「カタロニア讃歌」はノンフィクション文学の金字塔

近未来小説「1984年」やスターリン批判を暗喩した「動物農場」などで知られる英作家ジョージ・オーウェル(1903~50、本名エリック・アーサー・ブレア、享年46)がスペイン内戦(1936~39)に参加してその内幕を描いた「カタロニア讃歌」(1938年初版、鈴木隆、山内明訳、現代思潮社)を大変遅ればせながら、今頃読んでおります。

「何で今さら?」と訝しがる皆様も多数おられることでしょうが、たまたま私はオーウェルの熱心な読者ではなかったため、この歳になるまで読んでいなかった、と正直に告白しておきます(でも、これから彼の代表作は読んでいくつもりです)。

何で、読もうかと思い立ったのは、以前にもこのブログに書きましたが、今年9月に初めてスペイン旅行を体験したからでした。スペイン旅行に行く前に読むべきだったかなあ、と思いましたが、やはり、帰国して読んだ方がよかったという結論に達しました。何故なら、この本に出てくるバルセロナもサラゴサもマドリードも、実際に行って、その土地の大地を踏み、その土地の空気を吸ったため、地理感覚ができたので、ビルバオやバレンシアや色々と他に出てくる地名も読んだだけで身近に見当がつくからです。

市街戦になったバルセロナ中心部のカタルーニャ広場やランブラス通りは、一人で1時間半ほどぶらついたので懐かしくなりました。もっとも、もしこの本を先に読んでいたら、同書に出てくるコンティネンタル・ホテルやファルコン・ホテル、それに治安部隊が占拠したカフェ・モカ(跡)を探す「歴史散歩」をしていたのではないかと思います。

それはともかく、スペイン内戦では、ジョージ・オーウェルのように、多くの外国人が「外人部隊」として参戦しました。米作家アーネスト・ヘミングウエイ、仏作家アンドレ・マルローらもそうです。また、人民戦線側で戦ったスペインの詩人ガルシア・ロルカは戦死しております。

「カタロニア讃歌」は、オーウェルの従軍記であり、ノンフィクション文学の金字塔でしょう。歴史資料としても価値があり、後世まで読み継がれることでしょう。何しろ、非常に文学的水準が高い文章です。これが、34歳前後で執筆されたかと思うと、やはり彼は天才だったんですね。(世界的にも1930年代のジャーナリストの書く文章は大変水準が高い。スパイ・ゾルゲの「本職」だった独紙特派員として書いた「二・二六事件」を分析した記事などはとても日本人には書けない硬質な分析。同じ諜報団だった仏通信社特派員のブーケリッチの記事を読んでも内容の深さに圧倒されます)

スペイン・コルドバ

オーウェルは1936年12月末、「新聞記事でも書くつもり」で英国からスペインに渡り、POUM(マルクス主義統一労働者党)の反ファシスト市民軍の兵士として、アラゴン前線に参戦します。最前線で3カ月半。37年4月末に休暇でバルセロナに戻り、同年5月の市街戦に巻き込まれます。この後、再びアラゴン前線に戻りますが、そこで負傷し、6月にバルセロナに戻ると、POUMの弾圧事件が起こり、オーウェルらは命からがらスペインから脱出します。

と書きますと、わずか半年程度の内戦体験に過ぎないと思う方が多いかもしれませんが、その微に入り細に入る戦場と市街戦の描写は、臨場感と緊迫感と弛緩にも溢れ、まるで同じような体験をしているような感覚に陥ります。

アラゴン戦線に投入されながら、驚くことに、オーウェルら兵士には最初は武器や弾薬さえ支給されないのです。3日目になってやっと支給されます。それが、1896年の日付の入ったドイツ製のモーゼル銃だったのです。オーウェルは「40年以上も前のものだ」と嘆くのです。

しかし、笑ってはいけません。日本だって、第2次世界大戦中に兵士に配給された武器は「三八式歩兵銃」だったのですから。三八式は改良版とはいえ、日露戦争の頃のものですから、40年前の武器を使っていたことになります。

歴史的結果として、反乱軍だったフランコ将軍率いるファシスト派が、ドイツとイタリアの支援を受けて、外国人有志やソ連などの支援を受けた人民戦線政府を打倒して、フランコ独裁体制が1975年まで続きます。

