承久の乱は、その後800年続く武家政権の革命なのでは?

 「歴史人」2月号「鎌倉殿と北条義時の真実」特集を読んでいますと、新発見と言いますか、「えっ?そんな風に歴史的解釈が変わってしまったの?!」と驚くことばかりです。

 まず、私の世代は、鎌倉幕府の成立が1192年(建久3年)、と初めて小学生時代に習い、「いい国つくろう、鎌倉幕府」と覚えたものでした。それが、今では1185年(文治元年)説が有力となり、学校では「鎌倉幕府成立は1185年」と教えているそうなのです。

 1192年は源頼朝が征夷大将軍に任命された年で、1185年は守護・地頭が設置された年ということで、頼朝政権はこれによって幕府としての経済的基盤を確立したことになり、こっちの方が良いのではないか、となったらしいのです。

 「頼朝政権が 経済的基盤を確立した 」とは言っても、実際には東国のみで、西国は後白河法皇か、法皇の息のかかった公卿や武士が支配していて、「鎌倉・京都連立政権」というのが実体だったといいます。(一時期は、木曽義仲の支配領域もあり、「三頭政治」が実体だった。)

鎌倉五山第三位 寿福寺

 もう一つ、驚いたのは、その設置された守護・地頭のことですが、当然、大名になるぐらいですから守護の方が断然、格段に地頭より上だと思っていたのですが、守護とは名誉職みたいなもので、収入がゼロだったというのです。領地から収益を得られるのは地頭であって、守護は地頭職を兼ねて初めて収入を得ることができたというのです。…知りませんでしたね。

 そして、ハイライトとなるのは「承久の乱」です。今から800年前の承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の北条義時討伐の兵を挙げ、逆に幕府に鎮圧された事件です。私の世代は「承久の変」と習い、そう覚えていましたが、今は「乱」の方が一般的になったようです。でも、良く調べると、これは「乱」どころではない。「革命」に近いのではないか、これからは「承久革命」と呼んでもいいのではないか、と私自身は考えるようになりました。

鎌倉五山第四位 浄智寺

 乱後、後鳥羽院は隠岐、順徳院は佐渡、土御門院は土佐と三上皇が配流され、朝廷方の所領は没収されて坂東武士たちに報償として与えられました(これで鎌倉政権の全国統一)。また、朝廷監視のため六波羅探題が置かれ、皇位継承まで鎌倉の意向で決定され、伊豆の小さな土豪に過ぎなかった北条氏の絶対的権威が確立されます。ということは、身分の低い土豪出身の北条氏が朝廷(ヤマト王権=天皇家)から政権を簒奪したわけですから、これを革命と言わずに何と言おう?

 しかも、この承久革命によって、その後、室町、戦国、安土桃山、江戸と、天皇家は事実上、政治から遠ざけられ、武家政権が800年近く続くわけですから…。えっ?800年は長過ぎる? いえいえ、富国強兵の明治からアジア太平洋戦争で惨敗する昭和20年までも、「武家政権」は続いていたと解釈できるのではないでしょうか。何しろ、首相の東条英機は軍人(武官)であり、陸軍大臣も兼ねていましたから、そう考えれば、実質「武家政権」ですよ。

 となると、承久の乱は、日本史上、これまで以上、重要性がある画期的な出来事であることをもっと強調するべきではないでしょうか。

鎌倉五山第一位 建長寺 山門

 これまで、承久の乱といえば、二代執権北条義時が権力奪取のため、一方的に悪行を成した「逆賊」のイメージが強かったのですが、後鳥羽上皇が、自分が寵愛する伊賀局こと亀菊に与えた「摂津国長江と倉橋の両荘園の地頭職を改補(解任)せよ」と院宣したのが、両者の亀裂のきっかけになりました。両荘園の地頭とは北条義時その人だったからです。鎌倉幕府の経済的基盤が侵されたことになります。

 しかも、後鳥羽院は、暗殺された三代将軍源実朝の後継者(四代将軍)として、自分の子息である頼仁(よりひと)親王か、もしくは雅成(まさなり)親王を立てることを口約束しながら、結局反故にしてしまいます。

 明らかに権力闘争であり、これでは義時の気持ちも分からないではありません。頼朝の未亡人で義時の姉である「尼将軍」こと北条政子の有名な「演説」で、坂東武士たちは立ち上がり、鎌倉方の圧勝に終わりますが、これは、まさに東西分かれて互いに死力を尽くした「内戦」と言っても間違いないでしょう。鎌倉方の東軍(幕府軍)の代表は、北条時房(義時の実弟)と泰時(義時嫡男で後の三代執権)、後鳥羽院方の西軍(官軍)の代表は藤原秀康と三浦胤義(鎌倉の有力御家人三浦義村の実弟)ですが、正直、私自身は不勉強で、両軍のその他大勢の武将たちの名前はこの本で初めて認識しました。乱後、上皇らは島流しに遭っても、西軍の武将たちはことごとく捕縛・処刑され、京中は略奪の嵐で、上皇方の宿舎は放火され、人馬の屍体で道が塞がったといいます。

