承久の乱は、その後800年続く武家政権の革命なのでは?

 「歴史人」2月号「鎌倉殿と北条義時の真実」特集を読んでいますと、新発見と言いますか、「えっ?そんな風に歴史的解釈が変わってしまったの?!」と驚くことばかりです。

 まず、私の世代は、鎌倉幕府の成立が1192年(建久3年)、と初めて小学生時代に習い、「いい国つくろう、鎌倉幕府」と覚えたものでした。それが、今では1185年(文治元年)説が有力となり、学校では「鎌倉幕府成立は1185年」と教えているそうなのです。

 1192年は源頼朝が征夷大将軍に任命された年で、1185年は守護・地頭が設置された年ということで、頼朝政権はこれによって幕府としての経済的基盤を確立したことになり、こっちの方が良いのではないか、となったらしいのです。

 「頼朝政権が 経済的基盤を確立した 」とは言っても、実際には東国のみで、西国は後白河法皇か、法皇の息のかかった公卿や武士が支配していて、「鎌倉・京都連立政権」というのが実体だったといいます。(一時期は、木曽義仲の支配領域もあり、「三頭政治」が実体だった。)

鎌倉五山第三位 寿福寺

 もう一つ、驚いたのは、その設置された守護・地頭のことですが、当然、大名になるぐらいですから守護の方が断然、格段に地頭より上だと思っていたのですが、守護とは名誉職みたいなもので、収入がゼロだったというのです。領地から収益を得られるのは地頭であって、守護は地頭職を兼ねて初めて収入を得ることができたというのです。…知りませんでしたね。

 そして、ハイライトとなるのは「承久の乱」です。今から800年前の承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の北条義時討伐の兵を挙げ、逆に幕府に鎮圧された事件です。私の世代は「承久の変」と習い、そう覚えていましたが、今は「乱」の方が一般的になったようです。でも、良く調べると、これは「乱」どころではない。「革命」に近いのではないか、これからは「承久革命」と呼んでもいいのではないか、と私自身は考えるようになりました。

鎌倉五山第四位 浄智寺

 乱後、後鳥羽院は隠岐、順徳院は佐渡、土御門院は土佐と三上皇が配流され、朝廷方の所領は没収されて坂東武士たちに報償として与えられました(これで鎌倉政権の全国統一)。また、朝廷監視のため六波羅探題が置かれ、皇位継承まで鎌倉の意向で決定され、伊豆の小さな土豪に過ぎなかった北条氏の絶対的権威が確立されます。ということは、身分の低い土豪出身の北条氏が朝廷(ヤマト王権=天皇家)から政権を簒奪したわけですから、これを革命と言わずに何と言おう?

 しかも、この承久革命によって、その後、室町、戦国、安土桃山、江戸と、天皇家は事実上、政治から遠ざけられ、武家政権が800年近く続くわけですから…。えっ?800年は長過ぎる? いえいえ、富国強兵の明治からアジア太平洋戦争で惨敗する昭和20年までも、「武家政権」は続いていたと解釈できるのではないでしょうか。何しろ、首相の東条英機は軍人(武官)であり、陸軍大臣も兼ねていましたから、そう考えれば、実質「武家政権」ですよ。

 となると、承久の乱は、日本史上、これまで以上、重要性がある画期的な出来事であることをもっと強調するべきではないでしょうか。

鎌倉五山第一位 建長寺 山門

 これまで、承久の乱といえば、二代執権北条義時が権力奪取のため、一方的に悪行を成した「逆賊」のイメージが強かったのですが、後鳥羽上皇が、自分が寵愛する伊賀局こと亀菊に与えた「摂津国長江と倉橋の両荘園の地頭職を改補(解任)せよ」と院宣したのが、両者の亀裂のきっかけになりました。両荘園の地頭とは北条義時その人だったからです。鎌倉幕府の経済的基盤が侵されたことになります。

 しかも、後鳥羽院は、暗殺された三代将軍源実朝の後継者(四代将軍)として、自分の子息である頼仁(よりひと)親王か、もしくは雅成(まさなり)親王を立てることを口約束しながら、結局反故にしてしまいます。

 明らかに権力闘争であり、これでは義時の気持ちも分からないではありません。頼朝の未亡人で義時の姉である「尼将軍」こと北条政子の有名な「演説」で、坂東武士たちは立ち上がり、鎌倉方の圧勝に終わりますが、これは、まさに東西分かれて互いに死力を尽くした「内戦」と言っても間違いないでしょう。鎌倉方の東軍(幕府軍)の代表は、北条時房(義時の実弟)と泰時(義時嫡男で後の三代執権)、後鳥羽院方の西軍(官軍)の代表は藤原秀康と三浦胤義(鎌倉の有力御家人三浦義村の実弟)ですが、正直、私自身は不勉強で、両軍のその他大勢の武将たちの名前はこの本で初めて認識しました。乱後、上皇らは島流しに遭っても、西軍の武将たちはことごとく捕縛・処刑され、京中は略奪の嵐で、上皇方の宿舎は放火され、人馬の屍体で道が塞がったといいます。

 やはり、革命ですね。

 確かに、800年も昔に起きた過去の出来事と言って済ませばそれまでですが、承久の乱が後世に残した影響は驚くほど大きいので、現代人としても知っておくべきことが多々あります。

比企氏一族滅亡で生き延びた比企能本とその子孫の女優=「鎌倉殿の13人」

 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(三谷幸喜脚本)が1月9日にスタートし、初回の視聴率が17.3%(関東)で、「そんなに低いのか」と思っていたら、16日の2回目は14.7%と2.6ポイントもダウン。最近、「見逃し配信」で見る人も多いので、視聴率に反映されませんが、2回目で視聴率が下がるのは6作連続らしいですね。1987年の「独眼竜政宗」(主演渡辺謙)が記録した最高視聴率39.7%は、夢のまた夢で、もう実現することはないかもしれません。

  「鎌倉殿の13人」 は、二代執権北条義時(小栗旬)が主人公で、鎌倉幕府を開いた源頼朝を支え、頼朝の死後は、承久の乱で、約650年続く武家政権の礎を築いた武将の物語ですが、何となく通好みのような気がします。何しろ、戦前は、義時は承久の乱で後鳥羽上皇を隠岐に配流するなどしたため、「逆賊」「悪党」扱いでしたから、とても小説や舞台の主人公になりえませんでした。

 時代は変わるもので、最近の歴史研究では、当初は、朝廷に対して弓をひくことなど考えもしなかった義時で、むしろ、無理難題を押し付けて挑発した後鳥羽上皇側の方に無理があったという学説に傾いているようです。つまり、義時の評価が見直されたわけです。

 いずれにせよ、私自身、北条氏といえば、まずは「尼将軍」政子であり、あとは初代執権の時政か、御成敗式目を制定した三代泰時か、元寇を退けた八代時宗ぐらいがキーパースンだと思っていましたから、義時についてはあまりよく知りませんでした。でも、私は真面目ですから(笑)、ここ数年は鎌倉にまで出掛けて義時所縁の寺社仏閣巡りをしたり、関連本を読んだりして勉強しました。

