公開日;2008年1月19日
ここ数ヶ月読んだ本の中で、最も感動したものに、上杉聰著「部落史がかわる」(三一書房)があります。1997年初版の新刊本ですが、神保町でたまたま偶然に見つけ、思わず買ってしまったのです。そこには、私が全く知らなかった、誤解していたことを含めて是正する事柄がふんだんに書かれていました。
本当に興味深く、教えられることが大きかったでした。この名著を茲に翻案する力は私にはないのですが、差別される人々の根幹に関わる歴史的背景や起源が史料を元に説明され、目を見開かせられます。(同書は、同和問題を教える教職員向けに易しく書かれたようです)
例えば、こんなことが書かれています。
ちょうど「延喜式」が編纂された時代に漢学者・三善清行(のちの参議)は、醍醐天皇に提出した「意見封事十二箇条」(914年)で次のように述べています。
…諸国の百姓・課役をのがれ、祖調をのがるる者、私に自ら髪を落とし、みだりに法服を着る。…
要するに、僧侶の格好をすることで、課役や税金を納めない輩が出没している世の風潮を著者が批判しているのです。それでは、この「延喜式」の時代はどういう時代だったのでしょうか?
それは、古代の律令制が崩壊し、班田収受を通して、祖・傭・調の税を徴収することや、兵役・労役を課すことが困難になった時代なのです。奴婢と呼ばれる奴隷(そう、日本の古代には奴隷制度があったのです!)が解放される時代でもあったのです。為政者は、この体制秩序崩壊の不安を「穢れ」などの宗教的観念を肥大させることによって乗り切ろうとしたのです。
つまり、差別の起源は江戸時代ではなく、中世にあったのです。
(奴隷制度は、古代の公奴婢にあったのでした。日本に奴隷制度があったという認識は私にはあまりなかったので勉強になりました)
為政者は、河原に住む人々に「清目」として、清掃作業を課します。
芸能もそうです。猿回しや獅子舞、神楽舞をはじめ、日本の伝統芸能の核ともいうべき能樂を大成した観阿弥、世阿弥親子も差別された出自だったのです。
作庭もそうです。いくら、天龍寺の庭園が夢窓疎石国師によって作られたと歴史的事実が伝えられたとしても、夢窓国師が実際、自らの手で大石を運んだり、池を掘ったわけではありません。差別された河原者たちが、駆り集められて実際の作業にあたったのです。
さらに、医療や産婆の職に携わる人もある地域では「藤内=とうない」と呼ばれ、差別の対象となったのです。(現代ではステータスと収入が高い医者が差別の対象だったとは知りませんでした)
占術師、陰陽師、イタコといった人たちも「巫=みこ、かんなぎ」と呼ばれ、差別されました。
こうして、為政者は、人間の死体を処理(葬儀、葬送、墓堀)する人たち(非人)(隠亡=おんぼう)や動物の死体を処理したり皮革を加工したりする人たち(穢多)を隔離します。刑を執行する人たちもそうでした。
このように差別された人々は「穢れ」職業から離れる人(例えば、茶道の茶筅を独占的に作る職を与えられた人たちもいたそうです)もいましたが、住居と職業を差別することによって、近世ー近代に入っても差別され続けるのです。
要するに、このように差別は為政者の都合で発生したのです。こうして、差別の起源は京都にあり、全国に広がっていったことも著者は暴いていくのです。
いやあ、感服しました。非常にタッチイな話なのですが、為政者の都合で長年差別され続けた人たちの労苦を思うと、非常に感慨深いものがあります。