飛鳥山散策記=渋沢栄一の「青天を衝け 大河ドラマ館」に行って来ました

 東京都北区王子の飛鳥山に急ごしらえした「青天を衝け 大河ドラマ館」に行って来ました(コロナ禍でネット予約が必要ですが、平日はもう空いていて当日券が買えると思います)。どういうわけか、ここ数年、浜松市の「おんな城主 直虎」や岐阜城の麓の「麒麟がくる」(明智光秀)などNHKの大河ドラマ館に行っており、微力ながら国営放送の営業に貢献しております。

「青天を衝け 大河ドラマ館」(東京都北区飛鳥山)

 渋沢栄一の生涯を辿る「青年を衝け」も面白く拝見しているので、結構身近にある飛鳥山に出掛けてみたわけです。

 そしたら、「あれー?こんだけえー?」てな感じで、とても狭くて直ぐ見終わってしまいました。正直、「直虎」や「麒麟」と比べると見劣りがしました。

「青天を衝け 大河ドラマ館」(東京都北区飛鳥山)

 ドラマ館は、即席で建てたものではなく、「北区飛鳥山博物館」の2階を「間借り」していたので、狭いはずでした。入場券800円で、1階の歴史博物館も観ることができたので、元が取れた感じでしたが(笑)。

 あまり貶しては怒られるので、感心したことを1点挙げます。その写真は撮れませんでしたが、幕末に万国博覧会が開催されたパリのロケシーンの「メイキング映像」です。コロナ禍もあって、何と、日本の俳優陣たちはパリに行ってなかったんですね!(バラしてしもうた)パリと日本で別々に撮って、コンピューターか何かで合成していたのです。あの徳川昭武さんも、直接、ナポレオン三世に謁見していなかったのです。そう考えると、俳優さんたちの「演技」には感心してしまったわけです。

「飛鳥山の碑」 碑銘を撰したのは成島錦江(成島家三代目道筑信遍=のぶゆき=)幕末の奥儒者成島柳北はその八代目。

 さて、わざわざ、飛鳥山に足を運んだのは、もう一つ目的がありました。皆さん御存知の通り、私は「天地間無用の人」成島柳北のファンなのですが、その五代前の先祖に当たる成島錦江 (成島家三代目道筑信遍=のぶゆき=) が碑銘を撰した「飛鳥山の碑」を見に行くことでした。どちらかと言えば、こちらの方が主目的でした。

「飛鳥山碑」碑文は成島錦江(元文二年)1737年

 前田愛著「成島柳北」(朝日新聞社、1976年)によると、この「飛鳥山碑」は元文2年(1737年)に建てられたものですから、もう判読が難しいのですが、上の写真の通り、東京都教育委員会が平成23年(2011年)に「解説」の看板を建ててくれております。

 飛鳥山は「桜の名所」として有名で、浮世絵などでも描かれていますが、これは八代将軍徳川吉宗が一般庶民にも開放して始まったものでした。吉宗の在位は、享保元年(1716年)から延享2年(1745)ですから、ちょうど、この石碑も、将軍吉宗在位中に建てられたことになります。

Asukayama no HI

 碑の日本語の解説を読んでもよく分からない方は、上の写真の英語の方が分かりやすいかもしれません。

 先程の前田愛著「成島柳北」によると、成島錦江は、荻生徂徠の門に学び、元文2年(1737年)に御同朋格奥勤に抜擢されて将軍吉宗の侍講を務めたといいます。奥儒者ということで、英語では、a confucian vassal of the shogunate となっています。錦江は道筑の雅号ですが、荻生徂徠の蘐園学派独特の命名法で、鳴鳳卿とも称しました。姓の鳴(なる)は、成島から転じたものです。昔の人はおつなもんです。

 錦江は享保16年(1731年)の冬、浅草御厩河岸の賜邸の一隅に「芙蓉楼」という書室をつくり、将軍吉宗から下賜された十三経二十一史など千数百巻の書物を収めました。将軍吉宗も相当な勉強家だったんですね。芙蓉とは、富士山のことですが、楼上から富士の山容を望見することができたからだといいます。

ちなみに、成島錦江は八代将軍吉宗の侍講でしたが、幕末の成島柳北は、十三代家定と十四代家茂の侍講を務めました。しかし、幕府風刺の漢詩文を書いたため解任されました。明治になって、幕臣出身ということで新政府には出仕せず、操觚之士となり朝野新聞社長も務めました。

飛鳥山の歴史

 この上の写真の「飛鳥山の歴史」には書かれていませんが、この地には、「日本資本主義の父」渋沢栄一が建てた邸宅跡「曖依村荘」と書庫「青淵文庫」、洋風茶室「晩香廬」などがあります。

 だから、ここにNHKが 「青天を衝け 大河ドラマ館」 を臨時につくったわけですから、この碑に渋沢栄一の名前が一言も出て来ないのは不思議でした。

立教大学、聖路加国際病院、ポール・ラッシュのこと

 先週9日(土)にオンラインで開催された第38回諜報研究会のことを前回書きましたが、一つだけ書き忘れたことがありました。武田珂代子立教大学教授による「太平洋戦争:情報提供者としての離日宣教師」の中で、ほんの少しだけ触れられていた立教大学教授を務めたポール・ラッシュ(1897~1979年)のことです。宣教師関係では、恐らく、駐日米大使を務めたエドウイン・ライシャワーに次ぐくらい有名な重要人物と思われるからです。

 ポール・ラッシュは、専門家の皆さんの間では、あまりにも有名すぎるので、説明が少なく、「素通り」された感じでしたが、武田教授は「ポール・ラッシュは、大学は出ていないし、宣教師でもない。それなのに、立教大学の教授になりました」と、チラッと発言されていたと思いますので、「えっ?」と、ちょっと驚いてしまいました(多分、聞き間違いだったかもしれませんが…)。

 米ケンタッキー州ルイビルの教会の熱心な活動家だったポール・ラッシュは、関東大震災で荒廃したYMCAを立て直すために1925年に来日したといいます。第1次世界大戦中、フランスで従軍した経験があり、来日前はホテルマンだったという説もあります。9日の諜報研究会で話題になった、56歳で海兵隊に志願して言語官になったシャーウッド・F・モーランも、1925年に来日しているので、二人は顔なじみだったかもしれません。

銀座「吟漁亭 保志乃」さんま定食ランチ1050円

 ポール・ラッシュを語るに欠かせない枕詞は、「清里開拓の父」そして、「日本アメフトの父」です。前者は、山梨県の清里高原に清泉寮を設けて、酪農や野菜栽培地などを開拓し、清里を一大リゾート地として発展させる基礎をつくった人として、同地に記念館もあります。後者は、立教大学在職中の1934年に東京学生アメリカンフットボール連盟を創立して日本にアメフトの普及に努めた功績が認められ、アフリカンフットボール日本一を決める「ライスボウル」の最優秀選手(MVP)には、「ポール・ラッシュ杯」が贈られることで名を残しています。(私も昔、ライスボウルを取材したことがありますが、「ポール・ラッシュ杯」のことなど気にも留めていませんでした=笑)

 このほか、関東大震災で崩壊した聖路加国際病院再建の募金活動や、戦後、澤田美喜が設立した孤児院「エリザベス・サンダースホーム」の支援者などとしても知られます。

 ポール・ラッシュは来日以来、日本聖公会と深いつながりがあったため、自然の成り行きで聖公会系の大学である立教大学や聖路加国際病院などと関係したのでしょう。余談ですが、私は聖路加病院系の築地のクリニックに今でもかかっているのですが、診察券は聖路加国際病院と同じです。その先生から聞いた話では、立教大関係者は聖路加の入院費等が優遇されるそうです。英国教会に属する聖公会系の大学は、他に桃山学院、松蔭女学院などもあります。(ちなみに青山学院大学、関西学院大学などは、米メソジスト監督教会系。明治学院大学、東北学院大学などは長老派教会系。カトリック系の代表はイエズス会の上智大学です。)

