言語は世界制覇の最大の武器

昭和10年創業らしい「かいらく」 もやしそば 700円

 人間、否が応でも、政治や経済や社会の影響なしでは生きてはいけないということは自明の理です。でも、それ以上に重要なことは、日ごろ安易に感じられがちな文化だと私は思っています。文化の中でも最も大切なものは、言語です。

 言語は単なるコミュニケーションの手段だと、またまた安易に考えられがちですが、人間は言語によって思考したり、言語によって感情を表現したりする極めて重要なツールなのです。つまり、言語は世界制覇の最大の武器になるのです。

…なぞと、いつもながらの渓流斎ブログらしく、ややこしい前触れから始めましたが、何でこんなことを考えたかと言いますと、欧米が中国の「孔子学院」を相次いで閉鎖している、という記事を読んだからです。

 孔子学院とは、中国教育省傘下の孔子学院本部(北京)が海外の大学構内に設置しているもので、教師や教科書は中国から提供され、運営費の半額は原則的に中国が負担しているといいます。今年10月の時点で、世界162カ国・地域で計541校も開校しているといいます。

 しかし、ここに来て、中国が香港やウイグル、内モンゴルなどに強権的政治力を発動し、人権問題になったりしたことから、欧米を中心に反発が広がり、閉鎖される傾向が続いているといいます。そうでなくても、もともと孔子学院は中国政府のプロパガンダ(政治宣伝)機関かスパイ養成機関ではないかといわれるような疑心暗鬼があったことから、拍車が掛かったようです。

 私自身は、孔子学院でどのような教科書が使われているか知りませんが、中国国内でネット検索すらできない「天安門事件」や「香港国家安全維持法」などは取り上げられていないと想像しています。

実家の老親がやっと退院できるようになりましたが、条件はこのように家内に介護環境を整えることでした

 10月28日付産経新聞は「スウェーデン 対中感情悪化=欧州で突出 香港人権問題契機に」という見出しで大きく報道していました。中国共産党の批判書を扱い閉店に追い込まれた香港の「銅鑼湾書店」の親会社の大株主でスウェーデン国籍も取得している桂民海氏が2018年、中国本土で警察に拘束されたことが関係悪化の契機だったといいます。

 スウェーデンは、国内に8カ所ある孔子学院を全て閉鎖し、携帯電話の5Gで中国のファーウェイの機器の使用を禁止したといいます。

 産経の記事だけを読んでいる限り、「そうですか。中国って悪い国ですね」と言いたいところですが、少し冷静になってみると、そう言い切れないところがあります。この深層に、今年新たに孔子学院を2校閉鎖し、最大120校あったものを現在、81校に減少させた米国と、政治的、経済的に世界制覇を狙う中国との覇権争いがあるからです。つまり、善悪で捉えてはいけないということです。中国が一方的に悪で、米国が善というわけではないのです。言ってみれば、サバンナの弱肉強食の世界です。

 スウェーデンにしたって、2000年初めまでは、経済大国であり、ノーベル賞学者を多く輩出する日本を重視し、多くの日本語講座を設けていたのに、中国が経済発展すると、手のひらを反すようにして、日本語学校を閉鎖・追放して中国語講座を設けるようになったという話を以前、スウェーデン留学歴のある学者に聞いたことがあります。

 正確な引用ではありませんが、勝海舟は毀誉褒貶がある人とはいえ、日清戦争が起きる前、「あれだけ、昔はお世話になったのに、支那(中国)がかわいそうじゃないか」と言って、戦争に反対したと言われてます。

 古代に仏教(漢訳経典)も、稲作灌漑技術も中国大陸から渡ってきたものです。何と言っても、日本語の根幹となった漢字の導入があります。ベトナムや韓国北朝鮮は漢字を棄てましたが、「優等生」の日本は漢字を棄てず、今でも漢字なしでは日本語は語れません。日本人は漢字なしでは思考すらできません。

 尖閣諸島に出没する中国船の話などが連日報道され、世論調査でも中国に対する好感度が極度に下がっています。しかし、隣国として将来に渡って付き合わざるを得ません。

 そう言えば、日本のメディアの中国報道はネガティブなものが多い気がします。それが日本人の対中感情の悪化の原因の一つになっています。

 正直、私自身も皆さんと同じように、今の中国のことを大好きにはなれませんが、何事もほどほどに。欧米だけが一方的に正しいというわけではないのです。「中庸の精神」が大事だと私は思っています。

 

🎬「スパイの妻」は★★

 ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞(監督賞)を受賞した話題作「スパイの妻」(黒沢清監督作品)を大いに期待して観に行ってきました。

 劇場に着いたら、超満員の観客が列を作ってました。私は事前にネットでチケットを購入していたので安心していましたが、なかなか入り口に辿り着きません。

 「えらい人気だなあ」と思ったら、この作品ではなく、今、子どもから大人まで大人気のアニメ?「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」の観客でした。この映画館だけで、この作品を週末は1日15~20回ぐらい上映しているらしく、三密状態で押し合いへし合いでした。

 私は全く興味がないので、漫画なのかアニメなのかよく分かりませんけど、恐らく今年一番の観客動員数を記録することでしょう。

 私の目当ての「スパイの妻」は、7割ぐらいの観客入りといったところでした。

 最初に書いた通り、大いに期待して観たのですが、ガッカリでした。「サスペンス」と称していますので、あまり詳しく内容には触れられませんけど、サスペンスにしては、驚くほど緊迫感はありませんでした。

