山名文夫を御存知でしたか?

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 10月1日だというのに、東京都心は気温29度と蒸し暑く、半袖で出勤しました。こんなこと、長い長い俸給通勤地獄生活で初めてです。

 昔は「暑さ、寒さも彼岸まで」とよく言ったものです。彼岸を過ぎれは猛暑もやんで、一気に秋らしくなっていました。10月1日は衣替えじゃなかったでしたっけ? 異常気象ですね。

 さて、話は変わって、今日も私が知らなかったことを書きます。

東京・銀座の資生堂本社

 大正から昭和にかけて活躍したグラフィックデザイナーの山名文夫(やまな・あやお、1897~1980)のことです。この方、御存知でしょうか? 私は不勉強にも知りませんでした。

 山名を最も有名にしたのが、化粧品の資生堂の蔓バラの「花椿マーク」です(原案は福原信三)。著作権やらうるさいので、このブログにその写真を掲載できませんが、誰でも御存知でしょう。資生堂の意匠部の社員だったこともあり、化粧品「de Luxe」の唐草模様などもを手掛けたのは山名だといいます。

とは言いながら、銀座の資生堂本社にある山名がデザインしたロゴマークを撮影してきました。これですの。

  昭和史に関心がある人はよく知っていますが、山名は昭和9年、名取洋之助が主宰する日本工房に参加して対外宣伝誌「NIPPON」の表紙絵まで描いておりました。へー、そうだったのか、ですよ。

 山名は戦後、多摩美大の教授なども務めますが、新潮社の新潮文庫の葡萄のロゴマークも彼のデザインでした。読書家の皆さんですから、あの葡萄のマークはよく御存知ですよね?

 山名文夫は戦前から有名で、太宰治の小説「皮膚と心」(昭和14年11月「文学界」初出)のモデル(主人公の若妻の旦那さん)だったのです。これまた、へー、そうだったのかあ、です。この作品、今では青空文庫で読めます。

 

森口豁著「紙ハブと呼ばれた男 沖縄言論人 池宮城秀意の反骨」を読む

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 最近の週末は台風(予報)のせいで、城めぐりができず、家で本ばっかり読んでいました。ガリ勉ですね。というのは、このブログの愛読者の皆様方には御承知の通り(笑)。

 でも、読書量は1カ月に8冊程度ではないでしょうか。

 かつて、もう30年ぐらい昔ですが、1カ月に40冊ぐらい読んでいました。1日1冊以上です。有り得ないでしょう。でも本当です。仕事(文藝担当記者)だったからです(笑)。通勤電車の中は当然、会社の勤務中も、信号待ちの立ったままでも、食事と睡眠時間を削り、暇さえあれば何処でもかしこでも読んでいました。まあ、それぐらいやらないと1日1冊以上は読めません。しかし、1年も続かなかったと思います。7カ月ぐらいで眼精と頭脳疲労でダウンして、1カ月25冊ぐらいにペースダウンしました。

 今はもうそんな体力も気力もありません。でも、この年齢で1カ月10冊弱は、相当な量だと思っています。

 というわけで、相変わらずの修行僧のような苦しい読書三昧です。今、もうすぐ読み終わりそうな本が、例の沖縄の上里さんから送って頂いた森口豁著「紙ハブと呼ばれた男 沖縄言論人 池宮城秀意の反骨」(彩流社、2019年6月23日初版)です。

 「琉球新報」社長などを歴任した反骨のジャーナリスト池宮城秀意(いけみやぐしく・しゅうい)の生涯を追ったノンフィクションの評伝です。

 よく「学者は易しいことを難しく書き、新聞記者は難しいことを易しく書く」と言われますが、その通りですね。著者の森口氏は、フリージャーナリストですが、かつて琉球新報の社会部記者を務めていたようで、この本は大変読みやすいです。筆が立つ、と言いますか、実に文章がうまい人です。お蔭で、沖縄独特の難読語の人名や地名が多く出てきても、すんなりと脳髄に入って来ました。

 池宮城秀意(1907~89)は、戦中戦後派のジャーナリストです。早大を卒業し、社会主義運動家として活動していたところ、治安維持法で逮捕され、3年もの牢獄生活を経て、「沖縄日報」の記者になります。しかし、新聞社の在り方に嫌気がさして退職し、沖縄県立図書館の司書になります。沖縄戦となり、38歳で徴兵(正確には防衛召集)され、死屍累々の戦場で「銃を持たない二等兵」として生き抜きます。戦後は請われて再びジャーナリズムの世界に戻り、「ウルマ新報(後に琉球新報)」編集長、一旦、退職してから再び返り咲いて、同社社長を務めますが、経営悪化の責任を取って辞任します。その後も沖縄の米軍基地問題や、自然破壊などについて発言を続けます。

 と、書きながら、私自身はこの本を読むまでは、池宮城秀意のことは全く知りませんでした。時代のせいなのか、波乱万丈の生涯です。子ども7人の一家の大黒柱なのに、自分の信念のために、あっさりと新聞社を退職してしまうところは、とても常人とは思えません。まさに反骨のジャーナリストです。

 上里さんが何故、私にこの本を送ってくださったのか、深い理由は分かりませんが、「もっと勉強してください」ということだったのかもしれません。

◇沖縄の悲劇

 沖縄の学童を本土に疎開させるため運航された「対馬丸」 (6754トン) は昭和19年8月22日、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没します。犠牲者は引率教師を含めて1484人。この「対馬丸」の話は有名で私も知っておりましたが、これ以前にも「湖南丸」(2627トン)「嘉義丸」(2509トン)など4隻もの疎開船が撃沈されて、合わせて1490人の学童らが亡くなっていたことは知りませんでした。戦争とはいえ、無辜の疎開学童を殺害するとは酷いことをするものです。

