真言宗の沿革、空海~観賢~叡尊~覚鑁上人のこと

「出版不況」が囁かれている中、今、一番元気を出しているのが京都市山科区に本社を構えるミネルヴァ書房かもしれません。

 その出版社が本日の朝日新聞朝刊に「ミネルヴァ日本評伝選」通巻200冊の全面広告を2面ぶち抜いて出しておりました。相当な広告費をかけてますね。卑弥呼から力道山まであります。フムフムと眺めていたら、あれっ?空海さんがない!ということが分かりました。宗教家として道元や親鸞、日蓮らは入ってましたが、法然さえ取り上げていません。あまり知られていない金沢庄三郎らは取り上げていますから、解せないなあ、と思いました。

 私は、いかなる特定の宗教団体にもカルト集団にも(笑)、入っておりませんが、日本の文学や絵画、彫刻、文化、思想には仏教は欠かせないと思っています。となると、宗派の開祖と言われる最澄、空海をはじめ、法然から隠元に至るまでは最小限必要ではないでしょうか。これから出るかもしれませんが。

高野山

何度も書くようですが、この夏に初めて高野山を参拝して真言宗や空海(774~835年)についてはさらに興味を持ちました。専門書を読めばいいのでしょうが、私は俗人ですから、経典そのものよりも、もっとジャーナリスティックな人間関係や逸話の方に興味があるので困ったものです。

 そういった種類の情報は、今では専門書よりもネット上に多く溢れているので大変助かります。ただし、気を付けないと、とんでもないフェイクニュースめいたものがあるので面食らってしまいます。例えば、「空海は男色の開祖だった」とか、「最澄と空海は弟子を奪い合って三角関係になっていた」といった類です。まあ、1200年以上も昔なので、真相は不明ですが、出典も不明なので、「ネットは何でもありの世界」だということを肝に銘じなければなりません。

 ジャーナリスティックな話ですが、真言宗を調べていて分かったことは、空海入定後、弟子たちがさまざまな分派を起こしたため、今では50以上もの宗派があることでした。その中でも「主要16派18本山」は主流になっていました。この18本山の中で、個人的に驚いたのが奈良県の西大寺です。もともと、称徳天皇が、父君の聖武天皇が創建した東大寺にあやかって創建した律宗の寺院でしたが、奈良から京都に遷都されてから荒廃して無住となってしまったというのです。その西大寺を鎌倉時代半ばに再興したのが叡尊上人(1201~1290)です。若き頃、醍醐寺で密教を修行したことから、西大寺も律宗と真言宗が混合したような独特の宗派となり、今では真言律宗といわれているそうですね。奥が深いです。

 とにかく、真言宗には50以上の分派があるそうですから、開祖の空海も驚くことでしょう。

高野山 根本伽藍

 このように、ネット上にある真言宗関係を印刷してバインダーに閉じてみたら、とうとう1冊の本になってしまいました。これで、少し分かったことは、(相変わらずジャーナリスティックな話ですが)作家高村薫氏が著書「空海」で書いてあった通り、空海入定後、70年ほどで高野山は、伽藍が落雷や火災などで消失し、国司が土地からの収益を横領するなどして荒廃し、無住になってしまったようです。

 その荒廃の無住状態から復興させたのが、空海の十大弟子の一人真雅のそのまた弟子の観賢(854~925年)です。東寺長者と金剛峰寺座主を兼ねた観賢は醍醐天皇に空海に大師号をおくって頂けるよう上表します。その願いが叶ったのが921年(延喜21年)で、空海が入定されて86年後のことでした。弘法大師です。今では大師と言えば、弘法大師のことだと思われていますが、浄土宗の開祖法然ともなると、大師号は、1697年(元禄10年)の円光大師に始まり、800回忌に当たる2011年の法爾(ほうに)大師まで8回もおくられています。ちなみに、天台宗の開祖最澄が、伝教大師の諡号を清和天皇よりおくられたのは、866年(貞観8年)、最澄入滅から44年後でした。

 弘法大師ほどの万能の天才でも跡を引き継ぐ弟子が優秀でなければ教義も寺院も絶えてしまうことが真言宗の歴史を読み込むと分かります。その断絶寸前と分裂の危機の中に現れたのが覚鑁(かくばん)上人(1095~1144年) 興教大師です。この人は宗派によって色んな書き方をされていますが、真言宗の中興の祖といって間違いないようです。(高野山では現地ガイドさんから「覚鑁上人は、高野豆腐を発明した僧侶」と説明されましたが、どうも違うようです)

 覚鑁上人は、空海が入定して約300年後に高野山の金剛峰寺の座主となり、弘法大師の遺志を復興しようとしますが、高野山の守旧派からの反発と妬みなどを買い、紛争を解決するには自分の身を引くしかないと考え、1141年頃、弟子たちとともに根来山に移ります。その2年後の1143年に49年の短い生涯を終えますが、興教大師以前の高野山や東寺を中心とする流れを古義真言宗というのに対して、興教大師以降の根来山を中心とした流れを新義真言宗(智山派、豊山派なども)といいます。

 真言宗では「南無大師遍照金剛」(遍照金剛とは、空海が恵果和尚から頂いた灌頂名)と唱えますが、新義真言宗では「南無大師遍照金剛 南無興教大師」と唱えるそうです。

 このような話は専門家から見れば当たり前過ぎて表層的ですが、自分自身、ちょっと頭の整理をしてみたかったのです。また、茲では書き込めませんでしたが、力を持った高野山や根来山は信長、秀吉らの格好の標的となったり、真言宗にはこのほか多くの名僧、智僧、怪僧がいたりしたことを付け加えておきます。

今さらながらの石川達三「生きている兵隊」

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 ここ数日、どうも気分が落ち込んで、不安定だったのは、この本でのせいでした。

