邪馬台国の久留米・八女説、鎌倉幕府成立、咸宜園、吉田ドクトリン…は「日本史の論点」で学びました

アルハンブラ宮殿の天井画(イスラムは偶像崇拝を禁止しているのに、このような具象画があるのは極めて珍しいとか)

中公新書編集部編「日本史の論点 邪馬台国から象徴天皇まで」(中央公論新社、2018年8月25日初版)も、スペイン旅行の際に持って行った本でしたが、なかなか面白くて、往復の飛行機内では、かかっている映画で面白い作品が少なかったので、専ら読書に耽っておりました。

第1章の古代が倉本一宏・国際日本文化研究センター教授から始まり、中世は今谷明・帝京大学特任教授、近世が大石学・東京学芸大学教授、近代は清水唯一朗・慶大教授、現代が宮城大蔵・上智大教授と、「今一番旬」と言ったら語弊があるかもしれませんが、最先端の歴史家を執筆陣に迎え、最新の「学説」を伝授してくれます。

歴史は時代を映す鏡ですから、その時代によって変化するものです。最近では、学校の教科書から聖徳太子や坂本龍馬の名前が消えると話題になったり、鎌倉幕府の成立が、これまでは、「いい国つくろう」の1192年(源頼朝の征夷大将軍就任)だったのが、壇ノ浦の戦いで平家が滅び、頼朝が守護・地頭を置く文治勅許を獲得した1185年が、現在学界では圧倒的な支持を得ていることなど初めて知り、勉強になりました。

「日本史の論点」ですから、各時代で、長年論争になってきた「課題」が取り上げられています。

例えば、畿内説と九州説との間で論争が続いてきた「邪馬台国はどこにあったのか」。古代の倉本一宏氏は、纏向(まきむく)遺跡発掘により畿内説が学界では優勢になっているのものの、同氏はあえて九州説を取っていました。邪馬台国の邪馬台は「やまたい」ではなく、「やまと」と読むことが適切だとして、福岡県の久留米市と八女市とみやま市近辺が筑紫の中心だったと考え、この地域で灌漑集落遺跡が発見されれば、そここそが邪馬台国の可能性が高い、という説を立てておられました。

ちなみに、小生の先祖は、久留米藩出身なので、遺跡が見つかればいいなあと応援しております。

古代史専門の倉本氏はこうも力説します。「武家が中央の政治に影響力を持ち、政治の中心に座ったりすると、日本の歴史は途端に暴力的になってしまった。…もちろん、『古代的なもの』『京都的なもの』「貴族的なもの」がいいことばかりではないことは、重々承知してはいるけれども、苦痛を長引かせるために鈍刀で首を斬ったり、…降伏してきた女性や子供を皆殺しにしてしまう発想は、儒教倫理を表看板にしている古代国家ではあり得ないものであった」と。

これは、「古代=京都=公家=軟弱・ひ弱=陋習=ネガティブ」「中世以降=武士=実力=身分差別なく能力主義で這い上がれる=ポジティブ」といった固定されたイメージを覆してくれるものでした。

他にも色々取り上げたいのですが、あと2点ほど。まずは、近世を執筆した大石氏によると、江戸時代は義務教育はなかったが、人々は知識に対して貪欲で主体的に勉強したといいます。その一例として、大分県日田市(天領)にあった「咸宜園(かんぎえん)」を挙げております。

これは、1817年(文化14年)、儒学者の広瀬淡窓(たんそう)が設立したもので、全国から生徒が集まり、1897年(明治30年)に閉鎖されるまでの80年間で、5000人近くの人が学んだといいます。生徒たちは何年間もここに下宿して勉強し、長州の大村益次郎も学んだ一人だったそうです。

◇吉田ドクトリン

話は飛びますが、永井陽之助(東工大教授)や高坂正尭(京大教授)らの説を引用して「現代」を執筆した宮城氏によると、戦後の吉田茂路線(ドクトリン)とは、「軽武装」と「経済」を重視する政治的なリアリズムだったといいます。

そして、1951年のサンフランシスコ講和会議に池田勇人蔵相の秘書官として随行した宮澤喜一(後の首相)は、54年に吉田が首相の座を追われて鳩山一郎政権が成立すると、危機感を持ったといいます。56年には「暴露本」のような「東京ーワシントンの密談」(中公文庫)まで出版します。その理由について、宮澤は、五百旗頭真氏らのインタビューで、GHQによって追放されていた鳩山や岸信介といった「戦前派」が復活して、彼らの信条通りの政治が実現すれば、明らかに戦前に遡ってしまい、せっかく、吉田茂や池田勇人と一緒になってつくった戦後の一時代が終わったと思ったからだといいます。

同じ自民党でも、昔は、中選挙区だったせいか、派閥があり、同じ保守でも思想信条がハト派からタカ派まで両極端な政治家が同居したいたことが分かります。

言うまでもないことですが、今の安倍晋三首相は、「戦前派」の岸信介元首相の孫に当たります。安倍首相が「戦後レジームからの脱却」を目指して憲法改正を主張するのは、遺伝子のせいなのかもしれません。

まだまだ、書きたいのですが、この辺で。

 スペイン・アルハンブラ宮殿

東方社と原善一郎について御教授賜りました

一昨日6日に開催されたインテリジェンス研究所(山本武利理事長)主催の午後の講演会では、新たにお二人の研究者の発表がありました。

◇東方社研究のこれまでとこれから

お一人は、京都外国語大学非常勤講師・政治経済研究所主任研究員の井上祐子氏による「東方社研究のこれまでとこれから―井上編著『秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争―東方社が写した日本と大東亜共栄圏―』の紹介を兼ねて―」というお話でした。

タイトルが異様に長いのですが(笑)、井上氏が今年7月にみずき書林から出版された同名書の紹介を兼ねた東方社研究発表でした。同書の内容紹介として「戦時下の日本とはどういう場だったのか。そして大東亜共栄圏のもとで各国の人びとはどのように暮らしていたのか―。陽の目を見ることなく眠っていた写真2万点のなかから200点を精選し、詳細な解説とともに紹介」とあります。

私は不勉強で東方社を知りませんでしたが、かろうじて、戦時中に戦意高揚のプロパガンダのために発行された写真雑誌「FRONT」は知っておりました。東方社は、この「FRONT」などを発行していた陸軍参謀本部傘下の写真工房だったのです。