 「回路」「トウキョウソナタ」などで知られる黒沢清監督も今年65歳となり、もう巨匠です。東大総長も務め、立教大学時代、黒沢監督の師匠に当たる有名映画評論家が、この作品を大絶賛する映画評を新聞に書いてましたが、それほど傑作とは思えませんでした。

 「何でかなあ」と自問してみましたが、はっきりした回答は出てきません。恐らく、もう少し、細部に拘ったドキュメンタリータッチの作品を期待していたのかもしれません。太平洋戦争前夜という緊迫した時代を背景に、神戸の商社社長である主人公福原優作(高橋一生)が、満洲(現中国東北部)に商用で出張した折に、国家機密の情報を知り得てしまうという話で、この映画を観る前、「一体何の話なのか」と思っていたら、結局、「何だ、その話でしたか」という意外性がなかったことで失望したのかもしれません。(その国家機密は、ハルビン郊外の話ですが、映画では新京は出てきてもハルビンのハの字も出てきませんでした。あ、あくまでも映画でしたね)

 この映画は、「スパイの妻」聡子役の蒼井優を中心に描かれた作品ということになるでしょうが、あまりにも彼女の顔のアップシーンが多い気がしました。(だから何だという話ですが)

 出てくる軍人役の俳優が一人も軍人に見えないし,軍隊行進の姿も全くなってない。登場人物の誰一人にも感情移入できなかったのが、最大の難点だったかもしれません。

 研究し尽くされていたのは、当時のファッションだったかもしれません。これは、うまく再現していましたが、当時の人はもっと帽子を被っていたと思いました。

 28歳の若さで戦病死した山中貞雄監督の「河内山宗俊」(1936年)を福原夫妻が映画館で観るシーンが出てきましが、これは旧き大先輩に対するオマージュだったのでしょう。しかし、映画の舞台は主に1940年の神戸。「人情紙風船」などで知られる山中貞雄監督は、1938年に亡くなっていますから、福原夫妻は超大金持ちなのに、弐番館の名画座で観たのかしら?

 昭和初期の細部にこだわる、と言いますか、うるさい人間がこの映画を観ると、難癖をつけたくなってしまいました。あまり詳しくない人にとっては、どうでも良い話でした。

「禁じられた西郷隆盛の『顔』」=写真から消された維新最大の功労者

いつも何かと小生に気を遣ってくださるノンフィクション作家の斎藤充功(みちのり)氏から、出版社二見書房を通して本が送られて来ました。

 「禁じられた西郷隆盛の『顔』 写真から消された維新最大の功労者」(二見文庫、2020年10月25日初版)という本です。2014年に刊行された「消された『西郷写真』の謎 写真がとらえた禁断の歴史」(学研パブリッシング)を増補改訂した文庫版です。

 ちょうど1年前に出版され、小生もこのブログ(2019年9月26日付)で取り上げさせて頂いた「フルベッキ写真の正体 孝明天皇すり替え説の真相」(二見文庫)の続編にもなっております。

 一応、帯にある通り、「明治維新史の暗部に切りこむノンフィクションミステリー」となっていますので、タネ明かしをしてしまうのはフェアではありませんが、結論を先に言ってしまいますと、結局、これまで出回っている西郷隆盛の「真顔」と言われていた写真は、東京歯科大学法人類学研究室の橋本正次教授による鑑定で「一致」に至らず、なおも探索作業が続いている…ということでした。

 著者は、「西郷写真」の存在を求めて、上野の西郷さん像をスタートして、二戸、大阪、下関、長崎、鹿児島…と関係者に会い、3年間かけて丹念に取材しています。そのフットワークの軽さはさすがです。

 斎藤充功氏が特に問題とした代表的な写真が、加治将一著「幕末 維新の暗号」(祥伝社、2007年)で再脚光を浴びた「フルベッキ群像写真」(幕末に来日したオランダ系米人宣教師フルベッキと息子を囲んで44人の武士が写ったもの。写っている武士たちは、坂本龍馬、中岡慎太郎、西郷隆盛、大久保利通、高杉晋作、伊藤博文…ではないかと推定された)、明治2年から8年にかけて浅草で撮影された「スイカ西郷」と呼ばれる写真(西瓜のような頭をした人物が西郷ではないかと言われたが、法人類学者の鑑定では否定。医師小田原瑞苛が有力だが、確定にまで至っていない)、天皇の専属写真師、内田久一撮影の「大阪造幣寮前に集合した近衛兵と3人の指揮官らしき人物=その中央が西郷か?」、オーストリア人のスティルフリードによって盗撮された「横須賀造幣所を行幸中の明治天皇」などです。

 実際、写真がないと、参照できず、このように文字だけ並べても、お読みになっている方は何のことか分からないことでしょう。仕方がないので、ご興味のある方は本書を手に取って頂きたいと存じます。

 フットワークの軽い斎藤氏は、鹿児島県さつま町にある「宮之城島津家資料センター」を訪れ、加治将一著「西郷の貌」などで、西郷隆盛と同定している「一三人撮り」写真の史料根拠としていた「宮之城史」が、資料として存在しないことを同センター専門委員の川添俊行氏から引き出したことは、この本の手柄でしょう。

「スイカ西郷」に写る右端の男性が大久保利通と一致

 著者の斎藤氏は、法人類学の橋本教授とタッグを組んで、さまざまな「西郷写真」を鑑定し、結果的には西郷さんに「一致」と断定できる写真は見つかりませんでしたが、その過程で、思わぬ収穫がありました。

