安藤昇という人とその時代

東京・銀座 みゆき通りと並木通り交差点(1949年3月頃、安藤昇が封切洋画「哀愁」を見に出掛けた際〔恐らく銀座「並木座」だったのではないか?〕、台湾人の蔡とすれ違い口論となり、蔡によって、ジャックナイフで左?を切られ、新橋・十仁病院で30針を縫う大怪我を負った現場の現在)

名古屋にお住まいの海老普羅江先生からのお勧めで、大下英治著「激闘! 闇の帝王安藤昇」(さくら舎)を読了しました。講釈師、見てきたような…で、どこまでフィクションで、どこまでがノンフィクションか分かりませんでしたが、戦後闇市から昭和30年代にかけて、生命を賭けて、東京・渋谷のシマを守りきった当時愚連隊と呼ばれた若者たちの生態が解剖学のようにピンセットで分け入ったような描写で、生き生きと活写されておりました。

銀座・天国
この本のハイライトは、1958年の横井英樹銃撃事件でしょう。(現場は、東京・銀座8丁目の天麩羅「天国」裏手の第2千成ビル「東洋郵船」、実行犯は、千葉一弘後の住吉会相談役)この事件のお陰で、安藤昇は前橋刑務所に収監され、その間に、「東興業」、いわゆる安藤組の社長代行を務めていた花形敬が東声会により刺殺されます。花形敬は、力道山より強かったと言われるほど伝説の武闘派で、ジャーナリストの本田靖春が「疵」というタイトルで評伝を書いた人物です。

銀座8丁目10番ビル

その後、安藤組は、渋谷の縄張り争いで、錦政会(後の稲川会)三本杉一家と対立し、安藤組大幹部の西原健吾が東京・外苑前のレストラン外苑で、三本杉一家の中原隆によって、銃殺されます。この二つの事件がきっかけで、安藤昇は組の解散を決意し、昭和39年(1964年)12月9日、渋谷区千駄ヶ谷の区民会館で解散式を行うのです。

安藤昇はこの時、まだ38歳。この翌年、映画俳優に華麗なる転身を遂げるわけです。

東京・銀座 みゆき通りと並木通り交差点

私は、映画俳優の安藤昇しか知りませんでしたので、この本では色々と教えられました。以下、引用しますとー。

●安藤家は、小田原の北条早雲の侍大将安藤式部の末裔と言われ、安藤昇は大正15年5月24日、東京新宿の東大久保天神下生まれ。父親の栄次郎は早稲田大学商学部を出て、古河財閥のゴム会社に入社以来、実直な勤め人だった。

●安藤昇が、横井英樹襲撃事件の後、逃走している間、匿っていた人の一人が、当時、東映ニューフェイスとして売り出し中の女優山口洋子。後に銀座のクラブ「姫」のママとして名を馳せ、同時に、五木ひろしの「よこはま・たそがれ」、中条きよしの「うそ」などの作詞を手掛け、昭和60年に「老梅」「演歌の虫」で直木賞を受賞した。2014年、77歳で死去。

⚫︎女性にもてた安藤昇は、8回結婚し、7回離婚した。

●安藤組の大幹部志賀日出也(解散後、住吉会幹部)の父親は、戦後最大の高利貸しと謳われた森脇将光(石川達三「金環蝕」の中でもモデルとして登場。映画化の際、宇野重吉が演じた。これは必見!)の番頭をしていた。志賀の妻細木弘恵は、渋谷円山町のバー「娘茶屋」のママ細木ミツの長女。四女が六星占術で有名な細木数子氏。彼女は、新宿をシマにする小金井一家堀尾昌志総長の姐御として知られた。

●安藤昇は2015年12月16日に肺炎のため死去、享年89。16年2月28日に青山葬儀所で「お別れの会」が営まれ、発起人は、佐藤純彌、降旗康男、中島貞夫、梅宮辰夫、村上弘明、吉田達、三田佳子、岩城滉一、堀田真三、梶間俊一の各氏。

以上、歴史上の人物などについては、本文に沿って敬称略としました。

安藤昇は、海軍予科練に入り、特攻隊の一人に選ばれましたが、終戦で事無きを得ます。終戦後の米軍占領下の大混乱の時期に、国家も警察も機能せず、暴力装置に頼らなければ、生き抜けなかった時代背景がありました。

安藤組は、薬物売買や刺青を禁止したりして、他の暴力団とは一線を画す方針を取りました。

それでも安藤組解散後、多くの組員は既成組織に入り、幹部の一人三本菅啓二氏は、稲川会系の「大行社」の2代目会長となります。大行社は、住吉会系の「日本青年社」と並ぶ日本の右翼団体です。15年に山口組の分裂の余波で、三本菅会長が交代したらしいですが、この本にはそこまで触れられておりませんでした。