スペイン・コルドバ

人民戦線側が敗北した最大の理由は、共和国政府内での対立と内部分裂、いやそれ以上に内部での権力抗争が大きかったからでしょう。この本では、オーウエルが所属したPOUMのほか、PSUC(カタロニア統一社会党)、FAI(イベリア・アナーキスト連盟)、CNT(労働国民連合)、UGT(労働者総同盟)などの思想や運動方針の違いなどがかなり詳しく説明されております。

21世紀の人間が冷静に観ると考えられませんが、コミュニズムもアナーキズムもイデオロギーが万能の力を持っており、当時は共産主義が輝かしい平等社会を築いてくれるものという幻想があったのかもしれません。でも内部闘争により、POUMはトロツキストして迫害追放されます。市民らも戦いにうんざりして、革命運動から心が離れていきます。

この本では、「カタロニア人は常々、アンダルシア人のことを未開人種として見下していた」などどオーウェルの観察眼の鋭い描写が、ここかしこに出てきます。この本を読んでいると、まるで1930年代のスペインにいるようです。

スペイン堪能記

ついにガウディのサグラダファミリア教会と御対面

グラナダ・アルハンブラ宮殿(高校時代の世界史の教科書で見たことがある景色を撮ってみました)宮殿は、イスラム教徒がイベリア半島から追われ、標高700メートルの高台につくりました。▽名門グラナダ大学は学生6万人、教職員700人。

2018年9月11日(火)から18日(火)まで、初めてスペインに旅行に行って参りました。

機内泊を含めて7泊8日の旅でしたが、移動日が2日で実質6日間の旅でした。特に、行きは、経由先のヘルシンキ空港で7時間もトランジットで待たされ、結局、成田空港からスペインのマラガ空港まで21時間も掛かり、ヘトヘト。時差ボケと睡眠不足で前半は絶不調で、4日目からやっと馴化して旅行を楽しむことができました。

ミハス(ホテルの部屋からの眺め)

回った都市は、ピカソの生誕地である南部マラガから北上して宿泊先の白い建物で有名なミハス(アンダルシア)、イスラム統治最後のアルハンブラ宮殿があるグラナダ(柘榴という意味=アンダルシア)、イスラム支配最盛期のコルドバ(アンダルシア)、風車のあるラ・マンチャ地方のコンスエグラ、エル・グレコの傑作「オルガス伯爵の埋葬」が残るサント・トメ教会のある中世からの都市トレド(カスティーリャ・ラ・マンチャ)、首都マドリード、近郊にゴヤの出身地があるサラゴサ(旧アラゴン王国の首都)、そしてスペイン第2の都市バルセロナ(カタルーニャ)の9都市でした。

世界遺産 コルドバ

メニューが盛りだくさんでした。1492年にカトリック教国スペインとして独立(レコンキスタ=再征服)するまで800年間もイスラム教国の統治下にあったため、アラブの文化遺産が色濃く残り、まず、一口では語られません。

写真も400枚以上撮影してきましたが、さすがに、一度に全部掲載できませんね(笑)。でも、アルハンブラ宮殿にしろ、サグラダファミリア教会にしろ、プラダ美術館のベラスケスにしろ、今まで歴史や美術の教科書や写真集などでしか見たことがなかったものを直接、間近に見ることができ、とても至福な時間を過ごすことができました。現地に行かなくては見られませんからね。(3万点以上収蔵するプラダ美術館にあるベラスケスの傑作「ラス・メニーナス」は、この1点だけは門外不出のため、ここに来なければ本物に会えません!)思い切って、無理して(笑)行ってよかったと思いました。

日頃の心掛けがいいのか(笑)、全日、好天に恵まれ、治安の悪い大都市でも盗難の被害に遭わず、何と言っても添乗員Nさんと現地ガイド(多くが日本人女性)さんがとても優秀で、こちらも多くの知識と情報を得ることができました。それに、「人様とのつながり」のお蔭で、マドリードでは、京洛先生の京都の友人の加藤画伯の御令室と初めてお会いすることができ、わずか3時間でしたが、色んなお話を伺うことができました。加藤御令室には、ツアーのコースに入っていなかったピカソの名作「ゲルニカ」のあるソフア王妃芸術センターにまで連れて行ってもらった上、マドリードの御自宅マンションで、サラダとイカスミ・ライスまで御馳走になってしまい、本当に「人様とのつながり」の有難みを感じました。

