老兵は死なず、ただ消えゆくのみ=または余生の過ごし方

 これでも、小生、20年以上昔はマスコミの文化部の記者をやっておりましたから、最先端の文化芸術に触れ、多くの芸能人や作家、画家、文化人の皆様にインタビューもさせてもらいました。ですから、文化関係の分野でしたら、一応、何でも知っているつもりでした。某有名女優さんとは手紙のやり取りまでしておりました。いえいえ、別に自慢話をするつもりではありません。

 それが、急に文化部を離れ、テレビもほとんど見なくなってからは、全く何もかもワケが分からなくなりました。正直、情報過多もあるでしょうが、最新流行にはついていけなくなったのです。最も人気が高かったAKB48も、ジャニーズの嵐も、グループ名はかろうじで知っていても、そのメンバーとなるとさっぱり分からなくなりました。ま、覚えようとしなかったのでしょう(苦笑)。

 今でもそれに近い状態が続いています。テレビに出るような女優、俳優、歌手なら、昔は大抵ほとんど知っていたのに、最近では「この人、誰?」ばっかりです。文芸作家は、毎年2回の芥川賞と直木賞で量産されるので、やはり、「えっ? こんな作家さんいたの!?」です。漫画となると、何百万部、何千万部と売れているという噂は聞きますが、私は読まないので門外漢です。かろうじてタイトルだけ知っている程度です。

銀座「ひろ」1000円ランチ 前菜 「赤字覚悟でやってます」と店主。

 しかし、悲観すること勿れ。人間の頭の構造がそうなっているんでしょう。特に流行音楽なら、誰でも、10代から20代の多感な時に聴いた音楽がその人の一生の音楽になるのでは?小生が子供の頃、テレビで「懐かしのメロディー」といった番組があり、東海林太郎や三浦洸一(現在95歳!)、渡辺はま子といった往年の歌手がよく登場していました。両親は涙を流して熱心に聴き入っていましたが、少年の私はさっぱりついていけず、世代間ギャップを感じたものでした。歳をとると、今度は我々が世代間ギャップを若者たちから糾弾される番になってしまいました。

 私は洋楽派だったので、多感な時代は、ビートルズやローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリンばかり聴いていましたが、フォークソングのブームだったので、吉田拓郎やかぐや姫なども結構聴いていました。でも、今の若者は、「四畳半フォーク」なんて、辛気臭くて絶対聴かないでしょうね(笑)。逆に言わせてもらえば、今のラップやらDJやら、我々は、とてもついていけませんが。

銀座「ひろ」1000円ランチ 銀座で一番安いのでは?

 先日、久しぶりに東京・国立劇場で中村京蔵丈の舞台「フェードル」を観て、遅く帰宅したら、たまたま、天下のNHKがMISAMO(ミサモ)という三人組のガールズグループのライブショーをやっていました。勿論、見るのも聴くのも初めてです。名前から、そして顔立ちから、韓国人か中国人かと思いましたら、どうやら、韓国の9人組の多国籍グループ、TWICEの中の日本人サブユニットだということが後で分かりました。ビールを片手に少し酔って見ていましたが、「アラビアンナイト」に出て来るような、かなり性的刺激の強いダンスグループで、天下の国営放送によく出演できたなあと思ってしまいました。若い人は平気かもしれませんが、正常な性的羞恥心を害される(猥褻の定義)と言ってもいいかもしれません。それに、出演しているのが民放ではなく、NHKですからね。時代は変わったなあ、と思いました。(否定はしませんよ。皆さんと同じように、嫌いじゃありませんから=笑)

 老兵は死なず、ただ消えゆくのみ Old soldiers never die, They just fade away

 6年8カ月間、日本を占領したGHQのダグラス・マッカーサー司令官(元帥)が退任に当たって、米議会で演説した有名なフレーズです。流行について行けなくなった今、私の頭の中で、このフレーズが再三、響き渡ります。

 でも、まあ、ええじゃないか、ええじゃないか、です。今は動画サイトがありますから、無理して背伸びして若者たちに媚を売ったりせず、1960~70年代の好きなロックやボサノヴァを見たり、1950年代の黄金時代と言われた日本の全盛期の黒澤明や溝口健二や小津安二郎や成瀬巳喜男の映画を見て余生を過ごせば、それでいいじゃん。

かなりの知的労働作業?=中村京蔵 爽涼の會「フェードル」

 土曜日、久しぶりに、恐らく4年ぶりに舞台芸術を鑑賞しました。勿論、コロナのせいです。久しぶりだったせいか、その世界に没入するのが最初は大変でしたが、最後は終了するのが惜しいぐらいに感じました。