 ま、これがポール・ラッシュの表の「正」の部分で、ネット上では彼の功績を讃えるサイトで溢れています。

◇戦犯リスト作成と731石井免責工作

 もう一つ、裏の「負」の部分は、彼が戦後、日本占領期にGHQ・G2の民間情報局(CIS)に採用され、陸軍中佐として日本人の戦犯リストを作成したり、731細菌部隊の石井四郎の免責工作に関わったり、G2のウイロビー部長の指示で、反共赤狩り政策の一環として、中国革命賛美派のアグネス・スメドレーらを標的にしたゾルゲ事件の再調査(ウイロビー報告書)の一躍を担ったことです。ゾルゲ関係者生き残りの川合貞吉らに訊問したりしました(二人一緒に写っている写真が米国立公文書館のファイルに保存されています)。これらは、加藤哲郎一橋大名誉教授の研究で本(平凡社新書「ゾルゲ事件」)も出版されて公になっているので、「裏」ではないかもしれません。しかも、ポール・ラッシュ自身としては、米国市民として本国に忠誠を尽くしたので、「負」の側面でも何でもないのかもしれません。とはいえ、教会の牧師さんが一転して軍服を着た中佐になるとは日本人的感覚なのか、随分異様です。

 CISの本部は、麹町にあった外交官の澤田廉三・美喜夫妻の自宅を摂取したそうですが、美喜が聖公会教会の信者だった関係もあったようです。(夫妻の次男久雄も外交官で、二番目の妻は由紀さおりの姉で歌手の安田祥子)

 いずれにせよ、滞日経験のあった宣教師が日本占領活動の重職を担っていたことは、今の殆どの日本人は知らないことでしょう。私の周囲にいる立教大学のOBに、立教大と聖路加病院との関係を聞いても、ポール・ラッシュの名前を出しても知りませんでした。そんなわけで、こんなことを書いてみたのです。

 聖路加国際病院を含む築地・明石町辺り(福沢諭吉の中津藩中屋敷があった所でしたね)は、戦後占領期を見越して、米軍は空爆せずに温存しました。これも、ポール・ラッシュが、東京大空襲の司令官カーティス・ルメイ将軍に進言、助言したのかしら、と思いましたよ。聖路加病院は占領期、米陸軍病院と呼ばれました。

「母国へのインテリジェンス協力の諸相」=第38回諜報研究会

10月9日(土)午後、誰でも自由に参加できるオンラインで開催された第38回諜報研究会(NPOインテリジェンス研究所主催、早稲田大学20世紀メディア研究所共催)に馳せ参じて来ました。

 先月参加した第37回研究会で、恫喝まがいの炎上事件がありましたから、今回もどうなることやら、とヤキモキしておりましたが、件の怖そうなインテリの方は、きこしめていなかったせいなのか、大人しくて、無事平和に終わり、良かったでした。

 しかし、新たな問題(笑)。

 最初に「『インテリジェンスは剣より強し!』-『対ソ』情報戦にヒュ-マニズムを貫いた父・勝野金政-生誕120年にあたり」という演題で報告された稲田明子氏(NPOインテリジェンス研究所特別研究員)の講演が、要領を得なくて、個人的には全く理解できなかったことでした。マスコミの取材記者として言わせてもらうとしたら、「字にならなかった」(つまり、記事にはできなかった)でした。

 自分の不勉強を棚に上げて文句を言っているようで恐縮ですが、本題とは全く関係ない「前置き」が長過ぎて、恐らく、核心の部分に入れず尻切れトンボで終わってしまったようでした。

 講演者の御尊父に対する尊崇の念と思い入れが強いことは分かりましたが、残念ながら勝野金政と聞いて、どんな方なのか直ぐ分かる方は世間ではそれほど多くはないと思います。(先日、若い人と話をしていて、城山三郎を知らないと聞いて腰が抜けました)「前置き」など端折って、ごく簡単に人物像の前知識を入れてくだされば良かったのではないか、と思いました。

  でも、この後、補足的に報告された山本武利インテリジェンス研究所理事長(早稲田大学・一橋大学名誉教授)による「陸軍参謀本部の協力者 勝野金政-リシュコフー中田光男の人間関係」と、加藤哲郎一橋大学名誉教授の補足説明を聴いて、少し理解することができました。またまたマスコミ記者風に言えば、今回「何がニュースか」分かったような気がしました。

  勝野金政とは、大雑把な言い方で語弊があるかもしれませんが、「日本のソルジェニーツィン」と呼ばれた左翼作家・思想家です。1924年にパリ大学に留学し、仏共産党に入党。28年にモスクワに潜入し、片山潜の秘書や東方学院の教師なども務めていましたが、30年に国家保安本部によりスパイ容疑で逮捕(1989年に名誉回復)、3年半もラーゲリで重労働を科せられますが、減刑釈放され、ほぼ奇跡的に日本に帰国します。帰国後、「ソヴィエト滞在記」などを発表し、ソルジェニーツィンよりもいち早くスターリンの粛清の真実を明かしたことから、文化人類学者の山口昌男から 「日本のソルジェニーツィン」 と呼ばれるようになったといいます。

 今回、何がニュースかと言えば、山本武利理事長も指摘されておりましたが、勝野は一転して37年に大本営参謀本部に招聘され、対ソ戦に備えるための「軍部の協力者」になります。その翌38年に、スターリン粛清を逃れてソ連から日本に亡命してきたリュシコフ三等大将と勝野が43年にソ満国境視察した際に一緒に写っている貴重なマル秘写真があったことでした。

 加藤哲郎一橋大名誉教授によると、亡命したリシュコフの軍事情報は、ソ連側が改めて、シベリアでの軍事配置や作戦等を全て変更したため、直接的にはほとんど役に立たなかったといいます。そして、リシュコフは45年8月に満洲の大連で陸軍中野学校出身の将校によって暗殺されますが、その背後に、ソ連共産党員、コミンテルン極東部員から転向して陸軍参謀本部に勤務していた高谷覚蔵らがいたことなどを指摘していました。

 続く、2人目の報告者、武田珂代子立教大学教授による「太平洋戦争:情報提供者としての離日宣教師」は、講義にこなれている大学教授だけあって、非常に分かりやすく、頭にスッと入りました。

 武田教授は、アジア太平洋戦争・日本占領期の翻訳通訳事象の研究がご専門のようですが、私自身も関心があるので非常に興味深かったでした。米スタンフォード大学フーバー研究所の資料を苦労して渉猟してでの研究発表でした。

 私が驚いたのは、米海軍は、対日戦争の準備のために、早くも1936年に日本語通訳・翻訳者候補のリストを作成していたことでした。1936年は「二・二六事件」があった年ではありますが、真珠湾攻撃の5年も前。しかも、大日本帝国は、真逆に英語は敵性語として禁止したほどではありませんか。まさに、インテリジェンスの情報戦という意味では、既に5年前に日本は敗北していたことになります。

◇ライシャワー、モーア、そしてモーラン

  太平洋戦争・日本占領期で活躍した米国人の通訳・翻訳者は、来日宣教師や日本生まれのその子息が多かったんですね。戦後、駐日大使になったエドウイン・ライシャワーもその一人で、最も有名ですが、東京裁判で言語裁定官を務めたラードナー・W・モーアも日本生まれの宣教師だったのです。モーアは、交換船で帰米後、陸軍情報機関の翻訳指導をし、戦後、再来日し、陸軍言語部長として占領活動。除隊後、宣教活動を再開し、四国基督教学園(現四国学院大学=香川県善通寺市)の初代学長になった人です。この人の実弟が、ウォーラス・H・モーアで、陸軍情報将校となり、当時敵視されていた日系二世の活用を主張し、戦後は、収容所から帰還した日系人を支援した人と知られています。

