「ノモンハン事件 責任なき戦い」を見ての印象記

昨晩はNHKスペシャル「ノモンハン事件 責任なき戦い」を見てて、本当に嫌になってしまいました。

作家司馬遼太郎が、ノモンハン事件を題材にして小説を書こうと膨大な資料を集め、関係者にもインタビューしながら、あまりにも無謀で無責任な陸軍首脳部に幻滅して、「日本人であることが嫌になった」と作品化を断念した経緯があることは、つとに有名です。

ノモンハン事件は、「事件」とは言いながら、実態は戦争でした。「ハルハ河国境戦争」という歴史家もいます。1939年5月から9月に起きた、当時日本が実効支配していた満洲とソ連の衛星国だったモンゴル国境のノモンハンで起きた紛争です。日本の関東軍は2万5000人。対するソ連軍は5万7000人。しかも戦車(200両)や航空機まで引き連れてきました。

4カ月に及ぶ戦闘で日本の死傷者は2万人(ほとんど全滅)。ソ連は2万5000人。ノモンハンは今でも人が住んでいない広大な草原地帯で、約300平方キロメートルという大阪市に匹敵する広さに何千、何万という塹壕がいまだに残っており、ソ連の戦車や薬莢、手榴弾などが散乱し、日本兵と思われる遺骨まで残っていたことには驚かされました。

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番組では、恐らく日本初公開のロシア国立映像アーカイブのフィルムのAIによるカラー化した記録動画や、米南カリフォルニア州立大学で保管されていた150時間に及ぶ関係者インタビューテープや、ノモンハン事件の生き残り兵士で、今年101歳になる柳楽林市(なぎら・りんいち)さんらのインタビューなどがあり、見応えがありました。

21歳でノモンハンに参戦した柳楽さんの部隊166人はほぼ全滅。「兵隊を鉄砲の弾だと思っていたのだ」と、柳楽さんは79年経って今でも悔しさを滲ませていました。

「兵隊は鉄砲の弾」と思っていたのは、無謀なノモンハン戦争を立案した関東軍参謀の辻政信少佐かもしれません。周囲の上官の反対を押し切って、十分に敵の戦力を知ることもなく無謀な戦争を遂行します。司馬遼太郎が書けなかったノモンハンを、彼の編集者として取材にも同行し、遺志を継いで「ノモンハンの夏」を書き上げた作家の半藤一利氏も、辻政信を実際に取材して「絶対悪」という印象記を書いたほどでした。

番組では辻政信の次男が取材に応じて、辻政信の「父は断じて卑怯なことはしていない」という手紙を見せながら、「父は(当時)少佐ですよ。中佐や大佐や少将や中将や大将がいるので、少佐が好き勝手なことできますか?」と弁明してました。この親にしてこの子ですな。確かに卑怯なことはしていないでしょう。でも、軍人としてノモンハン2万人の戦死者の責任は誰が取るのでしょうか。

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150時間の肉声インタビューには、東京の大本営の作戦課長だった稲田正純参謀(大佐)、関東軍参謀だった島貫武治少佐らが登場します。「辻の声がでかくて、あいつの主張が通ってしまった」などと戦後回顧してますが、まるで他人事で責任があいまいです。ソ連軍の戦車がシベリア鉄道で大量に国境近くまで運び込まれているのを目撃したソ連駐在武官の土居明夫大佐が、辻政信に「やるべきではない」と忠告したにも関わらず、辻政信を買っていた関東軍司令官の植田鎌吉大将も、東京の板垣征四郎陸軍大臣までも黙認してしまいます。

唖然としたのは、大元帥の昭和天皇が、国境紛争にまで拡大するな、と叱責したというのに、関係者の処分もあいまいだったことです。昭和3年の満洲某重大事件(張作霖爆殺事件)、昭和11年の二・二六事件では、昭和天皇の怒りを買い、関係者の処分がされたのに、この時点ではもう軍部独走で、天皇陛下の権威が失墜していたことが分かります。これで、2年後の太平洋戦争に突入し、結果的に戦争責任があいまいになってしまうのです。

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番組では井置栄一中佐の悲劇も明らかにしてました。井置支隊800人は、北方フイ高地で奮戦していましたが、水食料から弾薬まで尽き、通信も遮断されたことから、残った200人余りが撤退を余儀なくされます。しかし、「無断撤退」ということで、井置中佐は、第23師団長の小松原道太郎中将や辻少佐らによる「暗黙の了解」で目の前に拳銃を置かれ、自決を余儀なくされます。

井置中佐の妻は、夫の最期が知りたくて関係者に問い合わせますが、ほぼ全員が「知らぬ、存ぜぬ」と逃げてしまいます。

作戦を立てるだけで、弾丸が飛び交って死屍累々となる最前線には行かずに安全地帯にいた辻政信ら関東軍参謀の責任はなぜ問われなかったのでしょうか。彼らは、ソ連のスターリンは、西に仇敵ドイツを控えているので、これほど大量の兵器と装備をノモンハンにまで注力できるわけがないと高をくくって、情報さえ収集せず、しかも、土居武官の忠告まで無視するのですから無謀です。

