古代史の魅力を再発見=古墳巡りもライフワークになるかもしれません

 近年、戦国時代と江戸幕藩体制にハマっておりましたが、最近ではまた古代史への興味が復活してきました。”罪作り”なのが、週刊朝日ムック12号「古代史の謎を解き明かす!」です。考古学の最新の研究成果が反映されていて、私が中学高校時代に習った古代史とは「飛躍的」に違うので、「ああ おまえはなにをして来たのだ」と中原中也のように呟きたくなります。

 一番大きな成果は、断定してはいけませんが、奈良県桜井市で1971年から本格的な発掘調査が始まり、大宮殿の遺構などが発見された纏向(まきむく)遺跡でしょう。3世紀の弥生時代末期から6世紀の古墳時代前期にかけての遺跡で、ここを邪馬台国の拠点で、同遺跡内の箸墓(はしはか)古墳が卑弥呼の墳墓だったとする学説もありますが、私自身は形勢不利の「邪馬台国=九州説」派なので、そうは取りません。でも、考古学者の間ではほぼ一致している、天皇家につながる大王(おおきみ)の都だったのではないかという説には与します。

 もし、大王の都だとしたら、第15代応神天皇(在位270~310年)か、その前の実在が実証されていない神功皇后(同201~269年)辺りから、第28代宣化天皇(535~539年)辺りが想定されますが、これはあくまでも素人の私の想定です。倭は古代から地方豪族の群雄割拠の時代だったので、纏向遺跡はこれら全国の首都のような王都だったという説もありますが、確かにその可能性の方が高いでしょう。同遺跡では、出雲や吉備で生産された土器なども多数見つかっているそうです。そもそも古墳の前方後円墳も、もともとは吉備から始まったという説があり、言ってみれば、この王宮も奈良県人だけではなかったということなのでしょう。考古学の権威・武光誠氏は「私は吉備から来た移住者が奈良盆地の纏向に王権を開いたと考えている」と書いているほどです。現代人が想像する以上に古代では、今の九州や関東甲信越、東北から大和に集まって来ていたのでしょうし、大陸や半島からの渡来人がかなり多かったとも言われてます。

 この大和の王権は、私の学生時代は「大和朝廷」と習っていましたが、今の教科書では「ヤマト王権」というのが大半だそうですね。奈良県桜井市に大王の都があったということはほぼ確実でしょう。他の本で読んだのですが、その大王(おおきみ)が天皇と呼ばれるようになったのは、第40代天武天皇(在位673~686年)が初めてだと言われています。(他に諸説あり)それでも、天皇を漢字二文字の漢風謚号(かんぷうしごう)の呼称となったのは、それから100年後の8世紀後半で、淡海三船(おおみのみふね)という学者が一括して付けるまでなかったといいます。つまり、例えば第16代仁徳天皇は、大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)、第21代雄略天皇は、大泊瀬幼武尊 (おおはつせわかたけるのみこと)と呼ばれていたわけです。8世紀後半といえば、奈良時代後半か平安遷都の頃です。そんな最近の(笑)時代まで天皇の漢風二文字の呼称がなかったとは全く知りませんでした。

 言わずもがなですが、縄文時代、弥生時代は、日本語があったかもしれませんが、文字はありませんでした。日本で文字が広まったのは、古墳時代の第15代応神天皇(在位270~310年)が百済王に対して、中国の学問に通じた漢文が使いこなせる学者の招聘を要請し、これに応じて王仁が来日して以来だと言われています。となると、文字がなかった縄文、弥生時代は、遺跡から発掘された土器や装飾品や祭祀品や武器などからその生活や精神性や風習を想像するしかありません。が、縄文土器や土偶などを見ても、彼らはかなり知的水準が高く、巧みな職人技を持ち、現代人と全く遜色ない精神性を持っていたことが伺われます。知識はなくても知能は高かったということです。(縄文人の脳の容量は現代人より多かったそうです。威張っている現代人は、ろくでもない下らない知識しか脳に詰め込んでいないのかもしれませんよ)