 もう一人だけ、重要人物は、シャーウッド・F・モーランで、1925年に日本で宣教活動を始め、41年に帰米。56歳で海兵隊に志願して言語官になった人です。日本人捕虜を「人間的アプローチ」で尋問したことから、アフガニスタン・イラク戦争で再注目されました。その日本生まれの息子が シャーウッド・R・モーランで、海軍の言語官となり、暗号解読などに従事し、戦後は原爆調査にも参加したといいます。海軍情報士官として日本人捕虜を尋問した経験のある世界的な日本文学者のドナルド・キーン氏の著作の中にも、このモーランがしばしば登場します。

お世話になりました「『知の巨人』立花隆のすべて」

 昨日10月7日夜10時41分に、東京都足立区と埼玉県南部で震度5強の地震がありましたが、吾人は熟睡中で、揺りかごかメリーゴーランドに乗っている感じで、夢見心地でした。でも、幸いにも、本棚から本が落ちてくることもなく、被害はなし。ただし、本日は電車が間引き運転となり、朝は、駅のホームで何十分も待たされた上、猛烈な通勤・通学ラッシュで長時間の「押しくら饅頭」状態で閉口しました。

 電車内では、捕まり棒に捕まっていましたが、後ろから押されても、筋力が低下していて、腕がブルブルと震えてヘナヘナと倒れてしまいそうでした。我ながら、立派な「老力」がついたものです…。

 大変有難いことに、今朝は、心配してメールをしてくださる方がいらっしゃいました。この場を借りて御礼申し上げます。「この場」といっても、個人的なブログなのですから、「あに、言ってるんだか」ですけどね(笑)。

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 さて、最近読んでいるのは文春ムック「『知の巨人』立花隆のすべて」(文藝春秋、2021年8月16日発行、1650円)です。今年4月に80歳で亡くなった「知の巨人」の追悼本ですが、電車内で読んでいるのが、何となく恥ずかしい気がして隠れて読んでいます。何と言っても「知の巨人」というキャッチコピーが、本人は恥ずかしくなかったのか、訝しく思っていたら、この本の中で、読書猿という人が「『知の巨人』という言葉には違和感がある。個人的には、ほとんど蔑称ではないかとさえ感じられる」と書いておりました。私も同感です。

 何と言いいますか、知識を商業化するようで、違和感というより、嫌悪感を味わいます。確かに、彼は「知の巨人」かもしれませんけど、本人や信奉者やその取り巻き連中が「ニッヒッヒ」と密かに味わっているだけで十分で、日本的繊細さに欠けますね。

 その追悼本ですが、橘隆志(本名)という大秀才が、如何にして立花隆という評論家になったのかといった「人となり」を分析した、その集大成のような本です。本人も対談の中で語っていますが、やはり、5歳の時の「戦争体験」がその後の人生に最も大きな影響を与えたようです。橘家は、どうも「放浪癖」がある人が多かったらしく、立花隆の父橘経雄は、早稲田大学の国文科を出た人で、長崎のミッション系の女学院の教師になったかと思ったら、「勝手に」北京の師範学校の副校長として大陸に渡ります。立花隆は1940年生まれですから、1945年の日本敗戦時は5歳。この大陸からの引き揚げでは混沌状態の中、相当苦労したようで、まかり間違えば、自分も残留孤児になっていたかもしれない、と振り返るほどです。

 父橘経雄の従兄弟が、血盟団事件、五・一五事件で理論的支柱となった右翼思想家の橘孝三郎というのは有名な話ですが、父親の長兄が「山谷のおじさん」と呼ばれた放浪者だったいう話は興味深い。一方、母親の龍子は、自由学園と雑誌「婦人之友」をつくった羽仁もと子(日本人女性初のジャーナリスト)が、戦時色が強くなった1938年に日本に居たたまれなくなって、北京に自由学園北京生活学校をつくって以来、彼女の「信者」となり、最後まで「友の会」の会員として活動したといいます。父親の経雄は戦後、日本に引き揚げてから、その後、「週刊読書人」の専務を務めるなどした人ですから、まあ、家庭内でも蔵書に恵まれたインテリ一家育ちということになります。

銀座・台湾料理「金魚」ルーロー飯と台菜麺 1120円

 この本では、色んなことが書かれていますが、102頁の「東大生たちに語った特別講義」が個人的には面白かったでした。知識の塊の「天下無敵」で、自信満々にしか見えない立花氏ですが、若い頃は何度も自殺しようと思った、と告白しているところに親近感を覚えました。しかも、その原因は「深刻な失恋」だと言うではありませんか。私自身にも「覚え」がありますから、雲の上の人に見えた巨人も、一気に身近に感じてしまいました(笑)。

 もう一つ、一冊の本を書くには100冊以上読まなければ、読むに値するロクなものは書けないという彼の信念には感服してしまいました。できれば、1000冊読むのが望ましい、という彼の格言には卒倒しましたが(笑)。私自身は、普通の人よりほんの少し本は読んでいると思っているのですが、それでも、1カ月に多くても10冊か15冊程度です。文芸担当記者をやっていた若い頃は、月に30~40冊読んでいましたが、2年未満で限界でした。1日1冊以上読むというのは、就寝と風呂に入っている時間以外、歩いていても、トイレの中でも、食事をしていても、全ての時間、読書に費やすことになりましたからね。もう、そんな体力も精神力もありません。もし、今から1000冊読むとなると、10年ぐらい掛かるでしょうね。

 いずれにせよ、立花隆先生にはお会いしたことはありませんでしたが、著作で大変、お世話になりました。途中で「臨死体験」や「脳死」に関する著作に傾いた時、ついていけなくなって離れた時期もありましたが、恐らく、彼の膨大な全著作の5割は読んでいると思います。

 印象に残っている著作は、アトランダムで「『知』のソフトウェア」「日本共産党研究」「宇宙からの帰還」「サル学の現在」「精神と物質」「インターネットはグローバル・ブレイン」「東大生はバカになったか」「武満徹 音楽創造への旅」…などですが、やはり、たった1冊、ナンバーワンに挙げたいのは、「田中角栄研究」ではなく、「天皇と東大」ですねこの本で初めて日本の右翼思想の源流と支流と河口を一気に知ることができ、眩暈がするような知的興奮を味わうことができました。

「明治十四年の政変」がなければ海城はなかった?

  「明治十四年の政変」と呼ばれる事件は、教科書ではサラッと触れられる程度で、ほとんんどの人が歯牙にもかけません。しかしながら、実は、後世に多大な影響を与えた日本の歴史上、重要なターニングポイントになった政変でした。議会開設と憲法制定のきっかけにはなりましたが、最大のポイントは、明治維新の功労藩と呼ばれた薩長土肥の四藩のうち、この政変によって、肥前が追放され、その前に土佐が脱落し、薩長二藩の独裁体制に移行したことでした。

 結果的に、この政変で中央政府から弾き飛ばされた肥前(大隈重信)と、明治六年の政変で政権から脱落した土佐(板垣退助)は自由民権運動に走り、それぞれ立憲改進党や自由党などを創設します。こんなに歴史上重要な政変だったのにも関わらず、あまり人口に膾炙しなかった理由は、この事変があまりにも複雑怪奇で、憶測の域を出ないことが多く、先行研究が少なかったからということに尽きるかもしれません。

銀座アンテナショップ「まるごと高知」

 恐らく、現在手に入る一般向けの研究書で最新資料が盛り込まれ、最も充実した関連書は、久保田哲(1982~)武蔵野学院大学教授著「明治十四年の政変」(集英社インターナショナル新書、2021年2月10日初版)だと思われますが、この本を読んでも、結局、あまりよく分かりませんでした(笑)。なぜなら、本当に複雑怪奇な政変で、この政変を境に薩長独裁政権ができたわけではなく、政変後でも政府内には大隈に近い副島種臣や佐野常民らが留まったりしていたからです。(「開拓使官有物払い下げ」を沼間守一の「東京横浜毎日新聞」に誰がリークしたのかさえ分かっていません)

