お笑いロバート秋山竜次さんも関係していた満洲物語

哈爾濱学院跡

満洲(現中国東北地方)と聞くと、どうも気になります。

縁も所縁もないわけではなく、個人的にはただ一つ、唐津の伯父(母親の実兄)が、一兵卒として赤紙で徴兵された所でした。

伯父は、行き先も目的も告げられることなく、何処とも分からない所に連れて行かれた場所は、中国大陸の戦場。弾丸が飛び交う中、奇跡的に命を保ったものの、戦後はシベリアに抑留され、終戦後1年か2年経ってからやっと日本に帰国できたという話を聞いたことがあります。

私が子どもの頃に、伯父が自宅に遊びに来た時に聞いただけなので、詳しいことは聞いていません。シベリアに抑留されたということは、戦場は、ソ連軍が侵攻した満洲だったのでは、と想像するだけです。近現代史に興味を持ち、もっと詳しく話を聞くべきだと思った時は、既に亡くなっていて、後の祭りでした。

伯父は歌が好きで、うまかったので、「東京行進曲」などを歌って抑留された戦友たちを慰めていたといった話だけは聞いたことがあります。

◇戦後活躍した満洲関係者

その程度の私と満洲との御縁なのですが、戦後活躍した人たちの中で、結構、満洲にいた人が多かったことが後々になって分かります。

赤塚不二夫、ちばてつや、森田拳次といった漫画家、アナウンサーから俳優に転身した森繁久弥、甘粕正彦理事長の満映から東映に移った内田吐夢監督や李香蘭ら映画人、指揮者の小澤征爾(奉天生まれ。父開作は協和会創設者)、安倍首相の祖父岸信介、東条英機らニキサンスケ、このほか、哈爾濱生まれの加藤登紀子、タレントの松島トモ子も奉天生まれ…いや、もうキリがないのでやめておきますが、皆様も御存知の松岡さんのご尊父松岡二十世や哈爾濱学院出身のロシア文学者内村剛介も忘れずに付け加えておきます。

有名人でこれだけ沢山いるわけですから、満蒙開拓団などで満洲に渡り、ソ連侵攻で亡くなった無名の人々は数知れずということになります。

満洲関係者については、ある程度、知っているつもりでしたが、最近になって知った人も出てきました。

◇「スターリン死去」をスクープした人

ノンフィクション作家野村進氏のご尊父さんです。この方、通信社の記者として1953年の「スターリン死去」をスクープした人でした。東京外国語大学の学生時代に学徒動員で満洲に渡り、ソ連軍の侵攻でシベリア抑留。なまじっかロシア語ができたことからスパイと疑われ、4年半も抑留され、凄惨な拷問に遭っていたことを、野村氏が10月29日付日経夕刊のコラムに書いておられました。

◇満洲第3世代

もう1人は、お笑いトリオ・ロバートの秋山竜次さん。10月29日にNHKで放送された番組「ファミリーヒストリー」で初めて明かされたところによりますと、この方は「満洲第3世代」で、父方の祖父秋山松次さんが、北九州門司で、ある事件があったことがきっかけで妻と長女を連れて満洲に渡っていました。

炭鉱で働き、50人も雇うほど羽振りの良い生活でしたが、松次さんは昭和19年に突然、帰国することを決意します。その理由がソ連が満州に侵攻することを予測したからだというのです。松次さんがどういう情報網を持っていたのか分かりませんが、凄い機転と言いますか、カンが働く人だったんですね。残っていたら、ほぼ間違いなく、戦死か抑留死した可能性が高く、そうなっていたら、お笑いトリオ・ロバートの秋山竜次さんもこの世に存在しなかったわけですから。(母方の祖父は台湾に関係していたり、父親が若い頃、東映の大部屋俳優で梅宮辰夫と「共演」したことがあったり、不思議な縁がつながっていて、大変面白い番組でした)

邪馬台国の久留米・八女説、鎌倉幕府成立、咸宜園、吉田ドクトリン…は「日本史の論点」で学びました

アルハンブラ宮殿の天井画(イスラムは偶像崇拝を禁止しているのに、このような具象画があるのは極めて珍しいとか)

中公新書編集部編「日本史の論点 邪馬台国から象徴天皇まで」(中央公論新社、2018年8月25日初版)も、スペイン旅行の際に持って行った本でしたが、なかなか面白くて、往復の飛行機内では、かかっている映画で面白い作品が少なかったので、専ら読書に耽っておりました。

第1章の古代が倉本一宏・国際日本文化研究センター教授から始まり、中世は今谷明・帝京大学特任教授、近世が大石学・東京学芸大学教授、近代は清水唯一朗・慶大教授、現代が宮城大蔵・上智大教授と、「今一番旬」と言ったら語弊があるかもしれませんが、最先端の歴史家を執筆陣に迎え、最新の「学説」を伝授してくれます。

歴史は時代を映す鏡ですから、その時代によって変化するものです。最近では、学校の教科書から聖徳太子や坂本龍馬の名前が消えると話題になったり、鎌倉幕府の成立が、これまでは、「いい国つくろう」の1192年(源頼朝の征夷大将軍就任)だったのが、壇ノ浦の戦いで平家が滅び、頼朝が守護・地頭を置く文治勅許を獲得した1185年が、現在学界では圧倒的な支持を得ていることなど初めて知り、勉強になりました。

「日本史の論点」ですから、各時代で、長年論争になってきた「課題」が取り上げられています。

例えば、畿内説と九州説との間で論争が続いてきた「邪馬台国はどこにあったのか」。古代の倉本一宏氏は、纏向(まきむく)遺跡発掘により畿内説が学界では優勢になっているのものの、同氏はあえて九州説を取っていました。邪馬台国の邪馬台は「やまたい」ではなく、「やまと」と読むことが適切だとして、福岡県の久留米市と八女市とみやま市近辺が筑紫の中心だったと考え、この地域で灌漑集落遺跡が発見されれば、そここそが邪馬台国の可能性が高い、という説を立てておられました。

