井上馨はそれほど清廉潔白だったのか?

 鹿島茂著「渋沢栄一Ⅰ 算盤篇」(文藝春秋)を読了しまして、目下、続編の「渋沢栄一Ⅱ 論語篇」を読んでいるところです。

 渋沢栄一という超人がいなければ、明治の新国家が成立しなかったということが良く分かり、圧巻でした。が、一つだけ、天下無敵、博覧強記の著者鹿島茂教授の瑕疵めいたところが気になりました。鹿島教授の書くものは、完全無比の完璧かと思い込んでいましたが、粗を探せばあるもんですね(笑)。

 渋沢栄一の評伝ですから、「渋沢栄一伝記資料集」や「青淵百話」などから引用されていますが、ちょっと、あまりにも渋沢栄一に肩入れし過ぎて、「渋沢史観」的な読み物になっている嫌いがあるのです。

 幕末に万博視察などの名目でフランス滞在中だった渋沢は、幕府が瓦解ししため、仕方なく志半ばで帰朝します。渋沢は、最後の将軍徳川慶喜の家臣でしたが、しばらく慶喜が蟄居していた静岡藩で殖産興業に励みますが、半ば強制的に新政府の大蔵省に仕官します。明治2年から6年までの4年間です。その間、廃藩置県という一大事業があり、各藩の租税状況を調査したり、藩札と引き換えに公債証書を発行したり、これまでの「両・分・朱」だった貨幣単位を「円・銭・厘」の十進法に切り替えたり、さまざまな経済政策を八面六臂の活躍で実行します。これは、フランスで見聞したサン=シモン思想と銀行や株式会社のシステムに精通した渋沢しかできない大事業でした。

 そもそも、bankに「銀行」という訳語を定めたのも渋沢だったといいます。それまでは、「金行」や「銀舗」などさまざまな訳語が氾濫していたのを統一したのです。「銀行」は逆輸出されて、今でも漢字の本場の中国や台湾でもそのまま使われていることから、渋沢の偉大さが分かります。

 さて、渋沢は、明治6年に大蔵省を退官します。そのお蔭で、民間人としてさまざまな企業を起こすことになりますが、退官の理由については、本書では、大蔵卿(今の財務大臣)の井上馨が退官するため、大蔵大輔(次官)である自分も大蔵省に留まるわけにはいかないから、と書かれています。そこまではいいんですが、井上馨が辞任する理由が、「入るを計って出るを為す」という大蔵省の原則に江藤新平の司法省が反対し、前大蔵卿だった大隈重信参議も意見を聞き入れなかったため、としか書かれていません。

 これでは、渋沢の回想録に沿って、江藤新平が一方的に悪者だった印象を受ける書き方ですが、この時、井上馨は、秋田県の尾去沢鉱山払い下げ事件で、私腹を肥やしたのではないかという疑惑を司法省の江藤新平に追及されて嫌気がさしたともいわれます。そもそも、井上にしろ、山縣有朋にしろ、伊藤博文にしろ、長州の下級武士あがりの明治の元勲は豪邸と別荘(長者荘、椿山荘や無燐庵など)を構え、多くの妾を抱えていたといいますから(その財源はどこから調達したのでしょうか?)、井上馨が清廉潔白で、大蔵省の原則を守るためだけに退官したような表現は、誤解を招くと思ったわけです。

 博覧強記の鹿島教授ですから、当然、尾去沢事件は知っていたはずです。あえて書かなかったと推測されます。(退官したはずの井上馨は何の断りもなく、次々章で、いつのまにか。外務卿として登場するので、明治史に詳しくない人はあれっと思ってしまいます)

 気になったのはそれだけです。大隈重信と三菱(岩崎弥太郎)との癒着、それに対する井上馨と三井との癒着など、政変になると御用商人が暗躍する様が描かれる辺りは興味深かったでしたが。

  あと、「渋沢栄一Ⅰ 算盤篇」 で面白かった逸話は、サド侯爵などフランス文学者の澁澤龍彦が、本家渋沢栄一の分家である渋沢宗助の末裔だったということです。

 もう一つ、水戸学は、尊王攘夷の過激な国粋思想だったことを前回にも書きましたが、そのお蔭で、水戸藩内では、仏教寺院は異教だと排斥されたといいます。道理で、水戸に行っても神社は多くありましたが、名刹と呼ばれる仏教寺院が少なかったはずでした。

 また、水戸学の過激思想のため、内紛やら幕府側からの弾圧(安政の大獄など)やらで、多く優秀な人材が、明治になったら、いなくなってしまったといいます。そのため、「薩摩警部に水戸巡査」という逸話が残ったそうです。