スパイ・ゾルゲも歩いていた銀座=ドイツ料理店「ケテル」と「ローマイヤ」

 東京・銀座の電通ビル(1933年、横河工務所=三越本店、旧帝国劇場なども=設計、大林組の施工で建てられた電通本社二代目)

 《渓流斎日乗》TMは、ほとんど誰にも知られていないのですが、「世界最小の双方向性メディア」と銘打って、ほぼ毎日更新しております。

 でも、たまに、大変奇特な方がいらっしゃいまして、コメントを寄せてくださいます。洵に有難いことです。昨晩も小澤譲二さんという方から嬉しいコメントを頂きました。まだ面識はありませんが、かなり熱心にお読み頂いていらっしゃるようで、私の心の支えになってくださっております。

 「コメント欄」を御覧になる方はあまりいらっしゃらないと思いますので、重複になりますが、本日は、小澤氏のコメントを引用させて頂くことから始めます。一部省略致しますが、小澤氏は昨晩、こうコメントして頂きました。(一部、捕捉し、誤字等改めています)

かつて「ケテル」があった所(銀座並木通り) 今は、高級ブラント「カルチェ」の店になっています

 もうかれこれ20年も前ですが、私の友人ヘルムートが80年近く祖父の時代から続くドイツレストラン「ケテル」を銀座で経営していましたが、家賃高騰とイタリア飯ブームに押されて、やむなく店を閉めました。私の叔母や母も戦前、Mobo、Mogaの時代の頃に勤めていた朝日新聞社から近かったのでよくこの店に通っていた、と聞いています。

 えーーー!ですよ。

 私もこのコメントに返信したのですが、この「ケテル」は戦前、「ラインゴールド」という名前のドイツレストラン兼酒場で、ここでホステスとして働いていた石井花子(1911~2000年)が、客として通ったスパイ・ゾルゲ(1895~1944年)と知り合った所だと聞いたことがあったからです。石井花子は、ゾルゲの「日本人妻」とも言われ、「人間ゾルゲ」の著作もあり、私も読んだことがあります。(彼女には文才があり、とても面白かった。)ちなみに、「ケテル」は、閉店する前の1980年代~90年代に私は何度かランチしたことがあります。

 石井花子は戦後、処刑されたゾルゲの遺体を探し当てて(雑司ヶ谷の共同墓地に埋葬されていた)、改めて多磨霊園に葬って非常に立派なお墓を建てました。2000年に彼女が亡くなった後、彼女の縁者がこの墓を管理していましたが、今年1月になって、墓所の使用権を在日ロシア大使館が譲り受けることになり、久しぶりにニュースになったことは皆さまご案内の通りです。ゾルゲは、ソ連の「大祖国戦争」を勝ち抜くことができた、今ではロシアの英雄ですからね。

銀座電通ビル 1936年、日本電報通信社(電通)は聯合通信社と合併させられ、同盟通信社となった。戦前は、同盟通信の一部(本体は日比谷の市政会館)と外国の通信社・新聞社が入居 ドイツ紙特派員ゾルゲと、諜報団の一員アヴァス通信社(現AFP通信)のブーケリッチもこのビル内で働いていた

 その石井花子をネットで検索してみたら、そこには「1941年10月4日のゾルゲの誕生日に銀座のドイツ料理店『ローマイヤ』で会食したのが最後の面会だった(ゾルゲ逮捕はその2週間後の10月18日!)」と書かれていたので、これまた吃驚。ローマイヤは、何も知らずに今年1月に初めて行った店じゃありませんか。

ということで、本日は再度、銀座のドイツ料理店「ローマイヤ」に足を運びました。

 銀座並木通りの対鶴ビルにあった「ローマイヤレストラン」の店頭に立つローマイヤさん(「ローマイヤレストラン」の公式ホームページから)※安心してください。お店の店長さんからブログ転載を許諾してもらいました!

 全く知らなかったのですが、そもそも、この店は、第一次世界大戦後にドイツ人捕虜として日本へ連行され、その後、祖国では食肉加工の仕事をしていた縁で帝国ホテルでの職を得てロースハムなどを生み出したアウグスト・ローマイヤ(1892~1962年)が1925年に銀座並木通りの対鶴ビルに開いたドイツ・レストランで、谷崎潤一郎の「細雪」などにも登場。ゾルゲやドイツ大使館員らが足繁く通った店でした。1991年、ビルの改装に伴い日本橋にビアレストランとして移転していましたが、2006年に別の経営者によって銀座8丁目に店舗が復活したというのです。(「ローマイヤレストラン」の公式ホームページによると、現在の銀座あづま通りにある店舗は、2019年3月22日に新装開店したようです)

「ローマイヤ」は1921年に東京・大崎にハム・ソーセージ工場を建設し、製造開始したことから今年で創業100周年。

 ソ連赤軍(現ロシア軍参謀本部情報総局=GRU)のスパイだったドイツ人リヒャルト・ゾルゲがフランクフルト・ツアイトウング紙の特派員などとして勤務していた銀座電通ビルから「ラインゴールド」も「ローマイヤ」も歩いてほんの数分です。今も昔も、世界的な名声から(笑)、ドイツレストランはそう多くありませんから、恐らく、ゾルゲは週に何度もこれらの店に通ったことでしょう。

銀座「ローマイヤ」ランチ「豚ばら肉のロースト~中華風BBQソース~」コーヒー付で1100円

 あれから80年以上経って、ゾルゲも歩いたであろう同じ銀座の歩道を歩いたり、同じように食べたであろうドイツ料理を食したりすると、大変感慨深いものがあります。

 私はいつも歴史を身近に感じ、普通の人には見えない、現実には消え去ってしまったモノを想像することが好きなのです。

闇が深い占領期の検閲の史実=山本武利著「検閲官 発見されたGHQ名簿」

 山本武利著「検閲官 発見されたGHQ名簿」(新潮新書、2021年2月20日初版)を読了しました。

 実は、2月28日の渓流斎ブログで「占領期の検閲問題=三浦義一論文も削除、木下順二は検閲官だった?-第34回諜報研究会」という記事を書きました。この中で、この諜報研究会を主催するインテリジェンス研究所理事長の山本武利一橋大学・早稲田大学名誉教授が最近上梓された「検閲官」(新潮新書)を未読だったため、オンライン講演会で質問もできなかった、といった趣旨のことを書いたところ、この記事に目を留めて頂いた山本先生御本人から「まだ購入されていなかったら献本致しますよ」と、声を掛けて頂いたのです。

