「明治東京下層生活誌」は身につまされます

 世の中には、銀座のどこそこのランチが美味い、なぞとブログに書いて喜んでいる輩がおりますが、最低ですねえ。(ワイのことやないけー)

 今、中川清編「明治東京下層生活誌」(岩波文庫)を読んでいますが、身につまされます。この本を購入したきっかけは、銀座ランチに勤しんでいる真っ最中に参考文献(笑)として購入した阿古真理著「日本外食全史」(亜紀書房、3080円)の中で、松原岩五郎著「最暗黒の東京」(講談社学術文庫)を引用していたからでした(明治の貧困層はモツを食べていた、といった感じで)。これは、明治25年から26年にかけて「国民新聞」(徳富蘇峰が創刊)に連載されたルポで、東京府内の貧民窟を探訪した名著として知られています。

 この本を読もうかと思いましたが、その前に、明治19年に「朝野新聞」(成島柳北が主宰)に掲載された「府下貧民の真況」(著者不詳)が収録されているというので「明治東京下層生活誌」(岩波文庫)を先に買って読むことにしたのです。ある人に言わせると、この「明治東京下層生活誌」と「最暗黒の東京」と、もう一つ、横山源之助著「日本の下層社会」 (岩波文庫)を、「日本下層史3部作」と呼ぶ人もいるそうです。私は、いずれも未読なので、読破したいと思っております。

 何故なら、ヒトは、残念ながら、失敗からしか教訓を学べないという真理があるからです。世の中には、石油王だの、金融王だの、鉄鋼王だの、数多くの成功物語があり、多くの関連本が書店に並んでいますが、悲しい哉、それら成功譚は、やはり、特別で万人向きではありません。特殊な才能があったり、生まれながらの資産があったり、特別な運に恵まれたりする人のためで、ほとんどの99%の凡夫には関係ない話なのです。

 むしろ、失敗譚の方がより良く生きていく上で、大変参考になるのです。

 とはいえ、これら「下層史3部作」は、失敗譚ではありません。努力したくても最初から教育の機会に恵まれなかったり、運に見放されたりしているだけで、決して、怠惰のせいで、失敗しているわけではないからです。

銀座の紫陽花

 「明治東京下層生活誌」に収録されている「府下貧民の真況」(著者不詳)や桜田文吾著「貧天地饑寒窟探検記抄」(明治23年8月29日~24年1月5日「日本」)などでは、当時、明治東京府で「貧民窟」と呼ばれた下層社会の実態と生活ぶりを探訪しています。四谷鮫河橋(信濃町=江戸時代の岡場所)、芝新網町(浜松町)、下谷万年町(上野)が「三大貧民窟」として当時は有名でしたが、他に、麻布箪笥町(六本木)、神田橋本町、浅草松葉町、八丁堀仲町、芝高輪…など枚挙に暇がないほどです。

 これら、貧民窟は100数十年経った現在、全く跡形がないほどその痕跡すら見られませんが、「人生百年」時代に、そのわずか100年ちょっと前に、住む長屋の壁も剥げ落ち、雨漏りがし、夜具もなく、不衛生で、蚤虱や南京虫が這いずり回り、勿論、食べる物に事欠く見すぼらしい姿の人々が多く住んでいたことを、現代人は想像すらできないことでしょう。

 彼らの職業は、三味線弾き、鼻緒職、車曳き、左官、鳶職、日雇い、屑拾いなどの日銭稼ぎで、雨でも降ればその日の収入は全くなしといった状態です。勿論、食事に、肉や魚にありつけるわけがなく、御粥をすする程度で、中には拾ってきた腐りかけた食べ物を「腹が減った」と泣き叫ぶ子どもに食べさせたりします。

 「貧天地饑寒窟探検記抄」の著者桜田文吾は、今で言うルポライターかノンフィクション作家で、元仙台藩士でしたが、牛のシタとは何かと思ったら、高級な「舌」ではなく「下」で、本来捨てられていた臓腑の部分のことで、これらを貧困層の人たちが好んで食べているのを見て驚き、「その腥(なまぐさ)くして生硬なる、常人はわずかに口に入れたるのみにてたちまち嘔気(はきけ)を催すべし」とまで書いています。

 明治の歴史といえば、大久保利通や伊藤博文や板垣退助らが登場し、やれ、民撰議院設立建白書だの、やれ、鹿鳴館だの、大日本帝国憲法発布などといった華々しい側面ばかり教えられます。一方、こうした下層の人たちの生活ぶりは陰に隠れるというより、歴史上から抹殺されてきた感じがします。下層社会にこそ、人間の真理があるというのに…。

 下層史に関して、テレビに出るような(出ている、とは言ってませんよ)偉い歴史学者さんたちは、暗い話だし、視聴率も取れないし、まともに研究している学者も少ないので、番組として取り上げることはないでしょう。それなのに、彼らは「俺は何でも知っているんだ」といった顔をしています。大久保利通や伊藤博文だけが明治史ではないのです。それは一つの側面であって、名もなき貧しい人たちが歴史をつくってきたことを忘れてはいけないと思いながら、この本を読んでいます。

戦中から戦後にかけての不可解な歴史的事件=加藤哲郎著「『飽食した悪魔』の戦後」

 加藤哲郎著「『飽食した悪魔』の戦後」(花伝社)を読了しました。既に、6月3日の渓流斎ブログでも「731部隊の切れ者二木秀雄という男」というタイトルでこの本について取り上げましたが、加藤先生の代表作ではないかと思えるほどの力作でした。

