蔽之館~陸軍中野学校跡巡り

昨日は、梅雨明けの暑い最中、インテリジェンス研究所主催のツアーに参加してきました。34人も参加しました。

JR総武線東中野駅集合で、東中野には本当に久しぶりに行きましたが、西口はすっかり変わっていて、地下鉄大江戸線ともつながっていて、別世界のようでした。

東中野「ジャスミン」中華定食B 670円

ここから歩いて、7~8分ぐらいの所、総武線・中央線路沿いの住宅街のど真ん中に「蔽之館(へいしかん)」跡がありました。地下架線路を挟んだ真向かいに名門明大中野高校の校舎が見えました。今は、まだ入居されていない新築住宅が数件建っており、道を通る人が「こんな所に一体何があるの?」と我々を不思議な表情で眺めながら通り過ぎておりました(笑)。

ここは、昭和16年12月の真珠湾攻撃の直前、日系米国人2世の俊英が密かに外務省によって日本に呼び寄せられて、VOA(ヴォイス・オブ・アメリカ)や中波など対日ラヂオ放送などを傍受して、翻訳してインテリジェンス活動をしたところだったというのです。

1939年12月1日の第1期生から45年4月1日の第5期生まで数十人の卒業者を輩出し、名簿では、彼らの出身地である桑港(サンフランシスコ)、羅府(ロサンゼルス)、晩香坡(加奈陀=カナダ=バンクーバー)などと明記されています。

上記写真は、その蔽之館前で撮影されたもので、山本武利インテリジェンス研究所理事長(早稲田大学名誉教授)の話によると、これは、日系2世の坂本勢一という人の出征記念写真だというのです。日系2世は、日米二重国籍ですが、20歳を過ぎたらどちらかを選べるらしく、この坂本さんという人は日本国籍を選び、一等兵として出征し、満州ハルビン関東軍の諜報部に配属されたといいます。

彼は、ソ連軍侵攻で捕虜としてシベリア抑留されましたが、昭和25年に帰国したようです。その後、彼はどうなったか説明がありませんでしたが、蔽之館は戦後、どういうわけか、GHQの認可を受けて、外務省ラジオ室から「ラジオプレス」に転身します。

ラジオプレスは、今でも北朝鮮を始め、世界各国のラジオ放送などを傍受してニュースを配信しております。【RP=東京】などのクレジットがあれば、それはラジオプレスのニュースだということになります。

実は、このラジオプレスは、私は子どもの時から大変馴染みのある組織でした。亡父が一時期働いていたからです。当時、1960年代半ば頃は、東京・新宿区河田町のフジテレビ内にあったらしく、このテレビ局内の食堂で、当時人気絶頂だったクレージーキャッツの面々が近くで食事をしていたといった他愛のない話を聞いたこともありました。(そんな話を聞いて育ったため、将来、マスコミで働きたいと思ったのかもしれません=笑)

東中野の蔽之館の後、電車で1駅の中野まで行き、陸軍中野学校跡などを見学しました。

そのあまりにも敷地の広大さに驚いてしまいました。JR中野駅からほんの目と鼻の先の超一等地ですよ。中野サンプラザの西隣りは中野区役所になっていて、道路を挟んだ西隣りに中野税務署があり、その奥に広大な「中野四季の森公園」が広がっていましたが、ここに中野学校を始めとした陸軍関係の施設があったというのです。

今の平和の時代、家族連れがバーベキューを楽しむ公園になっていましたが、ここが中野学校だったのかと思うと感無量でした。

陸軍中野学校跡の碑

ちなみに、江戸時代は、あの五代将軍綱吉が発した生類憐みの令によって、犬の保護施設が作られた所だったというのです。また、戦後には警察庁警察学校がつくられ、今では学校は移転しましたが、警察学校の付属病院だけが残っています。

また、中野区の戦略らしいのですが、この広大な公園の西隣りに大学の出先機関を誘致し、早稲田大学のほか、明治大学や平成帝京大学などが超高層ビルを構えていました。

ツアー後の講演会は、この早稲田大学中野国際コミュニティプラザで行われましたが、ここは、講義室のほか、主に留学生の滞在宿舎として利用されているということでした。

講演会では(1)村上勝彦東京経済大学名誉教授「明治前期の陸軍参謀本部のインテリジェンス活動ー主に中国、朝鮮での活動と地図作成」(2)山本武利理事長「蔽之館の開校とラジオ傍受活動」(3)岸俊光毎日新聞オピニオングループ部長「内閣調査室の知識人人脈」-の3碩学が登壇され、いずれも興味があるので大変面白かったです。

