玉蟲左太夫は幕末のジャーナリストだ=「仙台藩士幕末世界一周」を読む

 先月、「ドライビング・ヒストリック・アメリカ 懐かしのヴァージニアに住まいして」(同時代社)を上梓された松岡將氏から、「もし貴兄が、『仙台藩士幕末世界一周』(山本三郎:2010年、荒蝦夷)を未読であれば、(2300円+という安価でもあり)騙されたと思って是非ご購入されたし」とのメールを頂いたことは、以前、このブログでもご紹介致しました。

 何しろ、10年以上昔の本ですから、やっと見つけて、私も「騙されたつもり」(笑)で購入し、早速目を通し始めましたが、本当にめっちゃ面白い。この本を御紹介して頂いた松岡氏には感謝申し上げます。

 この本の著者は、玉蟲左太夫誼茂(たまむし・さだゆう やすしげ=1823~69年)という仙台伊達藩士で、日米修好通商条約批准書交換のため、公式使節団の一員(正使・新見豊前守正興外国奉行兼神奈川奉行の従者)として、米国が派遣してきた軍艦ポーハタン号に乗艦して渡米し、その後、アフリカ、ジャワ、香港などを経由して「世界一周」をして帰還し、その間の出来事を膨大な「航米日録」としてまとめた人です。

 恐らく、初めて世界一周をした日本人の一人ですが、「初めてビールを飲んだ日本人」として、彼の肖像写真が某ビール会社の広告に使われたことがあるそうです。

アヤメ科 Copyright par Keiryusai

 松岡氏の著書「ドライビング・ヒストリック・アメリカ」の第Ⅵ話にポーハタン号が出てきますが、この話を読んだ松岡氏の東北学院中・高時代からの親友三浦信氏が、彼の五代前の祖先に当たる玉蟲左大夫誼茂がこの同じポーハタン号で渡米して、航海記を書いていたことを思い出し、この本を贈ってくれたというのです。

 松岡氏が調べたところ、玉蟲左大夫は、帰国後、戊辰戦役の際、奥羽越列藩同盟の主要な役割を果たしたため、新政府軍に睨まれ、明治2年、戊辰戦役敗戦後に捕縛され、仙台藩牢中で切腹した人物でした。同時期に咸臨丸で渡米した福沢諭吉とも親交があり、玉蟲の死を知った福沢も「何たることか」と悲憤慷慨したといいます。

 この「仙台藩士幕末世界一周」の現代語訳を出版し、興味深い解説も施した山本三郎氏(1936~2012年)は、この玉蟲左太夫誼茂の玄孫に当たる人で、地元仙台の東北放送などに勤務したマスコミ人でした。「仙台藩士幕末世界一周」を読めば分かるのですが、この本の著者玉蟲左太夫は「幕末のジャーナリスト」か「幕末のノンフィクション作家」と言ってもよく、停泊した当地の風俗から、棲息する動植物、物価に至るまで本当に隅から隅まで取材して、事細かく記載しています。マスコミ人の山本氏も、その「ジャーナリスト玉蟲」の血を引いていたということなのでしょう。

アヤメ科 Copyright par Keiryusai

 万延元年(1860年)1月~9月の10カ月間、ほぼ毎日記入された航海日誌です。現代語訳されているせいか、160年も昔の話ながら、全く古びていません。特に、著者の玉蟲左太夫が大変魅力的な人物です。当時のがんじがらめの身分社会の中で、開明的な思想の持ち主で、艦長が、甲板上で行われた水兵の葬儀に参列したことに感心し(日本では殿様が足軽の葬儀に出ることなどあり得なかった)、選挙で大統領を選ぶ米国の共和制に感心したりしています。

 幕末とはいえ、鎖国の江戸時代だったということで、初めて西洋の文物に触れたそのカルチャーショックぶりは、いかなる日本の歴史上、これほど大きなショックを体験した人たちは、いないと思われます。好奇心旺盛な玉蟲左太夫は、戦艦の蒸気船の仕組みを事細かく取材してまとめ、生まれて初めて飲むビールに感心し、蒸気機関車に乗ってその速さに驚き、現地の女性の服装や食べ物に感心します。ハワイでは、薬局店「普済堂」を開いていた中国人の主人麗邦と筆談して、阿片戦争などで英国に侵略された支那(中国)情勢を語り合い、玉蟲は同情を寄せつつも、日本が「中国の二の舞い」ならないようにするにはどうしたら良いかなどと苦慮します。

チェリーセージ Copyright par Keiryusai

 この「日誌」の最初の方の圧巻は、ポーハタン号が太平洋を横断する際、大変な暴風雨に遭い、生命の危険まで冒されそうだったという記述です。玉蟲左太夫は、正使・新見外国奉行の従者だったため、与えられた「部屋」は、船上に仮設されたもので、大砲を突き出す窓を仮に塞いで寝室にしているため、怒涛によって簡単に壊れて、暴風雨が入り込み寝室は水浸しで川のようになります。寒さで震えが止まらず、病気になる寸前を何度も乗り越えたという描写もありました。

 この中には書かれていませんでしたが、恐らく、偉い正使、副使らの奉行らは、雨風が入ってこない船内の個室を当てがわれていたことでしょう。同じサムライでも奉行と従者との格差の違いがよく分かりました。

 ちなみに、この遣米使節の正使は、新見豊前守正興ですが、副使は村垣淡路守範正、目付(監察)は小栗忠順(ただまさ)でした。薩長史観嫌いで幕臣派の私は、この小栗忠順は、幕末の偉人の中でも最も評価している一人です。使節代表団の中で最も注目された人物で、ポーハタン号士官のジョンストン中尉は「小栗は確かに一行中で最も敏腕で実際的な人物であった。使節らが訪問せし諸所の官吏との正式交渉は、全部、彼によってのみ処理された」と書き残しています。

 小栗は帰国後、横須賀製鉄所(造船所)を建設するなど、勝海舟と並び「日本海軍の始祖」と言われました。が、討幕軍との戦いでは徹底抗戦する主戦論を唱えて罷免され、権田村(現群馬県高崎市)に蟄居しているところを討幕軍に捕らえられ、斬首されます。嗚呼、本当に惜しい人材でした。

 話はそれましたが、本書はエピソード満載で、使節団の通詞(通訳)見習いで、米国では「トミー」の愛称で女性たちに大人気で、現地紙にも書かれた立石斧次郎(長野桂次郎と改名)は、フジテレビ出身でフリーアナウンサーの長野智子さんの曽祖父だったとは、驚きでした。

 また、使節団が航海した1860年は、その3月に桜田門外の変が起きた年でした。この事件は、6月12日付のフィラデルフィア・インクワイアラー紙などでも報道されていたんですね!!(最初は「大君」=将軍が暗殺されたと誤って報道され、翌日、「国務長官」に訂正。解説の山本三郎氏は、使節団の村垣副使らは通詞を通して概要を得たが、玉蟲左太夫の耳に入ったかどうかは不明と記述しています)160年前の米国では、海の遥か向こうの極東の島国の話まで新聞で報道していたとは、ジャーナリストの端くれとして、ちょっと興奮してしまいました。