大塚ひかり著「女系図でみる驚きの日本史」は凄過ぎる
大塚ひかり著「女系図でみる驚きの日本史」(新潮新書、2017年9月20日初版)を数日前から読んでおりますが、これまた図抜けて面白い。目から鱗が落ちるといいますか、まさに驚きの逆転の発想で、いまだかつて、偉い歴史学者がとらえたことがない画期的な野心作です。
つまり、これまでの歴史は、天皇家にしろ、藤原氏にしろ、源氏や平氏にしろ、ほとんど全て男系、つまりは父親中心で、息子に政権や家督が継がれていくといった流れの発想で、描かれてきました。
となると、平氏は、壇ノ浦で滅亡した、ということになります。
ところが、おっとどっこい。
女系、つまりは母親の系図をたどっていくと、平氏は滅亡したわけではなく、平清盛の血筋は、何と今上天皇にまで繋がっているのです。
一方の鎌倉幕府を開いた源頼朝の直系子孫はほどなくして途絶えてしまうのです。

皇居
著者の大塚氏(1961~)は、歴史学者ではありませんが、中学生の頃から古典文学を読むことが大好きで、個人訳の「源氏物語」全6巻まで出版しているようです。大学では、文学ではなく、日本史学を専攻してます。
そして、何と言っても、複雑な人間関係が数多出てくる古典文学や歴史上の人物には、系図がないとなかなか理解できません。しかし、男系だけで追っていては行き詰る。そこで、自分で好きが高じて、女系の系図をつくったところ、これまで見えなかった人物の系列関係が一目で分かるようになったといいます。
著者は言います。「胤(たね)よりも腹(はら)が大事―母親が誰かに注目した女系図でたどると、日本史の見え方が一変する」
確かにその通り。
驚くべき史実です。

例えば、天皇家。一部の右派の皆様は、「女系天皇」どころか、「女性天皇」も否定されておられますが、この本によると、「万世一系」と言われている天皇家は、既に、「女系」の時代があったんですね。
同書のように、家系図をここに書かないと理解しにくいかもしれませんが、43代元明天皇(女性)は、41代持統天皇(女性、40代天武天皇の皇后)の異母妹で、42代文武天皇の母親であり、草壁皇子の妻でありました。
草壁皇子は、皇太子(次期天皇)でしたが、即位の前に亡くなってしまい、その妻だった元明は「皇后を経ずにして即位した初の女帝」となります。
そして、この後、元明天皇と草壁皇子との間の娘が、独身のまま44代元正天皇(女性)として即位します。
「草壁皇子は天皇ではない。母元明天皇の娘であるため、即位した形である。これって『女系天皇』ではないのか?」と、著者は疑問を投げかけているのです。

東京・水天宮
著者も得意とする紫式部の「源氏物語」の世界。実際の平安時代は、男性が女性のもとに行く「通い婚」が普通だったので、父親が誰か、以上に母親が誰なのかの方が重要で、子どもの出世は母親で決まってしまったことが多かったようです。
まさに、胤より腹が大事です。
実際、天皇の寵愛を受ける女性には、中宮(皇后)、女御、更衣といった序列があり、正妻以外から生まれた子どもは「外腹」(ほかばら)、劣った身分の母親から生まれた子どもは「劣り腹」などという隠語があり、「源氏物語」や「栄華物語」「大鏡」などにも堂々と登場します。(正妻の子は、嫡妻腹=むかひばら=というそうな)
「源氏物語」の主人公光源氏(醍醐天皇の子息源高明がモデルの一人とされている)が、桐壺帝の子息で、あれほど優れているのに、臣下として「源氏」を名乗ったのは、「更衣腹」と世間で言われたせいではないか、と著者は推理していますが、随分説得力がありますね。
著者によると、紫式部(当時の最高権力者藤原道長の愛人でもあったらしい)の娘賢子の女系を丹念にたどっていくと、今上天皇にまでいくというので、これまた驚きです。
この本については、また次回書きます(笑)。
京都・東寺の「後七日御修法」で取材敢行=京洛先生登場
京都・東寺「後七日御修法」 Copyyright par Kyoraku-sennsei

