友が皆 我より偉く見ゆる日よ

墨俣一夜城

最近、年のせいか、かつての知人、友人が知らないうちに、ど偉く(ドエリャーと読みます)なっていて驚くことがあります。

私の場合、高校の同級生の木本君が、天下の高島屋百貨店の社長さんになっていたと聞いたときは、腰を抜かしました。

そんな時、

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ

という歌が、教養があるもんですから(笑)、つい、ふと、頭に浮かんできました。

石川啄木(1886~1912)のあまりにも有名な短歌です。

色んな解釈があるようですが、啄木さんは空想ではなく、実際にあった、感じたことを描いたことでしょう。となると、この「友」とは一体誰なのか、昔、気になって調べたことがありました。

その一人が及川古志郎(1883~1958)でした。

銀座「わのわ」 しょうが焼き定食850円

当時は、近現代史や昭和史をそれほど勉強していなかったので、あまりピンと来なかったのですが、海軍大将、海軍大臣にまで上り詰めた軍人です。

啄木の旧制盛岡中学時代の3年先輩に当たります。戦史に欠かせない大変な人です。(啄木は1886年2月の早生まれで、盛岡中には1898年入学、及川は1883年2月の早生まれ)

及川は軍人ですが、もともと文学少年で、多くの短歌や長詩を文芸誌に投稿し、同期の金田一京助(1882~1971)や野村長一(1882~1963)らと文学サロンめいたことをやっていて、啄木も参加していたようです。

金田一京助は、有名なアイヌ語研究などで知られる言語学者で、啄木はかなり迷惑をかけていたようです。京助の子息で同じく言語学者の金田一春彦は、思い出エッセイの中で、「啄木はよく借金を踏み倒すので、父は啄木のことを『石川五右衛門の子孫じゃないかな』と冗談で言っていた」といったようなことを書いてましたね。

野村長一は、「銭形平次」で知られる作家野村胡堂のことです。盛岡中から第一高等学校~東京帝大を卒業し、報知新聞の政治記者になりました。

彼ら以外に啄木の同期に満州事変を起こした板垣征四郎(1885~1948)がおります。啄木は明治45年に26歳の若さで病死してますから、同級生だったなんて想像もつきませんでしたね。陸軍大将に登りつめた板垣征四郎は戦後、A級戦犯として逮捕され、東京裁判により処刑されてます。享年63。

また、4年先輩には、海軍大将で首相まで務めた米内光政(1880~1948)がおりました。米内は盛岡南部藩士の子息です。

南部藩は、戊辰戦争の「負け組」で、明治革命政権の下では冷や飯を食わされた側でしたが、中にはこうして実力と能力と努力で登りつめた人がいたわけです。

とはいえ、盛岡中(現盛岡第一高校)卒業生の中で、最も知られている有名な人物は詩人・童話作家の宮沢賢治(1896~1933)かもしれませんね。

賢治は、啄木の11年後輩に当たります。久しぶりに彼の作品を読みたくなりました。

久しぶりの満洲懇話会

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先日十数年ぶりに再会した畏友隈元さんが、学生時代の卒論が満洲問題で、ライフワークもそうだというので、それなら、「松岡二十世とその時代」(日本経済評論社)などの著作がある満洲育ちの松岡氏をご紹介したら、面白いんじゃないかと思って、面談する機会を作ったのですが、この人、学生講義指導でハワイに行ったり、韓国に行ったり、「金持ち暇なし」生活でなかなか捕まらない。メールしてもなかなか返事もくれない(苦笑)。

昨日はやっと実現して、都内にある松岡氏の邸宅にお邪魔して、有意義な時を過ごすことができました。

私も2年ほど前に一度拝見したことがある「満洲の昔と今 四都物語」を写真と地図等で辿ったスライドショー大会がメーンイベントでした。(2年前と比べ数段進歩してました)

 

この会にはもう一人、私は初対面でしたが、隈元さんは以前、取材でお世話になったことがあるという古海氏も参加されました。古海氏は、「満洲国の副総理」と称された古海忠之総務庁次長の御子息で、敗戦時12歳。学年は松岡氏の1級上の満洲育ちでした。エリート一家というか一族で、米寿を近くしても頭脳明晰で、記憶力も抜群で、驚くほど全く気力が衰えておられませんでした。

1945年8月9日、ソ連軍が当時の日ソ中立条約を、ヤルタ会談密約により一方的に破棄して、満洲に進軍して占領し、60万人とも70万人ともいわれる日本人をシベリアに抑留し、鉄道敷設など重労働を科しました。その1割の6~7万人が異国の凍土で死亡しました。残留孤児という悲劇も産み、今でも詳細については歴史的に解明されておりません。

ソ連侵攻の噂を知っていち早く逃げ帰ったのが、関東軍幹部や満鉄など幹部家族ら情報が入りやすい特権階級でした。

古海「副総理」も、事前に日本敗戦濃厚の情報はキャッチしていたことでしょうが、国都新京(現長春)に居残り、当然、シベリアに抑留され、長くてもあの有名な大本営作戦参謀の瀬島龍三らほとんどが昭和31年に帰国することができましたが、古海「副総理」ら40人ほどは、ソ連から解放された後から、今度は中国共産党から拘束され、結局、懲役18年の満期を終えて日本に帰国できたのは昭和38年、1963年だったというのです。既に63歳になっていました。

