ミラノの大聖堂ドゥオモ(初めて中に入りました)
1週間ぶりのご無沙汰でした。
9月15日(木)から22日(木)まで、7泊8日でイタリア旅行を敢行しておりました。人にはそれぞれ、諸般の事情と人生の区切りというものがありますからね。
この渓流斎ブログは、「安否確認情報」も兼ねておりますので(笑)、渓流斎は、天候にも大変恵まれ、無事、怪我も事故も盗難もなく、元気に帰国できましたことをご報告申し上げます。大袈裟な…(笑)。
ヴェローナ(「ロミオとジュリエット」の舞台)は世界中からの観光客でいっぱい
実は、イタリア渡航は、これで4度目でした。今回は、北部ミラノからヴェローナ~ヴェネチア~フィレンツェ~サンジミニャーノと南下しまして、最後はローマ、ヴァチカン市国といったコースでした。
「ロミオとジュリエット」の舞台になったヴェローナと、中世に皇帝派と法王派との間で血生臭い争いが繰り返され、70もの塔が建てられたサンジミニャーノが今回初めて行く所でした。
旅行中は、新聞も読まず、イタリア語が分からず現地のテレビを見てもあまりよく分からず。ホテルのWi-Fiを使ってスマホでちょっとネットニュースを確認した程度ですから、今は、「ここは何処? 私は誰?」の浦島太郎さん状態です。
まあ、たまには「情報過多」からの避難・脱出も、精神衛生にはいいことでしょう。
安心安全なツアーに参加したため、朝早くから夜中遅くまで、引き回されまして、大変疲れましたが、1週間、ただただ旅行漬けで、他のことを全く考えなくて済みました。
ヴェニス(「水の都」はまた水浸しでした)
本も一切読まず、イタリアの空気を吸い、イタリアの料理を食べ、イタリアのベッドで寝るという肌で体感する毎日でした。
生まれて初めてイタリアに行ったのは、もう37年も大昔なのですが、当時はそれほど観光客でごった返していなかったような気がします。
しかし、今回は、どうやら、噂では、テロの襲撃に見舞われたフランスやドイツやベルギー等への旅行が控えられ、世界中の観光客がイタリアに押し寄せたらしいのです。だから、大混雑。
とにかく、文豪ゲーテにしろ、音楽家メンデルスゾーンやドビュッシーにしろ、芸術家たちが引き寄せられる、あまりある魅力がイタリアにあることは間違いありません。
フィレンツェ(ウフィツィ美術館のボティチェリ「春」は人気ナンバーワン)
イタリア旅行については、また、これから、追々書いていくと思いますが、今日は、帰国早々の感想を並べてみたいと思います。添乗員・ガイドさんらに聞いた話、街を歩いて感じたことなどです。
・イタリアといえば、何と言っても古代帝国の首都ローマがナンバーワンだと思っておりましたが、今回見直したのはフィレンツェでした。フィレンツェは、イタリアの古都として知られ、日本の京都と姉妹都市を結んでいるそうな。
・皆さんご存知の通り、イタリアは、1861年に全国統一(Risorgimento=リソルギメント)される前まで、諸国に分かれておりました。トスカーナ、ヴェネチア、ナポリ、サルデーニャ(ヴィットリーリオ・エマヌエーレ2世)、ローマ教皇領などです。ということで、各地域の言葉が通じないほど、違っていて、現在もかなり「なまり」があるそうです。
・この中で、一番綺麗なイタリア語は、ローマではなく、フィレンツェなんだそうです。(1865~70年は、イタリア王国の首都だった)。フィレンツェは、何と言っても、盛期ルネサンスの中心地で、レオナルド・ダヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロの三大巨匠が活躍した都市です。
サンジミニャーノ(中世の塔の街。13~14世紀、皇帝派と法王派が血と血で争って70もの塔が建てられたとか。現地特産の白ワイン「ヴェルナーチャ・ディ・サンジミニャーノ」は、お買い得。コープで4・90ユーロ。ミラノ空港免税店では、1本13・50ユーロと3倍近く跳ね上がっていました)
・これら、三代巨匠芸術家らを保護していたのが、市の君主だったメディチ(Medici)家でした。メディチ家は、金融業で莫大な財産を築いて政界に進出して、実権を握りますが、もともと、医者の家系だったらしく、英語のmedicine(医学、薬)は、このメディチ家からきたらしい。
・また、このメディチ家から、フランスのアンリ2世妃カトリーヌとアンリ4世妃マリの二人の王妃を輩出します。(他に、クレメンス2世とレオ10世の二人の教皇も)。フランス王家に嫁いだこの二人の王妃は、メディチ家から料理人を何百人もフランスに連れて行ったそうです。当時のフランスは遅れた国で、ナイフとフォークさえなし。4本に分かれたフォークはメディチ家が伝えたそうです。もちろん、後に、隆盛を誇るフランス(宮廷)料理も、もともとはイタリア料理だったというわけです。