 この本の88ページに出てきますが、あの沖縄戦での戦死没者の総数は、国がまとめたものによるとー。

 日本軍側(沖縄県以外の出身者)6万5908人

     (沖縄県出身者)2万8228人

 沖縄県民 9万4000人

 米軍側(含む行方不明者=米陸軍省まとめ)1万2520人

 昭和15年の沖縄県の人口は57万4579人だったことから(昭和20年は国勢調査が実施できず)、およそ沖縄県民の5人1人が先の戦争で亡くなったことになります。

 つまり、戦後の日本の平和は沖縄県民の犠牲の上で成り立ったと言っても過言ではありません。

 しかも、今でも 国土面積の0.6%しかない沖縄県に、 全国の米軍専用施設面積の70%が集中しているという事実があるというのに、本土の多くの人は無関心か他人事のように思っています。

 私のような凡俗が何を言っても始まりませんが、もう少し沖縄問題に関心を持つべきではないでしょうか。「沖縄の県紙2紙はつぶさなあかん」と暴言を吐く人間が、この世に存在しますが、江戸幕府初期に島津薩摩藩による「琉球征伐」を受けて以来、ヤマトンチューに苦しめられ続けてきた沖縄の人たちが可哀想じゃないか。

斎藤充功著「フルベッキ写真の正体 孝明天皇すり替え説の真相」は驚きの連続

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この本「フルベッキ写真の正体 孝明天皇すり替え説の真相」(二見文庫)を読んで、まずは、びっつらこいてしまいました。まさに、この表現がピッタリです。

 この本は、「日本のスパイ王: 陸軍中野学校の創設者・秋草俊少将の真実」(学研)を書かれたノンフィクション作家の斎藤充功氏がわざわざ私に献本してくださったのです。昨年、この渓流斎ブログで、この秋草俊の本を取り上げたところ、ネットで目敏く見つけた斎藤氏御本人から小生に御連絡があり、意気投合し、昨冬、陸軍中野学校にも詳しいインテリジェンス研究所の山本武利理事長とも御一緒に銀座の安酒場で鼎談したことがありました。

 その後、少し御無沙汰してしまったのですが、今日は斎藤氏からわざわざ電話までありました。

 で、何で驚いたかといいますと、3日前にこの本を読む直前に、仙台にお住まいの一力先生から電話があり、伊藤博文を1909年にハルビンで暗殺して処刑された韓国の独立運動家安重根と、その看守だった千葉十七をしのぶ合同法要が9月22日に、千葉十七の菩提寺である宮城県栗原市の大林寺で行われた、といった河北新報に出ていた記事をきっかけに、今の最悪の日韓関係の話をしたばかりだったからです。

 「フルベッキ写真の正体」の第1章の「六発の銃声」ではいきなり、この日本ではテロリストと呼ばれている安重根による暗殺場面が出てきたのです。この中で、著者の斎藤氏自身は、旧満洲のハルビンにまで足を運び、現場を取材し、実際の下手人は、実は安重根ではなかったのではないか、と判断するのです。なぜなら、安重根は、ハルビン駅頭で、群集と儀仗兵の間に紛れて、伊藤博文の間近の低い所から拳銃を撃ったとされています。となると、弾丸は下から上に流れなければなりません。それなのに、伊藤博文の致命傷になった弾丸は、右肩から胸にかけて右上から左下に貫通していたというのです。斎藤氏は、当時のハルビン駅舎の2階は食堂になっていたことを通訳を通して取材したハルビン駅の助役に確認します。そして、安藤芳氏が「伊藤博文暗殺事件」の中で書かれたように、真犯人は2階食堂の従業員の着替え室から狙撃したのではないか、という説に同調するのです。

 まるで、ケネディ米大統領暗殺事件みたいですね。それでは、狙撃犯人の背後にいた人物とは誰だったのか?この本は「歴史ノンフィクション・ミステリー」と銘打っているので、種明かしはできませんので、実際この本を手に取って読んでみてください。

そうそう表題になっているフルベッキの写真とは何かについても説明しなければなりませんね。御存知の方も多いと思いますが、フルベッキとは幕末に来日した蘭出身の宣教師のことで、写真は、フルベッキと息子を囲んで44人の武士が写ったものです。撮影者は、日本の写真師の元祖上野彦馬。写っている武士たちとは、坂本龍馬、中岡慎太郎、西郷隆盛、大久保利通、高杉晋作、伊藤博文…と錚々たる幕末の志士ばかり。私も以前、加治将一著「幕末 維新の暗号」(祥伝社、2007年)を読んで大変興奮した覚えがあります。

 なぜなら、ここに写っている大室寅之祐なる人物が、明治天皇としてすげ替えられた(つまり、睦仁親王の替え玉)のではないかという推理小説だったからです。大室は、南朝の流れを組む人物で、明治天皇の父君である孝明天皇は天然痘で死亡したのではなく、毒殺されたという驚きの推理です。

 その毒を盛った下手人の背後にいたのが、実は伊藤博文だったということで、最初に出てきた安重根に繋がります。安重根が伊藤暗殺の理由として挙げた15カ条の罪状の中に、この孝明天皇について、「伊藤さんが弑逆(しぎゃく)しました。そのことは皆、韓国民は知っています」とあったのです。

 さて、このフルベッキの写真に写っていたのは本当に有名な幕末の志士と大室寅之祐だったのかー?これも、ミステリーなので本書を買って読んでみてください(笑)。斎藤氏は、ベルリン出張取材の経費が必要だと、電話で仰っておりました。