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京都の京洛先生です。
最近の貴人のブログを読んでいると、
彼の有名な「ウマズイめんくい村通信」の加須主筆は、貴人よりもかなり高齢ながら、神田明神下で「甘酒」、神保町の「南海」

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人間、チマチマしていると、老けるのも早く、あっという間に年を取り、姥捨て山、ナントかホームへ、一直線ですぞ!
ところで、貴人は、自分の誤操作、誤作動で、折角、

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「東寺」(教王護国寺)で、毎年新年1月8日~
この「御修法」
「東寺」のホームページには、
この儀式が始まった8日、地元紙は、以下のように報道しております。
(引用)真言宗の最高儀式とされる「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」
開祖・空海が835年に宮中の正月行事として始めた。
正午まえに宮内庁京都事務所(上京区)
冷たい雨が降る中、朱傘を差し掛けられながら、

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東寺境内にある日頃、非公開の「灌頂院」(重文)も、
上記写真の通り、お坊さん達が、後七日の御修法が終わった天皇陛下の「御衣(ぎょい)」
下記写真の通り、担いでいるお坊さんがマスクをしているのは、
迂生の後ろで、この光景を見ていた、

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また、四国方面から来たお坊さんは、連れの檀信徒さんと「
迂生も、足元から冷えがきたので、帰宅後、ゆっくり風呂に入り、
以上、《渓流斎日乗》に一家言の持ち主の京洛先生でした(笑)。
キンドルバーガーは挫折しました
以前より、最近どうも気力が薄れてきました。
以前なら、目が覚めると、「今日は何を書こうか」と次々と書く材料が浮かんできて、取捨選択に苦労したものですが、今は、どうも、ドキドキワクワクするような題材が減ってきました。
裏が見えてしまう、といいますか。政治家も芸能人も、知の巨人と言われる人たちも、皆んな薄っぺらく、いや間違いました(笑)、皆んな、均質化されてしまったお蔭で、幻想もなくなり、同時に期待感も無くなってしまったのです。
ま、成熟したお蔭で、「達観してきた」ということと自分では解釈してますが(笑)。
ところで、鄙びた温泉にでも行って養生したいものですが、諸般の事情でそれも叶わず、ひたすら読書に励んでおりますが、こちらも、何が何でも読破してやるという気力が薄れてきてしまいました。

例えば、1929年の世界大恐慌を詳述した「聖典」とも呼ばれている著名なチャールズ・P・キンドルバーガー著、石崎昭彦・木村一朗訳「大不況下の世界1929ー1939 改訂増補版」(岩波書店、2009年8月27日初版、7668円)に挑戦してみましたが、途中であえなくノックアウト。つまり、挫折してしまいました。
しかし、あまりにも専門的過ぎます。あまりにも難し過ぎます。これでも、「不胎化」といった難しい専門用語はある程度理解できますが、全体的には、お手上げ状態でした。恐らく、経済専門の大学院生でも理解できるかどうか…。
私が「嗚呼、もう駄目だ」と、続きが読めなくなったのは次の箇所です。
…金本位制は金を獲得した諸国が経済を一段と拡大し、金を喪失した国が経済を引き締めることによって自動的に機能するものと想定されていた。しかしながら、1920年代にはこの自動性が解明され始め、中央銀行間調整がその自動性を支援し、あるいはその自動性に代位するために必要とされるにいたった。それは勿論最初の事例ではなかったが、最も顕著な事例の1つであり、第2次世界大戦後マクロ経済政策を調整する見地から行う通貨当局間協議の先例になったということができよう。…
うーん、何度読んでも分からん(笑)。
改正通訳案内士法が施行 お金をかけて馬鹿をみた話
イタリア・ヴェローナ
今年1月から改正通訳案内士法が施行されました。観光庁のホームページには以下のように書かれています。
平成29 年6 月2 日に公布された改正通訳案内士法が、平成30 年1 月4 日に施行されました。これにより、通訳案内士の業務独占規制が廃止され、今後は資格を有さない方であっても、有償で通訳案内業務を行えるようになるほか、通訳案内士の名称が「全国通訳案内士」に変更されるなど、通訳案内士制度が大きく変わります。
訪日外国人旅行者の受入環境の整備を図るため、通訳案内士資格に係る規制を見直すとともに、旅行の安全や取引の公正を確保するため、旅行に関する企画・手配を行ういわゆるランドオペレーターの登録制度の創設等の措置を講じる「通訳案内士法及び旅行業法の一部を改正する法律」(平成29 年法律第50号)が、昨年6月2日に公布され、本年1月4日に施行となりました。
(1)業務独占規制の廃止・名称独占規制のみ存続
(2)地域通訳案内士制度を全国展開
(3)全国通訳案内士試験の試験科目の見直し
(4)全国通訳案内士に対して登録研修機関が行う研修の受講を義務づけ