 やはり、革命ですね。

 確かに、800年も昔に起きた過去の出来事と言って済ませばそれまでですが、承久の乱が後世に残した影響は驚くほど大きいので、現代人としても知っておくべきことが多々あります。

【追記】

・「吾妻鏡」によると、北条義時(1163~1224年、行年61歳)は「攪乱」のため急死しますが、詳細が書かれていない。後妻の伊賀の方が自分の息子の政村を次期執権にしたいがために、毒殺したのではないかという説があります。伊賀の方の兄伊賀光宗は政所執事(長官)、娘婿の一条実雅は、時の将軍九条頼経の親戚、また政村の乳母親は、有力御家人の三浦義村だったので、彼らが結束すれば、泰時を倒して執権の座を獲得することは不可能ではなかった。

・三代執権北条泰時が制定した「御成敗式目」。初めて口語ながら読みましたが、第12条に「争いの元である悪口は禁止。重大な悪口は流罪、軽いものでも入牢。」とあり、感心してしまいました。

鎌倉五山の円覚寺~浄智寺~建長寺~寿福寺、そして源義朝、太田道灌ゆかりの英勝寺に参拝

 12月12日の日曜日、思い立って、「鎌倉五山」巡りを決行して来ました。

 「鎌倉五山」とは、御説明するまでもなく、神奈川県鎌倉市にある臨済宗の禅寺で、第一位建長寺、第二位円覚寺、第三位寿福寺、第四位浄智寺、第五位浄妙寺の寺院とその寺格のことで、一説では北条氏によって制定されたといいます。

 「京都五山」(別格南禅寺、第一位天竜寺、第二位相国寺、第三位建仁寺、第四位東福寺、第五位万寿寺)と対をなしていますが、残念ながら、その規模や雄大さ、壮麗さ等を含めて鎌倉五山の方がどうしても見衰えしてしまいますが、国宝、重文級のものもあり、とても等閑にはできません。

 来年(2022年)というより、来月から始まるNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放送されれば、鎌倉はまためっちゃ混みますから、人混みを避けたかったのでした。

鎌倉五山第二位 円覚寺
鎌倉五山第二位 円覚寺

 皆様御案内の通り、私自身、鎌倉五山第五位の浄妙寺に関しては既に昨年8月にお参りしたばかりですので、今回は、残りの4寺院をお参り致しました。(浄妙寺は、「八幡太郎義家」こと源義家のひ孫で足利氏二代目義兼(よしかね)が1188年に創建。2020年8月12日付の渓流斎日乗「いざ鎌倉への歴史散歩=覚園寺、鎌倉宮、永福寺跡、大蔵幕府跡、法華堂跡、浄妙寺、報国寺」をご参照)

 まずは第二位の円覚寺を目指しました。JR横須賀線の北鎌倉駅からすぐ近くです。

 円覚寺(拝観志納金500円)はかつて数回はお参りしていますが、もう20年ぶりか、30年ぶりぐらいです。もうほとんど覚えていません。

鎌倉五山第二位 円覚寺 山門

 円覚寺といえば、私の場合、すぐ夏目漱石のことを思い起こします。三部作の最後に当たる「門」の舞台になったところで、漱石自身もここの宿坊「帰源院」で明治27年12月下旬から1月7日まで座禅修行したことがありました。横須賀線は明治22年に開通しています。

 現在も座禅が出来るようですが、一般といいますか、在家向けは、新型コロナの影響で結構中止になったようです。

鎌倉五山第二位 円覚寺

 円覚寺は1282年創建、第八代執権北条時宗が蘭渓道隆亡き後、中国から招いた無学祖元(後の仏光国師)が開山しました。その2年後に亡くなった時宗と九代貞時、最後の十四代執権高時をお祀りしています。

 
鎌倉五山第二位 円覚寺 舎利殿(国宝)

 円覚寺といえば、何と言っても国宝の舎利殿(仏陀の歯牙をお祀りしている)ですが、お正月三が日など特別な期間以外は拝観制限されているとのことで、遠くから写真を撮るのみでした。