 ただ、肥前の大隈重信が参議の職を剥奪されて追放された背景には、議会開設と憲法制定問題があり、大隈が進めたかった英国型議員内閣制と長州の伊藤博文ら(フィクサーは肥後の井上毅)が推し進めようとしたプロシア(ドイツ)型立憲君主制が対立していたこと。同時に、薩摩の黒田清隆(バックに政商の五代友厚がいた)が関わっていた北海道の開拓使官有物払い下げ事件があったという構図だけは理解できました。

 また、政変の主役の一人である大隈重信の背後では、「福沢諭吉と三菱が裏で糸を引いて操っている」といった噂が宮中・元老院グループや中央政府の薩長出身者の間で、真面目に信じられていたことをこの本で知りました。後に早稲田大学と慶應義塾の創立者としても知られる大隈と福沢は肝胆相照らすところがあり、 英国型議員内閣制を日本に導入する考えで一致し、日本で初めて外国為替業務が出来る横浜正金銀行(戦後、東京銀行、現在、三菱UFJ銀行)が設立されたのは、この2人の尽力によるものだったこともこの本で初めて知りました。(政変の「敗者」となった福沢諭吉は、その翌年、「時事新報」を創刊します)

「まるごと高知」カツオのたたき定食1500円

 私自身が、明治十四年の政変の重要さを認識したのは、4年ほど前の高校の同窓会で、恩師の目良先生から御教授を受けたからでした。我々の高校の創立者は、古賀喜三郎(評論家江藤淳の曽祖父)という肥前佐賀藩出身の海軍少佐でした。この明治十四年の政変をきっかけに、政官界だけでなく、軍人の世界でも肥前出身者はパージされ、陸軍は長州、海軍は薩摩出身者が優遇されるようになります。古賀喜三郎少佐も、限界を感じて、海軍を去り、教育界に身を投じて、明治24年に海軍予備校(海城高校の前身)を創立します。ということは、明治十四年の政変がなければ、古賀喜三郎はそのまま海軍軍人として生涯を終えていたかもしれません。

 そんなわけで、私はこの政変には人一倍興味を持ち、先ほどご紹介した 久保田哲著「明治十四年の政変」を読んだわけです。 久保田教授は学者さんにしては(失礼)、文章が非常に上手く、名文家で、大変読みやすい。あれだけ複雑怪奇な政変をよくここまでまとめ上げたものだと感心しました。「維新三傑」と呼ばれた木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通がそれぞれ、病死、戦死(自決)、暗殺という形で亡くなり、混沌とした中で、政変は、権力争いで勃発した内紛と言えるかもしれません。

◇井上毅は日本のキーパースン?

 この内紛で勝利を収めた伊藤博文のバックには肥後の井上毅が暗躍していたこともこの本では描かれていました。司法官僚の井上毅は、法制局長官などを歴任し、明治憲法を始め、軍人勅諭、教育勅語、皇室典範などを起草した人として知られています。結局、明治という国家、と言いますか、日本の国のかたちをつくったのは、この井上毅ではないかと、私なんかは一人で思い当たってしまいました。官僚として優秀ながら、「反・福沢諭吉」の闘士として、最高権力者である岩倉具視や伊藤博文らに取り入り、かなり政治力を使って暗躍したようです。暗躍といっても常套手段であり、悪いイメージを帳消しにするほどの功績があるので大したものです。

 井上毅こそ日本史上で欠かせない、とてつもない人物だという認識を私は新たにしました。

【追記】

 ・伊藤博文は1885年の内閣制度創設により、初代首相に就任しますが、大日本帝国憲法には首相について、特に規定はなく、行政権も国務大臣の輔弼によって天皇が行使するのが原則でした。ということで、首相とはいっても、他の国務大臣と同格の「同輩中の首席」に過ぎなかった。

 戦後、日本国憲法は、首相を国会議員の中から国会の議決で指名する議員内閣制を採用し、首相に国務大臣の任免権を付与したため、「最高権力者」となった。

 ・大隈と福沢が設立した横浜正金銀行の本店ビル(現神奈川県立歴史博物館、重文)を設計したのは、明治建築界の三大巨匠の一人、幕臣旗本出身の妻木頼黄(よりなか)。他に、東京・日本橋、半田市のカブトビール工場などを設計。三大巨匠の残りの2人は、辰野金吾(唐津藩、「東京駅」「日銀本店」など)と片山東熊(長州藩、「赤坂離宮」など)。

 

 

政友会と民政党の覇権争いの怨念は今でも

  自民党の岸田文雄総裁(64)が第100代の総理大臣にもうすぐ就任されるということで、まずはおめでとうございます。最近メディアがよく使う「3A」(安倍、麻生、甘利)采配によって担ぎ上げられたということで、またまた彼らの操り人形になるということを意味するわけで、「あまり政策には期待していません」と、釘を刺しておきますが。

 政策よりも、64歳の岸田さんという「人となり」の方に興味があります。各紙を読むと、「こんなこと書いて大丈夫?」と思われるようなことまで、書いちゃってます。まず、「東大合格全国一位」の名門開成高校から3回も東大受験に挑みましたが失敗、とか、御子息が3人いて、そのうち2人は同居だとか…これ以上書きませんが、想像力が逞しくなります。

西日本K市 Copyright par Anonymous

 さて、岸田さんは第100代総理大臣ということですが、初代総理大臣は勿論、御存知ですよね?ー伊藤博文です。それでは、彼がつくった政党は? はい、政友会です。自由民権運動華やかりし頃ですから、板垣退助がつくった自由党や、「明治14年の政変」で参議を追放された大隈重信がつくった立憲改進党など、明治は政党がたくさんつくられました。

 同時に、全国で「大新聞」と呼ばれた政党系の新聞も多く創刊されたわけです。改進党は、進歩党、憲政党などと幾度か名前を改称しますが、昭和初期までには民政党の名称で落ち着き、政友会との「二大政党制」になり、代わる代わる首相を輩出します。このブログの2019年7月6日に「『政友会の三井、民政党の三菱』-財閥の政党支配」という記事を書きましたが、この中で、筒井清忠著「戦前日本のポピュリズム」(中公新書)から、以下のくだりを引用しています。

 (昭和初期の)大分県では、警察の駐在所が政友会系と民政党系の二つがあり、政権が変わるたびに片方を閉じ、もう片方を開けて使用するという。結婚、医者、旅館、料亭なども政友会系と民政党系と二つに分かれていた。例えば、遠くても自党に近い医者に行くのである。…土木工事、道路などの公共事業も知事が変わるたびにそれぞれ二つに分かれていた。消防も系列化されていた。反対党の家の消火活動はしないというのである。(176ページ)

 このように、政友会と民政党は「水と油」なのですが、1941年12月の新聞事業令の制定によって、「1県1紙」の統合が行われました。

 その熾烈な合併の代表が愛知県です。政友会系の新愛知新聞(1888年創刊)と憲政本党(後の民政党)系紙として創刊された名古屋新聞(1906年創刊)が強制的に合併させられて中部日本新聞となるのです。

 新愛知の創刊者は、自由党の闘士だった大島宇吉で、政友会の衆院議員を務めたことがあり、1933年には東京紙の国民新聞を東武財閥の根津嘉一郎から買い受けて傘下に置くなど有力紙として存在感を示していました。

 一方の名古屋新聞は、大阪朝日新聞の名古屋支局長だった小山松寿が、中京新報を譲り受けて同紙を改題して創刊したもので、小山も民政党の衆院議員となり、1937年7月から1941年12月まで衆院議長を務めた人でした。

 中部日本新聞は今の中日新聞であり、都新聞と国民新聞が統合した東京新聞を戦後になって買収し、大手ブロック紙というより、系列新聞を合計すれば、読売、朝日に次ぐ全国3位の販売部数を誇る大新聞です。