 いわゆる731石井細菌部隊の話ですから、プロローグ (歴史認識として甦る「悪魔の飽食」)と第一部( 七三一部隊の隠蔽工作と二木秀雄)では、おぞましい人体実験や生体解剖の話が出てきますが、第二部( 七三一部隊の免責と『政界ジープ』)以降は、主に、戦後になって731部隊がGHQとの「取引」によって免責され、戦犯にもならずに復権していく有り様を事細かく追跡しています。前半は、森村誠一、青木富貴子、近藤昭二、常石敬一各氏らの先行研究を踏まえているので、この本は、むしろ、タイトルにもなっているように、埋もれた史実を発掘した後半の「戦後」の方が主眼だと思われます。(この本の続編か関連本に当たる「731部隊と戦後日本――隠蔽と覚醒の情報戦」=2018年、花伝社=も刊行されています)

 加藤哲郎一橋大学名誉教授の御専門は比較政治学ではありますが、この本は、もう一つの御専門の「現代史」本と言えます。ゾルゲ事件、731部隊事件、シベリア抑留、帝銀事件、下山事件、三鷹事件、松川事件など戦中から戦後にかけての不可解な歴史的事件が登場し(まるで松本清張「日本の黒い霧」のよう…)、一つ一つが直接関係はなくても、何処かで何らかの関連性があったりします。その裏で、GHQのキャノン機関や、旧帝国陸軍の有末精三機関や服部卓四郎機関、陸軍中野学校の残党などが暗躍します。そして、その背後には、東京裁判や朝鮮戦争、熱狂的な反共マーカーシズム、米ソ冷戦などいった時代的背景もあります。

 特に、同書の主人公になっている二木秀雄(金沢医科大学出身の博士号を持つ技師で、731部隊では梅毒の人体実験や諜報活動を担当)という男が、戦後になって「政界ジープ」という(紆余曲折の末)「反ソ反共」の大衆右翼時局雑誌を創刊して復権するものの、企業のスキャンダルをネタに多額の金品を恐喝したことから実刑判決を受けて没落していくという、忘れられていた史実を掘り起こしたことは大いなる功績で、本書の白眉ともなっています。

 「政界ジープ」誌(1946~56年)は、廃刊されても、出身記者の中には、同じように企業を恐喝する手法を真似して「総会屋雑誌」を創刊したり、潜り込んだりします。また、同誌末期の編集長を務めた久保俊広(陸軍中野学校出身)は「政界ジープ」まがいの院内紙「国会ニュース」を創刊したりします。一方、「政界ジープ」のライバル誌だった左翼系時局誌「真相」(日本共産党員だった佐和慶太郎が創刊、1946~57年)は、後に岡留安則による「噂の真相」の創刊(1979~2004年)に影響を与えたということから、この本は「メディア史」ともなっています。

 私のような戦後世代で、「戦後民主主義教育」を受けた者にとっては、どうも、戦中と戦後の間に大きな段差があって、全く違う時代になって、戦争犯罪者は、ある程度、淘汰されたという認識がありましたが、731部隊に関しては、戦犯にもならず全くの「陸続き」で、彼らには軍人恩給まで出ていたとは驚きでした。その典型がこの本の主人公の二木秀雄で、大変機を見るに敏だった人で、マスコミ社長~日本ブラッドバンク社(後のミドリ十字、薬害エイズ事件後、田辺三菱製薬)重役~開業医、そして日本イスラム教団を設立した教祖、と目まぐるしく変転しながらも、社会的高い地位を維持したまま84歳で亡くなっています。

 1986年に、平和相互銀行による特別背任事件がありましたが、平和相銀会長の小宮山英蔵は二木秀雄の有力なパトロンだったらしく、小宮山の実弟である重四郎は、自民党の衆院議員を務め(郵政大臣)、保守系政治家と総会屋・右翼などと関係を持ち、「闇の紳士の貯金箱」とまで噂された人物だったということですから、この世界の闇はなかなか深い。戦後右翼の大物と言われた「室町将軍」こと三浦義一までこの本に登場します。

 と、ここまで書いて少し反省。戦後、何もなかったかのように京大や東大の大学教授に復帰したり、開業医になったりした731部隊員の悪行を断罪することは当然のことながらも、なぜ、彼らを無罪放免したGHQ=米軍を誰も強く非難しないのか、不可解な気がしてきました。「GHQ=非の打ち所がない正義」という歴史観は、検閲による弾圧と、戦後民主主義教育によって植え付けられたもののような気がしてきました。 不一

 

藤原道長=傲慢、悪人説は間違い?

 先日NHK-BSで放送された「英雄たちの選択」の「藤原道長 平安最強の権力者の実像」は、これまでの通説、俗説、定説を引っ繰り返すようで実に面白かったです。

 道長と言えば、三人の娘(彰子=しょうし、あきこ、妍子=けんし、よしこ、威子=いし、たけこ)を三代の天皇(一条、三条、後一条)にわたって后として送り込み(一家三后)、「この世をばわが世とぞ思う 望月の欠けたることもなしと思へば」と歌って、天皇の外戚として権勢を振るった最高権力者というのが定説ですが、感情の起伏が激しくても、結構、神経症で寝込んだりするなど人間味があって、強運の持ち主だったことが分かりました。

 古代史の権威の倉本一宏氏も「道長は多面性を持った人物で、繊細でありながら豪放、寛容でありながら残忍、生真面目でありながらいい加減」と分析しておりましたが、意外にも、とても人間らしくて共感してしまいました。

 何しろ、藤原兼家の五男として生まれたので、最初から陣定(じんのさだめ=左大臣から参議に至る約20人で政策決定する)の要職に付ける立場ではなかったのに、兄の道隆、道兼が相次いで亡くなったことから、一条天皇の母后だった姉の詮子の推挙で「内覧」という重職に抜擢されます。これが、出世階段を昇るきっかけとなり、道長は、最後まで姉詮子に対する感謝の念を忘れませんでした。