 この舎利殿は、三代将軍源実朝が、宋の能仁寺から請来したもので、鎌倉の太平寺(尼寺・廃寺)から仏殿(鎌倉末~室町初期に再建)を移築したものだといいます。

鎌倉五山第四位 浄智寺 鎌倉では珍しい唐様の鐘楼門
鎌倉五山第四位 浄智寺

 次に向かったのが、 鎌倉五山第四位の浄智寺 (拝観志納金200円)です。円覚寺から迷わなければ、歩7,8分というところでしょうか。途中、駆け込み寺として有名な東慶寺がありましたが、我慢して通り過ぎました。

 浄智寺の正式名称は、臨済宗円覚寺派金宝山浄智寺です。第五代執権北条時頼の三男宗政の菩提を弔うために1281年頃に創建されました。開基は宗政夫人と諸時親子。開山は、建長寺第2代住職も務めた中国僧兀庵普寧(ごったん ふねい)ら3人です。

鎌倉五山第四位 浄智寺

 御本尊は、阿弥陀如来、釈迦如来、弥勒如来の木造三世仏坐像(神奈川県重要文化財)です。

 これは、後で知ったのですが、映画「ツィゴイネルワイゼン」や「武士の一分」などが境内で撮影され、映画監督の小津安二郎や日本画家小倉遊亀らがこの寺域で暮らし、墓所には作家澁澤龍彦らが眠っております。

鎌倉五山第一位 建長寺
鎌倉五山第一位 建長寺

 次に向かったのが 鎌倉五山第一位の建長寺(拝観志納金500円)です。やはり、第一位だけに迫力が違いました(笑)。かつて、一度は参拝したことがあったのですが、これまた全く記憶にありません(苦笑)。

 100年の歴史がある進学校「鎌倉学園」(加藤力之輔画伯、サザンの桑田佳祐の出身校)が隣接していたことも今回初めて知りました。

 正式名称は巨福山(こふくざん)建長興国禅寺。上の写真の 巨福山 の「巨」の字に点が付いているのは、十代住職一山一寧(いっさんいちねい)が筆の勢いに任せて書いてしまったといいます。しかし、結果的にその点が全体を引き締めて百貫の値を添えたことから「百貫点」と呼ばれるようになったといいます。

鎌倉五山第一位 建長寺 三門

 建長寺は、建長5年(1253年)、五代執権北条時頼が建立した我が国最初の禅宗専門寺院です。開山(創始者)は、中国の宋から33歳の時に来日した蘭渓道隆(後の大覚禅師)です。

 上の写真の「三門」は国の重要文化財に指定されています。三門とは、三解脱門の略で、「空」「無相」「無作」を表し、この三門をくぐることによって、あらゆる執着から解き放たれることを意味するといいます。

 神社の鳥居のような役目を果たしていたんですね。

鎌倉五山第一位 建長寺

 この梵鐘は国宝です。重さ2.7トン。開山した大覚禅師の銘文もあります。

 この梵鐘から、夏目漱石が「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」という句をよみました(明治28年9月)。これに影響されて、漱石の親友正岡子規が「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」を作ったと言われます。漱石が子規の影響を受けたのではなく、その逆です。

鎌倉五山第一位 建長寺 仏殿 地蔵菩薩坐像

仏殿は、国の重文で、 地蔵菩薩坐像 が安置されています。

 現在の建物は四代目で、東京・芝の増上寺にあった二代将軍徳川秀忠夫人お江の方(三代家光の母)の霊屋を建長寺が譲り受けたといいます。

鎌倉五山第一位 建長寺 法堂 千手観音菩薩 雲龍図(小泉淳作画伯)

  法堂は、僧侶が住持の説法を聴き、修行の眼目とした道場です。388人の僧侶がいたという記録もあります。現在の建物は、文化11年(1814年)に再建されたもので、御本尊は、千手観音菩薩です。天井の「雲龍図」は建長寺創建750年を記念して、小泉淳作画伯によって描かれました。

 小泉淳作画伯は、京都の建仁寺の「双龍図」も描かれています。

 小泉淳作画伯の美術館は私もかつて仕事で赴任したことがある北海道十勝の中札内村にあります。確か、小泉画伯は、このような壮大な雲龍図などは、廃校になった小学校の体育館をアトリエにして描いていたと思います。

鎌倉五山第一位 建長寺 葛西善蔵之墓

 境内には、太宰治も敬愛した無頼派の元祖とも言われる私小説作家の葛西善蔵の墓がある、とガイドブックにあったのでお参りしてきました。

 案内表示がないので、結構迷いましたが、階段を昇った高台にありました。葛西善蔵は、極貧の中、昭和3年に42歳の若さで亡くなっていますが、今でも新しいお花が生けてありました。忘れられた作家だと思っていたので、いまだに根強いファンがいらっしゃると思うと感激してしまいました。