 舞台は、私の数少ない歌舞伎役者の友人である中村京蔵丈(京屋)の自主公演である爽涼の會です。今年の演目は、フランスのラシーヌの古典劇「フェードル」を翻案した同名作品(岩切正一郎訳)です。ラシーヌの原作は、ギリシャ悲劇を題材につくられていますが、京屋さんの舞台も、登場人物がアテネ王テゼ(池田努)もその妻で王妃のフェードル(中村京蔵)も、フェードルの義理の息子の禁断の恋の相手であるイポリット(須賀貴匡)も、そのまま、その名前で舞台に現れます。しかも、舞台衣装は、男性は、恐らく、日本の戦国時代と思われる甲冑姿で、女性は艶やかな和服姿ですから、和洋折衷といいますか、うーん、何と言いますか、日本人の武将が「フェードル!」などと叫ぶと、どう理解したらいいのか、正直、最初は頭の中が混乱してしまいました。

 まさに、歌舞伎でもない、新劇でもない、ギリシャ劇でもフランス古典劇でもない、21世紀の革新劇でした。

 それにしても、翻訳台本通りでしょうが、あまりにも長い台詞に驚きつつ、役者さんには少し同情してしまいました。演じる方も観る方もかなりの知的労働作業ではないかと思いました(笑)。私の左隣席の高齢の御婦人と中年の令夫人は、暗い客席で船を漕いでおられました。

 何で京屋さんが、「フェードル」を取り上げたのか、会場内で配布されたプログラムを読んでやっと理解できました。京屋さんがラシーヌの「フェードル」を知ったきっかけは三島由紀夫で、三島は、この作品を翻案して、「芙蓉露大内実記(ふようのつゆ おおうちじっき)という歌舞伎の義太夫狂言に仕立てていたというのです(三島は29歳か30歳ぐらいですから、やはり天才ですね)。これは、1955年11月に歌舞伎座で、六世中村歌右衛門と二世實川延二郎の主演で一度だけ上演されたといいます。三島は、舞台を戦国時代の大内氏による尼子攻めに設定し、フェードルを芙蓉の前、イポリットを大内晴時などとしました。京屋さんは、その舞台は観ていませんが、学生時代から三島の演劇台本を熟読していて、三島とは違うフェードルをつくりたいという構想を抱いていたといいます。

 今回、舞台に登場する人名も地名もそのまま翻訳台本のままにして、扮装を和様式にしたのは、京屋さんが1980年に日生劇場で観た蜷川幸雄演出の「NINAGAWA・マクベス」の影響だということもプログラムの中で明かしておられました。

 よく知られていますように、中村京蔵さんは国立劇場歌舞伎俳優養成所の御出身です。歌舞伎は江戸時代に始まった伝統芸能ですから、身分社会の残影から家筋が重視されております。幹部俳優とそれ以外では長くて深い溝があります。割り当てられた役に対して不満を抱く「役不足」は、歌舞伎から来た用語だという説もあります。それだけ、役は重要なのですが、歌舞伎の場合、主役は幹部俳優しか演じられない伝統があります。

 それだけに、中村京蔵さんは、毎年、自分のプロデュースと主演で自主公演を開催されているわけですから、大変な資本が掛かります(今回はクラウドファンディングを実施されました)。本当に頭が下がるといいますか、尊敬しております。

 1966年に開場された国立劇場は、今年10月で閉館して建て直しされるそうですね。私はあの校倉造り風の建物が大変好きで、まだまだ持つんじゃないかと思っていましたが、日本人はスクラップアンドビルドが大好きですからね。

 2029年秋に再開場されるという話ですが、6年後ですか!生きているかなあ?

 ちなみに、この国立劇場の辺り、江戸時代はあの渡辺崋山の田原藩の上屋敷があった所でした。渡辺崋山は蛮社の獄で蟄居を命じられ、自害した蘭学者であり、画家でもあり、私も偉人としてとても尊敬しています。特に、ドナルド・キーン著「渡辺崋山」を読んで、その人となりを知りました。画家としては、谷文晁に師事しただけあって、「鷹見泉石像」は国宝に指定されています。鷹見泉石は古河藩(現茨城県)の家老で、優れた蘭学者であり、大塩平八郎の乱を平定した人としても知られています。

談志が愛した銀座の中華料理店

 落語家の立川談志(1936~2011年)が亡くなって、今年でもう10年になるんですね(行年75歳。命日は11月21日)。時間の流れの速さには卒倒しそうです。

 その談志師匠が贔屓にしていた中華料理店が銀座にあるというので、ランチに行って参りました。北京料理「東生園」という店です。場所は、泰明小学校の近くで、ちょくちょく行っていた蕎麦屋「泰明庵」の斜め向かいといったところにありました。

 灯台下暗し、です。

 やっぱり、グルメは脳で食べるものなんですね。旨い、不味いは関係ない(笑)。誰それ有名人が贔屓にした店とか、ミシュランで三ッ星を取ったから、といった「情報」でヒトは、食欲を満たす動物なんですよ。

 私もそんな動物の一人ですから、秘密に仕入れた情報だけを頼りに行ってみました。

東京・銀座・北京料理「東生園」五目チャーハン・ランチ900円

 注文したのは、五目チャーハン。談志師匠がこよなく愛した五目チャーハンは1300円ですが、私が注文した五目チャーハンは、ランチでしたので900円でした。

 うわっ! うまっ!