コルドバ・メスキータ(大聖堂)▽古代はフェニキアやローマ帝国の神殿があった後に、6世紀ごろから西ゴート時代のキリスト教教会が建てられ、8世紀からイスラム支配の下、モスクに。聖堂内で2万人、戸外を入れると4万人以上が礼拝したとか。1236年からカトリック教会となりましたので、複層した色んな宗教が混在した不思議な空間でした。

実は、正直のところ、今回旅行するまで、スペインは、あまり好きではありませんでした。むしろ、嫌いでした。なぜなら、スペインは大航海時代の16世紀、インカ帝国やアステカ帝国を滅ぼして、中南米を植民地にした国だからです。(おかげで、スペイン語は世界22カ国、4億人が使っているそうです)

しかし、現地スペインに行って、少し考え方が変わりました。

スペインは年間750万トンもオリーブを生産し、世界最大のオリーブ油の輸出国だったんですね。ですから、バスで通過する道路わきの畑は、オリーブばかり植えられていました。ところが、南部アンダルシア地方からラ・マンチャ地方、そしてマドリード辺りまでの一部というか、ほとんどの地域で、植物が生えない、荒れ地というか、赤土の荒野が広がっていて人家も緑も一切なく、「大丈夫なのかなあ」と心配してしまいました。

何で、こんな荒野になってしまったのかというと、イスラム教徒がキリスト教徒に追われて逃げる際に、人家や畑を焼き払ってしまったからという説があります。でも、それは一部にせよ、あまりにも広大なので、ありえないでしょう。

もう一つの説は、イベリア半島は大森林で覆われていましたが、木材を燃料や船舶などの用途で多くの樹木を伐採したからというものです。(特に、レパント沖の海戦で、フェリペ2世が軍艦を建造する際に大量の森林を伐採した)これも、再植林すれば森林は復活するでしょうが、一度伐採してしまったら、もう緑は復活しないということなんでしょうか。これもよく分かりません。

先程、スペイン人は中南米を征服したので、個人的にスペインは嫌いだったと書きましたが、1521年に今のメキシコを征服したコルテスも、1533年に今のペルー辺りを征服したピサロも、二人とも、そんな作物がならない荒れ地が多い、ポルトガル国境に近いイクストレマドゥーラ地方出身だったというのです。

ここで、誤解を恐れずに言えば、私なんか「コルテスもピサロもまるで満蒙開拓団みたいだったんだなあ」と思ってしまったわけです。これも語弊があるかもしれませんが、戦時中に、大陸の満洲などに植民した人たちは日本国内に自分の土地を持たない小作人か、作物があまり実らない貧しい農民でした。どこの国でも、裕福な農民、つまり肥沃な(スペイン語でベガ。ラスベカスは肥沃な土地という意味)大地を持つ地主は国外に出る必要がありませんからね。

ということは、原住民を虐殺して征服したコルテスもピサロに同情の余地はありませんが、生まれ故郷が荒れ地だったことが、子どもの時から海外に出たいと思うようになったきっかけになったのではないか、と想像しました。

しかも、自分たちが生まれる前に、自分たちの領土が800年間も異教徒によって支配、征服されていたという歴史的事実を代々、親たちから聞かされて育てば、現代人が非難するような「征服」や「弱肉強食」の世界に、彼らは矛盾を感じなかったのかもしれません。

そう思うと、スペイン人も同じ人間で、何となく、共感はできなくても、偉そうにも(笑)、「分からないわけではない」という考え方に変わったわけです。

ラ・マンチャ コンスエグラ(ドン・キホーテの恰好をしたバイトさんもいました)

となると、旅行に行く前に避けていたスペイン文化を再認識しなければなりません。

私はジレッタントですから、今まで読んでいなかったセルバンテスの古典的名作「ドン・キホーテ」を読まなければなりませんね。「ドン・キホーテ」は、読んでいない私ですら荒すじを知っているぐらいの世界的な大ベストセラーなのですが、セルバンテス自身は、牢獄につながれたり、家族を亡くしたり、おまけに本が売れても著作権登録していなかったため、一銭も印税が入らず、極貧で亡くなった、という波乱万丈の生涯を送ったそうですから。

