の近くに明治の新聞社はないものか探しました。交詢社通りを北上し並木通りを渡ったところに 、銀座7丁目の毛利ビルがありますが、そこは、⑧絵入日曜新聞(1877年6月~10月) があったといいます。

 この新聞、古書店で、第1~5号の合本1冊が4000円で販売されているようですが、私は実物を見たことがなく、どんな新聞か分かりません。でも、わずか4カ月間の発行期間だったようですね。恐らく、挿絵をふんだんに使った大衆向けの新聞だったのでしょう。1877年は明治10年。その年の1月から9月まで西南戦争がありましたから、西南戦争の記事もあったのかもしれません。

銀座6丁目Ginza Mst=⑲東京ふりがな新聞(1881年11月~1882年2月)跡

 このまま並木通りを東に進み、みゆき通りを北にワンブロック先にあるのが、 銀座6丁目Ginza Mstビルです。ハリウッド俳優ブラッド・ピットが宣伝に出ているイタリアの高級スーツ、ブリオーニが入ってます。私は、通勤などで毎日のようにこのビルの前を通るのですが、ここに明治には⑲東京ふりがな新聞(1881年11月~1882年2月)があったとは知りませんでした。

 残念ながら、この新聞に関してはよく分かりません。わずか3カ月間しか続かなかったので、歴史に埋もれてしまったようです。

銀座5丁目 コーチ銀座 ⑭東京横浜毎日新聞(1879年11月~1886年5月)

 ここからソニー通りを東にワンブロック進むと、銀座5丁目の高級皮革ブランド「コーチ」が入っているビルがありますが、明治には、ここは何と、⑭東京横浜毎日新聞社(1879年11月~1886年5月)があったんですね。

 前身は、横浜毎日新聞。大阪毎日新聞と東京日日新聞が合併し現在も存続する毎日新聞とは無関係です。「山川 日本史小辞典」などによると、横浜活版社が1870年(明治3年)12月8日に創刊した日本最初の日刊邦字新聞なのです。

 貿易関係記事や海外ニュースなどを掲載し、1879年に編集局をここ銀座に移し「東京横浜毎日新聞」と改題します。幕臣出身の沼間守一(1843~90年)社長のもとで改進党系新聞の性格を強め、自由民権運動の高揚とともに有力な全国新聞となります。1886年「毎日新聞」と改題し、沼間の死後、やはり旧幕臣の島田三郎(1852~1923年)が社長となり、日露戦争では開戦に至るまで非戦論を唱えます。島田は、帝国議会開設後は立憲改進党の有力議員として足尾鉱山鉱毒事件や廃娼運動などを追及をします。1906年、「東京毎日新聞」と改題され、1909年には「報知新聞」の経営に移り、1913年には後に改造社を創立する山本実彦が社主となり、1940年、あの天下無敵の「ブラックジャーナリズムの祖」とも言われる野依秀市が創刊した「帝都日日新聞」に吸収され廃刊となる日本ジャーナリズムに歴史を残す新聞社なのです。

銀座6丁目・商法講習所跡(現一橋大学)

 いやはや、筆が少し踊りました(笑)。

 帰り道、銀座6丁目にある「銀座SIX」の歩道にある「 商法講習所跡」の碑の写真も撮っておきました。明治の遺産の一つですからね。

 商法講習所とは1875年、初代文部大臣となる薩摩出身の森有礼が創立した私塾で、東京会議所の管理に移り、1876年東京府に移管されます。その間、渋沢栄一も経営委員として参画しています。その後、1884年、東京商業学校と改称され、東京・一ツ橋に移り、現在の国立市の一橋大学につながるのです。

 この碑は、商法講習所創立100周年に当たる1975年に一橋大学が建立したものでした。

足の踏み場もないほど新聞社だらけ=明治の銀座「新聞街」めぐり

 先日、東京・両国の江戸東京博物館に行った話を書きましたが、実は、私が最も熱心に食い入るようにして観察したのは、江戸から明治になって文明開化の嵐が吹き荒れ、銀座が「新聞街」になっていたことを示すパネルでした。

 まさに、明治の銀座は、16世紀から印刷業、18世紀から新聞社が集積するようになった英国ロンドンのフリート街のようだったのです。御存知でしたか?

明治銀座の新聞街

 以前、この《渓流斎日乗》ブログでも、明治の銀座にあった新聞社の足跡を辿った記事を書いたことがありますが、江戸東京博のパネルを見て、「えっ?まだこんなに沢山あったの!?」と吃驚です。正直言いますと、ほとんど聞いたことも見たこともない新聞ばかりでした。

 そこで、私にとって、銀座は庭みたいなもんですから(笑)、昼休みを利用して、明治の新聞社を探訪することにしました。

東京日日新聞社(1872年2月~現毎日新聞社) 現銀座5丁目・イグジットメルサ

 私の銀座の核心的散歩道は、みゆき通りなので、まずはその近辺を彷徨ってみました。

 上の写真の東京日日新聞社跡は、以前、このブログでも取り上げたことがあります。明治の東京日日新聞ですから、岸田吟香や福地桜痴らがここにあった社屋に通っていたことでしょう。現在のイグジットメルサ・ビルには、中国系に買収された家電販売の「ラオックス」が入居しているので、コロナ禍の前は、中国人観光客がたむろして、通りを歩けないほど混雑しておりました。今では隔世の感です。

やまと新聞社(1886年10月~1900年10月)現銀座6丁目・NTTドコモショップなど

 そのイグジットメルサ・ビルの南の真向かいにある NTTドコモショップには、明治には「やまと新聞社」があったとは、知りませんでした。この新聞は、「東京日日新聞」の創刊者の一人である条野採菊らが「警察新報」を改題して創刊した大衆新聞でしたから、社屋が東京日日新聞社の真向かいにあることは自然の成り行きだったのかもしれません。

東京絵入新聞社(1876年3月~1889年2月)、官令日報社(1882年10月~不明) 現銀座6丁目・銀座かねまつ

 このまま、銀座通りを新橋方面に歩いて、銀座6丁目交差点付近の今の銀座SEIビル辺りにあったのが、 「東京絵入新聞社」と「 官令日報社」 でした。 「官令日報」は、どんな新聞だったのか、よく分かりませんが、 「東京絵入新聞」は、1875年4月に高畠藍泉と落合芳幾が創刊した小新聞で、初めは「平仮名絵入新聞」と称していたようです。小新聞とは、政論を主体にした知識層向けの大新聞とは異なり、庶民向けの娯楽新聞で、版型が小さかったので、そう呼ばれたということです。