 そして、今月は、大河ドラマに便乗した「歴史人」(「鎌倉殿と北条義時の真実」特集)(ABCアーク)と「歴史道」(「源平の争乱と鎌倉幕府の真実」特集)(朝日新聞出版)の2冊も宣伝に乗せられて買ってしまいました。

 今は「歴史人」の方を読んでいるのですが、非常にマニアックで、正直、読むのに難儀しています。なかなか頭に入ってくれません。

 大学入試の「日本史」で、「頼朝の死後、『13人合議制』になったが、その有力御家人13人を全て書け」という問題が出たら、全員は書けませんね(苦笑)。

 しかしながら、この13人の曲者同士が仲良く末永く穏便に暮らせるわけがなく、凄まじい、血なまぐさい権力闘争が繰り広げられます。最終的には、父親である初代執権の北条時政を追放した義時が最高権力者の座(二代執権)に就くことになるのですが、その間、例えば、頼朝の「右腕」として鎌倉幕府成立に粉骨砕身した梶原景時は、御家人66人からの連名で「糾弾訴状」を突き付けられて失脚します。景時は、目付役として義経を貶めた人物とされ、御家人の監視役として恨みを買ったと言われます。一方で実務に長けた優秀な人材だったという説もあり、権力闘争に巻き込まれた形で、嫡男景季から九男景連らを含む梶原一族33人は殲滅され、路上で首を晒されたといいます。怖ろしい。

 他に、殲滅された有力御家人の中には和田義盛や畠山重忠(居城は埼玉県武蔵嵐山市の「菅谷館」)らもおりますが、本日は比企能員(ひき・よしかず)を取り上げます。

 比企能員は、源頼朝の乳母だった比企尼の甥で、その養子になった御家人で、源平合戦で鎌倉方の幕僚として活躍します。(比企氏が一帯を支配した武蔵国は、埼玉県比企郡として今も名を残しています。比企氏は大資産家でしたが、北条氏によって比企氏の事績や勲功が「吾妻鏡」から削除されたため不明な点が多いといいます)。比企能員の娘の若狭局が後の二代将軍頼家の妻となり、長子一幡(いちまん)を生んだことから、能員は二代将軍の義父、三代鎌倉殿候補(一幡)の外祖父として強大な権力を握ることになります。

 これに危機感を持った北条時政が、比企能員に謀反の疑いがあるという謀略を仕組み、時政の自邸に招いて部下の天野遠景、仁田忠常に殺害させ、息子の北条義時には、比企氏の館を襲撃させて、幼い一幡もろとも比企一族を殲滅します。時政は、比企氏の血が濃い一幡よりも、娘の政子が生んだ千幡(せんまん=頼家の弟で、一幡の叔父に当たる。後の三代将軍実朝)を将軍にしたかったためでした。(慈円「愚管抄」)

鎌倉・妙本寺

 この北条氏によって滅ぼされた比企一族の館跡には、妙本寺が建立され、私もお参りしたことがあります。この寺は、比企能員の末子で、事件当時は京都で勉学中だったため生き延びた比企能本(よしもと)が文応2年(1260年)に日蓮宗に帰依して建立したものです。

 境内には比企一族の供養塔もあります。当時の比企館の一部でしょうが、妙本寺は広大な敷地でした。鎌倉時代は想像した以上に血なまぐさい武力闘争が頻発していたことを改めて思い起こしました。

 1980年代の往年のアイドル歌手で、今も女優として活躍する比企理恵さんは、比企一族の末裔と言われ、御先祖を意識して、全国の寺社仏閣巡りを心掛けているという話を聞いたことがあります。

戦国時代の家臣団=伊賀や甲賀だけでなく透波、風魔、村雲党も登場

 「戦国最強家臣団の真実」を特集している「歴史道」別冊SPECIAL(週刊朝日ムック、2021年12月発行)は薄い雑誌ですが、内容は百科事典みたいな本で、情報量が多く、全て頭に入れることは諦めて、必要な項目はその時にまた参照することにして、一応読了しました。

 「織田家」「武田家」「徳川家」「豊臣家」から「黒田家」の家臣団まで11家の家臣団が取り上げられているほか、合戦の陣形や戦術から調略まで、何かあらゆることが詰まっている感じです。

 考えてみれば、何故、家臣団のことを知るべきなのか、答えは単純ですね。例えば、「織田信長による比叡山焼き討ち」と歴史の教科書で習っても、実際に比叡山延暦寺に火を付けたりしたのは信長ではなく、その家臣団です。実戦部隊は主に、明智光秀軍だったと言われ、光秀はその戦功により、坂本城の一国一城の主となり家臣団の出世頭になったことは皆さんご案内の通りです。

銀座国旗掲揚塔奉賛会

 この本で取り上げられた家臣団の中で一番印象に残ったのは武田家です。百戦錬磨と言われた武田信玄亡き後、跡目を継いだ武田勝頼は、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れてからは(この時、信玄の「四天王」と言われた内藤昌豊、山縣昌景、馬場信春が討死)転落の一途です。徳川家康軍に攻められていた高天神城に援軍を送れなかったことをきっかけに、家臣団中枢の御親類衆まで離反し、織田方の滝川一益隊に包囲されて最期に自決した田野(現山梨県甲州市)まで勝頼に従って残っていた家臣団はわずか43人だったといいます。

 家康との三方ヶ原の戦いの時の武田家が最盛期だったと言われますが、その時の家臣団は5万人はいたそうです。それがたったの43人に減少してしまったという史実は、武田家にせよ、戦国時代は、大名一人の独裁ではなく、多くの国衆などの家臣による合議制だったということが分かります。国衆の家臣も一国一城の領主でもあったわけですから、自分たちの領地を安堵してくれる頭目の神輿を担いでいるだけということになります。(武田軍団が無敵を誇ったのは、地元甲斐には肥沃な土地がないため、命懸けで他国に攻め入って領地を広げるしかなかったからという説が有力)

 武田勝頼は、最後に御親類衆である穴山信君(のぶただ、梅雪)や譜代・家老衆の小山田信茂らにも離反(裏切り)されますが、勝頼は、信玄の四男で母方の諏訪大祝(おおほうり)家の血が濃く(勝頼は、若い頃は諏訪四郎と名乗っていた)、名門「甲斐源氏」の正当な継承者ではないと見られたことも背景にあったようです。

 国衆にしても、自分の家の存続のために汲々としなければならないので、戦国時代は、離反や裏切りは当たり前だったことでしょう。明智光秀も主君織田信長を裏切った下克上の極悪非道人扱いをされましたが、光秀自身さえ、盟友で娘(お玉、細川ガラシャ)の嫁ぎ先であった細川家(藤孝・忠興親子)に出陣を要請しても裏切られています。