ちなみに、小生の先祖は、久留米藩出身なので、遺跡が見つかればいいなあと応援しております。

古代史専門の倉本氏はこうも力説します。「武家が中央の政治に影響力を持ち、政治の中心に座ったりすると、日本の歴史は途端に暴力的になってしまった。…もちろん、『古代的なもの』『京都的なもの』「貴族的なもの」がいいことばかりではないことは、重々承知してはいるけれども、苦痛を長引かせるために鈍刀で首を斬ったり、…降伏してきた女性や子供を皆殺しにしてしまう発想は、儒教倫理を表看板にしている古代国家ではあり得ないものであった」と。

これは、「古代=京都=公家=軟弱・ひ弱=陋習=ネガティブ」「中世以降=武士=実力=身分差別なく能力主義で這い上がれる=ポジティブ」といった固定されたイメージを覆してくれるものでした。

他にも色々取り上げたいのですが、あと2点ほど。まずは、近世を執筆した大石氏によると、江戸時代は義務教育はなかったが、人々は知識に対して貪欲で主体的に勉強したといいます。その一例として、大分県日田市(天領)にあった「咸宜園(かんぎえん)」を挙げております。

これは、1817年(文化14年)、儒学者の広瀬淡窓(たんそう)が設立したもので、全国から生徒が集まり、1897年(明治30年)に閉鎖されるまでの80年間で、5000人近くの人が学んだといいます。生徒たちは何年間もここに下宿して勉強し、長州の大村益次郎も学んだ一人だったそうです。

◇吉田ドクトリン

話は飛びますが、永井陽之助(東工大教授)や高坂正尭(京大教授)らの説を引用して「現代」を執筆した宮城氏によると、戦後の吉田茂路線(ドクトリン)とは、「軽武装」と「経済」を重視する政治的なリアリズムだったといいます。

そして、1951年のサンフランシスコ講和会議に池田勇人蔵相の秘書官として随行した宮澤喜一(後の首相)は、54年に吉田が首相の座を追われて鳩山一郎政権が成立すると、危機感を持ったといいます。56年には「暴露本」のような「東京ーワシントンの密談」(中公文庫)まで出版します。その理由について、宮澤は、五百旗頭真氏らのインタビューで、GHQによって追放されていた鳩山や岸信介といった「戦前派」が復活して、彼らの信条通りの政治が実現すれば、明らかに戦前に遡ってしまい、せっかく、吉田茂や池田勇人と一緒になってつくった戦後の一時代が終わったと思ったからだといいます。

同じ自民党でも、昔は、中選挙区だったせいか、派閥があり、同じ保守でも思想信条がハト派からタカ派まで両極端な政治家が同居したいたことが分かります。

言うまでもないことですが、今の安倍晋三首相は、「戦前派」の岸信介元首相の孫に当たります。安倍首相が「戦後レジームからの脱却」を目指して憲法改正を主張するのは、遺伝子のせいなのかもしれません。

まだまだ、書きたいのですが、この辺で。

 スペイン・アルハンブラ宮殿

特別展「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」で心が洗われました

「体育の日」のある三連休のほとんどがブログの取材と執筆と校正と、講演者様とのメールのやり取りと、訂正と更新とさらに更新に追われてしまいました(笑)が、寸暇を惜しんで、東京・上野の国立博物館で開催中の特別展「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」に足を運んできました。

普段の私は、やましい心の狭いことばかり考えておりますから、せめて仏像様のお力と御慈悲によって、心を洗おうという罰当たりな魂胆を敢行したわけです。

京都にお住まいの京洛先生のお導きで、有難いことに、京都奈良の寺社仏閣はかなり巡っているのですが、大報恩寺は聞いたことがありませんでした。

非常に楽しみに出掛けたところ、大報恩寺とは、北野天満宮近くの千本釈迦堂のことではありませんか!

ここなら、京洛先生お気に入りの寺で、小生も何度かお参りしておりました。

千本釈迦堂大報恩寺は、鎌倉初期の安貞元年(1227年)に義空上人(奥州藤原秀衡の孫に当たる)によって開創された寺です。洛中で「火災に遭うことなく現存する」最も古い寺だといいます。本堂は、創建時そのままのもので「国宝」に指定されております。柱には応仁の乱の刀や槍の傷跡が残っていました。

◇京洛先生と倶梨伽羅紋々

京都の人が言う「この前の戦災」とは、鳥羽伏見の戦いではなく、応仁の乱を指すことがこれで分かりました。

境内では毎年12月に「大根焚き」が行われ、もう5、6年前のことですが、たまたま京洛先生と一緒にベンチに座って、熱々の大根を食べていたら、テレビがこちらに取材に来ました。

そしたら、京洛先生はその筋の人ですから、背中の倶利伽羅紋々を見せながら、何か一言言った途端、テレビ・クルーの人たちは真っ青な顔をして慌てて逃げ去ってしまったのです。

何事が起きたのか、京洛先生に尋ねたところ、彼は、ちょうど取材に来たテレビ局のライバル・テレビ局のロゴが背中に入ったジャンパーを着ていたのです。

「『ここの者だけど、いいの?』と言っただけですよ」と京洛先生は平然としたものでした。もちろん、彼はライバル・テレビ局の人間ではありません(笑)。

特別展「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」のパンフレットより

さて、大報恩寺展のことでした。

四年に一度のご開帳でしか拝めない「釈迦如来坐像」(快慶の一番弟子・行快作)や「釈迦十大弟子立像」(快慶最晩年作)、「六観音菩薩像」(運慶の晩年の弟子・肥後定慶作)は、前から後ろから360度の角度から見ることができて、見応え十分でした。なんて、言ってはいけませんね。荘厳な気持ちになりました。

