ジョン・レノンの靴が有名なテニス・シューズだったとは!

 皆様、御案内の通り、小生はビートルズ・フリーク、特にジョン・レノンのファンなのですが、先日の読売新聞夕刊に出ていたジョン・レノンの靴の話は、知らなかったので、とても興奮して読んでしまいました。

 ビートルズ最後の録音アルバム「アビイ・ロード」は、世界で最も有名なジャケットの一つです。英ロンドンのアビイ・ロード・EMIスタジオの前の横断歩道をビートルズの4人が歩いているカットです。あたしも若い頃、わざわざ現場に行って横断歩道を歩きました(笑)。先頭のジョンは、純白の上下スーツに白いスニーカー(運動靴)。2番目のリンゴは、黒いスーツに黒い革靴。3番目のポールは、濃紺の上下スーツに裸足。4番目のジョージは、上下紺のデニムにクリーム色の靴というイデタチです。

 「アビイ・ロード」は、日本では1969年10月21日に発売されました。確か2500円。父親に買ってもらいました。あれから50年ですか…。もう半世紀も大昔になるとは!レコードですから、針で擦り切れるほど、ソニーのインテグラという当時発売されたばかりのコンポーネント・ステレオで何度も何度も飽きずに聴いたものです。

当時、「ポール死亡説」が流れ、このアルバムのジャケットでポールが裸足で、後ろに写っている車(VWビートル)のナンバーに「26IF」とあったことから、「もしポールが生きていたら26歳だった」とこじつけられたり、先頭のジョンは牧師、リンゴは会葬者、ジョージは墓堀人の象徴と言われたりしました。

今回は、その話ではなく、ジョンの白いスニーカーの話でした。この運動靴、ただの運動靴ではなく、フランス・パリで1936年に創業されたスプリング・コートというブランドの「G2クラシック・キャンバス」というテニス・シューズだったのです。宣伝文句によると、「シンプルなデザインで、バネのように跳ねる履き心地と機能」を持つそうな。

 テニスの四大トーナメントの一つ、全仏オープン(1891年スタート)はクレイコート(赤土)ですから、そのコートに合うように開発された靴でした。

 もちろん、ジョンはその履き心地の良さと機能性を知って買ったことでしょう。何となく嬉しくなってしまいました。

 インナーに特殊クッションがあり、靴底はラバー(ゴム)。1965年に発売されたビートルズの6枚目のアルバム「ラバー・ソウル」(「ミッシェル」「ガール」など収録)は、「ゴムのようなソウル・ミュージック」rubber soulと、「ゴム底靴」rubber soleを掛けたタイトルでしたから、ジョンはもうその頃からこの靴を愛用していたかもしれない、というのは考え過ぎなんでしょうね(笑)。

 1969年1月30日のいわゆる「ルーフ・バルコニー・セッション」(映画「レット・イット・ビー」で公開)でも、ジョンは白っぽいスニーカーを履いておりますが、これもスプリング・コートだったのかどうかは不明です。

ちなみに、日本では2015年からカメイ・プロアクトが総代理店契約を結んでいるそうで、価格は1万800円ぐらいで販売されているようです。いや、別に宣伝するために書いたわけではなく、この会社をよく知っていたので驚いてしまったからです。私の親族が一昨年、この会社に入社しましたが、理由があって、1年も経たないうちに辞めてしまったのです。銀座にも直営店舗があるので見に行ったりしました。どんな会社なのか調べたりもしました。

 何か、色んな繋がりがあったので、ついつい興奮して書いてしまいました。

トラブルの予感

 これから、こういうトラブルはますます増えていくことでしょう。

 今朝のこと。通勤のため混んだバスに乗ったところ、異様な電子音が鳴り響いていました。

 状況を伺うと、優先席に土足を投げ出して座っている5歳ぐらいの男の子が、スマホで何か動画を見ているようでした。イヤホンも付けずにボリュームも最大にしていますから、キンキンと電子音が鳴り響き、アナログ世代には耐え難い拷問です。

 隣りには、その子どもの母親らしき女が、やはり優先席に我が物顔で座っています。風貌から中国系に見えます。

 前に立っていた中年の女性がたまりかねて注意しました。「もう少し音量を下げてください」。当然の要求です。その女性は、どこか公立学校の教師のような感じに見えました。今まで、周囲がずっと黙っていたのは、あまりにも日本人的謙譲さです。彼女は、普段、生徒に注意するので慣れているのかもしれません。

 でも、母親は知らん顔です。女性教師は、とうとう「貴女は日本語分からないの?」と詰問しました。すると、女は首を横に振りました。

 おかしいですね。日本語が分からなければ、首も振れないわけですから、ある程度日本語が分かっているので、分からないふりをしているようにもみえます。

 結局、女性教師は、子どもからスマホを取り上げて、音量を下げました。でも、スマホを返してもらった子どもは再び音量を上げました。

 そうこうするうちに、バスは駅に着いたので、その後どうなったのか分かりません。安倍首相は、庶民が乗るようなバスには乗らないので、こういう不快は分からないだろうなと思いました。

 もう一つ。

 昼休み。外に食事に行こうとすると、銀座ですから、外国人観光客が多く、店の前の歩道を塞いで、通れません。団体は大抵が中国系です。言葉で分かります。かつて中国人の多さは、2月の春節か、10月の国慶節ぐらいに限られていましたが、今では1年中です。しかも、小さな子どもまでいます。余計なお世話ですが、学校行ってるんでしょうか。イイ若者が平日にブラブラと観光ですか。良いご身分ですねえ。

 いやいや、世界経済大国ですから別に構いませんが、もう少し、他人様の迷惑を考えてくれないものでしょうかねえ。我々だって、外国に行けば、少しは遠慮して、歩道を塞いでいたら、地元の人が通れるよう脇にどきます。しかし、彼らは我が物顔で、平気に路肩に座り込んだりしているんですからね。それが残念ながら決まって中国系です。

