新段階に入ったゾルゲ事件研究=思想検事「太田耐造関連文書」公開で

 「ゾルゲ事件研究の新段階」と題した加藤哲郎一橋大学名誉教授による講演が11月9日(土)に東京・早稲田大学で開催された第29回諜報研究会の報告会で行われ、私も聴講してきました。その4日前の11月5日付朝日新聞朝刊で、「ゾルゲ事件 天皇への上奏文案 旧司法省主導 都合よく添削」という記事が掲載され、そこには、「概要は9日に都内で発表される」とあったので、さぞかし多くの方々が詰めかけると思いましたが、それほど多くはなく90人ぐらいだったでしょうか。(6月8日の専修大学での報告会では200人以上だったらしい)

 それも、どうみても年配の方々ばかり。若い人は新聞を読みませんからね。時代を反映しているということでしょう。時代の反映といえば、ゾルゲ事件研究も、かつては高度経済成長にあった日本が最先端で、世界的にみても量も質もピカ一でしたが、「失われた30年」で、中国が経済大国に成長してからは、今後は中国(ゾルゲの上海時代の活動は未だ未解明部分多し)での研究が期待されていると言われています。学術研究もお金がかかるというわけです。会場には大御所の研究家渡部富哉氏も参加されていましたが、御年数えで九〇歳。懇親会で大声を出されて、まだ元気溌剌でした。

 さて、講演会の副題は「思想検事・太田耐造と特高警察・天皇上奏・報道統制」でした。ゾルゲ事件に関しては私自身、勉強会やセミナーなどにも参加して15年近く関連書籍も読んできて、このブログにも散々書いてきました(ただし、その間の記事は小生の不手際で全て消滅!)。そんな私ですが、講演会の内容は色々と複雑に派生した問題がからんでおり、結構難しかったですね。資料を読み込んだりしているうちに、これを書くのに3日もかかってしまいました(苦笑)。

 ですから、そんな複雑な話は、ある程度の予備知識がある人でないと分からないので、茲で書くことは最小限に絞り、固有名詞、用語の説明については最低限に留めます。その代わり、リンクを貼っておきますので、ご自分で参照してください。

 加藤先生は講演タイトルを「ゾルゲ事件研究の新段階」とされてましたが、長年、ゾルゲ事件を研究をしてきた人にとっては、実に画期的で革命的な「新段階」なのです。何故なら、かつての研究者が元にしてきたのは、1962年からみすず書房が刊行した「現代史資料 ゾルゲ事件」全4巻で、これは戦前の内務省警保局特高警察資料を元にした戦後の警察庁版「外事警察資料」(1957年)だとみられるからです。

 それが、2017年に国会図書館憲政資料室から「太田耐造関連文書」が公開され、司法省の「思想検事」だった太田耐造が残した文書にはゾルゲ事件に関する膨大な資料が含まれ、そこには司法大臣名の昭和天皇宛上奏文や新聞発表統制資料などが含まれていたことが初めて分かったのでした。

 つまり、加藤先生によると、ゾルゲ事件の捜査・検挙・取り調べ、新聞発表を主導したのは、治安維持法による共産主義の取り締まりに当たった内務省警保局(特高警察と外事課)ではなく、また陸軍憲兵隊でもなく、国防保安法、軍機保護法に基づく国家機密漏洩を重視した司法省思想検察だったというのです。外務省や情報局はほとんど関与できなかったといいます。

 太田耐造(1903~56)は、ゾルゲや尾崎秀実らを逮捕する際の法的根拠とした治安維持法の改正(1941年3月10日、7条だったのを65条にも増やした!)、軍機保護法の改正(同日)、軍用資源秘密保護法(同年3月25日施行)、軍機保護法(同年5月10日施行)の全てに関わっていたのです。驚きですね。当時、太田はまだ30代の若さでした。

 太田耐造関連文書の中の「ゾルゲ事件史料集成」(全10巻)は現在、不二出版から刊行中ですので、ご興味のある方はご参照ください。講演会では隣席にこの不二出版の小林社長が座られて、何年ぶりかでお会いし(当時は、編集者でした)、向こうから御挨拶して頂き、社長業も大変で何となくお疲れ気味でしたので、茲で紹介させて頂くことにしました。

 司法大臣岩村通世からゾルゲ事件について昭和天皇に上奏されたのは、昭和17年(1942年)5月13日(水)午前11時30分。司法省刑事局長室での新聞発表はその3日後の5月16日(土)午後4時でした(朝日新聞の記事では【司法省十六日午後五時発表】となっている。不思議)。ゾルゲやブーケリッチ、宮城与徳、尾崎らが逮捕されたのは、これを遡る7カ月も前の1941年10月でしたが、報道差し止め。事件の発覚が国民の目に触れたのはこの時が初めてでした(しかも具体的な諜報内容は伏せられた)。その後、日本が敗戦となるまで、44年11月のゾルゲと尾崎の処刑も含めて一切の報道はありませんでした。

探しました!昭和17年5月17日(日)付東京朝日新聞朝刊1面「国際諜報団検挙さる」 扱い方が司法省の命令により地味 紙面は戦中のせいなのか、わずか4面。夕刊は2面でした。

 ここで注目したいのは、太田耐造文書に関しては既に毎日と朝日で報道されていますが(読売、日経、産経、東京などは精通した記者がいないのか?報道していないようです)、天皇上奏文と新聞発表では明らかに、かなりの相違があったことです。新聞発表では、「トップ扱いにするな」「四段組以下扱いにせよ」「写真は載せるな」(現代文に改め)など事細かく「新聞記事掲載要綱」で報道統制していたことも分かりました。

2018年8月18日付 毎日新聞朝刊1面

 上奏文と新聞発表の大きな違いは十数点ありますが、一つだけ挙げるとすると、上奏文の内部資料とみられる文書では、ゾルゲは「ソ連の赤軍第四本部の諜報団」と正確に明記しながら、新聞発表文では治安維持法適用のために「コミンテルン・共産党関係の諜報団」としたことでした。司法省も大本営発表のような偽情報を流したということですね。

