神社の正体に迫る=祇園祭ができないとは…

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuqua

 コロナ禍でも、真面目な私は読書に勤しみ、普段と変わらない生活を続けていますが、映画館や美術館に行けなかったり、好きな城巡りや寺社仏閣巡りができなかったりしたことは、さすがに堪えましたね。

 「足腰がしっかりしている時に」色々と巡りたいと思ったら、ちょうど、緊急事態宣言が発令された4月に「ぎっくり腰」ならぬ「ぎっくり脚」をやって、しばらく歩行困難になってしまったことから、「足腰がしっかりした時期」を通り過ぎてしまいました。

 今はほぼ治りましたが、嗚呼、情けない。

 仕方ないので、本の中で仮想巡りをすることにしました。先日読了した新谷尚紀監修・古川順弘著「神社に秘められた日本史の謎」(宝島新書、2020年5月23日初版)は非常に勉強になりました。

 自分ではある程度の知識はあるつもりでしたが、この本を読むと、今まで、ほとんど何も知らずに神社をお参りをしていたことが分かりました。

 本書は「神社のルーツはどこにあるのか?」に始まり、「戦後の神社はどう変わったか?」まで全部の52の設問に対して、最新の資料や学説で答えてくれる形式になってます。

 少なくとも大抵の神社というものは、皇祖神である天照大神をお祀りしているものだと思いましたら、「実際にアマテアラスを天皇家で祀ったことは、奈良時代になるまでなかったと考えられる」(神話学者・松前健氏)というので驚きました。

 でも、「古事記」(712年)も「日本書紀」(720年)も奈良時代に成立したものであり、「天皇」という名称は天武天皇(?~686年)からと言われていますから(それまでは「大王」と言われた)、出雲大社をはじめ、色々な豪族(恐らく「王」のような存在)の始祖が祀られた多くの神社が創建されています。

 実は、これら豪族の氏神を祀った神社にはどういうものがあるか知りたくて、この本を購入したようなものでした。ありました、ありました。

 藤原氏の春日大社(奈良市)は誰でも知っていることでしょうが、蘇我氏は奈良県橿原市にある宗我都比古(そがつひこ)神社でした。物部氏は、石上(いそのかみ)神宮(奈良県天理市)、大伴氏は、住吉大伴神社(京都市)、息長(おきなが)氏は、山津照(やまつてる)神社(滋賀県米原市)でした。一度、お参りしてみたいですね。

 渡来人の秦氏は松尾大社(京都市)、東漢(やまとのあや)氏は於美阿志(おみあし)神社(奈良県明日香村)でした。

 有名な宗像神社(福岡県宗像市)は宗像氏、私も行ったことがある赤城神社(前橋市)は毛野(けの)氏のそれぞれ地元の豪族の神社だったんですね。キリがないのでこの辺にしておきますが。

  古代、朝廷は神祇官が奉幣する伊勢神宮を頂点にして、その下に官幣社(神祇官から班弊に与る573社)と国弊社(地方の国司から幣帛=へいはく=を受ける2288社)=以上が式内社2861=とその他の神社に分ける社格制度を設けます。それが、現在も神社の「社格」につながっています。

高野山の根本大塔

 巻末には「主な神社の種類と信仰」が掲載されていますが、意外に多かったのが八幡信仰(八幡神社、八幡宮)でした。応神天皇、神功皇后らを祭神とした大分県の宇佐八幡宮が発祥で、平安時代に京都に勧請された石清水八幡宮が創建され、鎌倉時代には源頼朝により鶴岡八幡宮が創建され武神と崇められたことが大きいでしょう。神社本庁に登録されている全国の神社数は7817。知らなかったことは、鎌倉の鶴岡八幡宮には、真言宗高野山の根本大塔によく似た大塔があったことでした。明治の廃仏毀釈で、ぶっ壊されてしまったということですから、本当に残念です。