合掌

お蔭さまで、心が少し軽くなりました。

【六観音菩薩】とは

六道それぞれの衆生を救う6体の観音密教では、地獄道聖(しょう)観音餓鬼道千手観音畜生道馬頭観音修羅道十一面観音人間道准胝(じゅんでい)または不空羂索(ふくうけんじゃく)観音天道如意輪観音を配する。(大辞泉より)

【釈迦十大弟子】とは

釈迦(しゃか)の10人の高弟。「智慧第一」の舎利弗(しゃりほつ)、「神通(じんつう)第一」の目犍連(もくけんれん)、「頭陀(ずだ)第一」の摩訶迦葉(まかかしょう)、「天眼第一」の阿那律(あなりつ)、「解空(げくう)第一」の須菩提(しゅぼだい)、「説法第一」の富楼那(ふるな)、「論義第一」の迦旃延(かせんねん)、「持律第一」の優婆離(うばり)、「密行第一」の羅睺羅(らごら)、「多聞(たもん)第一」の阿難陀(あなんだ)。(大辞泉より)
地獄道から衆生を救済する聖観音菩薩像(もちろん、この菩薩像だけがフラッシュなしの撮影を許可されていました。「地獄にいる人が多いせいなのかなあ」と邪推してしまいました)

東方社と原善一郎について御教授賜りました

一昨日6日に開催されたインテリジェンス研究所(山本武利理事長)主催の午後の講演会では、新たにお二人の研究者の発表がありました。

◇東方社研究のこれまでとこれから

お一人は、京都外国語大学非常勤講師・政治経済研究所主任研究員の井上祐子氏による「東方社研究のこれまでとこれから―井上編著『秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争―東方社が写した日本と大東亜共栄圏―』の紹介を兼ねて―」というお話でした。

タイトルが異様に長いのですが(笑)、井上氏が今年7月にみずき書林から出版された同名書の紹介を兼ねた東方社研究発表でした。同書の内容紹介として「戦時下の日本とはどういう場だったのか。そして大東亜共栄圏のもとで各国の人びとはどのように暮らしていたのか―。陽の目を見ることなく眠っていた写真2万点のなかから200点を精選し、詳細な解説とともに紹介」とあります。

私は不勉強で東方社を知りませんでしたが、かろうじて、戦時中に戦意高揚のプロパガンダのために発行された写真雑誌「FRONT」は知っておりました。東方社は、この「FRONT」などを発行していた陸軍参謀本部傘下の写真工房だったのです。

東方社で活躍し、戦後、特に有名になったカメラマンとして、木村伊兵衛、濱谷浩、菊池俊吉らがいますが、理事として、ヴァレリー研究家でフランス文学者の中島健蔵がかかわっていたとは知りませんでしたね。(彼の経歴ではあまり触れられていません)もちろん、評論家の林達夫が第3代理事長で、岩波書店社主の岩波茂雄に資金面で援助してほしい旨の書簡まで送っていたことも知りませんでした。

井上氏の編著書は労作です。2万点のネガから200点を精選したということですが、キャプションがないので、本当に大変だったと苦労話を披歴しておりました。写真に写っている背景の看板や標識などから、場所や時代を特定したり、写っている人物が分からないので、戦時中の新聞を何時間もかけて照合してやっと特定するという作業をやってきたそうです。

講演会後の懇親会で、井上氏本人に伺ったところ、膨大なネガは、旧所蔵者の遺族の皆さんだけでは、維持・管理が難しいため、政経研で受け入れることになったそうです。

歴史的に貴重な遺産がこうして陽の目をみたのは、井上氏らの功績でしょう。

◇原善一郎とは何者か?

もう一人は、大阪音楽大学音楽学部教授の井口淳子氏で、講演タイトルは「戦時上海の文化工作―上海音楽協会と原善一郎(オーケストラ・マネージャー)」でした。

井口氏によると、上海音楽協会とは、 1942年6月、外務省、興亜院、陸海軍の監督の下、上海在住の民間人によって設立された文化工作を目的とした財団法人で、その中核は、上海交響楽団による公演活動でした。戦時中、日本国内では、「敵性音楽」演奏は禁止されていたと思いますが、外地ではかなり頻繁に公演会が催されていたようです。

私は全く存じ上げませんでしたが、原善一郎(1900〜51)という人は、同年10月頃からこの上海音楽協会の主事(オーケストラ・マネジャー)になった人で、戦後は音楽プロモーターとしても活躍します。

原は、経歴が大変変わった人で、長野県の貧しい農家に生まれ、旧制中学校を中退せざるを得なくなり、横浜の貿易会社松浦商会に入社します。同商会の哈爾浜(ハルビン)支店に派遣されたことが、彼のその後の人生を大きく変えます。哈爾浜学院でロシア語を習得したお蔭で、その語学力が認められて、1925年、山田耕筰と近衛文麿による「日露交歓交響管弦楽演奏会」のマネジャーに抜擢されます。翌26年から35年にかけて、新交響楽団のマネジャーを務める一方、上海在住のユダヤ系ラトヴィア人音楽プロモーター、ストロークの片腕となり、海外演奏家のマネジメントやラジオ放送出演などを協力したりします。

42年から上述通り、上海音楽協会の主事を務め、上海交響楽団プロデュース。その後、ハルビン交響楽団(朝比奈隆指揮)にも関わります。戦後は、その朝比奈に請われて、関西交響楽団の専務理事を務めることになります。

1951年、世界的なバイオリニスト、メニューヒンの日本公演を興行主ストロークとともに、東奔西走しているうちに過労のため朝日新聞社内で心臓発作を起こし、そのまま帰らぬ人となりました。享年50。以上、これらは井口教授の調査によるものです。