 (ただし、日本共産党関係は、治安維持法の制定(1925年)で、28年の「三・一五事件」、29年の「四・一六事件」や幹部の転向などで壊滅状態となり、加藤先生によると、1935年以降の共産党関係者の検挙率は1%にも満たなかったといいます。えっ!驚きです。むしろ、太田耐造らが関わった41年3月の治安維持法改正では第七條「國體ヲ否定シ又ハ神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒涜スベキ事項ヲ流布スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者 」も加えられ、労組関係者や宗教団体への弾圧が増えたといいます。)

 そして、何よりも付け加えたいのは、上奏文にはあった「ソ連」が新聞発表文では、一切削除されていたことでした。これは、当時、ソ連とは日ソ中立条約を締結しており(しかし、昭和20年8月にソ連が一方的に破棄して、満洲の悲劇が生まれる)、内務省警保局外事課では、ソ連は、何と「親善国」とされていたという背景があります。「ソ連」と新聞発表しなかったのは、親善国ソ連を徒らに刺激することを避けたとみられます。そういえば、終戦間近、日本はソ連を仲介して和平工作を進めていましたね。満洲で暴虐の限りを尽くし、「シベリア抑留」をしたロシア人を信用するなど実におめでたい話だったことは歴史を見れば分かります。

 いずれにせよ、太田耐造関連文書の公開で、ゾルゲ事件の研究がさらに進むことが望まれますが、景気低迷、少子高齢化の日本では興味を持つ若い人材すら減り、危うい感じもします。

 ゾルゲ国際諜報団が、ソ連赤軍に打電した重大事項の中には、尾崎が情報収集した昭和16年(1941年)7月2日の御前会議で決定された南部仏領インドシナへの進駐(いわゆる南進政策)のほか、ゾルゲがドイツ大使館で入手した独ソ戦開戦に関するドイツ側の開戦予定日と意図などもあり、世界史的にも注目されます。(ただし、スターリンは信用していなかったという説もあり)

 ゾルゲ関係の資料や200冊近い関連書籍を読みこなすには何年もかかりますが、多くの人に少しでも興味を持って頂ければ私も嬉しいです。

日蓮主義とは何だったのか

 大谷栄一著「日蓮主義とはなんだったのか」(講談社)をやっと読了しました。668ページの大作ですから、2週間ぐらいかかりました。

 この本については、前半を読んだ段階で、11月6日付のこのブログでも取り上げましたが、通読してみて、少し印象が変わりました。

 前半は、明治から大正にかけて、田中智学(国柱会)や本多日生(顕本法華宗管長)、高山樗牛(文藝評論家、思想家)ら第1世代による日蓮主義の創設、確立、普及の話でしたが、後半に入ると、井上日召(血盟団事件)、北一輝(2.26事件)、宮沢賢治(詩人)、石原莞爾(満洲事変)ら第2世代による日蓮主義の実践の話が中心となります。

 この中で、最も多くの紙数を費やしていたのが、石原莞爾でした。日本の軍人の中でも最も毀誉褒貶の高い複雑怪奇な人物です。

 満州事変を起こした中心人物の一人ながら、東亜連盟主義思想から中国戦線の拡大を断固として反対して、逆に左遷され、特に東条英機とはソリが合わず、徹底的に反抗したことから、ついには予備役に回され、軍服を脱いで、立命館大学の教壇に立ちます。これが、太平洋戦争の始まる前の昭和16年4月のことでしたから、戦後になって、石原はGHQから戦犯に指名されることはありませんでした。

 ともかく、石原莞爾は軍人という以上に思想家として知名度を高めます。「東亜聯盟建設綱領」(石原の個人秘書名で出版)、「昭和維新論」「世界最終戦争論」など多くの著作も発表します。いずれも、「日蓮思想」に深く根差した思想を表明した著作です。石原は田中智学の創立した国柱会の熱烈な信行員でした。

 私自身は、昭和初期の経済恐慌を背景に、血盟団事件や5・15事件、相沢事件、2・26事件などが起きて、 日本全体が軍事ファッショ化する歴史について、日本史の中で最も興味があります。その時代を、当時、日本中を席捲した宗教・思想を中心にこの本は描かれているので、大変勉強になりました。

 「日蓮思想」は、戦争を正当化した「八紘一宇」(田中智学が造語)や石原莞爾の例に見られるように、日本が敗戦を迎えるまで、太平洋戦争も含めてずっと、他の宗派を凌駕して圧倒的な影響を勝ち得ていたと思っていたのですが、違うんですね。特に昭和14年に田中智学が亡くなってからは、タガが外れたように総攻撃が熾烈化します。

 「曼荼羅国神勧請不敬事件」や「日蓮遺文削除問題」などが起こり、日蓮主義者たちは徹底的に攻撃されるのです。その攻撃側の中心人物が「原理日本」を主宰する蓑田胸喜です。この人は、美濃部達吉の「天皇機関説」を攻撃して葬り去った人物として有名です。胸喜は「むねき」ですが、「きょうき」と読んで恐れられました。

 蓑田らは、日蓮主義者たちが、国主法従説(国家が宗教に優先する)を装いながら、法主国従説に立ち、天皇よりも日蓮や法華経を上位とする考え方が国体護持に反すると我慢ならなかったのでした。

 面白いことに(と言ってはいけませんが)、蓑田胸喜が東京帝大哲学科宗教学宗教史学科時代に師事したのは、親鸞の信奉者だった右翼思想家の三井甲之だったいうのですから、仏教宗派の勢力争いにも見えなくもないです。

 いずれにせよ、昭和16年になると、治安維持法も改正されて、全ての既成仏教や大本教(大正時代から弾圧)などの新興宗教、キリスト教など、国家神道以外のほとんどの宗教への弾圧が徹底化されます。

 日蓮主義は、田中智学らのような国家主義と結びついた思想のほかに、本多日生思想から離れた妹尾義郎らを中心にした仏教社会主義もありました。明治末から隆盛した社会主義や労働組合運動などの時代的背景があります。

 本書では、日蓮や智学らが唱える「王仏冥合理論」や「国立戒壇論」などにも深く踏み込んで、戦後の創価学会の動きにも触れています。

かなりの労作ですから、皆さんも心してかかってください。

私自身は、父親の影響で、子どもの頃に意味も分からず法華経を読誦してきましたが、この本を読むと、日蓮思想には、四箇格言(「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」という痛烈な他宗批判)があり、否が応でも強制的に教団に引きずり込む「折伏」という手段があり、明治以降の日蓮主義には、それが眼目にみえます。しかも、日蓮主義には、思想だけではなく、即、行動が伴います。他宗には見られない過激な信念があります。