イタリア・ヴェローナ
恐らく、関心のある方しか上記をお読みになることはないと思われますので、簡単にこの国がやりたいことをご説明致します。
かつては、「通訳案内士」の資格試験は、日本の三大難関試験の一つとも言われておりました。合格率が10%程度ですから、100人のうち90人は落ちたのです。大昔の「かつては」の話ですが。
それが、今回の改正によって、「今後は資格を有さない方であっても、有償で通訳案内業務を行えるようになる」ことになったのです。
つまり、ぶっちゃけ、「資格なんかなくても誰でも、ガイドしてお金もらっていいですよ」という話なのです。(今まで無資格でやってた人は、モグリです)だから、結果的に「これまで取得した資格証明書は紙切れになりましたよ」ということになりますよね?
アッジャパーですよ。(伴淳三郎が映画「吃七捕物帖」=1951年公開で流行らせた驚きと困惑を表す感嘆詞)
私もかつて、多大な時間をかけ、週末に予備校に通ったりして多くの投資をしてやっとのことでこの資格を取ったのですが、投資金も回収できず、結局、無駄になってしまいましたよ(苦笑)。
上記には書いておりませんが、観光庁による研修と、合わせて5年に一度、登録研修の受講が義務付けられ、受講しないと「資格剥奪」となるようです。
これが、「この国のかたち」なんでしょね。
別に抗議をしても始まりませんし、唯々諾々と従うだけですが、それにしても酷い話ですねえ。悪い言い方ではありますが、国が保証するというのに、空手形をつかまされた気分です。
まあ、世界には、国家間で不可逆的に取り決めた「合意事項」を前政権が勝手にやったからということで反故する動きを見せる国もあるぐらいですからね。
ま、資格剥奪されても、関係ねーか(笑)。資格なくてもガイドしてもいいってことですからね(笑)。
何か馬鹿みたい。
新聞社が不動産屋に~スマホからの解脱~わが青春に悔なし~京大事件~恒藤恭~東洋文庫
東京・銀座並木通りの旧朝日新聞社跡に建つ高級ホテル
夏目漱石や二葉亭四迷、石川啄木らも働いた東京・銀座の(昔は滝山町といっていた)旧朝日新聞社跡に何か新しいビルが建ったというので、見に行ってきました。
そしたら吃驚。異国の超高級ブランの衣服と時計とホテルが横並びで、思わず通り過ぎてしまいました。とても中に入る勇気がありませんでした(笑)。以前はプロ野球のセ・リーグとパ・リーグの事務所があったりして入りやすかったのですが、とても足を踏み入れる気さえ起きませんでした。
家主は、朝日新聞社です。若者の新聞離れやら少子高齢化、日本人の教養劣化と記者の質の低下(笑)、そして今は流行のフェイクニュースとやらで、新聞の売れ行きがガタ落ちで、歴史のある大手新聞社のドル箱が、今や、紙から不動産に移っている様を如実に反映しておりました。

Italie
今年2018年の抱負のナンバーワンは、以前にも書きました通り、「スマホ中毒」からの解毒(デトックス)です。(笑)
ということで、電車内でスマホでこの《渓流斎日乗》を執筆することを控えることに致しました。更新もalmost毎日ということになります。
昔はメールなんかありませんでしたから、実に牧歌的な時代でした。メールも当初は、パソコン中心で、1週間に2~3回チェックする程度で、それから返信していても許されましたから、本当にいい時代でした。
今やスマホの時代ですから、いつもメールなんかを気にしていなければなりません。
今年は、スマホからの解脱を目標に掲げましたから、メール・チェック等もほどほどにすることにしましたので、返信が遅れてもお許しくだされ。