 中日新聞は、戦前の新愛知と名古屋が合併したという経緯から、現在も、大島家と小山家が交代で2オーナー制を取っていることは知る人ぞ知る話です。オーナーが代わる度に、プロ野球の中日ドラゴンズの監督やスタッフまで変わるというのは、熱烈なファンの間では周知の事実のようです。何となく、今でも、名古屋は、政友会と民政党の怨念を引きずっている感じがしますねえ(笑)。

 以上「1県1紙」統合などについては、里見脩著「言論統制というビジネス」(新潮選書)からの一部引用です。もう一つ、この本から、特筆すべき点として引用させてもらいますと、戦時中、新聞業界は、軍部など政府からの圧力によって、仕方なく言論統制した被害者のように振舞っていますが、事実は、部数拡大のために、積極的に新聞は軍部に協力し、「社史」からその事実さえ消している、という著者の指摘です。

 例えば、陸軍は1942年9月、「南方占領地域ニ於ケル通信社及ビ新聞社工作処理要領」という軍令によって、同盟通信社は、南方軍総司令部が置かれたシンガポール、マレー、北ボルネオ、スマトラ、朝日新聞はジャワ、毎日新聞はフィリピン、読売新聞はビルマと担当地域が割り当てられ、続いて、海軍も同じように、朝日は南ボルネオ、毎日はセレベス、読売にはセラムの担当を命じたといいます。命令を受けた同盟通信と全国三紙は、ぞれぞれ現地で新聞発刊作業を展開し、同盟には北海道新聞、河北新報、中日新聞、西日本新聞など有力地方紙13紙が参加して、邦字、英語、中国語、マレー語など16もの新聞を発行したといいます。

 このブログでは書きませんでしたが、9月11日の第37回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催)で、講師を務めた毎日新聞の伊藤絵理子氏が書いた「記者・清六の戦争」(毎日新聞出版)の主人公で彼女の曾祖父の弟に当たる東京日日新聞の従軍記者だった伊藤清六は、大陸で従記者を務めた後、フィリピンで「マニラ新聞」の編集発行に従事しました。何故、マニラ新聞なのか?と思っていたら、陸軍が決めたこと(毎日新聞はフィリピン)だったですね。この本を読んで初めて知りました。

【追記】

 新聞社だけではなく、通信社も「政友会」系と「民政党」系があったことを書き忘れました。

 1936年に聯合通信社が、電報通信社の通信部を吸収合併する形で、国策通信社の同盟通信(戦後は解散し、共同通信、時事通信、電通として独立創業)が設立されます。

 この電報通信社を1907年に創業した光永星郎は、自由民権運動の自由党の闘士だった人で、保安条例の処分対象となる経歴の持ち主で、政友会系の地方紙を顧客としました。陸軍にも食い込み、1931年の満州事変は、電通によるスクープでした。

 一方の聯合通信社ですが、まず、1897年に立憲改進党の機関通信社として設立され、改進党(後の民政党)系の地方紙を基盤とした帝国通信社と1914年に渋沢栄一らが創立した国際通信社、それに外務省情報部が経営していた中国関係専門の東方通信社などを吸収合併して、1926年に岩永裕吉が創立したものでした。ということは、聯合は、民政党系で、外務省のソースが強かったといいます。

 

33社全部回ったけどまだ足りない!=明治の銀座「新聞街」めぐり(5)完

 斬新企画「明治の銀座『新聞街』めぐり」は、今回、第5回で、めでたく完結にしたいと存じます。江戸東京博物館(東京・両国)に展示されていた「東京で刊行された主な新聞」のパネルに掲載されていた明治に創刊された新聞社、33社を全て回りました。

 歩きましたねえ。実は、タネを明かしますと、昼休みの1時間の範囲内で取材をしたので、ランチ時間以外の実質30分間で取材を強行致しました。となると、当然、パネルに掲載されていた地図とにらめっこしながらの駆け足取材です。恐らく、妙な怪しい人間に見られたことでしょう。

銀座・資生堂パーラー

 最終回は、銀座7丁目と8丁目の間を南北に走る「花椿通り」近辺にあった残された新聞社を回りました。

 花椿は化粧品会社の「資生堂」のマークですから、この会社にちなんで付けられた通り名だと思われますが、諸説あるようです。資生堂は化粧品だけでなく、高級レストラン「資生堂パーラー」も有名です。あたしも、「銀座ランチ」企画で一度、ここで2860円のオムライスを体験致しました。

 その資生堂パーラーは、もともと「資生堂薬局店」と言ったらしく、ここで明治35年に日本で初めてソーダ水やアイスクリーム等を製造販売したと記録に残っています。

銀座7丁目 ヤマハ=㉛日本たいむす(1885年9月~12月以降)

 まず、出発点は、銀座7丁目の信楽通りにあるヤマハ・ビルの裏側です。パネル地図によると、ここに、㉛日本たいむす(1885年9月~12月以降) があったようです。

 実は、この新聞、3カ月しか続かなかったようですし、実体についてはよく分かりませんでした。

銀座7丁目 ヤマハ、日新堂=⑮いろは新聞(1879年12月あづま新聞~1884年11月勉強新聞)

 花椿通りを北に銀座通りに出て、ほんの少し、京橋方面を歩くと、銀座7丁目のヤマハ・ビル(正面)と高級時計販売の「日新堂」があります。この辺りに、明治には、⑮いろは新聞(1879年12月~1884年11月)がありました。

 この新聞は、前回の「今日新聞」(都新聞~東京新聞)の中で取り上げた仮名垣魯文が1879年12月に創刊したもので、前身は「安都満(あづま)新聞」。花柳界のゴシップ記事を中心とした庶民向けの娯楽新聞と言われました。1884年、「勉強新聞」に改題されますが、ほどなく終刊しました。

銀座8丁目の新築ビル(7丁目のモンブラン銀座ビルの向かい)=⑤仮名読新聞(1875年11月~1877年3月)

 銀座通りを新橋方面に向かって、花椿通りを横断すると、銀座7丁目のモンブラン(万年筆)銀座ビルの向かいの銀座8丁目に、現在、新築ビルが建設中です。あれっ?以前、何のビルだったか、思い出せません。日本人はすぐ古いビルを壊してしまうので、明治の人が見たら吃驚することでしょう。欧州では200年、300年も昔の建造物を今でも現役として使っているのですから、それとはえらい違いです。とにかく、ここには、⑤仮名読新聞(1875年11月~1877年3月) 社がありました。

 この新聞も仮名垣魯文が1875年11月に創刊したもので、この後に、先程のいろは新聞を創刊しますから、順番が逆でしたね(苦笑)。ニュースよりも、戯文、読物や劇評などが中心だったようです。

 仮名読新聞からいろは新聞まで歩いて数十秒。仮名垣魯文は、目と鼻の先で引っ越したわけですか。

銀座8丁目 ア・テストーニ銀座ブティック=⑦問答新聞(1876年6月~1882年11月)、㉕内外政党事情(1882年10月~1883年2月)

 銀座通りの歩道をもう少し、新橋方面に向かって歩くと、 銀座8丁目にイタリアの高級ブランド「ア・テストーニ」銀座ブティックが入居したビルがありますが、ここには⑦問答新聞(1876年6月~1882年11月)と㉕内外政党事情(1882年10月~1883年2月) がありました。

 問答新聞は、私も初めて聞く名前で、よく分かりませんが、江戸東京博物館のパネルの説明とは違って、国立国会図書館所蔵では、同紙は、明治9年(1876年)6月に四通社から創刊され、明治12年(1879年)9月に、376号で廃刊したようです。

  国会図書館デジタルコレクションを見ると、内外政党事情は、明治15年7月、中村義三編著で自由出版から発行され、日本と海外の政党について詳述した雑誌で、どう見ても新聞には見えませんね。

銀座8丁目 河北ビル、第3一越ビル=⑫真砂新聞(1878年7月~9月)

 再び、銀座7丁目交差点に戻って、花椿通りを北上することにします。残りはわずか3社です。

  東西を走る並木通りに近い銀座8丁目にある河北ビルと第3一越ビル辺りにあったのが、⑫真砂新聞(1878年7月~9月)です。 写真の喫茶店「プロント」には昔よく入ったものでしたが、明治時代、ここが新聞社だったとは!