宗教とはそういうものかも知れませんが、私自身は、どうもそのような思想や組織には馴染めません。まあ、信仰失格者ながら、仏教思想の勉強は続けていきたいと思ってます。

日本メディアの黎明期は僧侶出身が多かった

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 昨日のこのブログで、大谷栄一著「日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈」を取り上げたところ、京都にお住まいの京洛先生から早速、反応のお便りがありました。

 …渓流斎ブログで取り上げておられる大谷栄一氏の本は面白そうですね。寺内大吉の影響がいかに大きいか、ということです。
 つまり、僧侶でもある寺内大吉にはジャーナリストの視点があり、学者や専門家にはそういうことは邪道で、文献と資料だけで十分だということです。自分の推論やひらめきは持たないのです。
 渓流斎さんは、「中外新報」という宗教専門紙を御存知ないでしょう。明治30年(1897年)創刊の老舗新聞です。司馬遼太郎が産経新聞記者時代に、小説「梟のいる都城」を連載し、後に「梟の城」として出版され、これが直木賞を受賞したので知る人もいるかもしれません。司馬遼太郎こと福田定一記者は、日本で唯一の宗教記者クラブである「京都宗教記者会」に所属していました。

 しかし、中外日報の創業者、真渓涙骨(またに・るいこつ)は謎の多い人物で、知る人は少ないでしょう。「万朝報」の黒岩涙香ではありませんよ(笑)。この人は、聖俗合わせて飲むような生き方で、やはりヤクザ=ジャーナリスト(笑)ですが、「中外新報」のホームページに、龍谷大教授の中西直樹氏が「『中外日報』創刊前夜の真渓涙骨 生誕150年に寄せて」と題して、この謎の人物に迫っています。

この中で、中西教授は「黎明期の日本ジャーナリズムを支えた新聞記者には僧侶が意外に多い」として、その代表として干河岸貫一(ひがし・かんいち=1847~1930)と安藤正純(1876~1955)を挙げています。この2人の活躍に真渓が憧れて「中外日報」を創刊したといいます。干河岸は、福島県の本願寺派大乗寺に生まれ、本願寺派訳文係として数冊の翻訳書の出版し、朝日新聞、東京日日新聞などで活躍します。朝日新聞の東京支局通信主任時代には、「大日本帝国憲法」全条文をスクープして大阪本社に打電しました。社内きっての速筆と評され、その後、仏教専門紙「奇日新報」を創刊します。

京都・龍谷山本願寺

  安藤正純は、浅草の真宗大谷派真龍寺の住職の子として生まれ、僧籍を持っていました。陸羯南の日本や朝日新聞などの記者として活躍した後、政界に進出し、立憲政友会の幹部となり、戦後は文部大臣となった人です。

  中外日報の創業者、真渓涙骨も福井県敦賀市の浄土真宗本願寺派興隆寺の住職の息子です。

 今と比べて、昔はマスコミ人のスケールが違いますね。幕末、明治は激動期であっても、メディアの黎明期で、同時に仏教や宗教の影響が大きく、新聞記者、ジャーナリストには在野精神が横溢していたわけです。テレビで顔を晒して政府擁護しかできない御用解説委員や、「スイス大使」を簡単に引き受けるような現代のマスコミ人とは大違いですよ。…

 なるほど、なるほど。真渓涙骨も干河岸貫一も安藤正純も、ジャーナリストの先輩として知りませんでした。日本のジャーナリズムも、仏教思想を抜きにして語れませんね。

大谷栄一著「日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈」を読み、暗澹たる思い…

  大谷栄一著「日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈」(講談社、2019年8月20日初版)を今、読んでいますが、何とも心がざわつき、暗澹たる思いにさせられます。

 実に668ページの分厚い大作で、価格も4070円。読んでも読んでも、読み終わりません。

 著者の大谷氏は佛教大学教授。長年、近現代の宗教文化を研究され、特に日蓮主義運動に関する本も多く出版されています。

 学者さんの書くものなので、学術書ですから、小説のようには面白くありません。しかし、非常に多くの文献とデータを引用して、明治になって勃興し、超国家主義と結びついて戦争にまで駆り立てる「日蓮主義」を冷徹な筆致で分析しています。著者はあからさまには書きませんが、これらの主義、運動を批判的に見ていることは確かでしょう。何しろ、著者は寺内大吉著「化城の昭和史」に触発されてこの本を書いた、と序章で述べているからです。この本は、私も以前読んだことがありますが、昭和初期のファシズムの動向を日蓮主義の観点から批判的に分析した必読の名著です。

 大谷氏は、日蓮主義の代表人物として3人を中心に取り上げています。国柱会創始者の田中智学(1861~1939)、顕本法華宗管長の本多日生(にっしょう、1867~1931)、そして身延派の日蓮教学者清水梁山(りょうざん、1864~1928)の「三大家」です。

 日蓮思想は、幸田露伴、高山樗牛、宮沢賢治、北原白秋といった文学者から、石原莞爾(満洲事変)、北一輝、西田税(2.26事件)、井上日召(血盟団事件)ら軍人、右翼思想家らにまで膨大な影響を与えました。

 さて、この日蓮主義とは何なのか? まあ、本書をお読みください。詳しく書いてありますから(笑)。恐るべきことが多く書かれています。

 例えば、田中智学著の「世界統一の天業」の中には「日本国の祖先は太古印度地方より日本の地に王統を垂れたものだといふことは、種々の方面から立証を得ることゝなッて居るのみならず、現に印度にも釈迦の滅後に最高種族の一団が東方へ移住したといふことが伝説されて居るといふことだ」(14頁)と書かれています。

 つまり、日蓮思想によると、神武天皇をはじめ、天皇皇族の祖先は、釈迦の弟子で法華経を奉じた王族のインド人だったというのです。現代の右翼思想家も目を丸くすることでしょう。

 欧米列強に対抗する明治政府の富国強兵政策に則って、日蓮宗は日清、日露戦争と国家衰亡の危機が懸かった戦争に協力していきます。戦争に協力したのは、日蓮宗だけではありません。残念ながら、浄土宗も浄土真宗も曹洞宗も臨済宗もそうでした。仏教界全体が後押ししたのです。

 仏教は、名もなき庶民を救い、平和と平穏をもたらし、心の拠り所になるものではなかったのかー?

