山田耕筰、豊富な人脈を持つ巨人

一昨日10月8日に「山田耕筰 歌曲集」を取り上げたところ、不思議なことに、ブログに書けるほど(笑)の情報が集まってきました。

まずは、山田耕筰の人となりはー。

山田耕筰(1886〜1965年・明治19年〜昭和40年)

【作曲家・指揮者】日本西洋音楽史上の巨人。「赤とんぼ」など美しい童謡は、今も愛唱される。大正・昭和期の作曲家・指揮者。東京都出身。1908年(明治41)東京音楽学校卒。1910年ベルリンに留学。1914年(大正3)帰国して、精力的にオペラやオーケストラ作品を創作する一方、東京フィルハーモニー会に管弦楽部を創設、日本楽劇協会・日本交響楽協会を設立。日本の洋楽普及に多大な貢献をした。北原白秋と出会い、今も親しまれる童謡の名作を多く残した。作品は、交響曲「かちどきと平和」、歌劇「夜明け」、歌曲「赤とんぼ」「からたちの花」「この道」など。

 この出典は、(財)まちみらい千代田「江戸・東京人物辞典」からなのですが、この辞典の執筆者によると、何しろ、山田耕筰は「巨人」ですからね。今では少し忘れられてしまいましたが、とてつもない人です。

 まず、個人的なことながら、静岡県の義母(故人)が、山田耕筰の似顔絵入りのサインを持っていたのです。義母は若い頃、浜松市にある河合楽器の社長秘書を務めていたことがありました。その関係で、河合楽器に所用で訪れた山田本人から直接頂いたようですが、当時私は山田耕筰に熱烈な関心があったわけではなかったので、詳細について聞き忘れてしまいました。

とにかく、似顔絵はご自分で書かれたのかどうか分かりませんが、大僧正のような堂々とした禿頭(とくとう)で風格がありました。

はい、このような感じです。若い頃とは全然違いますね。

写真はいずれも、山田耕筰 十七回忌記念出版「この道 山田耕筰伝記」(恵雅堂出版)の編集を担当されたM氏からお借りしたものです。(従って、写真等の著作権は恵雅堂出版社に帰属します

M氏は「この本は、入社当初の私が編集を担当しました。実際に執筆したのは、社団法人 日本楽劇協会の皆さんですが、その中には山田耕筰の秘書をしていた方もいらっしゃいました。編集作業で1年間程、皆さんと接することができ、耕筰をめぐる大きな人脈の渦を感じたりして貴重な体験でした」と振り返っておりました。
同書は昭和57年発行で、 A4判カラー42ページ、本文中にモノクロ写真を多数掲載した総 305ページの豪華本ながら、残念ながら、現在は絶版だとか。

それでも、M氏は、この「この道 山田耕筰伝記」の一部コピーしたものをメールに添付して送ってくださいました。

この中で、先日、大阪音大の井口教授が講演された「原善一郎」の名前も出てきました。原が大正11年頃、突然、山田を訪ねてきて「ハルビン交響楽団の指揮をしてもらいたい」と要請した話などが出てきます。

また、大正15年夏、日本交響楽協会の分裂騒動が起き、30余人が脱退。山田側の残留者はわずか5人だったといいます。脱退組は近衛秀麿(指揮者で、近衛文麿の実弟)を中心に「新交響楽団」を結成、これが今日のNHK交響楽団の前身となった、と書かれています。私は不勉強で知りませんでしたが、あんなに仲の良かった山田と近衛は仲違いしたということなのでしょうか。

エピソードも満載です。占い好きの山田は昭和14年、実業之日本社から「生れ月の神秘」という占い本を出版して20版以上版を重ねるベストセラーになりました。山田は自分の名前を「耕作」から「耕筰」に改名し、戸籍まで変えてしまったというのです。

もう一つは、下の朝日新聞の記事(1981年11月25日付)にあるように、山田耕筰の未完の遺作オペラ「香妃」を山田の高弟である団伊玖磨によって完成され、東京と大阪で公演されるという内容です。

このオペラ「香妃」について、M氏は「私は幸運にもリハーサルから見ることができました。團伊玖磨先生が女性の声楽家に声を荒げて指示していた場面も見ています。いやはや、オペラひとつ公演するのには大変な財源と人材、エネルギーがいるもののだと若かった私はビックリしました」との感想を漏らされておりました。

オペラ「香妃」説明

オペラ「香妃」の一場面

繰り返しになりますが、これら貴重な写真は、いずれも山田耕筰 十七回忌記念出版「この道 山田耕筰伝記」(恵雅堂出版)の中で掲載されたものをお借りしたものです。ついでながら、昭和17年、山田耕筰に、満洲の皇帝愛新覚羅溥儀から贈られた「乾隆の壷」までありました。

山田耕筰は明治、大正、昭和という時代を代表する文化人であり、その時代の証言者でもあったことが、これでよく分かります。

東方社と原善一郎について御教授賜りました

一昨日6日に開催されたインテリジェンス研究所(山本武利理事長)主催の午後の講演会では、新たにお二人の研究者の発表がありました。

◇東方社研究のこれまでとこれから

お一人は、京都外国語大学非常勤講師・政治経済研究所主任研究員の井上祐子氏による「東方社研究のこれまでとこれから―井上編著『秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争―東方社が写した日本と大東亜共栄圏―』の紹介を兼ねて―」というお話でした。

