高野山に眠る著名大名 信玄・謙信・信長・光秀・三成…

雨飾山(百名山)

仕事の取材とプライベートの旅行で、既に30歳代で、北海道から沖縄まで全国47都道府県の全てを踏破しましたが、まだまだ行っていない所、行ってみたい所は数知れず。日本は結構広いです(笑)。

これまで行ったことがなくて、是非行きたい所の中に、空海が開いた高野山(和歌山県)があります。でも、諸般の事情で今年も行けそうにありません。そしたら、NHKの人気番組「ブラタモリ」で3週連続で特集をやってくれているので、食い入るように見ています。

いやあ、知らなかったことだらけですね。

特に、空海の「御廟」がある奥の院につながる道筋に実に30万基もの墓と供養塔があり、多くの有名人や大名が眠っているという事実には驚かされました。

戦国武将武田信玄と上杉謙信の墓が目と鼻の先にあるかと思えば、織田信長と明智光秀の墓まで側にあるのです。このほか、小田原の北条、仙台の伊達、薩摩の島津、加賀の前田、柳川の立花などの大名家もありました。意外にも関ケ原で敗れた石田三成までここで眠っていたのですね。

かつて、高野山は「追放」や「亡命先」のような側面がありました。有名な史実は、関白豊臣秀次でしょう。秀吉の世継ぎとして一旦は指名されながら、淀君(浅井長政と信長の妹お市との間に生まれた茶々)に実子秀頼が生まれたことから、秀吉に疎まれて、高野山に幽閉され、結局は自腹を切らされます。

この事件がきっかけで、秀吉の信望が厚かった山内一豊(掛川)や田中吉昌(岡崎)ら秀次の御家中衆や仙台の伊達政宗らが秀吉から離れ、彼らが関ケ原では家康側についてしまう原因となってしまいます。

関ケ原後、信州で秀忠軍を食い止めた真田昌幸・信繁(幸村)  親子も高野山に幽閉されましたね。このように、高野山は政治的裏舞台でもあったのです。

で、何で、これだけ多くの墓や供養塔があるのかと言いますと、番組によりますと、お釈迦様が入滅した56億7000万年後、弥勒菩薩の姿で復活され、空海もいわば「通訳」としてこの世に復活するというのです。同時に空海の側に控えている人たちも復活するということで、奥の院にこれだけ多くの墓や供養塔があるというのです。

復活というと、まるで耶蘇教の教えのようですが、戦国大名らは信じたのでしょう。彼らだけでなく、現代でもパナソニックやクボタなどの大企業がお墓か供養塔をつくってましたから、信仰の深さは変わらないということなんでしょう。

有名人のお墓の中には、俳優の鶴田浩二がおりましたが、番組のアシスタントの若い優秀な近江アナウンサーは、鶴田浩二のことを「知らない」と言うのでカルチャーショックを受けましたね。あんな一時代を築いた大物俳優でさえ、忘れ去られてしまうとは!

「街のサンドイッチマン」も知らないことでしょう。

嗚呼、諸行無常

関ケ原の戦いはつい最近のこと

「歴史人」の関ケ原特集

本屋さんが潰れてます。私の利用する駅前の書店はもう5年以上前に2軒も閉店しました。

私のシマである銀座界隈も、日比谷東芝ビルの旭屋書店が5年以上前に店仕舞し、銀座コアビル内のブックファーストも昨年閉店し、つい最近は、日比谷シャンテに入っていた八重洲ブックセンターまで先月いっぱいで撤退してしまったといいますからね。

いくら映像芸術が発展しても、文化の基本は活字ですから、出版文化の衰退には危機感を覚えます。

もっとも、書店廃業の原因の一つにはアマゾンの影響という説がありますから、「便利な」資本主義の総権現のような黒船に日本文化が乗っ取られたという言い方ができるかもしれません。

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私としては、どうしても日本の伝統文化は残しておきたい信念の持ち主ですから、自宅近くの本屋さんは潰れてほしくない。そこで、月に何回か覗いて、何冊か本や雑誌を買って貢献することにしてます。

昨日買ったのが、写真の関ケ原の戦いを特集した「歴史人」という雑誌です。この雑誌はユニークで、日本仏教を特集したり、歴代天皇家を特集したりしており、たまに買うことがあります。

今、私も先日見た映画「関ケ原」が公開中のせいか、何冊か関ケ原を特集した本や雑誌が並んでいましたが、この「歴史人」が、地図やグラフィックや表を多用して分かりやすかったので、買い求めました。

映画を見た感想の中にも書きましたが、あの映画は原作は司馬遼太郎で、どうも講談調の(失礼!)司馬遼史観から抜け切れず、人物の相関関係がうまく描き切れていないと思いました。

それが、この雑誌では、通説では悪人となっている安国寺恵瓊や直江兼続なんかもちゃんと中立に「直江兼続には子孫がいなかったため、上杉の失策を全て押し付けられたところがある」などと冷静に分析しているのです。