 私の周囲の中国専門家の中には、どういうわけか大学で中国語を専攻しながら、中国嫌いになってしまう人が何人かおります。「中国人は自分のモノは自分のモノ。他人のモノも自分のモノにする民族なんだよ。『一帯一路』か何か知らんけど、あれだけ広大な領土を持ちながら、もっと領土を広げたい野心があり、世界は自分たちを中心に回っているという華夷思想は4000年経っても変わらないね」というわけです。

 しかしながら、「仁」(他人への思いやり)や「礼」を重んじる儒教精神を日本人に教えてくれたのは偉大なる中国だったんじゃないでしょうか。全世界に「孔子学院」を張り巡らせて、「仁・義・礼・智・信」の五常をあまねく広めてくださっているのではなかったのでしょうか。(孔子学院の役割については、色んな説がありますが)

まあ、こんな些細な話は、お抱え運転手付きの政官財界の大御所の皆々様方には関係ない話で、知ったことではないでしょう。ただ、公共道徳を守り、節度を持った日本の一般庶民も、いつかは不満を爆発させる日が来るのではないかと予感しています。

「知ってはいけない」と言われても・・・

 またまた遅ればせながら、2017年8月20日に初版が出た矢部宏治著「知ってはいけない 隠された日本支配の構造」(講談社現代新書)を読みましたが、内容に関しては嫌になってしまいましたね。勿論、著者を中傷しているわけではなく、よくぞここまで調べ上げたものだと感服しています。恐らく各方面からの抑圧や脅迫もあったでしょうから、彼の勇気には頭が下がります。

 「はじめに」に書いてありましたが、著者の矢部氏には「また陰謀論か」「妄想もいいかげんにしろ」「どうしてそんな偏った物の見方しかできないんだ」などと批判が寄せられるそうです。彼はあまりいい気持ちはしないとはいうものの、腹が立たないというのです。むしろ、「これが自分の妄想ならどんなに幸せだろう」といいます。

 確かに、この本にはどんな教科書にも参考書にも書かれていない戦後史の中の裏面史といいますか、日本人の誰も知らないような米軍との密約が懇切丁寧に描かれています。(多少、「言葉遣い」が扇情的ですが…)

Akihabara

 これでも私自身はゾルゲ事件などに関心があったため、ここ15年ぐらいは、戦後史に関する書物も色々と目を通してきましたから、ここに書かれた密約については、全く知らなかったわけではなく、椅子から転げ落ちるほど衝撃があったわけでもありませんが、どうしてそんな密約ができたのかといったその経緯や背景について細かく説明してくれるので、大いに勉強になりました。

 特記したいのは、沖縄だけでなく、首都東京も含めて、日本全土の制空権は米軍にあり、戦後70年以上経った21世紀になっても、今でも日本は「占領状態」が続いているという事実です。 東京のど真ん中である六本木と南麻布にも非常に重要な米軍基地があり、勿論、そこは治外法権で、日本の法律が及ばない警察捜査権も裁判権もありません。六本木の六本木ヘリポート (またの名を麻布米軍ヘリ基地、赤坂プレスセンターとも) は、一昨年、トランプ大統領が来日した際、安倍首相とゴルフをした埼玉県の霞ヶ関カンツリー倶楽部から専用ヘリでここまで降り立ったことから注目されましたね。

南麻布には、日本の将来が決定される憲法より上に存在する「日米合同委員会」が開催される ニューサンノー米軍センターがあります。

都内の米軍基地は、東京都の公式ホームページでも公開されておりました。

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 「本当は憲法より大切な『日米地位協定入門』」「日本はなぜ、『戦争ができる国』になったのか」などの著書もある矢部氏は、どうも「反米極左主義者」のレッテルを貼られているようですが、左翼の理論的主柱である丸山真男さえ批判しております。

 日本国憲法について矢部氏は、「その草案を書いたのは、百パーセント、占領軍(GHQ)であり、日本人の書いた条文はない」として上で、特に、憲法9条のルーツを辿ります。

それによると、まず、まだ太平洋戦争が始まっていない1941年8月14日の時点で、ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相が会談して、まもなく米国が対日戦に参戦することを前提に二カ国協定を結びます。(これが(1)大西洋憲章です。)

 翌42年1月1日、米英はこの大西洋憲章に基づき、ソ連と中国を含めた26カ国の巨大軍事協定を成立させ、第2次大戦を戦う体制を整えます。その参加国が「連合国」(United Nation)と呼ばれ、その協定が(2)連合国共同宣言です。

連合国の勝利が確実となった44年10月、米、英、ソ、中の4カ国で、国連憲章の原案となる(3)ダンバートン・オークス提案をつくります。

 最後に、欧州戦線がほぼ終わりに近づいた45年4月から6月にかけて、(3)の条文をもとに、米サンフランシスコで50カ国で会議を開き、(4)国連憲章をつくります。これが戦後の国際連合(United Nations)になるわけですから、私はいつも思うのですが、国連というのは誤訳で、「連合国」、もしくは「第2次世界大戦勝者連合」が正しいですね。

Akihabara

 さて、憲法9条のルーツである大西洋憲章第8項には、「戦争放棄」と「武装解除」が書かれています。つまり、平和を希求する日本人が戦争放棄したわけでも、武装解除したわけでもなく、勝者の連合国軍が、二度と歯向かうことがないように敵の武装を解除して、戦争を放棄させたというのが事実なのです。そんな重要なルーツを丸山真男は分かっていない、と矢部氏は批判するわけです。

 ただし、この「戦争放棄」も「武装解除」も1950年に勃発した朝鮮戦争で方向転換されます。米軍は日本に自衛隊を創設させ、再軍備させます。しかも、今でも密約で取り決められているのですが、いざ、有事の際は、日本の自衛隊も米軍司令官の指揮下に入るというのです。私も知らなかったのですが、これが「指揮権密約」と呼ばれるもので、当時の吉田茂首相が1952年7月23日(クラーク大将)と54年2月8日(ハル大将)の2回、米軍司令官と会い、この密約を結んでいたというのです。