 一瞬、自分自身が、GHQ占領下の日本人検閲官か、総務省の高級官僚になったような気分に陥りましたが、せっかくの御厚意ですからお言葉に甘えてお願いしてしまいました。

梅は咲いたか、桜はまだかいな

 いつもながら、前置きが長くなりましたが、これはかなりの労作です。新書のスタイルですが、中身はかなり濃厚です。著者略歴で公表されている通り、山本氏満80歳の著作ですから、本当に頭が下がります。「GHQの検閲・諜報・宣伝工作」など長年にわたってライフワークとして取り組んできたインテリジェンス(諜報)研究の最新の成果が表れています。

 戦後、GHQによる検閲に関しては、江藤淳による先行研究がありますが、山本氏は江藤説を止揚(アウフヘーベン)している格好です。例えば、江藤説では、日本人検閲官は約1万人だった、としていたのに対して、山本氏は2万人余と訂正。また、長洲一二元神奈川県知事(1919~99年)ら東京裁判の検察側証人の事務所雇員を、江藤が検察官グループに入れてしまった誤りなどを山本氏は指摘しています。

 何しろ、GHQによる検閲を主導したCCD(民間検閲局)が閉鎖された時点(CCDは1949年10月31日廃止)での全国の本部・支部の所在地について、山本氏は長年追求してきましたが、ようやく資料が発見できたのが、アメリカ公文書館で、何と2019年11月のことだった、というのです。つい、最近ではありませんか!!江藤淳が「閉された言語空間 占領軍の検閲と戦後日本」(文藝春秋、1989年)を発表した当時は、日本人検閲官だった人は誰一人証言する人はなく、メリーランド大学のプランゲ文庫などが全面的に公開されていなかった時代だったかもしれませんが、もしかしたら、今後も新資料が見つかるかもしれません。(本書では日本人検閲官の体験談がかなり採用されています)

ミモザ

 さて、私自身が、GHQによる検閲という史実を初めて知ったのはいつだったのか忘れてしまいましたが、少なくとも若い頃は、新聞雑誌の検閲や仇討映画や演劇の上映、上演禁止といったこと以外は、あまりよく知りませんでした。特に日本人のインテリによって電話が盗聴されたり、庶民の私信が開封されて英訳されたりしていたことなど、これは超機密の極秘事項だったので、多くの国民が知る由もなかった、というのが実情でしょう。

 本書では、その実体について、的確に教授してくれます。まず、敗戦後の日本を支配下占領軍GHQ(General Headquarters、連合国軍最高司令部)内で諜報、検閲を扱う総本部はG-2(参謀第2部)と呼ばれ、そのトップは、マッカーサーの忠臣チャールズ・ウィロビーでした。そのG-2の傘下には民事を扱うCIS(民間諜報部)と軍事・刑事を扱うCIC(対敵諜報部)が置かれ、このCISに属していたのがCCD(Civil Censorship Detachment、民間検閲局)でした。

 CCDには、郵便、電信、電話の検閲を行う通信部門(Communications)と、新聞、出版、映画、放送等を検閲するPPB(Press, Pictorial &Broadcasting)部門がありました。検閲対象については、例えば、1948年6,9月のリストでは郵便部門が75%と全体の4分の3を占めていました。つまり、GHQは、右翼、左翼の大物も含めて、日本国民の占領軍に対する「庶民感情」を一番知りたかったことになりますね。支配者として、統治の基準を暗中模索で探っていたか、問題人物は刑務所にぶち込むなどしていたのでしょうね。

 日本人検閲官は、かなりの高給で採用されたことを本書で初めて知りましたが、GHQのポケットマネーで給与が支払われたわけではなく、日本政府が賠償金代わりに負担させられていたというのです。まさに、踏んだり蹴ったりですね。

 江藤淳が追及していた当時は分からなかった日本人検閲官については、ほんの一部ながら、本人による手記などで分かってきています。2月27日の諜報研究会のオンライン講座で話題になった進歩派知識人の代表である劇作家の木下順二もその可能性大ですが、後に推理小説の大家となる鮎川哲也(1919~2002)は、「うしろめたい仕事だった」と回想し、ロッキード事件などの追及で「国会の爆弾男」の異名を持った楢崎弥之助(1920~2012、元衆院議員)も、福岡のCCDで検閲に携わった体験談を残しています。

 日本人検閲官は、英語の出来る東大や津田塾大などの若い学生が多かったようですが、興味深かったのは高齢者雇用です。例えば、斎藤玉男という人は、東大医学部を卒業した精神科医で、「智恵子抄」の高村智恵子が入院したゼームス坂病院を開設したり、東京府立松沢病院副院長などを歴任しながら、戦後は職がなく、猛烈な食糧難とインフレに悩まされていたことから、1948年にCCDに採用されます。斎藤は1880年生まれなので、この時、68歳です。他にも高齢者採用の中に、元大学教授や元外交官らエリート層がいましたが、著者の山本氏は「人生50年と言われた当時の60歳代は現在の90歳代に相当するだろう」と書いています。

参謀本部の高級幕僚は売国奴に

 検閲以外で、著者の山本氏が最も糾弾しているのが、有末精三中将や服部卓四郎大佐といった戦時中の参謀本部の高級幕僚だった元軍人で、彼らは専門知識を旧敵国に最高値で売り込み、占領の手助けをしたというのです。山本氏は「売国奴以外の何者でもない」と書いてますが、その通りですね。戦後直後の占領期には、帝銀事件、下山国鉄総裁事件、三鷹事件、松川事件などといった「陰謀事件」が多発し、キャノン機関による工作などGHQの影もちらついています。

 私自身、最近、戦国時代に夢中になって、少しだけ近現代史から遠ざかっていましたが、まだまだ勉強が足りないと実感しました。

戒律は何処へ行った?=築地本願寺カフェ「Tsumugi」で肉食す

 今、何かと話題になっている築地本願寺カフェ「Tsumugi」紬に初めて行き、会社の近くなんでランチして来ました。

 築地本願寺は、御説明するまでもなく、浄土真宗本願寺派(西本願寺)のいわば東京の総本山みたいな寺院です。江戸初期の元和2年(1617年)に浅草で創建されましたが、1657年の「明暦の大火」で焼失してしまいます。その後、幕府から与えられた土地が現在の場所で、当時は海上。そこで埋め立てをして「土地を築き」、本堂を建立したことから「築地」の由来になったことは皆さまも御案内の通りです。なお、大正12年(1923年)の関東大震災で再度本堂を焼失し、昭和9年(1934年)に現在のちょっと変わったというか、初めての方が見れば異様なインド寺院風の本堂になっております。

 400年以上の歴史があるわけですが、実は、オウム真理教事件などもあり、最近、若者らの既成宗教、特に仏教離れが進み、参拝者も激減していたそうです。

 そこで、築地本願寺は、あの開成高校から慶應大を卒業し、銀行員からコンサルタント会社社長も経験して僧侶の資格を得たA氏を2015年から事務方トップの宗務長に起用し、「開かれた寺」を目指すA氏の大幅改革によって、参拝者は2015年からの5年で実に2倍の250万人に増えたといいます。

