「戦国武将の国盗り変遷マップ」が面白い=「歴史人」

 今、とてつもない本を読んでいます。本というより雑誌ですが、永久保存版に近いムックです。「歴史人」という雑誌の11月号(KKベストセラーズ)で「戦国武将の国盗り変遷マップ」という題で特集しています。本屋さんでたまたま見つけました。(執筆は小和田哲男静岡大名誉教授ら)

 知らなかったことが多かったので勉強になります。私は、全国の「お城巡り」を趣味にしているので、大変参考になります。

 私自身の見立てですが、日本の歴史の中で、最も興味深い時代は、何と言っても「戦国時代」だと思っています。だから、多くの作家が戦国ものをテーマにしたり、NHK大河ドラマでもしばしば扱われたりするのです。人気面でも戦国時代がナンバーワンでしょう。これに続くのが、「幕末・維新」と「古代史」でこれでベスト3が出そろった感じです。

 そう言えば、「維新の三傑」と言われた人物でも、やはり戦国時代の信長、秀吉、家康の三巨頭と比較されると見劣りします。人間的スケールの大きさが違います。殺すか殺されるか生死の境目で生きざるを得なかった過酷な時代背景が戦国時代の英傑を産んだともいえます(幕末もそうですが)。勿論、個人的には一番生まれたくない時代ですけれど(笑)。だからこそ、憧れのない代わりに、そんな過酷な生死の境を生き抜いた英傑には感服してしまうのです。

 戦国時代とは、応仁の乱(1467年)から大坂の陣(1615年)までの約150年間を指します。まさに下剋上の時代で、食うか食われるかの時代です。臣下にいつ寝首をかかれるか分かりません。本書は「戦国武将の国盗り変遷マップ」と称していますから、時代ごとの勢力地図が示されて、その分布が一目で分かります。

 例えば、小田原北条氏の三代目氏康は、1546年の河越合戦(埼玉県川越市)で勝利を収め、扇谷上杉氏を滅亡させ、古河公方や関東管領家を弱体化することによって、ほぼ関東全域の支配権を確立します。しかし、氏康は1559年に氏政に家督を譲った後は、上杉謙信の侵攻に悩まされ、一時期は、北条氏の関東の領土は奪われて半減したりすることが、マップで一目瞭然で分かるのです。(氏政は後に奪還して北条氏の最大の領地を拡大しますが)

 内容は大学院レベルだと思います。私が学生時代に習った北条早雲は、出自の分からない身分の低い成り上がり扱いでしたが、実は、室町幕府の申次衆という高い身分の伊勢氏出身で、最近(とは言っても数十年前)の研究で、伊勢新九郎盛時(伊勢宗瑞)だったことが認定されました(北条に改名したのは二代目氏綱から)。早雲の姉(または妹)の北川殿が駿河の守護今川義忠に嫁いだことから、早雲も京都から駿府に下り、家督争いになった今川氏のお家騒動に積極的に関わり、氏親~義元の擁立に貢献します。戦乱の絶えない世で、今川家の軍師として活躍し、後に小田原を中心に、今川家をしのぐ領土を拡大していきます。

 一方、九州の戦国武将は、島津氏や大友氏、大内氏ぐらいしか知りませんでしたが、佐嘉(佐賀)城を本拠地にした龍造寺氏が北九州で勢力を誇り、一時「三国鼎立」時代があったこともこの本で知りました。特に、龍造寺隆信(1529~84)は「肥前の熊」の異名を取り、少弐氏(冬尚)を下剋上で倒し、大友氏を破り、島津氏と並ぶ勢力を築きましたが、島津・有馬氏の連合軍との沖田畷の戦い敗れ、滅亡します。(代わりに肥前を治めたのが、龍造寺氏の重臣だった鍋島氏。ちなみに、お笑いの「爆笑問題」の田中裕二氏の祖先は、この龍造寺氏の家臣でしたが、敗退後に田中氏は武士をやめて帰農したことをNHKの番組でやってました)