 北京料理の看板を掲げていますが、とても上品な味でした。今まで食べた五目チャーハンの中でもベスト3には入ります。加えて、給仕してくれるお店の女性も感じが良い。900円ランチは、酢豚から中華風カレーライスまで9種類ありましたから、これから全部制覇しようかしら(笑)。

 談志師匠のグルメぶりには見直しました。

東京・銀座・北京料理「東生園」

 立川談志と言えば、一時閉園の危機から一気に全国的な人気動物園に再建した北海道の旭川動物園の元園長小菅正夫さんのことを思い出します。今から15年以上昔に帯広に赴任していた時に、講演会の講師にお招きしたことがあるのですが、小菅さんは談志の大ファンで、控室で初対面でお会いした時、最初から最後まで談志の凄さを熱っぽく語っていました。北海道で落語会があれば必ず行くと話していました。

 そう言えば、私自身は、彼のこと、テレビやラジオで接しても、寄席で生で一度も見たことありませんでしたね。亡くなった時に、翌日の某スポーツ紙が「談志がシンダ」と回文のような上手い見出しを付けていたのが今でも忘れませんが、「嗚呼、一度くらい見ておけばよかった」と後悔したものです。

◇一期一会の立川談志

 でも、立川談志師匠には一度だけ取材したことがあります。1998年頃だったか、東京・赤坂にある有名な前田病院に検査か入院かで行くという報せがあって、各社の芸能記者が取材に走ったのです。その前年にがんの手術をしたりして、一時「談志死亡説」まで流れていたからでした(その後治癒)。

 報道陣に囲まれた談志師匠は当時62歳。少しやつれて痩せた感じでしたが、口調ははっきりしていて、「皆さん、こんなに集まってくださって、どうもすいませんねえ」とあまりにも低姿勢だったので吃驚。談志と言えば、べらんめえ調で、人をどやしつけるタイプだと思っていたので拍子抜けしてしまったことを覚えています。勿論、その時は、高座に上がった立川談志ではなく、本名の松岡克由という素顔を晒していただけなのかもしれません。

戒律は何処へ行った?=築地本願寺カフェ「Tsumugi」で肉食す

 今、何かと話題になっている築地本願寺カフェ「Tsumugi」紬に初めて行き、会社の近くなんでランチして来ました。

 築地本願寺は、御説明するまでもなく、浄土真宗本願寺派(西本願寺)のいわば東京の総本山みたいな寺院です。江戸初期の元和2年(1617年)に浅草で創建されましたが、1657年の「明暦の大火」で焼失してしまいます。その後、幕府から与えられた土地が現在の場所で、当時は海上。そこで埋め立てをして「土地を築き」、本堂を建立したことから「築地」の由来になったことは皆さまも御案内の通りです。なお、大正12年(1923年)の関東大震災で再度本堂を焼失し、昭和9年(1934年)に現在のちょっと変わったというか、初めての方が見れば異様なインド寺院風の本堂になっております。

 400年以上の歴史があるわけですが、実は、オウム真理教事件などもあり、最近、若者らの既成宗教、特に仏教離れが進み、参拝者も激減していたそうです。

 そこで、築地本願寺は、あの開成高校から慶應大を卒業し、銀行員からコンサルタント会社社長も経験して僧侶の資格を得たA氏を2015年から事務方トップの宗務長に起用し、「開かれた寺」を目指すA氏の大幅改革によって、参拝者は2015年からの5年で実に2倍の250万人に増えたといいます。

 A氏は、数多くのテレビや雑誌の取材に応じて「顔見世興行」のように露出されているので、皆さまも御存知のことでしょう。

築地本願寺 カフェ「Tsumugi」紬

 私は「野次馬」ですから、カフェに初めて行ってみました。

 その前に、本堂は、会社から近いので、昼休みを利用して何度も行ってます。でも、キリスト教会のようなパイプオルガンが設置されていて、1台3億円もするとは知りませんでしたね。(テレビの番組で知りました)

 築地本願寺カフェ「Tsumugi」紬は、まさに21世紀のカフェ・レストランでした。加賀の一向一揆や織田信長による石山本願寺攻めの歴史を知っている我々にとっては、実に感慨深いものがあります。

 とにかく、ビックリです。

十三穀御飯と和風ビーフステーキ 1540円 写真の上部にメニューがあり「オーダーはこちらから 1」と書いてある

 何と!注文するのに、メニュー表紙のバーコードをスマホで読み取って、それから初めて注文することができるのです。スマホを持っていない人はどうしたらいいんでしょうかねえ?