 裏切りや離反や寝返りや内応といったことは、現代感覚では「卑怯」の一言で済むかもしれませんが、当時は、生き抜くための手段の一つに過ぎなかった、と私は最近思うようになりました。まあ、現代人でも平気で裏切ったり、寝返ったりする人が多いですからねえ(爆笑)。

皇太子殿下御降誕記念 京橋旭少年団 昭和9年5月

 話は全く変わって、慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いの際、島津義弘による「敵中(前方)突破」は有名ですが、この捨て身の戦術「捨てガマリ」(殿様の退却を援護するために、殿軍=しんがりぐん=が反転して追撃してくる敵を迎撃)のおかげで、1500人いた家臣団のうち薩摩まで生還できたのはわずか80人だったいいます。

 裏切りや寝返りや離反が多いという時代に、島津家臣団は、殿様のためにあっさり自分の生命を投げ出すとは…。島津家臣団の結束の堅さには目を見張りました。

 いやはや、壮絶な話でした。

偶然、銀座の街角で見つけた「京橋旭少年団員 団長:会津半治」の碑。本文と全く関係なし。どうしてくれるんやあ?

最後に私も仕事柄、興味がある「戦わずに勝つことを目指した『調略・諜報・外交』の頭脳戦略」の中の「間諜」は勉強になりました。いわゆる忍びの者のことですが、大名によって色々と呼び方に違いがあることを初めて知りました。

 伊賀や甲賀の忍者はあまりにも有名ですが、武田信玄お抱えの忍者は「透波(すっぱ)」と言ったそうですね。これが、人の秘密などを暴いて明るみに出す「すっぱ抜く」の語源になったそうです。この他、伊達政宗が組織した忍者集団を「黒脛巾組(くろはばきぐみ)」、北条氏に仕えた忍者は風魔と呼ばれ、頭目は風魔小太郎として知られています。私も子どもの頃に読んだ忍者漫画の中に風魔小太郎が登場していました。架空ではなく実在人物だったとは!

 このほか、福井藩に仕えた義経流や、安芸の福島正則に仕えた外聞(とどき)、加賀前田藩の偸組(ぬすみぐみ)などの忍者がいました。

 何しろ、京都の天皇家に仕えた忍びもおり、村雲党(流)と言われたそうです。忍びの者は隠密とも言われますから、村雲党を御存知の方はよほどの通でしょうね。

アダム・スミスと欲望の資本主義

 新しい年が明けて、何となくですが、今年は良い年になりそうな気がしています。自分でも、本当に数年か数十年ぶりに運気が向上している感じがしています(笑)。

 とにかく、高齢者になってもまだまだ色々と勉強することが出てきて、読まなければならない本が次々と現れてくるのです。こんなに真面目に勉強している老人は、世の中にいないんじゃないか、と通勤電車に乗るたび実感します。ざっと見回して、読書している人が私以外一人もいないからです。

 若い頃は、1カ月30冊ぐらい読めたのですが、さすがに高齢になった今はそうもいきません。限られた人生ですから、残された時間で読める本も限られているので、せめて「人類の遺産である古典だけでも」ということで読み始めたのが、アダム・スミスの「国富論」(国民の富の性質と原因に関する研究)です。今は、高哲男氏による新訳の講談社学術文庫の上巻の半分ほど読み進みました。最初はサッパリ理解できなかったのですが、段々とスミス節にも慣れてきて、読むのがワクワクするほど楽しみになってきました。

 人間には2種類の人間しかいない。アダム・スミス「国富論」を読んだ人と読んでいない人の2種類だ。

 と嘯いておきましょう。

 アダム・スミス(1723~90年)は、近代経済学を確立した最初の学者と言われますが、経済は人類の生活に欠かせない行為なので、その前に経済的なことを研究する学者や探検家や司祭らが何人もいて、スミスも彼らの論文を引用しています。例えば、ラディマン氏やレナール氏はこうこう言っているが、今の時代は事情が違ってこうなっている、といった記述に遭遇すると、とても人間臭くて、アダム・スミスを身近に感じてしまいます。

2022年正月の銀座・並木通り

 この本には色んなことが書かれているので、私の力ではとてもまとめきれないのですが、初版が書かれた1776年をアダム・スミスは「現代の最先端」として扱っているので、私はその時代に降りて、決して古臭いとは思わず、なるべく彼と同時代人の目と同じように接して読むように努めています。

 例えば、第一編「労働の生産力が改善される原因と自然に分配される秩序」の第二節「ヨーロッパ政策によって引き起こされた不平等」の中で、「欧州の大部分の同業組合化された職業で確立した徒弟修業期間は7年間ではあるが、ありふれた機械工の職業であれば、数日間のレッスンでも十分に用が足りる」といった趣旨のことを書く一方で、「ありふれた職業よりもずっと高度な技術、例えば、置時計や携帯用の時計製作といった技術が、長期の研修教育を必要とすることは疑問の余地がない」とも書いています。

 普通の人なら、通り過ぎる箇所ですが、私は、はっはあー、携帯用の時計は、今のスマホに匹敵する当時の最先端のハイテク産業だったろうなあ、と考えます。そして、私も以前、東京・銀座で高級腕時計店巡りをしたことがあり、今でも世界三大高級腕時計の一つとして知られるスイスの「ヴァシュロン・コンスタンタン」が、「国富論」出版の19年前の1755年に創業されていたことを思い出し、この事実を照らし合わせただけでも愉快になってしまいます。

 このほか、ローマ時代、カエサルを暗殺した一人で「ブルータス、お前もか」で知られ、高潔だったと言われていたブルートゥス(BC85~BC42)がキプロス総督時代に48%の高利で貨幣を貸し付けていたことをこの本で知りました。

銀座「華味鳥」博多御膳1800円

 「国富論」はキリがないので、この辺にしますが、アダム・スミスは、確かに現代の経済学者や財政家らにも多大な影響を与えていることを知りました。年末年始のテレビ番組の中で抜群に面白かったのが、1月1日にNHKーBSで放送された「欲望の資本主義2022  成長と分配のジレンマを越えて」でしたので、その話をします。(1月10日に再放送があるようなので、見逃した方はどうぞ)

 この中で、一番面白かったのが、ギリシャの財務相も務めたことがある経済学者のヤニス・バルファキス氏の発言でした。あまりメモが取ることができなかったので、私の補遺も入ってしまうことをお許し願いますが、彼はいきなり、世界で20億人以上の利用者がいるFacebookのザッカーバーグを批判します。「彼は、メタバースという仮想現実空間の中に自分を反映したアバターを作らせ、恐らく、数百万以上の人間がその中で、デジタル取引などを活発に行うことだろう。私はご免だね。情報の奴隷や農奴になってザッカーバーグなんかに支配されたくないよ」と痛烈に言い放ったのです。これは痛快でしたね。