時事新報社(1882年3月~1936年12月) 現銀座6丁目・交詢社ビル

 銀座6丁目の交差点の交詢社通りを右折すると、すぐ交詢社ビルがあります。ここは、慶応義塾を創立した福沢諭吉がつくった財界人の社交クラブで、このビル内に、同じく福沢が創刊した時事新報社がありました。

 時事新報は、このブログで何度も取り上げましたので、改めて御説明するまでもありませんね。慶応卒の記者が多かったようですが、明治25年にロイター通信社と独占契約を結んで経済記事を重視し、今の日本経済新聞の前身である中外商業新報(もともとは、益田孝が創刊した三井物産の社内報が原点)よりも信頼され、重要視され、企業決算を報告する義務があったので、企業はこぞって時事新報を選んだといいます。

 ついでながら、大相撲の国技館に飾られているどデカイ優勝力士のパネル写真は、もともと、時事新報社が考案したもので、同紙廃刊後は、毎日新聞社が継承しています。

鈴木田新聞(1880年12月~81年12月) 現銀座6丁目・交詢社ビル

 この交詢社ビルは明治の頃、どれくらいの大きさだったのか分かりませんが、現在とさほど変わらないとしたら、交詢社ビル内には時事新報のほかに、「鈴木田新聞社」があったようです。私は全く知りませんでしたが、これは、読売新聞の初代編集長も務めた鈴木田正雄(1845~1905年)が自ら創刊した新聞で1年しか続かなかったようです。この人、その後、「東北自由新聞」「奥羽日日新聞」「東京絵入新聞」などを転々とし、いずれも長くは続かなかったようです。調べてみると面白そうな人物ですが、今ではすっかり忘れられてしまいました。

東洋自由新聞社(1881年3月~4月) 現銀座6丁目・銀座SIX

 交詢社通りをまた広い銀座通りに戻ると、通りの向こうでは、今では大きな銀座SIXビルが聳え立っています。以前は、松坂屋百貨店で、店内に入ってもガラガラで寂れていましたが、2017年にこのビルに建て替えられ、世界的な高級ブランドが入居すると活気を取り戻した感じです。

 ここに明治時代は、あの東洋自由新聞社があったんですね。全然知りませんでした。

 何と言っても、東洋自由新聞は、1881年にフランス帰りの西園寺公望が、中江兆民を主筆にそえて創刊した日刊紙で、フランス的な自由平等精神を鼓舞する画期的な新聞でしたが、わずか34号で休刊となりました。西園寺公望が、古代藤原氏から続く清華家筆頭の公卿であることから、西園寺が新聞を主宰することで社会的影響を恐れた岩倉具視らが、西園寺に経営から手を引かせたのです。そのため、激怒した社員が内実を暴露した檄文を配布したことで罪に問われ、廃刊に追い込まれたのです。

 明治の文明開化。煉瓦造りの建物が並ぶ銀座は、まさに言論界の坩堝だったんですね。これからも、もう少し歩いてみます。(つづく)

満洲事変を契機に戦争賛美する新聞=里見脩著「言論統制というビジネス」

 今読んでいる里見脩著「言論統制というビジネス」(新潮選書、2021年8月25日初版)は、「知る」ことの喜びと幸せを感じさせてくれ、メディア史や近現代史に興味がある私にとってはピッタリの本で、読み終わってしまうのが惜しい気すら感じています。

 実は、著者の里見氏は現在、大妻女子大学人間生活文化研究所特別研究員ではありますが、20年前に同じマスコミの会社で机を並べて一緒に仕事をしたことがある先輩記者でもありました。でも、そんなことは抜きにしても、膨大な文献渉猟は当然のことながら、研究調査が深く行き届いており、操觚之士の出身者らしく文章が読みやすく、感心してしまいました。

 この本は「言論統制」が主題になっていますが、それは、政府や官憲によるものだけでなく、メディア(戦時中は新聞)や国民までもが一躍を担っていた事実を明らかにし、検証に際しては、戦前の国策通信社だった同盟通信の古野伊之助社長の軌跡を軸として追っています。

明治 銀座4丁目の「朝野新聞」本社(江戸東京博物館)

 先日9月11日(土)、第37回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催)にオンラインで参加したことについて、この《渓流斎日乗》ブログに書きました。その際、講師の一人で「記者・清六の戦争」を書かれた毎日新聞社の伊藤絵理子氏は、大変失礼ながら、「勉強不足で」(本人談)、質問(新聞紙条例のことなど)にお答えできなかった場面がありましたが、この本を読めばバッチリですよ(笑)。

 例えば、日本の新聞は、あれほど戦争や軍部に反対していたのに、ガラッと変わったのは、1931年9月18日(実に今年で90周年!)の満州事変がきっかけだった、とよく言われますが、その経緯が詳しく書かれています。

 東京日日新聞(1943年に大阪毎日新聞と統合して毎日新聞)は、もともと陸軍と親密な関係がありましたが、満洲事変をきっかけにさらに戦争ムードが広がり、満洲事変のことを社内では、「毎日新聞後援・関東軍主催・満洲戦争」と自嘲する者さえいたといいます。しかも、社論を代表する東日と大毎の主筆だった高石真五郎は、外国生活が長く、リベラルな考えの持ち主でしたが、満洲事変に関しては非常な強硬論者だったというのです。彼は「領土的野心を持つものではなく、正当に保持している経済的権益を守るもので、第三国の介入を許さぬ、というものだった」という証言もあったといいます。

 これでは、毎日新聞は、政府や官憲から命令されるまでもなく、戦争に協力していったことがよく分かります。(部数拡大の営業戦略もあったことでしょう)

 一方の「全国二大紙」(1930年まで、読売新聞はまだ22万部程度の小さな東京ローカル紙でした。しかし、正力、務台コンビで販売戦略が奏功し、1937年になると、東京日日、朝日を抜いてトップに浮上します)の朝日新聞はどうだったかと言いますと、その豹変ぶりが実に興味深いのです。例えば、大阪朝日は、事変発生直後の9月20日付朝刊社説で「必要以上の戦闘行為拡大を警(いまし)めなければならぬ」などと戦線拡大に反対の立場を断固主張しておきながら、そのわずか11日後の10月1日付朝刊社説では「現在の国民政府が…日本の有する正当な権益を一掃してしまおうとするには、必ず日本との衝突は免れないであろう」などと満洲独立支持へと主張を一転させてしまうのです。

東銀座「改造」書店 閉店してしまったのか?