東方社で活躍し、戦後、特に有名になったカメラマンとして、木村伊兵衛、濱谷浩、菊池俊吉らがいますが、理事として、ヴァレリー研究家でフランス文学者の中島健蔵がかかわっていたとは知りませんでしたね。(彼の経歴ではあまり触れられていません)もちろん、評論家の林達夫が第3代理事長で、岩波書店社主の岩波茂雄に資金面で援助してほしい旨の書簡まで送っていたことも知りませんでした。

井上氏の編著書は労作です。2万点のネガから200点を精選したということですが、キャプションがないので、本当に大変だったと苦労話を披歴しておりました。写真に写っている背景の看板や標識などから、場所や時代を特定したり、写っている人物が分からないので、戦時中の新聞を何時間もかけて照合してやっと特定するという作業をやってきたそうです。

講演会後の懇親会で、井上氏本人に伺ったところ、膨大なネガは、旧所蔵者の遺族の皆さんだけでは、維持・管理が難しいため、政経研で受け入れることになったそうです。

歴史的に貴重な遺産がこうして陽の目をみたのは、井上氏らの功績でしょう。

◇原善一郎とは何者か?

もう一人は、大阪音楽大学音楽学部教授の井口淳子氏で、講演タイトルは「戦時上海の文化工作―上海音楽協会と原善一郎(オーケストラ・マネージャー)」でした。

井口氏によると、上海音楽協会とは、 1942年6月、外務省、興亜院、陸海軍の監督の下、上海在住の民間人によって設立された文化工作を目的とした財団法人で、その中核は、上海交響楽団による公演活動でした。戦時中、日本国内では、「敵性音楽」演奏は禁止されていたと思いますが、外地ではかなり頻繁に公演会が催されていたようです。

私は全く存じ上げませんでしたが、原善一郎(1900〜51)という人は、同年10月頃からこの上海音楽協会の主事(オーケストラ・マネジャー)になった人で、戦後は音楽プロモーターとしても活躍します。

原は、経歴が大変変わった人で、長野県の貧しい農家に生まれ、旧制中学校を中退せざるを得なくなり、横浜の貿易会社松浦商会に入社します。同商会の哈爾浜(ハルビン)支店に派遣されたことが、彼のその後の人生を大きく変えます。哈爾浜学院でロシア語を習得したお蔭で、その語学力が認められて、1925年、山田耕筰と近衛文麿による「日露交歓交響管弦楽演奏会」のマネジャーに抜擢されます。翌26年から35年にかけて、新交響楽団のマネジャーを務める一方、上海在住のユダヤ系ラトヴィア人音楽プロモーター、ストロークの片腕となり、海外演奏家のマネジメントやラジオ放送出演などを協力したりします。

42年から上述通り、上海音楽協会の主事を務め、上海交響楽団プロデュース。その後、ハルビン交響楽団(朝比奈隆指揮)にも関わります。戦後は、その朝比奈に請われて、関西交響楽団の専務理事を務めることになります。

1951年、世界的なバイオリニスト、メニューヒンの日本公演を興行主ストロークとともに、東奔西走しているうちに過労のため朝日新聞社内で心臓発作を起こし、そのまま帰らぬ人となりました。享年50。以上、これらは井口教授の調査によるものです。

敗戦後の哈爾浜学院

皆様御案内の通り、私は個人的に、哈爾浜学院には思い入れがありますので、関係者にこの「原善一郎」について、学院の卒業者名簿に当たってもらったところ、本科の正規生として「該当者なし」ということでした。ただ、哈爾浜学院には、本科以外に、軍部や外務省、満鉄などから派遣された特修科(専攻科)生がおり、こちらは故意なのか、名簿を残さなかったか、散逸したか、なので、原善一郎はそちらに所属していた可能性があるようです。

なぜなら、原善一郎は「参謀本部の嘱託として宣伝の仕事をしていた」という土居明夫(元陸軍中将)の証言があるからです。

最後に、井口教授は「戦争がなかったら、原善一郎は山田耕筰や近衛秀麿らと知り合っていなかったことでしょう。音楽マネジメントには『記録は残さない』という不文律があるため、詳細について残っていない。まだまだ原善一郎に関しては謎が多い」と結んでおりました。

私も文化記者時代の25年ほど前に、東京のホテルオークラで朝比奈隆にインタビューしたことがありましたが、上海やハルビンの話も原善一郎の話も全く耳にしませんでした。

いずれにせよ、お二人の意欲的な研究には頭が下がる思いで拝聴しました。

📖中島健蔵「昭和時代」(岩波新書、1957年)

📖多川精一「戦争のグラフィズムー回想の『FRONT』-」(平凡社、1988年)

📖岩野裕一「王道楽土の交響楽ー満洲知られざる音楽史」(音楽之友社、1999年)

「文化学院」は参謀本部の謀略放送拠点として接収されていた

10月なのに、秋の気配がなく、30度を超える真夏日が続いてます。

 昨日は、インテリジェンス研究所(山本武利理事長)と早大20世紀メディア研究所共催によるインテリジェンス見学ツアーに公認記者(笑)として潜入し、その後のセミナーと懇親会にも参加してきました。

どなたでも参加できるのに、参加者は25人ほどで年配者が多かったです。

見学場所は、東京・御茶ノ水にあった「駿河台技術研究所」(偽装用の表看板)です。陸軍参謀本部が昭和18年から敗戦まで、連合国の捕虜や日系人から抜擢した人を使って、米兵らに厭戦、反戦運動を盛り上げる謀略工作として、英語のラジオ放送番組(ニュースやドラマなど)を制作した拠点(駿河台分室)でした。

「東京ローズ」が活動した場所と言えば分かりやすいかもしれません。(インテリジェンス研究所の則松久夫理事の論考によると、東京ローズは日系二世のアイバ・戸栗・ダキノ(1916〜2006)が最も有名ですが、東京ローズは、他にも複数いたようです)

駿河台分室は、もともと、文化学院の校舎を、陸軍が接収したのでした。駿河台の明治大学本校舎の閑静な裏手にありますが、こんな所にあるとは思いませんでした。文化学院は、和歌山県新宮市出身の教育者で、建築家、画家、詩人でもある西村伊作らが、大正10年(1921年)に創立したもので、与謝野鉄幹・晶子夫妻や芥川龍之介、佐藤春夫、山田耕筰、有島生馬ら当時の一流の文化人を講師に招聘し、1923年の関東大震災で校舎は焼失しましたが、昭和12年に西村伊作設計の独特のアーチを持った新校舎が再建されました。(個人的ながら、切羽詰まって2000年に熊野古道を巡礼し、熊野本宮大社などをお参りして、新宮に出て、市内にあった「西村伊作記念館」に入り、初めて彼の業績を知りました)