古海は、軍人ではなく文官です。大蔵省出身で、後の東京裁判でA級戦犯となる「ニキサンスケ」の一人、大蔵官僚の先輩星野直樹の引きがあって、満洲に渡りました。恐らく、満洲国官僚のトップだった彼は、「見せしめ」として軍人より重い罪を与えられたのでしょう。

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子息の古海さんは、元銀行マンで、経営者の顔を持ちますが、全く偉ぶらない人格者でした。そして、「あの(満映理事長だった)甘粕さんは、歴史上では大杉栄らを惨殺した悪者になってますが、直接、甘粕さんを知っている人で、悪く言う人は一人もいなかったそうですよ。本人は『自分はやってない』と、ごく親しい人だけに極秘に打ち明けていたそうです」と自信を持って話してました。

私も一時期、甘粕正彦と大杉栄については、異様なほど熱中して、かなり関連書籍を読み漁り、この《渓流斎日乗》でも数回に分けて書いたことがありましたが、それらのWeb記事は残念ながら消滅してしまいました。

そのせいか、甘粕が服毒自殺した現場に居合わせた人物として、映画監督の内田吐夢まではかろうじて思い出せましたが、あとはすっかり記憶喪失(苦笑)。後で、調べたら、長谷川4兄弟(長兄海太郎は、林不忘の筆名で「丹下左膳」を発表し、流行作家に)の一人で、作家、翻訳家、ロシア文学者、戦後、ボリショイサーカスのプロモーターになった長谷川濬、作家赤川次郎の実父赤川孝一らがおりました。

もう一人、昨日はどうしても思い出すことができなかった、甘粕と親しかった重要人物に和田日出吉がおりました。昭和11年、中外商業新報(現日経)記者時代に「2.26事件」をスクープしたジャーナリストで、満洲に渡って、満洲新京日報社の社長を務めたりします。

この方、往年の大女優木暮実千代の旦那さんでした。この話は、黒川鐘信著「木暮実千代 知られざるその素顔」(日本放送出版協会、2007年5月初版、もう11年も昔か!)に詳細に描かれ、この本もブログに取り上げましたが、記事は、やはり消滅しています。また、残念ながら、個人的な入退院のどさくさの中で、この本を含め数百冊の個人蔵書は売ってしまったか、紛失したかで、今は手元にありません。

あ、忘れるところでしたが、昨晩は、松岡氏には大人気の銘酒で、今ではとても手に入らない「獺祭(だっさい)」などを遠慮も気兼ねもなく、バカスカとご馳走になってしまいました。さぞかしご迷惑だったことでしょう。お詫びするとともに、御礼申し上げます。

華族の家族の物語

恐らく、現在、華族の研究家としては第一人者の浅見雅男氏が、軽いエッセイ風の読み物「歴史の余白」(文春新書2018年3月20日初版)を出版し、今、私も面白く拝読しております。

例によって、この本は、博多にお住いの吉田先生からのお勧めですが、浅見氏とは、一度だけ渋谷のおつな寿司でお会いしたことがあります。もう20年ぐらい昔でしょうけど、当時、浅見氏はまだ、文藝春秋の編集者をされておりました。

著者は、学者以上にあらゆる文献に目を通しておられますので、説得力があります。例えば、天皇の生前退位についても「神話時代や古代はともかく、中世以降は天皇が生前に皇位を退くことは珍しくなかった。江戸時代に限っても。107代の後陽成から121代の孝明まで15人の天皇のうち9人が生前に譲位している。その理由はさまざまだが、天皇は即位した以上、終身、皇位にとどまるという定めや慣行はなかったのだ」とはっきり書いております。

つまり、生前退位を否定する考え方は、明治薩長政権が皇室典範で決めた比較的新しいものに過ぎないと歴史的に証明しているのです。

この本を読んで、初めて教えられたことは多くありますが、明治維新をやり遂げた公家代表の一人で、御札の肖像画にもなった岩倉具視がおります。彼は公家の中でも低い身分で碌高も少なかっただけに、維新後の出世には周囲からの妬みややっかみが多かったそうです。それはともかく、その曽孫に当たる靖子が日本女子大附属高校時代に共産党のシンパとなり、あの有名な昭和8年の一斉検挙で逮捕され、市ヶ谷刑務所に収監。治安維持法違反の裁判が始まる前に保釈された渋谷の自宅で自裁してしまうんですね。

実に波乱万丈なのは、靖子だけではなく、その父親の具張(ともはる)です。岩倉具視の直系の孫に当たり公爵岩倉家を継ぎますが、新橋の芸者に大金を注ぎ込んで破産してしまうのです。具張の父具定(ともさだ=岩倉具視の子息で岩倉家を継ぎ、宮内大臣などを歴任)、明治34年8月22日付「時事新報」で、全国で50万円以上資産を持つ411人の一人として掲載されるほどの大富豪でしたが、具張はこれらを全て散財しただけでなく、100万円以上の借財を抱えてしまったといいます。