 先日、NHKテレビの「英雄たちの選択」という番組で、「古代人のこころを発掘せよ!」を特集しておりましたが、縄文人、弥生人、古墳の魅力を十分に伝えてくれました。特に、北九州にある古墳の玄室が実物大で復元している博物館があり、天井には星座が散りばめられ、壁面には三角や渦巻の抽象的な幾何学模様がぎっしり描かれていました。こうした煌びやかな不可思議な模様は近畿地方の古墳には見られず、九州だけだと番組では言っていましたが、天皇陵は学術調査さえ禁止されているので、もしかしたら、あのような模様が描かれた玄室が近畿でも発掘されるんじゃないかと私なんか思ってしまいました。

保渡田古墳群 Copyright par O,T

 私は関東地方に住んでいるので、番組に出てきた群馬県高崎市にある保渡田古墳群(5世紀後半から6世紀にかけて築造)に行ってみたくなりました。実に見事な前方後円墳です。UFOに乗った宇宙人が空から全景を見たら腰を抜かすかもしれません。そんなこんなで色々調べていたら、「古墳マップ」という素晴らしいサイトが見つかりました。どなたがお作りになったサイトか分かりませんが、精緻、詳細を極めて、全国の古墳をカバーしています。これで関東地方を検索してみたら、意外にも私の自宅近くと言えば近い距離に古代の古墳があるというので吃驚してしまいました。古墳といえば、九州と近畿が中心かと思ったら、関東にもかなり多くの古墳が点在しています。地方豪族社会だったという証明なのかもしれません。

 何しろ、全国には大小合わせて15万基もの古代古墳があると言われてますから、その多さに、これまた驚きです。お城(跡)やコンビニよりもあるんじゃないでしょうか?こうなったら、ライフワークの「全国城巡り」に、「全国古墳巡り」も趣味として加えようかなあ、と思った次第です。

【参照】

サイト:「歴代天皇データ

【追記】

 倉本一宏国際日本文化研究センター教授によると、ヤマト王権(継体天皇)に対抗し、新羅と結びついて磐井の乱を起こした筑紫磐井(今の福岡県八女市、久留米市などを支配し、岩戸山古墳が磐井の墓だと言われてます)は、若年期に上番(じょうばん)に就いた可能性が高いといいます。上番というのは、上京して当番勤務に就くことで、九州の八女市から奈良県にまで上京して、警護勤務か文書管理勤務か分かりませんが、何かの当番勤務に就いていたことになります。まるで江戸時代の参勤交代みたいじゃありませんか(笑)。古代のヤマト王権も、地方豪族を上京させて人身を管理したり、その勢力を削いだりしていたということなのでしょうね。

鹿島神宮は中臣氏の氏神さまだった…

昨晩は、珍しく痛飲してしまい二日酔いです。。。

この《渓流斎日乗》のサイトの技術と運営面でお世話になっているIT実業家の松長会長と一献傾けたところ、あまりにも美味しい料理とお酒に恵まれて、ついメートルがあがってしまいました(笑)。

松長会長は、私よりちょうど一回り若い海城高校の後輩ですが、彼より1年後輩の坂元さんという方がやっている湯島の純酒肴「吟」に連れて行ってもらったところ、驚くほど美味!

この話は一番最後に回すとして、まず、昨晩、松長会長の神保町の会社を訪れたお話から。

◇おねだりしません!

皆様、既にお気づきのことと存じますが、今年1月からこの《渓流斎日乗》のサイトに鬱陶しい(笑)広告が掲載されるようになりました。正直申しますと、魂胆が御座いまして、この広告を皆さんがクリックして頂くと収益になるわけです。高望みはしてません。せめて、サイトのサーバーやドメイン維持料金の肩代わりをしてくれれば、という切ない希望的観測で始めたのでした。

その結果を教えてもらうため、足を運んだのですが、何と、1カ月の収益が、約170円だったということが分かりました。えーーーー!!!これでは何の足しにもなりませんねえ(笑)。アクセス数が少ないからしょうがないのですが、広告までクリックしてくださる方は、アクセス数の1%、つまり、100人に1人だということも分かりました。

何も、皆様に広告をクリックしてほしい、とおねだりしているわけではありませんよ(笑)。何しろ、頻繁にクリックされると、「不自然なクリック」としてマイナスになってしまうのです。また、私自身がクリックすると、どんなに機種を変えてもGPSかなんかで分かってしまい、「違反」になり、これもマイナスになります。