 石川達三著「生きている兵隊」伏字復刻版(中央公論新社)という本です。

 この本は、確か辺見庸著「1937(イクミナ)」(金曜日、2015年10月22日初版)でも引用されていたと思いますが、他の本にも引用されていて、いつか読んでみたいと思っていました。

 この本を貸してくれたのは、遠藤君でした。彼は「貧困層」に入るほど稼ぎが少ない階級なのに、月に2万円も払って「トランクルーム」を借りています。自宅に収まりきれない蔵書を収容するためです。2万冊はあるといいます。死んでも天国に持って行くつもりなのでしょう。

私はその全く逆で、自分の蔵書は売ったか、なくしたかで、ほとんどないので、有難いことに、よく彼から借りています。

 「生きている兵隊」は、1937年から38年にかけての中国大陸戦線で、皇軍と言われた日本軍による中国の民間人殺害や姑娘(クーニヤ)と呼ばれた若い女性狩りなどがあからさまに描かれています。

 1937年12月、32歳の石川達三が、中央公論社の特派員として上海から南京までの中国戦線に派遣されて、自分の目で見て体験し、取材したことを小説仕立てにしたものですが、ほぼ事実に近いようです。人と人が殺しあう戦争という狂気の世界、そして自分もいつ殺されるのか分からない極限状態の中です。ろくに取り調べもせず、裁判にかけることなく、怪しいという容疑で、簡単に捕虜や民間人の首を切って処刑したりします。「従軍僧」と呼ばれた僧侶も、シャベルを武器に敵兵の頭を割ったりして殺害したりします。僧侶がそんなことを?!

激しい戦闘の中で次々と戦友を失い、感覚が麻痺して人間性を失っていく兵士たち。読んでいて、自分自身も弾丸や手榴弾が飛び交う最前線に送り込まれたような気分で、読み進めるのが嫌になってきます。

巻末解説の半藤一利氏によると、この作品は、1938年2月発売の「中央公論」3月号で発表されましたが、書店に並ぶ暇もなく内務省通達で発売禁止。一般読者の目に触れるようになったのは戦後になってからだといいます。

 この作品で、石川達三は新聞紙法違反で起訴され、1939年4月の第二回公判で、禁錮4月、執行猶予3年の有罪判決を受けます。その理由は「皇軍兵士の非戦闘員殺戮、略奪、軍規弛緩の状況を記述したる安寧秩序を紊乱する事項を執筆したため」でした。

この本を電車の中で読んでいると、車内の周囲では若い勤労者が男女ともスマホ・ゲームに興じています。かといえば、中国人の2人が周囲を支配するような異様に大きな声でがなり合っています。彼らが何を話しているのか分かりませんが、この本を読んでいると、あまりにものギャップに頭が錯乱しそうになりました。

ハイエクと親交を結んだ田中清玄

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 8月のお盆の頃は、マスコミ業界では「夏枯れ」と言って、あまり大きなニュースがないので、「暇ネタ」ばかりを探します。

 今年の場合は、あおり運転をして真面目な市民を殴ったチンピラ(失礼!彼は天王寺高~関学~キーエンスの元エリートでした)の捕り物帖ばかりやっていて、いい加減、嫌になりましたね。普段なら三面記事の片隅にベタで載るような事案でも、テレビはニュースからワイドショーまで繰り返し垂れ流していました。文化人類学者の山口真男(1931~2013)は「マスコミは、存在自体が悪だ」と喝破したそうですが、長年マスコミ業界で飯を喰ってきた私自身も耳が痛いですね。

 マスコミはもっと信頼を回復して頑張らなければいけませんよ。今はマスコミより、ネットの方が怖い時代になりましたからね。 あおり運転のチンピラに同乗していた女容疑者を、変な正義感を持った若者が、間違って関係のない善良な市民をネットに拡散したため、被害者は、業務上でも精神的にも大変な目に遭われました。

 私も変なことは書かないよう気をつけます。

 さて、先週読了した大須賀瑞夫編著「田中清玄自伝」(文藝春秋)の余波がいまだに続いています。

 「26年ぶりの再読」と書きましたが、当時(1993年)は今ほどインターネットも発達しておらず、情報も不足していて「憶測」ばかり氾濫していました。

 今では検索すれば、簡単に「田中清玄」は出てきます。でも、ウィキペディアには「CIA協力者」と書かれていて驚いてしまいました。「自伝」を読む限り、田中清玄ほど反米主義者はいないと思ったからです。(戦前は共産主義者だったものの、スターリンに対する不信は筋金入りでしたので、反ソ主義者でもありました)日本政府の対米追随政策を絶えず批判したり、「ジャップの野郎が」と威張りくさる米国人と高級バーで喧嘩しそうになったり…。何と、彼は「そのうち、『アメリカ・イズ・ナンバーワン』と言う大統領が出てくる」と予言までしてますからね。

 「自伝」によると、田中清玄は、戦後まもなく昭和天皇に謁見したり、先の天皇陛下の訪中を実現させたり、まさに黒幕として活躍しました。外務省や右翼団体からの抗議などを乗り越えて、 戦前から親交のあった鄧小平が中国の最高実力者となったため、 個人で外交を成し遂げたのは大したものです。

 また、韓国やインドネシア、フィリピンでの利権を独占しようとする岸信介=河野一郎=児玉誉士夫=矢次一夫ラインとは最後まで敵対しました。

 自伝の最後の方では、ノーベル経済学賞を受賞したフリードリヒ・ハイエク教授との交流にも触れています。ハプスブルク家の家長オットー大公から紹介されたらしいのですが、ハイエクはハプスブルク家の家臣の家系だったそうです。