  最近、海外旅行に行っていないので、知りませんが、こんなバーコード注文なんて、紐育や巴里や倫敦でもやっているんでしょうか? IT先進国のフィンランドや、何でも一番になりたがる中国なら既にやってそうですが、もしかして、世界初なのかもしれません。

 でも、すぐ目の前に接客してくれる係の若い綺麗な女性がいるのに、何か味気ない(こらっ!)私はスマホ中毒というか、スマホ廃人ですから、バーコードを読み取り、すんなり「注文」のボタンを押せましたが、それでも、どこか解せない。そこで、美人さんに「どうして、私が注文したことが分かるんですか?」と尋ねたところ、「あ、それは、テーブルごとに番号が付いていて、バーコードで読み取る際に、場所が分かるのです。お客様のメニューには『1』と書かれていますよね?」

 なるほど、よく分かりました。

 会計の際、スマホのアプリで、R社のポイントを加算してくれて、カードも使えました。「凄く、IT化が進んでいるんですね」と帰り際に言ったところ、美人さんは「2月の頭から始めたんです」とニッコリ微笑んでくれました。(マスクではっきり見えませんでしたが)

◇「般若湯」「桜」「牡丹」なら食べ放題、飲み放題

 ところで、私は「和風ビーフステーキ」を注文したのですが、仏教寺院が経営するカフェだというのに、肉も魚も食べ放題、日本酒もビールもワインもウイスキーも飲み放題でした(ただし、総務省の高級官僚を見習わずに、御自分でお支払いくださいね)。

 細かく言えば、殺生を禁じる仏教の戒律に違反しますよね?あ、僧侶御自身だけが守っていればいいのかしれませんが、色んな宗派の中でも、浄土真宗は特に寛大な気がします。僧侶でも肉食妻帯は許されているようで、何と言っても件の宗務長をはじめ、僧侶でも剃髪せず、長髪を伸ばしている方を多く見受けられます。日本の仏教の宗派の信者の中で、浄土真宗が一番多いのは、このように、戒律に対して寛大なせいなのかもしれません。

 隠語として、お酒のことを「般若湯」と言ったり、馬肉を「桜」、鹿肉を「紅葉」、猪を「牡丹」もしくは「山鯨」などと言ったりしております(花札の影響か?)。歌舞伎の「京鹿子娘道成寺」や落語なんかにも出てきますよね。ということは、お坊さんたちも、昔から隠れて、いや正々堂々と戒律を破っていたということになりますか。親鸞聖人が見たら吃驚するかもしれませんが。

中村京蔵独演会「舞踊の夕べ」=「現在道成寺」と「京鹿子娘道成寺」を鑑賞してきました

 昨晩は久しぶりに舞台を鑑賞してきました。

 歌舞伎役者では今や唯一の友人とも言える中村京蔵丈の独演会「舞踊の夕べ」です。かつて、演劇記者の頃は月に数回は訪れていた東京・半蔵門の国立劇場(小劇場)にも久しぶりに足を運びました。

 半蔵門駅からこの国立劇場に行く途中に、2メートルは超す高い塀に囲まれた広大な敷地の超豪邸がありましたが、どなたのお住まいなのでしょうか?今まで気にも留めていませんでした(笑)。近くに警察官が常時待機する駐屯所があるので、民間人ではないような、ある程度想像はつきますが…。

おっと、中村京蔵丈の舞台の話でした。演目は「現在道成寺」と「京鹿子娘道成寺」の道成寺もの二題。解説によると、「現在道成寺」は、寛延2年(1749年) 正月、江戸・中村座で中村粂太郎が長唄曲として初演されたそうです。後に、長唄から派生した荻江に移されたということで、今回も唄は、荻江。私の拙い記憶では初めてでしたが、長唄との違いが分りませんでした。

 おっと、主役は傾城清瀧役の京蔵さんでした。花道に近い私の席のすぐ近くで「京屋!」と大向こうさんが叫ぶので、一瞬びくっとしました。舞踊の振り付け、所作について知ったかぶりをしたくないのですが、一瞬、江戸時代に戻ったような風合いを感じました。

 25分間の休憩をはさんで始まったのが、歌舞伎の演目ではしばしば取り上げられる有名な「京鹿子娘道成寺」。またまた解説によると、宝暦3年(1753年)3月、江戸・中村座で初世中村富十郎が初演したといいます。「女形舞踊の最高峰」ということで、まずは、歴代幹部の血統しか主役は張れません。

 それを、師中村雀右衛門を崇拝する京蔵さんは「道行」から烏帽子を付けた「白拍子の舞」、赤の衣裳から浅葱の衣裳に代わる「町娘の踊り」、三つの笠を使った「花娘」など、最後は「鐘入り」まで、67分間、見事に白拍子花子を演じ切りました。特に、最後は、鐘の上に登って、見えを切る美しさにはぞくっときました。京蔵さんの実年齢は知ってますが、若い20歳代に見えましたよ。