 それまで、軍備費削減の論調を張っていた朝日は、在郷軍人会などから猛烈な不買運動に遭っていました。1930年に168万部余だった部数が、翌31年には143万部余と減少し、厳しい経営状態に立たされていたといいます。(しかし、「戦争ビジネス」で起死回生し、部数拡大していきます)

 こうした豹変ぶりについて、月刊誌「改造」は「朝日新聞ともあろうものが、軍部の強気と、読者の非買同盟にひとたまりもなく恐れをなして、お筆先に手加減をした」と揶揄され、月刊誌「文藝春秋」(1932年5月号)からは「東京朝日は昨年の秋、赤坂の星が丘茶寮に幹部総出動で、軍部の御機嫌をひたすら取り結んで、言論の権威を踏みにじった」と暴露されています。

 この「星が丘茶寮」と書いてあるのを読んで、本書には全く書いていませんでしたが、私は、すぐ、北大路魯山人じゃないか!とピンときました。調べてみると、魯山人は1925年にこの会員制料亭「星岡茶寮」の顧問兼料理長に就任しましたが、36年には、その横暴さや出費の多さを理由に解雇されています。でも、1931年秋でしたら、魯山人はいたことになります。あの朝日新聞の編集局長だった緒方竹虎も、朝日不買運動をチラつかせた軍部の連中も、魯山人のつくる食器(重要文化財クラス?)と料理に舌鼓を打ったのではないかと想像すると、何か歴史の現場に踏み込んだような気になってニヤニヤしてしまいました。(文藝春秋が朝日を批判するのは、昔からで、お家芸だったんですね!)

 ちなみに、この 「星岡茶寮」 はもともと、日枝神社の境内だった所を、明治維新で氏子の減少で維持できなくなり、三井財閥の三野村利助ら財界人により買い取られて料亭が作られたものでした。戦時中に米軍による空襲で焼失し、戦後は東急グループに買い取られ、ビートルズが宿泊した東京ヒルトンホテルになったり、キャピタル東急ホテルになったりし、現在は、地上29階の東急キャピトルタワーが屹立しています。

 この本を読みながら、私は、行間から一気に、勝手に色々と脱線しますが、新たに知らなかった知識を得ることができて、ますます 読み終わってしまうのが惜しい気がしています。

 

「幻の商社」昭和通商と謎の特務機関=斎藤充功著「陸軍中野学校全史」

 斎藤充功著「陸軍中野学校全史」(論創社、2021年9月1日初版)をやっと昨日、読了しました。2週間ぐらいかかりましたかね。何しろ627ページに及ぶ大著ですから、情報量が満載です。この《渓流斎日乗》ブログでも何度か取り上げさせて頂きましたが、内容に関して全て御紹介できませんので、是非とも皆様もお読みください。

 繰り返しになりますが、著者の斎藤氏は40年に及ぶ中野学校関係者への取材で100人以上にインタビューし、これまで上梓された中野関係の著作は8冊。その中から5冊を中心に再録したものが本書です。新たに増補、書き直しされた箇所もあるようですが、固有名詞の表記で一致しなかったり、平仄が合わなかったり、たまたま誤植も見かけたりしましたので、「永久保存版」として読み継がれるために、御担当編集者の谷川様におかれましては、次の版では改訂して頂ければと存じます。

江戸東京博物館

 本書後半の第5章「陸軍が主導して創った巨大商社」では、陸軍中野学校の卒業生も社員として偽装していた「幻の商社」昭和通商が出てきます。この商社は、昭和史を少しでも齧った人なら聞きしに及ぶ有名な商社ですが、中野学校生が絡んでいたことを御存知の方がいれば、よっぽどの通ですね。

 昭和通商は1939年4月、陸軍の監督と指導の下で兵器の輸出入を手掛ける趣旨で設立された会社で、資本金1500万円は、三井物産、三菱商事、大倉商事に三社が三等分で醵出したといいます。本社は、東京市日本橋区小舟町の5階建ての小倉石油ビル内にあったということですが、現在の東京メトロ人形町駅から歩いて5分の一等地にあったといいます(現在は7階建てのビル)。

 社長の堀三也は、陸士23期、陸大卒の元軍人ですが、夏目漱石の門下で、「三太郎日記」などで知られる阿部次郎の実弟だといいます。へーですね。

 昭和通商が「幻の商社」と呼ばれるのは、公式資料がほとんど残されていないからです。その理由は、「阿片」や「金塊密輸」などのダーティービジネスに手を染めていたからだといいます。海軍嘱託で「児玉機関」を率いていた児玉誉士夫は戦後、GHQ・G2による尋問により、昭和通商はヘロインをタングステン(電球のフィラメントに利用)とバーター取引していたことを暴露しています。

 昭和通商が阿片を扱っていたことを知る社員は当時ほとんどいなかったといわれ、当然ながら、中野学校卒業生が社員になりすました事実を知る人はまずいなかった、といいます。彼らが何をやったのかと言うと、まさに阿片によって得た軍資金を、軍需物資購入資金に充てるため、例えば卒業生の一人である小田正身は、バンコクにまで運んだのではないか、と著者は推測したりしています。

江戸東京博物館

 他にも書きたいことがありますが、長くなるので、あとは私があまり知らなかった5項目だけを特記します。

・昭和17年当時、満洲の関東軍情報本部(哈爾濱ハルビン=最後の本部長は中野学校創立者・秋草俊少将)の支部機関は、16カ所あった。それは、大連、奉天、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、佳木斯(ジャムス)、黒河、斉斉哈爾(チチハル)、満洲里、間島、雛寧、東安、三河、興安、通化、承徳、内蒙古アパカの16カ所(343頁、348頁)。

・軍機保護法では、情報の重要度に応じて、「軍機」「軍機密」「極秘」「秘」「部外秘」の5ランクに分けて取り扱っていた。(317頁)

江戸東京博物館

・「阪田機関」「里見機関」「児玉機関」の三人のボス(阪田誠盛、里見甫、児玉誉士夫)は、上海では「特務三人衆」と呼ばれていた(442頁)