同じ元公家として、東坊城家があります。江戸時代の禄高は、岩倉家の倍の301石もあり、明治になって子爵となりますが、家督を継いだ徳長(よしなが)が、赤坂あたりの芸者に大枚を注ぎ込んで没落し、大正時代は「貧乏公家」との定評が立ってしまいます。この徳長の三女英子が、後の大女優入江たか子だと知り、吃驚してしまいました。

英子は、 最近、閉校するということで話題になった文化学院(与謝野晶子らも教壇に立った)を卒業して、新劇の舞台に代役で出演したのがきっかけで、スターの切符を手にし、家族の生活を支えたという話です。

入江たか子については、2016年12月27日付の《渓流斎日乗》で、成瀬巳喜男の「まごころ」の中でも取り上げましたが、驚くほど美しい戦前の無声映画の大スターだったとはいえ、本物の華族の娘だったとは。。。

最後におまけ。

「平民宰相」と呼ばれた原敬首相。歴代首相を務める人は、これまで全員、公侯伯子男の爵位を受けるのに、この人は断り続けて、爵位なしで宰相になったからなんだそうですね。

原敬の家系は、南部藩の重臣で、明治薩長からみると逆賊です。原敬には「薩長の田舎侍から爵位をもらってたまるか」という反骨精神があったんでしょうね。

「ペンタゴン・ペーパーズ」は★★★★★

実は、あまり触手が動かなかったのですが、統合幕僚参謀本部からの指令で、映画「ペンタゴン・ペーパーズ」を先ほど観てきました。

だって、監督がスピルバーグ、主演はメリル・ストリープとトム・ハンクス。あまりにも役者が揃いすぎて、手垢がつき過ぎている。そりゃ、ハリウッド映画ファンなら大喜びでしょうけど、極東の映画巧者にとってはむしろマイナス要因ですからね(笑)。

それに、私の世代にとっては、この事件は、教科書に載るような歴史物語ではなく、生々しい過去の出来事。「感動してたまるか」と上から目線で見始めたら、いきなり、ベトナム戦争の前線の場面から始まり、多くの若い米国人兵士が次々と生命を奪われていく。。。「あれ、もしかしたら凄い映画なのかもしれない」と思ったら、気が付いたら、すっかり映画の中の住人になっていました。最後まで観客を飽きさせなかったリズ・ハンナの脚本の力が大きかったのかもしれませんが。

くどいようですが、私の世代まで、ギリギリ、ワシントン・ポストの女性社主キャサリン・グラハムの名前や、最高機密文書を暴露したエルズバーグという名前、それに、メディアとニクソン政権との確執などを同時進行で見てきた世代でしたので、「ストーリー」は分かってました。

個人的ながら、「ペンタゴン・ペーパーズ」を大スクープしたニューヨーク・タイムズのニール・シーハン記者とは、後年、彼が「輝ける嘘」(集英社)上下2巻を1992年9月に日本で翻訳出版した時、その発売前の8月に来日した際、インタビューしたことがありました。この映画の中で、何度も何度もニール・シーハンの名前が出る度に(意図したことなのか、名前だけで本人役は登場しませんでしたが)あの時の感動を思い出したほどです。

映画では、時の政府権力者と新聞社の社主との癒着に近い親密な関係を事細かく描いてます。ワシントン・ポストのグラハム女史と国防長官のマクナマラが、ホームパーティーに呼び合うなどあそこまで親密な仲だったとは知りませんでしたね。

デイビッド・ハルバースタムの名著「ベスト・アンド・ブライテスト」の中では、当時、フォードの社長だったマクナマラが、ケネディ大統領によって「最も優秀で賢い人間」の1人として国防長官に抜擢された有様が描かれていました。

それが、先日読んだ宇沢弘文氏の著作で、マクナマラは、太平洋戦争で日本空襲爆撃の際、どうやったら最も効率良く死者を産み出すことができるかという「キル・レシオ(殺戮比率)」を考案した人間で、ベトナム戦争でも応用した人物だったと知って、彼に対する見方も大分変わりました。

あ、映画の話でした。とにかく、1970年代の米国の新聞社の内部が非常によく描かれていました。当時は鉛活字ですから、今はなき植字工さんも健在です。原稿を包の中に入れて、ダストシュートのように社内を飛ばすやり方も、見ていて懐かしかったですね。私が勤めていた会社にも昔、ありましたからね(笑)。

1971年、つまり今から47年前の出来事ですから、脚本執筆に当たり、当時を知っている存命中の関係者に可能な限り取材して反映させた、といった趣旨の話がプロダクションノートに書かれていました。

映画に出てくる車やファッションは、70年代を再現していて、それらしく見せておりますが、当時を知っている私から言わせれば、外見は70年代でも、中身はやはり21世紀の若者、もしくは俳優にしか見えない。こういうのが作りもの映画の限界なんだろうなあと、理屈っぽく考えてしまいましたよ(笑)。

文民統制は本当に大丈夫なのだろうか?

駿府城

ここ最近、霞ヶ関官庁街で不行き届き、いや不祥事が相次いでいます。

文科省、財務省に続き、今度は防衛省です。例の陸上自衛隊イラク派遣の日報隠し問題。

昨年3月に発見していたにも関わらず、陸自研究本部(現教育研究本部)が、当時の稲田防衛相や統合幕僚監部などに報告していなかったというのです。

1年近くも何やっていたんでしょうか?