小説の中のドン・キホーテは、最後は気が触れたように、風車に向かって立ち向かっていくという話で終わりますが、この風車は、オランダの象徴として捉え、当時、スペイン支配下にあったオランダが近いうちに独立することを示唆したものだ、という説があるそうです。

トレド(世界遺産)1972年に奈良と姉妹都市を締結

とにかく、スペインは世界遺産だらけです。昨年は世界から約8000万人の観光客が訪れ、スペインは、フランスに次ぎ世界第2位の観光立国です。

当然、観光が主要産業になっていますが、現在のスペインが抱える最大の問題は、失業問題だと言われます。

2008年、リーマン・ショックを引き金に、不動産と株バブルがはじけて、多くの失業者を産み、2017年になっても失業率は18.1%と欧州2位。ただし、25歳以下の若者に限定すると40%にも上るそうです。そのため、優秀な人材は、ドイツやフランスなど国外にどんどん「頭脳流出」してしまうとか。

ガイドさんの説明では、職が見つからないため、30歳未満の8割もが両親と同居しているそうです。

当然、結婚もできない。そして、驚くべきことに、スペイン人の離婚率は50%だというのです。これは、正式に婚姻届を提出したカップルの数字で、それ以外を含めるとかなりの数字になるそうですから、異様です。

確か、カトリックの国はそう易々と離婚できなかったはずですけど…。

マドリード スペイン広場 ドン・キホーテ像

一方、マドリードに1971年以来半世紀近く在住している加藤画伯の御令室によると、この1~2年は、スペインは景気が良くなったのか、不動産は2倍近くも上昇したというのです。ただし、富裕層が投資のために購入しているようですが。

今回の旅行で、荒れ地ばかり見てきたのですが、南部の地中海沿いのムルシア地方は一大農業地帯で、諸外国に輸出するほどオレンジやトマトなど野菜を多く栽培しているそうです。アンダルシア地方にはまだ貴族がいて、大地主でもあるそうです。独裁政権を敷いてきたフランコ死去後、スペインは王政復古しましたからね。

加藤画伯の御令室も「スペインは、日本より裕福じゃないでしょうか」と独り言のように呟きました。

ただ、政治面では6月に、汚職が蔓延する右派政権が倒れて、左派連合のサンチェス氏が首相に任命されましたが、連立政権のため、独立機運が高まっているカタルーニャやバスク選出の議員の要求も聞き入れなくてはならず、また、彼らに大臣ポストも用意しなければならなかったので、サンチェス政権も多難な船出なんだそうです。

スペインには、大きく四つの言語と「民族」(顔つきや背格好が少し違う)があるそうで、特に、カタルーニャ地方のバルセロナは、日本のニュースでもよく登場しますが、独立運動デモが頻繁に行われているようです。勿論、首都マドリードの住民は、彼らの勝手な行動には眉をひそめているわけです。

こういった話は現地に行かなければ分かりませんね。

マドリード プラド美術館前にあるゴヤ像(この像の前で、加藤画伯の御令室と待ち合わせをしました)

ちょっと、堅い話になったので、少し外れて、閑話休題。

スペイン到着して始めの頃に訪問したミハスを散策していたら、「Taberna」と書かれたお店を何軒か見かけました。何?食べるな???

実は「タベルナ」は、「バル」と呼ばれる大衆居酒屋と、ほんの少し高級な「レストラン」の中間に当たる食堂で、アンティークな調度品でバルより少し高級感があるそうです。あ、そうか、英語のtavern(居酒屋)なんですね。フランスはでは、ビストロに当たることでしょう。

ちなみに「バカ」はスペイン語で「牛」のこと。「アホ」は「ニンニク」のことなんだそうです。

となると、「バカ・タベルナ」は「牛肉食堂」、「アホ・タベルナ」は「ニンニク食堂」のことですか…(笑)。

あと、面白かったのは、鶏の鳴き声。日本では「コケコッコー」ですが、スペインでは「キッキリキー」ですって。笑っちゃいました。

サラゴサ(近郊のフエンデトドスがゴヤの出身地)