 ただ、彼ら僧侶に対して、半ば贔屓目に見ると、その時代の背景が浮かび上がってきます。明治新政府というより、薩長革命政権による「廃仏毀釈」の断行です。これによって、仏教界は壊滅的な打撃を蒙りました。寺宝の仏像や仏画や塔や伽藍等が売却されたり、海外に流出したりしました。仏教界も生き残りのために、富国強兵策を取る、時の政府に迎合、と言えば言い過ぎですから、歩調を合わせて行かざるを得なかったのでしょう。

 日蓮自身はそこまで言っていません。どうも、日蓮の宗教、教義を大幅に曲解し、牽強付会した理論に思えます。もしくは、数ある仏教の宗派の中でも、日蓮宗だけは異様に極端に走る傾向がある、と疑いたくもなります。

 これが、太平洋戦争ともなると挙国一致、大政翼賛会となり、仏教界だけでなくキリスト教界まで戦争に協力していきます。戦後最大のタブーの一つになった「宗教界の戦争責任」の追及は結局、有耶無耶になってしまった感がありますが、こういう本を読むと実証されていることが分かります。

 せっかく、柳宗悦の「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)を読んで、仏教思想(浄土教)の神髄に触れて、仏教を見直したというのに、やるせないですね。

 この本は、まだ読了していないので、そのうち続きを書くつもりです。(つづく)

 

唐沢山城址は「国指定史跡」でした

 11月2日(土)は、「山歩き同好会」の皆様のお導きで、栃木県佐野市にある唐沢山城に行って来ました。晴天に恵まれて、美味しい空気をいっぱい吸ってきました。

JR宇都宮線の久喜駅から東武伊勢崎線に乗り換えて館林駅へ。そこで東武佐野線に乗り換えて、集合場所の田沼駅に到着。そこから自然歩道「松風のみち」を通って山頂を目指すというまさに急勾配の山登りコース。中世の城ですから仕方ありませんね。

かつて蔵屋敷があった所にレストハウスが建ち、蔵屋敷のくい違い虎口付近に碑が建つ

 最初から文句を言うようですが、城址を管理し、コースを整備するのは佐野市の教育委員会か、観光課なのか分かりませんが、散策者向けの道標が少なくて大変、不親切でした。

道筋がサッパリ分からないのです。

歩道や階段はきちんと整備されてはいるのですが、立て看板は「ハイキングコース」だの「初心者コース」だのほぼどうでも良いような案内ばかり。肝腎要の「唐沢山城本丸まで0.9キロ」とか「⇨堀米駅方面 あと2.5キロ」といった看板がサッパリ見当たらず、ハイカーにとっては基本的で、しかも重要な情報が把握できないのです。

佐野市が大々的に宣伝していていた最近発掘した「隼人屋敷」も随分探しましたが、結局、何処にあるのか分からず仕舞いで、時間を無駄にしただけでした。

 リーダーさんも、2万5000分の1の地図と方位磁石を睨めっこして、道に迷わないようにするのが大変な様子でした。

史蹟「唐沢山城」は、高さ240メートルの山頂にあると書かれていますが、下界から登ると、狭くて急坂の獣道(けものみち)を踏み分け、踏み分けてやっと辿りつく感じで、数字以上にきついものがありました。

 こんな山道を登山することなく、車で、かつて蔵屋敷があり、現在はレストハウスのある駐車場まで簡単に来られるので、車の人はこのキツさは分からないでしょうが。

 人間ですから、生きていくには「水」が欠かせません。でも、唐沢山城は、大いに水に恵まれておりました。この「大炊の井」では、現在でもこんこんと水が湧き出てくる、とあり、今は鯉が優雅に泳いでおりました。

避来矢権現

伝説では、唐沢山城は、平将門の乱を鎮圧、平定(940年)した藤原秀郷(藤原北家魚名の子孫か)が平安中期に建てたと言われていますが、確かな文献はなく、平安時代の末に佐野庄を統治した佐野氏が築いたというのが定説です。

 1454年の享徳の乱では、古河公方足利氏と関東管領上杉氏との対立で、ここ唐沢山城も、戦乱に巻き込まれたようです。

 戦国時代は、北からは越後の上杉謙信、南からは小田原の北条氏が攻めてきて、度々、どちらかの支配下に入りました。

 大炊の井の近くにある「避来矢権現(ひらいしごんげん)」は、文字通り、飛んで来る矢を避けることができるよう神さまを祀っています。

西の城と帯曲輪(おびぐるわ=使者の間)の間にある「四つ目堀」には、案内板にあるように、橋が架かっていましたが、いざ、合戦となると橋は引き払うことができるようにしていました。

三の丸では、賓客の応接間があったようですね。

二の丸 神楽殿

二の丸にある神楽殿。いつ頃の復元か分かりませんが、ここで、神楽が踊られたということなのでしょう。

二の丸跡です。奥御殿直番の詰所があったということです。

本丸 唐沢山神社

やっと、本丸が見えてきました。

天正13年(1585年)に、佐野宗綱が討死すると、北条氏忠が婿入りして唐沢山城主となります。が、 天正18年(1590年)、 小田原合戦で北条氏が滅亡すると、秀吉と親交があり、宗綱の叔父とされる天徳寺宝衍(ほうえん)が城を奪還して、佐野房綱として佐野家に復帰します。

唐沢山城址には、明治16年に藤原秀郷を祀る唐沢山神社が創建されました

 文禄元年(1592年)、佐野房綱は、秀吉の家臣富田知信の子息信種を養子として城主に迎え、信種は、秀吉から「吉」の一文字を授かって、信吉と改名します。

本丸 高石垣

 上の写真のような見事な本丸の高石垣は、この佐野信吉の時代に築かれたと言われています。

見応えあります。

どうだあ!8メートルを超す高石垣

 高石垣の高さは8メートルを超え、唐沢山城は、豊臣方として、対徳川軍との最前線となります。

神社本殿

 しかし、佐野信吉は、秀吉の死後、家康に従い、関ケ原の戦いの後の慶長7年(1602年)に、下界の現在、佐野市街にある佐野城に移城し、唐沢山城は廃城となります。(慶長5年、もしくは12年移城もあり)