 そして、バルファキス氏はアダム・スミスを持ち出します。

 「アダム・スミスは、市場が持つ自由の力と効率の高さを激賞したが、株式を公開している会社に対して匿名の株主が所有することを猛反対した。資本主義の守護聖人として名高い人物が資本主義に真っ向から反対していたことは興味深いでしょう。というのも、株式が匿名で取引されると流動的な通貨となり、いずれ集中することとなる。今や、ニューヨーク株式市場に上場する全企業の9割が、ブラックロックとステート・ストリートとバンガードのたった3社の投資会社に所有されている事態になっているんだ。これでは、独占資本主義だよ。アダム・スミスが思い描いた『共同体市場』が生まれるには、金融市場と労働市場を、すなわち資本主義そのものを既存の体制から取り除くしかない」

 バルファキス氏はこのような趣旨の発言をしていたので、嗚呼、「国富論」を読んでいて良かったなあ、と改めて思った次第です。

今年も機密情報について色々と見聞しております

 2022年(令和4年)、明けましておめでとう御座います。

 今年もご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い賜わります。

 何しろ、ブログ執筆は、老骨に鞭を打って、家内制手工業でほぼ毎日やっているもんですから、今年はいつまで続くかどうか…。皆様からの温かいご支援と、「渓流斎の野郎、今日は何を書いているんだ」という皆様からのチェック(広告も)だけが頼りで御座いまする。

 今年の年末年始は、皆さんとほとんど変わらない生活でした。大晦日は、やはり、某公共放送の「紅白」は見ないで、書斎でタル・ファーロウを聴きながら、何やらかんやらして除夜の鐘も聞かずによゐこは寝てしまいました。

 お正月は、お節料理とお酒のバラ色の日々。2日は、孫たちが遊びに来てくれて、てんやわんやの大騒ぎでした。この良心的なブログは、秘密組織が監視しているようなので、あまり書きたくないのですが、娘婿の一人と英語で雑談していたら「Area 51」の話を聞きました。私自身、聞いたことがないので「知らないなあ」と応えたら、「えっ!? そんなこと知らないんすかあ~」と吃驚した顔をされてしまいました。

  Area51というのは、米ネバダ州にある米軍秘密基地の総称で、ステルス戦闘機など秘密兵器などがここで極秘に開発されたと言われます。2013年になって米CIAが、やっとその存在を公式に認めたといいます。超軍事機密ですから、立ち入り禁止どころか、撮影も録画も禁止です。鉄条網が張り巡らされた外部の看板には「Use of deadly force is authorized」と表示されています。

 どう訳したらいいものか?「もし、貴方が許可なく近付いて殺されても当局は責任を問われません」といった意味に近い気がします。西部劇か?と突っ込みたくなりますが、これは冗談ではなく現実です。

 賢い婿殿は言います。「結局、アメリカ合衆国を動かしているのは大統領じゃないんですよ。オバマにしろ、トランプにしろ、バイデンにしろ、4年か8年経てばそれで終わり。結局、何十年も政権を裏で支えている官僚が動かしているのでしょうが、それが、CIAなのか、FBIなのか誰も分からない。NSC(国家安全保障会議)でもない気がする。米国民でさえ、知らされていない秘密の闇の部分がいっぱいありますよ。いまだにケネディ暗殺の公式文書は公開されていない。公開されたら大変なことになるからでしょう」と言うのではありませんか。

 やはり、いつの時代も、機密情報が世の中を動かしているわけです。

また、リュックサックを買ってしもうた。左が新しく購入したHelly Hansen ヘリーハンセン(1877年、創業ノルウェー)1万6280円。計量で肩に掛けやすい。右のanelloは、とても安いので、電車に乗っても街を歩いても全く同じモノをしょってるおばさんを何人も見掛けて気まずくなってしまいました(笑)。確か、3000円ぐらい。

 そしたら、今日3日になって、「えーー!」と驚くことがありました。私の会社の先輩で毎年、年賀状をやり取りしている、今も現役で演劇評論家をなさっている斯界では有名な横溝幸子氏から、年賀状の返信が早くも届き、「横溝光睴は私の父親です」と応えてくださったので、吃驚したわけです。

 この横溝光睴(よこみぞ・みつてる、1897~1985年)とは、戦前の内務省のエリート官僚で、このブログでも以前に取り上げさせて頂きましたが、昨年11月27日(土)にオンラインで開催された第40回諜報研究会で、講師の岸俊光氏の「日本型インテリジェンス機関の形成」という演題の中で登場された主要人物でした。

 岸氏は、毎日新聞記者出身で、日本政府の情報を統括する内閣調査室(内調)の研究では第一人者です。そして、横溝光睴氏は、内調の前身に当たる戦前の内閣情報機構の創設の経緯について記した「内閣情報機構の創設」を執筆した一高~東京帝大卒の内務官僚で、戦前に福岡県警特高課長や内閣情報部長、岡山、熊本両県知事、朝鮮の京城日報社長なども歴任した人でした。

 私の会社の先輩の横溝幸子氏の父親は、戦前の内務官僚だったという噂を聞いたことがありましたが、苗字が同じ横溝光睴は、伯父さんか、親類縁者ではないかと思い、今年の年賀状に一言添え書きして質問したら、直ぐに、 「横溝光睴は私の父親です」 との返事が葉書で返って来たのでした。資料に関しては、全て国立公文書館に寄贈した、という話でしたが、それにしても、そんな凄い方が御尊父だったとは知りませんでした。

馬廻り衆はとっても偉い旗本だった

 本日は、単なる個人的な雑記ですから、読み飛ばして戴いて結構で御座います。

 皆さん御案内の通り、私は今、通勤電車の中で、アダム・スミスの「国富論」(高哲男・新訳、講談社学術文庫)と格闘しているのですが、文字を読んでも、来年、講師の依頼があった講演会で何を喋ろうかという思いが先行してしまい、さっぱり頭に内容が入ってこなくなりました。

 電車の中の読書といえば、こんなお爺さんが一生懸命に勉強しているというのに、車内の9割ぐらいのお客さんはスマホをやっていて、新聞や雑誌を読む人でさえ皆無になりました。中にはスマホでニュースを読んでいる人もいるでしょうが、ほとんどゲームかSNSかネットショッピングです。こりゃあ、日本の将来は明るい!