 A氏は、数多くのテレビや雑誌の取材に応じて「顔見世興行」のように露出されているので、皆さまも御存知のことでしょう。

築地本願寺 カフェ「Tsumugi」紬

 私は「野次馬」ですから、カフェに初めて行ってみました。

 その前に、本堂は、会社から近いので、昼休みを利用して何度も行ってます。でも、キリスト教会のようなパイプオルガンが設置されていて、1台3億円もするとは知りませんでしたね。(テレビの番組で知りました)

 築地本願寺カフェ「Tsumugi」紬は、まさに21世紀のカフェ・レストランでした。加賀の一向一揆や織田信長による石山本願寺攻めの歴史を知っている我々にとっては、実に感慨深いものがあります。

 とにかく、ビックリです。

十三穀御飯と和風ビーフステーキ 1540円 写真の上部にメニューがあり「オーダーはこちらから 1」と書いてある

 何と!注文するのに、メニュー表紙のバーコードをスマホで読み取って、それから初めて注文することができるのです。スマホを持っていない人はどうしたらいいんでしょうかねえ?

  最近、海外旅行に行っていないので、知りませんが、こんなバーコード注文なんて、紐育や巴里や倫敦でもやっているんでしょうか? IT先進国のフィンランドや、何でも一番になりたがる中国なら既にやってそうですが、もしかして、世界初なのかもしれません。

 でも、すぐ目の前に接客してくれる係の若い綺麗な女性がいるのに、何か味気ない(こらっ!)私はスマホ中毒というか、スマホ廃人ですから、バーコードを読み取り、すんなり「注文」のボタンを押せましたが、それでも、どこか解せない。そこで、美人さんに「どうして、私が注文したことが分かるんですか?」と尋ねたところ、「あ、それは、テーブルごとに番号が付いていて、バーコードで読み取る際に、場所が分かるのです。お客様のメニューには『1』と書かれていますよね?」

 なるほど、よく分かりました。

 会計の際、スマホのアプリで、R社のポイントを加算してくれて、カードも使えました。「凄く、IT化が進んでいるんですね」と帰り際に言ったところ、美人さんは「2月の頭から始めたんです」とニッコリ微笑んでくれました。(マスクではっきり見えませんでしたが)

◇「般若湯」「桜」「牡丹」なら食べ放題、飲み放題

 ところで、私は「和風ビーフステーキ」を注文したのですが、仏教寺院が経営するカフェだというのに、肉も魚も食べ放題、日本酒もビールもワインもウイスキーも飲み放題でした(ただし、総務省の高級官僚を見習わずに、御自分でお支払いくださいね)。

 細かく言えば、殺生を禁じる仏教の戒律に違反しますよね?あ、僧侶御自身だけが守っていればいいのかしれませんが、色んな宗派の中でも、浄土真宗は特に寛大な気がします。僧侶でも肉食妻帯は許されているようで、何と言っても件の宗務長をはじめ、僧侶でも剃髪せず、長髪を伸ばしている方を多く見受けられます。日本の仏教の宗派の信者の中で、浄土真宗が一番多いのは、このように、戒律に対して寛大なせいなのかもしれません。

 隠語として、お酒のことを「般若湯」と言ったり、馬肉を「桜」、鹿肉を「紅葉」、猪を「牡丹」もしくは「山鯨」などと言ったりしております(花札の影響か?)。歌舞伎の「京鹿子娘道成寺」や落語なんかにも出てきますよね。ということは、お坊さんたちも、昔から隠れて、いや正々堂々と戒律を破っていたということになりますか。親鸞聖人が見たら吃驚するかもしれませんが。

占領期の検閲問題=三浦義一論文も削除、木下順二は検閲官だった?-第34回諜報研究会

Pleine lune, le samedi 27 fevrier Copyright par Duc de Matsuoqua

 昨日27日(土)は第34回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催、早大20世紀メディア研共催)にオンラインで参加しました。ZOOM参加は二度目ですが、どうも苦手ですね。どこか後ろめたい気持ちになり(笑)、こちらの機器と体調の関係で聞き逃したり、聞き取りにくかったりして、どうもいかんばい。あまりご参考にならないかもしれませんが、印象に残ったことを少しだけ翻案して書き留めておきます。

 報告者はお二人で、最初は短歌雑誌「まひる野」運営・編集委員の中根誠氏で、演題は「GHQの短歌雑誌検閲」。同氏には「プレス・コードの影ーGHQの短歌雑誌検閲の実態」(2020年、短歌研究者)という著作があり、今回の諜報研究会司会者の加藤哲郎一橋大名誉教授も「占領下の検閲で、短歌のジャンルでの研究は恐らく初めて」と発言されておりましたが、私も全く知らないことばかりでした。

◇右翼から左翼まで幅広く

 この中で、GHQは、短歌雑誌を(1)right (右翼)(2)left(左翼)(3)center(中道)(4)conservative(保守的)(5)liberal(自由主義的)(6)radical(急進的)ーの6種類に分類して検閲したことを知りました。

 例えば、(1)の右翼に当たる短歌雑誌「不二」の場合、国粋主義的、天皇の神格化・擁護、神道主義的、軍国主義的などの理由で、何首も雑誌掲載が削除されています。この雑誌の昭和22年4月号に掲載される予定だった右翼界の大立者で、後に「室町将軍」と畏怖されたあの三浦義一氏の「璞草堂残筆」という論文もdelete ではなく、suppressedという強い表現で全面削除されている資料写真を見たときは、感慨深いものがありました。

(2)の左翼的雑誌として代表される「人民短歌」の場合、共産主義の宣伝、連合国軍司令部批判、検閲への言及などで何首も削除されています。

 この他、「フラタナイゼーション」といって、米兵が占領国民と交わる場面を詠んだ短歌も削除の対象になっています。(前島弘「町角に進駐兵と語る女の顔の堪へがたき卑屈さ」=「日本短歌」)

 私は右翼でも左翼でもありませんが、こうして見ると、占領軍の容赦ない一方的な傲慢さが垣間見えると同時に、GHQは占領を「正当化」するのに必死で、民衆の反乱を抑えるのに苦心惨憺だったということが惻隠されます。(極めてマイルドに表現しました)

2・26事件で襲撃された東京朝日新聞社の85年経った跡地に建つ有楽町マリオン=2021年2月26日

 続く報告者は、インテリジェンス研究所理事長の山本武利氏で、演題は「秘密機関CCDの正体研究ー日本人検閲官はどう利用されたか」でした。山本氏は最近、「検閲官ー発見されたGHQ名簿」(新潮新書)を上梓されたばかりで、この本に沿って講演されておりましたが、小生はまだ未読だったため、残念ながら質問すらできませんでした。ということで、この後は、自分の疑問も含めた中途半端な書き方になってしまうことを御了承くだされ。

◇木下順二は検閲官だのか?