 その佐野城も慶長19年(1614年)、佐野信吉が所領没収処分となり、信州松本の小笠原秀政の下へお預けの身となり、廃城となってしまいます。

唐沢山はその後、彦根藩や幕府直轄地などの御留山(おとめやま)として管理され、手つかずの自然が残されます。

 明治16年(1883年)には、藤原秀郷を祀る唐沢山神社が創建されます。

鏡岩

唐沢山城は、山城ですから晴れた日の展望は抜群です。さいたま新都心や東京・新宿の高層ビルもオペラグラスがあればはっきり見えます。

上の写真は、上杉謙信軍を悩ましたと言われる鏡岩からの展望です。蛇のようにくねって見える白い線は、秋山川で、先日の台風19号で氾濫し、佐野市街に被害をもたらしました。地元の人は「川が切れた」と言ってました。

 以上、山城散策を終えて、帰りの堀米駅まで、通りが激しい県道横の歩道をテクテク歩きましたが、これまた案内板がほとんどなく、駅まで辿り着くのに苦労しました。

 東武佐野線田沼駅も堀米駅も、誰もいない無人駅で、1時間に1本か2本ぐらいしか通ってません。地元の人たちはほとんど車なのでしょう。駅のベンチで待っていた地元のおばちゃんが話しかけてきて「あんりま、わざわざ遠くから唐沢山城まで来やんしたか。あたしなんか、1回行ったっきり。佐野厄除け大師も宣伝しているから、遠くから多くの人がみえるけど、地元の人間はほとんど行きませんよ」と言うので、佐野の人たちは、あまり郷土愛がないなあ、と疑ってしまいました(笑)。

 唐沢山城址は、「国指定史跡」として認定されていますから、感動しまっせ。皆さまにもお薦めです。機会があれば、どうぞ。そう言えば、レストハウスで、デカい音でカラオケをやっていたと思ったら、近くで見たら、サックスの生演奏で、セミプロの歌手が昭和のムード歌謡を唄ってました。石原裕次郎の映画を思わせる場末のキャバレーの世界でした(笑)。

私は、今度は、この近くの佐野城址や、徳川四天王の一人榊原康政が初代藩主を務めた舘林城址にいつか行ってみたいと思っております。

 それでは、また。

法然の偉大さ、阿弥陀仏とは何か=柳宗悦著「南無阿弥陀仏」

 今日もあり おほけなくも

 仏法に「諸法無我」という教えがあります。「あらゆるものは我一人のものではない」という意味です。こうして私たちが今日も生きていけるのは、色々な因縁が組み合わさっているものであって、決して自己一人の力によるものではない。多くの人の力によって支えられているお蔭です。他力思想ですね。 「おほけなくも」というのは「かたじけなくも」「勿体なくも」という意味です。 今日、生きていけるということは、無量の恩に浴しているということで、このことに気が付けば、人の一生は謝恩の連続であろうという教えです。

 以上は、今から64年前に出版された柳宗悦著「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)からの引用ですが、この後、現在、諸々の病苦や苦悩、苦難に苛まれて逆境にいる人たちに対して、柳宗悦は「ある人は自らの存在を呪うであろうが、有為転変の習わし、そんなものは一つとして固定しておらぬ。そう分かれば、何所に執着する苦があり、楽があろう。こうして生きているそのことが勿体ないのである。だから今日生きることは、報恩の行として生かすべきである。かくして生きることの意味を教わる」と読者を励ましてくれます。

 こうした意味を理解した上でもう一度「今日もあり おほけなくも」と呟いてみるだけでも、「今日も辛いことがあっても頑張って生きていこう」と勇気が湧いてきます。

◇法然のどこが偉大なのか?

柳宗悦著「南無阿弥陀仏」 を読むと、目から鱗が落ちる話ばかり出てきます。特筆すべきことは、何故、浄土宗の開祖法然房源空が、日本思想史上稀にみる革命的な思想家であり、宗教家だったのかということを明快に示してくれたことです。

 それは、法然が著しい二つの価値顚倒(てんとう)を行ったことだと、柳宗悦は断じています。

 一つは称名の優位、もう一つは他力の優位です。

 念仏を唱える際、二つの段階があります。一つは心に仏を観ずること(観仏)、もう一つは口で仏を称えること(称名)です。それまでは、法然の師叡空をはじめ、観想念仏こそが全てで、称名念仏は言ってみれば二の次でした。それを法然は、師の教えに逆らってまでして、称名の方が優位だと引っ繰り返してしまったのです。厳しい修行をして時間をかけてやっと観仏できるようになるよりも、ただ「南無阿弥陀仏」の六文字を称えるだけで、阿弥陀仏は救いの手を差し伸べてくれるということです。そこには身分貴賤や貧富や男女など差別はないのです。煩悩の多い凡夫でも悪人でも救われるという思想です。

 となると、同時に自力でなければ解脱できない聖道門よりも、阿弥陀如来が救ってくれる他力による浄土門の道を優位に置くことになります。これまで自力の思想が優位だったのに、法然は、他力の方が優位だと引っ繰り返してしまったのです。まさに、コペルニクス的転換です。

 これらの思想がいかに過激であったか、については、南都北嶺の旧仏教から絶えざる迫害を受け、温厚な法然上人も流罪の晩年を送り、法然の主要著作物の「選択本願念仏集」の版木が燃やされたり、彼の門弟が死刑に処せられたりした歴史が証明しています。

◇阿弥陀様とは誰のことか?