あの安倍政権護持派の「体制派」と言われている産経新聞までもが、5日付同紙一面トップで「陸自が防衛相の指示に結果的に従わなかったことは、文民統制(シビリアンコントロール)の実効性を疑わせることになりかねない」と、声を大にして批判しております。

当時の防衛相の稲田氏は、産経だけには積極的に取材に応じ、「驚きとともに、怒りを禁じ得ない。報告を信じて国会で答弁した。こんなでたらめなことがあってよいものか」と語気を強めたらしいですね。

シビリアンコントロールが取れていない、ということは、もし、遠く離れたイラクではなく、日本国内で有事があったとしたら、ゾッとしませんか?

戦前は、軍部が暴走したおかげで、歯止めが効かず、その反省から戦後は文民統制の重大さを再認識したはずです。しかし、実態は、戦前とほとんど変わっていないということではありませんか?

名古屋城

作家司馬遼太郎が、敗戦間近に駐屯していた栃木県佐野市の戦車部隊で、「事態が混乱して住民が逃げ回ったりして、戦車が動けなくなったらどうしますか?」と部隊長に尋ねると、その部隊長は「かまわん。ひき殺してしまえ」と言ったことを晩年のエッセイの中に書いておりました。

戦争は人間を狂気にします。今回の「日報隠匿事件」のニュースを聞いて、「憲法や文民統制なんてかまわん。突っ走ってしまえ」と、軍人が独断で戦争を始めてしまうんじゃないかという危惧を抱いてしまいました。

大阪浪華の宝、折口信夫、木津勘助

おはようございます。大阪の浪華先生です。

渓流斎さん、色々、時間をつくって、東京や小田原や埼玉周辺を探索されて居られますね。健康のためにも良いことです。

ブログでは、谷川彰英著の「埼玉 地名の由来を歩く」(ベスト新書)を読んで居られるそうで、休日は、川越まで足を運ばれた、という事ですが、色々、歴史の足跡を確認されて、教養を深められて、何よりです。


迂生は、「ウマズイめんくい村通信」の赤羽村長に対抗して、廉価で美味いものを探しに、大阪周辺を歩き回っています(笑)。
以前、「めんくい村通信」で、東京・浅草の「千葉屋」という、大学芋が美味しいとの評判記事が出ていました。
迂生も「大学芋」は大好きですが、上方には、気にいった大学芋を売っている店がほとんどありません。
もっとも、焼き芋、大学芋の店は、時代の流れで、消滅寸前です。大学芋は、デパートの総菜売り場で見かける程度ですが、小奇麗な陳列棚に並んでいる芋類はどこか気取っていていけませんね。
そんな折、京阪電車「京橋」駅の京阪百貨店の催事売り場で、美味い大学芋に出くわしました。
大阪市浪速区の「大国町(だいこくちょう)」にある、「大国屋」という大学芋の専門店で、パソコンで「大阪 大国屋」で検索するとHPが出てきます。
此処の大学芋は時間が経っても、いつまでもパリッとして、口当たりがよいことです。大体、大学芋は、時間が経つと、液状になって、飴が手にねばりついたり、ねばねばして、食べるのも面倒くさくなるものです(笑)。

そこで、暇つぶしに、地下鉄御堂筋線「大国町」駅そばの、その「大国屋」にまで行ってきました。梅田から地下鉄に乘ると「難波」から一駅先が「大国町駅」です。難波からでも、歩いて行ける便利なところでした。
そこで、ついでながら、この「大国町」周辺のぶらぶら歩きをしたところ、色々、歴史探訪になりました。


一つは、彼の有名な民俗学者で国文学者、歌人の折口信夫(釋迢空)の生誕の地を見つけたことです。
さらに、それより、はるか昔、神功皇后が、「三韓征伐」の凱旋のおりに、素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祀ったという「敷津松之宮」(大国主神社)が大国町にありました。「古代」と「現代」が入り混じった、浪華の歴史が、あちこちに散見できることです。

”歴史の玉手箱”です。


折口信夫の生誕の地は、浪速区敷津西一丁目周辺で 今は鴎町公園の中にあり、大阪市が市制70周年を記念して記念碑を建立し、昭和58年に「十日戎」の詩の一文を刻んだ文学碑も建てられました。
記念碑には「ほい駕籠を待ちこぞり居る人なかに おのづからわれも待ちごゝろなる」と刻まれてありますが、「ほい駕籠」は、渓流斎さんお分りになりますかねえ?


東京、関東の人には、なじみのない言葉でしょう。「ほい駕籠」とは駕籠かきの掛け声です。
正月、同じ浪速区にある「今宮戎神社」の「十日戎」では、芸舞妓が「寶恵駕籠」に乗ったりするので、「ほえかご」とも言ったりしますが、当時の浪華の賑わいが、この歌からも伝わってきます。


また、「敷津松之神宮」の境内にも、折口信夫の記念碑が建っています。こちらは昭和53年11月に、折口の母校である「府立天王寺高等学校同窓会(旧制府立五中)」や「近畿迢空会」、「国学院大学院友会大阪支部」、折口が一時期、教員をしていた「大阪府立今宮高校自彊会」が協賛で記念碑を建てたものです。