 また、他の日にNHKで、専門家による戦国時代の最強武将を選ぶ番組をやってましたが、九州一の武将は立花宗茂が選ばれました。えっ?誰? 彼は大友家の猛将、高橋紹運の長男で、同じく大友家の重臣立花道雪の養子になりましたが、関ヶ原の戦いでは西軍に就いたため、改易されました。しかし、余程人望が高かったのか知略を怖れられたのか、二代徳川秀忠の時代に筑後柳川城主に復帰します。でも、この人、この雑誌ではちょこっとしか出て来ないんですよね。大きく取り上げられているのが、島津家の領地を拡大した島津4兄弟の義久と義弘です。この2人なら、さすがの私でも知っています。

 日本史上最大、最高の「成り上がり」は、武士でもない庶民から関白の地位にまで上り詰めた豊臣秀吉でしょうが、織田信長も、尾張の守護斯波氏の守護代の家臣からの成り上がりで、徳川(松平)家康も、三河の守護細川氏の家臣からの成り上がりで、名を残した戦国大名のほとんど(毛利元就、松永久秀らも)が室町時代の権威(守護職)を下剋上で倒して成り上がったことがよく分かります。

 ついでながら、前半で、畠山政就⇒畠山義就、細川勝元⇒細川政元といった明らかな単純ミスが散見し、どうなるかと思いましたが、それ以降はあまり誤植もないようです。

歴史を塗り替える新事実には驚くばかり=Nスぺ「戦国~激動の世界と日本~」

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

いやあ、これまでの歴史観が百八十度引っ繰り返ってしまいましたよ。「これまで自分は、何の歴史を学んできたんだろう?」と呆然とするぐらいの衝撃がありました。 

 今年7月11日に放送されたNHKスペシャル「戦国 ~激動の世界と日本~」第1集「秘められた征服計画 織田信長×宣教師」と第2集「ジャパン・シルバーを獲得せよ 徳川家康×オランダ」のことです。

 恐らく皆さんは御覧になったと思いますが、私は見ていませんでした。でも、心優しい友人たちが録画したDVDを貸してくれました。本当に驚きました。見ていて何度も「そういうことだったのか」と膝を打ち、解けなかった複雑なジクソーパズルが繋がった感じがしました。

 「新発見で迫る戦国日本の真実」と銘打っていますから、歴史学者さえも知らなかったことかもしれません。とにかく、バチカンにあるイエズス会ローマ文書館に所蔵されている初公開の宣教師文書やオランダ国立公文書館が所蔵する「世界初の株式会社」と言われているオランダ東インド会社の平戸オランダ商館文書などの記録や報告書から、これまでの歴史を塗り替える新真実が発見されたのです。

 日本の戦国時代とは、応仁の乱が始まる1467年から、徳川家が豊臣家を滅亡させて全国統一を完成させた大坂の陣の1615年までの約150年間のことを指しますが、単なる狭い国土での内戦に過ぎないかと思っていたら、実は、当時世界最大の帝国スペイン(旧教)と新興国オランダ(新教)との代理戦争の側面があったという驚くべき事実があったのです。グローバリズムは20世紀末に始まったわけではなく、東インド会社の登場の17世紀初頭から始まっていたのです。シカゴ大学のケネス・ポメランツ教授が指摘するように、「戦国時代の日本は、まさに世界史の最前線にいた」のです。

◇スペインの日本征服計画

 第1集の「秘められた征服計画」では、スペインが宣教師を先兵というか、隠れ蓑にして、いや、諜報機関として日本人を洗脳して、挙句の果てには植民地として征服してしまおうという計画があったことが、宣教師から国王フェリペ2世への報告書などで浮かび上がります。フェリペ2世は、「征服王」の異名を持つ野心家です。スペインは、宣教師を先兵にして中南米からアジアにかけて広大な植民地を獲得してきました。

 しかし、戦国時代の日本は、世界でも稀に見る軍事大国で、メキシコやペルーやフィリピンのように簡単に植民地化できないことから、最終目的である中国の明を日本の軍事力を利用して征服するという計画にひとまず変わっていきます。

 宣教師たちは、戦国大名の中でも飛ぶ鳥を落とす勢いでのし上がってきた尾張の弱小国の織田信長に目を付けて取り入ります。その情報収集能力と先見の明は大したものです。これではスペインではなくスパインです(失礼しましたあ)。信長もスペインの持つ銃などの武器が欲しいので宣教師たちを利用します。信長は宣教師たちを通して得た最新鋭の銃を使って、長篠の戦い(武田家が滅亡)や石山本願寺での戦い(仏教勢力が衰退)に打ち勝ち天下統一に近づきます。一方で、宣教師たちは、キリシタン大名高山右近(摂津)らに信長に参戦するよう働きかけていたのです。

