真理に目覚めた仏陀=仏像の世界は大変奥が深い話

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

一昨日から松濤弘道著「日本の仏様を知る事典」(日本文芸社、1988年4月30日初版)を読んでおりますが、教えられることが多く、大変勉強になります。

 ちょっと古い本ですが、会社の資料室にあったのを見つけ、自分用として読みたかったので、ネットで購入したのでした。「自分用」というのは、著者には大変申し訳ないのですが、本文に赤線を引いたり、書き込みしたりしてしまうことです。それほど格闘しながら読ませて頂いている、ということでお許し願いたいところです。

 著者の松濤弘道(まつなみ・こうどう)氏は1933年、栃木県生まれで、大正大学から米ハーバード大学大学院で修士号を取得され、栃木市の浄土宗近龍寺の住職などを務めておられましたが、2010年に77歳でお浄土へ往生されたようです。

近龍寺のHPによると、松濤氏には、日本語で55冊、英語で30冊、他にも中国語、フランス語、ポルトガル語等、多数の著作があったそうです。また、近龍寺には、栃木出身の作家山本有三のお墓があるらしく、私も昔、「路傍の石」や「真実一路」など愛読させて頂きましたので、いつか、この寺を訪れたいと思います。

  「日本の仏様を知る事典」は、特に、「如来」「菩薩」「明王」「天」など階級別に仏像について詳しく書かれていますが、仏教とは何か、といった基本的なことにも折に触れて解説してくれます。

 多くの人が誤解しているようですが、仏教とは、キリスト教などと違って、絶対的な神を信仰する宗教ではなく、修行によって自分自身も、真理に目覚める仏陀(覚者)になることを目指すことでした。松濤氏によると、仏陀とは、宇宙を創造した神でもなく、人間を裁く審判神でもなく、超越的な権力や力を備えた至上神ではない、といいます。

 仏教とは、釈迦という一人の人間が、説いた教えです。(王子の身分でありながら、妻子も捨てて29歳で出家し、6年間の修行の末、仏陀となり、80歳で入滅)釈迦が悟ったことは、すべての生物は自己の存在や自我意識に執着し、無明(執着の根源)から他者を差別し、他者の犠牲のもとに生き延びている、ということでした。そこで、釈迦は、他人を害することなしに生存するには、各自の特異性を認め、生命の同一存在(一如=いちにょ)を追体験することだと考えたといいます。もし、一如の生活に則れば、他者と喜びを分かち合い、他者の苦しみはわが苦しみとして受け入れ、人の幸せも自分の幸せとして感じ、気づくことができるだろう、といいます。

 このように、釈迦が悟ったことを簡略して、大きく二つだとすると、「智慧」と「慈悲」がそれに当たります。それゆえに、仏像にこの二者の概念が付きまといます。例えば、釈迦三尊像の場合、真ん中に釈迦如来を据え、脇侍(わきじ)として文殊菩薩と普賢菩薩を配し、それぞれ、智慧と慈悲を象徴しています。阿弥陀三尊の場合、中央の阿弥陀如来の脇侍には観音菩薩(慈悲)と勢至菩薩(智慧)を配します。密教の大日如来の場合、金剛界が智慧、胎蔵界が慈悲を表します。

 仏を分かりやすく整理すると、世界の真実そのものを人格化した毘盧遮那如来(奈良の大仏など)や大日如来を「宇宙仏」、釈迦如来のように世の真実を体得したものを「人間仏」、仏の徳性の働きを象徴する阿弥陀如来や弥勒如来を「理想仏」と分ける考え方もあるそうです。また、鎌倉時代には「過去仏」として釈迦、「現代仏」として阿弥陀、「未来仏」として弥勒の三世仏が盛んにつくられたといいます。弥勒如来は、釈迦の死後、56億7000万年後の未来に現れて、衆生を救済してくれる仏で、天理教や大本教に影響を与えました。(その弥勒如来が現れるまでに、地獄に堕ちた人でも救済してくれるのが地蔵菩薩です)

自宅の御本尊である36年前に鎌倉の仏具店で購入した仏様。当時20万円ぐらい。てっきり釈迦如来像かと思ったら、阿弥陀如来像でした。(本文参照)

 この本では色々と教えられましたが、釈迦如来像と阿弥陀如来像の区別の仕方が初めて分かりました(苦笑)。右手を上げて、中指を曲げているのが釈迦で、両手で印を結んでいるのが阿弥陀だといいます。東南アジアに広がった小乗仏教は仏像といえば、ほとんど釈迦如来像ですが、大乗仏教となると、さまざまになります。特に日本では、本地垂迹説で、色々な仏像がつくられ、釈迦如来像は天平期の頃がピークで、それ以降は、浄土教の影響からか阿弥陀如来像が主に占めたそうです。

 この本については、またいつか取り上げたいと思いますが、今日最後に特記したいのが阿閦如来です。「あしゅくにょらい」と読みます。 阿閦とは無瞋恚(むしんい)と同じ意味で、すべての誘惑に打ち勝ち、永遠に怒りや恨みを抱かないと誓って、東方世界に妙喜浄土をたてた仏だといいます。以前、このブログでも書きましたが、瞋恚とは、仏教用語の十悪(殺生・偸盗・邪婬・妄語・綺語・両舌・悪口・貪欲・瞋恚・邪見)の一つでしたね。私自身、最近、この瞋恚(自分の心に逆らうものを怒り恨むこと)に取りつかれていたので、この阿閦如来さまに縋るしかありません。奈良の西大寺にも鎮座されているそうなので、西大寺先生に写真を送ってもらいたいものです。