「もりのした」みつせ鶏唐揚げ

 お爺さんといえば、その講演会案内用の講師の写真を自撮りしてみたら、まるで、玉手箱を開けてすっかり老人になった「浦島太郎」の心境です。我ながら、「えっ!こんな老けてしまったの?」という感慨です。まあ、既に孫がいるシニアになってしまったので仕方ないのですが、人生って、あっという間ですね。悩んでいる暇はありませんよ。

銀座「わの輪」生姜焼き定食900円

 さて、12月25日付朝日新聞朝刊を見たら吃驚です。このブログで何度も登場して頂いているノンフィクション作家の斎藤充功氏が写真入りでインタビューに応じていたのです。オピニオン&フォーラム耕論のテーマ「死刑 その現実」という中で、斎藤氏は、3人のうちの一人として登場されていたのですが、強盗殺人で計4人を殺害した死刑囚と11年間、131回も面会を続けてきたことと、その心に残った印象を話されていました。

 早速、斎藤氏には「天下の朝日新聞に御真影まで掲載されるなんて凄いですねえ」とメールをしたのですが、返信はありませんでした。普段なら直ぐに返事が来るのでどうされたのでしょうか?彼一流の照れなのか、それとも怒っているのかもしれません。

 その斎藤氏のことですが、このブログで何度も書いているのですが、「斎藤氏の大正生まれの御尊父は、陸軍大学卒のエリート軍人、明治生まれの祖父は、海軍兵学校卒の海軍大佐、江戸幕末生まれの曽祖父は幕臣で、六百石扶持の馬廻役だった」といいます。その曾祖父の「馬廻役」とは、どんなものかそれほど詳しく知らなかったのですが、雑誌「歴史道」別冊(朝日新聞出版)の「戦国最強 家臣団の真実」を読んでよく分かりました。

 馬廻り衆とは殿様の側近中の側近で、戦(いくさ)になれば、騎乗して総大将(大名、藩主)の一番近くに従い、機動力を生かして家臣団の中核を担う花形でした。総大将の近くに「幡(はた)持ち」がいますから、まさにその旗の近くに控える「旗本」ということになります。

 六百石扶持ともなると、供侍(ともざむらい)や小荷駄(こにだ)持ち=武器や食料を運ぶ=ら常に10人近い家来を付き添わせています。平時では、殿様の警護を務めることから、城下町でも藩主の近くに住む上級武士団と呼ばれ、その外側に軽輩の身分の徒士(かち)が住み、その外に町人が住み、さらにその外側に、弾除けの足軽組屋敷が配置されるという五重構造になっていたと言われます。

 とにかく、斎藤氏の御先祖さまの「六百石馬廻役」というのはとても高い身分だったことは確かです。私の先祖の高田家は、九州の久留米藩(21万石)の下級武士でしたが、御船手職の中で、御船手頭、大船頭、中船頭、小船頭に次ぐ御水主頭(おかごがしら)という役職で、わずか、五石六斗二人扶持だったと聞いてます。足軽は三石一斗(三両一分=さんぴんいちぶ)程度で、「このどさんぴんが!」と蔑まされていましたが、私の先祖も足軽に毛が生えていた程度だったことでしょう。でも、私の先祖が住んでいた下級武士の長屋には、後にブリヂストンを創業する石橋家も住んでいました。(自分の祖先については、もう少し調べなければならないと思いつつ、時間が経ってしまっています=苦笑)。

 下級武士とは言っても、江戸時代、武士は全人口のわずか7%しかいなかったと言われています。安藤優一郎著「幕臣たちの明治維新」(講談社現代新書)によると、幕臣と呼ばれた人は約3万人いて、そのうち旗本が6000人で2割、御家人が2万4000人で8割だったといいます。やはり、旗本は凄いエリートだったんですね。

【追記】

 江戸城では、海や大掛かりな堀が少なく警備に隙がある北西に当たる番町(現東京都千代田区)に、旗本を住まわせたことから、広大な屋敷が並び、今でも高級住宅街になっています。

 明治維新後、幕臣旗本は追放され、その後にやって来たのが、薩長土肥の明治新政府陣です。作家有島武郎、里見弴、画家の有島生馬らの父である有島武は薩摩出身で大蔵官僚となり、番町の追放した元旗本の邸宅に住んだわけです。

 「地名は災害を警告している!」はとても参考になる=「歴史人」1月号「地名の歴史をたどる」特集

  「歴史人」2022年1月号(ABCアーク)の「地名の歴史をたどる」特集は、本当に勉強になりました。

 こんなに賢くなっていいのかしら?と思うぐらいです。

 「地名が分かれば、人名が分かる」ということで一石二鳥です。日本人は、地名に由来する名字が多いからです。地名由来の名字でよく使われる字として、「山」「川」「池」「田」「沢」 「塚」「窪」が挙げられていましたが、例を出すまでもなく、誰でもすぐ名字が思い浮かぶことでしょう。

 この本に出て来た地名などで、面白かった由来などを列挙してみるとー。

調布(東京)=古代の高句麗から渡来人が持ち込んだ麻の栽培が盛んで、麻を調(人頭税)として納めたことから名付けられた。

桑原=菅原道真の領地だった所で、桑原に一度も雷が落ちなかったので、「くわばら、くわばら」と唱えれば、雷は落ちないと信じられた。

一関市(岩手)、霞ヶ関(東京)、関市(岐阜)、下関(山口)…=古代から江戸時代にかけて関所があった所。

会津若松(福島)=蒲生氏郷が会津黒川から改名。

福岡=黒田長政が曽祖父高政が備前国(岡山)福岡に住んでいたことから命名。

赤坂見附四谷見附牛込見附などの「見附」は、見張り番所が置かれた所を指すが、見付には「水付き」の意味もあり、静岡県磐田市見付は、古代はこの辺りまで海水が湾入していたことから付けられた。

・東京の駿河台は、徳川家康付の旗本(駿河衆)が家康の死後、駿府から移り住んだ台地という説と、ここから駿河国の富士山を遠望できたからという説がある。

両国(東京)=明暦大火後、隅田川右岸の下町(武蔵国)と左岸の本所(下総国)を結ぶ橋が架けられ両国橋と呼ばれ、界隈の地域を両国と呼ばれるようになった。「忠臣蔵」の吉良上野介は、浅野内匠頭の殿中事件の後、江戸市中の邸から本所に移転された、という史実は、下総国に配置転換されたということになり、何か幕府の隠された意図があったかもしれない。

鎌倉 浄智寺

 この本で一番参考になったのが、「地名は災害を警告している!」という記事でした。

 過去に水害があったり、崖崩れがあったり、起きやすかったりした所にはそういった地名が付けられていたのです。

 例えば、「落合」は川の合流点という意味で、水害があったか、起こりやすい地域。東京には上落合とか下落合とかいった地名があります。

 「窪」「久保」は、土地が低い窪地ということで、水害があったか、起きやすい所。東京には荻窪(善福寺川)や恋ヶ窪といった地名があります。

 このほか、水害関連の地名として、「芝浦」「柴又」「巣鴨」「銚子」「鶴巻」「幡ヶ谷」「灘」「沼田」「弘前」「舞鶴」「野洲」「龍ケ崎」「龍ノ口」「十和田」「岸和田」などを挙げています。

鎌倉 浄智寺

 崩落や土砂災害に関連した地名として、「阿波(安房)」、「我孫子」、「嵐山」、「有馬」、「柿の木」、「喜多方」、「駒込」、「駒場」、「巨摩」、「信濃」、「苗場」、「野毛」、「日向」、「茗荷谷」、「桃山」、「雪谷」、「鷲津」などが挙げられています。