 この間、日本は世界でも稀にみる軍事大国になり、鉄砲は西洋より性能が良い国産化に成功します。(弾丸の鉛はタイの鉛鉱石の鉱山から発掘されたものだったことにも驚きました) 

 信長が本能寺の変で亡くなった後、宣教師たちは逸早く、豊臣秀吉に接近します。しかし、秀吉の方が一枚上手で、スペインより先に明への遠征を企み、その前に朝鮮出兵します。しかも、小西行長らキリシタン大名を最前線に送り、彼らの弱体化を図り、バテレン追放令まで出します。さらに、秀吉はフィリピンに密偵を派遣し、スペインの富を強奪する企みまでし、宣教師たちに「秀吉は傲慢と野心の塊」と報告書に書かせます。番組では触れてませんでしたが、秀吉がバテレン追放令を出した背景には、宣教師が日本人を奴隷にしてルソン島に運ぶ奴隷船の先兵になっていたことを見抜いていたからだという説もあります。

 ◇大坂の陣はスペイン対オランダの代理戦争

 第2集の「ジャパン・シルバーを獲得せよ」では、当時の日本は銀山王国で、佐渡銀山では多い時は年間100トンと世界の産出量の3分の1もの大量の銀を産出していたという驚くべき事実が明かされます。これまで「日本は資源が出ない」と教えられてきたので、引っ繰り返るほど驚きました。

 この銀に目を付けたのが、スペインとの独立戦争を戦っていた新興国オランダでした。東インド会社のジャック・スペックス商館長は徳川家康に接近し、オランダは、スペインのような布教や領土獲得の野心はなく、ただ貿易による利益を追求したいだけだと説得して、家康の望む大量の武器弾薬を売りつけます。これらの武器が関ケ原の戦いや大坂の陣などに使われます。特に大坂の陣では、大坂城の豊臣秀頼側にスペインが付き、まるでオランダとスペインとの代理戦争の様相を呈します。最後は、徳川方がオランダ製のカノン大砲を500メートル離れた遠方から大坂城を攻撃して勝利を収めます。この大砲購入により、銀貨1万2000枚分、重さ97トンもの銀が日本からオランダに渡り、オランダがスペインとの独立戦争に打ち勝つ原動力になったのです。

◇日本初の外人部隊か?

 話はこれで終わらず、オランダとスペインの「植民地争奪戦争」は続き、特に、スペインが支配していた現インドネシアのモルッカ諸島へ、何と日本人のサムライが傭兵として派遣され、オランダがスペインの要塞を奪取した様が、オランダ国立公文書館の報告書に出ていたのです。そこには、積荷リストとして、火縄銃や刀、槍のほか、「ユウジロウ 月7万2000円(換算)、ヤサク 月7万2000円、ソウエモン 月8万8000円」などと日本人の名前とその月給まで書かれていたのです。

 戦国の時代が終わり、仕事がなくなった武士(サムライ)たちが海外に職場に求め、スペインの要塞を陥落させ、オランダ人からは「スペインを駆逐するのに日本人傭兵が大いに役立った」と報告書の中で言わしめていたのです。

 このほぼ同時代に、欧州では三十年戦争(1618~48年、哲学者デカルトも参戦)があり、オランダが勝利し、スペインが敗れて衰退するきっかけとなりますが、この時オランダが使った大砲の銅は「日本産」だったというのです。世界史の大転換の中で、日本はすでに、グローバリズムに取り込まれ、「貢献」していたことも驚きです。 

 この番組を見て、「本当に歴史を書き換えなければならないのではないか」という思いを強くした次第です。(あくまでも個人的な感想でした。南蛮人がキリスト教を武器に日本征服を企んでいたことが、500年経ってやっと公文書初公開で明らかになるとは!驚きを通り越して恐怖すら感じます)

日本人はなめられているのか?

