若き永六輔

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先日亡くなった大橋巨泉の奥さんは、彼の盟友だった永六輔が亡くなったことを、「ショックが大きすぎる」ということで、知らせなかったそうですね。

お互い、テレビの草創期に放送作家として鎬を削った仲でした。

その永六輔さんは晩年は、人格者として崇められておりましたが、若い頃はかなり傲岸不遜だったようです。そりゃそうでしょう。「上を向いて歩こう」「明日がある」「こんにちは赤ちゃん」等々、大ヒットした作詞家として飛ぶ鳥を落とす勢いです。印税でがっぽり桁違いのお金が入ってきて生活に全く困らないので若い頃は、我が儘言いたい放題だったのかもしれません。

その永六輔さんが若き頃、日活撮影所に行って、夜中の三時まで、ああだ、こうだ、と指図をしまくったそうです。当然、あいつは何様だ。生意気な奴だとスタッフの反感を買い、永さんが一服するために、外に出た瞬間、何者かに暗幕を頭から被せられて、殴る蹴るの暴行でボコボコにされたそうです。

結局、犯人は、分からず仕舞い。永さんも警察に被害届けを出したかどうか分かりません。そんな武勇伝があったこと事態、闇から闇に葬られてしまうものですが、元日活の映画監督藤浦敦さんは「だんびら一代」の中でしっかり、証言しているのですからですね。

この本にはエピソードが満載です。藤浦敦さんの祖父周吉が一代で東京中央青果を興して、東京市中の台所の野菜果物の源流、根っ子である卸売業界を牛耳って巨万の富を築いたことは、以前、この渓流斎ブログにも書きました。

金がある所は、匂いで分かるんでしょうね。遥々異国から、せびり、いや間違い、支援を求める外国人もいました。中国革命の父孫文もその一人です。

周吉の息子富太郎も表に出ないようにしたので、無名でしたが、政財界官界学界それでええん界にまで莫大な支援をします。いちいち個人名は挙げませんが、右翼暴力団関係は勿論、左翼は共産党までポンとお金を出していたことを、富太郎の息子である藤浦敦さんは暴露しています。

日本共産党の某幹部が自宅に来て、「赤旗まつり」のチケットを富太郎にまとめ買いしてもらって嬉々としている姿を藤浦敦さんは、この本の中で活写してました。

一番驚いたのは、日活の株式の40%も藤浦家が握っていたということです。ですから、伴野朗原作監督作品の「落陽」の興行面で25億円の赤字を出しても「俺の金を自分で使って何が悪い?」と開き直っていられるのです。

日活倒産の原因を「落陽」興行の失敗として押し付けられた藤浦敦さんは「『落陽』の損失など全体の10%程度。ゴルフ場やホテルなど本業以外の経営多角化が倒産の原因だ」と、理路整然と説明するのです。

私が少年の頃、映画の世界で、誰が一番偉いのか、と不思議に思っていました。莫大なギャラが貰える主演俳優かな、と思っていたら、もう30も過ぎた頃に「渓流斎くんは甘いね。『黒澤明監督作品』というぐらいだから、監督が一番偉いんだよ。作品は監督のものだからね」と言われて、それ以来、監督が一番凄いと思い、偉そうに、溝口だの、衣笠だのと言っていました。

そしたら、この本を読んだら、小説家あがりの伴野朗監督なんて、パシリ以下のそのまた下扱い。彼は、下積みの助監督の経験もないから、基本のキも知らない。藤浦敦ゼネラルプロデューサーは、伴野監督に大金を握らせて、途中から、もう撮影現場に来なくていいよ、と指示したそうです。

「伴野は頭のいい奴だから、一切口を割らなかったよ。小説家は小説を書いていればいいんだよ」と、口止めした藤浦敦さんは涼しい顔です。

クレジットの「伴野朗監督」だけで、宣伝になることは分かった上での話です。

ということで、映画の世界で、一番偉いのは、監督ではなく、ヒト(人事権)、モノ(作品)、カネ(製作費)を全て握っているゼネラルプロデューサーだということになりますね(笑)。

◇クレージーキャッツの源流

フランキー堺が、日活映画の専属俳優になってしまい、彼がリーダーとして結成したコミック・バンド「シティー・スリッカーズ」(「粋な都会人」という意味。1950年代にこんな洒落た名前を付けるとは!)は、開店休業状態になります。

その取り残されたメンバーが新たに結成したバンドが、「クレージーキャッツ」だったんですね。谷啓、植木等、桜井センリの面々です。

知らなかったなあ…。