まあ、この本にはこのように、対米従属主義と治外法権と米国の植民地状態のことばかり書かれているわけですから、よほどのマゾヒストでない限り、日本人として面白いわけがないですね。右翼も左翼も関係がないのです。

 それにしても、世界史的に見ても、例を見ない奇妙な占領状態です。しかし、「日本は米軍の『核の傘』で守られているから、『思いやり予算』で米軍の駐留費用を負担するのは当然」だと思っている人も多いことでしょう。ということは、このような占領状態に甘んじているのも、そして、その状態を選んでいるのも、結局、日本国民ということになりますね。

中学同窓会に参加してよかった

  昨晩は、東京・池袋で開催された中学校の同窓会に参加して来ました。参加者は私を入れてたったの4人(笑)。同学年には200人以上いたのですが、ほとんど行方不明で、幹事が声掛けできたのは30人ぐらいだったようです。それでも、4人は少ないと思いつつ、出掛けたのですが、話が沢山できて面白かった。参加してよかったと思いました。

 中学校は東京都内ながら埼玉県境にある田舎の無名の公立学校でしたが、どういうわけか優秀な生徒が多く、名門高校に進学して、後に学者や弁護士や医者などになった者が多いのでした。

 某有名私立大学の教授になった平田さん(女性)なんか、とっても頭が良くて、東京都内全体の模擬試験で2番を取ったことがありました。記憶力抜群でした。

 何故なのか、中学時代は分からなかったのですが、生徒は国家公務員の官舎から通ってくる者が多く、父親が大蔵省とか外務省とかに通っていたエリートだったので、子どもに遺伝していたわけですね。

 さて、4人の同窓会は話が盛り上がりました。石油会社に勤めていた黒田さん、元警察官の岡本君、某国立大学准教授の須田君。黒田さんは、占いに凝って、ほとんどの占いをマスターしたそうなんですが、血液型占いするということで、皆の血液型を当てっこしようということになりました。私がO型、岡本君がA型、黒田さんがB型、須田君がAB型で、全部出そろったので、皆で大笑いしてしまいました。

 色んな取材で多くの有名人と会ってきた私の話も面白かったと思いますけど、何と言っても面白かったのは、警視庁に勤務していた岡本君の話でした。警視庁だけで、4万9000人もいるそうですね。警察庁の超エリートで「キャリア」と言われる国家公務員上級試験に受かった人はわずか30人しかいないそうです。そう言えば、同級生の宮下君は、そのうちの30人の1人でした。もちろん、彼は東大に進学しました。

 岡本君は、ノンキャリアでしたが、配属された主な部署が公安で、いわゆる一つのそっち方面のエキスパートですから、推理小説が一冊書けそうな話のオンパレードでした。彼は、既に警察官を引退しており、中学の同級生のよしみでペラペラと喋っていましたが、茲ではとても書けないことばかりでした。マスコミ出身の私を誰だと思っているんでしょうかねえ。今や10万アクセスを誇るブロガーですよ(笑)。

 まあ、書けるとしたら、彼は生命を落とすほど危険な体験をしていたということぐらいです。地元の人をオルグする際の経費は、自前だという話も驚きました。数カ月経って、その相手に、実は…と自分の身分を明かした時の相手の顔!本当に推理小説を地で行くような話でした。

 仕事ではありませんが、岡本君は、人一倍「霊感」が強いそうで、何度もお化けを見たという話もいくつかしていました。

 他の同級生の話となり、ポール・マッカートニーにそっくりの顔をした田築君が亡くなったという話を聞きました。私の知る限り、名古屋君、丸山君、峯岸君、松浦君に続いて5人目でした。他に知らない同級生の話になったので、家に帰って、卒業アルバムを見てみたら、顔を見ても名前が分からない、一度も話もしたことがない同級生が半分以上もいました。岡本君とは一緒のクラスになったことはありませんが、剣道部で一緒だったことがありました。でも、すっかり顔かたちが変わっていて、街ですれ違っても分からないでしょう。

 中学時代の私は、今でも思い出したくないほど愚か者で、頭の中にクモの巣が張ったような感じで集中力がなく、タバコを吸ったり、ビリヤードに出入りしたり、悪さばかりして、ボーと生きていました。中学入学時、トップだった成績も坂道を転げ落ちるようにして下落して、第1志望の高校受験も失敗。大したことはないと思っていた級友たちが、次々と自分を追い抜いて良い高校に入っているのを見て、大いなる挫折感と失望とやっかみに駆られたものでした。

 でも、半世紀も経てば、心の痛みも薄れ、今では、ただただ浅はかで愚かだった自分を笑うしかありません。ただし、あのような中学生時代があったからこそ、今の自分があるような気がしています。

西田天香の一燈園

昨晩は、福岡にお住まいの星野先生から電話が掛かってきまして、あれやこれやの貴重な御意見を賜りました。

 渓流斎さんですか? ああたは、同窓会のメンバー招集に齷齪されているようですが、寝た子を起こすようなことをしてはいけませんね。人、それぞれですから、中には「過去を消したい人」もいるのです。ああたは、「行方不明者」を一生懸命に興信所のように探しまくっておられますが、本人たちは「勘弁してくれい」「ほっといてくれい」というのが本音かもしれませんよ。

 そもそも、同窓会にしろ、趣味の結社にしろ、人が集まると、何かの「魂胆」が発生するもんですよ。「あなただけに特別に」とか「今のチャンスを逃したらもうありませんよ」とか何とか言って、マルチ商法かなんかの詐欺が横行するわけです。