辻政信は陸軍大学を首席級で卒業した超エリートで、天才と言われたそうですが、もし、そうなら、天才というのはいかに人迷惑なのでしょう。

軍人とは言いながら、所詮、兵隊に命令するだけで、人と人が殺しあう最前線に行くことがない陸軍省の文書お役人だったということでしょう。

見てて途中で嫌になってしまいました。

平成最後の終戦記念日に思うこと

8月15日。73回目の終戦記念日です。もしくは、平成最後の終戦記念日。

8月15日は、ポツダム宣言受諾を昭和天皇が玉音放送で国民に報せた日であるので、「終戦記念日」はおかしいという学者もおります。東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリ号で降伏文書を調印した「9月2日」こそが終戦記念日だと主張します。

確かに8月15日時点で、アジア太平洋の全ての地域でピッタリと戦闘が終結したわけではなく、15日以降も特攻や散発的な戦闘がありました。

しかし、私自身、最近は、8月15日は終戦記念日でいいと思うようになりました。正確に言えば、9月2日は「敗戦記念日」です。文字通り、この日は外交上、国際法に則って、降伏文書に調印したわけですから。とはいえ、日本人は、敗戦記念日の9月2日をメモリアルデーにすることはないでしょうね。

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昨晩は、「日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実」(中公新書)がベストセラーになった吉田裕・一橋大学名誉教授がラジオに出演していて、思わず耳を傾けてしまいました。

吉田氏によると、アジア・太平洋戦争では310万人(軍人・軍属230万人、民間人80万人)に及ぶ日本人犠牲者を出しましたが、その9割が1944年以降と推測されるというのです。この1年間だけで軍人・軍属の戦死者は200万人以上。日露戦争は9万人だったので異常に高い数字です。(第二次大戦の敗戦国ドイツが、占領国から追放された際の死亡者が200万人という事実にも卒倒しますが)

資料が残されていないので正確な数字は推計の域は出ないものの、その戦死者の内訳として戦闘による戦死者は3分の1程度で、残りは、餓死やマラリア、赤痢などによる戦病死と、戦艦などが撃沈されたことによる海没死、それに戦場での自殺と「処置」だったといいます。

1937年に始まった日中戦争が泥沼化し、40年から国民皆兵の徴兵が始まります。末期は、若者だけでなく中年までも、そして、健常者だけでなく身体・精神障害者までもが徴兵されるようになったことから、厳しい行軍でついていけなくなったり、上官による鉄拳制裁やリンチで自殺に追い込まれたりします。また、戦場に置き去りにされたり、足手まといとして「処置」という名の下で殺害されたりしたというわけです。

吉田氏は、その背景には、「当時は、人権や人命に対する著しい軽視があった」と指摘しておりました。戦前の日本社会は、職場で、学校で、家庭で、親や教師や上司らによる、今でいう暴行や暴力が頻繁に行われることが普通で、殴られたことがないのはよっぽどのインテリぐらいだったのではないかいうのです。

特に人命軽視が甚だしい。フィリピンから奇跡的に生還した兵士も「兵隊は消耗品だった」と断言してます。まるで、日本の軍隊には「兵たん=ロジスティック」という観念がなかったかのようで、前線にいる兵士に対する補給を疎かにして、食物などは「現地調達」です。だから餓死者が出るのです。しかも、軍機保護法などで兵士には行き先も告げず、「行って来い」の片道切符のみで、二度と帰ってくるなと「玉砕」さえ命じます。

戦前も官僚制度ですから、辻政信牟田口廉也といった職業軍人であるエリート将官は優遇します。しかし、赤紙一枚で引っぱって来た兵士に対する扱いは将棋の駒の「歩」以下です。武器も、40年も前の日露戦争の「三八式歩兵銃」ですからね。圧倒的な武器弾薬と物資の補給を前線に送り、ある程度の兵士の人権を認め、戦死した場合、遺体を丁重に回収していた米軍とはえらい違いです。

そもそも、国力と技術力と戦力が全く違う米国に戦勝できるわけがなく、神風が吹くわけがなく、陰湿ないじめとリンチで自分より弱い者を自殺に追い込むのが、日本人の心因性でした。(記録には残っていませんが、かなりの精神疾患者が出たようです)

ですから、この73年前の敗戦は日本の歴史上最大の変革です。幕末も、戦国時代も、大化の改新も遠く及びません。

「他人を押しのけてでも」の立身出世主義、「余所者排除」の排他主義、「前例にありません」の事なかれ主義、「総理のご意向」の権威主義と忖度主義、友情よりも拝金主義、それでいて縁故主義と血統主義…と、臭いものに蓋をし、強きを助け、弱き挫く日本人の心因性は、将来も、そう大して変わるわけがありませんから、戦争は二度と御免です。

サンティアゴとは聖ヤコブのことだったとは!

来月、夏季休暇を取りまして、一人でスペインに行くことにしました。

欧州は、英国、フランス、ドイツ、イタリア、ベルギー、オランダ、デンマーク、ギリシャ…10カ国以上は行ってますが、スペインはまだでした。トラウマがあったからです。

学生時代に、生まれて初めて真剣に付き合った女性がスペイン語を専攻していて、彼女に振られてからは、どうもスペイン的なものを受け付けなくなってしまったのです(インカ帝国、アステカ帝国を滅ぼしたのもスペイン人でしたからね=苦笑)。

もう40年も昔の時効の切れた話ですから笑い話です。

それが、今春、ダン・ブラウンのベストセラー「オリジン」を読んでいるうちに、(それは、バルセロナのサグラダファミリア教会がメイン舞台になっていたのですが)、死ぬ前に一度、行って見てみたいと思ったのでした。

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彼女に振られてかなり落ち込んだ頃、クリスチャンでもないのに、聖書を読み込んで救いを求めました。そのもう一つの理由として、文学作品や宗教画や建築を鑑賞する際、どうしても聖書の知識がないとさっぱり分からなかったこともあります。

アンドレ・ジッドにせよ、ニーチェにせよ、アンチクリストにせよ、西洋史、西洋文化を理解するには、聖書の知識が欠かせません。

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ということで、自分自身は、ある程度は、聖書の知識はあると自負していたのですが、今回、スペインに行くに当たって色々と勉強していたら、キリストの十二使徒の一人、聖ヤコブがスペインではサンティアゴと呼ぶことを初めて知りました。クリスチャンの吟さんは知ってましたかねえ(笑)?