・「梅機関」は、汪兆銘の軍事顧問団で参謀本部謀略課長の影佐禎昭大佐(谷垣禎一・元自民党総裁の祖父)がつくった謀略機関。「松機関」は、陸軍登戸研究所がつくった偽札を現場で工作した機関で、責任者は支那派遣軍参謀部第二課の岡田芳政中佐。実行部隊は「阪田機関」(442頁)。他に、上海では「竹機関」「藤機関」「菊機関」「蘭機関」などが乱立し、横の連絡もなく、勝手に活動していた(445頁)。その後、上海での特務工作は、新設された「土肥原機関」(機関長・土肥原賢二中将。陸士16期。終戦時、第二方面軍司令官で、A級戦犯となり刑死)が実権を握って指揮することになった(446頁)。

・大陸だけでなく、南方でも「民族独立」を支援するマレー工作やインド・ビルマ工作、インドネシア工作、ベトナム工作などが企画され、中野学校卒業生も配置されていった。代表的な機関が「藤原機関」「岩畔機関」「光機関」「南機関」などだった(446頁)。

加害者意識もなくしてはいけない=立花隆著「最後に語り伝えたいこと」

 今年4月に亡くなった「知の巨人」立花隆の遺作「最後に語り伝えたいこと」(中央公論新社、2021年8月10日初版)を読みました。

 遺作というより、過去に雑誌等に発表した論文や講演録や対談の中で、書籍未収録だったものをを即席にまとめたものです。

 第一部の「戦争の記憶」では、2015年に長崎大学で行った講演「被爆者なき時代に向けて」などを収録。第二部「世界はどこへ行くのか」では、ソ連が崩壊した1991年に、21世紀の未来を見通そうと大江健三郎氏と行った対談を収録。ーと、ここまでは目次の丸写しです(笑)。

 立花隆氏の本名は、橘隆志。戦前の血盟団事件、5.15事件の黒幕で、「右翼の巨魁」とも呼ばれた農本主義者の橘孝三郎は、立花隆の父橘経雄(日本書籍出版協会理事など歴任)の従兄に当たる人です。ちなみに、立花隆の兄弘道は、元朝日新聞記者、実妹菊入直代氏は立花隆の秘書を務めていた人でした。

 立花隆は、父経雄が長崎市内のミッションスクールの教師として在職していた1940年に長崎で生まれたことから、広島・長崎原爆について、人一倍以上、関心があったようです。そして、1942年には、父が文部省職員として中国・北京の師範学校副校長となったため、一家で北京に滞在。日本の敗戦で、5歳で引き揚げ者となった経験についても、「日本人の侵略と引揚げ体験 赤い屍体と黒い屍体」に書いています。

 私は結構、立花隆氏の著作は読んでいましたが、自分自身を語ったエッセイなどはほとんど読んで来なかったので、実兄が朝日新聞の記者(後に監査役)だったことなどは知りませんでした。

 しかし、縁戚に橘孝三郎がいたことは知っていました。立花隆が「日本共産党の研究」を発表した時に、「親戚に右翼の巨頭がいるから、立花は共産党批判の本を出版したのだ」と一部の人が批判したりしましたが、実は、橘孝三郎は、「右翼の巨魁」だのと一括りにされるような浅薄な人間ではないことを、実際に何十回も面談して取材した昭和史研究家の保阪正康氏がこの本の「解説」に書いております。

 保阪氏によると、橘孝三郎という人は、人類史に何らかの貢献をさせることで選ばれた「歴史の神」の一人だというのです。保阪氏は昭和史関係で4000人以上の人にインタビューしましたが、その中でも、橘孝三郎は特別な存在で、それだけ、近代日本における知性と感性の優れた人物だったというのです。つまりは、右翼とか左翼といった、そんな浅薄な概念には収まり切れないとてつもない知性と教養と感性の持ち主だったというわけです。

 どうも、橘家という知的家系を見ると、古代の聖武天皇時代の学者肌だった「宰相」橘諸兄の血筋を引いているんじゃないかと思わせるほどです(笑)。

銀座「デル・ソーレ」本日のランチ・パスタ(ドリンク付)1100円

  立花氏は、自分の引き揚げ体験などを書いた「赤い屍体と黒い屍体」の中で、アフリカのコンゴが1960年に独立した際に、多くの白人女性が暴行されたり、輪姦されたりした悲惨な宗主国だった「ベルギー人の悲劇」を書きながら、凄いことを書いていたので吃驚しました。少し引用します。

 …コンゴにおけるベルギー人の苦難は、確かに悲劇に違いないし、むごたらしいものではあると思うけれども、心の片隅では、ザマアミロとい気持ちがあるのを隠すわけにはいかないのである。それは、事態がここまでに至るまでの、コンゴにおけるベルギー人の植民地支配の苛酷な現実を、私が知っているからだ。

 アフリカを支配した列強の中では、比較的温和な政策を取っていたといわれるベルギーではあるが、それが52年の統治の間、毎年、2億ドルもの収奪を続けていたのである。…原住民は二世代にわたって人間の扱いを受けずに、もし、コンゴ人の有能なレポーターがいれば、ベルギー人引き揚げ哀史を顔色なからしめるような分厚い悲劇の歴史を書くことができたはずである。…

 うーん、強烈ですね。

 広島・長崎の原爆、日本大空襲、シベリア抑留、生死を彷徨うほど苛烈な引き揚げ、残留孤児…等々、日本人は被害者ではあったとはいえ、先の大戦では、明らかに日本はアジアの民衆に対しては加害者であったことを決して忘れるべきではない、という立花隆のメッセージだと受けとめました。

◇文芸春秋の皆様へ

 立花隆の1000冊に及ぶ著書を全て読んだわけではありませんが、私が最も知的興奮を覚えて感銘したのは「天皇と東大」です。どうも増刷されていないようで、某ネット通販では、上巻1冊(中古)だけで6000円近い値段が付けられています。是非とも、増刷か復刊してもらいたいものです。宜しくお願い申し上げます。

「大江戸の華」展のために欧米から甲冑が里帰り=江戸東京博物館

 月刊誌「歴史人」の読者プレゼントで、東京・両国の「江戸東京博物館」の入場券が当選してしまったので、昨日の日曜日に行って来ました。

 日曜日なので、混雑を覚悟しましたが、緊急事態宣言下で、早めの午前中に出掛けたせいか、結構空いていました。あまり期待していなかったのに、とても良かった。江戸東京博物館に行ったのは久しぶりでしたが、すっかりファンになってしまいました。