「敷津松之神宮」の由緒は、神功皇后の時代に遡りますが、その後、江戸時代の延享元年(1744年)になって、神託を受けて、出雲大社の摂社として「大国主神社」になったため、鳥居と神殿が二カ所あります。「大国主神社」は、今宮戎神社と並んで、大阪商人の守り神とされています。「大国主神がお父さん」、「事代主神が子供」で、両方お詣りしなければ「片詣り」とも言われるそうです。初詣や、十日戎の時は、両方に参拝するする習わしになっている、という事です。


境内には「木津勘助」の大きな銅像もあります。
またまた、渓流齋さんは「木津勘助て、一体、何者ですか?」となるでしょうね(笑)。
木津勘助は、伝説的英雄で実像は不明のようです。


通説では、本名は中村勘助。天正14年(1586年)に関東の足柄山に生まれた、と言われています。その後、大坂は木津村に住み、豊臣秀吉の配下になり、豊臣家滅亡後は、木津川の治水・堤防作りや新田開発事業に取り組んだ、と伝わっています。とくに、寛永16年(1639年)の大飢饉では、「お蔵破り」を決行して捕まり、葦島(現在の大正区三軒家付近)に流されました。その後、また、新田開発に関わり、万治3年(1660年)、75歳で亡くなったと言われています。

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佐川長官辞任、竹田厳道、萩原吉太郎、児玉誉士夫、塚本素山

待ち人来ず  Copyright par Kyoraque sensei

以前は、湧き出る泉の如く、1日にナンボでも書けたのですが、最近は、加齢のせいか、眼精疲労も酷く、無理を押して書く気力が段々なくなってきてしまいました(苦笑)。

致し方ないことです。人間だもん、相田みつを。

六義園

森友問題で、近畿財務局の50代半ばの職員が自殺したと思ったら、ついに、当事者だった元近畿財務局長の佐川国税庁長官が辞任(事実上の更迭)に追い込まれました。このまま行けば、任命責任のある麻生財務相、そして安倍首相にまで責任問題に発展し、内閣が崩壊するのではないかという識者も多いですが、私はそこまではいかないだろうと思ってます。

別に根拠はありませんけど、何となくそんな気がします。

森友問題で、財務省が公文書を、マスコミでは「書き換え」なんてめでたく言ってますが、はっきり言って「改竄」でしょう。もしそれが事実なら、公文書偽造罪であり、国会で「破棄した」と宣言した佐川さんは、明らかに偽証罪であり、国民を裏切る犯罪行為であることは誰でも分かります。

でも、安倍首相の場合、「わたくしの全く預かり知らぬところです」という答弁は、もしかしたら、その通りかもしれません。

昨年、流行語になったように、財務省の連中が、己れの出世のために「忖度」して、論功行賞欲しさに時の権力者に阿(おもね)っていただけだったような気がするからです。

これもこれも、首相官邸が霞ケ関=官僚の人事権を握ったからなのでしょう。そりゃ、飛び抜けて優秀な官僚さんも、国民ではなく、首相の顔色を伺って仕事をするようになるはずです。

人間だもん。

Copyright par Kyoraque sensei

さて、先日、加藤画伯の個展を鑑賞するために、東京・銀座の「一枚の繪画廊」に行ったことを書きましたが、この画廊を経営する美術誌「一枚の繪」を昭和47年に創業した人は、竹田厳道という人で、この方は、もともと北大を出て、北海タイムスの社長をしていた人だということを京洛先生から伺いました。

北海タイムスは既に廃刊した伝説の新聞ですが、明治20年に創刊された北海新聞の流れを汲む歴史のある新聞社でした。

統廃合を繰り返した末に、戦後、復刊させたのが、北海道財閥の最高実力者、三井財閥系北炭の萩原吉太郎でした。竹田厳道は、この萩原に見込まれて社長に就任するのですが、その経営方針で対立して、追い出される格好で、美術の世界に転身したわけです。

さて、この萩原吉太郎という人物もなかなか恐ろしいほど凄い人物です。特に、黒幕児玉誉士夫との交流が深く、河野一郎、大野伴睦ら有力政治家を紹介され、中央政治界にまで食い込んでいきます。

ご興味のある方は、検索すれば色々と出てきますからどうぞ(笑)。

私も皆さんと同じように(笑)色々検索してみました。

まず、「一枚の繪」のホームページには、沿革がなく、一切、竹田厳道の名前は出てきませんね。今は、彼の娘さんが2代目として継いでいるらしいですが、京洛先生から名前を聞かなければ、全く調べようがありませんでした。

まだまだ、デジタルの世界は遅れているということです。アナログの知識がなければ、キーワードさえ思いつかない…。

で、萩原吉太郎も検索してみたら、児玉誉士夫、永田雅一ら色んな著名人が出てきました。その中で私が注目したのが、塚本素山です。

えっ?知らない?

