中江丑吉著「中国古代政治思想」は難解でした

 「日本も近く大戦争を惹起し、そして結局は満州はおろか、台湾、朝鮮までもモギ取られる日が必ずくる。日本は有史以来の艱難の底に沈むだろう。こっちはそのときこそ筆をもって国に報いるつもりだ。だが、ドイツも日本もけっして全く無だというのではない。ともに『アンティ・テーゼ』であり『ニヒト・ザイン』としての役割を持っているんだ。だから、戦後の新しい秩序も従来のデモクラシイそのままではありえない。必ず アウフヘーベン(止揚)された新しいデモクラシイが現れるはずだ。……」

  これは昭和16年(1941年)8月15日、中江丑吉が、弟子筋に当たる当時第一高等学校の学生だった阪谷芳直(1920~2001 、日銀、アジア開銀等に勤務する傍ら、中江丑吉の評伝を刊行)に対して、北京滞在最後の日に語ったとされる箴言です。その年の12月8日が、真珠湾攻撃の日ですから、まだ太平洋戦争は始まっていません。(1937年から泥沼の日中戦争は始まってますが) ということは、まさに、予言が当たってしまったわけです。

 今ではすっかり忘れられた中江丑吉(なかえ・うしきち、1889~1942)は市井の中国古代学研究家です。戦時中に北京に30年間も滞在して、中国の古典を始め、カント、ヘーゲル、マルクスなどの哲学を原書ドイツ語で精読し、世界史的視野で、日中戦争の帰趨などを論考した人でした。

 中江丑吉は、ルソーの翻訳などで知られる明治の思想家中江兆民の長男として生まれました。1913年に東京帝大法科大学政治学科を卒業後の翌年、袁世凱の憲法制定顧問となった法学者有賀長雄 (1860~1921)の助手として北京へ渡ります。1919年の五・四運動の動乱の最中、 面識のある中国高官の曹汝霖、章宗祥 (日本滞在時に中江兆民に世話になった)を救ったことから、逆に彼らの支援を受けて北京に30年も滞在し、独学で中国古代学研究に打ち込みます。

1941年、肺結核のため帰国し、福岡の九州帝国大学病院で翌42年 8 月死去。享年52。

「中国古代政治思想」(岩波書店)

  中江丑吉は、死を前にして「あれこれ万感交錯せるも結局何にもならず。無名より無名に没入する外なし」といったメモを残します。没後の1950年になって、やっと論考は「中国古代政治思想」(岩波書店)としてまとめられ、出版されます。

 となると、この 中江丑吉の遺作「中国古代政治思想」 を読まなければなりませんね。

 読んでみました。しかし、。。。。浅学菲才な身としては難解過ぎて、理解できませんでした。情けないですが、降参です。自らの恥を晒しますが、読解力に足るに十分な教養を持ち合わせていませんでした。人工知能(AI)の大家・新井紀子先生に怒られますね。

  自分の菲才を棚に上げて言及するのも猛々しいのですが、明治生まれの教養人の学識の深さに圧倒されました。逆に、こういう人だからこそ、未来を予知できたのでしょう。こういう日本人は将来も現れるのでしょうか?

 「我も」と思う方は、是非ともこの本を読んでみてください。

「創価学会 秘史」を読んで

 大分にお住まいの野依先生の強いお薦めで、高橋篤史著「創価学会 秘史」(講談社、2018年2月27日初版)を読了しました。秘史ですからね、凄い本で、著者はかなり詳細に取材、情報収集、分析されており、知らないことばかりで読み応えがありました。

 著者の高橋氏は、現在の創価学会でさえ、そして信者に対してでさえ公開していない教団の資料である創刊当時の「聖教新聞」と「大白蓮華」の縮刷版を何と、かつて創価学会が「邪宗」と断定し、徹底的な攻撃を仕掛けた宗教団体、立正佼成会の附属図書館から発見し(12ページ)、長い間秘蔵されていた学会の戦前の活動が詳細に分かる1930年代半ばに出された最初の機関紙「新教」(後に「教育改造」と改題)と太平洋戦争突入前後に刊行された「価値創造」のコピーなどを独自のルートで辛うじて入手して、この本を書き上げたといいます。

 と、ここまで書いたところで、この本を薦めてくださった野依先生から電話があり、「面白かったですね」と感想を述べたところ、野依先生は「あまりブログに書かない方がいいですよ」と忠告されてしまいました。

 残念ですね(苦笑)。ご興味のある方はお読みください。でも、これで書き終わってしまうと、ブーイングが聞こえてきそうなので、ちょとメモ書きしておきます。

 ・創価学会の前身である「創価教育学会」を創設し、初代会長となった牧口常三郎(幼名・渡辺長七)は、明治4年(1871年)、現在の新潟県柏崎市生まれで、北海道師範学校附属小の訓導や東京・白金小校長などを歴任した。昭和5年(1930年)11月18日、「創価教育学体系」を上梓。1944年7月、治安維持法違反と不敬罪の容疑で逮捕され、同年11月18日、巣鴨拘置所で獄死。

・二代目会長の戸田城聖は明治33年(1900年)、現在の石川県加賀市生まれで牧口とは29歳違い、親子ほど年が離れていた。本業は、受験補修塾・時習学館(東京府大崎町、現東京都品川区)や出版社、金融業などを営む実業家だった。