 「スイカ西郷」の写真で右端に立ち、西郷と思しき西瓜頭の男性の肩に手を掛けている男性が、大久保利通であるとほぼ確定できたことでした。有名な髭もじゃの大久保ではなく、まだ明治初期の若い頃の写真です。

 結局、西郷隆盛と断定できる写真は発見できませんでしたが、著者は「必ずどこかにあるはずだ」という確信を持っていることから、この続編が書かれるかもしれません。

 坂本龍馬も高杉晋作も桂小五郎=木戸孝允も大久保利通も幕末の志士と呼ばれた人たちのほとんどの写真が残っているというのに、維新最大の功労者である西郷隆盛の写真だけが残っていないのは何故か?ー 著者は、西郷隆盛が神格化されたり、反政府の象徴にされないように、明治の要人の誰かが故意に、隠したり、消したりしたのではないかという説を取っておりましたが、確かに、その通りなのでしょうね。

 「あるものをなかったことに」したのは現代の安倍政権下の官僚によって行われましたが(公文書破棄事件)、西郷写真の抹殺は、確かに明治維新史暗部のミステリーですね。

今は昔、元首相邸は大使館に近衛歩兵第3連隊はTBSに

平林寺前「たけ山」うどんランチ1000円

 竹内正浩著「『家系図』と『お屋敷』で読み解く歴代総理大臣 明治・大正篇」(実業之日本社)を読了しました。明治大正の歴代首相や有力者、元老らが住んでいたお屋敷などが、今、どうなっているのかも書かれていましたので、備忘録として列記しておきたいと存じます。(順不同で全て現在の東京都内の話に絞り、既に知っていることは省略=笑)

 ・麹町区永田町(千代田区永田町)西郷従道(隆盛実弟、陸軍中将、海軍大将)邸⇒(中略)国会議事堂

 ・早稲田・彦根井伊藩下屋敷⇒東京専門学校(早稲田大学キャンパス)

 ・築地・旗本戸川安宅(やすいえ)邸⇒大隈重信(肥前藩士、首相、侯爵)邸⇒(中略)料亭「新喜楽」(芥川・直木賞選考会場)

 ・築地・海軍大学校⇒(中略)築地市場(豊洲に移転しても健在)

 ・京橋区木挽町(中央区銀座8丁目)逓信大臣官邸⇒(中略)銀座中学校

 ・麻布区桜田町(港区元麻布)後藤新平(満鉄総裁、東京市長など歴任)邸⇒満洲国大使館⇒中華民国大使館⇒中華人民共和国大使館

 ・麹町区下二番町(千代田区二番町)加藤高明(尾張藩士族、帝大首席卒業、首相。岩崎弥太郎の長女と結婚し、「三菱の大番頭」の異名、伯爵)邸⇒ベルギー大使館

 ・神田一ツ橋(千代田区一ツ橋)文部省⇒(中略)毎日新聞社東京本社

 ・赤坂区一ツ木町(港区赤坂)近衛歩兵第3連隊⇒(中略)TBS、赤坂パークビル

 ・内山下町(千代田区内幸町)鹿鳴館⇒華族会館⇒(中略)日比谷Uー1ビル

【その他の逸話】

・戦前、霞が関といえば、海軍省があった海軍のことを指していた。陸軍は三宅坂と言ったように。戦後は、霞が関といえば中央官庁の別称となり、三宅坂は、本部があった社会党を指すことがあった。

・頭が大きかった桂太郎(長州藩士、陸軍次官、台湾総督、内大臣、首相、公爵)の脳は1600グラムもあった。一方、夏目漱石は1425グラム。

・三菱合資会社地所部(現三菱地所)が開発した駒込の六義園(旧・柳沢吉保別邸)近くの高級住宅地「大和郷(むら)」の初代名誉村長は若槻禮次郎(松江藩士族、帝大首席卒業、憲政会、首相、男爵)、村長は俵孫一(北海道庁長官などを歴任した内務官僚。浜口雄幸内閣商工大臣。政治評論家俵孝太郎の祖父)だった。

 映画「ミッドウェイ」は★★☆

 「インデペンデンス・デイ」などのスペクタクル映画で知られるローランド・エメリッヒ監督の「ミッドウェイ 日本の運命を変えた3日間」を観て来ました。

 エメリッヒ監督は1955年生まれのドイツ人ということですが、何でこの時期に、太平洋戦争の「勝負の分かれ目」となった「ミッドウェイ海戦」を作品化しようとしたのか、よく分かりませんでしたが、パンフレットによると、20年間もリサーチの時間をかけて、この戦争を映像化したかったようでした。「多くの命が失われる戦争には勝者はなく敗者しかいない。だからこそ二度と起きてはならない戦いを描いたこの映画を日米の海兵たちに捧げる内容にしたかった」

 とはいえ、米ハリウッド映画という勝者側から描いた作品にしか観えないのは、私が敗者側の日本人だからかもしれません。ウェス・トゥークの脚本、つまり、ストーリーが、お涙頂戴の「家族愛に基づくアメリカ人の愛国心」対傲慢な「領土拡張の野心に燃える日本の軍人」という構図になっているからです。

製作プロダクションとフィルム・プロダクションに米国だけでなく、中国、香港、カナダが入っているのも何となく違和感がありました。これらの国側から、脚本について何らかの「意見」を具申したと思われるからです。

