橘木俊詔著「”フランスかぶれ”ニッポン」はどうも…

 世間では誰にも認められていませんが、私は、「フランス専門」を僭称していますので、橘木俊詔著「”フランスかぶれ”ニッポン」(藤原書店、2019年11月10日初版)は必読書として読みました。大変面白い本でしたが、途中で投げ出したくなることもありました(笑)。

 「凡例」がないので、最初は読み方に戸惑いました。

 例えば、「長与(専斎)に関しては西井(二〇一九)に依拠した」(53ページ)や「九鬼周造については橘木(二〇一一)に詳しい」(104ページ)などと唐突に出てくるのです。「えっ?何?どうゆうこと?」「どういう意味?」と呟きたくなります。

 (これは、後で分かったのですが、巻末に書かれている参考文献のことで、まるかっこの中の数字はその著書が発行された年号のことでした。学術論文の形式なのかもしれませんが、こういう書き方は初めてです)

 著者は、経済学の専門家なので、「フランスはケネー、サン=シモン、セイ、シスモンディ、ワルラス、クールノーなど傑出した経済学者を生んだ」(180ページ)と筆も滑らかで、スイスイと進み、それぞれの碩学を詳細してくれますが、専門外の分野となると途端にトーンがダウンしてしまいます。

 例えば、世界的な画家になった藤田嗣治の章で、「乳白色の裸婦」を取り上げた部分。「絵画の手法などについては素人の筆者がどのような絵具や顔料を用い、キャンバスにどのような布地を用いたのか、…などと述べる資格はないので、乳白色の技術についてはここでは触れない」。 えっ?

 「ドビュッシーは女性関係も華やかであったが、これまで述べてきたようにフランスの作家や画家の多くがそうであったし、別に驚くに値しないので、詳しいことは述べない」。 えっ?待ってください。また?

 「物理学に疎い筆者が湯浅(年子)の研究内容を書くと間違えるかもしれないし、読者の関心も高くないであろうから、ここでは述べない」。 もー、勘弁してください。少しは関心あるんですけど…。

 ーまあ、ざっとこんな感じで、読者を2階に上げておいて、「この先どうなるんだろう」と期待させておきながら、さっと階段を外すような書き方です。

 そして、画家の久米桂一郎(一八六六-一九三四)の次の行の記述では、

 「浅井忠(一九三五-九〇) 黒田清輝(日本西洋絵画の開拓者は、美術学校出身ではなく、東京外国語学校出身だったとは!←これは私の感想)や久米桂一郎よりも一〇年早く生誕している」と書かれているので、「おかしいなあ」と調べたら、浅井忠は(一八五六-一九〇七)の間違いでした。日本の出版界で最も信頼できる藤原書店がこんなミスをゆめゆめ見逃すとは!悲しくなります。

 文句ばかり並べましたが、幕末・明治以来「フランスかぶれ」した日本の学者(辰野隆、渡辺一夫ら)、作家詩人(永井荷風、木下杢太郎、萩原朔太郎、太宰治、大江健三郎ら)、画家(藤田嗣治ら)、政治家(西園寺公望ら)、財界人(渋沢栄一ら)、ファッション(森英恵、三宅一生、高田賢三ら)、料理人(内海藤太郎ら)ら歴史的著名人を挙げて、平易に解説してくれています。(私は大体知っていたので、高校生向きかもしれません)

 ほとんど網羅していると言っていいでしょうが、重要人物である中江兆民や評論家の小林秀雄についてはごく簡単か、ほとんど登場しないので、もっと詳しく解説してほしかったと思いました。

 それとも「私の専門外なので、ここでは詳しく触れない」と著者は抗弁されるかもしれませんが…。

 (6年前に「21世紀の資本」のトマ・ピケティ氏が、日仏会館で来日講演された際に、橘木氏も同席して、橘木氏の御尊顔を拝見したことがあります。「経済格差問題」の権威として凄い方だと実感したことは、余談ながら付け加えておきます。)

日本の右翼思想は左翼的ではないか?=立花隆著「天皇と東大」第2巻「激突する右翼と左翼」

長い連休の自宅自粛の中、相変わらず立花隆著「天皇と東大」(文春文庫)を読んでいます。著者が「文庫版のためのはしがき」にも書いていますが、著者が考える昭和初期の最大の問題点として、どのようにして右翼超国家主義者たちが、日本全体を乗っ取ってしまようようなところまで一挙に行けたか、ということでした。それなのに、これまで日本の多くの左翼歴史家たちは、右翼をただの悪者として描き、その心情まで描かなかったので、あの時代になぜあそこまで天皇中心主義に支配されることになったかよく分からなかったといいます。

 それなら、ということで、著者が7年間かけて調べ上げて書いたのがこの本で、確かに、歴史に埋もれていた右翼の系譜が事細かく描かれ、私も初めて知ることが多かったです。

 私が今読んでいるのは、第2巻の「激突する右翼と左翼」ですが、語弊を怖れず簡単な図式にすれば、「左翼」大正デモクラシーの旗手、吉野作造教授(東大新人会)対「右翼」天皇中心の国家主義者上杉慎吉教授(東大・興国同志会)との激突です。

 吉野作造の有名な民本主義は、天皇制に手を付けず、できる限り議会中心の政治制度に近づけていこうというもので、憲政護憲運動や普選獲得運動に結び付きます。吉野の指導の下で生まれた東京帝大の「新人会」は、過激な社会主義や武闘派田中清玄のような暴力的な共産主義のイメージが強かったのですが、実は、設立当初は、何ら激烈ではない穏健な運動だったことがこの本で知りました。