 相手は、幼少、少年、青年時代に時空を供にした知れた仲ですから、信用するのは当たり前です。しかし、卒業後の30年間、40年間の空白期間に何があったか知れたもんじゃありませんよ。有名俳優のように暴行罪で捕まったことがあるかもしれませんし、粉飾決算で臭い飯を食ったかもしれません。分かったもんじゃないですよ。

バルセロナのパエリア

 半ば知っている相手ですから、「裏切られた」とか後で文句を言ったって、本当に後の祭りですよ。つい、昨日だって、「外債建て保険」を銀行員から「絶対に元本が保証されて、将来必ず儲かりますから」と勧誘された老人が、結局、いつの間にか1000万円以上の損失があったことが発覚して、銀行に電話したら、「担当者は転勤しました」なぞとケンモホロロの応対で、「あたし、どーしたらいいんでしょうか」と訪れた民生委員に泣きついた話が新聞に載ってましたね。

 そんなもんですよ。世の中に「儲かる話」ない、と肝に銘じなさい。投資に「絶対」なんかないんです。世間には楽をして、濡れ手に粟のように儲かる話なんて、あるわけないんですよ!

 そもそも、「儲かる話」は、誰も他人に教えたりしません!

バルセロナでフラメンコ鑑賞

 ああたは、先日も、金(きん)投資すれば、儲かるような話をブログに書いてましたが、駄目ですねえ。そんな世間に誤解を与えるようなことを書いてはいけませんよ。

 渓流斎ブログを書いた翌日には、もう既に自分の書いた内容を忘れているああたですから、「一燈園」創始者の西田天香(1872~1968)さんのことは、もうお忘れでしょう。

 リンクを貼りましたけれど、天香さんは、北海道開拓事業の出資者として、現地の耕作者と板ばさみとなって苦悩し、開拓事業を他人に委ね、人間として争いのない生き方を求めて求道の日々を重ねた人でした。そして、行き着いたのは「本来無一物」を原点とした奉仕と托鉢生活でした。

  一燈園は、1904(明治37)年に天香さんが創設したもので、自然にかなった生活をすれば、人は何物をも所有しないでも、また働きを金に換えないでも、許されて生かされるという信条のもとに、つねに懺悔の心をもって、無所有奉仕の生活を行っている所なのです。現在も京都山科区にあり、トイレ掃除など奉仕活動を行っています。

 やっぱり、忘れていましたか?(笑)

バルセロナでフラメンコ

 「『嵐』活動休止に伴う経済波及効果で3300億円!」などと、何でもカネ、カネに換算するような日経史観とは、全く正反対の活動ですよ。

 渓流斎さんも一度、天香さんの爪の垢を煎じて飲んで、精神を叩き直してください。

 えっ?何?天風さん?中村天風じゃありませんよ、天香さん、西田天香さんです。しっかりしてください!ああたも、一度、渓流斎ブログに書いたことがある人ですよ!

市川裕著「ユダヤ人とユダヤ教」を読んで

 長年、「ユダヤ問題」については関心を持っていましたが、不勉強でなかなかその核心については、よく分かっておりませんでした。

 ユダヤ民族は、ローマ帝国や新バビロニア王国による支配と捕囚によって、世界中に離散してからは差別と迫害と虐殺(19世紀末のロシアにおけるポグロム=破壊とナチスによるホロコーストなど)の歴史が続き、第2次大戦後になって今度はシオニズムによってパレスチナに国家を建設して、核兵器を装備していることが公然の秘密の軍事大国となり、かつてそこに居た人々が難民になるという歴史的事実もあります。

バルセロナ・グエル邸

それにしても、ユダヤ人は神に選ばれた「選民」として、作家、思想家、哲学者、物理学者、音楽家、演奏家、俳優、金融資本家…と何と多くの優秀な「人類」を輩出しているのかという疑問が長年あり、ますます関心が深まっていました。いわゆる「ユダヤの陰謀」めいた本も読みましたが、眉唾ものもあり、どこか本質をついていないと感じておりました。

 そこで、出版されたばかりの市川裕著「ユダヤ人とユダヤ教」(岩波新書・2019年1月22日初版)を購入して読んでみました。

新書なので、入門書かと思っていたら、著者は東京大学の定年をあと2年後に控えた「ユダヤ学」のオーソリティーでした。最初の歴史的アプローチこそ、ついて行けたのですが、中盤からのユダヤの信仰や思想・哲学になると、初めて聞く専門用語ばかりで、読み進むのに難渋してしまいました。

バルセロナ・グエル邸

まず最初に、一番驚いたのは、「ユダヤ教は『宗教』ではない。人々の精神と生活、そして人生を根本から支える神の教えに従った生き方だ」といった著者の記述です。えっ? ユダヤ教は宗教じゃなかったの?という素朴な疑問です。読み進めていくと、私がユダヤ教の司祭か牧師に当たるものと誤解していた「ラビ」とは、聖職者ではなく、神の教えに関して専門知識を持つ律法学者だというのです。

つまり、ユダヤ教とは、厳密な意味で宗教ではなく、戒律を重んじ、それを厳格に実践する精神と生活様式だったのです。6日目の安息日は、必ず休み、普段はシナゴーグでの礼拝や律法の朗読とタルムード(聖典)の学習など毎日決まりきった行動を厳格に実行しなければならないのです。とても骨の折れる信仰実践です。

 戒律といえば、私自身は、「モーセの十戒」ぐらいしか知りませんでしたが、とにかく、色んな種類の独自の律法があるのです。その代表的なものが、「モーセの五書」(旧約聖書の「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」)とも呼ばれる文字によって伝えられた「成文トーラー」と、西暦200年頃に編纂された口伝律法集「ミシュナ」(ヘブライ語で「繰り返し語られた法規範」全6巻63篇)と呼ばれる「口伝トーラー」です。

