サントロペ…嗚呼、マリー・ラフォレさん、貴女でしたかぁ…

 学生時代は1日、16時間ぐらい音楽を聴いてましたが、最近はほとんど聴かなくなりました。一番の大きな理由は、単に流行についていけなくなってしまったからです(苦笑)。

 先日、小林克也さんの「ベストヒットUSA」というテレビ番組で、ジョーズ・ハリスンを特集しているというので、本当に久しぶりに見てみたら、目下、全米ベスト20入りしている曲もミュージシャンも一人も、一曲も知らない。それ以上に、ほとんどの曲が今、大流行のラップなので、少しも心に響かない、というか、逆に、聴いていて腹が立ってきました(失礼!)

 やはり、人間、若い頃に聴いた音楽がその後の人生を支配してしまうんですね。

 今、かろうじて聴いている音楽番組は、土曜日午前9時からNHKーFMラジオで毎週放送されている「世界の快適音楽セレクション」というゴンチチが司会する番組です。藤川パパQ、湯浅学、渡辺亨という当代一の音楽評論家が選曲する番組で、ポップスだけでなく、クラシック、ジャズ、ラテン、ボサノヴァ、シャンソン、カンツォーネ、映画音楽、戦前のディック・ミネ、戦後の植木等…とジャンルに拘らず、幅広く音楽を聴かせてくれるところが素晴らしい。私なんか、学生時代みたいに、(当時はカセット、今はMDに)録音して聴いています。

 録音するのは、大変失礼ながら、自分の好みではない音楽や、実にくだらないゴンチチの長い会話(の一部)を消去するため(ごめんちゃい)と、勿論、気に入った曲を何度も聴くためです。年を取ると好き嫌いがはっきりしてくるものです。若い頃のように「何でも聴いてやろう」という気概がなくなります(笑)。私が特に嫌いな音楽は、金属的な電子テクノ系の曲とか、何度も何度も同じフレーズを繰り返す軽薄な曲などです。逆に、好きな曲は、落ち着いたムードのあるジャズ、最近ではエラ・フィツジェラルドとかフランク・シナトラとかヴォーカルにはまっています。あとは、1960年~70年代のロック(番組では、ルー・リードやフランク・ザッパなどマニアックな曲をかけてくれます)やボサノヴァなどです。

 クラシックも、私自身は「全て聴いてしまえ!」と30歳の頃に一大決心して、モーツァルトを中心に、「三大B」のバッハ、ベートーヴェン、ブラームスからショパン、チャイコフスキー、マーラー、スメタナ、ドビュッシー、ラベル、ラフマニノフ、ストランビンスキー、ショスタコーヴィチ、それに現代音楽のグバイドゥーリアやアルヴォ・ペルトに至るまで、何千枚もCDを買い、幅広く聴いてきたつもりだったのですが、この番組の音楽選者の評論家の皆さんはさらに、その上を行っていて、ラジオではまずかけないスカルラッティとか、バッハ、ヘンデルならまだしも、私自身は名前と写真だけは音楽室だけでしか知らなかったグルックまでかけてくれるのです。実に勉強になりますよ(笑)。

 さて、昨日かかった曲は本当に、本当に懐かしい曲でした。「サントロペ…サントロペ…」と繰り返すフレンチポップスです。私が子どもの頃、よくラジオでかかっていたので1960年代初めの頃の曲です。サントロペとは、カンヌやニースと並ぶ南仏のリゾート地です。子どもながら、この曲を聴いて、「いつか行きたいなあ」と憧れたものです。

 日本に入って来る海外ポップスは、戦後はアメリカと英国にほとんど駆逐されてしまい、まず、北欧や東欧やアフリカの曲はないし、ドイツの曲さえほとんど聴かれませんでした。辛うじて、1960年代は、異色にもフレンチポップスだけは頑張っていた気がします。例えば、フランス・ギャルの「夢見るシャンソン人形」(作詞作曲は、天才シャルル・ゲンズブール)とか、シルビー・ヴァルタンの「アイドルを探せ」(作詞はシャルル・アズナブール)などです。その一連の流れで「サントロペ」もラジオでよくかかっていたと思います。

 そして、この「世界の快適音楽セレクション」という番組のお蔭で、この「サントロペ」という曲の正体が、あれから60年も経って私は初めて分かったのです。唄っていたのは、何と、アラン・ドロンの「太陽がいっぱい」で共演した女優のマリー・ラフォレだったのです。しかも、この曲は、彼女が主演した映画「赤と青のブルース」の中で歌われた曲だったんですね。1961年公開の映画ですから、私は勿論、劇場で観ていないし、テレビでもやってくれなかったと思います。少なくとも見ていません。

 「何を今さら」と仰る方は多いかと存じます。「そんなことも知らなかったの?」と。

 …はい、知りませんでした。昔は、音楽を知る手段は、レコードを買うか、ラジオぐらいしかなかったでしたからね。子どもの頃は、まず、レコードなんて買えるわけないし、コンサートなんかに行けるわけありません。テープレコーダーやカセットも当時は安易に買えたわけではないので、ラジオで流れる曲を一生懸命聴いて、それでお終い。(だから、当時は、リクエスト番組が多かったんでしょうね。)

パリ・シャンソンキャバレー「オウ・ラパン・アジル」

 その点、今の人たちは本当に恵まれていますね。今、書いてきた「赤と青のブルース」も「夢見るシャンソン人形」も検索すれば、簡単に聴けるわけですから。しかも、動画が見つかれば、彼らが、演奏したり唄ったりしている姿さえ見られます。その点、昔は、歌手と曲の名前とジャケット写真だけでしたからね(笑)。後は、想像するしかありません。

 だからこそ、子どもだった私も、「サントロペ」を聴いて、声だけで想像をたくましくしたものでした。それ以上の「情報」が得られるなんて夢のまた夢。それ以上のことを知ることができるなんて、考えもつきませんでした。