銀座・塚本素山ビルディング

あのミシュランで世界的にも超有名になった高級寿司店「すきやばし 次郎」の入っている塚本ビルのオーナーだった人です。建物には「塚本素山ビル」と大きな字で描かれています。ここを本部に全国に一大コンツェルンを築き上げます。

この方、陸士出身で、少佐で敗戦を迎え、戦後は実業界に華麗なる転身を遂げた人です。その点だけは、あの元大本営高級参謀瀬島龍三と少し似たところがあります。

銀座に大きなビルを建てるぐらいですから、この人も只者じゃありませんね。児玉誉士夫さんとの関係も濃厚です。児玉事務所は、塚本ビルにあったぐらいですから。

検索すれば、色々と出てきますから、ご興味のある方はどうぞ。私のように無気力にならず、青春を謳歌してください。

【追記】

コメント有難う御座いました。

 

「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書」は人類必読書ではないでせうか

東北学の権威である赤坂憲雄・学習院大教授が、「必読書」として多くの人に勧めておられた石光真人編著「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書」改版(中公新書2017年12月25日)を読了しました。初版は、1971年5月25日発行とありますから、もう47年も昔。遅ればせながら、死ぬ前にこの記録を読んで本当によかったと思いました。

私がこれまで読んだ本の中でもベスト10に入るぐらいの感銘を受けました。この本を読むには、居住まいと襟を正して、正座しなければならないという境地になります。

武士道の本質が初めて分かったような気がしました。巷間あふれる小説や講談の類いは嘘臭く興醒めしてしまいます。「葉隠」でさえ、頭の中で考えられた口先だけの論法にさえ思えてしまいます。

この本については、この《渓流斎日乗》でも以前に触れたことがあります。柴五郎は、陸軍大将にまで昇り詰めた英雄的軍人でした。明治33年に起きた義和団事件の際、北京駐在武官(中佐)だった柴は、その冷静沈着な行動で列強諸国から一目置かれる存在でした。義和団事件の詳細については、あの不愉快な(笑)東洋文庫所蔵の「北京籠城」(平凡社)に講演速記として掲載されております。

しかし、この栄光なる柴大将の過去は、実に悲惨で、壮絶な艱難辛苦の連続だったのです。それが、この「遺書」に書かれています。安政6年(1859年)、会津藩士として会津若松に生まれた柴五郎は、薩長革命軍による東北征伐=会津戦争という動乱の中、祖母と母と姉妹らは、会津城下で、「薩長の手に掛かるのなら」と自害して果ててしまうのです。柴五郎、時に満九歳。五郎だけは、いずれ戦力となる武士の男として成長せよ、と田舎に預けられていた時でした。柴五郎は、その時を回顧してこう書きます。

…これ永遠の別離とは露知らず、門前に送り出たる祖母、母に一礼して、いそいそと立ち去りたり。ああ思わざりき、祖母、母、姉妹、これが今生の別れなりと知りて余を送りしとは。この日までひそかに相語らいて、男子は一人なりと生きながらえ、柴家を相続せしめ、藩の汚名を天下に雪ぐべきなりとし、戦闘に役立たぬ婦女子はいたずらに兵糧を浪費すべからずと籠城を拒み、敵侵入とともに自害して辱めを受けざることを約しありしなり。わずか七歳の幼き妹まで懐剣を持ちて自害の時を待ちおりしとは、いかに余が幼かりしとはいえ不敏にして知らず。まことに慚愧にたえず、想いおこして苦しきことかぎりなし。…

その後、降伏した会津藩士らは、下北半島にある極寒の、しかも火山灰地の不毛の斗南に追放され、作物が取れず、ぼろ家は襖も障子もなく吹き曝しで、赤貧洗うが如くという以上に餓死寸前にまで追い込まれます。

時に犬の肉しか食べるものがなく、柴少年は嘔吐を催している中、父から「やれやれ会津の乞食藩士どもも下北に餓死して絶えたるよと、薩長の下郎武士どもに笑わるるぞ、生き抜け、生きて残れ、会津の国辱雪ぐまで生きてあれよ、ここはまだ戦場なるぞ」と厳しく叱責されたことなども書き残しております。

その後、柴少年は、細い伝手を辿って東京に出て、下僕といいますか、奴隷のような生活をして辛酸を舐め、幸運なことに陸軍幼年学校の試験に合格して、何とか生き抜き、「遺書」は陸軍士官学校の3年期で終わっています。陸軍大将柴五郎は、自分の手柄については語りたがらない人物だったようです。

この「遺書」を編纂し、第二部として柴五郎の評伝を書いた石光真人は、近現代史や満洲関係に興味がある人なら誰でも知っている露探(ロシア情勢の情報専門家)石光真清の御子息だったんですね。この真清の叔父に当たるのが、「遺書」にもよく出てきた、柴五郎を陸軍幼年学校の受験を勧めた恩人野田豁通(青森県初代大参事)で、その関係で、二人は親交を結んでいたわけです。

子息の石光真人は、東京日日新聞の記者などもしていたことから、晩年の柴五郎は、「遺書」の編集等を任せたようです。

柴五郎は、「日本は負ける」と予言していた敗戦直後の昭和20年12月3日、死去。享年87。実兄の柴四朗(白虎隊の生き残り)は、東海散士の筆名で政治小説「佳人之奇遇」書いたジャーナリスト、政治家。

この本で、維新の動乱に翻弄され、賊軍の汚名を着せられた会津藩士の武士道の魂に触れました。「武士は食わねど高楊枝」のような痩せ我慢の精神かもしれませんが、どんなにどん底に堕ちても、絶対に不正は働かず、あくまでも真摯に誠実に生き抜くといった精神です。