口伝トーラーは、 ヘブライ語で「道」「歩み」を意味するユダヤ啓示法の法規範である「ハラハー」と、法規範以外の神学や倫理、人物伝や聖書註解を扱う「アガダー」に分類されます。ラビたちは、ヘブライ語を民族の言葉として選び、神の言葉の学習を中心に据えます。ラビ・ユダヤ教に従うユダヤ人は、主なる神である唯一神を信じ、神の教えに従った行動をすることが求められます。具体的に何をすべきかに関しては、ラビたちの教えに従うことが義務付けられます。従って、ナザレのイエスをメシアと信じて従うのは異端だといいます(65ページ)。

バルセロナ・グエル邸バルセロナ・グエル邸

 このほか、神秘主義のカバラー思想などもありますが、難しい話はこの辺にして、この本で、勉強になったことは、イスラム教が支配する中世になって、ユダヤ人の9割が、当時欧州などより先進国だったイスラム世界に住み、法学をはじめ、哲学、科学、医学、言語学、数学、天文学などを吸収し、旺盛な商業活動も行っていたということです。それが、1492年のいわゆるレコンキスタで、イスラム世界が欧州から駆逐されると、ユダヤ人も追放、放浪が始まったということです。中世ヘブライ語で、スペインを「スファラド」、その出身者を「スファラディ」と呼び、スペインで長くイスラム文化の影響を受けたスファラディ系ユダヤ人の社会では、哲学的合理主義と中庸の徳が推奨され、生き延びることを優先して、キリスト教への改宗も行われたといいます。(スペインからオランダに移住したスピノザ一族など)

 もう一つ、ライン地方を中心とする中欧を「アシュケナズ」、その出身者を「アシュケナジ」と呼び、アシュケナジ系ユダヤ人社会では、敬虔さを重視する宗教思想が尊ばれ、迫害に対して、果敢に殉教する道が選ばれたといいます。

 ユダヤ人というのは、ハラハーに基づき、「ユダヤ人の母親から生まれた子、もしくはユダヤ教への改宗者」と定義されていますが、内実は、複雑で、エチオピア系ユダヤ人などいろんな民族が含まれ、色んな考えの人がいて、イスラエルを国家と認めないユダヤ人や、厳格な原理主義のユダヤ教に反対するユダヤ人さえもいるというので、聊か驚きました。


 ヴィルナ(現在のヴィリニュス)が「リトアニアのエルサレム」と呼ばれた街で、18世紀には正統派ユダヤ教の拠点だったことも初めて知りました。 とにかく、ユダヤ民族は教育と学習に熱心で「書物の民」と呼ばれ、成人の結婚が奨励されることから、歴史に残る多くの優秀な人材を輩出してきたことが分かりました。

 この本の不満を言えば、ユダヤ教の思想・哲学を伝えた偉人は出てきましたが、一般の人でもよく知るユダヤ人として出てくるのは、スピノザとマルクスとハイネ、それに、フロイトとアインシュタインぐらいだったので、もっと多く登場してもよかったのではないかと思いました。そして、何故、あそこまでユダヤ人だけが差別され、迫害されてきたのか、ご存知だと思われるので、もう少し詳しく説明されてもよかったのではないかと思いました。でも、大変勉強になりました。

飲食店サイト「ぐるなび」の原点は地下鉄広告

 某諜報機関の機関長から、ネットで飲食店の情報を提供している「ぐるなび」を徹底的に調査してほしいとの依頼がありました。

 任せてください。これでもその筋の端くれですからね(笑)。

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まず、「ぐるなび」サイトの「会社概要」によりますと、事業内容は、「パソコン・携帯電話・スマートフォン等による飲食店のインターネット検索サービスその他関連する事業 」とあります。同業他社の中に、カカクコム・グループが運営する「食べログ」がありますが、食べログが消費者からの情報を主軸に基本的に無料で発信しているのに対して、「ぐるなび」は、有料加盟店からの広告収入から成り立っています。総掲載店舗数約50万店のうち、有料の加盟店舗数は5万6967店(2016年3月期末)となっております。

ということは、「ぐるなび」は広告代理店ということになります。同社の公式サイトの沿革には、「1996年6月、株式会社NKBの一事業部として飲食店検索サイト『ぐるなび』をインターネット上に開設」とあります。このNKBとは何かといいますと、1948年に創業された交通広告会社で、旧社名は、交通文化事業株式会社。主に、地下鉄のベンチなどの看板広告を手掛ける会社として出発しました。創業者は、瀧冨士太郎(1903~1975)。

この方、もともとジャーナリストで旬刊誌「交通研究」を発行しておりました。その関係で、阪急の小林一三、東急の五島慶太ら鉄道界の大物との交際を深め、監督官庁の運輸省(当時)高官の天下り先を忖度して交通文化事業株式会社を設立し、広告事業を展開します。新規事業を行うには、政財官の「黄金のトライアングル」が威力を発揮することを熟知していたのでした。


バルセロナ・グエル邸

 交通・観光事業に従事する関係者の子息らへの奨学金として、彼の名前を冠した「瀧冨士基金」が現在でもあります。この育英事業は、瀧が設立した公益財団法人「日本交通文化協会」が行っているもので、同協会はこのほか、駅構内の壁画などパブリックアート事業や展覧会なども開催しております。

瀧冨士太郎の子息が瀧久雄氏(1940~)です。この人こそが「ぐるなび」の創業者です。東工大を卒業し、三菱金属に入社した技術者でしたが、父親の急逝により、後を継ぐことになります。先見の明があった同氏は、看板広告の将来性を案じて米国に視察に出掛け、まだ今後どう展開するか分からなかったインターネットに注目し、「ぐるなび」を始めたわけです。国土交通省の元高官らを顧問に迎えるなど父親のビジネススタイルを踏襲しました。