 有名な「この世をばわが世とぞ思う 望月の欠けたることもなしと思へば」という歌は、娘威子が後一条天皇の中宮に決まった祝宴の席で詠まれたもので、権力の絶頂期とはいえ、何という傲岸不遜で、これ以上ないほど不忠とも言えます。

 しかし、この歌を書き留めたのは、道長のライバルの藤原実資(さねすけ)で(「小右記」)、道長自身は、「御堂関白日記」(国宝)に「歌を詠んだ」としか書いていないといいます(ちなみに、道長は一度も関白の職に就いていないので、題は後から付けられたもの)。道長に詳しい倉本氏によると、歌が祝賀会の二次会で詠まれたらしく、(飲み過ぎていて)本人も覚えていなかったかもしれないというのです。

 これは面白い史実ですね。

 倉本氏も、この「望月の歌」によって、藤原道長=悪人、不忠、傲慢説が広まり、これによって、残念ながら、平安貴族そのものが悪で、この後勃興する武士の方が立派だというのが日本史の通説になったのではないかと指摘しておりました。確かに、そうかもしれませんね。(当然のことながら、倉本氏は、戦国武将より平安貴族贔屓です)

 その一方で、もう少し注目しなければならないことは、教養人だった道長の文化に対する貢献です。これまで、藤原家の間で権力闘争が激しく、政権が安定していませんでしたが、道長が絶対的権力を握ることによって、国内も安定して国風文化の華が開くのです。道長は、一条天皇の后におくった彰子には、教育係の女官として、和泉式部(和歌)、赤染衛門(歌人、歴史)、そして紫式部(物語)といった後世に名を残す超一流人を付けるほどです。

 道長の最大の政争相手だった藤原伊周の姉妹の定子も一条天皇の女御(后)でしたが、その定子の女官が「枕草子」の清少納言で、紫式部と清少納言の仲が悪かったというのは頷けますね。また、一条天皇は、「源氏物語」のファンで、続きを読みたいがために、作品が手元にある彰子のもとに足繁く通ったという逸話には納得してしまいました。文化の力、畏るべしです。

 話は一挙に江戸時代に飛びますが(笑)、五代将軍徳川綱吉は、三代将軍家光の四男として生まれ、全く将軍職の芽がないので舘林藩主となります。しかし、四代家綱に後継ぎがいなかったため、予期しなかった将軍になってしまいます。綱吉には「生類憐みの令」を発した悪い将軍という後付けのネガティブなイメージがあります(内分泌異常で、身長が124センチしかなかったらしい)。この綱吉の時代に元禄文化が華開くというのは、何となく、傲慢な悪い印象がありながら、国風文化を開いた道長との共通点を連想してしまったわけです。

 元禄文化の代表人物には、美術工芸に尾形光琳・乾山、菱川師宣、文学に井原西鶴や松尾芭蕉、近松門左衛門らがいます。この時代に、こんな凄い文化人が集中して活躍していたとは、何とも不思議です。

乱読のすすぬ=家康は日本史上最高の偉人?

 ここしばらく、(とは言っても2日ほど)どうもブログが書けない状態でした。気の向くまま、興味の赴くまま、乱読していたので、頭がごった煮状態になっていたのです。本に登場する人物は、いつの間にか身近な親しい友人となり、時間と空間を超えてしまっていたのです。

 例えば、越前三国から継体天皇を擁立して磐井の乱(528年)を平定した物部麁鹿火(もののべの あらかい)や白村江の戦(663年)の司令官狭井檳榔(さいの あじまさ)、安曇比羅夫(あずみの ひらふ)らが私の頭の中で右往左往しています。でも、彼らの方が、コロナ禍で最近滅多に会えない現代の友人たちより近しく感じでしまうのです。古代人は、檳榔(あじまさ)とか比羅夫(ひらふ)とか、名前が格好良くていいじゃないですか(笑)。

 重症ですね。

 とはいえ、誰しもが、いずれ、三途の川を渡って彼岸の世界に逝くわけです。遥か遠い昔に亡くなった歴史上の人物と、今を生きている現代人と区別することもないんじゃないかと私なんか思ってしまいます。

 だって、現代人はメールを送っても「既読スルー」して返信もしない輩ばっかじゃありませんか。O君、H君、K君よ。これでは、古代人と会話していた方がよっぽど精神衛生上、健康に良い。

銀座「宮下」牛サーロインステーキ熟成肉御膳1900円

 歴史が面白いのは、遺跡や古文書などの「新発見」が出てきて、新しい解釈が生まれることだけでなく、自分自身も歳を取ると歴史観が全く変わっていくことです。私なんか、戦国武将といえば、若い頃は、「太く短く生きた」その潔さから圧倒的に織田信長の大ファンで、小賢しい策士の秀吉や「たぬき親父」の家康は、とても好きになれませんでした。が、今は断然、徳川家康に軍配を上げます。調べれば調べるほど、こんな凄い日本の歴史上の人物はいない、と確信しています。

 家康ほど頭脳明晰の人もいないと思います。何しろ、全国、300藩と言われる大名から京都所司代などに至るまで重職者は全員覚えて差配して配置させ、彼らの政所や家臣などの人間関係、係累は全て頭に入っているんですからね。凡夫の私は100人でさえ顔と名前と係累が一致しません(苦笑)。

 最近、感心したのは、家康の腹心で「徳川四天王」と言われた武将たちは関ケ原の合戦以降、驚くほど優遇されていなかったことです。四天王筆頭の酒井忠次は関ケ原の前に亡くなり、家督は嫡男家次に譲られましたが、徳川秀忠に従い、関ケ原の本戦に参戦しなかったせいか、高崎5万石に移封。猛将本多忠勝は、上総国大多喜に10万石(関ケ原後は、伊勢国桑名10万石)、三河以来の武功派の榊原康正も上野国舘林10万石、新参ながら側近に大抜擢の井伊直政は上野国箕輪12万石(関ケ原後は近江国佐和山18万石)ですからね。命を懸けて最前線で戦ってきたというのに、加賀100万石、薩摩90万石といった外様大名と比べると、いかにも見劣りします。(勿論、家康は身内には甘く、関ヶ原の後、家康の次男の結城秀康を下総結城10万石から越前北庄=かつての柴田勝家の領地=68万石に加増移封します)