自分も襟を正したくなります。同時に、今年の「明治維新150年記念式典」も手放しで喜んで祝いたい気持ちもなくなってしまいました。

少なくとも、60歳の佐川宣寿国税庁長官(旧会津藩出身。都立九段高〜東大〜大蔵省)のように「差し押さえ物件を格安で仕入れて東京・世田谷区に大豪邸を建てた生涯収入8億円の官僚」(週刊文春)のような恥辱に満ちた名前を歴史に残して死にたくないものです。

【追記】

会津戦争で編成された隊の編成は以下の通り。四方位神に則ってます。

【東】青龍隊(36歳〜49歳)国境守護

【西】白虎隊(16歳〜17歳)予備(悲劇として語り継がれます)

【南】朱雀隊(18歳〜35歳)実戦

【北】玄武隊(50歳以上)城内守護

戊辰戦争で、会津藩士の戦死者は約3000人、自害した女性は233人といわれてます。勿論、柴五郎の祖母、母、姉妹も含まれていることでしょう。

これほど、会津藩が蛇蝎の如く敵視されたのは、藩主松平容保が京都守護職に就き、新撰組、京都見廻組を誕生させ、「池田屋事件」や禁門の変などで、長州藩士や浪士を多く殺害したことが遠因。長州桂小五郎(木戸孝允)はその復讐の急先鋒で、宿敵会津藩の抹殺を目論んでいたといわれます。

靖國神社には、戦死した会津藩士は祀られていません。

北朝鮮張成沢氏の粛清、「密告が原因」は妙に納得させられます

2月14日付の共同通信が、米国を拠点とする中国語情報サイト「博訊」などを引用して伝えた「北朝鮮の実力者だった張成沢元国防副委員長が2013年に『国家反逆罪』の汚名を着せられて粛清されたのは、中国側からの密告が原因だった」などといった報道は、大変驚くと同時に、何となく、疑問が氷解するような感じを受けました。

もっとも、中国外務省の耿爽副報道官は14日の記者会見で、即座に「全くのでたらめな話」と否定しましたけどね。

報道は今回が初めてでもないらしいのですが、北朝鮮ナンバー2だった張成沢氏は2012年に胡錦濤国家主席(当時)と会談し、故金正日総書記の後継として、金正恩朝鮮労働党委員長ではなく、異母兄の金正男氏を就任させたいとの意向を伝えたというのです。この内容を、中国の最高指導部メンバーだった周永康氏が金正恩氏側に伝えたことから、金正恩氏の怒りを買い、13年の張氏粛清につながったというものです。

ナンバー2の実力者の張氏が「国家反逆罪」として処刑された理由が、当時さっぱり分からなかったのですが、「この話」は辻褄が合います。しかも、最高権力者になろうともしなかった、ディズニーランドとエリック・クラプトンが大好きだった金正男氏が、なぜ、ちょうど1年前の昨年2017年2月にクアラルンプール国際空港で暗殺されなければならなかったのか、平仄が合う気がしました。

恐らく、私の勝手な想像ですが、張成沢氏は、金正恩氏より、金正男氏の方が、御しやすいというか、自分の権力を行使しやすいと考えたのかもしれません。

密告したとされる、当時の中国の最高指導部の一人、周永康氏は、最近、収賄罪などで無期懲役の判決を受けたばかり。これは怪しい。「池に落ちた犬はたたけ」なのか、「濡れ衣」なのか、真相は不明です。

中国当局は否定していますが、中国とのパイプ役だった張成沢氏処刑後、中国と北朝鮮の関係が悪化したと言われてますから、何らかの形で、件の話が金正恩氏の耳に入ったのではないか、と思われます。

ダーウィン的進化論主義者の皆さんなら、科学も歴史も常に進歩していくものだと考えがちですが、もし、話の内容が事実なら、異母兄を暗殺するような北朝鮮は、日本で言えば、いまだに戦国時代です。

14日には米フロリダ州の高校で、またまた銃乱射事件があり、17人が犠牲になりました。これでは、アメリカはいまだに、秀吉の刀狩り以前の国だと思われても仕方がないのではないでしょうか。

近代化を進めた幕府

「明治を支えた幕臣・賊軍人士たち」を特集している「東京人」2月号の続きです。

この16ページに不思議な写真が掲載されています。セピア色の写真で、古いということは分かります。幕末にオランダ・ハーグに派遣された「幕府オランダ留学生」というキャプションがあります。

西周榎本武揚津田真道らが写っていますが、しっかり、当時最先端の洋装で髪型も1960年代のような長髪なので、キャプションがなければ、明治時代か昭和初期に撮影されたものと言われても納得してしまいます。

それが、撮影されたのが1865年と書かれているのです。最初は「ああ、幕末の写真か」という感想しかなかったのですが、よく考えてみれば、1865年といえば、慶応元年、まだ江戸時代じゃないですか。それなのに写っている彼らは、羽織袴はいいとして、丁髷頭じゃないのです。明治維新になる数年前からこんな格好していたなんて驚いてしまいました。

しかも、新政府ではなく、旧陋の徳川幕府が派遣した留学生ですからね。ということは、幕府は、無知でも無能でもなく、早くから洋学を取り入れ「近代化」に目覚めていたのです。(日本で最初の洋学研究機関は幕府が安政3年=1856年に設立した蕃書調所=ばんしょしらべしょ=で、以後、洋書調所開成所となり、明治後、帝国大学の源流となる)