昭和18年に、自由主義者の西村伊作は不敬罪で逮捕され、文化学院は閉校となり、校舎を陸軍が接収したわけです。

戦後、復興した文化学院は、杉本苑子、山東昭子、十朱幸代、前田美波里、寺尾聡といった作家や俳優らを卒業生として輩出してます。(戦前、あの入江たか子も入学してました)

米軍の爆撃の難を逃れた文化学院の駿河台校舎では、昭和30年代は、同じ駿河台で戦災に遭った仏語学学校「アテネ・フランセ」(1913年創立)が仮校舎として同居していたそうです。

今現在は、面白いことに、衛星放送のBS11(ビックカメラの出資会社)の本社として使われておりました。参謀本部のような謀略放送はしてませんが(笑)、放送局として再利用しているとは、奇遇というか、何かの因縁を感じでしまいました。

惜しむらくは、ニュースにもなりましたが、2014年に両国にキャンパスを移転した文化学院は、今年18年3月で、本当に閉校してしまいました。ネット上では「駿河台の土地が乗っ取られた」などと色々と書かれておりますが、今回は、趣旨が違うので、これ以上は追及しません。

所長室などがあった2階

見学ツアーの案内人で、午後の講演会「参謀本部の謀略放送」の講師も務めた名倉有一氏によると、この駿河台技術研究所の所長は、藤村信雄・外務省アメリカ局1課長でしたが、駿河台分室そのものをつくったキーパーソンは、参謀本部第2部第8課(参八)の恒石重嗣(つねいし・しげつぐ)少佐(1909〜96、享年86)で、当時32歳。高知県出身で、陸士44期生。あの瀬島龍三と同期でした。

市井の現代史研究家である名倉氏は、30年前の1988年と恒石氏が亡くなる直前の96年に本人にインタビューしており、その一部をセミナーで公開しておりました。名倉氏の努力には頭が下がります。

名倉氏は、駿河台分室で勤務していた元外務省嘱託の池田徳眞(いけだ・のりざね)著「日の丸アワー」(中公新書)を読んで感動して、謀略放送の研究に没頭し、関連書「駿河台分室物語」まで出版されております。詳細は、同書に譲りますが、恒石少佐らが工作した女性アナウンサー「東京ローズ」は、かなり効果があったようで、戦後、GHQに付随して来日した記者らは血眼で東京ローズを探したそうです。

秘密組織ですから、駿河台分室に精密な放送設備があったかどうかは不明で、謀略放送は主に、スタッフが内幸町の放送会館(現在のNHK)(場所は、今の日比谷シティ辺り)に移動して、そこから太平洋諸島から米西海岸辺りにまで届く電波で放送したようです。

つまり、NHKは、戦前のラジオ放送から国家機関の一翼として、時の政府や政権の宣撫活動に協力的だったことが分かります。今でも変わらないのは、歴史が証明しています。

ちなみに、恒石少佐は昭和20年に中佐に昇格し、同年6月に四国の第55兵站参謀に赴任、後任の実質的責任者は、スパイを養成する陸軍中野学校出身の一二三(ひふみ)九兵衛少佐でした。

「駿河台分室」見学の後、我々は、近くの「山の上ホテル」にまで移動しました。(途中に外務省の官舎がありました。勿論、標識も何もありませんが、事情通の人が教えてくれました)

山の上ホテルは戦前は、帝国海軍が接収した官舎だったそうです。戦後は、GHQが、Hill Top Hotelと名称を変えて(翻訳して?)そのまま接収して、女性将校用に使われたそうです。

知りませんでしたね。

ただ、戦後は、売れっ子作家が締め切りに追われて使う「カンヅメ・ホテル」ということは知ってました(出版社も近いので)。もう随分昔ですが、ここで学生時代の友人が結婚式を挙げたので、参列したことがあります。その後、宿泊ではなくて、ホテル内のバーには結構足を運びましたが(笑)。

GHQの女性将校の宿舎は、この山の上ホテルから、神保町の駿河台下に行く道路を挟んだ所にある旧主婦の友社本社ビル(現日大カザルスホールなどのお茶の水スクエア)もそうだったようです。主婦の友社ビルは大正14年(1925年)、あの著名なヴォリーズ建築事務所が建設した名建築です。

このように、米軍は、戦後の占領計画を練った上で、病院やホテルを残すなどして空爆を行っていたことが分かります。つまり、東京に残っている戦前の建物は、何らかの形で米軍が占領期に再利用する計画だったというわけです。

近現代史を知り、知識が増えると、見慣れた同じ景色が一変するから不思議でした。

クールベ「世界の起源」のモデルをついに発見!

アルハンブラ宮殿

ギュスターヴ・クールベ(1819〜77)は、19世紀フランスを代表する写実主義の画家です。代表作「オルナンの埋葬」「画家のアトリエ」などはよく知られています。詩人ボードレールの肖像画も残しています。

私自身は、大学の卒論に「印象派」(モネとドビュッシー)を選んだくらいですから、フランス史の中では、19世紀の文化や、革命を挟んだ帝政、王政復古、共和制、帝政、共和制とコロコロ変わる政治体制などにも関心があり、今でも興味を持ち続けております。

さて、クールベですが、パリのオルセー美術館に行かれると、クールベ・コーナーがありますが、そこに、ほぼ等身大の女性のgenitalsのクローズアップが展示されていて、まず大抵の人は度肝を抜かされます。タイトルの「世界の起源」(46×55センチ)とは言い得て妙で、よく名付けたものです(笑)。顔は描かれていません。局部だけです。

あまりにもリアル過ぎて「これ、ゲージュツなの?」と東洋から来たおじさんは圧倒されますが、これを見る前に、2人の若い裸婦がベッドで絡むようにまどろんでいる姿を描いた有名な、あの官能的な、想像以上に巨大な「眠り」(135×200センチ、プティ・パレ美術館)を事前に見ていれば、そのドギマギ感は少し薄れるかもしれませんが(笑)。

勿論、19世紀のサロンでは、このgenitals作品は大スキャンダルとなり、すぐさま隠匿され、オルセー美術館で一般公開されるようになったのは、つい最近の1995年からでした。その前は、著名な精神科医のジャック・ラカン(1901~81)がオークションで落札して何年間も、秘蔵していたようです。