・昭和8年(1933年)、長野県で「赤化」した小学校教員(世界恐慌の影響で就職難から京都帝大卒もいた)が大量に検挙される「二・四事件」が発生。創価教育会は、出獄後の転向した彼らの受け入れ先となった。思想犯を取り締まる内務省警保局が協力したフシがあった。しかし、その後、ほとんどが脱会。内務省もその後一転して、学会を弾圧することになる。(50ページ~)

・創価教育の思想は満洲にも及んだ。その拠点支部が国士舘が母体となる満洲鏡泊学園だった(学園はその後、武装勢力による急襲で悲劇的な末路を辿る)。国士舘は、福岡県出身で早稲田大学専門部在学中だった柴田徳次郎が大正2年(1913年)に結成した社会教化団体、大民団が母体となり、同郷の玄洋社の頭目、頭山満を顧問に迎えて17年に私塾国士舘を創立、その後、渋沢栄一らの支援も得て、専門学校として認可された。(131ページ~)

・人気作家だった直木三十五は1932年1月8日の読売新聞紙上で、突然、「ファシズム宣言」なる文章を発表。「左翼に対し、ここに闘争を開始する。…12月31日までは、ファシストだ。矢でも、金でも、持って来い」(145ページ)

・1952年4月27日、狸祭り事件が起きる。(248ページ~)

深谷城~渋沢栄一記念館への旅

 先ごろ、鹿島茂著「渋沢栄一」全2巻の大作を読んだ影響で、渋沢栄一の生まれ故郷を見たくなり、一躍「1万円札採用」で再度ブームになっている埼玉県深谷市にまで足を延ばしに行って来ました。

 この日、JR東海道線で人身事故があり、高崎線にも影響があり、当初の予定よりも深谷駅に着くのが遅れました。午前11時過ぎでした。

 観光案内所で聞いたところ、「渋沢栄一記念館」へのバスは、10時55分に行ってしまったばかりで、次のバスは2時間後の12時50分だというのです。「えー、2時間に1本しか出ていないんですか?」と聞いたところ、「(運転手が)お昼休みなんで、すみません」と謝られてしまいました。

 「いえいえ、謝られてもあなたのせいではありませんから…」と、こちらが却って恐縮してしまいました。

 あと2時間もあるので、駅近くにある深谷城址に先に行くことにしました。

 その前に駅周辺を散策。深谷駅の駅舎は、このように東京駅舎のように立派なレンガ造りです。東京駅と同じ辰野金吾博士の設計なのでしょうか。いや、違いました。今は簡単に調べられます。JR東日本建築設計事務所が東京駅をモチーフにして設計し、1996年7月に完成された、とありました。

 渋沢栄一は、日本初のレンガ工場をつくった人ですから、レンガ造りは、それにちなんだことでしょう。

 上写真にバス2台止まってますが、後方の小さいマイクロバスが、渋沢栄一記念館にまで行く「くるりん」ちゃんです。12人乗りです。深谷駅から記念館まで約30分。途中のバス停留所は市役所やスーパーやコンビニなどで、まさに市民の足になってます。

一日乗車券が200円。一日何回でも乗れるそうですが、私は往復の2回で十分でした(笑)。

 深谷駅北口前にある渋沢栄一像です。銅像は他に市内に何箇所もあります。

 まさに郷土が生んだ偉人です。

 駅から歩いて約10数分。城跡らしき風格が見えてきました。

 深谷城址公園です。

 深谷城は中世の平城ですから、このような石垣と塀だったわけではありません。

 深谷城は、戦国時代の深谷上杉氏の居城でした。

 深谷上杉氏は、関東管領の山内上杉憲顕が14世紀後半に六男憲英をこの地に派遣したことに始まり、約230年間、深谷を拠点とした氏族です。当初、初代憲英から四代憲信までは国済寺に庁鼻和(こばなわ)城 を構えておりましたが、五代房憲が深谷城を築き、その後九代氏憲までここを居城としました。

 今はこうして公園になっていて、市民の憩いの場になってます。

 深谷城の本丸は、今は深谷小学校の敷地内にあります。

 物騒な世の中になってしまい、昔なら簡単に部外者でも小学校の敷地に入れましたが、今は門扉が閉まり、不可能です。

 諦めかけたら、敷地の垣根の隙間から、本丸跡の石碑が見えました。少し望遠にして写真に収めることができました。

 ちなみに深谷城は、中世の城ですから渋沢栄一の時代は既に廃城となっており、江戸時代は岡部藩です。でも、この岡部城も維新後、廃城となり、今は跡形もないようです。しかも、天守はなく、陣屋だったようなので、今回はパスしました。

 バス発車時刻までまだ時間があるので、駅近くの老舗蕎麦「立花」で、きのこせいろ(700円)を食しました。美味い。名物深谷ネギもしっかり入ってました。女将さんがとても感じがよく、「またいらしてくださいね」と言われ、その気になってしまいました。

「くるりん」ちゃんに乗って、駅から30分。ついに渋沢栄一記念館に到着しました。建物はかなり立派です。

 有難いことに入場無料でした。(館内は撮影禁止でした)