 新人会が生まれた社会的背景には、労働争議や小作争議が激化し、クロポトキン(無政府共産主義)を紹介した森戸事件があり、米騒動があり、その全国規模の騒動に関連して寺内内閣の責任を追及した関西記者大会での朝日新聞による「白虹事件」があり、それに怒った右翼団体浪人会による村山龍平・朝日新聞社長への暴行襲撃事件があり、そして、この襲撃した浪人会と吉野作造との公開対決討論会があり…と全部つながっていたことには驚かされました。民本主義も米騒動も白虹事件も個別にはそれぞれ熟知しているつもりでしたが、こんな繋がりがあったことまでは知りませんでしたね。

 一方の興国同志会(1919年)は、この新人会に対抗する形で、危機意識を持った国家主義者上杉慎吉によって結成されたものでした。(その前に「木曜会」=1916年があり、同志会解体分裂後は、七生会などに発展)。この上杉慎吉は伝説的な大秀才で、福井県生まれで、金沢の四高を経て、東京帝大法科大学では成績抜群で首席特待生。明治36年に卒業するとすぐ助教授任命という前代未聞の大抜擢で、独ハイデルベルク大学に3年間留学帰国後は、憲法講座の担当教授を昭和4年に52歳で死去するまで20年間務めた人でした。(上杉教授は、象牙の塔にとじ込まらない「行動する学者」で、明治天皇崩御後、日本最大の天下無敵の最高権力者となった山縣有朋に接近し、森戸事件の処分を進言した可能性が高いことが、「原敬日記」などを通して明らかになります)

 上杉博士の指導を受けた興国同志会の主要メンバーには、後に神兵隊事件(昭和8年のクーデタ未遂事件)の総帥・天野辰夫や滝川事件や天皇機関説問題の火付け役の急先鋒となった蓑田胸喜がいたことは有名ですが、私も知りませんでしたが、安倍首相の祖父に当たる岸信介元首相(学生時代は成績優秀で、後の民法学者我妻栄といつもトップを争い、上杉教授から後継者として大学に残るよう言われたが、政官界に出るつもりだったので断った。岸は上杉を離れて北一輝に接近)もメンバーだったことがあり、陽明学者で年号「平成」の名付け親として知られる安岡正篤も上杉の教え子だったといいます。

緊急事態宣言下の有楽町駅近

 私は、左翼とか右翼とかいう、フランス革命後の議会で占めた席に過ぎないイデオロギー区別は適切ではない、と常々思っていたのですが、この本を読むとその思いを強くしました。

 例えば、日本で初めてマルクスの「資本論」を完訳(1924年)した高畠素之は、もともと堺利彦の売文社によっていた「左翼」の社会主義者でしたが、堺と袂を分かち、「右翼」の上杉慎吉と手を組み、国家社会主義の指導者になるのです。

 立花氏はこう書きます。

 天皇中心の国粋的国家主義者である上杉慎吉と高畠素之が組んだことによって、日本の国家社会主義は天皇中心主義になり、日本の国家主義は社会主義の色彩を帯びたものが主流になっていくのである。…北一輝の「日本改造法案大綱」も、改造内容は独特の社会主義なのである。つまり、日本の国家革新運動は「二つの源流」ともども天皇中心主義で、しかも同時に社会主義的内容を持っているという世界でも独特な右翼思想だったのである。それは、当時の国民的欲求不満の対象であった特権階級的権力者全体(元老、顕官、政党政治家、財閥、華族)を打倒して、万民平等の公平公正な社会を実現したいという革命思想だった。天皇中心主義者のいう「一視同仁」とは、天皇の目からすれば全ての国民(華族も軍人も含めて)がひとしなみに見えるということで、究極の平等思想(天皇以外は全て平等。天皇は神だから別格)なのである。(120ページ)

 これでは、フランス人から見れば、日本の右翼は、左翼思想になってしまいますね。

 「右翼」の興国同志会の分裂後の流れに「国本社」があります。これは、森戸事件で森戸を激しく非難した弁護士の竹内賀久治(後に法政大学学長)と興国同志会の太田耕造(後に弁護士、平沼内閣書記官長などを歴任し、戦後は亜細亜大学初代学長)が1921年1月に発行した機関誌「国本」が発展し、1924年に平沼騏一郎(検事総長、司法大臣などを歴任。その後首相も)を会長として設立した財団法人です。最盛期は全国に数十カ所の支部と11万人の会員を擁し、「日本のファッショの総本山」とも言われました。

 国本社の副会長は、日清・日露戦争の英雄・東郷平八郎と元東京帝大総長の山川健次郎、理事には、宇垣一成、荒木貞夫、小磯国昭といった軍人から、「思想検察のドン」として恐れられた塩野季彦や当時の日本の検察界を代表する小原直(後に内務相や法相など歴任)、三井の「総帥」で、後に日銀総裁、大蔵相なども歴任した池田成彬まで名前を連ねていたということですから、政財官界から支持され、かなりの影響力を持っていたことが分かります。

 まだ、書きたいことがあるのですが、今日は茲まで。

 ただ、一つ、我ながら「嫌な性格」ですが、133ページで間違いを発見してしまいました。上の写真の左下の和服の男性が「上杉慎吉」となっていますが、明らかに、血盟団事件を起こした東京帝大生だった「四元義隆」です。この本は、2012年12月10日の初版ですから、その後の増刷で、恐らく、差し替え訂正されていることでしょうが、あの偉大な立花隆先生でもこんな間違いをされるとは驚きです。この本は、鋳造に失敗した貨幣や印刷ミスした紙幣のように高価で売買されるかもしれません。(四元義隆氏は戦後、中曽根首相、細川首相らのブレーンとなり、政界のフィクサーとしても知られます)