 これらの地域は、過去に災害があっただけで、現在は安心できるかといえば、そうでもなさそうです。例えば、2018年の西日本豪雨で51人が犠牲になるなど甚大な被害を蒙った岡山県倉敷市の真備地区の川辺集落は、過去に何度も被害に遭っていました。「川辺」は川の側を意味し、明治の頃は、周囲を囲む堤があったほどだったといいます。同地区の「箭田(やた)」も低湿地を意味し、「桑の市」の「桑」は土砂災害や氾濫が起きやすい所として全国的にも使われています(桑名、桑江、桑野など)

「従三位」と「正六位」の違いは何か?=位階(叙位)について考える

 私は自己嫌悪感が強い人間なのか、自分が書いた記事に関してはすぐ反省して取り消したくなります(苦笑)。ブログを毎日のように書き続けているのは、前日に書いた記事を否定したく、いや、否定してしまっては元も子もないので、前日書いた記事より、もっと上手く書きたい、もっと面白いものを書きたい、と願っているせいなのかもしれません(笑)。

 ということで、唐突ながら、本日は「叙位叙勲」のお話に致します。国の栄典には、位階(叙位)、勲章(叙勲)と褒章があります。位階は、正一位から従八位まで正従各8階の16階があり、亡くなられた方に対して運用されます。

 勲章は、大勲位菊花章頸飾から旭日単光章・瑞宝単光章まで15章あり、「国家又は公共に対し功労のある方」らに授与されます。

 褒章は、紅綬褒章から飾版まで8章ありますが、学者や芸能人、スポーツ選手らに授与される紫綬褒章が一番馴染み深いかもしれません。

 これらについて、全部書いていたらキリがないので、本日は叙位(位階)の話に絞ります。何しろ、叙位は、古代律令制から始まり、敗戦で一時途切れても、我が国では1300年以上、連綿と続けられてきたからです。(叙位叙勲は、閣議決定により昭和21年5月に停止され、昭和39年4月に復活した)

 あの代表的な戦国武将である織田信長でさえ正二位・右大臣、豊臣秀吉は従一位・関白太政大臣、徳川家康は従一位・征夷大将軍・太政大臣を朝廷から受けています。

 一方、古代から中世にかけて、中央から地方行政単位である国の行政官として派遣された官吏は国司と呼ばれましたが、「守(かみ)」「介(すけ)」「掾(じょう)」「目(さかん)」の四等官が派遣されました。例えば、越前国なら「越前守」「越前介」「越前掾」「越前目」といった具合です。地方の「国」には「大国」「上国」「中国」「下国」の分類がありましたが、武蔵や播磨などの大国の場合、それらの位階を当てはめると、「守」は従五位、「介」は正六位、「掾」は正七位、「目」は従八位でした。地方官のせいなのか、それほど高い地位ではなかったのです。(中央の上級官人=貴族=は、太政大臣=正一位・従一位、左大臣=正二位、右大臣=従二位、大納言=正三位、中納言=従三位、参議=正四位…となっていました)

鎌倉・円覚寺 聖観音像

 これらのことを「目安」として頭に入れて頂いて、現代の話に戻します。現在も位階は、天皇の裁可によって、亡くなった方に授与されています。意外と知られていませんが、企業のトップや議会議員だけでなく、かなりの数で学校の校長先生にも叙位されているのです。地方自治体などからの推薦がありますが、最終的に取りまとめているのが、内閣府大臣官房人事課恩賞係というところです。

 さて、この位階の基準がよく分かりません。例えば、この人は「正五位」だけど、この人は「従五位」にしよう、といったことを誰が、どんな基準で決めているのか、外部からは全く分かりません。でも、少し想像だけはできます。

 ごく近々の話では、「ゴルゴ13」で知られる劇画作家のさいとう・たかを(本名斉藤隆夫)さんは今年9月に84歳で亡くなりましたが、授与された位階は「正六位」でした。意外にも低いので、この論考?を書くきっかけとなりました。何故なら、「正六位」は大体、小・中学校の校長経験者に多く授与される位階だからです。高校の校長となると、「従五位」前後が多く、大学の教授クラスともなると、「従四位」か「正四位」といった感じです。この中で、私大の名誉教授は「従四位」、国立大学名誉教授、それも特に、東大、京大など旧帝大系となると「正四位」となる傾向が強いのです。

 特例は、昨年12月に90歳で亡くなった物理学者の有馬朗人氏で、破格の?「正三位」でした。元東大学長だった上、文部大臣を務め、文化勲章まで受章したということからの判断だと思われます。

鎌倉・円覚寺

 位階は死後授与ですから、やはり生前に日本芸術院会員や文化勲章などを受章されていたりすると、位階が上がると思われます。

 松山バレエ団創立者の松山樹子(本名清水樹子)さんは「正六位」、作曲家のすぎやまこういち(本名椙山浩一)さんは、文化功労者であっても「従四位」でしたが、「渡る世間は鬼ばかり」などで知られる脚本家の橋田壽賀子(本名岩崎壽賀子)さん(今年4月、行年95歳)と、11月に99歳で亡くなった作家の瀬戸内寂聴さんは、ともに「従三位」でした。お二人とも文化勲章受章者だということが効いているのではないかと推測されます。

鎌倉五山の円覚寺~浄智寺~建長寺~寿福寺、そして源義朝、太田道灌ゆかりの英勝寺に参拝

 12月12日の日曜日、思い立って、「鎌倉五山」巡りを決行して来ました。

 「鎌倉五山」とは、御説明するまでもなく、神奈川県鎌倉市にある臨済宗の禅寺で、第一位建長寺、第二位円覚寺、第三位寿福寺、第四位浄智寺、第五位浄妙寺の寺院とその寺格のことで、一説では北条氏によって制定されたといいます。

 「京都五山」(別格南禅寺、第一位天竜寺、第二位相国寺、第三位建仁寺、第四位東福寺、第五位万寿寺)と対をなしていますが、残念ながら、その規模や雄大さ、壮麗さ等を含めて鎌倉五山の方がどうしても見衰えしてしまいますが、国宝、重文級のものもあり、とても等閑にはできません。

 来年(2022年)というより、来月から始まるNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放送されれば、鎌倉はまためっちゃ混みますから、人混みを避けたかったのでした。

鎌倉五山第二位 円覚寺
鎌倉五山第二位 円覚寺

 皆様御案内の通り、私自身、鎌倉五山第五位の浄妙寺に関しては既に昨年8月にお参りしたばかりですので、今回は、残りの4寺院をお参り致しました。(浄妙寺は、「八幡太郎義家」こと源義家のひ孫で足利氏二代目義兼(よしかね)が1188年に創建。2020年8月12日付の渓流斎日乗「いざ鎌倉への歴史散歩=覚園寺、鎌倉宮、永福寺跡、大蔵幕府跡、法華堂跡、浄妙寺、報国寺」をご参照)