 まず、CCDというのはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)内に設立された秘密機関「民間検閲局」のことで、2万人余の日本人を使ってメディアや郵便、通信などの検閲を行っていたところです(第4区と呼ばれた朝鮮半島南部では朝鮮出身者を採用)。山本氏は「検閲で動員されるのは英語リテラシーのある知的エリートで、彼らは戦争直後の食糧難と生活苦から逃れるためにCCDに検閲官として雇用され、旧敵国のために自国民の秘密を暴く役割を演じた」と断罪されておりました。当時の検閲者名簿リストを入手し、この中に、Kinoshita Junji(1946年11月~49年9月、試験で90点の高成績) という名前があり、「夕鶴」で知られる著名な劇作家木下順二ではないか、と、先程の著書「検閲官」の中でも問題提起されており、今回もその衝撃的な発言をされておりました。

 木下順二本人は、著作の中ではGHQとの関係について、一切書いていないので、別人説もあり、山本氏も「百パーセント確実な証拠はない」としながらも、木下順二と関係が深かった出版社の未来社の関係者や木下順二の養女らから山本氏が直接聞いた証言(中野好夫の紹介でCCDで働いていた)などから、「本人ではないか」と結論付けておりました。

 講演の後の質疑応答で、「木下順二の世界」などの著作がある演劇研究家の井上理恵氏から「木下は熊本のかなり古い惣庄屋の出で、裕福だったので、生活苦などで協力するのは考えられない。当時は『オセロ』の翻訳が終わり、自分の作品を書いている時期で、生活が大変だったとは思えないし、関係者の証言もどこまで信用できるかどうか…。これから私自身も調べていきます」などと発言されていました。

Mont Fuji Copyright par Duc de Matsuoqua

 このほか、CCDは、「ウオッチ・リスト」といって右翼、左翼かかわらず「要注意人物」のブラックリストを作って、彼らの郵便物や通信を監視していたようですが、私自身が興味を持ったのはメディア検閲でした。全国に検閲場所があったようですが、大阪では朝日新聞大阪本社がその会場だったとは驚きでした。朝日新聞社自体はその事実に関してはいまだ非公表を貫いているようですが、朝日の社員も検閲に協力していたということなんでしょうか?

 東京での新聞雑誌などメディア検閲の場所は、日比谷の市政会館だったようです。ここは、戦中の国策通信社である同盟通信が入居していた所で、戦後すぐに同盟が解散して、占領期は共同通信社と時事通信社が同居していた時期に当たります。ということは、英語ができる共同と時事の社員もGHQの検閲に協力していた可能性があります。これらは、後で、質問すればよかったかな、と思ったことでした。

【追記】

早速、山本武利理事長からメールが送られて来まして、朝日新聞も共同、時事両通信社も場所を提供しただけで、社員による検閲はなかったのではないか、という御見解でした。

 東京の市政会館には全国紙だけでなく、全ての地方新聞が集まって来ますし、大阪の朝日新聞にも相当数の新聞雑誌が集まってくるので、GHQの CCDにとっては、メディアを検閲するのに大変都合が良かったので、もしかしたら半ば強制的に選んだのかもしれません。

とはいえ、新聞社、通信社側も同じビル内なので、何らかのメリットが色々あったのではないか、というのが山本理事長の推測でした。

 

業態を変えるのか新聞業界?=ジャーナリズムのレベルが民度のレベルでは?

beautiful Mt. Fuji Copyright par Duc de Matsuoqua

 最近ご無沙汰している日本新聞協会がネットで公開しているデータによると、2000年に約5370万部あった全国の新聞発行部数が、2020年には約3509万部に落ち込んだといいます。つまり、この20年間で、1861万部も激減したことになります。いわば20万部の地方紙が90紙も廃刊したことになります。

 内訳を見ると、一般紙が4740万部から3245万部へと1495万部減、スポーツ紙が630万部から263万部へ367万部減と惨憺たるものです。大雑把ですが、天下の読売新聞も1000万部から700万部、朝日は700万から400万部、毎日に至っては、400万から200万部へと、全国紙と呼ぶには「危険水域」です。

 書籍と雑誌の売上も1997年の2兆4790億円をピークに、2012年になると、その半分以下の1兆2080億円にまで激減しています(経済産業省・商業統計)。

◇スマホが要因?

 「若者の活字離れ」とか、「駅のキオスク店の廃業」などが原因と言われていますが、紙媒体の減少に拍車を掛けた最大の要因はスマートフォンの普及のようですね。総務省によると、スマホの世帯保有率が2010年末にわずか9.7%だったのが、2015年末には72.0%と、この5年間で急速に普及したといいます。

その店は築地の奥深い路地にあります

 その5年間に何があったかと言いますと、日本でアップルのiPhoneが発売されたのは2008年ですが、2010年からスマホは3Gから4Gとなったことが大きかったようです。これにより、データ量が大幅に増量し、文字情報だけでなく、動画もスムーズに観ることができるなど、まさにスマホは、日常生活で手離せないツールになったわけです。

◇ネットに負けた紙媒体

 その中で、ネットサイトの最大の「売り」のコンテンツがニュースだったのですが、1990年代の既成マスコミ経営者は、これほどネット企業が成長するとは夢にも思わず、ほぼタダ同然で、ドル箱のニュース商品をネット企業に渡してしまったことが後を引くことになります。(日本最大のヤフージャパンは、2000年の時価総額が50億円だったのが、20年後には3兆円にまで成長しています。月間250億ページヴューPVにも上るとか)

知る人ぞ知る築地「多け乃」 結構狭いお店と厨房の中に、スタッフが6人もいらっしゃって吃驚

 勿論、既成の紙媒体も指を咥えてこの動向を見ていたわけではありません。2011年から有料の電子版を発行した米ニューヨークタイムズは、コロナ禍の巣ごもりで購読者が増えて、2020年12月末の時点で500万件を超えたといいます(アプリと紙媒体を合わせると750万部)。NYTは、クオリティー・ペイパーと言われていますが、1990年代の発行部数は確か30万部程度の「ローカル紙」でした。また、19世紀から続く英老舗経済誌「エコノミスト」も電子化に成功し、紙で10万部そこそこだったのが、2020年の電子版は102万部に上ったといいます。

◇頑張っている十勝毎日新聞

 日本では、私も帯広時代に大変お世話になった十勝毎日新聞が、いまや1万人もの電子版の有料会員(本紙8万部余)を獲得していると聞きます。私が通信社の支局長として帯広に赴任していたのは2003年~2006年でしたが、当時の十勝管区の人口は36万人、帯広市の人口は16万人で、十勝毎日新聞の発行部数は9万部だったと覚えています。北海道といえば、北海道新聞の独壇場なのですが、十勝と苫小牧ぐらいが地元の新聞が頑張って部数で道新を凌駕していました。