 いや、自分のブログの古い記事のミスを指摘されれば、色をなすというのに、この違いは何なんでしょうかねえ。我ながら…。

コロナ不況で消費税をゼロにしたらどうでしょう

 日本のテレビは「新型コロナウイルス」の話ばかりやっていて閉口してしまったので、海外のテレビを見てみました。

 そしたら、海外のテレビニュースも9割方、新型コロナの話ばかりでした。駄目じゃん。さすがに、気落ちしてしまいました。このことをあまりブログに書いても、やたらと不安を煽り立てるだけのような気がして、昨日はブログを書くのはやめにしました。

 でも、今日は書かざるを得ませんね。 世界保健機関(WHO) は日本時間の今日未明に、ついに新型コロナウイルスはパンデミックであることを認めました。WHOが発表する数字は、意図的なのか、能力的なのか、かなり少ないので、米ジョンズ・ホプキンス大学が発表している世界の感染状況の数字を一生懸命に計算して取り上げてみると、3月11日の時点で、12万6093人が感染し、4628人が亡くなっています。このうち、(1)中国の感染者は8万0929人(死者3169人、香港3人)、(2)イタリア1万2462人(827人)、(3)イラン9000人(354人)、(4)韓国7755人(60人)、(5)フランス2284人(48人)、(6)スペイン2272人(55人)、(7)ドイツ1966人(3人)、(8)米国1281人(36人)、(9)クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」 696人(7人)、(10)スイス652人(4人)、(11)日本639人(15人)…となっています。(ジョンズ・ホプキンス大のサイトを見ていると、数字は時々刻々と増えています)

伊ミラノ

 今週になって、急に欧米で増えました。特にイタリアでは、1万人以上が感染し、既に827人が亡くなり、中国に次ぐ多さです。イタリアはどうしっちゃったんでしょうか。

 フランスのテレビですが、映像を見ていたら、芸術の都フィレンツェも、水の都ベネツィアのサンマルコ広場も、遺跡の都ローマのコッロセオも、あんなに観光客で溢れていたのに、今は人影もまばらです。飛行機内も空港もパラパラです。航空会社は大赤字でしょうね。

イタリアのコンテ首相は11日に、テレビを通じて、国内の薬局と食料品店以外の全店舗を閉鎖すると発表しました。イタリア人の大好きなオペラや映画も見られず、外食もできないんでしょうか。鎖国ですね。

 3月10日のフランス2の「20時のニュース」では、新型コロナウイルスは、全世界で11万6000人が感染し、約6100人が死亡しましたが、6万4000人が回復。死亡率は1~3%程度だと報じていました。数字は、米ジョンズ・ホプキンス大学の最新データとは違いますが、結構、回復者がいて、80%は軽症と、合理的なフランス人らしく、努めて冷静になるよう強調している感じがしました。

 ですから、隣国のイタリアは異様です。病床が少なく、医者や看護師が足りないようですが、何でこんな急速に拡大したんでしょうか?北イタリアは、中国人観光客や出稼ぎ労働者が多かったという話もありましたが、隣国のドイツの感染者は1966人、死亡者が3人ですから、何か他に理由がありそうです。

 とにかく、このような新型コロナウイルスの拡大による経済的損失は莫大で、まさに「コロナ・ショック」で世界同時株安、原油安、債権暴落という恐慌が押し寄せてきました。

 我が日本国政府は昨日の11日に「緊急対応策」第3弾の着手を発表し、子育て世帯に3万円を給付する案が検討されているとか。そんなんで大丈夫なんでしょうかねえ。「焼け石に水」のような感じがします。

 この分だと、夏の東京オリンピック開催は無理でしょう。夏には終息するという希望的観測がありますが、真夏の南半球のオーストラリアで感染拡大するぐらいですからね。突然変異するウイルスです。代替開催に「立候補」していたロンドンだって感染者がいるんですから無理ですよ。(英国の感染者は459人、死者8人)

 日本にも大不況が襲ってくるのはほぼ確実で、倒産する会社も出てきますし、個人消費は大幅にダウンすることでしょう。こうなったら、1年間の時限立法でいいですから、消費税を半分ではなく、一層のこと、ゼロに戻したらどうでしょうか。

 私のような単なるブロガーが何を言っても始まりませんが、政府与党の皆さんには景気回復のために真剣に検討してもらいたいです。

日仏会館でデプレシャン監督作品「あの頃エッフェル塔の下で」を観る

日仏会館

 昨年12月に見事厳しい審査を経て(?)、東京・恵比寿にある日仏会館の会員になることができました。そこで開催されるフランスに関する色んな講演会やセミナーやイベントに参加できます(非会員の方もbienvenu)。1月に「ジャポニスム」に関するセミナーがありましたが、仕事が遅くなり、キャンセルせざるを得なくなりました。

 昨晩は会員として初めて参加しました。(そう言えば、2015年1月に日仏会館で開催された「21世紀の資本」のトマ・ピケティの講演を取材したものです。ということは5年ぶりでしたか…早い、早すぎる)

ヘアーサロン・ヤマギシ 月曜休みでした

 その前日に、京洛先生から電話があり、明日、日仏会館に行く予定だと話したところ、「恵比寿ですか…そうですか…懐かしいですね。中華のちょろりに行ったらいいじゃないですか」と仰るではありませんか。

 えっ?何ですか?ちょろり?