山本信太郎著「東京アンダーナイト」

 小樽

東京・赤坂の一等地にあった高級クラブ「ニューラテンクォーター」(1959-1989年)の社長だった山本信太郎さんの書いた「東京アンダーナイト」(廣済堂出版)は、昭和史を語る上で超一級の資料になること間違いなしです。登場する人物がこれまた桁違い。超大物芸能人、広域暴力団の組長、マフィア、政治家、財界人、右翼の立役者、スポーツ選手…。山本元社長の交際の無限の広大さを物語っています。

第一章で、いきなり、1963年12月8日(日)に起きた「力道山刺殺事件」の真相を暴露しています。事件は、まさしくこのクラブで起き、山本さんの目の前で起きたのですが、緘口令が引かれ、44年間、真相は藪の中でしたが、山本さんは、この本で初めて、真相を明らかにしたのです。この本の発売された今年二月、週刊誌でも取り上げられたので、大きな話題になりましたが、実際読んでみて、本当に詳しく分かりました。以下、備忘録としてメモ書きします。(敬称略)

 

●力道山(1924-63年)、本名金信洛(キムシンラク)、戸籍名百田光浩(ももだ・みつひろ)は、ニューラテンクォーター内のトイレ付近のホールで、住吉連合(現住吉会)小林会の組員、村田勝志(1939-)=現在、住吉会副会長補佐、住吉一家小林組特別相談役=とすれ違いざまに口論となり、刺された。当時、赤坂の縄張り争いから、力道山のバックにいた東声会(町井久之=本名鄭建永チョンゴンヨン=会長)と住吉連合との抗争で、東声会の最高顧問だった力道山が計画的に暗殺された、という報道がされたが、真相は、酒に酔った力道山が、村田が足を踏んだ、と言いがかりをつけて、突き飛ばした。殺されると思った村田が持っていたナイフで無我夢中で力道山を刺したという全く偶然の出来事だったという。確かにニューラテンクォーターでは、住吉連合小林会の小林楠扶会長(日本最大の右翼団体、日本青年社会長)が顧問を務めていたが、村田は殺意を否定。力道山は事件から1週間後の12月15日に、穿孔性化膿性腹膜炎で死亡した。享年39歳。

 

(補記)この力道山刺殺事件を同時代の事件として知っている人は、もう50歳を過ぎているでしょう。力道山はニューラテンクォーターに入店する前に大相撲協会の幹部と「ハワイ・ロス巡業」の相談を受け、自宅でウイスキーを飲み、その後、赤坂の料亭「千代新」でかなり飲んだという。午後9時近く、朝丘雪路のTBSラジオ番組にゲスト出演したが、泥酔状態で、録音は放送されなかった。その足で、「コパカバーナ」に行く予定を急遽変更してニューラテンクォーターに行った。このクラブに同席した人たちの中の一人にスポニチ記者の寺田さんがいた。もう27年前に私が寺田記者から直接聞いた話だと、刺された力道山は、お腹を押さえながら自分の席に戻ってきて、ステージに上がり「この店は殺し屋を雇っています」とマイクで発言したと言っていたが、本書でもその話が出てくる。寺田さんは、「力道山はちゃんと医師の言うことを聞いて安静にしていれば、命は助かったと思うが、力道山は、先生の言うことは聞かずに病院でも暴れまわっていた」と話していました。

 

●赤坂にニューラテンクォーターを開店できたのは、吉田彦太郎(別名裕彦、1913-71年)の力が大きい。山本信太郎の父平八郎(1906-90年、福岡のキャバレー王)の従兄に当たり、明大在学中に大日本学生前衛連盟を結成し、右翼活動を開始し、1936年の「2・26事件」による北一輝銃殺に反対して、投獄。41年に「児玉機関」副機関長に就任して、児玉誉士夫(1911-84年)の右腕として活躍した人物。公安・警察関係や政府筋に顔が利いた。この児玉機関の東京責任者が岡村吾一(1908-2000年)。児玉の懐刀として活躍し、戦後は東宝映画顧問として芸能界にも睨みをきかせ、任侠の世界では北星会会長として関東会結成に尽力した。

 