  真砂新聞は、前回取り上げた我が国初の夕刊紙⑩「東京毎夕新聞」(高畠藍泉主宰)の創刊半年後に経営者が代わって改題し、朝刊となった新聞でしたね。この後、東京真砂新聞と再び改題して、まもなく廃刊した、と前回書きましたが、この後、さらに、「みやこ新聞」(都新聞とは別会社)と改題し、読売新聞創刊時の初代編集長だった鈴木田正雄(1845~1905年)も入社しました。この人に関しては、第1回の「足の踏み場もないほど新聞社だらけ」の⑯「鈴木田新聞」で取り上げました。

銀座8丁目プラーザ銀座ビル=㉗同盟改進新聞(1882年11月~12月以降)

 花椿通りをさらに北上して、東西を走る広い西銀座(外堀)通りに差し掛かったところに、銀座8丁目のプラーザ銀座ビルがあります。なあんだ。柳宗悦らが中心になって起こした民藝運動の作品を販売している「たくみ」の隣りだったんですね。ここには、㉗同盟改進新聞(1882年11月~12月以降) があったといいます。

 同盟改進新聞は、よく分かりませんが、名前から言って改進党系の新聞だったのではないかと思われます。後に「万朝報」を創刊する黒岩涙香が1883年に主筆となってジャーナリストとしてスタートした新聞のようです。

銀座8丁目 ニッタビル=⑱明治日報(1881年4月~1885年11月)

 おお、やっと最後の新聞社に辿り着きました。

 花椿通りを北に行くとコリドー街に突き当たりますが、その銀座8丁目のニッタビル辺りに、⑱明治日報(1881年4月~1885年11月) がありました。パネルの地図が少しアバウトなので、これは推測ですが。

 明治日報は、明治14年に忠愛社から発行され、西田長寿著「明治時代の新聞と雑誌」(至文堂、1961年)によると、政府から資金援助を受け、「頑固な保守主義的立場をとった新聞」だったようです。

 以上、やったー、終わったー!と言いたいところですが、気になったのは、 江戸東京博物館(東京・両国)のパネル「東京で刊行された主な新聞」に載っていなかった明治に銀座で発行された新聞社です。

 例えば、先ほどの黒岩涙香が明治25年に創刊した「万朝報」です。確か、銀座・並木通りにあった映画館「並木座」(1953~1998年)があったところに、社屋があったという話を聞いたことがありますが、ウラは取れず仕舞いです。

 あと、徳富蘇峰が明治23年に創刊した「国民新聞」がパネルに掲載されていないのはどうしてなんでしょうかねえ?文明開化の明治初期に創刊されたわけではないから、という理由でしょうか?とにかく、日露戦争の講和条約に不平不満を抱いた群衆による日比谷焼き討ち事件がありましたが、その際に、国民新聞社も襲撃された歴史的跡地なのですが。

 恐らく、リクルート銀座8丁目ビル辺りにあったものと思われますが、どなたか詳しい方からコメントで御教授頂くと嬉しいです。

◇忘れちゃいけない報知新聞

 おっと、忘れるところでした。郵便報知新聞は何でパネルに載っていないんでしょうか?明治5年(1872年)、1円切手にも採用された前島密(ひそか)が、秘書の小西義敬を社主として創刊させた政論新聞です。明治5年ですから、文明開化の初期のはずです。1881年に矢野龍渓が小西から譲渡されて社主となり、改進党系の新聞となりますが、それを前後として、私の好きな栗本鋤雲や、犬養毅、尾崎行雄らも在社した明治の新聞には欠かせない重要新聞なのですが。

 郵便報知新聞は1895年、三木善八が買収して「報知新聞」と改題し、政論紙から大衆紙に転身。明治末には東京で第1位の発行部数を誇りますが、昭和に入り経営不振となります。1930年には講談社の野間清治が買収しますが、状況は好転せず、1942年には、読売新聞が、当時社長だったあの三木武吉から買収合併します。報知新聞のブランドは、東京では名高かったので、当初は3年ほど「読売報知新聞」の題字で発行していました。(戦後は、読売系のスポーツ紙として報知新聞は復活)

 そう言えば、報知新聞の本社は、有楽町のビックカメラ(その前はそごうデパート)にありました。そこには今でも「よみうりホール」があり、土地建物は読売不動産の所有となっています。ということは、郵便報知新聞は、明治5年に創業した時の本社もここにあったのかもしれません。有楽町は、正確に言うと銀座ではないので、それで、江戸東京博物館のパネルに郵便報知新聞が登場しなかったのかもしれません。これもまた、皆様の御教授をお待ちしています。

読売新聞は虎ノ門から銀座1丁目に移転=明治の銀座「新聞街」めぐり(4)

 斬新企画「明治の銀座『新聞街』めぐり」の第4弾です。ほんの一部ですが、斯界から大好評を得ておりますので、皆様からの情報提供や、間違いの御指摘等頂けましたら幸いです。

 えっ? それとも、そろそろ飽きてきましたか? 勘弁してください。あと、2,3回ほどで、江戸東京博物館(東京・両国)に展示されていたパネルの「東京で刊行された主な新聞」33社を全て廻ることができるのですから。

銀座4丁目弥生ビル=㉚今日新聞

  明治に㉒「日の出新聞」があった銀座4丁目の衣料品店「GAP」が入居しているビルの前の並木通りを京橋方面に進むと、同じ 銀座4丁目の角に弥生ビルがあり、ここに㉚「今日(こんにち)新聞」 (1884年9月~1888年11月) があったことがパネルの地図で分かります。

 この今日新聞、実は継承する新聞が現在でも残っているのです。まずはこの新聞は、1884年9月、小西義敬が創刊した夕刊紙で、「安愚楽鍋」などの戯作で知られ、もともと「横浜毎日新聞」や自ら創刊した「仮名読み新聞」「いろは新聞」などで活躍した仮名垣魯文主筆に迎えた新聞でした。これが、1888年に「みやこ新聞」に改題されて朝刊紙となり、その翌年、「都新聞」と再改題されます。

 都新聞は、黒岩涙香を主筆に迎え、その後、1919年には、商店の小僧から身を起こした福田英助が買収し、芝居や演劇、そして証券、商況欄などに紙面を割き、花柳界の広告を載せるなど独特の編集方針で部数を伸ばし、東京の有力紙になりました。(東京帝大生だった津島修治=太宰治が、都新聞の入社試験に落ちたほどです)

 しかし、先の大戦中の1942年10月1日の新聞統合で、徳富蘇峰が創刊した「国民新聞」と合併させられ、「東京新聞」となるのです。この新聞は戦後まで続きましたが、経営が悪化し、1960年代、名古屋の中日新聞に経営権が譲渡されます。戦前、国民新聞が中日新聞の前身である新愛知新聞にテコ入れを受けていたという縁がありました。というわけで、現在、東京新聞は中日新聞東京本社発行として続いているのです。

 東京新聞が今でも文楽や歌舞伎など古典芸能の報道に力を入れているのは、都新聞からの伝統の継承だと思われます。

銀座4丁目 銀座三和ビル=⑩東京毎夕新聞(1877年11月~1878年11月)真砂新聞へ

 ㉚今日新聞社跡から松屋通りを南下し、銀座通りを渡ったところにある銀座4丁目の三菱UFJ銀行(銀座三和ビル)には、⑩「東京毎夕新聞」(1877年11月~1878年11月)社がありました。