 何と言っても、斎藤氏の取材に懸けた情熱とフットワークの軽さには感服します。何かネタがありそうだと思うと、旧満洲、田布施、横須賀、長崎、佐世保、京都、角館…と何処にでも行って人に会いに行きます。残念なのは、年号の間違いあったこと。校正の段階ですぐ分かるので、ミスプリントかもしれませんが、「1956年(昭和33年)」(39ページ)、「明治元年10月28日(1886年12月10日)」(96ページ)は、一目見ればすぐ分かるはずですが…。

いや、これで終わってはいけませんね。斎藤氏のベルリン出張費のためにも、重ね重ね、皆様のご協力をお願い申し上げます。

今さらながらの石川達三「生きている兵隊」

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 ここ数日、どうも気分が落ち込んで、不安定だったのは、この本でのせいでした。

 石川達三著「生きている兵隊」伏字復刻版(中央公論新社)という本です。

 この本は、確か辺見庸著「1937(イクミナ)」(金曜日、2015年10月22日初版)でも引用されていたと思いますが、他の本にも引用されていて、いつか読んでみたいと思っていました。

 この本を貸してくれたのは、遠藤君でした。彼は「貧困層」に入るほど稼ぎが少ない階級なのに、月に2万円も払って「トランクルーム」を借りています。自宅に収まりきれない蔵書を収容するためです。2万冊はあるといいます。死んでも天国に持って行くつもりなのでしょう。

私はその全く逆で、自分の蔵書は売ったか、なくしたかで、ほとんどないので、有難いことに、よく彼から借りています。

 「生きている兵隊」は、1937年から38年にかけての中国大陸戦線で、皇軍と言われた日本軍による中国の民間人殺害や姑娘(クーニヤ)と呼ばれた若い女性狩りなどがあからさまに描かれています。

 1937年12月、32歳の石川達三が、中央公論社の特派員として上海から南京までの中国戦線に派遣されて、自分の目で見て体験し、取材したことを小説仕立てにしたものですが、ほぼ事実に近いようです。人と人が殺しあう戦争という狂気の世界、そして自分もいつ殺されるのか分からない極限状態の中です。ろくに取り調べもせず、裁判にかけることなく、怪しいという容疑で、簡単に捕虜や民間人の首を切って処刑したりします。「従軍僧」と呼ばれた僧侶も、シャベルを武器に敵兵の頭を割ったりして殺害したりします。僧侶がそんなことを?!

激しい戦闘の中で次々と戦友を失い、感覚が麻痺して人間性を失っていく兵士たち。読んでいて、自分自身も弾丸や手榴弾が飛び交う最前線に送り込まれたような気分で、読み進めるのが嫌になってきます。

巻末解説の半藤一利氏によると、この作品は、1938年2月発売の「中央公論」3月号で発表されましたが、書店に並ぶ暇もなく内務省通達で発売禁止。一般読者の目に触れるようになったのは戦後になってからだといいます。

 この作品で、石川達三は新聞紙法違反で起訴され、1939年4月の第二回公判で、禁錮4月、執行猶予3年の有罪判決を受けます。その理由は「皇軍兵士の非戦闘員殺戮、略奪、軍規弛緩の状況を記述したる安寧秩序を紊乱する事項を執筆したため」でした。

この本を電車の中で読んでいると、車内の周囲では若い勤労者が男女ともスマホ・ゲームに興じています。かといえば、中国人の2人が周囲を支配するような異様に大きな声でがなり合っています。彼らが何を話しているのか分かりませんが、この本を読んでいると、あまりにものギャップに頭が錯乱しそうになりました。

ハイエクと親交を結んだ田中清玄

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 8月のお盆の頃は、マスコミ業界では「夏枯れ」と言って、あまり大きなニュースがないので、「暇ネタ」ばかりを探します。

 今年の場合は、あおり運転をして真面目な市民を殴ったチンピラ(失礼!彼は天王寺高~関学~キーエンスの元エリートでした)の捕り物帖ばかりやっていて、いい加減、嫌になりましたね。普段なら三面記事の片隅にベタで載るような事案でも、テレビはニュースからワイドショーまで繰り返し垂れ流していました。文化人類学者の山口真男(1931~2013)は「マスコミは、存在自体が悪だ」と喝破したそうですが、長年マスコミ業界で飯を喰ってきた私自身も耳が痛いですね。

 マスコミはもっと信頼を回復して頑張らなければいけませんよ。今はマスコミより、ネットの方が怖い時代になりましたからね。 あおり運転のチンピラに同乗していた女容疑者を、変な正義感を持った若者が、間違って関係のない善良な市民をネットに拡散したため、被害者は、業務上でも精神的にも大変な目に遭われました。

 私も変なことは書かないよう気をつけます。

 さて、先週読了した大須賀瑞夫編著「田中清玄自伝」(文藝春秋)の余波がいまだに続いています。

 「26年ぶりの再読」と書きましたが、当時(1993年)は今ほどインターネットも発達しておらず、情報も不足していて「憶測」ばかり氾濫していました。

 今では検索すれば、簡単に「田中清玄」は出てきます。でも、ウィキペディアには「CIA協力者」と書かれていて驚いてしまいました。「自伝」を読む限り、田中清玄ほど反米主義者はいないと思ったからです。(戦前は共産主義者だったものの、スターリンに対する不信は筋金入りでしたので、反ソ主義者でもありました)日本政府の対米追随政策を絶えず批判したり、「ジャップの野郎が」と威張りくさる米国人と高級バーで喧嘩しそうになったり…。何と、彼は「そのうち、『アメリカ・イズ・ナンバーワン』と言う大統領が出てくる」と予言までしてますからね。

 「自伝」によると、田中清玄は、戦後まもなく昭和天皇に謁見したり、先の天皇陛下の訪中を実現させたり、まさに黒幕として活躍しました。外務省や右翼団体からの抗議などを乗り越えて、 戦前から親交のあった鄧小平が中国の最高実力者となったため、 個人で外交を成し遂げたのは大したものです。