敗戦後の哈爾浜学院

皆様御案内の通り、私は個人的に、哈爾浜学院には思い入れがありますので、関係者にこの「原善一郎」について、学院の卒業者名簿に当たってもらったところ、本科の正規生として「該当者なし」ということでした。ただ、哈爾浜学院には、本科以外に、軍部や外務省、満鉄などから派遣された特修科(専攻科)生がおり、こちらは故意なのか、名簿を残さなかったか、散逸したか、なので、原善一郎はそちらに所属していた可能性があるようです。

なぜなら、原善一郎は「参謀本部の嘱託として宣伝の仕事をしていた」という土居明夫(元陸軍中将)の証言があるからです。

最後に、井口教授は「戦争がなかったら、原善一郎は山田耕筰や近衛秀麿らと知り合っていなかったことでしょう。音楽マネジメントには『記録は残さない』という不文律があるため、詳細について残っていない。まだまだ原善一郎に関しては謎が多い」と結んでおりました。

私も文化記者時代の25年ほど前に、東京のホテルオークラで朝比奈隆にインタビューしたことがありましたが、上海やハルビンの話も原善一郎の話も全く耳にしませんでした。

いずれにせよ、お二人の意欲的な研究には頭が下がる思いで拝聴しました。

?中島健蔵「昭和時代」(岩波新書、1957年)

?多川精一「戦争のグラフィズムー回想の『FRONT』-」(平凡社、1988年)

?岩野裕一「王道楽土の交響楽ー満洲知られざる音楽史」(音楽之友社、1999年)

「文化学院」は参謀本部の謀略放送拠点として接収されていた

10月なのに、秋の気配がなく、30度を超える真夏日が続いてます。

 昨日は、インテリジェンス研究所(山本武利理事長)と早大20世紀メディア研究所共催によるインテリジェンス見学ツアーに公認記者(笑)として潜入し、その後のセミナーと懇親会にも参加してきました。

どなたでも参加できるのに、参加者は25人ほどで年配者が多かったです。

見学場所は、東京・御茶ノ水にあった「駿河台技術研究所」(偽装用の表看板)です。陸軍参謀本部が昭和18年から敗戦まで、連合国の捕虜や日系人から抜擢した人を使って、米兵らに厭戦、反戦運動を盛り上げる謀略工作として、英語のラジオ放送番組(ニュースやドラマなど)を制作した拠点(駿河台分室)でした。

「東京ローズ」が活動した場所と言えば分かりやすいかもしれません。(インテリジェンス研究所の則松久夫理事の論考によると、東京ローズは日系二世のアイバ・戸栗・ダキノ(1916〜2006)が最も有名ですが、東京ローズは、他にも複数いたようです)

駿河台分室は、もともと、文化学院の校舎を、陸軍が接収したのでした。駿河台の明治大学本校舎の閑静な裏手にありますが、こんな所にあるとは思いませんでした。文化学院は、和歌山県新宮市出身の教育者で、建築家、画家、詩人でもある西村伊作らが、大正10年(1921年)に創立したもので、与謝野鉄幹・晶子夫妻や芥川龍之介、佐藤春夫、山田耕筰、有島生馬ら当時の一流の文化人を講師に招聘し、1923年の関東大震災で校舎は焼失しましたが、昭和12年に西村伊作設計の独特のアーチを持った新校舎が再建されました。(個人的ながら、切羽詰まって2000年に熊野古道を巡礼し、熊野本宮大社などをお参りして、新宮に出て、市内にあった「西村伊作記念館」に入り、初めて彼の業績を知りました)

昭和18年に、自由主義者の西村伊作は不敬罪で逮捕され、文化学院は閉校となり、校舎を陸軍が接収したわけです。

戦後、復興した文化学院は、杉本苑子、山東昭子、十朱幸代、前田美波里、寺尾聡といった作家や俳優らを卒業生として輩出してます。(戦前、あの入江たか子も入学してました)

米軍の爆撃の難を逃れた文化学院の駿河台校舎では、昭和30年代は、同じ駿河台で戦災に遭った仏語学学校「アテネ・フランセ」(1913年創立)が仮校舎として同居していたそうです。

今現在は、面白いことに、衛星放送のBS11(ビックカメラの出資会社)の本社として使われておりました。参謀本部のような謀略放送はしてませんが(笑)、放送局として再利用しているとは、奇遇というか、何かの因縁を感じでしまいました。

惜しむらくは、ニュースにもなりましたが、2014年に両国にキャンパスを移転した文化学院は、今年18年3月で、本当に閉校してしまいました。ネット上では「駿河台の土地が乗っ取られた」などと色々と書かれておりますが、今回は、趣旨が違うので、これ以上は追及しません。

所長室などがあった2階

見学ツアーの案内人で、午後の講演会「参謀本部の謀略放送」の講師も務めた名倉有一氏によると、この駿河台技術研究所の所長は、藤村信雄・外務省アメリカ局1課長でしたが、駿河台分室そのものをつくったキーパーソンは、参謀本部第2部第8課(参八)の恒石重嗣(つねいし・しげつぐ)少佐(1909〜96、享年86)で、当時32歳。高知県出身で、陸士44期生。あの瀬島龍三と同期でした。

市井の現代史研究家である名倉氏は、30年前の1988年と恒石氏が亡くなる直前の96年に本人にインタビューしており、その一部をセミナーで公開しておりました。名倉氏の努力には頭が下がります。

名倉氏は、駿河台分室で勤務していた元外務省嘱託の池田徳眞(いけだ・のりざね)著「日の丸アワー」(中公新書)を読んで感動して、謀略放送の研究に没頭し、関連書「駿河台分室物語」まで出版されております。詳細は、同書に譲りますが、恒石少佐らが工作した女性アナウンサー「東京ローズ」は、かなり効果があったようで、戦後、GHQに付随して来日した記者らは血眼で東京ローズを探したそうです。