色々威胴丸具足(1613/贈) 英王立武具博物館蔵 

 特別展「大江戸の華」は、チラシでも取り上げられていましたが、やはり、欧米に渡り、この展覧会のために一時里帰りした武具が最高でした。

 上の写真の鎧、兜は、徳川家康・秀忠が1613年頃に、大英帝国との親善のために、国王ジェームズ1世に贈られたものです。もう400年も昔なのに、全然古びていないのが感動的です。恐らく、一度も着用されていない「装飾」用かもしれませんが、それにしても、凄い。(大事に扱って頂き、英国人さん有難う)特別展では他に、刀剣も展示されていましたが、私は圧倒的にこれら鎧兜を食い入るように観ました。

金小札変り袖紺糸妻江威丸胴具足(江戸・紀伊徳川家)米ミネアポリス美術館蔵

 こちらは、紀伊徳川家伝来の具足でしたが、現在は米ミネアポリス美術館所蔵になっています。「エセル・モリソン・ヴァン・ダーリップ基金」との説明がありますから、恐らく、明治に売りに出されていたものを購入したのでしょう。基金ですから、当時も相当高価だったことでしょう。まあ、武具は、戦国武将、大名の財力と権力を見せつける面もあったことでしょうね。

金小札変り袖紺糸妻江威丸胴具足(江戸・紀伊徳川家)米ミネアポリス美術館蔵

 この武具の兜をよく見ると、載っかっているのは、何と、カマキリじゃありませんか!

 いくらカマキリは強いといっても(特に雌が怖い!)、昆虫ですからね。江戸時代ですから、元和偃武(げんなえんぶ)となり、もう戦場で戦うというより、恰好良さや装飾性を追求したからだと思われます。

日本橋(江戸東京博物館)

 特別展「大江戸の華」は、30分ほどで見て回ってしまったので、6階の常設展示室に足を運ぶことにしました。

 そしたら、面白いったらありゃしない。江戸時代から明治、大正、昭和、平成の江戸と東京の風俗、文化、歴史が立体的に展示されていて、すっかり、ハマってしまいました。

 大変広いスペースだったので、全部観るのに2時間以上かかってしまいました。

江戸の寿司屋台(江戸東京博物館)

 この寿司の屋台は、江戸時代をそのまま再現したようですが、寿司の大きさにびっくり仰天です。写真じゃ分かりませんが、現在の1貫の1・5倍か2倍近い大きさです。これでは、寿司ではなく、「おむすび」ですよ(笑)。5貫も食べればお腹いっぱいになりそうです。

江戸の本屋さん(江戸東京博物館)

 こういう所に踏み込むとタイムスリップした感じがします。

 江戸時代なんて、本当につい最近だと感じます。

「助六由縁江戸桜」の助六(江戸東京博物館)

 江戸東京博物館は、リピーターになりそうですね。外国人観光客を一番に連れて行きたい所です。

 でも、このブログでは一言では説明できませんし、あまりにもジャンルが広いのでご紹介できません。

「助六由縁江戸桜」の揚巻(左)と意休(江戸東京博物館)

 最近あまり行ってませんが、歌舞伎が好きなので、中村座の芝居小屋の模型には感服しました。客席は、枡形の中に4~5人が入るようになっていて、今でも江戸時代の雰囲気を色濃く残す四国のこんぴら歌舞伎の金丸座(香川県琴平町)を思い出しました。

明治・銀座4丁目の朝野新聞(江戸東京博物館)

江戸東京博物館は、幕末を経て、明治、大正、昭和、平成までの「東京」が展示されています。(勿論、関東大震災や、米軍による東京大空襲といった災害も)

 成島柳北が社長と主筆を務めた朝野新聞社の実物大に近い大きさの模型を見た時は、感涙しました。現在、銀座4丁目の交差点にあるセイコー服部時計店の所には、明治の文明開化の時期にはこんな建物があったのです。

 感動せざるを得ませんよ。

 私は勉強家ですから(笑)、以前にこの博物館を訪れた時よりも、遥かに知識が増えているので、一を見ると十のことが理解できるようになりました。やはり、「知識は力なり」です。

オンライン研究会で初めて「炎上」を体験=第37回諜報研究会

 9月11日(土)午後2時からオンラインで開催された第37回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催、早大20世紀メディア研究会共催)に久しぶりに参加しましたが、ちょっとした事件がありました。そのため、そのことをブログに書くべきか、書かざるべきか躊躇してしまい、書くのが今になったわけです。

 「ちょっとした事件」というのは、何と言いますか、戦前の帝国陸軍の軍曹か、憲兵の亡霊を見た気がしたからです。人を大きな声で恫喝したり恐喝したりすれば、黙って唯々諾々と従うと思い込んでいる人間が現代でも生きていて、日本人のエートス(心因性)は戦前から何一つ変わっていない、と思わされたのです。

 と、書いても、オンラインに参加した65人以外は、何のことやらさっぱり理解できないことでしょう。これは、あくまでも私一個人から見た感想に過ぎないので、仕方がないのですが、その時、何が起きたのか、ごく簡単に書き残すことを決意しました。

 研究会の報告者は2人で、最初は、今年6月に、南京攻略戦に従軍した、自らの曾祖父の弟に当たる東京日日新聞の従軍記者だった伊藤清六の足跡を追った本「記者・清六の戦争」(毎日新聞出版)を上梓した毎日新聞社の伊藤絵理子氏で、テーマは「南京事件と報道記者」でした。二人目は、南京大虐殺事件を描いた小説「城壁」を発表した直木賞作家榛葉英治と彼の残した膨大な日記を分析した早大の和田敦彦教授で、テーマは「南京事件研究の新たな視覚」でした。

 お二人ともテーマが南京事件に関したものなので、今回のような「ちょっとした事件」が起きる土台があったわけです。土台というのは、例えば、北方4島や尖閣列島、竹島といった領土問題、沖縄問題、そして今回の南京虐殺事件などいまだに繰り返し歴史認識が争われている問題のことで、意見の食い違いが触媒のようになり、発火すると燃え上がる事案のことです。今回はまさに炎上しました。