 六代目(と言えば分かりますね)の曾孫の尾上右近が能力(のうりき=寺男)白雲を演じる豪華さ。観客席は満員でした。舞台が成功裡に終わって、京蔵丈も一安心でしょう。私も久しぶりに舞台を堪能しました。

失われた時を求めて=見つかった?高悠司

国立国会図書館

 久しぶりに東京・永田町の国会図書館に行って来ました。病気をする前に行ったきりでしたから、もう5年ぶりぐらいです。当時、ゾルゲ事件関係の人(ドイツ通信社に勤務してゾルゲと面識があった石島栄ら)や当時の新聞などを閲覧のために足繁く通ったものでした。

 今回、足を運んだのは、自分のルーツ探しの一環です。私の大叔父に当たる「高悠司」という人が、東京・新宿にあった軽劇団「ムーラン・ルージュ新宿座」で、戦前、劇団座付き脚本家だったらしく、本当に実在していたのかどうか、確かめたかったのです。

 高悠司の名前は、30年ほど前に、亡くなった一馬叔父から初めて聞きましたが、資料がなく確かめようがありませんでした。正直、本当かどうかも疑わしいものでした。

表紙絵は松野一夫画伯

 それが、最近、ネット検索したら、やっと「高悠司」の名前が出てきて、昭和8年(1933年)5月に東京・大阪朝日新聞社から発行された「『レヴュウ號』映画と演藝 臨時増刊」に関係者の略歴が出ていることが分かったのです。今回は、その雑誌を閲覧しようと思ったのです。

 最初は、雑誌ですから、「大宅壮一文庫」なら置いてあるかなと思い、ネット検索したらヒットしなかったので、一か八か、国会図書館に直行してみました。 

 何しろ5年ぶりでしたから、パスワードを忘れたり、利用の仕方も忘れてしまいましたが、「探し物」は、新館のコンピュータですぐ見つかりました。何しろ86年も昔の雑誌ですから、実物は手に取ることができず、館内のイントラネットのパソコン画面のみの閲覧でしたが、申請したら、コピーもしてくれました。カラーが36円、白黒が15円でした。

 国会図書館内では、一人で何やらブツブツ言っている人や、若い係の人に傲岸不遜な態度を取る中年女性など、ちょっと変わった人がおりましたが、税金で運営されているわけですから、多くの国民が利用するべきですね。

「 レヴュウ號」目次

 7月26日に発売され、同日付の産経新聞に全面広告を打っていた「月刊 Hanada」9月号には「朝日新聞は反社会的組織」という特大な活字が躍り、本文は読んでませんが、これではまるで朝日新聞社が半グレか、反社集団のようにみえ、驚いてしまいました。右翼国粋主義者の方々なら大喜びするような見出しですが、戦前の朝日新聞は、こうして、政治とは無関係な娯楽の芸能雑誌も幅広く発行していたんですね。

 とはいえ、この雑誌が発行された昭和8年という年には、あの松岡洋石代表が席を立って退場した「国際連盟脱退」がありましたし、海の向こうのドイツでは、ヒトラーが首相に就任した年でもありました。前年の昭和7年には、血盟団事件や5・15事件が起こっており、日本がヒタヒタと戦争に向かっている時代でした。

 そんな時代なのに、いやそういう時代だからこそ、大衆は娯楽を求めたのでしょう。このような雑誌が発売されるぐらいですから。

 目次を見ると、当時の人気歌劇団がほとんど網羅されています。阪急の小林一三が創設した「宝塚少女歌劇」は当然ながら、それに対抗した「松竹少女歌劇」も取り上げています。当時はまだ、SKDの愛称で呼ばれなかったみたいですが、既に、ターキーこと水ノ江滝子は大スターだったようで、3ページの「二色版」で登場しています。

 残念ながら、ここに登場する当時有名だった女優、俳優さんは、エノケン以外私はほとんど知りません。(先日亡くなった明日待子はこの年デビューでまだ掲載されるほど有名ではなかったみたいです)むしろ、城戸四郎や菊田一夫といった裏方さんの方なら知っています。

 面白いのは、中身の写真集です。(「グラビュア版」と書いてます=笑)「悩ましき楽屋レヴュウ」と題して、「エロ女優の色消し」とか「ヅラの時間」などが活写されています。それにしても、天下の朝日に似合わず、大胆で露骨な表現だこと!

