北朝鮮張成沢氏の粛清、「密告が原因」は妙に納得させられます

2月14日付の共同通信が、米国を拠点とする中国語情報サイト「博訊」などを引用して伝えた「北朝鮮の実力者だった張成沢元国防副委員長が2013年に『国家反逆罪』の汚名を着せられて粛清されたのは、中国側からの密告が原因だった」などといった報道は、大変驚くと同時に、何となく、疑問が氷解するような感じを受けました。

もっとも、中国外務省の耿爽副報道官は14日の記者会見で、即座に「全くのでたらめな話」と否定しましたけどね。

報道は今回が初めてでもないらしいのですが、北朝鮮ナンバー2だった張成沢氏は2012年に胡錦濤国家主席(当時)と会談し、故金正日総書記の後継として、金正恩朝鮮労働党委員長ではなく、異母兄の金正男氏を就任させたいとの意向を伝えたというのです。この内容を、中国の最高指導部メンバーだった周永康氏が金正恩氏側に伝えたことから、金正恩氏の怒りを買い、13年の張氏粛清につながったというものです。

ナンバー2の実力者の張氏が「国家反逆罪」として処刑された理由が、当時さっぱり分からなかったのですが、「この話」は辻褄が合います。しかも、最高権力者になろうともしなかった、ディズニーランドとエリック・クラプトンが大好きだった金正男氏が、なぜ、ちょうど1年前の昨年2017年2月にクアラルンプール国際空港で暗殺されなければならなかったのか、平仄が合う気がしました。

恐らく、私の勝手な想像ですが、張成沢氏は、金正恩氏より、金正男氏の方が、御しやすいというか、自分の権力を行使しやすいと考えたのかもしれません。

密告したとされる、当時の中国の最高指導部の一人、周永康氏は、最近、収賄罪などで無期懲役の判決を受けたばかり。これは怪しい。「池に落ちた犬はたたけ」なのか、「濡れ衣」なのか、真相は不明です。

中国当局は否定していますが、中国とのパイプ役だった張成沢氏処刑後、中国と北朝鮮の関係が悪化したと言われてますから、何らかの形で、件の話が金正恩氏の耳に入ったのではないか、と思われます。

ダーウィン的進化論主義者の皆さんなら、科学も歴史も常に進歩していくものだと考えがちですが、もし、話の内容が事実なら、異母兄を暗殺するような北朝鮮は、日本で言えば、いまだに戦国時代です。

14日には米フロリダ州の高校で、またまた銃乱射事件があり、17人が犠牲になりました。これでは、アメリカはいまだに、秀吉の刀狩り以前の国だと思われても仕方がないのではないでしょうか。

近代化を進めた幕府

「明治を支えた幕臣・賊軍人士たち」を特集している「東京人」2月号の続きです。

この16ページに不思議な写真が掲載されています。セピア色の写真で、古いということは分かります。幕末にオランダ・ハーグに派遣された「幕府オランダ留学生」というキャプションがあります。

西周榎本武揚津田真道らが写っていますが、しっかり、当時最先端の洋装で髪型も1960年代のような長髪なので、キャプションがなければ、明治時代か昭和初期に撮影されたものと言われても納得してしまいます。

それが、撮影されたのが1865年と書かれているのです。最初は「ああ、幕末の写真か」という感想しかなかったのですが、よく考えてみれば、1865年といえば、慶応元年、まだ江戸時代じゃないですか。それなのに写っている彼らは、羽織袴はいいとして、丁髷頭じゃないのです。明治維新になる数年前からこんな格好していたなんて驚いてしまいました。

しかも、新政府ではなく、旧陋の徳川幕府が派遣した留学生ですからね。ということは、幕府は、無知でも無能でもなく、早くから洋学を取り入れ「近代化」に目覚めていたのです。(日本で最初の洋学研究機関は幕府が安政3年=1856年に設立した蕃書調所=ばんしょしらべしょ=で、以後、洋書調所開成所となり、明治後、帝国大学の源流となる)

(前列右から西周、赤松則良、肥田浜五郎、沢太郎左衛門。後列右から津田真道、布施鉉吉郎、榎本武揚、林研海、伊東玄伯)

同誌は、「幕府の遺産で行われた近代化」として、長崎と横須賀の製鉄所を挙げています。製鉄所とは、今の「造船所」ということで、明治になって軍艦の建造、海軍の創設につながります。