Italie
お正月休みにテレビで黒澤明監督の「わが青春に悔なし」を初めて観ました。黒澤作品全30作のうち9割は観ておりますが、この作品はどういうわけか、見逃しておりました。
何しろ、私の専門分野(笑)のゾルゲ事件と京大・滝川事件をモチーフに作られた(久板栄二郎脚本)というので、観るのが楽しみでした。
確かに京都大学・八木原教授(大河内伝次郎)の娘幸枝(原節子)をめぐる野毛(藤田進)と糸川(河野秋武)の三角関係のような青春物語でもありますが、究極的には昭和初期の軍国主義の中での言論弾圧とそれに反発する教授や学生、その中での保身や裏切り行為なども描かれています。
大学を卒業して10年、恋のライバル二人の運命は真っ二つに分かれ、糸川はエリート検事になり、野毛は、東京・銀座にある東洋政経研究所の所長として支那問題の権威として雑誌などに長い論文を寄稿したりしています。これが、ゾルゲ事件の尾崎秀実を思わせ、結局「国際諜報事件」の首魁として逮捕されるのです。
何といってもこの映画が凄いのは、敗戦間もない昭和21年の公開作品だということです。まだ占領下ですし、戦前タブーだった京大事件とゾルゲ事件を題材にした映画がよくぞ公開されたものです。
◇京大事件とは
京大事件とは、昭和8年(1933年)鳩山一郎文相が、京都帝国大学法学部の滝川幸辰教授の著書「刑法読本」や講演内容が赤化思想であるとして罷免した事件です。
法学部教授全員が辞表を提出しますが、結局、滝川教授のほか佐々木惣一(戦後、立命館大学総長)末川博(同),恒藤恭(戦後、大阪市立大学長)ら7教授が免官になりました。
この中で、私は法学関係に疎いので恒藤恭教授の名前を近しく感じてしまいます。彼は、旧制一高時代、芥川龍之介の親友で、確か、成績は恒藤が首席、芥川が2席という大秀才だったと記憶しております。
◇石田幹之助と東洋文庫
「京都学派」に詳しい京都にお住まいの京洛先生にお伺いしたら、「芥川の一高時代の友人の中に有名な菊池寛や久米正雄のほかに、石田幹之助という東洋学者がいて、私も学生時代に習ったことがあるんですよ」と仰るではありませんか。これには吃驚。京洛先生は一体、何時代の人なんでしょうか?(笑)
「石田先生は授業中によく、芥川や恒藤らの思い出話をしてましたよ。石田先生は、三菱の岩崎財閥からの支援と要請で今の東洋文庫の基礎をつくった人です。小説の世界と学者の世界は違うんです。芥川の『杜子春』なんかも石田先生が提供した資料を使ったんですよ。何?石田幹之助も東洋文庫も知らない?」
「石田教授の師は、『邪馬台国北九州説』を主張した東京帝大の白鳥蔵吉です。『邪馬台国畿内説』を唱えた京都帝大の内藤湖南と大論争になりました。えっ?それも知らない?嗚呼…嗚呼…」
国立文楽劇場「初春文楽公演」を堪能。「にらみ鯛」と東大寺の狭川普文別当(華厳宗管長)の絵馬も見ものです
「にらみ鯛」と東大寺の狭川普文別当(華厳宗管長)の絵馬(国立文楽劇場)

国立文楽劇場
皆様ご存知の「浪華先生」です。
正月からの《渓流斎日乗》を見ていますと、「
(うわ~ズバリご正解!)
本ばかり読んでいてはダメですよ(笑)。
「書を捨てよ!街に出よう!」は若者だけの話ではありません。中年、特に、高齢者、老人ほど、
恐らく、渓流斎さんは「瘋癲老人、不良老人になるには、