秘密組織ですから、駿河台分室に精密な放送設備があったかどうかは不明で、謀略放送は主に、スタッフが内幸町の放送会館(現在のNHK)(場所は、今の日比谷シティ辺り)に移動して、そこから太平洋諸島から米西海岸辺りにまで届く電波で放送したようです。

つまり、NHKは、戦前のラジオ放送から国家機関の一翼として、時の政府や政権の宣撫活動に協力的だったことが分かります。今でも変わらないのは、歴史が証明しています。

ちなみに、恒石少佐は昭和20年に中佐に昇格し、同年6月に四国の第55兵站参謀に赴任、後任の実質的責任者は、スパイを養成する陸軍中野学校出身の一二三(ひふみ)九兵衛少佐でした。

「駿河台分室」見学の後、我々は、近くの「山の上ホテル」にまで移動しました。(途中に外務省の官舎がありました。勿論、標識も何もありませんが、事情通の人が教えてくれました)

山の上ホテルは戦前は、帝国海軍が接収した官舎だったそうです。戦後は、GHQが、Hill Top Hotelと名称を変えて(翻訳して?)そのまま接収して、女性将校用に使われたそうです。

知りませんでしたね。

ただ、戦後は、売れっ子作家が締め切りに追われて使う「カンヅメ・ホテル」ということは知ってました(出版社も近いので)。もう随分昔ですが、ここで学生時代の友人が結婚式を挙げたので、参列したことがあります。その後、宿泊ではなくて、ホテル内のバーには結構足を運びましたが(笑)。

GHQの女性将校の宿舎は、この山の上ホテルから、神保町の駿河台下に行く道路を挟んだ所にある旧主婦の友社本社ビル(現日大カザルスホールなどのお茶の水スクエア)もそうだったようです。主婦の友社ビルは大正14年(1925年)、あの著名なヴォリーズ建築事務所が建設した名建築です。

このように、米軍は、戦後の占領計画を練った上で、病院やホテルを残すなどして空爆を行っていたことが分かります。つまり、東京に残っている戦前の建物は、何らかの形で米軍が占領期に再利用する計画だったというわけです。

近現代史を知り、知識が増えると、見慣れた同じ景色が一変するから不思議でした。

クールベ「世界の起源」のモデルをついに発見!

アルハンブラ宮殿

ギュスターヴ・クールベ(1819〜77)は、19世紀フランスを代表する写実主義の画家です。代表作「オルナンの埋葬」「画家のアトリエ」などはよく知られています。詩人ボードレールの肖像画も残しています。

私自身は、大学の卒論に「印象派」(モネとドビュッシー)を選んだくらいですから、フランス史の中では、19世紀の文化や、革命を挟んだ帝政、王政復古、共和制、帝政、共和制とコロコロ変わる政治体制などにも関心があり、今でも興味を持ち続けております。

さて、クールベですが、パリのオルセー美術館に行かれると、クールベ・コーナーがありますが、そこに、ほぼ等身大の女性のgenitalsのクローズアップが展示されていて、まず大抵の人は度肝を抜かされます。タイトルの「世界の起源」(46×55センチ)とは言い得て妙で、よく名付けたものです(笑)。顔は描かれていません。局部だけです。

あまりにもリアル過ぎて「これ、ゲージュツなの?」と東洋から来たおじさんは圧倒されますが、これを見る前に、2人の若い裸婦がベッドで絡むようにまどろんでいる姿を描いた有名な、あの官能的な、想像以上に巨大な「眠り」(135×200センチ、プティ・パレ美術館)を事前に見ていれば、そのドギマギ感は少し薄れるかもしれませんが(笑)。

勿論、19世紀のサロンでは、このgenitals作品は大スキャンダルとなり、すぐさま隠匿され、オルセー美術館で一般公開されるようになったのは、つい最近の1995年からでした。その前は、著名な精神科医のジャック・ラカン(1901~81)がオークションで落札して何年間も、秘蔵していたようです。

「世界の起源」は検索すればその画像が出てきますが(18歳未満お断り。ここでは載せられません!)、そのモデルは誰なのか150年以上も不明で、一時はクールベお気に入りのモデル、ジョアンナ・ヒファーナン説もありましたが、謎に包まれていました。

それが、このほど、ついにその「正体」が分かったというのです。歴史家のクロード・ショップ氏が、仏国立図書館の司書部長で美術史家のシルビー・オーブナ氏の手を借りて、小説家のアレクサンドル・デュマと閨秀作家ジョルジュ・サンド(ショパンとの関係は有名)との往復書簡に注釈を付ける作業をしているうちに、そのモデルの名前が出てきて、偶然にも発見したというのです。

写真左がモデルのコンスタンス・ケニオー、右が画家クールベ

10月2日付のニューヨーク・タイムズ紙によると、そのモデルは、コンスタンス・ケニオー(Constance Quéniaux 1832~1908)という人物でした。パリ郊外で私生児として生まれ、オペラ座バレー団の踊り子として活躍した後、膝の故障で引退し、その後、高級娼婦になります。今ではすっかり忘れ去られましたが、当時は、あの楽聖ワーグナーと並び称されたオペラ作曲家のダニエル・フランソワ・エスプリ・オーベール(1782~1871)(現在は、パリ高速地下鉄オーベール駅にその名を残しています)の愛人となり、晩年はロワイヤル通りの豪邸に住み、彼女の死後は、その財産目録がオークションにかけられるほど裕福な後半生を送った人でした。

彼女がモデルになったのは1866年で、34歳ごろだったことが分かります。クールベは47歳でした。(依頼主は、当時コンスタンスを愛人にしていた元オスマントルコの外交官で超お金持ちのハリル・ベイ)その後、クールベは1870年のパリ・コミューンに参加してスイスに亡命せざるを得なくなり、不遇のうちに亡命先で57歳で亡くなります。