  この新聞は1877年11月に、高畠藍泉が創刊した日本最初の夕刊紙でしたが、経営不振のため,翌年6月、譲渡されて朝刊紙となり、「真砂新聞」、さらに「東京真砂新聞」と改題されましたが、ほどなくして廃刊したようです。

銀座3丁目 銀座オーミビル=㉓自由新聞(1882年6月~1885年3月)

 松屋通りを2ブロック南下して、銀座三原通りを左折したところにあるのが、銀座3丁目 銀座オーミビルで、ここにはかつて、㉓「自由新聞」(1882年6月~1885年3月)社がありました。

 自由新聞は、1882年6月に創刊された自由党の日刊機関紙で、板垣退助を総理とし,馬場辰猪、中江兆民、末広鉄腸、田口卯吉らを社説担当して、改進党系の『東京横浜毎日新聞』『郵便報知新聞』などに対抗して論争した、これまた明治期の重要新聞です。紆余曲折の末、1895年まで存続したようです。末期は、自由党とは無関係になり、幸徳秋水も在籍したといいます。

銀座1丁目 奥野ビル=⑬東京新聞(1878年11月東京さきがけ~1880年5月)

 銀座三原通りをさらに京橋方面に向かって歩くと、銀座1丁目にとりわけ目立つ古いビルがあります。珍しく戦災の被害を免れた奥野ビルです。1932年に竣工された時、「銀座アパートメント」と呼ばれ、さぞかし当時は近代的なビルだったことでしょう。今ではもう築90年近く建ちますが、現役で、ギャラリーやアンティークショップなどが入居しています。明治時代、この辺りに、⑬東京新聞(1878年11月東京さきがけ~1880年5月) があったようです。

 これは、都新聞の流れを汲む東京新聞とは違うようですが、この新聞に関しては、まだ調べ尽くしておらず、よく分かりません。江戸東京博物館のパネルでは、「東京さきがけ新聞」として創刊されたようですが、これもまだ調査中です。(東京魁新聞社なら大正時代も続いていたようですが、この新聞と同じか?)

銀座2丁目メルサGINZA=⑪憂国議事新聞(1878年4月~10月以降)

 気を取り直して、北上して銀座通りに戻ると、 銀座2丁目にメルサGINZAがあります。「銀座ランチ」めぐりで、メルサに入居している台湾料理の「金魚」に入ったことをこのブログに書いたことがあります。明治時代、ここには⑪憂国議事新聞(1878年4月~10月以降)がありました。

 この新聞は、熊本県天草市出身の改進的平民民権主義者・宇良田玄彰(1841~1903年)が明治11年に創刊した政治新聞です。

 と書きながら、不勉強で初めて知りました。ネット上に詳細なサイト「自由民権家 宇良田玄彰 顕彰碑」がありましたので、御興味のある方は、そちらを拝読されたし。

銀座1丁目 千歳興産京橋三菱ビル=③読売新聞(1874年11月~健在)

 さあ、今回最後に登場するトリは、やはり、天下の③読売新聞(1874年11月~健在)です。 銀座通りを京橋方面に向かい、銀座1丁目の千歳興産京橋三菱ビル がその跡地です。いつぞや、このブログでも取り上げたことがありますので、今回はさらっと。

 読売新聞社の社史によると、読売新聞は1874年(明治7年)11月2日、東京・虎ノ門で創刊され、ここ銀座1丁目に社屋が移転されたのは、1877年(明治10年)5月のようです。1923年(大正12年)8月に東京・京橋区西紺屋町(現銀座3丁目、かつて銀座プランタン、今はユニクロが入っているビルと隣りのマロニエゲート銀座ビル。それらの屋上近辺の壁に「読売新聞」のロゴがあるので、土地と建物はいまだに所有しているようです)に移転するまでここに本社を構えていたことになります。

 明治中期には坪内逍遥、尾崎紅葉ら文豪が入社して健筆を振るい、特に、尾崎紅葉の「金色夜叉」の連載で部数を伸ばしたと言われますが、読売の若い記者は知らないかもしれませんね(笑)。

 その後、読売は、関東大震災で壊滅的な被害を受けて経営難に陥りますが、「虎の門事件」の責任を取って警視庁警務部長を退職した正力松太郎が、後藤新平の援助で読売を買収し、急成長していく話は、このブログで何度も書いたことと思います。

尾張町交差点は情報発信の拠点だった=明治の銀座「新聞街」めぐり(3)

 明治の銀座の「新聞街」散策は、今回が第3弾となります。

 例によって、江戸東京博物館(東京・両国)に展示されているパネル「東京で刊行された主な新聞」を手掛かりに歩いてみました。

銀座5丁目 「ソノコ・カフェ」などが入居する銀座幸ビル=㉔絵入自由新聞(1882年9月~1890年11月)

 銀座といえば、何と言っても、その中心は銀座4丁目です。そこに建つセイコー服部時計店は銀座のシンボルになっています。そこで、今回はその銀座4丁目周辺で明治に創刊された新聞社を巡ってみました。

  まずは、銀座5丁目にある「ソノコ・カフェ」などが入居する銀座幸ビル 。「白い美顔」の美容研究家として一時期、一世を風靡した鈴木その子さんが所有されていたビルかどうかは分かりませんけど(笑)、彼女が2000年に68歳の若さで亡くなるまでここに美容教室?があったことを覚えています。今でもカフェがあるので、いまだに関係があるかもしれません。

 ここは、明治時代、 ㉔絵入自由新聞(1882年9月~1890年11月) があったようです。自由党は、政党機関紙として「自由新聞」を創刊しますが、大衆向けに自由民権の思想を普及するため創刊したのがこの「絵入自由新聞」です。黒岩涙香の探偵小説などで人気を集めましたが、自由党の解党後、1892年 、黒岩が創刊した「万朝報」に吸収されます。

銀座5丁目 日産ショールーム ㉜毎日新聞(1886年5月~1906年7月)

  「ソノコ・カフェ」 から晴海通りをワンブロック北上するともう銀座4丁目の交差点です。

 その銀座5丁目の角に建つのが「銀座プレイス」ビルです。地下に銀座ライオン、1階に 日産自動車、 3階にソニーの各ショールームなどが入っています。

 ここに明治時代、 ㉜毎日新聞(1886年5月~1906年7月) があったということです。沼間守一社長の⑭東京横浜毎日新聞が、 1886年5月 に紙名を「毎日新聞」と改題してここに移って来たと思われます。この ⑭東京横浜毎日新聞 については、前回の「東京横浜毎日新聞社は高級ブランドショップに」で詳しく触れましたので、今回繰り返しませんが、現在の毎日新聞とは関係ありません。

銀座4丁目 三越 ④東京曙新聞(1875年3月~1882年3月)、⑳東洋新報(1882年3月~1882年12月)、㉘絵入朝野新聞(1882年11月~1889年5月)

 「銀座プレイス」を京橋方向に向かって銀座4丁目の交差点を渡ると「銀座三越店」が聳え立っています。 ここは、立地条件が良いのか、④東京曙新聞(1875年3月~1882年3月)、⑳東洋新報(1882年3月~1882年12月)、㉘絵入朝野新聞(1882年11月~1889年5月) が社屋を構えました。

 と思ったら、東洋新報は、東京曙新聞が廃刊されたので、紙名を改題して継続発行されたものでした。一方、絵入朝野新聞は、次に出てくる、真向かいの服部時計店にあった「朝野新聞」が一時期、経営していたようです。

 いずれにせよ、 東京曙新聞 には末広鉄腸、大井憲太郎らが在社し、民権論、征韓論を鼓吹した明治の重要新聞であることは確かです。

銀座4丁目 服部時計店 ②朝野新聞(1874年9月~1894年12月)