 展示品に関しては、正直、東京・王子飛鳥山にある「渋沢史料館」の方が豊富で、充実していた感じでした。

 でも、この中で、渋沢栄一自身が書いた「孝経」( 中国の経書の一つ。曽子の門人が孔子の言動を記す )の写しが見事な達筆で、「字は体を表わす」と言いますか、渋沢栄一の律儀な性格がものの見事に表れている感じでした。

 また、渋沢栄一が幕末に、徳川昭武の渡仏団の一員としてフランスに滞在した際、その世話係が銀行家のブリュリ・エラールで、渋沢は彼の「サン・シモン主義」に大変影響受けたことが例の鹿島氏の著書に何度も出てきましたが、本には顔写真がありませんでした。

 この記念館では、ブリュリ・エラールの肖像写真が展示されていて初めて拝見することができました。銀行員だというので、もう少しヤワな感じかと思っていたら、髭もじゃで、かなり精悍な顔つきでした。

 記念館から渋沢栄一生誕の地、旧渋沢邸「中の家(なかんち)」に向かいました。

 清水川沿いは青淵公園になっており、上の写真のように「渋沢栄一の言葉」が立てかけられています。

 着きました。本当は、青淵公園から回ると「裏口」に到着したのですが、表玄関にまで回ってきました。平成29年には天皇皇后両陛下(当時)がこの地を訪れ、邸内では写真パネルが飾られてました。

 農家とはとても思えない。武士のような立派な門構えです。

 門をくぐると、このように、渋沢栄一像が出迎えてくれます。

  敷地は1000坪と広大です。蔵が四つもありました。ここに来て、渋沢家は豪農だったことを肌身で感じました。

 「中の家」を正面から見たところです。明治に再建された家ですが、江戸時代はこの2階で養蚕と藍玉づくりが行われていたそうです。

 いずれにせよ、大変失礼ながら、こんな辺鄙な不便なところから、「日本の資本主義の父」となる偉人を輩出したとは信じられませんでした。

 また、失礼ながら、今でも買い物にも不自由なところです。若き渋沢栄一の学問の師であった従兄の尾高惇忠(後に官営富岡製糸場の初代工場長)の家までここから歩くと30分ぐらい掛かります。

 昔の人は本当に偉かった。

渋沢栄一と土方歳三と彰義隊と日経と一橋大学と…

 鹿島茂著「渋沢栄一Ⅱ 論語篇」をやっと読了しました。Ⅰの「算盤篇」と合わせて、原稿用紙1700枚。長い。2巻通読するのに9日間かかりました。

 17年間にわたって雑誌に長期連載されたものを単行本にまとめたものらしいので、内容や引用に重複する部分が結構あり、もう少し短くできたのではないかと思いましたが、それだけ、渋沢栄一という人間が超人で巨人だった表れではないかとも思いました。

「Ⅱ 論語篇」は、明治になって渋沢が500以上の会社を設立したり、協力したりする奮闘記です。同時に、日清・日露戦争、第1次世界大戦という激動期でしたから、欧米との軋轢を解消するために、財界を中心に親善視察団を派遣したり、国内では教育施設の創立に尽力したりして、渋沢を通して、日本の近現代史が語られています。

 現在の米中貿易戦争にしろ、日米貿易摩擦にしろ、覇権争いという意味で世界は、渋沢の時代とほとんど変わっていないことが分かります。

 渋沢栄一(1840~1931、享年91)は、江戸時代の天保生まれで、幕末、明治、大正、昭和と生き抜きましたから、同時代の証言者にもなっています。幕末に一橋慶喜に仕えたため、京都では新撰組の近藤勇や土方歳三らと実際に会っていて、彼らの人物像を四男秀雄にも語っている辺りは非常に面白かったです。(渋沢が、薩摩に内通した幕府御書院番士大沢源次郎を捕縛した際、土方から「とかく理論の立つ人は勇気がなく、勇気がある人は理論を無視しがちだか、君は若いのに両方いける」と褒められた逸話を語っています)

 渋沢栄一が徳川昭武の随行団の一員としてパリに滞在中、一緒に慶喜に仕官した栄一の従兄である渋沢喜作は日本に残りますが、新参としては異例の出世を遂げて、慶喜の奥祐筆に抜擢されます。鳥羽伏見の戦いでは、軍目付役として出陣し、慶喜が江戸に逃げ帰ってからは、江戸で再起を誓い、彰義隊を結成するのです。最後まで上野で官軍に抵抗した彰義隊をつくったのが、渋沢栄一の従兄だったとは!しかし、喜作は内部分裂の結果、彰義隊を飛び出して、新たに振武軍を結成します。それが、官軍に知られて追撃され、武州田無の本拠地から飯能に逃れ、結局、喜作は、榎本武揚らとともに箱館にまで転戦するのです。箱館は土方歳三が戦死した地でしたが、喜作は生還し、明治には実業家になりますが、山っ気のある人で、投機に失敗して、栄一がかなり尻拭いしたらしいですね。

 著者は「牛乳・リボンから帝国劇場・東京會舘に至るまで」と書いてますが、渋沢栄一は生涯に500以上の会社を立ち上げています。意外と知られていないのがマスコミで、今の日本経済新聞(中外物価新報)も毎日新聞(東京日日新聞)もNHK(日本放送協会)も、共同通信・時事通信(国際通信)も、渋沢が設立したり、協力したり、資本参加したりしているのです。

