「マティス」展で作品の撮影が解禁! 著作権は大丈夫でしょうか?

 2月24日(土)に、東京・乃木坂の国立新美術館で開催中の「マティス」展を観に行って来ました。土曜日の午前中でしたが、意外と空いていました。5月27日まで開催されるので、皆さん余裕を持っていらっしゃるからでしょう。

 国立新美術館は本当に久しぶりです。10年ぶりぐらいかもしれません。ですから、行き方もすっかり忘れておりました。そしたら、地下鉄千代田線の乃木坂駅に直結していたのでした。

 でも、入場したら、あまりにも広大で何処に行ったら良いのか、訳が分からなくなりました。何しろ、マティス展だけでなく、他の会場では、多摩美術大学や日大芸術学部など東京の5大学の美術部の展覧会が同時に開催されていまして、私なんか3階にまで行ってしまい、迷子になってしまいましたよ。(マティス展は2階でした)

4×8メートルの切り紙絵「花と果実」(マティス展・乃木坂・新国立美術館)

 フランスの画家アンリ・マティス(1869~1954年)に関しては、日本人も大好きですし、御説明するまでもないでしょう。フォーヴィズム(野獣派)の代表作家であり、「色彩の魔術師」の異名まであります。私も知っているつもりでしたが、若き頃、官立のフランス高等美術学校に入学できず挫折を味わっていたことまで詳しく知りませんでした。ただし、ギュスターヴ・モローから特別に個人指導を受けることで才能が開花します。

 また、絵画だけでなく、生涯にわたって彫刻や切り絵も手掛け、ライフワークとして南仏ヴァンスにステンドグラスから壁画、礼拝台に至るまで「ロザリオ礼拝堂」を設計し、今展でその礼拝堂の一部が展覧されていました。

「ロザリオ礼拝堂」(マティス展・乃木坂・新国立美術館)

 個人的な話ながら、最近、どうもメンタルが不調気味でしたので、「色彩の魔術師」の力によって煩悩を圧倒してもらおうと会場に足を運びました。2200円と入場料が高かったのですが、それだけの価値はあったと思いました。

 会場に足を運んで、一番驚いたことは、一部の作品が「撮影可能」だったことです。ですから、こうして、恐る恐る、一部写真を渓流斎ブログに掲載させてもらっています(もっと沢山撮影したのですが、ほとんど破棄しました)。

 何故、恐る恐るなのか、と言いますと、実は私は、もう30年も昔ですが、1990年代に美術記者をしていまして、当時、新聞にマチス(当時はマティスではなく、マチスでした)作品を取り上げて、その写真を掲載する際、かなり高額の著作権料を請求されたからでした。それで、マティス作品の著作権は大丈夫なのかなあ、と気になってしまったのです。

 そして、「そっかあ、マティスは1954年に亡くなっているから、没後50年の2004年で著作権は切れていたのかあ」と気付いたのです。しかし、話はそんな単純なものではなかったのです。例えば、海外の作家には「戦時加算制度」というものがあり、通常の著作権保護期間(50年間)に、第2次世界大戦の期間に相当する日数を加えることで、戦時中保護されていなかった著作権者の利益を回復する制度があるのです。マティスのフランスは、3794日(約10年5カ月)なので、50年ではなく、60年5カ月となります。

 となると、マティス作品は、2004年ではなく、2014年で著作権が切れたということになります。しかし、これでは安心できないようです。2018年に著作権法(TPP11協定)が改正され、1968年以降に亡くなった作家の著作権は、没後50年から没後70年まで延長されることになったからです。これにより、例えば、藤田嗣治画伯は、1968年に亡くなったので、これまで50年後の2018年まで著作権は保護されていましたが、改正により、70年後の2038年12月31日まで保護されることになったのです。

 さてさて、肝心のマティスさんです。繰り返しになりますが、2018年の著作権法改正に該当しない1954年に亡くなり、戦時加算を入れても、2014年には著作権が切れているはずです。しかし、フランス本国ではどういうわけか、マティスの著作権は切れておらず、「マティス財団」(著作者人格権)が管理しているというのです。彼らは、ミュージアムショップ等で売られるカップやバッヂなどのグッズに関して、いまだに制約しているといいます。

 私は著作権法に関しては素人なので、これ以上踏み込めませんが、今年2024年はマティス没後70年です。それで、展覧会の主催者さんは、会場の作品の撮影を許可したんじゃないかなあ、と判断しました。はい、間違った解釈でしたら、このブログに掲載した写真は全て取り下げますので、マティス財団さんの御見解も宜しくお願い申し上げます。

 (写真にも著作権があり、だから私が撮影した写真ですから、著作権は私にあるはずです。しかし、平面の絵画には写真の著作権がなく、立体の彫刻を撮影した写真なら著作権が有効になるとか、色々と複雑なようです。詳しい方、どうか御教授ください。)

 

東京・上野の博物館巡り=ランチは「蓮玉庵」で

 先週の土曜日は、駆け足で上野の二つの博物館を「はしご」しました。

 最初に訪れたのは東京国立博物館です。 

上野・東京国立博物館「中尊寺金色堂」特別展

 特別展「中尊寺金色堂」を是非とも観たかったからです。藤原清衡(1056~1128年)によって建立された中尊寺は、東北地方現存最古の建造物で、今年で建立から900年の節目を迎えました。

 土曜日でしたので、少し列が出来ていて、入場するまで15分ほど待たされました。

上野・東京国立博物館「中尊寺金色堂」特別展

 現地の平泉(岩手県)にある中尊寺金色堂には、私もこれまで3度ほど訪れたことがありますが、特別展では、ご本尊の阿弥陀如来座像と脇侍としての勢至菩薩立像と観音菩薩立像、それに地蔵菩薩立像、増長天立像、持国天立像といずれも「国宝」を間近に、しかも360度の角度から御尊顔を拝することが出来ました。