瀧久雄氏の趣味は囲碁です。NKBの関連会社として、囲碁対局サイトを運営する「株式会社パンダネット」(1962年6月創業)の代表取締役も務めています。話は飛びますが、このパンダネットですが、日本棋院利光松男理事長(1923~2004、日本航空相談役、JALパック社長)が自殺した遠因があったという情報が真しやかに流れております。これは、対局ソフトを開発する際の提供企業の選定をめぐって、日本棋院が「パンダネット」から韓国の「世界サイバー棋院」に切り替えたことで、理事会内で大問題となり、利光理事長の心労が重なったと言われています。


バルセロナ・グエル邸

先ほど、瀧冨士太郎が創刊した旬刊誌「交通研究」の話が出ましたが、鉄道・運輸関係の老舗といえば、1943年に創刊された「陸輸新報」の流れを汲む「交通新聞」があります。交通新聞が美空ひばりなら、交通研究は、丘みどりです(笑)。

交通新聞は業界紙なので、一般の人は知らないかもしれませんが、「時刻表」「旅の手帖」、そして「散歩の達人」を出版している会社だと言えば、分かるかもしれません。戦中から「時刻表」を出すぐらいですから、国鉄、そして政府関係者、労働組合、関連政党などと密接な関係があったという証左になります。

交通新聞社は、瀧氏のNKBと共同出資して、2000年に「トラベルサイト」を設立しましたが、現在機能しているかどうかは不明です。

 以上、まとめサイト「NEVER(決して~ない)」でした。 

「新聞王伝説 パリと世界を征服した男ジラルダン」その2・完

 今日は大晦日だというのに、少し掃除しましたが、本を読んだり、外国語を勉強したり、このようにブログを書いたりして仕事をしております。ありえない(笑)。 

 今日は、12月28日付に書いた鹿島茂著「新聞王伝説 パリと世界を征服した男ジラルダン」(筑摩書房・1991年9月20日初版)の続編ですが、これでお終いにします。

 著者は終章「結論に代えて」で、ジャーナリズムの本質を見事に突いています。27年前に、41歳の若さでここまで洞察できるとは、お見事というほかありません。

…ジャーナリズムの中で書かれたものは、それがどれほど鋭い洞察を含んだものであろうと、読者の目に触れた途端、紙屑となる。これは、ジャーナリズムに生きる者の宿命である。たとえ十分の一の値段であっても前日の新聞を買おうとする者はいない。ジャーナリストは誰でもこの虚しさを知っている。だが、ジャーナリストには、今という時間を掠め取っているという充実感がある。この充実感が虚しさに耐える力を与える。それどころか、時代とともにあるという感覚は、麻薬のように、あらゆる反省的な意識を痺れさせ、何物にも代えがたい快楽となる。この快楽があるからこそ、一度ジャーナリストになったら最後なかなか足を洗うことができないのだ。…

 どうです。これほど適格にジャーナリズムを説いた文章にお目にかかったことはありませんでしたね。


バルセロナ・サグラダファミリア教会

 本書の主人公である新聞王ジラルダンも、まさに、麻薬のような快楽の中で、次々と新機軸を打ち出して、新聞を創刊したり、買収したりしたに違いありません。ジラルダンは政界にも進出したりしますが、結局は、とても、自分自身の理想を実現したとは言えず、逆に批判や誹謗中傷を多く受けたようです。亡命も余儀なくされたりしました。そして、最後は自分が創刊したり買収したりした新聞(「プレス」、「リベルテ」、仏初の大衆新聞「プチ・ジュルナル」、高級紙「フランス」など)はすべて1929年の大恐慌までに廃刊となって消え、妻に先立たれ、親子ほど年の差があった後妻も他の男に走り、子孫も早く亡くなり、伝説だけが残ることになります。

バルセロナ・サグラダファミリア教会

 エミール・ド・ジラルダン(1806~81)が生きた時代は、まさに、激動の時代でした。1830年の7月革命、1848年の2月革命、1870年の普仏戦争とそれに続くパリ・コミューンが起き、その間、第二共和政、王政復古、第二帝政、第三共和政とコロコロと変わります。


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 フランスの新聞の第一号は1631年創刊の「ガゼット」紙と言われていますが、基本的には、フランスの新聞は政治新聞で、昔も今も変わらないといいます。そんな中で、ジラルダンは、党派やイデオロギーには拘らず、ある時は体制派として擁護したり、ある時は、反体制派として、政権討伐のキャンペーンを張ったりします。

 そのため、ジラルダンは「日和見主義」だの、「新聞に商業主義を持ち込んだ」などと批判されますが、彼には政治を超えた社会改革という思想の一貫性がありました。それは、下層階級と言われた大衆の教養を高めて、生活水準を下から高めていくことで、国も豊かになるといったものでした。その実践の一つが、労働条件の改善で、新聞印刷工らの労働時間を8時間にしたり、(当時の労働者は10時間以上がざらで、ジラルダンは100年先を見込んでいた)いざという時に困らないように、給料遅配は一度もなく(当時の経営者としては珍しかった)、部数が伸びれば、利益還元の思想に基づき、昇給という形で社員に分配したといいます。

 ただ、それらは労働者に対する同情ではなく、人間は欲望の塊で、それが活動の動機なり、向上心による会社の発展(彼にとっては部数の拡大)が国の発展にも寄与すると信じていたからでした。


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 最後に少しだけ、ジラルダンの「功績」を列挙してみます。

・1836年に創刊した「プレス」では、新聞小説の先駆けとなったバルザックの長編小説「老嬢」を連載。また、一般紙として初めて株式市況を掲載した。さらに、広告を重視して、これまで予約購読料だけに頼っていた新聞経営を安定させることに成功した。他紙は商業主義と批判したが、後世の新聞はほとんどこのようなスタイルとなった。(一般紙にスポーツ欄を設けたのは、ジラルダンの発想でした。当時のスポーツは、競馬でしたが)