 しかしながら、エメリッヒ監督が歴史を捻じ曲げたわけではなく、監督得意のスペクタクルは、まさに戦争に打ってつけ(?)で、戦闘シーンは非常にリアリティがあり、まさに戦場にいるような感覚にさせられました。

 真珠湾を奇襲攻撃した卑怯で悪いジャップをやっつけるのですから、若い米国人が観れば感動ものでしょう。よくぞ「再現」したものです。

 山本五十六・連合艦隊司令長官(戦艦大和)に豊川悦司、南雲忠一・第一航空艦隊司令官(空母赤城)に國村隼、山口多聞・第二航空戦隊司令官(空母飛龍)に浅野忠信を配し、それぞれ立派な演技でしたが、海兵隊員役の若い日系人か日本人のエキストラ俳優に全く緊張感が見られなかったのは残念でした。

 映画の最後の方では、この戦場で功績を挙げた戦士たちが、何とか十字章をもらったとか、山本五十六大将の乗った飛行機が撃墜されたとかいった、よくある「説明調」の場面が続きました。もちろん、命を懸けて大前線で戦った兵士の功績の賜物でしょうが、やはり、ミッドウェイ海戦の影の主役は、太平洋艦隊情報主任参謀のレイトン大佐(パトリック・ウイルソン)だったことがこの映画でよく分かりました。レイトンは駐在武官として日本に滞在し、日本語もできる日本通であり、この映画では、日中戦争が始まった1937年に、レイトンと山本五十六が会って話をする場面から始まることも印象的でした。

 山本五十六はハーバード大学留学、米駐在武官経験もある米国通で、アメリカの国力については知り過ぎていたはずだったのに…。

 結局、勝負の分かれ目は、日本の暗号を解析して読み取った米軍の情報収集能力にあったとも言えます。恐らく、大日本帝国軍は、ここまで敵に暗号情報が漏れていたことを知らなかったと思われます。いや、恐らくではありませんね。全く知らなかったのですね。そうでなければ、山本五十六大将の搭乗機が撃墜されるわけがありませんから。

 日本は国力や物資だけでなく、情報戦争で負けていたことが否が応でも見せつけられました。

伊藤博文は女性、山縣有朋は邸宅

 昨日のこのブログで、日産と初代総理大臣伊藤博文とのほんのちょっとした関係に触れましたが、これには種本がありました。それは竹内正浩著「『家系図』と『お屋敷』で読み解く歴代総理大臣 明治・大正篇」(実業之日本社、2017年6月1日初版)という本でした。

 昨年たまたま購入しておりましたが、読むことはなく、積読状態でしたが、昨日から読み始めたのでした。そして、そこに伊藤博文と日産とのほんの少しの関係が出てきてまたまたシンクロニシティを感じたわけです。

 この本は、文字通り、歴代総理大臣の家系と本宅・別荘などを探った異色の研究本です。

 伊藤博文は、かなりの漁色家として知られ、婚外子も多くいました。黒岩涙香が明治31年7月から9月にかけて「万朝報」紙上で、500人以上の顕官や資産家の「畜妾」を実名住所入りで赤裸々に暴露した「弊風一斑 畜妾の実例」という記事を連載しますが、その中で、伊藤博文については「大勲位侯爵伊藤博文の漁色談は敢て珍しからず世間に知られたる事実も亦甚だ多し」と書かれています。妾を囲うことが半ば当然と思われていた明治の世であってさえも、伊藤博文の漁色は飛び抜けていたというわけです。(伊藤博文が寵愛した一人に日本橋芳町(現人形町)の「小奴」という半玉がいたが、彼女は、後にオッペケペーの川上音二郎と一緒になり川上貞奴として知られる)

 かなりの女好きの伊藤博文と並び、明治国家を建設するのに奮闘した人物として山縣有朋が挙げられます。彼は、「黒幕」「悪漢」「軍閥の巨魁」などと、戦後は悪いイメージが拡散されましたが、山縣は意外にも伊藤とは違って女性関係は地味だったというのです。山縣が妻にしたのは、山口県湯玉の庄屋の娘友子で、三男四女をもうけますが、次女の松子を除いて全て夭折し家庭的には不幸でした。

 山縣のいわゆる妾として名前が挙がるのは、新橋の芸妓吉田貞子(実家の日本橋の商家が没落して芸者に)ただ一人だったと言われています。(吉田貞子の実姉たきも新橋の芸妓で、こちらは三井財閥の大番頭益田孝に見初められた)

 山縣有朋が女性の代わり(?)に情熱を注いだのが邸宅、別荘、庭園でした。庭師七代目小川治兵衛の作庭による京都の「無鄰菴」や小田原の「古希庵」といった別荘や東京・目白の本邸「椿山荘」のほか、栃木県の那須野ケ原に農場まで経営していました。

 椿山荘は、山縣有朋が傘寿(80歳)を機に藤田平太郎男爵に譲渡されます。藤田平太郎の父は、長州奇兵隊出身で維新後「政商」となった藤田伝三郎で、建設・土木から電力開発、金融、新聞(大阪毎日新聞)まで経営した「藤田財閥」の創業者でした。藤田財閥の一角だった藤田観光は現在も優良企業で、ワシントンホテル、箱根小涌園、ホテル椿山荘東京などを展開していることで知られています。

 ま、有体に言えば、山縣と藤田の長州閥つながりで椿山荘はホテルとして残ったことになります。

 