 教育面では、今の一橋大学(東京商法講習所)、二松学舎大学、国学院大学(皇典講究所)、東京女学館大学、日本女子大学、東京経済大学(大倉商業学校)などの設立に関わっています。

 同書では多くの参考文献が登場してましたが、この中で、最後の将軍徳川慶喜が晩年になってやっと回顧談に応じた歴史的資料でもある「昔夢会筆記」(平凡社の東洋文庫)や、渋沢栄一の多くの愛人関係を暴いて「萬朝報」に連載されていたものをまとめた「弊風一斑 畜妾の実例」(社会思想社の現代教養文庫)辺りは読んでみたいと思いました。

 

警察予備隊一期生と日米貿易摩擦と津田左右吉

 昨日は、東京・早稲田大学で開催された第27回諜報研究会の講演会に参加してきました。例によって、今回も盛りだくさんの内容で、大変勉強になりましたが、ある理由で、その内容について詳細に触れることは避けることにします。

 私が近現代史について本格的に勉強し始めたのは、帯広から東京に戻った13年前の2006年からですが、最初のきっかけは、ゾルゲ事件を中心に研究している日露歴史研究センターの勉強会に参加してからでした。勉強会で聞いたり、同会が主催する講演会などについて、既に公開されたことであり、ネット検索すれば出てくる話なので、その都度、ブログに書いておりましたが、この勉強会に誘ってくれた方から、「君が勝手にブログに書くのは迷惑だ。怪文書だ。いくら削除したとしてもマダガスカル辺りのサーバーに保存されているから復活できる」と大胆に批判されたため、その勉強会を辞めざるを得なくなりました。

 彼の怨念が祟ったのか、私は病を得て、諸般の事情で、それらの記事は消滅してしまったので、彼の喜ぶ姿が目に浮かびます。でも、記事がマダガスカルのサーバーにあると主張するなら、そこから復活してもらいたいものです。いや、そんな些末なことはどうでもいいのです(苦笑)。

 ゾルゲ事件でした。ゾルゲや尾崎秀実らが逮捕され、その後処刑された理由は、「治安維持法」「国防保安法」「軍機保護法」などに違反したからでした。戦前の法律でしたが、昨日の諜報研究会の発表内容について、もし、私がこのブログで詳細に書けば、間違いなく、それらの法律に違反すると確信したのでした。書くと逮捕されるから怖い、というわけではなく、何となく利敵行為になるのではないかと嫌な気分になってしまったのです。

 話は飛びますが、今、霞が関官僚様らの人事異動や叙位叙勲などの人事情報を全国の新聞社などに配信する仕事をしております。霞が関官僚となると、当然、防衛省も入ります。その際、北部方面だの、東部方面だの全国の部署の所在地の住所を確認しなければなりません。今はネット社会ですから、それはネットでも検索できます。意外にも防衛省は、ネットでかなり情報公開していて、驚くべきことに、武器弾薬貯蔵所の在り処というか、その住所までご丁寧に公開しているのです。敵が見たら欣喜雀躍です。

 これらは、戦前だったら、間違いなく軍機保護法違反でしょう。戦前に、北大生だった宮沢弘幸さんとレーン夫妻が軍機保護法違反で逮捕されましたが、宮沢さんは、誰でも読める新聞に書いてあったことで、ほとんどの人が既成事実として熟知していたことを英語教師のレーン先生に雑談で話しただけのことでしたから、機密でも何でもないことです。それでも有罪となり収監されました。(宮沢さんは、拷問と収監がたたって戦後間もなく死去)

◇警察予備隊第一期生

 諜報研究会に戻ります。最初の講演者は、朝鮮戦争の最中に、日本の再軍備化のためにGHQの命令で創設された警察予備隊(後の自衛隊)の第一期生だった佐藤守男氏でした。今年87歳です。主に、第一線でソ連・ロシアの情報収集・翻訳・分析に従事していた方でしたが、最初に書いた通り、内容については触れません。ご興味のある方は、佐藤氏は、退官後、北大で博士号まで取得し、「情報戦争の教訓」(芙蓉書房出版)などを出版されているのでそれをお読みください。

 佐藤氏の講演中、その本が回覧されて来ました。私が、後方の次の人に回そうとしたら、その白髪の老人は、急に怒り出して、「他の奴に回せ」と言わんばかりに、傲慢にも人さし指で他の人を指すので、仕方なく、右後方の人に回しましたが、その間、どういうわけか、暴走老人はずっと私を睨みつけてくるのです。頭がおかしい裕福で暇な似非インテリかもしれませんが、その暴走老人は講演会が終わった後の懇親会にも出るようだったので、私は懇親会はパスすることにしました。いずれにせよ、もうこの会に出たくなくなるほど非常に不愉快でした。

 続く講演者は、元NEC技術部長の杉山尚志氏による「日米半導体摩擦と超LSI共同研究所物語」でした。日本は1980年代まで半導体分野で世界のトップでしたが、90年代に日米貿易摩擦となり、米国によるスーパー301条(関税25%)発令と外国製半導体輸入を20%にしろという米国からの要求に応え(結局35%)、それゆえ没落して今は見る影もなくなったことを明らかにしておりました。「日本は安全保障を米国に依存しているため、米国の命令を受け入れざるを得なかった。これに対して、今の米中貿易戦争は、中国が独自の安保体制を持っているから、一方的な摩擦ではなく、貿易戦争にまで発展した」という同氏の分析には納得しました。