 さて、そのマリー・ラフォレは、惜しくも一昨年の2019年に80歳で亡くなりました。その当時に、この「サントロペ」のことを既に知っていたなら、悲しみはもっともっと深まっていたと思います。

同時多発的音声の処理はもう無理=音楽も聴けなくなりました

 ジャーナリストは、為政者や権力者は批判するべきですが、あまり他人を批判すると顰蹙を買いそうなので(笑)、本日は、(本日も?)自分のことを書きます。まず、隗より始めよ、です。

  私の世代は、よく「ながら族」と言われ、夜などラジオを聴きながら受験勉強したものでした。よくぞ、頭に入ったものです。若かったんでしょうね。

 そう言えば、若い時は、聖徳太子ではありませんが、何人もの友人が同時に話しかけてきても理解できたし、音楽を聴きながら、英単語と理科の化学記号を同時に覚えたりしても苦にはなりませんでした。

 それが、加齢を重ねた今はとても無理です。まず、音楽を聴くと、歌詞がないジャズやクラシックでもそれだけで手いっぱいです。特にベースラインだけとか、ビオラとチェロの絡み合いだけに注意して聴いているわけでもないのに、同時に新聞さえ読めません。もう、音楽なら音楽だけ、新聞なら新聞だけしか集中できないのです。「ながら族」失格です。ですから、最近は、あまり音楽は聴かなくなりました。昔は1日16時間は聴いていたのに、今は30分もあるかどうか…。

銀座「マトリ・キッチン」ボルシチ

 そしたら、最近、聞こえているけど聞き取れない「聴覚情報処理障害」(APD=Auditory Processing Disorder)と呼ばれる病気があることを知りました。「聴力は正常であるにも関わらず、日常生活のいろいろな場面で聞き取りにくさを感じる症状」ということで、推定で日本人の240万人、全人口の約2%が該当すると言われます。

 お医者さんは、何でも病名を付けたがりますけど、APDの人は、結構多いんですね。

  深刻な病ではありませんが、要因は、聴覚の問題でなく、脳機能の障害や発達障害、心理的ストレスなどがあるというのです。ですから、相手にはっきりと、ゆっくりしゃべってもらう、とか、BGMを消して静かな環境の下で聴くとかで、ある程度、解決できるようです。ただ、深刻なのは、手術中に医師の指示を聞くのが、騒音なのか、心理的な面なのかで、聴き取りにくくなる看護師さんもいるそうなので、この場合はちょっと大変ですね。

 私の場合、恐らくAPDではないと思いますが、もはや同時に複数の音声を聞いて情報を処理する能力は劣ったという自覚はあります。

 「だから何なのよ?」と言われそうですが、まあ、それだけの話です。何か?(笑)。

銀座「マトリ・キッチン」おすすめランチ1100円 チキンでした

【追記】

 固有名詞は出せませんが、ある著名な日本人科学者が5月に亡くなっていることが分かりました。何冊も本を出しており、私も彼の著作は数冊読んでいます。

 訃報記事は、まだどこのマスコミにも出ていませんし、勿論、ネットにも出ていなく、ウイキペディアなんかはまだ存命中の状態です。

 会社の後輩に裏を取るように言ったら、ご遺族の方針で「四十九日までマスコミに公開するのは待ってほしい」とお願いされたらしいのです。

 とは言ってもねえ…。そう言えば、数日前の某紙の広告欄にこの学者さんが商品の推薦者として顔写真入りで登場されていました。勘繰れば、コマーシャル契約があるので、亡くなったことが分かると宜しくないということなのかもしれません。いえいえ、単なる憶測ですけど…。

マルセル・プルーストを求めて

 日仏会館は、「近代日本資本主義の父」渋沢栄一と駐日フランス大使で詩人でもあったポール・クロデールによって1924年3月7日に設立されました。(渋沢は、幕末に徳川昭武のパリ万博視察の随行員として渡仏。フランスで会社や銀行などの制度やサン・シモン主義などに影響受けました)

 私は3年ほど前にやっと、大学と会社の先輩の推薦を得て会員になりましたが、コロナ禍で、月に数回、東京・恵比寿の同会館で開催される講演会や映画会などが中止となり、オンラインになりました。が、平日はなかなか時間が取れず、やっと今回、土日に開催されたシンポジウム「プルーストー文学と諸芸術」に参加することができました。

 プルーストと言えば、「失われた時を求めて」(1906~22年執筆、1913~27年刊行)です。全7巻16冊、3000ページに及ぶ大長編小説で、「20世紀最大の世界文学」という文芸評論家もいます。

 私自身は、もう40年以上も前の大昔の学生時代に岩崎力先生の授業で最初から原語で読みましたが、たった1ページ翻訳するのに、1週間掛かり、当然のことながら挫折。日本語も読み通すことがありませんでした。悲しいことに、知っているのは、第1巻「スワン家の方Du côté  de chez Swann」、第2巻「花咲ける乙女たちの影に À l’ombre des jeunes filles en fleurs」といった巻のタイトルと、第1巻に出てくる最も有名な「無意識的想起」の場面です。お菓子のマドレーヌを紅茶に浸して食べた瞬間、主人公が幼児に過ごしたコンブレーでの出来事や幸福感などが蘇ってくるというあの場面です。

 日仏会館が主催したシンポジウムは、日本とフランスの専門家20人以上をオンラインで繋ぎ、2日間でテーマが「プルーストと音楽」「プルーストと美術」「プルーストと教会/ 建築」など6以上で、休憩時間も入れて合計で11時間にも及ぶ長丁場でした。同時通訳の皆様には「大変お疲れ様でした」。

 正直申しまして、私自身は「失われた時を求めて」を完読していないので、さっぱり付いていけず「完敗」でした。ですから、小生が理解できたことだけ少し触れます(苦笑)。

 一つは、中野知津一橋大学教授の「プルーストと料理芸術」の講演の中で、あの有名なお菓子マドレーヌは、ホタテ貝の形をしているものとばかり思っていたら、19世紀では卵型が普通だったらしいということでした(アレクサンドル・デュマ「料理大辞典」1873年)。

 ホタテ貝は、フランス語で coquille Saint-Jacquesで、サン・ジャックは、キリストの弟子、聖ヤコブのことです。スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラには、聖ヤコブ(スペイン語でサンティアゴ)の遺骸があるとされ、ローマ、エルサレムと並ぶキリスト教徒の三大巡礼地になっていることから、中野教授も、マドレーヌは巡礼の隠喩になっているかもしれない、といった趣旨の話もされていました。

◇ドビュッシーとランボーは会っていた?