コンスタンスは、オペラ座の踊り子としてはかなり才能があったらしく、1854年の新聞の批評欄でも「優美で気品がある」と褒められています。詩人で批評家のテオフィル・ゴーティエも注目したようでした。

時は、日本で言えば、幕末の話です。現代人の感覚では、娼婦から愛人という遍歴は、眉をひそめるかもしれませんが、150年前は、田舎出の、しかも、私生児として生まれた女の子が、社交界にデビューするなり、それなりの地位に昇る手段の一つだったのかもしれません。富裕層は、劇場などに出かけては踊り子や女優らを自分の愛人にする時代でした。

 クールベも依頼主のベイの2人とも不遇のうちに亡くなりました。でも、コンスタンスの場合は、美貌と才覚に恵まれたおかげか、「成功者」として穏やかな晩年を過ごしたようでした。享年75。

松岡將著「在満少国民望郷紀行ーひたむきに満洲の大地に生きて」は浩瀚な労作でした

もし、私が「松岡総裁」と親しみを込めて呼んでいる松岡將氏と、面識を得ることがなかったならば、これほど、日本近現代史の「汚点」と言われた満洲問題について興味を持つこともなく、かつて満洲と呼ばれた現中国東北地方を実際に旅したりすることはなかったことでしょう。

松岡総裁という呼称は、日本の首席全権代表として国際連盟を脱退して有名な松岡洋石が、南満州鉄道(満鉄)総裁を務めたことがあったことから、私が勝手に(笑)、その名前にちなんで付けたものですが、松岡氏の御尊父は、松岡二十世(まつおか・はたよ)という戦前の労働問題専門の知識人でした。ゾルゲ事件で処刑された元朝日新聞記者の尾崎秀実と東京帝大法学部~大学院で同級生で、北海道で農民運動に挺身して治安維持法で逮捕され、その後、家族とともに満洲に渡り、敗戦後はシベリアに抑留されて帰らぬ人となった人でした。私も個人的に興味がある甘粕正彦が理事長を務めた満洲映画にも携わったことがある人で、それらの経緯については、松岡將氏の「松岡二十世とその時代」(日本経済評論社)に詳しく書かれております。

さて、松岡氏(昭和10年2月生まれ)自身は、日本の最高学府を卒業して霞が関の官僚となり、退官して老境に入ってからも拘り続けたのは、国民学校一年生の6歳から11歳までの5年間、「在満少国民」として過ごした満洲のことでした。それなりに家族団らんもあり、平穏な暮らしが一変したのは、1945年8月9日、日ソ中立条約を破棄したソ連軍による侵攻でした。松岡氏は、ソ連軍の蛮行を目の当たりにし、父親が行方不明で、命からがら大陸が引き揚げるという壮絶な筆舌に尽くしがたい体験をしただけに、忘れよと言われても一生忘れることはできないことでしょう。

その後、松岡氏は退官して時間的に余裕ができるようになってから、旧満州の地を何度も訪れ、数千枚もの写真を収めてきました。例えば、かつてのお城のような形をした日本の関東軍司令部の庁舎が、そのまま壊されずに現代でも中国共産党吉林省委員会として使われたりしています。そこで、現在と昔を比較した「今昔物語」としてセンチメンタル・ジャーニーを写真入りでまとめたものが、「在満少国民望郷紀行ーひたむきに満洲の大地に生きて」(同時代社、2018年9月30日初版、3000円+税)というタイトルでこのほど出版されました。

この企画については、私自身は以前から、スライドショーとして拝見したり、お話を伺ったり、事前にゲラまでお送り頂いたりしておりましたが、実際に出来上がった本を見て吃驚です。262ページの横変型のB5判というのでしょうか。しかも、百科事典のような重さです(笑)。

これなら、皆様に購入して頂くのが一番ですが、全国の自治体の図書館や、中・高・大学の付属図書館でも取り揃えてもらい、後世に伝えてほしい一冊です。

大連~奉天(瀋陽)~新京(長春)~哈爾浜。私も中国新幹線「和諧」号に乗って2014年7月17~23日にかけて旅行をしたことがあるので、写真を見て大変懐かしい気分になりました。何と言っても、中国が凄いところは、あれほど、「偽満洲」と全面的に否定しておきながら、かつての日本のヤマトホテルは現在でもホテルに、旧満州中央銀行は、中国人民銀行吉林省支店にするなど、そのまま再利用していることです。韓国が、近代建築の粋を集めた旧朝鮮総督府を破壊してしまったのとは正反対です。

以前(5年前の2013年)、松岡氏が「松岡二十世とその時代」を出版された時に、あまりにも多くの史料が引用されていたことから、私は不用意にも「随分たくさんの資料を持ち帰ることができたんですね」と感想を述べたところ、氏から「着の身着のまま、裸一貫でかろうじて帰国できたのですから、そんな資料なんかあるわけありません。一から、いや、ゼロから集めたのです」と真顔で反駁されたことがありました。

国家と歴史に翻弄された引揚者の苦労を知らない、書物でしか知らない戦後世代の甘さを痛感し、恥じ入ったものでした。

松岡氏は敗戦直後、新京(長春)に留まらざるを得なかった際に、市内で銃撃戦に遭遇したり、ソ連兵による暴行を見聞したりしたらしいのですが、この本ではあまり深く触れておりません。

松岡氏は、この本を通じて、満洲の「負の遺産」以外のものを伝えたかったのではないかと私は思いました。そして、ただひたすら「ひたむきに満洲の大地に生きた」この記録が、後世に伝えるべき「歴史の証言」となっており、特に、こんな時代があったことさえ知らない多くの若者には、この本を手に取って読んでほしいとも思いました。

「本能寺の変」にスペインも絡んでいた!?