長崎製鉄所の産みの親の一人が、永井尚志(なおむね)で、長崎海軍伝習所の初代総監を務めます。製鉄所は、明治なって岩崎三菱に払い下げられ、今でも現役です。

横須賀製鉄所は、勘定奉行の小栗上野介忠順(ただまさ)と目付の栗本鋤雲の尽力で作られます。小栗は、幕吏中の俊才で、勝海舟と並ぶ逸材と言われておりましたが、戊辰戦争後、「逆賊」として捕らえられ、何の取り調べもなく、丹波国園部藩士原保太郎により、斬首に処せられます。斬首した原の名前が残っていることも凄い。栗本は、維新後、新政府に仕官することをよしとせず、「郵便報知新聞」主筆を務めるなど、ジャーナリストに転向します。

◇仕官を拒絶した幕臣、佐幕派

このように、幕臣たちは、榎本武揚、勝海舟ら一部を除いて、維新後、政界、官界に入ることをよしとしなかったため、ジャーナリズムや文芸、思想、学問の道に進み、名を残した人が多かったのです。

文芸・芸術界では、坪内逍遥二葉亭四迷が、徳川御三家の尾張藩士。幸田露伴は、江戸城に仕える表坊主衆の家柄。尾崎紅葉の父谷斎は江戸芝の根付師。樋口一葉の両親は、甲斐国出身ながら、幕末に江戸に出てきて、八丁堀同心株を買ったとか。夏目漱石は、牛込の名主出身なので、心情的には佐幕派。漱石の友人正岡子規は幕府方の松山藩士。「新撰組始末記」などで知られる子母澤寛の祖父は、上野の彰義隊で戦い、函館の五稜郭でも戦った幕臣で、北海道石狩の厚田村の開拓に加わった。天才絵師河鍋暁斎は、江戸は本郷三丁目の定火消しの子。(定火消し出身の絵師と言えば、「東海道五十三次」の歌川広重もそうでした)

ジャーナリズムでは、幕府の奥儒者、外国奉行、会計副総理などを歴任した成島柳北が先駆者。維新後「天地間無用之人」を自称して仕官を拒否し、今の銀座四丁目にあった反政府系の「朝野新聞」社長などを務めました。反政府系の「江湖新聞」から政府系御用新聞の「東京日日新聞」社長に転向した福地桜痴(源一郎)は、肥前長崎藩出身。新聞「日本」社長兼主筆の陸羯南は、陸奥弘前藩出身(正岡子規を社員に採用)。日本初の従軍記者と言われる東京日日新聞の岸田吟香(画家岸田劉生の父)は、美作津山藩出身。「国民之友」「国民新聞」などを創刊した徳富蘇峰は、肥後熊本藩出身。

思想・学問界の筆頭は福沢諭吉でしょう。咸臨丸や慶応義塾創立のことなど今更説明不要でしょうが、彼は豊前中津藩士ながら、近代化政策を推進する幕府は、優秀な子弟を幕臣として取り立てており、福沢は幕末の元治元年(1864年)に旗本になっていたことは意外に知られていないでしょう。その前々年の文久2年(1862年)、福沢は、遣欧使節団の通訳・翻訳者として同行し、帰国後、「西洋事情」を出版してベストセラーになっています。つまり、啓蒙思想家としての福沢の活躍は、明治ではなく、江戸時代から既に始まっていたのです。

徳川(沼津)兵学校初代頭取を務めた、フィロソフィーを「哲学」と翻訳した西周は、石見津和野藩出身。スマイルズ「西国立志編」などの翻訳家中村正直の父は幕府の同心。英エコノミストに倣って日本初の経済専門誌「東京経済雑誌」を刊行した田口卯吉は静岡藩士。東京・九州・京都帝大総長を歴任した山川建次郎とヘボンの後任として明治学院の第2代総理となった井深梶之助は、ともに「賊軍」会津藩出身。

以上、まだまだ書き足らず、ほんの一部しかご紹介できなかったのが残念です。

【追記】三休さんから以下のコメントがありましたので、本人の御了解を得て、追記致します。

…陸羯南は、弘前藩の出身だったんですね。初めて知りました。彼が採用した正岡子規とともに従軍記者として日清戦争に行ったのが、後の古島一念である古島一雄で、小生の田舎但馬豊岡藩出身です。東大生の正岡子規に日本新聞の紙面を与えて、正岡子規の俳句を発表させたのも古島一雄だと聞いています。因みに、初代東大総長の加藤弘之は、豊岡藩の隣の但馬出石藩の出身でした。また、第3代東大総長の浜尾新は、豊岡藩の出身で、古島一雄が東京に出た折、最初に寄宿したのは浜尾新の家であったと本で読みました。…

「東京人」が「明治を支えた幕臣・賊軍人士たち」を特集してます

今年は「明治150年」。今秋、安倍晋三首相は、盛大な記念式典を行う予定のようですが、反骨精神の小生としましては、「いかがなものか」と冷ややかな目で見ております。

逆賊、賊軍と罵られた会津や親藩の立場はどうなのか?