 もう一つ、ピアニストで文筆家でもある青柳いづみこ氏の「プルーストとドビュッシー」も面白かったです。恥ずかしながら、私は、印象派の画家モネと音楽家ドビュッシーで学士論文を書いたのですが、不勉強でプルーストには全く触れませんでした。青柳氏によると、二人はあるサロンで知り合い、プルーストが自宅にドビュッシーを招いたのですが、ドビュッシーはどういうわけか、理由をつけてお断りしたというのです。

 ちなみに、ドビュッシーのピアノ教師はモーテ夫人でしたが、その娘マチルドと結婚したのが詩人ヴェルレーヌで、一緒に住んでいたそうです。ドビュッシーがピアノを習っていた時に、あの17歳のランボーがヴェルレーヌの自宅に押し掛けていたらしく、ドビュッシーはヴェルレーヌとランボーに会っていたのかもしれませんが、うっかりそこまで知らず、意外でした。まあ、この辺りの話に全く御興味がなければ、どうでもいい話かもしませんが…(笑)。

 一番興味深かったのは、作家水村美苗氏の「母語で書くということ」でした。御案内の通り、水村氏は御尊父の仕事の関係で、小さい頃から米国暮らしが長く、英語漬けの毎日でしたが、それに反発(?)するかのように、米国では日本の古典文学にのめり込み、帰国後は、夏目漱石最後の未完の小説「明暗」を、彼女が、漱石の文体を完璧に近い形で会得して「続明暗」を完成して脚光を浴びた人です。(一度、30年も昔に、私は水村氏にはインタビューしたことがあります。当時とほとんどお変わりないので吃驚)

 ですから、水村氏は母語に大変拘わった、今でも拘っている作家で、プルーストに関しても、「本人は”世界のプルースト”になるとは思わなかたとはいえ、一番、母語に拘った作家」と分析しておりました。「失われた時を求めて」は今でも、日本では、個人による翻訳が4件も同時に進んでいるといいます。プルーストが普遍的になったのも、フランス語という世界的な欧州文明の特権的な地位があったから。それに対して、プルーストと同世代の夏目漱石は、知性的には全く劣っていないのに、日本語のせいか、世界ではほとんど知られていないという分析もなるほど、と思いました。(他に水村氏は、作品が英訳されるとグローバル化を意識してしまう、といった本筋の話をされてましたが、省略)

 ◇若い仏人はプルーストが読めない?

 「失われた時を求めて」岩波文庫全14巻(2010~19年)を、1ページごとに厖大な量の注釈と絵画や建築写真を挿入して個人訳で完成させた京大名誉教授の吉川一義氏も「今の若いフランス人は、(注釈なしで)この作品を読めるかなあ」と面白いことを言うのです。フランス語の原語を読まれたことがある方は分かると思いますが、一文がとても長ったらしく、この名詞がどこに掛かるのか、外国人は大変苦労します。

 吉川氏はフランスのソルボンヌ大学に留学して、プルーストで博士号を取った学者ですが、博士号は同然ながらフランス語で書かなければなりません。本人は謙遜されますが、自信がないので、フランス人の友人に事前に添削してもらったら、引用したプルーストの原文まで直されたという逸話を紹介しておられました。

 やはり、フランス人でもプルーストは難しいんですね。これには私も大笑いしてしまいましたが。


 

ビートルズ「ペニー・レイン」にはエッチな歌詞も?

 銀座「大海」 大分鳥てん定食 880円

◇「世界ふれあい街歩き」

 NHKの「世界ふれあい街歩き」という番組は、とっても面白い番組なので結構見ています。歩く旅人の目線になるよう特殊なカメラで撮影してくれるので、自分もその街に実際に行った気分になれます。コロナ禍で海外旅行に行けない今、ピッタリの番組ではないかと思います。

 先月は、英国のリヴァプールをやっていました。リヴァプールと言えば、ビートルズの故郷です。見逃すわけにはいきませんでした。この他、リヴァプールはサッカーの聖地でもあり、リヴァプールFCとエヴァートンFCと、二つもプレミアリーグ所属の強豪チームがあり、前者はRED(赤)、後者はBLUE(青)と、ユニフォーム・カラーの俗称で呼ばれ、街中でも”Red or Blue?” お前はどっちのファンなんだ?といった会話が交わされることもやってました。

本文と全く合っていない!(笑) ビートルズの写真にしたいのですが、他の多くの人のような著作権の違反はできませんからね(皮肉)

 そして、ビートルズでした。私が好きな彼らの曲の中でベスト5に入る曲に「ペニー・レイン」があります。リヴァプールにある通りの名前で、ジョン・レノンが少年時代に住んでいたメンローヴ・アヴェニューの家から近い所にあります。私も、リヴァプールには2度ほど訪れているので、勿論、ペニー・レインにも行ったことがあります。(ジョン・レノン自身は、労働者階級を強調していましたが、ジョンが住んだ家は中産階級が住むような住宅で、日本で言えば高級住宅街ですよ)