 ハイエクは、戦前からマルクス経済もケインズ経済も否定して、新自由主義経済を提唱した人です。彼が設立したモンペルラン・ソサイエティー(共産主義や計画経済に反対し、自由主義経済を推進する目的に仏南部のモンペルランに設立)に田中清玄も1961年から参加しましたが、間もなくして、フリードマンらシカゴ学派が大挙加入し、田中清玄は「彼らはユダヤ優先主義ばかり唱えるのでやめてしまった」といいます。

 それでも、ハイエク教授との個人的交流を生涯続け、京都大学の今西錦司教授と対談会を開催したりします。

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 私は、哲学者でもあるハイエクについては名前だけしか知らなかったので、彼の代表作である「隷属への道」をいつか読んでみようかと思っています。マル経も、そしてケインジアンまでも否定したため、両派から集中砲火を浴びながら一切怯まず、学説を曲げなかったところが凄い。田中清玄とは意気投合するところがあったのでしょう。

日本でいちばん面白い人生を送った男=大須賀瑞夫編著「田中清玄自伝」

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いやあ、面白いのって何の。すっかり嵌って寝食を忘れてしまいました。

大須賀瑞夫編著「田中清玄自伝」(文藝春秋、1993年9月10日初版)です。

私は、数年前に「疾風怒涛」時代に襲われ、茲では書けない色んなことを体験しているうちに、自宅書斎には、ほとんどの蔵書がなくなってしまいました。売却したり、処分したり、紛失したりしまったわけですが、その中でもわずかに残っていた蔵書の一つがこの本だったのです。26年ぶりの再読です。

 何で、この本を手に取ったかと言いますと、このブログの8月15日に「物足りない『黒幕』特集」を書いた通り、週刊現代 別冊「ビジュアル版 昭和の怪物 日本の『裏支配者』たち その人と歴史」(講談社) の内容があまりにも薄っぺらで、物足りなさを感じたからでした。

 田中清玄(1906〜93年)は、言わずと知れた政界のフィクサーと言われた「黒幕」です。戦前に、三・一五事件(1928年)と四・一六事件(29年)を経て壊滅状態だった日本共産党を再建して書記長となり、検挙されて、11年間も入獄し、昭和16年の釈放後は180度転向して天皇主義者になった人です。鈴木貫太郎首相に無条件降伏を説得した臨済宗の山本玄峰老師の下で3年間修行し、戦後は建設会社を興して、日本の政財界だけでなく、欧州、東南アジアやアラブ諸国とも太いパイプを持って事業を拡大した人でもあります。

 山口組三代目の田岡一雄組長らとも深い関係があり(田中清玄に田岡組長を紹介したのは横浜の荷役企業のドン藤木幸太郎会長だったとは!)、対立した児玉誉士夫(1911~84)の差し金で暴力団東声会の組員に狙撃されたり、何かと黒い噂も絶えなかった人でしたが、その生き方のスケールの大きさと抜群の記憶力には本当に圧倒されました。◆参考文献=藤木幸夫著「ミナトのせがれ」(神奈川新聞社)、城内康伸著「猛牛と呼ばれた男 『東声会』町井久之の戦後史」(新潮社)、有馬哲夫著「児玉誉士夫 巨魁の昭和史 」(文春新書) 

 26年ぶりの再読でしたので、内容はすっかり忘れておりましたが、この26年間で、あらゆる本を相当乱読していたため、この1冊を読むと、何の関連もないようなバラバラだった事象や事件が見事に繋がり、ジグソーパズルが完成したような気分になりました。

 勿論、田中清玄が自分の人生の中で見聞したことを「遺言」のつもりで毎日新聞編集委員に一方的に語ったことなので、120%信用できないかもしれないし、信用してはいけないのかもしれませんが、歴史的価値の高い「証言」であることは紛れもない事実です。

 以前にも少し書きましたが、田中清玄は、会津藩の筆頭家老の末裔でしたから、非常に潔癖で一本筋の通った人でした。(清玄の次男は、現在早稲田大学総長の田中愛治氏です)旧制函館中学~弘前高校~東京帝国大学というエリートコースで学んでいますから、そこで知り合った友人、知人は後世に政財官界や文学界などで名を成す人ばかりです。

 26年前に読んだ時は、知識が少なかったので、読んでもほとんどピンと来ませんでしたが、今読むと、昭和史に欠かせない重要人物ばかり登場し、関わりがなかったのはスパイ・ゾルゲぐらいです(笑)。意外な人物との関係には「そんな繋がりがあったのか」と感心することばかりです。

 例えば、函館中学時代は、久生十蘭、亀井勝一郎や今東光・日出海兄弟、それに長谷川四兄弟(長男海太郎=林不忘の筆名で「丹下左膳」も、 次男潾二郎=画家、三男濬=ロシア文学者、四男四郎=「シベリア物語」など )らと親しくなり、「特に長谷川濬とは仲が良かった」というので吃驚。長谷川濬は、満洲に渡り、甘粕正彦満映理事長の最期に立ち会った人ではありませんか。26年前はよく知らなかったので、素通りして読んでました(笑)。◆参考文献= 大島幹雄著「満洲浪漫 長谷川濬が見た夢」 (藤原書店)

 マルクス主義にのめり込んで地下組織活動を始めた弘前高校時代の三期後輩である太宰治については、「作家としては太宰と同期の石上玄一郎の方がはるかに上。太宰は思想性もなく、性格破綻者みたいなもんじゃないか。地下運動時代に俺を怖がってついに会いに来なかった。『そんな奴、いたかい』てなもんだ」とボロクソです(笑)。

 東京帝大に入学すると新人会に入ります。そこで、大宅壮一、林房雄、石堂清倫、藤沢恒夫(たけお)らと知り合い、藤沢からは、川端康成、横光利一、菊池寛、小林秀雄ら文壇の大御所を紹介されます。◆参考文献=松岡將著「松岡二十世とその時代」(日本経済評論社)