「世界の起源」は検索すればその画像が出てきますが(18歳未満お断り。ここでは載せられません!)、そのモデルは誰なのか150年以上も不明で、一時はクールベお気に入りのモデル、ジョアンナ・ヒファーナン説もありましたが、謎に包まれていました。

それが、このほど、ついにその「正体」が分かったというのです。歴史家のクロード・ショップ氏が、仏国立図書館の司書部長で美術史家のシルビー・オーブナ氏の手を借りて、小説家のアレクサンドル・デュマと閨秀作家ジョルジュ・サンド(ショパンとの関係は有名)との往復書簡に注釈を付ける作業をしているうちに、そのモデルの名前が出てきて、偶然にも発見したというのです。

写真左がモデルのコンスタンス・ケニオー、右が画家クールベ

10月2日付のニューヨーク・タイムズ紙によると、そのモデルは、コンスタンス・ケニオー(Constance Quéniaux 1832~1908)という人物でした。パリ郊外で私生児として生まれ、オペラ座バレー団の踊り子として活躍した後、膝の故障で引退し、その後、高級娼婦になります。今ではすっかり忘れ去られましたが、当時は、あの楽聖ワーグナーと並び称されたオペラ作曲家のダニエル・フランソワ・エスプリ・オーベール(1782~1871)(現在は、パリ高速地下鉄オーベール駅にその名を残しています)の愛人となり、晩年はロワイヤル通りの豪邸に住み、彼女の死後は、その財産目録がオークションにかけられるほど裕福な後半生を送った人でした。

彼女がモデルになったのは1866年で、34歳ごろだったことが分かります。クールベは47歳でした。(依頼主は、当時コンスタンスを愛人にしていた元オスマントルコの外交官で超お金持ちのハリル・ベイ)その後、クールベは1870年のパリ・コミューンに参加してスイスに亡命せざるを得なくなり、不遇のうちに亡命先で57歳で亡くなります。

コンスタンスは、オペラ座の踊り子としてはかなり才能があったらしく、1854年の新聞の批評欄でも「優美で気品がある」と褒められています。詩人で批評家のテオフィル・ゴーティエも注目したようでした。

時は、日本で言えば、幕末の話です。現代人の感覚では、娼婦から愛人という遍歴は、眉をひそめるかもしれませんが、150年前は、田舎出の、しかも、私生児として生まれた女の子が、社交界にデビューするなり、それなりの地位に昇る手段の一つだったのかもしれません。富裕層は、劇場などに出かけては踊り子や女優らを自分の愛人にする時代でした。

 クールベも依頼主のベイの2人とも不遇のうちに亡くなりました。でも、コンスタンスの場合は、美貌と才覚に恵まれたおかげか、「成功者」として穏やかな晩年を過ごしたようでした。享年75。

松岡將著「在満少国民望郷紀行ーひたむきに満洲の大地に生きて」は浩瀚な労作でした

もし、私が「松岡総裁」と親しみを込めて呼んでいる松岡將氏と、面識を得ることがなかったならば、これほど、日本近現代史の「汚点」と言われた満洲問題について興味を持つこともなく、かつて満洲と呼ばれた現中国東北地方を実際に旅したりすることはなかったことでしょう。

松岡総裁という呼称は、日本の首席全権代表として国際連盟を脱退して有名な松岡洋石が、南満州鉄道(満鉄)総裁を務めたことがあったことから、私が勝手に(笑)、その名前にちなんで付けたものですが、松岡氏の御尊父は、松岡二十世(まつおか・はたよ)という戦前の労働問題専門の知識人でした。ゾルゲ事件で処刑された元朝日新聞記者の尾崎秀実と東京帝大法学部~大学院で同級生で、北海道で農民運動に挺身して治安維持法で逮捕され、その後、家族とともに満洲に渡り、敗戦後はシベリアに抑留されて帰らぬ人となった人でした。私も個人的に興味がある甘粕正彦が理事長を務めた満洲映画にも携わったことがある人で、それらの経緯については、松岡將氏の「松岡二十世とその時代」(日本経済評論社)に詳しく書かれております。

さて、松岡氏(昭和10年2月生まれ)自身は、日本の最高学府を卒業して霞が関の官僚となり、退官して老境に入ってからも拘り続けたのは、国民学校一年生の6歳から11歳までの5年間、「在満少国民」として過ごした満洲のことでした。それなりに家族団らんもあり、平穏な暮らしが一変したのは、1945年8月9日、日ソ中立条約を破棄したソ連軍による侵攻でした。松岡氏は、ソ連軍の蛮行を目の当たりにし、父親が行方不明で、命からがら大陸が引き揚げるという壮絶な筆舌に尽くしがたい体験をしただけに、忘れよと言われても一生忘れることはできないことでしょう。

その後、松岡氏は退官して時間的に余裕ができるようになってから、旧満州の地を何度も訪れ、数千枚もの写真を収めてきました。例えば、かつてのお城のような形をした日本の関東軍司令部の庁舎が、そのまま壊されずに現代でも中国共産党吉林省委員会として使われたりしています。そこで、現在と昔を比較した「今昔物語」としてセンチメンタル・ジャーニーを写真入りでまとめたものが、「在満少国民望郷紀行ーひたむきに満洲の大地に生きて」(同時代社、2018年9月30日初版、3000円+税)というタイトルでこのほど出版されました。

この企画については、私自身は以前から、スライドショーとして拝見したり、お話を伺ったり、事前にゲラまでお送り頂いたりしておりましたが、実際に出来上がった本を見て吃驚です。262ページの横変型のB5判というのでしょうか。しかも、百科事典のような重さです(笑)。

これなら、皆様に購入して頂くのが一番ですが、全国の自治体の図書館や、中・高・大学の付属図書館でも取り揃えてもらい、後世に伝えてほしい一冊です。

大連~奉天(瀋陽)~新京(長春)~哈爾浜。私も中国新幹線「和諧」号に乗って2014年7月17~23日にかけて旅行をしたことがあるので、写真を見て大変懐かしい気分になりました。何と言っても、中国が凄いところは、あれほど、「偽満洲」と全面的に否定しておきながら、かつての日本のヤマトホテルは現在でもホテルに、旧満州中央銀行は、中国人民銀行吉林省支店にするなど、そのまま再利用していることです。韓国が、近代建築の粋を集めた旧朝鮮総督府を破壊してしまったのとは正反対です。