「中華屋さんですよ。あたしはよく行きましたよ。恵比寿ビアガーデンの近くでもあります。そこで、よく炒飯と餃子にビールを注文したものですよ」

 いい話を聞きました。京都の京洛如来様は、まだ東京で調布菩薩だった頃、職場が恵比寿にあったことから、恵比寿は自分の庭みたいなものでした。

 「恵比寿駅近くにヤマギシという床屋がありましてね。社長はあの大野で修行した人で、あたしはよく行ったものです。今でも東京に行った時に予約して行きますよ。貴方も行ってみたらどうですか?『京都の京洛から話を聞いて来ました』と言ったら、喜びますよ」

 あれ?それ、もしかしたら、恵比寿商店会から宣伝料のマージンでももらっているんじゃないですかねえ(笑)。

 でも、私も、当日の夕飯はどうしようかと思っていたので、良い店を紹介してもらいました。

 中華「ちょろり」は、日仏会館の目と鼻の先にありました。夕方5時頃入ったら、お客さんはまだ誰もいなく、しばらく一人でした。大衆中華料理屋さんというか、大きなテーブルが7個ぐらいあって、30~40人で満杯になる感じでした。(帰りの夜9時過ぎに店の前を通ったら、超満員でした。夜中の3時までやっているようです)

 京洛先生のお薦め通り、炒飯と餃子とビールを注文。炒飯は、何か、和風で、昔懐かしい味。餃子は野菜がいっぱい入ってました。

 さて、肝心の日仏会館の催しは、「映画と文学」の6回目でした。アルノー・デプレシャン監督作品「あの頃エッフェル塔の下で」(2015年、123分)が上映された後、目白大学の杉原先生による、特に、映画のフラッシュバック技法とマルセル・プルーストとの関係について解説がありました。

アルノー・デプレシャン監督作品「あの頃エッフェル塔の下で」 左は、 ポール役のカンタン・ドルメール、右は エステル役のリー・ロワ・ルコリネ

5年前に日本でも公開されたこの映画は見逃していましたが、なかなか良かったですね。よほどの映画通じゃなきゃデプレシャン監督作品は知らないでしょうが、私も初めて観ました。1960年生まれのデプレシャン監督の青春時代を色濃く反映した作品で、私もほぼ同世代なので、心に染み入りました。満点です。

 デプレシャン監督は、ベルギー国境に近いフランス北東部の田舎町ノール県ルーベ出身で、パリに上京して仏国立高等映画学院で学んだようです。映画の原題はTrois souvenirs de ma jeunesse で、直訳すると「我が青春の三つの物語」となります。主人公のポール・デダリュスは人類学者で外交官ですが、タジキスタンかどこかの旧東側国の税関で捕まり、スパイ容疑で取り調べられるところから物語は始まります。その時、主人公が青春時代の三つの物語をフラッシュバックで思い出すという展開です。

 後で聞いた杉原先生の解説によると、主人公のポール・デダリュスとは、ジェイムス・ジョイスの「ユリシーズ」に登場する作家志望の青年スティーヴン・ディーダラスから拝借したもので、ユリシーズもこの映画も「帰還」がテーマになっているとか。

 主人公のポール(青年時代はカンタン・ドルメール、現在の壮年時代はマチュー・アマルリック)とエステル(リー・ロワ・ルコリネ)との淡い悲恋の物語といえば、それまでですが、恋する若い二人の心の揺れや不安が見事に描かれ、私も身に覚えがあるので懐かしくなりました(笑)。ポール役のドルメールも清々しく格好良かったですが、エステル役のルコリネは、男なら誰でも夢中になるほど魅力的で、強さと弱さを巧みに表現できて、なかなかの演技達者でした。

 そして、何と言ってもプルースト。これでも、学生時代は岩崎力先生の講義に参加して少し齧りました。今でも「失われた時を求めて」 À la recherche du temps perdu の第1章「スワン家の方へ」(1913年) Du côté de chez Swann の最初に出てくる「長い間、私はまだ早い時間から床に就いた」の《 Longtemps, je me suis couché de bonne heure 》は今でも諳んじることができます。岩崎先生には、マルグレット・ユルスナールやヴァレリー・ラルボーらも教えてもらいましたが、名前を聞いただけで異様に懐かしい。何の役にも立ちませんが(笑)。

 デプレシャン監督には、「魂を救え!」(1992年)や「そして僕は恋をする」(1996年)、「クリスマス・ストーリー」(2008年)などがありますが、登場人物に関連性があり、一種のシリーズ物語になっているようです。バルザックに「人間喜劇」、エミール・ゾラには「ルーゴン・マッカール叢書」などがありますが、フランス人は作品は違っても、続きものになる、こういう関連シリーズ物語が好きなんですね。

 映画では、主人公は人類学者になる人ですから本をよく読み、レヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」などを読んでいる場面も出てきました。私は、青春時代にフランスに首をつっこんでしまったので、この先、死ぬまで関わることでしょうから、日仏会館のイベントにはなるべく参加していくつもりです。お会いしたら声を掛けてください(笑)。

嗚呼、ノートルダム大聖堂の大火災

4月15日夜から16日未明にかけて起きたパリのノートルダム大聖堂の大火災。まだ、原因が分かっておりませんが、唖然、呆然としてしまいました。

ノートルダム大聖堂は、1163年に着工され、182年間かけて建設が続けられて1354年に完成。ゴシック建築を代表するもので、世界遺産に登録されていることは皆さま御案内の通りです。

2014年3月に訪れた時のノートルダム大聖堂。この時、長蛇の列だったので、内部に入らず、惜しいことをしてしまった。ステンドグラスは無事だったのかしら?