(戦前の)共産党関係者として、福本和夫、徳田球一、渡辺政之輔、佐野学、鍋山貞親、志賀義雄、それに、モスクワで無実の山本縣蔵を密告して殺させた野坂参三ら錚々たる人物が登場します。「…日本の軍人といってもこの程度なんですよ。こんな者どもが対ソ政策をやるから間違うんだ。…自分が助かるためには何でもやる。野坂参三も軍人も一緒です。陰険で小ずるくて冷酷無情な、どちらも同じ日本人です」と語ってますが、野坂参三をモスクワに送り込んだのは田中清玄自身だったことを告白し、大いに後悔していました。◆参考文献=立花隆著「日本共産党研究」上下(講談社)

面白かったのは、11年間の牢獄生活から出所して、三島の龍沢寺の山本玄峰老師の下で修行していた頃の逸話です。ちょうど真珠湾攻撃が始まり、反軍・反侵略の思想の持ち主だった田中清玄は、血気盛んで、反戦行動を起こそうとしますが、玄峰老師から「軍は気違いじゃ。…今、歯向かっていったらお前は殺されるぞ。…お前は時局に関して何も言っちゃいかん。今は修行専門だぞ」と諭されたそうです。彼は「あの時、下手をやって、なまじ軍に反対していたら、こっちが命を落としていたでしょう。老師の喝破のお蔭です」と振り返って感謝しています。

 龍沢寺には、吉田茂、米内光政、岡田啓介、鈴木貫太郎、岩波茂雄、安倍能成ら政治家から文化人に至る重鎮が頻繁に訪れていて、田中清玄は、玄峰老師のボディーガードになったり、東京まで代理の使者として政界の大物に会ったりしたということですから、修行の身でフィクサーになったようなものでした。

WST National Gallery Copyright Par Duc de Matsuoqua

 戦後は、復興のために建設業を営み(後に四元義隆に会社を譲ってしまう!)、アジアだけでなく、ハプスブルク家のオットー大公やアブダビの首長ら国際的スケールで交際しビジネスに結びつけた話も圧巻でした。

 その人脈の広さと多さには本当に驚かされますが、「私が本当に尊敬している右翼というのは二人しかおりません。橘孝三郎さんと三上卓君です」と発言しています。26年前は、すぐ分かりませんでしたが、2人とも五・一五事件に関与した人でしたね。評論家立花隆(本名橘隆志)は、橘孝三郎の従兄弟の子に当たる縁戚です。三上卓は、犬養毅首相を暗殺した海軍中尉で、国家主義者。◆参考文献=中島岳志著「血盟団事件」(文藝春秋)、寺内大吉著「化城の昭和史」上下(毎日新聞社)

 私は、一回読んだ本はほとんど読み返すことはないのですが、この本は再読してよかったです。年を取るのも悪くないですね。乱読のお蔭で、知識も経験も増え、知らないうちに理解力も深まっていました。

 26年前には読み流していましたが、田中清玄が「人類というものは、自己の保身と出世のために人を裏切る冷酷な存在でもあるということです」と発言する箇所があります。当時は苦労知らずのお坊ちゃんで、実感できなかったのですが、今は痛切な気持ちで同感できます。

 絶望感はではありません。清清しい達観です。

浄土宗西山派を巡る京都の旅(下)=京の中心(へそ)六角堂、石田梅岩

四条高倉 京寿司「いづ源」

8月18日(日)、京都の旅、最終日です。

特に予定はありませんでしたが、京洛先生の携帯電話のことで四条烏丸のショップに行き、その足で、北政所の命令により、香(こう)の老舗「松栄堂」の白川と、寛政元年創業の「田中長奈良漬」を買い求めに行くぐらいでした。

 携帯ショップでの用を無事終えた後、京洛先生は「これから何処に行きましょうか。ああたは、京都のへそに行ったことはありますか?」と仰るではありませんか。

 「京都のへそ?何ですか、それ?」と私。

 「六角堂と呼ばれる聖徳太子が開基したと言われる寺のことです。ここが、京都のへそ、つまり、京都の中心地に当たるということですが、本堂北の本坊は、池坊と呼ばれ、生け花の発祥地といわれてます」

えーっ!凄い所じゃないですか。是非、是非にということで、ショップから20分ぐらいのところまで歩いて行きました。

 六角堂の来歴については、上の写真の高札をお読みください。紫雲山頂法寺が正式名称でした。

 親鸞聖人がここで参籠し、後に浄土真宗を開宗する根源となった、とも書いてあります。

 「京都のへそ」というのは、噂でもフェイクニュースでもなく、実際に「へそ石」がありました。

 京都市の中心のそのまた中心といった意味なのでしょう。

 六角堂の周辺は全て池坊の敷地となっており、この近くにいけばなの池坊の本部があったり、読売新聞の京都総局があったりしました。何で、池坊に読売が?