「君たちはどう生きるか」が100万部のベストセラー〜谷崎〜西郷〜【動画】東京驛舎

今、吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」が漫画化(羽賀翔一)されて、ベストセラー(マガジンハウス)になっているというので、《渓流斎日乗》に書くためだけにわざわざ買って読んでみました。
先日買った時点では「70万部突破」でしたが、今朝の新聞を見たら一面広告で、「100万部突破」の大ベストセラーになっていました。
原作の出版は、支那事変が開始された昭和12年(1937年)と言われてますから、何で、80年も昔の本が漫画とはいえ、急に蘇っってブームになったのか不思議です。
識者の中には「暗い軍国主義の世の中になる時代と、21世紀の『戦前』と共通点があるから」と仰る方もいますが、読んでみれば、コペルニクスやニュートンら科学者が多く登場し、政治家として出てくるのは異国の英雄ナポレオンぐらいです。それより、学園内でのイジメや、貧富の格差、友情と裏切りといった今でも通じる普遍的な若者が抱く悩みや疑問が描かれています。
作者の吉野源三郎は、東京高等師範〜一高〜東京帝大卒という絵に描いたような知的エリートです。戦前、治安維持法で逮捕された経歴があり、戦後、岩波書店の雑誌「世界」を発行し、戦後民主主義を代表する進歩的知識人と言われています。
昔でしたら、話はこれで終わっていましたが、今のようなネット時代では、極左から極右まで色んな方が発言されたり、フェイクニュース、フェイスブックならぬフェイクブックも横行したりして、あまりにもの情報過多で思想信条がグラつき眩暈が起きることでしょう。
「君たちはどう生きるか」は、叔父さんが甥っ子に手紙などで語りかける手法で、人生の先輩として若い人に一つの指針を示す様が描かれています。その中で、自分の信念を持つことの大切さを説くあたりがが印象的でした。
まあ、あまりネット情報に左右されないことが肝心ですよ。

(一昨日からの続き)
日本橋人形町は、文豪谷崎潤一郎生誕の地で、私の大好きな歴史的碑が立っていました。
詳細は上記の写真をお読みください。

昨日から始まったNHKの大河ドラマは「西郷どん」。「七福神めぐり」で日本橋人形町を彷徨いていたら、偶然、魚久本店を通り掛かり、店前に上の写真の通りの「由来」を発見しました。
江戸末期、姫路藩主酒井家の屋敷があり、維新後、参議になった西郷どんが居を構えた、と書いてありますね。
ここだったですか。
最後に「おまけ」は今年のお正月2日の東京驛前風景の動画です。100年もすれば、歴史的価値が出るやもしれません。まさか(笑)。
日本橋人形町は芝居の街だった

「歴史散歩」が趣味の私としては、全国で「教育委員会」などが掲げる標識といいますか、史跡の由来を説明する看板を見つけることが何よりも楽しみです。
欧米でもよくあります。パリなんかにある「ここにビクトル・ユゴーが住んでいた」といった類です。ウィーンなんかは、「ベートーベンがここで『運命』を作曲した」といったような看板が至る所にあり、いちいちオーストリア国旗が掲揚されているので、ウィーンの街中は国旗だらけだったような覚えがあります(笑)。
日本橋七福神を巡りをしている時に、人形町界隈で歴史の舞台になった看板を見つけました。「人形町」と言うくらいですから、人形浄瑠璃の芝居小屋が多くあったことは知っておりましたが、文楽の芝居小屋跡の看板は見つけることができませんでした。
その代わり、歌舞伎にちなんだ舞台が結構ありました。上の写真の「玄冶店跡」です。深川芸者お富と伊豆屋の若旦那与三郎(切られ与三)の悲恋物語。「いやさ、お富、久しぶりだなあ」のあれです(三世瀬川如皐作「世話情浮名横櫛」=よわなさけうきなのよこぐし)。玄冶店は、江戸の妾宅街ということで、芝居では鎌倉の源氏店に舞台を変えております。嘉永6年(1853年)、江戸中村座初演。ということは、幕末のペリーが来航した年だったんですね。モノの本によると、初演の与三郎は八代目團十郎で、翌年、大坂で32歳の若さで切腹したとか。お富は梅幸、のちの四代目菊五郎ですからね。