 まずは第二位の円覚寺を目指しました。JR横須賀線の北鎌倉駅からすぐ近くです。

 円覚寺(拝観志納金500円)はかつて数回はお参りしていますが、もう20年ぶりか、30年ぶりぐらいです。もうほとんど覚えていません。

鎌倉五山第二位 円覚寺 山門

 円覚寺といえば、私の場合、すぐ夏目漱石のことを思い起こします。三部作の最後に当たる「門」の舞台になったところで、漱石自身もここの宿坊「帰源院」で明治27年12月下旬から1月7日まで座禅修行したことがありました。横須賀線は明治22年に開通しています。

 現在も座禅が出来るようですが、一般といいますか、在家向けは、新型コロナの影響で結構中止になったようです。

鎌倉五山第二位 円覚寺

 円覚寺は1282年創建、第八代執権北条時宗が蘭渓道隆亡き後、中国から招いた無学祖元(後の仏光国師)が開山しました。その2年後に亡くなった時宗と九代貞時、最後の十四代執権高時をお祀りしています。

 
鎌倉五山第二位 円覚寺 舎利殿(国宝)

 円覚寺といえば、何と言っても国宝の舎利殿(仏陀の歯牙をお祀りしている)ですが、お正月三が日など特別な期間以外は拝観制限されているとのことで、遠くから写真を撮るのみでした。

 この舎利殿は、三代将軍源実朝が、宋の能仁寺から請来したもので、鎌倉の太平寺(尼寺・廃寺)から仏殿(鎌倉末~室町初期に再建)を移築したものだといいます。

鎌倉五山第四位 浄智寺 鎌倉では珍しい唐様の鐘楼門
鎌倉五山第四位 浄智寺

 次に向かったのが、 鎌倉五山第四位の浄智寺 (拝観志納金200円)です。円覚寺から迷わなければ、歩7,8分というところでしょうか。途中、駆け込み寺として有名な東慶寺がありましたが、我慢して通り過ぎました。

 浄智寺の正式名称は、臨済宗円覚寺派金宝山浄智寺です。第五代執権北条時頼の三男宗政の菩提を弔うために1281年頃に創建されました。開基は宗政夫人と諸時親子。開山は、建長寺第2代住職も務めた中国僧兀庵普寧(ごったん ふねい)ら3人です。

鎌倉五山第四位 浄智寺

 御本尊は、阿弥陀如来、釈迦如来、弥勒如来の木造三世仏坐像(神奈川県重要文化財)です。

 これは、後で知ったのですが、映画「ツィゴイネルワイゼン」や「武士の一分」などが境内で撮影され、映画監督の小津安二郎や日本画家小倉遊亀らがこの寺域で暮らし、墓所には作家澁澤龍彦らが眠っております。

鎌倉五山第一位 建長寺
鎌倉五山第一位 建長寺

 次に向かったのが 鎌倉五山第一位の建長寺(拝観志納金500円)です。やはり、第一位だけに迫力が違いました(笑)。かつて、一度は参拝したことがあったのですが、これまた全く記憶にありません(苦笑)。

 100年の歴史がある進学校「鎌倉学園」(加藤力之輔画伯、サザンの桑田佳祐の出身校)が隣接していたことも今回初めて知りました。

 正式名称は巨福山(こふくざん)建長興国禅寺。上の写真の 巨福山 の「巨」の字に点が付いているのは、十代住職一山一寧(いっさんいちねい)が筆の勢いに任せて書いてしまったといいます。しかし、結果的にその点が全体を引き締めて百貫の値を添えたことから「百貫点」と呼ばれるようになったといいます。

鎌倉五山第一位 建長寺 三門

 建長寺は、建長5年(1253年)、五代執権北条時頼が建立した我が国最初の禅宗専門寺院です。開山(創始者)は、中国の宋から33歳の時に来日した蘭渓道隆(後の大覚禅師)です。

 上の写真の「三門」は国の重要文化財に指定されています。三門とは、三解脱門の略で、「空」「無相」「無作」を表し、この三門をくぐることによって、あらゆる執着から解き放たれることを意味するといいます。

 神社の鳥居のような役目を果たしていたんですね。

鎌倉五山第一位 建長寺

 この梵鐘は国宝です。重さ2.7トン。開山した大覚禅師の銘文もあります。

 この梵鐘から、夏目漱石が「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」という句をよみました(明治28年9月)。これに影響されて、漱石の親友正岡子規が「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」を作ったと言われます。漱石が子規の影響を受けたのではなく、その逆です。

鎌倉五山第一位 建長寺 仏殿 地蔵菩薩坐像

仏殿は、国の重文で、 地蔵菩薩坐像 が安置されています。

 現在の建物は四代目で、東京・芝の増上寺にあった二代将軍徳川秀忠夫人お江の方(三代家光の母)の霊屋を建長寺が譲り受けたといいます。

鎌倉五山第一位 建長寺 法堂 千手観音菩薩 雲龍図(小泉淳作画伯)

  法堂は、僧侶が住持の説法を聴き、修行の眼目とした道場です。388人の僧侶がいたという記録もあります。現在の建物は、文化11年(1814年)に再建されたもので、御本尊は、千手観音菩薩です。天井の「雲龍図」は建長寺創建750年を記念して、小泉淳作画伯によって描かれました。

 小泉淳作画伯は、京都の建仁寺の「双龍図」も描かれています。

 小泉淳作画伯の美術館は私もかつて仕事で赴任したことがある北海道十勝の中札内村にあります。確か、小泉画伯は、このような壮大な雲龍図などは、廃校になった小学校の体育館をアトリエにして描いていたと思います。

鎌倉五山第一位 建長寺 葛西善蔵之墓

 境内には、太宰治も敬愛した無頼派の元祖とも言われる私小説作家の葛西善蔵の墓がある、とガイドブックにあったのでお参りしてきました。

 案内表示がないので、結構迷いましたが、階段を昇った高台にありました。葛西善蔵は、極貧の中、昭和3年に42歳の若さで亡くなっていますが、今でも新しいお花が生けてありました。忘れられた作家だと思っていたので、いまだに根強いファンがいらっしゃると思うと感激してしまいました。

鎌倉市山ノ内 カフェ「Sakura」 ビーフカレー(珈琲付)1300円

 時刻も午後1時近くになり、お腹も空いてきたのでランチを取ることにしました。本当は、ガイドブックに出ていた「去来庵」という店で名物のシチューでも食べようかと思ったら、コロナの影響で、喫茶のみの営業でしたので諦め、建長寺近くにあったカフェに入りました。

 量的には少なかったのですが、大盛にすると1500円です(笑)。でも、お店のマダムはとても感じが良い人だったので、また機会があれば行きたいと思わせる店でした。

浄土宗 東光山英勝寺
浄土宗 東光山英勝寺

次に向かったのが、最後に残った 鎌倉五山第三位の寿福寺 です。

ランチを取ったカフェの目の前の亀ヶ谷坂切り通しを通りましたが、「切り通し」というくらいですから、中世に谷間を削って出来た人工的な道ですから、かなりの急勾配でした。