上野・東京国立博物館「中尊寺金色堂」特別展

 平泉では、仏像は、確か、ガラスケースの奥に納められ、遠くからしか拝することが出来ませんから、足を運んだ甲斐がありました。

 ただ、本館の狭い特別5室での数少ない展示でしたので、観覧料一般1600円は少し高い気がしましたけど。

上野・東京国立科学博物館

 次は上野駅に少し戻って、国立科学博物館に行って参りました。

 実は、昨年、同博物館が収蔵品の収集・保存などで資金が足りなくなって、クラウドファンディングを募集していました。私も「博物館がなくなっては困る」という危機感からわずかながら寄付をしましたら、「入場招待券」が1枚送られてきたのです。有効期限が3月31日までとなっていたので、慌てて出かけたのです。(しかし、よく見たら、来年2025年3月31日が有効期限でした=笑)

上野・東京国立科学博物館

 入場入り口で、その招待券をお見せすると、係の人(恐らく70代ぐらいの男性)が、「じゃあ、(半券を)切りますね」と言って、切ろうとしながらも、「でも、オタクさんは65歳過ぎていますね。65歳以上は無料ですから、この券は他の人にお譲りになったらどうですか?」と仰るのです。

 えっ? なに~~~~

 この私が、見かけだけで、65歳以上に見えるのかえ!!!

上野・東京国立科学博物館「偉大な科学者たち」

うーーん、バレたらしょうがねえ~(「与話情浮名横櫛」)

 しかし、落ち込むほど、相当なショックです。自分自身はまだ若いつもりなのですが、世間様はそれを許してくれない。嗚呼~

上野・東京国立科学博物館

 しかし、国立科学博物館が資金難に陥った理由がこれで分かりましたよ。常設展は、65歳以上と18歳未満は、入館料が無料(一般・大学生は630円)なのです。無料だと赤字になるに決まっています。せめて、子どもも65歳以上も300円ぐらい取ってもいいじゃないですかねえ。日本人だけではなく、全人類の「宝」が展示されているわけですから。

 ということで、ここは丸々、一日、いても飽きない博物館です。大人も子どもも楽しめます。地下3階まで展示室があり、細かく全てを観ていったら、一日では無理でしょう。

 また、何度でも足を運びたいと思いました。

 もう午後1時を過ぎていましたので、ランチをどうしようかと探しました。最初は、以前Gさんと一緒に行った「藪そば」にしようかと思いましたが、場所がウロ覚えです。確か、アメ横辺りにあったと思いますが、アメ横はいつでも週末は地獄のような人だかりですから、出来たら避けたいのです。

 そうだ、久しぶりに「蓮玉庵」にするか。ということで行ってみました。

 そしたら、随分古びた建物になってしまい、営業しているかどうかも分からないほどです。勇気を出して暖簾をくぐりました。

上野「蓮玉庵」特別ランチ(午後2時まで)のかき揚げ蕎麦1000円とお酒800円

 入ると、ほぼ満員で、手前の席だけ空いていて、お店の人は、そこに案内してくれました。

 何しろ、安政6年(1859年)創業の老舗の中の老舗です。森鴎外先生も足繁く通っていたといいます。

 ちょっと高いというイメージでしたが、何と、土曜日なのに特別ランチメニューをやってくれていたので、その1000円のかき揚げ蕎麦と熱燗1本(800円)を頼みました。特別ランチは、午後2時まででしたので、ギリギリセーフでした(笑)。

蒔絵、書、作陶にも才能を発揮した目利き職人=東博特別展「本阿弥光悦の大宇宙」

 先週の土曜日、東京・上野の国立科学博物館で開催中の特別展「本阿弥光悦の大宇宙」(2100円)に行って参りました。通好みの展覧会なので、土曜日だというのに割りと空いておりました。

 私が本阿弥光悦のことを初めて知ったのは今から30年以上昔、美術記者をしていた頃でした。連載企画として「琳派」を取り上げることにしたのです。琳派と言えば、いずれも国宝に指定されている「風神雷神図屏風」の俵屋宗達と「燕子花(かきつばた)図」の尾形光琳は、あまりにも有名ですが、それ以外(尾形乾山、酒井抱一を除き)はあまり知られていません。自分の勉強も兼ねて、どなたか連載を書いてくださる専門家はいないものか、探したところ、大阪出身の先輩の持田さんから「奈良の大和文華館に琳派の専門家いるから、そこがええんちゃう?」と仰るのです。電話で交渉し、学芸員の中部義隆さんという方を紹介されました。彼は、たまたま東京に出張があるというので、仕事の合間をぬって直接お会いすることにしたのです。

 お会いすると、縁なし眼鏡をかけ、ガリガリに痩せていて、髪の毛もボサボサ。私より4歳若い新進気鋭の学芸員でしたが、大変失礼ながら、風采も上がらず、「この人で大丈夫かな」と心配したものでした。彼には、12回の連載記事であること、行数は13字×100行、写真の手配もお願いします。原稿料は1回分○○円といった具合で交渉が成立しました。そして、最初の心配は杞憂に終わり、結果的に、読者の評判も良く、この人を選んで良かったでした。

 この連載の第1回に取り上げられていたのが、本阿弥光悦で、写真は彼の代表作で国宝に指定されている「舟橋蒔絵硯箱」でした。私はこの時、本阿弥光悦のことをよく知らなかったのですが、「本阿弥光悦こそが琳派の祖である」という出だしだったので、大変驚いたことを鮮明に覚えています。ですから、大和文華館の中部義隆さんのお名前も、その後、忘れることはありませんでした。

 その中部さん、今頃、何をなさっているのか、検索してみたら、吃驚しました。2016年4月5日に56歳の若さでお亡くなりになっていたのです。大和文華館には28年間勤務し、12年には学芸部長にまで昇り詰めておりました。

 正直な話、中部義隆さんと出会わなかったら、本阿弥光悦の存在を知らず、今回の展覧会に足を運ぶことはなかったと思います。不思議な御縁だったので、ショックを受けました。

 30年前は、本阿弥光悦(1558~1637年)についての詳細はそれほど分かっていませんでしたが、その後、新たに発掘された史料や書簡などで今ではかなり詳しく分かってきました。本阿弥家は、代々、刀剣の真贋を鑑定する「目利き」の職でした。それが、光悦に限って、本職以外に蒔絵や漆芸、書、作陶などに並外れた才能を発揮した「万能の天才」で、また、茶碗の楽家ら多くの職人同士を結びつけて合作させるような総合プロデューサーでもあったのです。(光悦は、茶の湯は、織田有楽斎と古田織部から伝授されたといいます。)