上の写真は、刃物の「うぶけや」。玄冶店跡のすぐ近くにありました。うぶけや、という屋号は「うぶ毛でも剃れる、切れる、抜ける」との評判で付けれられたそうです。「毛抜き」も売っており、歌舞伎役者の錦絵も飾られていたので、あの歌舞伎の「毛抜」の舞台になった所かなと勘違いしてしまいました。
歌舞伎の「毛抜」、本名題「鳴神不動北山桜」は、寛保2年(1742年)、大坂・佐渡島座で二代目團十郎によって初演されたようですが、この「うぶけや」も負けないくらい凄い。創業は、天明3年(1783年)大坂でした。1800年代に入って江戸日本橋長谷川町(現堀留町)に支店を出し、維新後に現在地に移転したという老舗だったのです。(大坂本店は今はないそうです)
今度、挟みでも買ってみようかしら。

日本橋人形町は、文楽だけでなく、歌舞伎の芝居小屋街だったことが分かる看板です。
幕府に認可された江戸四座のうち、中村座と市村座の二座あったですね。残りの二座は、木挽町(現銀座六丁目辺り)にあった山村座と森田座(のち守田座)ですが、山村座は正徳4年(1714年)、例の「江島生島事件」で廃座されました。
森田座は資金繰りが不安定で、河原崎座が代行興行することが多かったらしいですが、天保の改革で、木挽町から猿若町(現浅草六丁目)に移転させられ、明治に入って験を担いで守田に名前を改め、新富町に移転し、「新富座」を開業したことは皆様ご存知の通り。
人形町の中村座と市村座も、森田座と同じように天保の改革で猿若町に移転させられ、人形町に芝居小屋があったのは約200年間とありますが、芝居小屋だけでなく飲み屋さんやら何やらの一大歓楽街だったことでしょう。今でも雰囲気のある居酒屋が多くあります。
だから、今の若い歌舞伎役者も、気取って六本木なんかで呑んでいないで、原点を辿ってみれば、芝居に味が出てくるんじゃないでしょうか。余計なお世話ですが。いや、世話情か(笑)。
江戸三座筆頭の中村座については、上の写真に書いてある通りです。江戸歌舞伎の創始者とも言われる中村勘三郎は、京都から来た猿若勘三郎だったんですね。
「日本橋七福神めぐり」に行って参りました
江戸三森の一つ、椙森(すぎのもり)神社
1月6日は、まだお正月松の内で、3連休の最初の日でもあり、あまり家に閉じこもっていても何ですから、以前から行きたかったお江戸「日本橋七福神めぐり」に一人で行って参りました。
私のご先祖は、九州は久留米藩のお舟出役という身分(下級武士)で、恐らく、参勤交代の際は、筑後川を伝わり、瀬戸内海から大坂辺りに出て、陸路で江戸に向かい、上屋敷のあった現在の港区赤羽橋に滞在し、その藩邸にあった水天宮にもお参りしたことでありましょう。

1 水天宮(弁財天)学問・芸術
水天宮は、文政元年(1818年)、久留米の国元(現福岡県)にあったものを、九代藩主有馬頼徳(よりのり)が江戸上屋敷内に分祀したもので、塀越しに賽銭を入れる人が後を絶たなかったため、日を決めて庶民にも公開され、広く信仰を集めたそうです。
維新後は、赤羽橋の久留米藩邸は、薩長連合軍の新政府に摂取されたため、水天宮は青山を経て、明治5年に今の場所(日本橋蠣殻町)に落ち着いたそうです。
「日本橋七福神めぐり」のスタートは、ご先祖様に敬意を表してここから出発することにしました。
水天宮は、安産の神様として知られておりますが、芸能・学問の神様である宝生弁財天も祀られております。宝生弁財天は、先述の久留米藩主有馬頼徳が、加賀藩の11代藩主前田斉広(なりなが)と宝生流能楽の技を競った時に、弁財天に願をかけて、見事に勝利を収めたため、久留米藩としても弁財天の信仰も篤くなったそうです。

2 茶ノ木神社(布袋)笑門来福
下総佐倉藩主で、幕末に大老も務めた堀田家の上屋敷があり、守護神として祀られていた。
社の周囲に巡らされた土手芝の上に茶の木が植え込まれていた。今でも防災・生産の神様として信仰されている。