フォーが食べたい、そして日産の正体

 9月も半ばになろうとしているのに、まだ気温が30度を超え、猛暑のように暑い。地球温暖化は進む。去年もこんなに暑かったっけ? 残念ながら、もう忘れています。

 こう暑いと、急にヴェトナム料理が食べたくなってしまいました。ヴェトナムは、ハノイ、ハイフォン、ホーチミン、ビンズオン省など、仕事と遊びで何度か訪れています。私の世代は、どうもベトナム戦争のイメージだけが濃厚で、行く前は、大変な国だという印象ばかりでした。

 でも、着いてみると、そんなイメージは全くなく、戦争の爪痕が残っているのはホーチミンの「戦争証跡博物館」ぐらいで、私が訪れた5、6年前は、ベトナム人の平均年齢が27歳という若々しさ(年長者は戦争で亡くなっていたということか)でした。フランスの植民地だったのに、フランス語で話しかけても全く通じませんでした。

 ハノイもホーチミンも、都市は驚くほど近代的なビルが建ち並び、ゴミも少なく清潔でした。ただし、やたらとモータバイクだらけで道路を渡るのに苦労しました。また、取材で訪れた日系企業の工業団地なども衛生管理が行き届いていて、日本の工場よりきれいじゃないかと思ったぐらいでした。

 そこで、初めて触れたヴェトナム料理は、日本人にも合って、病みつきなりました。特に「フォー」という米粉のラーメンみたいな麺料理は、ラーメンと同じような色んな味付けがあり、上に載せる具までも、鳥から豚から牛肉など本当に千差万別で、毎日食べても飽きませんでした。

鶏肉入りフォー

 ということで、ランチは、フォーがまた食べたくなって、銀座のヴェトナム料理店に向かいました。今の愉しみといったら、食べることぐらいですからね。金に糸目は付けません(大袈裟な)。お互い、いつ死ぬか分かりませんから、子孫に美田を残さず、です。

 入った店は、マロニエビルの11階にあり、結構、高級店で、フォーのランチセット(春巻きとベトナムコーヒー付き)が1650円もしました。普段の私のランチの1.5日分です(笑)。

 さすがに高級店らしく、お客さんも裕福そうでした。私の隣に座った40歳前後の女性は、文字盤を見れば一目で分かる50万円ぐらいのフランク・ミュラーの高級腕時計をさり気なくしておりました。女性客の大半は、着ているものも、ジョン・スメドレーとかストロベリーフィールズとかいかにも高級そうでした。

 肝心の料理ですが、お値段なりに、とても美味しかった、とブログには書いておきます。

◇日産の正体

 さて、昨日のこのブログで、日産自動車へ1300億円もの政府保証融資がなされ、「何で日産だけが特別待遇になるのか?」といったような趣旨のことを書きました。

 そこで、調べてみたら、確かに日産は特別な会社だということが分かりました。日産は、皆さん御存知のように、戦前は日本産業株式会社と呼ばれていました。設立者は、満洲の「二キ三スケ」の一人、鮎川義介です。鮎川は、義弟の久原房之助が1905年に設立した久原鉱業や日立製作所など久原コンツェルンが、第一次世界大戦後の慢性不況により経営不振に陥ったため、1928年にその経営再建を託されたのでした。鮎川は手腕を発揮して多角経営に乗り出し、日産自動車もダットサンなどを吸収合併して手に入れたものでした。ダットサンのダットは国産第一号車「脱兎号」の出資者DAT(田、青山、竹内)の頭文字から取ったという話は、皆さんも御案内の通りです。

 こうして、日立製作所、日産自動車、日本水産、損害ジャパン、ENEOSなどの日産グループは現在、「春光懇話会」と呼ばれています。

 そして、この春光というのは、初代総理大臣伊藤博文の子息(婚外子)の伊藤文吉(元日本鉱業社長)の雅号でした。芝公園にあった文吉の私邸(現春光会館)にグループ企業の幹部が集まり、「春光会」を開いたのがその始まりでした。文吉の長男俊夫(伊藤博文の孫)も東大法学部を卒業後、日産自動車に勤務していたといいます。

 日産は、初代総理大臣伊藤博文と縁のあった会社だったんですね。ビスマルクは「鉄は国家なり」という名言を残しましたが、その伝でいけば、「日産は国家なり」というわけだったんですか? 日本政府の皆さん。

35年ぶりのランボー詩集

 最近、文学しています。残った夏休みの宿題を慌てて仕上げようとしている感じもします。

 文学ですから、儲かりません。はっきり言って、なくても困りません。といいますか、なくても生活に支障はきたしません。そういうものに、学生時代の一時期、命を懸けるほど熱中したことがありました。

 今でこそ堕落して、他人のこしらえたフィクションには目もくれずに、ビジネス書やブロックチェーンやMMT関連の書物にまで首を突っ込んで、不安な将来に備えていますが、かつては、経済に左右されない人生こそが美徳であると信じていた時期がありました。

 文学には社会を変革する力があると信じていたこともありました。

 それは新聞広告で目にした一冊の文庫本でした。

  中地義和編「対訳 ランボー詩集」(岩波文庫、2020年7月14日初版)です。何か見てはいけない広告を見てしまった感じでしたが、ずっと心の奥底に引っかかっていました。フランス象徴派詩人アルチュール・ランボー(1854~91)は、学生時代にかなりはまったことがありましたから尚更です。フランス語の原書は、文庫版では飽き足らず、高いプレイヤード版の全集も買いました。日本語は、小林秀雄訳、中原中也訳、鈴村和成訳などを経て、平井啓之ら共訳の「ランボー全集」(青土社)まで買い揃えました。それでも、難解過ぎて途中で挫折してしまいました。