 43ページからの「劇評」には、川端康成やサトウハチロー、吉行エイスケら当時一流の作家・詩人も登場しています。

レヴュウ関係者名簿

 巻末は、「レヴュウ俳優名簿」「レヴュウ関係者名簿」となっており、私のお目当ての「高悠司」は最後の54ページに掲載されていました。

 高悠司(高田茂樹)(1)佐賀縣濱崎町二四三(2)明治四十三年十一月三日(3)ムーラン・ルージュ(4)文藝部プリント(6)徳山海軍燃料廠製圖課に勤め上京後劇團黒船座に働く(7)四谷區新宿二丁目十四番地香取方

 やったー!!!ついに大叔父を発見しました。

 一馬叔父からもらった戸籍の写しでは、大叔父(祖父の弟)の名前は、「高田茂期」なので、ミスプリか、わざと間違えたのか分かりませんが、出身地と生年月日は同じです。(4)の文藝プリントとは何でしょう?同じムーラン・ルージュの伊馬鵜平(太宰治の親友)はただ文藝部とだけしか書かれていません。(5)は最終学歴なのですが、大叔父は、旧制唐津中学(現唐津西高校)を中退しているので、わざと申告しなかったのでしょうか。

 (6)は前歴でしょうが、徳山海軍燃料廠の製図課に勤めていたことも、劇団黒船座とかいう劇団に所属していたことも今回「新発見」です。 確か、大叔父は、旧制中学を中退してから佐賀新聞社に勤めていた、と一馬叔父から聞いていたのですが、その後、「職を転々としていた」一部が分かりました。

 (7)の香取さんって誰なんでしょうか?単なる大家さんなのか、知人なのか?新宿2丁目も何か怪しい感じがしますが(笑)、ムーラン・ルージュまで歩いて行ける距離です。想像力を巧みにすると面白いことばかりです。

いずれにせよ、この雑誌に掲載されている当時あったレビュー劇団として、他に「ヤパン・モカル」「河合ダンス」「プペ・ダンサント」「ピエル・ブリヤント」などがあったようですが、詳細は不明(どなたか、御教授を!)。「ムーラン・ルージュ」の関係者として6人だけの略歴が掲載されています。そのうちの一人として、天下の朝日新聞社によって大叔父高悠司が選ばれているということは驚くとともに、嬉しい限りです。

繰り返しになりますが、大叔父高悠司こと高田茂期は、ムーラン・ルージュを辞めて、満洲国の奉天市(現瀋陽市)で、阿片取締役官の職を得て大陸に渡り、その後、徴兵されて、昭和19年10月にレイテ島で戦死した、と聞いています。33年11カ月の生涯でした。

遺族の子息たちはブラジルに渡り、その一人はサンパウロの邦字新聞社に勤めていたらしいですが、詳細は分かりません。

この記事を読まれた方で、高悠司について他に何かご存知の方がいらっしゃっいましたら、コメントして頂けると大変嬉しいです。ここまで読んで下さり感謝致します。

ジャニー喜多川さん亡くなる

Copyright par Duc de Matsuoqua

長年、ジャニーズ事務所を率いてきたジャニー喜多川さんが亡くなりました。享年87。

父親が真言宗の僧侶で、布教のため渡米したため、ジャニーさんはロサンゼルス生まれ。ビートルズがデビューした1962年、30歳の時に芸能事務所を設立して、多くの男性アイドルを育てたことは周知の通り。熱中したアイドルの名前を言えば、女性の歳がバレてしまう、とまで言われました。

私のような古いおじさん世代は、ジャニーズからフォーリーブスぐらいまで。このあとの光GENJIだのたのきんトリオだのV6だのSMAPだの嵐だの名前を知っている程度。アイドルはオネエちやんに走ってしまいました(笑)。

ジャニーさんには、若い男の子の才能を見抜く独特の感性と鑑識眼がありました。これは天性の才能なので一代限りでしょう。タレントがさまざまなスキャンダルに見舞われても、事務所がビクともしなかったのは彼の功績です。

これだけの功績を挙げながら、「裏方」に徹して、マスコミ嫌いで知られ、殆どメディアには登場しませんでした。私も芸能記者時代、広報担当のSさんを通じてメリー喜多川さんには会えましたが、ジャニーさんとは会えませんでした。

WTナショナルギャラリー Copyright par Duc de Matsuoqua

インタビューに応じても、顔写真の撮影は厳禁。だから、野球帽をかぶりサングラスを掛けた「配り写真」ぐらいしか新聞やテレビに出てこないのです。(共同通信配信の素顔の写真はありましたが)

ザッカーバーグのフェイスブックとは真逆の人生哲学ですね。ヒトは世間に顔を晒してすぐ有名になりたがりますが、ジャニーさんは、派手な芸能界とはいえ、自分は演出家であり、プロデューサーという職業を自覚して、裏方に徹しました。その点は大変尊敬します。

僧侶だったお父さんの影響もあったのかもしれませんね。

ということで、ジャニーさんの御尊父が僧侶として修行された真言宗総本山高野山に、これから行って来ます!(羽田空港にて記憶で書きました。「ユー、やっちまいな」)

山里亮太さん蒼井優さん、ご結婚おめでとうございます!

