映画「パヴァロッティ 太陽のテノール」は★★★★★

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 ロン・ハワード監督作品「パヴァロッティ 太陽のテノール」を観て来ました。「ダ・ヴィンチコード」や「インフェルノ」などでメガホンを取ったロン・ハワード監督には「外れ」がないですからね。音楽映画は、4年前にビートルズのツアー・ドキュメンタリーも編集してますし、何と言っても、彼が監督になる前、俳優として「アメリカン・グラフィティ」(1973年、ジョージ・ルーカス監督)に出演している時から私は観てるので親しみを感じます。この作品は、タイトルを聞いただけで、予告編も観ないでいきなり観て来ました。

 「世界三大テナー」の一人、ルチアーノ・パヴァロッティ(1935~2007)ほど世界中に知られたオペラ歌手はいないでしょう。「パスタを3人前ペロリと平らげた」といったような舞台外の日々の行動まで報道され、私生活もパパラッチに追い掛け回されていましたが、意外と彼の生い立ちやどういう教育を受けて歌手になったのか、家庭生活はどうだったのか、知られていませんでした。

 熱狂的なファンなら知っていたでしょうが、それほど興味がない私は、この映画を観るまで、彼は少し体格の良いイタリア人(笑)だということだけは知っていましたが、それ以外はこの映画で初めて知りました。彼の父親はパン焼き職人ながらアマチュアのテノール歌手で、ルチアーノは、小学校の教師になりながら、夢を諦めず、プロのテノール歌手(1961年)になった人でした。「キング・オブ・ハイC」と呼ばれる類まれなる天性の才能がありましたが、それらも人知れぬ隠れた努力の賜物だったようです。映画の中で、あるテノール歌手も言ってましたが、テノールの音域は普通に話す声とは違った不自然な声で、それを如何に自然に聴こえるようにするかが、プロの手腕で、彼の天才も相当な努力の上に花開いたものに違いないというのです。

 映画は彼の舞台映像とインタビューのドキュメンタリー形式で、最初の妻アドゥア・ベローニと3人の娘、36歳も離れた二番目の妻ニコレッタ・マントヴァーニらも登場し、プライベートな家庭生活を語っていましたが、やはり、色々と大変だったんだなあと同情するばかり。

 「悪名高い」評判の悪いプロモーターが彼を取り巻き、「異業種」のU2のボノらロックスターとの共演や、何十万人も集める野外コンサート、そして、プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラスとともに「三大テノール」としての世界的「売り込み」が、悉く成功していきます。失礼ながら、プロモーターたちはあまりにも貪欲そうで、人相が悪いので笑ってしまいました。それに、「ジョニー・カールソン・ショー」などの米人気テレビ番組や「TIME」誌の表紙を飾るなど、彼の人気も商業主義の権化であるマスコミの後押しが大きかったことでしょう。

 この映画では出てきませんでしたが、パヴァロッティは、完璧を求めるばかりに、何度も公演をキャンセルして、「キャンセルの王様」とまで言われ、シカゴのあるオペラ座では支配人から終身出入り禁止になったこともあったそうです。外見とは違い、かなり神経質で、傷つきやすい性格だったようです。

 悲しい時でもいつも笑顔を絶やさなかったパヴァロッティでしたが、それはエンタテインナーとして表向きにつくられたプロ魂に過ぎなかったこともこの映画で観て取れました。英ダイアナ妃らとともに慈善活動に精力を費やしたりしたのは、子どもの頃の戦争体験が大きかったから、というナレーションには少し納得しましたが、彼自身、大成功を遂げたとはいえ、幸福だったのか、不幸だったのか、観ていて分からなくなってしまいました。