 番組の中でもペニー・レインは取り上げられ、そこで「出演」した市民が、「歌詞にはリヴァプール人しか分からない言葉が出てくるんだよ」と意味深なことを言っていたので、気になっていました(番組ではその答えを教えてくれませんでした)

◇奇妙な歌詞「ペニー・レイン」

 そこで、調べてみました。私も高校時代から訳してみたりしましたが、どうしても分からない単語が出てきました。例えば、Mack は、今でこそ、アップルのコンピュータか、マクドナルドかな、と想像してしまいますが、これはMackintosh のことで、Mack といえば、マッキントッシュのレインコートのことでした。当時の辞書には載っていなかったので、これが分かった時は目から鱗が落ちました。

 もう一つは、 roundabout で、これも当時の辞書にはなく、今では「ロータリー」だということがすぐ分かります。Behind the shelter in the middle of a roundabout となると、ロータリーの真ん中にある待合所ということになり、「世界ふれあい街歩き」のHPのサイトにはその写真が載っています。

 とにかく「ペニー・レイン」は奇妙な歌詞です。リヴァプール人しか分からないスラングとは、多分、 Full of fish and finger pies in summer 辺りだと思われます。ネットのサイトの中にはFour of fish and finger pies と表記して翻訳しているものがあり、このFour とは「4ペニー分の」という意味だと解説しているものもありましたが、私は一応、Full ofとします。

 直訳すると、「夏のたくさんの魚とフィンガーパイ」で、何のことかよく分かりません。それが、色んなサイトを読むと、fish とは、あの英国の定番食のフィッシュ・アンド・チップスのことであるらしい。そして、肝心なのが、finger piesで、これはリヴァプール人しか分からない俗語らしく、食べ物ではなく、女の子のprivate part を愛撫すること、または、万引きすること、なんてのもありました。これでは、米国人でも分からないでしょうね。

 でも、今はネットが発達してとても便利ですね。この曲は、メインヴォーカルのポール・マッカートニーが作詞作曲したと思われますが、ジョンも少し手伝っているかもしれません。さっきの問題個所のFull of fish and finger pies in summer ですが、Full of fish and finger piesまでは、ジョンとポール(そしてジョージも?)がコーラスでハモってますが、 in summer はジョンだけの声に私は聴こえます。「あの夏にやっちゃったんだよ」という雰囲気がよく出ています(笑)。そんな名曲を作ったポールは当時、24歳か25歳。ジョンは26歳か27歳の若さです。

◇「ノルウェーの森」は「ノルウェー製家具」

 昔はとんでもない、誤訳が多かったものです。以前にもこのブログで書いたことがありますが、例えば、ビートルズのNorwegian woodは「ノルウェーの森」と訳されてましたが、本来なら「ノルウェー製の家具」が正しい。ジョン・レノンのCold Turkey は、「冷たい七面鳥」のタイトルでシングルが発売されましたが、これは、麻薬の禁断症状のことで、今では大変な誤訳だったことが分かります。

 「ペニー・レイン」は1967年発売。私は当時小学生でしたが、ラジオで同時代で聴いてました。(その後、レコード、CDを買い、何百回聴いたことか!)でも、歌詞の意味が分かったのは、やっと54年も経ってからでした(笑)。

【関連記事】

2022年2月27日付「A four of fish に新たな解釈!=ビートルズ『ペニー・レイン』の歌詞」も合わせてお読みください。

テーマ曲が懐かしい「ゴッドファーザー」と「ドクトル・ジバゴ」を観る

 新型コロナで映画館に行きづらくなり、今掛かっている映画も一食抜いてでも是非観てみたい作品が少ないので、最近、映画館に足を運んでいません。

◇多感な十代は尾を引く

 その代わり、DVDや録画なんかで結構観ています。それも古い映画です。人間、多感な十代の頃に接した音楽や美術や建築や映画や小説などが、その後の人生の尾を引くと言われてますが、その通りですね。

 私が十代の頃は、1960年代後半から70年代半ばにかけてでしたが、その頃に聴いた音楽や観た映画は、骨身に染みていて懐かしさでいっぱいになります。

 最近観て感動した古い映画は、フランシス・F・コッポラ監督の「ゴッドファーザー」3部作です。第1作が1972年、第2作が1974年ですが、第3作は1990年公開です。もう全く説明する必要がないマフィアの映画で、私も何度か弐番館やテレビなどで観ているのですが、細かい所はほとんど忘れていて、新作を観る感じでした(笑)。それに、十代の頃に観るのと、家族を持って年を取ってから観るのでは、印象は全く変わります。

 第1部の主人公ヴィトー・コルネオーレ役のマーロン・ブランド(1924~2004年)は、70歳ぐらいに見えましたが、当時はまだ47歳ぐらいだったんですね。それにしても凄い迫力と風格でした。口の中に綿を入れて頬を膨らませたりしたらしい。アカデミー賞主演男優賞を受賞(拒否)したのに、第2作に出演しなかったのは、第1作の時のパラマウント映画社側からのオファーに不満だったブランドが、第2作の出演ギャラで折り合わなかったかららしいですね。

 第2作と第3作の主人公は、ヴィトーの跡目を継いだ息子マイケル役のアル・パチーノ(1940~)でしたが、これまた見事な老け役ぶりでした。若きヴィトー・コルネオーレ役を演じたロバート・デニーロは当時全く無名だったとか。それにしても若い。第2作で、ヴィトーの養子でファミリーの顧問弁護士トム・ヘイゲン役のロバート・デュバルも準主役級だったのに、これまた出演料の問題などで第3作に出演していません。今は、直ぐ「裏話」が分かるので、便利な世の中になったものです。(すべて、今さら…という話でしたが)