 わざわざ、この本を買ったのは「対訳」としてフランス語の原文と和訳が並列していたからでした。

 しかし、正直に告白すると、途中で挫折したように、20代の頭ではさっぱり分かりませんでした。意味はどうにか取れても、作者の意図する本意や時代的背景などを熟知していなかったせいもありました。ランボーは15歳頃から詩作をはじめ、20歳で早くも筆を折りました。ということは作品の大半は、10代の少年が書いたものです。歴史に残る大天才を前にして、異国の軽輩が何か言うのも烏滸がましいのですが、極東に住む凡夫の若者はランボーの作品を理解することを諦めました。そして、邪道ながら、彼にまつわる逸話(ファンタン・ラトゥールの絵画など)を追いかけました。

 詩作をやめたランボーは、オランダ軍傭兵としてジャカルタに行ったり(後に脱走)、キプロスの採石場の現場監督をしたりしましたが、地元シャルルヴィル高等中学校時代の級友エルネスト・ドラエー(1853~1930)から文学への関心を問われると「あんなもの、もう考えもしないさ!」と答えたといいます(1879年)。

 その後、ランボーはイエメンのアデンにあるバルデー商会に雇われ、アビシニア(現エチオピア)のハラールの代理店に勤め、交易商人になります。主に象牙やコーヒーの取引やフランスからの工業製品や武器まで扱ったようです。しかし、アデンで膝の腫瘍が悪化します。風土病だったとも性病だったとも色んな説がありますが、フランスのマルセイユに戻り、コンセプション病院で右脚を切断し、1891年11月10日に同病院で死去します。まだ37歳という若さでした。

 若い頃のランボーと言えば、詩人ポール・ヴェルレーヌ(1844~96)との不適切な関係を始め、ふしだらで酔いどれの破天荒な私生活が有名ですが、詩作を断ち切り、武器商人になった晩年の孤独で悲惨な生活とその早すぎる死が、彼の書いた難解な作品(「地獄の一季節」など)と見事に、結果的に「言行一致」してしまったことが、何百年経っても彼に惹き付けられる魅力になっていると言えるでしょう。

比類なき超天才児とその後の「没落人生」(本人は認めないでしょうが)とのギャップがあまりにも大き過ぎるので、謎が謎を呼ぶことになったのです。

プレイヤード版の「ランボー全集」。40年近い昔に買った本だが、当時7760円もした

 ということで、35年ぶりに改めて「ランボー詩集」の文庫本(1122円)を読み始めています。

 原文と対訳を熟読すると、何と1篇の詩を読むのに2~3日も掛かります。本当です。読書は主に通勤電車の中でしているので、48時間~72時間掛かるという意味ではありません。電車の中で、1篇の詩作品を読むと1日で読み切れず、2~3日掛かるという意味です。

 15~16歳の時に書かれた初期韻文詩は、見事な12音綴のアレクサンドランの定型詩になっていて、しっかり脚韻が踏まれています。アレクサンドランは、日本の短歌や俳句と同じようなものかもしれません。脚韻は、aabbだったり、 ababだったり色々ですが、韻を踏むために、主語と述語が倒置されたり、名詞と形容詞が入れ替わったり、形式を優先するために、意味は後回しで、かなりこじつけになったりして、外国人にとって理解するのに難儀することがあります。

 何と言ってもフランス語の語彙力には全く歯が立ちません。相手は15歳の少年でも、記憶力抜群の比類なき超天才ですから、異邦人の凡夫が勝てるわけがありません。

 ただ、年を取って、人生経験も豊富になり、既に世界各地を旅行し、分別も付き、大きな病気も体験し、他人からの裏切りや嘲笑も味わい、辛酸を舐めてきたお蔭で、人生経験の少ない少年には負けませんね(笑)。それに、自分で言うのも何なんですが、不断の努力による膨大な読書量で、ランボーには負けない教養なるものも身に着きましたから、怖れることはありません。

 そんな中で興味深かったことは、15歳の少年だというのに世の中の動きや時事問題にかなり関心があって、当時、普仏戦争(1870年)の最中で、スダンでプロシャ軍に降伏したナポレオン三世を揶揄、批判する詩まで書いていたことです。(15歳の自分はビリヤード場で遊び惚けていましたからえらい違いです。)この詩は、私も学生の頃に読んでいたはずですが、すっかり忘れています(苦笑)。当時のフランスは、世の中の動きや情報を知る手段として新聞ぐらいしかなかったでしょうが、15歳のランボーは「皇帝の憤激」という詩の中で、ナポレオン三世のことを「遊蕩に明け暮れた20年に酔いしれている」といった反帝政派のキャンペーンを文字ったり、「彼(ナポレオン三世)は、眼鏡をかけた協力者を思い出している」と書き、共和派から帝政派に鞍替えして首相になったエミール・オリビエのことを示唆したりしています。

 ランボーの10代は、普仏戦争とパリ・コミューンが起きた歴史的な激動期でした。当時のフランス人たちは、「遊蕩に明け暮れた」(遊蕩orgieには乱交パーティーという意味もある)だけでナポレオン三世のことを思い浮かび、「眼鏡をかけた協力者」だけで、オリビエ首相のことが何ら説明もなく分かったことでしょう。これでは、詩人というより、ジャーナリストですね。(そう言えば、19世紀のバルザックやフロベールらの小説は、例えば二月革命など当時の時代背景を忠実に再現したもので、フィクションというより、ジャーナリスティックでした)