そういえば、安倍首相のご先祖は、勝った官軍長州藩出身。今から50年前の「明治100年」記念式典を主催した佐藤栄作首相も長州出身。単なる偶然と思いたいところですが、明治維新からわずか150年。いまだに「薩長史観」が跋扈していることは否定できないでしょう。

薩長史観曰く、江戸幕府は無能で無知だった。碌な人材がいなかった。徳川政権が世の中を悪くした。身分制度の封建主義と差別主義で民百姓に圧政を強いた…等々。

確かにそういった面はなきにしもあらずでしょう。

しかし、江戸時代を「悪の権化」のように全面否定することは間違っています。

それでは、うまく、薩長史観にのせられたことになりまする。

そんな折、月刊誌「東京人」(都市出版)2月号が「明治を支えた幕臣・賊軍人士たち」を特集しているので、むさぼるように読んでいます(笑)。

表紙の写真に登場している渋沢栄一、福沢諭吉、勝海舟、後藤新平、高橋是清、由利公正らはいずれも、薩長以外の幕臣・賊軍に所属した藩の出身者で、彼らがいなければ、新政府といえども何もできなかったはず。何が藩閥政治ですか。

特集の中の座談会「明治政府も偉かったけど、幕府も捨てたものではない」はタイトルが素晴らしく良いのに、内容に見合ったものがないのが残念。出席者の顔ぶれがそうさせたのか?

しかし、明治で活躍した賊軍人士を「政治家・官僚」「経済・実業」「ジャーナリズム」「思想・学問」と分かりやすく分類してくれているので、実に面白く、「へーそうだったのかあ」という史実を教えてくれます。

三菱の岩崎は土佐藩出身なので、財閥はみんな新政府から優遇されていたと思っておりましたが、江戸時代から続く住友も古河も三井も結構、新政府のご機嫌を損ねないようかなり苦労したようですね。三井物産と今の日本経済新聞の元(中外商業新報)をつくった益田孝は佐渡藩(天領)出身。

生涯で500社以上の株式会社を起業したと言われる渋沢栄一は武蔵国岡部藩出身。どういうわけか、後に最後の将軍となる一橋慶喜に取り立てられて、幕臣になります。この人、確か関係した女性の数や子どもの数も半端でなく、スケールの大きさでは金田一、じゃなかった近代一じゃないでしょうか。

色んな人を全て取り上げられないのが残念ですが、例えば、ハヤシライスの語源になったという説が有力な早矢仕有的は美濃国岩村藩出身。洋書や文具や衣服などの舶来品を扱う商社「丸善」を創業した人として有名ですが、横浜正金銀行(東京銀行から今の三菱東京UFJ銀行)の設立者の一人だったとは知りませんでしたね。

日本橋の「西川」(今の西川ふとん)は、初代西川仁右衛門が元和元年(1615年)に、畳表や蚊帳を商う支店として開業します。江戸は城や武家屋敷が普請の真っ最中だったため、大繁盛したとか。本店は、近江八幡です。いわゆるひとつの近江商人ですね。

田中吉政のこと

話は全く勝手に飛びまくりますが(笑)、近江八幡の城下町を初めて築いたのは、豊臣秀吉の甥で後に関白になる豊臣秀次です。

秀吉は当初、秀次を跡継ぎにする予定でしたが、淀君が秀頼を産んだため、秀次は疎まれて、不実の罪を被せられ高野山で切腹を命じられます。

まあ、それは後の話として、実際に近江八幡の城下町建設を任されたのが、豊臣秀次の一番の宿老と言われた田中吉政でした。八幡城主秀次は、京都聚楽第にいることが多かったためです。

田中吉政は、近江長浜の出身で、もともとは、浅井長政の重臣宮部継潤(けいじゅん)の家臣でした。しかし、宮部が秀吉によって、浅井の小谷城攻略のために寝返らせられたため、それで、田中吉政も秀吉の家臣となり、秀次の一番の家臣になるわけです。