 建長寺辺りは「山ノ内」で、この 亀ヶ谷坂切り通し辺りから「扇が谷」という地名になります。歴史好きの人ならすぐピンとくるでしょうが、室町時代になると、関東管領の山ノ内上杉家と扇が谷上杉家とが熾烈な争いをします。両家の勢力圏がこんな近くに隣接していたとは行ってみて初めて分かりました。

 寿福寺に行く途中で、全く予定のなかった「鎌倉五山」ではない英勝寺を通り過ぎようとしたところ、上の写真の「太田道灌旧邸跡」の碑があったので吃驚仰天。予定を変更してこの浄土宗東光山英勝寺(拝観志納金300円)もお参りすることにしました。

 英勝寺自体は、太田道灌から数えて4代目の康資(やすすけ)の娘で、徳川家康の側室、お勝の方(英勝院)が1636年に創建した鎌倉唯一の尼寺です。

 太田道灌は江戸城や河越城などを築城した武将ですが、扇ケ谷上杉氏の家宰だったので、ここに邸宅があったのですね。

浄土宗東光山英勝寺の御本尊、阿弥陀如来三尊像は運慶作ということですが、国宝に指定されていないのでしょうか?

 でも、太田道灌で驚いていてはいけません。

 英勝寺の「拝観のしおり」には、ここは平安時代末期に、源頼朝の父義朝の屋敷だったというのです。「えーー、早く言ってよお」てな感じです。

 源義朝と言えば、保元・平治の乱で活躍した人で、義朝は平治の乱で平清盛らに敗れて敗走し、途中尾張で部下に殺害されたと言われます。行年36歳。お蔭で、嫡男頼朝は幼かったので伊豆に流され、その後、その土地の北条政子と結婚し、鎌倉幕府を築いていく話は誰でも知っていることでしょうが、頼朝の父義朝が鎌倉に居を構えていたことを知る人は少ないと思います。

 源頼朝の生地は、母の実家がある尾張の熱田神宮の近くと言われますが、父義朝が鎌倉に所縁があったので鎌倉に幕府を開くことにしたのでしょうか? 幼い時に、この鎌倉の義朝邸に頼朝も住んだことがあったのでしょうか?

鎌倉五山第三位 寿福寺
鎌倉五山第三位 寿福寺

 今回、最後に参拝したのは、英勝寺に隣接していた鎌倉五山第三位の寿福寺でした。

 ここは山門から堂宇にかけては非公開なので、拝観志納金もないのですが、そのためパンフレットもありません。

 でも、上の看板にある通り、とても重要な寺院なのです。

鎌倉五山第三位 寿福寺 中門

 何と言っても、正治2年(1200年)、頼朝の妻政子が開基し、日本の臨済宗の開祖栄西が開山した鎌倉五山最古の寺院なのです。

鎌倉五山第三位 寿福寺 北条政子之墓

 境内には北条政子と、政子の次男で暗殺された三代将軍源実朝ののやぐら(墓地)もあります。

鎌倉五山第三位 寿福寺 源実朝之墓

 標識があまりないので、恐らく、一番奥まったところにあるのだろう、と勝手に想像して、やっと探し当てました。

 実朝は、将軍ながら「金槐和歌集」でも有名な歌人でもありました。大海の磯もとどろに寄する波破れて砕けて裂けて散るかも なんて良いですよね。

鶴岡八幡宮で、甥の公暁に暗殺されたのは1219年。今から800余年前のことです。やぐらの写真を撮らさせて頂いたところ、何か、無念のまま亡くなった右大臣実朝将軍の霊がこちらに迫ってきたような感じがしました。

80年前の12月8日に起きたこと

 今年の12月8日は、昭和16年(1941年)の「真珠湾攻撃」から80年ということで、新聞、テレビ等では大きく特集記事が組まれたり、特集番組が放送されました。私も、結構、見たり読んだりしました。

 この中で、特に印象に残ったことは、「特殊潜航艇」と呼ばれる小型潜水艦で真珠湾攻撃に参加して戦死した9人が「軍神・特攻隊九将士」として崇められて大きく報道された一方、一人だけ生き残った戦士がいて、その人は長らく記録から抹殺されていた史実でした。この人は、酒巻和男・元海軍少尉(1918~99)で、日本人捕虜第一号でもありました。(今年、愛媛県佐多岬半島に彼ら10人の慰霊碑が建てられ、酒巻さんもやっと戦友の仲間入りをすることができました)

 当時は「生きて虜囚の辱を受けず」という1941年1月8日に東条英機陸相によって布達された「戦陣訓」によって、軍人は敵の捕虜になってはいけなく、死を強要していました。捕虜になれば、本人だけではなく、家族にも被害が及ぶ危険があったため、酒巻さんも自決を望みましたが、日露戦争で捕虜になった経験を持つハワイ浄土宗第8代総長の名護忍亮師から説得され、逆に後から収容されてきた日本人捕虜に対して、生き抜くことを説得するようになります。

 戦後に帰国した酒巻さんは、その後、トヨタ自動車に入社し、ブラジルの現地法人の社長になるまで活躍したようです。

 この酒巻氏については、今年は大手紙やNHKにまで取り上げられただけでなく、既に、ウィキペディアにまで登録されていたので驚きました。

銀座3丁目「Le vin et la viande」(ワインとお肉)

 もう一つは、12月8日付の朝日新聞に出ていた「『12月8日開戦』の意味」特集の中の地理学者・歴史研究家の高嶋伸欣氏のインタビュー記事です。これまでマレー半島に赴いて100回以上も調査した高嶋氏は「日本では真珠湾攻撃でアジア太平洋戦争が始まったという認識が一般的ですが、それは違います。海軍の真珠湾攻撃よりも1時間5分早く、陸軍がマレー半島の英領コタバルに上陸し、英軍と戦っています」と力説しています。

 はい、そのことは、勉強家の?私も存じ上げておりました。

 しかし、高嶋氏の「日本軍はコタバルより少し北にあるマレー半島東岸のタイのシンゴラにも上陸しています。しかし、その前年に日本はタイの中立尊重を保障した日タイ友好和親条約を締結しています。にもかかわらず、一方的に独立国のタイに奇襲上陸したのです」と発言しています。

 これは不勉強の私は、全く知りませんでした。恥じ入るばかりです。調べてみたら、確かに、1年前の1940年6月12日に外相官邸で有田八郎外相とセナ・タイ国在京公使との間で 日タイ友好和親条約 が締結されています。

 そして、高嶋氏は「ソ連軍の旧満洲への侵攻は日ソ中立条約違反だと言われますが、日本はそれと同じことをタイに行っているのです」と続けるのです。

 確かに、これまで我々日本人は、ヤルタ密約で一方的に条約を破棄して満洲(中国東北部)に侵攻した極悪非道のソ連スターリン政権を批判続けてきましたが、日本も同じアジア民族に対して酷いことをやったことを認めざるを得ません。自虐史観批判者や歴史修正主義者たちが何を言っても、です。

銀座3丁目「Le vin et la viande」ハンバーグステーキ・ランチ1000円 本文と関係ないじゃないか!