「築地の貝」帆立貝うどんランチ 1000円

 これは、ある程度、意図的で、家康は慶長8年(1603年)に征夷大将軍になって江戸幕府を開いてからは武闘派は遠ざけ、代わって本多正信、正純親子(後に失脚)や大久保忠隣といった文治派に近い行政官僚を重用し、天台宗の南光房天海大僧正や臨済宗南禅寺の金地院崇伝ら僧侶をブレーンとして登用したりします。僧侶といっても、毛利の安国寺恵瓊(えけい)のような軍師ではなく、行政官、外交官、立法官のような知性派です。

 天海上人は、風水を採用して江戸城の鬼門(北東)に寛永寺、裏鬼門の方角(南西)に増上寺を置き、八方に目白、目黒、目赤、目青、目黄不動尊などの寺院を建立させた人だと言われます。家康の日光東照宮も造営。家康、秀忠、家光の三代に仕え、108歳の長寿を全うしました。

 崇伝は、諸宗寺院法度、禁中並公家諸法度、武家諸法度などを起草したと言われ、「黒衣の宰相」とも呼ばれました。

 家康自身も「もう武装闘争は終わった」とばかりに、天下普請の城づくりだけでなく、上水や治水、日比谷干拓など「元和偃武」を見越して平和になった江戸百万都市の街づくりに着手しますから、とてつもなく先見の明がある大将軍だと言えます。

 乱読していると、頭が混乱しますが、現代だけでなく過去にも同時に生きている感じで、人生二倍楽しめます。

(実は今、戦後GHQに日本人の魂を売っって諜報機関をつくった有末精三、河辺虎四郎、服部卓四郎といった旧帝国陸軍最高幹部のことで頭がいっぱいなので、こんな文章を書いていても頭が全く整理されていません。)

 

「古代天皇と古墳の謎」に迫る

 「歴史人」6月号の「古代天皇と古墳の謎」は、恐らく、現代の古代史学の最先端の学術を取り入れた「完璧版」に近いものではないかと思っています。(読み通すのに1カ月近く掛かりました)

 勿論、反対意見もあると思います。例えば、18ページの「ヤマト政権の真実」の中で、安田清人氏はこんな風に記述しています。

  かつて、(大和盆地の纏向=まきむく=遺跡の)箸墓(はしはか)古墳を邪馬台国の卑弥呼、あるいは後継者の台与(とよ)の墓とする説もあったが、邪馬台国は、北部九州にあった約30国からなる倭国連合の盟主であるクニ、すなわち地方王権のひとつに過ぎず、ここでいう倭王権とは無関係である。

 あれっ? こんなにキッパリと邪馬台国を九州と断定してしまっていいんですか? あれほど、「畿内説」と「北九州説」が長い間、侃々諤々、喧々囂々と論争され、確か、今でも決着ついていないはずなんですが、大丈夫なんでしょうか?

 この章の監修者に倉本一宏氏が立てられています。「なあんだ」。私自身は、倉本氏の「蘇我氏」「藤原氏」「白村江の戦」など結構、著書を愛読して彼の説を信頼し、私も「邪馬台国=九州説」なので、大賛成で、文句ありませんけど(笑)。

 それにしても、私が学生時代に古代史を習ったのは1970年代初めですからもう半世紀近い大昔です。その間の学問の進歩は目を見張るばかりです。第一、纏向遺跡も箸墓古墳も全く習ったことはありません。今は「倭王権」とか「ヤマト政権」とか言うようになりましたが、昔は「大和朝廷」と教えられていました。ついでに言えば、645年の「乙巳の変」なんか全く習っていません。「大化の改新」だけです。恐らく、「乙巳の変」を知っているか、知っていないかで、世代が分かると思います(笑)。(おっ!頷いている方がいらっしゃいますね)

 天皇についてもそうです。戦後になって昭和天皇が「人間宣言」され、ある程度のタブーから解放されて自由に研究されることができるようになりました。私の親の世代は戦前の昭和初期に教育を受けましたが、大正生まれの父親は「天皇陛下は神様で、学校では神武天皇から綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化、崇神…と全て覚えさせられた」と話していましたからね。

◇「三王朝交替説」

 これまで、天皇は「万世一系」で神武天皇以来現在に至るまで、血統が同じだということが戦前までは常識でしたが、1952年に水野祐博士が「三王朝交替説」を唱え、82ページに紹介されています。初代神武天皇をはじめ、二代綏靖天皇から九代開化天皇までの「欠史八代」まではフィクションで、実在する最初の天皇を十代崇神天皇とし、この王朝は十四代仲哀天皇まで続く。次に十五代応神天皇からは別の王朝で(大和の豪族葛城氏との縁戚関係が強い)、「残虐と記紀に書かれた」二十五代武烈天皇まで続く(この間、「倭の五王=讃、珍、済、興、武」が大陸から冊封を受ける)。最後は、近江の豪族息長(おきなが)氏出身と言われ、母方の越前育ちで、尾張の豪族の目子媛(めのこひめ)を妃として娶っていた二十六代継体天皇からで(継体天皇は、後に二十四代仁賢天皇の皇女手白香皇女=たしらかのひめみこ=を皇后とするので、自身が十五代応神天皇の末裔であるとの主張がフィクションなら、継体天皇は女系天皇だという見方をする学説もあります)この王朝が現在の天皇家まで続いているという説です。