(前列右から西周、赤松則良、肥田浜五郎、沢太郎左衛門。後列右から津田真道、布施鉉吉郎、榎本武揚、林研海、伊東玄伯)

同誌は、「幕府の遺産で行われた近代化」として、長崎と横須賀の製鉄所を挙げています。製鉄所とは、今の「造船所」ということで、明治になって軍艦の建造、海軍の創設につながります。

長崎製鉄所の産みの親の一人が、永井尚志(なおむね)で、長崎海軍伝習所の初代総監を務めます。製鉄所は、明治なって岩崎三菱に払い下げられ、今でも現役です。

横須賀製鉄所は、勘定奉行の小栗上野介忠順(ただまさ)と目付の栗本鋤雲の尽力で作られます。小栗は、幕吏中の俊才で、勝海舟と並ぶ逸材と言われておりましたが、戊辰戦争後、「逆賊」として捕らえられ、何の取り調べもなく、丹波国園部藩士原保太郎により、斬首に処せられます。斬首した原の名前が残っていることも凄い。栗本は、維新後、新政府に仕官することをよしとせず、「郵便報知新聞」主筆を務めるなど、ジャーナリストに転向します。

◇仕官を拒絶した幕臣、佐幕派

このように、幕臣たちは、榎本武揚、勝海舟ら一部を除いて、維新後、政界、官界に入ることをよしとしなかったため、ジャーナリズムや文芸、思想、学問の道に進み、名を残した人が多かったのです。

文芸・芸術界では、坪内逍遥二葉亭四迷が、徳川御三家の尾張藩士。幸田露伴は、江戸城に仕える表坊主衆の家柄。尾崎紅葉の父谷斎は江戸芝の根付師。樋口一葉の両親は、甲斐国出身ながら、幕末に江戸に出てきて、八丁堀同心株を買ったとか。夏目漱石は、牛込の名主出身なので、心情的には佐幕派。漱石の友人正岡子規は幕府方の松山藩士。「新撰組始末記」などで知られる子母澤寛の祖父は、上野の彰義隊で戦い、函館の五稜郭でも戦った幕臣で、北海道石狩の厚田村の開拓に加わった。天才絵師河鍋暁斎は、江戸は本郷三丁目の定火消しの子。(定火消し出身の絵師と言えば、「東海道五十三次」の歌川広重もそうでした)

ジャーナリズムでは、幕府の奥儒者、外国奉行、会計副総理などを歴任した成島柳北が先駆者。維新後「天地間無用之人」を自称して仕官を拒否し、今の銀座四丁目にあった反政府系の「朝野新聞」社長などを務めました。反政府系の「江湖新聞」から政府系御用新聞の「東京日日新聞」社長に転向した福地桜痴(源一郎)は、肥前長崎藩出身。新聞「日本」社長兼主筆の陸羯南は、陸奥弘前藩出身(正岡子規を社員に採用)。日本初の従軍記者と言われる東京日日新聞の岸田吟香(画家岸田劉生の父)は、美作津山藩出身。「国民之友」「国民新聞」などを創刊した徳富蘇峰は、肥後熊本藩出身。

思想・学問界の筆頭は福沢諭吉でしょう。咸臨丸や慶応義塾創立のことなど今更説明不要でしょうが、彼は豊前中津藩士ながら、近代化政策を推進する幕府は、優秀な子弟を幕臣として取り立てており、福沢は幕末の元治元年(1864年)に旗本になっていたことは意外に知られていないでしょう。その前々年の文久2年(1862年)、福沢は、遣欧使節団の通訳・翻訳者として同行し、帰国後、「西洋事情」を出版してベストセラーになっています。つまり、啓蒙思想家としての福沢の活躍は、明治ではなく、江戸時代から既に始まっていたのです。

徳川(沼津)兵学校初代頭取を務めた、フィロソフィーを「哲学」と翻訳した西周は、石見津和野藩出身。スマイルズ「西国立志編」などの翻訳家中村正直の父は幕府の同心。英エコノミストに倣って日本初の経済専門誌「東京経済雑誌」を刊行した田口卯吉は静岡藩士。東京・九州・京都帝大総長を歴任した山川建次郎とヘボンの後任として明治学院の第2代総理となった井深梶之助は、ともに「賊軍」会津藩出身。

以上、まだまだ書き足らず、ほんの一部しかご紹介できなかったのが残念です。

【追記】三休さんから以下のコメントがありましたので、本人の御了解を得て、追記致します。

…陸羯南は、弘前藩の出身だったんですね。初めて知りました。彼が採用した正岡子規とともに従軍記者として日清戦争に行ったのが、後の古島一念である古島一雄で、小生の田舎但馬豊岡藩出身です。東大生の正岡子規に日本新聞の紙面を与えて、正岡子規の俳句を発表させたのも古島一雄だと聞いています。因みに、初代東大総長の加藤弘之は、豊岡藩の隣の但馬出石藩の出身でした。また、第3代東大総長の浜尾新は、豊岡藩の出身で、古島一雄が東京に出た折、最初に寄宿したのは浜尾新の家であったと本で読みました。…