旭山動物園長講演 

動物園の歴史は意外と古く、紀元前1050年ごろには、人類最初の動物園ができ、三千年の歴史があるようです。しかし、大昔はもちろん、皇帝や王侯貴族のための動物園。市民のための動物園は19世紀のロンドン動物園が最初と言われています。

旭山動物園は旭川市営の「日本最北の動物園」として1967年に開園します。当初は約40万人の入場者を維持しますが、1994年にエキノコックス症で西ローランドゴリラが死亡するなどして一時休園に追い込まれ、96年には、わずか26万人にまで落ち込みます。

さあ、これから「プロジェクトX」計画が始まります。

入場者にアンケートを取ると、キリンは立っているだけ、熊は寝ているだけ、水鳥は浮かんでいるだけで、動物たちは動かないので面白くない。あと、動物を触れないし、餌をやれない。見ているだけではつまらないーなどといった苦情ばかりでした。

そこで、考え付いたのが「行動展示」と「能力展示」です。動物たちはもともと、「目的」がなければ動きません。目的とは、餌や異性を求める時です。それなら、餌をただ盛り付けて単純に出すのではなく、散々苦労して餌が取れるように仕向けてやろう、と考えたのです。

例えば、お猿さんたち。大好物のピーナッツを一箇所だけ穴のあいた立方体の木箱の中に入れておきます。お猿さんは、その箱を何度もひっくり返して、ピーナッツをとりださなければなりません。しかし、それが、結果的に「行動展示」「能力展示」となるのです。

動物たちにとって、よく、人から見られるからストレスになる、と言われます。しかし、動物たちにとって、最もストレスになることは、「何もすることがない」ことなのです。人間なら、暇になれば、テレビを見たり、本を読んだりして暇をつぶすことができるでしょう。しかし、動物たちにはそうはいきません。

旭山動物園では、動物たちの視線に立って、さまざまな工夫をこらします。一度、行った方はご存知でしょうが、ペンギンもアザラシも本当に生き生きと動き回っています。ペンギンなどは、水の中では飛ぶように移動しています。それぐらい速くなければ魚は捕まえられませんからね。これも「能力展示」です。

サル山の話に戻します。ここはボスザルを中心にした集団社会です。ここに、餌のピーナッツを至る所に隠しておきます。一箇所に30粒もあれば、一箇所に1粒しかない所もあります。または、餌を1粒も置かない日もあります。

ある日、若いサルが収穫物を発見して、大声を出します。喜びの声だったのでしょうが、それを聞きつけたボスザルがすぐさま駆けつけて、獲物を横取りします。そういうことが、4日も5日も続きます。

そのうち、あるサルは、どうせ横取りされるからといって、ピーナッツを探さなくなりました。そして、あるサルは、獲物を見つけると、さっとお尻で隠して、まるでなかったかのように再び獲物を探すふりをします。ボスザルが「今日は獲物がない日か」と諦めて立ち去ると、そのサルは、口いっぱいにピーナッツを頬張って、残りのものを抱えて物陰に行くと、また独りで黙々と食べているのでした。

いわゆる猿知恵です。見ていたお客さんも感心しきりだった、ということです。

こうして、旭山動物園は、徐々に集客力を回復していきます。

2004年夏には、月間入場者数が、東京・上野動物園を上回り全国一位に躍り出ました。年間145万人です。

05年度は、年間186万人の集客が予想され、年間でも名古屋の東山動物園を超えて、全国第2位となることがほぼ確実です。

小菅園長さんは、テレビや映画などの映像を批判します。ライオンや虎などは、しょっちゅう獲物を狙って走り回っているようなイメージを植えつけられているからです。実際、ヒョウなどは、狩をするのは月に1回か2回で、お腹がすくギリギリまで寝ているそうです。狩にしても、百発百中ではなく、10回に一度程度しか成功しないそうです。だから、ほとんど動かず寝ている動物の姿こそが、自然というわけです。