・「プレス」紙の木曜日に連載された「パリ便り」は、まさに最先端の流行発信となり、部数拡張に貢献する。例えば、香水ゲルラン(日本ではゲランと発音)は、この欄のおかげで有名になった。このコラムの筆者は、ド・ローネ子爵となっていたが、実際の執筆者は、ジラルダン夫人である閨秀作家デルフィーヌだった。

嗚呼、2018年。今年ももうすぐ終わってしまいます。読者の皆様には本年も大変お世話になりました。

何せ、仕込みから取材執筆校正まで家内制手工業でやっておりますので、ジラルダン風に言いますと、このブログの広告にクリックして頂くと、大変助かります(笑)。

来年もどうぞ御愛顧の程、宜しく御願い申し上げます。

渓流斎高田朋之介

「新聞王伝説 パリと世界を征服した男ジラルダン」その1

久しぶりに寝食を忘れて没頭してしまう本を読んでいます。鹿島茂著「新聞王伝説 パリと世界を征服した男ジラルダン」(筑摩書房・1991年9月20日初版)です。他の本を読んでいて、巻末にあった何冊もの本の広告の中にこのタイトルの本を発見し、初めてその存在を知りました。

 そこで、図書館から借りてきました。27年も昔の本なのに新品同様です。こんな面白い本なのに、今まで誰一人も借りて読んでいなかったのかもしれません。私としてはとてもラッキーですが、何か複雑な気持ちです。

私は、本も含めてモノを収集する趣味が(あまり)ありませんが、絶版されていなければ、本屋さんに注文してもいいと思いました。著者の鹿島氏は、一度だけお会いした、いや、講演会の前列で間近でお目にかかったことがあります。横浜の大仏次郎文学館ででした。

大学教授という品格はありながら、ちょっと強面で、このジラルダンのように自信満々のオーラがムンムン出ていました。何ちゅうか、「俺より頭が良くて物識りで、賢い奴はいるのかい?」といった雰囲気を醸し出していました。脳みそが重いせいなのか、首を傾げることさえも気だるそうで、しかも、短気そうに見えて、何かちょっと気に障ることがあると、怒鳴られそうでした。(あくまでも個人の感想ですが、彼は名実ともに仏文学者の最高権威でしょう。彼の著作はできるだけ読みたいと思っております)。この本を書いたときは、鹿島氏は41歳です。共立女子大の助教授の頃でしょうか。 同年に「馬車が買いたい!」でサントリー学芸賞を受賞し、世間に名前が知られるようになったジュリアン・ソレルのように脂に乗ったところでした。

で、肝心のこの新聞王ジラルダンとは何者なのか?まあ、一言で言えば、今のジャーナリズムの原点をつくった人と言っていいかもしれません。「実業之世界」や「帝都日日新聞」などを創刊して「ブラックジャーナリズムの祖」とか「言論ギャング」とも呼ばれた大分県出身の野依秀市(1885~1968)すらも、このジラルダンと比べると、そのスケール大きさで小さく見えてしまいます。

エミール・ド・ジラルダン(1806~81)。伯爵アレクサンドル・ド・ジラルダン陸軍大尉の私生児として密かにパリで生まれる。小説「エミール」を発表して文壇デビュー。新聞「ヴォルール(盗人)」「ラ・モード」発行人、出版発行人として成功し、1831年、閨秀作家デルフィーヌ・ゲーと結婚。彼女のサロンには,オノレ・ド・バルザック、テオフィル・ゴーチエ,ヴィクトル・ユゴー,アルフレッド・ミュッセら若いロマン派詩人や作家が多く集った。1834年、下院議員に当選。1836年には、30歳にして、広告掲載で収益を重視した新聞「ラ・プレス」(La Presse)を一般紙の半額(年間40フラン)で売り出して、「新聞界のナポレオン」と称されるようになった。

これだけ、頭に入れておいて頂ければ、彼のおおよそのプロフィール(横顔)が分かるというものです。

以下はジラルダン自身が、すべて史上初めて考案したものでもなかったとはいえ、世間に受け入れられたり、成功したりしたものです。

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・1828年4月5日、ジラルダン21歳のとき、親友ロトゥール・メズレーとともに発行した週刊新聞「ヴォルール(盗人)」は、その名の通り、他の新聞から剽窃し、盗んできた記事を切り貼りして発行した新聞で、年間購読料22フラン(2万2000円)という安さだったので売れに売れた。

・パリの最新流行ファッションの動向については、地方に潜在読者がいると目論で、1829年10月3日に「ラ・モード」を発行。結局、購読者の多くは、パリの宮廷や社交界の流行に敏感な紳士淑女だったが、予約購読者に作家スタール夫人の胸像のレプリカを抽選でプレゼントするキャンペーンを実施。部数拡販のためだが、恐らく、こうした「懸賞」や「景品」のアイデアは、ジャーナリズムの歴史で、ジラルダンが初めて実行。

・「ラ・モード」の巻末には、当時最高の贅沢品でステイタスシンボルでもあった馬車の絵と製造元の名前と住所を掲載。馬車製造所から掲載料を取るシステムで、これまでどの新聞発行人も試みなかったカタログ販売風の紙面スタイルを採用した。

バルセロナ

・ジラルダンは、既成の新聞や雑誌と差別化するために、才能がある新人作家や画家の発掘に力を注いだ。その代表的な作家がバルザック、ウージェーヌ・シュー、フレデリック・スーリエ、ジョルジュ・サンド。画家はカヴァルニ。

・一転、ジラルダンは「ヴォルール」と「ラ・モード」を売却して1831年10月、実業家や進歩的農民の科学的、経済的知識を深化させることで、彼らを健全な政治的・社会的な判断力を持った人間に育てる目的で「ジュルナル・デ・コネッサンス・ジュティル」(実用知識新聞)を年間予約購読料4フランという超破格価格で発行。(当時の政治新聞は平均80フランだった)その事前宣伝費に6万フランも投入した。創刊1年後、ジラルダンの予想をはるかに超えて発行部数が13万2000部となり、彼は巨万の富を手に。