(1)の村上先生のお話は、「参謀本部歴史草案」(防衛研修戦史室所蔵)を軸に、明治新政府になって、日本が如何に参謀組織を築きあげていったのか、その変遷がよく分かりました。日清・日露戦争の前に、偵察将校と言われる人たちが中国、朝鮮に渡り、密かに地図を製作していたということですが、それは基本中の基本で、地図がなければ戦えませんからね。武市熊吉(土佐・1840~74)、益満邦介(薩摩・1849~99)、酒匂景信(日向・1850~91、好太王碑文改ざんか?)、荒尾義行(精)(尾張・1859~96)といった情報将校の名前を初めて聞きました。これから自分でも調べてみたいと思います。

(2)の山本先生のお話の中で、鳥居英晴著「日本陸軍の通信諜報戦ー北多摩通信所の傍受者たち」(けやき出版、2011年)を引用し、北多摩陸軍通信所は陸軍の傍受機関で、東京都東久留米市にあったという話を聞いて、腰を抜かすほど驚いてしまいました。なぜなら、東久留米は私が少年から青年時代にかけて20年間も住んだ所であり、鳥居氏の本を読まないと確認できませんが、恐らく、この北多摩陸軍通信所の跡地に建設されたであろう運輸省航空交通管制本部(現在、埼玉県所沢市に移転)に亡父が長らく勤務していたからです。

(3)の岸先生のお話は内閣調査室の略史でした。現在進行形の企画もあるので、このブログで詳細には触れられませんが、ジャーナリスト吉原公一郎という人が、内閣調査室の内部文書を入手して、1963年に「小説 日本列島」を発表し、松本清張も、吉原氏から内部文書を入手して「深層海流」を発表し、65年には熊井啓監督により映画「日本列島」が製作され話題を呼んだという話は大変興味深かったです。

この吉原さんというジャーナリストは、どこかの新聞社出身かと思ったら、石川達三の小説「金環食」でもモデルになった高利金融業者森脇将光がやっていた森脇出版が発行する「週刊スリラー」にいた人だというので、驚きました。

「金環食」は山本薩夫監督により映画化(1975年)され、森脇将光をモデルにした石原参吉役を宇野重吉が演じてましたが、あまりにも強烈な演技力に圧倒され、いつまでも忘れることができませんでした。久しぶりに森脇の名前を聞いて小躍りしてしまいました(笑)。

【書評】山本武利著「陸軍中野学校」

先週、山本武利著「陸軍中野学校『秘密工作員』養成機関の実像」(筑摩選書)を読了しまして、2、3点疑問に感じたことがあり、先日、見学ツアーでお世話になったNPO法人インテリジェンス研究所の事務局長さんに問い合わせたところ、そのメールが著者の山本武利早大名誉教授に回って、山本氏から直々に「御返事」があり、吃驚してしまいました。

実はちょっと「物足りなかった」と正直な感想を書こうと思ったのですが、山本先生から「お書きになったブログをお送り下さい」と逆に依頼されてしまい、それは困った。どうせ、誰も読むことはないだろうと安心していたからです(苦笑)。しかし、「世界最強の忖度メディア」を自称しておりますから、あまりきついことが書けなくなってしまいました。いや、これは半分冗談です。

◇朝日新聞の中国侵略 大陸新報

小生が山本氏のお名前を知ったのは2011年2月に初版が出た「朝日新聞の中国侵略」(文藝春秋)という刺激的なタイトルの本をたまたま東京・新宿の紀伊国屋書店で見つけ、その内容に大変感服してしまい、いつか謦咳に接したい先生だなあと思っておりました。(その後、一度名刺だけ交換させて頂きました)

この本は、良心的な朝日新聞が、昭和14年に中国市場の制覇を目論んで、上海で「大陸新報」という日本語新聞を帝国陸軍や満洲浪人らと手を組んで発行し、戦後は、その歴史的事実を朝日新聞がひた隠しにしたことから、山本教授が半世紀に渡る専門のメディア研究から史実を掘り起こした労作でした。

私自身は、この本で初めて「大陸新報」の存在を知りましたが、皆様ご存知の京洛先生が若かりし頃に勤めていた新聞社の先輩にこの大陸新報出身の方がいらしたという話を聞いた時は驚きましたね。

箱根山・陸軍戸山学校趾(本書に出てくる《山》もこの辺り)