学生時代の畏友と横浜でランボー詩集の「読書会」を開いて勉強していた20代後半の頃。1ページ読むのに1週間掛かった

 私が20代の頃に読んでさっぱり分からなかったことは、今ではネットのお蔭で、簡単に分かります。オリビエ首相だって検索すれは略歴とともに、眼鏡をかけた彼自身の肖像写真まで出てきますからね。今の若い人は羨ましい。

 文学していると、コロナ禍の現代を忘れて19世紀に逃避行できます。何と言っても、ヴェルレーヌはともかく(二人の直接の交際はわずか4年だったとは!ランボー17歳から21歳まで。ランボーの死後、無名だった彼を蘇らせたのはヴェルレーヌの尽力によるものだった)、学生時代に親しんだジョルジュ・イザンバール(ランボーの高等中学校の教師)とかポール・デメニー(イザンバールの友人で詩人)やジェルマン・ヌーヴォー(「イルミナシオン」の清書も手伝った詩人)らの名前がこの本にも出てきて、あまりにもの懐かしさに心が動揺し、涙が出てくるほどでした。

 恐らく分かってもらえないでしょうけど、私は、彼らのことを現代人より近しく感じてしまうのです。

 20代の私は純真無垢で、純粋芸術である(と思い込んでいた)文学に憧れを抱いていたことも思い出しました。

 でも、文学の実体は、なくても支障がない絵空事です。一人の人生を変えるほどの文学に出合えた人には「おめでとう御座います」と言うしかありません。

 文学だけでなく、生活も哲学も宗教も経済学も政治学も無意味かもしれません。パスカルがいみじくも言ったように、結局、「人生は大いなる暇つぶし」だと最近とみに感じています。

「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」は★★★★★

 久しぶりに映画館で映画を観て来ました。

 調べてみたら、2月11日に東京・恵比寿の日仏会館で観たアルノー・デプレシャン監督作品「あの頃エッフェル塔の下で」以来でしたが、封切映画なら2月8日に有楽町で観た第1次大戦のAIカラー映像化した「彼らは生きていた」以来で、いずれにせよ半年ぶりでした。

 小生、皆さまご案内の通り映画好きですが、こんなにブランクが開いたのは初めてぐらいです。コロナ禍の影響で、映画館の席は間隔が開けられ普段の半分しか入れない状況でした。

 観たのは「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」(ポーランドのアグニェシカ・ホランド監督作品)です。先週、たまたま新聞の広告でその存在を知り、私の”興味津々”範疇の「スパイもの」だというので飛びついたわけです。子どもの頃から、「007」シリーズ(特にショーン・コネリー)を観て育ちましたからね。

 でも、この作品は全くのフィクションではなく、主人公ガレス・ジョーンズ(1905~35)は英国ウエールズ出身の実在の人物で、スターリン政権のソ連に潜り込んでその実体をスクープしたフリーのジャーナリストでした。彼は、ロイド・ジョージ首相の外交顧問も務めたことがあり、日本にも取材で6週間滞在したことがあるらしく、最期は満洲でソ連の秘密警察の手によって暗殺されたようでした。30歳の誕生日を迎える1日前のことでした。ジョーンズ記者が、潜入したウクライナ地方の凄惨な飢餓状況を初めて西側に発表したことから、ソ連側から「要注意人物」として恨みを買っていたためでした。

 この作品には、「動物農場」などでスターリンの恐怖政治を痛烈に批判した、私も大好きな作家のジョージ・オーウェル(1903~50)が準主役として登場する一方、スターリニズムを称賛するニューヨーク・タイムズのモスクワ支局長ウォルター・デュランティ(1884~1957)が、ジョーンズのスクープはデマだと否定したりして「悪役」として活躍します。何しろ、デュランテイは1922年から36年まで14年間も支局長としてモスクワに滞在し、その間にピュリッツァー賞も受賞した大物ジャーナリストでした。

 そのデュランテイは、モスクワから一歩も出ず、地方の飢餓や窮乏を見て見ぬふりをし、夜ごと裸になって変な麻薬パーティーを開いたりします。麻薬パーティーが事実だったかどうか知りませんが、ホランド監督の彼に対する痛烈な皮肉と批判の現れでしょう。フェイクニュースが跋扈する現代と状況はほとんど変わっていないことを再認識させられます。

 若きジョーンズ記者は無鉄砲で、ソ連の官憲から逃れて、凍てつく吹雪が荒む凍土のウクライナを彷徨います。そこでは、あちらこちらで餓死した遺体が無造作に転がり、…いやあ、これ以上書けませんが、大変衝撃的な場面も出てきます。

 今ではすっかり忘れられたジョーンズ記者を掘り起こしたホランド監督は、ポーランド出身ということもあり、征服されたソ連の無情と残忍さは骨身に染みるように親から伝えられたことでしょう。1930年代の「ウクライナ大飢饉」(実に300万人の人が餓死したと言われる)は史実として知っておりましたが、この作品で、スターリン粛清主義の恐ろしさをまざまざと見せつけられました。