 また、韓国やインドネシア、フィリピンでの利権を独占しようとする岸信介=河野一郎=児玉誉士夫=矢次一夫ラインとは最後まで敵対しました。

 自伝の最後の方では、ノーベル経済学賞を受賞したフリードリヒ・ハイエク教授との交流にも触れています。ハプスブルク家の家長オットー大公から紹介されたらしいのですが、ハイエクはハプスブルク家の家臣の家系だったそうです。

 ハイエクは、戦前からマルクス経済もケインズ経済も否定して、新自由主義経済を提唱した人です。彼が設立したモンペルラン・ソサイエティー(共産主義や計画経済に反対し、自由主義経済を推進する目的に仏南部のモンペルランに設立)に田中清玄も1961年から参加しましたが、間もなくして、フリードマンらシカゴ学派が大挙加入し、田中清玄は「彼らはユダヤ優先主義ばかり唱えるのでやめてしまった」といいます。

 それでも、ハイエク教授との個人的交流を生涯続け、京都大学の今西錦司教授と対談会を開催したりします。

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 私は、哲学者でもあるハイエクについては名前だけしか知らなかったので、彼の代表作である「隷属への道」をいつか読んでみようかと思っています。マル経も、そしてケインジアンまでも否定したため、両派から集中砲火を浴びながら一切怯まず、学説を曲げなかったところが凄い。田中清玄とは意気投合するところがあったのでしょう。

日本でいちばん面白い人生を送った男=大須賀瑞夫編著「田中清玄自伝」

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いやあ、面白いのって何の。すっかり嵌って寝食を忘れてしまいました。

大須賀瑞夫編著「田中清玄自伝」(文藝春秋、1993年9月10日初版)です。

私は、数年前に「疾風怒涛」時代に襲われ、茲では書けない色んなことを体験しているうちに、自宅書斎には、ほとんどの蔵書がなくなってしまいました。売却したり、処分したり、紛失したりしまったわけですが、その中でもわずかに残っていた蔵書の一つがこの本だったのです。26年ぶりの再読です。

 何で、この本を手に取ったかと言いますと、このブログの8月15日に「物足りない『黒幕』特集」を書いた通り、週刊現代 別冊「ビジュアル版 昭和の怪物 日本の『裏支配者』たち その人と歴史」(講談社) の内容があまりにも薄っぺらで、物足りなさを感じたからでした。

 田中清玄(1906〜93年)は、言わずと知れた政界のフィクサーと言われた「黒幕」です。戦前に、三・一五事件(1928年)と四・一六事件(29年)を経て壊滅状態だった日本共産党を再建して書記長となり、検挙されて、11年間も入獄し、昭和16年の釈放後は180度転向して天皇主義者になった人です。鈴木貫太郎首相に無条件降伏を説得した臨済宗の山本玄峰老師の下で3年間修行し、戦後は建設会社を興して、日本の政財界だけでなく、欧州、東南アジアやアラブ諸国とも太いパイプを持って事業を拡大した人でもあります。

 山口組三代目の田岡一雄組長らとも深い関係があり(田中清玄に田岡組長を紹介したのは横浜の荷役企業のドン藤木幸太郎会長だったとは!)、対立した児玉誉士夫(1911~84)の差し金で暴力団東声会の組員に狙撃されたり、何かと黒い噂も絶えなかった人でしたが、その生き方のスケールの大きさと抜群の記憶力には本当に圧倒されました。◆参考文献=藤木幸夫著「ミナトのせがれ」(神奈川新聞社)、城内康伸著「猛牛と呼ばれた男 『東声会』町井久之の戦後史」(新潮社)、有馬哲夫著「児玉誉士夫 巨魁の昭和史 」(文春新書) 

 26年ぶりの再読でしたので、内容はすっかり忘れておりましたが、この26年間で、あらゆる本を相当乱読していたため、この1冊を読むと、何の関連もないようなバラバラだった事象や事件が見事に繋がり、ジグソーパズルが完成したような気分になりました。

 勿論、田中清玄が自分の人生の中で見聞したことを「遺言」のつもりで毎日新聞編集委員に一方的に語ったことなので、120%信用できないかもしれないし、信用してはいけないのかもしれませんが、歴史的価値の高い「証言」であることは紛れもない事実です。

 以前にも少し書きましたが、田中清玄は、会津藩の筆頭家老の末裔でしたから、非常に潔癖で一本筋の通った人でした。(清玄の次男は、現在早稲田大学総長の田中愛治氏です)旧制函館中学~弘前高校~東京帝国大学というエリートコースで学んでいますから、そこで知り合った友人、知人は後世に政財官界や文学界などで名を成す人ばかりです。

 26年前に読んだ時は、知識が少なかったので、読んでもほとんどピンと来ませんでしたが、今読むと、昭和史に欠かせない重要人物ばかり登場し、関わりがなかったのはスパイ・ゾルゲぐらいです(笑)。意外な人物との関係には「そんな繋がりがあったのか」と感心することばかりです。

 例えば、函館中学時代は、久生十蘭、亀井勝一郎や今東光・日出海兄弟、それに長谷川四兄弟(長男海太郎=林不忘の筆名で「丹下左膳」も、 次男潾二郎=画家、三男濬=ロシア文学者、四男四郎=「シベリア物語」など )らと親しくなり、「特に長谷川濬とは仲が良かった」というので吃驚。長谷川濬は、満洲に渡り、甘粕正彦満映理事長の最期に立ち会った人ではありませんか。26年前はよく知らなかったので、素通りして読んでました(笑)。◆参考文献= 大島幹雄著「満洲浪漫 長谷川濬が見た夢」 (藤原書店)