・この富は散財することはせず、出版業に進出。「フランス年鑑」(生活百科の暦)、「ポケット版フランス地図」、モリエールらの文学選集「文学パンテオン」などを発行した。

バルセロナ

・新聞宣伝キャンペーンとして、街角やメトロなどの壁に広告を貼る手法は、ジラルダンの創案と言われている。

ジラルダンは1836年7月1日に、予約購読料だけでは安定した新聞経営はできないということで、これまでになかった広告収入を重視した「新機軸の」紙面づくりの「ラ・プレス」(創刊巻頭文はヴィクトル・ユゴー)を発行して、これまた成功を収めます。とにかく、19世紀フランスは、毀誉褒貶の多いジラルダン抜きには語れません。その話はまた次回に。

アレン著「シンス・イエスタデイ 1930年代アメリカ」

フレデリック・ルイス・アレン著「シンス・イエスタデイ 1930年代アメリカ」(ちくま文庫・1998年6月24日第一刷)をやっと読了しました。(最近、眼精疲労が酷くて困ります)この本は、まるで百科事典のようなクロニクルでした。(藤久ミネ翻訳、労作でした)

狂騒の時代・1920年代の米国を描いた「オンリー・イエスタデイ」の続編です。「オンリー・~」は、第1次世界大戦が終わった翌年の1919年から始まり、1929年のニューヨーク株式大暴落辺りで話は終わります。そして、この「シンス・~」は、大恐慌に始まり、1939年の第2次世界大戦勃発までが描かれます。著者のアレンが「シンス・~」のあとがきを書いた日付が1939年11月10日になっており、まさに同時進行の「現代史」を書いていたわけで、あとがきを書いている時点では、ヒトラーによるラインラント進駐やムッソリーニによるエジプト侵略、日本の中国進攻などは書き記していますが、まさか、何千万人もの死傷者を出す「世界大戦」にまで発展することは予想できなかったような書きぶりなので、勿論「第2次世界大戦」の表記はありません。(1932年にワシントンで起きた、退役軍人団体らによる恩給前払いデモを武力で排除して死傷者を出した事件。最高責任者は陸軍参謀のマッカーサーでしたが、名前まで明記されていませんでした。戦後になれば、超有名人となりますが、1939年の時点では、アレンにとって明記するほどの人ではなかったのかもしれません)

とはいえ、既に「古典的名著」と言われ、どんな歴史家もこれらの本に触れざるを得ないことでしょう。

アレン自身は、「ハーパーズ・マガジン」などの編集長を務めたジャーナリストとはいえ、現場で対象者に突撃インタビューするようなトップ屋でも探訪記者でもない、編集職のように思われ、多くのソース(情報元)は新聞や雑誌の記事などから引用していることを「あとがき」で明記しています。

スペイン・サラゴサ

1930年代の米国といえば、華やかな20年代と比べ、どうしても大不況と、街に溢れる大量の失業者と自殺者などといった暗黒の時代のイメージがあります。ジョン・スタインベックの「怒りの葡萄」の世界です。 ルーズベルト大統領によるニュー・ディール政策もすぐ思い浮かびます。

 とはいえ、そんな恐慌の時代でも、オリンピックが開催(1932年のロサンゼルス大会!田中英光がボート選手として出場して「オリムポスの果実」を発表)され、万国博覧会(33年シカゴ、39年ニューヨーク)まで開催されているのです。しかも、ニューヨークの摩天楼を代表するクライスラー・ビルディング(30年)もエンパイア・ステート・ビルディング(31年)なども30年代に竣工しているのです。どうも、後世の人間から見ると、30年代は決して「暗黒の時代」だけではなかったような気がします。

ベニー・グッドマンらに代表される「スゥイング・ジャズ」の全盛時代でもあり、私自身はこの30年代の米国のポピュラー音楽は大好きです。

スペイン・サラゴサ

私の好きな映画でいえば、 1936年に公開されたチャップリンの「モダンタイムズ」を初めて見たときは驚愕したものでした。私が初めて見たのは1970年頃でしたが、「えっ?あんな大昔なのに、監視カメラのような大型スクリーンがあって、ロボットのような機械があったの?」と驚いたものです。つまり、1970年からみて、40年前の1930年代は戦前であり、過去の大昔の遠い遥かかなたの歴史の出来事に思えたからです。それほど文明は進んでいないと思ってました。

若かったからでしょうね。現在の2018年から1970年代を見ると、40年以上も昔ですが、自分が生きた時代なので、70年代はつい昨日の出来事に思えなくもないのですから、不思議です。

スペイン・サラゴサ

もう一つ、映画といえば、今や古典的名作と言われる「風と共に去りぬ」が1939年12月15日にカラーで大公開されています。日本が無声映画からやっとトーキーの時代に入った頃で、天然カラー映画なんてとんでもない時代です。(1937年に日本初の短編カラー映画「千人針」が製作されましたが、戦後51年の「カルメン故郷に帰る」が日本最初の長編カラー映画というのが通説)米国と日本の国力の差が、見上げるほど圧倒的だったことは、大衆芸術の格差を見ただけでも、これで分かります。

この本に書かれた内容は、映画「風と共に去りぬ」公開前の1939年11月までですから、当然、この映画のことは書かれていませんが、36年に出版されたマーガレット・ミッチェルの原作が大ベストセラーになったことは触れています。そして、映画化も決まって、主役が誰になるのか、街で噂になっている、といったことが書かれています。まさに、新聞記事と同じような同時代の記録です。

米国では、日本と違って、ジャーナリストは現代史家として看做されているからなんでしょう。「今の時代を活写してやろう」というアレンの意気込みや野心は半端じゃなく、その成果が作品に如実に表れています。