鎌倉市山ノ内 カフェ「Sakura」 ビーフカレー(珈琲付)1300円

 時刻も午後1時近くになり、お腹も空いてきたのでランチを取ることにしました。本当は、ガイドブックに出ていた「去来庵」という店で名物のシチューでも食べようかと思ったら、コロナの影響で、喫茶のみの営業でしたので諦め、建長寺近くにあったカフェに入りました。

 量的には少なかったのですが、大盛にすると1500円です(笑)。でも、お店のマダムはとても感じが良い人だったので、また機会があれば行きたいと思わせる店でした。

浄土宗 東光山英勝寺
浄土宗 東光山英勝寺

次に向かったのが、最後に残った 鎌倉五山第三位の寿福寺 です。

ランチを取ったカフェの目の前の亀ヶ谷坂切り通しを通りましたが、「切り通し」というくらいですから、中世に谷間を削って出来た人工的な道ですから、かなりの急勾配でした。

 建長寺辺りは「山ノ内」で、この 亀ヶ谷坂切り通し辺りから「扇が谷」という地名になります。歴史好きの人ならすぐピンとくるでしょうが、室町時代になると、関東管領の山ノ内上杉家と扇が谷上杉家とが熾烈な争いをします。両家の勢力圏がこんな近くに隣接していたとは行ってみて初めて分かりました。

 寿福寺に行く途中で、全く予定のなかった「鎌倉五山」ではない英勝寺を通り過ぎようとしたところ、上の写真の「太田道灌旧邸跡」の碑があったので吃驚仰天。予定を変更してこの浄土宗東光山英勝寺(拝観志納金300円)もお参りすることにしました。

 英勝寺自体は、太田道灌から数えて4代目の康資(やすすけ)の娘で、徳川家康の側室、お勝の方(英勝院)が1636年に創建した鎌倉唯一の尼寺です。

 太田道灌は江戸城や河越城などを築城した武将ですが、扇ケ谷上杉氏の家宰だったので、ここに邸宅があったのですね。

浄土宗東光山英勝寺の御本尊、阿弥陀如来三尊像は運慶作ということですが、国宝に指定されていないのでしょうか?

 でも、太田道灌で驚いていてはいけません。

 英勝寺の「拝観のしおり」には、ここは平安時代末期に、源頼朝の父義朝の屋敷だったというのです。「えーー、早く言ってよお」てな感じです。

 源義朝と言えば、保元・平治の乱で活躍した人で、義朝は平治の乱で平清盛らに敗れて敗走し、途中尾張で部下に殺害されたと言われます。行年36歳。お蔭で、嫡男頼朝は幼かったので伊豆に流され、その後、その土地の北条政子と結婚し、鎌倉幕府を築いていく話は誰でも知っていることでしょうが、頼朝の父義朝が鎌倉に居を構えていたことを知る人は少ないと思います。

 源頼朝の生地は、母の実家がある尾張の熱田神宮の近くと言われますが、父義朝が鎌倉に所縁があったので鎌倉に幕府を開くことにしたのでしょうか? 幼い時に、この鎌倉の義朝邸に頼朝も住んだことがあったのでしょうか?

鎌倉五山第三位 寿福寺
鎌倉五山第三位 寿福寺

 今回、最後に参拝したのは、英勝寺に隣接していた鎌倉五山第三位の寿福寺でした。

 ここは山門から堂宇にかけては非公開なので、拝観志納金もないのですが、そのためパンフレットもありません。

 でも、上の看板にある通り、とても重要な寺院なのです。

鎌倉五山第三位 寿福寺 中門

 何と言っても、正治2年(1200年)、頼朝の妻政子が開基し、日本の臨済宗の開祖栄西が開山した鎌倉五山最古の寺院なのです。

鎌倉五山第三位 寿福寺 北条政子之墓

 境内には北条政子と、政子の次男で暗殺された三代将軍源実朝ののやぐら(墓地)もあります。

鎌倉五山第三位 寿福寺 源実朝之墓

 標識があまりないので、恐らく、一番奥まったところにあるのだろう、と勝手に想像して、やっと探し当てました。

 実朝は、将軍ながら「金槐和歌集」でも有名な歌人でもありました。大海の磯もとどろに寄する波破れて砕けて裂けて散るかも なんて良いですよね。

鶴岡八幡宮で、甥の公暁に暗殺されたのは1219年。今から800余年前のことです。やぐらの写真を撮らさせて頂いたところ、何か、無念のまま亡くなった右大臣実朝将軍の霊がこちらに迫ってきたような感じがしました。