 私はこの「三王朝交替説」には十分に納得します。いずれにせよ、畿内だけでなく、全国(特に毛野=けぬ=、吉備、出雲、筑紫など)に大きな古墳が存在するということは、地方にも天皇家に匹敵するような権力を持った豪族が存在していたということになります。(そもそも、天皇はもともと大王=おおきみ=呼ばれ、初めて天皇と称するようになったのは第四十代天武天皇からでした)

 大和の一豪族に過ぎなかった天皇家が、「倭王権」として全国統一するようになった背景には、やはり、高句麗や唐、新羅といった敵対する外国勢力に対抗するために中央集権的な強い国家を存立させる必要に迫られたのではないかと考えられます。その間に、出雲や吉備、筑紫(磐井の乱)といった豪族が倭王権に服属(もしくは同化)するようになったと考えれば、分かりやすい気がします。

 「歴史人」では古墳の話も多く図解入りで記述されています。日本最大の古墳は、世界遺産にもなった百舌鳥古墳群の仁徳天皇陵ですが、全長486メートル、高さ33.9メートルの3段もあり、秦の始皇帝陵、エジプトのクフ王のピラミッドと並び「世界三大墳墓」だったんですね。知らなかった(苦笑)。「日本は凄い!」と右翼の人でなくても嬉しくなります。

 仁徳天皇陵は、5世紀中ごろに建設されましたが、大林組の1986年の試算によると、680万人日(一人一日分の労働量)を必要とし、工期は15年8カ月、工費796億円だといいます。それだけ、天皇家には絶大なる権力があったということになります。

 しかし、現在、天皇陵は宮内庁が厳重に管理し、学術研究でさえ禁止されているので、いまだに解明されていない謎だらけだとも言えます。何故なら、現在、天皇陵と比定されている所は、幕末の文久2年(1863年)、宇都宮藩の家老戸田忠至(ただゆき)が朝廷から山稜奉行を命じられ、修陵に当たり10人の研究顧問団が選ばれ、その筆頭格の谷森善臣(たにもり・よしおみ、1818~1911)が決定したものだからです。谷森は、天皇の近侍である舎人家出身ながら、現在の学問から見て必ずしも正しくない場所が散見されるといいます。(例えば、継体天皇陵は、大阪府茨木市の三嶋藍野陵と比定されていますが、実は、大阪府高槻市の今城塚古墳ではないか、という説が有力で、神武天皇陵を本居宣長らの丸山説を否定してかなり強引に白橿村山本の地として押し通したことなど)

 いつになるか分かりませんが、天皇陵の学術調査が認可されれば、古代史がまた大幅に変わっていくのではないかと、私なんか期待を込めて考えています。が、私が生きている間は難しいかなあ…?

731部隊の切れ者二木秀雄という男=加藤哲郎著「『飽食した悪魔』の戦後」

 コロナ禍で、ただでさえ気分が落ち込んでいるというのに、さらに輪を掛けて気分が落ち込む?本を読んでいます。とはいえ、推理小説を読むような感じで、結果が分かっていても、「次はどうなってしまうのか」とページが進みます。

 私淑する加藤哲郎一橋大学名誉教授が書かれた「『飽食した悪魔』の戦後 七三一部隊と二木秀雄『政界ジープ』」(花伝社)という本です。2017年5月25日に初版が出たので、もう4年前の本です。

 3850円というちょっと高価な本でしたし、内容に関しては既に加藤先生の講演会やセミナーなどで聴いていたので、「いつか買おう」と思っていたら、今になってしまいました(スミマセン)。私が購入した本は、2018年3月20日発行の第2刷で、少しは売れているというということなので大変嬉しくなりました。図書館で借りるにせよ、どんな形でも良いですから、多くの人に読んでもらいたいと思ったからです。

 実は、この本の258ページに、何と私の名前が出てきます!(笑)。私が「ゾルゲ事件関係外国語文献翻訳集」35号(2012年12月)に寄稿した「70年間誰も知らなかった謎の人物ー石島栄」という論文を引用してくださったのです。加藤先生の御自宅は「汗牛充棟」の比喩がピッタリで、市販本からこのような研究会の論文集までありとあらゆる文献を所有されて目を通しておられます。まさに博覧強記です。

銀座「山笑ふ」ランチA 1650円

 今ではよく知られるようになりましたが、731部隊とは、旧満洲(現中国東北部)ハルビン郊外に設置された関東軍防疫給水部本部が正式名称で、最高責任者の部隊長が、京都帝大医学部出身の石井四郎陸軍軍医中将だったことから石井(細菌)部隊などとも言われます。中国人の捕虜らを「マルタ」と呼んでおぞましい人体実験や生体解剖を行っていたと言われますが、資料や実験データを米軍に引き渡す条件で免責されて戦犯にもなりませんでした。しかも、戦後も731の残存部隊は鉄の結束で秘密を守り通したため、真相はヴェールに包まれていました。

 しかし、著名な推理作家森村誠一が1981年に出版した「悪魔の飽食 『関東軍細菌戦部隊』恐怖の全貌! 長編ドキュメント」(光文社)がベストセラーになり、多くの研究者、ジャーナリスト(常石敬一、近藤昭二、青木冨貴子各氏ら)によって関連本が(先行して)出版されるようになり、賛否両論も含め多くの人に認知されるようになりました。

 加藤氏の本は、これら先行研究書の成果を踏まえた上で、新たに、二木秀雄という731部隊第1部第11課(結核班長)の技師(高等文官の最高位で、武官の将校に相当)だった人物を主人公(とはいってもダーティーヒーローですが)にしています。