結構、テレビの取材が入る有名店で、この日はカレイ煮魚定食 1500円 に挑戦。味は見た目よりも薄味でした

 ということで、数字ばかり並べて読みにく文章だったかもしれませんが、私自身、長年、新聞業界でお世話になってきたので、最近、「売れる情報」とは何かということばかり考えています。

 このブログも関係しているのですが、俗な書き方をすれば、「お金を出してでも欲しい情報」とは何かです。それは、生死に関わる情報かもしれません。その筆頭が戦争で、新聞は戦争で部数を伸ばした歴史があります。

 平和になっても、日本は災害大国ですから、地震や津波、洪水、地滑りなどの災害情報は欠かせません。

 結局、突き詰めて考えてみると、「医食住」に関わる情報が多くの人が有料でも手に入れたいと思うかもしれません。だから、グルメ情報もバカに出来ませんよ(笑)。

◇官報は無味乾燥

 今では、官公庁や役所、役場などがサイトで情報公開してますが、失礼ながら「官報」は、素材ですから、味気も素っ気もなく面白くありません。第一、素材を読んだだけでは、情報の裏にある背景や本当の真意も、よほどの通でなければ分かりません。

 となると、既成新聞は、これまで以上に、情報の解説や分析、歴史的背景、将来予想、そして何よりも政財官界の汚職追及と社会不正糾弾などで生き延びていくしかないかもしれません。新聞社は都心に多くの不動産を持っていて、「貸しビル業」で存命を図っているようですが、原点に帰ってニュースで勝負してほしいものです。

ジャーナリズムのレベルがその国民のレベルなのですから。

 

 

キリシタン宣教師から見た「本能寺の変」

◇浅見雅一著「キリシタン教会と本能寺の変」

2月7日(日)放送予定のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」が最終回で、「本能寺の変」をやる、というので、慌てて、浅見雅一著「キリシタン教会と本能寺の変」(角川新書、2020年5月10日初版、990円)を購入し、3~4日かけて読破しました。

 この本は、「月刊文藝春秋」二月号で「鍵を握るのは『光秀の子』と『キリシタン』新説『本能寺の変』座談会」という記事の中で、歴史学者の本郷和人氏と作家の伊東潤氏がべた褒めしていたので、「こりゃあ、いつか読まなければいけないなあ」と「宿題」にしていたのでした。

 本書に収録されているルイス・フロイスがローマのイエズス会本部に送付した「信長の死について」という報告書が、ポルトガル語原典から初めて翻訳されたということで、大いに期待したのですが、正直、「めでたさも中くらいなり おらが春」(不正確な引用)というのが読後感でした。

◇クセが強すぎる

 偉そうに言って、大変申し訳ないのですが、著者本人の性格なのか、クセなのか、それとも、行数、ページ稼ぎなのか、同じことを何度も何度も繰り返す文章が多く、漫才師千鳥じゃありませんが、「クセが強すぎる」と叫びたくなりました。私が鬼の編集者だったら、繰り返し部分を大幅にカットしますね。

 目玉になっているポルトガル語原典初訳という「信長の死について」も、正直、翻訳がこなれていません。例えば、「二、三日後と思われる堺に赴くとき」(225ページ)、「明智の人々は大変急いで逃げたので」(246ページ)…といった箇所です。前者は日本語になっていないし、後者の「人々」は他にもよく出てきて、直訳だと思われますが、せめて、将兵とか部下とか意訳しても許されるのではないかと思われます。

銀座 スペイン料理「エスペロ」

◇フロイスはスパイのよう

  最初から「注文」ばかり付けてしまいましたが、この本の価値を貶めるつもりは毛頭なく、よくぞ、新しい視点で本能寺の変を分析してくれた、と感謝したいぐらいです。

 本能寺の変は、天正10年6月2日(西暦1582年6月21日水曜日)未明に起きました。明智光秀は何故、主君織田信長に謀反を起こしたのか?日本史上最大の謎の一つ、と言われています。

 それが、同時代人のルイス・フロイスによるイエズス会本部への報告書を読むと、少しアウトラインが見えてきます。それ以上に、伴天連たちはよくぞここまで調べ上げたものだ、と感心するどころか驚愕してしまいます。フロイスは宣教師ですが、スパイみたいです。それもかなり優秀で有能なスパイです。「信長の死について」を読むと、昭和のゾルゲ事件のリヒャルト・ゾルゲを想起します。

 フロイスは、1564年に来日し、「日本史」の著者としても知られ、何度も信長に謁見していますが、本能寺の変があった時は、長崎県の口之津(南蛮貿易の港があり、キリスト教布教の拠点)にいて、事件を目撃したわけではありません。

 しかし、「信長の死について」(1582年11月5日付、イエズス会総長宛書簡)をまとめて書き上げたのはフロイスでした。元になったのは、本能寺に近い京都の修道院にいたカリオン司祭と、安土にいたダルメイダ修道士の書簡、それに美濃にいたセスペデス司祭の書簡などで、そのまま引用したり、参照したりしています。勿論、最終的にはフロイスの見方が挿入されているので、今の週刊誌でいえば、アンカーマンの役割を果たしていたと言ってもいいでしょう。

 ポルトガル語で書かれた報告書なので、日本人や、まして秀吉や家康ら大名の目に触れても分からないので、何ら気兼ねなく自由率直に、本人たちが事実だと思ったことが書かれていた、という著者の指摘はその通りなのでしょう。ただ、それが真実だったかと言えば断定できないと思われます。記述したことが、単なる噂話だったかもしれないし、また、情報ソースであるキリシタン大名・高山右近に直接取材して書かれたと推測される事柄もあるからです。

 例えば、本能寺の変の後、「天下分け目」の戦となった山崎の戦いでは、「中国大返し」で急いで都に帰って来て、疲労困憊する羽柴秀吉軍が到達する前に、高山右近などが既に、明智軍と相まみえて勝敗を決したかのように報告されているのです。これは、高山右近が自分の手柄を大きく見せたいがために、オーバーに司祭たちに話したのかもしれませんし、事実だったのかもしれません。

銀座 スペイン料理「エスペロ」

◇光秀は暴君だったのか? 