3小網神社(福禄寿)幸福・長寿・立身出世
文正元年(1466年)、悪疫鎮静の神として創建され、太田道灌が名付けたと言われる。
昭和4年建立の社殿が戦災を免れ、神社の御守り受けた兵士も無事帰還したことから、「強運厄除けの神」としても信仰を集めている。

4松島神社(大黒天)五穀豊穣・財運・子孫繁栄
下総の柴田家が、鎌倉時代の元亨(1321年)以前に、この地(当時は小島だった)に移り住み、諸神を勧請して創建と言われている。
御祭伸は、大国主神をはじめ、14柱と他社に比べて多い。

5末廣神社(毘沙門天)厄除け・財運・大願成就 多聞天
慶長元年(1596年)以前に稲荷祠として鎮座。吉原の氏神として信仰された。
延宝3年の社殿修復の際に中啓(末廣扇)が見つかり、末廣神社と呼ばれるようになった。

6笠間稲荷神社(寿老人)健康・長寿・病気平癒
安政6年(1859年)、笠間藩主牧野貞直が、国元の笠間稲荷神社(日本の三大稲荷神社の一つ)を江戸下屋敷(この地)に御分霊し、奉斎したのが始まり。
日本橋魚河岸の守り神として、五穀・水産・殖産興業の守護神として庶民の間でも信仰された。

7椙森神社(恵比寿)商売繁盛・大漁豊作
天慶3年(940年)、藤原秀郷が平将門の乱を鎮圧するために、武運を祈願して創建したと言われる。
文正年間の頃、太田道灌が旱魃の雨乞い祈願のため詣でて、山城国稲荷山五社大神を祭祀するようになった。
五社稲荷の一社なる大己貴大神の御宣託により、恵比寿大神を奉斎し、江戸時代の富興行を記念した富塚あり。
また、江戸時代は道灌の選んだ三森の一つと数えられるようになった。三森とは、ここ日本橋堀留町の椙森神社、新橋の烏森神社(昔、江戸三森とは知らずこの辺りの居酒屋さんでよく飲んだものです)そして、神田須田町の柳森神社のことです。
【七福神】
七福神の信仰は、室町時代から始まったと言われています。 弁財天、大黒天、毘沙門天はインドの神様。福禄寿、寿老人、布袋は中国の神様。七福神で唯一日本の神様は、恵比寿様だけです。恵比寿は手に鯛を持っておられます。「めでたい」に通じます。しかし、中国では、鯛はあまり好まれず、食されることもなく、おめでたい魚ではないそうです。恵比寿は日本の神様だからこそ、鯛だったんでしょうね。

2017年10月1日の関東軍情報本部ハルビン陸軍特務機関を拝読いたしました。
私の叔母は軍属として、ハルビン特務機関情報部教育隊に所属していたようです。ハルビン特務機関長は、土居明夫特務機関長(秋草特務機関長の前任)でした。叔母は、21歳でハルビンで殉職したのだと思っています。(勲八等瑞宝章の叙勲となっていたので殉職と思いました。)
死亡年月日は、昭和19年9月20日、身分は陸軍軍属(雇員)です。
叔母の名前は、阿保 信子(あぼ のぶこ)で、私は甥の、三浦(旧姓 阿保) 宣秀(みうら たかよし)てす。父は満鉄に勤めていて、終戦で中国での強制労働後、復員してます。叔母は、私の父の影響で満洲にいき、ハルビン特務機関に採用されています。
ハルビンでの葬儀には、陸軍大臣、教育総監、参謀総長、関東軍司令官、ハルビン特務機関長の立札があります。(当時の葬儀写真あります。)
推測では、教育総監の立札から、情報部教育隊(471部隊)に所属し、日ソ開戦にそなえての諜報活動、宣撫活動において、殉職したのではと思っています。 通知された、死亡状況は戦病死、死亡場所はハルビン第1陸軍病院と記載。)
当時の状況を詳しく知りたいと思って、あらゆる方面に問い合わせいたしましたが不明とのことでした。
なにかヒントになることは、ありませんでしょうか。
よろしくお願いいたします。