 最後は早大准教授の塩野加織氏による「本文生成プロセスから見た占領期検閲ー岩波新書の検閲事例を中心に」でした。タイトルがあまりにも大学の紀要論文風で、一般人には分かりにくいですが(失礼)、一番面白かったでした。

 塩野氏は、GHQ占領下の1945年9月から49年10月までの検閲制度の対象、組織、方法、処分などを詳細に取り上げ、GHQのG2(参謀第2部)傘下の情報を収集分析して直接検閲を担当するCIS(民間諜報局)だけでなく、日本人に民主主義を浸透させる目的で宣撫、洗脳するCIE(民間情報教育局)などとも連携していたことを明らかにしておりました。なるほどなあ、と思いました。

◇津田左右吉は転向したのか?

 また、岩波新書の津田左右吉著「支那思想と日本」(1938年初版)が1948年2月に再版された際、著者の津田博士は、GHQが指摘した検閲箇所以外にも、自ら率先して数カ所、削除したり書き換えたりしている過程を明らかにしておりました。論旨が180度転換しているのです。転向といっても言いかもしれません。

 1938年といえば、その前年に支那事変(日中戦争)が勃発したという時局で、「暴支膺懲」のスローガンが大日本帝国臣民に行き渡っておりました。その時代を知らない戦後世代が批判するのも烏滸がましいですが、「支那思想と日本」の初版は、あまりにも日本の思想の優位性を強調して、日本こそが東洋思想の代表で、中国が劣ることを訴える表現には驚きました。 津田左右吉は、古事記・日本書紀などが専門の大学者で、戦前は記紀を批判的に解釈したため、蓑田胸喜ら極右思想家に弾劾された経歴があるので、もっと違うイメージを持っていました。何しろ、津田博士は戦後、文化勲章まで受章していますからね。

それが、1948年の再版では、GHQによる検閲と脅迫めいた言動による影響なのか、すっかり中国批判が消えるように書き換えていたのです。

 占領期の検閲については、もっと勉強したいと思いました。

井上馨はそれほど清廉潔白だったのか?

 鹿島茂著「渋沢栄一Ⅰ 算盤篇」(文藝春秋)を読了しまして、目下、続編の「渋沢栄一Ⅱ 論語篇」を読んでいるところです。

 渋沢栄一という超人がいなければ、明治の新国家が成立しなかったということが良く分かり、圧巻でした。が、一つだけ、天下無敵、博覧強記の著者鹿島茂教授の瑕疵めいたところが気になりました。鹿島教授の書くものは、完全無比の完璧かと思い込んでいましたが、粗を探せばあるもんですね(笑)。

 渋沢栄一の評伝ですから、「渋沢栄一伝記資料集」や「青淵百話」などから引用されていますが、ちょっと、あまりにも渋沢栄一に肩入れし過ぎて、「渋沢史観」的な読み物になっている嫌いがあるのです。

 幕末に万博視察などの名目でフランス滞在中だった渋沢は、幕府が瓦解ししため、仕方なく志半ばで帰朝します。渋沢は、最後の将軍徳川慶喜の家臣でしたが、しばらく慶喜が蟄居していた静岡藩で殖産興業に励みますが、半ば強制的に新政府の大蔵省に仕官します。明治2年から6年までの4年間です。その間、廃藩置県という一大事業があり、各藩の租税状況を調査したり、藩札と引き換えに公債証書を発行したり、これまでの「両・分・朱」だった貨幣単位を「円・銭・厘」の十進法に切り替えたり、さまざまな経済政策を八面六臂の活躍で実行します。これは、フランスで見聞したサン=シモン思想と銀行や株式会社のシステムに精通した渋沢しかできない大事業でした。

 そもそも、bankに「銀行」という訳語を定めたのも渋沢だったといいます。それまでは、「金行」や「銀舗」などさまざまな訳語が氾濫していたのを統一したのです。「銀行」は逆輸出されて、今でも漢字の本場の中国や台湾でもそのまま使われていることから、渋沢の偉大さが分かります。

 さて、渋沢は、明治6年に大蔵省を退官します。そのお蔭で、民間人としてさまざまな企業を起こすことになりますが、退官の理由については、本書では、大蔵卿(今の財務大臣)の井上馨が退官するため、大蔵大輔(次官)である自分も大蔵省に留まるわけにはいかないから、と書かれています。そこまではいいんですが、井上馨が辞任する理由が、「入るを計って出るを為す」という大蔵省の原則に江藤新平の司法省が反対し、前大蔵卿だった大隈重信参議も意見を聞き入れなかったため、としか書かれていません。

 これでは、渋沢の回想録に沿って、江藤新平が一方的に悪者だった印象を受ける書き方ですが、この時、井上馨は、秋田県の尾去沢鉱山払い下げ事件で、私腹を肥やしたのではないかという疑惑を司法省の江藤新平に追及されて嫌気がさしたともいわれます。そもそも、井上にしろ、山縣有朋にしろ、伊藤博文にしろ、長州の下級武士あがりの明治の元勲は豪邸と別荘(長者荘、椿山荘や無燐庵など)を構え、多くの妾を抱えていたといいますから(その財源はどこから調達したのでしょうか?)、井上馨が清廉潔白で、大蔵省の原則を守るためだけに退官したような表現は、誤解を招くと思ったわけです。