 やっと、三越前の銀座4丁目交差点(地元の人は「尾張町交差点」とよく言っていて、最初は道を聞いてもよく分かりませんでした)を渡ると、銀座のシンボル、服部時計店がやっと登場します。1932年(昭和7年)に竣工されたということで、篠田正浩監督の映画「スパイ・ゾルゲ」でも効果的に使われていました。戦前のビルはもう銀座ではあまり残っていませんからね。

明治 銀座4丁目の「朝野新聞」本社(江戸東京博物館)

 ここには、 ②朝野新聞(1874年9月~1894年12月) があったことは、以前、このブログで何度も触れましたので、《渓流斎日乗》の御愛読者の皆様なら御存知のことでしょう。

 幕臣出身、しかも将軍直々への侍講職も務めた成島柳北が社長、主筆でしたが、反政府的論調のため、1875年6月の新聞紙条例で逮捕され、禁固刑となります。片や、先程登場した東京曙新聞の末広鉄腸は、讒謗律などのお陰で政府寄りの論調になった曙新聞の社主に抗議して、 同社を退職し、同年10月に朝野新聞に入社しています。( 末広鉄腸は、後に朝野新聞の主筆となりますが、成島柳北と同じように筆禍事件で投獄されます。)

 曙新聞を退社した末広鉄腸にとって、朝野新聞は、目の前ですから、今で言えば、三越を退社して、目の前の服部時計店まで、横断歩道を渡って入社したことになりますか。いや、まさか(笑)。

 いずれにせよ、明治時代、尾張町交差点付近は情報発信の拠点だったことが分かります。

銀座4丁目 浜一・和光ビル=⑨新聞集誌(1877年10月~1878年12月)、㉙自由燈(1884年5月~1886年1月)

 この服部時計店の裏手にある銀座4丁目の浜一・和光ビル には ⑨新聞集誌(1877年10月~1878年12月)と㉙自由燈(1884年5月~1886年1月) があったようです。

  新聞集誌はまだ調査中でよく分かりませんが、自由燈 は、星亨が創刊した自由党の機関紙でした。

銀座4丁目 GAP ㉒日の出新聞(1882年4月~1883年2月)

 晴海通りを北上して、数寄屋橋に近い所に建つ衣料品店GAPが入居しているビルに、㉒日の出新聞(1882年4月~1883年2月) がありました。

 明治15年4月1日に旭光社が創刊した日刊紙で、1年も持ちませんでしたが、詳細についてはこれまた調査中です。

 皆様の方が詳しいと思いますので、何か情報がありましたら、ご提供賜れれば幸甚で御座います。

東京横浜毎日新聞社は高級ブランドショップに=明治の銀座「新聞街」めぐり(2)

 9月17日の「明治の銀座『新聞街』めぐり」の第2弾です。(前回の記事をまだお読みでない方にはリンクを貼っておきました)

 江戸東京博物館に行って、明治の銀座は新聞社だらけだったことに驚き、個人的に、銀座で今でも仕事をしている機会を利用して、出来る限り回ってみようとしたのが今回の企画です。

銀座「とんかつ不二」ミックス定食ランチ600円(15食限定)

 今回は、それより、銀座ランチの企画を優先してしまいました(笑)。例の昭和2年(1927年)創業の「とんかつ不二」です。時事新報社があった交詢社ビルの斜め前ぐらいにあります。以前にもこのブログで書きましたが、午後1時を過ぎると、ミックス定食ランチがわずか600円で食すことができるのです。15食限定ですが。

 どうでも良い話ですが、私は病気をした関係で非常に規則正しい生活を送っており、大抵は、毎日午後12時半に会社を出てランチを取っていますので、どうしても、銀座は一番遠くても徒歩で15、6分圏内なので、食事は1時前になってしまい、この時間だと外で待たなければなりません。でも、金曜日はたまたま仕事で遅くなったので、ちょうど1時3分過ぎに到着することができたのです。

 ミックス定食は、上の写真の通りです。ヒレかつ、ロースかつ、エビフライ、魚のキスフライが付いて600円ですよ! しかも銀座です! 半信半疑で食べ、食べ終わってから申し訳ない気持ちで料金を払いました。

銀座7丁目毛利ビル=⑧絵入日曜新聞(1877年6月~10月)跡

 さて、この「とんかつ不二」の近くに明治の新聞社はないものか探しました。交詢社通りを北上し並木通りを渡ったところに 、銀座7丁目の毛利ビルがありますが、そこは、⑧絵入日曜新聞(1877年6月~10月) があったといいます。

 この新聞、古書店で、第1~5号の合本1冊が4000円で販売されているようですが、私は実物を見たことがなく、どんな新聞か分かりません。でも、わずか4カ月間の発行期間だったようですね。恐らく、挿絵をふんだんに使った大衆向けの新聞だったのでしょう。1877年は明治10年。その年の1月から9月まで西南戦争がありましたから、西南戦争の記事もあったのかもしれません。

銀座6丁目Ginza Mst=⑲東京ふりがな新聞(1881年11月~1882年2月)跡

 このまま並木通りを東に進み、みゆき通りを北にワンブロック先にあるのが、 銀座6丁目Ginza Mstビルです。ハリウッド俳優ブラッド・ピットが宣伝に出ているイタリアの高級スーツ、ブリオーニが入ってます。私は、通勤などで毎日のようにこのビルの前を通るのですが、ここに明治には⑲東京ふりがな新聞(1881年11月~1882年2月)があったとは知りませんでした。

 残念ながら、この新聞に関してはよく分かりません。わずか3カ月間しか続かなかったので、歴史に埋もれてしまったようです。

銀座5丁目 コーチ銀座 ⑭東京横浜毎日新聞(1879年11月~1886年5月)

 ここからソニー通りを東にワンブロック進むと、銀座5丁目の高級皮革ブランド「コーチ」が入っているビルがありますが、明治には、ここは何と、⑭東京横浜毎日新聞社(1879年11月~1886年5月)があったんですね。

 前身は、横浜毎日新聞。大阪毎日新聞と東京日日新聞が合併し現在も存続する毎日新聞とは無関係です。「山川 日本史小辞典」などによると、横浜活版社が1870年(明治3年)12月8日に創刊した日本最初の日刊邦字新聞なのです。

 貿易関係記事や海外ニュースなどを掲載し、1879年に編集局をここ銀座に移し「東京横浜毎日新聞」と改題します。幕臣出身の沼間守一(1843~90年)社長のもとで改進党系新聞の性格を強め、自由民権運動の高揚とともに有力な全国新聞となります。1886年「毎日新聞」と改題し、沼間の死後、やはり旧幕臣の島田三郎(1852~1923年)が社長となり、日露戦争では開戦に至るまで非戦論を唱えます。島田は、帝国議会開設後は立憲改進党の有力議員として足尾鉱山鉱毒事件や廃娼運動などを追及をします。1906年、「東京毎日新聞」と改題され、1909年には「報知新聞」の経営に移り、1913年には後に改造社を創立する山本実彦が社主となり、1940年、あの天下無敵の「ブラックジャーナリズムの祖」とも言われる野依秀市が創刊した「帝都日日新聞」に吸収され廃刊となる日本ジャーナリズムに歴史を残す新聞社なのです。

銀座6丁目・商法講習所跡(現一橋大学)

 いやはや、筆が少し踊りました(笑)。

 帰り道、銀座6丁目にある「銀座SIX」の歩道にある「 商法講習所跡」の碑の写真も撮っておきました。明治の遺産の一つですからね。

 商法講習所とは1875年、初代文部大臣となる薩摩出身の森有礼が創立した私塾で、東京会議所の管理に移り、1876年東京府に移管されます。その間、渋沢栄一も経営委員として参画しています。その後、1884年、東京商業学校と改称され、東京・一ツ橋に移り、現在の国立市の一橋大学につながるのです。

 この碑は、商法講習所創立100周年に当たる1975年に一橋大学が建立したものでした。