小菅園長さんは、動物園の役割として4つ挙げました。?教育?研究?自然保護?レクリエーションです。最後のレクレーションは、娯楽とか遊びとかいう意味ですが、再び創造するということで、「人間性の回復」も意味するそうです。

しばらく動物園に行っていない皆さんも、人間性の回復のためにもお出かけになったら如何でしょうか。

旭山動物園長会見記ー動物的カン 

 

旭川市旭山動物園の「名物園長」小菅正夫さんの講演会を聞きました。これはこれで、非常に面白く、興味深かったのですが、個人的に小菅園長とお話しして、大変勉強になったことを皆さんにお伝えしたい、と思います。(講演の話はまた、機会を譲って、後のブログに書くことにします)

 

以下の話はどこの講演会でもされたことはないし、(もちろん今回もそうでした)、恐らく活字になって、世間に公にされるのは、これが初めてではないかと思います。

 

きっかけは、小菅園長が、時計を持っていない、ということでした。

 

一応、講演なので、いつ始まるかは、こちらの指示で始められますが、決められた時刻で話を終えるためには、本人が時計を持っていなければ、確認できません。

 

それでも、普段、園長さんが時計を持っていなかったのは、理由がありました。

 

園長さんが若い頃、飼育係として動物園に配属された頃、一応、身分的には、市役所の職員なので、定時に帰ろうと思えば、帰れます。でも、動物たちを夜中、戸外にほっぽらかしておくわけにはいかず、最後は、室内の檻に入ってもらわなければなりません。それが、一日の最後の仕事です。

 

ある日、彼は、夜6時にある会合の約束がありました。その時間に間に合うためには、せめて5時半には園を出なければなりません。当然、時間が気になって、5時くらいからソワソワして、時計の針を見たりします。

 

しかし、こういう時に限って、動物たちは、檻の中に入ってくれません。普段はすんなりと5時を過ぎれば、檻の中に戻ってくれる動物たちが、です。

 

動物たちは、人から見られると、かわいそうにストレスを生じると言われます。

 

しかし、本当のストレスとは、何もすることがない、ということなのだそうです。できれば、飼育係とは出来る限り、長く遊んでほしいのです。

 

だからこそ、飼育係が、早く帰ろうとすると動物たちは、事前に察知して、わざと檻に入ろうとはしません。意地悪をするつもりでもないのですが、人間の発する「気」が、手に取るようにしてわかってしまうのです。

 

要するに、動物たち、特に野生動物は、毎日、緊張感を持って生きています。命のやり取りをしているわけですから、その察知能力は半端ではありません。日本人もかつてはそういう能力がありました。例えば、「殺気」でもいいです。幕末、いつ、命が狙われるかわからなかった時代、動物的カンで難を逃れる人(一時期の坂本竜馬や桂小五郎)が沢山いました。

 

例えば、野性の鹿を捕まえようとして、5,6人が輪になって囲んで捕えようとします。すると、鹿は、一瞬にして、どの人間が精神的、肉体的に劣って、その「包囲網」から潜り抜けることができるか判断できて、そこから突破することができます。

 

命が掛かっているからです。

 

一瞬の妥協も許しません。

 

それが動物的カンであり、テレパシーのような、人間の目に見えない、声に聴こえない能力がある、ということなのです。

 

「人間は言葉をしゃべることによって、コミュニケーション能力が退化した」と小菅園長は喝破しました。

 

動物は言葉がしゃべれない代わりに、違う形ですばやい伝達手段を駆使しています。

 

思い起こせば、一昨年の東南アジアで甚大な被害を及ぼした津波で、象たちは、事前に津波を予知して、人間には聴こえない「低周波」で仲間と交信して、海岸地帯から山奥へ逃げて、ほぼ全員が難を逃れた話が有名になりました。

 

食うか食われるか、の熾烈な世界に生きる野性動物に、研ぎ澄まされた能力が備わっているわけです。それは見ただけで一瞬に判断できます。

 

動物だから、といって皆さん馬鹿にしてはいけません。動物は動物で、判断しているわけです。

 

どうですか、面白かったですか?