 訪れる観光客は、何と年間1200万人だとか。私も以前に2~3回、足を運んだことがありますが、まさか、燃えちゃうなんて思いも寄りませんでしたね。正面のファサードは石造りですが、内部や屋根は複雑な木造構造だったようで、96メートルの尖塔が燃えて崩落してしまう様子をテレビで見ましたが、呆然としてしまいました。

 私がフランスに派遣している秘密特派員からの情報によると、ノートルダム大聖堂には、聖ルイ(ルイ9世)が十字軍で持ち帰った聖遺物「キリストの茨の冠」 La couronne d’épines やイエスを磔にする際使われた釘(といわれるもの)などが安置されていましたが、無事保護されたといいます。屋上の12の像も修復工事のため運良く取り外されていたようです。これらは、一時的にパリ市庁舎に避難しているようで、いずれ詳細は明らかになるでしょう。

 ただ驚くことに、フランスでは歴史建造物の修復工事中の火事は、実は多いそうです。フランス人は、日本人ほど作業が慎重でないこともあり、今回の場合も、テロや事件ではなく、作業員のミスの可能性が高いようです。(その場合は、原因究明と再発防止に努め、個人的な犯人探しはやめた方がいいと思います)

 ノートルダム大聖堂は、今年856歳ですが、よくぞ第1次、第2次の両世界大戦でも破壊されず、戦災を逃れてきたものです。しかし、実は、1789年のフランス革命や、1830年の七月革命などではかなり破壊され、荒廃してしまったといいます。

 フランス革命では、ノートルダム大聖堂だけでなく、フランス全土に及び、教会や修道院が破壊尽くされた事実は、案外知られていません。教会や司祭はアンシャンレジームの支配階級の一角だったため、革命勢力の格好の標的になったのです。日本でも明治維新で、「廃仏毀釈」というとんでもないことが起きましたが、単なる維新ではなく、薩長土肥の若者による暴力革命だったことが分かります。

 七月革命で荒廃した大聖堂を嘆いたヴィクトル・ユーゴが、不朽の名作「ノートルダム・ド・パリ」(1831年)を書くきっかけになったことは、知る人ぞ知る逸話ですね。

 ノートルダム大聖堂火災は、日本で言えば、法隆寺や東大寺、または伊勢神宮が火災に遭うようなものです。フランスだけでなく人類の世界遺産ですから、心から御見舞い申し上げます。

フランス地図旅行 Fin

 「地球の歩き方』フランス版(ダイヤモンド社)は、本当に勉強になりました。私自身、知っていたこともあり、全く知らなかったことも沢山ありました。せっかく知識として得たのですから、備忘録として書いておきます。

【生誕地】

●アンリ4世(ブルボン王朝創始)=ポーPau(大西洋岸Côte d’Atlantique地方)

●ブレーズ・パスカル(哲学者)=クレルモン・フェラン Clermont-Ferrand(中南部オーヴェルニュ Auvergne地方、ノートルダム・ド・ラソンプシオン大聖堂 Cathedrale Notre-Dame l’Assomption、ノートルダム・デュ・バジリカ聖堂 Basilique Notre-Dame du Port、ミシュラン発祥地)

●スタンダール(作家)=グルノーブルGrenoble(中南東ローヌ・アルプ Rhône-Alpes地方)

●ヴィクトル・ユゴー(作家)=ブザンソンBesançon(中東部フランシュ・コンテFranche-Comté地方、指揮者コンクールで小澤征爾、沼尻竜典ら多くの日本人が優勝 )

●リュミエール兄弟(映画発明者)=ブザンソン Besançon 生まれ、映画の誕生地はリヨン Lyon (中南東ローヌ・アルプ Rhône-Alpes地方)

●ノストラダムス(星占学者)=サン・レミ・ド・プロヴァンス(南部プロヴァンス Provence 地方アヴィニョン近郊、画家ゴッホが同地の精神病院に入院)

●ルイ14世(国王)=サンジェルマン・アン・レーSt-Germain-en-Laye(パリ近郊イル・ド・フランス Ile de France地方)

●クロード・ドビュッシー(作曲家)=サンジェルマン・アン・レーSt-Germain-en-Laye (生家が記念館に)

●ジャン・フランソワ・シャンポリオン(ロゼッタストーン解読)=フィジャックFigeac(南西部Sud-Ouest地方 )

●トゥールーズ・ロートレック(画家)=アルビ Albi(南西部Sud-Ouest地方、少年時代は祖父の家ボスク城で過ごす )

●ギュスターヴ・フロベール(作家)=ルーアンRouen(北東ノルマンディーNormandie地方、父は外科医師。ジャンヌ・ダルクはこの地で火刑)

【物語の舞台・執筆地】

●シャルル・ペロー作の童話「眠れる森の美女」の舞台=ユッセ城 Château d’Ussé(中西部ロワール Loire地方アゼー・ル・リドーAzay-le-Rideau郊外)

●バルザック「谷間の百合」「ゴリオ爺さん」執筆=サシェ城 Château de Saché (中西部ロワール Loire地方アゼー・ル・リドーAzay-le-Rideau郊外)

●アレクサンドル・デュマ「モンテ・クリスト伯」の舞台=イフ城 Château d’If(南部プロヴァンス Provence地方マルセイユ Marseille、主人公ダンテスがイフ島のイフ城に監禁される)

●マルキ・ド・サド侯爵が領主を務めた村=ラコストLacoste(南部プロヴァンス Provence リュベロン地方、この近くのルールマランLourmarinはアルベール・カミュが晩年に過ごした村で、墓もある)

●アルフォンス・ドーデ「風車小屋だより」=フォンヴィエイユFontvieille (南部プロヴァンス Provence地方 アルル Arles郊外)の風車小屋で執筆。ドーデの生誕地は南西部Sud-Ouest地方ニームNîmes=仏最古のローマ都市。