 彼が生きた時代は激動期です。織田信長が明智光秀の謀反で討たれた本能寺の変(1582年)が起きた時、25歳。豊臣秀吉が小田原征伐(1590年)で天下統一を果たした時は33歳。徳川家康が征夷大将軍に任じられた時(1603年)は46歳です。戦国時代の末期ですから、刀の鑑定は重職です。光悦は、この時、加賀の前田家の禄を食んだと言われていますが、大坂の陣が終わった1615年に、徳川家康から京都洛北の鷹峯(たかがみね)の地を拝領しています。

 話は少し脱線しますが、東博のミュージアムショップで玉蟲敏子ら著「もっと知りたい本阿弥光悦 生涯と作品」(東京美術)が販売されていたので、購入することにしました。この本によると、この鷹峯の地を下賜するに当たり、家康の命を受けて立ち会ったのが京都所司代の板倉勝重だったというのです。

 板倉勝重については、この渓流斎ブログで書いたことがあります。(2023年4月30日付「通好みの家康の家臣板倉重昌の江戸屋敷は現在、宝殊稲荷神社に」)勝重は家康の信頼が厚い三河武士で江戸町奉行などを歴任し、嫡男の重昌は、島原の乱の総大将になりましたが、戦死し、江戸屋敷があった木挽町(現東銀座のマガジンハウス社向かい)に今では宝殊稲荷神社が建ち、重昌がまつられているという話を書きました。

 さて、展覧会ですが、国宝「船橋蒔絵硯箱」と俵屋宗達下絵、光悦筆の13メートル以上に及ぶ重要文化財「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」、それに、光悦は熱心な日蓮法華宗の信徒だったことから「法華題目抄」(重文)などが見ものです。このほか、近代三大茶人の一人、益田鈍翁がかつて所持していたといわれる光悦作の「赤楽茶碗」もありました。鈍翁とは益田孝のことで、幕臣から維新後、今の三井物産や日本経済新聞をつくった人です。さすが、お目が高い。

 私は刀剣も茶碗も、全く目利きが効かず、贋作をつかまされるタイプでしょう。普通の人より、かなり多くの「本物」を見てきたつもりですが、真贋鑑定だけは諦めています(苦笑)。

 先程の「もっと知りたい本阿弥光悦 生涯と作品」によると、俵屋宗達は生没年不詳ですが、本阿弥光悦の義兄弟(宗達は、光悦の従兄で本阿弥家九代の光徳の姉妹と結婚)と言われ、尾形光琳・乾山兄弟は、光悦の甥宗柏の孫に当たります。また、光悦の曾孫光山から始まる家系(親善系)に生まれた本阿弥光恕(1767~1845)は、芍薬亭長根(しゃくやくてい・ながね)の名前で戯作者として活躍し、葛飾北斎(画)と組んだ「国字鵼(おんなもじぬえ)物語」などを出版しています。また、光恕は、酒井抱一、大田南畝らとも交際していました。

日本人好みの作品なのかなあ?=上野の森美術館「モネ 連作の情景」展

 東京・上野の森美術館で開催中の「モネ 連作の情景」展を万難を排して観に行って来ました。(来年1月28日まで)

入り口はモネのジヴェルニーの庭を再現(撮影許可された作品)

  この展覧会は、主催が産経新聞社ということで、失礼ながら宣伝力が弱く、開催されていること自体を知らない人も多いかもしれません。東京朝日新聞は、毎週、火曜日の夕刊で、目下、関東圏で開催中の美術展を表枠にして紹介していますが、産経はライバル社なので、一切、モネ展について報道しないのです。裏事情は分かり、そのうち報道するかもしれませんけど、意地が悪い新聞社ですねえ(苦笑)。

 でも、フランスの印象派の巨匠クロード・モネ(1840~1926年)は、私の大学の卒論の対象者でしたから、見逃すわけにはいきません。(卒論テーマは「印象派」で、作曲家のクロード・ドビュッシーも取り上げて「二人のクロード」と題しました。)

モネ「睡蓮」1897~98年 米ロサンゼルス・カウンティ美術館蔵(撮影許可された作品)

 一応、私は、モネの専門家気取りでしたから、モネの作品を求めて、世界各国の美術館を行脚しました。パリのオルセー美術館、ルーブル美術館、ロンドンの大英博物館、ニューヨーク・メトロポリタン美術館、それに東京のブリヂストン(現アーティゾン)美術館や倉敷の大原美術館など色々と行きましたが、やはり、モネの「睡蓮」の連作があるパリのオランジュリー美術館と第1回印象派展(1874年)に出展した記念すべき「印象・日の出」を所蔵するパリのマルモッタン美術館は忘れられません(本物に接して鳥肌が立ちましたよ)。意外な大穴は、スイスのチューリヒ美術館です。忘れてしまいましたが(笑)、何かの仕事でチューリヒに滞在した時、たまたま入った美術館でしたが、パリのオランジュリー美術館と全く引けを取らない「睡蓮」の連作が何十点も展示されていて驚くとともに、本当に圧倒されてしまいました。特に最晩年の「睡蓮」は、姿形が全く把握できない、網膜で創作せざるを得ないほど抽象的になり、その混在する色彩がほぼ暴力的に迫ってきました。

 そんな凄いものを観てしまっているので、今展の「モネ 連作の情景」展は、申し訳ないですが、「看板に偽りあり」と思ってしまいましたね。ただ、最初に展示されていた「1章 印象派以前のモネ」では、「桃の入った瓶」(1866年)、「ルーヴル河岸」(1867年)などモネ20代の初期作品が展示され、結構、初めて拝見する作品ばかりでした。

モネ「ロンドン国会議事堂、バラ色のシンフォニー」1900年 ポーラ美術館蔵(撮影許可された作品)

 個人的には、連作の一つ「積みわら」(1885年)と「国会議事堂、バラ色のシンフォニー」(1900年)が気に入りましたが、前者は倉敷の大原美術館所蔵、後者は箱根のポーラ美術館所蔵じゃありませんか。両方とも国内にあるとは! 私も典型的な日本人(もしくは、ほんの少し外れた日本人=笑)なので、いかにも日本人が好みそうな作品なのかもしれませんね。