 報告書では、信長は、キリシタン宣教師たちを庇護し、安土城下や京都市内にも教会を建てることを容認したり、土地を与えたりしたので、信長に対しては非常に好意的に描かれ、晩年になって自己を神格化して傲慢になった信長を批判しつつ、その死については、やや、ですが、惜しんでいます。

 その一方で、明智光秀については、「生来低い身分で卑賎の家系の人物」とか「彼は、皆から嫌われ、裏切りを好み、処罰には残忍であり、暴君であり…」などとローマの本部に報告しています。これは、フロイスの見方ではないかと思われます。ただし、光秀は、本能寺の変の後の2日後に、安土に到着し、信長の屋敷と城を占拠し、信長が15年から20年かけて獲得した金銀財宝を、光秀は自分の武将たちに分配しただけでなく、京の内裏にも2万数千クルザード、禅宗の京都五山の寺院にもそれぞれ7000クルザード(ポルトガルの通貨単位、1両=7クルザードと推定)を贈ったことなども、フロイスは、そのまま引用してわざわざ書いています。こうした記述を読むと、逆に、私なんかは、光秀は、信長のような吝嗇ではなく、ひたすら私利私欲だけに走る暴君ではなかったように見えます。

 著者の浅見氏は、本能寺の変のキーパースンの一人として、オルガンティーノ司祭を挙げています。オルガンティーノは、本能寺の変について書き残すことはありませんでしたが、変の後、わざわざ生命の危険を冒して、光秀の子息の十五郎に会いに坂本城にまで行っています。また。光秀の娘玉が、盟友細川藤孝の嫡男忠興と結婚した後、キリシタンになって細川ガラシャと名乗りますが、その玉に洗礼を授けたのがオルガンティーノだったと言われています。光秀との接点もあったらしく、本能寺の変の真相を知っている可能性もあるようなのです。

 こうして、日本という狭い空間で起きた大事件が、ほぼ同時期に、ローマに報告されるなど、世界史的視野で語られていたという事実には本当に驚嘆しました。フロイスの報告書を読むと、非常に臨場感があり、今から439年前に起きたことが、つい最近に起きた事件のようにさえ思えてきます。

「新疆ウイグル自治区の現代史」と「感染症と情報と危機管理」=インテリジェンス研究所主催「諜報研究会」を初めてZoom聴講

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◇「Zoom会議」初体験

 土曜日、生まれて初めて「Zoom会議」なるものに参加しました。インテリジェンス研究所(山本武利理事長)主催の「第33回 諜報研究会」の講演です。

 参加、とは言っても、聴講といいますか、舞台のそでからそっと覗き見するような感じでしたが…。でも、割合簡単に聴講できました。iPadにZoomのアプリをダウンロードし、主催者から送られてきたメールの「ミーティングに参加する」というタッグをクリックしただけで、簡単に繋がりました。

 新型コロナの影響で、同研究所の講演会はもう一年近くZoomで開催されていましたが、私の場合、長時間に耐える家のWi-Fi環境が整っていなかったため、見合わせておりました。今回参加できたのは、携帯スマホを楽天モバイルに換え、これは無制限にデータが使えてテザリングを利用すれば、パソコンなどに繋がることも分かり、早速試してみたのでした。

 今時の大学生は、ほとんどこうしたオンライン授業が主流になった、と聞いてますが、やはり、講義は「生の舞台」には劣りますね。ま、言ってみれば、歌舞伎の舞台中継をテレビで見ているようなものです。

◇複雑な新疆ウイグル自治区の成立

 肝心の講演ですが、お二人の講師が登壇しました。最初は、東大先端科学技術研究センターの田中周(あまね)特任研究員による「新疆における中国共産党の国家建設:1949-1954年の軍事的側面を中心に」で、もう一人は、加藤哲郎一橋大学名誉教授で、「パンデミックとインテリジェンス」のタイトルで、実に複雑な奥深い、そして何よりも大変難解な講義をされておりました。

 最初の田中氏の新疆ウイグル自治区の「歴史」は、全く知らないことばかりでした。新疆ウイグル自治区といえば、イスラム教のウイグル族が住む地区で、最近では、米トランプ政権のポンペオ国務長官が「中国政府はウイグル族に対してジェノサイド(集団虐殺)を犯している」と非難し、次のバイデン政権のブリンケン国務長官も同意を表明して、俄然、世界的にも注目されていることは皆様ご案内の通り。

 田中氏の講演は、1949年~54年の中国共産党政権による”新疆併合””の話が中心で、そこに、ソ連スターリンの意向や、毛沢東や周恩来は新疆を早く「併合」したくても、他の地域との戦闘などでなかなか進出できなかった(毛沢東の実弟毛沢民は、新疆のウルムチで暗殺された)ことや、新疆地区内部にも共産党派と反共派と国民党派などが複雑に絡み合っていたことなどを初めて知りました。

 確か、中国には56の民族があり、宗教も違えば文化も言語も違います。広大な面積の全土を「統一」することは至難の業です。中国共産党が新疆ウイグル自治区を何よりも欲しかったのは、同地区には「白と黒」の経済の要(かなめ)があったという話が一番興味深かったでした。白とは綿花で、黒とは石油のことです。

◇核実験の場になった新疆

 そして、何よりも、ある参加者が「質問コーナー」で指摘されておりましたが、1960年の中ソ対立をきっかけに、中国共産党は核武装に踏み切り、その核実験を行ったのが、この新疆ウイグル自治区だったというのです。その質問者の方々らは、2011年の東日本大震災と福島原発事故の後、密かに放射能測定器を持参してこの地区に入ったところ、いまだに福島のホットスポットより高い放射能の測定反応があったという話には驚いてしまいました。

◇旧内務省官僚の復活

 続く、加藤一橋大名誉教授による「パンデミックとインテリジェンス」は、映画「スパイの妻」や731石井細菌部隊の話あり、スパイ・ゾルゲ事件の話あり、太田耐造ら「思想検察」を中心にした戦時治安維持の話あり、戦後も、旧内務省官僚の復活と再編を目論むような危機管理と国家安全保障体制の話(今、菅首相と最も頻繁に面会しているのは警察官僚出身の北村滋・内閣情報官=1956年12月生まれ、東大法学部卒、1980年警察庁入庁=であること)などあり、あまりにも複雑多岐に渡り、勿論、いずれも共通の「糸」で繋がりますが、ちょっと一言でまとめるには私の能力の限界を越えておりました。

◇世界でも遅れている日本の感染症対策

 ただ、一つ、特筆したいことは、今の新型コロナウイルス感染症対策の専門家会議の主要メンバーは、国立感染症研究所(⇦伝染病研究所)、医療センター(⇐陸軍病院)、慈恵医大(⇦海軍病院)関係者らが含まれているとはいえ、感染症研究については、日本は戦後、がん研究やゲノム分析の方に人材や資源を投入したため、大幅に予算も削減され、先端研究の面で大きく世界から取り残されてしまったという事実です。