 この人は複雑怪奇な人で、金沢医科大学(現金沢大学医学部)で博士号を取得して731部隊に所属したエリート高官でした。この人、部隊では、結核菌だけでなく、捕虜に強制的に性行為をさせて梅毒に感染させる(抵抗した男女は射殺)など、この本ではちょっと読むに堪えない場面が出てきます。戦後は、郷里の金沢に戻り、優先的に早々と帰国して生き残り、後に大学教授や研究所所長や開業医などになった731の残存部隊の仮本部設立を任され、東京に出てからは右派大衆時局雑誌「政界ジープ」を発行したりします。(どういうわけか、この雑誌の第2号に「尾崎ゾルゲ赤色スパイ事件の真相」なる記事が掲載されます)1950年には、輸血用の血を確保する日本ブラッドバンク設立発起人となり重役に就任。当時の朝鮮戦争での需要で急成長し、1964年には商号をミドリ十字に変更しますが、同社は薬害エイズ事件で業績が悪化し、今の田辺三菱製薬に吸収合併されたことは皆さんも御存知の通りです。

江戸城 桜田門 (本文とは関係ありません)

 確かに凄惨な場面は、読むと気分が落ち込みますが、皆さんも勇気を出して目を塞がず、読んでほしいと思います。編注が巻末にではなく、同じページに出てくるので大変読みやすい本です。

 731部隊は、終わった過去の出来事で現代人には何ら関係ないという考え方は間違っています。コロナ禍で、ウイルスや感染症については、今は一番関心がもたれていることではありませんか。皮肉にも彼らは、最先端の病毒や感染症を人体実験した部隊だったのですから…。例えば、76ページにはこんな記述が引用されています。

 七三一部隊へは当時大正製薬より莫大な寄附金が投じられており、その見返りとして、サルバルサン六〇六号という梅毒治療薬の製造権が同製薬に与えられた。同製薬は戦後もサルバルサンを製造し続け、主要医薬品メーカーへと成長した。(山口研一郎「医学の歴史的犯罪」)

 大正製薬といえば、リポビタンDとかパブロンの風邪薬を出している会社でクリーンなイメージがありましたから、731部隊に関わっていた過去があったとは全く知りませんでした。

「ナイルレストラン」とパール判事

東銀座「ナイルレストラン」 真ん中中央に創業者アヤッパン・M・ナイルの写真が

 ランチは、東銀座の有名なカレー店「ナイルレストラン」に行って来ました。この店は、何度も行ったことがあります。初めて行ったのは、25年ぐらい昔、今や歌舞伎評論の大家になられた毎日新聞の小玉先生に連れて行ってもらった時、と記憶しています。この店は、歌舞伎座の近くにあります。

 本日出かけたのは、例の阿古真理著「日本外食全史」(亜紀書房)の中で、この店の創業者のアヤッパン・M・ナイル(実際は日本人妻の由久子さんが1949年に料理人として開業)が、極東国際軍事裁判(東京裁判)で被告人全員の無罪を主張したインドのパール判事の通訳を務めた人だったことを知ったからでした。

 このことに関しては、印度料理専門店「ナイルレストラン」の公式ホームページにも書かれていました。アヤッパンは、インド南部ケララ州出身のインド独立運動家(戦前、インドは大英帝国の植民地だった)で、京都帝大にも入学したインテリでした。戦後は在日インド人会会長を務めるなど日本とインドの親善に貢献した人でもありました。

 一方、東京裁判でパール判事がA級戦犯の被告人を無罪としたのは、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は戦勝国によって後から作られた「事後法」であり、事後法をもって裁くことは近代の国際法に反するといった理由でした。

  しかしながら、結局、東京裁判(1946年5月3日~48年11月12日)では25人が有罪判決となり、このうち東條英機(64)ら7人が死刑となりました。日本は、この東京裁判の判決を受け入れることによって、やっと占領(1945年9月2日~1952年4月28日の6年7カ月間)から独立することができたので、今さら何をかいわんや、ですが、パール判事の主張は尤もなことだと私も同調します。彼の裁判官としての信念だったことでしょうが、当時としては大変勇気がいることだったと思います。

1949年創業以来味が変わらないという「ムルギーランチ」1500円

 さて、ランチはナイルの名物「ムルギーランチ」を食しました。本当に久しぶりでしたが、「本場の味」は相変わらずでした。スパイスが他店とは違うんでしょうね。

 店は、以前と比べて随分従業員の方が増えたような感じがしました。インドの人と思われる人が多かったでしたが。

 テレビによく出演してすっかり有名人になった二代目のG・M・ナイルさんは、奥にいるのか、お見かけしませんでしたが、三代目の善巳ナイルさんらしき人はいらっしゃったようでした。マスクをしていたので、よく分かりませんでしたが(笑)。

 勿論、お店の若いインド人従業員さんに「ナイルの創業者はパール判事の通訳をしていたんですよね?」と尋ねるわけにはいきません。多分、パール判事のことを知らないかもしれません。まあ、江戸っ子の言葉で言えば、聞くのは「野暮」ってなところでしょうか(笑)。

坂下門と桜田門めぐり=江戸城址散策はひとまずこれまで

江戸城 坂下門

 ここ数日、何か、すっかり江戸城づいてしまい、今回は、締めを飾る「ここだけは見逃せない」という所に絞って行って参りました。

 昼休みを利用したので、会社から歩いて行ける距離ではありますが、時間の節約のため、今回は、JRと地下鉄を利用しました。

 「ここだけは見逃せない」というのは、坂下門です。幕末史関係の雑誌を読んでいて、年表を見ていたら、「坂下門外の変」が出てきました。「あれっ?何だっけ?」と昔覚えた記憶の糸を辿っても思い出せません。しかも、京都の事件と誤解していました。何か、「禁門の変」とごっちゃになってしまっていたようです(苦笑)。

「坂下門外の変」の説明がない?