それが、「秀次事件」で、秀次が切腹させられてからは、田中吉政は、天下人秀吉に反感を持つようになり、秀吉死後の関ヶ原の戦いでは、徳川家康方につくわけですね。山内一豊蜂須賀小六といった秀吉子飼いの同郷の家臣たちも秀次派だったために秀吉から離れていきます。

 田中吉政は、関ヶ原では東軍側について、最後は、逃げ落ち延びようとする西軍大将の石田三成を捕縛する大功績を挙げて、家康から久留米32万石を与えられます。
 そうなのです。私の先祖は久留米藩出身なので、個人的に大変、田中吉政に興味があったのですが、近江出身で、近江八幡の城下町をつくった人だったことを最近知り驚いてしまったわけです。
 明治に活躍したジャーナリストの成島柳北(幕臣)らのことも書こうとしたのに、話が別方向に行ってしましました(笑)。
 また、次回書きますか。

 

川越、かわごえ、カワゴエ

埼玉県川越市の喜多院

ちょっと御縁があり、思いついて、「小江戸(こえど)」の川越を散策してきました。

小江戸とは、江戸時代の雰囲気を残した城下町のことで、小江戸と名前が付くところは、全国には他に彦根市ぐらいしかないようです。

単なる江戸情緒を残した城下町なら、全国にはかなりあるかもしれませんが、「小江戸」となると、他に、「伝統的な祭りがあること」などといった条件があるようです。(川越祭りを、川越氷川神社を祭神として始めたのは、「知恵伊豆」こと、川越5代藩主松平伊豆守信綱です。新座市の平林寺にお墓がありますね。)

さて、このように、川越市は、皆さまご存知の通り歴史のある町です。15世紀に扇谷(おおぎがやつ)上杉氏の家宰太田道灌が江戸城、岩附城とともに、河越城をつくったことで発展しましたが、平安時代初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で慈覚大師円仁が、天台宗の星野山無量寿寺を建立し、その後、関東天台宗の本山となったことから、中世は寺町として栄えていたことでしょう。

天海上人像

この無量寿寺は、北院、中院、南院と分かれており、中院が中心でしたが、江戸時代になると、あの江戸の町を風水等による都市計画(魔除けの方角に目黒、目赤、目黄、目白不動尊などを配置し、江戸城本丸の鬼門の方角に上野寛永寺、裏鬼門に増上寺を建立した)で名を馳せることになる天海上人が家康の招きで、1599年に住職に就き、北院を中心にして、北院を喜多院に改名します。中院は南に移転して、そこに仙波東照宮を建てます。そして、南院は廃院となります。(天海上人は、その後、2代秀忠、3代家光にまで使えて、108歳まで生きたとか)

仙波東照宮は、日本の三大東照宮の一つなんだそうです。(他の二つとは、日光と久能山。家康は、久能山で亡くなった後、日光に祀られる前に、家康の遺体は、仙波東照宮でしばらく留め置かれたそうです)

話は遡りますが、慈覚大師円仁は、無量寿寺を建立する際に、大津市坂本の日吉神社の御神体をお運びして、近くに日枝神社も建立します。上の写真でも看板が見えますね(笑)

日枝神社の「ひえ」は、天台宗の比叡山延暦寺の比叡(ひえい)から来たという説があり、日枝神社は、天台宗系ということで辻褄が合います、

多宝塔

喜多院の境内には、多宝塔があります。規模は小さいですが、高野山の塔に似ています。

大正浪漫通り

川越市は、36万人の人口(北海道十勝地方と同じですが、十勝は岩手県ほどの面積があります)ながら、年間650万人もの観光客を誇るそうです。その理由は、東京都心に近いことと、色んな時代の「観光資源」をうまく保存しているからに他ありません。

川越は、恐らく、古代、中世から火災が多い街で、江戸時代は織物業が盛んで、染料を煮詰めたりするのに使う藁の火が、残り火として風に煽られて引火して、町中に広まる大火事になったという説が一つあります。