 僧侶や門徒や仏教学者にとって、私が今まで書いてきたことも、これから書くことも、あまりにも自明なことかもしれませんが、私自身はこの本からは本当に多くのことを学びました。何しろ、基本的な「南無阿弥陀仏」の阿弥陀仏が何かさえ知らなかったのですから。

 阿弥陀如来は、もともと普通の人だったというのです。在俗の者を「居士」と言いますが、もしかしたら煩悩の多い凡夫だったのかもしれません。それが、真理を求め、求道に身命を捧げる「菩提心」を起こして修行し、法蔵菩薩になります。法に身を捧げる沙門となり、その沙門がついに正覚を得て(悟りを開いて)、仏になったというのです。ですから、阿弥陀仏とは西洋的な「神」とは違うのです。

 そして、浄土門で最も重要視されるのが、「無量寿経」の中にある四十八の大願で、その中でも特に「念仏の往生」と呼ばれる第十八願が重視されます。それらは法蔵菩薩が建てた願で、こう書かれています。

 「設(たとえ)、我、仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽(しんぎょう)して、我が国に生まれんと欲して、乃至(ないし)十念せんに、もし生まれずんば、正覚を取らじ」(たとえ私〈=法蔵菩薩〉が仏〈=阿弥陀如来〉と成り得るとしても、もし、もろもろの人々が心から信心を起こして浄土に往きたいと願い、わずか十声でも名号を称える場合、それらの人々がもし浄土に生まれ得ないのなら、私は仏になろうとは思わぬ)

 激烈なお言葉ですね。

 これで思い出したのが、クリスチャンの友人のことです。彼は、若い頃に葬式仏教に堕した現代仏教に絶望して洗礼を受けたのですが、晩年になって急にキリスト教徒になろうとするインテリらを批判して、「天国どろぼう」という言葉があることを教えてくれました。晩年になって死の恐怖から逃れたいがために、急に洗礼を受けて天国に行こうとする人を指すらしいのです。

 私は、キリスト教を批判するつもりは毛頭ありませんが、随分と心が狭い思想に思えます。むしろ、この「もし生まれずんば、正覚を取らじ」( 信心を起こしたもろもろの人々が浄土に生まれないのなら、自分は仏にならぬ)という誓いとも言える「第十八願」の方が大いに惹かれます。

 好むと好まざるに関わらず、仏教、それに浄土思想は、文学、美術、建築、彫刻、音楽、芸能など日本文化に多大な影響を与え、何と言っても、我々の先祖である日本人のDNAに染み込んだもので、逃れられないような宿命にさえ感じます。

 どんな凡夫でも阿弥陀如来は最後まで衆生を見捨てずに救ってくれるという思想は、我々の心を穏やかにしてくれ、勇気づけてくれさえします。「天国どろぼう」だの「信者以外お断り」といった思想ではないのですから。

 私は他宗を排撃したり、布施を強要したり、信徒にならなければ地獄に堕ちると恐喝のように折伏する一部の宗教や宗派に与するつもりは全くありません。ですから、これをお読みになった皆さんにも、日本仏教の浄土思想を見直してもらうよう強制するつもりは全くありません。

 ただ、自分自身が共鳴、共感し、もう少し勉強したいと思っただけなのです。もし、これを読んで皆さんも共感されたのでしたら、この本を手に取ってみたら如何でしょうか。

  柳宗悦著「南無阿弥陀仏」 では、浄土真宗の開祖親鸞よりも時宗の開祖一遍上人について、かなりの紙幅を費やしておりましたから、またいつか、一遍について書くと思いますが、取り敢えず、茲でひとまず擱筆します。

近代三大茶人と「佐竹本三十六歌仙絵」

 京洛先生です。

 ああたねえ、お城なんかに行って喜んでおられるようですけど、日本人の究極の趣味は、歴史的に見ても、茶ですよ、茶。そんじょそこらの100円ショップで買ってきた安物茶碗で飲む出涸らしの茶のことではなくて、茶道の茶のことです。

 道具も超々一流のものを揃えなければなりません。そもそも、茶碗は、ああたが好きな城一つが、かるーく買える曜変天目でなければいけませんなあ。茶は、せめて宇治抹茶の「天の原」。お供は上菓子屋「松寿軒」の薯蕷饅頭(笑)。お香は、中村宗匠も嗜まれる志野流。志野焼茶碗じゃありませんよ(笑)。生け花は「表」から調達してもらい、掛け軸は「佐竹本三十六歌仙絵」に決まってます。

 えっ?何?「佐竹本」を知らないとな? 旧秋田藩主佐竹侯爵家に代々伝わってきた鎌倉時代の三十六歌仙の肖像画です。えっ? 三十六歌仙も知らない? 藤原公任(きんとう)が、飛鳥時代から平安時代にかけて活躍した歌人たちの中から選んだ柿本人麻呂、小野小町、在原業平ら三十六人の歌詠みのことです。

 今、京都国立博物館で「佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」が開催されていることを知らないでしょう(11月24日まで)。近代三大茶人の一人、益田鈍翁(どんおう)が大正8年(1919年)12月、東京・品川の自邸「応挙館」に当代一流の茶人と財界人と古物商らを集めて、絵巻を切断してバラバラにして、籤引きで、買い手を差配したのでした。

 佐竹本は大正6年にある実業家に売却されましたが、その実業家も経営に失敗して、再び売却せざるを得なくなり、海外流出を恐れた数寄者(すきしゃ)たちが、まとめて買うには高額過ぎるため、分割購入することにしたという背景があります。

 主催者鈍翁こと益田孝は、三井物産初代社長、物産の社内誌だった「中外物価新報」が今の日本経済新聞になったことは知る人ぞ知る話。その趣味、茶の腕前は「千利休以来の大茶人」と言われるほどですよ。

 近代三茶人とは、他に、「電力の鬼」松永耳庵と横浜の生糸商、原三渓でしたね。

 著作権の関係で「佐竹本」などの写真を渓流斎ブログに掲載できないのが残念です。せめても、ということで、京都国立博物館のサイト 「佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」のリンクを貼っておきます。

そうそう、今、思い出しました。三十六歌仙の一人に平安時代後期に活躍した坂上是則(さかのうえのこれのり)がおります。あの坂上田村麻呂の子孫とも言われてます。

 この坂上是則を題材にして、江戸時代の浮世絵師鈴木春信が「坂上是則 障子切張」を描いているんですよね。これも知る人ぞ知る話。

 そして残念ながら、これも著作権の関係で、渓流斎ブログに写真を掲載できませんので、貼ってあるリンクをご覧ください。

浄土教の系譜=法然ー親鸞ー一遍は三者で一人格

 前々回に日本浄土思想に魅せられた話を書きましたが、今回はその続きです。

 書店で偶然、柳宗悦著「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)を見つけて、長年抱いていた浄土教に関する疑問が氷解したことまで書きました。その前に、美術評論家である柳宗悦が何故、宗教書を書いたのか、ということでした。