そういえば、スペインが植民地にしたチリの首都はサンティアゴだし、キューバにも、サンティアゴ・デ・クーパという都市があり、他にも沢山あります。

本家スペインでは、北西端のサンティアゴ・デ・コンポステーラが、エルサレム、ローマに次ぐキリスト教3大聖地の一つになっていました。9世紀初めにここで聖ヤコブの墓が発見され、世界各国から多くの巡礼者が訪れるようになったからです。(今回行かれないのが残念!)

そこで、十二使徒の聖ヤコブを調べているうちに色々と面白いことを発見、いや学ぶことができました。

図解入りで分かりやすいサイトがあったので、引用させて頂きたいと思います。イエス十二使徒 ←こちら

何と言っても、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」が有名ですよね。

十二使徒には2人のヤコブがいるので、このサイトでは「大ヤコブ」と表記されています。ここでは、大ヤコブ=サンティアゴとは全く書かれていませんが、「スペインで伝道」とだけ書かれています。この人は、イエスの弟子の中では「トップスリー」に入るほど、イエスに愛され、信頼されていた人だったのです。ナンバーワンは、ローマの初代教皇になるペトロ(バチカンの聖ピエトロ大聖堂)、ナンバースリーは、大ヤコブの弟ヨハネです。この人は天寿を全うし、「ヨハネによる福音書」「ヨハネの手紙」「ヨハネの黙示録」を書いた人と言われていますが、否定する学説も多くあります。

皮肉にも、イエスの弟子で一番有名なのが、彼を裏切ったユダで、日本人は私も含めて他にほとんど知らないでしょうから、ここで、改めてイエスの弟子を整理してみます。

(1)ペトロ(シモン、アンデレの兄、弟説も。漁師)ローマで殉教

(2)アンデレ(ペテロの弟、兄?漁師)ローマで殉教

(3)大ヤコブ(ゼベダイの子、ヨハネの兄、漁師)エルサレムで殉教、スペインで埋葬

(4)ヨハネ(ゼベダイの子、大ヤコブの弟、最年少の十代、漁師)弟子の中で唯一人殉教せず天寿を全うした

(5)フィリポ(ピリポとも。バルトロマイの友人、漁師)小アジアで?殉教

(6)バルトロマイ(フィリポに導かれ弟子に)アルメニアで殉教

(7)トマス(イエスの双子の兄弟?漁師、または大工)南インドで殉教

(8)マタイ(アルファイの子、徴税人)「マタイ福音書」の記者説も。トルコで殉教?

(9)小ヤコブ(アルファイの子、マタイと兄弟)エルサレムで殉教

(10)タダイ(ユダとも。小ヤコブの子、または小ヤコブの兄弟とも。マリアの妹クロパの子?)アルメニア?で殉教

(11)熱心党のシモン(反ローマ帝国の過激派)ペルシャで殉教

(12)イスカリオテのユダ(銀貨30枚と引き換えにイエスを裏切る)自殺

私は、覚えていませんでしたが、サンティアゴこと大ヤコブとヨハネ兄弟の父はゼベダイですが、母はサロメで、彼女はイエスの母マリアの姉妹(ヨハネ福音書)なのだそうです。となると、このヤコブ・ヨハネ兄弟は、イエスの従兄弟となりますね。

上述しましたが、(7)トマスはイエスの双子の兄弟、(10)タダイはイエスの母マリアの妹クロパの子という説もあるらしく、となると、イエスの弟子には親戚兄弟が多くいたということになります。

何しろ、イエスにヨルダン川でバプテスマを授けた洗礼者ヨハネは、その母エリザベトとイエスの母マリアとは親戚だった(ルカによる福音書)と言われてますから、これまた狭い縁戚関係だったのです。ペテロ、アンデレ、大ヤコブ、ヨハネの4人は、もともとは洗礼者ヨハネの弟子だったという説もあります。

イエスが最初から教団をつくろうとしたのか、しなかったのか、色んな説がありますが、少なくとも初期の原始教団は、狭い姻戚関係から生まれたことは確かでしょう。

ちなみに、ヨハネは英語でジョンだし、ペトロはピーター、ヤコブはジェームズ、殉教者パウロはポールということで、キリスト教は欧米人の生活の深部に関わっているわけです。ヤコブはフランス語でジャック(Jacques)で、コキーユ・サン・ジャック(coquille Saint-Jacques)で「帆立貝」を意味します。これには、諸説がありまして、聖ヤコブの亡骸をエルサレムからスペインに運んだ際に、小舟に帆立貝がくっついていたから、とか、聖ヤコブが布教中に帆立貝を持ち歩き、これで水をすくって飲んでいたから、など沢山あるようです。