 博覧強記の鹿島教授ですから、当然、尾去沢事件は知っていたはずです。あえて書かなかったと推測されます。(退官したはずの井上馨は何の断りもなく、次々章で、いつのまにか。外務卿として登場するので、明治史に詳しくない人はあれっと思ってしまいます)

 気になったのはそれだけです。大隈重信と三菱(岩崎弥太郎)との癒着、それに対する井上馨と三井との癒着など、政変になると御用商人が暗躍する様が描かれる辺りは興味深かったでしたが。

  あと、「渋沢栄一Ⅰ 算盤篇」 で面白かった逸話は、サド侯爵などフランス文学者の澁澤龍彦が、本家渋沢栄一の分家である渋沢宗助の末裔だったということです。

 もう一つ、水戸学は、尊王攘夷の過激な国粋思想だったことを前回にも書きましたが、そのお蔭で、水戸藩内では、仏教寺院は異教だと排斥されたといいます。道理で、水戸に行っても神社は多くありましたが、名刹と呼ばれる仏教寺院が少なかったはずでした。

 また、水戸学の過激思想のため、内紛やら幕府側からの弾圧(安政の大獄など)やらで、多く優秀な人材が、明治になったら、いなくなってしまったといいます。そのため、「薩摩警部に水戸巡査」という逸話が残ったそうです。

 

 

近代資本主義の勃興を知る=鹿島茂著「渋沢栄一Ⅰ 算盤篇」

 まさに、ど真ん中の直球。見事ツボに嵌った本を今読んでいます。この本は、長年疑問に思っていたことを解明してくれ、知的好奇心を十二分に満足させてくれます。

 鹿島茂著「渋沢栄一Ⅰ 算盤篇」(文藝春秋・2011年1月30日初版)です。もう8年以上前に出た本です。前から読もう、読もうと思っていながら機会を逃していました。確か、2010年の10月に東京・飛鳥山の渋沢栄一記念館を初めて訪れて、500社近い企業をつくった渋沢栄一が、森羅万象、至る所に顔を出して、ここにも渋沢、あそこにも渋沢といった感じで夢にまで出てくるので、頭の中が「渋沢栄一漬け」になり、嫌になってしまったことを思い出します(笑)。

 渋沢栄一が今度、「1万円札の顔」になることから、この機会にやっと読んでみようかという気になったのです。

 鹿島氏といえば、博覧強記、天下無敵の仏文学者です。私も一度、講演会で目の前でお見かけしましたが、比類のない知識と教養の塊で、脳みそが詰まった頭がどでかくて、講演中は、照れも、衒いも全くなく、ひたすら自信に満ち満ち溢れ、言いよどみも、ど忘れもなく、これ以上聡明で賢い学者は見たことがないといった感じでした。

 最初は、仏文学者が何で、畑違いの、中国の「論語」に傾倒した、しかも財界人の渋沢栄一の評伝を書くのか不思議でした。でも渋沢とフランスとのあまりにも濃密な関係を本書で知り、もし、渋沢が1867年のパリ万博の日本代表団(徳川慶喜の実弟徳川昭武代表)の一員に加わらなければ、「日本の資本主義の父」は生まれなかったったことは確実だったことが分かりました。

 面白い、実に面白い。

 若い頃の渋沢らは、幕末動乱の中、水戸学の尊王攘夷思想に染まり、高崎城を襲撃して武器を奪い、横浜の外国人居留地を襲う計画を立てますが、寸前になって中止します。その後、渋沢は、一橋慶喜に仕官するに当たり、水戸藩に立ち寄っています。

 えっ?水戸?! 先日、水戸城跡に行って、この足で歩き、この目で見てきたばかりじゃありませんか。

 渋沢は若き頃の学問の師で、従兄弟に当たる尾高惇忠の影響を受けますが、尾高は、水戸学の藤田東湖や会沢正志に多大な影響を受けていました。後年、渋沢はこの水戸学にかぶれたことについて、「若気の至りだった」と反省しますが、それだけに、鹿島氏にかかると、この水戸学がコテンパンなのです。彼はこう書きます。

 水戸学は、学と呼べるような体系性も論理的整合性もそなえていない、ある種の過激な気質の純粋結晶のようなものにすぎないのだ。すなわち、その根源にあるのは「武士は食わねど高楊枝」というあの武士の痩せ我慢の思想をひたすら純化して、本来マイナスの価値でしかない「貧乏」に倫理的なプラスの価値を与え、劣等感を優越感に変えて、自分よりも少しでも恵まれた他者を攻撃するという一種の奇矯な「清貧の思想」である。

 わー、ここまで書かれると、水戸の人は怒るかもしれませんね。しかし、水戸藩では尊王攘夷思想が過激になり、仏教や寺も夷狄の宗教として排斥したといいます。

 とにかく、渋沢は国際情勢を実地で見て、過激な攘夷思想から脱却して、開明派に転向します。その最大のきっかけは、フランスで、サン=シモン思想にどっぷり漬かったことでした。