ここで、スペイン人の一般的な生活をー。

スペインは日本の国土の1.3倍ありますが、人口はその3分の1程度の4600万人で、首都マドリードにはその10分の1の460万人が居住しています。

緯度は青森県ぐらいで、日の出が午前7時半ぐらいと遅いのでいつまでも薄暗く、日没は午後8時半ごろなので、夜はいつまでも明るい。当然、食事の時間が日本とはズレて、ランチは14時から16時まで、夜食は20時から22時が普通だとか。

熱心なカトリック国なので、日曜日は安息日で、商店のほとんどが休業。とはいえ、インド系や華僑の店舗は開店し、以前はケーキ屋さんだけが安息日の開店を許可されていましたが、ケーキ屋さんでもパンが売られていたことから、パン協同組合からの抗議もあり、パン屋さんも午前中だけなら、ここ3年ぐらい前から、安息日でも営業できるようになったそうです。

バルセロナ ガウディ作 サグラダファミリア教会 1882年に着工し、130年以上経過しても、まだ未完成(教会はいつ完成するか正式発表せず)。福岡市出身の彫刻家外尾悦郎氏の作品が、上記写真の下部に見えます。

あと、バルセロナの優秀なガイドTさんから聞いた話によると、信号を無視して歩行者が横断歩道を渡ったりして、警察に見つかると、事情を知らない外国人でも、即、100ユーロ(1万3000円)ぐらいの罰金を取られるそうです。

警察を至近距離から撮影したりしても、罰金。ほかに、可愛いからといって、子どもや赤ちゃんを親の許可なく撮影すると、裁判沙汰か、罰金になるそうです。これは、今のネット社会で、親が知らないうちに、自分の子どもの写真が掲載される危険を防ぐためなんだそうです。

そう言えば、スペイン人といえば、ラテン系なので、時間にルーズで、結構いい加減だという悪いイメージがあったのですが、かなり厳格でした。

全行程バス移動だったため、鉄道に乗ったわけではないのですが、アルハンブラ宮殿もプラダ美術館もサグラダファミリア教会なども、事前予約の時間制限があり、例えば、「午後2時入場」でしたら、その時間が来るまで、決して、ゲートを開けてくれないのです。

アルハンブラ宮殿の事前予約「入場券」なんか、QRコード付きのペーパーで、何と私の名前まで明記されておりました。

また、宣伝広告も厳しい規制があり、高速道路沿線は広告掲示板が禁止されていました。どこもかしこもコマーシャルだらけの日本とは大違いです。

バルセロナでフラメンコ鑑賞(本場は全く違いましたね。迫力満点。後ろに義太夫のような歌い手二人と、ギター二人、打楽器1人とバイオリン一人で、ダンサーが躍る。人形浄瑠璃ではなく、人間浄瑠璃のようでしたねえ)

随分、長く書きましたが、これでも、全体にあったことの10分の1も書いてません(笑)。

これまで書き忘れたことで、どうしても、書き残したい話は、またまたバルセロナのガイドのTさんから聞いた話です。何と、スペインでは、医療費(歯医者は除く)は無料なんだそうです。ただし、待ち時間が長く、インフルエンザで、待合室で亡くなった人もいたそうです。

病室は2人部屋が一般的ですが、盲腸など簡単な手術は、入院は1泊で追い出され、白内障の手術を受けるのに3年も待たされるとか。

もちろん、緊急の救急患者は優先されますが、どうしても早めに治療、手術したい場合は、個人的に保険に入る必要があるそうです。

レストランでは、水(Agua=アグア)が、ビール(cerveza=セルベッサ)と同じ値段(2.50~3.00ユーロ)か、少し高かった時は驚きでした。

スペイン料理は、パエリア(Paella=パエージャ)ぐらいしか知りませんでしたが、冷製野菜スープのガスパッチョ、小さく切ったパンの上に色んな食材を載せたタパスやピチョンも美味しかったです。

プラド美術館ではゴヤの作品にはかなり感動しましたので、これから時間を見つけて、未読の名作、堀田善衛著「ゴヤ」全4巻と、スペイン内戦を描いたジョージ・オーウエルの「カタロニア賛歌」にいつか挑戦してみようかと思っています。

ここまで読んで頂き、グラシアス