飢饉、戦争、そして大量の難民。。。

お盆休みに入り、テレビは「戦争もの」番組を放送するようになりました。

昨晩は、続けて見てしまい、今朝はちょっとテレビの見過ぎで片頭痛です(苦笑)。

その中で、NHK-BSの「映像の世紀」の「難民」は衝撃的でした。

・1920年代初頭に起きたソ連の大飢饉で、疫病と飢えで実に900万人もの人が亡くなっていたんですね。不勉強で知りませんでした。「映像の世紀」ですから、やせ細った子どもたちや路上で亡くなった人たちが映っていました。

番組では、レーニン政権はほとんど無策で、黙って見過ごしていた感じでした。国際世論の高まりで、世界各国から援助物資が届きますが、後に米大統領になるフーバー商務長官は、国内の物価抑制のために余った飼料を送るなど、人道的ではなく、極めて「政治的」だったことも明らかにしてました。

ヒトラー政権によるユダヤ人のホロコーストが600万人と言われてますから、900万人というのはとてもつもない数字です。番組では紹介されていませんでしたが、ソ連は、1932~33年にウクライナで起きた大飢饉でも、ほぼ計画的にウクライナを見捨てたフシがあり、600万人とも、一千数百万人ともいう餓死者を出したと言われています。「ホロモドール」と言われ、2006年のウクライナ議会で「ウクライナ人に対するジェノサイド」と認定されました。規模があまりにも大き過ぎます。

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・1936~39年のスペイン内戦では、50万人の難民が出ています。国境近くのフランスでは難民キャンプがつくられましたが、多くの人が亡くなったようです。

・この番組で初めて知ったのですが、第2次大戦で敗戦国となったドイツは、占領していたポーランドやチェコスロヴァキアなどから追放され、実に200万人もの難民が死亡したということです。伝染病や飢餓によるものが多かったでしょうが、強制労働や暴行をはじめ、広場でリンチのように殺された人もいたようです。まさに憎しみの連鎖です。(約1500万人のドイツ人が半ば強制的に占領地に移住させられたようです)

日本の敗戦後のシベリア抑留は約60万人で、約6万人が亡くなったとされていますから、この200万人という数字には驚愕しました。

・シオニズムの高まりにより1948年5月14日、ユダヤ人によるイスラエルが建国されます(ダビド・ベングリオン初代首相)。しかし、土地を強制的に追われたアラブ人は難民化します。その数は現在、500万人と言われています。パレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長(1929~2004)が「ヒトラーのツケを我々パレスチナ人が払わさせられている」といった趣旨の発言は実に印象的で、心に残りました。

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もう一つの番組は、NHKスペシャル「”祖父”が見た戦場」でした。小野文恵アナウンサーが77歳の母親と一緒に、戦死した祖父小野景一郎衛生一等兵(享年34)の足跡を求めてフィリピンに行く話でした。

米国の国立公文書館の記録で、米軍は日本兵の遺体を一人ずつ数えていた資料が見つかり、5万人以上の死亡場所が分かりましたが、名前や所属は分からず、結局、昭和20年6月か8月に戦死した小野アナの祖父の最期の場所は分かりませんでした。

ほとんど玉砕でルソン島だけでも20万人以上が戦死したと言われます。私の大叔父もレイテ島で戦死しているので、どうも個人的にフィリピンと聞いただけで気が重くなります。

小野アナは、奇跡的に生還した90歳を超える元日本兵を訪ねますが、その中のお一人が「兵隊は消耗品のようだった」と話していたことが印象的でした。番組では、司令官や指揮官が誰でその後どうなったのか、までは触れていませんでしたが、一兵卒は、食料がなくて餓死したり、自決したりした者が多かったということです。それでいて、東京の大本営は「永久抗戦」つまり、時間稼ぎのために、玉砕するまで戦え、と安全地帯にいて命令するのですから、あの時代とはいえ呆然としてしまいました。

※数字は、諸説あります。

読売新聞を拡張した最盛期の人々

読売新聞副社長、日本テレビ会長などを歴任した氏家斉一郎談・塩野米松聞き書き「昭和という時代を生きて」(岩波書店、2012年刊)をやっと読了しました。

刊行された翌13年に氏家さんは84歳で亡くなっておりますから、「遺言」めいた話でしょうが、やはり肝心なことは「墓場まで持っていく」と公言されていたように、はっきりとしたことは分かりませんでした。

特に彼が「暗躍した」社屋の東京・大手町の国有地払い下げや、中部読売創刊に関わり、地元の中日新聞との熾烈な闘いなど、もう少し内情を知りたかったですね。

ご本人は読売新聞経済部の敏腕記者だったので、御自分で執筆すればよかったと思われますが、余計なお世話でしょう。しかし、残念ながら、同じ読売新聞の内情を暴いた御手洗辰雄著「新聞太平記」(鱒書房)、佐野眞一 著「巨怪伝―正力松太郎と影武者たちの一世紀』」( 文藝春秋)、魚住明著「渡邊恒雄 メディアと権力」(講談社)などと比べると「読み劣り」してしまいます。

とはいえ、政界、官界、財界に次ぐ「第四の権力」と一時(的に)言われたマスコミの内情がよく分かります。国有地払い下げにしろ、「社会の木鐸」と世間で思われていたマスコミが、実は、向こうの人間(政官財)に取り入って、いや、食い込んで、一緒になって狂言回しの役目を演じていたわけですから、そりゃあ、一介の政治記者如きが「天下国家」を論じたくなることがよく分かります。