「新聞王伝説 パリと世界を征服した男ジラルダン」その1

久しぶりに寝食を忘れて没頭してしまう本を読んでいます。鹿島茂著「新聞王伝説 パリと世界を征服した男ジラルダン」(筑摩書房・1991年9月20日初版)です。他の本を読んでいて、巻末にあった何冊もの本の広告の中にこのタイトルの本を発見し、初めてその存在を知りました。

 そこで、図書館から借りてきました。27年も昔の本なのに新品同様です。こんな面白い本なのに、今まで誰一人も借りて読んでいなかったのかもしれません。私としてはとてもラッキーですが、何か複雑な気持ちです。

私は、本も含めてモノを収集する趣味が(あまり)ありませんが、絶版されていなければ、本屋さんに注文してもいいと思いました。著者の鹿島氏は、一度だけお会いした、いや、講演会の前列で間近でお目にかかったことがあります。横浜の大仏次郎文学館ででした。

大学教授という品格はありながら、ちょっと強面で、このジラルダンのように自信満々のオーラがムンムン出ていました。何ちゅうか、「俺より頭が良くて物識りで、賢い奴はいるのかい?」といった雰囲気を醸し出していました。脳みそが重いせいなのか、首を傾げることさえも気だるそうで、しかも、短気そうに見えて、何かちょっと気に障ることがあると、怒鳴られそうでした。(あくまでも個人の感想ですが、彼は名実ともに仏文学者の最高権威でしょう。彼の著作はできるだけ読みたいと思っております)。この本を書いたときは、鹿島氏は41歳です。共立女子大の助教授の頃でしょうか。 同年に「馬車が買いたい!」でサントリー学芸賞を受賞し、世間に名前が知られるようになったジュリアン・ソレルのように脂に乗ったところでした。

で、肝心のこの新聞王ジラルダンとは何者なのか?まあ、一言で言えば、今のジャーナリズムの原点をつくった人と言っていいかもしれません。「実業之世界」や「帝都日日新聞」などを創刊して「ブラックジャーナリズムの祖」とか「言論ギャング」とも呼ばれた大分県出身の野依秀市(1885~1968)すらも、このジラルダンと比べると、そのスケール大きさで小さく見えてしまいます。

エミール・ド・ジラルダン(1806~81)。伯爵アレクサンドル・ド・ジラルダン陸軍大尉の私生児として密かにパリで生まれる。小説「エミール」を発表して文壇デビュー。新聞「ヴォルール(盗人)」「ラ・モード」発行人、出版発行人として成功し、1831年、閨秀作家デルフィーヌ・ゲーと結婚。彼女のサロンには,オノレ・ド・バルザック、テオフィル・ゴーチエ,ヴィクトル・ユゴー,アルフレッド・ミュッセら若いロマン派詩人や作家が多く集った。1834年、下院議員に当選。1836年には、30歳にして、広告掲載で収益を重視した新聞「ラ・プレス」(La Presse)を一般紙の半額(年間40フラン)で売り出して、「新聞界のナポレオン」と称されるようになった。

これだけ、頭に入れておいて頂ければ、彼のおおよそのプロフィール(横顔)が分かるというものです。

以下はジラルダン自身が、すべて史上初めて考案したものでもなかったとはいえ、世間に受け入れられたり、成功したりしたものです。

バルセロナ・サグラダファミリア教会

・1828年4月5日、ジラルダン21歳のとき、親友ロトゥール・メズレーとともに発行した週刊新聞「ヴォルール(盗人)」は、その名の通り、他の新聞から剽窃し、盗んできた記事を切り貼りして発行した新聞で、年間購読料22フラン(2万2000円)という安さだったので売れに売れた。

・パリの最新流行ファッションの動向については、地方に潜在読者がいると目論で、1829年10月3日に「ラ・モード」を発行。結局、購読者の多くは、パリの宮廷や社交界の流行に敏感な紳士淑女だったが、予約購読者に作家スタール夫人の胸像のレプリカを抽選でプレゼントするキャンペーンを実施。部数拡販のためだが、恐らく、こうした「懸賞」や「景品」のアイデアは、ジャーナリズムの歴史で、ジラルダンが初めて実行。

・「ラ・モード」の巻末には、当時最高の贅沢品でステイタスシンボルでもあった馬車の絵と製造元の名前と住所を掲載。馬車製造所から掲載料を取るシステムで、これまでどの新聞発行人も試みなかったカタログ販売風の紙面スタイルを採用した。

バルセロナ

・ジラルダンは、既成の新聞や雑誌と差別化するために、才能がある新人作家や画家の発掘に力を注いだ。その代表的な作家がバルザック、ウージェーヌ・シュー、フレデリック・スーリエ、ジョルジュ・サンド。画家はカヴァルニ。

・一転、ジラルダンは「ヴォルール」と「ラ・モード」を売却して1831年10月、実業家や進歩的農民の科学的、経済的知識を深化させることで、彼らを健全な政治的・社会的な判断力を持った人間に育てる目的で「ジュルナル・デ・コネッサンス・ジュティル」(実用知識新聞)を年間予約購読料4フランという超破格価格で発行。(当時の政治新聞は平均80フランだった)その事前宣伝費に6万フランも投入した。創刊1年後、ジラルダンの予想をはるかに超えて発行部数が13万2000部となり、彼は巨万の富を手に。

・この富は散財することはせず、出版業に進出。「フランス年鑑」(生活百科の暦)、「ポケット版フランス地図」、モリエールらの文学選集「文学パンテオン」などを発行した。