以前(5年前の2013年)、松岡氏が「松岡二十世とその時代」を出版された時に、あまりにも多くの史料が引用されていたことから、私は不用意にも「随分たくさんの資料を持ち帰ることができたんですね」と感想を述べたところ、氏から「着の身着のまま、裸一貫でかろうじて帰国できたのですから、そんな資料なんかあるわけありません。一から、いや、ゼロから集めたのです」と真顔で反駁されたことがありました。

国家と歴史に翻弄された引揚者の苦労を知らない、書物でしか知らない戦後世代の甘さを痛感し、恥じ入ったものでした。

松岡氏は敗戦直後、新京(長春)に留まらざるを得なかった際に、市内で銃撃戦に遭遇したり、ソ連兵による暴行を見聞したりしたらしいのですが、この本ではあまり深く触れておりません。

松岡氏は、この本を通じて、満洲の「負の遺産」以外のものを伝えたかったのではないかと私は思いました。そして、ただひたすら「ひたむきに満洲の大地に生きた」この記録が、後世に伝えるべき「歴史の証言」となっており、特に、こんな時代があったことさえ知らない多くの若者には、この本を手に取って読んでほしいとも思いました。

イエメン難民が済州島に押し寄せ、韓国で難民法見直し署名が殺到

はるか遠く中東のイエメンでは、2015年から、またまた内戦が続いています。1990年に南北イエメンが統一された後の94年にも内戦がありましたから、色んな複雑な要素が絡んでいて一言では説明できません。

今回、3年以上続いている内戦は、イスラム教スンニ派が主導するサウジアラビア中心のアラブ連合軍が支える暫定政権と、イランの後押しを受けるイスラム教シーア派の武装組織フーシ派が対立する構図で、要するに、イランとサウジの「代理戦争」とみられているという報道がありましたが、これが一番分かりやすいです。

小生のようなフランスかぶれにとって、イエメンという土地は、仏象徴派詩人アルチュール・ランボーが20歳で筆を折った後、貿易商というより武器商人として拠点にしたイエメンのアデンという港町が非常に印象深くインプットされております。(アデン発のランボーの手紙が多く残っています)

いずれにせよ、その現代のイエメンでは、日本ではほとんど全くといっていいくらい報道されていませんが、内戦という名の残酷な殺戮が毎日のように行われ、多くの難民が国外に逃亡しています。

はるか遠くの中東の話なので、日本や東アジアは関係ないと思っている人が多いでしょうが、今、そのイエメン難民が韓国の済州島に押し寄せて、問題になっているというのです。

このことについては、小学館系のネットメディアNEWSポストセブンに9月4日付で寄稿したノンフィクション作家前川仁之氏の現地取材記事「済州島にイエメン難民続々、反対派韓国人『ニセ難民』と批判」に詳しいので、ご興味のある方は、リンクを貼らせて頂きましたので、クリックしてお読みください。

何で、遠くアラビア半島の南端に位置するイエメンの難民が、はるばる済州島にまでやってきたのかー? 前川氏はこう書いております。

済州島では2002年以来、観光促進のため諸外国からの旅行者に対し、30日間までノービザで滞在できる制度をとっている。そこへ持ってきて昨年12月、マレーシアのクアラルンプールと済州島をつなぐLCCの直行便が就航したのである。内戦状態のイエメンから、近隣諸国を経てマレーシアまで逃げて来ていた人々はそこでの滞在期限に追われ、今度は直行便に乗って済州島までやって来る。こんな具合にして今年の1月から5月までに560名以上のイエメン人が来島し、難民申請を出したのだった。」

東南アジアのインドネシアは世界最大のイスラム国であり、隣国のマレーシアは、イスラム教を国教と定めています。つまり、アフリカもアラビア半島も東南アジアも、イスラム・ネットワークでつながっているわけです。

そして、格安航空で済州島に逃れてきたイエメン難民に対して、韓国国内では「難民法の見直しを求める市民のネット署名が、1カ月で70万人を超えた」というのがこの記事の趣旨です。

現在、日本でも移民・難民問題がクローズアップされる一方、「観光公害」まで叫ばれておりますから、この韓国のケースは、日本の近未来であり、幕末の「鎖国か」「開国か」に匹敵するぐらいの決断を迫られているのかもしれません。

魚住昭氏著、講談社の創業者野間清治物語に瞠目

 昨日の台風21号は、関東地方は電車が遅れる程度で、お店は全開、大きな影響はなかったのですが、関西地方は台風襲来で大変だったようです。
 京都にお住まいの京洛先生は「午前中で、商売を切り上げる店が殆どで、『コンビニ』も同じで、アテにできません。大手デパートはすべて『休業』です。交通機関も同様です。JRは在来線は全面運休で、まるで台風を使った『戒厳令』の予行演習、予備訓練です。『家に閉じ籠もって、政府PR機関のテレビでも見ていろ!』という事です」と憤慨されておりました。
 そして、「貴人も、アホなチンピラにアタマに来るより、そうしたチンピラがもっと増殖して、そのチンピラどもによる騒擾事件が暴発、拡大する日本の近未来をもっと予想して、対応しないとダメですよ。そう考えると『戒厳令』の予行演習は必要ですかね」と、何だかよく分かりません。まるで自暴自棄です(笑)。 
 続けて「こんな時に、都内では、世論支持率1%の『国民民主党』が新代表を選んだ、という事ですが、小、中学校の生徒会の会長選びみたいなものです。
 玉木代表以下、”幹部の顔”は、人生の辛酸など舐めたことがない人々で、顔を見たら分かります。これでは、海千山千の自民党の二階幹事長にはやられますね。どうして、こういう”紳士服の青山”のモデルのような容貌の面々が選挙で当選するのですかね? すべて、一票を投じる有権者の責任です。”トランプ批判”するより、日本のマスコミは『有権者批判』と日本人の頭脳構造を分析して、覚醒させる方が先決です」と、全うなことを仰るのです。
 それにしても、「”紳士服の青山”のモデルのような容貌」とは秀逸ですなあ(笑)。まあ、政治家は国民が税金で養っているわけですから、これぐらいの批判には耐えなければならないでしょう。
◇◇◇
その京洛先生、毎日、毎時、ピンと張り詰めたアンテナを張り巡らして情報収集に努めており、私もその「おこぼれ」に預かっております。
 昨日は、講談社の創業者野間清治の伝記をノンフィクション作家の魚住昭氏が、インターネットの「現代ビジネス」で発表しているから是非読むように、と勧められました。
 「大衆は神である」という大きなタイトルで、「現代では批判にも多くさらされている既存メディアはどのように誕生し、大きくなっていったのか。ノンフィクション作家の魚住昭氏が極秘資料をもとに紡いでいく」と銘打っております。
 極秘資料ですから、面白くないわけがありません(笑)。魚住氏は「野間はズボラで、遊び好きで、借金まみれの放蕩生活を沖縄で送ってきた。それでも野心だけは人一倍あったようだ。」と書きます。野間は、東京で一旗揚げる前に、沖縄で教師をしていたことがあります。