新聞記者はあちこちで情報を収集して、スパイみたいに、と書けば怒られるので、止めときますが(笑)、とにかく、コーディネーターのような働きをして、政治家や官僚を動かします。昭和30~40年代の右肩上がりの高度成長期ですから、やりたい放題で自分の思い通りになる感じなのです。何しろ、氏家さんは渡辺恒雄氏とともに、大野伴睦を一国の首相に担ぎ上げようとしたりするのですから、もはや記者の域を超えてます。

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氏家さん本人も述懐してますが、非常に運に恵まれたジャーナリストでした。キューバのカストロ首相には気に入られて2度も会っているし、ベトナムのホー・チ・ミン主席には会いに行ったら、亡くなって、スクープ記事を書くことができ、日本代表として葬儀に参列したりします。

「読売中興の祖」務台副社長には目を掛けられ、50歳そこそこで取締役に大出世します。セゾングループの堤清二さんや徳間書店の徳間康快さんら多くの友人に恵まれて左遷の雌伏期間中に救われたりします。

氏家さんが読売に入社したのは昭和26年。彼は、昭和25年末の時点で、毎日新聞が408万部でトップ、朝日新聞が395万部、そして、読売新聞はわずか186万部だったと記憶しています。読売は、もともと、東京のローカル紙だったからです。

それが、「販売の神様」務台さんの豪腕で、大阪に進出し、九州に進出し、中部に進出し…全国制覇を果たして、ついに世界一の1000万部にまで部数を伸ばすのですから、氏家さんらは、ちょうど新聞拡販戦争のど真ん中で熾烈な取材合戦を繰り広げていたわけです。

しかし、それも遠い昔の話。今では若い人の新聞離れで、天下の読売も700万部とも650万部とも、かなり落ち込んだという話を聞いたことがあります。

既に新聞の影響力は落ち込み、政治家を動かすどころか、利用されて、読売新聞は「御用新聞」とも「自民党機関紙」とも「政界広報紙」と揶揄されるようになりました。

もっとも、氏家さん本人は、最後の方で「新聞は反権力であってはいけない。国益に反してしまうことがあるからだ。せいぜい非権力であるべきだ」と語っていましたから、昔ではなく、今のこのような読売新聞をつくったのは、渡辺氏であり、氏家さんであることがこの本を読むとよく分かります。

2人とも若い頃はバリバリの共産党員だったのに、後年はバリバリの反共・体制護持派になるのですから、人間の抱く思想の不可解さを印象付けます。

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読売新聞について、もっとご意見があれば、コメント御願い致します。私自身は、これまで読売の悪口ばかり書いてきましたが、今、経済面が一番充実していて分かりやすく、抜群に面白いのは読売だと思っているので毎日欠かさず読んでおります。

旧制中学・高校の学制を並べたくなりました

神戸にお住まいの山口先生のお勧めで、氏家斉一郎(1926~2001)談・塩野米松聞き書き「昭和という時代を生きて」(岩波書店・2012年11月15日初版)を読み始めております。

氏家氏といえば、読売新聞の副社長から系列の日本テレビの会長にまで登り詰めた人で、ナベツネこと渡辺恒雄・読売新聞主筆の「片腕」ぐらいの知識しかありませんでしたが、この本を読むと、これまで全く知らなかったことのオンパレードで「へー、そうだったのかあ」と感心しきり、という凡俗な新聞用語が飛び出してくるほどです。

氏家さんは、大正15年(1926年)5月17日、東京生まれ。小生の亡父と同い年でした。(渡辺恒雄さんも同年5月30日生まれ。同い年ながら、氏家さんとは同窓の東京高等学校の1年上だったようです。)この本を読んで、父親の世代が青春時代にどんな時代の空気を吸っていたのかよく分かりました。

まだ、読売新聞社に入社する前の学生時代の話のところを読んでいますが、どうも、旧制の学制が戦後と随分様変わりしたため、読みながら、ここでちょっと整理したい欲望に駆られました。

その前に、「氏家」という名前は非常に変わった名前で、どこかの武将か由緒ある名家と思ってましたが、やはり、「信長公記」に出てくる「美濃の三人衆」の一人・氏家直元(大垣城主)がご先祖さまだったようです。

彼の祖父氏家広雄は帝大を出て弁護士になった人。父貞一郎も東京帝大法学部を出て、財閥「古河合名」の理事を務めた人。彼の従兄弟に当たる氏家純一は、野村ホールディングスの会長と経団連副会長も務めた人で、いわば、華麗なる一族だったんですね。

さて、彼の小学校は、昭和8年に入学した桃園第三尋常小学校(昭和16年から国民学校に名称変更)という公立学校でした。当時は、私立より公立の方が有名中学への進学率が高かったそうです。(他に、本郷の誠之小学校、青山師範附属小学校、番町小学校など)ちなみに、桃園第三小学校の出身者には、津島雄二氏(自民党元津島派会長、作家太宰治の女婿)や私も以前親しくさせて頂いた女優の三田佳子さんもそうなんだそうです。

当時の有名中学とは、旧制の府立中学です。(実は、早稲田中、武蔵中、麻布中、成城中など名門私立中学も既にありました)氏家さんが旧制中学に入学するのは昭和14年(1939年)4月ですが、その年までにあった11の旧制府立中学を並べてみますとー。