スペイン・トレド

今朝方、天下のNHKさんのラジオニュースが繰り返し放送してましたが、東京・渋谷でハロウィーンのお祭り騒ぎにまぎれて、軽トラックが横転させられた事件で、外国人の男が任意の事情聴取に対し、「日本のハロウィーンはクレージーで、毎年このようなことをやっていると聞いていた。渋谷に行けば酒を飲んで騒いでも捕まらないと思った」と話していたそうですね。

えっ?わざわざ極東のくんだりまで来て、捕まらないから、騒乱目的でやって来たとな?

そう言えば、先月末、「職が見つからず、ストレスからやった」と、20件以上もの都内の公衆トイレを詰まらせたり、破壊したりした中国人も逮捕されましたね。

スペイン・トレド エル・グレコ作

随分、日本もなめられたものです。燃料税に反対したパリのデモなら少しばかり分かりますけど、外国人には日本とは甘い国だと見られていたんですね。

最近、急に降って湧いてきた「徴用工」裁判で、韓国最高裁(大法院)が立て続けに日本企業への賠償命令を発しているのもそうです。1965年の日韓請求権協定で消滅したはずの個人請求権を認めるのはおかしいはずですし、国際法に違反するのは明白で自明の理。私が日ごろ批判している安倍政権に対しては、珍しく賛同します。断固とした態度を貫いてほしいものです。

スペイン・トレド

外国人労働者についても、出入国管理法改正で、これから14業種で最大35万人弱を受け入れようとしてますが、大丈夫なんでしょうかね?

わずか短期滞在の外国人観光客でさえ、観光庁の役人と旅行業界と製造・小売り業界が結託して「ガンガンガン」と銅鑼を鳴らして煽動したおかげで増え続け、2017年は何と2379万人も訪日。おかげで、騒音やマナー違反、無用な混乱と混雑を招く「観光公害」が叫ばれているのですから、長期に及べば、移民と同じになり、騒音やごみや風紀問題、自治会費の未納など周辺住民との軋轢と摩擦が頻出することでしょう。

そもそも、外国人労働者は、日本のことを「裕福な国」「夢の国」「安心安全な国」「黄金の国」と期待して来るのでしょう。そして、実際に来て、蛸壺のような部屋に押し込められ、最低賃金以下の賃金で働かされ、長期時間外労働をさせられても手当がない、と涙を流して、恨みを持って告訴します。

しかし、実態は、4年生大学を出た日本の若者でさえ、まともな職がなくて非正規やアルバイトに甘んじている国です。40歳になり、もう将来結婚できないのではないかと諦めているのが実相です。何と言っても、政府の最大の仕事とは、自国民の雇用を守ることではないでしょうか。

そして、日本は裕福な国ではなく、貧富の格差が異様に激しく、低賃金で雇わなければやっていけない中小企業が多いというのが実態なのでしょう。

不当労働行為をされた外国人が日本政府を非難する気持ちは分かりますし、当然の権利ではありますが、その前に、自国民の雇用を守らず、海外に出稼ぎに行かせる母国の政府を非難するべきではないでしょうか。ノーベル平和賞をもらった「国家最高権力者」の国もあるぐらいですから。

日本に過大な期待と幻想を持ってもらっても、それは冷静に日本の実態と現実を見ていないということになります。

どんな偉い学者や政治家や評論家や法律家や新聞記者も建前論ばかりです。自分たちだけは裕福な安全地帯にいるから、他人事のような皮相な論理しか展開できないのです。

日本人同士でさえ、話し合っても分かり合えないのが今のご時勢です。

スペイン・トレド

その点、豊臣秀吉や徳川家康は偉かった。伴天連を追放し、耶蘇教を禁じた背景には、カトリックのイエズス会が、奴隷貿易商と結託して、日本人を拉致してルソン島に売り渡す仲介をしていたことを見抜いていたからです。まさに、自国民保護政策です。宗教以前の話です。なぜなら、プロテスタントのオランダや英国、それに中国などとは鎖国と言いながら、貿易を続けていたわけですから。