 魚住氏は、日本共産党の指導者として有名な徳田球一(とくだきゅういち・沖縄県立中学出身)の証言を引用します。

〈琉球というところは、中学の先生はほとんどよそからきた人だから、琉球人を特別に軽蔑するので、われわれはいつも団結して反抗した。その先生どもは、いずれもいいかげんな検定をとって琉球に流れてきた連中なので、質がわるく、高師(=高等師範学校)をでたものは十五、六人のうち二、三人で、大学など出ていようものなら、くるとすぐ首席か校長になってしまうというありさまだった。そのなかでも、とくにわるい先生だとおもったのは、のちに講談社の社長となった野間清治だった。野間は私が中学一年のときの漢文の先生だったが、漢文などはほとんど知らない。教室では石童丸(いしどうまる=出家した父を探して幼子が高野山を訪ねる仏教説話)の話や、講談、なにわぶしのようなことばかりやっていた>

<しかもかれは、遊廓を宿舎とし、まいにちそこから酔っぱらって出勤した。かれももちろん、いいかげんな検定をうけて流れてきた部類なのだが、収入は一月四十円か五十円とっていたはずで、遊廓にとまっても、一ヵ月十円ぐらい、一里の道を車でおくりむかえされ、さんざん酒をのみ、女あそびをしても二十円ぐらいですんだときだから、らくにやってゆける。だからかれのような人間にとっては、琉球はたしかに天国であったろう。しかし、われわれにとっては、地獄であった〉(『獄中十八年』)

1950年代に作成された講談社の「極秘資料」には、将来の歴史学者やジャーナリストの批判にも応えられるよう、良い事も本人に都合の悪いことも書かれているというので、確かに「超一級資料」と言えるでしょう。
 やはり、ネットでは読みにくいので、早く単行本になってほしいものです。
 【追記】台風21号の影響で、京都の二条城や西本願寺など国宝、重文建築が損傷したそうです。やはり、相当激しかったのですね。

渓流斎上等兵、名誉の負傷で勇気ある撤退=金鑚神社参拝はまた次の機会に

本庄城址

ベルリン方面から「ミッション・インポッシブル」の指令が至急便のMP3で来ました。

映画のトム・クルーズ気取りもいいですが、これは映画ではなく、現実の指令です。都心から80分、埼玉県の本庄市に鎮座する「金鑚(かねさね)神社」は一度参拝することですね。ブログのネタになりますよ(笑)。「本殿」を設けない神体山(しんたいさん)を「本殿」とする神社は、日本広しと言えども、長野の「諏訪大社」と、奈良の「大神(おおみわ)神社」と、この「金鑚神社」の三つの神社しかありません。是非、このミッションの実行を。なお、このMP3の音声は、終了後、直ちに消去されます。。。。

うーん、スパイ映画みたいですね。

でも、私自身、本庄市は何度も通過したことはあっても、生まれてこのかた、一度も行ったことはありません。ちょっと調べたところ、市の名前の由来になった「本庄城址」もあるじゃありませんか。それに、私も大尊敬する、盲目のハンデを乗り越えて「群書類従」を編纂刊行した国学者の塙保己一(1746~1821)の出身地ではありませんか。この人、国際的にも有名で、あのヘレン・ケラーにも影響を与えたと言われてます。これは行くしかない。

しかし、高崎線本庄駅に到着して驚きました。ほとんど人が歩いておらず、駅前商店街は、今、全国的に何処でもそうでしょうが、シャッター商店街で、ほとんど開いてません。

私は無鉄砲ですから、行けばどうにかなるだろうとほとんど計画せず、行ってみましたが、観光案内所も見つからず、そのまま、北口の自転車屋さんに向かいました。レンタル自転車を借りるためです。(500円也)

私は、城好きですから、まず向かったのは、本庄城址。途中、高校生らしき少年に道を聞いたところ、市役所の裏手当たりだと教えてくれました。高校野球の熱戦も観ないでご苦労様なことでした。

城山稲荷神社

何回か、行ったり来たり、ウロウロしていたところ、城山稲荷神社の鳥居近くに看板が見つかりました。本庄城の由来は、「本庄実忠が弘治2年(1556年)に築城した平城である。云々。。。」と書いてありますから、そちらをお読みください。

この後、本庄市の「歴史民俗資料館」に立ち寄りました。何と、入場料無料。驚きました。上野の東京国立博物館で見た縄文土器と違わない立派な土器が展示されていたのです。えっ?本庄って、縄文文化もあったそんな古い土地だったんですか?

親切な64歳ぐらいの学芸員さんが出てきて「何でも質問してくだい」と言うので、「これから、金鑚(かねさね)神社に行きたいんですが」と道案内を乞うと、「そりゃあ大変ですよ。本庄市内には金鑚神社がたくさんありますけど、実は、皆、分社なんですよ。長野の『諏訪大社』、奈良の『大神(おおみわ)神社』と並ぶ本殿のない日本の三大神社の一つに行かれたいんでしょ?それは、本庄市じゃないんですよ。それは、隣町の神川町にあるんです。行政区画で、この地図は本庄市の発行ですから、ここには載ってないんです。えっ?自転車ですか?そりゃあ、無理とは言いませんけど、大変ですよ。山の方ですからここから上り坂になってますからね」と仰るではありませんか。

とにかく、決めたことですから、行くことにしました。

そば蔵「ざるそばセット」1050円

途中、主要幹線道路にあった「そば蔵」で腹ごしらえ。えらい別嬪さんが給仕してくれました(笑)。駅前商店街は寂れてましたが、皆さん、車社会なので、道路沿いには色々と食べ物屋さんは見つかりました。