 「ゴッドファーザー」と言えば、直ぐにニーノ・ロータのテーマ曲とアンディ・ウイリアムスの「愛のテーマ」が思い浮かび、これらの曲を聴くと本当に懐かしくなります。

◇生まれて初めて観る「ドクトル・ジバゴ」

 もう一つ、先日、あの有名な映画「ドクトル・ジバゴ」(デヴィッド・リーン監督作品)を初めて観たのです。日本公開は1966年6月。ビートルズが来日した頃ですね。この映画は、テレビなどで何度も放送されたので何度も観る機会があったのに、逃していました。54年間も。

 原作者のパステルナークが、ノーベル文学賞を受賞しながら辞退せざるを得なかった経緯を詳細した陶山幾朗著「パステルナーク事件と戦後日本」(恵雅堂出版)について、以前、このブログで書いたことがあります。( 「陶山幾朗著『パステルナーク事件と戦後日本』は名著としてお薦めします」

 ロシア革命前後の混沌とした社会が描かれているのは皆さんご案内の通りです。まさに内戦ですから、目を背けたくなる場面も出てきます。

 この映画は54年間も観ていませんでしたが、モーリス・ジャールの挿入曲「ラーラのテーマ」は、ほぼ同時代にラジオなどで聴いていました。名曲です。この曲を聴くと少年時代を思い出し、本当に懐かしくなります。(映画も観ていないのに!)映画音楽の中では、「エデンの東」「太陽がいっぱい」「避暑地の出来事」の「夏の日の恋」と並び大好きです。と、書くと年代が分かってしまいますね(笑)。

◇ジュリー・クリスティ

 この「ラーラのテーマ」はどういうわけか、「タラのテーマ」だとずっと間違って覚えていました(苦笑)。ラーラはドクトル・ジバゴの愛人にもなった美しき女性で、映画に出ていた女優さんは誰かなと思ったら、ジュリー・クリスティという人でした。1940年生まれですから、ジョン・レノンと同い年で、撮影当時25歳ぐらいでしたか。英国の女優さんで、1965年の「ダーリング」で米アカデミー主演女優賞を受賞しています。

 彼女は、写真で何度も拝見したことがありますが、名前まで知らなかったことを正直に告白します。これも「今さら何を…?」といった話です。何でこんな古い映画の話しか書けなかったかと言えば、今の流行についていけなくなったからでしょう。でも、それでいいんです。

凄過ぎる木下グループ=PCR検査までやるとは

  東京・新橋駅前に来店型の「新型コロナPCR検査センター」が12月4日から開業したことをニュースで知りました。完全予約制(ウエブなど)で、店舗で唾液を採取(所要時間3分前後)し、翌日には結果が本人に通知されるそうです。検査価格は2900円(税別)。それは良いとして、驚いたことに、この「新型コロナ検査センター」という会社は、木下グループの一員だということです。

 木下グループは、木下工務店を中心にした建設会社グループだと思いきや、映画「関ケ原」などの製作や、ハリウッド映画「ミッドウエイ」など海外映画の配給をやっているキノフィルムズ、東京や福岡にある映画館キノシネマ、俳優の小林稔侍、光石研、オダギリジョーらが所属する芸能プロダクションの鈍牛倶楽部、それにラジオのインターFMの100%株主といった芸能、報道関係、それに木下スケートアカデミーや水谷隼、張本智和ら卓球選手のスポンサーなどスポーツ関係の会社を運営しています。

 そこまでは、私も何となく知っておりました。仕事で調べたことがあったからです。でも、この木下グループが医療、福祉、教育関係にまで「進出」していたとは知りませんでしたね。木下グループのホームページを見ると、「木下の介護」「木下の保育」「木下福祉アカデミー」「木下未来学園」…何でもござれです。「新型コロナ検査センター」はグループ100%子会社で、グループ内の医療法人和光会が監修しているとのこと。意外でしたね。知らなかった人も多いと思います。

 建設会社から芸能、病院まで、どこか節操がないほど広範囲にカバーしている木下グループは凄過ぎますね。これだけ節操がないことで思い出すのは、このブログでどういうわけかアクセス数が多い、2017年2月23日に書いた「凄過ぎる滋慶学園」ぐらいです。

Luca Two-year old birthday

 つい、「節操がない」などと言ってしまいましたが、建設会社として出発して、芸能も医療も福祉も必要だったから、段々、拡大していったのかもしれません。

 木下グループは、株式を上場していないせいか、「会社概要」情報は「四季報」にも掲載されておらず、ネットでも正式に公開していないみたいですが、非公認のネット情報によると、現在のグループCEO木下直哉氏(1965年生まれ、福岡県出身)が2004年 に1000億円の債務超過に陥っていた木下工務店を買収して代表取締役に就任されたようです。木下氏は、同姓ながら木下工務店の創業者と関係がないようですが、キノフィルムズなど拡大戦略はこの人の経営手腕によるものだったんですね。かなりのやり手です。

 ラジオのインターFMを聴くと、盛んに「木下抗菌サービス」などのCMを流しています。メディアを広告媒体として相乗効果を狙っているのでしょう。

 コロナ禍の中、日本では縦割り行政の弊害でPCR検査が遅々として進んでいません。その間隙を縫って、営利事業としてPCR検査までやってしまうとは、木下グループ、凄過ぎる。

 12月5日午前11時の時点で、木下グループのPCR検査の予約サーバーが込み合っていて繋がらず。「12月8日まで予約は埋まっているので、9日以降のご予約を受け付けます」との告知がありました。

スウイング感に痺れました=エラ・フィッツジェラルド「エラ ~ザ・ロスト・ベルリン・テープ」

 久しぶりに、本当に久しぶりにCDレコードを買いました。

 20世紀最高の女性ジャズ・ヴォーカリストの一人と言われるエラ・フィッツジェラルド(1917~96)の「エラ ~ザ・ロスト・ベルリン・テープ」(ユニバーサル)です。