今日は、随分極論、暴論でしたか? でも、おとなしい飼い慣らされた羊のままでは、現実肯定で、それこそ怠慢の誹りを免れないのはないでしょうか。

元号について知識が増えました

所功、久礼旦雄、吉野健一共著「元号 年号から読み解く日本史」(文春新書)は、大変読み応えありました。

僭越ながら、それほど易易と読み飛ばすことができないでしょう。中級から上級読者向けです。まず、「薬子の乱」や「承久の変」といった歴史上の出来事の年代や天皇や藤原氏の系図が頭に入っていないとスラスラ読めないはずです。

私がこの本の中で興味深かったことを2~3点挙げますと、日本の元号は、本来、朝廷内で難陳され、天皇が最終的に裁可して改元されていましたが、やはり、時代を経て、時の最高権力者が元号を決定していたことがあったことでした。平安時代の藤原道長が自邸で、改元を決定していたことはさほど驚きませんが、例えば、織田信長は「天正」、豊臣秀吉は「文禄」「慶長」、徳川家康は「元和」の改元に意見を申し入れたか、直接、選定していたというのです。

もう一つは、年号の読み方については、特に朝廷や幕府から伝達されていなかったということです。改元を伝える「お触れ」などには、一部の地域では、読み方を「ルビ」として記載した例もありましたが、ほとんど各地に任されていたというのです。例えば「慶長」は「けいちょう」か、「きょうちょう」か、「宝暦」は「ほうれき」か「ほうりゃく」かなど、当時の史料でも読み方が一定していないというのです。

「へー」ですよ。日本語の漢字の読み方は「呉音」読みから「漢音」読みまで色々ありますから、日本語は難しい。ま、そこがいい所かもしれませんが(笑)。

現代人は、元号というのは、「一人の天皇陛下に一つ」、つまり、「一世一元」が当たり前だと思いがちですが、それは、明治以降の話であって、それ以前は天皇一代の間に何度も改元が行われてきました。おめでたい「祥瑞」(吉兆)が出現(例えば、白い雉とか)した時とか、都に疫病や天災、戦災に遭った時とか、60年に一度回ってくる「辛酉」(中国では革命が起きると言われた)や「甲子」(革令)の年に、改元したわけです。

幕末の孝明天皇朝(在位20年弱)は、「嘉永」から「慶応」まで6回も改元され、途中の「万延」と「元治」は1年しか続きませんでした。

江戸幕府や大名のお抱え儒学者、例えば、著名な林羅山や藤田東湖、それに山崎闇斎や新井白石らもかなり、改元に際して意見を申し入れていたことも、この本で初めて知りました。

「明治」は、15歳の天皇が「御籤を抽き聖択」、つまり、候補の中からクジを引いて決められたということで、これも驚き。

今では、本家本元の中国は、元号を廃止して西暦を使っていますから、元号は「日本的な、あまりにも日本的な」ものになっています。「日本書紀」の記述から初代神武天皇が紀元前660年に即位し、その年を紀元1年とすると、天保11年(1840年)は皇紀2500年に当たり、当時の知識人たちはしっかりと明記していたことには感心しました。

その100年後の昭和15年(1940年)、日本は盛大に「皇紀2600年」の祝賀会を挙行しました。零式戦闘機、つまりゼロ戦は、この年に製作されたのでそのように命名されたことは有名ですね。

来年は改元の年で、どんな年号になるのか、個人的には興味津々です。

天橋立の歌はそういうことでしたか…大塚ひかり著「女系図でみる驚きの日本史」続編

大塚ひかり著「女系図でみる驚きの日本史」(新潮新書)は、読了するのに結構時間がかかりました。普通、新書なら1~2日で読めてしまうんですが、これは6日ほどかかりました。読みながら、丁寧に、著者がつくった「女系図」を参照していたからでしょう。

でも、これが決め手です。著者の大塚氏も、あとがきで「女系図は作ってびっくりの連続でした」と本人も大発見したことが結構あったようです。

この本を取り上げるのは2回目ですが、今日は前回取り上げたかったことを引用してみます。

流動的だった天皇の地位

…天皇というと現代人は絶対的なものと考えがちだが、「大王」と呼ばれていた天武天皇以前の彼らの地位は流動的だった。「古事記」「日本書紀」では天皇とされていない人物も、古くからの伝承を伝えた「風土記」では天皇とされていたりする。…