 マルクス主義にのめり込んで地下組織活動を始めた弘前高校時代の三期後輩である太宰治については、「作家としては太宰と同期の石上玄一郎の方がはるかに上。太宰は思想性もなく、性格破綻者みたいなもんじゃないか。地下運動時代に俺を怖がってついに会いに来なかった。『そんな奴、いたかい』てなもんだ」とボロクソです(笑)。

 東京帝大に入学すると新人会に入ります。そこで、大宅壮一、林房雄、石堂清倫、藤沢恒夫(たけお)らと知り合い、藤沢からは、川端康成、横光利一、菊池寛、小林秀雄ら文壇の大御所を紹介されます。◆参考文献=松岡將著「松岡二十世とその時代」(日本経済評論社)

(戦前の)共産党関係者として、福本和夫、徳田球一、渡辺政之輔、佐野学、鍋山貞親、志賀義雄、それに、モスクワで無実の山本縣蔵を密告して殺させた野坂参三ら錚々たる人物が登場します。「…日本の軍人といってもこの程度なんですよ。こんな者どもが対ソ政策をやるから間違うんだ。…自分が助かるためには何でもやる。野坂参三も軍人も一緒です。陰険で小ずるくて冷酷無情な、どちらも同じ日本人です」と語ってますが、野坂参三をモスクワに送り込んだのは田中清玄自身だったことを告白し、大いに後悔していました。◆参考文献=立花隆著「日本共産党研究」上下(講談社)

面白かったのは、11年間の牢獄生活から出所して、三島の龍沢寺の山本玄峰老師の下で修行していた頃の逸話です。ちょうど真珠湾攻撃が始まり、反軍・反侵略の思想の持ち主だった田中清玄は、血気盛んで、反戦行動を起こそうとしますが、玄峰老師から「軍は気違いじゃ。…今、歯向かっていったらお前は殺されるぞ。…お前は時局に関して何も言っちゃいかん。今は修行専門だぞ」と諭されたそうです。彼は「あの時、下手をやって、なまじ軍に反対していたら、こっちが命を落としていたでしょう。老師の喝破のお蔭です」と振り返って感謝しています。

 龍沢寺には、吉田茂、米内光政、岡田啓介、鈴木貫太郎、岩波茂雄、安倍能成ら政治家から文化人に至る重鎮が頻繁に訪れていて、田中清玄は、玄峰老師のボディーガードになったり、東京まで代理の使者として政界の大物に会ったりしたということですから、修行の身でフィクサーになったようなものでした。

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 戦後は、復興のために建設業を営み(後に四元義隆に会社を譲ってしまう!)、アジアだけでなく、ハプスブルク家のオットー大公やアブダビの首長ら国際的スケールで交際しビジネスに結びつけた話も圧巻でした。

 その人脈の広さと多さには本当に驚かされますが、「私が本当に尊敬している右翼というのは二人しかおりません。橘孝三郎さんと三上卓君です」と発言しています。26年前は、すぐ分かりませんでしたが、2人とも五・一五事件に関与した人でしたね。評論家立花隆(本名橘隆志)は、橘孝三郎の従兄弟の子に当たる縁戚です。三上卓は、犬養毅首相を暗殺した海軍中尉で、国家主義者。◆参考文献=中島岳志著「血盟団事件」(文藝春秋)、寺内大吉著「化城の昭和史」上下(毎日新聞社)

 私は、一回読んだ本はほとんど読み返すことはないのですが、この本は再読してよかったです。年を取るのも悪くないですね。乱読のお蔭で、知識も経験も増え、知らないうちに理解力も深まっていました。

 26年前には読み流していましたが、田中清玄が「人類というものは、自己の保身と出世のために人を裏切る冷酷な存在でもあるということです」と発言する箇所があります。当時は苦労知らずのお坊ちゃんで、実感できなかったのですが、今は痛切な気持ちで同感できます。

 絶望感はではありません。清清しい達観です。

物足りない「黒幕」特集

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 やはり、私のライフワークといいますか、興味のある専門分野ですからね(笑)。つい、買ってしまいました。週刊現代 別冊「ビジュアル版 昭和の怪物 日本の『裏支配者』たち その人と歴史」(講談社、980円) です。

 その前に、私の住む自宅から歩いて7、8分ほどにあった本屋さんが、とうとう潰れてしまいました。アマゾンのせいでしょうか。駅近くにあった書店2店舗は既に数年前に閉店したので、ここは「最後の砦」でした。呆然自失。この本屋だけは失いたくなかったので、なるべく、ここで買うようにしてましたが、ついに消滅してしまいました。悲しいというほかありません。

 仕方ないので、この「週刊現代 別冊」を会社の近くのコンビニで買おうかと思ったら、週刊誌は置いていても、別冊は置いてないんですよね。そもそも本屋じゃないので、種類も少ない!帰宅時に遠回りして、駅近くの大型書店で買うことができました。

 この上の写真の表紙をご覧になって頂くだけで、内容は分かると思います。

 日本の「裏支配者」たちーとありますが、吉田茂、正力松太郎、五島慶太、後藤田正晴…みんな、「表社会」の人たちじゃありませんか。フィクサー、黒幕として登場する児玉誉士夫、山口組三代目の田岡一雄組長にしても、超々有名人で、日本人ならまず知らない人はいないぐらいです。失礼ながら、初心者向きで、野間ジャーナリズムの限界を感じました。続編を期待しましょう。

 私自身、これまでいろいろな本を読んできましたから、この別冊の中で、馴染みがなかったのは矢次一夫(1899~1983年)ぐらいでした。この人については、顔写真と略歴だけ載っていましたが、岸信介との関係などもう少し掘り下げて頂きたかったですね。

