日本軍捕虜の英国人遺族の娘が78年ぶりに来日した物語=インテリジェンス研究所特別研究員名倉有一氏の業績

 《渓流斎日乗》は、ブログながら「メディア」を僭称させて頂いております。日本語で言えば「媒体」ですので、たまには他人様のふんどしで相撲を取らせて頂いても宜しゅう御座いますでしょうか? 報道機関と呼ばれる新聞社の記者も取材と称して、政治家や専門家の話を聴いて活字にしているわけですからね(笑)。

 本日取り上げさせて頂くのは、インテリジェンス研究所の特別研究員である名倉有一氏の「業績」です。名倉氏はアカデミズムの御出身ではなく、堅いお仕事を勤め上げながら、一介の市井の民として地道に研究活動を続けておられる奇特な方です。

 彼の業績を一言で説明するのは大変難しいのですが、第一次世界大戦の敗戦国ドイツや、第2次世界大戦の連合国(米、英、蘭など)の捕虜たちの日本での収容所の記録を収集し、今日的意義を研究しています。このほか、太平洋戦争中、対米謀略放送「日の丸アワー」などを放送していた東京の参謀本部駿河台分室(1921年、西村伊作らによって創立された「文化学院」が、戦時中に摂取されて捕虜収容所になった。現在は、家電量販店ビックカメラ系の衛星放送BS11本社があるというこの奇遇!)に関する研究もあります。

 このほど、名倉氏から送付された「記録」を以下にご紹介します。

 

 続いて、もう一つ、二つ、名倉氏編著による「駿河台分室物語 対米謀略放送『日の丸アワー』の記録」などを添付しようとしましたが、容量が重すぎて、この安いブログに添付掲載することが出来ませんでした。残念!!(ITに詳しくないのですが、そのため、このブログに写真を掲載する際、容量をオーバーしないように、私はわざと画質を落として掲載しています。)

 仕方がないので、朝日新聞ポッドキャストに掲載された以下の3話をご視聴ください。これは、日本軍の捕虜になった英国人チャールズ・ウィリアムズさん(1918~94年)の遺族である娘のキャロライン・タイナーさんが、今年9月、父親が日本人から譲り受けた半纏を78年ぶりに「返還」した感動の物語です。

 名倉氏は捕虜収容所研究の大家ですから、今回、英国人のキャロラインさんと日本を橋渡しするコーディネーター役として活動されました。(名倉氏は、キャロラインさんの父ウィリアムズさんとは生前に英国でお会いしています。)

 ・ある捕虜の足跡① 「亡き父が大切にしていた1着の上着 敵国の男性からの贈り物だった」 

 ・ある捕虜の足跡② 「『命は保障しない』それでもNOを貫いた イギリスの若者はなぜ長野へ」(名倉有一氏も登場します。)

 ・ある捕虜の足跡③ 「秘密の戦争ビラづくり、家族にも言えなかった 脳裏に残る彼のこと」 

 上記、引用添付には音声のポッドキャストだけでなく、関連記事も掲載されていますので、お読みになって頂ければ幸いです。

オンライン研究会で初めて「炎上」を体験=第37回諜報研究会

 9月11日(土)午後2時からオンラインで開催された第37回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催、早大20世紀メディア研究会共催)に久しぶりに参加しましたが、ちょっとした事件がありました。そのため、そのことをブログに書くべきか、書かざるべきか躊躇してしまい、書くのが今になったわけです。

 「ちょっとした事件」というのは、何と言いますか、戦前の帝国陸軍の軍曹か、憲兵の亡霊を見た気がしたからです。人を大きな声で恫喝したり恐喝したりすれば、黙って唯々諾々と従うと思い込んでいる人間が現代でも生きていて、日本人のエートス(心因性)は戦前から何一つ変わっていない、と思わされたのです。

 と、書いても、オンラインに参加した65人以外は、何のことやらさっぱり理解できないことでしょう。これは、あくまでも私一個人から見た感想に過ぎないので、仕方がないのですが、その時、何が起きたのか、ごく簡単に書き残すことを決意しました。

 研究会の報告者は2人で、最初は、今年6月に、南京攻略戦に従軍した、自らの曾祖父の弟に当たる東京日日新聞の従軍記者だった伊藤清六の足跡を追った本「記者・清六の戦争」(毎日新聞出版)を上梓した毎日新聞社の伊藤絵理子氏で、テーマは「南京事件と報道記者」でした。二人目は、南京大虐殺事件を描いた小説「城壁」を発表した直木賞作家榛葉英治と彼の残した膨大な日記を分析した早大の和田敦彦教授で、テーマは「南京事件研究の新たな視覚」でした。