バルセロナ

・新聞宣伝キャンペーンとして、街角やメトロなどの壁に広告を貼る手法は、ジラルダンの創案と言われている。

ジラルダンは1836年7月1日に、予約購読料だけでは安定した新聞経営はできないということで、これまでになかった広告収入を重視した「新機軸の」紙面づくりの「ラ・プレス」(創刊巻頭文はヴィクトル・ユゴー)を発行して、これまた成功を収めます。とにかく、19世紀フランスは、毀誉褒貶の多いジラルダン抜きには語れません。その話はまた次回に。

仏マルセイユ、「ここは全てが腐ってる」

昨晩の11月27日、外国人労働者の受け入れを拡大する出入国管理法改正案が、衆院本会議で自民、公明両党と日本維新の会などの賛成多数で可決して、参院に送付されました。

私はこの法案には断固として反対で、賛成した議員には、今後起きかねない末代に渡る日本人の生活と文化への影響と激変、治安に関わる問題について想像力のかけらすらないと思っているのですが、私ごとき人間が何を言っても始まらないでしょう。

パリ

そんな折、日本の近未来を予想させるような記事を昨日読みました。27日付ニューヨーク・タイムズの記事で、タイトルは「ここでは全てが腐ってる」という衝撃なものです。

舞台はフランス南部の港湾都市マルセイユ。何とフランス第2の大都市だそうです(私は浅はかにもリヨンかと思ってました。調べたら、人口ではマルセイユがパリに次ぎ2位。経済力ではリヨンが2位でした)。マルセイユと言えば、私の世代はジーン・ハックマン主演の映画「フレンチ・コレクション」を思い出します。日本では1972年公開なので、還暦過ぎた人でないと知らないかもしれませんね(笑)。ハックマン演じる「ポパイ」ことニューヨーク市警のドイル刑事が、麻薬取引密売の黒幕をマルセイユで追い詰めるといった話でした。活気がある港街でした。

◇市民の4分の1が貧民

そのマルセイユが今、どうなっているかというと、すっかり寂れて、市民の4分の1以上は貧困状態で、住宅、雇用、教育、犯罪等の様々な問題を抱えているというのです。

特に、11月5日に、貧困層が多く住むノアイユ地区で、老朽化した5階建てのアパートが崩壊して、建物の下敷きになった住民が8人も犠牲になり、市当局の安全管理の怠慢を訴えて、大掛かりなデモが行われたことを、先ほどのニューヨーク・タイムズ紙のアダム・ノシテール記者が報じています。

犠牲になった人のほとんどがアフリカからの移民で、学生や塗装工のほか、失業者などでした。

デモ行進する1万人が槍玉にあげているのが、市内の複数の老朽化ビルを放置しているジャン=クロード・ゴーダン市長です。これに対して、ゴーダン市長は「我々が責められるような特別な過失は一つもない」と地元メディアに応えています。

倒壊したアパートの近くのビルの一角で小さな雑貨店を営むバントゥー・シセさんは、いつも店の外で立っています。「だって、このビルだって、いつ倒壊するか分からないじゃないの。怖いわよ。ここは全てが腐ってるわ。もうスラムね」と頭を抱えています。

◇マルセイユは「フランスのデトロイト」

社会学者のミシェル・ペラルディ氏は「マルセイユは、今や、フランスのデトロイトですね」と指摘します。その原因について、アルジェリアやモロッコなど北アフリカからの移民が多いマルセイユは、脱・植民地主義から回復せず、旧式の産業に固執してハイテク産業などを育成してこなかったからではないかと分析しています。失業率は、全仏平均より50%近くも高いと言われてます。

雇用がなければ、貧困に陥り、教育も受けられず、そのまま社会で出ても失業という悪循環が続き、市税収も途絶え、インフラ整備もされず、最悪、犯罪に走る者も続出して、治安の悪化につながります。

いつも、華やかなパリのニュースばかり接していたのですが、これが、先進国フランスの実態だったのですね。知らなかったので、大変な驚きでした。

サウジ記者殺害疑惑はかなり複雑で分かりにくい

スペインアルハンブラ宮殿

いまだ真相が分からず、捜査が現在進行中の事件を茲で扱うのは、多少、気が引けますが、ここ最近、毎日のように報道されているサウジアラビア人記者カショギ氏の殺害疑惑事件は、複雑過ぎて、分からないことが多過ぎます。

事件があったのは10月2日のこと。場所は、トルコ・イスタンブールのサウジ総領事館。カショギ氏は結婚に必要な書類手続きのため、同総領事館に入りましたが、その前に、婚約者を外で待たせ、自分にもしものことがあった場合に備えて、その婚約者に自分の携帯電話を預けます。しかし、同氏は行方不明となり、トルコ政府が公表したことから、欧米メディアで大騒ぎとなりました。「事故だった」とも、「尋問中に工作員が誤って殺した」とも、「いきなり注射されて身体を切断された」とも憶測記事が飛び交っています。恐らく、カショギ氏は殺害されたことでしょうが、今のところ、サウジ側は否定しております。

何故?

