永野裕之著「教養としての『数学Ⅰ・A』 論理的思考力を最短で手に入れる」(NHK出版新書、2022年4月10日初版)を先日、読了しました。この渓流斎ブログでこの本について初めて触れたのが、11月17日に書いた「そうだ、何歳になっても数学を勉強しよう」でしたから、11月の後半は、通勤電車の中でどっぷり数学に浸かっていたことになります。頭の悪そうな老人が、スマホのゲームをしないで、数学の本を読んでいるなんて、さぞかし異様な光景だったことでしょう。
それでいて、数学を勉強している本人は、一瞬ながら浮世の憂さを逃れる気分になることが出来ました(苦笑)。恐らく、心配したり悩んだりする脳の器官(もしくは部位)と、数学の難問を解く脳の器官は別になってるんじゃないかと思います。
前回にも書きましたが、数学の勉強をしたのは、予備校時代以来約半世紀ぶりでしたから、すっかり錆びついていた、どころか、完璧に忘れていました。中3で習う二次方程式の解の方程式すら忘れていたわけですから、もう何をか況やです。
それに文部科学省の「学習指導要領」が半世紀前の昔とは大幅に変わっていますから、我々の世代ではそれほど深く習わなかったか、もしくは理科系の「数Ⅲ」で習うような「集合」や「確率」などが今では「数ⅠA」の段階で教えられていることを知りました。
それに加えて、19世紀のドイツの天才数学者ガウス(1777~1855年、ナポレオンと同時代人!)の「合同式」(a と b とが法 n に関して合同であることを表記するとa ≡ b (mod n)となる。)なんかも掲載されていて驚くばかりです。
この本の趣旨は、数学の公式だけを単に丸暗記するのではなく、それに至るプロセスや問題解決能力を養うことを目的に「論理的思考力」を涵養することにありましたが、その通り、文学的、情緒的、感覚的思考力ではない明晰な思考力が身に着くような気がしました。そういう意味では、大変な良書です。確かに、社会に出れば、殆どの人は、sin、cos、tanも、平方根も、三角関数も、微分積分も、つまり、数学を使うことはないので、役に立たない学問だと錯覚しがちですが、そうではなかったことが分かったわけです。
17世紀半ばに活躍したフランスの哲学者デカルトは、私も影響を受けた哲学者ですが、彼は代数学全盛の時代に、座標軸を発明し、古代ギリシア時代以来埋もれてしまっていた幾何学を復興した人でした。つまり、デカルトの哲学とは数学的思考によって裏付けられていたというわけです。(その逆も言えます。プラトンは、アテネ郊外に創立した哲学学校の校門に「幾何学を知らぬ者、くぐるべからず」と掲げたそうです。)
だからこそ、ヨーロッパでは、古代ギリシャの数学者ユークリッドが書いた「原論」を20世紀初頭まで、2000年間も現役の数学の教科書として使われていたといいます。(ユークリッド幾何学は、2次元平面を前提とした幾何学なので、平行線公準は成立しますが、球面上の幾何学では平行線が交わることがあります。こうして、平行線公準を否定することによって、非ユークリッド幾何学が生まれました。)
とにかく、数学的思考は奥が深いのです。人間としてこの世に生まれてきたからには、数学は、役に立つとか立たないとかいった打算に左右されることなく、論理的思考力を涵養するために学ぶべきだということをこの本で教えられました。いつか、もし、続編の「教養としての『数Ⅱ・B』」が出版されれば、絶対に買います。