まさに、私が欲しかった情報です。そもそも、後世の人間から見ると、天下分け目の関ケ原で、徳川方が勝利を収めることは当たり前過ぎるのですが、冷徹な石田三成が最初から負ける戦さをするわけはなく、当時は実はどちらが勝つか分からなかったのです。

わずか6〜8時間で、決着が付いた関ケ原の戦いですが、もし、小早川秀秋が裏切らなかったら、もし、島津と毛利が「高みの見物」ではなく、しっかり兵を動かして参戦していたら、西軍=三成の勝利になっていたはずでした。

この雑誌には、東軍と西軍の大名の顔写真(笑)から石高、戦後処理の状況まで事細かく書かれているので、大変参考になり、夢中になって読んでしまいました。

最後に驚くべきエピソード。敗軍の将、石田三成は、小西行長、安国寺恵瓊らととも京都六条河原で斬首の刑で晒されます。

しかし、どういうわけか、家康は三成の子息にまで刑を及ばせなかったんですね。お陰で、三成の孫のお振りの方が、三代将軍家光の側室となり、2人の間の千代姫の子孫が現代にまで生き延び、その一人が大正天皇の貞明皇后だというんですよね。

つまり、昭和天皇にも、今上天皇にも石田三成の血が受け継がれていたというわけです。勿論、徳川家康の血脈もですが。

そう考えると、400年前の天下分け目の戦いがつい最近のような気がしてきます。

寺社仏閣巡りの「猫の足あと」はお薦めです

東京・目黒不動尊

IT関係で言えば、私が初めてワープロを買ったのは1985年。エプソンの「ワードバンク」という機種で、ディスプレイにはわずか数行の文字しか掲示されませんでした。

生まれて初めてパソコンを買ったのは1995年。アップルの「マックブック」という機種でした。初めてインターネットに接続しましたが、当時はまだダイヤル回線で遅く、画像が出ると驚きました。ブラウザはネットスケープナビゲーターという「N」のマークが印象的でしたが、今はとんと噂は聞きません。どうなったのでしょうか?

そして、ブログを始めたのが2005年で、10年起きに新しいことに挑戦してます。2015年は、特になく、黄泉の国に行ってましたけど(笑)。

まあ、IT関係は、比較的早い時期に挑戦していることを自慢したかっただけですが、実は、技術的なことは恥ずかしくも全く何も分かっておりません。

それが先日、海城学園の同窓会に参加して、若い後輩の皆さんの中には、結構IT関係の仕事をしている人が多く、「へー」と思っただけででした。

そしたら昨日、何気なく名刺を整理していて、海原メディア会の事務局長でIT会社の社長でもある松長氏の名刺の裏を見たところ、そこには「猫の足あと」と書いてあったので吃驚!知ってるぞ!と思い、彼に連絡して問い糾したところ、彼はあっさりと「へい、あっしがやりやんした」と、かつ丼をペロリと平らげたのです(笑)。

いやはや、少し脱線しました(笑)。

猫の足あと」とは、今のところ、東京、神奈川、千葉、埼玉など関東圏内にある寺院、神社の沿革、観光名所などが網羅されたサイトです。

私の趣味(と言っては怒られますが)に「寺社仏閣巡り」がありまして、たまたま自宅近くに全く知らなかった豪勢な神社を発見して、検索したところ、この「猫の足あと」に巡り合い、それ以降は、分からない時は、このサイトに頼るようになっていたのです。

まさか、世代が少し違いますが、高校の後輩が開設していたとは!灯台下暗しでした。

しかも、これらの寺社仏閣は、松長氏が全て自分の脚を使って廻り、自ら写真も撮ってきたといいますから、二重の驚きです。

「サイトの寺社仏閣は、貴兄が(全て・ほとんど・大体)取材、執筆したのですか?」との小生の質問に彼はこう答えました。

…江戸時代は自転車もない中、日本橋を出発したら初日の宿泊は、保土ヶ谷又は戸塚でしょうから、舗道をウオーキングシューズで歩くのは当時よりかなり楽でしょうね。
朝から夕方まで散歩を続けると4万歩、約30km、参詣寺社30~50くらいになります。

御朱印画像をくれる方、汚い画像を綺麗な画像に差し替えるように画像を送ってくる寺社様などの場合は、「画像は◯◯さんからの寄贈」と注記しております。
従って画像の全てが小生の撮影と言ってもいいでしょう。…

ひょっえー!ぶったまげました。

寺社仏閣巡りは、週末と祝日のみらしいですが、1日4万歩、50カ所とは大した魂消たです。

「江戸五色不動尊」や「秩父三十四カ所霊場」なども掲載されていますが、まだ、関東圏内に限られていたのは、1人で廻っているせいだったんですね。

ということで、お忙しい方もこの「猫の足あと」(←こちらをクリック)を覗いてみて下さい。

今度、IT関係に異様に詳しい松長氏から渓流斎ブログのホームページ化について、相談に行こうかと思っております。