 それは、読売新聞二代目社主の正力亨氏の妻峰子さんの妹が、池坊専永夫人の保子さんだったからです。その御縁なのでしょう。これも、物識りの京洛先生からの受けおりですが(笑)。

 この後、向かったのが、香(こう)の老舗「松栄堂」です。

 京洛先生は「まあ、すぐそこです」と仰ってましたが、住所は、烏丸通り二条となってましたから、結構歩いたことになります。猛暑の炎天下でしたから、余計、距離を感じました(笑)。

 松栄堂は創業が宝永2年(1706年)といいますから、もう300年以上の老舗です。私も長く生きていますが、これほどの種類と品数が揃ったお香(こう)の店舗は初めてです。

 店舗の隣りには「薫習館」と名付けられた展示館が併設され、いろんな香りを楽しむことができました。仏事用の香だけでなく、ヒーリングや、アロマテラピー用の香などもありました。

京洛先生 御生誕の地

「松栄堂」の近くに、京洛先生が生まれた自宅があった所がある、というので行ってみました。昔は病院ではなく、自宅に産婆さんを呼んで出産したものでした。何しろ、京洛先生の祖父は江戸時代生まれということですから、相当昔の話ですが(笑)。

 現在は、「尾張屋」という蕎麦屋さんになっていて、京洛先生のかつての自宅は、今は尾張屋の家族が住む自宅になっているようでした。

 まあ、東京で言えば、銀座か日本橋といった都心の繁華街の裏通りといった感じです。実際、京洛先生の子どもの頃の遊び場が、新撰組の「誠」の制服を作った近くの大丸百貨店だったというんですからね。

この「京洛先生 御生誕の地」の近くにあるのが、「心学」の石田梅岩が開いた塾の跡地で、「石門心学発祥之地」「此付近石田梅岩講舎跡」の石碑が立っておりました。

京洛先生は「今時、経済評論家でさえ、石田梅岩も心学も知りません。困ったもんですよ」と嘆いておりました。

この看板には、石田梅岩は、聴講料を一切取らず、「正直・倹約・勤勉」などの道徳を説き、とりわけ商人の間に広まった、などと書かれています。

石門心学についても、上の写真の看板で説明されていますので、お読みください。

 京洛先生は「石田梅岩は今の京都府亀岡市出身ですが、亀岡は色んな人を輩出していますね。大本教の出口王仁三郎もそうですし、絵師の円山応挙もそうでしたね」と一人で感心しておられました。

 昼時になったので、 京洛先生ご贔屓の高倉通り綾小路下る 「いづ源」に入りました。

 私も2年ぶりぐらいです。確か、 鯖寿司で有名な京寿司の老舗「いづう」(天明元年=1781年創業)から暖簾分けした店です。このほか、以前、よく連れて行ってもらった八坂神社近くの「いづ重」も、同じ「いづう」からの暖簾分けでしたから、ここはその兄弟店みたいなもんです。

美人の女将さんが大変な話好きで、我々が浄土宗西山(せいざん)派の寺巡りをした話をすると、「そうどすね。西山さんやったら、永観堂(浄土宗西山禅林寺派総本山)はんと誓願寺(浄土宗西山深草寺派総本山)はんは欠かせまへんにゃわぁ~」と仰るではありませんか。女将さんは、毎日色んな賓客をお相手していますから、「耳学問」は確かです。実際、信心深く、お寺参りもされているようでした。

 私は心の中で、「ああ、今日帰っちゃうので、行けずに残念」と思いました。また次ぎの機会にお参りしたいと思いました。浄土宗西山派は現在、大きく分けて三つの流派があり、我々が足を運んだ光明寺は、西山浄土宗の総本山でした。

浄土真宗本願寺派

 京洛先生と別れて、新幹線の時間まで少しあったので、京都駅近くの西本願寺に行ってみることにしました。

 京都駅から歩いて15分ほどなんでしょうが、午後2時、炎天下の京都は死ぬほどの暑さです。途中で倒れてしまうのではないかと思うほどでした。本当です。

西本願寺「御影堂」

なぜ、西本願寺を選んだかといいますと、前日、島原に行った際、その近くに西本願寺があり、ガイド役の京洛先生が「西本願寺は、龍谷山本願寺が正式で、自分たちのことを『西』なんて言わないんですよ。 『浄土真宗本願寺派』と言っているのです。権力が膨大になることを恐れた江戸幕府が、浄土真宗を『東』(真宗大谷派)と『西』に分割しただけなので、西本願寺は、自分たちを『本願寺派』と名乗るように、我こそが本派だと思っているんです」と解説してくれた話を耳にしたからでした。

 西本願寺、いや龍谷山本願寺の国宝の飛雲閣と阿弥陀堂が目下、修復工事中で見られなかったのが残念でしたが、足を運んで良かったでした。

 それにしても、京都は本当に暑かった。

物足りない「黒幕」特集

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 やはり、私のライフワークといいますか、興味のある専門分野ですからね(笑)。つい、買ってしまいました。週刊現代 別冊「ビジュアル版 昭和の怪物 日本の『裏支配者』たち その人と歴史」(講談社、980円) です。

 その前に、私の住む自宅から歩いて7、8分ほどにあった本屋さんが、とうとう潰れてしまいました。アマゾンのせいでしょうか。駅近くにあった書店2店舗は既に数年前に閉店したので、ここは「最後の砦」でした。呆然自失。この本屋だけは失いたくなかったので、なるべく、ここで買うようにしてましたが、ついに消滅してしまいました。悲しいというほかありません。

 仕方ないので、この「週刊現代 別冊」を会社の近くのコンビニで買おうかと思ったら、週刊誌は置いていても、別冊は置いてないんですよね。そもそも本屋じゃないので、種類も少ない!帰宅時に遠回りして、駅近くの大型書店で買うことができました。

 この上の写真の表紙をご覧になって頂くだけで、内容は分かると思います。

 日本の「裏支配者」たちーとありますが、吉田茂、正力松太郎、五島慶太、後藤田正晴…みんな、「表社会」の人たちじゃありませんか。フィクサー、黒幕として登場する児玉誉士夫、山口組三代目の田岡一雄組長にしても、超々有名人で、日本人ならまず知らない人はいないぐらいです。失礼ながら、初心者向きで、野間ジャーナリズムの限界を感じました。続編を期待しましょう。

 私自身、これまでいろいろな本を読んできましたから、この別冊の中で、馴染みがなかったのは矢次一夫(1899~1983年)ぐらいでした。この人については、顔写真と略歴だけ載っていましたが、岸信介との関係などもう少し掘り下げて頂きたかったですね。