 このほか、章立てして、もっと掘り下げて、取り上げてほしかった人物として、まず、玄洋社の頭山満が筆頭でしょう。次いで、黒龍会の内田良平。この別冊で取り上げられた軍人の石原莞爾は、まあ妥当だとしても、もっと土肥原賢二や影佐禎昭ら諜報活動に従事した人も取り上げてほしかったですね。そうそう、甘粕正彦は欠かせない人物です。牟田口廉也や辻政信は少し食傷気味なので、桜会の橋本欣五郎や東京裁判で寝返った田中隆吉あたりが面白いかもしれません。

 写真がちょっと出ていただけだった大物右翼の三浦義一(1898~1971年)は「室町将軍」と言われたぐらいですから、最低、略歴ぐらい必要でしょう。以前、私は、ちょっと怖い人に引き連れられて、たまたま大津市の義仲寺にある彼のお墓参りをしたこともあります。また、三浦義一の後継者である西山広喜(1923~2005年)の内幸町・富国生命内の事務所を確認したことがあります(笑)。

共産党幹部から獄中で国粋主義に転向した田中清玄(1906~93年)は章立てして大きく取り上げるべき人物でしょう。(田中家は会津藩の筆頭家老だった名門家系。早稲田大学第17代総長の田中愛治氏は、田中清玄の子息)田中清玄=田岡組長VS児玉誉士夫=東声会=岸信介との壮絶な闘いは語り継がれるべき逸話です。

 となると、11年間の獄中生活から出所後、田中清玄が師事した静岡県三島市の龍沢寺の山本玄峰禅師もマストでしょう。山本禅師は、臨済宗妙心寺派管長も歴任し、終戦の際に、鈴木貫太郎首相に「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の文言を進言して、終戦を受け入れるよう説得した功労者ですから、まず欠かせませんね。(鈴木貫太郎は関宿藩士でしたね。二.二六事件の際には侍従長で、蹶起隊に襲撃されながら、奇跡的に一命を取り留めました)

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 平成から令和の時代となり、人間が小粒になったのか、ますます、黒幕やらフィクサーといった豪快な人物が出にくくなった感があります。

でも、一般大衆には分からないように、暗躍しているのかもしれませんよ。

「図案対象」と戦没画学生・久保克彦の青春

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8月は哀しい。

昨日6日は広島原爆忌、9日は長崎原爆と日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍による満洲侵攻(その後のシベリア抑留)。そして15日の終戦(敗戦記念日は、ミズーリ号で降伏文書を調印した9月2日)。

 あれから74年も経ち、戦争を直接体験した語り部が減り、テレビでは特集番組さえ消えつつあります。

 嗚呼、それではいけません。

 最近、ほんのちょっとしたきっかけで知り、感動し、興味を持った藝術作品として、東京美術学校(現東京芸大)を卒業し、徴兵されて中国湖北省で戦死した久保克彦が遺した 「図案対象」 という7メートルを超す大作があります。

美術作品は、何百万語言葉を費やして説明しても実物を見なければ無理なので、ちょうど2年前の2017年8月にNHKの「日曜美術館」で放送された「遺(のこ)された青春の大作~戦没画学生・久保克彦の挑戦」をまとめたブログ(?)がありましたので、勝手ながら引用させて頂きます。

 これをお読み頂ければ、付け足すことはありません。

 私は、このテレビ番組は見ていません。「図案対象」を描いた久保克彦の甥に当たる木村亨著「輓馬の歌 《図案対象》と戦没画学生・久保克彦の青春 」(図書刊行会、2019年6月20日初版)の存在を最近知り、興味を持ったわけです。

この「図案対象」はとてつもない前衛作品です。全部で5画面あり、抽象的な模様もあれば、戦闘機や大型船が描かれた具象画もあります。

久保克彦は23歳の時、東京美術学校の卒業制作としてこの作品を完成させましたが、2年後の25歳で中国大陸で戦死しており、作品についての解説は残しませんでした。

 しかし、その後、あらゆる角度から分析、解釈、照合、比較研究などの考察を重ねた結果、驚くべきことに、一見バラバラに見える事物の配置は、全て「黄金比」の法則に従って、整然と並べられていたことが分かったのです。

 黄金比というのは、人間が最も美しいと感じる比率のことで、それは、1:1.618…だというのです。

 この黄金比に沿って建築されたのが、古代ギリシャのパルテノン神殿や古代エジプトのピラミッド、パリの凱旋門、ガウディのサグラダファミリア大聖堂などがあり、美術作品としては、ミロのビーナスやレオナルド・ダビンチの「モナリザ」などがあります。

WGT National Gallery copyright par Duc de Matsuoqua 

 私は、黄金比については、映画化もされたダン・ブラウン著「ダ・ヴィンチ・コード」を2004年に読んで初めて知りましたが、結構、身近に使われていて、クレジットカードや名刺などの縦横比も「1:1.16」と黄金比になっているようです。

 それに、今何かとお騒がせのGAFAのグーグルやアップルのロゴもしっかり黄金比を使ってデザインされております。ご興味がある方は、そういうサイトが出てきますのでご参照してみてください。

 久保克彦が、黄金比を使って「図案対象」を制作したのは昭和17年(1942年)のこと。戦死しないで旺盛な創作活動を続けていたら、「ダビンチの再来」という評価を得ていたかもしれないと思うと、実に哀しい。

 

失われた時を求めて=見つかった?高悠司

国立国会図書館

 久しぶりに東京・永田町の国会図書館に行って来ました。病気をする前に行ったきりでしたから、もう5年ぶりぐらいです。当時、ゾルゲ事件関係の人(ドイツ通信社に勤務してゾルゲと面識があった石島栄ら)や当時の新聞などを閲覧のために足繁く通ったものでした。