・府立一中→都立日比谷高校

・府立二中→都立立川高校

・府立三中→都立両国高校

・府立四中→都立戸山高校

・府立五中→都立小石川高校

・府立六中→都立新宿高校

・府立七中→都立墨田川高校

・府立八中→都立小山台高校

・府立九中→都立北園高校

・府立十中→都立西高校

・府立十一中→都立江北高校

氏家さんが入学した中学は上記のナンバースクールではなく、今は無き東京高等学校尋常科でした。これは、日本初の七年制の官立高校で、東京帝国大学の附属中学・高校の位置付けだったそうです。(90%近くが東大進学)旧制中学は5年制で、成績がよければ4年で卒業。旧制高校は3年制(ところが、戦時体制の昭和18年から2年制)。つまり、普通なら8年で大学(3年制)進学するところを、7年で大学進学するので、相当なエリート校だったのでしょう。

同期に歴史学者になる網野善彦(1928~2004)らがいました。同い年ながら一学年上に渡辺恒雄氏。氏家さんは昭和19年に、そのまま東京高校に進学。渡辺氏は高校を2年で繰上げ卒業し、入隊しますが、昭和20年の敗戦で、氏家さんは召集を免れます。戦後は、旧制高校を2年制にしていたのを3年制に戻す運動にも加わります。

ちなみに、氏家さんの父親は、自分と同じように第一高等学校に行ってほしかったようです。旧制高校の名門ナンバースクールは一高から八高まで8校ありました。

一高(東京)、二高(仙台)、三高(京都)、四高(金沢)、五高(熊本)、六高(岡山)、七高(鹿児島)、八高(名古屋)

このほか、ナンバースクール以外で全国に創設された高校で、浦和水戸東京静岡松本福岡広島新潟高校などが東京帝大進学の上位校でした。

何か、今もあまり変わっていないような気がします。

おさらいですが、戦前は、小学校6年~中学5年~高校3年~大学3年(計17年)ということになり、新制の6~3~3~4年(計16年)より1年長いですね。飛び級があったからでしょうか。(他に専門学校や陸軍士官学校、海軍兵学校などのコースもあり)

旧制高校出身者は、もう90歳以上でしょう。できれば、もっとお話が聞きたいと思いました。

「太田耐造文書研究のご案内」

先月7月18日に加藤哲郎一橋大学名誉教授から、「太田耐造文書研究のご案内」なる長いメールを頂きました。

「日本社会主義・共産主義運動、労働運動・国家主義運動、日中戦争・朝鮮・満州国支配、新聞言論出版・思想統制・メディア史、対ソ対中諜報、ゾルゲ事件等に関心のある友人の皆さんへ」ということで、現代史に興味がある人に一斉にメールを発信されたようでした。

内容は、昨年2月から国立国会図書館憲政資料室で公開されている「太田耐造関係文書」研究のススメでした。「若い研究者の皆さんに、ぜひ拡散して下さい」ということでしたので、非力ながら、加藤先生を応援したい一心でこの《渓流斎日乗》にも掲載することに致しました。

太田耐造(おおた・たいぞう、1903~56年)という人は私自身は不勉強で名前も知らなかったのですが、司法省刑事局第六課長等を歴任するなど主に検事畑で活躍された人でした。戦後は公職追放され、52歳で亡くなっております。「文書」は、神兵隊事件やゾルゲ事件に関わる訊問調書など彼が業務上で取得した資料が多くを占めているようです。現代史の資料として極めて価値が高いと言えます。国立国会図書館のホームページには以下の通り公開されております。

https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/ootataizou.php

加藤先生によると、太田耐造は、敗戦時大審院検事、司法官僚の「思想検事」の代表格で、「太田文書」は全1104点、書架にして4.5メートル分の膨大な原資料があるといいます。問題別に整理され、1927-46年占領開始期分まで、時系列で入っており、目録は、以下のリンクをクリックすれば、自由に簡単にダウンロードできます。

https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/tmp/index_ootataizou.pdf

また、加藤先生によると、司法省「思想検事」としての太田耐造の資料収集は多岐にわたり、社会主義・共産主義・労働運動、右翼国家主義運動取締、朝鮮・中国・満州抵抗運動、メディア史、新聞出版言論統制検閲資料、世論等各種調査資料、治安法制検討資料、「日本法」構想、治安維持法・予防拘禁・国防保安法立法資料、対ソ対中諜報など、日本現代史の膨大な基本資料・公文書・部内資料・草稿類が、手書き・謄写版刷りなど、現物で入っているとのことです。

加藤先生は「これらの資料は、ゾルゲ事件研究にとどまらない膨大な現代史資料ですから、本格的研究は、若い研究者にも、広く活用さるべきです。添付の目録ファイルもデジタルですから、世界中にどんどん拡散し、学術的に検証されていくべきと考えます。よろしく、ご活用ください」と呼び掛けております。