 このほか、章立てして、もっと掘り下げて、取り上げてほしかった人物として、まず、玄洋社の頭山満が筆頭でしょう。次いで、黒龍会の内田良平。この別冊で取り上げられた軍人の石原莞爾は、まあ妥当だとしても、もっと土肥原賢二や影佐禎昭ら諜報活動に従事した人も取り上げてほしかったですね。そうそう、甘粕正彦は欠かせない人物です。牟田口廉也や辻政信は少し食傷気味なので、桜会の橋本欣五郎や東京裁判で寝返った田中隆吉あたりが面白いかもしれません。

 写真がちょっと出ていただけだった大物右翼の三浦義一(1898~1971年)は「室町将軍」と言われたぐらいですから、最低、略歴ぐらい必要でしょう。以前、私は、ちょっと怖い人に引き連れられて、たまたま大津市の義仲寺にある彼のお墓参りをしたこともあります。また、三浦義一の後継者である西山広喜(1923~2005年)の内幸町・富国生命内の事務所を確認したことがあります(笑)。

共産党幹部から獄中で国粋主義に転向した田中清玄(1906~93年)は章立てして大きく取り上げるべき人物でしょう。(田中家は会津藩の筆頭家老だった名門家系。早稲田大学第17代総長の田中愛治氏は、田中清玄の子息)田中清玄=田岡組長VS児玉誉士夫=東声会=岸信介との壮絶な闘いは語り継がれるべき逸話です。

 となると、11年間の獄中生活から出所後、田中清玄が師事した静岡県三島市の龍沢寺の山本玄峰禅師もマストでしょう。山本禅師は、臨済宗妙心寺派管長も歴任し、終戦の際に、鈴木貫太郎首相に「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の文言を進言して、終戦を受け入れるよう説得した功労者ですから、まず欠かせませんね。(鈴木貫太郎は関宿藩士でしたね。二.二六事件の際には侍従長で、蹶起隊に襲撃されながら、奇跡的に一命を取り留めました)

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 平成から令和の時代となり、人間が小粒になったのか、ますます、黒幕やらフィクサーといった豪快な人物が出にくくなった感があります。

でも、一般大衆には分からないように、暗躍しているのかもしれませんよ。

「特別展 三国志」と特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」=上野の東博

蜀・劉備軍の要・関羽像(明時代15~16世紀、青銅製)

 何が哀しいのか、日曜日、気温34度の猛暑の中、東京・上野の東京国立博物館の平成館で開催中の「特別展 三国志」と、本館で開催中の特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」を観に出掛けてきました。

魏の曹操

 猛暑の中を、外出するようなおめでたい人間は少ないだろうし、お盆休みなので、都心は地方出身者が帰省していて、館内は空いているだろうと予測したからでした。

しかし、外れました。何処にも行くあてがない富裕でもなさそうな層(単なる個人的な勘違い)や、外国からの観光客でごった返し、陳列物の前は、二重三重のとぐろを巻く人だかりでした。

蜀の劉備

 この特別展に限ってなのか、国内の展覧会にしては珍しく、展示物の撮影はフラッシュさえ止めれば自由でした。それらの写真は、「個人の使用」なら許可され、館内の係りの人に「ブログにアップしてもいいですか?」と聞いたところ、「大丈夫です」と答えてくれたので、こうしてアップしているのです。 

呉の孫権

写真をバシャバシャ撮ったおかげで、一体何を撮ったのか、分からないものまでありましたが、ご勘弁ください(笑)。

「三国志」は、御案内の通り、後漢末期の2世紀に鼎立した魏・呉・蜀の三国の興亡が描かれた歴史書です。

 どういうわけか日本でも大人気で、江戸末期の忍藩の下級武士、尾崎石城さんの蔵書の中にも「三国志演義」があり、古代からほとんどの日本の知識階級は読んでいたと思われます。

赤壁の戦い(208年、曹操対劉備・孫権連合軍 劉備の諸葛亮が曹操を退却させる)

 現代では吉川英治や柴田錬三郎らが小説化したり、横山光輝が漫画化したり、テレビの人形劇やゲームにもなったりしているので、若者たちにも親しみやすいのでしょう。若者客が目立ちました。

蜀 「揺銭樹台座」 富裕層の墓に置かれた「金のなる木」の台座。3世紀、土製。2012年、重慶市で出土。

私自身は、ゲームもやらないし、「三国志」も「三国志演義」も読んでいないという体たらくで、知っているのは、劉備が諸葛孔明をスカウトするために三度も足を運んだ「三顧の礼」などエピソードぐらいですからね。見ても、知識が薄いため、今ひとつ、力が入りませんでした(苦笑)。

曹操高陵で発掘された 一級文物「魏武王(ぎのぶおう)常所用(つねにもちいるところの)挌虎大戟(かくこだいげき)」。魏武王とは曹操のこと。この発掘で、曹操の陵だと証明された。

 特別展の最大の見どころは、上の写真の石牌(せきはい)です。2009年、河南省安陽市で発掘されたもので、この石牌には「魏武王が愛用した虎をも打ち取る大きな戟」と刻まれています。魏の武王とは曹操のことで、これにより発掘された墓が「曹操高陵」である証明になったというのです。

 2009年ということは、つい最近のことです。今後も新たな新発見が出で来るのかもしれません。

 その前に、魏の勢力は、高句麗を倒して、今の北朝鮮にまで及んでいたことを知り、驚いてしまいました。

 また、この特別展のおかげで、189年に後漢より遼東太守に任命された公孫氏が、一時期独立して、満洲、いや中国東北地方の南まで勢力を伸ばしていたことや、魏呉蜀の三国は結局、どこも全国統一できず、代わって「晋」が覇者となりますが、その晋の高官の一人が、あの書聖と言われた王義之の一族だったという新知識も得ることができました。

