残念!「ブラタモリ」終了

 NHKの人気番組「ブラタモリ」が3月末で終わってしまうんですね。とても、残念です。「目から鱗が落ちる」ような話がふんだんに用意されていて、とてもタメになったからです。

 それでも、番組当初はその存在すら知りませんでした。タモリと女子アナとの掛け合いも見どころですが、初代アシスタントの久保田祐佳さんも2代目の首藤奈知子さんも見たことがありませんでした。番組を見始めたのは、3代目の桑子真帆さんからでした。彼女は頭の回転が速く、最初はとまどっていたのに、どんどん知識を吸収して成長していく様が見ものでした。3~4年間担当していたと思っていましたが、2015年4月からわずか1年しか担当していなかったんですね。ブラタモリといえば、桑子ちゃんというイメージが強かったので意外でした。今では、「クローズアップ現代」を担当するなど看板アナです。

 4代目の近江友里恵さんは16年4月から2年間担当しましたが、一番好感が持てる人でした。天然ボケに見せかけて、裏ではかなり勉強していることが分かりました。でも、そういう人に限ってNHKを退局してしまうんですね。18年4月から担当した5代目の林田理沙さんは東京芸大ピアノ科卒という異色のアナウンサーで博士号まで取得しているところが凄い。門外漢の地学や地球物理学には苦手意識丸出しでしたが、彼女も努力家で凄い成長して惜しまれて降板した感じでした。20年から2年間担当した6代目の浅野里香さんは近江アナより天然ボケで肩肘を張らない物おじしない所が良かった。そして22年から担当している現在の7代目の野口葵衣さんは、場違いな感じがしましたが、気が付かないうちに溶け込んでいったところ凄い。

東銀座

「なあんだ、お前は女子アナしか注目しなかったのか」と言われそうなので、弁解しますが、非常に勉強になりました。岩石のチャートなんて、この番組で初めて知りました。タモリは岩石マニアなので何でも知っていて、講師の案内役を驚かせていましたが、事前にかなり情報を仕入れて彼は台本通りに喋っていたと、性格が悪い私は推測してます(笑)。

それに、道を歩いていて、変に蛇行していたり窪んだりしていると、「ははあん、ここは元々は川が流れていて今は暗渠になってるんだなあ」と推理を働かせるようになりました。

番組は事前の下調べから始まって案内役の選定に至るまで、かなりお金をかけていたことがそのスタッフの多さで分かります。あんな番組、一人しか取材に行かない新聞記者では無理だし、民放でも作れません。スタッフが有り余っている天下のNHKだからこそ作れるのです。

 前回放送された「鎌倉」は、もう、種が尽きたかと思ったら、知らないことばかり。特に、極楽寺は、元寇の頃から作られ、西日本がもし元に占領された時を見込んで、興福寺や那智大社や東大寺の大仏まで模して鎌倉に作っていたとは驚きでした。

また、金沢文庫には、国宝が2万点、世界に一つしかない蔵書も何点もあるということで、歴史を後世に伝えた金沢北条氏と称名寺の影に隠れた貢献には感動しました。

もっと北条氏を再評価していいですよね。

高野山に眠る著名大名 信玄・謙信・信長・光秀・三成…

雨飾山(百名山)

仕事の取材とプライベートの旅行で、既に30歳代で、北海道から沖縄まで全国47都道府県の全てを踏破しましたが、まだまだ行っていない所、行ってみたい所は数知れず。日本は結構広いです(笑)。

これまで行ったことがなくて、是非行きたい所の中に、空海が開いた高野山(和歌山県)があります。でも、諸般の事情で今年も行けそうにありません。そしたら、NHKの人気番組「ブラタモリ」で3週連続で特集をやってくれているので、食い入るように見ています。

いやあ、知らなかったことだらけですね。

特に、空海の「御廟」がある奥の院につながる道筋に実に30万基もの墓と供養塔があり、多くの有名人や大名が眠っているという事実には驚かされました。

戦国武将武田信玄と上杉謙信の墓が目と鼻の先にあるかと思えば、織田信長と明智光秀の墓まで側にあるのです。このほか、小田原の北条、仙台の伊達、薩摩の島津、加賀の前田、柳川の立花などの大名家もありました。意外にも関ケ原で敗れた石田三成までここで眠っていたのですね。

かつて、高野山は「追放」や「亡命先」のような側面がありました。有名な史実は、関白豊臣秀次でしょう。秀吉の世継ぎとして一旦は指名されながら、淀君(浅井長政と信長の妹お市との間に生まれた茶々)に実子秀頼が生まれたことから、秀吉に疎まれて、高野山に幽閉され、結局は自腹を切らされます。

この事件がきっかけで、秀吉の信望が厚かった山内一豊(掛川)や田中吉昌(岡崎)ら秀次の御家中衆や仙台の伊達政宗らが秀吉から離れ、彼らが関ケ原では家康側についてしまう原因となってしまいます。

