真渓涙骨

 根津神社

 

ブログは、毎日書き続けていくことは、時にシンドイものがあります。見知らぬ不特定多数の人に向かって書くことは、勇気がいることですし、あまり、裏道の話も書けませんし、困ってしまう日もあります。

そこで、今日は、博覧強記の碩学、調布の先生から頂いたメールを勝手に許諾を得ずに紹介します。

調布先生は「真渓涙骨という人を知っていますか?旧・新宗教界に影響を与えた熱烈信奉者がいる破天荒な人物です。色々調べると面白いですよ」と言うのです。

もちろん、私は知りませんでした。さすが、調布先生です。第一、何とお読みするのかさえ分かりませんでした。

「またに・るいこつ」と読むようです。

簡単にプロフィールを紹介すると、彼は1869(明治2)年、福井県に生まれ、1885(明治18)年、龍谷大学の前身である普通教校に学び、博多の浄土真宗本願寺派万行寺で得度し、1897(明治30)年、あらゆる宗派を超えた宗教専門新聞「教学報知」を28歳の時に創刊します。1902(明治35)年には紙名を「中外日報」と改題し、1956(昭和31)年に87歳で亡くなるまでの60年間、宗教界全般にわたってご意見番として健筆を振るった人だったのです。

「中外日報」は、今年創刊110年周年を迎えた日本で最も古い宗教専門紙のようですが、私は、不明を恥じつつ、一度も見たことも読んだことがありません。調布先生によると、若き司馬遼太郎が、産経新聞京都支局時代に、晩年の涙骨に知遇を得たようです。

どれだけ、破天荒な人物だったのか、まだ、よく分かりませんが、その方面の世界では、知らない人はいないようです。詳しい方は、どうかコメントしてください。

「中村屋のボース」で大仏次郎論壇賞を受賞した中島岳志氏も「中外日報」にインタビューを受けて、「大変光栄だった」とブログに書いています。ボースが、1920年代から30年代にかけて、「中外日報」の「特別寄稿家」だったようです。