 時宗の開祖である「一遍上人絵伝」(歓喜光寺蔵)の一枚の絵を見て感銘し、一遍上人のことをもっと知りたいと思ったことがきっかけの一つだったようです。美術から宗教に分け入ったということになります。私も若き頃、キリスト教徒でもないのに、「聖書」を熟読しましたが、「救いを求めて」以外では、その理由として、西洋美術では多くの題材が聖書からの引用で、「聖マタイの召命」にせよ、「ペテロの改悛」にしろ、鑑賞する際に聖書を読んでいないと描かれた深い意味が分からなかったからでした。

  柳宗悦の場合、 この本を読むと、美術史家というより、専門の宗教評論家と言っていいくらい、あらゆる経典に目を通していることが分かります。驚嘆します。

 著書「南無阿弥陀仏」は、昭和26年から29年にかけて「大法輪」(昭和9年から毎月発行されている仏教総合誌)に連載されたものを加筆して昭和30年に単行本として出版されたものです。何といっても、若い人向けに書かれているので、文章が分かりやすいのです。柳は「例えば、『依正(えしょう)二報』とか『化土に二種あり、一には疑城胎宮(ぎじょうたいぐ)、二には懈慢辺地(けまんへんじ)』などと書いても、一般の若い読者には何のことか全く通ぜぬであろう。たとえ辞書や解説に頼ったとて、何故こんな表現を用いずば真理を伝え得ないのか、むしろ反感さえ起こさせるであろう」とまで書いてます。

 この本の画期的なことは、執筆当時、文献もほとんどなく、信徒以外はほとんど顧みられていなかった一遍上人にスポットライトを当てたことです。語弊がある大雑把な言い方ですが、浄土宗を開いた法然→それを止揚(アウフヘーベン)して浄土真宗を確立した親鸞→さらにこの二つの宗教を統合して時宗として浄土教を完結させた一遍、という捉え方です。これは優劣ではなく、誰一人欠けても日本の浄土思想は完成しなかったという考え方です。まるで、正ー反ー合の弁証法的思考みたいですが、3人の違いについてはこの本に沿って、 追々明らかにしていくつもりです。

 柳宗悦は、法然、親鸞、一遍の三者を一者の内面的発展として捉え、「3人ではあるが、一人格の表現として考えたい」と論考を進めます。ですから「今までは浄土宗の人は、とかく真宗のことをよく言わぬ。恐らく嫉妬の業であろうか。また、真宗の人は、自分の方が浄土宗より進んだものだという風な態度に出る場合が多い。恐らく高慢の業によるものだろう。しかし、法然なくして親鸞なく、親鸞なくして法然の道は発展せぬ。それで二者はむしろこれを一人格の表現と見る方がよい。宗派に囚われると、どうもそういう見方が封じられてくる」とまで主張しています。

◇西山義の哲学的深さ

 法然の入滅後、浄土宗は大きく五派に分流します。長西の「諸行本願義」と幸西の「一念義」は、祖師の意に悖るものとして排せられ、隆寛の「多念義」は途絶え、今日残るのは聖光坊弁長の鎮西派と 善慧房証空の西山派の二流です。「中でも鎮西が本流を相承し、今日浄土宗といえば(知恩院総本山の)鎮西派を意味するこに至った。これは恐らく、鎮西の流れに有能な中興の祖が輩出したのによるのと、徳川家の菩提宗(増上寺など)となって繁栄を来したがためであろう。しかしこの派において説く『二類往生』の考え(念仏に非ざる行にも往生を認めるという立場)は如何なものだろうか。純教義の上から見ると、鎮西よりもむしろ西山義の『一類往生』(念仏の義のみ往生を認める)の方が、一段と祖師の原意を発揚したものと思われてならぬ。その西山の教学には一層の哲学的深さがあるといえるであろう」(58ページ)と、柳宗悦は語っています(小生が一部、寺院名を挿入)。

 この箇所は、西山浄土宗安養寺の村上住職も大喜びするのではないか、と読みながら思ってしまいました。

 ちなみに、時宗の開祖一遍は、浄土宗西山派の祖、証空の弟子の聖達(しょうたつ)の弟子に当たります。証空の孫弟子です。ということは、時宗は、浄土宗の中でも西山義の影響が強いと言えます。

 浄土真宗について、柳宗悦は「人も知る親鸞上人を開祖とする。彼自らは一宗を起こす意向はなかったであろう。偏えに師法然の教えを守ろうとしたのである」とはっきりと書いています。その一方で「この真宗は一時衰えを見せたが、足利時代に蓮如上人が出づるに及んで、宗勢とみに栄え、ついに念仏門中比類なき檀徒の数を得、寺院の数を増し、巨大な一宗となって今日に及んでいる。…この派に妙好人が引き続き現れる事実は看過することができぬ。この意味で、祖師法然の志を最も正しく継いだものといえよう。浄土真宗たる所以である」とまで分析しています。

 この後、本書では、法然が選択した「三部経」とは何か。その中の「第十八願」が何故、最も重要で大切なのか。そもそも南無阿弥陀仏とはどういう意味なのか。念仏とは何か。何故、法然は仏教を超えて日本思想上も最も偉大な革新的な思想家といわれるのか。…などと具体的に核心の部分に入っていきます。

(つづく)

日本浄土思想に魅せられて

 やはり、「ご縁」とは不思議なもので、このブログを通して面識を得ました京都市左京区にある浄土宗青龍山安養寺の村上純一住職とは、何かの縁(えにし)でつながり、御指導、御鞭撻を賜っております。

 もし、村上住職と知り合わなかったら、これほどまでに日本浄土思想に興味を持たずに生涯を終えたと思います。

 特に、浄土宗に関しては、根本的に誤解しておりました。自らの不勉強を晒して告白しますと、浄土宗とは、只管「南無阿弥陀仏」を唱えて、極楽浄土に往生することを願う宗教とばかり思っておりました。成仏することが目的の宗教です。柄の悪い言い方をすれば、俗世間や現実の生活よりもあの世の方が大切ではないかと誤解しておりました。

 私が一時期、仏教思想から離れたのは、仏教は現実世界を苦界(穢土)とみなし、四苦八苦と煩悩にあふれ、これを克服するには、苦行と修行を経て、悟りの境地に達しなければならないし、解脱もできないという思想でした。

 私は弱い人間ですし、お酒も飲み、肉食します。千日回峰行など苦しい修行に耐えることはできません。日々の生活の中で、腹を立てることが多く、悟りを開くことなど無理です。それに、凡夫である在家の人間としては、仙人のように霞を喰って生きていくわけにはいかず、仕事をしなければなりません。あの世よりも生きている間の現実の生活の方が大切です。