 「最高の一人」という言い方も変なのですが、「女王は、ビリー・ホリデイだ」「いや、サラ・ヴォーンでしょう」という人がいるからです。あとは好みの問題でしょう。

 このアルバムは、音楽プロデューサーで、「ヴァーヴ」などのジャズレーベルを創設したノーマン・グランツ(1918~2001)がプライベート・コレクションとして保管していた未公開ライヴ・テープをCD化したものです。テープは最近になって発見されたそうです。これは1962年にベルリンで録音されたライヴ音源で、私も先日、FMラジオで初めて聴いて、すっかり魅せられてしまい、久しぶりにレコード店に足を運んだわけです。

 エラのベルリン・ライヴといえば、1960年に録音された有名な「マック・ザ・ナイフ~エラ・イン・ベルリン」があり、これはグラミー賞受賞した名盤です。

 でも、はっきり言って、同じベルリン・ライヴでも、私自身は、こっちの62年録音の「ザ・ロスト・ベルリン・テープ」の方が好きですね。

  スウイング(ノリ)感が全然違います。特に、60年盤でタイトルにもなって有名になった「マック・ザ・ナイフ」は、62年盤では脂の乗り切ったといいますか、少女のような可憐さとベテランの熟練さを合わせ持ったようなヴォーカルです。途中で、乗りに乗ってサッチモ(ルイ・アームストロング)の真似もしています。調べてみたら、この時彼女は45歳だったんですね。

山野楽器の入り口は狭くなりました

 60年盤はギターも入ってますが、62年盤は、ポール・スミスのピアノ、ウィルフレッド・ミドルブルックスのベース、スタン・リーヴィーのドラムスのトリオ。わずか3人なのに、オーケストラのような厚みのある音色を奏でるのです。特に、エラのお気に入りのスミスのピアノは、ピカ一ですね。音楽理論に詳しくないのですが、ジャズ・ヴォーカルのピアノ演奏は、クラシックともロックとも違い、独特というか、異様です。不協和音に近い独特の度数の兼ね合いで、さすがプロ、よくぞ、音程を外さないで唄えるものでした。勿論、この微妙な不協音が、聴く者に心地良い緊張感も与えてくれます。

 1962年といえば、ちょうどビートルズがデビューした年です。エラの「ザ・ロスト・ベルリン・テープ」には「ハレルヤ・アイ・ラブ・ヒム・ソー」も収録されていました。この曲は、1957年のレイ・チャールズのヒット曲ですが、デビュー前のビートルズがドイツのハンブルクで演奏していた曲だったので、「おー、あの曲だあ」と思ってしまいました。

 今はネットで情報が沢山入ってきます。調べてみると、エラの生涯も子どもの頃に孤児院に入れられたり、早く親を亡くしたり、幸せな環境で生育したとはいえませんでした。二度の離婚経験もありました。孤児などという境遇はフランス・シャンソンの女王エディット・ピアフに似ていますね。ジョン・レノンも子どもの頃に両親に「捨てられた」というトラウマが大人になってもなくなりませんでした。歴史に残る大スターに共通しているので、子どもの頃の不幸は、スーパースターになる条件にさえ思えてきてしまいました。

 このCDを買ったのは、東京・銀座の山野楽器です。半年ぐらい、ビルを改装していましたが、新装開店したこの店に入って吃驚です。2階を中心に、大手携帯電話会社のショップが入居し、CDレコードは4階に追いやられていました。

 しかも、演歌もロックもクラシックもジャズも同じフロアです。以前は、地下にDVDがあり、1階はJ-POPSや演歌、2階は確か(笑)クラシック、3階は確か(笑)ジャズと別れていたのに、凄い縮小ぶりです。

携帯電話ショップになってしまった山野楽器

 つまりは、皆、CDを買わなくなっちゃったということなんでしょうね。今、ネットでユーチューブもあれば、スポッティファイもあり、わざわざお金を出さなくてもタダで音楽は見たり聴いたりできちゃいますからね。

 それに、少子高齢化でピアノを始め、楽器を買う家庭も少なくなってしまったのかもしれません。

 小生は14年前に、この山野楽器で思い切って、目の玉が飛び出るほど高いフォークギター「マーチンD-28」を買ったことがあります。このギターは、ビートルズのプロモーションビデオの「ハローグッドバイ」でジョン・レノンが弾き、映画「レット・イット・ビー」の中では、ポール・マッカートニーがこのマーチンで「トゥ・オブ・アス」を唄っていました。

 山野楽器のギターショップも縮小されたでしょうが、何か哀しくて、そこまで行けませんでした。

年を経て趣味趣向も変わる

新橋演舞場

  「ブログは毎日書き続けなければ駄目ですよ」との先哲の教えに従って、話題がなくても、できるだけ書き続けるようにしています。

 苦痛と言えば苦痛なのですが、もう40年以上もジャーナリズムの世界にいて、毎日のように記事を書き続けて来たので、普通の人より書き慣れているといいますか、いわば「職業病」とも言えるでしょう。職業の延長線でブログを書いているようなものですから、刀根先生をはじめ、何で他の人は毎日続かないんだろうとさせ思ってしまいます(笑)。

 ところで、最近、ものの見方といいますか、自分の考え方が年を経るうちに変わってきていることに気が付いております。

 一番変わったと思うのは「転向者」に対する見方、考え方でしょう。昔なら、そんな節操のない裏切者は許しがたかったのに、今では全く逆に、転向せずに自己の思想を守旧した人の方が、どこか空恐ろしさを感じてしまいます。だって、人間は趣味趣向も考え方も日々変化するものでしょう。生物学的に言っても、細胞だって毎日のように入れ替わっているし、歯だって悪くなるし、髪の毛も抜けたりします。自分の考えを絶対曲げない人は、確かに格好良いかもしれませんが、そこは大人の力学で妥協しなければならない時もあるし、その方が万事うまくいくこともあります。

 戦前は、「国賊」扱いだった足利尊氏や「謀反人」の典型だった明智光秀も、戦後は随分歴史的解釈も変わり、名誉も回復されたではありませんか。

銀座 木挽町で …うーん、分かりやすい。アナログ万歳!

