笑いには世代間ギャップがある

江戸城 巽櫓

  アンリ・ベルクソンの「笑い」を例証するまでもなく、古今東西、笑いは哲学的考察の主題として俎上に載せられてきました。

 人を怒らすのは簡単だが、人を笑わすことは難しい。

 と、誰が言ったか知りませんが、この昔から言われてきたことは真実でしょう。それだけ、喜劇役者や落語家、お笑い芸人は大変なお仕事だということです。下手をすれば、差別問題や人権問題にもなりかねないですからね。

 それはともかく、最近では、笑いには、古典落語は除いて、世代間ギャップがあるのではないか、と痛感しています。

 昨晩、どういうわけか、このブログのSNSサイトで、ひょんなことで、「シャボン玉ホリデー」の話題で盛り上がりました。私がこのブログの写真に名前の知らない花をアップすると、いつもYさんが、わざわざその花の名前をお知らせしてくれるので、「いつも、いつも、済まねえなあ…」とハナ肇の名セリフを真似したところ、どうも、Yさんは「シャボン玉ホリデー」を知らない世代で、通じなかったのです。

 「シャボン玉ホリデー」は主に1961~72年に日本テレビで放送されていた音楽バラエティ番組で、レギュラーは双子姉妹のザ・ピーナッツとクレージーキャッツです。渡辺プロダクション制作でしたから、ナベプロ系のタレントが多く出演していました。

 先ほどの「いつも、済まねえなあ」のコントは、正式?には「おかゆコント」というらしく、障子が破れた貧乏長屋の一室で、せんべい布団に病気で臥せった白髪の親父(ハナ肇)のところに、娘役のザ・ピーナッツが「おとっつあん、おかゆが出来たわよ」と運んできます。

 咳をしながら起き上がって、中気で手をブルブル震わせながらハナ肇が「いつも、いつも、済まねえなあ…」と呟くと、娘たちは「おとっつあん、それは言わない約束でしょ」と応えるのです。(この場面で、小生の父親はいつも涙を流して見ていました)

 ここまでが歌舞伎の様式美のようなワンパターンで、毎回同じ寂しいメロディーが流れて、この後に、いろんな変奏パターンが出てきます。グレて勘当させられた息子がカネをせびりに来たり、おまわりさん役の植木等が何の関係もないのに出てきて、座を乱したりして、「お呼びでない、これまた失礼しました!」というと、出演者全員が「ハラホロヒレハレ」といって踊りだして終わる、というこれまた御馴染みのパターンで終わります。

 こうして文章で説明してしまうと、可笑しさが伝わらず残念ですが、毎回、大笑いしたものです。まあ、私の世代はクレージーキャッツとドリフターズで育った世代でしょうね。

江戸城 蛤壕

 1980年代の漫才ブームのツービートやB&Bや紳助竜介あたりがギリギリで、私だけかもしれませんが、今や大ベテランの大御所になっているダウンタウン辺りになると、残念ながら、その笑い(の質)に全くついていけなくなりました。笑いたくなるより、怒りたくなるのです。

 やはり、笑いには世代間ギャップが大いにあるんじゃないでしょうか?

 私の親や祖父母の世代は、エンタツ・アチャコやあきれたぼういずなどに夢中になっていたことでしょう。世の中良くなったもので、今では彼らを動画で見ることができます。確かに今見ても面白いのですが、「歴史的文化遺産」と構えてしまうので、自然な笑いまでは出てきません(笑)。

 文章というものは、一度書いてしまうと、あとは読者に委ねられ、書いた本人が全く予期していなかったことまで斟酌してくれる方もおられます。本日の記事も、色んな御意見が出てくるのではないかと愚察しております(笑)。