 同時に、何でモネはこれほどまで日本人に愛されているのかも不思議です。モネ自身もアトリエに葛飾北斎の浮世絵を飾っていたり、当時のジャポニスムに多大な影響を受けた作品を残していますから、もしかしたら、相思相愛なのかもしれません。

モネ「ロンドン・ウォータールー橋、曇り」1900年 ダブリン・ヒュー・レイン画廊(撮影許可された作品)

 来年2024年は、第1回印象派展が開催されて、ちょうど150年に当たる年だということで、全国の美術館で「印象派展」がいくつか開催されるようです。どれを観たらいいのか困っちゃいます。だって、入場料がバカにならないからです。この産経主催のモネ展だって、土日祝日の一般の料金は3000円もするんですからね!! 観るのを諦めようかと思いましたが、私は賢者ですから、平日の午後4時以降の割引2300円で観ることが出来ました。それでも、こういうチケットだけは直ぐ完売してしまうので、二度目の挑戦でやっとゲット出来ました(笑)。

 

「やまと絵」はまさに世界の宝=東京・上野の国立博物館で特別展

 11月2日(木)は家族のお見舞いがありましたので、会社を休みました。《渓流斎日乗》の日乗とは日記という意味なので、個人的なお話で失礼致します。

 施設の最寄り駅は埼京線の浮間舟渡園駅なのですが、赤羽から乗り換えた際、知らぬ間に「快速」に乗ってしまい、赤羽から二つ目の浮間舟渡園駅を通り越して、戸田公園駅に着いてしまいました。

例の発砲事件があった病院の広告。鈴木常雄容疑者は何と86歳のお爺さん。バイクを乗り回し、拳銃まで所持していたとは!元組員とも、組員との付き合いから入手したとも言われております。

 この駅には、かつて私も入院したことがある病院があり、出来ることなら避けたい駅なのですが(苦笑)、快速に乗ってしまったので仕方ありません。そしたら、先日、発砲事件があった病院の広告が目立つところにあったので、思わず、写真を撮ってしまいました。感想文はキャプションに書いておきました。

 浮間舟渡園の施設での面会はわずか15分の制限で拒絶されてしまいます。大変な所に入ってしまったものだと心を痛めております。

東京国立博物館

 面会時間はすぐ終わってしまったので、この後、上野に向かいました。東京国立博物館で「やまと絵」展が開催されていたからです。

 いやあ、実に素晴らしい展覧会でした。何しろ、国宝と重要文化財のオンパレードで、これでもか、これでもか、といった感じで惜しげもなく公開して頂いているのです。観覧料2100円はちっと高いなあと思いましたが、十分、元手が取れる価値のある展覧会でした。

 木曜でしたので、空いていたわけではありませんが、二列目からかなり余裕を持って拝見出来ました。ちなみに、土日は事前予約制になっていますので注意が必要です(12月3日まで)。恐らく、週末は展示品の前の列は3列ぐらいになるぐらい混むことでしょうから、有休を取ってでも平日に御覧になることをお勧めします。

 残念なことに、展示品の撮影は禁止されていたので、カタログの写真でごまかします(笑)。この展覧会で一番私が驚いたのは、上の写真にもありますが、神護寺所蔵の「伝源頼朝像」でした。私も教科書などで何度も見たことがある肖像画でしたが、その大きさに驚いたのです。デカい! まさにその大きさに驚いたのです。迫力が違いました。やはり、実際に足を運んで実物を見なければ駄目ですね。これも残念ながら、11月5日で展示期間が終わってしまうようです。

 会場に置いてあった「出品目録」で勘定してみたら、全245点中、国宝は53点、重要文化財は126点もありました。勿論、展示期間がそれぞれ違うので、これら全てを同時に観ることは出来ませんが。

 私は個人的に、鎌倉仏教に関心があるので、「法然上人絵伝」や「一遍聖絵」(いずれも国宝)の本物を目にすることが出来て、感動してしまいました。

 このほか、「源氏物語絵巻」や「鳥獣戯画」や「信貴山縁起絵巻」など何でもあります。会場には外国人観光客らしき人たちも多く詰めかけていました。私も海外旅行に行けば、必ずその地元の博物館や美術館に行きますが、「やまと絵」は日本の宝というより、まさに世界の宝という認識を強くしました。

好きな上野で「京都・南山城の仏像」展

 本日は木曜日でしたが、会社を休んで上野に行って来ました。上野は東京で2番目に好きな所です。1番目は? それは勿論、神田神保町です。古書店の街ですが、三省堂、東京堂など新刊書店も多くあり、何よりも安くて美味しい隠れたグルメの街でもあります。

 3番目に好きな東京は、神宮外苑の銀杏並木道ですが、どうやら、この「外苑の森」が伐採されるという話が進んでいるようですね。亡くなった坂本龍一教授も、再開発に大反対で、小池都知事に中止するよう手紙まで送付したらしいというのに。大都会東京のど真ん中で、あそこほど心休まる所は他にありません。銀杏並木だけは残す計画もあるようですが、もしこのまま強行されれば、小池百合子さんは「神宮外苑の森の伐採を認可した都知事」として歴史に名を残すことでしょう。

東京・上野東博「京都/南山城の仏像」展

 さて、上野に行ったのは、目下、東京国立博物館で開催中の「京都・南山城の仏像」展を拝観するためでした。自他ともに「仏像好き」を自称する私ですが、さすがに南山城(なんざんじょう、ではなく、みなみやましろ)の寺院にまで足を延ばしたことはありませんでしたからね。南山城とは京都府の南端で奈良県に近い地域で、住所で言えば、木津川市とか宇治田原町などがあります。

東京・上野東博「京都/南山城の仏像」展

 会場は、本館の「特別5室」が当てがわれ、いずれも京都・浄瑠璃寺(木津川市)蔵の「阿弥陀如来坐像」「多聞天立像」「広目天立像」の3点の国宝を含む18体の仏像(うち12体もが重要文化財)が展示されていました。

 しかし、「えっ?これだけ??」というのが正直な感想でした。「国宝3体、重文12体もあれば十分でしょ!」と主催者の日経新聞社には言われてしまいそうですが、もし、これが仏像ではなく、そして、有難みもなく、ただの彫刻として眺めただけでしたら、長くても5分で「見学」を終えてしまいます(笑)。こ、こ、これで、入場料は1500円もするんですからねえ。高いでしょう? 奥さま~、そう思いませんこと? 