 「記者・清六の戦争」を書いた伊藤氏は、毎日新聞の前身である東京日日新聞の戦時中の紙面をマイクロフィルムで縁戚の伊藤清六が書いた署名記事を探訪し、本紙では短信に過ぎなかったものが、栃木県版では、写真付きでかなり長文の記事を書いていたことを発見したことが収穫であり、画期的でした。伊藤氏も「これまで、新聞報道の研究は、朝日新聞の縮刷版を元にしたものが圧倒的に多く、東京日日新聞の地方版の研究は少なかった。特に、戦争報道は、地方版の方が、その地元の師団や連隊に関する詳細な記述が多いので、今後のさらなる研究が望まれる」といった趣旨のことを話してました。

 南京事件は、1937年12月14日に起きたとされますが、清六の記事には虐殺や暴行、略奪、強姦、捕虜殺害などといったものは見つからなかったといいます。それが、当局の検閲によるものなのか、単に戦勝賛美のために自ら進んで書いていたのか分からなかったようですが…。

 早大の和田教授が取り上げた作家榛葉英治(1912~99年)は、私自身、直木賞作家であることぐらい知ってましたが、名前だけで著作は1冊も読んだことがありませんでした。榛葉英治自身は、南京事件に立ち合ったわけではありませんが、戦時中、新京(現長春)にあった満洲国の外交部(外務省)に勤務した経験がありました。

 榛葉英治が、南京虐殺を題材にした小説「城壁」を書いたのが1963年のこと。この時、中央公論社から出版を断られたりして(恐らく、1961年の「風流夢譚事件」が尾を引いていたのでしょう)、発表する当てもなく、となると、収入もなく、自宅を売り出して、やっと糊口をしのいでいたことまで日記に書かれていました。「城壁」は、未読ですが、南京安全区国際委員会と日本将兵の側の両方の視点を交差しながら、南京事件の経緯を浮かび上がらせているといいます。

◇恫喝と恐喝で炎上か?

 オンラインでの研究会が「炎上」したというのは、一人の質問者によるものです。どういう方なのか名前も所属も分かりませんが、髭を生やして実に怖そうな顔しておりました。失礼なながら60代後半に見えましたが、もう少しお若いかもしれません。質疑応答の時間に入ると、報告者の伊藤絵理子氏が若い(とはいっても中堅の記者ですが)、しかも女性ということもあって、「南京虐殺は、写真も改竄し、中国共産党のプロパガンダだという歴史認識はないのか?」などと大声で怒鳴って、「イエスかノーで答えろ!」と恫喝するのです。私なんか、思わず、「お前は山下奉文か?」と突っ込みたくなりましたが、黙ってました。そんな冗談を言える雰囲気が全くありませんでした。相手は酒を吞んでいるようで、そんなことを言えば、殺されるような予感さえありました。

 そして、アナール学派がなんとか、とか、「沖縄で米軍が毒ガスを使ったことを知らないのか?明らかにジュネーブ条約違反だ。そんな認識もないのかあー!」と罵声を浴びせる始末。さすがに、研究会の事務局の方が「そんな暴言を吐くのはやめてください。退場してもらいますよ。これは警告です」と注意すると、「この会は、言論を封殺するのかあーーー!」と来たもんだ。

 私自身は実に不愉快でした。恫喝すれば自分が優位に立てると考えているいまだにアナクロニズムな人間に対してだけでなく、あの場で、伊藤氏をかばって反論してあげなかった自分自身に対しての両方です。今でも不快です。

【追記】

 日本政府は、南京事件に関して、「日本軍の南京入城後、非戦闘員の殺害や略奪等があったことは否定できない」「被害者数は諸説あり、政府としてどれが正しいか認定は困難」との見解を示しています。(2021年9月14日付朝日新聞社会面)

 私自身は、中国共産党による捏造に近いプロパガンダは無きにしも非ずで、「30万人」という数字は「白髪三千丈」の中国らしい誇張に近い数字だと思います。しかし、たとえ、それが数万人でも、数千人でも、虐殺は虐殺であり、日本政府の見解通り「殺害があったことは否定できない」という立場を取ります。

偽札、本物金貨、何でもあり=斎藤充功著「陸軍中野学校全史」

 既にこのブログで何回か取り上げさせて頂きましたが、最近はずっと斎藤充功著「陸軍中野学校全史」(論創社、2021年9月1日初版)の大著を読んでいます。

 この本は、1986年9月から「週刊時事」(時事通信社、休刊)に連載した「謀略戦・ドキュメント陸軍登戸研究所」をきっかけに中野学校について関心を持った著者の斎藤氏が、その後刊行した「陸軍中野学校 情報戦士たちの肖像」(平凡社新書、2006年)、「スパイアカデミー陸軍中野学校」(洋泉社、2015年)など「中野」関係本8冊のうち5冊の単行本を元に再編集して、627ページの一冊の大著としてまとめたものです。

 40年近い取材活動で、斎藤氏が中野関係者に会ったのは100人以上。参考文献も120点ほど掲載され、「陸軍中野学校破壊殺傷教程」など資料も充実していて、これ以上の本はないと思います。ただ、誤植が散見致しますので、次の版で改訂して頂ければと存じます。

 中野校友会がまとめた校史「陸軍中野学校」によると、昭和13年7月(当時は後方勤務要員養成所)から昭和20年8月までの7年間で、「中野学校」の卒業生の総数は2131人で、そのうち戦死者は289人(戦死率約13.6%)だったといいます。約40年前から取材を始めた斎藤氏が取材した中野の生存者は70歳代~90歳代でしたから、今ではほとんど鬼籍に入られた方々ばかりです。それだけに、この本に収録された「証言」は貴重です。中野学校は、いわゆるスパイ養成学校でしたから、「黙して語らず」という厳しい暗黙の掟があったようですが、死を意識して遺言のつもりで告白してくださった人たちも多かったように見受けられます。

築地「わのふ」

 何と言っても、「表の歴史」にはほとんど出て来ない証言が多いので、度肝を抜かされます。特に、本書の中盤の第4章では「14人の証言」が掲載されています。

 私が注目したのは、昭和19年卒の土屋四郎氏の証言でした。

 昭和20年8月15日、ポツダム宣言を受諾決定に抗議して、クーデター未遂の「8.15事件」がありました。首謀者の一人、畑中健二少佐は、近衛第1師団長森赳中将を拳銃で射殺しましたが、クーデターは未遂に終わったことから、自らも皇居前で自決します。