 ですから、日本先導のワクチン開発がなかなか進まなかったという指摘には大いにうなずかされました。

ベトナム人留学生のトゥクさんと話が弾む=焼鳥屋で

 新型コロナの蔓延で気が引けましたが、週末、自宅近くの居酒屋に行って来ました。自粛警察がウロウロしていましたが、今のところ味覚が分かり、平熱の私は、困っている飲食店を応援したくなったのです。

◇新型コロナと鳥インフルのWパンチの焼鳥屋を救え

 新型コロナウイルスに加え、全国で鳥インフルが吹き荒れて何百万羽もの鶏たちが処分されていることから、飲食店の中でも焼鳥屋さんを選んで行って来ました。

 それでも、この御時勢で、私自身、ある程度の常識と時代的識見を持ち合わせているつもりなので、人が混んでいないと予想される午後4時に出掛けました。

◇ベトナム人留学生との対話

 ネットで探してやっと見つけたお店は、チェーン展開している焼鳥屋さんなので、皆さんも一度は行ったことがあるかもしれませんが、私は初めて行きました。そしたら、そのお店のアルバイトがトゥクさんという大学3年生のベトナム人で、彼とは随分と話が弾んでしまいました。ビールや焼き鳥や鶏雑炊などを注文する度に、店主に気兼ねしながら話しかけました。

私 日本語うまいね。もう何年いるの?

トゥク 4年です。今は大学に通ってます。

 どこの大学?

トゥク K市のS大学です。今は、オンライン授業ですけど。

 ベトナムの何省の出身なのかなあ?

トゥク フエという所です。

 おお、フエですか。「ベトナムの京都」と言われている古都だね?

トゥク えーー、嬉しい。よく知ってますねえ。。。

 うん、ベトナムには仕事と観光で何度か行ってるからね。ハノイとかハイフォンとかホーチミンとかビンズオン省とか…フエには行ったことがないけど。

◇自分の首都に行ったことがないトゥクさん

トゥク よく知ってますね。僕はまだハノイに行ったことがありません。

 何?ベトナム人なのに首都に行ったことないの?

トゥク 行ったことないです。フエの大学を卒業して日本に来ましたから。それに、今はコロナでずっとベトナムに帰れないんです。

 残念だねえ。でも、フエは、19世紀から150年近く続いたグエン王朝の首都だったんでしょ?世界遺産にもなっているし…。

トゥク 嬉しいですね。本当によく知っていますね。

 僕は変なおじさんだからね。それより、グエン・スアン・フック首相(66)はお元気ですか?ベトナムでは1月25日から2月2日まで、5年に1度の共産党大会が開かれて、76歳のグエン・フー・チョン国家主席が、ベトナムの最高権力者である書記長を続投するかどうか注目されてるけど?

トゥク えーー、何で知っているんですか? ベトナム人でも知らないのに、こんな(日本)人、初めてですよ。

◇技能実習生の犯罪

 うん、おじさんは怪しい人だからね(笑)。それより、この新型コロナで、多くの外国人労働者が雇い止めされているけど、最近のベトナム人の技能実習生は、豚を盗んだり、梨や桃を盗んだり、日本の法律に違反した犯罪者が増えて、評判を落としているんじゃないかなあ?

トゥク ぼ、僕は違いますよ。そういう人がいることは知ってますけど…。僕は今、サービス経営学を専攻しているので、できたら、日本のホテルに就職したいと思っているんです。

 じゃあ、日本語と英語を習得しなければ駄目じゃん。

トゥク 漢字が難しいです。

◇戦争を知らない子供たち

 あれ? もともとベトナムは漢字を使っていたんだよ。今は、似非フランス語みたいな変なアルファベットを使っているけど。ベトナムは、「越南」と国境の南の辺境、つまり「南蛮」だと中国に蔑まされて1000年間支配されて、漢字が嫌になっちゃんたんだよね?それでも、中国の後に、フランスに100年間、日本に5年間、アメリカに30年間ぐらい支配されたわけだ。トゥクさんは、ベトナム戦争なんか知らないでしょ?1975年に終わっているから。もう、45年以上も昔だからね…。

トゥク 僕は今28歳ですから、知りませんけど、お祖母ちゃんの弟が戦死しています。フエも結構、激しい戦闘があったんです。

 嗚呼、古都フエでの「テト攻勢」は有名だね。フエのお坊さんが戦争に抗議して焼身自殺をしたフィルムを見たことあるよ。貴方は平和な時代に生まれてよかったね。いずれにせよ、今、そしてこれからの日本は、ベトナムなど東南アジアとの交流抜きでは考えられないから、どうぞ宜しく。

トゥク こちらこそお願いします。

黙っていることは独裁者の容認につながる=ジョージ・オーウェル「動物農場」を読んで

  ジョージ・オーウェルの代表作「動物農場」(早川文庫)を読了しました。

 読書力(視力、記憶力、読解力)が衰えたせいか、「あれ?このミュリエルって何だっけ?」「ピンチャーって何の動物だったかなあ…?」などと、何度も前に戻って読み返さなくてはなりませんでした。嗚呼…。

◇ケッタイな小説ではない

 しかも、読み終わった後も、「何だか、ケッタイな小説だったなあ」と関西人でもないのに、関西弁が出る始末です。でも、この浅はかな感想は、巻末のオーウェルによる「報道の自由:『動物農場』序文案」と「『動物農場』ウクライナ語版への序文」、それに「訳者あとがき」を読んで、自らに鞭を打たなくても撤回しなければならないことを悟りました。

 この本を読む前の予備知識は、ソ連の社会主義、というよりスターリン独裁主義を英国伝統のマザーグース(寓話)の形を取って暗に批判したもの、ぐらいだと思っていたのですが、もっともっと遥かに深く、含蓄に富んだ野心作だったのです。著者によると、1944年に書き上げた時点で、この作品を世に出そうとしたら、出版社4社にも断られたといいます。当時は、まだ秘密のヴェールに包まれたソビエト社会主義に対する幻想と崇高な憧れが蔓延していて、こんな本を出してロシア人の神経を逆なでしては不味いという「忖度」が、出版を取り締まる英国情報省内にあったようです。

本文と関係ありません

 社会主義者を自称するオーウェルに対して強硬に批判したのが、右翼ではなく、まだスターリンの粛清や死の強制収容所の実態を知らない左翼知識人だったというのは何とも皮肉です。後にノーベル文学賞を受賞する詩人T・S・エリオット(当時、出版を断ったフェイバー&フェイバー社の重役だった)もその一人です。訳者の山形浩生氏によると、同書は、ナチスによる反共プロパガンダに似たようなものと受け止められた可能性さえあったといいます。当時の時代背景をしっかり熟慮しなければいけませんね。(日本は太平洋戦争真っ只中で、敗戦に次ぐ敗戦)