 サン=シモンといっても、私の浅薄な知識では、空想的社会主義者で、現実には通用しない絵空事を展開しただけという程度でしたが、これが全くの正反対でした。「空想的社会主義」と命名して批判したのはマルクス、エンゲルスらであって、実際には、サン=シモン思想に影響を受けた弟子たちによって、特に1851年からのナポレオン3世による第2帝政時代には、フランスを近代資本主義社会に発展させる礎がつくられたのでした。

 サン=シモン主義の骨子の第1が、「すべての社会は産業に基礎をおく。産業はあらゆる富の源泉である」だったからです。これにより、「株式会社」「銀行」「鉄道」が「三種の神器」となり、産業革命を成し遂げた英国に大きく遅れをとっていたフランスも、発展していきます。ペレール兄弟によるクレディ・モビリエ銀行の設立と鉄道網の拡張などがその例です。民間に退蔵していた貨幣を吸い上げて、血液のように循環・流通させて産業を興し、冨を獲得していったのです。そのために一番重要だったことは、「信用=クレディ」だったのです。ナポレオン3世自身もサン=シモン主義者で、セーヌ県のオスマン知事に命じて、上下水道を完備するなどパリ市街の大改造に着手します。

 渋沢栄一は1867年、そんな近代資本主義の勃興期のフランスを訪れて、株式会社や銀行などのシステムを目の当たりにして、ゼロから学び、知識を吸収することができたのです。

 同書にはそれらの仕組みが丁寧に説明されていますので、評伝というより経済書として読めなくもないのです。私のように資本主義の初期や初歩を知りたかった書生にとっては、この本は打ってつけだったわけです。

 

 

デジタル・ネイティブ世代の申し子、デビッド・ホッグ君

 昨日15日夕方、ちょうど会社からの帰宅時に、JR東海道線品川駅付近での「人身事故」に遭遇し、私の利用する路線も巻き込まれて、長らく待たされ、猛烈な混雑な上に、帰るのに1時間以上余分に掛かってしまいました。

  私は迷惑を受けた15万人のうちの1人でしたが、 今朝の朝刊を見たら、記事にしていたのは毎日新聞と東京新聞ぐらいで、他紙は無視。もうニュースにもならないんでしょうね。15万人ぐらい…て、とこでしょうか。

 さて、今朝、ラジオを聴いていたら、月尾嘉男東大名誉教授が、米国のZ世代(1990年代後半~2000年頃生まれ)について興味深い話をしておられました。この世代は、現在10代から20代半ばの若い世代ですが、生まれたときからパソコンやスマホに囲まれて育った「デジタル・ネイティブ」世代だということが特徴的です。

 月尾先生は、この世代を代表する一人としてデビッド・ホッグ君という19歳の青年を取り上げていました。今や、全米で知らない人はいないそうです。

 彼は、昨年2月に米フロリダ州の高校で、17人の犠牲者を出した乱射事件の生存者の1人で、事件後、メディアや集会などに出ては、銃規制に反対する「全米ライフル協会」や、その団体から献金を受けている政治家を実名で批判し、銃規制の必要性を訴えて来ました。

  その彼が昨年3月に、自分のSNSでカリフォルニア大学受験に不合格になったことを明らかにすると、彼の言動を心良く思っていないFOXテレビのトーク番組の女性司会者が「不合格にされ、めそめそと愚痴をこぼしている」とツイッターで発信します。これに対して、ホッグ君は、その番組のスポンサー企業名をSNSで公開して、このような番組のCMをやめるよう求めると、大反響を呼び、ペットフードのニュートリッシュ、旅行サイトのトリップアドバイザーなどが降板して、女性司会者が謝罪と1週間の休養に追い込まれたというのです。

 まさに、ホッグ君は、デジタル・ネイティブ世代の申し子で、SNSという武器を十二分に駆使したわけです。彼はその後、ハーバード大学に合格して政治学を専攻し、将来は政治家になるのが夢だといいます。 米国人のほとんどは、この話は知っていることでしょうが、日本人の私は知りませんでした。

 と、ここまで、ラジオを聴きながらメモも取らなかったのに書けたのはネットのおかげでした(苦笑)。私自身は、米国の世代分類では、X世代、Y世代の前のベビーブーム世代になりますけど、十分にネットの恩恵を受けているわけです。

鰻屋「川松」

 また、別の日にラジオで聴いた話ですが、あるキャスターが、ある取材先に電話で問い合わせたところ、先方は「ちょっとお待ちください」と言うので、待っていると、電話の向こうで「パチパチ」「カチカチ」というキーボードを叩く音がして、どうやら、パソコンで検索しているらしいことが分かってしまったのです。そして、キャスターは嘆きます。「そんなことなら、最初から自分で検索した方が早い。何のための電話取材なのか分からない」

 取材される側までもがネット検索ですか…。まあ、そういう時代になってしまった、ということなんでしょうかね。

丸山議員の「戦争しないと、どうしようもなくないですか」発言はいかがなものか

 大阪選出の丸山穂高衆院議員が北方四島の返還に関連して、「戦争しないと、どうしようもなくないですか」などと発言した問題。大騒動になり、彼の所属する日本維新の会が「除名処分」にするまで発展しました。 