この話はこれぐらいにします。

純酒肴「吟」にて

◇古代史の謎を解明

松長会長はITに詳しいだけでなく、古代史と神社仏閣の縁起に異様に詳しいのでした。

たまたま、「埼玉風土記」の話になると、もう散逸して今は残っていないというのです。知りませんでしたね。現存している写本はたったの五つで、「出雲国風土記」がほぼ完本、「播磨国風土記」、「肥前国風土記」、「常陸国風土記」、「豊後国風土記」が一部欠損して残っているだけだというのです。

そして、常陸国の風土記が残ったのには理由があり、中臣氏の領地だったからだというのです。中臣氏とは、中大兄皇子とともに乙巳の変の革命を行い、大化の改新を遂げた、あの中臣氏です。中臣鎌足は、藤原鎌足と改名し、藤原氏は、摂関政治の黄金時代を築いて、現在でも血脈が続いているので、常陸国の風土記も現代まで残ったといわけです。

その証拠は、中臣氏の氏神が常陸国の鹿島神宮であり、この祭神を大和に移送して祀ったのが春日大社だというのです。神の使いといわれる鹿も一緒です。確かに、春日大社の「御由緒」の中には、記紀に出てくる出雲の国譲りの物語で成就された武甕槌命(タケミカヅチノミコト)を鹿島神宮からお迎えしたと書いてありますね。中臣氏の氏神とも書いてありますから、結局、鹿島神宮は、中臣氏の氏神を祀った神社だったわけです。

そして、鹿島神宮の「神宮」は、そう滅多に名乗ることができないというのです。明治以前は、天皇家直系の伊勢神宮と、この鹿島神宮と、同じく国譲りの神話に出てくる経津主大神(ふつぬしのおおかみ)を祀った香取神宮(下総)しかありませんでした。明治以降になって、熱田神宮(三種の神器の一つ、草薙神剣が収められている)や明治神宮などがあるぐらいで、社格が段違いに凄いのです。

◇武蔵国の首都は鴻巣市だった!

さて、次は古代の武蔵国の話です。風土記が散逸してしまったので、詳細は分かりませんが、武蔵国の中心は、何と今の埼玉県鴻巣市笠原だったというのです。この地名に残る笠原とは、西暦534年頃に起きた「武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)の乱」で、大和朝廷(今は「ヤマト王権」というらしい)の力を借りて、武蔵国を統一し、この辺りを拠点にした笠原直使主(かさはらのあたいおみ)から付けられたと言われてます。

おまけの話として、古代の地名の上野(こうずけ)国(群馬県)と下野(しもつけ)国(栃木県)はもともと、一つの国で「野」(け)と言われていたそうです。ヤマト王権は全国統一に当たって地元豪族を国造に任命したりしますが、その代わりに屯倉(みやけ)といって直轄地を寄進させます。年貢米の収穫が目的です。

こうして、お米の生産が上がっていくと、人口も増えていきます。そうなると、上野国、下野国のように、国を分割するわけです。「総(ふさ)」の国だったのが、「上総(かずさ)」(千葉県中部)と「下総(しもふさ)」(千葉、茨城、埼玉、東京)に。「備」の国は「備前」(岡山、兵庫、香川)「備中」(岡山県西部)「備後」(広島)に分かれるわけです。

湯島の純酒肴「吟」にて

◇京都の銘酒「まつもと」にはKOされました

そうそう、最後に純酒肴「吟」の話をしなければなりませんね。JR御徒町駅と地下鉄湯島駅の中間辺りのちょっと奥まったビルの2階にあります。15人も入れば満員になるお店です。居酒屋というより、酒肴という代名詞が雰囲気に合ってます。亭主の坂元さんは、30歳過ぎてから日本料理店で修行して、この店を出したという苦労人でした。

刺身を料理ではないと思っている人がいるかもしれませんが、立派な日本料理です。しめ鯖もカツオも旨いこと、旨いこと。

置いているお酒の銘柄は、まったく初めて聞くものばかりで、最初に味わった京都の銘酒「まつもと」は、これまで呑んだ日本酒のベスト5に入るくらい、クセがなく上品なスッキリとした味わいで、驚いてしまいました。