加藤先生は、私も何度もお世話になったことがありますが、私心のない方で、御自分で世界各国で苦労して収集した資料でも惜しみなく後進に与えてくださる方です。

もし、ご興味のある方は、研究されてみては如何でしょうか。加藤先生のホームページは以下の通りです。

加藤哲郎のネチズン・カレッジ

大師号と法然上人

銀座「保志乃」鯖味噌煮定食980円

昨日の続きですが、「大師は弘法に、太閣は秀吉に、黄門は光圀に取られたり」という言い伝えがあるそうです。出展は分かりません。他に様々な言い方もあります。

まず、太閣は、大辞林によると、摂政または太政大臣の敬称。のちには、関白を辞して内覧の宣旨をこうむった人。または関白をその子に譲った人を指します。関白職を養子秀次に譲った豊臣秀吉が最も有名ですが、平安時代の藤原頼通を始め、太閣と称した人は日本の歴史上たくさんおりました。しかし、いつの間にか、太閣と言えば、豊臣秀吉のことを指すようになったのです。

黄門は、「中納言」職の唐名です。 それが、徳川光圀の通称(水戸黄門)となり、今では名前と勘違いされるほどです。

京都・建仁寺 copyright par Kyoraquesensei

さて、肝心なのが、大師号です。

大師号とは、もともと中国で、徳の高い高僧に朝廷から贈られる名のことでした。日本では、866年(貞観8年)7月、清和天皇より天台宗の開祖最澄に「伝教大師」、円仁に「慈覚大師」を贈られたのが初めと言われます。

それが、いつの間にか、大師様と言えば、真言宗の開祖空海に贈られた「弘法大師」のことを指すようになったのです。

実は、太子号を最も多く持つ高僧は、浄土宗の開祖法然房源空上人なのです。1697年(元禄10年)に東山天皇から円光大師を贈られ、その後、500年遠忌から50年ごとに加謚され、最近では2011年(平成23年)の800回忌で、今上天皇から法爾(ほうに)大師を贈られました。

何と、お一人で八つの大師号をお持ちなのです。

◇大師号の一覧

大師号 僧名 宗派 西暦・元号 勅賜(天皇) 備考
円光(えんこう)大師 法然房源空(1133~1212) 浄土宗 1697年(元禄10年) 東山天皇
東漸(とうぜん)大師 法然房源空 浄土宗 1711年(宝永8年) 中御門天皇 500回忌
慧成(えじょう)大師 法然房源空 浄土宗 1761年(宝暦11年) 桃園天皇 550回忌
弘覚(こうかく)大師 法然房源空 浄土宗 1811年(文化8年) 光格天皇 600回忌
慈教(じきょう)大師 法然房源空 浄土宗 1861年(万延2年) 孝明天皇 650回忌
明照(めいしょう)大師 法然房源空 浄土宗 1911年(明治44年) 明治天皇 700回忌
和順(わじゅん)大師 法然房源空 浄土宗 1961年(昭和36年) 昭和天皇 750回忌
法爾(ほうに)大師 法然房源空 浄土宗 2011年(平成23年) 今上天皇 800回忌
弘法大師 空海(774~835) 真言宗 921年(延喜21年) 醍醐天皇 真言宗開祖
道興大師 実慧(じつえ) 真言宗 空海の高弟
法光大師 真雅(しんが) 真言宗 1828年(文政11年) 空海の弟、貞観寺建立
本覚大師 益信(やくしん) 真言宗 1308年(延慶元年) 花園天皇 円城寺開山
理源大師 聖宝(しょうぼう) 真言宗 1707年(宝永4年) 東山天皇 醍醐寺、東大寺東南院建立。東密小野流の祖
興教大師 覚鑁(かくばん) 真言宗 江戸時代 新義真言宗祖、伝法院流の祖
月輪(がちりん)大師 俊芿(しゅんじょう) 真言宗 泉涌寺の開基
伝教大師 最澄(767~822) 天台宗 866年(貞観8年) 清和天皇 天台宗開祖
慈覚大師 円仁 天台宗 866年(貞観8年) 清和天皇 恐山開基
慈慧大師 良源 天台宗 第18代天台座主。「厄除け大師」
智証大師 円珍 天台宗 寺門派開祖
慈摂大師 真盛 天台宗 天台真盛宗の祖
慈眼大師 天海 天台宗 1648年(正保5・慶安元年) 後光明天皇 徳川家の参謀
無相大師 関山慧玄 臨済宗 明治天皇 妙心寺の開基
微妙大師 授翁宗弼 臨済宗 妙心寺2世
円明大師 無文元選 臨済宗 後醍醐天皇皇子
承陽大師 道元(1200~1253) 曹洞宗 1879年(明治12年) 明治天皇 曹洞宗高祖
常済大師 瑩山 曹洞宗 1909年(明治42年) 明治天皇 曹洞宗太祖
真空大師 隠元(1592~1673) 黄檗宗 1917年(大正6年) 大正天皇 黄檗宗の祖
華光大師 隠元 黄檗宗 1972年(昭和47年) 昭和天皇
見眞大師 親鸞(1173~1263) 浄土真宗 1876年(明治9年) 明治天皇 浄土真宗開祖
慧燈大師 蓮如 浄土真宗 1882年(明治15年) 明治天皇 中興の祖
聖応大師 良忍 融通念仏宗 1773年(安永2年) 後桃園天皇 融通念仏宗の祖
証誠大師 一遍(1234~1289) 時宗 1940年(昭和15年) 昭和天皇 時宗開祖
立正大師 日蓮(1222~1282) 日蓮宗 1922年(大正11年) 大正天皇 日蓮宗開祖

(表はbukkyo.netを基に引用作成しました)