さて、出発。学芸員さんの話だと、本庄駅の踏切を越えて、新幹線の「本庄早稲田駅」を越えて、関越高速道路を越えて、八高線の児玉駅まで1時間ぐらい。そこから、金鑚神社まで1時間はかかるということでした。

途中の関越高速道路の渦巻き道路に立ち塞がれて直進できず、道を間違えて迷ってしまいました。また、元に戻って、右側の歩道を走ったら、「抜け道」が見つかりました。初めて行く所は本当に大変で難所でした。

渓流斎上等兵(ポツダム伍長)名誉の負傷。軽傷ながら出血

そんなこんなで、自転車で走っていたところ、側道の溝に落ちそうになり、ブレーキをかける暇もなく、すっ転んでしまいました。痛いの何の。気が付いたら、青空が見えました。昔なら、何ともないのに、経年の結果、体力は落ちましたが、運動神経も反射神経もなくなっておりました。ズボンが破けるくらいですからね。

「こりゃあ、もう無理だな」と内心自覚しまして、ずる賢いことを考えました。「そうだ、このまま、児玉駅まで行って、そこからタクシーに乗って、金鑚神社に行ってしまえ」と。

ケガをした所から、児玉駅まで30分近くかかりましたが、駅も小さく、何と、タクシーが一台もないのですよ!

競進社模範蚕室

「仕方ない。行ける所まで行こう」ということで、途中、児玉駅近くの「競進社模範蚕室」(明治27年、木村九蔵が建設)や「塙保己一記念館」(何と、ここも無料)に立ち寄りながら、金鑚神社を目指しました。

しかし、打撲した膝は痛むし、走っても走っても、なかなか着きません。ペダルを漕ぐ力も萎えてきました。結局、自転車を返却する時間もあるので、あと数キロ手前で「勇気ある撤退」をすることを決めて、引き返すことにしました。学芸員さんの「あんな素晴らしい神社ありませんよ」という言葉が耳奥に残ってましたが、次回、汚名返上、名誉回復することにしましょう。

金鑚神社

本庄駅近くに戻って、地図だけを見て、「ここが本社」と勘違いしていた本庄市内の金鑚神社を参拝することにしました。ここは分社でしたね。

何しろ、神川町にある本家本元の本社は、欽明2年(541年)創建と言われ、天照大神と素戔嗚尊と日本武尊を祀っているというんですからね。神話ではなく、ヤマトタケルの東征の際に創建されたとされ、大和朝廷の権力が東国にまで及んでいた証左になります。

金鑚神社本殿

何度も書きますが、本庄市の金鑚神社は分社ですが、敷地も広く、格式もあり、かなり風格もありました。樹齢500年の楠木も立派でした。

皆様ご存知の関東近辺の寺社仏閣案内サイト「猫の足あと」には掲載されていないのかな、と見てみたところ、本庄市の分社は名前だけでしたが、神川町の金鑚神社(総本社)はしっかりと概要、由緒まで載っておりました。

抜かりありませんでした(笑)。

「ノモンハン事件 責任なき戦い」を見ての印象記

昨晩はNHKスペシャル「ノモンハン事件 責任なき戦い」を見てて、本当に嫌になってしまいました。

作家司馬遼太郎が、ノモンハン事件を題材にして小説を書こうと膨大な資料を集め、関係者にもインタビューしながら、あまりにも無謀で無責任な陸軍首脳部に幻滅して、「日本人であることが嫌になった」と作品化を断念した経緯があることは、つとに有名です。

ノモンハン事件は、「事件」とは言いながら、実態は戦争でした。「ハルハ河国境戦争」という歴史家もいます。1939年5月から9月に起きた、当時日本が実効支配していた満洲とソ連の衛星国だったモンゴル国境のノモンハンで起きた紛争です。日本の関東軍は2万5000人。対するソ連軍は5万7000人。しかも戦車(200両)や航空機まで引き連れてきました。

4カ月に及ぶ戦闘で日本の死傷者は2万人(ほとんど全滅)。ソ連は2万5000人。ノモンハンは今でも人が住んでいない広大な草原地帯で、約300平方キロメートルという大阪市に匹敵する広さに何千、何万という塹壕がいまだに残っており、ソ連の戦車や薬莢、手榴弾などが散乱し、日本兵と思われる遺骨まで残っていたことには驚かされました。

◇◇◇

番組では、恐らく日本初公開のロシア国立映像アーカイブのフィルムのAIによるカラー化した記録動画や、米南カリフォルニア州立大学で保管されていた150時間に及ぶ関係者インタビューテープや、ノモンハン事件の生き残り兵士で、今年101歳になる柳楽林市(なぎら・りんいち)さんらのインタビューなどがあり、見応えがありました。

21歳でノモンハンに参戦した柳楽さんの部隊166人はほぼ全滅。「兵隊を鉄砲の弾だと思っていたのだ」と、柳楽さんは79年経って今でも悔しさを滲ませていました。

「兵隊は鉄砲の弾」と思っていたのは、無謀なノモンハン戦争を立案した関東軍参謀の辻政信少佐かもしれません。周囲の上官の反対を押し切って、十分に敵の戦力を知ることもなく無謀な戦争を遂行します。司馬遼太郎が書けなかったノモンハンを、彼の編集者として取材にも同行し、遺志を継いで「ノモンハンの夏」を書き上げた作家の半藤一利氏も、辻政信を実際に取材して「絶対悪」という印象記を書いたほどでした。

番組では辻政信の次男が取材に応じて、辻政信の「父は断じて卑怯なことはしていない」という手紙を見せながら、「父は(当時)少佐ですよ。中佐や大佐や少将や中将や大将がいるので、少佐が好き勝手なことできますか?」と弁明してました。この親にしてこの子ですな。確かに卑怯なことはしていないでしょう。でも、軍人としてノモンハン2万人の戦死者の責任は誰が取るのでしょうか。

◇◇◇

150時間の肉声インタビューには、東京の大本営の作戦課長だった稲田正純参謀(大佐)、関東軍参謀だった島貫武治少佐らが登場します。「辻の声がでかくて、あいつの主張が通ってしまった」などと戦後回顧してますが、まるで他人事で責任があいまいです。ソ連軍の戦車がシベリア鉄道で大量に国境近くまで運び込まれているのを目撃したソ連駐在武官の土居明夫大佐が、辻政信に「やるべきではない」と忠告したにも関わらず、辻政信を買っていた関東軍司令官の植田鎌吉大将も、東京の板垣征四郎陸軍大臣までも黙認してしまいます。