 今回、足を運んだのは、自分のルーツ探しの一環です。私の大叔父に当たる「高悠司」という人が、東京・新宿にあった軽劇団「ムーラン・ルージュ新宿座」で、戦前、劇団座付き脚本家だったらしく、本当に実在していたのかどうか、確かめたかったのです。

 高悠司の名前は、30年ほど前に、亡くなった一馬叔父から初めて聞きましたが、資料がなく確かめようがありませんでした。正直、本当かどうかも疑わしいものでした。

表紙絵は松野一夫画伯

 それが、最近、ネット検索したら、やっと「高悠司」の名前が出てきて、昭和8年(1933年)5月に東京・大阪朝日新聞社から発行された「『レヴュウ號』映画と演藝 臨時増刊」に関係者の略歴が出ていることが分かったのです。今回は、その雑誌を閲覧しようと思ったのです。

 最初は、雑誌ですから、「大宅壮一文庫」なら置いてあるかなと思い、ネット検索したらヒットしなかったので、一か八か、国会図書館に直行してみました。 

 何しろ5年ぶりでしたから、パスワードを忘れたり、利用の仕方も忘れてしまいましたが、「探し物」は、新館のコンピュータですぐ見つかりました。何しろ86年も昔の雑誌ですから、実物は手に取ることができず、館内のイントラネットのパソコン画面のみの閲覧でしたが、申請したら、コピーもしてくれました。カラーが36円、白黒が15円でした。

 国会図書館内では、一人で何やらブツブツ言っている人や、若い係の人に傲岸不遜な態度を取る中年女性など、ちょっと変わった人がおりましたが、税金で運営されているわけですから、多くの国民が利用するべきですね。

「 レヴュウ號」目次

 7月26日に発売され、同日付の産経新聞に全面広告を打っていた「月刊 Hanada」9月号には「朝日新聞は反社会的組織」という特大な活字が躍り、本文は読んでませんが、これではまるで朝日新聞社が半グレか、反社集団のようにみえ、驚いてしまいました。右翼国粋主義者の方々なら大喜びするような見出しですが、戦前の朝日新聞は、こうして、政治とは無関係な娯楽の芸能雑誌も幅広く発行していたんですね。

 とはいえ、この雑誌が発行された昭和8年という年には、あの松岡洋石代表が席を立って退場した「国際連盟脱退」がありましたし、海の向こうのドイツでは、ヒトラーが首相に就任した年でもありました。前年の昭和7年には、血盟団事件や5・15事件が起こっており、日本がヒタヒタと戦争に向かっている時代でした。

 そんな時代なのに、いやそういう時代だからこそ、大衆は娯楽を求めたのでしょう。このような雑誌が発売されるぐらいですから。

 目次を見ると、当時の人気歌劇団がほとんど網羅されています。阪急の小林一三が創設した「宝塚少女歌劇」は当然ながら、それに対抗した「松竹少女歌劇」も取り上げています。当時はまだ、SKDの愛称で呼ばれなかったみたいですが、既に、ターキーこと水ノ江滝子は大スターだったようで、3ページの「二色版」で登場しています。

 残念ながら、ここに登場する当時有名だった女優、俳優さんは、エノケン以外私はほとんど知りません。(先日亡くなった明日待子はこの年デビューでまだ掲載されるほど有名ではなかったみたいです)むしろ、城戸四郎や菊田一夫といった裏方さんの方なら知っています。

 面白いのは、中身の写真集です。(「グラビュア版」と書いてます=笑)「悩ましき楽屋レヴュウ」と題して、「エロ女優の色消し」とか「ヅラの時間」などが活写されています。それにしても、天下の朝日に似合わず、大胆で露骨な表現だこと!

 43ページからの「劇評」には、川端康成やサトウハチロー、吉行エイスケら当時一流の作家・詩人も登場しています。

レヴュウ関係者名簿

 巻末は、「レヴュウ俳優名簿」「レヴュウ関係者名簿」となっており、私のお目当ての「高悠司」は最後の54ページに掲載されていました。

 高悠司(高田茂樹)(1)佐賀縣濱崎町二四三(2)明治四十三年十一月三日(3)ムーラン・ルージュ(4)文藝部プリント(6)徳山海軍燃料廠製圖課に勤め上京後劇團黒船座に働く(7)四谷區新宿二丁目十四番地香取方

 やったー!!!ついに大叔父を発見しました。

 一馬叔父からもらった戸籍の写しでは、大叔父(祖父の弟)の名前は、「高田茂期」なので、ミスプリか、わざと間違えたのか分かりませんが、出身地と生年月日は同じです。(4)の文藝プリントとは何でしょう?同じムーラン・ルージュの伊馬鵜平(太宰治の親友)はただ文藝部とだけしか書かれていません。(5)は最終学歴なのですが、大叔父は、旧制唐津中学(現唐津西高校)を中退しているので、わざと申告しなかったのでしょうか。

 (6)は前歴でしょうが、徳山海軍燃料廠の製図課に勤めていたことも、劇団黒船座とかいう劇団に所属していたことも今回「新発見」です。 確か、大叔父は、旧制中学を中退してから佐賀新聞社に勤めていた、と一馬叔父から聞いていたのですが、その後、「職を転々としていた」一部が分かりました。

 (7)の香取さんって誰なんでしょうか?単なる大家さんなのか、知人なのか?新宿2丁目も何か怪しい感じがしますが(笑)、ムーラン・ルージュまで歩いて行ける距離です。想像力を巧みにすると面白いことばかりです。