 丸山氏は議員を辞職せず、このまま無所属として活動するようですが、国会議員としての自覚が足りないというか、勉強不足ですね。

 外見は若いイケメンで、チャラ男風という感じですが、東京の最高学府の経済学部を卒業して経産省に入省していた経歴には驚きました。外見とのミスマッチに驚いたというのではなく、「その程度なのか?」という驚きです。

 丸山議員は35歳ということで、学業途中で学徒出陣した世代の孫世代に当たります。私たちのように、二代目の子の世代なら、親から散々悲惨な戦争体験の話を聞くことはできましたが、もう三代目となると無理なんですね。哀しい哉、やはり、人間は痛い目に遭わなければ分からないんですね。

 ここ1週間、たまたま、和田春樹著「朝鮮戦争全史」(岩波書店、2002年3月11日初版)を、老骨に鞭を打って読んでいます。重い(笑)。本文だけで492ページの大作です。やはり、朝鮮戦争を知らなければ、現代史を語れないからです。これを読むと、自分の不勉強を恥じますね。私の場合、近現代史の勉強は、満洲問題から東京裁判あたりで終わってしまってましたが、この本を読むと、人間が生きている限り歴史は続いていたことが分かります。当たり前ですが。

 特に、満洲=中国東北部は、大日本帝国なき後、「真空地帯」になったのか、中国共産党と国民党との間の内戦で、最も激戦が続いた戦場になり、北朝鮮の金日成主席は、満洲派と呼ばれ、戦中は満洲でのパルチザンとして活動していたと言われます。

 1950年6月25日(日)午前4時40分に、朝鮮戦争が勃発します。しかし、戦争は急に始まったわけではなく、1年前から、いや1948年に、ソ連による北朝鮮と米国による韓国という二つの分断国家が成立してから「統一国家」を目指して始まっていたようです。

 同書では、多くの往復書簡や暗号電報などが引用されていますが、北朝鮮の金日成らは、ソ連のスターリンと中国の毛沢東の「お墨付き」を得て、圧勝できる確信を持って開戦したようです。

 1953年7月 27日午前10時20分、板門店で停戦協定が調印されましたが、この戦争で、韓国人 約133万人(うち軍人は約24万人で、ほとんど民間人)、北朝鮮人約272万人(うち軍人約50万人、平壌は米軍による空爆で壊滅した)、中国人約100万人(中国の公式発表は2万9000人)、 米国人約5万4000人、ソ連299人が死亡したと著者は推定しております。朝鮮戦争は、事実上、米ソ戦(空域)と米中戦(地上)でした。日本人も哨戒船などで出動し、数十人が戦死したといわれています。(レーダーに捉えにくい木造船で、近海に詳しい日本人の船員らが犠牲)

 この朝鮮戦争期間中、日本人にとっても忘れてはならない大きな歴史的出来事がありました。1950年8月10日の警察予備隊(後の自衛隊)創設と、1951年9月8日のサンフランシスコ講和条約締結(52年4月28日発効)です。

 詳細については、リンクを貼りましたので、お読みいただくことにして、このサンフランシスコ講和条約で、日本は、千島列島と南樺太への権利・権原・請求権をも放棄しました。千島列島には北方四島も含まれますね。

 あ、やっと最初に書いた丸山議員の発言につながりました(苦笑)。

 ドイツの哲学者カントや大作曲家ワーグナーらが住んでいた街として有名な歴史的都市ケーニヒスベルクは、第2次世界大戦で徹底的に破壊され、今ではカリーニングラードと改名され、ロシアの領土(飛び地)となっています。

 戦争とはそれほど非情で悲惨で、不条理だという事実を若い国会議員は想像すらできないのでしょうか。まさか、彼自ら、三八式歩兵銃を持って最前線に行くつもりで発言したわけではないでしょうから。

作家遠藤周作の御子息がテレビ局社長に

 フジテレビの新社長に作家遠藤周作(文化勲章受章)の長男龍之介氏(62)が、6月の株主総会を経て就任するという記事を読みました。おめでとうございます。

 テレビ局に縁故入社する有名人の子弟は案外多いので、驚いたわけではありませんが、さすがにトップの社長になる人は少ないので、感心しました。遠藤氏が縁故入社かどうか公表されてもいないのに、何か上から目線ですねえ(苦笑)。

Espagne

 でも、マスコミが、作家や画家や文化人や大手企業重役などの子弟を採用するのは理由があるのです。ただし、茲では書きません。偶には、皆さんご想像してみてください。あ、それとも、既に御存知でしたか?

 そもそも、マスコミも大手企業も縁故入社があることは公然の秘密です。政治家の口利きで入社する人もいるぐらいですから。

 マスコミが「社会の木鐸」とか、清廉潔白だというのは幻想であって、天下のNHKも、大手広告代理店も、大手出版社も縁故入社はかなりいます。朝日新聞だって、もともと縁故採用が本筋で、入社試験を始めたのは1920年からです。近現代の歴史を勉強していれば、つい最近だということが分かります。コネ入社の方が、身元がはっきりしていますし、安心安全だからです。

 さすがに、霞ヶ関の官僚の世界では試験重視なので、縁故入省はないですが、外務省となると、不思議なことに、東郷さんのように、親や子や孫や何代も続いて外務官僚になる家系が多いですね。

 だから何だ、という話で、今日はオチがありません(笑)。

スペインの旅行写真はこれが最後です。本文とは関係ないのに長らく御鑑賞有難う御座いました。