 言うまでもなく、「坂下門外の変」とは、文久2年(1862年)、公武合体論を推進し、和宮降嫁を実現させた老中安藤信正が、尊王攘夷派の水戸浪士らに襲撃された事件です。

 片や、「禁門の変」は、元治元年(1864年)、「八月十八日の政変」で京都を追われた長州藩が勢力奪還を図って入京し、薩摩・会津・桑名の藩兵に敗れた事件で、蛤御門(はまぐりごもん)の変とも言います。(この事件と池田屋事件で被害を蒙った長州藩=特に桂小五郎=の怨念が、戊辰戦争での会津に対する復讐と殲滅につながったと思われます)

 江戸城では、坂下門外の変が起きる2年前の安政7年(1860年)に、井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」が起き、こちらの方があまりにも有名で、多くの小説や映画やドラマになったりしたので、まず日本人で知らない人はいません。

 それに比べて、「坂下門外の変」を知っている人は、あまり映画にもドラマにもなっていないので、少ないですね。となると、老中安藤信正もそれほど知る人は多くない…。彼は、陸奥国磐城平藩主でした。現在の福島県いわき市です。安藤信正は、登城途中の坂下門外で浪士に襲撃されて背中に傷を負うものの一命を取り留めました。しかし、老中職を罷免されて隠居、謹慎を命じられます。それでも、戊辰戦争では、奥州越列藩同盟に加わり、新政府軍と戦います。結局、敗北、降伏し、蟄居を命じられましたが、最後まで、徳川譜代大名としての意地を見せたのではないでしょうか。

江戸城 坂下門

 今の坂下門は、宮内庁の通用門になっているらしく、警備が厳重であまり近くには立ち寄れませんでした。私の風体が怪しく見えるのか、皇宮警察官と思われる人から睨まれてしまいました。

 私はただ、「嗚呼、ここで、わずか150年前に、襲撃事件があった現場だったのだなあ」という感慨に浸りたかっただけなんですけどね。

江戸城 桜田門

 勿論、坂下門の後、有名な桜田門にも足を運びました。

 桜田門には何度も行ったことがありますが、途中で、二重橋があったので、「なあんだ、坂下門と桜田門はこんな近くだったのかあ」と驚きました。歩いて10分かそこらです。

 この桜田門は、上の看板の説明にある通り、正式には「外桜田門」と言っていたそうですね。

 「桜田門外の変」で暗殺された大老井伊直弼の彦根藩上屋敷は、この桜田門からほんの目と鼻の先だったといいます。上屋敷の場所も確かめたかったのですが、時間がなくて残念。

桜田門 この近くで井伊直弼は襲撃されたのか?

 それより、マスコミ業界では常識ですが、現代では、「桜田門」といえば、警視庁の隠語となっています。

 勿論、この桜田門の近くに警視庁の庁舎があるからです。

二重橋、伏見櫓…江戸城跡めぐり

 中公ムック「歴史と人物」創刊記念プレゼントに応募したところ、上の写真の通り、「オリジナルA4クリアファイル」が当選しました。

 今年1月末締め切りだったので、すっかり忘れていました(笑)。買った雑誌を見返したら、クリアファイルは、「W賞」で当選者は300人でした。本当は「B賞」の「トートバックと中公新書5冊」狙いでしたが、それでも、「W賞」に当たったのですから、凄い。良しとしなければなりませんね。ついている!

 まあ、原価10円か20円ぐらいのファイルに見えましたが(失礼!)、会社の後輩から「メルカリで売れば、500円でも売れるんじゃないですか」と言うのです。そっかー。でも私は、メルカリなんかやってないし、あまり、好きではないので、このクリアファイルは、その後輩にあげてしまいました。彼から、テレビで放送された「大戦国史」をDVDに録画したものをもらってしまいましたから、その御礼です(笑)。

二重橋

 さて、昨日の昼休みは、またまた江戸城にまで足を延ばし、いわゆる一つの「二重橋」まで行って来ました。1時間の昼休みではそこまでが限度でした。

 何と言っても江戸城は広い!細かく史跡を全てを隅々回れば数日掛かるでしょう。

 今は皇居ですから、普段は「宮殿」にまで一般人は入れませんが、個人的には2017年18年に、元ナロードニキで今や優しい右翼の友人栗林氏と一緒に2年連続、お正月の「一般参賀」に参列し、禁断の皇居内に入ったことがあります。

 2018年は、平成最後ということで、参列した日は、最多の12万6720人が参賀したということでしたから、人、人、そのまた人で身動きが取れない状態でした。(1時間半ほど並びましたが、勿論、無料です)

 でも、昨日はコロナ禍で緊急事態宣言が発令され、平日の昼間ということもあり、皇居外苑は人が少なく、ガラガラでした。

 いやはや、目的は皇居参賀ではなく、江戸城址巡りでした。

 看板には「江戸城は長禄元年(1457年)に太田道灌が創築し。天正18年(1590年)に北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに定めた。…」とあっさりした書き方ですが、本当は凄い所なんですけどね(だから、特別史跡か!)。

 上の写真は、伊達政宗の仙台藩上屋敷にほど近いところにある日比谷濠の石垣です。まだ素人なので間違っているかもしれませんが、この石垣は「打込接の亀甲積」に見えます。この辺りに、今は、皇居外苑管理事務所が建っていますが、江戸時代は陸奥泉藩(福島県いわき市)の上屋敷でした。

 何で分かるかと言うと、「大江戸今昔めぐり」というアプリがあるからです。これは、現代地図と古地図を一瞬にして転換できる優れものです。このアプリは、渓流斎ブログのサイトの立ち上げやサーバーなどでお世話になっている松長哲聖氏から紹介されたもので、彼も寺社仏閣に関して協力しているようです。「七福神めぐり」や「江戸歌舞伎ゆかりの地めぐり」などもあり、結構楽しく遊べる(?)アプリです。