 あっという間に「出口」になってしまったので、私なんか、慌てて5秒間で入り口方面に戻って、再度、拝観したほどでした。それほど狭い「特別5室」でした。

上野・東京国立博物館

 今回、「十一面観音菩薩像」が3体展示(京都・禅定寺など)されておりましたが、いずれも後頭部の真後ろにあしらわれた「面」が「大笑い」の観音菩薩であることが、パネルでも解説されていました。十一面もありますから、大衆を教化するため忿怒の表情の観音菩薩もありますが、この「大笑い」の面だけ突出していて、改めて仏像の魅力に染まってしまいました。

 会場を何気なく見回すと、平日だからかもしれませんが、どうも日本人が少ない気がしました。7割近くは、どう見ても外国人観光客でした。コーカサス系だけでなく、東南アジアやインド系、勿論、中国、韓国系の人もです。そう言えば、私も海外に行けば、必ず、博物館や美術館に足を運びますからね。ガイドブック等で上野の博物館・美術館が紹介されているということなのでしょう。まさに、「世界に誇れる上野」です。

 でも、私は歴史好きなので、「この博物館はねえ、江戸時代は、東叡山寛永寺の本堂があった所だったんですよ。今の上野公園と言われている敷地は全て、寛永寺の敷地で、幕末には彰義隊が最後まで新政府軍に抵抗してここで戦ったんですよ」と外国人観光客に蘊蓄を垂れたくなりました(笑)。

上野・東博・常設展

 私はせっかちな性格で、「京都・南山城の仏像」展はわずか20分程で鑑賞し終えてしまいましたので、同じ本館の常設展も駆け足で見て回りました。

 やはり、ここでも、絵画ではなく、彫刻、特に仏像彫刻ばかり注目して観てしまいました。

 やはり、(ともう一度書きますが)仏像を拝観すると心が落ち着き、心が洗われる思いがします。仕事や人間関係で疲れた皆様にもお薦めですよ。出来れば、その前に、仏像の基礎知識を頭に入れて行かれれば鑑賞の醍醐味も倍増します。例えば、四天王の北の一角「多聞天」は、独尊としてまつられると「毘沙門天」と呼ばれます。この毘沙門天とは、インドの財宝神クベーラの前身で、「ヴァイシュラヴァナ」という別名を持っていました。この「ヴァイシュラヴァナ」はサンスクリット語で「よく聞く」と意味することから、中国語で「多聞天」と訳されたといいます。 

生蕎麦「吉祥」クルミせいろソバ1170円

 また、五大明王の中心となる不動明王立像(京都・神童寺蔵)が展示されていましたが、この不動明王とは、密教の大日如来の化身と言われています。煩悩多き救い難い衆生をも力ずくで救うために、忿怒の姿をし、光背は怒りの炎がメラメラと燃え上がっているわけです。

 えっ?それぐらい御存知でしたか? 失敬、失敬。

仏像は太ったり痩せたりしていた?=山本勉著「完本 仏像のひみつ」

 山本勉著「完本 仏像のひみつ」(朝日出版社、2021年5月31日初版)を読了しました。「完本」と銘打っているので、大いに期待して読んだのですが、どうもお子ちゃま向けに書かれていました。お子ちゃま向けということで、筆者は、神のことを「カミ」、漆を「ウルシ」、渡来仏のことを「トライ仏」と明記しますが、よっぽどカタカナが好きなのか、カタカナで書けば易しく書かれたと思い込んでいるのか、そのどちらかなのでしょう。しかし、残念ながら、実に読みにくい。善光寺のことを「ゼンコージ」などと書かれると、「馬鹿にしてんのか?」と、さすがに頭に来てしまいます。

 仏像の種類として「如来」「菩薩」「明王」「天」の階層(筆者は「ソシキ」と書いてます!)があることなど基礎的なことは全て網羅されておりますが、筆者は東京芸大出身ということもあってか、仏像の技法や製法等の解説に重きを置いている感じです。「金銅像」「塑像」のほか、「脱活乾漆造り」「木心乾漆造り」「寄木造り」「割矧ぎ造り」などです。川口澄子さんのイラストもしっかり描かれているので分かりやすいです。

上野・東博「東福寺」展 釈迦如来坐像

 この本で面白かったのは、仏像もその時代、その時代の流行があり、年代によって太ったり、痩せたりしているという史実でした。飛鳥時代の7世紀は、例えば法隆寺の百済観音像に象徴されるように、薄っぺらい痩せ型で、奈良時代の8世紀は少しだけ横に長い楕円形、それが9世紀の平安時代になるとまん丸型となり、平安時代後期の11世紀になると、寄木造りを発明した定朝の影響で、また横にすごく長い楕円形になり、12世紀後半の鎌倉時代となると、今度は縦に少し長い楕円形に変化します。

 恐らく、仏像学者は、仏像の形から何世紀ごろの製作か、推量するんでしょうね。

 もう一つ、仏像を製作した人のことを、日本だけ「仏師」として認知されているようですが、仏像に仏師が自分の名前を台底などに墨で銘記するようになったのは、平安後期から鎌倉時代に活躍した運慶からだと言われているようです。勿論、飛鳥時代の渡来人の子孫である鞍作止利(法隆寺の釈迦三尊像など)や平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像を造った定朝といった名前は残っており、特に有名ですが、ほとんどの仏師は知られていないようです。ただし、運慶さん前後になると、名前が明記されていなくても、仏像の耳の形を見れば、製作者が推定されるそうです。耳を見れば、これは運慶作、これは快慶作、これは康慶作とそれぞれ特徴があるので特定できます。

 仏像をお参りしている人の中で、一風変わって、特に耳ばかり見ている人は、仏像学者に間違いない、かもしれません(笑)。

【追記】同月同日

 と、書いたところ、著者の山本勉氏から直々にSNSでツイートがありました!(恐らく正真正銘の御本人だと思われます)

 ご紹介ありがとうございます。子ども向けの文体やカタカナ多用でご不快をあたえたとのこと、申しわけありません。巻末「仏像のひみつ最終顚末」に記したように、もともと子ども向けの展覧会からできあがった本ですので、文体や表記は展覧会でのそれらを継承していることをご理解いただけると光栄です

 吃驚です。小生も返信しました。

 ありま〜すびましぇん! 読まれてしまいました! まさか、ご本人の目に留まるとは想像もしてなかったもので…。でも、ごめんなさい。訂正しません。ゼンコージでは、やはり、子どもも馬鹿にしている感じです。幼い時こそ難しい漢字に親しむべきだという信念を持ってますもので。ただ、並行して読ませて頂いている「運慶✕仏像の旅」は最高です。大人向きのせいか?(笑)引き続き、感想文を書かさせていただきます!