グラナダ

実は今、4冊ぐらい並行して本を読んでいるため、頭の中は、ごった煮のシチュー状態です(笑)。

病気をきかっけに、本はなるべく買わないようにしているのですが、やはり、本ぐらいしか人生の楽しみ(と同時に苦しみ)がないので、増えてしまいます。

今朝から読み始めたのは、安部龍太郎著「信長はなぜ葬られたのか 世界史の中の本能寺の変 」(幻冬舎新書、2018年7月30日初版)です。「世界史からの視点」というのが、新鮮というか、斬新的です。

プラド美術館 ベラスケス像

安部先生は、いつぞや、京都は、京洛先生の守備範囲である上京区にある老舗居酒屋「神馬(しんめ)」に出没され、ちょうど、京洛先生と小生がそこで一緒に呑んでいた時に、安部先生と取り巻き編集者が奥の超一等席にいらっしゃっていたという話を聞いたことがありました。つまり、同じ時間と空間を共有していたわけです(笑)。神馬は、東京からハイヤーを乗り付けて来店するツワモノがいるほどの人気店で、調子に乗った神馬の親父が、あまりにも居丈高だったので、その後我々は行かなくなりましたけど…。

さて、「信長はなぜ葬られたのか 世界史の中の本能寺の変 」です。私も加藤廣さんの「信長の棺」などを読んで、本能寺の変の「黒幕」は、五摂家筆頭の近衛前久(さきひさ)だったいう説に、私も納得しましたが、さらにその背後に、スペインやイエズス会もいたというので驚きですね。

コルドバ 大聖堂

安部氏は、以下のような持論を展開します。

…信長は南蛮貿易による利益と軍事技術の供与を受けるために、イエズス会を通じてポルトガルと友好関係を築いていたが、ポルトガルは1580年にスペインに併合された。

そこで、信長はスペインとの新たな外交関係を築く必要に迫られ、イエズス会東アジア巡察師のアレッシャンドロ・ヴァリニャーノと1581年2月から7月まで交渉したが、合意に至らなかった。

スペインが明国征服のための兵を出すよう信長に求めたからだと思われる。日本にそれを示す資料は残っていないが、ヴァリニャーノがマニラ在住のスペイン総督に宛てた手紙を読めば、そうとしか考えられない。

信長は、イエズス会とスペインを敵に回したため、信長政権はとたんに不安定化した。キリシタン大名や南蛮貿易で巨万の富を得ていた豪商たちが見限り始めたからである。

これをチャンスとみたのが、京都から備後の鞆の浦に追放された室町幕府15代将軍足利義昭。彼は朝廷や幕府ゆかりの大名に檄を飛ばし、これに応じたのが、義昭の従兄弟で義兄弟に当たる近衛前久だった。前久の工作で、明智光秀が本能寺の変を起こした…

というのです。

サラゴサ

なるほどねえ。スペインが絡んでいたとは、驚き、桃の木ですよ。

写真は撮らない~ヘミングウエイ~数字は人格

アルハンブラ宮殿

スペイン旅行(2018.9.11~18)では、プロカメラマンさながら、500枚近くもの写真を撮りまくってきました。

そんなに写してどうすんの、てな感じです。

そんな中、ツアーで一緒になった静岡県から参加された女性が、ただ一人だけ、一枚も写真を写していないことに気が付きました。デジカメすら持参していないようでした。

彼女は、あの秘境マチュピチュにまで行かれたことがあるらしく、大の旅行好きのようでした。それがどうしたことか。その理由について、恐る恐る聞いてみました。

アルハンブラ宮殿全景

「以前はよく撮っていたんですけどね。家に帰って、娘たちに見せても、自分が行ってないものだから、あまり興味なくて…。それより、あまりにも沢山、写真が増えてしまって、『お母さん、(写真を)どうにかしてよ』とまで言われてしまって…」

なるほど、そういうことでしたか。

確かに、身内の人とはいえ、勝手に好きに遊んできた(笑)写真を見せつけられては、はた迷惑かもしれませんね。

SNSの流行で、世間の人たちはやたらと自分たちの撮った写真をアップしてますが、確かに、興味や関心がない人の撮ったものなどどうでもいいのかもしれません。

親戚や親しい友人でも、年賀状に赤ちゃんの写真や家族の写真を送ってもらっても、待望の赤ちゃんにまだ恵まれていない夫婦や、独身の人間にとっては、あまり愉快なものではない、のと同じです。

アルハンブラ宮殿前庭

さて、スペイン=闘牛ということで、久しぶりに若い頃に熱中して読んだヘミングエイのことに思いを馳せました。

彼は晩年になって、悲劇的にも猟銃自殺しましたが、若い頃は、彼の晩年の白い髭をはやした老人姿の写真から、彼が70歳か、80歳に近い頃だったと思っておりました。

そしたら、ちょっと調べてみたら、まだ61歳(62歳になる直前)だったんですね。今のような「人生100年時代」ではとても若いです。

どうやら、ヘミングウェイ一族は自殺の多い家系のようでした。彼の父親クラレンス、妹アーシュラ、弟レスターもそうで、姉マーセリンも自殺が疑われているそうです。また、最近、といっても1996年のことですが、孫娘で女優のマーゴも自殺しています。原因は精神疾患の遺伝のせいではないかとも言われています。

私は、ヘミングウエイ好きが高じてキューバにまで行ったぐらいですが、彼のマッチョ的イメージとは違う内面の繊細さは意外でした。

ただ、若い頃のヘミングウエイはかなりの自信家で、同時代人で彼を知る人たちの中には、彼がかなり度を越した傲岸不遜で、付き合い切れなかったと証言する人もいたようです。彼は、生涯で4度も結婚しました。

アルハンブラ宮殿

話が飛んでしまいましたが、旅行中に暇つぶしに持って行った本の一つに、小山昇著「数字は人格」(ダイヤモンド社、2017・12・13初版)がありました。

数学関係の本と思いきや、中小企業経営者のための指南書でした。法律で作成が義務付けられている「損益計算書(P/L)」よりも「貸借対照表(B/S)=バランスシート」を優先して経営者を読め、と薦めております。