 この二重橋は、普段は入れませんが、「一般参賀」の時に渡ることができます。

 向こうに見えるのが伏見櫓です。

 詳しくは上の説明文をお読みください。

 現在、皇居の宮殿がある所は、先ほどの「大江戸今昔めぐり」によると、「西御丸」「西御丸大奥」だったんですね。

 私も以前、何度か訪れている本丸と天守台、二の丸、三の丸などがある江戸城址は、現在、「皇居東御苑」として整備され一般公開されています。(目下、コロナ禍で休園中のようですが)

 ちなみに、天皇陛下がお住まいになる吹上御所がある所は、江戸城時代は(変な表現)、「吹上御庭」と呼ばれ、馬場や梅林や森林もあったようです。普段は一般人は誰も入れませんから、そこは、今でも、古代中世・近世から手つかずの自然が残っているそうです。

 私自身は、二重橋よりも、手前の石垣の方に興味があります(笑)。

 上部は、打込積の亀甲積に見えますが、下の方は布積というんでしょうか?お濠には忍者が潜伏していたのかしら?石垣は、関東大震災でも崩れなかったんでしょうか?

 いやはや、まだまだ勉強が足りません。

「伊達政宗 終焉の地」と江戸城跡

銀座「ごだいご」 ランチごだいご御膳 1100円

 昨日、伊達政宗(1567~1636年)のことを書いたら、ふと、「政宗終焉の地」を再訪したくなり、昼休みに日比谷公園にまで走って行きました。しかも、5月24日(太陰暦)は、政宗公の命日(386年遠忌)だったのです。是非ともお参りもしなければなりません。

(会社から歩いて20分ほど)

 場所は、皇居寄りの日比谷交差点近くの公園入り口(交番がある)から入るとすぐあります。

 上の写真の木々の間から微かに見える建物は、戦後、GHQ本部が置かれた第一生命ビルです。

 ここが「伊達政宗 終焉の地」です。

 初めて、ここが「伊達政宗 終焉の地」だと知ったのは、ほんの5,6年前です。ですから、この立て看板が出来て、まだ10年も経っていないのではないかと思います。

 私の会社は、2003年まで日比谷公園内にありましたから、日比谷公園に関しては隅から隅まで歩き尽くし、熟知していたつもりでしたから、この看板を見つけた時は本当に吃驚しました。

 「えっ?ここに伊達仙台藩の上屋敷があったの?」聞いてないよ、といった感じです。先日、この渓流斎ブログにも書きましたが、伊達仙台藩の上屋敷は当初、ここにあり、寛永18年(1641年)になって浜屋敷(今の汐留の日本テレビ本社)に移転(幕末まで)したのでした。

 ちなみに、以前、会社があった場所は、盛岡南部藩の上屋敷跡だった所でした。

心字池 右後方は帝国ホテル

「伊達政宗 終焉の地」の目の前は、今は心字池になっています。

 かつてはお濠だったらしいのです。

 石垣は、江戸時代のものですが、よくぞ残ったものです。

米軍は東京を空襲する際、既に、戦後の占領統治を考えており、第一生命ビルをGHQ本部にし、日比谷界隈の宝塚劇場や映画館等は兵士の慰問のために残すことを決定し、この辺りを爆撃しなかったと言われています。だから、石垣も残ったのでしょう。

 この石垣の上にベンチがあり、よく、ランチ気分でサンドイッチやおにぎりを食べたり、本を読んだりしたものです。

この石垣は、江戸城外郭城門の一つ、日比谷御門の一部とのこと。

案内板では、慶長19年(1614年)に熊本藩主加藤忠広によって石垣が築造され、寛永5年(1628年)には仙台藩主伊達政宗によって門の石垣が構築された、とあります。

日比谷公園を出て、日比谷交差点を渡ると、もうそこは江戸城です。勿論、今の皇居です。

 以前、テレビで、ある女性タレントが「皇居が江戸城だったの?知らなかったあー!」と叫んでいたのを見て、腰が抜けるほど驚きました。世の中にこういう人もいるとは…。戦前、宮城(みやぎ、ではなく、きゅうじょう)と呼ばれていたことも知らないことでしょう。

 それはさておき、伊達藩の上屋敷が江戸城からこんな近いとは驚きです。目と鼻の先。まさに「スープが冷めない距離」です。家康公が、よっぽど伊達政宗を警戒したのか、逆に、よほど近くに置いておきたかったのかのどちらかでしょう。伊達藩は外様ですが、家康は案外、政宗公を気に入っていたんじゃないかと私なんか思うんですけど、理論的な裏付けはありません(笑)。

 仙台藩は「伊達騒動」を始め、お家騒動が極端に多く激しかった藩で、幕末も佐幕派と新政府側と壮絶な争いがありました。あの仙台藩から遣米使節に選ばれた玉蟲左太夫も、奥州越列藩同盟の推進に活躍したため、最後は詰め腹を切らされました。大変惜しい人材でしたが、玉蟲左太夫は、言わば、伊達政宗公の遺訓を守って、徳川方に忠誠を尽くしたような気がします。これも想像ですが。

 江戸城は、天守こそ再建されませんでしたが、広大な敷地といい、天下普請の石垣といい、日本全国見渡しても、江戸城に優るお城はありません。私なんか、外から石垣を眺めるだけでも大満足です。石垣は諸藩から献上されたので、藩の家紋が彫られたりしています。

 コロナ禍で遠出ができない人には、江戸城跡はお薦めです。(あ、これは関東圏にお住まい向けの発言でした。全世界の愛読者の皆様、大変失礼仕りました)