 お二人ともテーマが南京事件に関したものなので、今回のような「ちょっとした事件」が起きる土台があったわけです。土台というのは、例えば、北方4島や尖閣列島、竹島といった領土問題、沖縄問題、そして今回の南京虐殺事件などいまだに繰り返し歴史認識が争われている問題のことで、意見の食い違いが触媒のようになり、発火すると燃え上がる事案のことです。今回はまさに炎上しました。

 「記者・清六の戦争」を書いた伊藤氏は、毎日新聞の前身である東京日日新聞の戦時中の紙面をマイクロフィルムで縁戚の伊藤清六が書いた署名記事を探訪し、本紙では短信に過ぎなかったものが、栃木県版では、写真付きでかなり長文の記事を書いていたことを発見したことが収穫であり、画期的でした。伊藤氏も「これまで、新聞報道の研究は、朝日新聞の縮刷版を元にしたものが圧倒的に多く、東京日日新聞の地方版の研究は少なかった。特に、戦争報道は、地方版の方が、その地元の師団や連隊に関する詳細な記述が多いので、今後のさらなる研究が望まれる」といった趣旨のことを話してました。

 南京事件は、1937年12月14日に起きたとされますが、清六の記事には虐殺や暴行、略奪、強姦、捕虜殺害などといったものは見つからなかったといいます。それが、当局の検閲によるものなのか、単に戦勝賛美のために自ら進んで書いていたのか分からなかったようですが…。

 早大の和田教授が取り上げた作家榛葉英治(1912~99年)は、私自身、直木賞作家であることぐらい知ってましたが、名前だけで著作は1冊も読んだことがありませんでした。榛葉英治自身は、南京事件に立ち合ったわけではありませんが、戦時中、新京(現長春)にあった満洲国の外交部(外務省)に勤務した経験がありました。

 榛葉英治が、南京虐殺を題材にした小説「城壁」を書いたのが1963年のこと。この時、中央公論社から出版を断られたりして(恐らく、1961年の「風流夢譚事件」が尾を引いていたのでしょう)、発表する当てもなく、となると、収入もなく、自宅を売り出して、やっと糊口をしのいでいたことまで日記に書かれていました。「城壁」は、未読ですが、南京安全区国際委員会と日本将兵の側の両方の視点を交差しながら、南京事件の経緯を浮かび上がらせているといいます。

◇恫喝と恐喝で炎上か?

 オンラインでの研究会が「炎上」したというのは、一人の質問者によるものです。どういう方なのか名前も所属も分かりませんが、髭を生やして実に怖そうな顔しておりました。失礼なながら60代後半に見えましたが、もう少しお若いかもしれません。質疑応答の時間に入ると、報告者の伊藤絵理子氏が若い(とはいっても中堅の記者ですが)、しかも女性ということもあって、「南京虐殺は、写真も改竄し、中国共産党のプロパガンダだという歴史認識はないのか?」などと大声で怒鳴って、「イエスかノーで答えろ!」と恫喝するのです。私なんか、思わず、「お前は山下奉文か?」と突っ込みたくなりましたが、黙ってました。そんな冗談を言える雰囲気が全くありませんでした。相手は酒を吞んでいるようで、そんなことを言えば、殺されるような予感さえありました。

 そして、アナール学派がなんとか、とか、「沖縄で米軍が毒ガスを使ったことを知らないのか?明らかにジュネーブ条約違反だ。そんな認識もないのかあー!」と罵声を浴びせる始末。さすがに、研究会の事務局の方が「そんな暴言を吐くのはやめてください。退場してもらいますよ。これは警告です」と注意すると、「この会は、言論を封殺するのかあーーー!」と来たもんだ。

 私自身は実に不愉快でした。恫喝すれば自分が優位に立てると考えているいまだにアナクロニズムな人間に対してだけでなく、あの場で、伊藤氏をかばって反論してあげなかった自分自身に対しての両方です。今でも不快です。

【追記】

 日本政府は、南京事件に関して、「日本軍の南京入城後、非戦闘員の殺害や略奪等があったことは否定できない」「被害者数は諸説あり、政府としてどれが正しいか認定は困難」との見解を示しています。(2021年9月14日付朝日新聞社会面)

 私自身は、中国共産党による捏造に近いプロパガンダは無きにしも非ずで、「30万人」という数字は「白髪三千丈」の中国らしい誇張に近い数字だと思います。しかし、たとえ、それが数万人でも、数千人でも、虐殺は虐殺であり、日本政府の見解通り「殺害があったことは否定できない」という立場を取ります。