何とも不可解な「スパイ関三次郎事件 戦後最北端謀略戦」

Photo Copyright par Duc de Matsuoqua

 足利と鎌倉の旅行中、電車の中でずっと読んでいたのが、佐藤哲朗著「スパイ関三次郎事件 戦後最北端謀略戦」(河出書房新社、2020年4月30日初版)でした。

 この本は、2カ月前の6月13日に京都にお住まいの京洛先生からメールを頂き、その存在を知りましたが、最近になってようやく入手できたわけです。実は、「スパイ関三次郎事件」と言っても、小生にとっては初耳で全く知らず、著者もどういう人か分からず、メールを頂いただけでは、他の書物を差し置いて、万難を排してでもすぐさま読みたいという興味が湧かなかったのでした。ーというのが正直な気持ちでした。

 しかし、読み始めてみて、いきなり脳天をどつかれたような衝撃で、推理小説やサスペンスを読むよりも断然面白い。というより、読んでも読んでも、謎が深まり、何が真実なのかさっぱり分からず迷路にはまったまんま、読了してしまったのです。

 事件が起きたのは、戦後まもない昭和28年(1953年)7月29日。関三次郎(当時51歳)という北海道余市生まれで利尻島育ち。漁師をしていましたが漁船の転覆事故で行方不明となり、どうやら戦前は樺太(現サハリン)で暮らしていて戦後のどさくさで帰国せず、無国籍だった男が、北海道の宗谷岬から南へ約10キロ離れた海岸にずぶぬれになって上陸し、濡れた多額の紙幣を焚火で乾かしているところを地元民に見つかり、逮捕されたのが始まりです。

 当時は、米ソ冷戦の真っ只中。関は、ソ連のスパイなのか、それとも占領中の米軍のCIC(アメリカ合衆国陸軍防諜部隊)の工作員なのかー? 二転三転するどころか、四転も五転もして、結局、最後まで真相が分からない…。

 著者の佐藤哲朗氏は、元毎日新聞編集委員。社会部で公安や検察関係の取材が長いベテラン記者でした。1939年生まれといいますから今年で81歳。奇しくも樺太豊原(現ユジノサハリンスク)生まれの北海道育ち。中学生の時に、このスパイ関三次郎の公判を「社会科見学」(授業)の一環として傍聴した経験もある人でした。

 1972年の正月、当時、札幌で毎日新聞の司法担当記者をしていた筆者は、札幌地検の塚谷悟検事正らも出席する記者クラブとの新年会に参加します。塚谷検事正は、旭川地検次席検事時代の一番の思い出として、関三次郎という国際スパイ事件を取り上げ、「何せ、この事件には証拠というものが何一つなかった。頼りになるのは本人の供述だけ。しかも、それが法廷で二転三転。あまりの矛盾の多さに弁護側から『被告は少しおかしい』と精神鑑定請求まで出される始末だった。紆余曲折したが、関三次郎とソ連人船長の被告二人に有罪判決が出て一見落着した」と振り返ります。

 他社の記者たちは、そのまま聞き過ごしますが、佐藤記者だけは、裁判を傍聴した経験もあるこのスパイ関三次郎事件にのめり込み、翌日から社の資料室に入り浸ってこの事件を調べ始めます。

 1972年ということは今から48年も昔のことです。この本の「はじめに」よると、著者の佐藤記者が、それ以降に取材した関係者は数百人を超え、当然、関三次郎本人には延べ6回、長時間のインタビューをし、取材走行距離は延べ4万キロに及んだといいます。

 今から67年前の1953年に起きたこの事件は、当時はセンセーショナルな事件として、毎日のように大々的に報道されましたが、今ではこの事件のことを知る人は私を含めてほとんどいないのではないでしょうか。

◇問題三法が執筆継続の動機

 80歳を超えた老記者にこのような本を執筆して出版にまで漕ぎつけるような原動力になったのは、安倍政権の「数の力」によって、「特定機密保護法」(2013年12月、いわゆる「スパイ防止法」)、「安全保障関連法」(2014年7月、集団的自衛権の行使容認)、「共謀罪法」(2017年6月)の問題三法の成立があったからだ、と著者は「終章」で書きます。「スパイ防止法には、国家の『機密情報の漏洩防止』に狙いがあり、集団的自衛権行使には『戦争のできる国家体制』の確立、そして『共謀罪』法には『国民の言論封じ込め』と相互に関連があり、いずれも体制側にとって都合のいい法律であることは論を俟たない」と。

 そのために、67年も昔に起きた過去の事件を通して、現代の状況を見つめ直してほしいという著者の願望があったと思われます。

 とにかく、この本には、色々と問題を抱えた関三次郎の親族、知人、友人から司法・海上保安庁関係者、CIC関係者、ソ連巡回艇「ラズエズノイ号」関係者、それに、暴力団関係者、鹿地亘失踪事件関係者、公安関係者、元軍人、通訳らさまざまな人たちが登場し、何らかの関三次郎とのつながりや関連性があったことが分かってきます。

 数百人に及ぶ取材の末、最後に著者は、関三次郎とは、ソ連KGBと米CICのダブルエージェントだったのではないか、と推測しますが、関本人は最後までのらりくらりと記者の質問をはぐらかし、検事正だった塚谷悟も、この事件は「国家機密」だったことから、「公務員の守秘義務」を楯に最後まで真相を語ることなく亡くなったといいます。

 推理小説のように最後は謎解きで終わって爽快感があるような内容ではありませんが、半世紀にわたって真相を追い求めた著者の情熱と信念が伝わってくる良書、意欲作、歴史に残る好著だと言えます。

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