いずれにせよ、この雑誌に掲載されている当時あったレビュー劇団として、他に「ヤパン・モカル」「河合ダンス」「プペ・ダンサント」「ピエル・ブリヤント」などがあったようですが、詳細は不明(どなたか、御教授を!)。「ムーラン・ルージュ」の関係者として6人だけの略歴が掲載されています。そのうちの一人として、天下の朝日新聞社によって大叔父高悠司が選ばれているということは驚くとともに、嬉しい限りです。

繰り返しになりますが、大叔父高悠司こと高田茂期は、ムーラン・ルージュを辞めて、満洲国の奉天市(現瀋陽市)で、阿片取締役官の職を得て大陸に渡り、その後、徴兵されて、昭和19年10月にレイテ島で戦死した、と聞いています。33年11カ月の生涯でした。

遺族の子息たちはブラジルに渡り、その一人はサンパウロの邦字新聞社に勤めていたらしいですが、詳細は分かりません。

この記事を読まれた方で、高悠司について他に何かご存知の方がいらっしゃっいましたら、コメントして頂けると大変嬉しいです。ここまで読んで下さり感謝致します。

元祖アイドル明日待子さんの訃報に接して

 本日、戦前から戦後にかけて「元祖アイドル」と言われた女優明日待子(あした・まつこ、本名須貝とし子、1920~2019年)さんの訃報に接しました。享年99。

 何よりも、まだご健在だったことに驚き、叶わぬことでしょうが、もしその事実を知っていたなら、生前にお話を伺いたかったなあ、と思いました。

 私が彼女の名前を初めて聞いたのは、30年ほど前です。戦前から戦後にかけて新宿にあった大衆劇場「ムーランルージュ新宿座」(1931~51年)の看板女優だったという話を佐賀の一馬叔父(父親の弟)から聞いたことでした。最初聞いた時は、随分変わった分かりやすい芸名だなあ、ということぐらいで、それ以上はどんな女優だったのか知る由もありませんでした。

 当時、一馬叔父さんは自分の九州の高田家のルーツ探しに非常に熱心で、戸籍やら曾祖父が残した書き物などを元に系図を作ったりして、コピーも送ってくれました。その中で、叔父の叔父に当たる高田茂期(私から見て祖父の弟に当たる大叔父)が、昭和7~8年に、このムーランルージュで座付き脚本家として活動したことがあり、ペンネームとして「高悠司」という名前を使っていたという話を聞いたのです。

 しかし、当時は今ほどネットに情報が溢れていたわけではなく、知る由もなく、「高悠司」という人がいたかどうかも不明でした。当時、私は演劇担当の記者をしていたため、その折に知遇を得た演劇評論家の向井爽也氏(古い民家の絵を描く著名な向井潤吉画伯の長男で元TBSのディレクター)に、高悠司について伺ってみると「聞いたことないなあ」と一言。その代わり、ムーランルージュ関係の本を1冊紹介してもらいました。その本のタイトルは忘れましたが(笑)、勿論、高悠司の名前などありませんでした。

WT National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua  明日待子さんの写真が著作権の関係で使えないので、リンク先でご参照ください。

 それが、最近、ネットで検索したところ、高悠司の名前が2件ヒットしたのです。1件は、大恥を晒しますが、私が2006年5月28日の《渓流斎日乗》に書いた記事(笑)。もう1件は、1933年に東京朝日新聞社から発行された「レヴュウ號」映画と演芸・臨時増刊(54ページ、50銭・26x38センチ判)の索引の中に出てきたのです。名前だけですが、有馬是馬 、春日芳子といった俳優のほかに、関係者(座付き作家?)として伊馬鵜平(太宰治の親友としても有名)、斉藤豊吉らとともに高悠司の名前が並んでいたのです。

 嗚呼、今は亡き叔父の言っていたことは本当だったんだ!実在していたんだ!と感激しました。いつか、この雑誌を国会図書館が何処かで閲覧させてもらおうかと思いました。

 さて、ウイキペディアの「ムーランルージュ新宿座」によると、明日待子さんは、上に出てきた俳優の有馬是馬に発掘されて1933年に入団、とあります。昭和7(1932)~同8(1933)年頃に在籍した大叔父高悠司と接点があったかもしれません。明日待子さんが存命と知っていたら、その辺りを聞いてみたかったのです。(一馬叔父の記憶では、高悠司は当時、湘南地方で起きた事件を題材に脚本を書いたところヒットして、二カ月のロングランになったらしい。また、彼はヴァイオリンも演奏したらしいですが、真相は不明です)

 明日待子さんは、デビューすると瞬く間に人気アイドルとなり、カルピスや花王石鹸、ライオン歯磨きなどの宣伝ポスターに引っ張りだこ。原節子、李香蘭と並ぶ「元祖アイドル」と言われる所以です。

 ムーランルージュには、座付き作家として、吉行淳之介のご尊父吉行エイスケや龍胆寺雄ら、俳優歌手には、左卜全、益田喜頓、由利徹らも関わっていたんですね。戦後生まれの私は勿論知りませんが、ボードビル風の軽喜劇もやっていたことでしょう。

◇ルーツ探し

 大叔父高悠司こと高田茂期の消息については不明な部分が多いのですが、旧制佐賀県立唐津中学(現唐津東高校)を中退し、佐賀新聞社に勤務。その後、兄である私の祖父正喜(横浜で音楽教師をやっていた)を頼って上京し、職を転々とした挙句にムーランルージュで脚本家の職を得たようです。そして、何かのツテがあったのか、そのムーランルージュも辞めて満洲に渡り、奉天市(現瀋陽市)で阿片取締役官の職に就き、その後、徴兵され、昭和19年10月のフィリピン・レイテ島戦役(フィリピンで俘虜となり、レイテ島に収容された大岡昇平の「レイテ戦記」に詳しい)で戦死したと聞いています。享年33。

 長らく自分の「ルーツ探し」はサボって来ましたが、また復活したいと思っています。