 いずれにせよ、この作品は1945年にやっと刊行され、日本でも、米軍占領下の1949年に永島啓輔による訳(GHQによる翻訳解禁第1号だった)が出されるなど世界的ベストセラーとなり、オーウェルの代表作になりますが、その間、色々とすったもんだがあったことが巻末の「あとがき」などに書かれています。

 日本ではこの後、あの開高健まで訳書を出すなど何冊か翻訳版が出ていますが、私が読んだのは、2017年に初版が出た山形氏による「新訳版」です。日本語はすぐ古びてしまうので、このように新訳が出ると助かります。原書を読んでもいいのですが…。

◇知らぬ間に独裁政権

 私自身は浅はかな読み方しかできませんでしたが、登場するブタの老メイジャーがレーニン、インテリで演説がうまいスノーボールがトロツキー、そして、このスノーボールを追放して徐々に徐々に独裁政権樹立していくナポレオンがスターリンをモデルにしていることは感じていました。当初は、人間であるメイナー農場主のジョーンズを「武装蜂起」で追放して、平等な動物社会を築いていく目論見だったのが、最初に皆で誓った「七戒」が、ナポレオンに都合の良いように書き換えられていくことがこの作品の眼目になっています。例えば、もともと最後の7番目の戒律が「すべての動物は平等である」だけだったのに、いつのまにか、「だが一部の動物は他よりもっと平等である」という文言が付け加えられていて、次第次第にブタのナポレオンが、イヌや羊や馬やロバやガチョウなどの上に君臨して富と権力を独占していくのです。

抗議しないことは独裁者容認と同じ

 私自身は、こういった独裁者に対する批判だけが著者の言いたかったことだと皮相的に読んでしまったのですが、訳者の山形氏は「あとがき」でこう書いておりました。(一部変更)

 ここで批判されているのは、独裁者や支配階級たちだけではない。不当な仕打ちを受けても甘んじる動物たちの方である。…動物たちの弱腰、抗議もせず発言しようとしない無力ぶりこそが、権力の横暴を招き、スターリンをはじめ独裁者を容認してしまうことなのだ。

 なるほど、さすがに深い洞察です。

 ここで思い起こすことがあります。今、ロシアのプーチン政権下で、毒殺されかけた反体制指導者アレクセイ・ナワリヌイ(44)氏が、拘束されると分かっていながら、1月17日、ドイツからモスクワに帰国し、案の定、空港で拘束されて30日間の勾留を命じられました。ナワルヌイ氏は、とても勇気のある行動で尊敬に値することですが、私は、正直、無謀の感じがして、普通の人なら「長い物には巻かれろ」で黙ってしまうと思ってしまいました。でも、抗議の声を上げないことは権力者の横暴と独裁を容認することになってしまう、という自覚がナワリヌイ氏にあったということなのでしょう。「動物農場」を読んでその思いを強くしました。

残念「京町しずく」は閉店、期間限定の「鮨処 写楽」=辻惟雄氏の「私の履歴書」は面白い

 コロナ禍がなくても、飲食店業界は浮き沈みが激しく、経営も厳しいと言われています。国が正式に調査したデータはありませんが、業界団体が調査したあるデータによると、飲食店の廃業率は1年後に30%、2年後に50%、10年後ともなると95%にもなるというのです。10年後に生き残っている店舗はわずか5%ということになります。

 このブログでも、ネタに行き詰まると、すぐグルメ情報を載せますが、先日、「これは良い!」と皆さんにもお薦めした東京・銀座の和食店「京町しずく」が昨年12月31日をもって閉店していたのです。完全個室の落ち着ける店で、値段も手頃だったので、先週、「折り入って話があります」という会社の後輩がいて、私自身は「終わった人」で何の力にもなれませんが、話を聞くことぐらいはできるので、2人でこの店に行ったら、閉店していました。「ガビ~ン」です。思わず、「聞いてないよ~」と叫んでしまいました。

 ということで、私が書くグルメ情報は、行く前に事前に確かめてからお出かけください。既に、閉店してしまっていることがあるからです。

 本日行ったランチは、銀座の「鮨処 写楽」です。期間限定ですが、今、えっ?こんなに安くていいの?というぐらい低価格で美味しいお寿司を提供してくれるのです。

 上の写真のランチの「牡丹」は、あとお椀付きで、1100円(税込)なのです。まあ、安くても銀座ですから1300~1500円はしますね。ですから、期間限定なので、期限が過ぎれば、それぐらいの価格になるかと思われます。(お店の人に聞いたら、キャンペーンは、最低でも、緊急事態宣言が出されている2月7日までは続けるそうです)

 話はこれで終わってしまうのも何なんで、話を変えますが、今、日経朝刊で連載中の美術史家・辻惟雄(つじ・のぶお)氏の「私の履歴書」は面白いですね。

 辻氏と言えば、近年新たな脚光を浴びている異能の絵師伊藤若冲の素晴らしさを早いうちから見抜いた先駆者としても知られています。その伊藤若冲らを取り上げた辻氏の出世作が、もう半世紀も昔の「奇想の系譜」(1970年初版)という本です。

 本日13日は、その「奇想の系譜」のことが取り上げられていて、その最初に登場するのが岩佐又兵衛というこれまた知る人ぞ知る異能の絵師です。私も5年ほど前の展覧会で彼の代表作「洛中洛外図屏風」(国宝、東博蔵)の実物を初めて目にして圧倒されたことを覚えています。「何で、こんな凄い絵師を知らなかったんだろう」と反省したぐらいです。

 この岩佐又兵衛は、摂津国伊丹の有岡城主、荒木村重の子息でした。荒木村重は織田信長に謀反を起こしたため、一族郎党皆殺しになったはずですが、岩佐又兵衛だけは当時まだ乳飲み子で、乳母に助けられて城を脱出し、石山本願寺に保護されたといいます。成人して紆余曲折の末、京都で絵師として活動しますが、師匠は村重の家臣の子息だった狩野内膳ら諸説あり、よく分かっていないようです。とにかく、最近、戦国時代にハマって、戦国武将を身近に感じていたので、岩佐又兵衛まで身近に感じてしまったわけです。

 ともあれ、辻惟雄氏のことでした。彼は1950年、岐阜高校から都立日比谷高校(旧制府立一中)に難関の編入試験を突破して入学しますが、同級生に江頭敦夫(後の評論家江藤淳)や大宅壮一の長男歩(あゆむ)氏(東大卒後、銀行員に。ラグビーで頭を怪我した後遺症に悩み、30代前半で亡くなったといいます)もいたというので、「へー、同級生だったのかあ」と驚いてしまいました。

 猛勉強の末、大学は、東大の医学部に進める学部に合格しますが、途中で、父親と同じ医者になる学業を諦め、以前から画家になりたかったこともあり、文学部美術史学科に「転向」するまでの話が今日の回まで書かれています。今後の展開が楽しみです。