 映像を通してでしたが、確かに鳥肌が立つほど、彼の歌声は心と腹の底に響き、素晴らし過ぎて、また、DVDを取り寄せてでも彼が出演したオペラが観たくなりました。私自身、1999年1月9日、東京ドームで行われたズービン・メーター指揮「三大テノール  ニューイヤー・コンサート」を観ているはずなのですが、その時、人の多さばかりが印象に残り、主役たちは豆粒にしか見えず、案外すぐ終わってしまい、その内容はほとんど覚えていないのです。

 1999年は特に忙しい年で、音楽担当記者として数多くの公演を観ていたのですが、変わり者の私ですから、「三大テノール」のあまりにもつくられた商業主義にうんざりしていたのかもしれません。(それほど凄かったのです)

 でも、こうして、13年前に71歳で亡くなったパヴァロッティという歴史的人物を映像を通して観ると、類まれな天才と同時代を生き、同じ空気を吸っていたんだという実感を味わうことができ、生きる勇気をもらった気がしました。

「私は、マリア・カラス」は★★★★

 映画「私は、マリア・カラス」(トム・ヴォルフ監督)を観てきました。彼女が出演した過去の公演フィルムや本人のテレビ・インタビューなどを繋げて編集したドキュメンタリー映画でしたが、見終わって、哀しい気持ちになりました。

 マリア・カラス(1923~77)は、説明するまでもなくオペラ歌手で、「世紀のディーバ」「20世紀最高のソプラノ歌手」などと称賛される一方、「気位が高い」「気分屋ですぐ公演をキャンセルする」などの悪評もあり、毀誉褒貶の多い人だった気がします。

 私の親の世代なので、彼女の現役時代は、ちょうど私が子どもの頃から大学生の頃だったので、海運王オナシスとのスキャンダルなども極東に住む異国の子どもの耳に入っておりました。でも、まだ53歳の若さでパリで急死したことは、私は大学生だったのに、フォローしていなくて、あまり覚えていないんですよね。

莫大な富と揺るぎのない名声を獲得しても、あっけないものです。いずれにせよ、若い頃はオペラ鑑賞など高くて観に行けるわけがなく、レコードも高くて手に届きませんでした。つまり、マリア・カラスの名声だけは聞こえてきても、私にとっては雲の上のそのまた上の存在で、たまに、NHK-FMラジオで、彼女のアリアを聴くぐらいでした。

 でも、この映画を観て、初めて彼女の苦悩が分かりました。ドタキャンも、心因性にせよ、身体性にしろ、体調不良でまともに声が出なくなったことが原因だったらしく、事情を知らない音楽記者や評論家らの非難や激しいバッシングに彼女はどんなに心に傷を負って、耐えてきただろうかと同情してしまいました。

 人間ですから当然かもしれませんが、若い頃から中年、壮年になるにつれて、まるで別人のように彼女の人相がどんどん変わっていくのには驚かされました。晩年になり、高音域がだんだん出にくくなって、発声練習に時間を掛けなくてはならなくなった焦りみたいなものまで顔に表れていました。

 彼女は確かに天才でしたが、この映画を観ると、芸術家というものは何と不幸なんだろう、と思ってしまいました。こうして、彼女の暗い面ばかり見てしまいましたが、「トスカ」の「歌に生き、恋に生き」にせよ、「ジャンニ・スキッキ」の「私のお父さん」にせよ、映像を見ただけでも彼女の最盛期の歌声はまさに比類なきもので、その巧さは空前絶後という感じがしました。それだけが唯一の救いといえば、救いでした。

クールベ「世界の起源」のモデルをついに発見!