寛政4年(1792年)に建てられた呉服店「大沢家」(現在、民芸品店)。国指定重要文化財。個人の住宅が重文となるのは、全国でもここだけ。唯我独尊(笑)です。

明治に入ってからも、大火災は続き、特に明治26年(1893年)の大火では、川越の町の3分の2が灰燼になったと言われています。

そこで、街の商人は、盛んに防災用の蔵をつくるようになり、それが、今でも商店として使われ、大切な観光資源に発展したわけです。

加えて、川越は、あの憎き米軍による空襲がなかったので、奇跡的に古い歴史的建造物が生き残ったわけです。

川越の町のシンボル「時の鐘

川越城主酒井忠勝が約400年前に、藩の民に時を知らせる為に作り、その後、大火で何度も消失し、これは四代目。

現在のものは、明治26年の大火後再建されたもので、明治天皇からも寄付が寄せられたそうです。

毎日、午前6時と正午と午後3時と午後6時の4回、鐘が鳴ります。

高さは約16メートルで、江戸時代は、これ以上高い建物の建設は禁止されたそうです。

菓子屋横丁で最も古い松陸

寛政8年(1796年)創業で、菓子屋横丁で一番の老舗。

かつては、横丁には70軒ほどの菓子屋があったそうですが、今22軒。

それでも、かなりの観光客が押し掛けておりました。

着物着ている、2〜3人一組の若い女性も多く見かけましたが、彼女たちが話している言葉は、中国語でした。

残念なことに、川越城本丸跡に今回は行く時間がなかったので、次回挑戦したいと思います。

最近の渓流斎、「城博士」を自称してますから(笑)。

哈爾濱学院顕彰基金によるシンポジウムのお知らせ

★哈爾濱学院顕彰基金によるシンポジウムについてお知らせ致します★
(事前申込、参加費不要です。)

「ハルビン学院と満洲国 (新潮選書 1999/3)」「満洲の情報基地ハルビン学院(新潮社 2010/8)」の2冊の著者である 芳地隆之氏の講演「ハルビン学院の25年」が東京・上智大学ロシア語学科で開催されます。

現在、ハルビン学院生は90歳以上、出席が難しくなっています。御家族、ご遺族、学院に関心を寄せる方は、哈爾濱学院についての理解を深める良い機会です。一般の方も是非この機会にご参加下さい。

詳細は以下の通りです。

※※※※※

上智大学外国語学部ロシア語学科では、来る2018年1月20日(土)に哈爾濱(ハルビン)学院顕彰基金シンポジウムを開催いたします。今回は2020年に創立100周年を迎える 哈爾濱学院そのものをテーマといたしました。ご興味・関心をお持ちの方は是非ともご来場ください。事前のお申し込み、参加費は不要です。

上智大学 哈爾濱学院顕彰基金シンポジウム ~ハルビン学院100周年にむけて~
【日時】 2018年1月20日(土) 14:00~17:00
【場所】 上智大学四谷キャンパス 2号館508教室
~プログラム~
> 司会:安達祐子(上智大学ロシア語学科教授)
> 14:00~14:10 原求作(上智大学ロシア語学科教授・学科長) 挨拶
> 14:15~15:00 芳地隆之(元ロシアNIS経済研究所次長) 講演
>         「ハルビン学院の25年」
> 15:15~16:00 ワシーリー・モロジャコフ(拓殖大学教授) 講演
>         「日本の満州政策と日露関係」
> 16:00~17:00 質疑応答

大変失礼致しました、三浦様。ハルビン特務機関に関するご質問

ハルビン学院
 大変失礼致しました。三浦宣秀さんという方から以下のコメントを1月4日に拝受しておきながら、どう間違ったのか、「スパムコメント」の中に分類されていて、危うく消滅するところでした。
 実は、小生、このサイトの「基盤」として使わさせて頂いているWordpressのやり方が全く分かっていないのです(苦笑)。よく見てみると、「これまで65件のスパムコメントを保護しました」とあるではありませんか!
 ごめんなさい。
 「スパムコメント」コーナーをチェックしていなかったので、皆様の重要なコメントが消えてしまっていたのかもしれません。(本物のスパムだったらいいんですけど…)
 いずれにせよ、三浦様からの誠実なコメントには心を打たれました。が、生憎、小生の力では及ばないため、読者の皆様の中でご存知の方がいらっしゃいましたら、是非とも、さらに、コメントを頂きたいのです。
 今度こそ、皆様からのコメントが「消滅」しないように、気を配りますので宜しくお願い申し上げます。
三浦氏のコメントを改めて下記に「復活」させますので、御熟読ください。(色んな方がこの《渓流斎日乗》をお読みになっていただいていることを知り、改めて感謝申し上げます)