入場料が2カ所で何と50円!=「半蔵門ミュージアム」で大日如来像、「たばこと塩の博物館」で「大田南畝 没後200年」展を鑑賞して来ました

 5月4日のみどりの日。大型連休の真っ最中、何処も異様に混んでいるので、恐らく、ほとんどの御上りさんが行かないと思われる都心の博物館を梯子しました。梯子といっても、「半蔵門ミュージアム」(千代田区)と「たばこと塩の博物館」(墨田区)の2カ所だけですが、いずれも予想が当たって空いておりました。しかも、入場料が前者は無料、後者はシニア料金ながらわずか50円で済みました。それでは申し訳ないので両館のミュージアムショップで書籍を購入してお許しを乞いました。本代は入場料の100倍以上掛かりましたが…(笑)。

半蔵門ミュージアム

 半蔵門ミュージアムは、運慶作と推定される木造大日如来坐像(1193年? 61.6センチ、重要文化財)がお目当てでした。2008年3月に、米ニューヨークで行われたクリスティーズのオークションで、新興宗教団体「真如苑」が約14億円で落札したあの有名な大日如来像です。

 この渓流斎ブログを御愛読して頂いている皆様だけは御承知でしょうが、最近の私は大日如来と密教にハマってしまい、「母を訪ねて三千里」じゃありませんが、大日如来が鎮座する寺院や博物館なら三千里歩いてでも追い求めたい気持ちだったのです(笑)。

 それが、こんな都心の美術館(半蔵門駅からゼロ分!)で、しかも無料で公開されているとは全く知りませんでした。真如苑の大日如来像は、もともと鎌倉初期に足利義兼(母が源義朝の従妹、妻が北条政子の妹)によって今の栃木県足利市に創建された樺崎寺(廃寺)に安置されていたと言われ、どういう経緯でニューヨークのオークションにかけられたのか不明ですが、明治の廃仏毀釈のゴタゴタで、誰か個人の手に渡っていたことでしょう。

 結局、海外に流出せず、日本に戻って、こうして無料で一般公開(2018年から)までしてくださるのですから有難いことです。半蔵門ミュージアムでは目下、「修験と密教の美術」特別展が開催中で、大日如来の化身と言われる不動明王像や両界曼荼羅なども拝観することができました。所蔵品は建物も含めて真如苑のプロパティですが、恐らく信徒の皆様による多額の御布施ということでしょうから、宗教の力を感じざるを得ませんでした。(全く関係ない話ですが、私が浪人時代、大学受験で通っていた東京・大塚の武蔵予備校に行ったら売却されていて、真如苑の施設になっていたので吃驚したことを覚えています。真如苑は1936年、真言宗醍醐寺で得度した伊藤真乗により開かれ、現在世界20カ国で100を超える寺院があり、信徒は100万人=国内90万人=同教団のHPより)

入場料代わり

 真如苑といえば、有名芸能人が多く入信し、華々しい面がありますが、入場しても特にしつこく勧誘されるわけでもなく、信徒ではなくても、必要な人が必要な時にこうして無料でお参りさせて頂くことが出来ます。その点は高く評価したいと思い、ミュージアムショップで販売されていた書籍2冊を購入しました。特に「仏像のひみつ」(朝日出版社)の著者で宗教学者の山本勉氏が、この半蔵門ミュージアムの館長になっておられたので驚いてしまいました。

墨田区「たばこと塩の博物館」

 次に向かったのは、「たばこと塩の博物館」です。地下鉄半蔵門線の「押上」駅が最寄り駅の一つなので、半蔵門から地下鉄1本で行けました。

墨田区「たばこと塩の博物館」

 お目当ては「没後200年 江戸の知の巨星 大田南畝の世界」展です。JTが運営する「たばこと塩の博物館」は昔は渋谷の公園通りにありました。私がまだ20歳代の頃、原宿の岸記念体育会館にあった日本体育協会(体協)の記者クラブに詰めていた頃、昼休みのランチの帰り、仕事を少しさぼって、いやほんの少しだけ休み時間を延長してこの博物館を出入りしたものでした(笑)。博物館の人に聞いたら、渋谷からこの墨田区に移転したのは2015年でもう8年になるそうです。(押上駅から歩13分、錦糸町駅から歩21分ぐらい掛かります)

 押上といえば、東京スカイツリーの最寄り駅ですから、外国人観光客を含めて人が雲霞の如く群がっていましたが、「たばこと塩の博物館」はスカイツリーとは正反対の方向にありますから、人が少なく、むしろ寂しいぐらいでした。

東京スカイツリー(錦糸町駅付近)

 大田南畝については、個人的に、昔から大変気になる人物でしたが、この年になるまでついに勉強が手に回りませんでした。私自身が漢籍の素養がなく、あの文語体の崩し字(古文書)が読めなかったからでした。

 大田南畝は寛延2年(1749年)、御家人とは言いながら将軍警護の御徒役の下級武士として江戸牛込で生まれ(本名覃 =ふかし、通称直次郎)、幼い頃から多くの書籍に親しみ、神童の誉高く、博覧強記の典型みたいな人です。漢詩人・寝惚先生であり、狂歌師・四方赤良(よものあから)であり、戯作者・山手馬鹿人であり、随想家・大田南畝でもあり、号は蜀山人。いわゆるマルチタレントです。交流関係も華々しく、葛飾北斎、鳥文斎栄之、歌川豊国、山東京伝、上田秋成、酒井抱一、木村蒹葭堂、蔦谷重三郎、市川團十郎といった著名人が並びます。