 人生が苦であるのなら、そのまま抱えて、極楽浄土に行けなくても結構です、という生意気な態度でした。そもそも、「人生とは苦なり」と断言する仏教は、いかにもしんどい。

 そのような疑問を抱えて、今夏、村上住職にお会いしたところ、「浄土宗にも現世利益がありますよ」とポツリと仰るではありませんか。その時、意味が分かりませんでしたが、後に、村上住職から「どうか法然上人の『選択本願念仏集』をお読みください。いきなり原文にぶち当たると大変かと存じますから、解説付きの現代語訳からお始めになるよう衷心からお勧め申し上げます。…どうかご精進ください」というメールを頂き、これに刺激を受けて、ここ1カ月間近く、少しずつ関連書籍も読んでいくうちに、ほんの少しだけ理解できるようになったのです。

 まず、現世利益(げんぜりやく)は、「げんせいのりえき」と読むと、何かお金儲けのことばかりに思えますが、仏教の場合は、何よりも、魂の救済と心の穏やかさを得るということが分かりました。勿論、「商売繁盛」やら「出世願望」やら「子宝に恵まれますように」といった現世利益もありますが、宗教ですから、お金では買えない「心の平安」が一番の現世利益になります。(と、私は得心しました)「安心立命(あんじんりゅうみょう)」です。

 浄土宗の場合、その上で(つまり、現世利益を肯定した上で)、心から「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えて、浄土への往生を願うという宗教でした。たった6文字ですから、千日回峰行のような「難行」ではなく、「易行」です。それでも、阿弥陀如来は、どんな凡夫・悪人でも最後まで見捨てずにお救い(済度)してくださるというのです。

 宣化天皇3年(538年)、日本に仏教が伝来してから600年以上は、仏教は皇室と貴族のためのものでした。それが平安末期になって、庶民にまで開放したのが法然坊源空上人でした。まさに、身分格差と男女の枠を乗り越えた革命的でコペルニクス的展開でした。

 では、なぜ、法然(1133~1212年)が、仏教を超えて日本思想史上最も偉大な思想家・哲学者といわれるのか。浄土教は、何も法然が考案したわけではなく、法然が選択した三部経( 「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経 」 )などの経典として我が国に伝わり、空也を始め、「往生要集」を著した恵心僧都源信や融通念仏宗の開祖良忍らの先達がいました。なぜ、 天台宗の比叡山で修行をしていた法然が自ら宗派として独立せざるを得なかったのか?

 法然とその弟子最長老の信空没後、浄土宗は色々な分派に分かれたが、なぜ、弁長の鎮西派と証空の西山派が現在も残る二大宗派になったのか?

 法然の忠実な弟子だった親鸞は、自ら浄土真宗という新教団をつくる意志があったのかどうか?

 時宗の開祖一遍上人は、浄土宗の流れを汲む。となると、鎮西派と西山派と時宗の違いは何か?

 そもそも、南無阿弥陀仏とは何か、どういう意味なのか?

 ーそんな愚問に取りつかれていたところ、先日、偶然にも、本屋さんで、それらの疑問にほとんど全て答えてくれる本に出合ったのです。昭和30年(1955年)に発行された柳宗悦著「南無阿弥陀仏」という本(岩波文庫)です。

 柳宗悦といえば、民藝運動を推進した美術史研究家、美術評論家じゃありませんか。何で、美術専門家の彼が宗教書を?

(つづく)

京都・泉涌寺で「練り供養」

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こんにちは、京洛先生です。

ラグビーが終わったと思ったら、即位の礼。国民皆が、テレビの画面に集中するさまは異常です。マスコミは煽るのが商売ですが、それに煽られている方はもっと冷静に考えて、「バカバカしい」と思えないのですかね。

台風の被災者を考えてパレードを延期したのは天皇陛下の御意向と安倍首相の判断で賢明な選択だと思いますが、ラグビーにせよ、即位の礼にせよ、テレビの報道の仕方は異様でした。

 本来はラグビーなんかで浮かれていないで、「台風の被害で苦労している人のために、被災者にもっと援助をしないといけない」と情報発信する責務がありますが、思慮分別の無い軽薄メディアには無理でしょうね(笑)。

 ワタシのような天邪鬼はいつの時代でも少数派ですが、「ダイバースティ!多様な時代、多様な時代!」と言われているというのに、実態は「画一化の時代」ですよ。

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 これでは安物の造花の花を振り回して、喜んでいる北朝鮮と同じですよ(笑)。あちらは「演技でやらされている」と自覚して、反発して人もいるようですが、日本は「本気」ですから、もっと怖いですね。ラグビーなんかは「優勝」もしていないのに、記者会見をセットして、それを報じるとは「恥を知れ」ですよ。

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ところで、10月20日(日)は、「練り供養」、正式には「聖衆來迎練供養会式」が、東山のふもと“天皇の御寺(みてら)“である「泉涌寺」の塔頭の一つ「即成院」でありました。

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 「練り供養」は、奈良の「当麻寺(たいまでら)」で、中将姫の命日である旧暦3月14日(新暦4月14日)に行われたのが始まり。それに習って、全国各地のお寺で、春に行われるのが一般的です。この「即成院」は毎年秋の10月の第三日曜日に行われています。

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阿弥陀如来が25菩薩を引き連れ、金色の仮面を被って金襴の豪華な装束を着て、境内に作られた仮設の50メートルの「来迎橋」の舞台の上を練り歩きます。

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  仮面をつけているので、付き添いの人がつかないとスムーズに前に進めません。文楽人形の人形と遣い手に似た雰囲気もありますね。

 お練りのバックには、笙や竜笛の音色が響き渡り、平安期の来迎思想の一端を今の世に伝え、醸し出していると言えます。

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 午後1時から始まりましたが、意外にも観光客が少なく、落ち着いて、ゆっくり2時間ほどの極楽浄土絵巻を拝まさせて頂きました。

 そうそう、東京では、来年5月5日、貴人も御存知の世田谷区奥沢の浄土宗「九品仏浄真寺」で、江戸時代から続く「練り供養」が行われます。

 正式には「二十五菩薩来迎会(おめんかぶり)」といい、3年に1度しか行われませんので、またとない機会ですよ。

 以上