 最近は、衝撃的な無差別殺人事件や高齢者ドライバーによる交通死亡事故や幼児虐待のニュースばかり聞かされていたので、心がささくれだっておりました。そのせいか、昨日電撃的に発表されたお笑い芸人と美人女優との結婚ニュースは久しぶりに明るい話題を提供してくれました。大変失礼ながら、もてない世の男性諸君に勇気を与えてくれたんじゃないでしょうか(笑)。

  結婚を発表した山ちゃんこと南海キャンディーズ山里亮太(42)さんと女優の蒼井優(33)さんのことです。

 最初このニュースを聞いたとき、多くの人と同じように「えーー!」と思いました。「ありえない」というのが正直な感想です。

 でも、今朝のワイドショーでの2人の会見を仕事として(笑)見ていたら、「お似合いのカップルじゃないかな」と妙に納得しました。芸能界は虚像と実像が複雑に交じり合った世界ですから、実際のところは分かりませんが、派手好きな芸能人とは違って2人とも堅実で、飾らない性格同士だったことには感心しました。

 特に、蒼井さんは、山ちゃんから結婚指輪を贈られようとしたら断って、「それよりいい思い出をつくってください」と頼んだことには驚きました。2人で色んな所を旅行したり、食事したりする方がいいというのです。女優さんなら派手にネックレスや指輪で飾りたがるものですが、感心感心です。もっとも、本当の理由は、彼女は大切な物はすぐなくしてしまうから、ということらしいですが。

 私もしっかり研修してますね。芸能リポーターみたいです(笑)。

 とはいえ、2人は6月3日に入籍しながら、同居していないというのも気になります。(その必要はないか?)蒼井さんも「恋多き女優」として噂が絶えなかった過去があります。男性42歳、女性33歳は「厄年」ですからね。所属事務所は、山ちゃんが「よしもと」、蒼井さんは、ともさかりえでブレイクしたイトーカンパニーですか。よしもとはともかく、イトーカンパニーの沢山の所属タレントは、ともさかさんと蒼井さん以外、私は知りませんけど…。

 いやいや、せっかくの明るいニュースなのに水を差す必要はないですかあ…(笑)。末永くお幸せに。

文楽初春公演と初戎

明けましておめでとう御座います。大阪の難波先生です。昨日は「10日えび(戎)」でした。関東よりも関西、京阪神の方が賑やかですね。もしかして、関西以外の日本人は知らないかもしれません。

ところで、不肖は新年1月7日(月)に国立文楽劇場に初春公演を見てきましたが、今年は文楽の人形芝居もさることながら、「10日戎」の前触れを味わうこともできました。

 10日付の、関西の各紙夕刊は全国の恵比寿神社の総本社で、西宮市内にある「西宮神社」での、参拝の一番乗りを競う「福男」の神事を写真入りで大きく報じています。

 早朝6時の開門と同時に、全力疾走して一番乗りを競う神事で、今年の「一番福」は広島県福山市から来た22歳の消防士だったそうです。5000人が参加したということですが、昔から商いが盛んな京阪神は、七福神で商売繁盛の「恵比寿さん」信仰が盛んです。皆さん、福笹を買いに神社に出かけますね。

 ちなみに、七福神の中で、恵比寿さんだけが日本の神さまで、残りの六福神は、インドか中国の神さまです。

Copyright par Namva-sensei

 上の写真は「国立文楽劇場」のロビーに飾られた今宮神社の宝恵籠行列に参加する蓮台とその案内です。この蓮台に人形遣いの豊松清十郎と文楽人形が乗って、この行列に参加するわけで、その前触れの宣伝です。賑やかに宝恵籠行列が繰り広げられたと思います。

また、恵比寿さんと言えば「鯛」ですが、やはりロビーに近所の「黒門市場」から贈られた大きな、立派な睨み鯛がデーンとおかれていました。凄いでしょう(笑)。


Copyright par Namva-sensei

「初戎」は各神社とも1月8日から始まり12日まで5日間、賑やかに開かれます。

何処も「宝恵籠行列」やいろいろな行事が繰り広げられます。

ちなみに、関西では「三大恵比寿神社」とは、兵庫県の西宮神社、大阪の今宮神社、京都の恵比寿神社のことを指します。

大阪の今宮神社は、船乗り込みや、ミナミの繁華街を歌舞伎役者、落語家、芸能人が加わった宝恵籠行列が繰り出したりします。

京都の恵比寿神社は祇園にあるので、舞妓さんの福笹授与などがあり、其々その土地柄が滲み出ます。

以上 本年も宜しく御願い申し上げます。

今の日本人は教養がない!講談と浪曲の違いも分からないとは!