 館内では、大田南畝の「万載狂歌集」「蜀山余禄」「浮世絵類考」などの恐らく貴重な「原本」(写本)が多く展示されておりましたが、残念ながら、こちとらは学がなくて何と書いてあるのか崩し字が読めませんでした。わずか200年前の出版物なのに、本当に情けないですね。

大横川親水公園(東京都墨田区)

 先述した通り、入場料は50円でしたので、またまた申し訳ないので、ミュージアムショップで浜田義一郎著「大田南畝」(吉川弘文館)を購入しました。はい、残された人生、古文書を含めまして、大田南畝先生についても勉強していきます。私自身、正統派よりも異端児を好むタイプで、正統派の短歌よりも、風刺と皮肉と諧謔に富んだ狂歌の方が好きなんですよ(笑)。

 大田南畝の本職は幕臣ですから、真面目に勤めたお蔭で、御徒役やから長崎奉行詰まで出世したりしてます。文政6年(1823年)4月6日に数えの75歳で亡くなりますが、死の三日前まで元気で「妾と芝居見物に行っていた」と年表で見つけて思わず苦笑してしまいました。

 大田南畝の菩提寺は白山の本念寺(日蓮宗)だということで、いつかお参りしたいと存じます。南畝を崇敬する永井荷風も度々お参りしたようです。

上野・東博の特別展「東福寺」と小津監督贔屓の「蓬莱屋」=村議会議員選挙も宜しく御願い申し上げます

 旧い友人のKさんの御令嬢Aさんが今回、福島県の裏磐梯にある北塩原村議会議員選挙に出馬されたことが分かり、吃驚してしまいました。投開票は4月23日(日)です。

 Aさんにとって、北塩原村は、幼少時から小学生まで育ち、その後、同じ福島県の会津若松市に引っ越しましたが、第二の故郷のようなものです。長じてから、北塩原村にある観光温泉ホテルで働いておりましたが、選挙に出るともなると、両立することは会社で禁じられ、仕方がないので、退職して「背水の陣」で今回の選挙活動に臨んでいます。

 2年ほど前、私もその観光ホテルに泊まって、Aさんに会った時、将来大きな夢がある話も聞いておりました。ですから、別に驚くこともないのですが、こんなに早く、実行に移すなんて、まさに「有言実行」の人だなあ、と感心してしまいました。

 政治というと、どうも私なんか、魑魅魍魎が住む伏魔殿の感じがして敬遠してしまいますが、Aさんの場合は全くその正反対で、彼女は、裏表がない真っ直ぐなクリーンな人なので、安心して公職を任せられます。とても社交的な性格なので、友人知人が多く、周囲で支えてくれる人も沢山いるように見えました。最年少の新人候補なので苦戦が予想されますが、是非とも夢を着実に実現してほしいものです。Aさんは、SNSで情報発信してますので、御興味のある方は是非ご覧ください。

上野・東博「東福寺」展

 さて、昨日は所用があったので会社を休み、午前中は時間があったので、上野の東京国立博物館で開催中の特別展「東福寺」を見に行きました(2100円)。当初は、予定に入れていなかったのですが、テレビの「新・美の巨人たち」で、室町時代の絵仏師で東福寺の専属画家として活躍した吉山明兆(きつさん・みんちょう)の傑作「五百羅漢図」(重要文化財、1383~86年)が14年ぶりに修復を終えて公開されると知ったので、「これは是非とも」と勇んで足を運んだわけです。平日なのに結構混んでいました。

上野・東博「東福寺」展

 「五百羅漢図」は明兆が50幅本として製作しましたが、日本に現存するのは東福寺に45幅、根津美術館に2幅のみです。それが、近年、第47号の1幅がロシアのエルミタージュ美術館で見つかったそうです。この絵は、ある羅漢が天空の龍に向かってビーム光線のようなものを当てているのが印象的です。明兆の下絵図(会場で展示)が残っていたお陰で、江戸時代になって狩野孝信が復元し、この作品も現在、重要文化財になって会場で展示されています。何で、この本物がエルミタージュ美術館にあるのかと言いますと、どういう経緯か分かりませんが、もともとベルリンの博物館に収蔵されていたものをドイツ敗戦のどさくさで、ソ連軍が接取したといいます。接取と言えば綺麗ですが、実体は戦利品として分捕ったということでしょう。ウクライナに侵略した今のロシアを見てもやりかねない民族です。

上野・東博「東福寺」展 釈迦如来坐像

 この東福寺展で、私が一番感動したものは、東福寺三門に安置されていた高さ3メートルを超える「二天王立像」(鎌倉時代、重要文化財)でした。作者不詳ながら、慶派かその影響を受けた仏師によるもので、異様な迫力がありました。撮影禁止だったので、このブログには載せられず、撮影オッケーの釈迦如来像を掲載してしまいましたが、「二天王立像」は、運慶を思わせる写実的な荒々しさが如実に表現され、畏敬の念を起こさせます。

 東福寺は、嘉禎2年 (1236年)から建長7年(1255年)にかけて19年を費やして完成した臨済宗の禅寺です。開祖は「聖一(しょういち)国師」円爾弁円(えんに・べんえん)です。34歳で中国・南宋に留学し、無準師範に師事して帰朝し、関白、左大臣を歴任した九条道家の「東大寺と興福寺に匹敵する寺院を」という命で東福寺を創建します。鎌倉幕府の執権北条時頼の時代です。特別展では、円爾、無準、道家らの肖像画や遺偈、古文書等を多く展示していました。

現在の上野公園は、全部、寛永寺の境内だった!