 趣味趣向といえば、私自身は音楽が大好きで、学生の頃は毎日、16時間も聴いていたものですが、今ではほとんど聴かなくなりました。今は1日30分も聴いているかどうか…。

 若い頃は「音楽こそがすべて」でした。ちょうどソニーのウォークマンが新発売され、電車の中でも歩きながらでも、本当に一日中、音楽を聴いていた感じでした。

  それが年を取ったせいなのか、ゆっくり腰を落ち着けて音楽が聴けなくなってしまったのです。というか、勉強しながら、本を読みながら、家事をしながら、といった「ながら」で音楽が聴けなくなったのが一番大きいのです。勉強しながら、では、その勉強のことだけで頭がいっぱいで、音楽が少しも脳に染み込んでくれないのです。つまり、昔だったら、人とおしゃべりしながら、本を読みながら、音楽を聴いてもしっかり把握できたのに、年を取ってからは、一つのことしか頭に入らなくなってしまったのです。音楽を聴くなら、そのことだけ集中して一心不乱に聴けば、脳みそに入ってくれるのですが、他のことをしていると他の方に気を取られて音楽が入ってこなくなってしまったのです。

 いまはまだ、読みたい本も、読まなければならないと思っている本もたくさんあるので、音楽を聴くだけに時間を割くのが惜しい気がしているのです。つまり、あんなに好きだった音楽が自分の人生の優先事項 priority ではランクが落ちたということになります。

 そして、唐突ながら、最近、酒量がめっきり減りました。昔は大酒飲みだったんですが、別に飲まなくても平気な顔をすることができるようになりました。自分自身の健康に気を遣っているかもしれませんが、どうしても呑みたいという気もあまり起きなくなりました。単に年を取ったせいなのかもしれませんが…(笑)。

 まだあります。美術の趣味が全く変わってしまったことです。若い頃は、泰西名画一辺倒で、ゴッホの「ひまわり」とか、とにかく脂ぎった油絵が大好きだったのに、今では、わびさび、枯淡な水墨画、もしくは長谷川等伯、狩野派、琳派などの日本美術の方が遥かに好きになりました。展覧会に行くとしたら、西洋美術よりも日本美術や仏像展を優先したくなります。

 なあんだ、やはり、単に、抹香臭くなって、年を取っただけかもしれませんね(笑)。

 

祝ジョン・レノン誕生日 if he was still alive80歳

 今日10月9日は、元ビートルズのジョン・レノンの誕生日です。生きていたら80歳。暗殺されたのが40歳の時でしたから、没後40年という節目の年になります。

 ということは、現在、45歳以上ぐらいじゃなければ、ジョン・レノンの現役時代を知らないということになりますか。えっ?教科書に載っていたから知っている? 英リヴァプールはジョン・レノン空港だから知っている? そうですか、そうですか。もう彼はすっかり歴史上の人物になりましたね。

 このブログに何度もジョン・レノンのことを書くのは、私の人生で最も影響を受けた人物の一人だからです。ミュージシャンとしてだけなく、英政府からMBE勲章を受けながら返還したり、反戦運動家(ジョン・シンクレアら)や黒人の人権運動家(アンジェラ・デイビスら)を支援したりして米CIAからマークされるほどの活動家だったからです。

 当時私は中学生か高校生だったので、お蔭で「お上にたてつく」ことを覚えてしまい、長じてもその習慣が身に着いてしまいました。ジョン・レノンを知らなければ、上司に反抗することなく、長い物に巻かれて今頃大出世して、世界を動かすインフルエンサーになっていたかもしれません(笑)。

 結局、左遷ばかりされて、インフルエンサーになれず、この40年間はインフルエンザに罹ってばかりいました(笑)。

 40年というのは、あっという間でしたね。ジョン・レノンが暗殺されたとき、40歳というのはかなりのおじさんにみえましたが、今では人生の半分以下でまだまだ若い。青年に近いと言ってもいいぐらいです。

 思えば、ジョンがビートルズとして活動したのは満21歳から28歳まで(1962年10月5日にデビュー、69年8月の「アビイ・ロード」のレコーディングまで)のたったの7年間ほどでした。早熟の天才だったと言えるでしょう。彼のつくった曲で好きな曲はあまりにも沢山ありますが、「ラバーソウル」の「ガール」と「ホワイトアルバム」の「ハッピネス・イズ・ウオームガン」と「イマジン」の「ギミー・サム・トゥルース」と「ダブルファンタジー」の「ウーマン」は外せないと思っています。

 ジョン・レノンが生まれたのは1940年ですから第2次世界大戦の真っ只中でした。セカンド・ネームのウィンストンは、チャーチル首相から取られたことが有名ですが、小野洋子と結婚した際、ジョン・オノ・レノンに改名したことも有名です。幼い時に、船員だった父親アルフレッドから離れて伯母のミミ夫婦に育てられ、産みの母親ジュリアは内縁関係の2人の男性との間に3人の娘をもうけ、ジョンが17歳の時に交通事故死するなど家庭的に恵まれなかったトラウマが結局、曲づくりや彼のその後の人生に反映されていました。

 巷では商魂たくましく、ジョン・レノン生誕80周年記念 ニューベストアルバム「ギミ・サム・トゥルース.」(ユニバーサ)が今日から発売されたようですね。CD2枚とブルーレイ付きのデラックス版で9350円ですか…。私ですか? いえ、もう買いませんよ。彼のCDはもう既に全て持っていますし、DVDも何枚かありますからね。