唖然としたのは、大元帥の昭和天皇が、国境紛争にまで拡大するな、と叱責したというのに、関係者の処分もあいまいだったことです。昭和3年の満洲某重大事件(張作霖爆殺事件)、昭和11年の二・二六事件では、昭和天皇の怒りを買い、関係者の処分がされたのに、この時点ではもう軍部独走で、天皇陛下の権威が失墜していたことが分かります。これで、2年後の太平洋戦争に突入し、結果的に戦争責任があいまいになってしまうのです。

◇◇◇

番組では井置栄一中佐の悲劇も明らかにしてました。井置支隊800人は、北方フイ高地で奮戦していましたが、水食料から弾薬まで尽き、通信も遮断されたことから、残った200人余りが撤退を余儀なくされます。しかし、「無断撤退」ということで、井置中佐は、第23師団長の小松原道太郎中将や辻少佐らによる「暗黙の了解」で目の前に拳銃を置かれ、自決を余儀なくされます。

井置中佐の妻は、夫の最期が知りたくて関係者に問い合わせますが、ほぼ全員が「知らぬ、存ぜぬ」と逃げてしまいます。

作戦を立てるだけで、弾丸が飛び交って死屍累々となる最前線には行かずに安全地帯にいた辻政信ら関東軍参謀の責任はなぜ問われなかったのでしょうか。彼らは、ソ連のスターリンは、西に仇敵ドイツを控えているので、これほど大量の兵器と装備をノモンハンにまで注力できるわけがないと高をくくって、情報さえ収集せず、しかも、土居武官の忠告まで無視するのですから無謀です。

辻政信は陸軍大学を首席級で卒業した超エリートで、天才と言われたそうですが、もし、そうなら、天才というのはいかに人迷惑なのでしょう。

軍人とは言いながら、所詮、兵隊に命令するだけで、人と人が殺しあう最前線に行くことがない陸軍省の文書お役人だったということでしょう。

見てて途中で嫌になってしまいました。

平成最後の終戦記念日に思うこと

8月15日。73回目の終戦記念日です。もしくは、平成最後の終戦記念日。

8月15日は、ポツダム宣言受諾を昭和天皇が玉音放送で国民に報せた日であるので、「終戦記念日」はおかしいという学者もおります。東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリ号で降伏文書を調印した「9月2日」こそが終戦記念日だと主張します。

確かに8月15日時点で、アジア太平洋の全ての地域でピッタリと戦闘が終結したわけではなく、15日以降も特攻や散発的な戦闘がありました。

しかし、私自身、最近は、8月15日は終戦記念日でいいと思うようになりました。正確に言えば、9月2日は「敗戦記念日」です。文字通り、この日は外交上、国際法に則って、降伏文書に調印したわけですから。とはいえ、日本人は、敗戦記念日の9月2日をメモリアルデーにすることはないでしょうね。

◇◇◇

昨晩は、「日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実」(中公新書)がベストセラーになった吉田裕・一橋大学名誉教授がラジオに出演していて、思わず耳を傾けてしまいました。

吉田氏によると、アジア・太平洋戦争では310万人(軍人・軍属230万人、民間人80万人)に及ぶ日本人犠牲者を出しましたが、その9割が1944年以降と推測されるというのです。この1年間だけで軍人・軍属の戦死者は200万人以上。日露戦争は9万人だったので異常に高い数字です。(第二次大戦の敗戦国ドイツが、占領国から追放された際の死亡者が200万人という事実にも卒倒しますが)

資料が残されていないので正確な数字は推計の域は出ないものの、その戦死者の内訳として戦闘による戦死者は3分の1程度で、残りは、餓死やマラリア、赤痢などによる戦病死と、戦艦などが撃沈されたことによる海没死、それに戦場での自殺と「処置」だったといいます。

1937年に始まった日中戦争が泥沼化し、40年から国民皆兵の徴兵が始まります。末期は、若者だけでなく中年までも、そして、健常者だけでなく身体・精神障害者までもが徴兵されるようになったことから、厳しい行軍でついていけなくなったり、上官による鉄拳制裁やリンチで自殺に追い込まれたりします。また、戦場に置き去りにされたり、足手まといとして「処置」という名の下で殺害されたりしたというわけです。

吉田氏は、その背景には、「当時は、人権や人命に対する著しい軽視があった」と指摘しておりました。戦前の日本社会は、職場で、学校で、家庭で、親や教師や上司らによる、今でいう暴行や暴力が頻繁に行われることが普通で、殴られたことがないのはよっぽどのインテリぐらいだったのではないかいうのです。

特に人命軽視が甚だしい。フィリピンから奇跡的に生還した兵士も「兵隊は消耗品だった」と断言してます。まるで、日本の軍隊には「兵たん=ロジスティック」という観念がなかったかのようで、前線にいる兵士に対する補給を疎かにして、食物などは「現地調達」です。だから餓死者が出るのです。しかも、軍機保護法などで兵士には行き先も告げず、「行って来い」の片道切符のみで、二度と帰ってくるなと「玉砕」さえ命じます。

戦前も官僚制度ですから、辻政信牟田口廉也といった職業軍人であるエリート将官は優遇します。しかし、赤紙一枚で引っぱって来た兵士に対する扱いは将棋の駒の「歩」以下です。武器も、40年も前の日露戦争の「三八式歩兵銃」ですからね。圧倒的な武器弾薬と物資の補給を前線に送り、ある程度の兵士の人権を認め、戦死した場合、遺体を丁重に回収していた米軍とはえらい違いです。

そもそも、国力と技術力と戦力が全く違う米国に戦勝できるわけがなく、神風が吹くわけがなく、陰湿ないじめとリンチで自分より弱い者を自殺に追い込むのが、日本人の心因性でした。(記録には残っていませんが、かなりの精神疾患者が出たようです)

ですから、この73年前の敗戦は日本の歴史上最大の変革です。幕末も、戦国時代も、大化の改新も遠く及びません。

「他人を押しのけてでも」の立身出世主義、「余所者排除」の排他主義、「前例にありません」の事なかれ主義、「総理のご意向」の権威主義と忖度主義、友情よりも拝金主義、それでいて縁故主義と血統主義…と、臭いものに蓋をし、強きを助け、弱き挫く日本人の心因性は、将来も、そう大して変わるわけがありませんから、戦争は二度と御免です。