 全国に約3万あるという稲荷神社は、奈良時代創建と伝わる京都の伏見稲荷大社の神霊を勧請した形をとっています。私も2年ほど前に京洛先生のお導きで伏見稲荷をお参りしましたが、あの鳥居の長い長い行列(?)がインスタ映えするとかで、中国人の観光客だらけでした。コロナ禍となり、今は昔ですね。

 でも、この伏見稲荷大社を創建したのが、渡来人の秦氏だったと聞くと、なるほど、と思ってしまいます。秦氏は、朝鮮半島の百済系とも新羅系とも言われ、秦の始皇帝の末裔とも言われたりしていますから、中国、韓国人観光客らも惹かれるものがあるのかもしれません。また、伏見稲荷を奉斎した氏族として、ほかに荷田氏がいて、代々、伏見稲荷の社家(しゃけ)を務めているといいます。荷田氏といえば、江戸時代の国学者・荷田春満(かだのあずまろ)がすぐ思い浮かびますが、やはり伏見稲荷の神官だったんですね。彼は賀茂真淵のお師匠さんです。

 比叡山延暦寺に日吉大社があるように、かつては神仏習合が当たり前だったこと。そして、菅原道真の天満宮や徳川家康の日光東照宮など他にも書きたいことがいっぱいあるのですが、最後に京都の八坂神社のことだけ書きます。八坂神社は、明治の廃仏毀釈の前は、祇園社感神院と呼ばれ、疫病除けの神である牛頭天王(ごずてんのう)を祀っていました。牛頭天王は、仏教と陰陽道、神道などが複雑に習合した神で、怨霊の慰撫と防疫を願う祇園御霊会は、祇園祭のルーツだと言われています。それが、新型コロナの影響で、今年の祇園祭の開催の中止が早々と決まってしまいました。こんなこと、牛頭天王様も想像できなかったことでしょうね。

京都大旅行、のはずが関西大旅行

奈良・猿沢池

2泊3日の京都大旅行のはずが、関西大旅行と相成りました。

◇2018年8月25日(土)

いつもの如く、新幹線京都駅中央口改札で、京洛先生がお出迎え。

「渓流斎さん、旅の醍醐味をご存知ですか?ー 珍道中ですよ」

ということで、京都駅で下車することなく、そのまま新幹線口の真向かいにある近鉄線で、何と奈良駅へ。まさに、弥次喜多珍道中の始まりとなりました。

近鉄奈良駅から歩いて数分のお好み焼き屋さん(名前は失念)で「豚焼きそば」とビールで豪華ランチ。

この後、中臣鎌足が鹿島神宮から連れてきた神さまの使者といわれる鹿さんが3000匹も戯れる奈良公園を通って、奈良国立博物館 へ。「修理完成記念特別展 糸のみほとけ-国宝 綴織當麻曼荼羅と繍仏-」展(26日で終了)を鑑賞しました。

繍仏とは、仏像などを刺繍した、いわゆるタピストリーのことです。当麻寺の曼陀羅は、中将姫が一夜にして縫い遂げたといわれる伝説の繍仏で、普段は未公開。何年か、何十年に一度しか「御開帳」されないので、今回、大変見る価値があるというのです。

もう1300年ぐらい時が経ているので、原型はほとんど消えて黒ずんでしまっていましたが、何か、居住まいを正したくなるような威厳がありました。伝説では一夜で縫い上げたことになっておりますが、実際は早くても7年は掛かるようです。刺繍ですから、立体的に浮き上がって見えたことでしょう。

奈良といえば、東大寺(の大仏)か、興福寺なんですが、玄人の京洛先生は、そんな修学旅行生が行くようなところは見向きもせず、一路目指したのが、元興寺(がんごうじ)でした。

元興寺は、飛鳥の飛鳥寺をこの奈良に移築したもので、1300年以上昔の飛鳥時代の屋根瓦が今でも現存する如何にも玄人好みの仏閣でした。国宝です。しばし、斑鳩の里に思いを馳せました。