2017年10月1日の関東軍情報本部ハルビン陸軍特務機関を拝読いたしました。
私の叔母は軍属として、ハルビン特務機関情報部教育隊に所属していたようです。ハルビン特務機関長は、土居明夫特務機関長(秋草特務機関長の前任)でした。叔母は、21歳でハルビンで殉職したのだと思っています。(勲八等瑞宝章の叙勲となっていたので殉職と思いました。)
死亡年月日は、昭和19年9月20日、身分は陸軍軍属(雇員)です。
叔母の名前は、阿保 信子(あぼ のぶこ)で、私は甥の、三浦(旧姓 阿保) 宣秀(みうら たかよし)てす。父は満鉄に勤めていて、終戦で中国での強制労働後、復員してます。叔母は、私の父の影響で満洲にいき、ハルビン特務機関に採用されています。
ハルビンでの葬儀には、陸軍大臣、教育総監、参謀総長、関東軍司令官、ハルビン特務機関長の立札があります。(当時の葬儀写真あります。)
推測では、教育総監の立札から、情報部教育隊(471部隊)に所属し、日ソ開戦にそなえての諜報活動、宣撫活動において、殉職したのではと思っています。 通知された、死亡状況は戦病死、死亡場所はハルビン第1陸軍病院と記載。)
当時の状況を詳しく知りたいと思って、あらゆる方面に問い合わせいたしましたが不明とのことでした。
なにかヒントになることは、ありませんでしょうか。
よろしくお願いいたします。

キンドルバーガーは挫折しました

以前より、最近どうも気力が薄れてきました。

以前なら、目が覚めると、「今日は何を書こうか」と次々と書く材料が浮かんできて、取捨選択に苦労したものですが、今は、どうも、ドキドキワクワクするような題材が減ってきました。

裏が見えてしまう、といいますか。政治家も芸能人も、知の巨人と言われる人たちも、皆んな薄っぺらく、いや間違いました(笑)、皆んな、均質化されてしまったお蔭で、幻想もなくなり、同時に期待感も無くなってしまったのです。

ま、成熟したお蔭で、「達観してきた」ということと自分では解釈してますが(笑)。

ところで、鄙びた温泉にでも行って養生したいものですが、諸般の事情でそれも叶わず、ひたすら読書に励んでおりますが、こちらも、何が何でも読破してやるという気力が薄れてきてしまいました。

例えば、1929年の世界大恐慌を詳述した「聖典」とも呼ばれている著名なチャールズ・P・キンドルバーガー著、石崎昭彦・木村一朗訳「大不況下の世界1929ー1939 改訂増補版」(岩波書店、2009年8月27日初版、7668円)に挑戦してみましたが、途中であえなくノックアウト。つまり、挫折してしまいました。

しかし、あまりにも専門的過ぎます。あまりにも難し過ぎます。これでも、「不胎化」といった難しい専門用語はある程度理解できますが、全体的には、お手上げ状態でした。恐らく、経済専門の大学院生でも理解できるかどうか…。

私が「嗚呼、もう駄目だ」と、続きが読めなくなったのは次の箇所です。

…金本位制は金を獲得した諸国が経済を一段と拡大し、金を喪失した国が経済を引き締めることによって自動的に機能するものと想定されていた。しかしながら、1920年代にはこの自動性が解明され始め、中央銀行間調整がその自動性を支援し、あるいはその自動性に代位するために必要とされるにいたった。それは勿論最初の事例ではなかったが、最も顕著な事例の1つであり、第2次世界大戦後マクロ経済政策を調整する見地から行う通貨当局間協議の先例になったということができよう。…

うーん、何度読んでも分からん(笑)。

新聞社が不動産屋に~スマホからの解脱~わが青春に悔なし~京大事件~恒藤恭~東洋文庫

東京・銀座並木通りの旧朝日新聞社跡に建つ高級ホテル

夏目漱石二葉亭四迷石川啄木らも働いた東京・銀座の(昔は滝山町といっていた)旧朝日新聞社跡に何か新しいビルが建ったというので、見に行ってきました。

そしたら吃驚。異国の超高級ブランの衣服と時計とホテルが横並びで、思わず通り過ぎてしまいました。とても中に入る勇気がありませんでした(笑)。以前はプロ野球のセ・リーグとパ・リーグの事務所があったりして入りやすかったのですが、とても足を踏み入れる気さえ起きませんでした。

家主は、朝日新聞社です。若者の新聞離れやら少子高齢化、日本人の教養劣化と記者の質の低下(笑)、そして今は流行のフェイクニュースとやらで、新聞の売れ行きがガタ落ちで、歴史のある大手新聞社のドル箱が、今や、紙から不動産に移っている様を如実に反映しておりました。

 