関ケ原後、信州で秀忠軍を食い止めた真田昌幸・信繁(幸村)  親子も高野山に幽閉されましたね。このように、高野山は政治的裏舞台でもあったのです。

で、何で、これだけ多くの墓や供養塔があるのかと言いますと、番組によりますと、お釈迦様が入滅した56億7000万年後、弥勒菩薩の姿で復活され、空海もいわば「通訳」としてこの世に復活するというのです。同時に空海の側に控えている人たちも復活するということで、奥の院にこれだけ多くの墓や供養塔があるというのです。

復活というと、まるで耶蘇教の教えのようですが、戦国大名らは信じたのでしょう。彼らだけでなく、現代でもパナソニックやクボタなどの大企業がお墓か供養塔をつくってましたから、信仰の深さは変わらないということなんでしょう。

有名人のお墓の中には、俳優の鶴田浩二がおりましたが、番組のアシスタントの若い優秀な近江アナウンサーは、鶴田浩二のことを「知らない」と言うのでカルチャーショックを受けましたね。あんな一時代を築いた大物俳優でさえ、忘れ去られてしまうとは!

「街のサンドイッチマン」も知らないことでしょう。

嗚呼、諸行無常

ブラケイリュウ 大宮の巻 昭和9年の不思議

大宮の料亭「含翆楼」跡

NHKの番組「ブラタモリ」を毎週楽しく見てます。知らなかったことばかりで、大変勉強になります。

前回の「名古屋」。本来、尾張(今の愛知県)の中心地は、織田信長も青春時代を送った清須だったのに、徳川家康が名古屋に城を作って、わざわざ清須の町人を地名ごと移住させて街まで作ってしまったという歴史。そして、熱田神宮との関係。凄く勉強になりました。

一昨日は、埼玉県の「大宮」でした。現在JR高崎線、宇都宮線、京浜東北線、埼京線、それに東北新幹線など七つもの路線が走り、東京駅、上野駅に次ぎ全国で第3位のターミナル駅という「鉄道の街」として知られます。が、な、何と、明治に鉄道が開始された当初、大宮に一つも駅がなかったんですね。知りませんでした。

その謎を解き明かす番組でしたので、興味津々で見ました。

私も早速、新幹線に乗って遠路はるばる大宮まで行ってきましたよ(笑)。
「含翆楼」跡地

大宮は、江戸時代、中山道の宿場町として、そして何と言っても武蔵国の一の総本社氷川神社が鎮座する街として賑わっておりました。

しかし、明治になって、当初は鉄道駅がありませんでした。

そこで、地元住民や商工会が一致団結して、駅誘致に奔走し、そのために考えついたのが、今から全く考えられませんが、軽井沢や箱根などのようにリゾート地として開発し、東京から観光客を呼び寄せることでした。

そのために、今の大宮公園、もともとは氷川神社の敷地だったところに料亭街を作ります。

それがきっかけで鉄道駅が漸くできたのです。

東京都心から1時間以内で来られるということで、そこには、森鴎外や正岡子規、夏目漱石、田山花袋ら明治の文豪も多く遊びに来て、大宮にまつわる随筆も数多く発表したので、ますます賑わったそうです。

番組では取り上げられませんでしたが、昭和に入って、太宰治が「人間失格」を執筆したのは大宮でした。

で、大宮まで自家用飛行機で飛んだ私も、今はなき料亭跡を訪ねて写真まで撮ってきたわけです(笑)。

昭和9年4月1日完成の大宮公園球場

せっかく、遠く大宮まで脚を運びましたから、近くを散策しました。料亭跡の間近に、昭和9年4月1日完成の大宮公園球場があり、現在も多くの試合が開催されています。

ここは、球場が完成した同じ年の昭和9年11月29日、日米野球第17戦が行われたところでした。ベーブ・ルース率いる全米チームが圧勝しましたが、後に日本の職業野球界に名を残すスタルヒン投手がプロデビューを果たした球場だと、高札に書かれておりました。

昭和9年とは、あの天皇機関説事件が起きる1年前のことです。

この昭和9年という年号をよく覚えておいてください。

昭和9年11月18日 行幸記念碑(斎藤実内大臣揮毫)

料亭があった大宮公園内には、この写真のように「行幸記念碑」がありました。測ったわけではありませんが、高さは3メートルはあるかと思います。

この記念碑の文字を揮毫したのが、当時の内務大臣斎藤実です。斎藤は、それからわずか2年後の昭和11年の2・26事件で暗殺されるわけですから非常に感慨深いものがあります。

昭和天皇は、例の日米野球が開催される11日前の昭和9年11月18日に大宮に行幸されていたわけです。

当時はまだ高級料亭街は残っていたのかもしれません。高札には、氷川神社にご参拝されたと書かれておりますが、もう一つの神社にもお参りされたかもしれません。

昭和9年4月9日創建の埼玉県護国神社

それが、昭和9年4月9日に設立鎮座された埼玉県招魂社(現在、埼玉県護国神社)です。私も今回初めてお参り致しました。

鳥羽伏見の役以後の国事に殉じた埼玉県関係の英霊5万1000余柱が祀られております。

この沿革を読みますと、昭和9年は、どうやら昭和天皇はこの招魂社にまで行幸されていないようですね。

目と鼻の先なのにどうしたことでしょうか。

いずれにせよ、この大宮公園には不思議にも「昭和9年」があちらこちらにありました。

近現代史探偵の私としては、とても散策し甲斐がありました。