アルハンブラ宮殿

ギュスターヴ・クールベ(1819〜77)は、19世紀フランスを代表する写実主義の画家です。代表作「オルナンの埋葬」「画家のアトリエ」などはよく知られています。詩人ボードレールの肖像画も残しています。

私自身は、大学の卒論に「印象派」(モネとドビュッシー)を選んだくらいですから、フランス史の中では、19世紀の文化や、革命を挟んだ帝政、王政復古、共和制、帝政、共和制とコロコロ変わる政治体制などにも関心があり、今でも興味を持ち続けております。

さて、クールベですが、パリのオルセー美術館に行かれると、クールベ・コーナーがありますが、そこに、ほぼ等身大の女性のgenitalsのクローズアップが展示されていて、まず大抵の人は度肝を抜かされます。タイトルの「世界の起源」(46×55センチ)とは言い得て妙で、よく名付けたものです(笑)。顔は描かれていません。局部だけです。

あまりにもリアル過ぎて「これ、ゲージュツなの?」と東洋から来たおじさんは圧倒されますが、これを見る前に、2人の若い裸婦がベッドで絡むようにまどろんでいる姿を描いた有名な、あの官能的な、想像以上に巨大な「眠り」(135×200センチ、プティ・パレ美術館)を事前に見ていれば、そのドギマギ感は少し薄れるかもしれませんが(笑)。

勿論、19世紀のサロンでは、このgenitals作品は大スキャンダルとなり、すぐさま隠匿され、オルセー美術館で一般公開されるようになったのは、つい最近の1995年からでした。その前は、著名な精神科医のジャック・ラカン(1901~81)がオークションで落札して何年間も、秘蔵していたようです。

「世界の起源」は検索すればその画像が出てきますが(18歳未満お断り。ここでは載せられません!)、そのモデルは誰なのか150年以上も不明で、一時はクールベお気に入りのモデル、ジョアンナ・ヒファーナン説もありましたが、謎に包まれていました。

それが、このほど、ついにその「正体」が分かったというのです。歴史家のクロード・ショップ氏が、仏国立図書館の司書部長で美術史家のシルビー・オーブナ氏の手を借りて、小説家のアレクサンドル・デュマと閨秀作家ジョルジュ・サンド(ショパンとの関係は有名)との往復書簡に注釈を付ける作業をしているうちに、そのモデルの名前が出てきて、偶然にも発見したというのです。

写真左がモデルのコンスタンス・ケニオー、右が画家クールベ

10月2日付のニューヨーク・タイムズ紙によると、そのモデルは、コンスタンス・ケニオー(Constance Quéniaux 1832~1908)という人物でした。パリ郊外で私生児として生まれ、オペラ座バレー団の踊り子として活躍した後、膝の故障で引退し、その後、高級娼婦になります。今ではすっかり忘れ去られましたが、当時は、あの楽聖ワーグナーと並び称されたオペラ作曲家のダニエル・フランソワ・エスプリ・オーベール(1782~1871)(現在は、パリ高速地下鉄オーベール駅にその名を残しています)の愛人となり、晩年はロワイヤル通りの豪邸に住み、彼女の死後は、その財産目録がオークションにかけられるほど裕福な後半生を送った人でした。

彼女がモデルになったのは1866年で、34歳ごろだったことが分かります。クールベは47歳でした。(依頼主は、当時コンスタンスを愛人にしていた元オスマントルコの外交官で超お金持ちのハリル・ベイ)その後、クールベは1870年のパリ・コミューンに参加してスイスに亡命せざるを得なくなり、不遇のうちに亡命先で57歳で亡くなります。

コンスタンスは、オペラ座の踊り子としてはかなり才能があったらしく、1854年の新聞の批評欄でも「優美で気品がある」と褒められています。詩人で批評家のテオフィル・ゴーティエも注目したようでした。

時は、日本で言えば、幕末の話です。現代人の感覚では、娼婦から愛人という遍歴は、眉をひそめるかもしれませんが、150年前は、田舎出の、しかも、私生児として生まれた女の子が、社交界にデビューするなり、それなりの地位に昇る手段の一つだったのかもしれません。富裕層は、劇場などに出かけては踊り子や女優らを自分の愛人にする時代でした。

 クールベも依頼主のベイの2人とも不遇のうちに亡くなりました。でも、コンスタンスの場合は、美貌と才覚に恵まれたおかげか、「成功者」として穏やかな晩年を過ごしたようでした。享年75。