 猛暑の東博のもう一つの目的は、本館で開催中の特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」を参拝することでした。「観覧料:一般620円」とありましたが、平成館の「三国志」の切符(前売り券1400円)を持っていたら、無料で観られました。何か得した気分です。

 でも、本館の第11室という狭い空間だけでしたので、ちょっと物足りなく、「岡寺」「室生寺」「長谷寺」「安倍文殊院」の奈良大和四寺を実際に訪れたくなりました。

 今の自分は、年を重ねたせいなのか、三国志の英雄よりも、仏像と対面した方がはるかに落ち着き、日本人として親和性を感じる気がしました。

 (本館の特別企画は勿論、写真撮影禁止でした。)

檀家制度を廃止した曹洞宗・見性院

 東京の今の気温は32度。それは許せるとしても、湿度が63%。外を歩くと汗が止まらず、とろけてしまいそうです。

◇こんな暑さでオリンピック?

こんな暑さの中、ちょうど来年の今頃、東京オリムピックなんかやるんですかねえ?富裕層向けに635万円の五輪チケットが8月下旬から売り出されるそうですが、ご苦労さまのことです。

 第一、不労所得で欲太りしたIOC貴族と、チャンス到来を喜ぶアディダス、ナイキといった多国籍スポーツメーカーの殿上人は、日本がどれだけ暑くて湿気が多いのか、知る由もありません。知っているとしても、所詮、自分たちが走ったり、投げたり、蹴ったりするわけでもなく、単なる興行として商売(ビジネス)をするだけですから、高額スポンサーとして冷房の良く効いた貴賓席にいらっしゃることでしょう。古代ローマ帝国の貴族たちがコロッセオで剣闘士が闘うのを高みの見物するような気分なんでしょうか。

 日本のメディアは新聞もテレビもラジオも、みんな五輪スポンサーですから、一言も批判しません。いや、グルですね。

 ◇皆さんのクリックのおかげでドメイン代が出ました

 こんなに暑いので、ここ数日間、暑気払いが続いてます。一昨日は、この《渓流斎日乗》ブログの技術面でお世話になっているIT会社のM社長と東京・池袋の焼き鳥店「雲吉」で一献傾けました。(皆様がこのブログの宣伝バナーをクリックしてくださったおかげで、ドメイン代等は賄うことができるようでした!)

 「雲吉」は、M社長の奥さんの妹の旦那さんが経営している店で、味が良いのかもう20年以上続いているそうです。飲食業界というのは傍から見ているよりかなり厳しく、経済誌「ダイヤモンド」をいつぞや読んでいたら、新規開店した飲食店の9割が3年以内につぶれてしまうと書いてありましたね。

 場所は、池袋駅東口から歩いて10分ぐらいでしょうか(3分とか書いてましたが、人混みで歩けません)。もう40年以上も昔の話ですが、池袋をフラフラしていましたが、新栄堂書店がつぶれ、キンカ堂(地下食堂)がつぶれ、すっかり変わってしまい、全く別の街になってしまい、道に迷いました。「雲吉」の近くに西武本社が所沢から池袋に移転してきたおかげで、安定したお客さんが来るようになったようです。まあまあの価格なのですか、客層の質は高いです(Mさん、宣伝しておきましたよ=笑)。

 M社長は仕事で仏教界というか、葬儀社界というか、墓石界というか、そういった業界に通じていて、裏話もたくさんありました。

高野山奥之院 島津家供養塔

 今回、裏話ではなく、現代の仏教界の改革者として、多くのメディアにも登場している僧侶として、埼玉県熊谷市にある曹洞宗見性院の橋本英樹住職の話を初めて聞きました。

 見性院は江戸時代から400年以上続く寺ですが、何と2012年に檀家制度を廃止してしまったというのです。400軒近くあった檀家とはいったん白紙に戻して、「随縁会」という会員組織にし、名称も檀家から「信徒」に変更し、葬儀代、戒名代、布施等すべて「ガラス張り」にして「明朗会計」にしたというのです。

橋本氏は駒沢大学大学院を修了し、曹洞宗の大本山永平寺で修行し、25歳で見性院の副住職になった時の月収がわずか10万円だったといいます。それが、42歳で父の跡を継いで住職となって「改革」に乗り出したところ、今では経営規模は4倍に増えたといいます。

 もちろん、宗派や国籍等に拘らず、遺骨を郵送で受け付ける「お坊さん便」を始めるなど急激な改革から、旧檀家の中から反発する声も多く、曹洞宗総本山の総持寺に訴える旧檀家もいるそうです。

 それでも橋本住職はひるみません。M社長も「僕は闘う宗教家を応援してます。檀家とか言っても、どうせナアナアでやっていただけで、仏教なんて本当に信じてないでしょう。葬儀は金が掛かります。散骨したって、かなりの金額を取られますよ。その点、3万円でお骨を郵送パックで受け付けるなんて、現代的なあまりにも現代的なですよ」と擁護するのです。

 考えてみれば、昔はよっぽどの貴族か皇族か大名か守護地頭か武士か名主か大商人でなければ、お墓なんか持てなかったものでした。無名の庶民は野垂れ死にして、犬か鳥に食われていたことでしょう。庶民が墓を持てるようになるのは明治以降かと思ったら、M氏は「いえいえ、明治は廃仏毀釈もあったし、戦後からですよ」と言うではありませんか。

 21世紀になり、日本人の信仰心が薄れ、仏教も「葬式仏教」と批判され、そもそも、従来の「家」の観念も廃れ、女房も子どもも「お父さんの墓だけには入りたくない」と言い、結婚しない男女も増えて、墓守をしてくれる子孫もなく、そういう時代になると、宗教も変わっていかざるを得なくなりました。