◇◇◇

この後、京都に戻り、夜は、北野白梅町にある創業安政3年(1856年)の米屋、大米米穀店が経営する洋食屋「キッチンパパ」へ。キスフライ付ハンバーグ 1280円と ハイボール500円を飲食しました。日本人向きにアレンジしたデミグラスソースのハンバーグで、とても美味しゅうござんした。繁華街ではないので、歩いている人は少ないのに、この店だけは、学生風の若い人でいっぱいで、並んでいる人もいました。

◇8月26日(日)

さて、「今日こそ京都の寺社仏閣を存分に楽しめるぞ」と期待していたら、京洛先生「今日は神戸の南京中華街に行きます。よろしく」ですからね。

えっ? 神戸なの? 京都から遠いでしょ!しかし、実際は1時間ほどで行けてしまい、阪急電車の日曜日割引チケットを金券ショップで買うと、片道620円が420円となり、往復400円のお得になりました(笑)。

京洛先生、どうやら、神戸南京町の中華街にある「元祖ぎょうざ苑(1951年創業)」に行きたいというのです。ここは、神戸の味噌だれ餃子の発祥の地で、食通の京洛先生は、寅さん俳優の渥美清らがよく通った東京・渋谷の中華料理店「大穀」の味噌だれ餃子の味が忘れられず、どうしても神戸の評判の店で食したいというのでした。

阪急神戸三宮駅から歩いてJR元町駅へ。そこから、グーグルマップを手掛かりに10分ほどで着きました。評判の店なので、12時ちょっと過ぎて着いたら、先客がいて、ちょっと並びました。でも、出たときは、入ったときの倍以上の人が列をつくっておりました。

確かに評判通りの美味しさ。変な言い方ですが、皮や肉汁まで旨いのでした。猛暑でビールもうまい!

個人的に、横浜の中華街は何十回も行っておりますが、神戸の中華街は生まれて初めて行きました。南京町は、今年で開設150周年なんだそうです。明治維新と一緒ですか。

JR元町駅から神戸駅へ行き、この駅にほど近い湊川神社へ参拝。ここは、別名、楠公神社と言われるように、南北朝時代の忠臣楠木正成をまつった神社です。有名な湊川の戦いで敗れて自害した場所に、明治以降にこのような立派な神社が建てられたといいます。

この後、阪急御影駅で途中下車して、香雪美術館へ。朝日新聞を創刊した村山龍平(と二代目村山長挙=岸和田藩主の三男が婿入り)の集めた日本と東アジアの古美術を自宅の一角で公開展示したもので(香雪は、龍平の雅号)、御影という関西でも屈指の超高級住宅街の中でも、図抜けてだだっ広い敷地で、その広さには腰を抜かすほど驚いてしまいました。

村山邸を1周すれば軽く20~30分ぐらい掛かるのです。森林に囲まれ、どこかの植物園か動物園と言われてもおかしくない広大な敷地でした。

朝日新聞社は戦前、飛行機会社(実際は航空部。戦後、全日空に発展)まで作ったりしましたから、創業者一族には相当な収益があったということなんでしょう。桁違いの大きさに唖然としました。

帰り、御影駅近くの喫茶店「マハロ」でいちごかき氷600円で一息つきました。店名がハワイ語で、店内の掲示がフランス語、店内でかかっている曲はブラジルのボサノヴァ、そして、歯科技工士の相談会開催と、何か超変わった店でした(笑)。でも、気配りの行き届いた感じのいい店でした。

◇◇◇

京都に戻り、夕方「京極湯」で一風呂浴びたあと、この銭湯近くのお好み焼き屋「にしで」で、ミックス焼そば、お好み焼きなどを食しました。この店は、以前よく入った店で、今回は5年ぶりぐらいに入りましたが、女将さんが、小生の顔を覚えてくれていて吃驚。美人の女将さんもさすがに少し老けました。お互い様ですか(笑)。