 この事件は、今年1月に亡くなった半藤一利氏によって「日本のいちばん長い日」のタイトルで描かれ、二度も映画化されました。私は1967年に公開された岡本喜八監督作品で、畑中少佐役を演じた黒沢年男に強烈な印象が残っています。森師団長(島田正吾)を暗殺した後、手が興奮して硬直してしまい、なかなか手からピストルが放れてくれないのです。白黒映画でしたが、鬼気迫るものがありました。

 そしたら、この中野学校を昭和19年に卒業し、学校内の実験隊(当時は群馬県富岡町に疎開していた)に配属されていた土屋四郎氏が「8月9日に…私は参謀本部に至急の連絡があると、実験隊長(村松辰雄中佐)に嘘の申告をして東京に向かったのです。その時、…リュックに拳銃4丁と実弾60発を詰めて上京したのです。拳銃は参謀本部勤務の先輩に渡すため、兵器庫から持ち出しました。兵器庫の管理責任者は私だったので、発覚しませんでした。…戦後、先輩たちに話を聞かされた時、あの時持ち出した拳銃は『8・15クーデター』事件と結びついていたことが分かったんです」と証言しているのです。

 畑中少佐がその拳銃を使用したのかどうかは分かりませんが、8.15事件に参加した誰かが使用したことは間違いないようです。中野学校出身者たちは、8月10日に東京の「駿台荘」に極秘で集まり、大激論の末、結局、クーデターには直接参加しないことを決めましたが、こんな形で関わっていたとは知りませんでした。

築地「わのふ」魚定食ランチ1000円

 この他、日中戦争の最盛期に、日本軍は中国経済を壊滅するために、陸軍登戸研究所で、国民党政府が発行していた法定通貨「法幣」の偽物を製造していたことを、昭和15年卒の久木田幸穂氏が証言しています。終戦時、国民党政府が発行した法幣残高は2569億元。登戸で製造された偽法幣は約40億元とされ、流通したのは25億元とみられます。しかし、法幣マーケットのハイパーインフレに飲み込まれ、「法幣市場の崩壊」という作戦は不調に終わったといいます。

◇丸福金貨と小野田少尉

 一方、大戦末期には、偽物ではなく、前線軍部の物資調達用に密かに本物の金貨が鋳造されたといいます。大蔵省や造幣局の記録には載っていませんが、「福」「禄」「寿」の3種類の金貨が作られ、特にフィリピン島向けには「福」が持ち込まれ、「丸福金貨」と呼ばれたといいます。直径3センチ、厚さ3ミリ、重さ31.22グラム。陸軍中野学校二俣分校出身の小野田寛郎少尉も、この丸福金貨や山下奉文・第14方面軍司令官の「隠し財宝」を守るために、29年間もルバング島に残留したという説もありましたが、著者はその核心の部分まで聞き出すことができなかったようです。

◇中野出身者は007ではなかった

 中野出身者で生還した人の中で、悲惨だったのが、昭和19年に卒業し、旧満洲の関東軍司令部に少尉として配属された佐藤正氏。諜報部員なので、「もしも」のとき用にコードネーム「A3」を付けられたといいます。「007」みたいですね。この暗号名の使用は緊急時以外禁止されていましたが、一度だけ使ったといいます。

 佐藤氏は、満洲全土で諜報活動をしていましたが、ある日、ハルビンで、支那服姿で、手なずけていたロシア人と接触してメモをしているところを、怪しい奴だと憲兵に見つかり、拘束されてしまいます。この時、相当ヤキを入れられ、右脚が不自由なのはその時の傷が元でした。

 「取り調べの憲兵には話しませんでしたが、隊長を呼んでもらい、私の身分照会を奉天に頼んだのです。その時、初めて『A3』を使いました。誤解が解けたとはいえ、あの時は拷問死を覚悟したほどでした」

 007映画みたいにはいかなかったわけですが、こちらの方が現実的で、真実そのものです。

 それでも、佐藤正氏は生還できたからよかったものの、中野出身の289人は戦死か自決しているのです。かと言えば、シベリアに抑留されることなく無傷で生還した人もいました。人間というものは、つくづく運命に作用されるものだと痛感しました。

 

福井のソウルフード「ソースカツ丼」と「越前おろし蕎麦」

 「何で、そう毎日、ブログを書き続けるのですか?」

 「そこに山があるからです」

 何か、あと余命幾ばくも無い菅義偉首相の記者会見みたいになってしまいましたが、今日もネタがないので、郷土料理企画と致しましょう。銀座の郷土ランチです。

 本日は、今でもフランスで博士論文執筆で一生懸命に頑張っているAさんのことを思い、彼女の故郷、福井県にしました。銀座には1丁目に「食の國 福井館」があります。大雨の中、速足で行って来ました。

 福井県といえば越前であり、越前だと蟹ですか。あ、それで話は終わってしまいますね。福井の最大の名所旧跡は道元の開いた永平寺かもしれませんが、やはり、私は戦国武将の朝倉義景を思い浮かべます。織田信長に滅ぼされた悲劇の武将ですが、天下統一の野心がなく、優柔不断なところが自らの身を滅ぼした感じです。朝倉氏の一乗谷城跡は、日本の100名城にも選ばれているので、いつか、一度は行ってみたいと思っています。

 ついでに、私は城好きですから、高校時代に大変お世話になった英語の大庭先生の故郷である越前大野城と、現存する日本最古の天守閣を持つ丸岡城にも行きたいです。長生きしなきゃいけませんね。

銀座「食の国 福井館」まん福セット1220円

 さて、「福井館」です。店の奥に「イートイン」コーナーがありました。今、コロナ禍なので、5席ぐらいです。何をしようかなあ、と考えましたが、結局、朝倉義景も食べたかもしれない「越前おろし蕎麦」と「福井のソウルフード」と、ここで自称している「ソースカツ丼」の2種類が入った「まん福セット」を注文しました。(郷土館の食事は、最初にレジで食券を買うことは、先日の「しまね館」で学習しました。)

「越前おろし蕎麦」 というのは大根おろしに鰹節をまぶした冷やし蕎麦と簡単に言えるかもしれませんが、古風な味でした。いつ頃から名産になったのか知りませんけど、やはり、古風な味なので、勝手ながら、朝倉義景も食べていたことにしましょう(笑)。