で、山本氏の「陸軍中野学校」について、ですが、私が何故、最初に「物足りなかった」と生意気、傲岸不遜な感想を述べたかといいますと、これでも小生は、近現代史関係の読み物を少し読んでいるとはいえ、小生如き知的レベルの人間でも知っていることがこの本には書かれておらず、「もっと逸話的な話を盛り込めば、読者は興味を掻き立てられてるはずなのに」と僭越にも思ってしまったわけです。

◇岩畔豪雄と秋草俊

例えば、陸軍中野学校の基礎を作った岩畔豪雄(いわくろ・ひでお)と秋草俊という2人の人物のことです。岩畔については、戦後生き延びて、京都産業大学の創立者の1人になったこと。この京都産業大学教授に招聘された若泉敬教授が、佐藤栄作首相(当時)の密使として沖縄返還協議に加わっていた関係にも踏み込んでほしかったですね。

もう1人の秋草については、私も、この《渓流斎日乗》の今年2月6日に取り上げた斎藤充功著「日本のスパイ王陸軍中野学校の創立者・秋草俊少将の真実」で触れましたが、あの本は、エピソードが満載で(例えば、秋草の親戚には日本電電公社総裁や富士通社長、日興證券社長らがいる華麗なる一族だったことなど)、初めて秋草俊という人物像が立体的に浮かび上がり、寝食を忘れるほどあの本には没頭したものでした。

とはいえ、私の「勘違い」は、山本先生の御著書は、あくまでも歴史家の書く学術書だということでした。あまり、脇道逸れたこと(逸話)を書くことはアカデミズムでは邪道なんでしょうね。(それに、庶民はどうも、中野学校に関しては市川雷蔵主演の映画のような派手な活劇を求めてしまいます)

ですから、斎藤氏の著作では、シベリアに抑留された秋草俊はウラジーミル監獄で「獄死」したことになっておりましたが、(ソ連の公式通知)山本氏は、発掘した公文書の秋草俊のところに「受刑」と書かれていたことから、「秋草の死の公表の遅れは彼が病死ではなく、ソ連が追及してやまない対ソインテリジェンス工作の現場の総指揮官を秘密裏に処刑つまり冷酷に死刑に処した事実を隠していたことを示唆している」と歴史家の冷静な目で分析しております。

◇陸軍中野学校の研究書の決定版

山本氏は、中野学校が、1938年4月の防諜研究所〜1939年5月の後方勤務要員養成所〜1940年8月の陸軍中野学校と名称が変遷したことを突き止め、その歴史はわずか7年間で、養成要員は2000人余りだったことを明らかにし、その要員の一部の行方を詳細に追っています。

特に、昨年101歳で亡くなった第1期生の牧澤義夫氏には生前、インタビューを重ね、彼から借りた貴重な写真も同書には掲載されています。

中野学校は秘密機関ですから、陸軍内でもその存在を知っている者はわずかで、生徒は軍服を着ないで、背広や私服を着ていたことなど私が初めて知ることが多く書かれています。陸軍中野学校についてはこれまで実に多くの関連書が出版されていますが、恐らく、今の時点で中野学校に関する研究書の決定版と言っても間違いないことでしょう。

それだけに、版を重ねた際には、見学ツアー後の講演会で指摘された「ポツダム昇進組」(264ページ)と、私も指摘させて頂いた「小校鈴木」(227ページ)の誤記は直してもらいたいものです。(ポツダム昇進組の記述に関しては、戦中の昭和19年に少佐に昇進している卒業生がいるので間違い。小校は少校=満洲軍で、日本の少佐に当たる=の誤記)

第1期生の越巻勝治氏が、後半、何の断りもなく、急に「越村」となって登場し、「誤記かな」と思ったら、終わりの索引の中でだけ「越巻(越村)勝治」となっており、「なるほど、越村とは変名だったのか」と後で分かりました。また、同じ第1期生の久保田一郎氏は、日下部一郎氏と同一人物だったでしょうか。本文中に注記してもらいたいものです。

いずれにせよ、小生の細かい質問にも御丁寧にお答え頂いた山本先生には大変感謝しております。

 

東京・西早稲田の戸山〜諜報研究会第一回見学ツアー

東京・西早稲田の穴八幡宮

昨日は、晴天に恵まれ、小春日和の中、インテリジェンス研究所主催の見学ツアーに参加して来ました。

東京都新宿区西早稲田の早稲田大学近くにある戸山は、戦前、陸軍の機密軍用地で、一般人どころか、軍人でも許可を得なければ足を踏み入れることができない場所で、731細菌部隊で有名になった石井四郎が教官を務めた陸軍軍医学校や、石井が亡くなった東京第一陸軍病院や、諜報部員も養成したであろう陸軍戸山学校などもあり、大変見がいのある充実したツアーでした。