 でも、自分の骨が3万円でパック郵送されて、誰とも会ったことも見たこともない縁も所縁もない人と同じ骨と交じり合って共同墓地に詰め込まれることを想像すると、何とも味気ない、背中の辺りがこそばゆい感じがしてきますね。

「ホラホラ、これが僕の骨…」(中原中也)の詩が頭にリフレインしてきました。

 

「図案対象」と戦没画学生・久保克彦の青春

WGT National Gallery copyright par Duc de Matsuoqua

8月は哀しい。

昨日6日は広島原爆忌、9日は長崎原爆と日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍による満洲侵攻(その後のシベリア抑留)。そして15日の終戦(敗戦記念日は、ミズーリ号で降伏文書を調印した9月2日)。

 あれから74年も経ち、戦争を直接体験した語り部が減り、テレビでは特集番組さえ消えつつあります。

 嗚呼、それではいけません。

 最近、ほんのちょっとしたきっかけで知り、感動し、興味を持った藝術作品として、東京美術学校(現東京芸大)を卒業し、徴兵されて中国湖北省で戦死した久保克彦が遺した 「図案対象」 という7メートルを超す大作があります。

美術作品は、何百万語言葉を費やして説明しても実物を見なければ無理なので、ちょうど2年前の2017年8月にNHKの「日曜美術館」で放送された「遺(のこ)された青春の大作~戦没画学生・久保克彦の挑戦」をまとめたブログ(?)がありましたので、勝手ながら引用させて頂きます。

 これをお読み頂ければ、付け足すことはありません。

 私は、このテレビ番組は見ていません。「図案対象」を描いた久保克彦の甥に当たる木村亨著「輓馬の歌 《図案対象》と戦没画学生・久保克彦の青春 」(図書刊行会、2019年6月20日初版)の存在を最近知り、興味を持ったわけです。

この「図案対象」はとてつもない前衛作品です。全部で5画面あり、抽象的な模様もあれば、戦闘機や大型船が描かれた具象画もあります。

久保克彦は23歳の時、東京美術学校の卒業制作としてこの作品を完成させましたが、2年後の25歳で中国大陸で戦死しており、作品についての解説は残しませんでした。

 しかし、その後、あらゆる角度から分析、解釈、照合、比較研究などの考察を重ねた結果、驚くべきことに、一見バラバラに見える事物の配置は、全て「黄金比」の法則に従って、整然と並べられていたことが分かったのです。

 黄金比というのは、人間が最も美しいと感じる比率のことで、それは、1:1.618…だというのです。

 この黄金比に沿って建築されたのが、古代ギリシャのパルテノン神殿や古代エジプトのピラミッド、パリの凱旋門、ガウディのサグラダファミリア大聖堂などがあり、美術作品としては、ミロのビーナスやレオナルド・ダビンチの「モナリザ」などがあります。

WGT National Gallery copyright par Duc de Matsuoqua 

 私は、黄金比については、映画化もされたダン・ブラウン著「ダ・ヴィンチ・コード」を2004年に読んで初めて知りましたが、結構、身近に使われていて、クレジットカードや名刺などの縦横比も「1:1.16」と黄金比になっているようです。

 それに、今何かとお騒がせのGAFAのグーグルやアップルのロゴもしっかり黄金比を使ってデザインされております。ご興味がある方は、そういうサイトが出てきますのでご参照してみてください。

 久保克彦が、黄金比を使って「図案対象」を制作したのは昭和17年(1942年)のこと。戦死しないで旺盛な創作活動を続けていたら、「ダビンチの再来」という評価を得ていたかもしれないと思うと、実に哀しい。

 

700年の歴史を誇る王子田楽

 気温34度。暑過ぎる毎日が続き、溶けそうです。

 8月4日(日)、東京・北区の王子神社で、700年もの伝統を誇る「王子田楽」が開催されるというので初めて観にいきました。

 北区教育委員会によると、「王子田楽」とは、王子神社の例大祭に伴って神前に奉納される躍りのことで、始まりは鎌倉時代にまで遡るといわれるそうです。

 一般的に田楽舞は、「五穀豊穣」を祈念するのに対し、王子田楽の躍りは「魔事災難除け」を祈願するという大きな特徴があります。

 戦前には、舞童の花笠が観衆の頭上に投げられ、それを縁起物として奪い合う「喧嘩祭り」としても知られていたそうです。

王子という土地に深く根付いていた田楽は、戦争中の昭和19年(1944年)から途絶えてしまいましたが、昭和58年(1983年)に地元の人々の熱意と努力により復興しました。その後、毎年奉納されるようになり、昭和62年(1987年)には北区の「指定無形民俗文化財」に指定されています。

 田楽を舞うのは、北区内の小学校に通う選ばれた小学生です。1年間、熱心に稽古をしたそうです。

 色鮮やかな花笠と衣装を身に着けて厳かに舞う姿を観ると、時空を越えて、700年前のご先祖さまが味わった同じ気持ちに触れる気がしました。

王子は、江戸中心から離れた郊外で、将軍様の鷹狩りの地だった飛鳥山に桜を植えて庶民に開放されたことから浮世絵にも描かれる土地でした。

 江戸中心の浅草の三社祭や神田明神の神田祭などは、数万、数十万規模の群集が押し寄せるでしょうが、王子神社の祭りは、数百人規模といった感じです。(主催者発表は取材していません=笑)

 御神輿のわっしょい、わっしょい、も凄い群集に見えますが、このように、目の前で、神輿を担ぐ人たちと同じ気分で観ることができました。

やっぱり、日本人、夏は祭りですね(笑)。