こうして見ていきますと、日本の伝統仏教は13宗56派と言われておりますが、天台宗より古い奈良の南都六宗の法相宗、華厳宗、律宗の開祖には大師号はなく、意外にも臨済宗の開祖栄西(1141~1215)には大師が贈られていないようです。

明治時代は「廃仏毀釈」の嵐で、かなり寺院が荒廃したと伝えられていますが、これまた意外なことに道元や親鸞らが大師号を贈られたのは、明治天皇だったんですね。

なかなか奥が深いものです。

「守」「介」「掾」「目」の四等官

火星接近2018・7.31

今、加藤廣さんの遺作「秘録 島原の乱」(新潮社、2018年7月20日初版)を少しずつ読んでいます。

大坂夏の陣で自害したはずの豊臣秀頼が、九州にまで逃げ延びていたという歴史小説ですが、さすが、手馴れた作家だけあって、時代考証が生半可じゃありませんね。フィクションとはいえ、徹頭徹尾調べ上げた挙句の創作ですから、「もしかしてありえたかもしれない」と読者に思わせます。

歴史小説を読むに当たって、官位の知識があるととても便利です。私もこのブログで、何度か倉本一宏氏の「藤原氏」(中公新書)などを取り上げてきましたが、戦国時代になっても、明治になっても、これら官位が日本の歴史ではずっと続いております。今でも、小学校から高校の元校長先生、大学名誉教授らに「正五位」や「従五位」などと叙位叙勲しており、いまだに日本は古代の律令制が残っているわけですねえ(笑)。

官位の最高峰、関白になったのは、藤原氏以外では豊臣秀吉と秀次ぐらいです。

石田三成が「治部少」と呼ばれていたのは、三成が治部少輔という官位だったからです。治部少輔とは、治部省長官である治部卿、次官である大輔に次ぐ官位で、従五位下に当たるようです。治部省は、氏姓や戸籍に関する訴訟や仏事に対する監督などを行っていましたが、戦国時代ともなれば、有名無実化していたことでしょう。

火星接近2018・7・31

これら、長官、次官…といった官位は「四等官」と呼ばれ、諸官司で、色んな漢字が当てられています。

官司 長官(かみ) 次官(すけ) 判官(じょう) 主典(さかん)
神祇官
大夫
国司

出典 小学館デジタル大辞泉

源義経は「判官義経」と呼ばれていましたが、義経は「検非違使の尉」だったからでした。

私自身は、四等官の中で、地方官に過ぎない「国司」の「守(かみ)」「介(すけ)」「掾(じょう)」「目(さかん)」が一番馴染みがあります。「目」と書いて「さがん」や「さかん」「さつか」などと読むとても珍しい名字を持つ人が大阪と山口県にいらっしゃるようですが、まさにこの官位から付けられたことでしょう。

江戸時代、大岡越前守忠相が南町奉行でありながら「越前守」と名乗ったのは、既に国司が有名無実化していたからでした。幕府に許可が得られれば通称として名乗ることができたようです。ただし、江戸城のある武蔵国の武蔵守だけは、さすがに畏れ多くて誰も名乗ることができませんでした。

明治の大隈重信大蔵卿は、今で言えば、財務相ということになるんですね。

官位などは、今は簡単に調べられます。知識が広がった上で、歴史小説を読むと面白さが倍増します。

文芸評論家雨宮さんのこと

先月23日(月)に東京・帝国ホテルで開催された歴史小説家の「加藤廣さんお別れ会」のことを書きましたが、その時、会場でスピーチされた文芸評論家の雨宮由希夫さんが、何と吃驚、かの著名なロシア文学者内村剛介(1920~2009)の甥っ子さんだっということが、関係者への取材で明らかになりました。

おっと、どこか、国営放送のニュース風の口調になってしまいましたね(笑)。

いやあ、これは本当の話です。

当日、かなり多くの方々のスピーチがありましたが、雨宮さんのお話はとても印象的でしたので、よく覚えております。

2005年、加藤さんの本格デビュー作「信長の棺」が発表されたとき、 同氏は東京の三省堂書店に勤務されており、同書店のメール・マガジン「ブック・クーリエ」に「書評」を連載されておりました。

そこに、「本来歴史学者がやらなければならない事件の解明を物書きの罪業を背負った新人作家が代わってやってのけた。驚異の新人の旅立ちと、新たな『信長もの』の傑作の誕生に心より拍手喝采したい」と書いた記事を、加藤さんが目にして感動し、本能寺3部作の「明智左馬助の恋」の「あとがき」の中で、「雨宮氏の温かい言葉には、あやうく涙腺まで切れそうになったことを告白しておきたい」と書いてくださったというのです。

雨宮さんは、スピーチの中で「『あやうく涙腺まで切れそうになった』のは私の方です。駆け出しの書評家で、実績らしい実績のなかった私にはこれ以上の光栄なことはないと感涙にむせばずにはおられませんでした」と応じておられました。このくだりが、とても印象的だったのです。

銀座「保志乃」いわし定食 980円

その後、関係者への取材で、雨宮さんは「参列者が懇談している中でスピーチなどふつうは誰も聞いていないものですが、しわぶき一つなく、雑談もなく、皆様が聞き入ってくれたことには恐れ入りました」と感想を述べられていたそうです。

雨宮さんの本名は敢えて秘しますが、内村剛介の甥っ子ということで、シンポジウムや哈爾濱学院の同窓記念式典にも必ず出席されていたようです。