 ジョン以外のポール・マッカートニーやジョージ・ハリスンやリンゴ・スターは日本公演で見たことがありますが(リンゴだけは記者会見で同席したことがあります)、ジョンは早いうちに亡くなってしまったので、「会う」ことができず、本当に残念無念でした。

 ですから、1966年のビートルズの来日コンサートを見たという林さんや、70年代後半にジョンとヨーコを東京のホテル・オークラの近くの路地で歩いているところをすれ違ったという栗原さんには、何を差し置いても密かに尊敬しています。

1940年代のジャズ・ヴォーカルが気になる

学生時代は、音楽が趣味で、1日16時間ぐらい聴いても飽きませんでした。

聴いていたのは、主にロックで、ビートルズ、ストーンズ、ツェッペリン、クイーン、ディープ・パープル、クラプトン、イーグルスといった王道のほか、1950年代のプレスリーなどの初期ロックンロール、60年代のマージービート、70年代のプログレ、グラムロックなどです。

思い起こせば、子どもの頃は歌謡曲、10代~20代はロック、30代はモーツァルトなどクラシックばかり、40代はジャズやボサノヴァ、シャンソン、それ以降は玉石混交といった感じで色んなジャンルの音楽を聴いてきました。

 そして今は、ほとんど聴かなくなりました。(あらま)サウンド・オブ・サイレンスです。特にうるさいロックは年のせいか付いていけなくなりました(苦笑)。せめてブルーズです。BBキングはやはり素晴らしい。でも、若い頃は、高齢者が聴くものだと敬遠していたジャズなら、年を取ったせいか琴線に触れます。

 ということで、今は少しジャズにはまっています。そのジャズの中でもヴォーカルです。40代にジャズを聴いていた頃は、ビル・エヴァンスに始まり、パーカー、コルトレーン、マイルス、コールマン、フリューベック、ペッパー、ブレーキー、ウエス…といわゆるジャケット買いで色々聴きまくりました。フリージャズとなるとついていけなくなりましたが、ヴォーカルは、フイッツジェラルドやヘレン・メリル、ビリー・ホリデーぐらいしか聴いていませんでした。(昨年はジュリー・ロンドンに熱を入れましたが)

 今回、はまったジャズは、1930~40年代ジャズです。きっかけは、成瀬巳喜男や小津安二郎らの戦前の映画を観ていたら、結構、BGMや効果音としてジャズが使われていたことです(敵性音楽になる前)。また、先日観た「ミッドウェイ」は1942年を再現した戦争映画でしたが、作品の中で、当時流行のジャズが使われていました。そして、毎週日曜日の朝に、ゴンチチの司会進行でNHK-FMで放送されている「世界の快適音楽セレクション」をよく聴くのですが、その中で「えっ?この曲いい。でも、何の曲かなあ?」と思った時、大抵は、私が生まれる前の戦前の1930~40年代に流行ったジャズだったりしたからでした。

 この中で特に、気に入ったのが、女性1人、男性3人のコーラスグループThe Pied Pipersパイド・パイパーズ(The Night We Called It A Dayなど)でした。全盛期は、戦時中から戦後にかけての1940年代です。トミー・ドーシー楽団の専属コーラスグループとして活躍しました。

 トミー・ドーシー(1905~56)は、ジャズ・トロンボーン、トランペット奏者で、楽団のリーダーでもあり、若きフランク・シナトラがこの楽団に所属して飛躍したことは有名です。が、勿論、私はパイド・パイパーズもドーシー楽団も今回初めて知りました。

 パイド・パイパーズの紅一点、ジョー・スタッフォードは独立して、1952年、ソロとして「ユー・ビロング・トゥ・ミー」をヒットさせ、米国と英国のチャートで首位になり、全英シングルチャートでは女性アーティストによる初の第一位のレコードになりました。

 この「ユー・ビロング・トゥ・ミー」は、日本でも大ヒットして、江利チエミや新倉美子らがカバーしています。新倉美子(1933~)は、何と新国劇の看板俳優・辰巳柳太郎の長女で、ティーブ釜萢(かまやつひろしの父親)が設立した「日本ジャズ学校」でジャズを学び、歌手、映画女優として活躍しましたが、1957年に結婚を機に芸能界を引退してしまいます。私はまだ物心がつく前でしたから、道理で知らなかったはずです。今ではユーチューブなどで、彼女の唄う姿が見られますが、「こんな人がいたのか」と驚くほど清楚な美人で、大変魅惑的で、英語の発音もほぼ完ぺきです。(彼女の写真や動画も著作権があると思われ、このブログに引用できないのが残念です)

 パイド・パイパーズをスッポティファイで聴いているうちに、ジョニー・マーサー(1909~76)唄う「accentuate the positive」という曲を知りました。戦時中の1944年公開映画「Here comes the waves」のためにマーサー自身が書いた曲だそうで、スタンダードになっています。マーサーは作詞、作曲もする歌手で、キャピタル・レコードの共同設立者ということでジャズ界の大御所です。多くのミュージシャンがカバーしている名曲Come Rain or Come Shineなども作詞しています(作曲はハロルド・アーレン)。恥ずかしながら、最近知ったのですが…。

 あのポール・マッカートニーが1975年にマーサーと共作しようと提案しましたが、時既に遅く、マーサーは病床についていて辞退したそうです。ポールはその後、先程の「accentuate the positive」をダイアナ・クラールのピアノなどをバックに唄いましたが、その姿がユーチューブでも観られます。ビートルズ「ホワイトアルバム」に収録されている「ハニー・パイ」などを作詞作曲しているポールは、アマチュア・ジャズマンだった父親の影響で結構、1930~40年代のジャズもかなり聴いていて、曲作りに影響を受けていたのです。

 今ではもう1日16時間も音楽を聴く気力も体力もないですが、たまにはゆっくりとジャズ・ヴォーカルに浸ってみたいと思う今日このごろです(わー、陳腐な終わり方!)