 ミュージアムショップを含めて、80分ほど館内におりましたが、お腹が空いてきたのでランチを取ろうと外に出ました。上野は久しぶりです。当初は、森鴎外もよく通ったという「蓮玉庵」にしようかと思いましたが、結局、東博からちょっと遠いですが、小津安二郎がこよなく愛したトンカツ店「蓬莱屋」に行くことにしました。

上野

 司馬遼太郎賞を受賞した「満洲国グランドホテル」で知られる作家の平山周吉さんの筆名が、小津安二郎監督の「東京物語」に主演した笠智衆の配役名だったことをつい最近知り(東京物語は何十回も見ているので、そう言えば、そうじゃった!)、その作家の方の平山周吉さんが、最近「小津安二郎」というタイトルの本を出版したということで、頭の隅に引っかかっていたのでした。上野に行って、小津と言えば「蓬莱屋」ですからね。

上野「蓬莱屋」「東京物語」定食2900円

 「蓬莱屋」に行くのは7~8年ぶりでしたが、迷わず、行けました。でも、外には何も「メニュー」もありません。「ま、いっか」ということで入ったのですが、前回行った時より、値段が2倍ぐらいになっていたので吃驚です。結局、せっかくなので、ランチの「東京物語」にしました。「商魂逞しいなあ」と思いつつ、流石に美味で、舌鼓を打ちました。上野の「三大とんかつ店」の中で、私自身は蓬莱屋が一番好きです。

 隣りの客が、昼間からビールを注文しておりましたが、私は、ぐっと我慢しました。だって、展覧会を見て、ランチしただけで、併せて5000円也ですからね。昔は5000円もあれば、もっともっと色んなものが買えたのに、お金の価値も下がったもんですよ。

長谷川等伯「楓図」などを堪能しました=「京都・智積院の名宝」展ー東京・六本木のサントリー美術館

 月刊誌「歴史人」(ABCアーク)12月号の読者プレゼントでチケットが当選した「京都・智積院の名宝」展(東京・六本木のサントリー美術館、2023年1月22日まで)に本日、行って参りました。

 未だコロナ禍で、事前予約制なのかどうか、場所は何処なのか、初めて行くところなので色々と調べて行きました。あれっ?そしたら、サントリー美術館には一度行ったことがありました。何の展覧会だったのか?…忘れてしまいましたが、今年だったようです…。うーむ、認知力が大分、衰えてきたようです。寄る年波、仕方ないですね。(ブログの過去記事を調べたら、以前行ったサントリー美術館は、今年5月2日「大英博物館 北斎 国内の肉筆画の名品とともに」展でした。こういう時、ブログは便利です=笑)

 私は土曜日の朝は、よくNHK-FMの「世界の快適音楽セレクション」を聴いております。本日はクリスマスイブということで、特別番組をやってましたが、その中でも面白かったのが、「ゴンチチルーレット」です。ゴンチチというのは、この番組のMCで、ゴンザレス三上(69)とチチ松村(68)の2人のギターデュオというのは皆さん御存知だと思います。これまで26枚ぐらいのCDアルバムをリリースし、収録してきた曲は300曲以上あるといいます。それらの曲をアトランダムにシャッフルして番号が付けられ、番組の中で、彼らがその番号を言って、かかった曲が何という曲か本人たちに当ててもらうという余興でした。300曲以上あると、自分たち本人が演奏していたとしても、確かに忘れてしまうものです。早速、曲がかかると、2人は「覚えてないなあ」「分からないなあ」を連発。中には、自分たちの曲なのに「この曲、知らん」としらを切ったりするので大笑いしてしまいました。

 まあ、そんなもんです。私も自分が過去に書いたブログの記事もすっかり忘れています(笑)。

 評論家小林秀雄も、自分の娘さんから難しい現代国語の問題を聞かれ、「誰が書いたんだ、こんな悪文。酷い文章だ」と吐き捨てたところ、小林秀雄本人の文章だったりしたという逸話も残っています。

 全くレベルが違うとはいえ、私がサントリー美術館のことを忘れたのも、同じ原理と言えるでしょう(笑)。

六本木・サントリー美術館

 さて、やっと、展覧会の話です。

 目玉になっている「国宝 長谷川等伯『楓図』 16世紀 智積院蔵」と「国宝 長谷川久蔵『桜図』 16世紀 智積院蔵」は初めての寺外同時公開らしいのですが、土曜日だというのに結構空いていたお蔭で、ゆっくりと堪能することが出来ました。

 実は、私、狩野永徳よりも長谷川等伯の方が好きなんですが、特に、東京国立博物館蔵の六曲一双の「松林図屏風」(国宝)は、日本美術の頂点だと思っています。水墨画でこれだけのことを表現できる芸術家は他に見当たりません。ワビサビの極致です。勿論、水墨画と言えば、雪舟かもしれません。本人も雪舟の弟子の第五世を自称していたほどですけど、雪舟は完成し過ぎです。等伯は見るものに修行させます。想像力と創造力の駆使が要求されます。脳の中で色々と構成させられます。でも、うまく焦点が合うと、松林図という二次元の世界が立体化し、松の枝が揺れ動き、風の音が聞こえ、風が肌身に当たる感覚さえ覚えるのです。

 今回の等伯の「楓図」は、写実主義の色彩画で抽象性が全くないのですが、その分、力量が狩野永徳に優ることを暗示してくれます。天下人の秀吉から依頼されたようなので、まさに命懸けで描き切った感じがします。

 「桜図」の長谷川久蔵は、等伯の長男ですが、25歳という若さで亡くなっています。父親譲りのこれだけの画の力量の持ち主なので、本当に惜しまれます。

東京「恵比寿ビアホール」 チキンオーバーライス1150円 展覧会を見終わって実家に行く途中で、六本木はあまり好きではなくなったので恵比寿で下車してランチにしました。

  これら国宝含む名宝を出品されたのが京都の智積院です。真言宗智山派の総本山で、末寺が全国に3000もあるそうです。

 京都には何度も行っておりますが、智積院にはまだお参りしたことがありません。会場で飾られたパネル地図を見ると、三十三間堂の近くの七条通りの東山にありました。この地は、もともと、秀吉が、3歳で夭折した子息・鶴松の菩提を弔うために創建した臨済宗の祥雲禅寺があり、等伯らの襖絵もその寺内の客殿にあったものでした。

 祥雲寺はその後、真言宗の中興の祖で新義真言宗の始祖と言われる覚鑁(かくばん、1095~1143)興教大師が創建した紀伊の根来寺に寄進されますが、それは、根来寺が、根来衆と呼ばれる僧兵を使って秀吉方に反旗を翻し、徳川方についたためでした。江戸時代になって大坂の陣で豊臣家が滅び、根来寺の塔頭だった智積院が東山のこの地を譲り受け、現在に至っています。