10月18日付の読売新聞で、やっとカショギ氏の人となりが分かったのですが、彼は、あの9.11の首謀者と目されていたビンラディンに複数回インタビューしたことがある在米の敏腕ジャーナリストで、最近はサウジのムハンマド皇太子を批判する記事を書いたことから、当局から目を付けられていたといいます。

不敬罪のようなサウジの法律に抵触したのかもしれませんが、気に入らない者は治外法権の場所で密かに抹殺するとしたら、まるでスパイ映画の世界です。現実の世界では、原油価格が変動したり、中東が不安定になったりしていますから、一人のジャーナリストの殺害だけでは済まず、影響力が大きいので、これだけ欧米メディアは騒いでいるのです。

◇◇◇

10月18日付の朝日新聞がAP通信の報道を引用してましたが、米国とサウジとの関係は、一般人の想像を遥かに超えて、驚くほど濃密だったんですね。まず、昨年5月に米国はサウジに対して、約1100億ドル(約12兆3000億円)もの武器売却契約を結んでいたのです。12兆円ですよ!ちなみに、12兆円というのは、スウェーデンの国家予算並みです。

トランプ氏も個人的に、資金繰りに困っていた1991年に、所有していたクルーザーをサウジの王室の王子に2000万ドル(約22億円)で売却し(何と桁違い!)、2001年には、サウジ政府が「トランプ・ワールド・タワー」の45階部分を、施設使用料を含め、1000万ドル(約11億円)で購入したといわれています。半端じゃない関係です。

トランプ大統領が16日のFOXビジネスニュースのインタビューで、サウジに対する制裁について「我が国を傷つけるだけだ。(制裁すれば)サウジは、ロシアや中国から質の悪い兵器を買うだろう」と反対表明したのは、大統領自身の個人的な、こうしたサウジとの濃密関係が背景にあったからなのでしょう。もっとも、本人は「フェイクニュースだ」と否定しておりますが。

遠い昔、日本の池田勇人首相は、フランスのドゴール大統領から「トランジスタ(ラジオの)商人」と揶揄されましたが、現在、世界一の軍事力を持つ覇権国の大統領に対して、「○○商人」とは、誰も怖くて揶揄したりはしないでしょう。総領事館にも行きたくないでしょう。

◇◇

国際問題については、イスラム・シーア派のイランと敵対する米国が、イスラム・スンニー派のサウジと手を組むことは自然の成り行きなのかもしれません。トルコがサウジとの関係が悪化したりすると、そのパワーバランスが崩れ、中東情勢は一層不安定になります。イエメンの内戦も、サウジとイランとの代理戦争だと言われています。昨年、サウジなどから国交断絶されたカタールはイランへの依存を強め、サウジと対立しつつあるトルコもイランに接近するのではないかとも言われてます。

イランは、米国がこの世に存在する前の遥か大昔に、ペルシア帝国と呼ばれる覇権大国でしたからね。

何と言っても、パレスチナ問題が70年も続き、最近では、米国に続き、オーストラリアが、在イスラエル大使館のエルサレム移転を検討すると発表し、問題を深刻化させています。豪州には、ロシアから追放されたユダヤ系の人が多く移民したといわれてますから、政権へのロビー活動も盛んなのでしょう。

シリア内戦には、ロシアと中国も武器輸出で絡んでいるといいます。

トルコ⇒サウジアラビア⇒米国⇒イラン⇒イエメン⇒カタール⇒豪州⇒イスラエル⇒シリア⇒ロシア⇒中国⇒米国と関係各国の思惑が入り乱れて、この先どうなるのか予想がつきませんが、最悪の事態だけは避けてもらいたいものです。

このサウジ記者殺害疑惑について、ほとんどの日本人は興味ないでしょうから、このブログのアクセスも少ないことでしょう。

知らなかったフランス地方行政区改革

村上華岳の名作「夜桜」にも描かれた円山公園の枝垂れ桜 par Kyoraku-sensei

京都にお住まいの京洛先生から、村上華岳の名作「夜桜」にも描かれた円山公園の枝垂れ桜の写真を贈ってくださいましたので、アップいたします。

いつも有難う御座います。

大した魂消たです。

村上華岳の名作「夜桜」にも描かれた円山公園の枝垂れ桜 par Kyoraku-sensei

ところで、これでも私(わたくし、と安倍首相風に)渓流斎は、「フランスの専門家」と誰も言ってくれないので、ただ単に自称しているだけなのですが、つい、2年近く前に三途の川を渡りかけて全くの不勉強だったため、フランスに関して、世の中がすっかり変わっていたことを全く知りませんでした。そのことを、最近になって初めて分かったのです。

人間、やはり、ボヤボヤしていたら、置いていかれますね。(確かに、ボヤボヤしていたことはまぎれもない事実でした)

一体何のことを言っているのかと言いますと、フランスの地方圏の行政区が、2016年1月1日を境に、従来の「22」(海外地域圏は5)から、「18」(海外を含む)に統廃合されていたのです。

日本人なら、パリとかリヨンとかカンヌ程度の地名を知っていれば、もしくは知らなくても、何不自由もなく暮らせて困らないのですが、当のフランス人にとっては、明治維新後の「廃藩置県」にも相当するような革命的なことだったはずです。

そんなことさえ知らなかったんですからね。ボヤボヤしていて、日々のニュースを追っていなかったせいでした。

村上華岳の名作「夜桜」にも描かれた円山公園の枝垂れ桜 par Kyoraku-sensei

どう変わったのかと言いますと、例えば、アルフォンス・ドーデの小説「最後の授業」で有名なアルザス地方とロレーヌ地方は、隣のシャンパーニュ=アルデンヌ地方と統合して「グラン・テスト地域圏」(首府ストラスブール)になっていたのです。

知らなかったなあ…。

よく分かりませんが、あのシャンペンで有名なシャンパーニュもアルザスもロレーヌも少なくとも行政区の名前から消え去ってしまったわけです。

統合された代わりの名前の「グラン・テスト」とは、「偉大なる東」という意味です。何か、胡散臭い名前です(笑)。左派社会党政権でこんな名称を付けるものなんですかねえ?

とにかく、不勉強のため、今の時点で何でこうなったのか経緯もよく分かっておりません。

ただ言えることは、私が昔から使っていたフランス語の辞書や地図がすっかり使い物にならなくなってしまっていたということでした。