六義園
 演劇評論家の安東亀男です。東京・四谷の「わかば」の「鯛焼き」を世間に広めた方は、安藤鶴夫先生です。お間違いのないように。
 何か、渓流斎とかいう青二才が「最近、神田松之丞という講談師がえらい評判で、最近上梓した『絶滅危惧職』という本もよく売れていて、何と言っても、彼の講演切符はいつも完売で、前売り券もなかなか手に入らないと評判じゃないですか」と騒ぎまくってます。駄目ですねえ。「恐れ入り屋の鬼子母神」ですよ(大笑)。松之丞は、まだ三十そこそこの二ツ目ですよ。
 そんなんで、驚いていたら、株が下がるというもんです。
 毎日、立ち食いの回転寿司ばかり食っていて、「うまい、うまい」と言ってては、人間の品格が落ちるというもの。たまには、「すきゃばし次郎」や「久兵衛」にでも行って大枚をはたくのが、江戸っ子の粋ってもんですよ。
 松之丞なんぞは、まだまだレベルの酷い講談のチンピラです。最近は、「講釈師の名人」を知らない、違いの分からない若者、いや似非老人が実に増えていて、本当に困ったものです。
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 何はともあれ、渓流斎とやらも、まずは「服部伸」の講談を聞いてみたらどうですかねえ。

 彼は、浪曲師だったのが、「瞼の母」の作者長谷川伸の一字をもらって、昭和11年に講談師に転向した人です。明快な語り口で引き込まれますよ。「は組小町」「忠臣蔵」などを聞いてみてください。
 今は、「ゆふちうぶ」とかいう活動写真で見られますよ。
 最近の日本人は教養がないので、浪曲と講談の区別もつきやしない。まあ、諸説ありますが、講談は、室町時代の「太平記読み」が嚆矢という学者もいれば、江戸時代という学者もいる。浪曲は、800年の歴史を誇ると協会の方々は胸を張りますが、浪曲が成立したのは明治期という説が有力で、意外と新しい芸能なのです。
 講談は、読み(語り)専門ですが、浪曲は、「曲師」と呼ばれる三味線の伴奏者が付きます。
 明治時代の芸人は、「遊芸人」の免許状がないと語れなかった史実をご存知でしょうか。だから、自由民権運動とも繋がりが出てくるのですね。講談師、浪曲師はジャーナリストでもあったわけです。「政治講談」の伊藤痴遊なども講釈師の先駆けというか、講談社(講談の速記録を出版したのが始まり)、平凡社の礎をつくったようなものです。
 当時の浪曲人気は絶大で、大正時代になって日本放送協会(NHK)のラヂオ受信機が普及したのは「浪曲を聴きたい」人が多かったからで、貧しい庶民でもなけなしの金をはたいて買っていたのです。だから、NHKは、今でも浪曲には足を向けて寝られないのです。
 昭和初期は、広沢虎造の興行を巡って、神戸の山口組と下関の籠寅組が対立し、結局、山口組二代目が、浅草で刺された(後に死亡)事件は語り草になっておりますね。
六義園
 今は、浪曲協会は東西二つに分かれていて、「浪曲親友協会」は関西の浪曲師の団体組織です。二代目京山幸枝若が会長ですね。
 東京は「日本浪曲協会」です。こちらの現在の会長は富士路子です。別に対立というより、その浪曲自体が消滅の危機を迎えているのが実情です。
 渓流斎とやらも一度、浅草の「木馬亭」に足を運んでみてください。玉川奈々福という上智大学出身で若手の浪曲師がいます。彼女は浪曲界の期待、成長株です。沢村豊子という80歳の「浪曲三味線の名人」とコンビを組む時があるので、その日時を事前に調べて聞きにいくと良いでしょう。
 浪曲、興行の世界は、渓流斎とやらの専門分野である「永田貞雄」先生が牛耳っていました。永田先生は、浪曲、講談、寄席、演歌など、戦前、戦後の興行界の顔役でした。渓流斎とやらが「不愉快だった」と書いていた「東洋文庫」の石田幹之助先生みたいなものですよ。東洋文庫に行っても、案内に三菱岩崎の功績は書かれていても、石田先生の「い」の字も出てこないらしいですけどね。
 芥川龍之介の親友の石田幹之助と興行師永田貞雄を、同じ土俵で論じられるのは、迂生安東亀男くらいでしょうね。(大笑)。
六義園
 それに、今では何でもネット社会とか言っておりますが、服部伸にしろ、伊藤痴遊にしろ、アナログの知識がないと、そんな人の名前すら知らないので、検索すらできないのですよ。
 これは、新聞や本を読まず、ひたすらネットでしか二次情報を得ることしかしない若者や似非老人が陥る過ちですね。
 はっきし言って、講談、浪曲を知らずに日本文化を語ること勿れですよ。