ということで、古代は、大王=天皇になるための権力闘争が凄まじかったようです。例えば、記紀によると、第21代雄略天皇は二人の兄や従兄弟らを含む6人も殺害させたようです。当時は、武内宿禰を祖とする葛城氏の方が権力を持っていて、葛城氏の血を引くツブラノ大臣らが最有力候補でしたが暗殺されました。

井上満郎著「古代の日本と渡来人」によると、7世紀の畿内の人口のほぼ30%は渡来人だったという。京都=山城国は、もともと「渡来人の里」だった。(京都平安京を開いた桓武天皇の生母高野新笠は、百済出身でしたね=「続日本紀」による)

※著者は、渡来人の秦氏は、中国の秦の始皇帝に祖を持つ、という見解でしたが、小生は古代史の泰斗上田正昭氏が主張する「秦氏は、秦の始皇帝とは無関係で、朝鮮の新羅系の渡来人」という説に賛同します。

天橋立 Copyright par  Mori Kawsaki

大江山いくのの道の遠ければ まだふみも見ず天橋立

という百人一首にも載る有名な歌があります。

作者は小式部。母親はあの「和泉式部日記」で知られる和泉式部です。誰に宛てた歌かといいますと、当代一のプレイボーイ、著者の大塚氏に言わせると、「インテリ女喰い」の藤原定頼という貴人です。

この定頼。光源氏のように輝き、モテててモテてしょうがない、といった感じです。大塚氏が、歌集を読むだびに系図をつくっているうちに、「こいつ、よく出てくるなあという奴がいる」。それが、この藤原定頼だったのです。

何しろ、お相手した方々が半端じゃない。先ほどの小式部のほかに、紫式部の娘大弐三位、相模、大和宣旨といった当代一流のインテリ女性だったのです。

もちろん、定頼も出自はピカイチ。父親は、四納言の一人と言われた知識人の藤原公任、母親は、昭平親王(村上天皇の子)の子で、しかも、藤原高光(父師輔、母雅子内親王)の娘の「腹」でした。(ただし、天皇家の外戚になりそこねて、公任は権大納言、定頼は権中納言止まりで終わる)

前述の「大江山…」の歌の背景は以下の通りです。

小式部の母和泉式部が、夫藤原保昌について丹後国に下ったとき、京で歌合があり、その時、定頼がふざけて小式部に「丹後の国にやった使いはもう帰ってきましたか?どんなにハラハラしているでしょう」と声を掛けた。和泉式部は名高い歌詠みです。その娘の小式部はどうせ、母親に歌を代作してもらっているだろう。その使者はもう帰ってきたのかい?とからかったというのです。

それに対する答えが、「大江山…」。意味は、「大江山を越えて行く生野の道は遠いので、まだ踏んでみたことがないの、天橋立は。まだ文も見ていません」。

なるほど、そういう意味で、そういう返歌だったんですか!勉強になりました。

(私も天橋立の写真を現代の小式部さんにお借りしました=笑)

江戸時代は正妻率がわずか20%

平安時代は父親より、母親が誰かによって身分が決まってしまいます。「胤(たね)より腹が大事」と前回書きました。しかし、それは、平安中期まで。平安後期になると、院政時代となり、父権が強大となり男系社会になります。

著者は、平安から江戸時代までの権力者の母親がどういう出自か全て調べあげ、母親が正妻である比率を割り出します。それによると、平安時代の摂関藤原家は、正妻率が77%、鎌倉時代の将軍源氏の正妻率は67%、執権北条家は56%、室町時代の将軍足利家は、47%。そして、江戸時代の将軍徳川家は何と20%にまで急落するのです。徳川将軍の母になった側室の中には、八百屋や魚屋といた平民の娘までいるらしいのです。

これはどうして?

平安時代は、天皇家に代わって外戚の藤原氏が権力を握り、鎌倉時代は源氏に代わって、北条氏が実権を掌握。室町の足利将軍も外戚の日野家に左右されていた。「吾妻鏡」の愛読者だった徳川家康が、こうした歴史を読み、外戚に権力を握らせないように、徳川家の政権が未来永劫続くよう願いを込めて、「暗に正妻や外戚を重視しないようにしたのではないか」という著者の洞察。誠に見事でした。

嗚呼、残念。他にも書きたいことがあるのですが、この辺で。