  「ソースカツ丼」 は、極薄いとんかつがソース漬けで揚げられているので、調味料をかけることなく、そのまま食すようです。Aさんとは、福井県の食べ物について、蟹以外は、あまり詳しく話をしたことはありませんでしたが、名産なんでしょうか。私はむしろ、若狭から京都に鯖街道がつながっている通り、越前は「鯖寿司」が名産かと思っていました。でも、ここのイートインでは残念ながらメニューにありませんでした。(お弁当はあるようでしたが)

 その代わり、「チカッペカレー」という地元の人しか分からないネーミングのカレーがありましたが、ちょっと勇気が出なくて、今回は注文しませんでした。

 「福井館」の人たちは皆、感じが良かったので、食事が終わって、郷土名産品を少し覗いてみました。実は、気に入ったものがあれば、越前焼でも買おうかなあ、と思ったのですが、これも残念ながら、置いていませんでした。銀座より遥かに広い南青山にある「福井館」の方にはあるようでした。(確か、南青山にはAさんと一度、一緒に行ったことがあります。越前焼のことを知らず買いませんでしたけど)

 何しろ、越前焼は歴史があり、平安末期に始まったらしく、一時衰退したものの、戦後に復活し、「日本六古窯」の一つに選ばれているぐらいですからね。

 私は以前、福井県の地酒である「梵」の滑らかな味わいが気に入って愛飲したことがあったので、越前焼は、その「梵」に合った御猪口がいいかなと思ったのです。うーむ、そう書いているうちに、「梵」も越前焼の御猪口も急に欲しくなってきました(笑)。

 

 

そのまま全てを信じるな!=歴史番組も報道もかなりバイアスがかかっている

 私は、歴史好きというより、歴史から学ばなければならないという精神が他の人より異様に強いので、本や雑誌だけでなく、テレビの歴史物の番組もよく見るようにしています。

 天下のNHK-BSで放送されている「英雄たちの選択」もその一つです。いつも感心するテーマを扱って頂き本当に勉強になります。

 ですが、先日、再放送された「天平パンデミック 聖武天皇と橘諸兄 復興への葛藤」を見て、「あれっ?何か物足りないなあ」と思ってしまいました。この番組は今年4月に最初に放送され、9月2日に2回目が放送され、9月8日(水)には午前8時からまた再々放送されるようなので、御見逃しの方は、録画でもして御覧になったら宜しいかと存じます。

 今から1300年前の奈良時代、聖武天皇(701~56年)の御世の天平7年(735年)、九州の大宰府から全国に天然痘が大流行し、翌々年の737年までに当時の人口の3分1に当たる150万人が亡くなったと言われます。政権中枢に就いていた藤原不比等の4人の息子もこの天然痘で亡くなるという大惨事でした。

 この空白期に登場したのが、橘諸兄(684~757年)でした。この人、聖武天皇の光明皇后の異父兄に当たる血統の良さもあって次々と昇進し、ついには正一位左大臣となって聖武天皇の「宰相」となり、次々と改革を打ち出していきます。そのうちの三つの大きな柱が(1)農民たちへの(税)負担の軽減(2)隣国新羅からの脅威はあったものの、疫病大流行のため、国防より国内の安定を優先(3)行政のスリム化ーといったものでした。

 その最たるものが、734年に発布した「墾田永年私財法」でした。これによって、律令制の一部が崩れたものの、朝廷は農民からより安定した税収入を得ることができるようになりました。

 聖武天皇は、疫病の流行と、藤原広嗣の乱などのせいか、平城京から恭仁京、難波京、紫香楽京、平城京と5年間で次々と遷都しながらも、その間、一貫として政権を担っていたのが橘諸兄でした。聖武天皇が当初、紫香楽京に建立したかった大仏(総工費は現代の価格にすると4567億円)を平城京に建立するように勧めたのも橘諸兄で、752年(天平勝宝4年)に東大寺大仏殿で開眼供養を行った、めでたし、めでたし。聖武天皇は756年に崩御され、橘諸兄はその翌年に亡くなった、で番組は終わっていました。

 私が「物足りない」と感じたのは、まず、大仏開眼供養が行われた時の天皇は聖武天皇ではなく、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位して自らは聖武上皇になられていたことを説明しなかったこと。その孝謙天皇は、橘諸兄よりも藤原仲麻呂を寵愛したことにより、仲麻呂は、藤原家復興のために橘家排斥に動いたことを少し番組内で取り入れてほしかったなあ、と思ったのでした。

 事実、橘諸兄は聖武上皇崩御後は、酒席で継嗣(つぎつぐ)問題を取り上げたことが不敬と見なされて官位を辞職し、失意のうちに没したといわれます。しかも、橘諸兄の嫡男奈良麻呂は、藤原仲麻呂の排斥を企てたという科で、拷問の末に獄死したとも言われています。

 テレビ番組では、聖武天皇と橘諸兄の二人に焦点を当てたので、それ以外は余分だと考えたのかもしれませんが、頭が良い、とにかく非の打ち所がないほど自信満々の学者さんと作家さんが出演されていたわけですから知らないはずがない。

 フレームアップに近いのでは?とまでは言いませんけど、番組というものは、とかく、話題先行か、テーマ優先か知りませんけど、ある一つの課題に焦点を当てるために、他のことが等閑になってしまうことが往々にしてあります。この番組を見たほとんどの人は、橘諸兄は、功成り名を遂げて幸せな晩年生活の末、亡くなったと思ったはずです。私もそうでした。

◇恣意的要素が入る

 これは、他のドキュメンタリーにも、歴史書などの著作にも新聞記事等にも当てはまります。記者や編集者や演出家やプロデューサーらの何らかの「意図」が加わるわけです。

 私の経験でも、たとえ大物にインタービューした際でも、紙面や行数の関係で、書けることは、聞いた話のせいぜい6割程度でした。残りは捨てざるを得ません。その際、記事として反映される部分は、かなり恣意的な記者の裁量に左右されます。

 結局、何が言いたいのかと言いますと、テレビの番組にせよ、報道にせよ、新聞記事にせよ、それが「事実」の全てではないということです。かなりバイアスがかかっていると思って間違いありません。朝日新聞が報道しないことを産経新聞が報道することはよくありますし、NHKの報道は、いつも時の政権に斟酌していて随分偏向しているなあ、と感じるのは私だけではないことでしょう(苦笑)。

 あれ? いつの間にか、メディア論になってしまいましたね。