穴八幡宮(集合時間にかなり早めに着いたの集合場所近くの穴八幡宮を参拝しました)

とにかく、山手線の内側の都心地区にこれだけ広大な森や公園(都立戸山公園)があるとは知りませんでした。

まあ、今や閑静な住宅街になっておりました。

国立感染症研究所(陸軍軍医学校跡)

最初に訪れた国立感染症研究所は、かつて陸軍軍医学校があった所です。1929年に麹町(現東京逓信病院)から移転してきました。

陸軍軍医学校(現国立感染症研究所)行幸記念碑

移転した年に、昭和天皇が行幸し、今でも、その記念碑を見ることができます。

この軍医学校で、後に731部隊を率いる石井四郎が教官を務めていました。

1989年には、ここで大量の人骨が発見され、慰霊祭が行われたようです。

人骨は、1890〜1940年頃のもので100体以上。戦死したものとみられる損傷した骸骨などもあったそうで、石井部隊との関連性(つまり人体実験など)も疑われましたが、依然として憶測の域を出ず、真相不明のようです。

国立国際医療研究センター(東京第一陸軍病院跡)

続いて訪れたのが国立国際医療研究センターで、ここは、かつて東京第一陸軍病院があった所。やはり、1929年に千代田区隼町にあった陸軍本病院が移転してきたという話です。

現病院の資料室には、陸軍軍医学校の校長を務めた森鴎外の執務机が保存、展示されているそうですが、今回は週末ということで見られませんでした。

戦後の昭和34年に、この病院の近くに自宅があった石井四郎がこの病院で亡くなっています。享年67。

箱根山(尾張徳川家下屋敷跡⇨陸軍戸山学校・防疫研究室・軍楽隊野外音楽堂跡)

この後、都立戸山公園内にある箱根山を訪れました。江戸時代は、尾張徳川家下屋敷だった所で、殿様の所望で、屋敷内の庭園にわざわざ土を運んで箱根に見立てた山を作ったそうです。今でも、この山は山手線内で一番標高が高いそうですよ。

箱根山と呼ばれるようになったのは、陸軍の軍用地になってからで、戦時中は、ここに陸軍戸山学校や防疫研究室、軍楽隊野外音楽堂が建てられたということです。

見学ツアーが終わってから、近くの早稲田大学に行き、早大名誉教授の山本武利氏の新刊「陸軍中野学校」(筑摩選書)を巡る書評会のようなものが開催されました。

私は、この本を会場で買ってまだ読んでいなかったので、内容について行けず、少し残念でしたが、大変興味深い話のオンパレードでした。(本については、いつか感想を書くつもりです)

この中で、元共同通信論説副委員長の春名幹男氏が、中野学校の教官に意外な人物がいたことを挙げていました。例えば、明治の元勲西郷隆盛の実弟で海相などを務めた西郷従道の孫従吾や、トルコ事情は、元NHKのキャスター磯村尚徳氏の父磯村武亮(最終階級陸軍中将)、フランス事情は作曲家の山田耕筰、他に衆院議員宇都宮徳馬の実父太郎(最終陸軍大将)らもいたそうです。

「陸軍中野学校」の著者山本氏は、公文書を渉猟して、この機密諜報機関が1938年設立の防諜研究所に遡ることを突き止め、この研究所は翌39年に後方勤務要員養成所と変わり、さらに翌40年に陸軍中野学校に名称を変更しますが、日本の敗戦で、わずか7年間しか存続しなかったことも明らかにし、重要人物として、プランナーが石井四郎と岩畔豪雄と秋草俊の3人、実践者として石井四郎、村上隆、香川義雄、飯島良雄の4人を挙げていました。

特に、村上隆は、石井四郎の片腕として最重要人物ながら、あまり詳細についてはよく分かっていないらしいのですが、関東軍参謀長も務めシベリアに抑留された秦彦三郎の回顧録「苦難に堪えて」の中で、ソ連が最も敵愾心を持った3人として、関東軍情報部長土居明夫と石井四郎、それに村上隆を挙げていたことを明らかにして、「歴史家として、彼についての追跡は不可欠です」と発言してました。

早く、山本氏の著作を読みたくなりました。