・フィレンツェ共和国出身のミケランジェロは、ローマ市庁舎の階段と庭園設計や、サン・ピエトロ寺院の「ピエタ」、ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂の天井壁画(「最後の審判」など)を製作して、ローマで大活躍しますが、お墓はフィレンツェのサンタ・クローチェ教会にありました。
・このあまりにも有名なシスティーナ礼拝堂の壁画ですが、ローマ教皇ユリウス2世から依頼されて渋々応じたそうです。なぜなら、ミケランジェロの本職は彫刻家で、フレスコ画を描いたことがなかったからです。しかし、4年の歳月をかけて、艱難辛苦を跳ね除けて堂々と完成させるのですが、色んなエピードもありますので、ご興味のある方は、参考書を手に取ってみては如何でしょうか。
ローマ・コロッセオ(ローマといえば、コロッセオかな?今でも、猛獣と人間が剣闘していると思っている人がいました。とはいえ、2000年以上昔の建物なのに現在も公演などに使われています)
・とにかく、何処に行っても、人、人、人でした。この時期、日本のような「シルバーウイーク」ではあるまいし、皆さんお仕事していないんでしょうかねえ?ま、小生と同じように、休暇を取ってらっしゃった、と解釈しましょう。
・観光客は圧倒的に白人が多かったです。でも、何処の国の人か分かりません。言葉を聞けば少しは分かりますが、外見ではさっぱり分かりません。イタリア在住20年のガイドさんが面白いことを言っていました。「私には、何人(なにじん)か分かりますよ。服装を見れば分かります。イタリア人とフランス人は、ファッションの国ですから、まあ、ファッショナブルな格好をしています。それに比べて、スペイン人は、少しダサい(笑)。ドイツ人の服装は、機能重視という感じです」。
・そう言えば、イタリアは先進国とはいえ、失業率も高く(ナポリは30%だとか。ひえー)、日本以上に貧富の格差は大きいようです。それに、民族差別といえば、言い過ぎかもしれませんが、どうしても、ルーマニアなど旧東欧系は低くみられる傾向があるようです。街で、物乞いをしている人は、その顔だちから、ほとんどがロマーノ(ジプシー)系。犯罪スリ集団もロマーノ系が多いようです。ローマのテルミナ駅周辺で、手持無沙汰で屯していたのは、中東系、インド、アジア系とアフリカ系。道路の「中央分離帯」で掃除や植栽しているのは、イタリア人ではなく、ほとんどアフリカ系でした。道路で、観光客相手に、スマホの「自撮り棒」などを売っているのは、圧倒的に、アフリカ系か、インド系の人でした。イタリア人はいなかった。
・道で物売りしているアフリカ系のお兄さんからは、よく「ニイハオ」と我々のツアーは声を掛けられた。これも、30年前にはなかった現象。「俺たちゃ、日本人だあぁぁ」。
ヴァチカン市国サン・ピエトロ寺院(エレベーターで中2階まで登った後、恐怖の閉所300階段。しかし、昇った人しか見られない光景が!)
・イタリアは4度目と書きましたが、今回初めて、ミラノの大聖堂ドゥオモの中に入りました。入場料2ユーロ。
・何と言っても、ハイライトだったのは、ヴァチカン市国サン・ピエトロ寺院のドームに登ったことです。入場料8ユーロ。途中までエレベーターで行けますが、そこからは、人間一人が登れるスペースしかない階段を300段以上も昇るのです。膝が笑いました。
・しかし、ドームの屋上からの眺めは絶景。エヴェレストでは大袈裟なので、高尾山の頂上に登った気分でした(笑)。
・前回行ったときもそうでしたが、ヴェネチアのサンマルコ広場は、最初はよかったのですが、帰りの集合時間の14時までに戻ろうとしたら、またもや広場は水浸し。歩くのが大変で、集合時刻に間に合うか、冷や冷やでした。
・旅行中、添乗員さんが気をきかして、プッチーニの歌劇「トゥーランドット」の「誰も寝てはならぬ」をパヴァロッティの歌唱で聴かせてくれましたが、イタリアで聴くと何とも感動が倍増し、涙が出てきました。その土地の乾燥した風土といいますか、気候といいますか、そんなもんが音楽に作用されることに初めて気がつかされました。
・イタリアは、やはり、ロックは似合わないでしょうね。やっぱり、カンツォーネ。そして、何と言ってもオペラです。
・帰国して、無性にイタリア映画を観たくなりました。フェデリコ・フェリーニもいいですし、あらかた観てしまったヴィスコンティでもいいですし、「ニューシネマ・パラダイス」「鑑定士と顔のない依頼人」のジュゼッペ・トルナトーレでもいいです。最新作「ある天文学者の恋文」もいいかな?