タイトルが異様に長いのですが(笑)、井上氏が今年7月にみずき書林から出版された同名書の紹介を兼ねた東方社研究発表でした。同書の内容紹介として「戦時下の日本とはどういう場だったのか。そして大東亜共栄圏のもとで各国の人びとはどのように暮らしていたのか―。陽の目を見ることなく眠っていた写真2万点のなかから200点を精選し、詳細な解説とともに紹介」とあります。

私は不勉強で東方社を知りませんでしたが、かろうじて、戦時中に戦意高揚のプロパガンダのために発行された写真雑誌「FRONT」は知っておりました。東方社は、この「FRONT」などを発行していた陸軍参謀本部傘下の写真工房だったのです。

東方社で活躍し、戦後、特に有名になったカメラマンとして、木村伊兵衛、濱谷浩、菊池俊吉らがいますが、理事として、ヴァレリー研究家でフランス文学者の中島健蔵がかかわっていたとは知りませんでしたね。(彼の経歴ではあまり触れられていません)もちろん、評論家の林達夫が第3代理事長で、岩波書店社主の岩波茂雄に資金面で援助してほしい旨の書簡まで送っていたことも知りませんでした。

井上氏の編著書は労作です。2万点のネガから200点を精選したということですが、キャプションがないので、本当に大変だったと苦労話を披歴しておりました。写真に写っている背景の看板や標識などから、場所や時代を特定したり、写っている人物が分からないので、戦時中の新聞を何時間もかけて照合してやっと特定するという作業をやってきたそうです。

講演会後の懇親会で、井上氏本人に伺ったところ、膨大なネガは、旧所蔵者の遺族の皆さんだけでは、維持・管理が難しいため、政経研で受け入れることになったそうです。

歴史的に貴重な遺産がこうして陽の目をみたのは、井上氏らの功績でしょう。

◇原善一郎とは何者か?

もう一人は、大阪音楽大学音楽学部教授の井口淳子氏で、講演タイトルは「戦時上海の文化工作―上海音楽協会と原善一郎(オーケストラ・マネージャー)」でした。

井口氏によると、上海音楽協会とは、 1942年6月、外務省、興亜院、陸海軍の監督の下、上海在住の民間人によって設立された文化工作を目的とした財団法人で、その中核は、上海交響楽団による公演活動でした。戦時中、日本国内では、「敵性音楽」演奏は禁止されていたと思いますが、外地ではかなり頻繁に公演会が催されていたようです。

私は全く存じ上げませんでしたが、原善一郎(1900〜51)という人は、同年10月頃からこの上海音楽協会の主事(オーケストラ・マネジャー)になった人で、戦後は音楽プロモーターとしても活躍します。

原は、経歴が大変変わった人で、長野県の貧しい農家に生まれ、旧制中学校を中退せざるを得なくなり、横浜の貿易会社松浦商会に入社します。同商会の哈爾浜(ハルビン)支店に派遣されたことが、彼のその後の人生を大きく変えます。哈爾浜学院でロシア語を習得したお蔭で、その語学力が認められて、1925年、山田耕筰と近衛文麿による「日露交歓交響管弦楽演奏会」のマネジャーに抜擢されます。翌26年から35年にかけて、新交響楽団のマネジャーを務める一方、上海在住のユダヤ系ラトヴィア人音楽プロモーター、ストロークの片腕となり、海外演奏家のマネジメントやラジオ放送出演などを協力したりします。

42年から上述通り、上海音楽協会の主事を務め、上海交響楽団プロデュース。その後、ハルビン交響楽団(朝比奈隆指揮)にも関わります。戦後は、その朝比奈に請われて、関西交響楽団の専務理事を務めることになります。

1951年、世界的なバイオリニスト、メニューヒンの日本公演を興行主ストロークとともに、東奔西走しているうちに過労のため朝日新聞社内で心臓発作を起こし、そのまま帰らぬ人となりました。享年50。以上、これらは井口教授の調査によるものです。

敗戦後の哈爾浜学院

皆様御案内の通り、私は個人的に、哈爾浜学院には思い入れがありますので、関係者にこの「原善一郎」について、学院の卒業者名簿に当たってもらったところ、本科の正規生として「該当者なし」ということでした。ただ、哈爾浜学院には、本科以外に、軍部や外務省、満鉄などから派遣された特修科(専攻科)生がおり、こちらは故意なのか、名簿を残さなかったか、散逸したか、なので、原善一郎はそちらに所属していた可能性があるようです。

なぜなら、原善一郎は「参謀本部の嘱託として宣伝の仕事をしていた」という土居明夫(元陸軍中将)の証言があるからです。

最後に、井口教授は「戦争がなかったら、原善一郎は山田耕筰や近衛秀麿らと知り合っていなかったことでしょう。音楽マネジメントには『記録は残さない』という不文律があるため、詳細について残っていない。まだまだ原善一郎に関しては謎が多い」と結んでおりました。

私も文化記者時代の25年ほど前に、東京のホテルオークラで朝比奈隆にインタビューしたことがありましたが、上海やハルビンの話も原善一郎の話も全く耳にしませんでした。

いずれにせよ、お二人の意欲的な研究には頭が下がる思いで拝聴しました。

?中島健蔵「昭和時代」(岩波新書、1957年)

?多川精一「戦争のグラフィズムー回想の『FRONT』-」(平凡社、1988年)

?岩野裕一「王道楽土の交響楽ー満洲知られざる音楽史」(音楽之友社、1999年)