●ニューラテンクォーターの前に同じ敷地(2・26事件の反乱軍将校が立てこもった「幸楽」という料亭があったが、空襲で焼けた)に初代の「ラテンクォーター」(1953-56年)が存在していた。東京に駐留する米軍兵の慰安を目的とした社交場が名目だが、実質は賭博場と同じだった。この店のオープンに児玉誉士夫が「児玉機関」の部長だった岩宮尊を社長として送り込み、東声会を用心棒に派遣した。いまだ日本は、米軍の「占領下」にあったので、共同経営者はアルフォンゾ・シャタックとテッド・ルーイン。シャタックは、ジャック・キャノン少佐をリーダーとする「Z機関」(通称キャノン機関)の元諜報部員。ルーインは、アル・カポネとも親交があったといわれる元マフィアでマニラなどで手広くカジノを経営し、戦時中に児玉機関とつながりがあったという人物。

 

●シャタックは、「帝国ホテル・ダイヤモンド盗難事件」の主犯ジョン・マックファーランド(「ゴージャス・マック」のリング名でプロレスラーという触れ込みで来日したが、経歴は全くの偽りで、海兵隊を除隊したただの不良外人だった)から借金の形として、ダイヤモンドをマニラで売り渡した罪で、指名手配され、300万円の「政治献金」で保釈された。

 

●キャノン機関は、1951年に起こした「鹿地亘(かじ・わたる)事件」で、その存在が明らかになり、スパイにあるまじきドジを踏んだキャノンは日本から姿をくらまし、朝鮮戦争後の対北朝鮮諜報活動に従事したという。1981年にテキサスの自宅で自殺。鹿地亘事件とは、キャノン機関がプロレタリア作家の鹿地(本名瀬口貢)を藤沢市鵠沼の自宅付近から拉致監禁し、二重スパイになるように拷問に近い訊問をしたという事件。鹿地の世話をしていた日本人青年の密告で事件が公にされて、鹿地は解放された。この事件は松本清張の「日本の黒い霧」でも取り上げられ「鹿地事件ぐらい未だに真相の分からない事件はない」と書かれている。鹿地は、かつて中国共産党の情報をアメリカのOSS(戦略情報局)に流していたが、その後、ソ連側に寝返ったため、キャノン機関の怒りを買ったのではないかという噂も流れた。

アンダーグラウンドの話 住吉会

その筋というか、アンダーグラウンドの世界が今、喧しいね。

2月5日に指定暴力団住吉会小林会系の杉浦良一幹部が白昼に射殺されたのをきっかけに、都内で発砲事件が相次ぎ、ついには、15日、山口組系国粋会の工藤和義会長が自殺するまで混乱が続いています。

マスコミ情報を総合しますと、国粋会は大正8年に原敬首相(当時)らの肝いりで結成された「大日本國粋会」が源流。関東博徒の老舗組織で、渋谷、六本木、新橋、銀座などを縄張りにしています。昭和30年代に関西の山口組の関東進出に歯止めをかけるための共同戦線「関東二十日会」に参加しましたが、2005年9月に、国粋会の工藤会長が山口組の六代目司忍会長と兄弟盃をかわし、国粋会は二十日会を脱会し、山口組の傘下に入ってしまうのです。

住吉会小林会は、国粋会から六本木の縄張りを借り受けて、ショバ代を納めていましたが、その慣習もあいまいになり、ついに国粋会を傘下に収めた山口組との軋轢が表面化したと言われます。

先頃、発売された『東京アンダーナイト』(廣済堂出版)の著者は、「東洋一のクラブ」と称された赤坂の「ニューラテンクォーター」の元社長山本信太郎氏ですが、それによると、昭和38年12月に同クラブで起きたプロレスの力道山刺殺事件は、計画的なものではなく、「偶然のバッティング」であったことが明らかにされています。(興味のある方は本書を読んでください)

加害者は、住吉連合小林会の村田勝志組員(現住吉会副会長補佐)。ニューラテンクォーターが、赤坂を縄張りにしていた小林会の小林楠扶会長に顧問を依頼していたので、用心棒として同クラブに出入りしていたようです。在日朝鮮人だった力道山の背後には東声会があったといわれ、東声会の町井久之会長(本名鄭建永)は山口組三代目田岡一雄組長を後楯にしていたことから、当時は、両組織の抗争事件のように推測されていましたが、事実は、全くの偶然だったというのです。

東声会は、力道山事件の一ヶ月前の昭和38年11月に、当時、政界の黒幕と言われていた田中清弦暗殺未遂事件を起こします。「田中が、三代目を利用して関東ヤクザを攪乱しようとしている」という風評がたったためと言われます。関東ー関西の抗争は今に始まったわけではないのです。

今の現象だけを見ても、なかなか事件背景は見えてきませんが、こうして20年、30年、いや50年、100年の歴史的スパンで見ていくと、その真相が見えてきます。

今回の国粋会の会長は内部抗争で悩んでいたと言われ、彼の自殺で、再び、何か火種が勃発しそうです。