そのバランスシートの中でも、一番最初の「流動資産」の中の「現金預金」を重視するべきだと何度も強調しております。

何故なら、いくら黒字経営でもキャッシュ(現金預金)がなければ、倒産してしまうからです。2008年のリーマン・ショックでは、約2分の1が「黒字倒産」だったそうです。

だから、著者は、銀行から借金してでも、イザというとき、いつでも手元にキャッシュが用意できるようにしろ、と力説するのです。銀行からの借金には金利が付きますが、それは「時間」を買っているようなものだ、というのです。

私自身は、最初から最後までサラリーマンの「使用人」として終わり、経営には全く縁がなかったので、損益計算書もバランスシートも関わることがありませんでしたから、この本は、自分にとってはかなり新鮮でした。

アルハンブラ宮殿内部

この本の内容については、目次からピックアップすれば大方のことが予想できます。

その前に、バランスシートの中の「売掛金」とか「買掛金」とかいう項目の意味を知らなかったですが(笑)、「掛け」とは「ツケ」のことで、売掛金とは、既に商品は売っているものの、代金が後払いで、まだ回収していないお金のことでした。買掛金とはその逆で、すでに商品は仕入れているのに、まだその代金を支払っていないお金のことです。

世の中には、売掛金がゼロの商売もたくさんあり、その一つが飲食業で、飲食店は現金かクレジットカードがメインで、お客さんがその場で払ってくれるからです。

ただ、飲食業は安泰かといえばそうでもなく、全く知りませんでしたが、飲食店の80%が開業して5年以内に倒産するというから驚きです。食材などを仕入れて、後払いする「買掛金」があるのに、無謀な経営をするのが理由の一つだそうです。メニューを変えたり、インテリアを変えたりして、「事前投資」しなければ、お客さんにすぐ飽きられてしまいますからね。道理で、街中ではちょくちょく商店が変わるはずでした。

そう考えると、何百年も続く老舗飲食店は凄いんですね。

以下、目次を拾ってみますとー。

・現金があれば、会社は倒産しないカラクリ

・在庫は「資産」ではなく「死産」

・売上を増やすには「客単価」をアップするより、「客数」を増やす

・人件費を減らすには無駄な仕事を減らすのが一番

・社員にいつでも自由に会社の数字を見られる環境を整える(役員報酬1億円まで公開)

以上、これから起業しようとする皆さんなら大いに参考になるでしょうが、残念ながら、私自身は遅すぎて、「へー」と世の中の仕組みが分かり、勉強になりました。

元号について知識が増えました

所功、久礼旦雄、吉野健一共著「元号 年号から読み解く日本史」(文春新書)は、大変読み応えありました。

僭越ながら、それほど易易と読み飛ばすことができないでしょう。中級から上級読者向けです。まず、「薬子の乱」や「承久の変」といった歴史上の出来事の年代や天皇や藤原氏の系図が頭に入っていないとスラスラ読めないはずです。

私がこの本の中で興味深かったことを2~3点挙げますと、日本の元号は、本来、朝廷内で難陳され、天皇が最終的に裁可して改元されていましたが、やはり、時代を経て、時の最高権力者が元号を決定していたことがあったことでした。平安時代の藤原道長が自邸で、改元を決定していたことはさほど驚きませんが、例えば、織田信長は「天正」、豊臣秀吉は「文禄」「慶長」、徳川家康は「元和」の改元に意見を申し入れたか、直接、選定していたというのです。

もう一つは、年号の読み方については、特に朝廷や幕府から伝達されていなかったということです。改元を伝える「お触れ」などには、一部の地域では、読み方を「ルビ」として記載した例もありましたが、ほとんど各地に任されていたというのです。例えば「慶長」は「けいちょう」か、「きょうちょう」か、「宝暦」は「ほうれき」か「ほうりゃく」かなど、当時の史料でも読み方が一定していないというのです。

「へー」ですよ。日本語の漢字の読み方は「呉音」読みから「漢音」読みまで色々ありますから、日本語は難しい。ま、そこがいい所かもしれませんが(笑)。

現代人は、元号というのは、「一人の天皇陛下に一つ」、つまり、「一世一元」が当たり前だと思いがちですが、それは、明治以降の話であって、それ以前は天皇一代の間に何度も改元が行われてきました。おめでたい「祥瑞」(吉兆)が出現(例えば、白い雉とか)した時とか、都に疫病や天災、戦災に遭った時とか、60年に一度回ってくる「辛酉」(中国では革命が起きると言われた)や「甲子」(革令)の年に、改元したわけです。

幕末の孝明天皇朝(在位20年弱)は、「嘉永」から「慶応」まで6回も改元され、途中の「万延」と「元治」は1年しか続きませんでした。

江戸幕府や大名のお抱え儒学者、例えば、著名な林羅山や藤田東湖、それに山崎闇斎や新井白石らもかなり、改元に際して意見を申し入れていたことも、この本で初めて知りました。

「明治」は、15歳の天皇が「御籤を抽き聖択」、つまり、候補の中からクジを引いて決められたということで、これも驚き。

今では、本家本元の中国は、元号を廃止して西暦を使っていますから、元号は「日本的な、あまりにも日本的な」ものになっています。「日本書紀」の記述から初代神武天皇が紀元前660年に即位し、その年を紀元1年とすると、天保11年(1840年)は皇紀2500年に当たり、当時の知識人たちはしっかりと明記していたことには感心しました。

その100年後の昭和15年(1940年)、日本は盛大に「皇紀2600年」の祝賀会を挙行しました。零式戦闘機、つまりゼロ戦は、この年に製作されたのでそのように命名されたことは有名ですね。

来年は改元の年で、どんな年号になるのか、個人的には興味津々です。