Italie

今年2018年の抱負のナンバーワンは、以前にも書きました通り、「スマホ中毒」からの解毒(デトックス)です。(笑)

ということで、電車内でスマホでこの《渓流斎日乗》を執筆することを控えることに致しました。更新もalmost毎日ということになります。

昔はメールなんかありませんでしたから、実に牧歌的な時代でした。メールも当初は、パソコン中心で、1週間に2~3回チェックする程度で、それから返信していても許されましたから、本当にいい時代でした。

今やスマホの時代ですから、いつもメールなんかを気にしていなければなりません。

今年は、スマホからの解脱を目標に掲げましたから、メール・チェック等もほどほどにすることにしましたので、返信が遅れてもお許しくだされ。

Italie

お正月休みにテレビで黒澤明監督の「わが青春に悔なし」を初めて観ました。黒澤作品全30作のうち9割は観ておりますが、この作品はどういうわけか、見逃しておりました。

何しろ、私の専門分野(笑)のゾルゲ事件と京大・滝川事件をモチーフに作られた(久板栄二郎脚本)というので、観るのが楽しみでした。

確かに京都大学・八木原教授(大河内伝次郎)の娘幸枝(原節子)をめぐる野毛(藤田進)と糸川(河野秋武)の三角関係のような青春物語でもありますが、究極的には昭和初期の軍国主義の中での言論弾圧とそれに反発する教授や学生、その中での保身や裏切り行為なども描かれています。

大学を卒業して10年、恋のライバル二人の運命は真っ二つに分かれ、糸川はエリート検事になり、野毛は、東京・銀座にある東洋政経研究所の所長として支那問題の権威として雑誌などに長い論文を寄稿したりしています。これが、ゾルゲ事件の尾崎秀実を思わせ、結局「国際諜報事件」の首魁として逮捕されるのです。

何といってもこの映画が凄いのは、敗戦間もない昭和21年の公開作品だということです。まだ占領下ですし、戦前タブーだった京大事件とゾルゲ事件を題材にした映画がよくぞ公開されたものです。

◇京大事件とは

京大事件とは、昭和8年(1933年)鳩山一郎文相が、京都帝国大学法学部の滝川幸辰教授の著書「刑法読本」や講演内容が赤化思想であるとして罷免した事件です。

法学部教授全員が辞表を提出しますが、結局、滝川教授のほか佐々木惣一(戦後、立命館大学総長)末川博(同),恒藤恭(戦後、大阪市立大学長)ら7教授が免官になりました。

この中で、私は法学関係に疎いので恒藤恭教授の名前を近しく感じてしまいます。彼は、旧制一高時代、芥川龍之介の親友で、確か、成績は恒藤が首席、芥川が2席という大秀才だったと記憶しております。

◇石田幹之助と東洋文庫

「京都学派」に詳しい京都にお住まいの京洛先生にお伺いしたら、「芥川の一高時代の友人の中に有名な菊池寛や久米正雄のほかに、石田幹之助という東洋学者がいて、私も学生時代に習ったことがあるんですよ」と仰るではありませんか。これには吃驚。京洛先生は一体、何時代の人なんでしょうか?(笑)

「石田先生は授業中によく、芥川や恒藤らの思い出話をしてましたよ。石田先生は、三菱の岩崎財閥からの支援と要請で今の東洋文庫の基礎をつくった人です。小説の世界と学者の世界は違うんです。芥川の『杜子春』なんかも石田先生が提供した資料を使ったんですよ。何?石田幹之助も東洋文庫も知らない?」

「石田教授の師は、『邪馬台国北九州説』を主張した東京帝大の白鳥蔵吉です。『邪馬台国畿内説』を唱えた京都帝大の内藤湖南と大論争になりました。えっ?それも知らない?嗚呼…嗚呼…」

「君たちはどう生きるか」が100万部のベストセラー〜谷崎〜西郷〜【動画】東京驛舎

今、吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」が漫画化(羽賀翔一)されて、ベストセラー(マガジンハウス)になっているというので、《渓流斎日乗》に書くためだけにわざわざ買って読んでみました。

先日買った時点では「70万部突破」でしたが、今朝の新聞を見たら一面広告で、「100万部突破」の大ベストセラーになっていました。

原作の出版は、支那事変が開始された昭和12年(1937年)と言われてますから、何で、80年も昔の本が漫画とはいえ、急に蘇っってブームになったのか不思議です。

識者の中には「暗い軍国主義の世の中になる時代と、21世紀の『戦前』と共通点があるから」と仰る方もいますが、読んでみれば、コペルニクスやニュートンら科学者が多く登場し、政治家として出てくるのは異国の英雄ナポレオンぐらいです。それより、学園内でのイジメや、貧富の格差、友情と裏切りといった今でも通じる普遍的な若者が抱く悩みや疑問が描かれています。