そう言えば、銭湯では、番台の女将さんから、京洛先生より小生の方がかなり年上に見えたらしく、個人的に相当なショックを受けました。茲ではっきり申し上げておきますが、小生は京洛先生より一回り近く若いのですぞよ。

◇8月27日(月)

京都堀河三条「力」の元女将さんのところに久しぶりに立ち寄り、グーグル・スピーカーの威力を見せてもらいました。

「オッケー、グーグル、今、気温は何度なの?」と彼女が言うと、「32度です」と答えるし、「オッケー、グーグル、音楽かけて」と命令すると、しっかり、登録していた(?)好きな音楽をかけてくれるんですからね。何か、怖くなるくらい便利でした。

さて、この日は、ついに小生の希望が通り(笑)、念願の京都・伏見稲荷大社に行きました。全国3万社もある稲荷神社の総本社です。和銅四年(711年)御鎮座で、渡来人の秦氏が創建したという説が有力です。ちなみに、全国の神社数は約8万8000社(全国のコンビニは約5万6700軒)、このうち八幡宮は4万4000社、天満宮は1万2000社と言われております。

奈良もそうでしたが、外国人の多さには本当に吃驚しました。すれ違う人は殆ど外国人。比率は東京より多いんじゃないでしょうか。

「千本鳥居」など、何百メートルも続く鳥居の列が「インスタ映え」するということで、世界的に外国人観光客の間で伏見稲荷大社は、大人気スポットなんだそうです。

我々は「奥の院」の辺りまでしか行きませんでしたが、この奥に行くと勾配もきつく、実際、迷い人が出るほど迷宮化しているそうです。

小生、先週「名誉の負傷」をして、全治2週間ぐらいではないか、と思われるくらい膝が痛んで歩きにくいので、当然、ギブアップしました。(歩けますが、まだ走れません)

奥の院の茶店でビールを飲んでいた75歳ぐらいの日本人男性が「伏見稲荷大社は、拝観料も駐車場もただで、24時間オープン。だから、大型バスでぎょうさん乗り付けて、外人が9割ぐらいになったんや」と、こちらから聞くわけではないのに、答えてくれました。

確かに、浴衣や着物を着ている人のほとんどが、日本人ではなくて、外国人でしたからね。売り子も怪しい日本語でした。

この後、京阪電車「中書島駅」に向かい、その近くの寺田屋を見に行きました。私の希望でした。建物は意外にも小さいので少々驚き。当時は水運が盛んですから、この辺りは大坂から淀川を通って京都に入る中継地で、花街地として栄えたらしいですね。

中に入ろうと思ったら、「月曜休館」で閉まってました。仕方ないので「沿革」を引用しておきます。

寺田屋は伏見の船宿。文久2(1862)年4月23日、薩摩藩急進派有馬新七(1825~62)以下35名が関白九条尚忠(1798~1871)と京都所司代の殺害を計画して集結した。薩摩藩は藩士を鎮圧に向かわせたが両者乱闘となり、有馬以下9名が死亡した(寺田屋騒動)。慶応2(1866)年正月21日坂本龍馬(1835~67)も伏見奉行所の捕方に襲われたが、難を逃れた。寺田屋は鳥羽伏見の戦(1868年)に罹災し、焼失した。現在の建物はその後再建されたものである。

ここから市バスで30分、京都駅南口辺りで降りて、京洛先生お勧めのうどん屋「殿田」で遅いランチ。たぬきうどん600円、稲荷寿司三個300円という安さでした。

たぬきうどんは、関東なら天かすなのですが、こちらは、油揚げなので、関東なら、きつねうどんです。刻んだ長ネギにショウガがたっぷり。あんかけ汁で、結構上品な味でした。店の人の感じもよく、京都に行ったらもう一度食べたい味でした。