作者の吉野源三郎は、東京高等師範〜一高〜東京帝大卒という絵に描いたような知的エリートです。戦前、治安維持法で逮捕された経歴があり、戦後、岩波書店の雑誌「世界」を発行し、戦後民主主義を代表する進歩的知識人と言われています。

昔でしたら、話はこれで終わっていましたが、今のようなネット時代では、極左から極右まで色んな方が発言されたり、フェイクニュース、フェイスブックならぬフェイクブックも横行したりして、あまりにもの情報過多で思想信条がグラつき眩暈が起きることでしょう。

「君たちはどう生きるか」は、叔父さんが甥っ子に手紙などで語りかける手法で、人生の先輩として若い人に一つの指針を示す様が描かれています。その中で、自分の信念を持つことの大切さを説くあたりがが印象的でした。

まあ、あまりネット情報に左右されないことが肝心ですよ。

(一昨日からの続き)

日本橋人形町は、文豪谷崎潤一郎生誕の地で、私の大好きな歴史的碑が立っていました。

詳細は上記の写真をお読みください。

昨日から始まったNHKの大河ドラマは「西郷どん」。「七福神めぐり」で日本橋人形町を彷徨いていたら、偶然、魚久本店を通り掛かり、店前に上の写真の通りの「由来」を発見しました。

江戸末期、姫路藩主酒井家の屋敷があり、維新後、参議になった西郷どんが居を構えた、と書いてありますね。

ここだったですか。

最後に「おまけ」は今年のお正月2日の東京驛前風景の動画です。100年もすれば、歴史的価値が出るやもしれません。まさか(笑)。

 

【動画】新年一般参賀に伺候仕り候

大晦日の日、極右超国家主義者の栗林先生から、極左無政府主義者、実は単なる日和見主義者の渓流斎に「果たし状」が舞い込んできました。

「新年一般参賀に伺候仕り候。つきましては、1月2日戌の刻、東京驛舎附近にてお待ち申し上げ候」

一般参賀は昨年もお伺いしましたので、どうしようかと思いつつも、逃げの小五郎では男が廃る、男の恥ということで果たし状を受けることに致しました。

2018年の新年一般参賀 見えない

来年は今上陛下がご退位されるということで、世間の関心がいや増したせいなのか、前年と比べてかなり多い人手に見えました。

宮内庁の発表によると、昨日は平成最多の12万6720人が参賀したそうです。道理で。

大、大、大行列で、実に一時間半並び、確保できた場所も、昨年と比べてかなりかなり遠方で、上部にアップした動画の如く、小旗で前方がほとんど見えない状況でした。

再挑戦

頑張って、再挑戦してみましたが、ほとんど変わりがなく、昨年も大変でしたが、昨年は場所的に如何に恵まれていたのかということが初めて分かりました。

そこで、改めて、下部に昨年、小生が捉えた一般参賀をアップすることに致しました。

2017年の新年一般参賀

栗林先生と小生は、思想信条が全く真逆ですが、歴史好きで、「伝統文化を重んじる」という意味では共通点があります。

何時間も一人でジッと並ぶことは精神的に耐えられませんから、二人で並んでいる間中、小生は一人で、徳川四天王のその後移封された藩のことや、ヴェルサイユ体制のことなど、この《渓流斎日乗》に一度書いた「受けおり」の話などを一方的に喋って、並ぶ苦痛を軽減することができました。

この後、皇居〜千鳥ヶ淵戦没者墓苑〜靖國神社参拝と昨年と全く同じコースを辿り、これまた昨年と同じ神保町のサイゼリヤで、イタリア製ワインのボトルを2人で2本も開けて懇談致しました。

この日は、1万5000歩近くも歩いたので、私は疲労困憊でしたが、栗林先生は日頃から鍛えているので、疲れなど何処を吹く風。

栗林先生は、恩給を受けられているほどの御年ながら、御自宅近くの身躰向上倶楽部で週に7里も泳ぎ倒し、超美人の淑女とは週数回交際されているという噂の超人的身躰機能の持ち主です。羨ましい限りです(笑)。

先生は、今、人生で最も充実しておられるということを、熱く語る政治思想の話とは違って、滔々と話しておられました。

御馳走様でした。